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東京高等裁判所 平成15年(ネ)1152号 判決 2003年6月11日

控訴人(被告)

東日本旅客鉄道株式会社

代表者代表取締役

大塚陸毅

代理人支配人

大川博士

訴訟代理人弁護士

西迪雄

向井千杉

富田美栄子

石井崇

被控訴人(原告)

A野太郎

訴訟代理人弁護士

池田直樹

主文

一  本件控訴に基づき、原判決主文第一項及び第二項を次のとおり変更する。

(1)  控訴人は、被控訴人に対し、金六万円及びこれに対する平成一三年六月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2)  被控訴人のその余の請求を棄却する。

二  その余の本件控訴を棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審を通じこれを二〇分し、その一を控訴人の、その余を被控訴人の各負担とする。

事実及び理由

第一控訴の趣旨

一  原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

第二原判決(主文)の表示

一  控訴人は、被控訴人に対し、金一六万円及びこれに対する平成一三年六月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被控訴人のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を被控訴人の負担とし、その余を控訴人の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

第三事案の概要

一  本件は、重度の身体障害を有する被控訴人が、平成一三年四月二八日、単身(介助者なし)で、手押し型の車いすに乗り、電車に乗って移動中、控訴人が管理・運営するJR新宿駅(新宿駅)構内において、控訴人の駅員の介助を受けたところ、同駅員が新宿駅中央線九番線ホームで被控訴人が乗った車いすをブレーキを掛けないで一時放置したと主張し、その放置のため、車いすが線路方向に向かって動き出し、それにより被控訴人が死に直面するような極度の恐怖を味わさせられたと主張するとともに、また、同駅員が新宿駅中央東口改札外で被控訴人が乗った車いすをブレーキを掛けないで放置したと主張し、その放置のため、車いすが動き出し、それにより被控訴人が強い不安を感じさせられる精神的苦痛を被ったと主張して、控訴人に対し、旅客運送契約上の安全配慮義務違反又は不法行為(使用者責任)に基づく損害賠償として、慰謝料合計一〇〇万円及び弁護士費用一〇万円の合計金一一〇万円並びにこれに対する上記放置後の同月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  前提事実(証拠を掲げた以外の事実は、当事者間に争いがない。)

(1)  被控訴人は、昭和四〇年八月生まれの男性であり、大阪府知事から、障害名「脳性麻痺による緊張性アテトーゼ」、身体障害者福祉法別表四(次に掲げる肢体不自由)の六(一から五までに掲げるもののほか、その程度が一から五までに掲げる障害の程度以上であると認められる障害)に該当、身体障害者等級表による級別「壱級」とする身体障害者手帳の交付を受けた者である。

なお、アテトーゼとは、ある姿勢を維持しようとしたり、運動を行おうとする時に現われる不随意運動をいい、一般に不規則なゆっくりとした動きであって、精神的に緊張したり、疲労した時などに増悪する症候群である。

(2)  控訴人は、旅客鉄道事業等を営むことを目的とする株式会社であり、我が国における公共交通網の基幹を担う会社の一つである。

(3)  被控訴人は、平成一三年四月二八日、単身(介助者なし)で、車いすに乗り、東海旅客鉄道株式会社の新幹線及び控訴人の電車(中央線)に乗車して移動していたが、同日午後一時ころ、新宿駅構内において、中央線下り電車から降りて中央東口改札外へ移動するに当たり、控訴人の駅員であるB山春夫(B山)の介助を受けた。

(4)  B山は、中央線九番線ホーム上及び中央東口改札外において、被控訴人の乗った車いすの傍らから一時離れたが、その離れる際に、いずれの場合にも、車いすのブレーキを掛けなかった。

三  本件の主たる争点は、①B山が被控訴人の乗った車いすのブレーキを掛けるのを怠ったことが、旅客運送契約上の安全配慮義務違反又は不法行為に当たるか否か、②新宿駅中央線九番線ホームにおいて、B山が被控訴人の乗った車いすの傍らを離れた際その車いすを置いた場所はどこか、ブレーキが掛かっていなかったため、車いすがその位置から移動したか否か、③同様に、新宿駅中央東口改札外において、B山が車いすの傍らから離れた際その車いすを置いた場所はどこか、ブレーキが掛かっていなかったため、車いすがその位置から移動したか否か、④被控訴人に慰謝料をもって賠償すべき精神的損害が発生したか否かである。

四  原判決は、控訴人は、乗客(被控訴人)との間で介助業務を含む旅客運送契約を締結したものであり、車いす利用者対応の専門職員を配置した新宿駅においては、乗客に対する安全配慮義務の一つとして、必要な介助を行うことを契約上の債務として自ら負担したものである旨認定し、旅客運送契約の履行補助者であるB山が中央線九番線ホームにおいても、また、中央東口改札外においても、被控訴人の乗った車いすのブレーキを掛けたりすることを一切怠っている点において、債務不履行(安全配慮義務違反)がある旨判断し、新宿駅中央線九番線ホーム及び中央東口改札外のいずれにおいても、B山が被控訴人の乗った車いすを置いた位置から中央線九番線ホームでは数センチメートルないし一〇センチメートル、中央東口改札外では若干程度動いた旨認定判断し、これにより被控訴人は、中央線九番線ホームにおいては車いすが動き続けて線路に落下し、場合によっては電車に轢かれるかも知れないという強い恐怖を感じたものと認め、また、中央東口改札外においては一瞬の恐怖と不安を感じたものと推認し、このように二回にわたり車いすが動いたことにより被控訴人が受けた恐怖、不安等の精神的苦痛を慰謝するには、中央線九番線ホームの場合が五万円、中央東口改札外の場合が一万円が相当と認めるとともに、弁護士費用の損害として一〇万円を認め、被控訴人の本件請求につき、以上の損害合計一六万円及びこれに対する年五分の遅延損害金の限度で認容し、その余を棄却したので、控訴人が控訴をした。

五  上記一ないし三以外の本件事案の概要は、下記六のとおり控訴人の当審における主張を付加するほか、原判決の「事実及び理由」欄第二の四に記載するとおり(原判決四頁九行目から一三頁一八行目まで)であるから、これを引用する。

六  控訴人の当審における主張

(1)  本件における安全配慮義務違反の不存在について

ア 控訴人としても、一定の具体的状況の下において鉄道事業者が旅客に対して安全配慮義務を負担すること自体を否定するものではないが、鉄道事業者が旅客に対して負担すべき安全配慮義務は、鉄道交通機関が、多様な旅客を大量に運送するに当たり、旅客の生命、身体の安全を侵害する危険性を内包していることに由来するものである以上、その内容は、旅客の生命、身体等に関して、鉄道交通機関に由来する危険から保護するよう配慮する義務と解さざるを得ない。このような安全配慮義務は、判例(最判昭和五〇年二月二五日・民集二九巻二号一四三頁等)や学説においても、生命、身体、財産に対する危険から保護するよう配慮する義務と理解されているのである。

それゆえ、本件担当駅員であるB山において、車いすに乗車した被控訴人の傍らから離れる際に、車いすのブレーキを掛けなかったことが被控訴人に対する安全配慮義務違反を構成するか否かは、ブレーキを掛けなかったことにより被控訴人の生命、身体等の安全に対する現実的危険を惹起させたか否かによって判断されるべきである。仮に、被控訴人が、乗車した車いすのブレーキを掛けられなかったことによって、何らかの抽象的危惧感や不安感を抱くことがあったとしても、B山による安全配慮義務違反の問題とは関係がないというべきである。

したがって、本件においても、B山が新宿駅中央線九番線ホーム上及び中央東口改札外で被控訴人の乗車した車いすを停止させた具体的状況を確定した上で、当該状況下において被控訴人の生命、身体等にいかなる現実的危険が惹起されたかを吟味することが不可欠である。

イ 中央線九番線ホーム上における被控訴人の車いすの停止位置

九番線ホーム上における被控訴人の車いすの停止位置に関し、C川は、原審における証人尋問において、原判決別紙図面一の△印地点である旨証言し、その証言内容は、合理的であって、不自然なところはない。

したがって、九番線ホーム上における被控訴人の車いすの停止位置は、原判決別紙図面一の△印地点と認定されるべきである。

ウ 九番線ホーム上において被控訴人の車いすが動かなかったこと。

上記停止位置は、ほとんど傾斜がない平坦な場所である上、被控訴人の乗車によって荷重が加えられた車いすには相当の摩擦が生じるから、これが容易に動き出すことはない。しかも、上記△印地点は、線路側に向かって傾斜していないから、被控訴人の車いすが線路側に向かって自然に動き出すということは物理法則上あり得ない。加えて、被控訴人は、エスカレーターの逆転作業の終了後、B山に対して、直接抗議しなかったことをも考え合わせれば、九番線ホーム上において被控訴人の車いすが動いたなどと認められる余地はない。

エ 九番線ホーム上において被控訴人の生命、身体等に対して現実的危険が発生しなかったこと。

上記のとおりの被控訴人の車いすの停止位置、停止場所の状況のほか、被控訴人の車いすの停止地点からホーム端までは約三メートルの距離があるから、被控訴人の車いすが、そのような平坦なホーム上をホーム端まで移動し、更にそこから線路に落下する恐れは絶無である上、現に被控訴人の車いすが動き出したという事実もなかったのであるから、たとえ車いすのブレーキが掛けられていない状態にあっても、何ら被控訴人の生命、身体に対して現実的危険が発生する余地はなかった。

オ 中央東口改札外における被控訴人の車いすの停止位置及び被控訴人の生命、身体等に対する現実的危険の不発生

中央東口改札外における被控訴人の車いすの停止位置は、原判決別紙図面二の△印地点であるが、当該停止位置の状況等に照らし、被控訴人の車いすが自然に動き出すということは物理法則上あり得ず、現に被控訴人の車いすが動き出したという事実もなかったのであるから、たとえ車いすのブレーキが掛けられていない状態にあったとしても、何ら被控訴人の生命、身体に対して現実的危険が発生することはなかったのである。

仮に、被控訴人の車いすが若干程度動いたとしても、中央東口改札外は、何ら被控訴人の生命、身体に現実的危険が発生するような状況になく、これを認める証拠もないから、いずれにしても、被控訴人の生命、身体に対して現実的危険が発生する余地はない。

カ 被控訴人において自ら車いすのブレーキを操作することが可能であったこと。

被控訴人が東京駅から新宿駅まで中央線快速電車で移動する場合には、列車進行に伴う振動に対処するため、列車内において車いすにブレーキを掛けておくことは不可欠であり、被控訴人も、東京駅から新宿駅まで利用した中央線快速電車内において車いすのブレーキが掛かっていたことを自認するところであるが、B山が新宿駅において被控訴人の車いすを中央線快速電車から降車させた際には、ブレーキが解除されており、しかもその際B山はブレーキに触れることがなかったのであるから、被控訴人が自ら車いすのブレーキを解除したことは明らかである。

また、被控訴人が当時使用していた車いすの状況を見ると、ブレーキは手の届く範囲内にあり、被控訴人が車いすのブレーキを操作し得たことは否定できない。

キ 以上要するに、B山が被控訴人の車いすのブレーキを掛けなかったとしても、被控訴人自らブレーキを掛ければ足りるから、B山の措置に特段不当な点は存しないし、そもそも被控訴人の生命、身体に対し現実的な危険の発生がなかった以上、控訴人が被控訴人に対して安全配慮義務を負担する前提を欠くから、控訴人には安全配慮義務違反を問擬される余地はない。

(2)  被控訴人に特段の損害が発生しなかったことについて

前記(1)ウ及びオのとおり、中央線九番線ホーム上及び中央東口改札外において停止中の被控訴人の車いすが自然と動き出したことはなかったのであるが、仮に被控訴人の車いすが若干動いたことがあったとしても、これにより被控訴人が何らかの危惧感、恐怖又は不安の念等を抱いたとしても、そのような精神的緊張は、特に慰謝料請求の対象となり得るものではない。

七  証拠関係《省略》

第四当裁判所の判断

一  争いのない事実、《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。ただし、甲六及び甲七並びに原審における被控訴人本人尋問の結果中の下記の認定に反する供述部分並びに乙三及び原審証人B山の証言中の下記の認定に反する供述部分は、いずれも、客観的な裏付けを欠くなど不自然であり、採用することができない。

(1)  被控訴人は、生後まもなく罹患した病気の後遺症により全身が麻痺しており、自ら歩行することができないのみならず、車いすの利用においても、上体を支えて車いすに座ることも、電動式車いすのコントローラの操作をすることも困難な状態にあり、本件当時は、手押しの車いすを使用するようになっていた。その車いすは、通常の手押しのものと異なり、後輪が小さく、しかも、脇の下ではなく後方に付いている形態のものであり、自分の手で後輪を回すことのできないタイプであった。そのブレーキは、後輪前部にあるレバーを後方に倒すと掛かり、前方に倒すと解除されるという装置であるが、被控訴人は、上半身及び手が不自由であるため、この車いすのブレーキ操作を自ら行うことはできなかった。しかし、被控訴人は、この車いすのブレーキが掛かっているかどうか、車いすに乗ったまま視認することができる。

(2)  被控訴人は、脳性麻痺による緊張性アテトーゼの障害のため、頻繁に腕、上体、首等が不随意に揺れ動き、自らは、このような身体の動きを静止することができない。特に、緊張すると、この動きが激しくなる傾向があり、体調によっては、上体が前後に揺れることもあり、被控訴人は、胸部付近を車いすのシートベルトで固定し、ヘッドレストも使用している。被控訴人は、発声・発語も極めて不自由であり、言葉を途切れ途切れに発するのにも努力と緊張が必要である。

(3)  B山は、本件当時、新宿駅では、主として車いす利用者の対応を主な職務としていた者であり、本件当日(平成一三年四月二八日)は、いわゆるゴールデンウィークの初日であったため、人出が多く、B山も通常の日以上に繁忙であった。

本件当時、控訴人の新宿駅における駅員向けマニュアルでは、車いすを利用している乗客から離れるときは、車いすのブレーキを掛けなければならない旨記載されていた。しかし、B山は、常にその必要があるとは考えておらず、車いすの乗客に介助者が同行しておらず、かつ、手押し型の車いすである場合には、その乗客が自ら車いすのブレーキを掛けることができるものと思っており、その車いすの乗客から特に申出がある場合を除いては、その傍らを離れるときにも、その車いすのブレーキを掛ける必要はないと判断していた。

(4)  被控訴人は、本件当日、新大阪駅で所定の運賃を支払った上、同駅から東海道新幹線に乗って東京駅に至り、東京駅から中央線に乗って新宿駅に到着したが、被控訴人は、新大阪駅で乗車する際に、駅員に対し、この経路及び介助者の同行がないことを伝えた。同駅員は、これに応じて、被控訴人に対する対応を開始し、この駅員を含む各駅の駅員は、それぞれ、被控訴人の乗車、降車につき必要な介助を行うとともに、その乗車後速やかに被控訴人の行き先の駅に被控訴人がどの電車のどの車両のどの乗降車口近くに乗っているか等の情報を連絡した。

(5)  B山は、本件当日午後〇時四五分ころ、内勤の駅員から、無線で、新宿駅一二時五二分着中央線下り電車の三号車から手動の車いす、介助者なしの乗客が下車するので対応するようにとの連絡を受け、中央線下り電車が到着する一〇番線ホーム(反対側が九番線ホーム)に行き、三号車の停止予定位置で待機していた。被控訴人の乗った電車が到着し、B山は、同車の乗降口のうちホーム側と反対側の乗降口近くでホーム側の乗降口に背を向けて車いすに座っていた被控訴人を認め、被控訴人の車いすを後方に下がるように引いて被控訴人を車内から一〇番線ホーム上へと降車させた。

降車させたB山は、被控訴人に行き先を尋ね、被控訴人の言葉を聴き取るのに苦労し、被控訴人に言語障害があると感じた上、被控訴人の行き先が中央東口改札外であることを確認した。しかし、B山は、被控訴人のその他の身体障害について特に関心を払わず、被控訴人が自分で車いすのブレーキを操作できないことには気が付かなかった。

(6)  中央線一〇番線ホームから中央東口改札への順路は、ホームの下の地下中央通路へ降りて同通路を経ることになるので、B山は、エスカレーターに乗ってホームの下に降りるため、エスカレーター乗り口の方へ被控訴人の車いすを押して行った。ところが、エスカレーターは、上昇運転中であったので、下降運転に切り換えるため、B山は、被控訴人を車いすごとエスカレーター乗り口近くで待たせて自分自身はエスカレーター運転切換え操作装置のある地下中央通路へ向かうことにした。B山は、九番線ホーム側に被控訴人の車いすを押して進み、原判決別紙図面一の×印点から△印点までの間あたり(このあたりは、概ね平坦で、線路に向けての勾配は特に目立つほどではなかった。)で、被控訴人の車いすを置き(線路とほぼ並行となる位置関係であった。)、車いすにブレーキを掛けないまま、被控訴人の車いすの傍らから離れた。B山は、階段を降りて地下中央通路へ行き、エスカレーター運転切換えの操作をし、同じ階段を上って被控訴人の車いすの傍らに戻った。B山が被控訴人の車いすの傍らに戻るまでの時間は、約二分ないし四分の間であったが、B山が被控訴人の車いすの傍らを離れた後ほどなく、被控訴人の身体に不規則に緊張が走り、腕が揺れ動き、車いすが揺れ、車いすは、数センチメートルないし一〇センチメートル程度線路の方向に動いた。

被控訴人の車いすが置かれた地点の前方にあった上屋支柱から九番線ホーム端までは約二メートルの空間が存在したが、被控訴人の車いすの右アームレストから九番線の線路までは二メートルを相当下回る狭い間隔しか存在せず、車いすを全く操作することができない被控訴人は、その車いすが上記のように線路の方向に動いたことにより、車いすごと線路に落ちるのではないかと一瞬怖い思いをした。

(7)  B山は、被控訴人の車いすの傍らに戻り、下降運転に切り換わったエスカレーターを利用して被控訴人を車いすごとホーム下の地下中央通路に降ろし、地下中央通路を通って中央東口改札に向かった。車いすを押してその改札口を出た上、B山は、被控訴人の車いすを、原判決別紙図面二の×印点又は△印点付近(この付近は、目立った段差や床面のとり立てての勾配もなく、概ね平坦なところである。)に置き、被控訴人の依頼していた介助者に被控訴人を引き継がないまま、被控訴人と言葉をほとんど交わさないでその傍らを離れた。このように離れる際にも、B山は、被控訴人の車いすにブレーキを掛けることをしなかった。

被控訴人を誰も介助しない状態となり、被控訴人の車いすは、九番線ホーム上の場合と同様にその場に静止し続けないで動いたが、その動きは若干程度の距離にとどまり、これにより被控訴人が恐怖にかられたり、身体の痛みを感じたりして精神的苦痛を被るまでには至らなかった。

(8)  被控訴人は、間もなく同所に来た介助者と出会ったが、その介助者と共に新宿駅駅長室に赴き、同駅助役に対し、B山が車いすのブレーキを掛けずに車いすの傍らから離れたため、車いすが動き、大変怖い目に遭ったなどと伝え、駅員の介助方法につき強く抗議をした。

二(1)  上記一の認定に対し、まず、被控訴人は、①九番線ホーム上で動いた車いすは、線路側の点字ブロックに車輪が引っかかって止まった、②中央東口改札外で動いた車いすは、三メートル進みコンクリート柱にぶつかって止まったなどと主張し、被控訴人の供述中には、これらに沿う部分があるが、被控訴人は、原審における本人尋問において九番線ホーム上で動いた距離について五センチないし一〇センチメートルぐらいと記憶していると供述していることや乙一によれば九番線ホームの前記上屋支柱から点字ブロックまでの距離が直線距離をとっても九五センチメートル離れていることなどに徴すると、上記の①についての被控訴人の供述部分はそのまま信用することができないし、また、中央東口改札外の前記の△印点ないし×印点付近は概ね平坦な床面であって、被控訴人の車いすが三メートルも自動的に移動進行するような物理的・空間的な原因が見当たらないこと、三メートルも進んでコンクリート柱にぶつかったとすれば、その衝撃の大きさや衝突した箇所などについて相当の詳しい記憶が残るはずであるのに、被控訴人は、これらについてほとんど供述していないのみならず、直後に出会った介助者に対し、この衝突箇所の確認を求めたりした形跡が全くうかがわれないことなどに照らすと、上記②についての被控訴人の供述部分も直ちに信用することができない。

(2)  他方、上記一の認定に対し、控訴人は、ア.B山は、九番線ホームでは、被控訴人の車いすを原判決別紙図面一の△印地点に置いたのであり、かつ、車いすは、この地点から動いていない、イ.B山は、中央東口改札外では、被控訴人の車いすを原判決別紙図面二の△印地点に置いたのであり、かつ、この車いすは、この地点から動いていない、ウ.被控訴人は、自ら車いすのブレーキを操作することが可能であったのであり、仮に車いすが九番線ホーム上又は中央東口改札外で多少動いたとしても、被控訴人に特段の損害(精神的苦痛)が生じなかったなどと主張し、B山の供述中には、これらの主張に沿う部分があるが、B山のこれらの供述部分(B山が九番線に到着した中央線下り電車三号車の車内から介助者なしの被控訴人の車いすを後方に下がるように引こうとした際車いすにブレーキが掛かっていなかった旨の供述部分を含む。)は、多分に日頃の一般的な対応の仕方に基づいて述べているところが多く、必ずしも、当時の記憶が鮮明に残っているところを述べたものとまでの心証に至らないのであって、直ちにそのすべてを信用することができず、そうしてみると、控訴人の上記の主張は、採用することができない。

(3)  そして、他に上記一の認定を覆すに足りる証拠は、見当たらない。

三  そこで、上記一の認定事実に基づいて検討すると、控訴人は、本件当日、新大阪駅で所定の運賃を支払った被控訴人から、東海道新幹線で東京駅まで乗車し、同駅で中央線に乗って新宿駅まで行くこと、介助者の同行がないことの申出を受け、新大阪駅の駅員及び東京駅の駅員更にはB山を含む新宿駅の駅員がその申出に応じて被控訴人が用意した介助者と被控訴人が会う新宿駅の場所に到るまで被控訴人に対し所要の介助などの対応をすることにしたのであるから、控訴人は、被控訴人との間で、旅客運送契約を締結し、被控訴人が鉄道施設等を利用する間、その生命、身体等の安全を確保すべき契約上の義務を負ったものといわなければならないところ、控訴人の履行補助者であるB山は、新宿駅九番線ホーム上から地下中央通路へ被控訴人の乗った車いすを移動させるに当たり、同ホーム上と地下中央通路との間を昇降するエスカレーターを利用するために本件当時上昇運転中であった当該エスカレーターを下降運転に切換え操作をする必要を認めたので、被控訴人の乗った車いすを九番線ホームのエスカレーター乗り口付近に置いてB山自らが階段を降りて地下中央通路に赴きその切換え操作を行おうとしたのであるが、B山において被控訴人との会話を通じて被控訴人に言語障害があることを感じ、また、被控訴人がその胸部付近をシートベルトで固定してようやく上体を支えていたのであるから、被控訴人の様子をよく観察し、丁寧に話を聞けば、被控訴人が静止していることができず、その腕、上体、首等が不随意・不規則に揺れ動く障害に苦しみ、しかも、被控訴人がその障害ゆえに車いすのブレーキを自ら操作することができない不自由な身であり、その車いすにブレーキを掛けないで放置すると、その車いすが被控訴人の身動きが原因となって動き出すおそれがあることを知り得たのであり、それのみならず、九番線ホームの原判決別紙図面一の△印点と×印点との間あたりは、概ね平坦であるが九番線の線路までは二メートルを相当下回る狭い間隔しか存在せず、その当時九番線には電車の入線が予定されていなかったとはいえ、一〇番線へ到着する電車の乗降客が、あるいはエスカレーターで昇ってきて九番線ホーム側を通って一〇番線ホーム側に回ろうとし、あるいは一〇番線ホームに降りた後に九番線ホーム側を通って階段降り口へ回ろうとして、少なからぬ人数が上記の△印点ないし×印点の付近を通過する事態が予想されるとともに、ときにはこれらの乗降客の身体ないし手荷物等が被控訴人の車いすに接触衝突して被控訴人の車いすを線路の方向に押し出す危険を生ぜしめるおそれがあることを認識し得たのであるから、B山としては、これらのように被控訴人の車いすが動き出し、あるいは押し出される危険を生ぜしめないように少なくともその車いすのブレーキを掛けてその車いすの傍らを離れるべき注意義務があったものといわなければならない。

そして、このような義務があるにもかかわらず、B山は、被控訴人の障害の内容・程度に何ら関心を払わず、上記の△印点ないし×印点付近における他の乗客の通過等も全く予想せず、漫然と被控訴人の車いすを上記△印点と×印点との間あたりに置き、被控訴人が自分でブレーキを掛けることができるものと速断し、そのブレーキを掛けないで、車いすの傍らを離れ、被控訴人を約二分ないし四分の間介助者なしの状態に放置したものであり、その結果、ほどなく被控訴人の身体に走った不規則な緊張によりその腕が揺れ動き、車いすが揺れ、車いすが数センチメートルないし一〇センチメートル程度線路の方向に動き、これがために被控訴人が車いすごと線路に落ちるのではないかとの怖い思いを余儀なくさせる精神的苦痛を負わせたものであると認められ、これらの認定によれば、控訴人は、前記の旅客運送契約に基づく被控訴人に対する安全配慮義務の履行を怠ったものと認めるのが相当であり、ないしは、その被用者であるB山の同義務違反の過失による不法行為につき使用者としての責任を負うものと認めるのが相当である。

四  これに対し、被控訴人は、中央東口改札外でB山が被控訴人の用意した介助者に引き継ぐことなく、ブレーキを掛けずに被控訴人の車いすを放置した点においても旅客運送契約上の安全配慮義務違反があると主張する。

しかしながら、中央東口改札外の原判決別紙図面二の×印点又は△印点付近は、前記認定のとおり、概ね平坦であり、また、その周囲に旅客の生命、身体に危険を生ぜしめるべき施設ないし物の設置を認めるべき証拠もなく、かつ、改札口を出入りする旅客が多いものの相当の広がりのあるスペースであって被控訴人の車いすに他の旅客の身体ないし手荷物等が接触衝突するおそれが現実的に存在したことを認めるべき証拠もない上、被控訴人の車いすが若干動いたと認められるが、被控訴人にこれによる精神的苦痛を被らせるまでに至らず、間もなく、被控訴人が同所に来た介助者と出会うことができたものであって、結局、被控訴人の生命、身体の安全に現実的な危険が生じたことを認めるには至らないから、被控訴人の上記の主張は、採用することができない。

五  上記三で認定した控訴人の債務不履行ないし不法行為により被控訴人に生じた上記認定の精神的苦痛に対する慰謝料の額は、被控訴人の車いすが動いた距離、時間、B山がその傍らを離れた動機その他関連する諸事情一切を勘案すると、三万円と認めるのが相当である。

次に、弁護士費用についてみると、本件事案の内容、訴訟の経緯、上記の慰謝料についての認容額等にかんがみると、控訴人の債務不履行ないし不法行為と相当因果関係のある弁護士費用の損害は、三万円と認めるのが相当である。

六  以上によれば、被控訴人の本件請求は、控訴人に対し、損害賠償金六万円及びこれに対する履行請求の日の翌日(不法行為の後の日)である平成一三年六月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余は理由がないから棄却を免れない。

第五結論

よって、これと異なる原判決は、その異なる限度で相当でなく、本件控訴は、一部理由があるから、原判決を上記のとおり変更し、その余の本件控訴は、理由がないから、棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民訴法六七条二項、六四条、六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 雛形要松 裁判官 山﨑勉 浜秀樹)

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