東京高等裁判所 平成16年(行コ)165号 判決 2005年3月29日
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1当事者の求めた裁判
1 控訴人
(1) 原判決を取り消す。
(2) 被控訴人の請求を棄却する。
2 被控訴人
本件控訴を棄却する。
第2事案の概要
1 事案の要旨
(1) Q1(昭和○年○月○日生。以下,同人を「被控訴人」という。)は,昭和20年8月9日,長崎市内で原子爆弾(原爆)に被爆し,昭和56年ないし昭和59年ころから肝機能障害を指摘され,平成4年以降入院ないし通院による治療を受けてきたところ,平成6年2月16日付けで控訴人(当時の厚生大臣)に対し,その肝機能障害が原爆の放射線に起因するものであるとの認定の申請(以下「本件認定申請」という。)を行った。これに対し,控訴人は,本件認定申請を新たに制定された原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(以下「被爆者援護法」という。)11条1項所定の認定の申請とみなした上で,被控訴人の肝機能障害は原爆の放射線に起因するものとは認められず,被控訴人の治癒能力が原爆の放射線の影響を受けているとも認められないとして,平成7年11月9日付けで,本件認定申請を却下する旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。
本件は,被控訴人が本件処分の取消しを求めている事案である。
(2) 原判決は,被控訴人の請求を認容した。これに対して,控訴人が不服を申し立てたものである。
2 前提事実及び当事者の主張等
以上のほかの事案の概要は,3及び4のとおり当審における当事者の主張を付加するほか,原判決の事実及び理由の第2(1頁以下)記載のとおりであるから,これを引用する(なお,用語の略称は,断らない限り,原判決と同じである。)。
【本件処分の経過】
なお,本件処分の経過は,概要,次のとおりである(原判決9頁以下)。
(1) 被爆者援護法(特に断らない限り,平成8年法律第82号による改正前のもの)10条1項は,次のとおり定めている。
「厚生大臣は,原子爆弾の傷害作用に起因して(略)疾病にかかり,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給付を行う。ただし,(略)当該疾病が原子爆弾の放射能に起因するものでないときは,その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療を要する状態にある場合に限る。」(以下,この要件のうち,発症が原子爆弾の傷害作用に起因することないし治癒能力が放射能の影響を受けていることを「放射線起因性」という。
)。
そして,被爆者援護法11条1項は,上記の医療の給付を受けようとする者は,あらかじめ,当該疾病が原子爆弾に起因する旨の厚生大臣の認定を受けなければならないとしている。
(2) 被控訴人は,昭和○年○月○日生まれで,被爆当時○歳であった。
被控訴人は,昭和20年8月9日午前11時2分,学徒動員のため働いていた長崎市の三菱重工業株式会社長崎兵器製作所α工場(以下「α工場」という。)内において,同市に投下された原子爆弾に被爆した。被控訴人が被爆した場所は,爆心地の北方約1.3㎞の地点であった。
被控訴人は,昭和56年ないし59年ころに肝機能障害を指摘され,平成4年以降,入院ないし通院による治療を受けていた。
上記のとおり,被控訴人は,原子爆弾が投下された際当時の長崎市の区域内に在った者であって,その後被爆者健康手帳の交付を受けたから,被爆者援護法にいう被爆者である。
(3) 被控訴人は,平成6年2月16日付けで,当時の厚生大臣に対し,上記肝機能障害が原子爆弾の放射線(以下「原爆放射線」という。)に起因するものであるとして,原爆医療法(原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)8条1項所定の認定の申請をした。
その後,平成7年7月1日に被爆者援護法が施行され,原爆医療法は廃止されたが,当時の厚生大臣は,前記申請を被爆者援護法11条1項に基づく認定申請とみなした上で,原子爆弾被爆者医療審議会の意見に従い,同年11月9日付けで,「あなたの申請に係る疾病は,原子爆弾の放射能に起因するものとは認められず,また,治癒能力が,原子爆弾の放射能の影響を受けているとは認められません。」という理由により,上記認定申請(本件認定申請)を却下する旨の処分(本件処分)をした。
(4) 被控訴人は,平成8年1月22日,当時の厚生大臣に対し,本件処分に対する異議申立てをした。
これに対し,当時の厚生大臣は,平成11年3月9日付けで,「まず,被爆地点,被爆状況等を基に異議申立人の被曝線量について検討し,次に異議申立人の疾病及びその病状,治療の状況等について検討した。異議申立人の肝機能障害の原因はC型肝炎ウイルスであり,異議申立人の被曝線量は,C型肝炎ウイルスに対する免疫力の低下や感染の成立に影響を及ぼす程のものとは考えられない。」という理由により,上記異議申立てを棄却する旨の決定を行い,同決定は,同年4月14日,東京都を通じて被控訴人に送付された。
(5) そこで,被控訴人は,平成11年6月29日,本件処分の取消しを求めて本件訴訟を提起したものである。
3 控訴人の当審における主張
(1) 放射線起因性の判断方法に関する誤り
原爆症認定における放射線起因性は,申請者すなわち被控訴人が立証しなければならず,その証明の程度は「高度の蓋然性を証明すること」が必要である。そして,その判断は,科学的・医学的知見に基づいて行われなければならない。原判決は,一般論としては,高度の蓋然性を証明することを要するとしながら,具体的判断においては,高度の蓋然性が認められないにもかかわらず放射線起因性を肯定しており,また,その判断手法は,到底科学的・医学的知見によるものということができず,原判決は,被爆者援護法10条1項の解釈を誤り,ひいては放射線起因性の判断を誤ったものである。
(2) 科学的知見等に対する評価・判断の誤り
ア 疫学知見を因果関係立証のための証拠として利用する場合の留意点
a 原判決が被控訴人のC型慢性肝炎の放射線起因性を認めた論拠となったのは,甲26及び71,74ないし76,乙12の各報告書のようであるが,これらは疫学的知見というべきものである。
しかし,これらの知見では,被控訴人のC型慢性肝炎が放射線に起因することを認めることはできない。
b そもそも,疫学とは,危険性が疑われる疾病要因は可能な限り排除するとの疾病予防,公衆衛生の見地から,集団における健康障害の頻度と分布を規定する諸要因を明らかにしようとするものである。したがって,疫学は,元来,個々の患者についての疾病発生の原因,すなわち疾病と想定された諸要因との間の個別の因果関係の有無を究明するための決め手とはなり得ないものである。
被控訴人に発症した慢性肝疾患と原爆放射線との間に個別的な因果関係が認められるか否かについては,被爆者集団全体を対象とした疫学的研究の成果を踏まえた,いわゆる疫学的因果関係が認められるか否かが検討されるだけでなく,仮に疫学的因果関係の存在が認められるとしても,病理学,臨床医学,放射線学等の見地をも踏まえて,被控訴人の当該症状が被爆に起因するものか否かが個別的に検討される必要がある。
c このような個別的因果関係の有無を検討する過程において,疫学的知見によって明らかにされた相対的危険度が参考にされることもあり得る。すなわち,相対危険度が1.0のときは,曝露した個人と曝露しなかった個人の危険度は同じであるということになり,作用因子への曝露と疾病との間に関連性はないとされるところ,相対危険度が2.0になると,その因子が原因で発病した患者数は,その他のあらゆる原因による患者数と等しく,曝露した人の疾病がその因子によって引き起こされた確率は50%であるということになる。しかし,相対危険度が2.0をわずかに超えることを明らかにした疫学的知見があるからといって,その程度の相対的危険度にすぎない場合には,当該作用因子への曝露によって発症したのか,他の要因によって発症したのかを高度の蓋然性をもって確定することができないから,疫学的知見だけでは個別的因果関係の存在を認めることはできない。
甲26及び71(以下「ワン論文」という。)は,慢性肝障害及び肝硬変の1グレイ当たりの相対危険度を明らかにしているが,その数値は1.14と極めて低く,個別的因果関係の存在を推定することはおよそできないことに留意されるべきである。
d 以上のとおり,疫学的知見を個別の因果関係(放射線起因性)存否の判断に用いる際には,その疫学的知見の持つ限界について十分な配慮がされなければならない。ある疫学的な研究結果が存在するとしても,そこから疫学的因果関係が認められるか否かについては十分な検討がされなければならないし,仮に疫学的因果関係が認められるとした場合でも,それを踏まえて個別の因果関係の存否の判断が別途に行われなければならない。
イ ワン論文及びトンプソン論文(甲75)によって被控訴人のC型慢性肝炎の放射線起因性を認めることはできないこと
a ワン論文は,放射線被曝と慢性肝疾患及び肝硬変との関連性を一般的に検討した疫学的知見であり,これをもって,C型肝炎ウイルスによるC型慢性肝炎の発症又は進行に放射線被曝が寄与しうるか否かを論ずることはできない。
ワン論文は,慢性肝障害及び肝硬変の1グレイ当たりの相対危険度を明らかにしているが,その数値は1.14と極めて低い。これは,放射線以外の要因によって発症した可能性が圧倒的に多いということであり,このように低い相対危険度を示唆する疫学的知見があったからといって,被控訴人の肝機能障害が放射線に起因するものと推認することはできない。
C型肝炎ウイルスに感染した者の7,8割は,放射線に被爆していなくてもC型慢性肝炎を発症するとされているのであり,このことからしても,ワン論文を根拠に被控訴人の肝機能障害と放射線被曝との間の個別的因果関係の存在を推定することはできない。
また,慢性肝疾患については,その有病率に影響を与える要因すなわち交絡因子になり得るものとして,肝炎ウイルスを始めとするウイルスの感染,アルコールの摂取,薬物等が考えられる。交絡因子の存在が否定されなければ真の関連性ひいては因果関係が肯定できないのであるから,上記のものが交絡因子になっていないことが明らかにならなければ,統計上は被曝線量と慢性肝炎等との間に一見有意な関係があるように見えたとしても,疫学上,被曝線量と慢性肝疾患との間に有意な関係があることを肯定することはできない。
しかるところ,ワン論文は,C型肝炎ウイルスを交絡因子として考慮していないものであるから,同研究結果をもって,C型肝炎への放射線の影響を論じることは不可能である。
したがって,ワン論文から,被曝線量と慢性肝炎等の発症率との間に疫学的に有意な関係があるということはできないし,放射線被曝が慢性肝炎ないし肝硬変の発症に影響を与えているとすることもできない。
なお,原判決は,甲114及び119の研究を根拠に,ワン論文が交絡因子としてのアルコール摂取について検討していないとしても,慢性肝疾患と放射線との疫学的因果関係を肯定することに問題はないとするが,いずれの研究も,慢性肝炎及び肝硬変について個別に検討したものではなく,消化器疾患という大きなカテゴリーで研究しており,これらの研究結果を直ちに肝機能障害に当てはめることはできないなどの問題があり,これらの研究によって,交絡因子の影響が否定されたとはいえない。
b 原判決は,トンプソン論文(甲75)において,肝臓がんの発症と放射線の被曝線量との間に有意な関係が認められたことを論拠の一つに挙げているようである。
しかし,肝臓がんと慢性肝疾患及び肝硬変とは,発症の機序が異なり,肝臓がんにおいてその発症と被曝線量との間に有意な関係が認められたからといって,これが慢性肝疾患及び肝硬変に当てはまるものではない。すなわち,肝臓がんを含む悪性新生物については放射線による遺伝子損傷によって発症する可能性が考えられているのに対し,C型慢性肝炎は,C型肝炎ウイルスの感染により発症するのであって,両者の発症の機序は全く異なり,遺伝子損傷がC型慢性肝炎発症に影響を及ぼすという科学的知見は存在しないのであるから,肝臓がんの発症と放射線の被曝線量との間に有意な関連性が存在するとしても,本件で問題となるC型慢性肝炎とは無関係である。
c 以上のとおり,原判決が依拠するワン論文及びトンプソン論文は,いずれも被曝線量とC型慢性肝炎との関連性を認める根拠とはなり得ない。
ウ 放射線被曝がC型慢性肝炎の発症・進行に影響を与えるか否かは明らかでないこと
a 原判決は,藤原論文(甲74)の内容を紹介した上,「HCV感染と被曝線量との間に有意な関係を認めることはできなかったものの,HCV抗体陽性者においては,放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加しており,慢性肝疾患の有病率が,HCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することがうかがわれ,放射線被曝がC型慢性肝炎に関連した慢性肝疾患の発症や進行を促進した可能性が指摘されるに至っている」とし,これを根拠に「放射線がHCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性がある」と判示した。
b しかし,藤原論文を詳細に検討すれば,同論文から「放射線がHCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性がある」などと導くことは到底できないのであり,原判決は,明らかに藤原論文の評価を誤っている。
原判決は,まず,HCV抗体陽性者において放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加したと認定しているが,これは甲74の図2のグラフが一見右上がりに見えることに起因する誤解である。甲74の表6の高抗体価群及び低抗体価群の数値から推測すると,そのP値(統計学上,当該事実を否定する偶然性の入る可能性を否定する値)が0.05(5%)を下回ることはあり得ないし,0.57,0.55という数値から大きく下がることも考え難い。これらによれば,P値はいずれも0.05を大きく上回っており,到底有意な結果であるとはいえない。特に,高抗体価と低抗体価に分けた場合,帰無仮説(両集団に差がないとする仮定)が正しかったとしても線量反応関係が現れてしまう可能性,すなわち線量反応関係が偶然によるものであった可能性の方が,実際に線量反応関係が存在する可能性より高いという結果になっており,HCV抗体陽性群全体でみた場合でも,これに近い結果になっている。また,95%信頼区間(信頼区間とは,ある確率で真の値が存在する区間であり,95%信頼区間とは,95%の確率で真実が存在する幅を意味する。)の下限は0を大きく下回っており,線量反応関係がない可能性や,仮に線量反応関係が存在するとしても,被曝線量の増加に伴って有病率が小さくなる関係にある可能性(傾きがマイナスになり,直線が右下がりになる可能性)も十分あり得るという結果になっている。
以上のとおり,藤原論文においては,被曝線量と慢性肝疾患有病率との間には,有意な相関関係は一切認められていない。したがって,藤原論文における検討結果をもって,HCV抗体陽性群について,統計学的,疫学的に有意な線量反応関係,ましてや被曝線量の増加に伴って有病率が増加する関係が認められたとは評価し得ない。
c 原判決は,「慢性肝疾患の有病率が,HCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することがうかがわれ」るとし,この点についてのP値が0.097であることについては,「一般的な有意水準よりも幅を持った判断をせざるを得ないとする考え方にも一応の合理性が認められる」などとして,放射線がHCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性があることを否定することはできないとした。
しかし,有意水準は0.05とするのが疫学の常識であるところ,藤原論文においてHCV抗体陽性群と陰性群の慢性肝疾患有病率の相対リスクの差の検定結果のP値は0.097で,0.05を上回っているから,有意差があるとはいえない。また,その点をおくとしても,HCV陽性群,陰性群それぞれの線量反応関係自体のP値は,0.05を大きく上回り,信頼区間の下限もマイナスとなっているのであるから,HCV陽性群における線量反応関係の傾きとHCV陰性群における線量反応関係の傾きとの間にかろうじて有意な差異があったとの評価に決定的な意味はない。すなわち,それぞれの直線について,線量反応関係が存在するとの有意な結果は得られておらず,信頼区間の下限がマイナスで直線の傾きが右上がりになるのか右下がりになるのかも分からないという状態で,2本の直線の傾きに差があるかどうかを調べているにすぎないのであり,その結果,差が認められたとしても,HCV抗体陽性群の傾きがHCV抗体陰性群の傾きを上回っていることを示唆するものではない。したがって,これについてかろうじて有意な差があるとしても,放射線被曝がC型慢性肝炎の発症等に何らかの影響を与えていることの根拠にはなり得ない。
エ 原爆放射線がC型慢性肝炎を発症させる持続的な因子になるとした誤り
a 原判決は,①放射線やラジカル(不対電子を持つ原子又は分子)によって損傷した遺伝子が不完全修復された結果としては,がんの発生が最も考えられるものの,それ以外の効果が起こらないと断言することはできないこと,②ラジカルによる化学結合の切断から生物効果が現れる期間は様々であり,必ずしも短期間とは限らないこと,③内部被曝の効果は十分に解明されておらず,長期的な健康影響を引き起こすという見解もあることから,原爆放射線がHCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得ることが否定されているものとは認められないとした。
b フリーラジカルは短命であり,体内のラジカルスカベンジャー(ラジカルを消失させる成分)によって,ラジカルは排除されるのであるから,数十年後にラジカルが残ることは考えられず,フリーラジカルによって被爆から数十年後に肝障害が引き起こされることは科学的にあり得ない。
したがって,放射線ないしラジカルによる肝障害が起こり得るとしても,それは放射線曝露後早期の段階であり,それが被爆から数十年後の慢性肝機能障害の原因となることは考えられない。また,放射線自体やラジカルによって,遺伝子が損傷されることはあるが,そのような細胞は遺伝子修復が行われるか,アポトーシス(細胞死)に陥る。しかし,放射線被曝によるアポトーシスは一過性であり,放射線被曝がなくなれば,アポトーシスは停止する。そして,遺伝子修復過程で遺伝子の不完全修復が起きた場合には,発がんの機序となることはあっても,慢性肝炎は起こらないのである。
また,原判決が論拠としたQ2医師の意見書(甲49)や,Q3意見書③(甲106)も,放射線やラジカルによる遺伝子損傷から長期間経過後に肝機能障害が起きる可能性を肯定するに足りるものではない。
c 原判決は,血管造影剤であるトロトラストが投与後20ないし40年経過して肝硬変や肝線維症などの非悪性肝疾患の発生を増加させるとの報告があることが紹介されていると指摘し,放射線がHCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得ることを根拠付けようとするようである。
しかし,トロトラスト被注入者の臨床病理学的特徴を詳細に検討すれば,慢性肝炎で必ず見られる炎症細胞の浸潤が見られたとの報告はなく,また,トロトラスト被注入者の80%においては,血中トランスアミナーゼの上昇も見られていない。トロトラスト沈着による肝障害の場合,トロトラストが肝細胞に沈着し,肝細胞が層状ないしび漫性に変性・壊死し,数か月から数年の経過でそのあとを埋めるように線維増性が進んで肝線維症となり,一部の症例は進んで肝硬変に至るものである。したがって,トロトラスト沈着症の病態は,上記の慢性肝炎の病態とも放射線肝炎の病態とも明らかに異なるものである。
したがって,トロトラスト被注入者の肝障害は慢性肝炎ではないのであって,これを根拠に,放射線がHCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得るとするのは明らかに飛躍がある。
d 以上のとおり,放射線やラジカルによる遺伝子損傷の結果として,放射線被曝から長期間経過後に慢性肝炎を発症するという科学的・医学的根拠はなく,また,内部被曝による長期的な健康被害について科学的根拠は存しないものである。
オ 放射線被曝による免疫能力の低下がC型慢性肝炎を発症,促進させたとした誤り
a 原判決は,様々な理由を羅列して,被爆による免疫能力の低下がC型慢性肝炎を発症,促進させたものと推測することの合理性を否定することはできないとしているが,かかる原判決の判断は,およそ非科学的な素人判断である。
b 放射線被曝は免疫機能を抑制するが,これは免疫の一次応答や二次応答に深く関わる白血球の一種であるリンパ球の放射線感受性が高く,放射線によって障害されやすいことによる。放射線被曝によりリンパ球が障害された場合,血液中のリンパ球は一時的には減少するが,造血機能を有する骨髄が非可逆的に障害されない限り,骨髄で生産された正常な細胞が補充され,リンパ球数は回復し,免疫機能も回復する。
50ないし150ラド(センチグレイ)の被曝では,通常,被曝後数日から数週間の間に末梢血中のリンパ球数は減少し始め,数か月のうちに正常値に回復する。通常,好中球はリンパ球より数日から数週間遅れた動態をとることが多い。
被控訴人の血球数のデータによれば,昭和20年9月20日には白血球数は減少していたが,その後,同年10月9日には,白血球数は7200と回復しており,これは,骨髄機能が回復してきていることを示している。好中球割合が18%と低いが,これは好中球がリンパ球より数日から数週間遅れた動態をとるためと考えられ,リンパ球数が回復していることからすれば,骨髄が白血球等の生産を開始し,免疫能が回復していることは明らかである。
さらに,被控訴人が肝機能障害で入院する前の平成4年においては,白血球数7500,リンパ球19.5%と正常値を示しており,非可逆的,継続的な骨髄障害は全く認められない。また,被控訴人には,仮に免疫機能が低下していれば罹患するような疾病に罹患した病歴も認められない。
加えて,被控訴人の推定被曝線量が130ラド(センチグレイ)であることに照らしても,被控訴人が被爆によって骨髄に非可逆的な障害を受けたとは考え難く,これは被控訴人の血球数に関する上記経過とも符合する。
なお,被爆者について,Tリンパ球の免疫応答能が低下しているとの報告は存在するものの,その低下は十数%程度であって,臨床的に影響が現れるほどの低下ではない。また,被爆者について,感染症罹患率と放射線被曝との間に有意差が認められたとする研究報告は,B型肝炎ウイルスについて若干の報告例があるほかは存在しない。むしろ,藤原論文によれば,抗HCV抗体陽性率及び抗HCV高抗体価は,被爆者の方が非被爆者に比べて有意に少なかったとされており,このことは,被爆者の方が持続的な感染の頻度が少ないことを示しており,少なくとも被爆者がウイルスを排除して持続的感染を防げるだけの免疫力を備えていることを示すものといえる。
したがって,被爆者について,C型慢性肝炎を発症,促進するような免疫能力の低下が認められるとする科学的知見は存しない。この点からも,被爆による免疫能力の低下がHCV感染やC型慢性肝炎発症を促進したことは否定される。
c 以上のとおり,被控訴人については,被爆直後にみられた白血球数の減少はその後速やかに回復しており,免疫機能が回復したことは明らかであって,その後長期間にわたって免疫機能が低下した状態にあったとは考え難く,被爆後30年余りを経て発症した慢性肝炎について,被爆による免疫能力の低下がHCV感染やC型慢性肝炎を発症,促進させたなどということはできない。
カ 急性障害等と現在の疾患を関連づけた誤り
a 原判決は,被控訴人が,被爆後2週間程度経過したころから,脱毛,血性の下痢等の原爆放射線の急性期の障害と認められる症状を発症し,白血球数が明らかに減少していること等から,原爆放射線によって相当期間に及ぶ重大な身体への影響を被ったことが認められるとした上で,「被控訴人の原爆放射線による急性障害の重篤性や被控訴人の免疫機能が少なくとも一定期間低下した事実に加えて,被控訴人の体調はその後回復したものの,他方において,被爆から長年月を経た昭和47年になって被爆時に体に刺さって入り込んだガラスがようやく排出されるなど,被爆後長年月に引き続き原子爆弾による影響を様々な形で被っていたことがうかがわれることを併せて考慮すれば,被控訴人に生じた健康被害については,被爆後長期間を経過した後に発生したものであっても,・・・・被爆との関係を考えるのが相当というべきである。」と判示した。
b 放射線被曝による健康影響は,白血球減少,脱毛,出血,吐き気等の急性障害(急性影響)と,悪性腫瘍,白内障等の後障害に区分することができ,両者の発症に至る機序や態様は全く異なるものである。したがって,急性障害の発症を直ちに数十年後の疾患の発症と関連づけ,その疾患について原爆放射線の影響を肯定するのは,およそ非科学的である。
被控訴人については,被爆直後に白血球数の減少が認められるものの,これはその後回復していることは上記のとおりであって,これが直ちに被爆後数十年を経て発症した疾患が原爆放射線の影響によるものと判断する根拠たり得ないことは明らかである。また,原判決は,昭和47年にガラス片が排出されたことを原爆放射線による健康被害と結びつけているが,ガラス片の排出と放射線との関連性,肝障害との関連性は全く不明である。
前記のとおり,ある疾患が原爆放射線の後障害であるか否かは,個々の疾患と原爆放射線との関連性についての病理学,臨床医学,放射線学,疫学等の見地からの具体的な科学的知見に基づいて判断されなければならない。そして,上記のとおり,C型慢性肝炎を含む慢性肝炎,肝硬変については,医学的にも疫学的にも放射線被曝の影響があるとの科学的知見は存在しないのであるから,被控訴人が急性障害を発症した事実を前提としても,被控訴人のC型慢性肝炎について放射線起因性を認めることはできない。
c 原判決は,「原子爆弾後障害症治療指針」(甲15,乙26)をもって,「被控訴人に生じた健康被害については,被爆後長期間を経過した後に発生したものであっても,被爆との関係を考えるのが相当である」とする根拠としている。
しかし,上記治療指針は,旧原爆医療法11条1項の健康保険の診療方針に関して,特に留意すべき事項を定めたものであり,当該疾患の放射線起因性についての判断方針となるものではない上,昭和33年以降積み重ねられてきた科学的知見に基づいて行われる現在の審査に当てはまるものではない。
したがって,原判決が上記治療指針を被控訴人の肝機能障害の放射線起因性判断方法の根拠にしたことは失当である。
(3) 被控訴人の慢性肝障害について放射線起因性が認められないこと
ア はじめに
前記(2)のとおり,放射線被曝がC型慢性肝炎の発症を促進させるとの科学的知見は存在しないことからすれば,被控訴人の慢性肝障害について放射線起因性が認められないことは明らかである。この点をおいても,放射線被曝をしたか否かにかかわらず,HCV感染によってC型慢性肝炎を発症する可能性は一般に極めて高いのであるから,被控訴人の慢性肝炎疾患は,放射線被曝に起因したものというよりも,C型肝炎ウイルスによる一般的な病状経過の結果であると考える方が自然であって,この点からみても,放射線起因性が認められる余地はないというべきである。
イ 個別の因果関係の判断について
前記(2)に述べた検討を経て,特定の要因と疾病との間に疫学的因果関係が認められたとしても,そのことのみで,個別の因果関係が肯定されるわけではない。疫学的因果関係には強弱があるものであって,当該要因が別の要因に比して相対危険度(相対リスク)が低ければ,個別的因果関係を検討するに当たっては,当該疾病は,当該別の要因に起因するものとの推定が働くことになることにも留意されるべきであり,個別の申請者の申請疾病に係る放射線起因性の判断においては,当該個人の体質や細菌,ウイルス等への感染等,当該疾患を引き起こす他の要因の存在等の事情をも勘案しなければならない。また,その上で,因果関係の存在が高度の蓋然性をもって証明されなければならない。
ウ 放射線被曝がC型慢性肝炎発症を促すという疫学的・科学的知見は存在しないこと。
本件において,原判決が挙げるワン論文,藤原論文等からは,被曝線量の増加に伴って慢性肝炎,肝硬変が増加するとの疫学的知見が存在するといえないことは,前記のとおりであり,その他にも放射線被曝がC型慢性肝炎をはじめとする慢性肝炎の発症に影響を与えるとの知見は存在しない。
なお,甲120に「放射線により遺伝子変異が起きた肝臓幹細胞に肝炎ウイルスが感染した場合に,キャリアーになりやすいかも知れない」との記載があるが,その前提として,「④HCV抗体高タイター(HCV持続感染)保有者中での慢性肝疾患有病率は線量と共に上昇するが,サンプル数が少なく有意水準には至らない,⑤HCV抗体陽性慢性肝炎の発生率(HCV持続感染者)は,線量に応じて上昇するが,有意水準には至らない」と記述されているとおり,上記記載はHCVについて述べられたものとは考えられない(乙54)。
したがって,本件の被控訴人のC型慢性肝炎が原爆放射線に起因するものであると判断する根拠は何ら存在しないというべきである。
エ 被爆がなかったとしてもC型慢性肝炎を発症したと考えられること
a HCV感染者は,持続感染により慢性肝炎を発症する場合が多く,HCV感染者の70ないし80%がC型慢性肝炎を発症する。
被控訴人のC型慢性肝炎について放射線起因性があることを認めるためには,被控訴人が被爆者でなければ,現在の肝機能障害を発症させることはなかったことが立証されなければならない。しかし,本件について,この点は立証されていない。
b ワン論文(甲71)によれば,被曝線量の増加に伴う慢性肝疾患の増加率はわずかである(1グレイ当たりの相対リスクは1.14)。これによれば,1.3グレイ(130ラド)被爆した者の慢性肝疾患及び肝硬変に関する相対的危険度は,1.18であり,極めて低い。したがって,放射線が仮に影響を与えたとしても,その影響は,そもそもHCV感染による慢性肝炎の発症の可能性に比べれば,極めて小さい。
このことは,藤原論文(甲74)でも象徴的に現れている。被曝線量が0の場合に,HCV抗体陽性群の慢性肝炎等の相対リスクは,(陰性群を1とすると)13.24であった。すなわち,仮に,放射線がC型慢性肝炎発症に影響を与えていたとしても,過剰相対リスクで考えた場合,HCV感染は,放射線の何十倍もの影響を与えているといえるのである,
c したがって,仮に,放射線被曝がC型慢性肝炎に影響を与える可能性が存在するとしても,被控訴人は,被爆していなかったとしてもC型慢性肝炎を発症した可能性が極めて高いといえるのであって,「特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性」が存在するとは到底認められず,放射線起因性を肯定することはできない。
オ 被控訴人のC型慢性肝炎が内部被曝によるものではないこと。
被控訴人が摂取した水による内部被曝線量は,最大で見積もっても自然放射線による被曝線量の1万分の1以下であって,極めて微量である。また,放射線核種の生物学的半減期を考慮すれば,被爆から10年後に肝臓にはほとんど残存していないものと考えられる。
したがって,これによって何らかの健康被害が発生することは到底考えられないのであって,内部被曝の効果が長期的な健康影響を引き起こすとする見解もあるとして,原爆放射線がHCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得るとした原判決の判断は非科学的なものである。
4 被控訴人の当審における主張
(1) 控訴人の姿勢について
控訴人は,原爆2法(原爆医療法及び被爆者特措法)を一体化した被爆者援護法の趣旨・目的を限定的に解しているが,これは,同法の趣旨や目的に反した非人道的でかつ狭隘なものである。そして,この考え方が控訴人の被爆者救済を排除する冷たい被爆者行政の基本となっている。
また,控訴人は,被爆者救済を排除する行政を正当化しようとして,「放射線起因性の判断について,医学的・科学的に解明されていることを前提に,未解明の部分について素人的あるいは被爆者を保護すべきであるといった価値判断を入れてはならない」という,頑なな態度に固執している。この被爆者救済に背を向けた頑なな姿勢が上記の法の目的や立法趣旨に反することは明らかである。いまだに十分な科学的・医学的解明がなされていないことを踏まえて被爆者の被爆の状況,被爆後の身体状況,その後の身体状況,健康診断や検診等の状況などを総合的に考慮すべきであるとの原審の理解は,これまでの判例や立法趣旨にも合致し,極めて的確である。
(2) 控訴人の主張の誤り
ア 控訴人の主張の根本的な誤りは,原爆放射線の人体に対する影響に関する科学的な未解明性を無視していることである。さらに,控訴人の主張の問題点を指摘すると,控訴人は,これまでに解明されている疫学,臨床医学,病理学,放射線学等の知見を細かく分断し,判断しようとしている点にある。加えて,控訴人の主張の問題点は,放射線の肝機能障害への影響は確定的影響であるという考え方に依然として固執しつつ,肝臓の免疫に関する研究成果も含めて,放射線の肝機能障害への影響に関するこれまでの研究成果を,これまた分断的にとらえ,一連の研究成果を連続的,総合的にとらえないという重大な欠陥がある。
イ 控訴人の各論点に関する反論も,全く科学的な根拠を持たないものである。まず,疫学に関する主張は,他の同一論点を含む訴訟における控訴人の主張と相矛盾しているばかりでなく,疫学の基本的な考え方とも矛盾する。そして,とりわけ問題となるのは,疫学の被爆者調査への適応において,その本質的限界を一切考慮の外に置くという極めて非現実的な主張を展開している点である。
ウ 控訴人のワン論文,トンプソン論文,藤原論文,藤原論文後の研究成果に関する批判は,放射線と肝機能障害についての長期間にわたって行われてきたこれらの論文相互の関係を全く無視するものとなっており,また,その批判内容も,全く科学的なものではない。
エ さらに,控訴人の放射線の免疫に対する影響に関する主張も,被爆直後の現実の実体に合わないばかりでなく,放射線影響研究所等のこの点に関する研究成果とも矛盾する内容となるなど,全く信用するに値しない。
(3) 被控訴人の主張のまとめ
被控訴人の原爆放射線と肝機能障害に関する考えをまとめると,以下のとおりである。
ア 1950年代から,多くの臨床研究で原爆放射線の肝機能障害への影響が指摘されていたこと。
イ 慢性肝機能障害に関する疫学的知見は,以下のとおりである。
a 死亡例,つまり寿命調査を中心に疫学が行われていたために数字上明確には現れなかったこと。
b エンドポイント(帰結点)としての肝臓がんによる死亡が発がん期間との関係で徐々に明らかになったこと。
c また,成人健康調査により原爆放射線被曝と肝機能障害との間に線量反応関係のあることが,疾患調査の検討を初めて行ったワン論文により初めて把握されたこと。
d ところが,ワン論文が書かれた当時ですら,既に高線量被曝者の多くが死亡しており,その結果,C型肝炎ウイルスによる慢性肝炎と放射線の関係を調べた藤原論文では,明確な有意差は認められなかったものの,ワン論文を否定する材料はなく,むしろ強くそれを推測させたこと。
e なお,ワン論文の相対リスクの値は,財団法人放射線影響研究所(以下「放影研」という。)の疫学調査の実態からみて,個々の被爆者に当てはめることには大きな問題があること。
ウ 放射線の人体に対する影響を機序的にいえば,全身の強烈な初期放射線に加え,内部被曝の影響による肝臓の細胞の影響,遺伝子の不完全修復による影響,更に免疫による影響が考えられ,これらも徐々に明らかになりつつあること。
エ C型肝炎との関係については,B型肝炎における疫学的立証との関係を比較すれば,むしろ影響があると考えた方が合理的であり,これを否定する状況はないこと。
以上,要するに,原爆放射線が全体的に人体の抵抗力の低下をもたらし,その結果,発病を促進したと考えるのが合理的である。控訴人の主張する科学的知見のみによって原爆症の認定をするのは,現在の原爆放射線の知見の到達水準からいって誤りであり,したがって,原判決の判示する被爆時の状況,被爆後の行動,その後の健康状態といった被控訴人の状況と科学的知見とを総合して判断すべきとした,原判決の判断の枠組みは,全く正しい。
(4) 急性障害の評価について
ア 控訴人は,急性障害の存在をもって,後障害である肝機能障害と放射線を関係づけることはできないとか,厚生省公衆衛生局長通知「原子爆弾後障害症治療指針について」(昭和33年8月13日衛発第726号)による「原子爆弾後障害症治療指針」(「33年治療指針」ともいう。甲15,乙26)は,現在の審査に当てはまらないと批判するが,控訴人の批判こそが科学的根拠を欠くものである。
イ 原判決も認定しているとおり,急性障害の存在,とりわけ被控訴人のように重篤な急性障害が発生したという事実は,被爆時点で,身体に原爆放射線の強い影響を受けたことを裏付けるものである。そして,被爆時点で身体に放射線の強い影響を受けたことは,その後被控訴人に現れる健康被害に放射線の影響があることを推定させるものである。
控訴人は,急性障害と後障害は「発生に至る機序や態様が全く異なるものである」と述べ,あたかも原爆放射線によって発生する急性症状や後障害の機序・態様がすべて解明されているかのような主張をしているが,これらの点はいまだ解明されていない。むしろ,受けた被爆線量や発生した急性症状の重篤性に応じて,健康被害が多発している事実からすれば,身体に原爆放射線の強い影響を受けたことは,後障害の発生に影響を与えたと考える方が健全な社会常識や経験則に適合したものというべきである。
ウ 33年治療指針は,「原子爆弾被爆者健康診断実施要領」(甲15)が述べるように,「放射線による障害の有無を決定する」に当たり,「当時受けた放射線の多寡を推定」し,「被爆後における急性症状の有無及びその程度等」から決定せざるを得ないことを前提として,後障害の成因が未解明であることから,「原子爆弾被爆者に関しては,いかなる疾患又は疾病についても一応被爆との関係を考え,その経過及び予防について特別の配慮をはからなければならない」としたものである。それから半世紀近くが経過したが,依然として,原爆放射線の影響や後障害の成因については未解明であり,この指針の前提が根底から覆ったわけではない。現に上記の原子爆弾被爆者健康診断実施要領も,33年治療指針も,厚生労働省の発行する「原爆被爆者関係法令通知集」に掲載されており,いまだ廃止されていない。厚生労働省の公式見解を,原判決が認定の根拠に使用するのは当然である。
第3当裁判所の判断
当裁判所も,被控訴人の請求は理由があるものと判断する。その理由は,以下に述べるほか,原判決の事実及び理由の第3(90頁以下)記載のとおりであるから,これを引用する。
1 被控訴人の被爆に関する事実
(1) 被控訴人の被爆状況
原判決事実及び理由欄第2の2の「前提となる事実」(9頁以下)及び証拠(甲1,3ないし5,8,31,78,93,乙1,19,証人Q4,被控訴人本人。以下,人証はすべて原審で取り調べたものである。)によれば,被控訴人の被爆状況及び被爆直後の状況について,次の事実を認めることができる。
ア 被控訴人は,昭和○年○月○日に出生し,長崎市に原子爆弾が投下された昭和20年8月9日当時○歳であり,長崎県立長崎工業学校(定時制)○年生に在学していたが,学徒動員により,昼間は爆心地から約1.3㎞北方の地点に所在するα工場内の組立工場(鉄骨とスレートの構造)で魚雷の部品の製造に従事していた。
イ 被控訴人は,昭和20年8月9日朝,長崎市βの自宅を出て,午前8時ころα工場に到着したが,間もなく空襲警戒警報が出されたため,同工場の付近の山林の中にある防空壕に避難した。その後,上記警報が解除されたことから,被控訴人はα工場に戻った。
そして,被控訴人が組立工場内の南西の角付近にある休憩用の長いすに腰掛けて,4,5人で話をしていたところ,同日午前11時2分に長崎市上空で原子爆弾が爆発した。その際,被控訴人は,上半身裸で肩から手拭いを掛けており,被控訴人の体が納まるほどの大きさの2つのガラス窓を背にして,爆心地の方向に背を向ける形で腰掛けていた。なお,当時,ガラス窓が開いていたか否かは不明であるが,季節的にみて,開いていた可能性が高い。
ウ 被控訴人は,原子爆弾が爆発した瞬間,突然ガスの光が一面に拡がったような青い光を見たが,やがて気を失った。そして,気がついた時には,瓦礫の下で,体の左側を下にして左足を折り曲げるような形で倒れていたが,瓦礫の間に隙間があったため,そこからはい出ることができた。被控訴人は,後頭部や背中一面にガラス片等による傷を負い,左耳たぶが切れて,左腕の肘から下にひどい火傷を負っていた。なお,α工場は,原子爆弾の爆発により完全に破壊され,跡形もない状態になった。
エ 被控訴人は,Q5という下級生が,近くをはうようにして歩いているのに気づき,同人とともに,α工場の裏門付近から長崎本線の線路を渡って,約300m離れた山林に避難した。その後,被控訴人もQ5ものどが乾いたので,一緒に浦上川の支流と思われる川まで下り,被控訴人はそこで水を相当たくさん飲んだ。被控訴人が水を飲んだころには,周囲は既に薄暗くなっていた。
そのころ,被控訴人は,救援列車が動いていることを耳にして,長崎本線の線路まで歩いて行き,照円寺付近と思われる地点で列車の到着を待った。夜遅くなってから,ようやく救援列車が来たので,被控訴人はこれに乗車したが,背中が痛かったため,車内でははうようにして寝ていた。被控訴人は,救援列車でγ駅に到着し,そこからトラックに乗って学校らしい所へ行き,傷口の消毒,塗り薬,絆創膏等の応急処置を受けた。同日朝以来何も食べていなかった被控訴人は,そこでおかゆをもらった。
オ その後,被控訴人は,δ病院に収容された。同病院には,10人部屋に20人程度の患者が収容されていたが,被控訴人の収容後,被控訴人の周囲の患者は,前後左右皆亡くなってしまった。亡くなった患者の多くは,最初は熱が出て,下痢,血便が続き,高熱でうわごとを言うようになって亡くなるという経過をたどっていった。
被控訴人は,入院後2週間程度経過したころから髪の毛が抜けるようになり,入院後20日程度経過したころから,発熱,下痢,血便,嘔吐等の諸症状が出始め,昭和20年9月初旬ころには,40度を超す発熱が1週間続いた。採血検査の際,血液を採取している最中にどんどん固まってしまい,医師から「原爆症の重症だ」と言われたこともあった。ガラス片による傷や火傷は,比較的順調に治癒する方向に推移したものの,入院から約2か月後に退院するまでには治らなかった。また,頭部に刺さったガラス片は同病院で除去してもらったが,背中にはガラス片によるものと思われる痛みが感じられたものの,同病院のレントゲン検査ではガラス片を発見することができなかった。
カ 被控訴人は,昭和20年9月下旬ころ,ようやく症状が落ち着いたことからδ病院を退院した。
しかし,その後約2年間ほど,だるい,食欲がない等の体調不振が続き,就労することができない状況にあった。また,背中の傷は入院中に完治せず,退院後約2か月ほど,背中を下にして寝ることはできなかった。被控訴人は,同病院における症状が重症であったことから,日米合同調査委員会の調査の対象となり,また,その後も長崎の原爆傷害調査委員会(以下「ABCC」という。)から被控訴人に対して問い合わせがあり,その調査を継続的に受けてきた。
(2) 被控訴人の被爆直後の症状に関する調査記録
証拠(甲30の1.2,57,59,77,78,証人Q3)によれば,ABCCの保管に係る被控訴人の被爆直後の症状に関する日米合同調査委員会等の調査結果に,次のとおり記録されていることが認められる。
ア 発熱
被控訴人の発熱について,1953調査票(昭和28年)には,「1945・9・20」「中程度」「10日」と記載され,1954調査票(昭和29年)には,発熱の程度として「+++」と記載されており,1956調査票(昭和31年)にも1953調査票(昭和28年)と同じ記載がある。
イ 脱毛
被控訴人の脱毛について,日米合同調査委員会の調査に係る1945調査票(昭和20年)には,放射線の効果として,昭和20年10月8日まで頭部脱毛があり,脱毛は続いていると明記されており,1953調査票(昭和28年)には,「1/4,約2ヶ月間」と記載され,1956調査票(昭和31年)にも1953調査票(昭和28年)と同じ記載がある。
ウ 血性の下痢,血便及び嘔吐
被控訴人の下痢について,1945調査票(昭和20年)には,放射線の効果として,「9月3日から5日,水様血性下痢」と明記され,その後,9月1日からと訂正されている。1953調査票(昭和28年)には,「非血便性の下痢」「軽度」「3日」及び「血便性の下痢」「中程度」「7日」と記載され,1954調査票(昭和29年)には,下痢の回数として「+」,血便の程度として「+++」と記載されており,1956調査票(昭和31年)にも1953調査票(昭和28年)と同じ記載がある。
被控訴人の吐き気及び嘔吐については,1945調査票(昭和20年)にはマイナスの記載があるが,1953調査票(昭和28年)では訂正され,「1945・9・20」「中程度」「5日」と記載されており,1954調査票(昭和29年)には嘔吐の回数として「+++」と記載され,1956調査票(昭和31年)にも1953調査票(昭和28年)と同じ記載がある。
エ 血液異常
1945調査票(昭和20年)によれば,1945(昭和20)年9月20日の血液検査の結果,被控訴人の白血球数は2100であり,一般の正常値4000ないし1万を大きく下回るのみならず,同時期の被爆者の平均値3340ないし4490をも下回っており,白血球減少症を呈している。
また,1945調査票(昭和20年)によれば,同年10月9日の血液検査の結果,被控訴人の白血球数は7200と回復しているが,白血球のうち免疫を司る好中球の割合が合計18%と極めて低く,造血が抑制された状態となっていたことが明らかになっている。
オ 食欲不振,倦怠感等の体調不良
1945調査票(昭和20年)には,放射線の効果として,「食思不振」の記載があり,1953調査票(昭和28年)には,この点について,「1945・9・20」「中程度」「9日」と具体的に記載されており,1954調査票(昭和29年)には食欲不振の程度として「+++」と記載され,1956調査票(昭和31年)にも1953調査票(昭和28年)と同じ記載がある。
また,1953調査票(昭和28年)には,被控訴人の倦怠感について,「1945・9・20」「中程度」「10日」と記載されている。
(3) 被控訴人のその後の生活歴,現在の症状等
前記「前提となる事実」及び証拠(甲93,乙1,40の1ないし4,被控訴人本人)によれば,被控訴人のその後の生活歴,現在の症状等について,次の事実を認めることができる。
ア 被控訴人は,δ病院を退院後,約2年間ほど体調不振が続いて就労できなかったが,その後,昭和22,3年ころ(○,○歳ころ)から長崎市内の叔父の新聞販売店で働くようになった。
さらに,その後の昭和34年(○歳くらい)に,当時両親が相次いで死亡したこともあって,上京し,東京で鉄工会社,倉庫会社等に勤務した。その間,特に病気やけがをしたことはなく,輸血を受けるような手術をしたこともなかった。また,飲酒をした場合でも,せいぜい2,3合であり,深酒はあまりしたことがなかった(なお,被控訴人は,昭和43年7月に婚姻した。)。
昭和47年(○歳くらい)には,被爆時に身体に刺さって入り込んだガラス片が,背中から右わきの下を回って,ようやく出てきたことがあった。
また,被控訴人は,昭和47年ないし昭和49年ころ(○歳ないし○歳のころ)帰郷した際,被爆者健康手帳の存在を知って,その交付を受けた。
イ 被控訴人は,昭和56年ないし昭和59年ころ(○歳ないし○歳のころ),被爆者検診において,肝臓について精密検査を要するとの指示を受けたが,自覚症状がない上に,仕事のために休みが取れないことから,精密検査を受けなかった。また,そのころ,社団法人日本被団協原爆被爆者中央相談所の理事長であるQ2医師に相談をした際にも,肝機能の精密検査を受けることを勧められたが,これを受けなかった。
被控訴人は,昭和59年ころ(○歳のころ),体がだるい,足が重い等の症状を感じたものの,その後は健康状態に特段の異常を感じていなかった。
しかし,平成4年(○歳のころ)に,これらの症状が急に悪化したことから,ε病院で診察を受けたところ,肝機能障害との診断を受け,平成4年9月16日から同年10月22日まで同病院に入院した。また,働ける状況になかったことから,勤務先の運送会社を退職した。
その後,被控訴人は,ε病院に通院しながら,食事療法,静脈注射等による治療を受けてきた。
ウ εにおける検査結果等は,次のとおりである。
a 臨床病理学的検査の結果(乙40の3)
平成4年9月17日の検査結果によれば,赤血球数426万,白血球数7500,血小板数23.1万,白血球百分比は好中球67.1%,好酸球4.3%,好塩球1.1%,単球7.6%,リンパ球19.5%等とされている。
平成5年11月24日の同種検査の結果によれば,赤血球数487万,白血球数8400,血小板数23.6万,白血球百分比は好中球60.8%,好酸球8.0%,好塩球1.2%,単球7.7%,リンパ球21.8%等とされている。
また,その他の検査として,次の結果が記載されている。
(平成)4年9月 5年3月 5年12月
GOT 68 45 32 ICG 15.5%
GPT 52 57 43
Alp 456 365 421
TTT 6.0
ZTT 19.6
b ε病院のQ6医師による平成6年1月7日作成の意見書(乙40の1)には,次のとおり記載されている。
〔被控訴人の疾病の名称〕 肝機能障害
〔現症所見〕 手掌紅斑,クモ状血管腫,肝腫大
〔医師の意見〕 昭和59年ころから肝障害が指摘されている。
ウイルス性肝炎は否定的であり,又,飲酒による肝障害も否定的。
肝障害については原子爆弾の放射能によることが否定しえない。
また,Q6医師による平成6年8月20日付け診断書(乙40の4)には,次のとおり記載されている。
〔病名〕 肝障害
「前回申請時にはC型肝炎抗体検査が未実施でした。第2世代HCV抗体は陽性でした。従いまして,肝障害の原因として,C型肝炎ウイルスの関与も否定し得ません。しかし,被爆による肝への障害も否定できないものと考えます。」
エ なお,被控訴人は,兄妹はおらず,家族は両親のみであったが,祖父母を含め家族に肝臓病を患ったものがいるとの記憶はない。また,前記のとおり,これまで輸血を受けたことはない。
オ 被控訴人の本件認定申請時における疾病名は,肝機能障害ないし肝障害であったが,本件処分(平成7年11月9日)後の平成16年9月10日付けの診断書(甲131)では,肝がん,C型肝硬変とされている。
なお,被控訴人は,肝機能障害のほか,肺がんも発症し,平成13年2月に肺がんを認定疾病として,控訴人から原爆症認定を受けた。
2 原子爆弾による被害,放射線が人体に及ぼす影響,原子爆弾による被爆線量の評価,肝機能障害に関する知見
これらについては,原判決事実及び理由の第3の2ないし5(96頁以下)記載のとおりであるから,これを引用する(なお,原判決109頁19行目に「中性子線が99ラド」とあるのを「ガンマ線が99ラド」と改める。)。
【C型慢性肝炎等について】
なお,C型慢性肝炎及びC型肝炎ウイルスの肝疾患に占める比重についての概要は,次のとおりである(原判決114頁以下)。
(1) 肝機能障害を起こす因子には,肝炎ウイルス等による感染,アルコール,薬物,自己免疫,脂肪肝,先天性代謝異常等がある。
C型慢性肝炎は,HCV(C型肝炎ウイルス)の持続感染の結果惹起される病態である。HCVの感染者は持続感染により慢性肝炎に至る場合が多く,感染者の70ないし80%がC型慢性肝炎に至るとする見解がある(証人Q722,46項)。
C型慢性肝炎は,主として輸血,血液製剤,針治療,注射等の医療行為,刺青等によって感染し得ると考えられている。
C型慢性肝炎では,自覚症状が認められない場合が多く,患者の45%が自覚症状を認めなかったとする調査結果もある。自覚症状としては,全身倦怠感,易疲労感,食思不振,悪心,嘔吐等が認められる。
C型肝炎による肝障害の発生機序についても,B型肝炎の場合と同様,ウイルス自体が肝細胞障害を起こすのではなく,ウイルス感染した肝細胞を認識したリンパ球が肝細胞を攻撃して肝細胞障害を起こすなど,主として免疫学的機序が肝細胞障害に重要な役割を果たすものとされている。
C型慢性肝炎は,多くの場合,長年の間に徐々に進行し,40%の症例がHCVの初感染から15ないし20年で肝硬変に進展し,25%の症例がHCVの初感染から20ないし30年で肝細胞がんを合併するという見解や,HCVの感染から30ないし40年で肝硬変へ進むとする見解がある。このように,HCV感染からC型慢性肝炎,肝硬変,肝細胞がんへと進展するまでの期間が非常に長いことが,C型肝炎の特徴の一つである。
(2) 我が国では,ウイルス性慢性肝炎の中でB型の割合が約25ないし30%,C型の割合が約70ないし75%であるとする見解や,慢性肝炎の中でB型の割合が34・4%,C型の割合が64・5%とするデータがある。
さらに,我が国の肝がんの半数以上がHCVに由来するという見解があるほか,Q7教授は,肝細胞がんの70%がHCVに陽性,19・5%がHBVに陽性,4・7%がHBV及びHCVに陽性であるとしており,我が国の肝細胞がんの約78%がHCV感染が原因であるとする報告もある。
3 放射線が肝臓に及ぼす影響
(1) 放射線による肝障害への影響,放射線の肝細胞及び遺伝子に対する影響
これらについては,原判決事実及び理由欄第3の6(1)及び(2)(116頁以下)記載のとおりであるから,これを引用する。
(2) 放射線と肝疾患の関連性に関する疫学的研究
各項末尾に掲記した証拠によれば,放射線が肝臓に及ぼす影響について,次の事実を認めることができる。
ア ABCCによる後障害の調査
原子爆弾の後障害に関する調査プログラムには,原爆傷害調査委員会(ABCC)及びその後身に当たる放影研による調査のほか,広島大学原爆放射能医学研究所による調査や,広島原爆障害対策協議会健康管理センターによる調査がある。
ABCCは,1947(昭和22)年,米国原子力委員会の資金によって米国学士院が設立した委員会であり,1948(昭和23)年に我が国の厚生省国立予防衛生研究所が参加し,以来,共同して被爆者の広範な健康調査を行ってきた。その後,日米共同による調査研究を更に長期にわたって続行するため,1975(昭和50)年,ABCCは財団法人である放影研に再編成された。放影研の運営経費は,日米両国政府が同額を負担し,日米の専門評議員で構成される専門評議員会の勧告を得て調査研究活動を行っている。
ABCCは,1947(昭和22)年から調査プログラムの実施を開始し,1950(昭和25)年の国勢調査付帯調査により把握された被爆者に基づいて固定集団(寿命調査集団)を設定し,同年から寿命調査(LSS)を開始した。寿命調査集団は,当初は9万9393人であったが,その後拡大し,1999(平成11)年には12万0321人となっている。
また,ABCCは,寿命調査集団の中から,2年に1度の健康診断を通じて疾病の発生率と健康上の情報を収集することを目的とした成人健康調査集団を設定し,1958(昭和33)年から成人健康調査(AHS)を行っている。この調査によって,すべての疾患と生理的疾病を診断し,がんやその他の疾患の発生と被曝線量との関係を研究して,寿命調査集団の死亡率やがんの発生率についての追跡調査では得られない臨床上又は疫学上の情報を入手することが可能となり,がんや心筋梗塞,子宮筋腫等の非がん疾患の発生について,被曝線量との有意な関係が認められてきている。成人健康調査集団は,当初は寿命調査集団から選ばれた1万9961人から構成され,1977(昭和52)年から合計2万3418人に拡大されたが,集団設定後40年を経た1999(平成11)年においても5000人以上が生存しており,うち70%以上の構成員が成人健康調査プログラムに参加している。
なお,ABCCによって開始されたこれらの調査は,放影研に受け継がれ,現在も実施されている。
(甲26,70,71,102,116,乙24,証人Q8)
イ 放射線と肝臓がんの関係についての研究及び知見
放射線と肝臓がんの関係については,1992(平成4)年に発表されたD・トンプソンほか「原爆被爆者における癌発生率。第2部:充実性腫瘍,1958-1987年」(甲75。トンプソン論文。以下「原爆被爆者における癌発生率」ともいう。)により,寿命調査集団において診断された肝臓がんについて,1シーベルト(放射線の生体への影響を表すための等価線量の単位)当たりの推定過剰相対リスク(ERR1SV)は0.49,95%信頼区間は(0.16;0.92)とされ,線形線量反応が認められたことから,放射線に関連した肝臓がんの過剰リスクがはじめて立証され,肝臓がんと放射線には有意な関係があることが判明した。トンプソン論文には,「これまでの調査は,1Gy以上に被曝した者ではB型肝炎ウイルス抗原を持つ者が多くなっていることを示している。肝炎ウイルスが肝臓がん発達において果たす重要な役割を考えるとこのことは特に興味深い。現在行われている肝臓がん罹患率の組織学的研究は,低LET放射線と原発肝臓がんとの関連の理解を一層深めるかもしれない。」と記載されている。
また,がんは,一般に細胞中のがん遺伝子の活性化,がん抑制遺伝子の不活化,DNA修復遺伝子の不活化等を通じて起きると考えられており,放射線は染色体を切断したり,遺伝子を欠失,再配列させたりする作用が強いと考えられているところ,Q9らは,「原爆被爆者肝癌における癌抑制遺伝子P53の変異は線量依存的に上昇する」(平成9年度,原爆症に関する調査研究班報告書)において,被爆者の肝がん組織の中のがん抑制遺伝子P53の異常率について調べた結果,異常率が線量依存的に増大していることを確認し(P=0.03),これによって,原爆放射線が遺伝子変化を通じて肝がん発生に影響していることがはじめて立証された。
なお,「放影研ニューズレターVol.20No.6」(甲27)には,承認された研究計画書として「原爆被爆者における肝細胞癌の分子生物学的解析」が掲げられ,その説明として,「比較的長い潜伏期間の後に,原爆被爆者では原発性肝癌の発生頻度が上昇していることが観察されている。加えて,高線量被爆者にHBs抗原陽性度が高くB型肝炎ウイルスおよびC型肝炎ウイルスが肝癌発生に大きくかかわっていると推測されている。その機構についてはまだ詳細に検討されておらず,肝癌発生過程においてこれらの現象に関与する因子の相互作用があるか否かについても不明である。しかし,肝癌の発生機構は二つ以上の癌抑制遺伝子の変異を含む多段階を経ると信じられている。P53遺伝子の機能喪失と肝炎ウイルスの感染との間には相関があり,また電離放射線が,癌抑制遺伝子の機能喪失に十分な欠失型突然変異を起こすことなどを考慮すると,B型肝炎ウイルスや特にC型肝炎ウイルスと共に,これら遺伝子の研究は,肝癌発生に関するいくつかの問題を明らかにするであろう。」と記載されている。
(甲9,27,75,乙50)
ウ がん以外の肝疾患と放射線の関係に関する研究及び知見
a ワン論文以前の研究
原子爆弾の被爆直後には,何らかの肝障害が被爆者の中にみられたことは,多くの臨床家によって報告されており,その後も被爆者における肝障害の頻度は高く,重要な医学的問題の一つとされてきた。
後障害としての肝機能障害については,昭和34年に原爆後障害研究会の第1回シンポジウムにおいて,肝機能障害の比率は被爆者,非被爆者に差がなく,原爆に起因すると思われる肝機能障害は認めないとする報告があったものの,Q10らによる原爆病院入院患者調査では,肝疾患が第2位の頻度を占めており,大きな医学的問題とされていた。
その後も,昭和37年のQ11らによる広島市の原爆医療認定申請書を用いた統計調査でも,被爆者の肝疾患の頻度が国民健康調査と比べて3倍近く高率であり,近距離被爆者で特に高い傾向が認められ,Q12らはABCCの寿命調査対象集団の143例の肝硬変剖検例で電離放射線と肝硬変の間に有意の関係を認め,Q13は,原爆病院の外来患者の肝疾患有病率が2.0㎞未満の近距離被爆者で高率にみられたと述べるなど,肝疾患と放射線の関係を示唆する報告や研究が続いた。
また,原爆放射線の人体影響1992(甲17,乙15)には,成人健康調査集団の1グレイ以上の高線量被曝群とその対照群を比較したHBs抗原及び抗体の測定の結果,HBs抗原の陽性率が1グレイ以上の高線量被曝群の方が対照群よりも有意に高かったとする研究結果があり,高線量被曝群での免疫能の低下を示唆するものではないかと考えられる旨記載されている。
(甲17)
b ワン論文
1993(平成5)年に公表された論文「原爆被爆者における癌以外の疾患発生率:1958-1986」(ワン論文。甲26,71)は,1958(昭和33)年から1986(昭和61)年までの成人健康調査に基づいて,放射線と肝機能障害を含む非がん疾患との関連性を検討したものであり,子宮筋腫,慢性肝炎,肝硬変及び甲状腺疾患について,放射線との関係で統計的に有意な過剰リスクが認められるとしている。ワン論文によれば,臓器線量と慢性肝疾患及び肝硬変の有意差を示すP値は,0.006であり,ワン論文は,放射線と肝硬変及び肝機能障害の間に有意な関係があることを初めて論文で公式に認めたものとされている。
そして,ワン論文は,最近の寿命調査報告において,肝臓がんの発生率に線量反応関係が認められ,寿命調査におけるがん以外の死亡率に関する最近の調査も,肝硬変による死亡率が高線量群で増加していることを示しており,動物実験も肝機能障害が放射線被曝により誘発されることを示しているとした上で,「最新の証拠は,現在得ている結果を被曝の直接的影響によって説明できるかもしれないことを示唆している。」と述べている。
これに対し,Q7教授は,Q7意見書②(乙44)において,ワン論文について,慢性肝炎及び肝硬変の主要原因の一つであるアルコール摂取の影響や,栄養状態の影響について検討しておらず,放射線の影響の有無を確認するために必要な放射線以外の肝障害因子に関する補正が十分行われていないと指摘しているところ,ワン論文も,この点を認め,「アルコール摂取に関する情報などAHS(成人健康調査)対象者の栄養状態に関する情報は,放射線被曝と慢性肝炎および肝硬変発生との関連におけるアルコール摂取の相互的作用の役割について手がかりを与えてくれるであろう。」としている。もっとも,Q3医師は,Q3意見書③(甲106)において,この問題については,寿命調査集団において飲酒のリスク要因増加が認められなかったとする研究が存在することなどに照らして,問題は解消されているとしている。
(甲26,71,106,114,乙44)
c 藤原論文等
(a) 平成9年3月に公表された調査研究班報告書(乙12)は,我が国において,肝細胞がんの約75%がHCV,約20%がHBVの持続感染に起因する慢性肝障害の終末像といわれていることを背景に,ワン論文において放射線被曝線量と肝硬変及び慢性肝疾患の間に有意な関係が認められたことや,高線量被曝者のHBs抗原陽性率が高いとする研究結果を踏まえて,HCV感染と原爆放射線被曝との関係を明らかにし,被爆者に慢性肝疾患及び肝がんの発生が多いことにHCV感染が寄与しているかについて検討することを目的として行われた調査に係る報告書である。
そして,上記調査においては,輸血歴,肝疾患家族歴等の因子に関する補正を行った結果,成人健康調査集団におけるHCV陽性率と被曝線量との間に有意な関係を認めることができなかったことから,調査研究班報告書は,「今回の調査から,原爆放射線被曝とHCV抗体陽性率は関係がなく,HCV感染では,原爆被爆者に肝癌,肝硬変,慢性肝炎が多いことは説明がつかなかった。今後は,分子疫学的な手法を使って,原爆放射線被曝と慢性肝疾患,肝癌の発生メカニズムの解明が必要であろう。」と結んでいる。
(乙12,21)
(b) 藤原論文(甲74。Q8外5名によるもの)は,上記調査研究班報告書(乙12)の結果を踏まえて,HCV抗体陽性の被爆者とHCV抗体陰性の被爆者における慢性肝疾患(主として慢性肝炎又は肝硬変)に対する放射線量反応関係を検討したものである。
その結果,慢性肝疾患(CLD)の有病率自体は,HCV抗体陽性の対象者と陰性の対象者について,放射線量とともに増加した。HCV抗体陽性の対象者における慢性肝疾患の相対リスクは13.24であった。ところで,HCV陰性群(対象者数5577人,症例数208)の線量反応は,1グレイ当たり0.16,95%信頼区間は(-0.05;0.46),P値は0.15であった。他方,HCV陽性群のうち低抗体価の場合(対象者数205人,症例数20)の線量反応は,1グレイ当たり0.61,95%信頼区間は(-2.19;4.09),P値は0.57であり,高抗体価の場合(対象者数339人,症例数166)の線量反応は,1グレイ当たり2.63,95%信頼区間は(-4.64;14.64),P値は0.55であった。そして,線量反応関係を示す曲線は,HCV抗体陽性の対象者において,HCV抗体陰性の対象者よりも20倍近く高い勾配を示した(HCV抗体陰性の対象者が1グレイ当たり0.16であるのに対し,相対リスクの増加は1グレイ当たり3.04。原判決別紙図面参照。)。藤原論文はその有位水準について「これはかろうじて有意な差異であった(P=0.097)。」としている。
そして,藤原論文は,「要約」において,「これらのデータから慢性肝疾患に対する放射線量反応関係は,HCV抗体陰性の被爆者に比べて,HCV抗体陽性の被爆者において大きいことが示唆された(スロープ比20)。結論として,抗HCV抗体陽性率と被曝線量との間に線量反応関係は見られなかったが,抗HCV抗体陽性者において,慢性肝疾患に対する放射線量反応の増加が認められた。従って,放射線被曝はC型肝炎感染に関連した慢性肝疾患の進行を促進するのかも知れない。」としているほか,「考察」において,「放射線量に伴うCLDの有病率の増加は,抗HCV抗体陽性の対象者において極めて顕著であり,被曝が,HCV感染による肝機能異常を伴う慢性肝炎の進行を促進した可能性を示した。HCV感染が放射線被曝の前か後かに関係なく,放射線量はHCVが関与した慢性肝炎の経過に影響するかも知れない。」としており,結論として,「実際の原爆放射線量とAHS対象者の抗HCV抗体陽性率とは関係がなかった。むしろ,被曝していない人よりも被曝した人の方が陽性率は低かった。抗HCV抗体陽性率と放射線量との間には関連性がないが,慢性肝疾患の有病率は,抗HCV抗体陰性の人よりも陽性の人において放射線量に伴い大きく増加したようである。この所見は,放射線被曝がHCV感染後の肝炎の進行を促進した可能性を示唆している。この仮説を明らかにするために,更なる研究が必要である。」としている。
(甲74)
(c) なお,藤原論文に係る研究と同一の研究に関するQ8(藤原論文執筆者の1人)の「原爆被爆者における肝障害」(甲76)には,「HCV抗体陽性者における慢性肝炎の1Gy当たりの相対リスクは3.04(95%CI-1.05-9.02),陰性者のそれは0.16(95%CI-0.05-0.46)で,HCV陽性者の慢性肝炎有病率の線量・反応関係の傾きは,陰性者の約20倍であった。しかし,この2つの傾きには統計学的には有意差は認められなかった(P=0.097)。」と記載されている。
また,有意水準(P値。前記のとおり,統計学上,当該事実を否定する偶然性の入る可能性を示す値である。)は,統計学的には0.05とされることが通常であり,その場合,P値が0.05より小さい場合には有意であると判断される。このことから,Q7教授は,Q7意見書②(乙44)において,藤原論文がP値が0.097であったことについて「かろうじて有意」と表現したことは不適切であるとする見解を示している。Q14の意見書(乙54)も,藤原論文の原文(甲73)のmarginally significantとは,「有意とは言えないが有意に近い」ことを意味する統計学的表現であるとしており,藤原論文は,被曝線量と肝障害(C型慢性肝炎)発症との間には,統計学的有意相関が見られなかったことを報告したものであるとしている。
しかし,一方,久道茂ほか訳「臨床のための疫学」(乙47)は,「有意水準を0.05とすることはあくまで便宜的なものであって,それぞれの置かれた状況における偽陽性の結論の重要性によって決めているようである。」としており,放影研においては,P値が0.1から0.05までの間の場合に「かろうじて有意」と表現し,有意水準を0.1と設定することがある。
(甲75,76,乙44,46,47,52の2,54,証人Q8)
d その他
(a) 「原爆被爆者の死亡率調査第12報」(甲119)は,「高線量被曝したLSS(寿命調査)対象者の大部分を含む放影研臨床追跡調査・・・・において,心筋梗塞および脳梗塞,ならびにアテローム性動脈硬化症と高血圧症の様々な指標について有意な線量反応が観察されている。この対照群の慢性肝疾患には統計的に有意な線量反応も確認されている。」「このような影響に関する機序が解明されていないからといって,機序が存在しないという意味ではないと我々は考えている。0.5-1Sv(シーベルト)の線量域の全身被曝は骨髄および他の器官に主要な急性障害を引き起こし,完全に修復されなかった場合は長期的健康影響を引き起こすかもしれない。特に,この線量域の被曝は多能性骨髄幹細胞の半分以上を死滅させると考えられている。」「一つの興味深い機序として免疫能不全が考えられる。健康に直接影響が出るわけではないが,T細胞とB細胞の機能的・量的異常において原爆放射線の後影響が見られる。」という見解を示している。
(甲119)
(b) 「原爆放射線のヒト免疫応答に及ぼす影響第16報」(甲120)は,成人健康集団におけるHCV及びHBVの感染率及び持続感染者の発生率を調査した結果,HBs抗体陽性率(過去の感染率)と線量との間に相関はないこと,HBs抗原陽性率(持続感染率)は線量に応じて有意に増加すること,HCV抗体陽性率と線量との間には関係が認められないこと,HCV抗体陽性慢性肝炎の発生率(HCV持続感染者)は線量に応じて上昇するが有意水準に至らないこと等が明らかになったとした上で,「肝炎ウイルス感染率に影響がある輸血歴,針治療歴,家族歴および広島と長崎の差,性別などの交絡因子の影響を補正しても,被爆の影響が残った。これらの結果は,放射線の影響が少なくとも肝炎ウイルスの持続感染への移行段階に効いていることを示している。この過程は,原爆被爆による長期にわたる免疫応答性の変化が関係している可能性がある。また,放射線により遺伝子変異が起きた肝臓幹細胞に肝炎ウイルスが感染した場合に,キャリアーになりやすいのかもしれない。他方,いったん持続感染が起きた後に,肝硬変や肝細胞癌へ進行する段階を被爆が促進するのか否かは,いまだ検討されていない。」としている。
(甲120)
(c) 原爆被爆者の死亡率調査第13報(乙52の1)は,原爆被爆者の死亡率調査第12報と同様の方法によって,寿命調査集団における1950(昭和25)年から1997(平成9)年までの間にがん以外の疾患で死亡した者に対する放射線の影響について解析したものであり,心臓疾患,脳卒中,消化器官及び呼吸器官の疾患に関して,統計的に有意な増加がみられたとしている。
上記論文の表13(乙52の2)は,1968(昭和43)年から1997(平成9)年までの間に死亡した者に対する放射線の影響について解析したものであるところ,肝硬変については,1シーベルト当たりの推定過剰相対リスクを0.19,90%信頼区間を(-0.05;0.5)としており,90%信頼区間の下限が0を下回っていることから,上記論文は,放射線の影響によって統計的に有意な死亡の増加を認めた疾患として肝硬変を挙げていない。
(乙52の1・2)
(3) 放射線の免疫に対する影響
ア 白血球,殊にリンパ球や顆粒球には免疫機能があるところ,放射線は,造血作用を司る骨髄を障害し,白血球等を減少させる作用を有する。白血球数は免疫力を測る指標となるが,白血球数は正常値の範囲にとどまっていても,白血球の能力が劣るために免疫力や感染を防ぐ能力が低下している場合もあり得るとされている。
イ 原子爆弾の被爆者における白血球について,原爆放射線の人体影響1992(甲17,乙15)は,広島の場合,初期にリンパ球,次いで顆粒球が減少し,その後約1か月目を最低値として,まずリンパ球,次いで顆粒球が,急速又は徐々に回復する経過をたどったとしている。また,日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編「原子爆弾災害調査報告集」(甲58の1)によれば,長崎の場合,昭和20年9月1日から9月21日までの外来患者については,爆心地から2㎞以内の患者の方がそれ以遠の患者より白血球の減少が明らかに重かったとされる。
もっとも,原爆放射線の人体影響1992(甲17,乙15)によれば,被爆者には,被爆後1年目においても白血球減少を示す症例が明らかに多いが,被爆距離や被爆当時における症状の発現との間に一定の関係は見出されず,2年2か月後の調査では更に白血球減少の症例が減少しており,昭和31年においては被爆者の白血球数の平均は5500となっており,被爆者と対照者の間に有意な差異はみられないとする調査結果があるとされている。
ウ また,「原爆放射線が免疫系に及ぼす長期的影響:半世紀を超えて」(甲137)によれば,「被爆者の免疫系には,過去の放射線被曝の顕著な影響がリンパ系細胞の構成や機能に観察されている。これらの影響によって生じる変化の大部分は,被曝線量1Gy当たり数%と少ないように思われるので,免疫系におけるこのわずかな変化のために特定の疾患に罹患するという筋書きは描きにくいかもしれない。しかし,わずかな免疫学的変化でさえ(その変化が数十年以上継続する場合には),原爆被爆者集団にしばしば観察される疾患のリスクを増加させたかも知れないと考えることは可能である」とされている。
エ Q2医師は,原爆放射線による免疫力の低下について,放射能が白血球の持っている免疫性能をどのように破壊するかはまだ理論的にはよく分かっていないものの,免疫力の低下は,被爆者が体内に取り込んだ放射能によって破壊された細胞の白血球の変化によるものであるとし,このような体内に取り込んだ放射能による低線量放射線は,ラジカルを発生させることにより細胞を障害させ,その不完全修復により免疫機能障害による各種疾病の発病を促進させるとの見解を示している。そして,同医師は,被控訴人の肝障害について,原子爆弾に被爆し,急性放射能症を発症した後,免疫機能の低下によってHCV感染を容易にし,発病を促進され,症状の進行を早め,症状の増悪を招いた典型例であると確信するとの見解を示している。
オ これに対し,Q7教授は,免疫機能の低下によりHCVの持続感染が起き,その免疫機能の低下が原爆放射線のためではないかという議論はあるものの,HCVについては正常な人でも70ないし80%が持続感染を起こすこと,ウイルスの性質そのものが免疫学的な監視機構から逃れるような性質を持っていること,被爆した者のHCV抗体陽性頻度が被爆していない者と比較して低く,被爆した者も一般にウイルスを排除できるほどの免疫を持っていたはずであること等から,HCVの持続感染を免疫機能の低下により説明することは困難ではないかという見解を示している。
カ また,Q15の意見書(乙55)は,被爆後30年を経て,被控訴人が肝機能障害を指摘された時点においては,免疫機能は被爆前と同程度まで回復しているか,加齢などの影響もあって若干の低下がある程度であり,感染症にかかりやすくなるという免疫機能低下の臨床的な症状が現れているとは考えにくいこと,このことは,被控訴人がδ病院退院後,昭和59年に肝機能障害を発症するに至るまで,感染症に罹患した既往歴がないという事実とも整合すること,なお,免疫機能は,白血球数,特にリンパ球数に反映されるが,昭和50年代以降の被控訴人の検査データからすれば,これらの指標は正常であり,免疫学的な常識に照らして,被控訴人が臨床的に問題となるような重度の免疫機能低下状態にあったとは考えられないことなどを指摘している。
(アないしカにつき,甲9,47の1・2,48の1・2,49,58の1,129,乙15,44,55,証人Q2,証人Q7)
4 被控訴人の肝機能障害に関する放射線起因性についての判断
(1) 放射線起因性についての判断方法
ア 本件訴訟においては,本件処分の違法性の有無に関して,本件認定申請に係る被控訴人の肝機能障害に放射線起因性が認められるか否か,すなわち,被控訴人が原爆放射線に被曝したことと上記肝機能障害との間に因果関係が認められるか否かが争われているものである。
ところで,行政処分の要件として因果関係の存在が必要とされる場合に,その拒否処分の取消訴訟において被処分者がすべき因果関係の立証の程度は,特別の定めがない限り,通常の民事訴訟における場合と異なるものではないところ,その立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明ではないが,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり,その判定は,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とすると解すべきである(最高裁判所平成12年7月18日第三小法廷判決・集民198号529頁)。
そして,放射線起因性の要件を定めた被爆者援護法10条1項の規定は,その文言に照らせば,立証の程度を通常の民事訴訟における場合と異なるものとした特別の定めであると解することは相当でなく,むしろ,同法27条1項が被爆者であって造血機能障害,肝臓機能障害その他厚生省令で定める傷害を伴う疾病にかかっているものに対し,健康管理手当を支給するとしつつ,「原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかであるものを除く。」と規定していることなどと対比すれば,同法10条1項の規定は,放射線と負傷又は疾病ないしは治癒能力の低下との間に通常の因果関係があることを要件として定めたものと解すべきである。
イa ところで,放射線の人体に与える影響については,その詳細が科学的に解明されているとはいい難い段階にあり(前記2において引用した原判決の事実及び理由の第3の3(原判決100頁以下),前記3において引用した原判決同第3の6の(1),(2)(116頁以下)),また,原子爆弾被爆者の被曝放射線量についても,その評価は推定により行うほかないのであって(前記2において引用した原判決の事実及び理由の第3の4。原判決103頁以下),放射線起因性の検討,判断の基礎となる科学的知見や経験則は,いまだ限られたものにとどまっている状況にあるといわざるを得ない。
また,人間の身体に疾病が生じた場合,その発症に至る過程においては,多くの要因が複合的に関連しているのが通常であり,特定の要因によって当該疾病の発症に至った機序を立証することにはおのずから困難が伴うものである。殊に,原爆放射線による後障害の場合には,個々の症例を観察する限り,放射線に特異な症状を呈しているわけではなく,一般にみられる症状と全く同様の症状を呈するものであって,その症状自体をもって放射線に起因するか否かを見極めることが不可能であることは,原爆放射線の人体影響1992(甲17,乙15)の指摘するところである。
一方で,同書も指摘するとおり,一定の被曝集団について観察した場合に,ある特定の疾病がその集団において発生する頻度が高いことがあり,そのような疾病については,放射線に起因している可能性が強いと判断されるところ,放射線後障害については,このような統計的解析によってその存在が初めて明らかにされるという特徴が認められる。
b 以上のような事情の下においては,被控訴人の肝機能障害が放射線起因性を有するか否かを判断するに当たって,被控訴人が原爆放射線を被曝したことによって上記疾病が発生するに至った医学的,病理学的機序の証明の有無を直接検討するのではなく,放射線被曝による人体への影響に関する統計的,疫学的な知見を踏まえつつ,被控訴人の被爆状況,被爆後の行動やその後の生活状況,被控訴人の具体的症状や発症に至る経緯,健康診断や検診の結果等を全体的,総合的に考慮した上で,原爆放射線被曝の事実が上記疾病の発生を招来した関係を是認できる高度の蓋然性が認められるか否かを検討することが相当である。
c このことは,次の各指摘からも裏付けられる。
すなわち,「原子爆弾被爆者健康診断実施要領」(甲15,乙27)は,「いうまでもなく放射能による障害の有無を決定することは,はなはだ困難であるため,ただ単に医学的検査の結果のみならず被爆距離,被爆当時の状況,被爆後の行動等をできるだけ精細には握して,当時受けた放射能の多寡を推定するとともに,被爆後における急性症状の有無及びその程度等から間接的に当該疾病又は症状が原子爆弾に基くか否かを決定せざるを得ない場合が少くない。」としている。
また,厚生省公衆衛生局長通知「原子爆弾後障害症治療指針について」(昭和33年8月13日衛発第726号)(甲15,乙26)による「原子爆弾後障害症治療指針」は,「原子爆弾後障害症を医学的にみると,原子爆弾投下時にこうむった熱線又は爆風等による外傷の治癒異常と投下時における直接照射の放射能及び核爆発の結果生じた放射性物質に由来する放射能による影響との二者に大別することができる。・・・・後者は造血機能障害,内分泌機能障害,白内障等によって代表されるもので,被爆後10年以上を経た今日でもいまだに発病者をみている状態である。これらの後障害に関しては,従来幾多の臨床的及び病理学的その他の研究が重ねられた結果,その成因についても次第に明瞭となり,治療面でも改善が加えられつつあるが,今日いまだ決して十分とはいい難い。」とした上で,「原子爆弾被爆者に関しては,いかなる疾患又は症候についても一応被爆との関係を考え,その経過及び予防について特別の考慮がはらわれなければなら」ないと指摘している。
なお,控訴人は,上記治療指針を本件の放射線起因性判断方法の根拠にすべきでないというが,上記で引用した内容は上記健康診断実施要領と同じであり,また,上記治療指針は現在も適用されているものであって,十分にbで述べた検討方法の根拠となり得るものである。
d 上記の点に関し,控訴人は,被控訴人に発症した慢性肝疾患と原爆放射線との間に個別的な因果関係が認められるか否かについては,被爆者集団全体を対象とした疫学的研究の成果を踏まえた,いわゆる疫学的因果関係が認められるか否かが検討されるだけでなく,仮に疫学的因果関係の存在が認められるとしても,病理学,臨床医学,放射線学等の見地をも踏まえて,被控訴人の当該症状が被爆に起因するものか否かが個別的に検討される必要があると主張する。
確かに,上記の個別的因果関係を認めるためには,疫学的因果関係の検討だけでは足りないというべきであるが,前記のとおり,放射線の人体に与える影響の詳細が科学的に解明されているとはいい難い段階にあり,原子爆弾被爆者の被曝放射線量の評価も推定により行うほかないのであって,このように,放射線起因性の検討,判断の基礎となる科学的知見や経験則は,いまだ限られたものにとどまっている状況にある。そして,前記のとおり,そもそも疾病の発症過程には多くの要因が複合的に関連し,特定の要因による発症の機序の立証にはおのずから困難が伴うものである上,原爆放射線による後障害の個々の症例は,放射線に特異な症状を呈しているわけではなく,一般にみられる症状と全く同様の症状を呈するものである。こうした状況においては,病理学,臨床医学,放射線学等の観点から個別的因果関係の有無を判断することには一定の限界があるというべきであり,その点に関する立証を厳密に要求することは不可能を強いることにもなりかねない。
このような現況においては,前述のように,原爆放射線の被曝と疾病の発生につき,医学的,病理学的機序についての証明の有無を直接検討するのではなく,放射線被曝による人体への影響に関する統計的,疫学的な知見を踏まえつつ,被控訴人の被爆状況,被爆後の行動やその後の生活状況,被控訴人の具体的症状や発症に至る経緯,健康診断や検診の結果等の間接的な諸事情を全体的,総合的に考慮した上で,原爆放射線被曝の事実が上記疾病の発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性が認められるか否かを検討することが相当であるというべきである。
(2) 被控訴人の肝機能障害及びHCV感染について
ア 本件認定申請時(平成6年2月16日)における被控訴人の肝臓に関する症状及び血液検査の結果は,前記1(3)ウのとおりであり,証拠(乙39,証人Q7)によれば,被控訴人の肝機能障害について,GOT及びGPTの異常が6か月以上持続しており,ZTT及びICGの上昇も認められることから,慢性肝炎と判断されるが,血小板数が正常であること,ICGの上昇が20%を超えないこと,GOT及びGPTについても著しい上昇とまではいえないことから,肝硬変には至らないものと判断される。
そして,Q6医師による平成6年8月20日付け診断書(乙40の4)には,被控訴人について第2世代HCV抗体が陽性であった旨の記載があることからすれば,被控訴人が当時既にHCVに感染していたことが認められる。そして,Q7教授も,被控訴人の肝機能障害がHCVに起因するC型慢性肝炎である旨の見解を示しており(乙39,証人Q7),被控訴人の肝機能障害がHCV感染に由来するものであることを否定するに足りる証拠はないから,本件認定申請に係る被控訴人の肝機能障害はC型慢性肝炎であると認められる(被控訴人も,被控訴人の肝機能障害がHCV感染に由来すること自体は争っていないものと解される。)。
イ また,前記認定事実(前記2で概要を示し,引用した原判決の事実及び理由の第3の5。原判決111頁以下)からすれば,(ア) HCVに感染した場合,多くは持続的な感染となってC型慢性肝炎を発症するに至り,更に症状が進行した場合には肝硬変,肝細胞がんの発症へと至ること,(イ) 我が国の慢性肝炎患者の場合,ウイルス性の慢性肝炎が圧倒的に多く,そのうちC型慢性肝炎の割合が約7割程度に及ぶこと,(ウ) さらに,我が国の肝硬変患者の約5割にHCV感染が認められ,我が国の肝細胞がんをはじめとする肝臓がんの患者に占めるHCV感染者の割合が過半数に及んでいること,(エ) 我が国における慢性肝炎,肝硬変及び肝臓がんの患者において,HCV感染に起因する者が相当の割合を占めていることがそれぞれ認められる。
(3) 放射線被曝による人体(肝機能)への影響に関する統計的,疫学的な知見について
被控訴人は,被控訴人の肝機能障害について,放射線被曝とHCVが共同成因となった旨主張するので,以下,まず,放射線被曝による人体(肝機能)への影響に関する統計的,疫学的な知見について検討する。
ア (ワン論文,トンプソン論文等の知見)
原子爆弾の被爆者には高い頻度で肝障害が認められ,そのことは長い間重要な医学的問題の一つとされていたものであるところ,ABCC及び放影研による原子爆弾の後障害に関する長期的な調査等の結果,1990年代に至り,ワン論文,トンプソン論文等の論文によって,慢性肝疾患,肝硬変及び肝臓がんの発症と放射線の被曝線量との間にそれぞれ有意な関係が認められたことは,前記3(2)イ,ウa,bのとおりである。
特にワン論文(甲26,71)は,成人健康調査(AHS)のコホート(対象集団)1万1961名を,1958年から1986年までという長期間にわたってフォローする中で,慢性肝疾患と放射線の影響を有意の線量相関として確認したものであること,また,その持続的影響因子の存在も,P=0.006という高い統計学的有意水準で把握していることなどからすれば,ワン論文は,慢性肝疾患と放射線の被曝線量との関係を考える上で,極めて重要な意義を持つものである。
ちなみに,ワン論文については,アルコール摂取や栄養状態の影響について検討していないことが指摘されているが,寿命調査集団においてアルコールの摂取が一般に多量であることや,栄養状態が一般的に悪いことをうかがわせる証拠はなく,寿命調査集団において飲酒のリスク要因増加が認められなかったとする研究(甲114,119。なお,これらは直接には消化器疾患についての研究であるが,一定限度は肝機能障害についても当てはまる面があると考えられる。)が存在することからすれば,寿命調査集団の中から設定された成人健康調査集団についても,同様に栄養状態の不良や飲酒によるリスク要因の増加は認め難いというべきであるから,被曝線量と慢性肝疾患等に有意な関係があることは否定できないというべきである。
そこで,このような調査,研究の結果に照らせば,慢性肝疾患,肝硬変及び肝臓がんの発症者の中に大きな割合を占めるHCVの持続感染及びその進行によるC型慢性肝炎の発症に対して,原爆放射線の被曝が影響している可能性があるとみることには,相応の根拠が存するものというべきである。
イ (ワン論文,トンプソン論文等に対する控訴人の主張について)
a 上記の点に関し,控訴人は,ワン論文は,放射線被曝と慢性肝疾患及び肝硬変との関連性を一般的に検討した疫学的知見であり,これをもって,C型肝炎ウイルスによるC型慢性肝炎の発症又は進行に放射線被曝が寄与しうるか否かを論ずることはできないとか,ワン論文は,C型肝炎ウイルスを交絡因子として考慮していないものであるから,同研究結果をもって,C型肝炎への放射線の影響を論じることは不可能であると主張する。
しかしながら,上記(2)イのように,我が国では,慢性肝炎患者の約7割(乙56によれば75%)は,C型慢性肝炎の患者なのであるから,放射線被曝と慢性肝炎及び肝硬変との関係に関する研究は,実際にはその母集団の中に高率でC型慢性肝炎を含んだ上での研究結果であると認められる。そうすると,ワン論文において,C型慢性肝炎は直接の検討対象となっていないが,上記のような母集団につき放射線被曝と慢性肝炎及び肝硬変の関連性を検討した同論文は,放射線とC型慢性肝炎との関係を検討する上でも,有用性を持つと考えられる。そうすると,ワン論文から,C型慢性肝炎の発症についても,原爆放射線の被曝が影響している可能性があるとみることは十分に可能である。
b また,控訴人は,ワン論文は,慢性肝障害及び肝硬変の1グレイ当たりの相対危険度を明らかにしているが,その相対的危険度の数値は1.14と極めて低く,これは,放射線以外の要因によって発症した可能性が圧倒的に多いということであり,このように低い相対危険度を示唆する疫学的知見があったからといって,被控訴人の肝機能障害が放射線に起因するものと推認することはできないと主張する。
確かに,上記の数値からすれば,慢性肝障害及び肝硬変と放射線の影響との有意性は,必ずしも高いとはいえないものであり,そのことのみから直ちに被控訴人の肝機能障害が放射線に起因するとの個別的因果関係を認めることができないことは明らかであるが,統計的,疫学的にみて,そのような有意性があることは,後記のような放射線起因性の判断に当たっての考慮要素の一つになるというべきである。
c さらに,控訴人は,C型肝炎ウイルスに感染した者の7,8割は,放射線に被曝していなくてもC型慢性肝炎を発症するとされているのであり,このことからしても,ワン論文を根拠に被控訴人の肝機能障害と放射線被曝との間の個別的因果関係の存在を推定することはできないと主張する。
しかし,C型肝炎ウイルスに感染した者の7,8割が放射線に被曝していなくてもC型慢性肝炎を発症するとされているという事実があるとしても,C型肝炎ウイルスに感染した者のすべてがC型慢性肝炎を発症するわけではないという状況の中で,慢性肝障害及び肝硬変の発症と放射線の影響との間に一定の有意な関係が認められるということは,被控訴人の肝機能障害と放射線被曝との間に個別的因果関係の存在を肯認する一つの要素となると考えられる。
d 控訴人は,肝臓がんと慢性肝疾患及び肝硬変とは,発症の機序が異なるものであるから,トンプソン論文(甲75)において,肝臓がんの発症と被曝線量との間に有意な関係が認められたからといって,それが慢性肝疾患及び肝硬変,ことにC型慢性肝炎について当てはまるものではないと主張する。
確かに,トンプソン論文は,肝臓がんの放射線起因性について論じたものであり,そのことから直ちに慢性肝疾患及び肝硬変の発症と被曝線量との間に有意な関係があることになるものではない。しかし,慢性肝炎への罹患,発症,進行から肝硬変という一連の流れを経て,その帰結点として肝臓がんに至るという経過のあることや,我が国では,肝臓がんの患者に占めるHCV感染者の割合が過半数に及んでいるという事実を考慮すれば,トンプソン論文は,ワン論文や藤原論文の示すC型慢性肝炎を含む慢性肝疾患の発症と被曝線量との間に有意な関係があるとの帰結について,それと整合するのみならず,それを一定限度支える意味を持つものと評価することができる。
ウ (その後の研究結果-藤原論文等)
a 次に,上記アの知見を踏まえて,放射線とC型慢性肝炎の関係について研究が進められた結果,前記2(3)ウcのとおり,藤原論文において,HCV感染と被曝線量の間に有意な関係を認めることはできなかったものの,HCV抗体陽性者においては,放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加しており,慢性肝疾患の有病率が,HCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することがうかがわれ,放射線被曝がC型慢性肝炎に関連した慢性肝疾患の発症や進行を促進した可能性が指摘されるに至っている。
b もっとも,この点を指摘した藤原論文は,慢性肝疾患の有病率がHCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することについて,統計学的な検証の結果,P値は0.097であるとしており,この値が一般的な有意水準(0.05)を上回ることから,統計学上有意な関係にあるとは認められなかったものと評されているところである。そして,Q14の意見書(乙54)も,藤原論文の原文(甲73)のmarginally significantとは,「有意とは言えないが有意に近い」ことを意味する統計学的表現であるとし,藤原論文は,被曝線量と肝障害(C型慢性肝炎)発症との間には,統計学的有意相関が見られなかったことを報告したものであるとしている。
しかし,有意水準を0.05とすることは必ずしも絶対的な基準とはいえず,放影研以外でも,事柄の性質によっては,それを0.1と設定することもあること(乙53,58)などからすれば,P値が0.05を上回っているとの一事をもって,直ちに統計学的に有意相関が認められないとはいえない。また,本件のような被爆者を対象とした長期的調査においては,高線量域における生存被爆者が少なくなりつつあること等を考慮すれば,その調査の結果を分析するに当たり,一般的な有意水準よりも幅を持った判断をせざるを得ないとする考え方にも一応の合理性が認められるところである(偶然誤差の値は,母集団のサイズを大きくすることによって減らすことができるが,上記3(2)アの事実及び弁論の全趣旨によれば,成人健康調査の対象者は,高線量被曝者を中心に死亡してしまい,母集団を増やすことは不可能となっていたものと認められる。)。このようにみてくると,P値が0.05を上回っているとの一事をもって,放射線がHCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性があることを否定することはできず,藤原論文も,そのような統計学的有意相関を肯認したものと認めるのが相当である。
エ (藤原論文に対する控訴人の主張について)
a また,藤原論文の評価に関し,控訴人は,①HCV抗体陽性者において放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加したと認定するのは,甲74の図2のグラフが一見右上がりに見えることに起因する誤解であり,甲74の表6の高抗体価群及び低抗体価群の数値から推測すると,そのP値が0.05を下回ることはあり得ないし,0.57,0.55という数値から大きく下がることも考え難いのであって,到底有意な結果であるとはいえないこと,②特に,高抗体価と低抗体価に分けた場合,帰無仮説が正しかったとしても線量反応関係が現れてしまう可能性,すなわち線量反応関係が偶然によるものであった可能性の方が,実際に線量反応関係が存在する可能性より高いという結果になっており,HCV抗体陽性群全体でみた場合でも,これに近い結果になっていること,③そして,95%信頼区間の下限は0を大きく下回っており,線量反応関係がない可能性や,仮に線量反応関係が存在するとしても,被曝線量の増加に伴って有病率が小さくなる関係にある可能性(傾きがマイナスになり,直線が右下がりになる可能性)も十分あり得るという結果になっていることなどから,藤原論文における検討結果をもって,HCV抗体陽性群について,統計学的,疫学的に有意な線量反応関係,ましてや被曝線量の増加に伴って有病率が増加する関係が認められたとは評価し得ないと主張する。
b しかし,甲74の藤原論文の図2は,表6記載の数値等を基に最終的に統計的な検討を加えた上,抗HCV抗体の有無に基づいた線量別肝疾患相対リスクを明らかにしたものであるところ,これによれば,放射線との線量反応関係を示す曲線は,抗HCV抗体陽性の対象者において20倍近く高い勾配を示していること,かつ,統計上もかろうじてではあるが,有意な差異(P=0.097)があるとされており,それが同論文の最終的な結論であると認められる。そして,これが統計学的に有意相関であると認められることは,上記ウのとおりであるから,同論文の表6に上記控訴人主張のような記載があるからといって,直ちに,同論文から,HCV抗体陽性群について,統計学的,疫学的に有意な線量反応関係が認められないとか,被曝線量の増加に伴って有病率が増加する関係が認められないなどとはいえない。
その他,控訴人が種々主張するところを検討しても,藤原論文に関する上記エのような評価を変更すべきものとは認め難い。
オ 以上のとおり,統計的,疫学的にみれば,慢性肝疾患,肝硬変及び肝臓がんの発症者の中に大きな割合を占めるHCVの持続感染及びその進行によるC型慢性肝炎の発症に対して,原爆放射線の被曝が影響している可能性があるとみることには,相当の根拠があるというべきである(なお,従来,放射線起因性が肯定されて原爆症認定を受けた例のうちには,肝機能障害も多数含まれており,その仲にはHCVを原因とする肝機能障害も含まれている。)。
(4) 被控訴人の被爆状況,被爆後の行動やその後の生活状況,被控訴人の具体的症状や発症に至る経緯等について
ア 上記1(1)の認定事実からすれば,被控訴人は,(ア) 爆心地から約1.3㎞という至近距離において,建物の中であったとはいえ,ガラス窓に背を向けて上半身裸のまま腰掛けた状態で原子爆弾に被爆しており,大量の初期放射線に被曝したことはもちろんのこと(季節的にみて,ガラス窓が開いていた可能性が高く,放射線を直接浴びた可能性が高い。),(イ) その後も救援列車に乗車するまでの間,かなりの時間(午前11時すぎから夕暮れまで)α工場の周辺にとどまったことにより,誘導放射線に被曝し続けていたというべきであり,(ウ) さらに,残留放射線により放射化した塵や煤等を吸引していたことに加え,放射性降下物等の放射性物質が含まれていた可能性もある川の水を大量に飲んでいることから,内部被曝による影響も免れないものと推測される。
上記(ウ)の点に関し,控訴人は,被控訴人が摂取した水による内部被曝線量は,最大で見積もっても自然放射線による被曝線量の1万分の1以下であって,極めて微量であるし,放射線核種の生物学的半減期を考慮すれば,被爆から10年後に肝臓にはほとんど残存していないものと考えられるから,これによって何らかの健康被害が発生することは到底考えられないと主張する。
しかし,被控訴人については,被爆後に水を飲んでいるだけでなく,上記(イ)(ウ)のように,爆心地に近いα工場付近にかなりの時間とどまり,放射線を大量に含んでいたと考えられる塵や煤等の放射性降下物を吸引するなどしているのであるから,これらの放射性物質の吸引と合わせ,内部被曝の影響がなかったとは言い切れない。
イ 被控訴人は,被爆当時16歳であり,被爆以前に特段の健康上の障害があったとは認められないにもかかわらず,被爆直後にδ病院に入院して2週間程度経過したころから,脱毛,血性の下痢等の症状を呈するようになり,就労可能な程度に体調が回復するまでに約2年以上を要している。
そして,(ア) 被控訴人が同病院に入院中に発症した,脱毛,血性の下痢等の諸症状は,いずれも原爆放射線による急性期の障害と認められるものであること,(イ) 被控訴人が発症した発熱,下痢,嘔吐及び出血の諸症状は,いずれも急性期の死亡例において高い割合で認められたものであり,このことからしても,死亡には至らなかったものの,被控訴人の被爆放射線量は相当量のものであったと推認されること,(ウ) 被控訴人の昭和20年9月20日の血液所見では,白血球数が明らかに減少しているほか,好中球も減少しており,同年10月9日には,白血球の数自体は回復しているものの,好中球の占める割合は依然低くなっており,骨髄障害や免疫機能の低下がうかがわれること等が指摘できる。これらに照らせば,被控訴人は,被爆直後から原爆放射線による急性障害を発症しており,原爆放射線によって相当期間に及ぶ重大な身体への影響を被ったことが認められる。
このように,被控訴人の原爆放射線による急性障害の重篤性や,被控訴人の免疫機能が少なくとも一定期間低下した事実に加えて,被控訴人の体調はその後回復したものの,他方において,被爆から長年月を経た昭和47年になって被爆時に身体に刺さって入り込んだガラスがようやく排出されるなど,被爆後長年月にわたり,原子爆弾による影響を様々な形で被っていたことがうかがわれることを併せて考慮すれば,被控訴人に生じた健康被害については,被爆後長期間を経過した後に発生したものであっても,一応原子爆弾による被爆との関係を考えることが相当というべきである。
ウ 上記の点につき,控訴人は,①放射線被曝による健康影響は,白血球減少,脱毛,出血,吐き気等の急性障害(急性影響)と,悪性腫瘍,白内障等の後障害に区分することができ,両者の発症に至る機序や態様は全く異なるものであるから,急性障害の発症を直ちに数十年後の疾患の発症と関連づけ,その疾患について原爆放射線の影響を肯定するのはおよそ非科学的であるとか,②被控訴人については,被爆直後に白血球数の減少が認められるものの,これはその後回復しているから,これが直ちに被爆後数十年を経て発症した疾患が原爆放射線の影響によるものと判断する根拠たり得ないことは明らかであるとか,③さらに,昭和47年のガラス片の排出と放射線との関連性,肝障害との関連性は全く不明であるなどと主張する。
確かに,放射線被曝による健康影響は,白血球減少,脱毛等の急性障害(急性影響)と,悪性腫瘍,白内障等の後障害に区分することができ,両者の発症に至る機序や態様は異なるものである。しかし,前記3(2)記載のように,原爆放射線が遺伝子変化を通じて悪性腫瘍の発生に影響していることがある程度証明されていることや,子宮筋腫,慢性肝炎,肝硬変及び甲状腺疾患などについても,放射線被曝とこれらの疾患の発症との間で有意な過剰リスクが認められていること(ワン論文)などからすれば,急性障害の発症が数十年後の疾患の発症と全く関連がないということはできない。
また,放射線の人体に与える影響については,その詳細が科学的に解明されているとはいい難い段階にあり,放射線起因性の検討,判断の基礎となる科学的知見や経験則は,いまだ限られたものにとどまっている状況にあること,さらに,人間の身体に疾病が生じた場合,その発症に至る過程には多くの要因が複合的に関連していることが通常であり,特定の要因から当該疾病の発症に至った機序を立証することにはおのずから困難が伴うものであることなどを総合的に考慮すれば,上記のように,被爆後長期間を経過した後に発生した健康被害についても,一応原子爆弾による放射線被曝との関係を考えることが相当であるというべきである。
(5) 被控訴人の肝機能障害の放射線起因性
ア 本件認定申請に係る被控訴人の肝機能障害がC型慢性肝炎であると認められることは,上記(2)ア認定のとおりであるところ,被控訴人は,被控訴人の肝機能障害について,放射線被曝とHCVが共同成因となったと主張する。
その具体的な機序についての主張は,必ずしも明確なものではないが,全身に被曝した強烈な初期放射線に加え,内部被曝の影響による肝臓の細胞の影響,遺伝子の不完全修復による影響,更に免疫による影響などを主張する趣旨と解される。
イ そこで,この点につき検討する。
放射線被曝による人体への影響に関する統計的,疫学的な知見は,長期的な調査の結果,近年に至ってようやく得られつつあるところであることは前記のとおりである。そして,これらの知見によれば,上記(3)のとおり,慢性肝疾患,肝硬変及び肝臓がんの中に大きな割合を占めるHCVの持続感染及びその進行によるC型慢性肝炎の発症に対して,原爆放射線の被曝が影響している可能性があるとみることに,相応の根拠が存するものというべきである。
そして,HCV抗体陽性者においては,放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加しており,放射線被曝がC型慢性肝炎に関連した慢性肝疾患の発症や進行を促進した可能性を指摘する論文も存在することが認められる。
ウ そして,(ア) 上記イのような統計的,疫学的知見が存在することに加え,(イ) 被控訴人の原爆放射線による急性障害の重篤性や,被控訴人の免疫機能が少なくとも一定期間低下した事実,被控訴人の体調はその後回復したものの,被爆後長年月にわたり原子爆弾による影響を様々な形で被っていたことがうかがわれ,被控訴人に生じた健康被害については,被爆後長期間を経過した後に発生したものであっても,一応原子爆弾による放射線被曝との関係を考えることが相当であること(上記(4))などを併せ考慮すれば,本件認定申請に係る被控訴人の肝機能障害については,被控訴人が爆心地から至近の地点において多大な原爆放射線に被曝したことが,HCVの感染とともに慢性肝炎を発症又は進行させるに至った起因となっているものと認めるのが相当である。
エ その具体的な機序については,原爆放射線の人体に対する影響,放射線による肝機能障害の発症及び促進等に関する科学的知見及び経験則がいまだ限られたものにとどまっている状況にあることや,人間の身体に疾病が生じた場合,その発症に至る過程においては,多くの要因が複合的に関連していることが通常であり,特定の要因から当該疾病の発症に至った機序を立証することにはおのずから困難が伴うものであることなどからすれば,これを一義的に明確にすることは困難であるが,後記のような被爆による免疫能力の低下による影響が考えられるほか,内部被曝の影響による肝臓の細胞への影響,遺伝子の不完全修復による影響等も可能性として考えられる。
(6) 控訴人の主張について
ア (被控訴人の被曝線量と肝機能障害について)
控訴人は,①肝機能障害が放射線の確定的影響に属するものであるとした上で,被控訴人の被曝線量は,DS86に基づいて推定した結果,130ラド(センチグレイ)を超えないとする一方,肝機能障害のしきい値は1000ラド(センチグレイ)であるから,被控訴人の肝機能障害が放射線に起因するものとはいえないとか,②被控訴人の肝機能障害がC型慢性肝炎であって,放射線に起因する肝機能障害の病態である肝静脈の閉塞性病変ではないことから,放射線起因性が否定される旨を主張する。
しかし,本件のような事案においては,DS86等に基づく推定線量としきい値とを機械的に適用することによって放射線起因性の有無を判断することが相当であるとは認め難く,また,被控訴人は放射線の確率的影響としての肝機能障害を主張するものと解されるところ,この点をも考慮すると,控訴人の上記主張は採用し難いところである。その詳細は,原判決の事実及び理由の第3の7(4)ア及びイ(138頁以下)記載のとおりである。
イ (肝細胞障害因子の持続的な存在について)
a 控訴人は,慢性肝炎の発症には肝細胞障害因子が持続的に存在することが必要であるところ,原爆放射線による被曝の場合には,放射線はもちろん,放射線が細胞内の水に作用して発生したラジカル(不対電子を持つ原子又は分子。フリーラジカルともいう。)も短時間に消失することから,持続的な肝細胞障害因子が存在し得ず,原爆放射線により慢性肝炎が起こることはあり得ない旨主張し,Q7教授もこれに沿う見解を示している(乙39,証人Q7)。
また,控訴人は,当審において,①フリーラジカルは短命であり,体内のラジカルスカベンジャー(ラジカルを消失させる成分)によって,ラジカルは排除されるのであるから,数十年後にラジカルが残ることは考えられず,フリーラジカルによって被爆から数十年後に肝障害が引き起こされることは科学的にあり得ないこと,したがって,放射線ないしラジカルによる肝障害が起こり得るとしても,それは放射線曝露後早期の段階であり,それが被爆から数十年後の慢性肝機能障害の原因となることは考えられないこと,②また,放射線自体やラジカルによって,遺伝子が損傷されても,そのような細胞は遺伝子修復が行われるか,アポトーシス(細胞死)に陥るところ,放射線被曝によるアポトーシスは一過性であり,放射線被曝がなくなれば,アポトーシスは停止すること,そして,遺伝子修復過程で遺伝子の不完全修復が起きた場合には,発がんの機序となることはあっても,慢性肝炎は起こらないことなどを主張する。
b しかしながら,放射線やラジカルによって損傷した遺伝子は,アポトーシス(細胞死)を起こしたり完全に修復したりするほか,不完全に修復することがあり,それが後になって増幅される可能性や,遺伝子変異が生涯にわたって残存する可能性があることは否定できないところであるし,遺伝子損傷が軽度であれば,遺伝子損傷を残した細胞集団で肝臓が形成されることもあると考えられる(甲106,乙44)。その場合,後になって起こる効果としては,がんの発生が最も考えられるものの,それ以外の効果が起こらないとは必ずしも断言し切れないし(原審証人Q7),医学的にも,そのような遺伝子の損傷に伴う肝疾患の発症の可能性については,いまだ未解明な部分もあると認められる。
また,ラジカル自体が短時間に消失することは控訴人の主張するとおりであるとしても,ラジカルによる化学結合の切断から生物効果が現れるまでの期間は様々であり,必ずしも短期間とは限らないと認められること(甲69)を考え合わせれば,フリーラジカルによって被爆から数十年後に肝障害が引き起こされることは科学的にあり得ないとまではいえないと考えられる。
これらに加えて,体内に吸収された放射性物質による内部被曝の効果については,必ずしも十分に解明されていないことがうかがわれるところ,こうした放射性物質による低線量被曝によって致命的な疾病を発症した例が紹介されていること(甲49のQ2医師「放射能の影響に関する新しい知見について」。なお,原判決103頁12行目の「乙49」を「甲49」に改める。)や,このような被曝が長期的健康影響を引き起こすかもしれないとする見解もあること(甲119。前記3(2)ウd)に照らせば,原子爆弾に起因する放射線が,遺伝子等に及ぼす影響等を通じて,HCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得ることが医学的,生理学的に否定されているものとは認められない。
したがって,控訴人の上記主張をもっても,被控訴人の肝機能障害が放射線に起因して発症又は促進した可能性を否定することはできない。
ウ (被曝による免疫能力の低下等とC型慢性肝炎について)
a 控訴人は,C型慢性肝炎について,被曝による免疫能力の低下等が影響を与えるという科学的知見は存在せず,免疫能力に問題がないHCV保有者でも多くの者が慢性肝炎を発症すること,被控訴人の白血球数に異常が認められないこと等から,被控訴人のC型慢性肝炎が被曝による免疫能力の低下に起因するものではないと主張し,Q7教授も,上記のような事情が認められることから,HCVの持続感染を免疫機能の低下により説明することは困難である旨の見解を示している。
また,控訴人は,当審で,①放射線被曝によりリンパ球が障害された場合,血液中のリンパ球は一時的には減少するが,造血機能を有する骨髄が非可逆的に障害されない限り,骨髄で生産された正常な細胞が補充され,リンパ球数は回復し,免疫機能も回復すること,②被控訴人の血球数のデータによれば,昭和20年9月20日には白血球数は減少していたが,その後,同年10月9日には白血球数は7200と回復しており,これは,骨髄機能が回復してきていることを示していること,③さらに,被控訴人が肝機能障害で入院する前の平成4年においては,白血球数7500,リンパ球19.5%と正常値を示しており,非可逆的,継続的な骨髄障害は全く認められない上,被控訴人には,仮に免疫機能が低下していれば罹患するような疾病に罹患した病歴も認められないこと,④加えて,被控訴人の推定被曝線量が130ラド(センチグレイ)であることに照らしても,被控訴人が被爆によって骨髄に非可逆的な障害を受けたとは考え難いこと,⑤なお,被爆者について,Tリンパ球の免疫応答能が低下しているとの報告は存在するものの,その低下は十数%程度であって,臨床的に影響が現れるほどの低下ではないし,被爆者について,感染症罹患率と放射線被曝との間に有意差が認められたとする研究報告は,B型肝炎ウイルスについて若干の報告例があるほかは存在しないことなどを挙げて,これらからすれば,被爆者について,C型慢性肝炎を発症,促進するような免疫能力の低下が認められるとする科学的知見は存しないと主張する。そして,Q15の意見書(乙55)は,上記控訴人の主張に沿うものである。
b しかしながら,放射線による骨髄抑制の影響は,必ずしも常に短期間であるとは限らず,被爆後10年以上を経た昭和31年の段階における被爆者の骨髄検査においても,被爆距離が近いほど,顆粒白血球及び血小板の母細胞である巨核球に成熟抑制の傾向が認められるとされている(甲129)ことなどからすれば,被曝放射線量,熱傷や外傷の合併の有無やその程度等によっては,原爆放射線による造血臓器の障害が,ある程度の年月を経ても,回復のはかどらない症例もあるものと推定される。そして,被控訴人の被曝放射線量は相当量のものであったと推認されること,被控訴人が被爆直後から原爆放射線による急性障害を発症しており,原爆放射線によって相当期間に及ぶ重大な身体への影響を被ったと認められることは,上記(4)イ記載のとおりである。
また,放射線の免疫系に対する影響について,(ア) 放射線被曝後50年が経過した現在でも,依然として,被爆者の造血リンパ系には体細胞突然変異や染色体異常など,放射線誘発によるDNA障害を負ったリンパ球集団及び造血幹細胞集団が存在すること,(イ) 被爆者の免疫系には過去の放射線被曝の顕著な影響がリンパ系細胞の構成や機能に観察されていること,(ウ) これらの影響によって生じる変化の大部分は,被曝線量1グレイ当たり数%と少ないように思われるので,免疫系におけるこのわずかな変化のために特定の疾患に罹患するという筋書きは描きにくいかもしれないが,わずかな免疫学的変化でさえ(その変化が数十年以上継続する場合には),原爆被爆者集団にしばしば観察される疾患のリスクを増加させたかも知れないと考えることは可能であることなどを指摘する論文も存在する(甲137)。
c さらに,白血球数が正常値の範囲にとどまっていても,白血球の能力が劣るために免疫能力が低下している場合があり得ることからすれば,被控訴人の白血球数に異常がなかったとしても,そのことから直ちに被控訴人の免疫能力がC型慢性肝炎の発症,促進を防ぐに十分であったと結論づけることはできない。
また,(ア) 被爆者について,Tリンパ球の免疫応答能の低下があることは,控訴人も認めるところであるし,特定のウイルス感染(B型肝炎ウイルスなど)に対する免疫については,被曝線量とともに少し低下しているとの報告があることころ,このようなウイルスによる免疫の低下は,T細胞の数や機能の低下による可能性があること(甲125),(イ) そして,B型肝炎でもC型肝炎でも,機序がいずれも免疫応答によるものであることは同じであり(甲103),B型肝炎とC型肝炎がほぼ同様の機序で放射線による免疫機能の低下を介して肝機能障害を促進させている可能性が考えられること,(ウ) なお,C型肝炎による肝障害の発生機序について,HCV自体が肝細胞障害を起こすのではなく,主として免疫学的機序が肝細胞障害に重要な役割を果たすものとされていることなどからすれば,被曝による免疫能力の低下がC型慢性肝炎を発症,促進させた可能性があることを否定することはできないというべきである。
なお,控訴人は,被控訴人には,仮に免疫機能が低下していれば罹患するような疾病に罹患した病歴も認められないことを被控訴人の免疫機能が低下していなかったことの根拠として主張するが,それまでそのような疾病への罹患歴がなかったからといって,直ちに免疫能力の低下が全くなかったとは言い切れないと考えられるし,前述のように,わずかな免疫学的変化の継続であっても,その累積が疾患のリスクを増大させたという可能性も考えられるのであるから,この点も,必ずしも上記の判断を否定する根拠となるものではない。
d さらに,HCV感染に由来する場合が多数を占める慢性肝疾患,肝硬変及び肝臓がんについて,被曝線量との有意な関係が認められることや,慢性肝疾患の有病率がHCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することがうかがわれ,被曝がC型慢性肝炎に関連した慢性肝疾患の発症や進行を促進した可能性が指摘されていることは前記(3)のとおりである。
これに加え,被控訴人の被爆時の状況,爆心地からの距離,被爆後における行動等からうかがわれる被控訴人の放射能被曝の重大性,被爆直後における急性障害の症状の内容及び程度,被控訴人の免疫能力が原爆放射線の被曝後いったん低下しており,その後も被控訴人が原子爆弾によって身体への影響を被り得る状況にあったこと等に照らせば,原爆放射線の人体に与える影響の詳細が科学的に解明されているとはいい難い段階にある現在の状況の下において,上記aの控訴人主張の事実をもって,被曝による免疫能力の低下が被控訴人のC型慢性肝炎を発症,促進させた可能性があると推測することの合理性を否定することはできないというべきである。
エ (HCV感染と慢性肝炎の発症について)
控訴人は,HCV感染者は,持続感染により慢性肝炎を発症する場合が多く,HCV感染者の70ないし80%がC型慢性肝炎を発症するのであるから,仮に,放射線被曝がC型慢性肝炎に影響を与える可能性が存在するとしても,被控訴人は,被爆していなくともC型慢性肝炎を発症した可能性が極めて高いといえるのであって,「特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性」が存在するとは認められないから,放射線起因性を肯定することはできないと主張する。
しかし,HCV感染者のすべてがC型慢性肝炎を発症するわけではない現状において,前記のように,放射線に被曝したことが,HCVの感染とともに慢性肝炎を発症又は進行させるに至った起因となっているものと認められる以上,放射線被曝と慢性肝炎の発症との間には因果関係が存在することを否定することはできないというべきであり,HCV感染者の70ないし80%がC型慢性肝炎を発症するという事実が存在するからといって,その点に関する判断が左右されるものではない。
(7) まとめ
以上のとおり,原爆放射線の人体に対する影響,放射線による肝機能障害の発症及び促進等に関する科学的知見及び経験則は,いまだ限られたものにとどまっている状況にあり,放射線被曝による人体への影響に関する統計的,疫学的な知見は,長期的な調査の結果,近年に至ってようやく得られつつあるところ,その調査の結果によれば,HCVの持続感染及びその進行によるC型慢性肝炎の発症に対して,原爆放射線の被曝が影響している可能性があるとみることには,相当の根拠が存するものである。そして,このような統計的,疫学的な知見を踏まえつつ,被控訴人の原爆放射線による急性障害の重篤性や,被控訴人の免疫機能が少なくとも一定期間低下した事実に加えて,被控訴人の体調はその後回復したものの,被爆後長年月にわたり,原子爆弾による影響を様々な形で被っていたことがうかがわれることなどを併せて考慮すれば,本件認定申請に係る被控訴人の肝機能障害については,被控訴人が爆心地から至近の地点において多大な原爆放射線に被曝したことが,HCVの感染とともに慢性肝炎を発症又は進行させるに至った起因となっているものと認めるのが相当である。
第4結論
したがって,被控訴人の請求は,理由があるから,これを認容した原判決は相当であり,本件控訴は理由がない。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岩井俊 裁判官 及川憲夫 裁判官 竹田光広)