東京高等裁判所 平成14年(ネ)4815号 判決
主文
1 本件控訴をいずれも棄却する。
2 控訴費用は,控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第1控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は,控訴人ら各自に対し,別紙2記載の「謝罪文」を交付し,かつ,同謝罪文を官報に掲載せよ。
3 被控訴人は,控訴人ら各自に対し,各金1000万円及びこれに対する一審第1事件原告については平成9年11月5日から,一審第2事件原告については平成12年3月18日から,各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,旧日本軍731部隊等の細菌戦部隊が第二次世界大戦中に中国大陸において実行した当時の国際法に違反する細菌兵器を使用した戦闘行為(以下「本件細菌戦」という。)によって親族らがペストやコレラにり患し高熱,頭痛,鼠径腺腫,嘔吐等の症状を呈して死亡し,あるいは自らもペストやコレラにり患したが生き残ったと主張する中華人民共和国国民である控訴人ら(訴訟承継人を含む合計180人)が,本件細菌戦を原因とする親族らの死亡等により耐え難い精神的苦痛を被り,また,同大戦後は控訴人ら本件細菌戦被害者に対する救済措置立法等を怠り,本件細菌戦の事実を隠蔽したことによって新たな精神的苦痛を被ったと主張して,被控訴人に対し,主位的に,①明治40年(1907年)に採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(以下「ヘーグ陸戦条約」という。)3条ないしこれを内容とする国際人道法,②現時点における国際慣習法の過去への遡及適用,③中華民国民法の不法行為規定,④日本民法の不法行為規定,⑤条理に基づき,予備的に,⑥第二次世界大戦後の立法不作為及び行政不作為と本件細菌戦の違法な隠蔽行為により国家賠償法1条1項に基づき,謝罪文の交付と官報掲載並びに慰謝料各1000万円(⑥の立法不作為,行政不作為及び隠蔽行為に基づく請求は並列的な請求であり,各500万円ずつの慰謝料1500万円の内金請求である。)及び遅延損害金の支払を求めた事案である。
原審は,被控訴人の責任原因についての控訴人らの主張をいずれも排斥し,控訴人らの本件請求を棄却したため,控訴人らは原審の判断を不服として控訴した。なお,当審において訴訟係属後死亡した,一審第1事件原告Cについては控訴人X14が,一審第1事件原告Dについては控訴人X15が,一審第1事件原告Eについては控訴人X16がそれぞれ訴訟を承継した。
当事者の主張は,以下のとおり訂正し,当審における補充的主張を別紙3,4各記載のとおり付加するほか,原判決の「事実及び理由」欄の「第3 当事者の主張」に記載したとおりであるからこれを引用する。
原判決107頁18行目から19行目にかけての「おそれく」を「おそらく」に,110頁13行目の「中国にでは,」を「中国では,」に,135頁16行目の「10を経過したときも」を「10年を経過したときも」に,148頁22行目の「夙に」を「速やかに」,151頁18行目の「違背したかどうの問題である。」を「違背したかどうかの問題である。」に,162頁14行目の「真摯な摯な謝罪」を,「真摯な謝罪」に,168頁49番の「何友」を「何友」に,193頁23行目と24行目の各「平和克復」を「平和回復」に,203頁4行目から6行目にかけての「国,公共団体の公権力行使の関係は私法的法律関係ではないから,規定を民法の挿入することは不適当とされて,」を「国,公共団体の公権力行使の関係が私法的法律関係ではないから,民法に国,公共団体の責任を認める規定を挿入することは不適当とされて,」に,216頁22行目の「これのような解釈は,」を「このような解釈は,」に,223頁11行目の「国家賠償前の行為について」を「国家賠償法施行前の行為について」にそれぞれ改める。
本件の主な争点は,次のとおりである。
1 被控訴人の加害行為の有無及び控訴人らの被害について
2 ヘーグ陸戦条約及び国際人道法に基づく損害賠償請求権の有無
3 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への遡及適用による損害賠償請求権の有無
4 中華民国民法に基づく損害賠償請求権の有無
5 日本民法に基づく損害賠償請求権の有無
6 条理に基づく損害賠償請求権の有無
7 被控訴人の立法不作為による損害賠償請求権の有無
8 被控訴人の行政不作為による損害賠償請求権の有無
9 被控訴人の細菌戦隠蔽行為による損害賠償請求権の有無
第3当裁判所の判断
1 被控訴人の加害行為の有無及び控訴人らの被害について
当裁判所も,昭和15年(1940年)から昭和17年(1942年)にかけて,旧日本軍731部隊や1644部隊等によって,衢県(衢州),義烏,東陽,崇山村,塔下洲,寧波,常徳及び江山において,細菌兵器の実戦使用(本件細菌戦)が行われ,その結果,衢県(衢州),義烏,東陽,崇山村,塔下洲,寧波及び常徳においてペスト患者が,江山においてコレラ患者が多発し,これによって多数の者が死亡した事実が認められると判断するが,その理由は,証拠として<証拠省略>の各本人尋問の結果(いずれも当審)を付加し,原判決33頁12行目の「109人」を「112人」と改めるほかは,原判決29頁24行目から36頁5行目までに記載のとおりであるからこれを引用する。
そして,本件細菌戦は,大正14年(1925年)に署名され,昭和3年(1928年)に発効したジュネーブ・ガス議定書(正式名称・窒息性ガス,毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)において禁止された「細菌学的戦争手段の使用」に当たり,ジュネーブ・ガス議定書に違反する行為であったと認められる。
控訴人らは,本件細菌戦によりペストやコレラにり患したが死亡を免れた者,あるいは,親族らが本件細菌戦によりペストやコレラにり患し高熱,頭痛,鼠径腺腫,嘔吐等の症状を呈して死亡した者であると主張するところ,控訴人らは,主位的に,被控訴人の旧日本軍が昭和15年から昭和17年にかけて第二次世界大戦において行った細菌兵器を使用した戦争犯罪行為(本件細菌戦)についての被控訴人の責任を問うものであるから,これにっいて検討する。
2 ヘーグ陸戦条約及び国際人道法に基づく損害賠償請求権の有無
本件細菌戦は,細菌学的戦争手段の使用を禁止したジュネーブ・ガス議定書に違反する行為であり,ヘーグ陸戦規則23条1項にいう「特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止」に該当し,ヘーグ陸戦条約3条に基づきヘーグ陸戦規則違反の行為として,国家責任が生じていたと認められる。
しかしながら,当裁判所も,ヘーグ陸戦条約2条には,同条約及びこれに附属するヘーグ陸戦規則の規定は交戦国がすべてヘーグ陸戦条約の当事者であるときに限り締約国間についてのみ適用するという,いわゆる総加入条項が規定されているが,第二次世界大戦の交戦国中には同条約の締約国でない国も存在していたから,同条約は第二次世界大戦については直接適用されず,また,ヘーグ陸戦条約3条は,ヘーグ陸戦規則に違反した加害国の被害国に対する国家の国際責任を明らかにした規定にすぎず,被害者個人が直接加害国に対し損害賠償請求権を行使できることを定めた規定ではないので,控訴人らが,被控訴人に対し,ヘーグ陸戦条約3条に基づき損害賠償請求権を有するとの主張は失当であるし,ヘーグ陸戦条約3条に係る上記の解釈からすると,同条約3条に基づき,被害者が加害国に対し直接損害賠償請求権を有するという国際慣習法が成立していたとは認められず,本件細菌戦当時においても,現時点においても,ヘーグ陸戦条約とは別に戦争による被害を受けた個人が加害国に対し直接損害賠償請求権を有するという国際人道法が成立していたとも認めることもできないから,国際人道法に基づき損害賠償請求権を有するとの控訴人らの主張も失当であると判断するが,その理由は,原判決3頁12行目から19頁7行目までに記載したとおりであるからこれを引用する。
なお,控訴人らの当審における主張にかんがみて補足する。
国際法は,国家と国家又は国際機関等との法律関係に関するものであり,国際法による規律が国家と国家又は国際機関等を拘束するものであることからすると,国際法における法主体となり得るのは,原則として国家又は国際機関であって個人ではない。そして,国際法上法主体となり得る国家でさえ,戦争被害については,国家の責任を規定する国際法規が存在するだけでは賠償を受けることができず,戦争賠償に関する国家間の外交交渉によってその利害の調整を図った上で決定,合意される必要があると考えられる。上記のとおり,本件細菌戦がジュネーブ・ガス議定書に違反する行為であり,ヘーグ陸戦条約3条に基づきヘーグ陸戦規則違反の行為として国家責任が生じていたとしても(ヘーグ陸戦条約の総加入条項の規定については別途考慮が必要である。),これによって直ちに被害国が加害国である我が国から賠償を受けることができるものではなく,交戦当事者同士による外交交渉によって賠償責任に関して合意をする必要がある。
そして,個人がその属する国家以外の国から受けた戦争被害については,所属国の外交保護権の行使によって当該国家間において処理されるのが原則であり,特別の国際法規範が存在しない限り,個人が加害国に対し直接に損害賠償請求権を行使することはできないというべきである。
ところで,ヘーグ陸戦条約には,国家が責任を負うべき相手方が個人であることを明記した規定はなく,個人が国家に対して権利内容を実現する方法又は手続についても一切言及していないのであるから,ヘーグ陸戦条約3条が交戦国に対して課した損害賠償責任は,ヘーグ陸戦規則の違反行為を行った軍隊構成員の所属する国家が,その違反行為により被害を被った個人の所属する国家に対して負担する国家間の賠償責任を規定したものであって,戦争により被害を受けた個人が加害国に対し直接損害賠償請求権を有することを認めた規定ではないと解される。
控訴人らが援用するフリッツ・カルスホーベン(<証拠省略>),クリストファー・グリーンウッド(<証拠省略>),エリック・ダヴィッド(<証拠省略>),広瀬義男(<証拠省略>),申惠(<証拠省略>),テオドア・メロン(<証拠省略>),モーリス・グリーンスパン(<証拠省略>)の各見解は,当裁判所の採用するところではない。
また,控訴人らは,赤十字国際委員会及びその代表が,ヘーグ陸戦条約3条とほぼ同内容の1977年に採択された,1949年ジュネーブ条約の第一追加議定書91条について,賠償を受ける権利を有する者は当事国の国民でもあり得ること,個人にそのような権利を認める傾向が第二次大戦以降は強まっていることを述べ,また,より最近では,国連の会議で,国際人権法及び人道法違反の被害者が救済を受ける権利に関連して,ヘーグ陸戦条約3条は被害者への賠償を国家に要求するものであるとの明確な立場を示していると主張し,(<証拠省略>)には同主張に沿う記載があるが,赤十字国際委員会及びその代表の上記見解が,前記認定を左右するものでもない。
3 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への遡及適用による損害賠償請求権の有無
控訴人らは,現在時点では個人が加害国に対し直接損害賠償を請求できるという国際慣習法が成立しており,本件細菌戦のような被控訴人の非人道的な戦争犯罪行為に対してはさかのぼって上記国際慣習法が適用されると主張する。
しかしながら,現在時点においても個人が加害国に対し直接損害賠償請求できるとの国際慣習法が成立しているとは認めることができないことは,前記2に説示したとおりであるから,控訴人らの上記主張も失当である。
4 中華民国民法に基づく損害賠償請求権の有無
控訴人らは,本件は,加害行為である本件細菌戦が行われた地も,控訴人らに被害が発生した地もいずれも中国であるから,国際私法として法例11条1項に基づき当時の中華民国民法が適用され,同法によって被控訴人に不法行為責任が発生すると主張する。
国際社会においては,複数の国に関係を持つ私法的生活関係が発生することから,各国私法間の抵触を解決するために,国際的私法関係に適用すべき法律を内外の私法の中から選択指定することを目的とする法律が制定されており,これが国際私法といわれており,我が国の法例は,このような国際的私法関係に適用される準拠法を定めた法律である。国際的私法関係は,市民社会における対等な私人間の法律関係であり,法の互換性が高く,法律の所属する国家の利益に直接関係しない領域であることから,国際私法は,その連結点を介して準拠法を定めるものであって,国家利益が直接反映される公法については,準拠法決定という方法自体が妥当せず,外国法の適用はなく,自国法の地域的適用範囲に入るかどうかの問題となると考えられる。
ところで,控訴人らが本件において被控訴人の損害賠償責任を問題にするのは,被控訴人の旧日本軍が昭和15年から昭和17年にかけて第二次世界大戦において行った細菌兵器を使用した戦争犯罪行為によって控訴人らが被った被害についてであって,被控訴人の加害行為は戦争行為そのものであり,また,控訴人らに発生した被害も戦争行為によって発生した被害そのものであり,控訴人らと被控訴人の上記の法律関係は,市民社会における対等な私人間の法律関係とは到底いえず,国家の権力的作用に基づく公法的行為に係る関係であることは明らかであるから,これを国際的私法関係ととらえ,これについての準拠法を定める法例の適用があると解することは到底できない。
控訴人らは,控訴人らの被害が私益であり,その賠償という極めて私法的色彩の強い場面が問題となっており,受けた被害の回復の必要性において対等当事者間の不法行為の場合と変わりはないことを強調するが,損害の発生と賠償責任の負担の問題だけを取り上げて,控訴人らと被控訴人との関係を対等な私人間の法律関係とみることはできず,控訴人らの上記主張は失当である。
なお,仮に法例11条が適用されると考えても,同条2項は,外国において発生した事実が日本の法律によれば不法行為に当たらないときは,同条1項を適用しない旨を定めているから,本件においては,日本法も累積的に適用されることになり,いずれにせよ,本件において日本法によって損害賠償責任を認められるのでなければ,被控訴人が損害賠償責任を負わないことになる。
控訴人らは,この点についても,本件細菌戦が到底容認されない違法行為であることなどから,法例11条2項が適用される余地はない,法例11条2項が適用される場合でも裁判時の法律である国家賠償法が適用されるなどと主張するが採用の限りでない。
5 日本民法に基づく損害賠償請求権の有無
(1) 控訴人らは,被控訴人が民法709条,715条等に基づき損害賠償責任を負うと主張する。
前記のとおり,控訴人らは被控訴人の旧日本軍が昭和15年から昭和17年にかけて第二次世界大戦において行った細菌兵器を使用した戦争犯罪行為について加害行為としての違法性を問うものであり,控訴人らが問題とする被控訴人の行為は,戦争行為そのものであり,被控訴人の公権力の行使として行われたものであるから,国家賠償法(昭和22年〔1947年〕10月27日施行)の適用の有無が検討されるべきところ,同法附則6項は,「この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。」と定めているので,昭和15年から昭和17年までに実行された本件細菌戦について被控訴人が損害賠償責任を負うか否かは,国家賠償法施行前の法令である大日本帝国憲法下の法制度によって判断すべきことになる。
(2) そこで,大日本帝国憲法下の法制度において,公権力の行使により損害を与えた場合の国の損害賠償責任についてどのように取り扱われていたのかを検討する。
ア 大日本帝国憲法(明治22年2月11日公布,明治23年11月29日施行)61条は,「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス」と規定し,違法な公権力の行使による権利侵害に係る訴訟は,一般的に行政裁判所の管轄に属すべきものとし,司法裁判所は受理することができないこととした。そして,行政裁判法(明治23年6月30日公布,同年10月1日施行)16条は「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定し,他方,裁判所構成法(明治23年2月10日公布,同年11月1日施行)2条1項は,「通常裁判所ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラズ」と定めた。
ところで,行政裁判所法の草案であるモッセ案を起草したモッセは,「國ノ民法上損害賠償義務ニ關スル意見」と題する答議において,国が民事上の活動を行う場合には民法に従って責任を負い,民事裁判所に損害賠償請求訴訟を提起することができるが,官吏が国権を執行するに際し,義務違反の処置若しくは怠慢により第三者に加えた損害に対し財産上責任を負わないとする見解を示しており,行政裁判所法は,モッセ案に従い,国は公権力の行使に基づく損害について賠償責任を負わないとの前提で上記のとおり損害賠償請求訴訟を受理しないことを定めたものであった(<証拠省略>)。また,裁判所構成法の立法過程においては,当初,法律取調委員会案(帝国司法裁判所構成法草案)33条では,地方裁判所の事物管轄として,「第一 第一審トシテ(イ)金額若クハ価額ニ拘ラス政府(中央政府ト其配下ノ官庁トヲ問ワス)ヨリ為シ又ハ之ニ対シテ為ス総テノ請求(ロ)金額若クハ価額ニ拘ハラス官吏ニ対シテ為ス総テノ請求但其請求公務ヨリ起リタル時ニ限ル(ハ)其他区裁判所若クハ特別裁判所ニ専属スルモノヲ除キ総テノ請求」とされていたが,当時の法制局長官であった井上毅は,「裁判所構成法案意見」と題する書面において,「官吏ノ公務ニ封シテハ要償スルコトヲ得ス何トナレハ其ノ公務ハ國權ノ一部ニシテ國權ハ民法上ノ責任ナキ者ナレハナリ官吏ニ封スルノ要償ハ其ノ官吏ノ私事トシテ訴フル者ニ限ルヘシ」との意見を述べ,国は公権力の行使に基づく損害について民法上の責任を負わず,司法裁判所に国に対する損害賠償請求訴訟を提起できないとして裁判所構成草案に反対した(<証拠省略>)。その後,裁判所構成法は,国家責任に関する請求を地方裁判所の事物管轄としていた規定部分が削除されて上記のとおり制定されるに至った。
イ 次に,司法裁判所における裁判規範となる民法についてみると,明治20年ころに起草されたボアソナードの民法旧草案393条は,「主人及ヒ棟梁,工業及ヒ運送ノ起作人又ハ其他ノ者,公ケ及ヒ私ノ管理所ハ彼レ等ノ僕婢,職工,傭員又ハ使用人ニ因リ引起サレタル損害ノ責ニ任スヘクアル,彼レ等ニ委託セラレテアル所ノ職務ノ執行ニ於テ又ハ其効果ニ於テ」と定め,次いで,同草案393条は,「主人及ヒ棟梁,工業,運送若クハ其他ノ事業ノ起作人,公私ノ事務所ハ其僕婢,職工,屬員若クハ主管ニ因リ之ニ委託シタル職掌ノ執行中若クハ其際ニ引起サレタル損害ノ責ニ任ス可シ」と定めており,「公の事務所」の損害賠償責任を肯定する規定を設けていた。ボアソナードが上記のような民法草案を定めたのは,国又は公共団体の権力的作用にも民法を適用すべきことはフランスその他の諸国において異論がないところであり,日本においても同様とすべきであると考えていたためであった(<証拠省略>)。これに対し,井上毅は,司法大臣山田顕義らに対し書簡を送り,実際の裁判例は,国権を執行する官吏の処置及び怠慢について,特別に賠償を認める規定がある場合を除き,国の損害賠償責任を認めておらず,ボアソナードの見解は誤りであることを指摘した(<証拠省略>)。そして,審議の結果,ボアソナード民法草案393条の国家責任規定は,明治23年4月21日に公布された旧民法財産編(明治23年法律28号。ただし,この旧民法は施行されないまま廃止された。)373条においては削除され,同条は「主人,親方又ハ工事,運送等ノ営業人若クハ総テノ委託者ハ其雇人,使用人,職工又ハ受任者カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任ス」と規定されるに至った。
井上毅は,旧民法公布の翌年に発表した論文「民法初稿第三百七十三条ニ對スル意見」において,公権力の行使による権利侵害について損害賠償を認めると行政機関の機能に支障が生じるとして,ボアソナード民法草案393条の国家責任を認めた条項を削除し,旧民法373条が,行政権による公権力の行使に起因する損害賠償責任を否定する趣旨で定められた旨を述べている(<証拠省略>)。
ウ 前記のとおり旧民法は施行されず,明治29年4月27日,新たに起草された草案に基づき現行民法(第一編から第三編まで)が公布され,明治31年7月16日から施行された。現行民法にも,旧民法と同様,国の公権力の行使により与えた損害の賠償責任を定めた規定はなく,この点に関する特別法も制定されなかった。
ところで,民法典起草委員として草案の作成に当たった穂積陳重,梅謙次郎及び富井正章は,現行民法について以下のとおりの意見を明らかにしている。穂積陳重は,明治28年10月4日開催の120回法典調査会において,民法715条(草案723条)について,「一ノ明文ガアリマセネバ固ヨリ政府ノ事業ト雖モ私法的關係ニ付キマシテハ本条ハ當ラナケレバナリマセヌカラ他ニ特別法ガナイ場合ニ於テハ本案ハ當ルト御答ヘシナケレバナリマセヌガ併シ本案ガ當ルガ良イカ悪ルイカハ第二ノ問題デアリマスガ此案ヲ立テマストキニモ政府ノ官吏ガ其職務執行ニ付テ過失ガアツタトキニハ其責ニ任ズルヤ否ヤト云ウ箇條ヲ置カウカト思ヒマシタガ併シ之ヲ民法ニ置キマスノハ不適當ノ場所デアルト考ヘマス」,「公益上是ハドウモ官吏ノ職務上ノコトデアルカラ過失ガアツテモソレハ賠償ヲサセヌ方ガ宜イト云ウコトハ是レハ例外デアツテ一ツノ特別法ヲ以テ定ムベキ事柄デアル一般ニ掛ルコトデナイ別シテ是レハ公法ニモ關係ノアルコトデアリマスカラ夫故ニ若シ斯ノ如キコトガアリマスレバ其事柄ハ特別法ノ所ニ規定ニナル方ガ宜イ」と述べ,穂積陳重は,官吏の職務上の不法行為に基づく権利侵害についても賠償すべきであると考えていたが,民法715条はこれについて対象としておらず,特別法をもって定むべき事柄であるとの見解を示した<証拠省略>。梅謙次郎は,明治41年2月20日発行の法學志林に掲載された「法典質疑録」と題する論文において,「官吏ノ職務上ノ不法行為ニ基ク民事上ノ賠償責任」について,「國ニ付テ何等ノ規定ガナイカラト云ッテ,民715ヲ適用スルコトハ出来ヌ,寧ロ國ニハ不法行為ノ責任ナシト論決セネバナラヌ」と述べ<証拠省略>,また,富井政章も東京帝国大学で行った講義の講義録の中で,「此ノ条ニハ或ル事業ノタメニ他人ヲ使用スルトアリ,爰ニ於テ官吏ノ加害行為ニ對スル国家ノ責任モ此ノ条文ニヨリテ規定シ居ルモノナランカ余ハコノ場合ニ適用スベキ規定ニアラスト思フ,民法ハ此ノ問題ノ決定ヲ行政法規ニ譲ル考ナリシカト思ハル,余ハ立法問題トシテハ寧ロ民法不法行為ノ所ニ規定スヘキ事柄ナリト考フ,行政事務ノ執行ニ際シテ生シタル損害ナリト云フ点ヨリ云ヘハ公法干係ナリ,私権ノ損害ニ對スル賠償義務ノ問題ナル故元ヨリ民法ノ問題ナリ,併シソレハ未タ規定セラレ居ラス,現行行政法ハ如何ニナリ居ルカトイウニソレハココニ説明スヘキ事項ニアラサルモ余ノ解スル所ニヨレハ特別ノ明文アル若干ノ場合ヲ除ク外一般原則トシテハ国家ニ賠償ノ義務ナシト云ウ仕組ニナリ居ルト思フ」と述べ<証拠省略>,官吏の職務上の不法行為に基づく権利侵害については民法715条の対象としておらず,国家には賠償の義務がないとの見解を示している。
エ 違法な公権力の行使による損害について国の損害賠償責任を認めた国家賠償法案に関する国会の審議経過において,奥野健一政府委員は,昭和22年7月16日開催された第1回国会衆議院司法委員会において,「今までは公権力行使については國家は絶対に賠償の義務がないということであつたのが,このたびの憲法の改正,並びにこの國家賠償法が施行ということになりますれば,國家に賠償責任があるということになつて,相当こういう事件が現われてくるのではないかという予想は十分もつております。」「民法におきましては私法関係の規定でありまして,本法におきましては國家公共團体の公権力行使による場合の関係で,いわゆる公行政の関係で,私法的関係ではありませんので,やはりこれを民法の中に規定するということはやはりその私的関係,公的関係と立場が違いますので,これを特別法にいたして,ここに國家賠償法案なるものを立案いたしたわけでありまして」「従来國家公権力行使についての不法行為の場合においては,國家は賠償責任がないという理論が判例,学説で大体確立されておりますので,今度憲法の規定によつて國家が賠償責任があるというそういう立法をすべきことを憲法で要請されておりますので,すなわちこの法律によつて初めて國家が賠償の義務あることを明らかにいたしたものと考えております。すなわち民法の直接そのままの適用が,今までの解釈から言つてないということになつておりますので,特にこの特別法といいますか,この法案によつて國家の賠償の義務あることを明らかにいたしたわけであります。」と述べ,従来公権力行使による権利侵害については民法の適用はなく,国の損害賠償責任はないと考えられていたこと,国家賠償法によって初めて公権力行使による損害について国の損害賠償責任を認めたことを明らかにした(<証拠省略>)。
オ 大審院判例は,一貫して公権力行使による権利侵害について民法の不法行為規定の適用がないとして国の損害賠償責任を否定していた(大審院昭和16年2月27日判決・民集20巻2号118頁,大審院昭和18年9月30日判決・大審院判決全集第10輯470頁)。
カ 以上によれば,大日本帝国憲法,行政裁判法及び裁判所構成法の制定経過をみると,国は公権力の行使に基づく権利侵害について損害賠償責任を負わないとの前提で,行政裁判所も司法裁判所も上記の損害賠償請求訴訟について受理せず,あるいは管轄を持たないと定められ,また,実体法である旧民法も,行政権による公権力の行使に起因する国の損害賠償責任を否定する趣旨で定められ(なお,このような法制度は,我が国固有のものではなく,「王は悪をなし得ず(Rex non potest peccare.)」の法諺があるように,かつては一般的なものであったとみられる。),現行民法にも,国の公権力の行使により与えた損害の賠償責任については規定を設けず,この点に関する特別法も制定されず,民法の不法行為規定は公権力行使による権利侵害については適用されないと考えられていたのであり,国家賠償法の制定によって初めて国の公権力の行使による損害について国の賠償責任を認める法律が成立したと認められるのである。
そうすると,国家賠償法施行前においては,国の公権力の行使による損害について国の賠償責任を認める法制度は存在せず,判例上も上記について国の賠償責任は認められていなかったのであり,公権力の行使による損害について国は賠償責任を負わないとの趣旨の国家無答責の法理を採用するという基本的法政策がとられていたということができる。
最高裁昭和25年4月11日第三小法廷判決(裁判集民事3号225頁)は,「公権力の行使に関しては当然には民法の適用のないこと原判決の説明するとおりであつて,旧憲法下においては,一般的に国の賠償責任を認めた法律もなかつたのであるから,本件破壊行為について国が賠償責任を負う理由はない。」「国家賠償施行以前においては,一般的に国に賠償責任を認める法令上の根拠のなかつたことは前述のとおりであつて,大審院も公務員の違法な公権力の行使に関して,常に国に賠償責任のないことを判示して来たのである。」と判示し,上記の事柄を明らかにしている。
なお,控訴人らが援用する棟居快行(<証拠省略>),岡田正則(<証拠省略>)の各見解は採用しない。
(3) 国家無答責の法理に関する控訴人らの主張について判断するに,以下のとおり,控訴人らの主張はいずれも失当である。
ア 控訴人らは,国家無答責の法理は,訴訟法上の救済手続が欠如していることを意味していたにすぎないから,裁判所は,戦前における行政作用に関する損害賠償請求訴訟について現在の手続法の下で審理することができると主張するが,前記(2)に判示したとおり,国家無答責の法理とは,公権力の行使による権利侵害について,国の損害賠償責任を認めた実体法上の規定が存在せず,民法の適用もなく,国は損害賠償責任を負わないということであって,単に訴訟法上の救済手続が欠如していることを意味するものではないから,控訴人らの上記主張は失当である。
イ 控訴人らは,本件細菌戦がいかなる意味でも正当化されない残虐行為であり,「適法な公権力を行使する権限」を欠いた行為であるから,国家無答責の法理を適用する根拠はないと主張する。しかしながら,本件細菌戦がジュネーブ・ガス議定書に違反する国際法違反の行為であり,中国国民に対する残虐な行為であったと評価できるとしても,旧日本軍の戦争行為の一環として行われたものであることは明らかであり,公権力の行使により損害を与えた場合に当たり,国が損害賠償責任を負う理由は認められないから,本件細菌戦による被害の賠償には,国家無答責の法理が適用されないとの控訴人らの主張は失当である。
ウ 控訴人らは,本件細菌戦を実施した主体は,関東軍防疫給水部(通称731部隊)であり,本件細菌戦の基本的性質は,兵器製造のための開発,実験行為であったから,非権力的な公法上の行為(事業活動)として位置付けられ,「統治権ニ基ク権力行動」とは本質的に異なる行為であるから,国家無答責の法理は適用されない,あるいは,被控訴人は,731部隊という危険な施設を有していたことにより民法717条1項に基づき損害賠償責任を負うと主張する。
しかしながら,本件細菌戦は,旧日本軍が戦争行為として行ったものであり,その行為は公権力の行使(国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的行為)そのものであり,非権力的な事業活動として位置付けられないことはいうまでもないし,731部隊を土地の工作物と同視することも到底できないから,控訴人らの上記主張は失当である。
エ 控訴人らは,国家無答責の法理は,外国での外国人に対する権力作用には適用されないと主張する。
前記4に判示したとおり,本件には法例11条の適用はなく,日本民法に従って,本件細菌戦について被控訴人が損害賠償責任を負うか否かを検討すべきところ,国家無答責の法理が確立していた国家賠償法施行前において,公権力の行使により損害を被った者が外国人である場合にはその者に損害賠償請求権を付与していたとの法律の規定,判例等は何ら認められないのであり,国家無答責の法理の根拠を行政権の円滑な運用に求めていたことからしても,日本人も外国人も等しく国家無答責の法理の適用を受けるべきものと考えられるから,控訴人らの上記主張は失当である。
オ 控訴人らは,ヘーグ陸戦条約及びジュネーブ・ガス議定書が国内法化している法制下にあっては,国家無答責の法理はそもそもこれを主張し得ないと主張する。控訴人らの主張は趣旨不明であるが,我が国がヘーグ陸戦条約を批准し,ジュネーブ・ガス議定書に署名していたとしても,それによって国家賠償法施行前において,国家無答責の法理に変更が加えられたとは到底認められないから,控訴人らの主張は失当である。
カ 控訴人らは,本件細菌戦についての被控訴人の損害賠償責任については,日本国憲法下の現時点の法解釈に従って判断されるべきであると主張するが,国家賠償法附則6項の趣旨に沿わない主張であり失当である。
キ 控訴人らは,本件細菌戦は前例のない残虐な非人道的行為であることから,「正義公平の原則」に基づき,現在の日本国憲法の価値原理に従って国家無答責の法理を排除して結論を導く必要があると主張する。しかしながら,国家賠償法附則6項は明文をもって,「この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。」と定めているのであり,前例のない残虐な非人道的行為であるという理由,あるいは正義公平の原則だけからして,国家賠償法附則の明文に反して現在の日本国憲法の価値原理に従って結論を導くということはできない。
(4) 以上の検討によれば,控訴人らは,被控訴人に対し,本件細菌戦について,民法709条,715条等に基づき損害賠償を請求するが,民法709条,715条等は公権力の行使による損害について規定するものではなく,国家賠償法制定前の公権力の行使による損害については,国の損害賠償責任を認める法律上の根拠がなく,国家無答責の法理が採用されていたから,控訴人らの上記請求は失当といわざるを得ない。
したがって,日本民法に基づく控訴人らの請求も,その他の点を検討するまでもなく理由がない。
6 条理に基づく損害賠償請求について
控訴人らは,被控訴人に対し条埋に基づいて損害賠償請求権を有していると主張する。当裁判所も控訴人らの条理に基づく請求は理由がないと判断するが,その理由は,原判決25頁末行から28頁9行目に記載のとおりであるからこれを引用する。
7 被控訴人の立法不作為による損害賠償請求権の有無
(1) 控訴人らは,予備的に,被控訴人の国家賠償法1条1項に基づく責任を主張し,まず,被控訴人の国会が控訴人ら細菌戦被害者に対する救済措置立法を怠ってきたことは違法な立法不作為に当たるから損害賠償責任を負うと主張するので検討する。
(2) 日本国憲法が採用する議会制民主主義の下での国会議員の立法過程における行動は,国会議員各自の政治的判断に任され,その当否は最終的に国民の自由な言論や選挙による政治的評価に委ねられるのが相当であるから,国会議員は,立法に関しては,原則として,国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり,個別の国民その他の者の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきである。したがって,国会議員の立法行為(立法をする行為又は立法をしなし行為)は,その内容が憲法の一義的な文言に反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行い又は立法をせず放置したというように,容易に想定し難いような例外的な場合でない限り,国家賠償法1条1項の規定の適用上違法と評価されることはないといわなければならない(最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁参照)。
(3) 控訴人らは,憲法前文,憲法9条,13条,14条,17条,29条1項,3項を挙げ,日本国憲法は,国会に対し,違法な戦争行為によって被害を受けた個人への損害賠償又は補償を行う立法をすべき義務を課していると主張する。しかしながら,第二次世界大戦によって生じた戦争犠牲ないし戦争損害に属するものに対する補償は,憲法の全く予想しないところであり,このような戦争犠牲ないし戦争損害に対しては,単に政策的見地からの配慮をするかどうかが考えられるにすぎない(最高裁昭和43年11月27日大法廷判決・民集22巻12号2808頁参照)から,憲法前文,憲法9条,13条,14条,17条,29条1項,3項が,国会に対し,違法な戦争行為によって被害を受けた個人への損害賠償又は補償を行う立法をすべき義務を課していると到底いうことはできない。
また,控訴人らは,被控訴人は本件細菌戦によって悲惨な法益侵害をもたらしたのであるから,被害者に対し被害の増大をもたらさないよう配慮,保障すべき条理上の作為義務が課せられている,我が国や諸外国における戦後補償立法に関する国内及び国際的潮流からすれば,違法な戦争行為の被害に対し賠償,補償をすることが国際慣習法として確立しているから,憲法98条2項の公務員の国際慣習法の遵守義務からして,国会には本件に係る救済措置立法をすべき義務が課せられているなどと主張する。
しかし,前記6で説示したとおり,現在の実定法体系の中に控訴人らがいうような条理が存在していると認めることができないし,前記2に説示したところに照らすと,控訴人らが主張するような国際慣習法が確立しているとはいえず,したがって,これらのことから国会に本件に係る賠償ないし補償措置立法をすべき義務が課せられているということはできず,本件細菌戦による戦争損害に対して個人の損害賠償又は補償を行う立法をするかどうかは,政治的ないし外交的判断や政策的見地からの配慮に基づく国会の広範な裁量に委ねられているものというべきである。
(4) そうすると,本件細菌戦の被害について個人の損害賠償又は補償を行う立法をするかどうかは,その内容が憲法の一義的な文言に反しているにもかかわらず国会があえて当該立法をせず放置したというような例外的な場合に当たらないことは明白であるから,被控訴人は,立法不作為に関して,国家賠償法1条1項の違法があるとは認められない。
なお,控訴人らは,①人権侵害の重大性と,②その救済の高度の必要性が認められる場合であって,しかも,③国会が立法の必要性を十分認識し,立法可能であったにもかかわらず,④一定の合理的期間を経過してもなおこれを放置したなどの要件がある場合にも,立法不作為による国家賠償請求を認めるべきであるとの基準に基づいて立法不作為の違法をいうが,これは控訴人ら独自の見解であり採用することはできない。
(5) 以上のとおり,国会に本件細菌戦被害者に係る救済措置立法をしなかった不作為の違法があるとはいえないから,立法不作為に基づく控訴人らの請求は理由がない。
8 被控訴人の行政不作為による損害賠償請求権の有無
控訴人らは,被控訴人の内閣が本件細菌戦の事実調査や控訴人ら細菌戦被害者に対する救済措置等を怠ってきたことが,控訴人らに対する不作為による不法行為に当たり,被控訴人は,国家賠償法1条1項に基づき損害賠償責任を負うと主張する。
しかしながら,前記7に説示したとおり,本件細菌戦による戦争損害に対して被害者に対する救済措置を行うかどうかは,政治的ないし外交的判断や政策的見地からの配慮に基づく内閣の広範な裁量に委ねられているものというべきであるから,これを行わなかった被控訴人内閣の不作為を違法ということはできない。また,本件細菌戦の事実調査を行わなかった点についてもこれを違法とする根拠を見出すことができない。
よって,被控訴人の内閣に本件細菌戦被害者に係る救済措置等をとらなかった不作為の違法があるとはいえず,これに基づく控訴人らの請求は理由がない。
9 被控訴人の細菌戦隠蔽行為による損害賠償請求権の有無
当裁判所も,被控訴人が本件細菌戦について隠蔽行為をしたことが国家賠償法1条1項の違法行為に当たるとの控訴人らの主張は失当であると判断するが,その理由は,原判決43頁6行目から44頁21行目に記載のとおりであるからこれを引用する。
10 結論
以上によれば,本件細菌戦に関する被控訴人の責任原因についての控訴人ら主張はいずれも失当であるから,控訴人らが本件細菌戦によりペストやコレラにり患したが死亡を免れた者であり,あるいは,親族らが本件細菌戦によりペストやコレラにり患し死亡した者であることや被控訴人が主張する日華平和条約及び日中共同声明による戦争賠償の請求権の放棄,民法724条後段に基づく除斥期間の経過等の論点について判断するまでもなく,控訴人らの本件請求は主位的請求及び予備的請求のいずれも理由がないから,本件控訴を棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判官 太田幸夫 前田順司 鯉沼聡)
<以下省略>