東京高等裁判所 平成17年(ネ)4614号 判決 2006年6月29日
控訴人兼被控訴人(一審原告)
甲澤一郎(以下「一審原告」という。)
訴訟代理人弁護士
松居英二
同
伊藤まゆ
控訴人兼被控訴人(一審被告)
乙山二郎(以下「一審被告」という。)
訴訟代理人弁護士
権田陸奥雄
主文
1 一審原告の控訴に基づき原判決中の一審原告敗訴部分を取り消す。
2 一審被告は,一審原告に対し,別紙物件目録1記載の土地及び同目録2記載の建物につき,東京法務局渋谷出張所平成13年*月*日受付第****号をもってした平成13年5月21日相続を原因とする共有者一審原告及び一審被告各持分4分の1の甲澤花子持分全部移転登記を,錯誤を原因として,一審原告持分2分の1の甲澤花子持分全部移転登記に更正する登記手続きをせよ。
3 一審被告の控訴を棄却する。
4 訴訟費用は,1,2審とも一審被告の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 一審原告
(控訴の趣旨)
(1) 原判決中の一審原告敗訴部分を取り消す。
(2) 主文2項と同旨
(3) 訴訟費用は,1,2審とも一審被告の負担とする。
(一審被告の控訴に対する答弁)
一審被告の控訴を棄却する。
2 一審被告
(控訴の趣旨)
(1) 原判決中の一審被告敗訴部分を取り消す。
(2) 一審原告の請求を棄却する。
(3) 訴訟費用は,1,2審とも一審原告の負担とする。
(一審原告の控訴に対する答弁)
一審原告の控訴を棄却する。
第2 事案の概要
1 本件は,一審原告及び一審被告が甲澤太郎(以下「太郎」という。)及び甲澤花子(以下「花子」という。)夫婦の子であり,太郎は,別紙物件目録1記載の土地(以下「渋谷土地」という。)及び同目録2記載の建物(以下「渋谷建物」といい,両者を併せて「渋谷不動産」という。)を所有し,花子は,別紙物件目録3及び同4記載の各土地(以下「青森土地」という。)を所有していたところ,太郎が平成4年に,花子が平成13年に順次死亡して相続が開始し,上記不動産につき共同相続による所有権移転登記がされたが,一審原告は,花子のした渋谷不動産の持分2分の1及び青森土地を一審原告に相続させる旨の自筆証書による遺言(以下「本件遺言」という。)を理由に,一審被告に対し上記相続登記の更正登記を求め,一審被告は,本件遺言が花子の意思に基づくものではないとその効力を争い,太郎が渋谷不動産を一審被告に相続させる旨の公正証書遺言をした旨を主張し,一審原告は,太郎が公正証書遺言を取り消す旨の死亡危急者の遺言をしたと主張し争い,さらに一審被告がこの死亡危急者の遺言が失効したとして上記取消しの効力を争ったものである。原審は,本件遺言が有効であることを認め,青森土地の相続登記の更正登記請求を認容したが,渋谷不動産につき,死亡危急者の遺言による取消しを認めず公正証書遺言により一審被告が相続したものと認め,渋谷不動産につき更正登記請求を棄却したことから,双方が控訴した。
2 本件の前提となる事実(争いがない事実及び掲記の証拠により容易に認められる事実)は,次のとおりである。
(1) 太郎(大正3年*月*日生)は,もと渋谷不動産を所有していた。
(2) 太郎は,平成4年9月13日に死亡し,その相続人は妻花子(大正5年*月*日生),その子で長男である一審原告及び二男の一審被告である。
(3) 花子は,もと青森土地を所有していた。
なお,花子は,昭和54年4月16日,父乙山三郎から青森土地を相続したものである。花子は長女であり,父の要請により一審被告は乙山家の後継者として乙山三郎の六女一枝と養子縁組をした(甲4)。
(4) 太郎は,昭和62年4月7日付け遺言公正証書(東京法務局所属公証人川上泉作成,乙37。以下「本件公正証書」という。)において,渋谷不動産を一審被告に相続させる旨の遺言をした。
(5) 太郎は,平成3年2月23日,脳血管障害等により駒ヶ嶺病院に入院し,同年4月2日,同病院において,「以前にした遺言書は取り消します。」との死亡危急者の遺言(以下「本件死亡危急遺言」という。)をし,その証人であり遺言執行者とされた丙川二枝が申し立て,東京家庭裁判所平成3年(家)第3603号遺言確認申立事件において確認の審判がされ,一審被告は即時抗告を申し立て争ったが,抗告が棄却された(甲12,13)。
(6) 花子は,平成13年5月21日に死亡し,その相続人は一審原告及び一審被告である。
(7) 花子を作成者とする平成9年9月7日付け遺言書(以下「本件遺言書」という。)には,花子が相続した渋谷不動産の持分2分の1及び青森土地を一審原告に相続させる旨の記載があり,東京家庭裁判所は,平成13年11月12日,本件遺言書を検認した(甲2,8)。
(8) 渋谷不動産について,平成4年11月27日受付で同年9月13日相続を原因とする花子の持分2分の1,一審原告及び一審被告の各持分4分の1の所有権移転登記がされ,花子持分につき平成13年10月31日受付で同年5月21日相続を原因とする一審原告及び一審被告各持分4分の1の持分全部移転登記がされ,青森土地につき,同年11月5日受付で同年5月21日相続を原因とする一審原告及び一審被告の各持分2分の1の所有権移転登記がされた(甲1)。
3 本件の争点及び当事者の主張は,以下のとおりである。
(争点)
(1) 本件公正証書による遺言は,本件死亡危急遺言により取り消されたか。
太郎は本件の死亡危急遺言をした当時死亡危急者であったか。本件死亡危急遺言は太郎の真意によるものか。普通の方式による遺言が可能となって6か月生存したことにより失効したか,この失効により上記取消しの効果は生じないのか。
(2) 本件遺言書は花子の意思により作成されたか。
本件遺言書による遺言(本件遺言)の効力
(争点(1)に関する主張)
(1) 一審原告
ア 太郎は,脳血管障害等により駒ヶ嶺病院に入院し,平成3年4月2日,死亡危急に迫っていたところ,同病院において,「以前にした遺言書は取り消します。」との本件死亡危急遺言を口授し,証人丙川二枝が筆記しその読み聞けをし,証人として,丁田四郎,戊原五郎,己野三枝が立ち会い,各証人が筆記の正確なことを承認し署名押印をした。
イ 東京家庭裁判所は,本件死亡危急遺言の確認審判の申立てを受け,同月11日,家庭裁判所調査官が太郎と面接し,太郎が遺産処分について判断ができること,遺言と同内容(従前の遺言の取消)を希望していることを確認し,同年5月2日,本件死亡危急遺言を確認する審判をした。
ウ 太郎は,本件死亡危急遺言により従前にした遺言を取り消した(撤回した)ものであり,本件公正証書による遺言は取り消された。
エ このことは,太郎の相続人間では遺産分割協議の前提とされ,渋谷不動産につき法定相続分に従った共有持分の登記がされ,このことを争う者がなかったことからも明らかである。
オ 一審被告は,本件死亡危急遺言の失効をいうが,太郎は,上記のような限度での遺産処分についての判断はできたものの,痴呆の状態に波があり,悪いときには家族の識別さえできない状態になり,その後,このような状態が改善することはなく,普通の方式による遺言が可能な状態に戻ったという事実はなかった。
仮に,太郎が普通の方式による遺言ができるようになって6か月生存し本件死亡危急遺言が失効するとしても,本件死亡危急遺言は前にした遺言の撤回そのものであり,「遺言者は,何時でも,遺言の方式に従って,その遺言の全部又は一部を取り消すことができる」(民法1022条)から,太郎は,遺言の方式に従い本件死亡危急遺言をした時点で本件公正証書による遺言を取り消したものであり,その後,これが失効してもその効力を回復しない(民法1025条)。
(2) 一審被告
ア 太郎は,平成3年3月には,危篤状態を脱しており,死亡の危急に迫っていたという事実はなかった。一審原告も,太郎は遺言当時質疑応答に支障はなかったと主張しているところである。
イ 太郎は,昭和62年3月27日にした自筆証書遺言(乙2)及び本件公正証書による遺言において,事例を具体的に列挙し,一審原告を攻撃し,一審原告に不動産を相続させない旨を明らかにしていたのに,その後,人間関係に変化がないのに,本件死亡危急遺言は,太郎がこれと正反対の意思を表明するものであり,太郎の意思によるものではなかった。
ウ 太郎は,平成4年9月13日に死亡したものであり,その間,一審被告がたびたび歯医者に連れて行き(乙38),叔父の甲澤六郎のもとへ行ったり自宅に戻ったりしており,公正証書による遺言は可能であったから普通の方式の遺言が可能となった時から6か月生存し,本件死亡危急遺言は失効した(民法983条)。
エ 民法1025条は,前3条の規定により撤回された遺言についての規定であり,983条による場合には適用されないと解するべきである。遺言者が状態が回復し普通の方式による遺言が可能で6か月が経過すれば,本件公正証書による遺言が効力を回復するということも相当というべきである。
(争点(2)についての主張)
(1) 一審被告
ア 花子は,大正5年*月*日生まれで,本件遺言書を作成したとされる平成9年9月7日当時,満82歳の高齢であって,病弱で正当な判断が薄れている状態のところへ一審原告が押し掛け,花子の意思を歪曲し,自分に好都合に書かせたものであり,花子の意思に基づくものではない。
イ 一審原告は,花子とは同居せず,生活費の援助等もしていなかったのであり,花子が一審原告宅に泊まったこともなかったというのであるから,本件遺言書の内容が花子の本心とは考えられない。
ウ 本件遺言書は,「甲澤」という旧漢字で表記されているが,花子は「甲沢」を使っており(乙22,23),一審原告が「甲澤」を使っていたもので,一審原告が指示して書かせたことが明らかである。また,一審原告が真意によることを立証するというビデオ(甲4,7の1,2)は,いずれも本訴提起後に作られたもので,その内容からしても信用できるものではない。
(2) 一審原告
本件遺言書が真正に成立したことは,一審原告が撮影した遺言状況の映像があり(甲5の1,2),花子が作成した下書き(甲6)の存在や,実妹が花子の意思に合致した内容であることやその筆跡が花子のものであることを確認していること(甲4,7の1,2)から明らかである。
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)について
(1) 前提となる事実に証拠(甲1,3,12ないし14,乙2,3,33の1,34の1ないし4,35の1,37,証人丁田四郎,一審原告,一審被告)を総合すれば,以下の事実を認めることができる。
ア 一審原告は,株式会社Aに勤務し,昭和57年ころ香港に赴任するまで,一審被告,太郎及び花子夫婦と渋谷建物で同居していた。一審原告は,昭和61年1月に妻四枝と結婚し,同年5月12日ころ帰国したものの,渋谷建物には戻らず,一時,近くに借家住まいし,その後勤務先の千葉県所在の社宅に入居したが,その間,妻四枝と太郎との折り合いが悪く,四枝は太郎夫婦から渋谷建物への出入りを止められた状態となっていた。
イ 一審原告は,昭和62年1月2日,正月の挨拶をさせたいと考え,四枝を伴って実家を訪問したいと希望し,予め太郎から拒絶されていたのに訪問を強行し,太郎と激しい口論となって,一審原告が,止めに入った一審被告と太郎を押し倒し,太郎が食器棚の中間棚の角部に後頭部を打って裂傷を負い,救急車で病院に搬送される騒動となり,一審原告がこのことで太郎に詫びを述べることもしなかったことから,一審原告と太郎との関係は険悪なものとなった。
ウ 太郎は,同月16日,一審原告と縁を切る趣旨で一審原告から預かって管理していた生前贈与分を含む株券,預貯金通帳,債権証書等を一審原告の勤務先の上司を立会人として一審原告にすべて返還した。そして,太郎は,同年3月27日付けで,自筆遺言証書(乙2)を作成し,これには,一審原告のかつての異性関係を非難し,一審原告の妻が太郎を「罵倒し,重大な侮辱をした。」旨や上記の経緯を記載し,花子の実家である乙山家を相続した一審被告が,「誠心誠意の人柄は親戚朋友の誰もが充分認めるところであり,兄に責められるような不都合は何もしていない」こと,一審原告には,「甲澤家の家系を傷つける所業が多いので父親としてはしのびえないことではあるが,」同居している一審被告に甲澤家の祭祀を主宰させ,花子を扶養させる旨,太郎が所有する渋谷不動産を一審被告に相続させる旨を記載した。
エ そして,太郎は,同年4月7日付けで,本件公正証書を作成し,これには,一審被告を祖先の祭祀を主宰すべき者に指定すること,一審被告に渋谷不動産を相続させること,その余の遺産は花子に相続させ,一審被告が花子と同居し終生扶養しなければならないこととし,付言するとして一審原告の「これまでの行状に鑑みると同人に甲澤家の祖先の祭祀を主宰させることは到底できないと思われるので,遺憾ながらこれを主宰する者として弐男乙山二郎を指定するほかない」旨を記載した。
オ 太郎は,昭和63年5月14日,脳出血で東京都新宿区西新宿の駒ヶ嶺病院に入院し,同年7月22日退院し,自宅で療養し,週に1回程度一審被告が付き添って通院していたが,平成3年2月23日,肺炎と脳血管障害で駒ヶ嶺病院に入院し,平成4年9月13日に死亡した(当時79歳)。
花子は,一審原告夫婦が長男七郎(昭和62年*月*日生)を儲けたこともあり,一審原告や四枝と行き来をしていた。そして,花子は,太郎の入院中の平成3年3月末ころ,太郎ともどもかつて丙川八郎弁護士のもとへ相談に出向いたことがあり,その妻の丙川二枝とも交際していたことから,丙川二枝に対し,入院中の太郎が遺言をしたいと言っている旨の相談を持ちかけ,丙川弁護士の助言により死亡危急者の遺言をすることになり,同年4月2日,花子の連絡を受けた丙川二枝がその経営にかかる会社の従業員である丁田四郎及び戊原五郎を伴い,駒ヶ嶺病院に赴き,この3名と太郎の付添として同病院で働いていた己野三枝が証人として立ち会い,同病院の個室(**号室)において,太郎が本件死亡危急遺言をした。すなわち,丙川二枝は,太郎から以前にした遺言書は取り消すこと,花子を大切にして皆仲良くしてほしいこと,遺言執行人として丙川二枝を指定することを口授されて記載し,太郎と証人のため読み聞かせ,記載内容を確認した証人3名とともに署名押印をし遺言書を作成した。
カ 丙川二枝は,東京家庭裁判所に本件死亡危急遺言についての確認の審判を申し立て(平成3年(家)第3603号遺言確認申立事件),家庭裁判所調査官が,同年4月11日,駒ヶ嶺病院に赴き,病院長や婦長から病状について説明を聞き,太郎の痴呆の状態には波があり,良いときには正常な判断ができるが,悪い時は自分の所在場所や日にちが判らなくなり,ひどい時には家族の識別ができなくなることがあること,同月2日は特に症状が悪化していたわけではなかったことを確認し,太郎をその病室に訪問し,「遺産を誰に上げたいか。」と質問すると,太郎は,いったん「二郎(一審被告)に」と答え,後が曖昧であったので,聞き直すと「皆に平等に分けたい」,「前に二男に遺産を渡すと書いたが,割合は判らないが皆で均等に分けて仲良くしてもらいたい」,前に書いた遺言については「もうやめにしたい,二男にだけやらないでみんなに平等に分けたい」と述べた。東京家庭裁判所は,同年5月2日,太郎は同年3月7日まで危篤状態であったが,肺炎は回復し,軽い痴呆症が残る状態であり,同年4月2日には鼻にチューブを入れた状態であったが話ができたこと,家庭裁判所調査官の報告書に基づき前記の事実を認定したことから,本件死亡危急遺言が太郎の真意に基づくものと判断し,確認の審判をした。
(2) 以上の事実によれば,次のとおり判断できる。
太郎は,一審原告といったん険悪な関係になり,一審原告との縁を切り,花子の老後の世話を含む祭祀の承継者を一審被告とし,渋谷不動産を一審被告に相続させる旨の本件公正証書による遺言をしたが,2人の兄弟を平等に扱うべきであると考え直し,前にした遺言書による遺言(本件公正証書による遺言及び昭和62年3月27日付け自筆証書による遺言)を取り消したいと考えていたところ,平成3年2月23日,脳血管障害及び肺炎に罹患し,いったん危篤状態にあったが,同年3月7日ころ回復し,花子の働きかけで死亡危急者の遺言の方法で遺言をすることとし,前の遺言をすべて取り消すことを内容とする本件死亡危急遺言をしたものである。太郎は,上記のとおり命を危ぶまれる事態に陥り,回復したとはいえ,なお波のある痴呆の状態が続いており,普通方式による遺言ができない状態にあり,死亡の危急にあるとの認識のもとに本件死亡危急遺言をしたものと認められるから,死亡の危急にある者である。
また,3人以上の証人が立ち会い,太郎が丙川二枝に口授し,同女が筆記し読み聞けをし,各証人が筆記の正確なことを確認して署名押印したのであるから,方式に従ったものであり,これにより本件公正証書による遺言は取り消された。
(3) 一審被告は,本件死亡危急遺言が太郎の真意によるものではないと主張する。
しかし,太郎は,いったん一審原告と縁を切る意思であったといえるが,そのような騒動があった昭和62年当時から4年が経過しており,一審原告夫婦が子供を儲け,一審被告は花子の実家である乙山家の後継者であり,単身者であったから,太郎において一審被告にだけ遺産中もっとも価値がある渋谷不動産を渡すのではなく,相続人を平等に扱うことが花子の老後のためにも良いことであると考えを変えたとしても何ら不自然ではない。また,太郎がいったん危篤になったものの回復し,家庭裁判所調査官の調査時には上記認定の言葉のやりとりをしており,皆を平等にと表明し,法定相続分による共同相続を望む意思を表明していたのであり,これと抵触する従前の遺言を撤回する意思が明らかであった。また,太郎は,遺言当時,上記程度の判断は充分可能な精神状態にあったといえるから,本件死亡危急遺言は太郎の真意によるものと認めることができる。
(4) 一審被告は,太郎が普通の方式による遺言をすることができるようになった時から6か月生存したから,本件死亡危急遺言は失効し(民法983条),これにより本件公正証書による遺言を取り消すとの本件死亡危急遺言の効力が生じない旨を主張する。
証拠(乙38,一審被告)によれば,一審被告が駒ヶ嶺病院の外出許可を得て太郎を伴い,平成3年10月3日,同月9日,同月22日,平成4年2月3日,5日,13日,21日,同年3月3日に東京都渋谷区内の高杉歯科クリニックに出かけ治療を受けたこと,一審被告が太郎を散髪のため外出させたことがあること,仏壇への焼香のため自宅に連れ帰ることもあったことが認められる。しかし,太郎は,一時危篤になり,生命の危険を脱したものの,痴呆の状態にあり,その状態には波があり,良いときには正常な判断ができることがあるものの,悪い時は自分の所在場所や日にちが判らなくなり,ひどい時には家族の識別ができなくなるのであり,上記のような外出をした事実があったからといって,上記の痴呆症状が改善した結果であると認めることはできないのであり,そのような状態のまま翌平成4年9月13日に死亡したものであり,本件証拠によっても,太郎の痴呆状態が改善し,公正証書遺言をはじめ普通の方式によって遺言をすることができるようになったとの事実を認めることはできない。
もっとも,本件死亡危急遺言は前にした遺言を取り消すこと(将来において効力を生ずることを防止する撤回)を内容とするものであり,前の遺言と抵触する行為をしたことが明らかとなったことにより撤回の効力を生ずるものであるから,本件死亡危急遺言が真意によるものとして効力を生じた以上は,本件公正証書による遺言を撤回する効力はすでに生じており,太郎が普通の方式による遺言をすることができるようになった時から6か月生存したものであったとしても,本件死亡危急遺言が効力を失うのみで前の遺言の効力が復活するものではなく,このことは民法1025条の規定から明らかである。したがって,この点からも,一審被告の主張は失当というべきである。
2 争点(2)について
(1) 証拠(甲1ないし4,5の1,2,甲6,7の1,2,甲8,一審原告,一審被告)によれば,以下の事実を認めることができる。
ア 花子は,太郎の死亡後も,一審被告と渋谷建物で同居し,しばしば一審被告に旅行に連れて行ってもらうなどし,一審被告が独身でいることを気にかけていたものの,一審被告との関係は円満であり,また,一審原告夫婦やその子供達とも行き来があった。しかし,一審原告は,一審被告との折り合いがまずく,渋谷建物に出向くことができず,花子の外出先で家族ともども花子と会っていた。
イ 花子は,一審原告に予め遺言をしたい旨とその内容を伝え,平成9年9月7日,一審原告に連絡して東京都渋谷区代々木上原にある大空宅に出向くよう求め,同所で,一審原告に自筆の下書き(甲6)を見せた。これには遺言書を書く理由として,「渋谷不動産は一郎(一審原告)へやります。まま(花子)所有の有価証券は二郎(一審被告)へやります。五戸の観音堂の土地(青森土地)は一郎へやります。遺言者の所有する私物は一郎に管理させる。一郎の過去の事は全部パパ(太郎)が許してくれました。法律通りに分けてほしいと申されました。二人仲良く助け合って行ってくれと申されました,上原の家(渋谷建物)に長男家族を一緒に仲良く住んでもらい,孫と一緒に暮らしたい事を何より望んでいる。(中略)渋谷の家の管理は二郎では,一人者では出来ないと思います。(中略)兄弟仲良くお互い助け合って管理することは絶対必要です」などと記載してあった。花子は,一審原告が,弁護士に相談し,予め花子から聞いていた遺言内容に沿って用意してきた原稿を書き写して本件遺言書を作成した。これには,花子が平成4年9月死去した夫甲澤太郎より相続し所有する渋谷不動産を長男の一審原告に相続させる旨,花子の相続に係る青森土地を一審原告に相続させる旨,花子が所有し一審被告が保管する有価証券現金は次男に相続させる旨,以上を除く残余の花子所有物はすべて長男の一審原告に相続させる旨,「子どもたちは過去のいきさつを捨てお互いに仲良くし,力をあわせて立派に生きてもらいたい。」との記載があり,日付,花子の住所が記載され,花子が署名をした。
ウ 花子は,平成12年10月29日,旅行先で倒れ,入院生活となり,平成13年5月21日に死亡した。
エ 東京家庭裁判所は,平成13年11月12日,本件遺言書を検認した。
(2) 上記認定のとおり,花子は太郎から相続した渋谷不動産を一審原告に相続させる旨の遺言をしたが,この渋谷不動産とは,太郎から相続した共有持分を指すものと解するのが相当であり,一審原告はこれを相続したものである。
一審被告は,本件遺言書が花子の意思によるものではないと主張するが,上記認定の遺言の経緯に不自然な点はなく,本件遺言書の内容が花子の意思に合致するものであり,その筆跡によるものであることは,下書き(甲6)の存在,妹である乙山一枝の陳述書(甲4)や平成15年8月1日に一審原告の質問に対してした回答(甲7の1,2)からも明らかである。
本件遺言書に「甲澤」と記載があることは,花子が普段は,「甲沢」と表記していたとしても,上記の作成経緯からすれば不自然ではない。また,花子が一審被告と同居しその世話を受け,円満な関係にあり旅行に共に出かけていたこと,他方,花子は一審原告の世話を受けたことはなかったといえるが,花子の意思は,下書き(甲6)にあるように,兄弟である一審原告と一審被告が過去のいきさつを捨てお互いに仲良く力を合わせて渋谷不動産を管理してもらいたいというものであり,本件遺言書の内容はこれに合致するもので,花子の意思に沿うものというべきである。
一審被告は,花子が平成9年9月7日当時,既に高齢で,判断力が弱く,他人に唆かされて,本件遺言をした旨を主張するが,そのような事実を認めるに足りる証拠はない。
3 結論
以上によれば,一審原告の請求はすべて理由があるから認容すべきであり,渋谷不動産につき請求を棄却した原判決は相当でないから,一審原告の敗訴部分を取り消し,その請求を認容し,一審被告の控訴は理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・西田美昭,裁判官・犬飼眞二,裁判官・小池喜彦)
別紙物件目録1〜4<省略>