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東京高等裁判所 平成18年(ネ)440号 判決 2006年10月18日

控訴人・被控訴人(一審原告)

A野花子(以下「一審原告」という。)

訴訟代理人弁護士

高見澤昭治

齋藤雅弘

野間啓

関口正人

廣瀬健一郎

他18名

被控訴人・控訴人(一審被告)

株式会社 三井住友銀行(以下「一審被告」という。)

代表者代表取締役

奥正之

訴訟代理人弁護士

島田邦雄

八木宏

石川智史

栗原さやか

主文

一  一審原告の控訴を棄却する。

二  原判決中一審被告敗訴部分を取り消し、同部分に係る一審原告の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審とも一審原告の負担とする。

事実及び理由

第一控訴の趣旨

一  一審原告

(1)  原判決主文第一項及び第二項を次のとおり変更する。

一審被告は、一審原告に対し、一二〇六万円及びこれに対する平成一六年一一月九日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

(2)  訴訟費用は、第一、二審とも一審被告の負担とする。

(3)  (2)につき、仮執行宣言

二  一審被告

主文第二、第三項と同旨

第二事案の概要

一  本件は、銀行である一審被告の多摩支店に普通預金口座及び貯蓄預金口座(以下、それぞれ「本件普通預金口座」及び「本件貯蓄預金口座」といい、各口座に係る預金を「本件普通預金」及び「本件貯蓄預金」という。)を有していた一審原告が、各預金の通帳及び届出印を窃取され、その窃取者(以下「本件窃取者」という。)から依頼を受けた者によって、平成一二年六月六日、一審被告立川支店において、本件普通預金口座から三六万円、本件貯蓄預金口座から七〇万円が各払い戻され(以下「本件払戻し1」という。)、さらに、同月七日一審被告新宿西支店において、本件普通預金口座から一一〇〇万円が払い戻された(以下「本件払戻し2」という。)ことについて、これらの各払戻しはいずれも無権限者による無効なものであるから払戻しに係る預金がなお存在していると主張し、一審被告に対して、上記各払戻しに係る預金合計一二〇六万円の払戻し及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一六年一一月九日から支払済みまでの商事法定利率による遅延損害金の支払を求めた事案である(本件払戻し1及び2に係る預金の支払を請求するもので、その余の現在の口座残金の払戻しを請求するものではない。)。

なお、本件払戻し2に係る一一〇〇万円は、本件窃取者から依頼を受けた者が、本件払戻し2の約四〇分前ころ、住友信託銀行新宿支店において、一審原告の夫A野太郎(以下「太郎」という。)名義の定期預金を解約して、利息を含めた解約金一一〇〇万七四〇四円を本件普通預金口座に振込送金した(以下「本件振込み」という。)ものの一部である。

一審被告は、各払戻しについて、預金通帳及び届出印等を用いて払戻しが行われたことを理由として民法四七八条による免責及び預金規定中の免責条項による免責を主張したほか、本件普通預金一一〇〇万円の払戻請求について、本件振込みに係る預金は出捐者たる本件窃取者に帰属するから、一審原告が上記預金の払戻しを請求することができないと主張した。

原審は、本件払戻し1については民法四七八条により有効な弁済と認めたが、本件払戻し2については上記一一〇〇万円が一審原告の預金となったことを認定の上、払戻しを行った担当者に過失があるとして民法四七八条による免責を認めず、本件普通預金一一〇〇万円の払戻請求を認容した。これに対して、一審原告、一審被告の双方が控訴した。

二  前提事実、争点及び当事者の主張は、次のとおり原判決を訂正し、当事者の当審における主張を付加するほか、原判決「事実及び理由」第二の一及び二に摘示されたとおりであるから、これを引用する。

(1)  原判決の訂正

ア 原判決五頁一三行目から一九行目を次のとおり改める。

「イ 一審被告の主張

預金者の認定においては、出捐者を預金者とするいわゆる客観説によるべきところ、本件振込金一一〇〇万円は、本件窃取者が、太郎の定期預金の払戻しにより払戻金を取得し、これを出捐して本件普通預金口座に振り込んだものであるから本件振込金により成立した預金一一〇〇万円は本件窃取者が預金者となる。

また、出捐者の認定を行わずに預金債権の帰属を判断している近時の判例に示された判断基準に照らしても、本件普通預金口座の管理者は、本件振込みの時点では、通帳及び届出印の保管者をもって認定すれば本件窃取者であり、同口座への入出金を行っているものが誰かという観点から見ても同様であるから、本件普通預金中本件振込金一一〇〇万円による部分が本件窃取者に帰属することは明らかである。」

イ 原判決八頁一六行目から一七行目の「銀行の預金払戻しの注意義務については、」から同頁一九行目から二〇行目の「過去の取引履歴から見て突出した金額である場合、」までを次のとおり改める。

「本件各払戻し時点における銀行の預金払戻しの注意義務については、定期預金、定期積立の解約(限度額近い預金担保貸付も含む。)の場合、払戻請求額がおおむね五〇万円以上の場合、払戻請求額が預金残高の大部分を占める場合あるいは過去の取引履歴から見て突出した金額である場合のいずれかの類型の払戻しであるとき(これらの場合は払戻請求が正当権限を欠いていることを疑わせる具体的な事情(いわゆる「現場不審事由」)の存否に関係なく)、」と改める。

ウ 原判決九頁五行目から一〇頁七行目までを次のとおり改める。

「(イ) 本件払戻し1における具体的な事情

本件払戻し1においては、払戻請求額が合計一〇六万円と高額であること、過去には見られない他店での口座残高の大部分の払戻し(本件普通預金口座)及び従来の金銭自動支払機によるものではない窓口での半額に近い高額の払戻し(本件貯蓄預金口座)であること、複数の口座の通帳等を持参した一括の払戻請求であること、閉店間際の払戻請求であること、払戻しを請求したB山松子(以下「B山」という。)の外観は三〇歳代か四〇歳代であり、口座名義人である一審原告の年齢(当時五八歳)とかけ離れていること、口座名義人が記載した印鑑届(乙七)の筆跡と払戻請求書(乙四、五)などの筆跡が明らかに異なり、口座名義人でない者が窓口に来ていることを一審被告立川支店の窓口担当行員として本件払戻し1の手続を担当したC川竹子(以下「C川」という。)が認識できたこと(画像データを参照して印影照合をするために届出印の印影を画像表示した際に、印鑑届記載の事項も同様に画像表示されるので、そこに記載された口座名義人の署名もそのまま表示されて目にすることになり、払戻請求書との対照が可能である。)、払戻請求者が、同時に行った一審原告の子であるA野一郎(以下「一郎」という。)名義の普通預金口座から太郎名義の普通預金口座への振替えについて、男性名義の預金口座の女性による請求であったこと及び口座を開設している銀行と同一銀行での取引であるのに振替えの手続を全くわからずに質問していること、並びに、本件普通預金口座についても、本件貯蓄預金口座についても、過去に、他店における払戻しがなかったことからすれば、払戻請求者には預金の払戻請求を行う正当な権限がないことが十分に疑われた。

また、前記のとおり、平成一〇年頃からは、印影照合の預金払戻権限確認機能が喪失していた状況にあったから、多少なりとも正当権限に疑いを抱かせる可能性がある事情が認められる限り、銀行は、印影を照合するだけでは足りず、前記(ア)と同様の方法により、払戻請求者が正当な権限を有するかどうかを確認すべき注意義務があるところ、上記各事情は、少なくとも正当権限に疑いを抱かせる可能性がある事情であったといえる。

しかるに、払戻担当者のC川は、通帳の名義人と持参人が同性の場合には、同一人物であるという前提に立ち、払戻請求者との応対をしていたものであり、無権限者による払戻しを防止するため払戻請求者の権限を確認する窓口担当者としての職務上の義務を放棄しているに等しいいい加減な姿勢で払戻手続を敢行したものであり、そのため、払戻請求者の無権限を窺わせる事情に目が届かず、また、他の権限確認方法をとらずに印影照合のみにより払戻しを行ったものであり、C川による払戻手続には重大な過失があるから、民法四七八条によっても有効な弁済とはいえない。

(ウ) 本件払戻し2における具体的な事情

本件払戻し2においては、一一〇〇万円の高額の払戻請求であること、この額は本件普通預金口座のほぼ全額に当たること、直前に同口座に入金された額を現金で払戻しを請求する異常な態様の払戻請求であること、連日にわたる他店における払戻請求であること、一審被告新宿西支店の窓口担当行員として本件払戻し2の手続を行ったD原梅子(旧姓「B野」。以下「D原」という。)が払戻請求者らにキャッシュカードの暗証番号を記載させたところ三度とも間違えた番号を記載したこと、D原は、取引履歴を確認することにより、預金者は、わずか半年前にも暗証番号を入力して預金自動支払機により預金を引き出しており、暗証番号を記憶しているはずであることを認識していたとみられること、払戻請求者は払戻しの目的としてマンション購入の頭金に充てる旨の説明をしたが、不動産取引において一一〇〇万円もの高額の現金による決済は不自然であり、また、頭金としては高額すぎることは銀行員には容易に認識し得るはずであること、払戻請求に同行していたB山が、D原から同請求への対応を引き継いだE田春夫(以下「E田」という。)から写真添付の身分証明書の提示を求められると、あっさりと払戻請求を諦める態度を示した一方で、払戻請求者のA田において「もし、この契約が不成立となった場合、銀行としてどの様に責任を取るのですか。そうなったら損害賠償を請求しますよ。」とE田に迫った経緯があるところ、損害賠償という言葉すら口に出すほど当日に一一〇〇万円を手にすべき事情があるはずなのに、B山があっさりと払戻しを受けるのを諦める言動を行っていることの不自然さは際だっていることなど、不正請求であることを強く疑わせる事情が存在していた。したがって、D原及びE田は、写真付きの身分証明書の提示を受けるなど払戻請求者の身分確認を十分に行うべきであったのにこれを行わないまま払戻請求に応じたものであり、同人らによる払戻手続には重大な過失があるから、民法四七八条によっても有効な弁済とはいえない。」

(2)  一審被告の当審における主張

ア 権利の濫用(本件払戻し2に係る預金支払請求につき)

本件振込みは、本件窃取者が太郎名義の預金の払戻しにより取得した資金を送金したものであって、振込人は本件窃取者であり、太郎は振込人として名義を冒用されたにすぎない。

仮に、本件振込みにより一審原告が振込金について預金債権を取得するとしても、本件振込みの依頼人である本件窃取者は、本件普通預金口座の預金通帳及び届出印を事実上管理していたことから、自らが受け取ることを意図して本件振込みを行っており、本件振込金を一審原告に受け取らせる意図はなかったことは明らかである。そして、振込依頼人である本件窃取者と一審原告との間に本件振込みの原因となる法律関係は存在しないことも明らかである。よって、本件振込みは、誤振込みと同様に、受取人となった一審原告において、これを振込依頼人に返還しなければならず、振込金相当額を最終的に自己のものとすべき実質的権利はないから、一審被告に対して、本件振込みに係る預金の払戻請求を行うことはできない。

なお、太郎が住友信託銀行に対する一一〇〇万円の預金払戻請求を維持していることからすれば、太郎が本件振込みを追認したと認める余地もない。一審原告と太郎との人的関係や一審原告に不法領得の意思があるかどうかは、権利の濫用の評価を妨げる事由ではない。よって、本件振込みの振込人が太郎であることを前提とする一審原告の反論は理由がない。

イ 過失相殺(本件払戻し2に係る預金支払請求につき)

仮に、本件振込みにより一審原告が預金債権を取得し、かつ、本件払戻し2が債権の準占有者に対する弁済と認められないとしても、一審原告の預金通帳及び届出印の管理は、預金通帳と届出印を同時に窃取されるような管理状況であったことからすれば、預金者に求められる管理として著しく不十分であったといえること、また、本件払戻し2は、本件普通預金口座が本件窃取者によって不正払戻金の受け皿として用いられたことについては、一審原告の過失は極めて重大であることからすれば、民法四一八条の類推適用により、大幅な過失相殺による減額が認められるべきである。

ウ 一審原告の帰責事由の不存在の主張(後記(3)ア)に対する反論

民法四七八条の要件として、わが国の通説は債務者の帰責事由を要求することなく外観法理を徹底しており、一審原告の主張は独自の見解であり失当である。

(3)  一審原告の当審における主張

ア 帰責事由の不存在

無権限者に対する預金払戻しが民法四七八条により有効になるための要件としては、預金者の帰責事由を必要とすると解するべきである。本件において一審原告には帰責事由がないので、本件各払戻しについて、一審被告に対し民法四七八条による免責を認める要件を欠いている。

イ 一審被告の権利の濫用の主張(前記(2)ア)に対する反論

一審被告の主張する事実は、同請求が権利の濫用に当たることを何ら根拠づけるものではない。

一審原告は、本件振込みに係る一一〇〇万円の被害者である太郎の妻であって、同人の承諾を得て、被害回復の手段として、一審被告から払戻しを受けた金員を夫である太郎に返還することを目的として本件払戻請求を行っているのであり、預金払戻請求者である一審原告と本件を誤振込みとみた場合の誤振込人に当たる太郎との関係の特殊性及び払戻請求者である一審原告に不法領得の意思がないことを勘案すれば、本件振込金による預金の払戻請求が権利濫用に問われることはない。

一審原告の夫である太郎の名義の口座から一審原告の本件普通預金口座に振り込まれた金員について、太郎の妻である一審原告が、無権限者により出金された夫の預金を回復する目的で太郎の承諾を得て一審被告に払戻請求をしているのであるから、一審原告の請求は、実質的には、本件普通預金口座に振り込まれた金員について本来返還を受けるべき太郎による払戻請求と同視すべきであり、権利の濫用に該当することはない。

ウ 一審被告の過失相殺の主張(前記(2)イ)に対する反論

一審原告は、無権限者による払戻しに関与しておらず、通帳と届出印を自宅から盗まれたにすぎないのであり、このような一審原告との関係で過失相殺の規定の類推適用を認めることは公平を欠くので不相当である。

第三当裁判所の判断

一  事実関係

《証拠省略》によれば、本件の事実経過として、以下の事実を認定することができる。

(1)  本件窃取者(C山夏夫ことD川夏夫及び氏名不詳の男性一名)は、平成一二年六月六日午前四時ころ、一審原告の自宅に侵入し、本件普通預金及び本件貯蓄預金の各通帳(以下、それぞれ「本件普通預金通帳」、「本件貯蓄預金通帳」といい、これらを併せて「本件各通帳」という。)、これらの通帳に係る銀行届出印(以下「本件印鑑」という。)、太郎名義の住友信託銀行新宿支店の定期預金通帳二通(預金元本額一〇〇〇万円及び一一〇〇万円)、同通帳に係る銀行届出印、太郎名義の国民健康保険証(以下「本件保険証」という。)並びに一郎名義の普通預金通帳等を窃取した。

(2)  B山は、本件窃取者から依頼を受け、平成一二年六月六日午後二時三〇分ころ、一審被告立川支店において、「A田花子」と署名し本件印鑑を押印した本件各口座に係る払戻請求書及び本件各通帳を提示して、本件普通預金(残額三六万〇八五一円)について三六万円、本件貯蓄預金(残額一五五万〇四三一円)について七〇万円の払戻しを請求した。上記支店の窓口担当行員のC川は、受領した払戻請求書について一審被告への届出印と印影照合を行い、一致したとの判断の下に、上記各預金の払戻手続を行い、払戻金として現金合計一〇六万円を交付した(本件払戻し1)。

なお、B山は、上記払戻しと同時に、一郎名義の普通預金から二四万九〇〇〇円(残高二四万九五六一円)を一審被告多摩支店の太郎名義の普通預金口座に振り替えようとしたが、その方法がわからなかったため、C川に対してその方法を質問し、C川から払戻用紙と預入用紙に記入するよう教示を受けて、一郎名義の普通預金二四万九〇〇〇円の払戻しを行い、太郎名義の普通預金口座にこれを入金した。

(3)ア  B山、A田秋子(以下「A田」という。)及びE原冬夫は、本件窃取者から依頼を受けて、同月七日午後一時五〇分ころ、住友信託銀行新宿支店において、太郎名義の前記二通の定期預金通帳を示して各預金を解約し、元金一一〇〇万円の定期預金の利息を含めた解約金一一〇〇万七四〇四円を本件普通預金口座に振込送金した。

イ  B山及びA田は、本件窃取者から依頼を受けて、同日午後二時二九分ころ、一審被告新宿西支店において、「A野花子」と署名し本件印鑑を押印した本件普通預金口座に係る払戻請求書及び本件普通預金通帳を提示して、本件普通預金口座(同時点の残高一一〇〇万八二五五円)から一一〇〇万円の払戻しを請求し、その支払を得た。その際の状況は以下のようなものであった。

ウ  窓口担当行員のD原は、一審被告の当時の事務取扱指導に基づき、上記払戻請求書に押印された印影につき届出印との照合を行い、A田に対し、上記払戻請求書への住所の記入及び身分を証明する書類の提示を求め、また、家族構成及び払戻金の使途を尋ね、さらに、本件普通預金口座の暗証番号を紙片に記入の上提示するよう求めた。これに対し、A田は、一審原告の住所を正しく記入し、本件保険証を提示し、一審原告の正確な家族構成を答えたが、暗証番号として提示した三種類の番号は、いずれも本件普通預金口座の暗証番号と合致しないものであった。その後、D原は、上記払戻請求への対応を上司のE田に引き継いだ。

E田は、払戻請求者が提示した暗証番号が本件普通預金口座の暗証番号と合致しなかったことを聞き知り、一審原告の自宅に数回電話をかけたが、応答がなかった。また、E田は、B山及びA田に対し、払戻金の使途について質問したところ、A田は、娘のマンションの購入資金の頭金にする旨回答した。さらに、E田は、払戻請求額が高額であることを指摘し、A田及びB山に写真付きの本人確認書類の提示を求めたところ、B山及びA田はこれに応じず、A田は、同マンションの売買契約が不成立になった場合に一審被告に対して損害賠償を請求する旨申し向けた。そこで、E田は、B山らに対し、一審原告の家族構成や原告の夫の生年月日を尋ねると、B山及びA田がこれを正しく答えたこと、提示を受けた本件保険証によってA田の外見が一審原告の年齢と照らして不自然ではないと思えたことなどから、E田は払戻請求に応じることとし、B山及びA田に対し、現金合計一一〇〇万円を交付した(本件払戻し2)。

二  本件払戻し1に係る預金の支払請求について

(1)  本件免責条項による免責について

当裁判所も、一審被告の預金の払戻担当者がその状況に応じて社会通念上期待される確認措置をとることを怠った場合には本件免責条項によって当然に免責されることはないものと判断する。その理由は、原判決「事実及び理由」第三の三に説示されたとおりであるから、これを引用する。

(2)  民法四七八条の適用について

ア 預金者の帰責事由の要否

民法四七八条の適用の要件として、弁済者の善意、無過失に加え、預金者に帰責事由が存在することが必要であるとする一審原告の当審における主張(前記第二の二(3)ア)は、独自の見解であり、採用できない。

イ 一定の類型の払戻請求における払戻権限の確認義務

一審原告は、払戻請求額がおおむね五〇万円以上の場合等の一定の類型の払戻しである場合には、払戻請求が正当権限を欠いていることを疑わせる具体的な事情の存否に関係なく、銀行が当該請求について払戻権限を確認するためには、印影照合のみでは足りず、筆跡照合や払戻請求者に預金口座のキャッシュカードの暗証番号を確認すること等の措置を取るべき注意義務がある旨主張する。しかし、当裁判所も同主張を採用することはできないと判断する。その理由は、原判決「事実及び理由」第三の四(1)に説示されたとおりであるから、これを引用する。

ウ 本件払戻し1についての民法四七八条の適用

(ア) 当裁判所も本件払戻し1においては、払戻請求者に払戻権限を有することを疑わせる特段の事情があったとは認められず、同払戻しは民法四七八条の要件を満たす弁済として有効な払戻しと認めることが相当であると判断する。その理由は、原判決一五頁九行目から一四行目を次のとおり訂正するほか、原判決「事実及び理由」第三の四(2)ア、イに説示されたとおりであるから、これを引用する。

「また、窓口行員が操作するコンピュータ端末で従前の支払履歴が確認でき、従来の出金が取扱支店であり、あるいは金銭自動支払機によるものであったとしても、日常的入出金を予定する普通預金又は貯蓄預金の性質上、これらの事情が直ちに預金者本人を疑わせる事情とはいえず、払戻請求者(B山)の外観が三〇歳代か四〇歳代に見え(甲八一及び弁論の全趣旨)、口座名義人である一審原告の年齢(当時五八歳)とかけ離れていた点及び払戻請求書の筆跡が口座名義人が記載した印鑑届の筆跡と異なっていた(乙四、五、七)点についても、前記のように払戻請求者が口座名義人本人であることを疑うべき特段の事情が認められない以上、C川において払戻請求者の年齢や筆跡を確認すべきであったということはできない。」

(イ) 一審原告は、本件払戻し1の手続を担当した一審被告の行員のC川が、通帳の名義人と持参人が同性の場合には、同一人物であるという前提に立ち、払戻請求者との応対をするという、無権限者による払戻しを防止するための払戻請求者の権限の確認を十分に行わない姿勢で執務していたと主張する。

確かに、C川の警察官に対する供述調書(甲八一)には、「通帳の名義人と持参人が同性の場合には、それが同一人物であるという前提に立ち、通帳に押された印影と払戻請求書などに押された印影が同一であるかどうかを確認するのです。」という供述の記載が見られる。しかし、これに引き続き「それが同一であり、他に特に不審点がなければ、その通帳の名義人本人であると判断し、要求に基づく現金を準備してお支払いする等の手続きを行うのです。」として、念のため住所確認をした旨の供述が記載されており、前者の場合でも払戻請求に特段の不審点がないかどうかを注意していることが認められるから、前者の供述は、通帳の持参人が名義人と同性の場合には払戻権限の確認を行わないこととする趣旨の供述とは解されず、当該供述からC川が一審原告指摘の姿勢で執務していた事実を認めることはできない。

(ウ) なお、一審原告は、本件各払戻し当時は印影照合の預金払戻権限確認機能が喪失していた状況にあったから、払戻請求者が払戻権限を有することを疑わせる特段の事情があったとまでは認められなくても、上記疑いを抱かせる可能性がある事情が存在する限り、銀行には、預金払戻請求者の権限を確認するためには印影を照合するだけでは足りず、筆跡照合や暗証番号の確認等のより厳格な方法により、払戻請求者が正当な権限を有するかどうかを確認すべき注意義務があったと主張するが、前記イと同様の理由により、同主張を採用することはできない。

エ よって、一審原告の本件請求中、本件払戻し1により払戻しされた各預金の支払請求は理由がない。

三  本件払戻し2に係る預金の支払請求について

(1)  本件振込金による預金債権の帰属

当裁判所も、一審原告の本件普通預金口座に本件窃取者が振り込んだ本件振込金一一〇〇万円について、本件窃取者を債権者とする預金債権が成立することはなく、本件普通預金口座に振り込まれたことにより本件普通預金の一部として一審原告に帰属したと解することが相当であると判断する。その理由は、原判決「事実及び理由」第三の二に説示されたとおりであるから、これを引用する。

普通預金契約の実質は、変動する預金残高の限度における期限の定めのない消費寄託契約を中核としつつ、預金者に対して決済機能を有する口座を提供する包括的な契約であるといえるから、原判決において説示されたとおり、普通預金においては、口座開設時の預金者がその後の預入金を含めた預金全体について預金者となると解すべきである。したがって、普通預金口座に入金される個々の入金について別個の預金債権が成立し得ることを前提とし、本件振込金について本件窃取者を債権者とする預金債権が成立するとする一審被告の主張はその前提を欠き採用できない。なお、本件窃取者は、自己のために普通預金契約を成立させるために本件振込みをさせたものではなく、一審原告を騙る者による払戻しを企図し、一審原告の本件普通預金口座での預金成立を意図して本件振込みをさせたものというべきである。

(2)  一審原告の請求根拠について

上記のとおり本件振込みに係る金銭は本件普通預金を構成するものとして一審原告に属すると解すべきであるが、一審原告が払戻しを受けるべき正当な利益を欠くときは、その払戻請求は権利濫用として許されないものと解すべきである。

これを本件についてみると、本件振込みに係る普通預金は、それが成立した時点においては、一審原告において振込みによる利得を保持する法律上の原因を欠き、一審原告は、この利得により損失を受けた者へ、当該利得を返還すべきものである。なお、本件振込みによる財貨の移転は振込名義人たる太郎の意思に基づかないものであり、その原因は権限のない本件窃取者による太郎の定期預金の解約払戻し・振込みという行為によるものであり、太郎は、本件窃取者による同人の住友信託銀行の定期預金一一〇〇万円の払戻しについて同銀行が免責される場合においては、本件窃取者に対して同額の不当利得返還請求権を取得し、さらに、現に法律上の原因なしに自己の損失により生じた利得を現に保持する一審原告に対しても、法律上の原因のない財貨の移転が連続し、損失と現在の利得との間に因果関係が認められる場合であるとして、本件振込金相当額の不当利得返還請求権を取得する地位にあると解される。すなわち、一審原告としては、本件振込みに係る普通預金につき自己のために払戻しを請求する固有の利益を有せず、これを振込者(不当利得関係の巻戻し)又は最終損失者へ返還すべきものとして保持するに止まり、その権利行使もこの返還義務の履行の範囲に止まるものと解すべきである。そして、この権利行使の方法は、特段の事情がない限り、自己への払戻請求ではなく、原状回復のための措置をとることにあると解すべきものである(最高裁判所平成一五年三月一二日判決・刑集五七巻三号三二二頁参照)。

もっとも、上記説示は、一審原告が不当利得返還義務を負っている場合に関するものであるところ、本件振込みの約四〇分後にされた本件払戻し2により、これに全く関知しない一審原告の利得(本件普通預金口座残額の増加)は消滅した(本件では一審原告が利得した預金と本件払戻し2により喪失した預金との同一性が認められるから、金銭の交付によって生じた利益に関する現存の推定は働かない。)。そうすると、一審原告には不当利得の返還義務の履行のために保持すべき利得(預金残高)も存在しないというべきである。この法律関係は、本件払戻し2につき一審被告に過失がある場合でも生ずるものであり、一審被告に過失があったとしても、それは不当利得返還に応じ得たという一審原告の立場を侵害するものであって、一審原告が有した預金払戻請求権を侵害するものではない(本件払戻し2の効果を否定して、不当利得返還義務を復活させることをもって、一審原告の一審被告に対する法的利益ということはできない。)。

そうすると、一審原告による本件普通預金中本件払戻し2に係る部分の払戻請求は、一審原告固有の利益に基づくものではなく、また、不当利得返還義務の履行手段としてのものでもないから、一審原告は払戻しを受けるべき正当な利益を欠くこととなり、権利の濫用に該当すると解すべきである。

なお、一審原告は、太郎に依頼されて同人の被害回復のために本件払込金に係る預金の払戻しを請求しているものであり、実質的には太郎による払戻請求と同視すべきである旨主張する。しかし、一審原告は太郎と別個の法的主体であって、一審原告が勝訴して上記金員の払戻しを受けた場合に、これが同人に当然に交付されるという法的な保障はなく、太郎の一審原告に対する不当利得返還請求権も本件振込金が本件窃取者によって入金後間もなく払い戻されたことによって消滅したものと解されるから、太郎と一審原告との身分関係又は一審原告の本訴追行の意図は、一審原告の一審被告に対する一一〇〇万円の払戻請求を許容する根拠とはならない。

(3)  なお、本件事案の実質的被害者である太郎の立場からの検討をする。

本件振込みに際しての太郎の定期預金の解約・払戻しにつき住友信託銀行に過失があったと判断される場合には、太郎の定期預金払戻請求権は失われず、この請求と別に、一審原告の一審被告に対する預金払戻請求を認容する場合には、実体法的には、太郎の住友信託銀行に対する請求と一審原告の一審被告に対する請求という両立できない債権を肯定することになるが、このような債権者と債務者とを異にする複数債権の不真性連帯関係は予定されていない。仮に太郎の住友信託銀行に対する請求が認容される場合には、一審原告の一審被告に対する本件請求を行使しないとすることが、太郎及び一審原告の意思であるとすれば、本件請求は別件訴訟の敗訴を条件とする不確定な請求ということになる。

他方、本件振込みに際しての太郎の定期預金の解約につき住友信託銀行に過失がなかったと判断される場合には、法的には本件窃取者からの回収リスクは太郎が負担すべきものと判断されたことになる。この場合に、本件窃取者が定期預金の解約金を一審被告における一審原告の普通預金口座に入金し、一審原告が太郎の妻であることから、当該普通預金の払戻しがされる前であれば、一審原告との協力により容易に被害の回復が可能な事態が生じた。しかし、この場合の太郎の被害回復への期待は本件窃取者が窃取金を太郎の権利行使が容易な方法で保管したことから生じた事実上の期待というべきである。このことは、太郎と何の関わりもない第三者の普通預金口座に、その者が関知しない間に、本件窃取者により窃取金が振り込まれ、払い出された場合を想定すれば、自己の預金口座を財貨の移転経路に利用されただけの当該第三者に不当利得の返還を求め得べきものではなく、また、当該第三者に銀行への払戻請求を期待し得るものでもないことから明らかであろう。また、太郎が一審原告の預金に何らかの権利を取得するものではないから、太郎として、被害回復を確実にするためには、一審原告の預金が存在する間に、一審原告に対する不当利得返還請求権に基づき当該預金の仮差押え等をすべきものである。一審原告の預金の払戻しにつき一審被告に過失があったとしても、固有の利益のない一審原告の払戻請求という手段によって、本件窃取者からの回収リスクの全てを一審被告に転化すべきものとは解されない。

民法四七八条による免責が弁済者の無過失を要するのは、実体法上の弁済受領権のある債権者の保護を目的とするものであり、一審原告がこのような債権者に該当しないことは、既に説示したとおりである。本件事案で保護すべき最終損失者が太郎であることからすれば、一審被告の弁済における注意義務も太郎の利益保護の観点から検討されるべきものであって、一審原告の普通預金の払戻しにつき一審被告に過失があった場合に、それが太郎の一審原告に対する不当利得返還請求権の行使を侵害するものと評し得るときは、太郎が一審被告に対してその損害の賠償を請求すべきものであり、太郎と一審原告との利害が共通するからといって、一審原告の請求が理由あるものとなるわけではない。

(4)  よって、本件払戻し2に係る普通預金一一〇〇万円の払戻請求は、一審被告の弁済における過失の有無を判断するまでもなく、理由がない。

四  以上によれば、一審原告の請求は理由がないので棄却すべきところ、これを一部認容した原判決は不当であるから、原判決を取り消し一審原告の請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 富越和厚 裁判官 桐ヶ谷敬三 中山顕裕)

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