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東京高等裁判所 平成18年(う)1801号 判決 2008年11月20日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は,検察官岩村修二作成の控訴趣意書(釈明を含む。)に,これに対する答弁は,主任弁護人奥田保,弁護人小林充,同平沼髙明,同平沼直人及び同岩本昌子作成の答弁書並びに弁護人平沼髙明及び同平沼直人作成の答弁書補充書に,答弁書に対する反論は検察官門野坂修一作成の意見書にそれぞれ記載されたとおりであるから,これらを引用する。

論旨は,要するに,甲山太郎(以下「患児」という。)の主たる死因は,割りばしの嵌入によって生じた血腫及び小脳浮腫を原因とする頭蓋内圧亢進により小脳部にヘルニア(小脳扁桃ヘルニア等)が生じ,これが脳幹を圧迫したことにあるから,その原因である血腫等を除去すれば救命も延命も可能であったのに,患児の主たる死因が血栓症を伴う左静脈洞閉塞による静脈還流障害によって脳幹が機能不全に陥ったことであると認める余地が十分にあるとした上で,患児の生命維持のためには,閉塞された左静脈洞を開通させる必要があるが,それは極めて困難であるとして,救命・延命の可能性を否定した原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある,というのである。

そこで記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討すると,原審で取り調べた証拠によれば,被告人には業務上過失致死罪が成立しないとした原判決は正当として是認することができるから,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認は認められない。以下,補足して説明する。

第1  事実経過等

1  被告人の経歴,杏林大学医学部附属病院救命救急センターの概要等

被告人の経歴,杏林大学医学部附属病院救命救急センターの概要等については,おおむね,原判決の「4.1被告人の経歴,杏林大学医学部附属病院救命救急センターの概要等」のとおりであるが,その概略は,以下のとおりである。

被告人は,平成9年に医師国家試験に合格し,本件当時,杏林大学医学部附属病院耳鼻いんこう科の医局に所属する耳鼻いんこう科の専攻医であり,医師として約2年2か月の経験を有していた。また,杏林大学医学部附属病院救命救急センターは,処置後に帰宅可能な程度の患者を扱う第1次救急,一般病棟に入院する程度の患者を扱う第2次救急及び集中治療室において緊急の措置を要する重症患者を扱う第3次救急に分かれ,第3次救急は,救急医学科の医師が手術や救命措置等を行うが,第1次及び第2次救急は,内科,外科,小児科,耳鼻いんこう科等の各科の当直医が診察・治療する体制となっていた。そして,被告人は,平成11年7月10日午前9時から通常勤務をした後,午後零時からは,第1次及び第2次救急の耳鼻いんこう科担当者として24時間当直勤務に就いていた。脳神経外科医としては,乙野大介らが当直していた。なお,同病院では,夜間も,放射線技師が常駐して必要に応じてCT撮影を行うことができる体制となっていた。

2  患児の受傷から杏林大学医学部附属病院に搬送されるまでの状況等

患児の受傷から杏林大学医学部附属病院に搬送されるまでの状況等は,おおむね,原判決の「4.2 太郎の受傷状況等」,「4.3 杏林大学医学部附属病院への搬送状況等」のとおりであるが,その概要は,以下のとおりである。

患児(平成6年10月*日生まれ)は,平成11年7月10日午後6時過ぎころ,東京都杉並区の知的障害者更生通所施設「たけのこ園」の土の中庭において,割りばしに巻き付けられた綿あめを口にくわえて走っていた際,前のめりに転倒し,割りばしを軟口蓋に突き刺して負傷した。患児は,その直後,割りばし(途中で折れて体内に残された以外の部分)を口の中から引き抜いて投げ捨てたが,直ぐに意識を失ったような状態となった。

たけのこ園に勤務していた看護婦の丙本春子は,その二,三分後に現場に駆け付け,救急車を要請するように述べ,さらに,患児の口内の異物の有無を確認するとともに気道を確保しようと考え,地面に寝かせた患児のあごを下に引いたところ,患児は,意識を取り戻したように泣き出した。丙本は,泣いている患児を抱き抱えて保健室に運び,救急車が到着するまで患児をベッドに寝かせておいた。患児は,保健室で,丙本から口を開くように声を掛けられると,自ら口を開けた。丙本は懐中電灯を使って口中を見たが,その限りでは,軟口蓋にへこみのような傷が見られたものの,出血をしている様子はなかった。また,患児は,特におう吐をしたり吐き気を催したりはしていなかったが,泣いている以外に声を出しておらず,目は閉じたままであった。

石神井消防署救急隊の丁川夏夫らは,午後6時7分,たけのこ園で綿あめの割りばしがのどに刺さって子供が受傷した旨の救急指令を受け,午後6時11分にたけのこ園に到着すると,直ぐに丙本が患児を抱いて救急車に運び入れた。丁川は,救急車に乗り込んできた患児の母である甲山花子から,歩行中に転倒して,綿あめの割りばしがのどに刺さったと聞き,さらに,近くにいた中高年の女性から,割りばしは患児が抜いたという説明を受けたため,割りばし全体が体内から既に抜けているものと考えた。丁川は,救急車を出発させる前に,患児の状態を見るために,患児に口を開けるように言うと,患児は直ぐに口を開けた。丁川がペンライトを使って見たところでは,軟口蓋に小さくて浅そうに見える傷口があり,にじむ程度の出血が見られたが,傷の深さは分からなかった。丁川は,患児に目を開けられるかを尋ねると,患児が直ぐに反応して目を開けたことから,意識状態は良いものと判断した。その時点で,患児の瞳孔径や対光反射に異常はなく,呼吸,脈拍,動脈血酸素飽和度も正常値であった。おう吐や吐き気もなかった。

丁川らは,午後6時20分ころ,患児を耳鼻いんこう科のある杏林大学医学部附属病院に搬送することを考え,同病院に対し,綿あめの割りばしがのどに刺さったが,割りばし自体は抜けている,傷の深さは不明である,患者は4歳でバイタルサインは正常である旨を電話で伝え,患児を搬送することの了解を得た上,同病院に向けて救急車を出発させた。搬送途中で,患児は,午後6時30分ころ,前兆がないまま,いきなり一気に吹き出すようにおう吐した。その後,患児は,何度か吐き気を示したが,それほど強いものではなく,それ以上のおう吐はなかった。

3  杏林大学医学部附属病院における診察状況等

患児が杏林大学医学部附属病院に運び込まれてから被告人の診察を終えるまでの状況は,おおむね,原判決の「4.4 被告人への引継ぎ状況等」のうち「4.4.1」から「4.4.3」まで,「4.5 被告人による診察状況等」のうち「4.5.1」及び「4.5.2」のとおりであるが,その概要は,以下のとおりである。

患児は,午後6時40分ころ,杏林大学医学部附属病院救命救急センターの第1次・第2次救急外来に到着し,丁川らによって,その処理室に運び込まれ,処置台に移された。同病院の看護婦の戊沢秋子は,運び込まれた患児が目を閉じてぐったりしている様子であったため,丁川に対し,意識状態を尋ねたところ,意識状態は良いとの回答があった。戊沢は,更に,丁川から,患児が綿あめの棒をくわえて土のグランドを走っていて転倒し,綿あめの棒がのどに刺さった,棒は見当たらないが,自分で抜いたようである,救急車の中で1回おう吐した,といった情報を聴き取った。患児は,戊沢から口を開けるように言われて,やや小さ目に口を開け,もう少し大きく開けるように言われて,更に大きく口を開けた。また,戊沢は,患児のまぶたを指で開き,瞳孔を確認したが,異常はなかった。その後,患児は,何かをつかもうとするかのように手を動かし,戊沢から,抱いてほしいのかという趣旨の質問をされて,うなずいた。患児は,戊沢に抱き上げられ,そのまま体を預けて,手でその制服のエプロンをつかむようにして抱かれていたが,まもなく,おえつを何度か繰り返すうち,膿盆に,若干の血液が混入した甘い匂いのする透明な内容物をおう吐した。

他方,被告人は,病棟回診をしていた際,救急外来の事務員から,口腔内を怪我した患者が耳鼻いんこう科第1次・第2次救急外来に搬送されてくるとの連絡を受け,午後6時50分ころ,患児のいる処置室に到着した。

被告人は,丁川から,患児につき,転倒して綿あめの割りばしがのどに刺さったが,割りばしは抜けている,患児が割りばしを抜いた,搬送途中に1回おう吐した,などといった情報を聴いた。また,丁川は,患児に口を開けるように声を掛け,患児が自ら開けた口の中をペンライトで照射して,被告人に傷の部位を示した。被告人は,傷口が小さく,止血していることを確認し,丁川に特に質問を発することなく,丁川の提示した傷病者搬送通知書の傷病名欄に「軟口蓋裂傷」と記入し,その初診時程度別欄の「5(軽症・軽易で入院を要しないもの)」に印をし,署名をして,救急隊員からの引き継ぎを終えた(被告人が,原審公判において,①処置室において舌圧子を使って患児の口の中を診た,②患児は,その際,茶褐色の内容物をおう吐した,③さらに,処置台の上で患児の首を持ち上げて項部が硬直していないかを検査したなどと述べている部分については,戊沢や丁川の各原審供述に照らして,信用することができない。)。

患児は,その後,戊沢に抱き抱えられて耳鼻いんこう科診察室に運ばれたが,その移動中にも,何度かおえつをしながら,少しおう吐した。被告人は,移動中,戊沢の少し前を歩いており,その途中で,受付手続を終えて待機していた花子が合流した。

花子は,戊沢に患児を抱いて診察を受けるように言われ,ぐったりしていた患児を自分のももの上に乗せ,その頭を自分の胸に寄り掛からせるようにして抱き抱え,診察台に座った。

被告人は,花子に対し「どうしましたか」と問い掛け,「転んで割りばしがのどに刺さった」という返事を聞いたが,それ以上に,受傷時の状況や受傷後の症状等を尋ねたりはせず,花子においても,自分から患児の症状等を説明しなかった。

被告人は,患児に口を開けるように述べ,患児が開けた口の中をのぞいて軟口蓋の傷口の部位,大きさ等を観察し,傷の深さは不明であったものの,既に止血しており,その周囲にも特段の異変が見られなかったことなどから,軟口蓋の傷にとどまると判断し,治療として,傷口に消毒及び炎症止めの薬を塗った。

被告人は,傷自体が小さかったことなどから,経過を見た上で7月12日(月曜日)に縫合をするかどうかを決定することとし,その間の服用薬として,抗生剤と消炎鎮痛剤を処方することとした。そして,花子に対し,傷口を縫うかどうかは月曜日に決めるので,月曜日に患児を連れて来るように指示するとともに,今日はゆっくり休ませる,風呂には入れない,薬は必ず飲ませる,軟らかい物を食べさせる,吐いた物が詰まると困るので,横向きに寝かせるといった注意事項を伝え,処方した薬の説明を行った。その際,被告人は,花子から,ぐったりしているのに,本当に連れて帰って良いかと尋ねられたが,疲れて寝ているだけだから大丈夫である,と答えた。なお,患児は,耳鼻いんこう科診察室においても,一度おう吐したほか,何度かおえつをしていた。

4  診察後の状況等

患児の診察が終わってから死亡が確認されるまでの状況等は,原判決の「4.6 診察終了後,太郎の死亡が確認されるまでの状況等」のとおりであり,その概要は,以下のとおりである。

患児は,翌11日午前6時までの間,特に大きな変化がなく,花子の呼び掛けに対して反応を示していたものの,午前7時30分に花子が異常に気付いた時点では,唇が真っ青になった状態で全く反応しなくなっていた。患児は,午前7時44分に救急車が到着した時点で既に心肺停止状態にあり,直ちに杏林大学医学部附属病院救命救急センターに搬送され,救命のための措置が施されたが,午前9時2分,死亡するに至った。

5  死亡後に判明した患児の頭蓋内の状態等

患児の死因を検討するため,同日午前9時17分ころ,患児の頭部のCT撮影が行われた。また,翌12日,慶應義塾大学医学部法医学教室において,一色昭男医師の下で,司法解剖に付された。これらの結果等によれば,患児の頭蓋内の主な状況は,以下のとおりであった。

(1)割りばしの刺入による創傷,血腫等

前記の割りばしによる創洞は,軟口蓋左半の後端に近い所から刺入し,副咽頭間隙の筋層を通って,咽頭後部の軟部組織内を後やや上方に向かい,頭蓋底において,頭蓋骨を損傷することなく,左頸静脈孔を通って頭蓋腔(左後頭蓋窩)内に達していた。そして,その創洞に沿って長さ約7.6センチメートルの折れた割りばしが残されていて,頭蓋腔内に約2.0センチメートル嵌入していた。

この割りばしの嵌入により,左内頸静脈は頸静脈孔部で挫滅して内腔が閉塞し,同部から左S状静脈洞まで血栓が形成され,さらに左横静脈洞にかけて血栓様のものが存在していた。そして,左小脳半球前下面にくも膜損傷部があり,深さ約3.5センチメートルに及ぶ小脳実質の損傷が生じていて,その周囲には中等層の出血が見られた。

また,その小脳損傷部の周囲の硬膜下腔に(大部分は左後頭蓋窩の小脳テント下に,一部は左小脳テント上と右小脳テント下に),合計約24ミリリットル(重さ約26グラム)の血腫が存在した。

なお,軟口蓋に刺入した割りばしが頸静脈孔まで至る経路につき,患児を司法解剖した一色医師は,軟口蓋を貫通して上咽頭腔に入り,ついで上咽頭後壁を損傷して咽頭後部の軟部組織に刺入して左頸静脈孔に至ったもので,剖検時,割りばしは咽頭後壁から上咽頭腔に約2センチメートル突き出ていた,という。しかし,一般に考えられている上咽頭腔の大きさからして,剖検時に割りばしが上咽頭腔に約2センチメートル突き出ていたとは考え難い(鑑定書にも,その旨の記載がないので,一色医師の原審公判における供述をそのまま信用することはできない。)上,一色医師は,割りばしの咽頭側の位置関係を考えないまま,患児の口蓋を冠状切開した上で,側面において筋層(副咽頭間隙)を切開して露出させる過程で割りばしを見たものと考えられるから,切開した筋層(副咽頭間隙)部分から現れた割りばしについて上咽頭腔内にあったものと誤解した可能性があるというべきである。かえって,損傷部からそれほど出血した様子が見られないことや割りばしの端等に付着しているように見える血液ないし組織の状況,軟口蓋における刺入位置と頸静脈孔との一般的な位置関係等からすると,割りばしは,上咽頭腔を経由することなく,軟口蓋から側面の筋層(副咽頭間隙)を経て頸静脈孔に至ったものと推認することができる。この認定に反する原判決の判断は是認することができない。

(2)その他の所見

剖検時に頭蓋を開放した際の大脳半球は,外観上,その全体もしくはかなりの部分が腫れ上がっていて,脳回が扁平化していた。脳軟膜は浮腫状で,中等度に充血していた。また,剖検の際,脳の重量は1510グラムと測定された。

他方,CT写真上では,第3脳室及び側脳室が拡大しており,中脳水道ないし第4脳室が閉塞したため,脳脊髄液の流れが第3脳室及び側脳室で滞留したと考えられる水頭症の所見があった。

また,小脳近くの延髄には左から右へのゆがみが見られ,CT写真上も,第4脳室が左から右へと変形,変位しており,後頭蓋窩内で,左から右へと圧力が掛かっていたことがうかがわれる。

さらに,CT写真上,脳幹と小脳前面等との間のすき間である四丘体槽は閉塞していた。

(3)患児の臓器片等の状況

さらに,当審における事実取調べの結果によれば,以下の各事実が認められる。

患児を司法解剖した際,組織学的検査をするために作られた各種臓器の組織標本,組織ブロック,組織片が,司法解剖をした慶應義塾大学医学部法医学教室に残されていることが当審になって判明した。

その鑑定の結果(医師二宮和男作成の鑑定書)によれば,患児の脳の組織標本等の所見の内容は,以下のとおりであるとされた。

小脳の創口周囲の組織には,高度の実質内出血及びくも膜下出血を伴い,好中球浸潤がくも膜及び血管周囲,小脳表面から実質内に広がり,小脳実質内の細血管周囲にも炎症細胞が集まっていたが,血栓は認められなかった。また,小脳の創管周囲から離れた部位において,くも膜に好中球浸潤が,細血管内に高度のうっ血がそれぞれ認められたが,血栓は認められなかった。

大脳の組織においては,脳表面のくも膜下出血と共に脳回の深部に至るまで炎症細胞の浸潤があり,細血管に高度のうっ血が認められたが,血栓は認められなかった。また,くも膜が高度の浮腫を呈したりした部分があった。大脳皮質は,全般に浮腫状で,血管周囲,脳細胞の周囲腔の拡大が見られ,海馬の組織も,皮質の高度の浮腫を示していた。

橋の第4脳室上衣細胞下も浮腫状で,特にその血管周囲が浮腫状で,高度の好中球浸潤を伴っていた。

第2  死因について

以上を前提に,患児の死因について検討する。

1  患児の死因に関し,原審で取り調べた医師らのそれぞれの見解の骨子は,おおむね原判決の「8.1 太郎の死因及び救命可能性に関する諸見解」のとおりであり,これを概観すると,次の二つの考え方に大きく分けられる。

第1の考え方は,患児には,前記のとおり,割りばしの嵌入による左小脳実質の直接損傷があり,その損傷部に浮腫が生じるとともに,後頭蓋窩に合計約24ミリリットル(重さ約26グラム)の血腫が存在しているので,これらが頭蓋内圧を亢進させて,小脳扁桃ヘルニア,上行性テント切痕ヘルニアを引き起こし,脳幹を圧迫して患児を死亡させたとの結論をとり,左頸静脈の閉塞と血栓の形成が脳浮腫,脳腫脹を引き起こすという静脈還流障害については,生じていないか,その影響はかなり小さい,とするものである(以下,便宜上「静脈還流障害否定意見」という。)。

第2の考え方は,左小脳実質の直接損傷及び血腫が頭蓋内圧の亢進に寄与したことは認めつつも,患児には,左頸静脈が損傷し,血栓が形成され,完全に閉塞することによって脳浮腫,脳腫脹が生じるという静脈還流障害が発生しており,それが死因に直接的に影響した,とするものである(以下,便宜上「静脈還流障害肯定意見」という。)。

2  さらに,当審において,三井明男医師は,患児には大脳に相当な脳浮腫,脳腫脹が存在するものの(この点について,静脈還流障害否定意見の四谷治男医師は,剖検時に脳回が扁平化していたのは閉塞性水頭症によるもので,脳浮腫,脳腫脹によるものではないとしていた。),それは静脈還流障害によって生じたものではなく,患児の死因は,損傷部の浮腫や後頭蓋窩の血腫が,急性閉塞性水頭症や小脳扁桃ヘルニア,上行性テント切痕ヘルニアを発生させ,最終段階においては,呼吸中枢や循環中枢の重篤な障害を惹起し,それにより低酸素血症が誘発され,脳浮腫,脳腫脹を悪化させ,中心性ヘルニアの影響が加わり,一気に小脳扁桃ヘルニアを悪化させたことによるものである,との見解を示した。

そして,所論は,おおむね三井医師の意見に依っている。

3  各医師らの意見を比較しつつ,まず後頭蓋窩の血腫等がヘルニアを引き起こしたといえるかどうかを検討する。

(1)ヘルニアの所見があったかどうかという点につき,所論は,右側頭葉に鈎ヘルニアの所見があるほか,ホルマリン固定後の写真の小脳扁桃部分には比較的明瞭なヘルニアの所見があり,小脳扁桃ヘルニアの存在を前提にするべきである,などという。そのうち,鈎ヘルニアの所見についていえば,鈎ヘルニアがあったとしても,それは,テント上の大脳側の内圧の方が後頭蓋窩の内圧よりも高かったことを示すものであって,テント下の後頭蓋窩の内圧が亢進した結果生じる小脳扁桃ヘルニアや上行性テント切痕ヘルニアの発生を推測させるような事情とはいえない。三井医師は,左側と右側とで上下の圧力差の方向が異なっていたため,右側頭葉のみに鈎ヘルニアが発生したのに対し,左小脳側には上行性テント切痕ヘルニアが生じた,と説明するが,後記のとおり,上行性テント切痕ヘルニアがあったという点に疑問があるから,前提を欠くというべきである。

次に,四谷医師及び三井医師は,剖検写真,ホルマリン固定後の写真等に基づき,小脳扁桃ヘルニア及び上行性テント切痕ヘルニアの各所見が認められる,という。しかしながら,剖検写真,ホルマリン固定後の写真等を見た五木正男医師は,当該写真等からそのような所見があると読み取ることはできないし,指摘部分をヘルニアであると考えると,脳幹のゆがみやテント切痕の形態等に照らし,不自然,不合理であると反論している。五木医師の反論には首肯し得るものがある。また,四谷医師自身,平面的な写真だけではその存在を断定することができないと認めている。三井医師も,上行性テント切痕ヘルニアについては,剖検写真からその存在を断定することはできないとしている。さらに,司法解剖をした一色医師は,鑑定書において,ヘルニアに関する所見を何ら記載していない。なお,一色医師は,原審公判においても,小脳扁桃ヘルニアになった可能性が高く,多少,そのような所見はあったが,神経細胞の壊死等といった形態変化はなく,脳ヘルニアとしては軽いと推察している,と述べているだけである。患児には,死亡後まもなく,杏林大学医学部附属病院救命救急センターで後頭下部穿刺が行われているので,これにより小脳扁桃ヘルニア類似の状態となっているのを一色医師が見たという可能性も否定し難い。

以上からすれば,小脳扁桃ヘルニア等の所見があったと確定することはできない。

(2)また,四谷医師は,CT写真上等で四丘体槽が閉塞し,側脳室,第3脳室が拡張しているのは上行性テント切痕ヘルニアの典型的な所見である,という。しかし,四丘体槽の閉塞等の所見は,テント上の内圧が高いために中心性ヘルニアが生じた場合にも認められるものであって,それ自体で,後頭蓋窩の内圧の上昇により,上行性テント切痕ヘルニアが生じていることを示すものとはいえない。

(3)加えて,静脈還流障害によって脳浮腫,脳腫脹が発生した場合においても,頭蓋内圧亢進が生じ,小脳扁桃ヘルニア等を発生させることがあり得るのであるから,小脳扁桃ヘルニア等が存在したからといって,静脈還流障害がなかったということにはならない。

(4)結局のところ,CT写真や剖検写真等から,小脳扁桃ヘルニア,上行性テント切痕ヘルニアが生じていたと確定することはできないし,仮にそれらがあったとしても,それが直ちに静脈還流障害否定意見に結び付くとはいえない。

(5)次に,血腫量をみる。所論は,患児の後頭蓋窩の容積からすると,血腫量24ミリリットルという値は危険水域をはるかに超えていた,という。確かに,後頭蓋窩の血腫は,無視し難い量であり,小脳扁桃ヘルニア等を生じさせたとしても不自然,不合理であるとはいえない。もっとも,患児は受傷後約12時間にわたり意識があったことなどからすると,後頭蓋窩の血腫だけで小脳扁桃ヘルニア等を確実に引き起こすといえるほどの量であったとは断定し難い上,前記の約24ミリリットルには,後頭蓋窩内のものではないテント上の血腫も含まれているから,後頭蓋窩の血腫の量が静脈還流障害否定意見の決定的根拠になるとはいい難い。

4  所論の引用する静脈還流障害否定意見は,静脈還流障害が生じていないと考える根拠として,①CT写真によれば,右の頸静脈孔は左より明らかに大きく,左S状静脈洞及び左横静脈洞が閉塞しても,大脳や小脳等を還流した静脈血の大部分は,優位側である右の横静脈洞等を通って体循環に還流するはずである,②仮に静脈還流障害が生じていたとすれば,小脳(特に左側)や中脳に浮腫,出血が見られるはずであるが,患児にはCT写真及び剖検写真にそのような所見がないし,剖検写真では,左小脳はむしろ右小脳よりも小さくなっているから,左小脳が腫れているとはいえない上,横静脈洞が閉塞した場合に循環障害が発生するはずの大脳の部位の状態は,その他の領域の脳と同様の脳浮腫,脳腫脹の状態となっているにすぎない,③静脈洞閉塞によって還流し得ない血液が滞留するという考え方自体,脳外科の分野で承認されておらず,仮に左静脈洞が完全に閉塞して還流し得ない血液が滞留すれば,もっと早期の段階で脳に重篤な障害が出るはずであって,患児に受傷後12時間にわたり大きな変化がなかったことを説明し得ない,という。

加えて,④四谷医師は,脳浮腫では脳室が狭小化し,水頭症では脳室が拡大化するが,患児の脳室は拡大化していたので,大脳半球が腫れていたのは水頭症によるものである,と述べる。

さらに,⑤三井医師は,剖検写真によれば,左横静脈洞内は空虚で,蒼白かつ平滑な内膜となっていることからすると,左横静脈洞にあった血栓様の物は,死後凝血であった可能性が高く,患児には左横静脈洞に通過障害がなかったと考えられる,と述べる。所論は,この見解をも引用する。

①のCT写真は,左右が傾いた状態で撮影されたものであるから,当該写真から,左右の頸静脈孔の大きさを比較することはできないというべきである。患児について,左右の静脈洞のうち,いずれが優位であったかを特定することはできず,仮に左側が優位であったとすると,静脈還流障害が生じる可能性が十分にあると考えられる。

②の点についてみると,出血性の静脈梗塞であっても,それがCT写真に表れない場合も相当ある,とされているから,CT写真から直ちに浮腫,出血の有無を判断することはできないと考えられる(なお,患児のCT写真について,四谷医師は,浮腫,出血の所見はない,というが,六田文男医師は,病理学的所見と合わせて検討しているにしても,小脳を含めた脳実質全体に広く浮腫が発生していると読み取れる,と述べており,CT写真のみによって浮腫の有無を判断すること自体,必ずしも容易でないとうかがわれる。)。また,剖検写真から浮腫,出血の有無を判断するのも困難というほかない。さらに,当審における事実取調べの結果(医師二宮作成の鑑定書)によれば,大脳皮質が全般に浮腫状で,細血管に高度のうっ血があったのみならず,小脳の細血管内にも高度のうっ血があり,橋の第4脳室上衣細胞下も浮腫状であったとされている。そうすると,小脳等に浮腫,出血がなかったとはいえない。

さらに,S状静脈洞及び横静脈洞が閉塞したことによって静脈還流障害が発生した場合に,うっ血や浮腫等がどこに出現するかについても,一義的に明らかであるとはいえない。四谷医師も,脳内には非常に様々な側副血行路があるので,左のS状静脈洞及び横静脈洞が詰まった場合に,脳浮腫がどの部分に生じるかを予想するのは困難であるという。加えて,患児の場合,元々,小脳半球のうち右側の方が大きかった可能性がある。そうなると,静脈還流障害により左右の小脳に等しく浮腫が生じたと仮定した場合,血腫の影響や生来の大きさの違いから,剖検時に,左小脳の方が右小脳に比して相対的に小さくなっていたとしても,不合理とはいえない。同様に,浮腫,腫脹の生じている部位が静脈還流障害によるものとして不自然であるともいえない。

③の点についてみると,静脈還流障害肯定意見は,割りばしが左頸静脈孔を貫通した時点では,静脈の血流は完全には阻害されていなかったが,血栓の形成が進行するうちに,患児の症状が急変する前になって,完全に閉塞し,あるいは急激に悪化して,一気に著明な脳浮腫,脳腫脹が生じた,と考察している。他方,仮に左静脈洞が完全に閉塞して還流し得ない血液が滞留すれば,もっと早期の段階で脳に重篤な障害が出るはずであるとの前記の見方は,横静脈洞まで血栓が伸びておらず,かつ,割りばしが左頸静脈孔を貫通した時点で,当該部分の静脈が完全に閉塞し,その後,均等に血液が滞留していくという前提で考察している。横静脈洞まで血栓が及んでいた可能性が十分にあることは後記のとおりである。また,割りばしが左頸静脈孔に嵌入して固定されたような状態になり,左内頸静脈が挫滅してその内腔を閉塞したにしても,頸静脈孔はかなり不整形であるから,割りばしが嵌入して固定されたような状態となったことが左内頸静脈全体を閉塞したことを意味しないし,一色医師も,割りばしによって右側の血管壁が損傷していたと述べているのであるから,同医師作成の鑑定書は,割りばしの嵌入によって内頸静脈全体が完全に閉塞したという趣旨をいうものではないと考えられる。損傷した部分に割りばしが固定されたとすれば,大量の出血がなくとも不自然とはいい難い。そうすると,割りばしが左頸静脈孔を貫通した時点で,当該部分の静脈が完全に閉塞したとは確定し得ないというほかない。そして,血栓は徐々に形成されていくと考えられるから,受傷当初から均等に血液が滞留していくはずであるという前提で静脈還流障害肯定意見を批判するのは当を得ない。血栓の形成が進んだ状況や完全に閉塞が生じた時期等によっては,受傷後約12時間は大きな変化がなく,その後に病状が急変することもあり得ると考えられる。また,S状静脈洞及び横静脈洞が閉塞した場合,それが優位側であれば,静脈還流障害が生じ得ることは前記のとおりである。

④の点についてみると,三井医師をも含む他の医師らは,脳浮腫,脳腫脹と水頭症の双方が存在していたと判断している。水頭症が認められることは,脳浮腫,脳腫脹の存在を否定する理由とはならない。水頭症の発生原因,発生時期等を特定することもできない。さらに,当審における事実取調べの結果(医師二宮作成の鑑定書)によれば,細胞組織上,大脳皮質全般に浮腫があるとされている。したがって,水頭症の症状は,静脈還流障害を否定する理由とはいえない。

なお,所論は,患児の脳浮腫,脳腫脹は,水頭症から生じたものである,ともいう。水頭症としてたまった脳脊髄液が周りににじみ出すことによって生じる間質性脳腫脹の場合には,神経繊維が破壊されて白質を失うとされているが,患児の脳にはそのような所見が見当たらない。患児の脳浮腫,脳腫脹が水頭症から生じたことをうかがわせる事情は認められない。脳浮腫,脳腫脹の原因が水頭症によるものであるとはいい難い。

⑤の点についてみると,司法解剖をした一色医師は,鑑定書上,左S状静脈洞から左横静脈洞にかけて血栓の形成が見られる,としていて,死後凝血であることをうかがわせる事情を何ら記載していない。また,五木医師は,三井医師の見解を批判し,血管の内膜に損傷のない部位にできた血栓は容易に血管の壁からはがれるのは常識であるし,受傷後の時間経過からすると,繊維性の強固な癒着が生じる余裕もない,という。三井医師においてさえ,血栓がはがれることがあり得ることを前提に,仮にはがれたのであれば,ピンセットでつまみ上げ,左横静脈洞に戻して写真撮影をするはずなのに,一色医師がそうしていないのは,当該充填物がピンセットでつまみ上げられないほどの柔軟な物であったからである,という推察をしているのである(司法解剖を担当する鑑定医のするべき処理の在り方はさておき,三井医師の述べるような事情から,充填物がピンセットでつまみ上げられないほど柔軟な物であったと推察することには無理がある。)。剖検写真上,左横静脈洞内が空虚で,蒼白かつ平滑な内膜に写っているにしても,左横静脈洞に血栓が生じていたことを否定することはできない。

結局,①ないし⑤の点を検討しても,静脈還流障害が生じていなかったと認めるには不十分であり,所論のその余の指摘等を十分に検討しても,静脈還流障害が死因となっていなかったと確定することはできない。

5  他方,静脈還流障害肯定意見は,その根拠として,①剖検時における患児の脳の重量は1510グラムで,同年齢の児童の平均重量よりも少なくとも270グラムも重く,②剖検写真によれば,大脳半球全体が腫れ上がっているのは明らかであって,更に大脳と小脳とのバランスが崩れていないことからすると,脳全体が均等に腫れていると考えられ,これらの腫れを閉塞性水頭症によって説明することはできない,という。

それに対し,所論は,患児の平常時の脳重量は,受傷前の段階でかなり大きな値であった可能性がある上,1510グラムには250ミリリットル以上の滞留していた脳脊髄液が含まれている可能性があるし,頭蓋内には270グラムの増加に耐え得る空間がないので,①の点は静脈還流障害を肯定する根拠にならない,また,脳回の扁平化は水頭症によって生じていると考えるべきであり,小脳や脳幹に腫れは認め難いから,②の点も静脈還流障害を肯定する根拠にならない,という。

患児の通常の脳重量を特定することはできない。また,司法解剖をした一色医師の鑑定書等を見ても,前記の1510グラムに脳脊髄液の重量が含まれているか,含まれているとすればどの程度含まれているかは不明である。他方,患児に水頭症の症状があったと認められるが,それが,剖検写真で外観上見られる大脳半球の腫れにどの程度影響しているかについても明らかとなっていない。また,剖検写真から,小脳や脳幹に腫れがあるかどうかを判断することは困難である上,かえって,当審における事実取調べの結果(医師二宮作成の鑑定書)によれば,小脳の細血管内には高度のうっ血があり,脳幹の一つである橋は浮腫状となっているとされている。そうなると,①,②に関する事情からは,静脈還流障害が生じたと断定することはできない一方で,静脈還流障害が生じていた可能性も否定し難いというほかない。

6  所論は,死因が静脈還流障害であるというためには,後頭蓋窩の血腫や水頭症等が死因に影響していないこと,又は,仮にそれが影響していたとしてもその程度が極めて小さいことを論証しなければならない,なぜなら,その要因は頭蓋内圧亢進を通じて死期を早めるものであるから,その要因を除去すれば,患児の急性期の死の危険を回避することができたはずだからである,という。

静脈還流障害肯定意見は,前記のとおり,左小脳実質の直接損傷及び血腫が頭蓋内圧の亢進に寄与したことは認めつつも,左静脈洞の血栓の形成が進行するうちに,患児の症状が急変する前になって,完全に閉塞し,あるいは急激に悪化して,一気に著明な脳浮腫,脳腫脹が生じた,とするものである。そして,静脈還流障害肯定意見に立つ七瀬久男医師は,頭蓋内の減圧措置等をしたとしても,血栓を取り除けない以上,脳の腫れが止まらないのであるから,患児を救命することはできない,という。また,頭蓋内の減圧措置や血腫の除去を適切にすれば患児の救命可能性はかなり高かったとする八代安男医師も,静脈血の還流が左右の頸静脈のうち左頸静脈に依存していた場合には,救命することができないほどの想定外の腫れが発生することがある,としている。そうすると,静脈還流障害が生じ,それによって急激に著明な脳浮腫,脳腫脹が発生した場合には,後頭蓋窩の血腫を除去するなどの措置をしても,患児の急性期の死の危険を回避することができるとはいえない。

7  なお,当審において患児の組織標本等を見分した鑑定人の二宮医師は,脳の末梢の細血管内に高度のうっ血が生じているとし,この所見は脳にうっ血を来すような死因であれば必ず生じるものであるから,静脈還流障害があったかどうかは判断することができないとするとともに,患児の軟口蓋の創口周囲には高度の好中球浸潤を伴う炎症があり,これが明らかに創管の周囲から広がっていたと思われることや,脳の表面に好中球を主体とした細胞浸潤が広がり,髄膜炎の所見を呈しており,これが小脳の創管周囲のみならず,大脳皮質の表面,脳溝の深部にも広がり,脳腫脹が顕著であることなどから,患児の死因は,軟口蓋から小脳実質内に至る損傷によって生じた髄膜炎であるとの意見を示している。

脳にうっ血を来すような死因が推測されるものの,静脈還流障害が生じていたかどうかは判断し得ないという点については,十分に首肯し得るものである。しかしながら,髄膜炎が死因であるとする点については,首肯し難いというほかない。すなわち,患児の司法解剖をした一色医師の鑑定書においても,組織学的検査によれば,脳に関して,創傷による小脳損傷部の周囲脳実質内には,好中球を主とした炎症細胞浸潤が認められ,くも膜の浮腫と好中球を主とした炎症細胞浸潤が軽度からやや高度に認められるとして,損傷に伴う感染症としての髄膜炎を認めていた。髄膜炎の存在自体は,新たに判明した事実ではない。そして,一色医師は,患児の死因に関しては,脳の直接損傷と硬膜下血腫に加え,静脈還流障害によって高度の脳浮腫が生じ,致命的な脳機能障害に至ったと判断した上で,感染による髄膜炎は,脳浮腫を生じる過程で悪影響を与えた可能性がある,という程度の位置付けしかしていない。原審において患児の死因に関する見解を述べた他の医師らも,一色医師作成の鑑定書等を前提としつつ,例えば,四谷医師が,髄膜炎の所見があったということから,それが感染症か,それが死に直結するものかどうかを議論するのは非常に難しいが,髄膜炎が死亡の原因になるとすれば,少なくとも数日以上かかり,臨床的に12時間程度で死に至るような髄膜炎の所見というのは考えられない,と述べるなど,髄膜炎が直接的死因であるという考察はしていない。

以上によれば,髄膜炎が直接的死因であるとはいえないというべきである。

第3  注意義務違反の有無について

1  本件の公訴事実とされている被告人の過失内容は,要するに,被告人が,杏林大学医学部附属病院第1次・第2次救急当直医師として,平成11年7月10日午後6時50分ころに患児の初診治療を行った際,救急隊員からの情報や診察時の患児の状態によれば,割りばしの刺入による頭蓋内損傷が疑われたのであるから,母親から十分に事情を聴取した上,患児の上咽頭部をファイバースコープで観察し,又は頭部をCTスキャンで撮影するなどして頭蓋内損傷を確認し,直ちに脳神経外科医師に引き継いで頭蓋内損傷に対する適切な治療処置を行わせる業務上の注意義務があるのにこれを怠り,頭蓋内損傷を生じさせていることに気付かないまま適切な措置をしないで帰宅させた,というものである。

2  そこで,まず,前記認定にかかる事情等を前提にした場合に,当時の医療水準に照らし,耳鼻いんこう科の医師として第1次・第2次救急外来の当直を担当していた被告人において,救急隊員からの情報や患児の診察時の状態等によれば,割りばしの刺入による頭蓋内損傷を疑い,その確認をするべきであったといえるかどうかについて検討する。

3 本件における受傷機転は,患児が転倒して綿あめの割りばしがのどに刺さったというものであり,その傷口は,軟口蓋に認められている。当時,口腔内損傷に対する診察・治療に関しては,その診療指針や診療標準は確立しておらず,口腔内の刺創,裂創の救急治療の手順について,まず止血を行い,異物が創内にあれば除去が必要であるものの,止血されていれば,ほとんどの創では縫合の必要性はなく,そのままでも自然治癒する,経過をみていくが,念のため,感染防止に抗生物質を投与する,と書かれた専門書もあった。一般的には,せいぜい,外傷の原因となった異物の残存の可能性を念頭に置きつつ,傷の深さ,方向等を確認するべきであると考えられていた程度であった。

もっとも,解剖学的にいえば,軟口蓋の後方には大血管や神経,頭蓋,頸椎等があり,異物が軟口蓋に刺入した場合,抽象的には,その直達力の程度,方向によってはそれらを損傷する可能性があるといい得る。

しかしながら,軟口蓋に刺入した異物が頭蓋内に至る主な可能性としては,①本件と同様に頸静脈孔を通って頭蓋内に刺入する道筋と,②頭蓋底を穿破して刺入する道筋があり得るが,①の道筋は,本件をきっかけとしてそのようなものがあり得るということが認識されたものであって,診察・治療当時においては,そのような事例はなく,そのような可能性があることさえ知られていなかった。また,②の道筋についてみると,頭蓋底は脳幹を保護するため,比較的骨の厚い部分が多いことなどから,割りばしのような異物が頭蓋底を穿破することはないだろうと考えられていた。文献上も,頭蓋底を穿破した事例の報告は見当たらず,わずかに,頭蓋の下の斜台と頸椎の境目から塗りばしが刺入した事例が「小児頭部外傷」という書物に掲載されてはいるものの,当該書物は耳鼻いんこう科の医師が一般に見るものではなかった。

加えて,割りばしが頸静脈孔に嵌入すれば,頸静脈を損傷して相当の出血が生じ,また,割りばしが頭蓋底を穿破すれば,髄液漏が生じることが十分に考えられるが,本件ではそれらの兆候はなかった。本件は,特異な例である。なお,異物が脳幹を直接損傷した場合にはほとんど即死で,非常に幸運であったとしても高度の意識障害,四肢麻痺が起きるが,患児の症状はそのような状態ではなかった。

以上のような事情を総合すると,本件の受傷機転及び創傷の部位からは,第1次・第2次救急外来の当直を担当していた耳鼻いんこう科の医師において,割りばしの刺入による頭蓋内損傷の蓋然性を想定するのは極めて困難であったと考えられる。

4(1)もっとも,患児の意識状態,おう吐の状況等は,頭蓋内損傷と深く関係していたものと推測される。そこで次に,患児の意識状態,おう吐の状況等からして,受傷機転及び創傷の部位からは想定し難い頭蓋内損傷を疑い,その確認をするべきであったといえるかどうかを検討する。

頭部外傷によってみられる症候は,年少児になるほど一律ではなくなる傾向があるものの,おう吐,意識障害,けいれん発作等が,脳の機能的変化を示す重要な症候であると考えられている。

被告人が患児を診察・治療した時点における患児の意識状態をみると,前記のとおりであって,その表情等を観察する限り,目を閉じ,発語がなく,かなりぐったりした様子であったと認められる。他方,救急隊員が患児を救急車内で観察した際には,患児は,救急隊員の問い掛けに応じて,目を開けたり,口を開けたりしたことから,意識状態は良いと判断され,また,瞳孔径や対光反射,呼吸,脈拍,動脈血酸素飽和度も正常であったため,患児のバイタルサインは正常であると引き継がれている。看護婦及び被告人が患児の軟口蓋裂傷を観察した際も,患児は,問い掛けに応じて口を開けたりしている。患児の意識状態は明瞭ではなかったが,高度の意識障害はなかったと認められる。

そして,一般に,幼小児の意識障害を把握することは容易でなく,受傷後に意識障害とは無関係に眠り込むことも多いし,暑い中で疲れたり,泣き疲れたりして,ぐったりしたり眠くなったりすることも多いとされている。

次に,患児のおう吐等の状況をみると,前記のとおり,患児は搬送中の救急車内で1回おう吐しており,被告人は,救急隊員から,その旨の情報を聞いている。一気に吹き出すように吐いたという態様は,脳の障害により頭蓋内圧が亢進して直接おう吐中枢を刺激した場合のおう吐の態様と同様であったとうかがわれる。そして,頭蓋内圧が亢進している場合にこのようなおう吐の現象が生じることは,脳外科医の中ではよく知られていた。また,患児は,病院に到着した後も,処置室の中,処置室から耳鼻いんこう科診察室への移動中,及び耳鼻いんこう科診察室の中で,何度かおえつしながら,数回おう吐をしている。ただし,その際のおう吐は,前記のような,脳の障害により頭蓋内圧が亢進して直接おう吐中枢を刺激した場合のおう吐の態様とは異なっていた。

そして,おう吐の原因としては,軟口蓋の傷自体によってもおう吐反射が起き得る上,口腔・鼻咽腔内出血やその胃内流入による舌咽・迷走神経刺激,車酔い,何らかの精神的要因等もあり得る。

そのほか,患児には,けいれん発作や片麻痺など,中枢神経に影響があった際に生じ得る他の症状は認められていない。

(2)以上によれば,被告人の診察・治療時,患児の意識は明瞭でなく,数回のおう吐も見られたが,高度の意識障害はない上,おう吐の状況も明らかに異常であるとはいえず(救急車内におけるおう吐は,前記のとおり,脳の障害により頭蓋内圧が亢進しておう吐中枢を刺激した場合のおう吐の態様と同様であったとうかがわれるが,1回限りである上,被告人が直接目撃したおう吐の状況はそのようなものではなく,耳鼻いんこう科の医師である被告人において,救急車内のおう吐の態様に注目してその点を問い質すべきであるとはいい難い。救急隊員においても,救急車内で1回おう吐した,という情報だけを引き継いでおり,単に事実経過を聞くだけでは,母親において,おう吐の具体的態様まで詳細に説明したはずであるともいい難い。),それぞれ,頭蓋内損傷以外の理由によるものと考えておかしいとはいい難い状況であったと考えられる。そして,本件の受傷機転及び創傷の部位からは,割りばしの刺入による頭蓋内損傷の蓋然性を想定するのは極めて困難であったのは,前記のとおりである。

(3)以上からすれば,被告人において,割りばしの刺入による頭蓋内損傷の蓋然性を想定して,その点を意識した問診をするべき義務があるとはいい難い。また,仮に被告人が,患児の受傷時の状況やその後の経緯をより詳しく母親に問診したとすると,たけのこ園の土の中庭を走っていた際,前のめりに倒れて割りばしをのどに刺したが,割りばしは自分で抜いた,倒れた直後には意識がないような状態になったが,看護婦があごを引くと大声で泣き出した,たけのこ園の保健室では,おう吐や吐き気は無かった,救急車で搬送されていた際に吐いた,といったような情報の全部又はその一部が得られた可能性があるものの,これらの情報の一部から直ちに頭蓋内損傷を疑うべきであるとはいい難い上,母親の原審供述によれば,母親は,割りばしの一部が患児の体内に残っている可能性があるということを全く考えておらず,また,救急隊員に対して患児が受傷直後に意識がなかったと話していないのは,生徒等がスポーツ等で瞬間的に脳震盪を起こしても,比較的直ぐに意識を取り戻すことがあるので,その間の一時的なことを重要視しなかった可能性がある,というのであるから,果たして,頭蓋内損傷の可能性を具体的に疑うに足りるほどの情報が得られたかどうかは明らかでない。

5 さらに,本件では,患児は,前記のとおり,翌朝には病状が急変して死亡するに至っているのであるから,今後の経過を観察し,翌日以降に,その後の変化をも考慮して病名等の診断をしていたのでは,結果を回避することができなかった。また,死因が何であれ,後記のとおり,被告人が患児を診察した際に,ファイバースコープを用いたのでは割りばしが頭蓋内損傷を引き起こしているのに気付き得ないのであるから,診察時の情報のみから,直ちに頭蓋内損傷を疑って,患児の脳に対してCT検査やMRI検査を行わない限り,結果を回避する余地がなかった。

そうなると,被告人が問われている,頭蓋内損傷を疑い,これを確認するべき注意義務というのは,結局,第1次・第2次救急の耳鼻いんこう科の当直医として患児を初めて診察した段階で,直ちに頭蓋内損傷を疑ってCT検査やMRI検査をするべき義務に他ならないこととなる。

患児の意識状態が明瞭でなく,数回のおう吐等がされているものの,明らかに異常なものとはいえず,本件の受傷機転及び創傷の部位からは,割りばしの刺入による頭蓋内損傷の蓋然性を想定するのは極めて困難であるし,当時,口腔内損傷に対する診察・治療に関しては,その診療指針や診療標準は確立しておらず,口腔内の刺創,裂創の救急治療の手順について,まず止血を行い,異物が創内にあれば除去が必要であるものの,止血されていれば,ほとんどの創では縫合の必要性はなく,そのままでも自然治癒するなどと書かれた専門書もあることは,前記のとおりである。加えて,五木医師は,原審公判において,埼玉医科大学総合医療センターの救命救急センターにおいては,年間4万6000人の救急患者のうち口腔内を刺した人が年間30ないし40人くらいいるが,本件以前には1度もCT撮影をしていなかったものの,本件以降になって必要に応じて撮影するようになった,と供述している。

以上のような事情からすると,当時の医療水準に照らした場合,被告人に対し,第1次・第2次救急の耳鼻いんこう科の当直医として患児を初めて診察した段階で,直ちに頭蓋内損傷を疑ってCT検査やMRI検査をするべき注意義務がある,とするのは困難というほかない。

第4  結果回避可能性ないし被告人の不作為と患児の死亡との因果関係

ところで,仮に被告人において検察官が訴因として主張する行為をしていた場合に,患児の救命あるいは延命が合理的な疑いを超える程度に確実であったということができるかについて,念のため更に検討する。

患児の死因については,前記のとおり,静脈還流障害がなく,あってもその影響はほとんどなく,割りばしの刺入による左小脳実質の直接損傷(浮腫)と後頭蓋窩の血腫が頭蓋内圧を亢進させて,小脳扁桃ヘルニア,上行性テント切痕ヘルニアを引き起こし,脳幹を圧迫して患児を死亡させたのか,それとも,左頸静脈の損傷で,血栓が形成され,静脈が完全に閉塞することによって静脈還流障害が生じ,脳浮腫,脳腫脹を発生させて死亡させたのか,を特定することができない。

そして,左静脈洞が優位であったために静脈還流障害が生じ,これが死因に直接的に影響していたとすれば,患児を救命あるいは延命するためには,頸静脈孔付近で損傷した血管を復元し,左頸静脈洞の血流を維持しなければならないが,そのような手術に成功する可能性は極めて少ないと考えられる。後頭蓋窩の血腫等を除去しただけでは,患児の急性期の死の危険を回避することができたはずである,といい得ない。したがって,前記のとおり,左静脈洞が優位であったために静脈還流障害が生じ,これが死因に直接的に影響した可能性が十分にある以上,患児の救命はもちろん延命も合理的な疑いを超える程度に確実であったということはできない。

また,仮に,静脈還流障害は死因となっておらず,割りばしの刺入による左小脳実質の直接損傷(浮腫)と後頭蓋窩の血腫が頭蓋内圧を亢進させて,小脳扁桃ヘルニア,上行性テント切痕ヘルニアを引き起こし,脳幹を圧迫して患児を死亡させた場合であっても,患児の救命ないし延命のためには,患児の頭蓋内で発生している症状等を正しく把握し,それに応じた適切な処置をしなければならないが,その道程は単純ではない。

検察官は,頭蓋内損傷を確認する方法として,①上咽頭部をファイバースコープで観察し,又は,②CTスキャンで撮影するなどして,頭蓋内損傷を確認するべきである,と主張する。他方,原判決は,①自らファイバースコープで上咽頭部を検査して異物の残存の有無や傷の深さ,方向を確認し,又は,②脳神経外科医に相談して頭部のCT検査の実施が相当であるとの判断に達すれば,その実施を脳神経外科医に依頼するべき義務がある,という。

v耳鼻いんこう科の医師において,異物の残存の有無や傷の深さ,方向を確認するために,ファイバースコープを用いるべきである,というのは合理性がある。

ところが,本件において,ファイバースコープを用いて上咽頭腔を観察すると,前記のとおり,割りばしは,上咽頭腔を経由することなく,軟口蓋から側面の筋層(副咽頭間隙)を経て頸静脈孔に至っているのであるから,割りばしは軟口蓋から上咽頭腔へ貫通した兆候はない,という事実が判明することになる。救急隊員からは,割りばしは患児が抜いて,既に抜けているという情報を引き継いでおり,実際に口内を観察しても,軟口蓋の傷は小さく,浅そうに見え,既に止血していたというのであるから,これらの事情とファイバースコープによる所見を総合的に考察すれば,割りばしによる傷の深さは,上咽頭腔には抜けない程度であったとの判断に至ったとしても不合理であるとはいえない。検察官の請求証人である九重保男医師(耳鼻いんこう科教授)も,検察官の設定事実を前提にした上で,自分であれば,ファイバースコープで検査を行い,軟口蓋から咽頭腔へ割りばしが貫通していなければ,経過を見るであろう,と述べている。

そうなると,この場合も,結局,翌朝に症状が急変するまで割りばしの刺入による頭蓋内損傷に気付かず,患児の救命はもちろん,延命もできなかった可能性が十分にある,ということになる。

さらにCT検査を行った場合であっても,割りばしそれ自体をCTで読み取ることはできず,割りばしの経路に沿った出血とその付近に空気が入っていることが読み取り得るにすぎない。そして,軟口蓋に刺さった割りばしが頸静脈孔を通って頭蓋内に刺入する経路があり得るという点については,本件以前にそのような事例がなく,そのような可能性があることさえ知られていなかったのであるから,割りばしが頸静脈孔を通って頭蓋内損傷を生じさせた,という診断に至るまでに,かなりの検討を要すると考えられる。その診断に至ったとしても,その後に手術を行う前提としては,割りばしが脳内に残っているのかどうかを判断する必要があり,そのためには,MRI検査をしなければならないことになる。当時,MRI検査はかなり特殊で,MRI検査をするべき緊急の必要性があってもそれに対応することができる態勢を取っていた病院は非常に少なく,杏林大学医学部附属病院においても,救命救急センター自体にはMRIがなく,本件のような土日の救急態勢においては日常的に検査を行うようにはなっておらず,強い緊急の必要性があって特別の要請をすれば行い得るという状態であった。そして,患児の意識状態は当日の土曜日の段階ではそれほど悪化していない上,救急隊員から割りばしは抜かれているという情報が伝えられていたことなどからすると,直ちにMRI検査の特別の要請を行わず,差し当たり,CT検査の状態や意識状態の変化を見ながら,減圧手術の時期等を検討するという選択をしたとしても,直ちに不相当であるとはいい難い。CT検査の状態や意識状態の変化を見ながら,減圧手術の時期等を検討するという選択をした場合,一般には,ヘルニアは徐々に進行し,意識レベルも少しずつ悪化していくため,手術の時期を見誤るというのは少ないものの,まれには,急激に変化して時期を見定めにくい事例があるとされている。本件の場合,翌朝に症状が急変していることからすると,例外的な事例に該当して,手術の時期を失した可能性もある。

これらの事情からすれば,CT検査をしていたとしても,患児の救命はもちろん,延命も合理的な疑いを超える程度に確実に可能であったということはできないというほかない。

第5  結論

以上によれば,被告人には,頭蓋内損傷を疑ってこれを確認するべき注意義務がある,とはいえず,また,被告人が訴因に記載された行為をしていたとしても,患児の救命・延命が合理的な疑いを超える程度に確実に可能であったとは到底いえないから,被告人には,業務上過失致死罪は成立しない,というべきである。

論旨は理由がない。

よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 阿部文洋 裁判官 吉村典晃 裁判官 堀田眞哉)

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