東京高等裁判所 平成16年(ネ)2270号 判決 2007年3月14日
以下,控訴人・附帯被控訴人国を「控訴人国」,控訴人・附帯被控訴人株式会社Y1を「控訴人会社」と表記し,被控訴人・附帯控訴人は「被控訴人」と表記する。
主文
1 原判決中,控訴人ら敗訴の部分を取り消す。
2 被控訴人らの請求及び附帯控訴をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は第1,2審とも被控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第1控訴及び附帯控訴の趣旨
1 控訴の趣旨
(1) 原判決中,控訴人ら敗訴の部分を取り消す。
(2) 被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
2 附帯控訴の趣旨
(1) 原判決を次のとおり変更する。
(2)ア (X1につき)控訴人らは,連帯して,被控訴人X2,被控訴人X3,被控訴人X4及び被控訴人X5に対し,それぞれ,625万円及びこれに対する控訴人国は平成11年11月13日から,控訴人会社は平成11年11月12日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
イ 控訴人らは,連帯して,被控訴人X6,被控訴人X7,被控訴人X8及び被控訴人X9に対し,それぞれ,2500万円及びこれに対する控訴人国は平成12年10月11日から,控訴人会社は平成12年10月7日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
ウ (X10につき)控訴人らは,連帯して,被控訴人X11,被控訴人X12,被控訴人X13,被控訴人X14,被控訴人X15及び被控訴人X16に対し,それぞれ,416万6666円及びこれに対する控訴人国は平成12年10月11日から,控訴人会社は平成12年10月7日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
エ (X17につき)控訴人らは,連帯して,被控訴人X18,被控訴人X19,被控訴人X20,被控訴人X21及び被控訴人X22に対し,それぞれ,500万円及びこれに対する控訴人国は平成12年10月11日から,控訴人会社は平成12年10月7日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
オ (X23につき)控訴人らは,連帯して,被控訴人X24に対し2000万円,被控訴人X25に対し500万円及びこれらに対する控訴人国は平成12年10月11日から,控訴人会社は平成12年10月7日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
カ 控訴人らは,連帯して,被控訴人X26及び被控訴人X27に対し,それぞれ,2500万円及びこれに対する平成14年3月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
キ (X28につき)控訴人らは,連帯して,被控訴人X29,被控訴人X30,被控訴人X31,被控訴人X32及び被控訴人X33に対し,それぞれ,500万円及びこれに対する平成14年3月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3)ア 控訴人らは,それぞれ,被控訴人X2,被控訴人X3,被控訴人X4及び被控訴人X5に対し,原判決別紙6「謝罪広告目録」<省略>の(1)ア記載の新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に,二段抜きで,同別紙の(2)ア記載の謝罪広告文案の謝罪広告を,見出し及び控訴人らの名は4号活字をもって,その他は5号活字をもって,1回掲載せよ。
イ 控訴人らは,それぞれ,被控訴人X6,被控訴人X7,被控訴人X11,被控訴人X12,被控訴人X13,被控訴人X14,被控訴人X15,被控訴人X16,被控訴人X18,被控訴人X19,被控訴人X20,被控訴人X21,被控訴人X22,被控訴人X8,被控訴人X9,被控訴人X24及び被控訴人X25に対し,原判決別紙6「謝罪広告目録」<省略>の(1)ア記載の新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に,二段抜きで,同別紙の(2)イ記載の謝罪広告文案の謝罪広告を,見出し及び控訴人らの名は4号活字をもって,その他は5号活字をもって,1回掲載せよ。
ただし,あて名の「X17殿」の次に「(ご遺族X18殿,X19殿,X20殿,X21殿,X22殿)」を加える。
ウ 控訴人らは,それぞれ,被控訴人X26,被控訴人X27,被控訴人X29,被控訴人X30,被控訴人X31,被控訴人X32及び被控訴人X33に対し,原判決別紙6「謝罪広告目録」<省略>の(1)イ記載の新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に,二段抜きで,同別紙の(2)ウ記載の謝罪広告文案の謝罪広告を,見出し及び控訴人らの名は4号活字をもって,その他は5号活字をもって,1回掲載せよ。
ただし,あて名の「X28殿」の次に「(ご遺族X29殿,X30殿,X31殿,X32殿,X33殿)」を加える。
第2事案の概要
1 本件は,中華人民共和国(以下「中国」という。)の国民であるX1,X6,X7,X10,X17,X8,X9,X23,X26,X27,X28の11人が,第二次世界大戦中の昭和19年,日本政府の国策に基づいて中国国内から日本に強制連行され,新潟港にあった控訴人会社(当時はY2株式会社)の事業場において昭和20年の終戦時まで強制労働に従事させられたとして,控訴人国及び控訴人会社に対し,1人当たり2500万円の損害賠償と名誉回復処分としての謝罪広告を求めた事案である。
ただし,X23は,訴え提起前に死亡したので,相続人であるX24,X25が一審原告となった。また,一審原告であったX1,X10,X17,X28は,原審口頭弁論終結後,当審訴訟係属中に死亡したので,それぞれ,当事者欄に記載の相続人らが訴訟を承継した(以下,上記のX1ら11人のことを「被控訴人ら」ということもある。)。
2 被控訴人らは,その請求の根拠として,次のとおり主張している。
(1) 控訴人国に対して,①占領者の条約違反行為に対する陸戦ノ法規慣例ニ関する条約(ハーグ陸戦条約)3条に基づく請求権,②法例11条1項により準拠法となる中華民国民法上の不法行為に基づく請求権,③強制労働ニ関スル条約(強制労働条約)違反ないし国際慣習法違反としての民法上の不法行為に基づく請求権,④安全配慮義務違反の債務不履行に基づく請求権,⑤強制労働を強要した企業に対し刑事制裁措置をとらない強制労働条約違反の不作為に対する国家賠償法に基づく請求権
(2) 控訴人会社に対して,file_4.jpg上記(1)の①及び③の違反行為と共同し,又はこれに加担したことによる民法上の不法行為に基づく請求権,file_5.jpg法例11条1項により準拠法となる中華民国民法上の不法行為に基づく請求権,file_6.jpg安全配慮義務違反の債務不履行に基づく請求権
3 原審は,次のとおり判断して,控訴人会社及び控訴人国の双方に安全配慮義務違反があったと認め,被控訴人らの損害賠償請求を1人当たり800万円の限度で認容し,謝罪広告の請求は棄却した。
(1) ハーグ陸戦条約3条により,被害者個人が加害国に対する損害賠償請求権を取得することはない。
控訴人らの行為に,中華民国民法が適用されることはない。
強制労働条約に基づく義務は被害者個人に対して負うものではなく,義務の懈怠があったとしても,被控訴人らの権利を侵害するものではない。
(2) 控訴人会社(Y2)には,日本港運業会(新潟華工管理事務所)と共同して,強制連行されてきた被控訴人らを強制労働に従事させたことにつき,民法上の不法行為責任がある。
控訴人国について,国家賠償法施行前の公権力の行使には民法の適用がないという国家無答責の法理を適用することは,正義公平の観点から著しく相当性を欠き,許されない。控訴人国には,政策の実施として被控訴人らを日本へ強制連行し,Y2らをして被控訴人らを強制労働に従事させたことにつき,民法上の不法行為責任がある。
しかし,被控訴人らに対する不法行為は,被控訴人らが中国に帰国した昭和20年11月ころには終了したから,控訴人らの不法行為責任は,その時から起算して20年の除斥期間(民法724条後段)が経過したことにより消滅した。本件において,除斥期間の適用を排除することはできない。
(3) Y2と被控訴人らとの間には,Y2と日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間の中国人労働者使用契約を媒介とした労働契約に類似する法律関係があり,これに基づく特別な社会的接触の関係の存在により,新潟港運は信義則上,被控訴人らに対し安全配慮義務を負っていた。
ところが,Y2は,被控訴人らを強制労働に従事させるにつき,衣食住や医療体制が劣悪な環境で,休憩や休暇も与えず,日常的に暴力を用いて危険な重労働に従事させていたから,安全配慮義務違反があり,控訴人会社は損害賠償の責任を負う。
その損害賠償請求権は,昭和20年11月ころから起算して10年の経過により消滅時効(民法167条1項)が完成する。しかし,Y2ないし控訴人会社は,事業所報告書に虚偽の記載をし,その後も新潟港における強制連行・強制労働の実態を明らかにしないなど,被控訴人らとの関係では実質的に提訴を妨害したものと評価できるから,控訴人会社が消滅時効を援用することは,社会的に許容された限界を著しく逸脱する。
(4) 控訴人国は,強制連行・強制労働を政策として実施し,日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間で中国人労働者移入・管理委任契約を締結し,Y2及び新潟華工管理事務所に対し被控訴人らの待遇を唯一是正させうる立場にあったから,被控訴人らとの間には,日本港運業会との間の中国人労働者移入・管理委任契約を媒介とした労働契約に類似する法律関係があったと認めるのが相当であり,これに基づく特別な社会的接触の関係の存在により,控訴人国は信義則上,被控訴人らに対し安全配慮義務を負っていた。
ところが,控訴人国は,Y2による安全配慮義務違反に対して何ら監督,是正をせず,自らも何らの措置もとらずに,被控訴人らを人として生きていくことすら困難な状態に置いていたから,安全配慮義務違反があった。
日中共同声明等によって,中国国民個人の控訴人国に対する損害賠償請求権までが放棄されたとは認められない。
4 そこで,この原判決に対し,控訴人国及び控訴人会社がそれぞれ控訴をし,被控訴人らも附帯控訴をしたのが本件である。
そのほかの事案の概要は,次のとおり付加訂正するほか,原判決「事実及び理由」の「第2 事案の概要」に記載のとおりであるから,これを引用する。
(1) 当審における当事者の主張を,別紙1「被控訴人らの主張」,別紙2「控訴人国の主張」,別紙3「控訴人会社の主張」のとおり付加する。
(2) 原判決2頁24行目の「法規慣習」を「法規慣例」に,4頁11行目及び13行目の「a運送株式会社」を「a株式会社」に,5頁13行目の「陸軍隊」を「陸軍軍隊」に,同19行目の「条約附随書」を「条約附属書」に,6頁7行目の「為ニスル」を「為ニスルニ」に,7頁3行目の「講フ」を「謂フ」に,同6行目の「課スコト」を「課スルコト」に,11頁24行目の「平和条約」を「条約」に,同24行目の「従って,解決する」を「従って解決する」に,12頁10行目,11行目及び13行目の「法令11条」を「法例11条」に,132頁12行目の「異動」を「移動」に,168頁21行目の「42条」を「同規則42条」に,172頁26行目の「エス・コーゲンス」を「ユス・コーゲンス」に,199頁19行目の「事業所報告書等は」を「事業所報告書等を」に,209頁8行目及び12行目の「銭其堯」を「銭其file_7.jpg」に,213頁16行目の「対日兵務条約」を「対日平和条約」に,232頁1行目の「不法行為者」を「不法行為」にそれぞれ改める。
第3当裁判所の判断
1 本件における事実関係
本件強制連行・強制労働の実情,その背景,その後の控訴人国の対応などの事実関係については,次のとおり付加訂正するほか,原判決「事実及び理由」の「第3 認定事実」に記載のとおりであるから,これを引用する。
(1) 原判決24頁8行目の「中華」を「華中」に,28頁20行目の「鉄鋼採掘」を「鉄鉱採掘」にそれぞれ改め,32頁18行目から33頁1行目までを次のとおり改める。
「f 身体障害
身体障害者となった中国人労働者の総数は467名であった。
特異な現象として,失明が圧倒的に多く,217名(46.4パーセント)であった。これに次いで視力障害が多く,79名であった。肢指欠損又はその機能障害は合計162名であった。そのうち,全く労働能力を失った者は186名(40.0パーセント),過激な労働に耐えられない者は133名,労働に支障のある程度の者は147名であった。
原因は,公傷が153名,私傷が9名,疾病によるものが305名であった。」
(2) 原判決35頁2行目から3行目の「本部における」を「本邦における」に改め,同4行目の「,資金」を削り,同5行目の「弟8条」を「第8条」に,同21行目のの「承認を得て」を「承認を経て」に,36頁6行目の「5875名」を「5857名」に,37頁24行目及び38頁3行目の「file_8.jpg西省」を「陜西省」にそれぞれ改める。
(3) 原判決39頁「(3) 輸送状況等」の証拠として「<証拠省略>」を付加し,40頁1行目の次に行を改めて次のとおり加える。
「 青島には昭和19年に,倉庫や体育館地下室を改修して「青島労工訓練所」が開設され,集められた中国人労働者が収容された。労工訓練所は周囲を高さ3メートルの煉瓦塀で囲まれ,日本軍と華北労工協会の職員が監視に当たっていた。居住条件や食糧事情は,劣悪であった。中国人労働者は,1日から数日程度ここに収容された後,青島港から船で日本へ移送された。」
(4) 原判決40頁「(4) 中国人労働者の就労事情」の証拠として「<証拠省略>」を付加する。
(5) 原判決49頁「(2) 原告X6について」の証拠として「<証拠省略>」を付加し,52頁8行目の「家族は全員死亡していた」を「家族は,母親と下の弟は小麦や粟を盗んだとして殺され,上の弟は逃げて行方不明となり,父親だけが難を逃れて生き残っていた」に改める。
(6) 原判決67頁「(9) 原告X26について」の証拠として「<証拠省略>」を付加し,68頁4行目の「8月末」を「9月8日」に,同6行目の「大きなかご」を「牢屋」に,69頁2行目の「40日間程度」を「20日以上」にそれぞれ改める。
(7) 原判決71頁6行目及び9行目の「麻峡村」を「前麻峪村」にそれぞれ改める。
2 ハーグ陸戦条約3条に基づく請求について
(1) 国際法は,国家と国家又は国際機関等との関係を規律するものであるから,国際法上の権利主体となるのは,原則として国家又は国際機関であり,個人は,生命,身体,財産等の個人の権利義務に直接影響を及ぼすような事項を定める条約において,その条約が個人に法主体性を認めているような場合にのみ,例外的に,条約に基づく権利ないし請求権を取得することになる。
(2) ところで,ハーグ睦戦条約3条は,「前記規則(陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則)ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ,損害アルトキハ,之ガ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戦当事者ハ,其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ」と定め,同規則46条1項は,「家ノ名誉及権利,個人ノ生命,私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ,之ヲ尊重スベシ」と定めている。
これによれば,ハーグ陸戦条約3条は,交戦当事者である国家に,その軍隊の構成員が行った同規則違反の行為により生じた損害について損害賠償責任を負わせた規定であり,同規則46条1項は,占領国が被占領国の国民の権利を尊重すべきことを定めた規定であると解されるが,同条約及び規則には,被害を受けた個人から交戦相手国に対する請求権を認める条項や,個人がその権利を行使する方法を定めた手続規定は存在しない。
したがって,ハーグ陸戦条約3条は,他方の交戦当事者である国家に対する損害賠償責任を規定したものというべきであり,これをもって,個人の交戦相手国に対する損害賠償請求権を認めたものと解することはできず,被控訴人らの請求は理由がない。
3 中華民国民法に基づく請求について
(1) 法例11条1項は,国際的私法関係において,不法行為によって生ずる債権の成立及び効力については,その原因事実が発生した地の法律が適用されると定めている。本件においては,被控訴人らに対する中国国内での身柄拘束,新華院や青島労工訓練所への連行と収容,青島港から日本への移送などについては,中国国内において不法行為の原因となるべき事実が発生したものということができる。
しかし,これらの行為は,控訴人国の政策の実施として行われたものであって,国家の権力的作用に基づく行為ということができ,国家利益にかかわる行為であるから,その法律関係は,法例によって準拠法が決定される私法的法律関係とはいえないのであり,これについて,法例を介して当時の中華民国民法が適用されるということはできない。
(2) 控訴人会社については,Y2が中国国内において不法行為の原因となるべき上記の行為に関与したとは認められない。
したがって,被控訴人らの控訴人らに対する中華民国民法に基づく請求は,いずれも理由がない。
4 強制労働条約違反の不作為に対する国家賠償請求について
(1) 強制労働条約25条は,「強制労働ノ不法ナル強要ハ刑事犯罪トシテ処罰セラルベク又法令ニ依リ科セラルル刑罰ガ真ニ適当ニシテ且厳格ニ実施セラルルコトヲ確保スルコトハ本条約ヲ批准スル締盟国ノ義務タルベシ」と定めているから、これに基づき,控訴人国が,強制労働を不法に強要した者を処罰すべき義務を負うことは明らかである。
しかし,この義務は、控訴人国が強制労働条約の締約国に対して負う国際法上のものであって,強制労働の被害者個人に対して負うものではない。また,この義務の内容は,国家が犯罪者に対して処罰を行うことを義務づけるものであるし,そのための刑事制裁手続は,公益的見地から行われるものであって,犯罪被害者の個人的利益のために行われるものではない。
(2) そうであれば,本件において,仮に控訴人国にこの条約上の義務の懈怠があったとしても,被控訴人らとの関係では,控訴人国が被控訴人らの権利を違法に侵害したものとは認めることができないから,被控訴人らの請求は理由がない。
5 不法行為に基づく請求について
(1) 強制連行・強制労働の不法行為責任
ア 前記認定のとおり,控訴人国は,日中戦争及び太平洋戦争の拡大,激化により労働力不足が顕著となり,国内企業から中国人労働者の移入を求める動きも現れたことから,特に重筋労働部門における労働力不足に対応するために,国策として中国人労働者を日本国内に移入することを閣議決定し(昭和17年閣議決定),試験移入を実施した後,本格移入のため,中国人労働者の供出又はその斡旋は大使館,現地軍及び国民政府(華北よりの場合は華北政務委員会)指導の下に現地労務統制機関(華北よりの場合は財団法人である華北労工協会)をしてこれに当たらせることとした上で,移入する中国人労働者の年齢や素質,一定期間の訓練,契約期間,日本での使用条件,管理体制等を定め(昭和19年次官決定),さらに,中国人労働者の移入手続の細則を定めるなど制度を整えて本格移入の実施に当たったが,①実際には,控訴人国の意向を受けた華北労工協会らにおいて,日本軍の協力の下で,暴力や詐言を用いて被控訴人ら中国国民をその意に反して拘束し,いったん中国国内の収容所に収容するなどした後,貨物船に乗船させて日本国内に移送し,さらに,受入先企業であるY2の事業場がある新潟港まで強制連行した上で,②日本港運業会(新潟華工管理事務所)及びY2が,国策の実施として被控訴人らを新潟港における強制労働に従事させる間も,警察官を派遣するなどして被控訴人らの規律,管理に当たった。
また,控訴人会社(Y2)は,港湾運送業に関する国策の遂行に協力することを目的とし,中国人労働者の移入及び管理の主体となった日本港運業会から,被控訴人ら中国人労働者の配置を受けた上で,③新潟港の事業場において,日本港運業会(新潟華工管理事務所)と共同して,強制連行されてきた被控訴人らを新潟港における港湾荷役の重筋労働に強制的に従事させ,その間,生活管理においては,警察の援助を受けながら監視をし,厳しい気候の中,食事や衛生状態等も極めて劣悪な環境下で,暴力も用いて,過酷な労働を強制したものである。
イ これによれば,被控訴人らの主張する強制労働条約ないし国際慣習法を援用するまでもなく,中国人労働者の日本国内移入という国策が現実に実施される上記①ないし③の過程において,控訴人国及び控訴人会社が,被控訴人らの身体,自由等にかかわる権利を違法に侵害したことは明らかである。
(2) 国家無答責の法理の適用
ア 本件で被控訴人らの権利を侵害した控訴人国の行為は,戦時下における労働力の確保という国策の実施過程において,国家権力を背景に,被控訴人ら中国国民を強制的に日本国内に連行し,Y2における強制労働に従事することを余儀なくさせたものであるから,公権力の行使として行われたものというべきである。
被控訴人らは,本件の強制連行・強制労働の発端となった中国人内地移入事業の内容は,控訴人国が行う労務供給事業であり,私経済行為類似の非権力的行為の性質を有するものであるなどとして,本件の強制連行・強制労働は公権力の行使には当たらないと主張する。しかし,控訴人国と被控訴人らとの間には,労務供給事業に見られるような私経済行為類似の関係は認められないのであり,むしろ,本件の強制連行・強制労働は,閣議決定に基づき,関係省庁間の連携の下で行われた国家の権力的作用そのものであるというほかなく,被控訴人らの主張は採用できない。
イ この控訴人国の行為は,国家賠償法が施行された昭和22年10月27日より前の行為であるから,同法附則6項の「この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による」との規定により,その損害賠償責任については,国家賠償法施行前の法規範が適用されることになる。
国家賠償法施行前においては,公権力の行使に当たる公務員の違法行為について,国の賠償責任を定める一般的な法律の規定は存在しなかった。むしろ,当時の明文の規定としては,明治23年に施行された行政裁判所法16条が「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セズ」と定めていたのであり,証拠(<証拠省略>)によれば,①この行政裁判所法の規定は,「君主ハ不善ヲ為スコト能ハズ」との法諺があるように,政府の主権による処置について国は損害賠償の責任を負わないという当時諸外国でも一般に是認されていた国家無答責の法理に基づいて定められたものであること,②当時の裁判所構成法や旧民法の制定過程においては,草案にあった司法裁判所が国権に対する訴訟について裁判権を有する,あるいは,公の事務所も使用者責任を負うという内容の規定が,国家無答責の法理を理由として削除されたこと,③現行民法の制定に当たっても,政府の官吏の職務執行による国の賠償責任については,私法である民法715条の規定の適用はなく,特別法によって規定されるべきものと理解されていたが,一般的に国の賠償責任を定める特別法は制定されなかったことが認められる。
これによれば,国家賠償法施行前においては,公権力の行使に当たる国そのものないし国の公務員の違法行為について,国が賠償責任を負うべき法令上の根拠はなかったというべきであるから,本件の強制連行・強制労働について,控訴人国が損害賠償責任を負うことはないものと解される(最高裁昭和25年4月11日第三小法廷判決・裁判集民事3号225頁参照)。
ウ これに対し,被控訴人らは,仮に上記のとおり国家無答責という法理があったとしても,これは手続法の問題であるから,手続法については裁判時法によるべきであり,したがって国家無答責の法理は適用されないと主張するが,問題は,公権力の行使における違法行為について国が損害賠償責任を負うかどうかであるから,手続法の問題ではなく,実体法の問題というべきであり,被控訴人らの主張は採用できない。
また,被控訴人らは,大審院昭和16年11月26日判決が,公権力の行使が「その範囲を逸脱し,行政処分又は行政執行と目し難き程度に至りて他人の権利を侵害したとき」には、国や地方公共団体に民法上の不法行為責任が認められるとの判示をしているとして,本件には国家無答責の法理の適用がないと主張する。しかし,この判決は,市の吏員が道路改修工事の際に無断で石垣や生垣を破壊した行為について,市に対し損害賠償請求が提起された事案に関するものであり,吏員に課せられた職務を逸脱して行われた行為について判断したものであるから,本件のようにまさに公権力の行使として行われた控訴人国の行為について国家無答責の法理を適用する妨げとなるものではなく,被控訴人らの主張は採用できない。
エ さらに,被控訴人らは,本件の不法行為の態様は極めて悪質であり権利侵害の程度も極めて重大であるから,国家賠償法附則6項により「従前の例」として国家無答責の法理を適用することは憲法17条が立法府に付与した立法裁量の範囲を逸脱する,憲法98条1項は経過規定としての意味をもち,憲法施行の際に存する明治憲法下の法律,命令で憲法の条規に反するものは効力を失う,あるいは,国家無答責の法理の適用は正義公平の理念により排除されるなどとして,控訴人国が民法の適用により不法行為責任を負うと主張している。
しかし,国家無答責の法理は,国が賠償責任を負うべき法令上の根拠を欠くという形態で存在していたのであるから,仮にその適用を制限ないし排除したからといって,国が賠償責任を負う特別の法的根拠が明らかになるというものではなく,また,本件の控訴人国の違法行為に民法の不法行為規定が適用されることはないと解されるのであるから,被控訴人らの主張は採用できない。
もっとも,法令の解釈という場面において立法者意思は絶対的なものではないとして,立法経過を離れて考えた場合,本件の違法行為について,民法の不法行為規定が適用されるという解釈の余地がないではないが,その場合には,さらに次の除斥期間が問題となる。
(3) 除斥期間の経過による請求権の消滅
ア 上記のとおり,本件の強制連行・強制労働において,控訴人らは被控訴人らの身体,自由等にかかわる権利を違法に侵害したのであるから,控訴人会社は民法上の不法行為責任を負うべきものであり,また,控訴人国も,国家無答責の法理が認められない場合には,民法上の不法行為責任を負うと解する余地がある。
しかし,民法724条後段は,不法行為による損害賠償請求権は不法行為の時から20年を経過したときは消滅すると規定している。民法724条の規定の趣旨は,不法行為をめぐる被害者と加害者又は加害者とされる者との間の法律関係を早期に確定させることを意図するものであり,前段の3年の時効が損害及び加害者の認識という被害者側の主観的な事情によってその完成が左右されることと対比すれば,この後段の規定は,被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため,請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であるから,その20年の期間は,不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものというべきである(最高裁平成元年12月21日第一小法廷判決・民集43巻12号2209頁)。
被控訴人らは,民法724条後段は,その文言,立法者意思,立法の沿革に照らして前段と同様に消滅時効を定めたものであると主張するが,独自の見解であって採用できない。
イ この20年の除斥期間の起算点は「不法行為の時」であり,加害行為が行われた時に損害が発生する不法行為の場合には,加害行為の時がその起算点となる。本件における被控訴人らに対する不法行為については,遅くとも被控訴人らが中国に帰国した昭和20年11月ころには,加害行為が終了して損害が発生したものと認められるから,その時が起算点となる。
したがって,被控訴人らの控訴人らに対する不法行為に基づく損害賠償請求権は,名誉回復の請求権を含め,昭和20年11月ころから20年が経過した昭和40年11月末日までに,法律上当然に消滅したことになる。
ウ これに対し,被控訴人らは,①不法行為の性質上,不法行為終了時までに被害者が一般的,客観的に権利の存在を認識できない場合や権利行使が不可能である場合には,被害者には期間制限の存在理由である権利不行使に対する非難可能性が全くないから,不法行為が終了して被害者が損害及び加害者を一般的,客観的に認識することが可能になった時,すなわち,本件では事業主体として「b社」,「c社」との名称が記載されている外務省報告書がNHKによってスクープされた平成5年5月17日が,民法724条後段の期間の起算点となる,あるいは,②被害者にとって権利行使がおよそ不可解な客観的状況が継続している間は,それにもかかわらず時の経過により被害者救済を犠牲にすることは損害の公平な分担という不法行為法の理念に反するから,その間,すなわち,本件では中国において公民出境入境管理法(出入国管理法)が施行されて私事による日本への渡航が可能になった昭和61年2月1日までは,民法724条後段の期間は進行しないと主張する。
しかし,上記のとおり,除斥期間を定めた趣旨は,不法行為をめぐる被害者と加害者又は加害者とされる者との間の法律関係を,被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって早期に確定させるため,請求権の存続期間を画一的に定めることにあると解されるのであるから,被害者側の権利行使の可能性ないし権利不行使に対する非難可能性の観点から,その起算点や進行停止を考えることは適当ではない。
被控訴人らが援用する最高裁平成16年4月27日判決や同年10月15日判決も,当該不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が終了してから相当の期間が経過した後に損害が発生する場合について,損害の発生時を除斥期間の起算点としたものにすぎず,損害発生の事実から離れて,被害者側の権利行使が可能な時点をもって除斥期間の起算点とすることまでを認める趣旨ではない。
エ 被控訴人らは,本件において民法724条後段を適用して被控訴人らの権利を消滅させ,控訴人らを免責することは,著しく正義公平の理念に反するから,その適用が制限されるべきであるとも主張し,最高裁平成10年6月12日判決が,民法724条後段の規定を字義どおりに適用することにより著しく正義公平に反する結果となる場合には,条理に基づき同条後段の効果が制限される事例があることを明らかにしたとしつつ,考慮すべき特段の事情として,①被控訴人らは平成11年4月に本件の訴訟代理人弁護士らと出会うまで,長年にわたり権利行使の可能性を認識することすら不可能であったが,それは,異国へ拉致され宿舎に監禁されて強制労働に従事させられたため,日本の弁護士との接触や権利行使の相手方となる事業主体の認識が不可能で,また,控訴人らにより証拠隠滅工作がされたため,被害事実の立証も不可能であったという,加害者である控訴人らの行為に起因する事情によるものであること(被害者の非難可能性の不存在),②控訴人らは,一定期間の経過により,権利が消滅するとの規定があることを悪用して,不法行為事実の発覚を妨げる目的で組織ぐるみの徹底した証拠隠滅工作を行って強制連行・強制労働の事実の隠蔽を図り,被害者である被控訴人らの権利行使を妨害したものであること(クリーンハンズの原則に違背),③本件加害行為は,平和に暮らしていた一般の中国国民を突然拉致,監禁し,日本に連行して想像を絶する劣悪な環境下でその意に反する苦役に従事させたものであって,甚だしい人権蹂躙行為であり,また,当時の国際法,国際慣習法にも違反する行為であったこと(加害行為の甚だしい悪質性)を挙げる。
この点につき,なるほど,最高裁平成10年6月12日判決は,民法724条後段の効果が制限される場合があることを認めたものである。しかし,これは,不法行為の時から20年を経過する前6か月以内に,被害者がその不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において,その後当該被害者が禁治産宣告を受け,後見人に就任した者がその時から6か月以内に損害賠償請求権を行使したという事例につき,その場合にも民法724条後段の効果が生ずるとすれば,心神喪失の常況にある被害者はおよそ権利行使が不可能であるのに,単に20年が経過したということのみをもって一切の権利行使が許されないこととなる反面,心神喪失の原因を与えた加害者は20年の経過により損害賠償義務を免れる結果となって,著しく正義公平の理念に反するから,民法158条(時効の停止)の法意に照らし,このような場合には民法724条後段の効果は生じないとしたものであり,民法158条の法意を参酌しうる極めて限定的な場合について例外を認めた判決であって,正義公平の理念に反する場合には一般的に民法724条後段の適用が制限されることを認める趣旨ではないというべきである。本件は,この判決とは事案を異にしているというほかはなく,被控訴人らが主張する上記の事情があるからといって,民法724条後段の効果が生じないということはできない。
(4) したがって,被控訴人らの控訴人らに対する不法行為に基づく請求は,その余の点について判断するまでもなく,いずれも理由がない。
6 安全配慮義務違反に基づく請求について
(1) 安全配慮義務の意義
ア 安全配慮義務は,ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において,当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務である(最高裁昭和50年2月25日第三小法廷判決・民集29条2号143頁)。
安全配慮義務は,典型的には,雇用契約関係において事故が発生した場合の使用者の責任を念頭において論じられてきた義務であり,使用者は労働者に対し,本来的に負う報酬支払義務のほかに,信義則上,労務提供のための場所や施設,器具等の設置管理,あるいは提供を受ける労務の管理に当たって,労働者の生命や健康等を危険から保護するよう配慮すべき付随義務を負っているものと理解されている。その義務違反は,債務不履行(不完全履行の一種)の性質を有する。
イ この安全配慮義務は,当事者間に直接の雇用契約関係がない場合であっても,ある法律関係に基づく「特別な社会的接触の関係」が存在する場合,すなわち,雇用契約に準ずる法律関係に基づき一方が他方の直接的な指揮監督,支配管理の下で労務を提供するなど,その実態において直接の雇用契約関係にあるのと同視しうるような事実上の使用従属関係にある場合にも認めることができる(最高裁平成3年4月11日第一小法廷判決・裁判集民事162号295頁参照)。
しかし,安全配慮義務は,もともと労務の提供を受ける契約関係において信義則上認められる義務であり,その義務違反の法的性質は債務不履行なのであるから,直接の契約当事者ではなく,直接の雇用契約関係にあるのと同視しうるような事実上の使用従属関係もない当事者間においては,安全配慮義務違反の問題が生じることはない。
(2) 控訴人国の安全配慮義務
ア 被控訴人らは,中国人労働者を日本国内に強制移送して労働させることは国家事業として実施されたものであり,日本港運業会は国の委任を受けた公務の遂行として,戦時の港湾荷役作業を達成するために,Y2などの港運企業と一体となって被控訴人ら中国人労働者を労働させたなどとして,被控訴人らの生活及び労働の管理は,控訴人国の直接的な支配管理の下に行われたものと主張する。
しかし,前記認定のとおり,控訴人国と被控訴人らとの間には何らの契約関係もなく,①控訴人国は,国策として中国人労働者を日本国内に移入することを閣議決定し,大使館,現地軍,華北政務委員会などの指導の下に,国策に基づいて設置された財団法人である華北労工協会をして中国人労働者の供出に当たらせることとして,その日本での使用条件や管理体制等を定め,実際には,国の意向を受けた華北労工協会らが,日本軍の協力の下で被控訴人ら一般の中国国民をその意に反して拘束し,日本国内に移送して各事業場まで強制連行したが,②中国人労働者の港湾作業への移入については,港湾作業会社の中央統制団体として設立された日本港運業会が,運輸通信省の委任に基づき,華北労工協会との間で契約を締結して移入及び管理の主体となり,③新潟港においては,Y2が,日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間で契約を締結して,警察官による監視の下で被控訴人ら中国人労働者を強制労働に従事させていたものである。
これによれば,控訴人国と被控訴人らとの間に,何らかの雇用契約に準ずる法律関係があったということもできない。被控訴人ら中国人労働者の生命や健康等を危険から保護するよう配慮すべきことが要請される労務提供の現場において,被控訴人らを直接に指揮監督し,その労務を支配管理していたのは,控訴人国ではなくY2と新潟華工管理事務所であり,控訴人国は,その労務管理について,統制下にある日本港運業会に対し,行政の行為として命令等の間接的な方法により統制を加えうるという関係にあったにとどまるものというべきである。
したがって,被控訴人らと控訴人国との間に,雇用契約に準ずる法律関係に基づき被控訴人らが控訴人国の直接的な指揮監督,支配管理の下で労務を提供するなど,その実態において直接の雇用契約関係にあるのと同視しうるような事実上の使用従属関係があったと認めることはできない。被控訴人らが主張する日本港運業会が控訴人国の委任を受けていたという事情は,この判断を左右するものではない。
イ 被控訴人らは,本件の華人労務者内地移入事業においては,制度設計上,中国人労働者は華北労工協会に所属する労働者であり,控訴人国は労働者派遣事業の派遣元事業主と同様の法的地位にあったと評価できるから,控訴人国は,新華院や青島労工訓練所に被控訴人らを収容した時点から,労働者派遣事業における派遣元事業主が派遣労働者に事前に訓練を施すのと同様の支配をしたことになって,被控訴人らに対する安全配慮義務を負い,日本国内に移入した後は,華北労工協会を通じて使役企業との間で締結した労務供給契約に従った労働がされるよう使役企業を監督是正して,中国人労働者の生命健康を保持し保護する義務を負っていたなどとも主張する。
しかし,日本軍により突然拉致されるなどして拘束され,強制的に日本国内まで連行され,強制労働に従事させられたという本件の実態において,控訴人国と被控訴人らとの間に,労働者派遣事業の派遣元事業主と派遣労働者との間におけるのと同様の雇用関係又はこれに準ずる法律関係があったとは認めることはできない。また,新華院や青島労工訓練所において被控訴人らを管理していたのは,被控訴人ら中国人労働者を供出する立場にあった財団法人である華北労工協会であり,控訴人国が被控訴人らを直接に指揮監督し,訓練し,その生活を支配管理していたとは認められないし,派遣先に相当する新潟華工管理事務所ないしY2における労務提供の場面において,控訴人国が被控訴人らを直接に指揮監督し,その労務を支配管理していたとは認められないことは上記のとおりである。
ウ 以上のように,被控訴人らと控訴人国との間には,何らの契約関係もなく,また,直接の雇用契約関係にあるのと同視しうるような事実上の使用従属関係も認められないから,安全配慮義務の前提となる「特別な社会的接触の関係」が存在しない。
したがって,控訴人国が信義則上,安全配慮義務又は被控訴人らのいう生命健康保持義務を負うべきものとは認められず,被控訴人らの控訴人国に対する安全配慮義務違反に基づく請求は,その余の点について判断するまでもなく理由がない。
(3) 控訴人会社(Y2)の安全配慮義務
ア 前記認定のとおり,Y2と被控訴人らとの間には,何らの契約関係もなかった。しかし,Y2は,被控訴人ら中国人労働者から労務の提供を受けることを目的として,日本港運業会が華北労工協会との間の契約に基づいて移入を受け入れた被控訴人らにつき,日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間で契約を締結の上,新潟港の事業場において被控訴人らを港湾荷役作業に従事させて労務の提供を受けたのであり,被控訴人らによる労務の提供は,Y2と新潟華工管理事務所による直接的な指揮監督,労務の支配管理の下で行われたものであった。
そうすると,被控訴人らとY2との間には,直接の雇用契約関係にあるのと同視しうるような事実上の使用従属関係があったということができるから,その「特別な社会的接触の関係」の存在により,Y2は,被控訴人らに対して安全配慮義務を負っていたものと認められる。
控訴人会社は,Y2と被控訴人らとの間には雇用契約に準ずる法律関係は存在しないと主張するが,上記の実態によれば,Y2が被控訴人らを相手方とする契約を締結していないという理由で,信義則上要請される安全配慮義務を負わないと考えるのは相当でなく,また,そこに強制労働という不法行為の要素が併存するとしても,安全配慮義務の発生が妨げられるものではないから,その主張は採用できない。
イ そして,前記認定のとおり,新潟港における被控訴人らの労働条件は,極めて劣悪な環境下で,暴力をも伴って過酷な重筋労働に従事させるものであり,その結果,被控訴人らの健康等に著しい悪影響を及ぼしたということができるから,Y2には,被控訴人らに対する安全配慮義務違反があったと認めることができる。
控訴人会社は,Y2は労働管理のみを担当していたのであって,食事や衣料,宿舎,衛生管理,医療などの生活管理は新潟華工管理事務所が行っていたと主張するが,前記認定のとおり,Y2と新潟華工管理事務所とは港湾作業会社とその統制団体という密接な関係にあり,Y2は,被控訴人らが,新潟華工管理事務所の管理の下で満足な食事や衣料を与えられないなど劣悪な生活環境にあって,十分な体力を有していないことを知りながら過酷な重筋労働に従事させたのであるから,上記の安全配慮義務違反があったというべきである。
また,控訴人会社は,太平洋戦争末期という当時の社会経済情勢を考慮すれば,Y2に安全配慮義務違反があったとはいえないとも主張する。しかし,前記認定のとおり,1年余りの期間中に,新潟港に移入された中国人労働者901名のうち159名が栄養失調や呼吸器疾患等を原因として死亡し,905名が栄養失調に関係のある疾病に罹患した(死亡者を含む延べ人数)という事実に照らせば,太平洋戦争末期という当時の状況を考慮しても,安全配慮義務違反があったというほかはない。
(4) 消滅時効による損害賠償請求権の消滅
ア 安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は10年であり,その起算点は「権利を行使することができる時」である(民法166条1項,167条1項)。ここでいう「権利を行使することができる時」とは,権利を行使する上で法律上の障害がない状態を指し,事実上の障害があるにすぎない場合は消滅時効の進行は妨げられない(最高裁昭和49年12月20日第二小法廷判決・民集28巻10号2072頁)。
安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は,権利として成立すればこれを行使する上での法律上の障害はないから,その損害が発生した時に成立し,同時にその権利行使が法律上可能となって,その時から消滅時効の進行が始まる。本件において,被控訴人らは,Y2の事業場における労務提供を昭和20年8月15日までに終了し,同年10月ころには日本から出国しているから,遅くともその時には損害が発生し,同時にその権利行使が法律上可能になったと認められ,その時点が消滅時効の起算点になる。
そうすると,被控訴人らの控訴人会社に対する安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は,昭和20年10月ころから10年が経過した昭和30年10月末日までに消滅時効が完成し,時効の援用により消滅したものというべきである。
イ これに対し,被控訴人らは,権利の性質上その権利行使が現実に期待できるようになった時から消滅時効が進行する(最高裁昭和45年7月15日大法廷判決)として,①権利発生時には,被控訴人らにおいて本件強制連行・強制労働の加害者(債務者)が誰かを知ることができず,権利発生後も,加害者側の証拠隠滅行為等によって加害者の発見や特定が事実上不可能となっていたこと,②昭和53年10月23日に日中平和友好条約が発効するまでは,日本と中国は国際法上は戦争状態にあり,中国の一般国民が当該戦争時に発生した損害賠償請求権の権利行使を行うことが不可能であったこと,③中国では昭和61年2月に公民出境入境管理法が施行されるまで,一般国民にとって日本への渡航は不可能であったこと,④中国では昭和62年に民法通則が制定され,律師(弁護士)の制度が復活するまでは,一般国民の法意識の状況や法的援助の制度が未整備な状態にあり,権利行使を行う現実的可能性がなかったこと,⑤中国において,日中共同声明により個人の対日戦争賠償請求権は放棄されていないことが示されたのは,平成7年3月の中国外相発言によってであったことなどの事情を挙げ,本件訴訟の提起のために被控訴人らがその訴訟代理人らと接触し,同代理人らが「華人労務者就労顛末書」を入手し,かつ,新潟港運の後継会社が控訴人会社であることを調査,確認した最初の時点である平成11年初めころが消滅時効の起算点になると主張する。
しかし,上記の最高裁判決は,供託金取戻請求権の性質上,供託者と被供託者との間で供託の基礎となった債務の存否が争われている場合にはその消滅時効は進行しないとの趣旨の判決であり,この判決をもって,安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権のように,権利の性質上,権利の成立と同時に権利行使が可能となる権利について,事実上その権利行使が困難な場合につき消滅時効が進行しないと解することはできない。そして,被控訴人らの主張する事情①については,被控訴人らが新潟港の港運業者の下で強制労働に従事させられたことが被控訴人らにとって明らかであった以上,その業者がY2であることやその後継会社が控訴人会社であることを知らなかったからといって,被控訴人らが権利を行使する法律上の障害があったということはできないし,また,被控訴人らの主張する事情②ないし⑤は,いずれも被控訴人らが日本を出国した後中国に居住していたことに由来する中国国内における事実上の事情であって,安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権という権利の性質上,権利行使の障害となるものではない。
したがって,これらの事情があるからといって,そのために権利行使が法的に不可能であったとはいえず,消滅時効の進行が妨げられることはない。
もっとも,昭和47年9月29日に日中共同声明が発出されるまでは,日本と中国との間には国交がなかったことから,このことは本件の損害賠償請求権の権利行使にとって法律上の障害に準ずるものと考えることもできる。しかし,その時点を起算点としても,それから10年を経過した昭和57年9月29日には,消滅時効が完成していることになる。
ウ 時効援用権の濫用について
被控訴人らは,本件において控訴人会社が時効利益を援用することは権利の濫用であると主張し,その事情として,①控訴人らが被控訴人らに対して行った違法行為(債務不履行)は,その目的や態様が極めて悪質であり,控訴人会社は,中国人労働者の受入れ以降急速に売上げを伸ばし,戦後には国からの補償金も取得していること,②被控訴人らの受けた被害は深刻で,その傷は現在も癒されておらず,被害回復や補償をする必要があること,③被控訴人らの権利行使の困難性は,本件加害行為とその後の事業所報告書への虚偽記載,外務省報告書の焼却,国会での虚偽答弁など,控訴人らの行動によってもたらされたものであること,④被控訴人らが長期間権利を行使しなかったことについては,前記のような中国の国内事情など,合理的理由や汲むべき事情があることなどを挙げる。
しかし,時効により消滅すべき損害賠償請求権の発生原因事実が悪質であったことや被害が深刻であることは,発生する請求権の内容にかかわる事情であって,その権利が行使されないことに関する事情ではないから,それにより時効援用の可否が左右されるものではない。控訴人会社が中国人労働者の受入れ以降売上げを伸ばし,国からの補償金も取得しているといった事情も,権利が行使されないことに関する事情ではない。また,被控訴人らは,新潟港において強制労働に従事させられたことを明らかに認識しているのであるから,新潟港における中国人労働者の就労についての事業所報告書(<証拠省略>)に虚偽の記載があり,外務省報告書が焼却され,国会で虚偽の答弁がされたとしても,そうした事情が被控訴人らの権利行使や訴訟提起を困難にしたとは認められず,ほかに控訴人会社が積極的に被控訴人らの権利行使や訴訟提起を妨げたというような事情を認めるに足りる証拠はない。本件の安全配慮義務違反の行為が日本国内で行われたことが,その後帰国して中国に居住している被控訴人らの権利行使を事実上困難にした面があることは否定できないが,中国の国内事情等は控訴人会社の関与できることではないから,控訴人会社が責めを負うべき事情ではない。
これらの点を総合考慮すれば,本件において控訴人会社が消滅時効を援用することが権利濫用に当たるということはできない。
エ したがって,被控訴人らの控訴人会社に対する安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は時効により消滅したから,これに基づく被控訴人らの請求は,その余の点について判断するまでもなく理由がない。
第4結論
以上のとおり,被控訴人らの控訴人らに対する本件請求はいずれも理由がないから,原判決中,その一部を認容した控訴人ら敗訴の部分を取り消し,被控訴人らの請求及び附帯控訴をいずれも棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判官 安倍嘉人 片山良広 内藤正之)
(別紙1)
被控訴人らの主張
第1 強制連行・強制労働の被害実態と損害回復の必要性
1 中国における強制連行の実態
(1) 被控訴人らは,日本軍による「労工狩り作戦」により突然拉致されたり,労働募集の案内に騙されるなどして強制的に連行された。当時まだ20歳前後の若者であった。狩り集められた被控訴人らは,縄で縛られたまま徒歩あるいは列車で連行され,新華院に着くまでの間,中継地点で数日間から数十日間,牢獄のようなところで監禁され,非人間的な扱いを受けた。
その後,被控訴人らは,いったん済南の新華院(収容所)に監禁された。新華院は,周りを電流の通った鉄条網によって囲まれ,門には日本軍が見張りをしていた。生活環境は劣悪で,死亡者が続出した。脱走に失敗し捕まった者が,見せしめに殺されたこともあった。
(2) 被控訴人らは,その後,縄で縛られたまま列車に乗せられ,青島に連行された。青島には1944年4月,華北労工協会の指示の下に青島労工訓練所が開設され,現地で捕まえてきた中国人労工を収容し,日本へ輸送するという役割を果たしていた。労工訓練所は,周りを高さ3メートルの煉瓦塀で囲まれ,煉瓦の上には電気鉄条網が設置されていた。入口には大きな鉄の門があり,日本軍の兵隊が歩哨に立っていた。労工訓練所の中では,華北労工協会の日本職員が武装をして監視に当たり,さらに,労工訓練所の外では,傀儡の青島特別市警察が巡回して警戒に当たっていた。
労工訓練所の食糧事情や衛生状態は極めて劣悪で,多くの死亡者が出た。1945年始めには大規模な伝染病が発生し,数日のうちに数百人の中国人が死亡したが,大量の死亡者が出るまで,労工訓練所は全く救済措置をとらなかった。労工訓練所に収容された中国人は,看守から度重なる暴力も受けていた。劣悪な環境や残虐な迫害に絶えかね,収容されていた中国人は,何度も暴動を起こし,射殺される危険を冒してまで脱走を試みた。
(3) 被控訴人らは,青島に数日間拘束された後,貨物船に乗せられて日本へ連行された。行き先も知らされず,船倉内に閉じ込められて,石炭,鉱石などの貨物の上に寝起きさせられた。航海も多難を極め,10日から20日以上にも及ぶ長期航海により疲弊は極限に達して,多くの中国人が体調を崩し,死亡者も続出した。
被控訴人らは,下関に上陸すると,休みを全く与えられないまま,警官に取り巻かれ,警察の管理・監督の下で,列車で新潟へ移送され,すぐに事業場へ連行された。
2 新潟における強制労働の実態
(1) 新潟での強制労働は,特に凄惨であった。被控訴人らは,石炭や大豆等の貨物船からの荷下ろし,列車への積込みなどの港湾荷役作業に従事させられた。すべての作業が,極めて原始的な方法による過酷な重労働であった。朝早くから仕事が終了するまで,1日10時間以上,しばしば夜遅くまで働かされ,昼食時以外に休息時間はなく,休日も与えられなかった。
被控訴人らが強制労働させられた昭和19年から20年にかけての冬は数十年ぶりの豪雪で,昭和20年1月は雪の降らない日は1日だけ,1,2月の平均気温はほとんど毎日氷点下,最大風速が10メートルを超える日が月の半分以上という過酷な環境にあった。まともな衣服や履物は支給されず,被控訴人らは,唯一支給された麻袋を身にまとって厳冬の港で作業をするほかなく,雪雨で濡れて帰っても着替えはなかった。その結果,多くの中国人労働者が凍傷になり,また,肺炎に罹り死亡した。
日本人の現場監督による中国人労働者に対する暴力も,絶え間なく行われていた。被控訴人らは,その残虐な暴力によって負傷し,精神的にも痛めつけられ,生涯忘れ去ることができない耐え難い屈辱を味わった。
(2) 被控訴人ら中国人労働者が寝泊まりしていた宿舎には,ノミ・シラミが大量に発生し,衛生状態は極めて劣悪であった。風呂には全く入れなかった。暖房もなく,冬は氷点下10度に達する寒さの中で,アンペラ(むしろ)を敷いた床板に寝て,与えられた麻袋一枚を体の上にかけ,毎日震えながら夜を過ごしていた。
被控訴人らに対して支給された食事は,ドングリなどの粗雑な原料で作ったマントウだけであった。1日3回,毎食直径5センチ程度のマントウ2個である。このような食事で過酷な労働を課されて健康を維持できるはずがなく,栄養不足により多くの中国人労働者が死亡した。死亡者以外にも,栄養失調症,胃腸疾患,角膜潰瘍,夜盲症の疾病者が多数発生し,また,体力が激しく落ちている状態で過酷な作業をさせられた結果,ほとんどの中国人労働者が挫傷,挫創,骨折などの傷害を負った。
新潟華工管理事務所では,医師や医薬品が決定的に不足しており,中国人労働者は,病気や怪我をしても満足な治療はしてもらえず,そのまま労働に駆り出された。その結果,怪我や病気が悪化し,死亡した者も多数いた。
(3) 過酷な連行過程,強制労働,劣悪な生活条件などによって死亡した被連行中国人の死亡者の総数は6830人,被連行者総数の実に17.5%に及んでいるが,新潟においては,1年間で呼吸器系疾患,栄養失調症などにより159人が死亡し,その死亡率は21%に及んでいる。業種別で見ても,港湾荷役業全体の死亡率は12.6%であり,他の港湾荷役業の就業場所と比較して,新潟の場合,格段に高い数値となっている。
まさに強制労働か死かという状態であり,控訴人国と企業は,被控訴人らを「使い捨ての奴隷」としか見ていなかったのである。被控訴人らは,見知らぬ異国の地で労働を強いられ,いつ本国に帰れるかも分からない中,次々と仲間が重労働による疲弊と病気によって死んでいくのを目の当たりにして,絶望の中で生活していたのであり,その味わった恐怖,苦痛,無念さは想像を絶する。
3 被控訴人らの損害とその回復の必要性
(1) 被控訴人らは,新潟港の岸壁や板子一枚の上で,雨,雪,風の中,何十キロもの荷物を運ぶ仕事をさせられた。ほとんど何もない保安施設,無制限の労働時間,死と隣り合わせの危険な作業を,強制的にさせられた。極めて過酷な奴隷労働であった。そして,過酷な労働と不十分な食事により,多くの中国人労働者が体を壊し,次々と死に追いやられた。
被控訴人らは,遠い異国の地で敵国のために労働をさせられただけでなく,もう二度と本国に帰ることができないという絶望と不安の中での生活を余儀なくされた。栄養失調により極度に衰弱した状態で,吹雪の中を裸足で港湾荷役作業をするということ自体,計り知れない肉体的・精神的苦痛であるが,それ以上に,死に直面し,家族・友人と二度と会えなくなるという恐怖を抱き続けていたのである。
このような被控訴人らの被害の大きさ及び被害の質の特殊性を考えた場合,被控訴人らの苦痛に対する慰謝の措置を講ずるとともに,金銭賠償による償いを行うべきは当然である。
(2) 被控訴人らは,帰国後も,新潟で受けた被害の影響で体を壊し,あるいは精神的な苦痛を受け続けている。また,戦後祖国に帰ってから現在まで,敵国であった日本に協力したとして,漢民族の裏切り者と言われて迫害され,敵国の生産に従事したという消しようのない引け目を背負って生きてきたのであり,その被害の深刻さも計り知れないものである。強制連行・強制労働は,被控訴人らに大きな損害を与えただけでなく,別れる暇も与えられないまま引き裂かれ,音信不通となった家族にも大きな影響を及ぼした。
本件訴訟を提起してから,既に4人の一審原告が死亡している。死亡した被害者は,日本で非人間的な扱いを受けたことについて,何ら謝罪も補償も受けられないまま,無念の死を遂げた。控訴人国と企業は,いまだに被害の事実を認めようとせず,被控訴人ら被害者の謝罪と償いを受けたいという願いを完全に無視している。このような控訴人国と企業の態度は,いまもなお,被控訴人らの怒りや悔しさ,悲しさを増大させ続けているのである。
(3) 強制連行された中国人労働者は,まさに奴隷や家畜のように使われ,非人間的な扱いを長期にわたって受け続けた。
このような残虐非道な行為をしておきながら,加害者である日本政府と企業は,いまだに強制連行・強制労働の事実すら認めようとせず,一切謝罪も被害弁償もしようとしない。控訴人らは,いまだにいささかも恥じることなく,国家無答責,時効・除斥の主張を続けているのである。上記のような被害者の苦しみを直視すれば,控訴人らの主張が正義公平に反し許されないことは明らかである。
第2 控訴人国の安全配慮義務
1 控訴人国の安全配慮義務を認めた原判決の正当性
(1) 原判決は,控訴人国が日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間の中国人労働者移入管理委任契約を媒介として,被控訴人ら中国人労働者の生活管理・労働管理を控訴人企業と共同でしていることによって,被控訴人らに対する直接管理支配が存在し,労働契約類似の法律関係が存在したとみることができ,これに基づく特別な社会的接触の関係の存在があるので,控訴人国は被控訴人らに対し,安全配慮義務を負うと判示している。
控訴人国が国策として決定した「華人労務者内地移入事業」は,中国人を労働者として日本国内に移送し,国内の企業の下で働かせる目的で,日本国内に供給するものである。控訴人国の委任を受けて「国家労務」として中国人労働者を管理する日本港運業会を媒介として,控訴人国は安全配慮義務を負うのであり,この点についての原判決の解釈は正当なものである。
(2) 中国人労働者を日本国内に強制移送して労働させることは,閣議決定に基づいて,国の行う国家事業として実施された。その事業の制度設計において,日本港運業会は,運輸通信省の通牒による「委任」を受け,いわば日本政府の機関として,Y2などの港運企業と一体となって,控訴訴人ら中国人労働者を戦時の港湾荷役作業を達成するために労働させたのである。運輸通信省は,移入された中国人労働者の管理に必要な管理費を,日本港運業会に支出している。これは,控訴人国と日本港運業会との間の中国人労働者の移入管理委任関係に基づく,国家労務の管理に対する費用の支払である。
中国人労働者の移入・管理の委任を受けた日本港運業会は,委任を受けた公務を遂行したのである。新潟華工管理事務所とY2による被控訴人らの生活及び労働管理は,控訴人国による管理,直接的支配である。日本港運業会とその統制下にある港運会社が行った中国人労働者の生活管理・労働管理は,控訴人国が行った行為と法的に評価しなければならない。
2 華人労務者内地移入事業の制度で予定されていた控訴人国の責任
(1) 華人労務者内地移入事業は,その計画から見る限り,控訴人国が日本国内に供給する中国人労働者は,①現地機関の「募集」に応ずるという任意労働者の形式を予定しており,②現地における移入前の適当な施設での職業訓練,③事業場に到着後の十分な休養と未熟就労者に対する職業訓練,④日本国内における,軍需省及び運輸省と協力しての厚生省による中国人労働者の管理,⑤現地から随行する日系指導員等を通じての作業指揮,⑥事業主において訓練施設,技術教育施設,娯楽施設を設け,⑦健康診断等を行うなど,移入した労働者の労働面での安全や生命健康を保護することを,供給事業主として配慮することを制度設計として予定していた。
制度設計上,中国人労働者は,控訴人国の現地機関である華北労工協会に所属する労働者として,自らの意思に基づき内地に供給されるという体裁がとられ,華北労工協会と中国人労働者との間には,雇用契約の締結又は何らかの契約類似の支配関係が予定されていたとみることができる。華北労工協会は,移入労働者に対し,身分証明書として「労工証」を発行しており,このことも,労務供給事業の供給者としての労働者に対する支配を象徴するものである。控訴人国は,労働者派遣事業の派遣元事業主と同様の法的地位にあったと評価することができる。
(2) この事業計画において,被控訴人らが収容された新華院(済南労工訓練所)や青島労工訓練所は,内地に供給する中国人労働者に対し,華北労工協会が中国現地で必要な訓練を施す施設と位置づけられている。
したがって,これらの施設に被控訴人らを収容した時点から,控訴人国は,労働者派遣事業における派遣元事業主が派遣労働者に事前の訓練を施すのと同様の支配をしたことになり,労務の給付を受領する過程における信義則上の付随義務として,被控訴人らに対する安全配慮義務を負うのである。少なくとも,これらの労工訓練施設に収容したことで,労務供給関係という法律関係のために特別な社会的接触の関係に入ったものとして,信義則上,被控訴人らの生命健康を保護する義務を負う。
済南の新華院から集結地である青島への輸送,青島から日本国内の就労事業場への移動に関しても,中国人労働者の供給者として,控訴人国は,被控訴人らの生命健康を保護する義務を信義則上の義務として負っていた。
(3) 日本国内に移入した後については,華北労工協会と中国人労働者の供給を受けた使役企業との間に,「華人労務者使用契約」というべき労務供給契約類似の契約が締結され,この契約において,中国人労働者に対する詳細な労働条件が規定されていた。控訴人国の配給を通じての食糧の確保も,契約の内容として合意されていた。そして,華北労工協会から派遣された指導員が,日本政府の嘱託員として,契約の履行状況の監督と使役事業主の指導に当たることが,制度設計として予定されていた。
したがって,控訴人国は,①労務供給契約に従った労働がされるように使役企業を監督・是正し,中国人労働者の生命健康を保持し保護する義務を負い,②使役企業が中国人労働者に対する安全配慮義務を尽くして生命健康を保持するように監督・是正する保護義務を負っていたのである。これは,安全配慮義務というよりは,生命健康保持義務ともいうべきものであり,控訴人国が華北労工協会を通じて使役企業と中国人労働者使用契約を締結し,この契約に基づき中国人労働者を日本国内に移入して労働させていることに基づいて,特別の社会的接触の関係に入った中国人労働者との間で,供給者として負う信義則上の義務である(控訴人国の委任を受けて日本港運業会が中国人労働者を管理することによって生ずる控訴人国の安全配慮義務とは,別の義務である。)。
3 控訴人国の生命健康保持義務違反による重大な人権侵害
(1) 本件で問われている控訴人会社(使役企業)の安全配慮義務や控訴人国の生命健康保持義務は,戦時における強制労働であっても人間の尊厳を否定し人道に反する奴隷的な扱いをしてはならないという,国際法上のユス・コーゲンス(強行規範)や,日本が批准した強制労働条約(ILO29号条約)の定め,あるいは近代国家の人権保障の最低限を,法的義務として表現したものでしかない。
ところが,控訴人国は,華人労務者内地移入事業において,実際には,自らが制度設計で予定していた中国人労働者の保護措置をとらず,日本国内における戦時の労働力不足を補うためになりふりかまわず,占領地の一般住民を労働に狩り出し,その労働においても人間的な扱いをせず,生命健康保持義務に著しく違反した奴隷的労働をさせて,残虐非道な人道法に反する重大な人権侵害の結果を生じさせたのである。
強制労働によって被控訴人ら中国人労働者が控訴人会社の指揮命令下で労務の提供をさせられ,寄宿舎に収容されていたとしても,控訴人国が,被控訴人らを日本国内に移送し控訴人会社に供給した者として,被控訴人らの生命健康を保持するよう務め,暴力や不衛生な寄宿舎,餓死するような食糧供給などを改めさせていたならば,被控訴人らは,飢餓状態とひどい寒さの中での労働と生活を強いられず,非人道的な扱い,人間の尊厳が奪われるような扱いをされることがなかったといえる。
(2) 強制連行・強制労働という不法行為が成立すると,安全配慮義務違反による債務不履行責任が生じないという考え方は,誤ったものであり,強制労働が容易に奴隷的労働に転化して残虐な結果を生じさせることを是認する不当なものである。強制労働において,労働者を指揮命令して働かせている使用者に対し,その労働の安全を確保する義務を負わせ,それを遵守させるかどうかが,重大な人権侵害の結果をもたらす奴隷的労働に発展させないための分水嶺である。
本件で問題となっている被控訴人ら中国人労働者の悲惨な状況は,控訴人国が,国策として行った労務供給事業という強制労働に容易に発展する事業の遂行過程で,中国人労働者を人間として扱わず,労働の安全に配慮しなかったという安全配慮義務の重大な違反の結果として生じたものとみることができる。安全配慮義務が生ずるような契約関係がありながら,その契約関係における安全配慮義務に違反した結果,重大な人権侵害が生じ,それが不法行為と評価され,安全配慮義務違反と評価されるのである。安全配慮義務を負っている者が,自らがより残虐な不法行為をしたことを主張して債務不履行責任を免れることは,正義公平に反する。
第3 控訴人会社の安全配慮義務
1 被控訴人らとY2の「法律関係」
(1) 安全配慮義務は「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において,当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務」と定義されるが,ここでいう法律関係は,契約関係に限定されない。
安全配慮義務を発生させる法律関係とは,その法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入ることによって,相手方の法益を,その法律関係に伴う危険の現実化によって侵害し,損害を与える可能性が増大するような関係であって,その法律関係における一方又は双方が,相手方に対してその危険を管理し(危険責任),あるいはその法律関係から利益を得ている(報償責任)という関係ということができる。被控訴人らのように強制労働下に置かれ,雇用関係と同視できるような事実上の使用従属関係にあったという場合でも,安全配慮義務が発生する。
(2) 被控訴人らは,日本港運業会(新潟華工管理事務所)と控訴人会社の前身であるY2から一体となって,生活管理や使役・労働管理による支配を受けていた。その使役業者である日本港運業会は,国(運輸通信省)から中国人労働者の使用・管理について委任を受け,現地供出機関である華北労工協会との間で中国人労働者使用契約を締結していた。この契約には,中国人労働者について,一定の労働条件を想定した使用条件が付されており,その契約内容は,Y2と日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間で中国人労働者使用契約を締結した際に前提となり,維持されていた。
もとより,その取決めが被控訴人ら中国人労働者に対して実行された形跡はないが,華北労工協会と日本港運業会,日本港運業会(新潟華工管理事務所)とY2との間に存在した中国人労働者使用契約を媒介として,被控訴人らとY2との間には,一定の労働条件が想定される中で,雇用関係に類似した法律関係が存在していたものというべきである。
2 Y2の被控訴人らに対する安全配慮義務
(1) 原判決は,①中国人労働者の移入・使用については,華北労工協会と日本港運業会,日本港運業会(新潟華工管理事務所)とY2との間に,それぞれ中国人労働者使用契約とでもいうべき契約が締結されていたことのほかに,②日本港運業会はもともと港湾作業会社の中央統制団体であった上,Y2の関係者を評議員として受け入れるなど,日本港運業会とY2との間には密接な関係があったこと,③被控訴人らは,生活管理をY2及び新潟華工管理事務所により,一方的・全面的に支配されていたこと,④被控訴人らは,Y2の従業員等から指示・監視されながら,そこに設置されていた設備・器具等を使用して労務に従事させられていたこと,⑤Y2は,本来は,中国人労働者と労働契約等を締結することを予定されていたのにあえてこれを怠り,中国人労働者と労働契約等の法律関係を設定しなかったこと等の事情を認定し,本件においては,「Y2と被控訴人らとの間に,Y2と日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間の中国人労働者使用契約を媒介とした労働契約に類似する法律関係が存在したと認めるのが相当であり,これに基づく特別な社会的接触の関係の存在により,Y2は,信義則上,被控訴人らに対し安全配慮義務を負っていたと解するのが相当である」と判示した。
そもそもY2は,控訴人国と一体となって被控訴人らを含む901人の中国人労働者を受け入れ,強制労働をさせ,当時,極めて深刻な状態にあった労務不足を切り抜け,国策遂行と利潤の維持に努めたのであり,控訴人国とともに,被控訴人ら中国人労働者の安全配慮義務を担うのは,当然かつ最低限の義務というべきである。
(2) 本件のような強制労働の場合であっても,不法行為責任と安全配慮義務違反に基づく責任とが併存しうることは明らかであり,強制労働関係を違法であると評価することと,安全配慮義務の成立を認めることとは,全く次元の異なる事柄である。強制労働が違法であるからこそ,その違法状態のさらなる昂進を抑止するために,安全配慮義務の成立を認める必要がある。
不法行為者に信義を要求することも,背理ではない。要求される労働をしなくては食事すら与えられない,身体に暴行を受けるという状況下で,被控訴人ら中国人労働者は,やむを得ずではあるが,ともかくも労務の提供を行ったのである。使役企業に要求される信義則の内容とは,労働者に対して労務の提供を求める以上,相手方に対する最低限の信義として,労務を提供するに当たって必要な安全に配慮すべき義務を負うということである。
以上によれば,安全配慮義務成立の要件として,当事者が当事者間の関係を是認していることが全く必要でないことも,また明らかである。
第4 安全配慮義務違反による損害賠償請求権の消滅時効について
1 いまだ時効期間を経過していないこと(起算点論)
(1) 債務不履行による損害賠償請求権の消滅時効の起算点は「権利を行使することができる時」である(民法166条1項)。この起算点について,最高裁判所は,権利の性質上,その権利行使が現実に期待できるようになった時から消滅時効が進行するとの立場をとっている(最高裁昭和45年7月15日大法廷判決)。
(2) 本件の被害者(債権者)である被控訴人らは,平成11年5月に本件訴訟の訴訟代理人らと面会して説明を受けるまで,加害者(債務者)がいったい誰なのか知るすべを有しなかった。被控訴人らは,ただ命ぜられるまま目の前の仕事に従事させられ,暴力と栄養不良,不衛生極まる状況の下,牛馬のように重労働を強いられ,絶望的な日々を送っていたのであり,昭和20年戦争終了後に中国に送還された際にも,強制連行・強制労働の加害者(債務者)がいったい誰だったのか教えられることもなく,権利行使に必要な証拠となり得るような資料も一切渡されることはなかったのである。
さらに,控訴人国は,被控訴人らを送還後に「華人労務者就労顛末書」等を焼却・隠蔽し,平成5年5月にNHKの報道によりその存在が明らかになるまで,その存在すら否定してきた。Y2も,昭和25年にa株式会社に吸収合併されてその名称自体が消滅し,再度の合併を経て平成3年には現在の株式会社Y1という社名になったのであり,その名称から「Y2」を推知することは不可能である。
本件では,このように,権利発生時には,被害者(債権者)にとって権利発生の根拠となる事実関係から加害者(債務者)を特定することが困難であり,また,権利発生後も,加害者側の行為によって,加害者の発見や特定が事実上不可能となったり,立証に不可欠な資料にアクセスできないなど,被控訴人らは,損害賠償請求権の権利行使が事実上不可能な状況に直かれ続けたという特殊性がある。
(3) 昭和53年10月23日に日中平和友好条約が発効するまでは,日本と中国は国際法上は戦争状態にあった。このような法律上及び外交上の戦争状態が継続している間,中国の一般国民が,当該戦争時に発生した損害賠償請求権の権利行使を行うことが不可能であったことは明らかであって,少なくとも昭和53年10月23日まで消滅時効が進行しないことも当然である。
本件の損害賠償請求権の特殊性からすれば,加害者の特定や立証資料の収集のために,日本での調査及び日本の弁護士等の専門家による協力がなければ,権利行使の期待可能性を認めることができない。中国では昭和61年2月に公民出境入境管理法(出入国管理法)が施行され,海外渡航の道が開かれたが,主に農村で暮らし渡航費用の捻出も困難であった大多数の中国一般国民にとって,日本への渡航は不可能なことであった。また,中国において人民公社制度が廃止され,個人所有が認められたのは昭和59年のことであり,民法通則が制定され,個人的利益に基づく請求権が法的に確立し,訴訟手続を行う律師(弁護士)の制度が復活したのは昭和62年のことであったから,中国の一般国民の法意識の状況や法的援助をする弁護士制度が未整備な状態では,権利行使を行う現実的可能性がなかったのである。
さらに,中国の政治情勢においても,対日戦争賠償問題について「1972年の日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって,個人の賠償請求は含まない」との見解が当時の銭其file_9.jpg外相によって示されたのは,平成7年3月7日のことであった。
(4) これらの点を総合的に考慮すれば,本件の損害賠償請求権の権利行使が現実に期待できるようになったのは,本件訴訟の提起のために,被控訴人らがその訴訟代理人らと接触し,同代理人らが「華人労務者就労顛末書」を入手し,かつ,Y2の後継会社が控訴人会社であることを調査・確認した最初の時点である平成11年初めころと解するのが相当である。
したがって,被控訴人らの損害賠償請求権の消滅時効の起算点は平成11年初めであり,それまで時効は進行していないのであるから,その請求権はいまだ時効によって消滅していない。
2 時効利益の援用が権利の濫用であること(権利濫用論)
(1) 仮に消滅時効が完成しているとしても,事案によっては,①権利の実現が事実関係尊重によってもたらされる法的安定性より優先されるべき場合があること,②長期間権利行使をしなかったことにつき,債権者側に合理的な理由や汲むべき事情が認められる場合があること,③証拠の散逸,入手困難が債務者側の行動によってもたらされ,債権者に不利益を負わせるのが不適当な場合があることも当然考えられ,個別事案を検討し,信義則違反の法理,権利の濫用法理に依拠しつつ,正義衡平の立場から債務者の時効利益の援用を阻止すべき場合が認められている。
(2) 控訴人らが被控訴人らに対して行った違法行為(債務不履行)は,その目的や態様が極めて悪質であって,このような悪質で違法性の高い行為をした控訴人らに時効を援用させ,当然甘受すべき賠償義務をただ時間が経過したというだけで免れさせることは,著しく正義衡平に反する。
控訴人国は,日本国内における労働力不足を解消し戦時体制を維持するため,国家権力を背景にして組織的・計画的に,中国の多数の一般住民を拉致して日本に強制連行し,使役企業と一体となって過酷な重筋労働を強いたのであり,中国人労働者の人格を否定し,その生命・身体・健康・自由に対する重大な人権侵害行為を長期間にわたり継続したのである。日本の統治権が及ばない中国領土内で中国の一般国民を拉致し,日本に連行して強制労働させたことは,日本人労働者の場合に比して,その悪質性は一段と高い。
Y2も,これに積極的に加担したものであり,国と一体となって移入計画の立案・実施に深くかかわり,新潟華工管理事務所と人的・組織的に一体となって,企業利益の追求とそれに連なる国家目標達成のために被控訴人ら中国人労働者に強制労働を強いたのである。
控訴人国は,3万人余の中国人労働者の労働によって,日本国内の労働力不足,とりわけ本来日本人の成人男性が担うべき重筋労働力の不足を補い,自らの戦時経済体制を維持する利益を得た。また,Y2は,被控訴人ら中国人労働者を受け入れた時期以降,急速に売上げを伸ばした。さらに,昭和20年12月,中国人・朝鮮人労働者を使役した企業に対する国家補償が行われ,日本港運業会は多額の補償金を受け取った。当然,Y2もその分配を受けているが,中国人労働者に対しては賃金を支払わず,死亡・障害による補償も一切していない。
(3) 被控訴人ら中国人の受けた被害は深刻であり,その受けた傷は現在でも癒されておらず,被害回復・補償をする必要がある。
被控訴人らは,中国国内で家族とともに農業に従事するなどして平和に生活していたのに,何の合理的理由もなく,いきなり日本軍やその傀儡軍に銃剣で拉致され,家族や故郷から引き裂かれた。そして,日本に連行され,極めて不十分な栄養状態や衛生状態の中で,風雪の中,何時間もの間重筋労働を強いられるという非人間的な扱いを受けたのである。いつ帰れるとも知れず,生きて帰れるという希望のない中での強制労働であった。その心身に受けた被害は,言葉に表すこともできない。
戦争が終結し,被控訴人らは船で送還されて,ようやく故郷にたどり着いたが,その後の生活においても,心身の健康被害に苦しみ,社会的差別を受けるなど,日本での強制連行・強制労働によって取り返しのつかない被害を受け続けた。被控訴人らは,このような筆舌に尽くし難い被害を与えた控訴人国やY2(控訴人会社)が長年償いを放棄し,裁判においても加害事実や放置していた事実すら認めず,謝罪・補償に背を向ける態度を示していることにつき,60年経た現在でも激しい怒りを持っている。
(4) 被控訴人ら被害者の権利行使の困難性は,控訴人らの本件加害行為と,違法行為終了後の控訴人らの行動によってもたらされたものである。
被控訴人らは,外国である日本で訴訟をしなければならず,日本の弁護士の献身的な援助なくては訴訟追行ができず,政治的・経済的困難から,ごく最近まで権利行使をすることができなかった。被控訴人らがこのような状態に追い込まれたのは,控訴人らの強制連行・強制労働によるものであることは否定しようのない事実である。債務者の行為によって,債権者が長年にわたり権利行使困難な状態に押し込められたのである。
このような控訴人らに時効援用をする資格はないし,また,このような状態に追い込まれた被控訴人らに不利益を負わせるべきではない。
昭和21年2月ころ,近い将来に予想されていた中国側からの調査に備える目的で,外務省報告書や事業所報告書が作成された。しかし,真実をありのままに記載し中国側が実態を知れば,関係者が戦犯として追及を受けるのではないかとの危惧から,食糧,賃金,宿舎の衛生状態,衣服の支給などについてあたかも十分な支給に努力したかのような虚偽の記載がされた。また,外務省報告書,事業所報告書の存在それ自体が戦犯追及の材料とされることを恐れた控訴人国は,外務省に残っていた部数をすべて焼却し,さらに国会答弁においても,昭和29年から一貫して,中国人労働者の供出・移入は任意の契約に基づくもので強制連行や強制労働はなかった,詳細は資料がないため明確にできないなどと繰り返し答弁してきた。Y2及びその後継会社も,強制労働の記録を保管していながら開示を拒否している。
控訴人らのこれらの行為は,被控訴人らが証拠資料にアクセスする機会を奪い,立証困難性を高め,実質的に被控訴人らの権利行使を困難にさせたものと評価される。強制連行・強制労働の被害者らが外務省報告書などの資料を入手できるようになったのは1990年代半ばであり,被控訴人らにとっては,本件の訴訟代理人らと接触を持った平成11年初めころである。
(5) 長期間権利を行使しなかったことにつき,被控訴人らには,合理的理由や汲むべき事情がある。
昭和53年10月23日に日中平和友好条約が発効するまでは,日本と中国は国際法上は戦争状態にあり,それに先行する昭和47年9月29日に日中共同声明が出されるまでは,日本は被控訴人らが居住する中華人民共和国と国交を断絶していた。
日中平和友好条約の文言上も,戦争時の個人の賠償請求権も放棄されたのか,それとも国家の賠償請求権のみを放棄しただけなのかについては,明確でなかった。被控訴人らは,所有権観念が否定され,公民である個人が私的な利益に基づき他者に損害賠償を請求すること自体が否定された中国の社会体制の下で生活し教育されてきたものであり,その法意識において,個人の損害賠償請求権を行使することは期待できなかった。その後,平成7年3月7日の中国の全国人民代表大会で,当時の銭其file_10.jpg外相が対日戦争賠償問題について,日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって個人の賠償請求は含まないとの見解を示したことにより,ようやく被控訴人らは権利行使が可能となったのである。
本件で被控訴人らが権利行使をしようとすれば,加害者の特定や立証資料の収集のために,日本での調査及び日本の弁護士等の専門家による協力が必要であった。中国の一般国民に海外渡航の道が開かれたのは,公民出境入境管理法が施行された昭和61年2月のことであったが,主に農村で暮らし渡航費用の捻出も困難であった被控訴人らにとって,日本への渡航は事実上不可能であった。中国国内においても,個人所有が認められたのは昭和59年であり,個人的利益に基づく請求権が法的に確立し,法的援助をする律師の制度が復活したのは昭和62年のことであった。
(6) 日本と中国は,平成10年11月30日に「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」を発表し,その中で,日本国は,公的な立場から,過去の一時期の中国への侵略によって一般の中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し,深い反省を表明している。
それにもかかわらず,控訴人国は,他方で,同じ一般の中国国民である被控訴人らの損害について,消滅時効を援用してその責任を逃れようとしている。このような控訴人国の態度は矛盾であり,禁反言の法理及び信義則に反する態度であって,許されないものである。
以上の各事情によれば,仮に消滅時効が完成しているとしても,控訴人らの時効利益の援用が権利の濫用であることは明らかであって,かつ,控訴人らに援用権を行使させないことによって時効制度の目的に著しく反することにもならない。
第5 民法724条後段の解釈論
1 はじめに
(1) 本件において,時の経過を理由に被控訴人らの権利が消滅したとすることは,著しく正義公平の理念に反する。
民法724条後段の解釈に当たって特に関連する本件事案の特徴をまとめると,まず第1に指摘すべきは,加害行為の凄惨性であり,本件加害行為が人間の尊厳を踏みにじる甚だしい人権蹂躙行為であったという点である。控訴人国及び控訴人会社のかかる加害行為は,人間が理性的存在であることを頭ごなしに否定するものであり,憲法は無論のこと自然法にも反する重大かつ高度の違法性を帯びている。
第2に指摘すべきは,加害者がその責任を免れるために行った行為が,極めて背信的な提訴妨害,証拠隠滅行為であったという点である。平成5年にNHKによって外務省報告書の存在及び内容がスクープされなければ,本件加害行為の事実は闇から闇へと葬り去られ,決して明るみに出ることはなかったに違いない。控訴人国及び控訴人会社は,その責任を免れるため,故意かつ徹底的に,組織ぐるみで事実隠蔽工作を行っていたのである。
以上に加えて,本件で特に指摘すべきは,外国人を見知らぬ国に拉致してきて強制労働に従事させたこと,この加害行為それ自体が,究極の提訴妨害となっていることである。外国人であったがゆえに,被害者らは,祖国復帰後,責任追及の声を上げることもできず,権利行使をする術もなく,ただただ長い時間が経過してしまったのである。
(2) 本件は,筆舌に尽くしがたい重大な人権蹂躙行為の被害者であり,その生き残りである被控訴人らが,加害者である控訴人らの手によって行われてきた究極の提訴妨害・証拠隠滅のために,戦後長らく責任追及の道を閉ざされ続けてきていたが,戦後50数年に至って初めて責任追及が可能になったことから,平成11年から14年にかけて,人権救済の最後の砦である日本の裁判所に文字通り命を賭けて人間の尊厳の回復を求めてきた事案である。
被控訴人らは,その権利の行使を無駄に怠ってきたのではない。どんなに行使したくても,それが長期間にわたりできなかったのである。その責任は,そもそも日本における権利行使が困難な外国人を拉致し,人権蹂躙行為を行い,しかも組織ぐるみで証拠隠滅を図り,被控訴人らの権利行使を妨げた控訴人らの行為にこそ求められるべきである。
法の正義と公平にかけて守るべき「不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定」とは何か。それは,被控訴人らの正当な権利を認め,速やかに加害者たる控訴人らに損害賠償義務を果たさせることである。被控訴人らの正当な権利を消滅させて,加害者たる控訴人らの責任を免責し,これを保護することではない。
2 民法724条後段の法的性質
(1) 民法724条後段は,前段と同様に消滅時効を定めたものと解すべきである。なぜなら,消滅時効と解することが,「同様とする」との条文の文言,立法者の意思及び立法の沿革に沿うのであり,何より消滅時効と解することにより,明文規定や援用権濫用等の判例上確立した解釈によって当該事案の具体的事情に応じた「損害の公平な分担」,すなわち正義と公平にかなう解決を図ることが可能となるからである。
民法724条は,前段・後段とも,被害者の権利行使可能性を前提とする権利不行使への非難を根拠にして,時効制度によって被害者と加害者と目される者との利益の調整を図ったのである。
(2) これに対し,民法724条後段を除斥期間と解することは,条文上明確な根拠もなく,立法者の意思にも立法の沿革にも沿わず,あえて除斥期間と解することによって被害者の損害賠償請求権を機械的に消除すべき合理的理由もないから,法解釈の限界を逸脱するものであり,誤りである。
民法724条後段を除斥期間と解する最高裁平成元年12月21日判決は,同条の趣旨が「不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定」を意図するものであることを根拠としている。しかし,要請されている法律関係の速やかな確定とは,第一次的には,被害者に対する加害者の損害賠償義務を早期に果たさせ,それによって不法行為をめぐる法律関係を確定させることであり,間違っても,加害者を免責して加害者の地位を安定させることではない。時の経過を理由として被害者救済を犠牲にすることで法律関係を確定させるべき要請は,二次的なものにすぎない。不法行為法の根本理念が「損害の公平な分担」,すなわち,被害者と加害者の利益の調整にあることからすると,時の経過を理由に被害者の救済を遮断するためには,被害者に何らかの非難可能性がなければならないはずであり,「法律関係の速やかな確定」という民法724条の趣旨は,単なる時の経過により一方的に被害者救済を切り捨てる解釈の根拠にはならない。
(3) 民法724条後段の適用が問題となる場合において,被害者の権利行使可能性という観点から具体的事案の諸事情を考察して適正妥当な解決を図ることは,近時の最高裁の確定的な解釈手法となっている(最高裁平成10年6月12日判決,最高裁平成16年4月27日判決,最高裁平成16年10月15日判決)。
これは,最高裁が,被害者に権利行使可能性がない場合にまで画一的に被害者の請求を遮断することは,損害の公平な分担という不法行為法の理念に反するものであって誤りであることを認識していることの表れである。その意味では,被害者の権利行使可能性を無視して請求権を画一的に切り捨てる平成元年判決は,実質的に変更されている。
3 民法724条後段の起算点
(1) 不法行為が継続している場合には,不法行為の終了時が民法724条後段の起算点となることには争いがないものと思われる。不法行為が継続していない場合であっても,不法行為の性質上,不法行為終了時までに被害者が一般的・客観的に権利の存在を認識できない場合や権利行使が不可能である場合には,被害者には権利行使可能性が全くないから,民法724条後段の起算点は不法行為終了時ではなく権利行使可能時となると解すべきである。
これを条文の文言の解釈として明確に定義するならば,民法724条後段にいう「不法行為の時」とは,「不法行為が終了し,被害者が損害及び加害者を一般的・客観的に認識することが可能となった時」である。
(2) 民法724条前段と後段に共通する期間制限の存在理由は,被害者の権利行使可能性を前提とする権利不行使に対する非難可能性である。
民法724条前段は,被害者の主観的事情に着目して,被害者が損害及び加害者を知りながらなお3年間権利を行使しなかった場合には,「権利の上に眠る者」と評価されて権利を消滅させられてもやむを得ないから,例外的に3年の短期時効で足りるとした。他方,同条後段は,そのような主観的事情を排除し,一般に被害者は不法行為時に権利の存在を認識し権利行使が可能となるものであるから,以後20年の間に権利を行使しなかった被害者は権利を失ってもやむを得ないとの判断の下に,不法行為の時から20年の期間経過という客観的要件を設定することにより,被害者と加害者との間の利益の調整を図ったものである。
そうすると,不法行為の性質いかんによっては,不法行為終了時においても,なお被害者が権利の存在を認識することができない場合や,権利の存在を認識できていてもその権利を行使できない場合がある。それは,被害者が不法行為終了時に「損害」を了知することができない場合,及び不法行為の行為主体である「加害者」が誰か分からないために権利行使の相手方が分からない場合である。被害者が不法行為終了時に損害を認識できない場合の救済については,既に平成16年の2つの最高裁判決が明らかにしている。
これらの平成16年判決における利害得失状況は,不法行為の性質上,一般的・客観的に被害者からして加害者が誰であるかを認識することができない場合にも同様に当てはまるから,平成16年判決と同様に,被害者が一般的・客観的に加害者を認識することが可能となるまでは,民法724条後段の期間は起算されないと解すべきである。
(3) 以上を本件に適用すると,まず,控訴人国は故意に外務省報告書を隠蔽し,控訴人会社は強制労働の事実を示す根幹にかかわる部分について事業所報告書に虚偽の記載をして証拠隠滅工作を行い,もって被害者の損害賠償請求権の行使を妨害していたのであるから,これらの権利行使妨害は本件加害行為と一体をなしていると評価される。したがって,本件不法行為の終了時は,控訴人らによる権利行使妨害が終了した時,すなわち,NHKがスクープした外務省報告書の存在を政府関係者が認めた平成6年の時点であるから,起算点はこの時となる。
この解釈によらないとしても,本件不法行為は,当時の国の政策に基づき,日本軍が被控訴人らを拉致して親潟港まで連行し,宿舎に監禁し,その行動の自由を奪って日夜強制労働に従事させていたものであるから,このような不法行為の性質からすれば,被害者は,不法行為の主体が控訴人国であることまでは認識できても,従事させられている労働の事業主体がどこなのかまでは認識できなかったはずである。被害者らにおいてその事業主体が控訴人会社であることが一般的・客観的に認識可能となったのは,どんなに早くとも,事業主体として「b社」,「c社」との名称が記載されている前記外務省報告書がNHKによってスクープされた平成5年5月17日であったから,起算点は早くともこの時となる。
したがって,いずれにしても,被控訴人らについて,民法724条後段の20年の期間は経過していない。
4 民法724条後段の期間の進行停止
(1) 被害者にとって権利行使がおよそ不可能な客観的状況が継続している間は,民法724条後段の期間は進行しないというべきである。
このことは,被害者に権利行使可能性が全くないにもかかわらず時の経過により被害者救済を犠牲にすることは,損害の公平な分担という不法行為法の理念に反することから導かれる。
(2) 本件では,①終戦後,被控訴人らの祖国たる中華人民共和国と日本との国交は断絶して,日中平和友好条約が発効した昭和53年10月23日までは戦争状態にあり,②中華人民共和国では,日本への自由往来のための法制度が整備されておらず,公民出境入境管理法が施行された昭和61年2月1日までは私事による渡航のための旅券の発給を受けられなかった。
したがって,不法行為終了時たる昭和20年11月から公民出境入境管理法が施行された昭和61年2月1日までは,被控訴人らにとって権利行使がおよそ不可能な客観的状況が継続していたから,民法724条後段の期間の進行は停止していたというべきである。
5 民法724条後段の適用制限
(1) 仮に民法724条後段の20年の期間を除斥期間と解するならば,具体的事案において除斥期間の適用の結果が著しく正義公平の理念に反し,その適用を制限することが条理にかなうと認められる特段の事情がある場合には,除斥期間の適用が制限されるべきである。
著しく正義公平に反する具体的根拠は,①被害者の非難可能性の不存在,②クリーンハンズの原則に違背,③加害行為の甚だしい悪質性の3点に集約される。これらはいずれも法の一般原則に反するものであり,ある法解釈が法の一般原則に反する場合は,一般理論(条理)による修正を受ける。
最高裁平成10年6月12日判決は,平成元年判決を引用して民法724条後段の期間を除斥期間と解釈しながら,それを字義どおりに適用することにより著しく正義公平に反する結果となる場合(つまり,法の根本理念に反する結果が導かれる場合)には,条理に基づき民法724条後段の効果が制限される事例があることを明らかにした。この平成10年判決は,条理に基づき除斥期間の効果を制限するとの結論を導き出すに当たり,当該事案の具体的事情の中に民法158条の法意が参考となる個別事情があったために,その結論を導くための手段の一つとして民法158条の法意を援用しているが,法意を援用すべき明文規定がなければ条理による適用制限ができないとしているものではない。
(2) 本件では,以下のとおり,被控訴人らには民法724条後段の適用を制限すべき特段の事情がある。
時の経過を理由に被害者の利益を犠牲にするためには,権利不行使について被害者に何らかの非難可能性がなければならない。しかし,被控訴人らは,本件の訴訟代理人弁護士らとの出会いの時である平成11年4月までは権利行使の可能性を認識することすら不可能であった。しかも,被控訴人らが長年にわたり権利行使できなかったのは,①控訴人らが外国人を拉致したがゆえに,日本の弁護士との接触が不可能で,②異国へ連行され宿舎に監禁されて強制労働に従事させられたため,権利行使の相手方となる事業主体の認識が不可能で,③控訴人らの証拠隠滅工作により,被害事実の立証が不可能であったという,いずれも加害者である控訴人らの行為に起因する事情によるものであった(被害者の非難可能性の不存在)。
加害者が,一定期間の経過により権利が消滅するとの規定があることを悪用して,不法行為事実の発覚を妨げる目的で故意に証拠を隠滅し,被害者の権利行使を妨害した場合には,時の経過を理由に当該加害者を免責することは著しく不正義である。控訴人らは,いずれも戦後に,組織ぐるみの徹底した証拠隠滅工作を行って強制連行・強制労働の事実の隠蔽を図り,その間に長期間が経過したのであるから,時の経過を理由に控訴人らの責任を免ずることは著しく不正義である(クリーンハンズの原則に違背)。
本件加害行為は,平和に暮らしていた一般の中国国民を突然拉致し,監禁し,日本に連行し,想像を絶する劣悪な環境下でろくな食事も与えずにその意に反する苦役に従事させたというものであり,その残虐非道性の一端は,新潟へ連行された者の実に21%が死亡し,生存者もそのほとんどが栄養失調に起因する角膜潰瘍や夜盲症に罹患していたことに表れている。人間が理性的存在であることを頭ごなしに否定する甚だしい人権蹂躙行為であり,また,当時の国際法,国際慣習法にも違反する行為であった。国際法上,戦争犯罪や人道に対する罪には時効がない(加害行為の甚だしい悪質性)。
第6 国家無答責について
1 現行憲法の下では国家無答責の適用はない
(1) 国家無答責の法理について,近時の高裁判決は,国の権力的作用については国の責任を認めないという「法政策」又は「実定法上の制度」として確立していたこと,戦前においては国の権力的作用の賠償責任を認める「実定法上の根拠」がなかったことを理由としている。しかし,戦前の国家無答責という法理は,民法の不法行為規定の適用範囲の解釈の問題であって,判例法理にすぎず,しかも,その適用範囲も縮小されてきていたのである。これらの高裁判決には,そのことを看過した誤りがある。
国家無答責の法理が前提としていたのは,公法私法二元論と,その制度的基礎である行政裁判所と司法裁判所の二元的裁判システムである。したがって,原判決が判示するとおり,国に対する損害賠償請求権を否定する考え方自体が,行政裁判所が廃止され,公法関係及び私法関係の訴訟のすべてが司法裁判所で審理されることとなった現行法下においては,合理性・正当性を見いだしがたい。
行政裁判所と司法裁判所という二元的裁判システムが国家無答責の制度的基礎であったのであれば,それは実体法というよりは手続法の問題であるから,裁判所が法を適用する際には,裁判時法を適用すべきである。そうであるならば,百歩譲って国家無答責が判例法理ではなく法制度であるという立場に立ったとしても,手続法は裁判時法が適用されるから国家無答責は否定され,実体法は行為時法が適用されるが,民法は行為時においても存在しており,国家無答責という手続上の障害が否定されたことによって,民法が適用されるということになる。
(2) 日本国憲法は,個人の尊重(13条),個人の尊厳(24条)を中核とする人権保障の体系であり,個人の尊厳を尊重し被害者救済の立場を徹底する趣旨から憲法17条が定められて,国家の賠償責任に関して根本的な価値転換が生じた。その根本的な価値転換は,民法1条ノ2(現2条)を介して私法領域にも及び,同条に遡及効を認めることにより徹底されている。
憲法98条1項は,憲法の条規に反する法律は効力を有しないと規定するが,この規定が経過規定としての意義をもち,日本国憲法施行の際に存する明治憲法下の法律,命令などについて,憲法の条規に反するものが効力を失うことは学説においても争いがなく,最高裁も認めている。この規定は,憲法条項に反する法律解釈も許されないことを当然に含んでいる。
最高裁平成14年9月11日大法廷判決は,郵便法の規定のうち,書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失によって損害が生じた場合に,不法行為に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は,憲法17条が立法府に付与した裁量の範囲を逸脱したものであり,違憲無効であると判示して,法律の定めにより国の賠償責任を免除又は制限することには,立法裁量に限界があることを明らかにしている。
そうであるならば,仮に国家無答責の法理が実体法上の制度であるとしても,大法廷判決の趣旨に照らし,国家無答責の適用が立法裁量の限界を超える場合には,憲法98条1項によりその適用は排除される。また,国家賠償法附則6項も憲法17条にいう「法律」の一つであるから,そこでいう「従前の例」の解釈についても,大法廷判決の趣旨は十分に尊重されなければならない。
大法廷判決に従い,国家無答責の法理を「従前の例」に含め,これを本件に適用して控訴人国の不法行為責任を否定することが立法裁量の範囲を逸脱するか否かを検討すると,本件における強制連行・強制労働という不法行為の態様は極めて悪質であり,これによって侵害された法的利益の種類及び侵害の程度は極めて重大である。これに国家無答責の法理を適用することは全面的な免責を認める不当な結果になるものであり,個人の尊厳の理念の下では国家無答責という考え方に正当性を認めることはできず,控訴人国の免責を認めることの合理性及び必要性は全く存在しない。
したがって,本件に国家無答責の法理を適用して控訴人国の責任を否定することは,憲法17条による立法裁量の範囲を逸脱するものであり,その適用が否定されるから,国の責任の有無は民法の不法行為規定によって判断されることになる。
(3) 日本国憲法において,個人の尊厳の尊重は,基本的人権として侵すことのできない憲法の根源的な絶対的価値である。この絶対的な価値を有する人間の尊厳が侵害されたときに,過去の行為というだけで,国家無答責の法理を適用して控訴人国の賠償責任を否定することは,憲法の根源的価値を否定することであり,許されない。法の究極の目的は正義公平の理念の実現であり,個人の尊厳の尊重にかなう法解釈をとることは,正義公平の理念の要求するところである。
正義公平の理念に基づき国家無答責の法理の適用を制限するための判断要素としては,①加害行為の残虐非道性,②被害の甚大性に加え,③事実の隠蔽など加害者である国家側の要保護性をも総合的に考慮すべきである。
本件における加害行為の残虐非道性及び被控訴人らの被害の甚大性は,被控訴人らの供述から明らかであり,原判決をはじめとする中国人強制連行に関する多数の判決が認定している。この人間の尊厳的価値を否定する扱いを正当化する合理性も必要性も見いだすことはできない。しかも,控訴人国は,終戦直後に詳細な調査をして強制連行・強制労働の全貌を把握していたにもかかわらず,作成した外務省報告書等をすべて焼却し,その後は一貫して,強制連行や強制労働の事実はなかったこと,詳細は資料がないため明確でないことなどを繰り返し答弁してきた。このような控訴人国に対して,国家無答責の法理を適用して責任を免れさせることは,正義公平の理念に照らして許されるものではない。
したがって,本件には国家無答責の法理の適用は排除され,「従前の例」として民法の不法行為規定が適用されることになる。
2 戦前の判例及び解釈によっても本件に国家無答責の適用はない
(1) 仮に本件強制連行・強制労働の違法性を行為当時の法令に照らして判断すべきであるとしても,本件には国家無答責の適用がないというべきである。
戦前の判例及び解釈によっても,国の行為すべてに国家無答責の適用があったのではない。旧憲法下においても,法律の留保の下ではあるが基本的人権は保障されており,個人の尊厳の価値を損なうような残虐非人道的な行為について,公権力の行使というだけで一律に国家の賠償責任を否定することは,基本的人権の保障と相いれないものであった。大審院昭和16年11月26日判決は,公権力の行使が「その範囲を逸脱し,行政処分又は行政執行と目し難き程度に至りて他人の権利を侵害したとき」には,国や地方公共団体に民法上の不法行為責任が認められることを判示している。
本件強制連行・強制労働が個人の尊厳の価値を損なうような残虐非人道的な行為であったことは前述のとおりである。したがって,前述のとおり,正義公平の見地から,本件には国家無答責の法理は適用されないものというべきであり,国家無答責の法理の適用がない場合,民法の不法行為規定が適用される。
(2) 明治憲法下においても,国の不法行為に対し公権力の行使というだけで一切の救済を与えないことには,合理性が見いだせないものであった。当時においても,既に有力な学説は,正義公平の原則がこの問題の解釈を主導すべきであると論じていた。裁判例においても,当初は国に対する損害賠償請求は全く認められていなかったものが,私経済作用に伴う不法行為については民法の不法行為規定の適用が認められるようになり,次いで非権力的作用に伴う不法行為についても広げられていった。
戦前の大審院判例は,何が「権力的作用」に当たるのかという範囲については一貫しておらず,被害者の権利救済のためにできるだけ制限的に解釈し,賠償の範囲を拡大させようとしてきた。その根底には,国の私人に対する不法行為について国家無答責の法理の適用により免責することは,正義公平の原則との関係で問題が大きいという考慮があったことは明らかである。戦後の最高裁判決も,日本国憲法制定前に起きた事案について,このような大審院判決の流れを踏襲した(最高裁昭和31年4月10日判決)。これらの学説や判例の流れを踏まえ,憲法17条が制定された戦後の司法裁判所としては,行為当時の法令を解釈するに際しても,「権力的作用」をできるだけ厳格に解し,被害者の権利救済を拡大していくことが求められる。
本件の強制連行・強制労働は,国策ではあったが,そのことと国の権力作用とは同じではない。大審院判例に従うならば,権力的作用か否かを判断するについては,実態の残虐非道性ではなく,授権規範すなわち制度設計に着目すべきである。その発端となった中国人内地移入事業は,中国人の労働力を日本国家の戦時経済体制の中でいかに効率よく利用するかという総合的経済問題であり,その内容は,控訴人国が日本港運業会に委任して行った各企業に対する労務供給事業であった。それは,運営主体は国であるものの,私経済行為類似,非権力的行為の性質を有するものである。
さらに,最高裁昭和31年判決に従えば,本件は控訴人国,その国家機関あるいは個々の官吏の過失行為の不法行為として把握することが可能である。控訴人国は,労務供給という先行行為に基づいて中国人労働者を強制労働させている以上,使役企業をして中国人労働者の最低限度の生命健康保持義務を守らせるために,行政指導として要請,勧告ないし注意をし,もって中国人労働者を保護する義務を負っていたのに,その義務を怠った点に故意又は過失があったということができるのである。この控訴人国が負うべき保護行為の性質は,公権力の行使ではない。
したがって,本件の強制連行・強制労働は「権力的作用」には該当しないというべきであるから,国家無答責の法理の適用はなく,控訴人国は民法の不法行為規定に基づき,被控訴人らに対する不法行為責任を負う。
第7 請求権放棄について
1 はじめに
(1) 原判決は,被控訴人らの主張を極めて正確に理解し,控訴人国の請求権放棄の主張を退けた。そして,これまで,ほぼすべての地裁,高裁判決は,それぞれ理由を若干異にするとはいえ,控訴人国の主張にかかる個人賠償請求権放棄の主張を,ことごとく退けている。
現在,控訴人国の主張する請求権放棄論は,法理論の上からも,判例の傾向からも,破綻していることは明らかである。
(2) 日中間には,日中共同声明,日中平和友好条約,パートナーシップの構築に関する日中共同宣言という3つの取決めが存在し,そのいずれにおいても,日本国政府が,過去に中国への侵略によって中国国民に多大な災難や重大な損害を与えたことに対する責任を痛感するという,加害者としての責任があることを確認している。加害者は被害者に対し,加害行為によって生じた損害を賠償することが法的にも道義的にも求められる。請求権を放棄するかどうかは,被害者側が行うものである。被害者による加害者に対する賠償請求権が放棄されたかどうかを判断する場合には,このことが十分考慮されなければならない。
本件訴訟では,まさに加害者としての日本国の責任の取り方が問われている。いたずらに法技術論に目を奪われるべきでなく,日中の両国民の将来の関係を見据え,加害国の責任の取り方として何が正義かが判断されるべき問題である。
2 日華平和条約による請求権放棄論について
(1) 控訴人国は,サンフランシスコ平和条約発効のまさにその日(昭和27年4月28日)に日本政府と中華民国政府(台湾政府)との間で締結された日華平和条約の11条が「日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サン・フランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする」と定めていることを根拠に,日華平和条約によって,戦争の遂行中に生じた日本政府の行動から生じた個人賠償請求権を含むすべての請求権は,全中国人との関係で,既に放棄されていると主張する。
しかし,このような日華平和条約の条約解釈は,国際法の通説的理解として明らかな誤りである。
(2) 国際法の通説的理解は,条約締結の特異な過程,すなわち,当時の国内外の政治状況を無視することはできないとの前提に立って,日華平和条約は,あくまでも台湾及び澎湖諸島のみに適用範囲が限定されるものであり,中華人民共和国政府にはいかなる効果も及ばないとしている。
サンフランシスコ平和条約に対して,当時の中華人民共和国政府は,同政府の参加を排除した不法かつ無効な条約であるという立場をとっていたのであり,日中間の賠償問題は,サンフランシスコ平和条約によっては処理されていない。控訴人国の主張は,正しい歴史認識に立ったものではなく,加害国の都合だけを優先し,日中共同声明や日中共同宣言などで侵略行為によって中国国民に多大な災難と損害を与えたことの責任を痛感している加害国としての道理も正義もない,なりふりかまわない主張でしかない。
3 日中共同声明における請求権の放棄について
(1) 昭和47年に発出された日中共同声明の5項は,「中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と規定している。
控訴人国は,日華平和条約11条で規定する「相当規定」であるサンフランシスコ平和条約14条(b)の国内法的効力によって,戦争賠償のすべての請求権は既に放棄されていると主張しているので,日中共同声明5項による「放棄」は創設的ではなく,日華平和条約で放棄の効力を生じていることの確認的意味をもつということになる。
(2) 日中共同声明5項の締結経過の記録を見ると,中華人民共和国政府は,日本国に対する損害賠償請求(権)を放棄することについては,むしろ自ら進んで提案したが,交渉の過程で,中国「国民」の損害賠償請求権の問題は一切語られたことはなく,ただ,日本側から,日華平和条約との関係で,損害賠償の「権利」を削除してほしいという強い要望が示され,中国側がその要望を受け入れたにすぎないことが分かる。
日中共同声明は,日中国交回復という点では一致するが,戦争終結や戦争賠償問題では著しく立場が異なっており,同床異夢で締結された政治的妥協の産物である。このような政治的文書の法的効果を解釈するに当たっては,条約以上に,国際的な条約の解釈基準に厳格に沿って解釈しなければならない。妥協の産物であることから,その文言自体が双方の立場から解釈できるからである。条約の解釈基準は,わが国も批准した条約法に関するウィーン条約(条約法条約)に規定されている。
条約法条約の解釈基準により,用語の通常の意味に従って解釈すれば,日中共同声明5項は,その文言どおり「中華人民共和国政府」が「日本国」に対する戦争賠償の請求を放棄したものであって,サンフランシスコ平和条約14条(b)や日ソ共同宣言6条のように国民(個人)の賠償請求権を放棄したものでないことは明らかである。解釈の補足的手段として,条約の準備作業及び条約締結の際の事情に依拠しても,なお一層この解釈が補強される。
4 個人の損害賠償請求権をめぐる国際法の発展と請求権放棄論
(1) 人類の長年の英知の結晶ともいえる国際人権法,国際人道法の歴史は,本件の強制連行・強制労働のように,国際法の見地からしても明らかに許されざる違法行為の被害者個人が,国家の責任において救済されなくなることを決して認めてはこなかった。国際法の発展は,明らかに,戦争によって発生した重大な人権侵害を決して許さないだけではなく,それによって生じた個人の被害を回復することを求める方向に流れてきた。
本件において,被控訴人らの個人賠償請求権が放棄されたとの解釈により,個人の人権回復を不可能にしてしまうこと(国家による個人賠償請求権の放棄もその一つ)は,国際的な潮流からいっても決して許されない。
(2) 本件のような強制連行・強制労働が,奴隷制度の禁止や強制労働の禁止といった当時既に国際的に確立していたユス・コーゲンス(強行規範)に違反する行為であることは,第二次世界大戦中であっても当然であった。
被控訴人らの損害賠償請求は,戦争における被害者の賠償請求という面を有するが,他方,奴隷禁止につながる強制労働条約(ILO29号条約)の重大な侵害行為,すなわち,戦時・平時を問わず適用される国際条約に違反する行為に対する損害賠償請求という側面を有する。このような国家による奴隷的労働と評価される重大な人権侵害に対しては,ナチスドイツの不正に対する補償が現在でも求められているように,通例の戦争賠償責任の範囲を超えた国家責任として,被害者に対する補償がされるのが国際的な基準での正義であり,被害者の国家も,個人の賠償請求権を放棄することはできないと考えられているのである。
(別紙2)
控訴人国の主張
第1 国家無答責の法理
1 基本的法政策としての国家無答責
(1) 行政裁判法及び旧民法は,国家無答斉の法理に基づいて制定されたものであり,それが公布された明治23年の時点で,国家の権力的作用について国は損害賠償責任を負わないという基本的法政策が確立していた。
行政裁判法16条は「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セズ」と規定している。当時,諸外国の法制度が「君主ハ不善ヲ為スコト能ハズ」を理念として国家賠償制度を否定しており,政府の公権力の行使に当たる措置によって生じた損害については,憲法学上一般に国家無答責の法理が是認されていたことから,個人は,原則として行政裁判所に対し損害賠償の訴えを提起できないとしたのである(<証拠省略>)。
国家無答責の法理は,明治23年の裁判所構成法の制定の際にも貫徹され,国家責任に関する訴訟を受理する明文の規定を草案から削除して,国家賠償請求訴訟を司法裁判所に提起することもできないものとした(<証拠省略>)。
(2) 行政裁判法及び裁判所構成法の立法者意思は,国家無答責の法理を根拠として,行政裁判所及び司法裁判所はいずれも国家賠償請求訴訟を受理しないとしたのであるから,実体法である民法において,国の権力的作用について賠償責任を認める条文を規定することは矛盾である。
旧民法の制定過程において,ボアソナード民法草案から国家賠償責任を認める文言を削除したのは,国家無答責の法理を基本的法政策として採用したためである(<証拠省略>)。
2 現行民法が公法上の行為には適用されないこと
(1) 現行民法は,公法上の行為には適用されないとの理解の下に制定されたものであり,国家賠償法も,それを踏まえて制定されたものである。
明治28年10月4日の法典調査会における現行民法715条(草案723条)の審議の結果は,国の権力的作用より広く,政府の官吏が職務を行うについて,その職務が「私法上の関係」でなく「公権の作用」である場合には,現行民法715条の適用がないことが確認されている(<証拠省略>)。
そして,昭和22年7月の国会における国家賠償法案の審議の際には,公権力の行使による国家賠償の問題と民法の不法行為責任の問題とは性質が異なること,国家賠償法1条は公権力の行使による損害につき国家賠償責任を創設した規定であり,戦前は,公権力の行使という公法関係の分野において国家賠償責任を認める法律がなかったことが一般法として位置づけられていたが,戦後は逆に,一般的に国家賠償責任を認める国家賠償法が一般法として位置づけられることとなったことが明確にされている(<証拠省略>)。
(2) 国家無答責の法理の存在は,大審院及び最高裁により是認されてきたものであり,判例上も確立している。
明治憲法下においては,公法上の行為の中でも,いわゆる権力的作用については民法の適用はなく,他に国の損害賠償責任を肯定する規定のないことを理由に,国の賠償責任が認められる余地はないとするのが,大審院の一貫した判例であり,この判例の態度は最高裁にも引き継がれている(大審院昭和16年2月27日判決ほか,最高裁昭和25年4月11日判決)。
(3) 被控訴人らは,正義公平の理念により国家無答責の適用を制限すべきであるなどと主張する。
しかし,国家無答責の法理は,公権力の行使に関しては当然には民法の適用がなく,一般的に国の賠償責任を認めた法律もなかったことに基づくものであるから,現行の憲法及び法律下における正義公平の観点を持ち出したところで,本来民法が適用されることのなかった法分野について,民法の適用があると結論づけることはできない。この法理の「適用を制限」したからといって,国の賠償責任を認める法律が出現するわけではないのである。
国家無答責の法理は,わが国のみが採用した特異の法理ではなく,当時の各国の立法例の趨勢であり,これが基本的法政策として確立された明治憲法の下では,その正当性ないし合理性が認められていたがゆえに採用されたことは明らかである。日本国憲法を前提にする現在の価値観から見て,国家無答責の法理の合理性を否定することは全く根拠のないことである。
第2 除斥期間の経過による請求権の消滅
1 民法724条後段の法的性格
(1) 民法724条後段の規定が除斥期間を定めたものであることは,最高裁平成元年12月21日判決が「民法724条後段の規定は,不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である。けだし,同条がその前段で3年の短期の時効について規定し,更に同条後段で20年の長期の時効を規定していると解することは,不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の規定の趣旨に沿わず,むしろ同条前段の3年の時効は損害及び加害者の認識という被害者側の主観的な事情によってその完成が左右されるが,同条後段の20年の期間は被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であるからである」と判示して,明言するところである。
(2) また,最高裁平成10年6月12日判決も,最高裁平成元年判決を引用して,「民法724条後段の規定は,不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり,不法行為による損害賠償を求める訴えが除斥期間の経過後に提起された場合には,裁判所は,当事者からの主張がなくても,除斥期間の経過により右請求権が消滅したものと判断すべきであるから,除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという主張は,主張自体失当であると解すべきである」と判示している。
その後も,最高裁は一貫して民法724条後段の法的性格を除斥期間と判示しており,判例理論としては確立している。
2 除斥期間の起算点
(1) 民法724条後段にいう「不法行為の時」とは,原則として,損害発生の原因となる加害行為が行われた時と解すべきである。
不法行為の時とは,損害発生の原因となる加害行為が行われた時点を意味すると解するのが,最も文理に沿う。起算点を権利行使が可能な時と考えることは,最高裁平成元年判決が明らかにしている除斥期間の制度趣旨に反する。損害発生の原因となる加害行為を起算点とすることは,権利関係を早期に確定できることはもちろん,それがいつ行われたかについて,被害者だけでなく,加害者にとっても比較的明確かつ客観的にとらえることが可能となり,合理的である。除斥期間という制度は,加害行為を受けて損害が発生したが,誰が加害者であるかが分からず,損害賠償請求権を行使しようとしてもできないという場合であっても,20年が経過すれば請求権が消滅することを認める制度である。
(2) 最高裁平成16年4月27日判決,最高裁平成16年10月15日判決や,最高裁平成18年6月16日判決は,加害行為が行われた時に損害が発生する不法行為の場合には,加害行為の時が除斥期間の起算点となるが,当該不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が終了してから相当の期間が経過した後に損害が発生する場合には,例外的に,当該損害の全部又は一部が発生した時が除斥期間の起算点となると判示している。
本件において,被控訴人らが主張する不法行為は,当該不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が行われた時に損害の全部又は一部が発生する原則的な場合に当たるから,除斥期間の起算点は,損害発生の原因となる加害行為が行われた時である。被控訴人らの請求は,その主張する加害行為時から50年間以上が経過した後にされたものであり,損害賠償請求権が仮に発生したとしても,既に消滅したことは明らかである。
3 除斥期間の適用制限ないし進行の停止について
(1) 被控訴人らは,最高裁平成10年判決が,正義公平の観点から,具体的妥当性のある解決を図るため,民法724条後段の適用を一般的に制限したかのような主張をする。
しかし,最高裁平成10年判決は,「不法行為の時から20年を経過する前6箇月内において右不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において,その後当該被害者が禁治産宣告を受け,後見人に就職した者がその時から6箇月内に右損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるとき」という極めて限定された要件の下で,その効果においても,時効の停止と同様の所定の期間だけいわば除斥期間の経過を停止させるという限度で例外を認めたものであり,民法158条という時効の停止に関する既存の条項の法意を援用して極めて限定的に例外を認めたものである。除斥期間説に立ちながら幅広く例外を認めることは,最高裁平成元年判決に抵触することになり,大法廷における判例変更が必要となる。
(2) 最高裁平成10年判決に照らしても,本件が除斥期間の適用を制限すべき例外的な場合に該当しないことは明らかである。
被控訴人らは,加害行為の悪質性,権利行使の困難性,義務者による権利行使の阻害,被害の重大性などの諸事情を挙げて,本件においては民法724条後段の適用が正義公平に著しく反するから,その適用を制限すべきであると主張する。しかし,これらの事情は,従来,信義則違反あるいは権利濫用を基礎づける事情として主張されてきたものであり,最高裁平成10年判決は,それが除斥期間の適用を制限する事情に当たらないことを明確に判示している。
被控訴人らは,権利行使可能性の観点から,被控訴人らの法意識,経済状況,あるいは中国国内における政策的な事情,国交正常化がなされていなかった等の事情を挙げているが,最高裁平成10年判決のいう「およそ権利行使が不可能」な事情に該当しないことは一見して明らかである。これらの事情は,除斥期間の性質とその法意に照らせば,除斥期間の進行を妨げる理由になるものではないし,結局のところ,訴訟代理人の協力を得ることが困難で,証拠資料の収集等の訴訟提起の準備が調わなかったというにすぎない。
(3) 被控訴人らが主張するように,単に正義公平の理念に照らして相当性を欠くとの理由のみで,実定法の適用を排除ないし制限するということになるとすれば,それはもはや法解釈というものではない。「正義公平の理念」なるものは,その内容が一義的に定まるものではなく,正義公平の基準の置き方いかんによっては常にその濫用のおそれを伴う概念であるから,安易に正義公平の理念による裁判がされるべきでないことはいうまでもない。
除斥期間の適用制限ないし進行停止に関する被控訴人らの主張は,実務的に解決済みというべきであり,近時の裁判例においても,同様の主張はことごとく排斥されている。
第3 安全配慮義務違反について
1 安全配慮義務の前提となる「特別の社会的接触」
(1) 安全配慮義務は,ある法律関係に基づいて特別の社会的接触の関係に入った当事者間において,当該法律関係の付随的義務として当事者の一方ないし双方が相手方に対して信義則上負う義務であり(最高裁昭和50年2月25日判決),それに基づいて負う責任の法的性質は債務不履行責任であると解されている。
安全配慮義務違反の法的性質は債務不履行であるから,「特別な社会的接触の関係」とは,不法行為規範が妥当する無限定な社会的な接触関係を意味するものでないことは当然であって,契約関係ないしこれに準ずる法律関係の介在することが必要である。このような関係が認められない場合には,安全配慮義務が成立する余地はない。
(2) 当事者間に直接の雇用契約がない場合にもこれに「準ずる法律関係」があるというためには,何らかの合意に基づく法律関係が当事者間に存在することを前提として,双方が忠実義務を負う関係にある必要があると解される。
安全配慮義務は,労働者の労務に服する義務に対応して,使用者が労務の給付を受け,労働者の労務を支配管理する法律関係に付随して生ずる義務,換言すれば,労務受領請求権あるいは労務指揮権に内在する義務としてとらえることができる。
このことからすると,安全配慮義務が生ずる基礎となる社会的な接触とは,当事者の一方が片面的に義務を負う関係ではなく,相互的に忠実義務を負うような法律関係でなければならず,一方が他方を強制して労働させるような関係は,そもそも不法行為の領域の問題であって,安全配慮義務の問題に含まれないことは明らかである。
(3) 安全配慮義務は,使用者が被用者に対し,その労務ないし公務遂行に当たって支配管理する人的及び物的環境から生じ得べき危険の防止について信義則上負担するものである(最高裁昭和58年5月27日判決)。
したがって,安全配慮義務の成立が認められるためには,当事者間に事実上の使用関係,支配従属関係,指揮監督関係が成立しており,使用者の設置ないし提供する場所・施設・器具等が用いられ,これらの物的側面ないし労務の性質が,労務者の生命・健康に危険を及ぼす可能性がある場合等,当該労務に対する直接具体的な支配管理性が認められることが必要である。
(4) 本件においては,国家が戦地で敵国人又は戦争当事国以外の国の国民を拘束し,これを企業に派遣して労務に従事させるという,まさに一方が他方を強制して労働させるような関係があるのみであり,双方が忠実義務を負う関係は認められない。
また,被控訴人らが労務提供に当たって,控訴人国の管理する設備,工具等を用いたものでもなければ,事実上控訴人国の指揮,監督を受けていたものでもないから,控訴人国と被控訴人らとの間に直接具体的な労務の支配管理性も存在しない。控訴人国が,軍需会社法の規定に基づき,軍需会社に対して必要な命令を発し,処分をすることができたとしても,控訴人国と軍需会社の従業員との関係は,会社に対する必要な命令を介してのみ行われる間接的な関係にとどまる。
したがって,控訴人国と被控訴人らとの間において,安全配慮義務の前提となる「特別の社会的接触」が認められないことは明らかである。
2 労務供給関係を媒介とする法律関係について
(1) 被控訴人らは,控訴人国は被控訴人らを所属労働者として支配し,日本港運業会及び新潟港運に供給した労務供給事業者であるから,日本港運業会及び新潟港運その間の中国人労働者使用契約関係に基づいて,被控訴人らとの間で特別な社会的接触の関係に入っているなどとして,控訴人国が被控訴人らに対して安全配慮義務を負っていると主張する。
しかし,労務供給の主体は控訴人国ではなく,この点において被控訴人らの主張は既に失当である。被控訴人らは,労務の供給元である華北労工協会は日本政府の現地出先機関であったと主張しているが,そのような証拠は一切ない。華北労工協会は,中華民国国民政府の機関である華北政務委員会の下に設立されたものであり,控訴人国の機関ではない。また,被控訴人らは,使役企業主の指導に当たらせるため華北労工協会から派遣された駐在員(指導員)は,日本港運業会の監督官庁である運輸通信省の嘱託員であったと主張するが,何ら証拠に基づくものではない。
(2) 控訴人国が,日本港運業会及びY2との間で労務供給事業を行ったことはなく,被控訴人らの主張は前提において失当である。
労務供給事業といえるためには,労働者が供給業者に従属する関係にあり,労務供給中であっても,供給業者と労働者の間で雇用関係又は事実上の支配関係があることが必要である。しかし,本件においては,①本件移入実施要領によれば,移入に要する費用は事業者が負担するとともに,契約期間満了後は事業者が旅費実費を負担して送還することとされ,②港湾荷役業においては,日本港運業会が各事業者から委任を受け,中国人労働者の一括受入れをして各事業場に配置する仕組みであったが,その労務管理に関しては各事業者が一切の責任を負うこととされ,③賃金の支払はもとより各事業者の負担であり,各事業者はその他,中国人労働者が就労期間中に死傷した場合の治療費等も負担するとされていたのであり,労務供給中においても供給業者が労働者を支配しているという関係があったと認めることはできない。
(3) そもそも労務供給契約の成立が認められたからといって,これにより直ちに安全配慮義務が発生することにはならない。
仮に労務供給契約が認められる場合であったとしても,その契約関係は供給元と供給先企業との間に存在するのみであり,供給元と労働者との間に存在するものではないから,そのことから,「当事者間に雇用契約若しくはこれに準ずる法律関係が介在すること」との要件が満たされることにはならない。また,仮に労務供給契約が認められる場合であったとしても,そのことから,「直接具体的な労務の支配管理性」の要件が満たされることにはならないことは明らかである。
本件の事実関係が動かない以上,労務供給契約という概念を持ち込んだからといって,控訴人国と被控訴人らとの間に「特別の社会的接触」が認められることにはならず,したがって,控訴人国が被控訴人らに対し,安全配慮義務を負うことはあり得ないのである。
3 被控訴人らの労務を支配管理していなかったこと
(1) 原判決は,控訴人国が安全配慮義務を負う根拠として,控訴人国は,①中国人労働者の強制連行・強制労働を政策決定し,中国人労働者の使用・管理の詳細についても定めていたこと,②日本軍を用い,また華北労工協会と協力して中国人労働者の供出に当たったこと,③日本港運業会に中国人労働者の移入・管理について一切を委任し,中国人労働者移入管理委任契約とでもいうべき契約を締結していたこと,④警察官を派遣するなどして中国人労働者の管理に協力していたことという事実関係のほか,⑤当時のような戦時統制下においては,控訴人国の政策に基づき被控訴人らを直接・排他的に管理していた新潟華工管理事務所及びY2を監督し,是正等を促すことができたのは控訴人国だけであったことを指摘する。
しかし,これらの事由はいずれも,控訴人国と被控訴人らとの間に雇用契約ないしこれに準ずる法律関係が介在すること,当事者間に双方的な忠実義務を負うような法律関係,少なくとも合法的に労務の提供を受けるような法律関係が存在すること,あるいは,直接具体的な労務の支配管理性が存在することを示すものではなく,安全配慮義務が生ずる基礎となる「特別の社会的接触」を基礎づけるものとはいえない。
戦時統制下において,新潟華工管理事務所及びY2を監督し,是正等を促すことができたのは控訴人国だけであったとする点についても,戦前における国家権力の絶大さ,その反面で国家が私人と対等な契約上の立場に立つことが少なかったことを示すものにすぎず,控訴人国と被控訴人らとの間に雇用契約ないしこれに準ずる法律関係が介在すること,あるいは,直接具体的な労務の支配管理性が存在することには,何ら結びつくものではない。
(2) 控訴人国と日本港運業会との間に,中国人労働者移入管理委任契約が存在していたとは認められない。
被控訴人らが援用する「昭和19年度華工移入並管理概況」等の証拠(<証拠省略>)には,「委任」,「委嘱」という文言はあるが,その具体的内容が不明であり,法的な意味での委任契約の存在を示すものかは不明である。「国家管理」,「国家労務」との文言もあるが,国家総動員体制がとられていた当時において,このような表現があったからといって,委任契約の存在を示す根拠とはなり得ない。その内容も,中国人労働者全般の移入・管理について記載されているにすぎず,一般的・総体的な把握にとどまっているのであり,このような管理の内容をもって,安全配慮義務を基礎づけるだけの雇用契約に準じるような法律関係の存在や,直接具体的な労務の支配管理性を認めることはできない。また,戦時下の企業に対し何らかの国庫補助が行われたとしても,そのことが委任契約の存在を裏付けるものとはいえない。
第4 消滅時効による請求権の消滅
1 消滅時効の援用
(1) 安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は,民法167条1項により10年とされる。この期間は,民法166条1項により「権利を行使することができる時」から進行し,権利を行使することができる時とは,権利を行使することについて法律上の障害がなくなったときをいう。
一般に,安全配慮義務違反による損害賠償請求権は,権利として成立すればこれを行使する上での法律上の障害はないから,その損害が発生した時に成立し,同時にその権利行使が法律上可能になる。したがって,被控訴人らの主張する損害賠償請求権は,事業場における労務提供を終了した時にその損害が発生し,同時にその権利行使が法律上可能になったと認められ,本件訴訟の提起時においては,既に権利を行使することができる時から10年を経過していることは明らかである。
(2) 被控訴人らは,①日中間の関係や中国国内の政治状況等を考慮すると,平成7年3月7日の銭外交部長の発言までは権利行使が不可能であった,②本件の権利行使が現実に期待できるようになったのは,被控訴人らが日本の弁護士と接触した平成11年になってからであるなどとして,それまで消滅時効は進行しないと主張する。
しかし,これらの事情が消滅時効の進行を妨げる法律上の障害に当たらないことは,その主張自体から明らかである。また,安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の権利の性質という観点からみても,上記①は権利の性質とは全く無関係の事情であるし,②も権利行使の事実上の困難さというだけのものであって,権利の性質それ自体を問題にするものではないから,いずれも消滅時効の進行を妨げるものではない。
(3) 控訴人国は,控訴審における平成16年10月20日の口頭弁論期日において,消滅時効を援用する意思表示をした。
2 消滅時効の援用が権利濫用に当たらないこと
(1) 債権は,その行使ができる時から10年間行使されないという事実が生じた場合に,債務者が時効を援用することによって,債権の消滅という効果が発生する(民法166条1項,167条1項)。この債権の消滅という効果は,債権の種類,性質,内容や金額を問わず一律に生じるものであって,安全配慮義務違反による損害賠償請求権についても,義務違反の態様・程度や被害の重大性といったことは債権消滅の効果に全く関係がない。
また,債権が行使できる時から10年間行使されないという事実があれば,債務者は,時効の利益を受ける法的地位を有する。安全配慮義務の態様が悪質であったかどうか,被害が重大であったかどうかといったことは,権利消滅の効果に全く影響を及ぼすものではないから,債務者は,これらの事情の有無にかかわりなく,一定の時の経過という事実に基づいて時効を援用することが許される。援用する理由は問われず,動機の正当性を要求されることもない。
このような時効制度の存在理由,当事者の意思との調和を図って援用権を定めた制度趣旨からすると,時効の援用が権利濫用とされるべき場合は,極めて限定して解されなければならない。債権者の権利行使や時効中断措置を事実上困難にしたなど,債権者が期間内に権利を行使しなかったことについて債務者に帰責事由があり,債権者に権利行使を保障した趣旨を没却するような特段の事情がある場合を除き,時効の利益を受ける債務者は,自由に消滅時効を援用することができるというべきである。
(2) 原判決が判示する事由は,債権者に権利行使を保障した趣旨を没却するような特段の事情に当たらず,消滅時効の援用を妨げるものではない。
原判決は,①控訴人国は,昭和21年に強制連行・強制労働について詳細な調査を実施して外務省報告書等を作成し,その全貌を把握していたにもかかわらず,官民関係者の戦争責任追及を免れるために,これをすべて焼却したこと,②控訴人国は,その後一貫して,中国人労働者の供出・移入は任意の契約に基づくものであり強制連行や強制労働の事実はなかったこと,詳細は資料がないため明確でないことなどを繰り返し答弁してきたことを認定した上,これらは被控訴人らとの関係で実質的に提訴を妨害したものと評価できるとし,これに加え,③日中間に国交がないことや中国が一般国民の自由な海外渡航を認めていなかったことにより,被控訴人らが長期にわたって事実上権利行使・時効中断措置が不可能な状態に置かれていたことを考慮して,控訴人国が消滅時効の援用をすることは権利の濫用に当たるとした。
しかし,上記①については,控訴人国が証拠を隠滅したとする趣旨と思われるが,勝訴の可能性や立証の可否は時効の進行を妨げる事由にならない。また,仮に控訴人国の行為を証拠隠滅ととらえたとしても,そのことが被控訴人らの提訴を妨げる結果につながったという因果関係があったとは認められず,そもそも,被控訴人らが期間内に権利を行使しなかったこととは無関係の事情というほかない。上記②についても,同様に,控訴人国の国会での答弁が被控訴人らの提訴を妨害したとはいえない。加えて,不法行為の加害者とされる者がその責任を否定したとしても,それだけで被害者の提訴が妨げられる結果につながるものでもない。上記③については,およそ控訴人国が責めを負うべき事情でないことは明らかであって,これを理由に消滅時効の援用を否定し,時効の利益をはく奪することは不合理極まりない。また,債権者が事実上権利行使・時効中断措置が不可能な状態に置かれていたことを理由として消滅時効の援用を否定することは,結局,事実上の障害が消滅時効の進行を妨げるとするに等しい。
第5 日華平和条約・日中共同声明等による請求権の放棄
1 サンフランシスコ平和条約による戦後処理の枠組み
(1) 戦争による被害は,戦争の勝敗とは無関係に,戦争当事国のみならず,その当事国相互の国民の広範囲に発生するものであり,特に第一次世界大戦後の近代の戦争は国家間の全面戦争の形態をとり,その被害は全国民が被る結果となっている。
このような戦争行為によって生じた被害の賠償問題は,戦後の講和条約によって解決が図られるが,一般的に賠償その他戦争関係から生じた請求権の主体は,国際法上の他の行為より生じた請求権の主体と同様に常に国家であり,国民個人の受けた被害は,国際法的には国家の被害であり,国家が相手国に対して固有の請求権を行使することになる。個々の国民の被害については,賠償を受けた当該当事国の国内問題として,各国がその国の財政事情等を考慮し,救済立法を行うなどして解決が図られている。
(2) サンフランシスコ平和条約の諸条項は,敗戦国であるわが国が,連合国との戦争状態を終了させ,完全な主権を承認されるために,領土の処分,賠償並びに財産及び請求権の問題の解決について示された連合国からの条件である。わが国は,その内容を受諾して連合国から独立する道を選び,サンフランシスコ平和条約を締結した。そして,同条約14条(a)等に基づいて連合国に対する多額の支払等を行い,誠実に対応してきた。
このような平和条約上の義務を履行するのと引換えに,同条約14条(b)では,「連合国は,連合国のすべての賠償請求権,戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権……を放棄する」と規定された。連合国及びその国民に対する日本国及び日本国民の賠償請求権についても,同条約19条(a)によって請求権が放棄され,これにより,連合国及びその国民と日本国及びその国民との相互の請求権については,完全かつ最終的な解決がされた。
(3) このように,サンフランシスコ平和条約14条(b)の文言上,連合国国民の請求権も連合国によって放棄された。
連合国による「放棄」は,連合国国民個人の請求権を消滅させるものではないが,日本国及び日本国民が連合国国民の請求に応ずる法律上の義務が消滅したものとして,これを拒絶することができる旨が定められたのである。
2 日本と中国との間の戦後処理
(1) 中国は,連合国の一国として,サンフランシスコ講和会議に招待されるべきであったが,昭和24年の中華人民共和国政府の成立や昭和25年の朝鮮戦争のぼっ発など当時の政治的及び国際的状況のために,中華人民共和国政府及び「中華民国」政府のいずれもが講和会議には招待されなかった。
しかし,サンフランシスコ平和条約21条で,「この条約の第25条の規定にかかわらず,中国は,第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有」するものとされ,条約の当事国とならなかった中国にも,中国領域内にある日本国及び日本国民の資産の処分が認められ,中国は,その領域内にある日本人の財産を没収した。
(2) 中国との間の戦後処理について,わが国は,昭和27年4月28日,「中華民国」との間で,日華平和条約に署名した。
日華平和条約11条は,「この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外,日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サン・フランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする」と規定している。この規定にいう「サン・フランシスコ条約の相当規定」には,14条(b)及び19条(a)も含まれるから,これにより,日本国及びその国民と中国及びその国民との間の相互の請求権は,すべてが放棄されたことになる。
(3) 日華平和条約締結の当時,中華民国政府は,中国大陸の実効的支配を失って,台湾及び澎湖諸島等の実効的支配をしているにすぎなかった。しかし,戦争状態の終結,賠償並びに財産及び請求権の問題の処理といった,国と国との間で最終的に解決すべき処分的な条項は,まさに国際法上の当事者としての国家と国家の間の関係として定められるべきものであって,その性質上,国家内における適用地域を限定することはできない。
当時の中華民国政府は,国際連合における代表権を有しており,国連加盟61か国のうち,中華人民共和国政府を承認していた国は12か国にすぎなかった。わが国は,国家としての中国と日本国との戦争状態の終結等の問題を解決するために,中国を正統に代表していた中華民国政府との間で日華平和条約を締結したのであり,日華平和条約は,戦争状態の終了と戦争に係る賠償並びに請求権の問題に関し,国家としての中国と日本との間で完全かつ最終的に解決したものである。
3 中華人民共和国との間の日中共同声明
(1) 日華平和条約締結後20年を経て,日本国政府は,昭和47年,日中共同声明に署名した。
共同声明の交渉過程において問題となった点の中に,戦争状態の終了や賠償並びに財産及び請求権の問題がある。これらの問題は,日華平和条約についての両国の立場の違いに起因するものであるが,困難な交渉の結果,共同声明は,両国の立場それぞれと相いれるものとして作成されている。
例えば,戦争状態の終了については,日中共同声明1項において,「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は,この共同声明が発出される日に終了する」と規定されることとなった。「不正常な状態」とは,これまで日本と中華人民共和国との間の国交がなかった状態を指すというのがわが国の理解であり,日中間の戦争状態は日華平和条約によって終結しているとの立場と何ら矛盾しない。
(2) 賠償並びに財産及び請求権の問題についても,戦争状態の終結と同様,このような一度限りの処分行為については,日華平和条約によって法的に処理済みであるというのが,わが国の立場であり,日華平和条約の有効性についての中華人民共和国政府との基本的立場の違いを解決する必要があった。
この点については,日中共同声明5項において,「中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と規定された。日中両国は,互いの立場の違いを十分理解した上で,実体としてこの間題の完全かつ最終的な解決を図るべく,このような規定ぶりにつき一致したものであり,その結果は日華平和条約による処理と同じであることを意図したものである。すなわち,戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた中国及びその国民の請求権は,法的には日華平和条約により,国によって放棄されているというのが日本の立場であり,このような立場は共同声明によって変更されているわけではない。
したがって,日中共同声明5項は「戦争賠償の請求」のみに言及しているが,ここには先の大戦に係る中国国民の日本国及び日本国民に対する請求権の問題も処理済みであるとの認識が当然に含まれている。この点については,中国政府も同様の認識である。
(3) そもそも一国の内部で政府の変動があり,いずれの政府が当該国を代表するのかが問題となる場合,当該国自体は第三国との関係で同一性をもって存続する。昭和47年の日中国交正常化は,国家としての中国を代表する政府の承認の切替えである。
一つの国家の中に複数の政府が事実上存在し,それぞれの政府が自らが当該国を代表する正統政府であると称するような状況で,わが国が特定の一つの政府を当該国を代表するものとして承認し,条約を締結する場合には,仮にその後の政治的な事態の進展によりわが国が他方の政府を承認しても,対外的には当該国は一体性をもって存続しており,法的には前政権との間で交渉して締結された条約が当然に終了することはない。
中国という国家は一つであり,わが国が中国を代表する正統政府である中華民国政府との間で締結した日華平和条約は,国家としての中国との間で戦争状態を終わらせ,請求権の問題を解決したのである。先の戦争に係る日中間の請求権の問題は,中国国民及びその財産に関するものも含めて,日中共同声明の発出後は存在していないという認識は,日中間で一致している。
(別紙3)
控訴人会社の主張
第1 安全配慮義務違反について
1 安全配慮義務のないこと
(1) 被控訴人らは,日本軍によって強制連行された後,Y2によって強制労働を課せられたと主張しており,これを前提とすれば,被控訴人らとY2との間には,雇用契約関係又はこれに準ずる法律関は存在しない。Y2と日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間の中国人労働者使用契約を媒介したとしても,日本港運業会と被控訴人らとの関係が事実上の支配従属関係にとどまっているのであれば,Y2と被控訴人らとの間に雇用契約に準ずる法律関係が生ずるとの帰結にはなり得ないはずである。
このように,直接の契約当事者ではなく,しかも,雇用契約に準ずる法律関係に基づく使用従属関係もない当事者間は,一般の不法行為法によって規律すべきであり,安全配慮義務違反の有無は問題となり得ない。
(2) この点,控訴審における証拠調べの結果を踏まえても,被控訴人らとY2との間に,雇用契約関係又はこれに準ずる法律関係が存していたことをうかがわせるような新たな証拠はなく,安全配慮義務の発生を認定することはできない。
2 義務違反のないこと
(1) 原判決は,被控訴人らの食事,衣料,宿舎,衛生管理,医療,労働管理等の事情を挙げて,Y2に安全配慮義務違反があったと認定している。
しかし,原判決は,第1に,日本港運業会(新潟華工管理事務所)とY2とを混同して安全配慮義務違反を論じている点で,失当である。日本港運業会とY2は全く別個の団体であり,中国人労働者の受入れに当たっても,Y2は労働管理のみを担当し,他の生活管理は新潟華工管理事務所が行っていた。食事,衣料,宿舎,衛生管理や医療の面で安全配慮義務違反があるとすれば,日本港運業会の責任が問われるべきものである。
(2) 第2に,原判決は,当時の社会情勢を全く考慮せずに義務違反を認定している点で,失当である。
関係資料(<証拠省略>)によれば,新潟華工管理事務所では,太平洋戦争末期の食糧も衣料も日常生活物資も極めて乏しい社会経済情勢や冬季の豪雪といった天候に照らして,中国人労働者に対しできる限りの待遇をとっていたといえるのであり,当時の日本人労働者の待遇と比較しても劣るものではなく,労務についても,当時の内地の常雇の労働者に比べれば過酷でなかったとされている。
被控訴人らの主張は,明らかに事実と異なる。仮に1日1600キロカロリーの食事で,寒い宿舎で寝泊りし,軍手,地下足袋,衣服もなしという状況であったなら,港湾荷役という極度の重労働は不可能であることは自明である。平時のように十分ではないにしても,港湾荷役という作業をするのに支障が生じないように配慮するのは当然であり,国家総力戦という苛烈な環境の中で,そのためにY2が大変な努力をしたことが各種の記録から明らかである。
第2 消滅時効について
1 消滅時効の起算点について
(1) 安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求権の消滅時効の起算点については,遅くとも被控訴人らが中国に帰国した昭和20年11月ころから消滅時効の進行が開始し,10年後の昭和30年11月末日の経過によって消滅時効が完成したとする原判決の結論が妥当である。
これに対し,被控訴人らは,①日中平和友好条約締結に至るまでは戦争状態にあったこと,②本邦への入国査証取得が容易ではなかったこと,③中国国内での政治状況等の事実を挙げて,消滅時効の起算点を,一般の中国人がパスポートの発給を受けることができるようになった昭和61年2月1日の公民出境入境管理法施行の後で,日本国内での招聘保証人となりうる被控訴人ら代理人弁護士と出会った平成11年以降であると主張している。
しかし,中国国内にいても,中国の弁護士を通して日本の弁護士に委任したり,日本の弁護士が中国に渡って事情聴取を行うことは十分可能であること(実際,強制連行の一連の訴訟のすべての原告が日本に入国しているわけではない。),実際に花岡事件の生存者等が平成元年ころには賠償請求の動きをとっていることなどに照らすと,被控訴人ら主張の事実だけでは,権利行使が現実に期待できない特段の事情があるとはいえない。
(2) この点,控訴審における証拠調べの結果を踏まえても,消滅時効の完成を妨げるような,被控訴人らの権利行使が現実に期待できない特段の事情の存在を根拠づける新たな証拠は一切提出されていない。
2 時効援用権の濫用について
(1) Y2ないし控訴人会社が被控訴人らの提訴を妨害した事実はなく,控訴人会社が消滅時効を援用することは権利の濫用には当たらない。
被控訴人らは,平成5年になって初めて外務省報告書及びその資料となった事業所報告書が公になったことを指摘し,提訴妨害であると主張するが,外務省が意図的にこれを隠していたかどうかはさておき,Y2や控訴人会社がその公表時期に関して何らかの影響力を有しているはずもなく,公表の遅れをもってY2や控訴人会社が提訴妨害を行ったと評価することはできない。
原判決及び被控訴人らは,Y2が事業所報告書を作成し,しかもそこに虚偽の記載がされており,それが提訴妨害に当たるとして,濫用という結論に結びつけようとしている。しかし,事業所報告書(<証拠省略>)を作成したのは,その表紙にあるとおり日本港運業会,新潟華工管理事務所である。Y2が事業所報告書を作成したという証拠はなく,原判決が指摘するような虚偽の記載もない。そもそも,仮に事業所報告書に虚偽の記載があったとしても,平成5年になって初めて外務省報告書及びその資料となった事業所報告書が公になったのであるから,それ以前に虚偽の記載が被控訴人らの権利行使に影響を与えることなど事実上不可能であり,虚偽記載と被控訴人らが提訴をしなかったこととの間には何らの関連性もなく,これをもって提訴妨害とは評価できない。
また,被控訴人らは,控訴人会社が強制連行の実態を明らかにしなかったことや,国家補償金を受領したことを指摘し,正義公平の観点から消滅時効を援用することは権利の濫用に当たると主張するが,そのような事実を裏付ける証拠はない。そもそも,そのような主張は提訴妨害とは何の関係もなく,単に加害者の態度の悪質性を時効援用権の濫用の理由としようとする立論であり,法解釈の域を超えた主張であって,法的安定性を害するとの批判が妥当する。
(2) 被控訴人らは,Y2やその後継会社が強制労働の記録を保管していながら開示を拒否していると主張する。
しかし,その拠り所とする「新潟県終戦処理の記録」(<証拠省略>)には,Y2に就労した中国人について「当時の業務記録はa株式会社が継承していた」との記載があるが,その記載は昭和38年当時のものであって,その資料が具体的にどのような内容のものであったのか,その後「強制労働の記録」がどこに保管されていたのかは不明である。このような内容の不明な資料が,昭和38年当時にY2の後継会社に残っていたという記録をもって,控訴人会社が被控訴人らの証拠資料にアクセスする機会を奪ったとか,提訴妨害をしたということはできない。
「新潟県終戦処理の記録」には,昭和36年12月に,当時の日本港運業会新潟華工管理事務所長が「華人労務者就労顛末報告書」を保管していたとの記載もある。しかし,その所長は,そもそもY2とは別個の団体の所長であり,新潟県が調査したという昭和38年の時点においても,控訴人会社とは何ら関係のない人物である。そのような人物が,当時報告書を保管していたという事実をもって,控訴人会社が強制労働の記録を保管していたとか,提訴妨害をしたということもできない。
(3) この点,控訴審における証拠調べの結果を踏まえても,被控訴人らの主張するような,Y2が事業所報告書を作成した事実,Y2が事業所報告書に虚偽の記載をした事実,Y2が国家補償金を受領した事実等を根拠づけるような新たな証拠は一切認められず,まして,Y2や控訴人会社が提訴妨害を行った事実は認められない。