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東京高等裁判所 平成14年(ネ)336号 判決 2002年6月05日

控訴人

A野花子

同訴訟代理人弁護士

森和雄

市川統子

柳川猛昌

被控訴人

B山松子

同訴訟代理人弁護士

渡辺徳平

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は、控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一控訴の趣旨

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人は、控訴人に対し、金八四五万三七〇一円及びこれに対する平成一〇年四月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要(略称等は、原判決のそれに従う。)

一  本件の概要

本件は、切符を購入するために駅構内の券売機付近で立っていた控訴人が、完全視覚障害者である被控訴人に衝突されて転倒し、左大腿骨頸部骨折の傷害を負ったとして、被控訴人に対し、不法行為に基づく損害賠償金八四五万三七〇一円及びこれに対する不法行為の日である平成一一年四月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

原審は、被控訴人と控訴人とが衝突したとは認めるに足りないと判断し、控訴人の請求を棄却した。

当裁判所は、原審と異なり、①被控訴人が控訴人に衝突したと認められるが、②被控訴人には前方確認義務違反等の過失があるとまでは認められないと判断して、結論としては、原審と同様に、控訴人の請求を棄却すべきものと判断した。

二  争いのない事実等及び争点

争いのない事実等及び争点は、原判決事実及び理由「第二 事案の概要」欄の一及び二(原判決一頁末行から四頁二二行目まで)のとおりであるから、これを引用する。

第三当裁判所の判断

一  事実経過

前提となる事実関係は、以下のとおり、加除訂正するほかは、原判決事実及び理由「第三 当裁判所の判断」欄の一(1)(原判決四頁二五行目から八頁八行目まで)のとおりであるから、これを引用する。

(1)  原判決五頁六行目の「駅構内の通行人は多かった。」を、「駅構内の通行人は多く、人の流れができる程度であったが、それほど混雑した状況ではなかった。」と訂正する。

(2)  同五頁一一行目から一二行目にかけての「右肩の背中に近い位置(腕の付け根辺り)を横から衝突され」を、「右肩の後ろ側を右横から衝突され」と訂正する。

(3)  同頁一六行目の末尾に、「控訴人は、倒れた後、立つことができず、左足を後ろに伸ばした格好で、這うようにして小銭を拾い、周囲にいた女性や石山がこれを手伝った。控訴人は、衝突した相手を目撃してはいなかった。」を挿入する。

(4)  同六頁二行目から四行目までを、次のとおり訂正する。

「被控訴人は、歩行中、右肩の腕の付け根付近が前方に居た人と当たり、その場に立ち止まり、「大丈夫ですか。」と声をかけたが、誰からも何の応答もなく、盲導犬に声をかけて足を踏み出したものの、石山から、女の人が倒れており、止まっているように告げられて立ち止まり、石山に、「今右肩に当たった人がいたんだけど。」と告げた。」

(5)  同六頁一三行目の「石山は、」から同頁一五行目の「原告のところに戻り」までを、「石山は、前記のとおり、被控訴人に止まっているように告げたうえ、」と訂正する。

(6)  同七頁九行目の「(なお、原告は、」から一二行目末尾までを削除する。

二  被控訴人は控訴人に衝突したか(争点1)。

(1)  被控訴人は、控訴人に衝突した。

本件においては、控訴人が右横から衝突されて転倒したために衝突した相手を、被控訴人が視覚障害者であるために当たった相手を、いずれも特定することができず、石山も、衝突の瞬間を目撃しておらず、他にこれを目撃した人もいない。

前記認定のとおり、①当日、控訴人は、駅構内の発券機の方に体を向けて立っていて右横側から衝突されて転倒した、②当日、同時刻頃、被控訴人は、駅構内を盲導犬とともに、控訴人の右側方向から歩行して来て、右肩が人に当たって立ち止まり、「大丈夫ですか。」と声をかけたものの、何らの応答を受けなかった、③駅構内は通行人がそれほど混雑した状況ではなく、控訴人が転倒した際、周囲の人から、控訴人を転倒させて現場から逃走する者を非難あるいは追跡するような声は出なかったというのである。

このように、時刻も、場所も非常に近接したところで、控訴人及び被控訴人のいずれもが人に衝突しており、発券機の方を向いていた控訴人の右肩の右横方向から、控訴人の方向に向かって歩いていた被控訴人の右肩が当たったとするのは位置的にも整合性があり、被控訴人が当たった後「大丈夫ですか。」と言ったのは、音や四囲の状況から、相手が転倒するなどの異常が生じたことを察して気遣ったためではないかと推認され、控訴人が転倒した際、石山及び被控訴人の他には、控訴人又は当たった相手を気遣う発言をした者もおらず、また、控訴人を転倒させた者に対する非難の声もあがっていないのであり、控訴人と被控訴人とが二人以外の者に衝突したことを窺わせる事情もないことを考慮すると、控訴人が被控訴人に衝突されて転倒したと認めるのが最も合理的な事実の経過についての見方というべきである。

(2)  石山の行動等の意味

石山は、前記認定のとおり、被控訴人の依頼に基づくプールへの誘導を中止して被控訴人に帰宅を促した後、救急車に同乗し、搬送先の玉川病院においても、約三時間もの間控訴人に付き添い、自分の住所と電話番号を書いたメモを控訴人に渡している。このような石山の行動は、たんに、看護婦の心得があるからというだけにとどまらず、現場の状況から、被控訴人が控訴人に衝突した可能性が高いと判断し、被控訴人に代わって控訴人に対して援助の手を差し伸べたと推認されるものの、石山の行動自体は、被控訴人が控訴人に衝突して転倒させた事実の裏付けとなるものではない。石山は、控訴人に対して、被控訴人が衝突したという直截な言い方はせず、謝罪もしていない(《証拠省略》)が、前記のとおり、石山が、衝突の瞬間を目撃してはいない上、プールへの誘導を依頼されてはいても、被控訴人に代わって謝罪する立場にはないことをも考慮すると、控訴人に対する石山の応対は、非難すべきものではないし、控訴人に付き添った石山の前記行動の適切さが減殺されるものではない。石山は、また、控訴人の同室者C川竹子及びD原梅子に対して被控訴人が控訴人に衝突して転倒させたと説明した(《証拠省略》)ものの、前記のとおり、石山が衝突の瞬間を目撃していない以上、この説明も、被控訴人が控訴人に衝突して転倒させた事実の裏付けとなるものではない。

(3)  前記認定に反する証拠等

控訴人が転倒した際の被控訴人との位置関係について、石山は、原審において、控訴人が倒れていた地点と被控訴人が通行人と接触したため立ち止まった地点との間の距離は二メートル以上あった旨証言し、これによれば、控訴人が被控訴人に接触して転倒するのは不自然であることになる。しかしながら、石山は、控訴人が誘導ブロックの上に尻餅をついて転倒していたと証言するところ、控訴人の転倒により骨折した部位が、左大腿骨頸部であり、控訴人は、転倒後、左足を後ろに伸ばしていたことに照らしてみると、控訴人が転倒した際の姿勢及び位置関係についての同人の証言は信用性がなく、採用することはできない。

また、被控訴人は、原審において、接触した際の状況について、トーンと擦っていくような当たり方であり、そう強い力ではなかったと供述しており、同供述を前提に考えると、その程度の強さの衝突で人が転倒するのかについても疑問がないわけではない。しかしながら、被控訴人は、右肩が衝突した後、「大丈夫ですか。」と声をかけており、自分が控訴人に衝突したのではないかという気持ちを払拭できなかったというのであり、ある程度の手応えのある衝突であったか、又は音及び四囲の状況から相手に転倒等の異常が生じたと感じたのではないかと推認される。事故の翌日、被控訴人が病院に盲導犬の本を持参して控訴人の見舞いにいったのも、自分が衝突した可能性があると考えたからであると理解するのが自然である。そして、予期しない方向から衝突された場合には、これに備えることができず、それほど大きな衝撃を受けなくても転倒することがありうることは経験則上明らかであるから、控訴人が感じた衝撃の程度と、被控訴人の感じた程度が異なっているとしても、異とするには足りない。

三  被控訴人の過失について(争点2)

(1)  視覚障害者も、社会の一員として、健常者と同様に、歩行する際は、人との衝突を避けるため、前方を確認する義務を負い、道路を通行するときは、政令で定めるつえ(白杖等)を携え、又は政令で定める盲導犬(白色などのハーネスをつけ、一定の訓練を経た犬をいう。)を連れていなければならない(道路交通法第一四条一項)。この法律の趣旨は、もとより、視覚障害者のみに対し、白杖や盲導犬の使用を義務づけ、自己及び他人の安全に配慮させようとするにあるのではなく、白杖や盲導犬により視覚障害者であることを容易に識別させ、健常者においても相応の注意を払うことを期待し、これにより、社会一般の通行の安全を維持しようとするにあると解するのが相当である。

不法行為の成立の要件としての過失は、いわゆる抽象的過失の存在をもって足りるとされるが、このことは、視覚障害者においても、健常者と同内容の義務を負うことを意味するものではなく、視覚障害者としての標準的な注意義務を果たすことが求められ、それを果たすことをもって足りるとする趣旨と解するのが相当である。

また、近年、視覚障害者のための誘導路の普及も著しいが、誘導路は、視覚障害者の安全な歩行を確保することを意図したものと解せられ、視覚障害者に誘導路上を歩行することを義務づける趣旨のものでないことは多言を要せず、同路上を歩行していたかどうかにより、視覚障害者の歩行上の注意義務が問題となることもないし、他人との衝突の危険が増すことが予想される混雑した場所においては、前方に声をかけるなどの方法により、自らの存在を示し、前方にいる人に回避を促す義務がある(控訴人の主張)と解することもできない。

(2)  このような理解を前提とすると、本件において、被控訴人は、その通行していた位置が白杖の使用等を義務づけられる道路交通法上の道路であったかどうかの点はしばらく措いても、前記認定のとおり、左手に盲導犬に付けたハーネスを持ち、右手に持った白杖により一歩から一歩半先を確認しながら歩行していたのであり、後記のとおり、白杖の使用や盲導犬に対する指示について不適切な点があったことを窺わせるに足りる証拠もない以上、前方注意義務に違反したと認めるには足りないというべきである。

(3)  前記認定のとおり、被控訴人は、立ち止まっていた控訴人に衝突したが、白杖による前方の確認には死角がないわけではなく(《証拠省略》)、白杖により控訴人の存在を確認できなかったとしても、確認義務を怠っていたということまではできない。

また、盲導犬ジールは、当時、被控訴人の盲導犬になって約五年間たっており、被控訴人も、その性格等は把握していたと推認され、《証拠省略》によると、視覚障害者は、盲導犬のハーネスのほかに、チェンカラー(首輪)、リード(首輪についている紐)を同時に持ち、盲導犬が使用者を引っ張ることはなく、使用者の歩行に合わせて歩くこと、被控訴人の盲導犬ジールが人混みで興奮したり、制御できなくなったりしたことはないこと、被控訴人は、二子玉川(当時二子玉川園)駅の構内を盲導犬を連れて歩行したのは、初めてではなく、川崎市盲人指導係の歩行訓練士から歩行訓練を何度も受けたこと、また、二子玉川駅で待ち合わせ、石山の誘導を受けてプールに行ったことも何回かあり、当日は、いつもと同じ電車で午後〇時二九分ぐらいに駅に到着し、午後〇時三九分発のバスに乗ることを予定しており、衝突した際、特に急いでいたことを窺わせる事情もないことが認められ、これらの事実を総合すると、被控訴人の盲導犬に対する指示についての不適切な点があったと認めることもできない。

(E田春子の、盲導犬の指示を間違えたので犬が走り、それに引っ張られてぶつかったとの証言をそのまま採用できないことは前述したが、同証言は、前記認定事実に照らしても信用性がなく、採用することができない。)

(4)  控訴人は、前記のとおり、衝突されて転倒し、重大な傷害を負ったのであるが、駅構内の通行人が多かった事情の下では、他人の通行を妨げないようにし、かつ、自己の身を守るという配慮がやや希薄であったと推認され、これについて、相手に過失が認められる場合に過失相殺事由と評価し得ても、控訴人に落ち度があったとまでいうことはできず、真に不幸な事故に遭遇したと認められる。しかしながら、既に説示したとおり、被控訴人が控訴人と衝突したことについて、被控訴人に過失があると認めることはできない。

第四結論

よって、原判決は、理由を異にするものの、控訴人の請求を棄却した結論においては相当であるから、本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 江見弘武 裁判官 白石研二 土谷裕子)

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