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東京高等裁判所 平成14年(う)2564号 判決 2006年3月15日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は,弁護人尾嵜裕(主任),同髙木甫及び同堀和幸連名作成の控訴趣意書記載のとおりであり,これに対する答弁は,検察官飯塚和夫作成の答弁書記載のとおりであるので,これらを引用する。

論旨は,事実の誤認,法令適用の誤り及び量刑不当をいうものである。

以下,甲野太郎こと丙山三郎の主宰した,オウム神仙の会,オウム真理教,宗教法人オウム真理教を,包括して「オウム真理教」若しくは「教団」と略称し,事件名については,原判決と同様の略称を用いる。

第1  事実誤認の論旨のうち内乱罪及び地下鉄サリン事件に関する各主張について

1  内乱罪に関する主張について

所論は,原判決が認定した,本件各犯行及びその他の襲撃計画等並びに教団の武装化,軍事化の流れ等に関する事実についてはこれを争わない。その上で,原判決が,「本件各犯行も,一貫性のある目的や戦略に基づく一体の犯罪ではなく,それぞれがその時々の状況に応じた個別の動機ないし目的に基づく全く別個独立の犯行であったと認められる」として,坂本事件,松本サリン事件及び地下鉄サリン事件につき,それぞれ,選挙に対する悪影響の回避,サリンの威力確認と民事訴訟における不利益な判決の回避ないし強制捜査の一時しのぎ的回避の個々の目的があったとした点を論難し,本件各犯行はいずれも教団の主要な幹部の多数で実行され,事前に重大な結果の発生が予想でき,また,現実にも極めて重大な被害を生ぜしめているなど,原判決が認定する各目的を達成する手段としては過大であって,目的と手段とのかい離が著しく,一連の本件各犯行は,個別事件の枠を大きくはみ出し,教祖である甲野太郎こと丙山三郎(以下「甲野」という。)の目指した理想国家の実現に向けて国の統治機構を破壊し,憲法の定める統治の基本秩序を壊乱する目的でなされたと理解することによって初めて了解が可能となる,などという。

確かに本件各犯行は,教団幹部の多数が実行犯として関与し,振り返って見ればとりわけ目的と手段すなわち犯行結果とのかい離が著しいとはいえる。しかしながら,教祖である甲野の目指した武装革命が何らの具体的な戦略や現実認識を備えたものでなかったことは原判示のとおりであり,そうすると,暴動行為によって,直接国家の統治組織を変革することを企図し,かつ,暴動による目的実現の現実的な可能性あるいは蓋然性が存在したとはいえない。結局のところ,前記の3つの事件を含む一連の各犯行は,組織防衛を至上目的として,その時々の個別の状況に応じてとりわけ過激な手段をとったといわざるを得ない。そうである以上,憲法の定める統治の基本秩序を壊乱する手段として個々の本件各犯罪が行われたものではないから,内乱罪に該当しないことはいうまでもない。

この点について事実の誤認はない。

2  地下鉄サリン事件について

所論は,①被告人は,本件計画の形成過程に全く関与せず,いわゆる渋谷アジトでの最終確認では,すでにできあがった本件計画への参加を指示されただけで,乙川春夫の指示がヴァジラヤーナのワークに関するものである以上甲野の指示であるから,これに従わざるを得なかったにすぎない,②被告人が果たした自動車の運転手役は,秘密保持のために古参信者を選んだとも考えられるから代替性があり,被告人でなければ務まらないという特別な理由はない,③実行行為の主導権は実行役のみが握っているから,運転手役は共同正犯ではなく幇助犯にすぎない,という。

しかしながら,本件証拠によれば,①の最終確認が,犯行前日とはいえ,これで被告人が計画の全容を知り,以後迅速に実行の準備をして翌日の実行に至ったのであるから,本件についての謀議に当たることは明らかである。そして被告人の関与の態様,すなわち,犯行前後において,使用車両を調達し,実行役丁木夏男に対し,自主的な判断に基づく的確な助言をして計画を一部変更し,かつ細々とした心配りをして機敏に行動し,犯行後も実行犯の衣類等を焼却したことなどからすると,本件犯行に,積極的に自己の犯罪として加功したといわざるを得ない。所論が指摘する②③の点は,本件において,共謀共同正犯の成立を妨げる事情とはならない。

この点に関する原判示は全て正当であって,本件につき被告人に共謀共同正犯による責任を認めた原判決に事実の誤認はない。

この所論も理由がない。

第2  事実誤認の論旨のうち期待可能性に関する主張について

1  所論

所論(当審弁論要旨における主張を含む。)は,被告人は,甲野の宗教的な確信に基づく指示に従って,衆生の救済を目指して帰依の実践として本件各犯行を行ったのであり,グルである甲野への絶対的な帰依を求められるオウム真理教の信者は甲野の指示に逆らうことは許されず,甲野の最も忠実な弟子たらんとした被告人には,本件各犯行を行う以外には選択する道はなく,社会経験も十分な医師で,宗教的な学識経験もある丁木夏男も甲野の違法な指示を断ることができず,乙川春矢も同様で,両名にとどまらず,地下鉄サリン事件,松本サリン事件及び坂本事件を始めとする殺人事件に関与した共犯者のうち,だれ一人として甲野の違法な指示を断ることができずに犯罪を実行した事実が,被告人に対しても適法行為に出ることの期待可能性がなかったことを鮮明に物語っているというのである。そして,オウム真理教における帰依の特殊性,すなわち,これはグルの意思を忠実に実践することで,弟子は自分を空っぽにして自分自身を投げ出す,絶対的な完璧な帰依が求められ,グルの指示に疑問や抵抗感を覚えたこと自体が帰依の心を試されるから,疑問等を封じ込めようとすることは当然であり,甲野の指示に反することで解脱が不可能となり,生きる意味さえ失うことから最大の恐怖で,被告人がグルの指示に疑問や抵抗感を覚えた自らを恥じ入り,疑問や抵抗感を封じ込め,自らを空っぽにして甲野と合一化しようと努力し,帰依の心からその指示を実践しようとするほかなかった,などという。

2  原判示

この点に関する原判示は,被告人は,甲野の指示が全て正しいと考えていたのではなく,抵抗感があったり,甲野の説明する理由に疑問を抱くことがあったが,教団内の自分の立場,甲野との関係を考慮して疑問や抵抗感を封じ込め,自ら犯行加担を決意して常に積極的に犯行を敢行し続け,教団の利益や自らの立場,甲野との関係を優先させることによって,あえて適法行為を選択しなかったというほかない,というものである。

3  丁木夏男及び乙川春夫の各証言

この点につき,原審で証言をし,当審で更に証人調べを行った共犯者丁木夏男及び乙川春夫の各証言は,およそ以下のとおりである。

(1)  丁木夏男

丁木は,原審において,地下鉄サリン事件の指示に関して,オウム真理教ないし甲野に対する信仰からは,甲野からの指示を断るという選択肢がなく,甲野を徹底的に信じていて,甲野が決定したことならば私たちにわからなくても善である,甲野は真理勝者で,その能力を発揮して,いろんな手段で救済を完遂する,その中には武器を持って戦うこともあると受け入れていた,これはマハームドラーの修行(心を動かさない修行)であると思っていた,などと述べた。

当審においても,甲野から命を捨ててもグルに従えという絶対的帰依を説かれ,グルが修行を進めてくれ,救済に私を役立ててくれるために,何かを仕掛けてくれていると思った,甲野は,タントラ・ヴァジラヤーナのグルは,犯罪行為と思われる方法を使っても,カルマを落とし転生先をよくしてあげるためのことができる,弟子がグルの下を離れたらそれは犯罪行為である,グルの下にいれば功徳になると説き,ポアして人を殺せば,救済の役に立つ,修行になる,功徳になる,早く解脱できるとも言った,甲野の能力に疑いを持たなかった,甲野が善を実践している人だというものすごい信頼感があり,私たち一人一人のためになるように考えて,色々やらせてくれているんだろうなと信じた,地下鉄サリン事件の反田の指示の際,やりたくないという気持ちがあったが,他方,グルは私を信用していない,帰依の心が足りないと思っているのではと思い,タントラ・ヴァジラヤーナのワークは,修行なんだなあと得心した,グルの指示と思った時点で断るとか断らないという問題ではなくなり,断らないがゆえにそれを前提に葛藤が出てきたが,結局最後は甲野がポアしてくれるというところにしがみついた,などとも述べた。

(2)  乙川春夫

乙川は,まず,原審において,甲野は,最終解脱していて唯一真我を知っているが,弟子は真我を一切知らない,弟子は自分を空っぽにして甲野と合一する,すなわちグルのクローン化以外に真実を知ることはあり得ないと説いた,甲野から下りてきたものについては,弟子の方からできないとか止めた方がいいとかは絶対的にいえない,何も考えちゃいけない,これをやることが最終的には救済になるんだという意識に没入していった,当時どんな行為でも宗教的な修行であると信じていた,と述べた。

当審においては,さらに,甲野の指示どおりにやること,クローン化が修行の一つで,矛盾は僕の中にはなかった,平成2年10月ホスゲンの設置調査を命じられた山里(一史)から指示があり,ヴァジラヤーナのワークで,最高の救済活動のお手伝いができる,信用できる弟子だけが行える秘密の修行で,最も早く修行の進む修行であるから,よしやるぞ,これが僕の修行なんだと思った,大阪のど真ん中で歩いているとき,上を見上げて結果が出たらどうなるだろう,人が死んだり怪我をしたり大惨事になるだろうと感じてうずくまってしまった,しかし,自分で考えちゃいけないんだ,グルの意志をやるしかないんだとして続けた,動揺は修行が足りないんだなと思った,これは神々が考えたことだから,自分が考えちゃいけない,自分はやるしかないと言い聞かせた,自分が人を殺すと考えたことはなく,救済活動のお手伝いなんだ,やらないといけない,殺すことが戒律を守ることになる,善悪を超えた善であると理解していた,などとも述べた。

4  被告人の供述

被告人は,原審において,グルの教えを実践することは善悪を超えた全き善で,本件各犯行時は,完全なる喜びはまだ持ち得ず,実行することで精一杯であったが,喜びを感じるのが究極の目的である,甲野(なお,被告人は,供述において「甲野尊師」「甲野教祖」等と言い,「甲野」とは言わないが,便宜上「甲野」に統一する。以下同。)の指示によるポアは,世俗を超えた宗教的な行為を基にして行った行為である,甲野の指示で殺される人は幸せなことで,今後ともグルからの指示があれば喜んで殺人でも実行したい,そのように心がけたい,と述べた。

当審において,被告人は,再三にわたり,正当化のつもりはない,事実を語るのみとわざわざ断りながら,自分には自己の地位を守るとかの執着心はなく,甲野の忠実な弟子であるとの自負や,その信頼をつなぎ止めたい意地は本件各犯行の動機にはない,他の信者への優越感は毛頭ないし,上に行くほど厳しい指導があるので特権はなく,私利私欲で自分のために何かをしたいということでやった覚えはないと言い,前記2の原判示に反駁する。そして,本件各犯行はグルの意志で,グルが自分を信用してくれて命じてくれたと考え,宗教的確信に基づいてやった,あくまでも自分は甲野の目指す救済の手伝いをしていたと思っていた,各事件で行為に及ぶとき,その人たちに対する慈悲の心を忘れたことはなかったから,罪悪感を持ったことはあるが苦しまないと言うのである。さらに,やっている最中もやる前もやった後も,自分が同じ立場で同じカルマが帰ってきても,それを本望として喜ぶことができるのか,常に考え,私なりに真摯に考えてその人たちの喜びのため,利益のためを考えてやったつもりである,今の既成の社会の価値観では三悪趣に落ちてしまうとしたら,その価値観以外のもので救うしかないと思ったとも言う。個々の事件に関しては,田口事件の背景は,全ての衆生の利益を考えてのことで,その上で田口(某)の利益があると考えた,落田事件は,甲野との縁を深くして未来際において救済されること,落田(某)の苦しみがより少なくなることを祈っていた,保田(某)にしても甲野との縁が深くなるとはいえた,坂本事件も,全ての衆生の利益のために必要と思ったから行った,坂本弁護士らと甲野と縁ができること自体がもう最高のことだと思っていた,松本サリン事件の宗教的意義は,教団外の人の本当の意味での価値を認めていて,その幸せを考えながら,生きているだけで悪業になり,三悪趣の世界から脱却できない状態になる前に,悪業を落として高い世界に転生させたほうがその人のためになると考えて,多数の死者が出ることを望んで行った,冨田事件では,冨田(某)が甲野との縁で未来際でブッダになるという宗教的な意義がある,中原監禁事件は,下向する人たちへの歯止めで,地獄等に落ちることを避けさせるから,宗教的な意義がある,地下鉄サリン事件では,教団外の市民にも高い世界に転生してほしいという思いがあった,と述べる。

さらに後記の正木晃証言に接した後には,殺人が仏教の戒律に反することだということは十分認識していたが,ヴァジラヤーナの実践だから許される,やらなきゃいけないんだという宗教的確信に基づく殺人はあると思う,この殺人は慈悲殺人で,殺人が救済になる,菩提心に基づくものである,慈悲殺人でも,実行すればそれで悪業が増え,地獄に至ったり,現世の裁判を受けたりして,解脱が遅れる,これを承知の上で,私利私欲を捨てきって,ひたすら相手のためにやりたい,相手のために尽くしたいとの観点から行った,修行の一環としてグルの命令に従えば修行が進む,解脱にグルが導いてくれるとの考えもあるが,修行は自分のためだけではなく,ほかの人たちの幸福を導くための解脱のためである,ヴァジラヤーナの実践はよいことなので,命じられれば喜ぶように努めた,カルマを積んで苦しむから迷いはあったが,救済という意味では迷いはない,甲野の指示があったから救済のために必要だとの確信を抱いた,ポアは甲野とご縁をもつことで,その人にとってはむしろ喜ぶべきこととの考えには変わりない,後悔や苦しみはない,などとも言う。

ところで,被告人は,前記のように,甲野への帰依及び利他行,救済としての殺人等を強調すると同時に,(自分は本件各犯行を)喜んでやったわけではない,殺人と考えてやった,甲野の指示や行動について疑問を覚えたことがあったとか,田口事件から,自分自身が殺生されることに対して覚悟したと言い,併せて,自分は人間の良心を持っていると思う,人間性を失っていない,人を殺生したという罪の意識はあった,田口事件後激しく心が動揺した,地下鉄サリン事件を除く事件で14人の命を奪ったとの罪悪感はある,死刑になる覚悟を決めている,坂本事件は犯罪と理解した上の行為である,坂本弁護士宅に入る以前はためらいを捨てきれなかったかもしれない,ためらいがなかったと言えば嘘になる,松本サリン事件では,サリンで多数の死者が出ることを望んだことで,人命軽視との非難はやむを得ないし,今の社会においてはそのように判断されても仕方ないと思っている,(自分たちは)教団外の人の本当の意味での価値を認めていて,その幸せを考えていたが,それが社会的な価値観とは違っているというのは十分に理解している,冨田事件では,冨田が無念に思うだろうという気持ちは理解できる,などとも言うのである。

そして,同時に,教団が独善的,反社会的体質と非難される理由はあると思う,社会の価値観に基づかない宗教的な価値観に基づいてこの社会を改良しようとした場合,独善的と思われても仕方ない,私なりに真摯に考えてその人たちの喜びや利益のためを考えてやったつもりだが,社会の価値観と違うわけだから,理解されなくても残念だが仕方ないとも言う。被告人は,後記6の正木証言(4)に関しては,帰依は依存そのものではなく,グルとの一体化は,自分に対するとらわれを手放すが,自分の経験はなくならず,その上に甲野の境地が加わると考える,仏教の戒律で殺生は許されないことは間違いないとしつつも,なお,自分が地獄に至っても死刑になっても,カルマの果報として当然あると思っていた,その意味で自分の解脱は後回しにし,私利私欲は考えていなかったなどと反論する。その上で,再度,宗教的確信に基づく殺人はあると思う,甲野はやはり最終解脱者だと思う,甲野の言うことに疑問を持ったことはない,甲野の言うとおり行うことが修行で,解脱の目的は衆生の済度のためであると言うが,やはり,社会的に間違ったという意味ではそのとおりで,ご迷惑をかけたことはお詫びしたい,死刑は覚悟しているとの心境を示しつつ,遺族の人にはお詫びしたい,大変申し訳なかったとは思う,宗教的確信に基づく行為で正当だが,謝罪することによって遺族や被害者が少しでも心が安らげばと思い,謝罪を求めている人にはやはり謝罪をしたい,違う価値観の人も理解したい,その代わり,自分には自分なりの価値観があると言いたい,というのである。

5  オウム真理教の教義

所論がいうところの,宗教的確信に関係するオウム真理教の教義は,およそ次のようなものである。

すなわち,甲野が各種機会における説法で説き,かつオウム真理教の教本等に収録されているところによると,輪廻転生はカルマ(業)の法則によって支配される,苦しみを超越し,心の解放を得て,カルマを超越することが解脱・悟りである,修行者の最高の善業はグルへの帰依である,タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)の帰依はグルの意思を実践することで,その修行者にはグルへの絶対的な,完璧な帰依が求められる,タントラ・ヴァジラヤーナは,大乗を最も早く達成させるための手段で,これを達成するためには,一定の条件を満たす場合には殺人がヴァジラヤーナの実践としてむしろ功徳になる,現代社会に生きていること自体が悪業とされ,このような悪業を積んでいる者を殺害することは,殺人ではなく救済であり,救済を達成するためには非合法手段も許される,などというものである。

6  正木晃の証言

そこで,当審において,オウム真理教の教義の宗教上の位置づけ等を明らかにするために,宗教学者(慶応大学文学部講師)の正木晃の証言を得た。

まず,同証言によれば,おおむね以下の(1)ないし(3)の3点が本件で関係を有する重要な宗教学上の見解として認められ,かつ,オウム真理教の教義及び弟子と甲野との関係等について(4)のような見解を示している。

(1)  仏教の戒律と殺人

「人を殺すな」は仏教の初期の段階から,戒律書である律蔵にあり,正木証人自身,自ら仏教徒として,宗教的確信に基づく殺人は認められないとする。後期密教の教典「秘密集会タントラ」には,「一切衆生を殺せ,殺された者達はかの阿閦如来の仏国土において仏子となるであろう」などの文言があるが,これを言葉どおりとってはならず,インド後期密教において,字義通り解釈して人を殺したことが問題となったことは一切聞いていない。ただ,大乗仏教を決定づける哲学的用語である「空」は,万物は実在しないという認識を表わし,執着している限りは悟りも解脱もないということを意味しているが,これが下手に使われ,人を殺してもいいし,何をしてもかまわないという極端な論理が僧院の中で論及されるようになった。インドの唯識派では,「この世は全て幻のごときものである,幻が幻を殺しても殺にはならない」との論理があった。

そして,「ラ師伝」によると,12世紀のチベット密教の修行者ラ・ローツァワ・ドルジェタクは,前記唯識派の理論に近い,「度脱(呪殺)の行為は利他行で,他者救済である,真理の世界においては殺すことも殺されることもあり得ない,その人が長生きすればより多くの罪を背負うであろう,ならばその前に殺してやることは慈悲だ,これから殺される人は殺されなくて済むし,彼もまた悟りに近くなる」として,何回も殺人(度脱)を行った。ただ,ドルジェタクは無差別に人を殺すことはせず,防衛的な措置として,全て自らが行った。自己責任で,度脱を遂行できる実力は自分しかいないという自負があり,他者をして関わらしめてはならないとの認識があった。そして,これに対し当時のチベット社会全般から非難はなかった。このころはチベットにおいて個人の霊能者の力を発揮できた時代であった。以後,彼と同じような行為をする人は2度と現れず,ドルジェタクを尊敬しあがめたツォンカパは,この部門を全て閉じ,以後一切そういうことをしてはならないとの方向に向かった。また,防衛的措置でも殺人は仏教の根本的戒律に触れるので,14世紀以降のチベット仏教界では,正当防衛的状況でも,霊力の行使は禁じられた。ドルジェタクの例は,文献上確認できる唯一に近い。

同様に,理趣経には,「生きとし生けるもの全てを殺しても地獄に落ちない,かえって早く悟りが得られる」との趣旨の文言があるが,日本の真言密教においてもこの解釈は封印され,この教典を掲げて殺人をした日本人はいない。

(2)  最終解脱者

そもそも最終解脱という言葉は仏教界では目にしない。考え方として成り立たない。「次」が常にある。ブッダですら最終的な解脱には到達していない。歴史上最も偉大と言われる指導者は,自己が最終解脱者ではない,まだ余地がある状態であると認識しており,謙虚さがあって,自己の絶対化を防ぐすべがある。

(3)  グルと弟子との関係

ブッダの説法は対機説法で,状況や人の,今求めるところに応じて,その場で法を説く方法であった。ブッダの最後の説法は,「人によらず法によれ,1人犀のごとく歩め」であって,真理により,特定の先生の見解によるな,だれにも依存することなく自ら未来を切り開き,自分の力で悟りを得るということである。

グルはインド系の言葉で密教の先生というイメージもある。後期密教では,グルへの帰依が強調された。

チベットでは,グルと弟子の選び方として,互いに12年間つまり無限大の期間観察し合うべきで,極めて慎重に対処すべきと言われている。グルが弟子に1対1で必ずグルの側のコメント付きで教え説くから,生涯かけても1人,多くても3人ぐらいの弟子にしか教えられない。弟子の方も帰依と同時にグルをちゃんと観察しなければならない。前記の秘密集会タントラの「生きとし生ける者を全て殺害せよ」などは,既存の考え方を壊して行くためにわざと極端な表現をする伝統があり,その真意の解釈をするのが正しいグルのあり方である。また,厳しい修行には危険があるから,事故を防ぐためには,資質を持った弟子のみ選んでやらせる必要があった。

グルのクローン化を強調すると問題が起こる。仏教は,悟りを求める自分というものの存在は「大我」ということで肯定する。仏教では,私を非常に強く保つというのが本来で,グルと同一のものになるということは想定していない。

(4)  オウム真理教の教義及び弟子と甲野との関係等

甲野の独自性は,グルの絶対性をかつてないほど極限まで高めたという点が一番大きい。甲野と弟子との関係について,グルの絶対性を強調する一方で,非常に温かい,親しい感覚がある,甲野には,神や仏に近い部分と人間的な部分を併せ持つ,まれに見るカリスマ性があったのだろう。

カルマの法則を強調することは,グル本人の絶対性を高めるという意味では問題を起こすかも知れない。タントラ・ヴァジラヤーナはオウム真理教独自の造語で,歴史的にない。また,小乗,大乗,秘密金剛乗と順番に激しくなるという文言は聞かない。神秘体験を売り物にし,その力がなくなったときには,特殊なガスを使って神秘体験を起こしてグルの権威を高める傾向は,宗教的指導者にとりありがちで,甲野は20世紀後半にブームになったインド系のラジニーシ派に近いのかもしれない。「ポア」という語はチベット語で「遷移」を意味し,殺すという意味では使われない。

さらに,当時の被告人の気持ちを推し量ると,神秘体験した弟子は,グルに依存関係は強く生じると思う,非常に深い体験を師によって与えられた経緯があったときに,師から,違法であろうと何であろうと,ある命令を与えられて,それを断るというのは,よほど別種の強靱さがないと難しい。生まれや育ちや人格や様々な要素は関わると思うが,引きずられていく人がいるだろうとは容易に想定できる。最終判断を他者に委ねてしまって,ある意味で主体性を失うことがここでも起きたのではないか,そういう方向へ導かれていった人々というのはかなり悲劇的なものであったと思う。甲野と被告人との関係を考えたときには,倫理的,仏教的に考えて正しいかどうかとは別の要素が働くから,拒絶することは極めて難しかっただろう。その上で,弟子がグルから「戒を犯せ,人を殺せ」と言われたときには,そういう命令を出すグルは果たして真のグルであろうかとの疑問を持つし,それを行うことが仏教徒として正しいことかどうか,煩悶し,その果てに自己の立場を見出すべきであろう。自分の生死と解脱は後回しにするのが,少なくとも大乗仏教徒としては正しい選択である。煩悶自体が修行であるから,主体的に考えるべきで,判断保留は本来の仏教のありかたではないであろう。違法な命令に対しては被告人はやはり拒絶すべきであっただろう。

7  検討

そこで,検討するに,所論は,被告人の本件各行為は,宗教的確信に基づく行為であるから期待可能性がないというのである。

ところで,オウム真理教が宗教といえるのか否かについては,正木証言は,学問上の立場からこれを肯定している。世論の中には,オウム真理教などは宗教の仮面をかぶった凶悪殺人集団にすぎず,被告人は,その一味として実行行為等に関与したのであるから,宗教的確信を云々する資格はないという見方もあろう。ただ,そのように,事件をいわば矮小化してみても,普通の,それも善良だったともいうべき青年が,何故このような凶悪・重大な犯罪を犯すに至ったのかという基本的疑問に何も答えることはできない。本件では,原審の段階で事実関係については十分審理が遂げられているので,当審では,前記のように,共犯者である丁木夏男及び乙川の各証人尋問並びに宗教学者である正木の証人尋問を行い,被告人からも再度詳細な供述を求めた。しかし,当裁判所のこのような審理を通じても,この疑問に対する最終的な答えは見出せなかった。

そして,裁判所は,宗教的確信の問題の前提として,果たしてオウム真理教が宗教といえるのか,宗教として異端なのかを判断すべき立場にはない。あくまでも,弁護人の前記所論との関係で,被告人が果たしてどのような考えで行動したのかを理解する上で,この問題に言及するほかないのである。すなわち,正木証言にかんがみると,少なくとも,甲野自らを最終解脱者とし,弟子の側からするグルの観察には触れない点において,オウム真理教の教義は仏教的に特異であり,何よりも,甲野がタントラ・ヴァジラヤーナの殺人なるものは救済であるとし,グルの絶対性を前提に,弟子に対し,「ヴァジラヤーナの実践」として大量無差別殺人を命令したことについては,仏教の教義上からも,その正当性を肯定する余地を見出すことは困難であることを指摘するにとどめたい。

被告人は,甲野が指示すれば,それは即必要なものであって,弟子として甲野の指示に従うことは,修行が進み解脱へと導いてもらえることにつながる,しかし,修行は自分のためではなく,究極的には衆生の救済を目指しているので私利私欲ではない,ヴァジラヤーナの実践をすれば,相手の苦しみを自分に受けカルマ(悪業)が増すから,迷いがあったが,救済のために必要なこととして,相手のために尽くしたいとの観点から行ったなどと言う。要するに,甲野の命令は,社会のみならず自分にとっても嫌悪すべき苦しいことであったが,全て甲野が決めた衆生の救済に必要なことであり,自分は甲野の弟子として,甲野の手伝いをしなければならないから,これをやりたいと思い,喜ぶように努力して行った,これは自分の修行のためもあるが,修行は究極的には衆生の救済を行う解脱を目指しており,本件各犯行実行に際しても各被害者の幸福を願って行ったので,それを私利私欲からと言われるのは心外であると言いたいものと解せられる。結局,被告人は,本件各犯行が社会では受け入れられないことも仏教の戒律に触れることも十分に理解しつつも,甲野が,衆生の救済のために犯罪行為を行うことを必要とし,これを行うよう弟子に指示したと理解した上で,自由な意思で自己決定してこれを実行し,それゆえに,社会の非難や自己に科せられる刑罰は覚悟の上であると言っているのである。

この点,先にみた丁木及び乙川の各証言中には,甲野から絶対的帰依を説かれて,修行のため,救済のために役立ててくれるんだと思ったとか,甲野とのクローン化が修行の一つで,矛盾はなかったなど,前記所論に沿う部分が確かに見受けられる。しかし,被告人の言い方はそれとは多分に色合いを異にする。被告人は,当審においても,グルとの合一化とか,解脱が不可能となることへの恐怖などについては何も触れるところがない。ましてや,甲野に強制されて逆らえずに実行するしかなかったとか,甲野の指示が違法なものだとは全く認識することができず,社会的にも正しいことだと信じ込んでいたなどとは一切言わないのである。かえって,正木証言に反論しているとおり,甲野に帰依しても自分は失っていないというのであり,また,自分の解脱が進むか遅れるかは,まるで考えていなかったかのようにも言うのである。

このようにみてくると,被告人は,本件各犯行毎に,自己の行うことが,社会規範はおろか自ら信仰する仏教の戒律に反する殺人等の犯罪行為であることを十分に認識した上で,これを抑制しなければならないとの意識を抱きながらも,甲野の説く,衆生を救済するための「ヴァジラヤーナの実践」なるものに則って,殺人が救済となる慈悲殺人であるとして,甲野からの命令指示を喜ぶように努め,各犯行を実行したというものである。もちろん,教団の組織防衛を至上目的として,その時々の個別の目的があったことは,被告人もおおむね肯定し,証拠上も優に認められるところである。

そうすると,被告人は,古くからの出家信者であり,甲野の説く宗教的な理念でその心的な領域は強く影響されていたものの,前記原判示のとおり,甲野の指示に抵抗感や疑問を抱くこともあって,甲野の説く教義指示により,その全ての生活行動を律していたとまでは認められず,自己を取り巻く外部世界すなわち社会の客観的状況についてまで,通常人と異なる認識をするに至るまでの状況にはなかったことは明らかといえる。

このように,被告人は,甲野の教義に基づく慈悲殺人が,社会一般の価値観とは大幅に異なり,社会的な非難を浴びることは十分認識していたものである。

そもそも,被告人が,このように,結果的に犯罪行為を選択したのは,その自由な意思決定の基礎となる価値観に問題があったのであり,その価値観は,被告人の自らの自由意思で選択決定したオウム真理教への信仰と甲野の指導による解脱を達成するための修行によって専ら形成されたものである。そうすると,被告人につき,所論が指摘するような,自由な意思に基づき適法行為を自己決定することが不可能な極限状況に追い込まれたと評価できる事態というのは,到底見出し難く,規範意識による動機づけの制御をおよそ不可能とする精神状態であったとは何ら認められないのである。したがって,被告人につき正常な意思形成を不可能にする心理的な強制があったという余地はないし,被告人の自由意思を圧迫するような具体的な外部環境が存在したともいえないのである。

そして,殺人という,社会において,いわば原始的に違法な行為であり,また,被告人の拠って立つ仏教においてすら戒律的に許されないものとされている行為を,自ら信奉している教義の上からは許されるとして,これを現実に実行した者については,社会からの非難は社会防衛の見地からすればむしろ大きくなりこそすれ,いささかも軽減されるべきではなく,相応の責任非難を免れるものではないというべきである。したがって,超法規的責任阻却事由ともいうべき,期待可能性の不存在によって刑事責任が否定されるような場合には当たらないことは明らかである。前記のように考えると,本件各犯行の動機につき,被告人が「教団の利益や自らの立場,甲野との関係を優先させることによって」との原判示は,本件の一面のみをみるもので,必ずしも適切ではないけれども,結局,被告人がその自主的判断に基づき自発的に,甲野の指示に従うことを選択決定したとの原判示に誤りはないというべきである。

所論は採用できず,この論旨も理由がない。

第3  法令適用の誤りの論旨について

所論(当審弁論要旨における主張を含む。)は,死刑制度が憲法9条,13条,31条,36条に反し違憲であるという。死刑が合憲であることは,原判示のとおり,すでに確立した判例となっており,所論のいう様々な事情を十分に勘案しても,違憲の主張は理由がない。また,憲法9条の規定から死刑を廃止すべきといえないことも,判例の示すとおりである。

そうすると,原判決にはこの点において,法令適用の誤りはなく,この論旨も理由がない。

第4  量刑不当の論旨について

1  所論(当審弁論要旨における主張を含む。)は,本件各犯行は確固たる殺意に基づき,犯行の加担も積極的で,結果の重大性,被害感情,犯行の悪質さ,社会的影響等,死刑判決の重要な判断要素が存在することは否定できないが,期待可能性がなかったとまでいえないとしても,自分の人生全てを甲野に預けた被告人が甲野の指示に逆らえなかったことは明らかで,甲野の指示に従うことが被告人にとっての至上命題で,自己の人生における生き方を規定している宗教的信念を背景としているから,簡単にその信念を曲げるわけにはいかなかったとしても無理はない,本件各犯行の動機はオウム真理教の教義への宗教的確信で,グルへの帰依の心から,グルの指示に基づき,利他的な衆生の救済を図ろうとして犯行に及んだのであり,原判決のいうように,自己保身や優越感などの世俗的な欲望を満たすため犯行に及んだのではない,衆生の幸福を祈念した結果の行動である,被告人に本当に罪を償わせるためには,被告人に考える時間を与えるべきで,死刑を望む被告人を死刑にしても,被告人に罪を償わせたことにならない,というのである。

そして,所論はまた,原判決は被告人に反省の姿勢がなく,被害者を愚弄し,被害者の遺族の心情を深く傷つけ,更生を期待することは困難であるとしたが,その評価は正しくない,無期懲役となった丁木夏男と比べても,被告人の方が当時の正直な気持ちを正確に伝えようとした点で高く評価されるべきである,真実を語ろうとする被告人の姿勢の中に,被告人が真摯に反省しようという気持ちのあることを見て取ることができ,更生可能性もある,などという。

2  本件各犯行が被告人にとっては宗教的な確信による犯行であったとしても,被告人が主体的に自己決定して,社会的にも仏教的にも許されない殺人を含む各犯罪を実行した以上,かかる反社会的な人格態度を非難しなければならないのは当然というべきである。そして,本件各犯行のそれぞれ動機とするところは,被告人の主観的範囲内では,全ての衆生の救済の名の下に悪業から救済するという「崇高な」目的であるとしても,結局のところ,客観的には,教団内外の人間で教団に不利益な者や,ひいては教団外の人間を無差別的に敵視し,計画的に抹殺する行動であるから,教団の組織防衛以外の何ものでもない。このような点を,被告人にとり有利に解すべき事情ということはできない。前記のとおり,被告人が自由な意思でと言いつつも,結果的に犯罪行為を選択したのは,その意思決定の基礎となる価値観に問題があったのであるが,被告人は,この問題性をかたくなといえるほどに認めようとしない。なお,被告人は,甲野によるマインドコントロールを受けていたなどとも口にしない。このように,被告人が自由意思での選択を強調するのは,何者にも推し量れない深い被告人なりの理由があるのかもしれないが,少なくとも,被告人は,自己の価値観すなわち,オウム真理教への信仰と甲野への帰依を依然正しいものとして保持し続け,当審において,宗教的にもその誤謬を指摘されても,改心はしないとの態度をとっている。被告人は,自分は死刑は覚悟しているし,社会に戻る予定もない,後は死を待つだけで,社会的なものは手助けにならない,後はやはり宗教に救済を求めるしかないとも述べるのであって,その死への恐怖に基づく心持ちは,想像できないでもない。しかしながら,やはり,これは自己の責任を直視する者の態度とは評価し難いであろう。所論がいうように,被告人が本件を振り返り真の反省をするには,もっと長い時間を必要とするのかもしれないが,本件各犯行後すでに10有余年を経ているのも客観的な事実である。所論は,また,被告人が,反省しようがすまいがどうせ死刑である,むしろ死刑にして下さいと述べて,反省より自分の修行を優先させたいと考えても無理はないのであって,そのような被告人には,反省を求める時間的余裕が足りず,これでは精神的余裕が生まれるはずがない,よって,被告人を死刑にすることは愚策である,などともいうのであるが,遺憾ながら,そのような観点を敢えて加味して考えてみる必要はない。

宗教的確信に関連して被告人が当審でも再三にわたり述べる,自己の犯罪行為により被害者が甲野と縁を持つから,被害者は喜ぶべきであるとの考えには,被害者を始め多くの者は怒りすら覚えざるを得ないと推測され,かかる宗教的な意味づけを,いかなる意味でも被告人に有利に考慮するわけにはいかない。被告人がありのままの事実を伝えようとしているとはいえ,平然とこのようなことを言うのは,犯行を心底悔いて反省し,それに基づき事実を包み隠さず言う者の態度とは大いに異なるというべきである。しかも,被告人は,自分が謝罪するのは,宗教的な確信を述べたからと言って,その人たちに果たしてそれを理解して受け入れてもらえるとは思わないから,謝罪することによって,その人たちの心が少しでも癒されるのなら,それは謝罪した方がいいと思ったからであるなどとしているのも,被害者らを慰謝するにはほど遠い謝罪の仕方といわなければならない。そうすると,おのずと,丁木夏男と被告人との供述態度の差も明らかにあるというべきである。

3  ところで,本件は,殺人事件である,田口事件(原判示第1),坂本事件(原判示第2の1ないし3,死者3名),落田事件(原判示第3),松本サリン事件(原判示第4,死者7名,未遂被害者4名),冨田事件(原判示第5の1,2,死体損壊を含む。),水野VX事件(原判示第7,未遂),濵口VX事件(原判示第8),永岡VX事件(原判示第9,未遂)及び地下鉄サリン事件(原判示第10の1ないし5,死者12名,未遂被害者14名)の外,中原監禁事件(原判示第6)並びに松本某蔵匿事件(原判示第11)の各事案である。

このような重大事犯多数を,大部分で実行犯として敢行した被告人の刑事責任は,改めていうまでもなく極めて重大である。

4  他方,被告人に有利な事情を考えてみるに,原判示のとおり,殺人,殺人未遂,死体損壊事件については,いずれも甲野の指示があって,被告人はこれに従って実行したものである。被告人がどう言おうと,客観的には,他の弟子らと同様に被告人は,甲野によって,その帰依の心を最大限利用されて,悪質な実行行為をさせられたというべきものである。

被告人の原審公判での供述は,甲野の指示や謀議状況ないし他の共犯者らの役割等について,率直に記憶に基づいて事実を述べるものであり,これにより,事案の解明に寄与したことは大いに評価されるべきである。

また,被告人の生来の性格に問題性や犯罪傾向は一切認められず,もとより前科等はない。家族とも円満で真面目に学業にも勤しみ,大学まで卒業しており,オウム真理教入信の動機にも不純なものは見受けられない。家族や友人らも原審で証言をして,被告人の善良な性格を語り,その身を心から心配している様子が認められる。

当審においても,被告人は,その精神世界を宗教において救いを求めるとはいえ,被告人なりに修行を続け,その中には死亡被害者の冥福を祈る目的での修行も含み,多数の書籍を読み,新たな研鑽に努めている様子もうかがわれる。

これらの有利な事情をもしん酌して被告人の量刑を考えるが,何といってもやはり,本件各犯行は原判示のとおり,その罪質,目的,態様等に照らして,犯罪史上まれにみる悪質なものといわざるを得ない。当然ながら,各犯罪遂行の中心となったオウム真理教の最古参の信者にして,教団の最高幹部の一人であった被告人の本件各犯行に対する責任は極めて大きく,被告人も自認しているとおり,甲野に次ぐ責任を負うべきは当然である。突然に非業の最期を遂げなければならなかった死亡被害者やその遺族ら,そして,依然重傷被害を負って病床にある被害者ら及びその家族らの処罰感情には極めて厳しいものがあるというべきである。

そうすると,死刑が真にやむを得ない場合にのみ選択することが許される究極の刑罰であることを考慮しても,やはり,被告人に対しては,死刑以外を選択する余地はない。結局,前記のとおり,被告人としては宗教的な確信という動機に基づいて行った犯行であるとしても,これは,本件各犯行の違法性や被告人の責任をいささかなりとも軽減する方向に働くものではなく,このような事情は,死刑を回避すべき事由とは到底なり得ないというべきである。

なお,所論は,原判決が,上記殺人事件で死刑を選択したうちの田口事件,落田事件,冨田事件(原判示第5の1),濵口VX事件,地下鉄サリン事件(原判示第10の5を除く。)について死刑を選択したことが誤りであると非難し,いわゆる連続殺人事件ではないとか,地下鉄サリン事件は運転手役にすぎない被告人は,犯行を主導できる立場になかったなどともいう。しかし,これらはいずれも,犯行態様が極めて悪質で,結果も重大であることは多言を要さず,地下鉄サリン事件について,運転手役の被告人の役割が主体的で積極的であったことは,前記第1の2で述べたとおりである。そうすると,これらについて,いずれも死刑を選択したことは相当というべきで,この所論は理由がない。

その上で,前記各事件の外,坂本事件及び松本サリン事件でも死刑を選択し,結局犯情の最も重い松本サリン事件につき死刑を選択して他の刑を科さないとした原判決の判断に誤りはなく,正当である。

5  ところで,前記永岡VX(殺人未遂)事件の被害者永岡某を,当審において,弁護人の申請する証人として,被害感情の点から尋問したところ,同人は,被告人の裁判傍聴を多数回行い,かつ被告人とも3回接見していたが,被告人に対し,「法廷で極刑判決を受けた人たちが取った態度を,そういうふうに傍聴人に感じられるような態度を取ってもらいたい」と述べている。これは,被告人が依然として,後悔しない,苦しまない,正しいことをしたと思っていると述べて,傲岸とも見える態度を取っていることに対し,厳しく改心,反省を迫るものである。そして,「被告人に死刑を望むか」との質問に答えて,永岡証人は,教訓的にはやむを得ないかなという気がする,でも,遺族の気持ちを代弁しているわけではないと断りながらも,できることなら勘弁してやってもらいたいと述べた。瀕死の重傷を負った殺人未遂の被害者の一人から,このような意見が出ていることは大いに傾聴に値すべきことであるが,同証言は,かつて,オウム真理教に入信していた息子を教団から連れ戻していなければ,被告人席に同人の姿を見たかもしれないという,親として耐えきれない悲痛な心情に裏打ちされたものであり,これを被告人にとり最大限有利に考慮したとしても,前記の結論は変るところがないのである。

この論旨も理由がない。

第5  結論

よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却し,当審における訴訟費用は同法181条1項ただし書を適用してこれを被告人に負担させないこととして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・原田國男,裁判官・池本壽美子,裁判官・森浩史)

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