東京高等裁判所 平成13年(行ス)12号 決定 2001年4月20日
抗告人
世田谷区長大場啓二
指定代理人
河野通孝
外四名
相手方
A
代理人弁護士
荒木昭彦
同
和久田修
主文
1 原決定を取り消す。
2 相手方の本件執行停止の申立てを却下する。
3 手続費用は、原審及び当審を通じて、相手方の負担とする。
理由
第1 本件抗告の趣旨及び理由は、別紙抗告状に記載のとおりであり、これに対する相手方の答弁は、別紙答弁書記載のとおりである。
その他の本件事案の概要は、原決定の該当欄記載のとおりであるから、これを引用する。
第2 当裁判所の判断
1 当裁判所は、本件執行停止の申立ては、「回復の困難な損害を避けるための緊急の必要」が認められず、又は、「本案について理由がないとみえるとき」に該当し、理由がないものと判断する。その理由は、次のとおりである。
(1) 本件事案の経過と概要
一件記録によれば、本件事案の経過と概要について、以下の事実が認められる。
ア 相手方は宗教団体アレフ(アレフ)の信者である。相手方を含むアレフの信者一三名(相手方ら)は、平成一二年一二月一九日午後零時ころから零時二〇分ころまでの間に、別表記載のとおり、世田谷区内の一二の出張所において、ほぼ同時に、かつ、分散して、世田谷区南烏山<番地略>所在の甲マンション又は世田谷区南鳥山<番地略>所在の乙マンション(以下、本件各マンションという。)に転入したとして、抗告人に対し転入届を提出した。
イ 各出張所の担当者は、各転入届に基づいて、同日、各人の住民票を調製して、住民基本台帳への記録を行った。同時に、別表記載のとおり、住民票の写しや国民健康保険被保険者証などを交付した者もいた。相手方についても、直ちに住民票の写しを交付し、国民健康保険被保険者証が郵送されている。
ウ 経堂出張所では、ほぼ同一時刻に、二名の者が別々に、甲マンションへの転入届をしたことから、担当者が疑問を抱いて調査したところ、上記のとおり、他の一一か所の出張所でも同様の転入届がほぼ一斉に行われていることが判明した。そこで、転入先を管轄する鳥山総合支所の職員が同日午後三時四五分ころ、確認のために本件各マンションを訪れて、所有者のBから事情を聴取した結果、アレフとの間で賃貸借契約を結んで、その信者を本件各マンションに居住させる計画であり、すでに数名が転居してきているほか、今後も居住者は増える予定であることが判明した。
エ そのため、抗告人は、本件各マンションがアレフの教団施設となる蓋然性が高いと判断して、同年一二月二一日、抗告人を本部長とする「世田谷区オウム真理教(現アレフ)対策本部」を設置するとともに、オウム真理教の信者からの転入届については拒否する旨定めた平成一一年九月九日付のオウム真理教に対する基本方針に従って、相手方らについての住民票の調製は無効のものとして取り扱うことにし、これを破棄して住民基本台帳の記録から抹消するとともに、各転入届を不受理扱いとすることを決定した。
オ そして、平成一二年一二月二二日、世田谷区の職員らが、本件各マンションを訪れて、在室した者に対して上記決定をした旨口頭で告知し、同月二五日にはあらためて一三名全員に対して無効等通知文を郵送した。
カ そこで、相手方は、他の一二名と共に、同年一二月二二日、抗告人の上記措置は、転入届が一旦は受理されている以上、不受理扱いはできず、住民基本台帳法八条所定の消除処分というべきであるが、アレフ信者であることは同条の消除処分をすべき事由に該当せず違法であり、その結果、相手方の生存権や参政権など憲法上保障されている権利が侵害され、回復の困難な損害を生じることとなり、これを避けるための緊急の必要があるとして、本件執行停止の申立てを行い、同月二五日に消除処分の取消し等を求める訴えを提起した。
キ これに対し、原決定は、抗告人の措置は消除処分としてされたものであるとして、相手方の申立てを認容し、本案事件の判決確定に至るまで、消除処分の効力を停止する旨を決定した。そのため、抗告人が即時抗告を申し立てたものである。
(2) 執行停止を求める利益について
抗告人は、平成一二年一二月一九日に、相手方からの転入届に基づいて、住民票に所定の事項を記載してこれを調製し、住民基本台帳に記録したのは、担当職員の錯誤ないし事務処理上の過誤による無効のものであるので、住民票及び住民基本台帳の記録を抹消するため、住民基本台帳法八条や同法施行令八条等に定める消除の方法によらずに、相手方の住民票を破棄し、住民基本台帳から記録を抹消したのであって(本件破棄等)、すでに相手方の住民票や住民基本台帳の記録は何も存在しない状態となっており、本件破棄等の効力を停止してもこれが復活するわけではなく、執行停止を求める法律上の利益がないと主張する。
しかし、前記認定したように、本件では、相手方からの転入届に基づいて住民票を調製し、住民基本台帳に記録したうえ、住民票の写しや国民健康保険被保険者証の交付まで行われているのであるから、転入届はすでに受理されたものと認められ、本件破棄等をもって転入届の不受理扱いということはできない。
また、このように住民票を調製し住民基本台帳に記録することは、公の権威をもって住民の居住関係に関する事項を証明し、それに公の証拠力を与える公証行為であって、原則として、それ自体によって新たに国民の権利義務を形成し、又はその範囲を確定する法的効果を有するものではないが、選挙人名簿への登録に関しては、住民基本台帳に記録されていることがその要件とされており、選挙人名簿に登録されない限り、原則として投票ができないことに照らして、法的効果の発生と結び付けられているものといえる。したがって、それは、行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為として、行政処分の性質を有するものと解される。
そして、抗告人主張のように転入届を受理すべきでなかったものとしても、すでに行われた行政処分は重大かつ明白な瑕疵が存在しない以上は、当然に無効とはいえないのであるから、その是正は法令に定められた方法によるべきである。したがって、調査の結果、転出、死亡その他その者について住民基本台帳の記録から除くべき事由の存在が明らかになった場合などと同様に、住民基本台帳法八条、一四条一項、同法施行令八条等に基づいた消除の方法によるべきものであり、それ以外の方法によることは認められない。
以上によれば、本件破棄等は、法律的にはこの消除処分として行われたものと評価するほかなく、これも行政処分と解されることから、その効力の停止を求める法律上の利益があるものと認められる。したがって、抗告人の上記主張は理由がなく、採用できない。
(3) 本件執行停止の要件について
ア 一件記録及び当裁判所に顕著な事実によれば、オウム真理教及びアレフについて、以下の事実を認めることができる。
(ア) オウム真理教は、昭和五九年二月ころ、Cを教祖・創始者として、東京都渋谷区内において「オウム神仙の会」の名称で活動を始め、昭和六二年七月ころ、名称を「オウム真理教」に変更して、東京都世田谷区内に本部事務所を置き、平成元年八月二五日、東京都知事から宗教法人法に基づく規則の認証を受けて、同月二九日、代表者をCと定めて宗教法人としての設立登記を経た。
(イ) その後、Cの説くオウム真理教の教義を広めることを目的とした活動を続けて勢力を拡大させ、平成六年六月ころには、山梨県上九一色村に施設群を設け、東京都港区内に東京総本部を開設したほか、国内二四か所に支部・道場を設け、構成員も約一万一〇〇〇人の多数になった。
(ウ) オウム真理教の教義は、原始密教、チベット密教、小乗仏教、大乗仏教、秘密金剛乗等の教義を混合したCの説く教えをまとめたもので、主神をシヴァ神として崇拝し、創始者であるCの説く教えを根本とし、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済して、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の世界(涅槃の境地)に導くことを最終目的として、シヴァ神の化身であるCに対する絶対的な淨信と帰依を培ったうえ、自己の解脱・悟りに達する道である小乗(ヒナヤーナ)を修め、衆生の救済を主眼とする道である大乗(マハーヤーナ)及び衆生救済の最速の道である秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)の各修行を実践するというものである。
Cは、なかでもタントラ・ヴァジラヤーナを重視し、その内容として、悪業を積んでいる魂は早く命を絶つべきであるとするアクショーブヤの法則や、真理の実践を行う者にとっては結果が第一であり、結果のためには手段を選ばないとするアモーガシッディの法則などを強調し、タントラ・ヴァジラヤーナを実践すれば必ず最終解脱でき、最終解脱者であるCの指示があれば殺人も正当化され、死者の魂はポアされて、高次の精神世界に転生するなどと説いていた。そして、Cは、信者である構成員に対し、自己を「尊師」「グル」と尊称させ、自己に対する絶対的な帰依を求めるなど、オウム真理教においては絶対的な存在となっていった。
(エ) オウム真理教は、「日本シャンバラ化計画」として、その教義に沿った理想郷の建設を目指していたところ、Cは、そのためには政治力が不可欠と考え、平成二年二月の衆議院議員総選挙に二五名が立候補したが、全員が落選してしまった。また、これと前後して、全国各地でオウム真理教に対する社会的非難が高まり、その進出に対する反対運動が活発化していった。なかでもオウム真理教被害対策弁護団を結成し、その中心的存在として、実態調査等に基づいてオウム真理教に対する痛烈な批判活動を展開していたD弁護士については、オウム真理教は、その活動をこのまま許しておいたのでは上記の選挙活動に影響があるばかりでなく、組織拡大にも大きな障害が生じるものと判断して、同弁護士を殺害することを決め、信者数名が平成元年一一月四日未明、横浜市内の同弁護士方に侵入して、就寝中の同弁護士とその妻及び幼い長男の一家三名を殺害した。こうしたことを経て、オウム真理教では、前記「日本シャンバラ化計画」の実現のためには、武力で現行国家体制を破壊して、シヴァ神の化身であるCが独裁者として統治する祭政一致の専制国家体制を樹立する必要があり、その妨げとなる勢力は悪業を積む者として殺害してもやむを得ないと考えるようになっていった。このようなオウム真理教の活動は、一般の宗教団体の行動の範ちゅうを超えたもので、一種の内戦を想定した活動といえる。そして、平成四年ころから、そのための武装化を図り、生物兵器の開発、自動小銃の製造、サリンの製造などを進め、平成五年六、七月ころには東京都江東区内の新東京本部周辺に二回にわたり炭疽菌を散布して異臭事件を起こしたり、平成六年二月中旬ころまでにはサリンの生成に成功し、同年六月ころには上空からのサリンの大量散布のためにヘリコプターを購入するなどした。
(オ) そして、Cは、平成六年六月二七日、製造したサリンの効果を試すとともに、支部道場建設をめぐる紛争でオウム真理教に不利な裁判をするおそれのある長野地方裁判所松本支部の裁判官を殺害することを目的に、Eらに指示して、長野県松本市内の裁判官宿舎付近でサリンを気化させて発散させ、付近住民七名を殺害し、一四四名にサリン中毒症の傷害を負わせた(松本サリン事件)。
また、平成七年三月初めころには、松本サリン事件や目黒公証役場事務長監禁致死事件などについての嫌疑がオウム真理教にかけられるようになり、警察による強制捜査の実施が予想される事態となった。そこで、Cは、首都中心部で大混乱を起こして、強制捜査を回避し、警察に打撃を与えるために、地下鉄の車内でサリンを気化させて、多数の乗客を無差別に殺害することを計画し、これもEらに指示して、同年三月二〇日午前八時ころ、地下鉄日比谷線秋葉原駅付近、同線恵比寿駅付近、丸ノ内線御茶ノ水駅付近、同線四ツ谷駅付近、千代田線新御茶ノ水駅付近を走行中の各電車内でサリンを気化させて発散させ、乗客や職員等一二名を殺害し、三〇〇〇名を超える多数の者にサリン中毒症の傷害を負わせた(地下鉄サリン事件)。
これらの無差別大量殺人事件は、Cに対する帰依と服従を絶対とするオウム真理教の体制と、悪業を積んでいる魂は早く命を絶って救済することを是とする前記タントラ・ヴァジラヤーナの教義に基づいて、被害者となった不特定多数の人々の生命を一顧だにせずに行われた犯行で、我が国の犯罪史上も例を見ない悪質なものであり、このような犯行を組織的に平然と行うオウム真理教及びその構成員である信者らの存在に対する社会的不安は極めて大きいものとなった。
そして、オウム真理教団が、これらの無差別大量殺人を行い、一種の内戦を想定した活動まで行いうる力を得るについては、これらの行為を正当化する教義だけではなく、宗教的あるいは心理的に信者の内面をコントロールし、教団の活動にとって障害となる教団内部及び外部の多様な事実関係について、信者の眼をふさぎ、あるいは、信者がこれを正しく評価することを困難とし、このようなコントロールを基礎として、信者の経済力やその他の力を、上記のような殺人や内戦まで実行できる程度にまで、組織し結集してきた実態があったものである。
(カ) 地下鉄サリン事件以後、上記の各事件をはじめとする多くの事件により、Cをはじめとするオウム真理教の幹部や信者ら四〇〇名以上が逮捕され、多数が起訴されるに至り(すでに有罪判決が確定した者も多数に及んでいる。)、オウム真理教は、平成七年六月二一日、F他一名を代表役員代務者としたが、同年一二月一九日に宗教法人法に基づく解散命令が確定し、平成八年三月二八日には破産が宣告された。しかし、前記のとおりオウム真理教においてCは絶対的な存在であったうえ、その存立の基盤である教義においても、Cの説くところが根本であって、Cへの絶対的な帰依を内容とするものであることからすれば、Cが代表役員を退いたとしても、オウム真理教の実質上の教祖たる地位を失うことは考えられない。教義に関しては、オウム真理教は、平成七年七月、タントラ・ヴァジラヤーナに関する教本やカセットテープ等の使用を禁止し、平成八年五月及び六月の破壊活動防止法に基づく弁明手続期日においては、この教義に関する書籍は封印し、教本は廃棄する旨述べている。しかし、その一方で、インターネット上では、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナがオウム真理教の三乗であると説いたり、さらにタントラ・ヴァジラヤーナに関するCの説法を収録した書籍を出版、頒布している。また、オウム真理教による一連の事件を真理の実践であるとして正当化する記事を機関誌に掲載し、信者に熟読させている三大教典の中では、タントラ・ヴァジラヤーナの修行が解脱に至る最速の道であると説いているうえ、平成一一年六月に国会議員等を対象に配布した資料の中では、タントラ・ヴァジラヤーナは危険な教義ではないと主張するなど、Cらの逮捕、起訴後においてもなお従前の危険な教義を維持していることが強く窺われる。
(キ) こうした状況から、公安審査委員会は、平成一二年一月二八日、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律五条一項に基づいて、オウム真理教を、三年間公安調査庁の観察に付する旨決定した。これと前後して、オウム真理教は、その名称をアレフに変更し、代表をFとして、平成一一年九月以降、表向き禁止していたとする支部活動などを再開し、従来の教典を編纂し直した「アレフ教学システム」を刊行し、タントラ・ヴァジラヤーナについても、ポアは殺人を意味しないとの解釈書を配布し、平成一二年七月には綱領及び規約を改正して、Cを教祖・代表とはしないこととし、教えの解説者であると主張するに至った。しかし、前記観察処分に基づく公安調査庁の立入り検査の結果では、平成一二年一一月末時点で、アレフの教団施設は全国二七か所、分散化した出家信者用の居住施設は約二〇〇か所に及んでおり、これに対し、教団の進出に反対する住民らの対策組織が全国で三八〇を超えている。また、依然として、多くの教団施設でCの写真を掲示し、同人の説くタントラ・ヴァジラヤーナを載せた「尊師ファイナルスピーチ」などの教本を保管・使用するなど、Cの影響下にあることが強く窺われる。そして、アレフではマニュアルを作成して公安調査庁の立入検査時の対応方法の周知徹底を図り、公安審査委員会を被告として観察処分の取消しを求める行政訴訟を提起するなどして、観察処分に対抗する姿勢をも示している。
さらに、アレフは、コンピュータなどの先端技術を積極的に導入して、インターネット上のホームページをリニューアルして、信者の拡大を図ったり、信者への指示・伝達に利用し、全国の教団施設を通信回線で結ぶテレビ会議計画を推進し、信者の教化面においては、Cと同じ瞑想状態を創り出すという新型のヘッドギアやCの姿を立体的に映し出す映像装置を開発するなどしている。また、中断していた出家制度も再開して、出家信者を順次教団施設に集めて集中修行を実施し、在家信者に対しても新たな機関誌を発行しているほか、教団名を明示しない勧誘用冊子を配布して信者の拡大を奨励し、さらに脱会した信者に対しても幹部が面談を求めたり、電話や手紙などで復帰を働きかけるなどしている。
(ク) こうした状況からすれば、アレフは、表面的にはオウム真理教との違いを強調しているものの、依然として創始者であるCの強い影響下にあり、教義の面でも従前と実質的な相違はなく、教化活動や修行の面でも、オウム真理教のころの手法を継続しているということができる。出家制度や集団での修行生活、Cへの崇拝を維持することによって、信者を社会から隔絶し、外部社会における事象を認識させず、また認識できない心理状態においたうえで、カルト的教義を徹底的に修得させるといった基本構造は何ら変わっていないことが強く窺われるのである。
その意味では、名称がアレフに変わった現在においても、オウム真理教同様、その存在は依然として社会の不安を助長するものであり、それゆえに前記観察処分が取り消されることなく継続しているということができる。
イ 地方公共団体の長としての抗告人の責務について
(ア) 地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担っているものであり(地方自治法一条の二第一項)、その役割の中には、平成一一年法律第八七号による改正前の地方自治法二条三項一号に例示されていたように、地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持することも当然に含まれるものと解される。そして、地方公共団体の長は、当該地方公共団体を代表してその責めに任ずるのである。
このように地方公共団体が住民の生命、身体、財産等の安全を確保すべきことは、その最も基本的な責務というべきである。それには、交通事故や火災、工場災害等の人災の防止や、洪水、土砂崩壊、地震等の自然災害対策、あるいは急病人に対する救急医療対策などばかりでなく、犯罪による危険から住民の生命、身体、財産を守ることも当然含まれる。地域の秩序を維持し治安を確保して、犯罪による危険から住民を守り、安全な社会生活を保障することは、それによって個人の基本的人権を侵害から守り、社会不安を除去し、地域社会全体の福祉を向上させる効果をもたらすものであり、むしろ、このように犯罪による危険から住民の生命、身体、財産等の安全を守ることこそが、国家と共に地方公共団体に先ず求められる基本的な責務であるということすらできるのである。そして、この責務を担う存在としては都道府県警察があり、実際に大きな役割を果たしているのであるが、警察ばかりでなく、市区町村も含めた地方公共団体のその他の機関や組織も、同時にこの責務を負っているものと解すべきである。したがって、特別地方公共団体としての世田谷区の長たる抗告人もまた、世田谷区を代表し、その事務を管理、執行する立場において、世田谷区における秩序を維持し、その住民の生命、身体、財産等の安全を保持すべき責務を負っているものである。
(イ) そして、このような責務を負う者としては、オウム真理教が、少なくとも一時期一種の内戦を想定した活動を行ったことがあることからして、そのような団体の性質に変化がなく、教団に批判的な勢力や住民を敵視し、その活動の障害となる者だけでなく、場合によっては無差別に住民に危害を加える危険性の高い存在であるとすれば、これから住民の生命、身体等の安全を守るべき義務があるというべきである。また、オウム真理教を継承したと認められるアレフについても、それがオウム真理教と同じく、地域住民に危害を加える危険性の高い存在であるとすれば同様である。
この観点からすれば、地方公共団体及びその長は、その負っている前記責務に鑑み、オウム真理教あるいはアレフについて、それが内戦を想定した活動を行った経過からして、当該地方公共団体の地域の秩序を害し、治安を乱し、当該地域の住民に危害を加えるおそれのある存在であるかどうか、国及び他の地方公共団体等と共に、必要な情報を収集するなどして、その実態の把握に努める必要があるということができる。
ウ 住民基本台帳制度と市区町村の長の実質的審査権について
(ア) 住民基本台帳は、住民の居住関係の公証、選挙人名簿の登録等の住民に関する事務の処理の基礎とするとともに、住民の住所に関する届出等の簡素化を図り、あわせて住民に関する記録の適正な管理を図るため、これによって住民に関する記録を正確かつ統一的に行い、住民の利便の増進、国及び地方公共団体の行政の合理化に資することを目的とするものであり(住民基本台帳法一条)、市区町村の長は、常に住民基本台帳を整備して住民に関する正確な記録を行い、またその記録を確保するために必要な措置を講じなければならない(同法三条一項、一四条一項)。そして、住民基本台帳法による届出があったときは、当該届出の内容が事実であるかどうかを審査したうえで、住民票の記載等を行わなければならないとされている(同法施行令一一条)。これにより、市区町村長は、当該届出が法の規定する形式的要件を具備しているかどうかについての形式的審査権を有するだけでなく、当該届出や届出事項の内容が事実に合致しているかどうか、違法不当な目的のための作為的な届出でないかどうかといった事柄につき審査する実質的審査権を有するものと解されているのである。
このように、市区町村長が住民票に所定の事項を記載して、これを調製し、住民基本台帳に記録する行為は、本来は、当該住民が市区町村の区域内に居住するという事実に基づいて、その居住関係を公証するとともに、選挙人名簿への登録、国民健康保険等の被保険者資格その他の住民に関する各種の行政事務処理の基礎とし、同時に住民に関する正確な記録と、その適正な管理を図る目的で行われるものということができる。したがって、住民基本台帳法においては、原則として、客観的な居住の事実が存在し、転入届によって当該居住者の居住意思も認められる場合には、市区町村長は住民票を調製して住民基本台帳に記録するものとされている。このため、原決定のように、市区町村長は当該市区町村の区域内に居住の事実を有する者から転入の届出がされた場合には、これを受理して住民票に記載して調製し、住民基本台帳に記録すべき義務を負っているものと解して、居住の実態があるにもかかわらずこれを拒否したり、消除したりすることは、住民基本台帳に要求される住民に関する記録の正確性を損なうもので、許されないという解釈も考えられるのである。そして、この解釈からすれば、前記住民基本台帳法施行令が届出に際して市区町村の長に認めている実質的審査権についても、それは、届出事項の内容が事実に合致しているかどうかを審査するためのものであるということになろう。
(イ) しかしながら、上記のような解釈は、地方公共団体及びその長が住民に対して担っている前記責務について、これを十分に配慮したものかどうか疑問があるものというべきである。住民基本台帳は、前記のとおり、住民の居住関係の公証と選挙人名簿の登録と同時に、その他の住民に関する各種の行政事務処理の基礎としても用いられているものである。その具体的内容としては、国民健康保険の被保険者の資格、国民年金の被保険者の資格、児童手当の受給資格等が住民票に記載されるほか、学齢簿の調製、作成は住民基本台帳に基づき、生活保護、予防接種、印鑑登録証明は住民基本台帳に記録された者を対象としてそれぞれ行われ、その他にも市区町村独自の住民に対する行政サービスあるいは住民への連絡事務等に利用されているのである。このことからは、住民登録及び住民基本台帳は、単に形式的に住所の登録と公証だけではなく、実質的に当該地方公共団体の住民として、各種の行政上のサービスを受けるべき立場を付与する事実上の効果を有するものであって、それはいわば転入届を受理して、住民票を調製し住民基本台帳に記録した者については、当該地方公共団体の住民として受け入れることを意味するものということができる。
しかるに、地方公共団体たる市区町村及びその長は、前記のとおり、当該地方公共団体の地域の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持すべき重大かつ基本的な責務を負っているのである。この責務の重要性からすれば、住民基本台帳法が前記のような目的のもとに、市区町村の長に対し、常に住民基本台帳を整備して住民に関する正確な記録を行い、またその記録を確保するために必要な措置を講ずべき義務を課しているとしても、前記のオウム真理教のように、少なくとも一時期内戦を想定した活動を行い、教団に批判的な住民を敵視し、場合によっては無差別に住民に危害を加えることも是とし、武力による専制国家体制の樹立を目指し、その障害となる者は殺害してもやむを得ないとして、実際に無差別大量殺人行為を行った団体の構成員が、集団で転入届を提出したような場合にまで、その地域内に居住の事実が存在するからといって、当然に住民として受け入れなければならないものかどうか疑問があるものといわねばならない。住民基本台帳法は、このように地域の秩序が破壊され、住民の生命や身体の安全が害される危険性が高度に認められるような特別の事情の存在する場合にまで、地方公共団体の長に対して、住民票の調製と住民基本台帳への記録を義務づけていると断定してよいかどうかは、なお慎重な検討を要する事項であるというべきである。そして、地方公共団体の長が、このような特別の事情がある場合に、住民の安全確保のために執った措置によって、住民基本台帳法が実現しようとする住民に関する記録の正確性、統一性が部分的に損なわれることがあってもやむを得ないと評価される場合もありうるものと考えられる。
したがって、住民基本台帳法に基づく届出に際して市区町村の長に認められている実質的審査権の意義も、単に、届出事項の内容が事実に合致しているかどうかを審査するためだけではなく、当該届出をした者に関して、前記のオウム真理教のように、少なくとも一時期、内戦を想定した活動を行った経過からして、地域の秩序を破壊し、住民の生命や身体の安全を害する危険性が高度に認められるといった特別の事情の存否についても、必要な審査、判断を行うことができるものと解すべきである。そして、この実質的審査権の行使は、その居住しようとする施設の内容や居住の態様、目的、人数等の具体的事情が異なるものであることに照らすと、その事案に応じて行うべきものということができる。
エ 相手方による本件転入届の特異性と不当性について
(ア) 前記認定したとおり、本件における相手方の転入届は、同じ日に転入届を行った他の一二名のアレフの信者と共に、転入先である本件各マンションに最も近い烏山総合支所では全く行わず、わざわざ別表記載のとおり、その他の世田谷区内の一二の出張所に分散して、しかも、午後零時から零時二〇分ころまでの間に同時一斉に行われたものである。このことからは、相手方らは、アレフの信者による本件各マンションへの集団転入の事実が明らかになるのを防ぎ、その転入届について各出張所の担当者が些かでも疑念を持つのを妨げる目的のもとに、ことさらに上記の方法を画策して転入届を行ったものと認められる。
(イ) ところで、前記のようなオウム真理教の内容とアレフとの関係、すなわちオウム真理教におけるCの絶対的存在と同人の説く教義の危険性、同教団による住民敵視の行動、武力による専政国家体制の樹立の計画とそのための無差別大量殺人事件等の敢行、アレフによるオウム真理教の継承、アレフにおけるC及び同人の説く教義の影響の継続といった事情を前提に考えれば、仮に通常の方法で相手方らの転入届が行われて、一三名による本件各マンションへの集団転入の事実が明らかになり、相手方らがアレフの信者であることや乙マンション一階の道場化などの事情が窺われたとすれば、抗告人は、当然に、転入届を直ちに受理することなく、前記特別の事情の存否について調査、検討し、そのうえで受理の当否を決定するために、実質的審査権を行使したものと考えられる。そして、それは、現在においても、オウム真理教を継承しているアレフに対して社会や住民の抱いている不安が大きいことや、抗告人が負っている世田谷区における秩序を維持し、その住民の生命、身体の安全を保持すべき責務に照らして、当然行うべきことであり、決して不合理で過剰な対応ということはできない。現に、一件記録によれば、相手方らアレフの信者らが、幹部を含め集団で本件各マンションで生活し、乙マンションの一階を道場に改造したほか、管理組合に申し出ることもなく、二階のGの部屋の鉄板張り工事、非常階段部分の目隠しや扉の設置工事、庭へのブロック塀設置工事などを行い、さらに毎週のように日曜日には他地域から集まってきた大勢の信者による集会を開いて、教団の教化、布教活動の拠点として本件各マンションを利用していることや、公安調査庁による立入検査の結果、天井裏や二重底に改造した流し台の物入れからパソコンなどが発見されたことなどにより、本件各マンション及びその周辺に居住する住民らの不安感は一層高まり、そのため監視小屋を設けて信者らの行動を監視するとともに、入居している信者に対して退去要求書を交付するなどする一方で、本件各マンションやその周辺から転居しようとする住民も出ているなど、地域住民には極めて強い緊張、不安、混乱が生じていることが認められるのである。
(ウ) 以上によれば、抗告人は、本件転入届に際して、本来行使すべきであった実質的審査権を、相手方らの前記のような方法による転入届によって行使できなかったものということができる。そして、それは相手方らによる、抗告人の実質的審査権の行使を妨害する意図、目的に基づく転入届の結果であると認められるのである。このように抗告人の実質的審査権の行使を妨害する不当ともいうべき方法による相手方らの転入届の結果、各出張所の担当者が前記のとおり一旦これを受理したからといって、それによって抗告人がその有している実質的審査権を失うものとは解されない。また、相手方らによる不当な方法による届出に基づいて行われた住民票の調製や住民基本台帳への記録については、本来は抗告人によって実質的審査権が行使されたうえで受理の可否が決められるべきものであったことからすれば、相手方の不当な手段によって必要な実質的審査を免れたものとして、住民基本台帳法施行令八条の「住民基本台帳の記録から除くべき事由が生じたとき」に準じて、住民票を消除すべき場合に該当すると解することも可能であるというべきである。
(エ) 相手方は、各地におけるアレフ信者の排斥運動のため、信者は居住場所の確保すらできない現状にあり、そのため、やむを得ず居住場所の提供が受けられる所に多く集まることになるのであって、アレフが意図的に拠点づくりをし、本件各マンションへの集結を図っているわけではないなどと主張している。しかし、そのような事情があるからといって、市区町村の長が有する住民基本台帳法に基づく届出の際の実質的審査権の行使を妨害するような手段、方法による転入届が正当化されるものではない。むしろ、このような方法による転入届を集団で計画的に行うことこそ、社会や地域住民の不安を一層高める原因になっているのである。また、アレフが、本件各マンションを転入届をした一三名の住居としてだけではなく、教団としての教化、布教活動の拠点として利用していることは前記認定のとおりであって、相手方の主張は採用できない。各地にアレフの進出に反対する住民運動が存在するのは事実であるが、その根本的な解決のためには、アレフとその信者らが、当裁判所が認定したようなオウム真理教の活動の性質及びそのような活動が可能となった宗教的・心理的な信者の内面のコントロールの実態にまで踏み込んで、事実関係全体をあらためて見直し、その総括に基づいて、社会や地域住民の不安感、不信感の解消に努め、信頼を得られる存在となることが必要不可欠である。しかるに、本件転入届をはじめ、前記認定したように本件各マンションでアレフ及び相手方を含む信者らが行っていることは、到底、社会や地域住民の信頼を得られるようなものではなく、このような行動を続けている限り、いつまでも問題は解決しないと考えられる。
相手方は、本件消除処分は、憲法二二条一項、二〇条一項及び一四条一項に違反し、生存権、参政権、職業選択の自由、財産権、営業の自由及び人身の自由などの憲法上の基本的人権を侵害するものであるとも主張する。しかし、前記のとおり相手方による不当な方法による届出に基づいて行われた住民票の調製や住民基本台帳への記録はそもそも保護されるべきものではなく、本件消除処分は消除原因のある住民票を消除したにすぎないもので、これによって新たに相手方の主張するような憲法上保障された基本的人権を侵害するものではない。また、本件において抗告人がその実質的審査権を行使すべきであったとする理由が、地方公共団体の長として負っている地域の秩序を維持し住民の生命、身体の安全を保持すべき責務に基づくものであることからすれば、本件消除処分は、公共の福祉の観点からの基本的人権に対する必要かつ合理的な制約の結果と解されるのであって、この点の相手方の主張も採用できない。
オ 結論
以上のとおり、本件においては、相手方による本件転入届は、抗告人の実質的審査権の行使を妨げる目的と方法のもとに行われたものであって、これに基づいた住民基本台帳の記録は本来必要とされる実質的審査を経ていないものであるから保護すべきものとはいえず、記録から除かれるべきであり、調製された住民票も消除されるべきものということができる。
とすれば、本件消除処分の対象となった相手方の住民票には、もともと消除されるべき事由が存したものであるから、これが抗告人によって消除され、それによって何らかの損害が生じるとしても、それは当然に受けるべき損害が生じるにとどまるものであり、本来保護されるべき正当な利益が侵害され、回復の困難な損害が生じるものと認めることはできない。また、仮に、住民票が調製され、住民基本台帳に記録されているという事実を形式的に捉えて、この記録が除かれ住民票が消除されることが相手方に回復の困難な損害を生じうるものとしてみても、前記のとおり、実質的にはこの住民基本台帳の記録は除かれて住民票は消除されるべきものと認められることからすれば、本件執行停止の申立ては本案について理由がないとみえるときに該当するものということができる。
2 したがって、相手方の執行停止の申立てを認容した原決定は失当であるから、これを取り消して、本件執行停止の申立てを却下することとする。
よって、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官・淺生重機、裁判官・西島幸夫、裁判官・渡邉左千夫)
別表<省略>