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東京高等裁判所 平成19年(ネ)2781号 判決 2007年8月22日

控訴人

甲野太郎

被控訴人

日本放送協会

同代表者会長

橋本元一

同訴訟代理人弁護士

梅田康宏

津浦正樹

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1  控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は,控訴人に対し,600万円及びこれに対する平成14年6月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は,第1,2審を通じて被控訴人の負担とする。

4  仮執行宣言

第2  事案の概要

1  本件は,東京女子医科大学(以下「本件大学」という。)附属日本心臓血圧研究所(以下「心研」という。)で実施された心臓外科手術(以下「本件手術」という。)で人工心肺装置の操作を担当した控訴人が,同手術の患者であった児童が死亡したことについて業務上過失致死の被疑事実で逮捕(一審無罪,現在控訴審係属中。)された際,被控訴人の報道(以下「本件報道」という。)によって,名誉を毀損され,またその肖像権が侵害されたとして,被控訴人に対し損害賠償を求めた事案である(原審での請求額は1500万円であったが,当審ではこれを600万円に減縮している。)。事案の概要及び当事者の主張については,次のとおり付け加えるほか,原判決「事実及び理由」の「第2 事案の概要」記載のとおりであるから,これを引用する。

2  控訴人の当審における補充主張

(1)  肖像権侵害について

被控訴人が控訴人の撮影を行った場所は,病院の敷地内という患者のプライバシーが保障されるべき場所であるだけでなく,女性看護師専用の宿舎と医師宿舎がある私的生活領域でもあったのであり,このような場所に侵入し,撮影することは許されない。しかも,被控訴人は,隠し撮りの方法によって控訴人を撮影し,これを公表したのであり,控訴人の人格的利益を侵害したことは明らかである。被控訴人が撮影し,放送した控訴人の映像は全て私的生活領域でのものであり,控訴人に対する被疑事実と密接に関連するわけでもない当該映像を使用する必要性,相当性はない。

(2)  名誉毀損について

医療事故は,国民の生命に関わる重要な事柄であり,科学的に誤りのない正確な報道がされるべきである。本件では,平成13年12月末に,本件手術が報道されてから同14年6月28日の本件報道までの約半年間に,被控訴人は証拠として提出できるような独自の取材を全く行うことなく,警視庁捜査第一課長の会見と本件報告書のみに依拠した放送を行ったものである。しかし,同報告書は,理事や教授会のメンバーにも知らされずに作成されたものであって同大学の正式文書ではなく,また外部有識者も入らないまま組織防衛の目的で作成されたもので,公正・中立性に欠け,内容的にも誤ったものであり,被控訴人はこのことを容易に認識できたはずである。しかも,控訴人の逮捕当日の警察の発表には,本件報告書の内容と符合していない部分が多々含まれていたのだから,取材する側としては当然に疑問を持つべきものであった。にもかかわらず,被控訴人としては,何ら第三者に対する取材等をすることもなく,安易にこれらの発表に依拠して報道したのであり,報道内容が真実であると信じるにつき相当性はない。さらに,被控訴人が放送で人工心肺装置の説明のために用いたコンピュータグラフィックスの映像は,実際の人工心肺装置とは全く異なるもので,控訴人にミスがあったという誤った印象を視聴者に与える内容となっており,これも控訴人の名誉を毀損するものである。

第3  当裁判所の判断

1  当裁判所も,控訴人の請求は棄却すべきものと判断する。その理由は,次のとおり付加するほか,原判決「事実及び理由」の「第3 争点に対する判断」記載のとおりであるから,これを引用する。

2  控訴人の当審における補充主張に対する判断

(1)  肖像権侵害について

本件撮影が行われたのが,千葉県立こども病院の敷地の中であり,また医師宿舎という私的生活が行われる場所の付近で行われたことに照らすと,患者や住人のプライバシー等を保護する要請は一般的には高いというべきであり,撮影対象,撮影目的,周囲の状況といった事情の如何によっては,そこでの撮影が違法と評価される場合があり得ることは否定できない。しかしながら,本件で被控訴人が撮影したのは,控訴人のみであって,患者やそこに住む職員一般を撮影しようとしたわけではないし,撮影の目的も,任意同行という公的関心にかかわる事柄の状況を撮影しようとしたものであって,控訴人の私的生活を撮影しようとしたものでもない。また,宿舎付近には多数の車両を駐車できる駐車場があって,病院関係者や患者等が主ではあるとはいえ,不特定多数の者が出入りする状況にあったと認められ,医師宿舎はこのような駐車場の北側に隣接し,門扉等で隔てられることなく,自由に行き来できるような状況にあった(甲4,乙8)。このような事情に照らせば,被控訴人が病院の敷地内の医師宿舎付近で撮影したとしても,そのことをもって撮影が違法になるとはいい難い。

なお,本件撮影は,宿舎付近に駐車した自動車の中から控訴人に気づかれないように行われたものであり(証人黄木),控訴人が主張するように隠し撮りと評価することができる。そして,一般的にいうと,隠し撮りは,撮影される側からすれば,撮られることを意識しないまま行った行動を撮影され,これについて異議を述べる機会も与えられず,撮影にかかる映像等が公表されて初めてそのような撮影がされたことを被撮影者本人が知ることにもなりうるわけであるから,合理的な理由もないまま隠し撮りの方法によって撮影することは撮影手段としての相当性を欠き,肖像権侵害として違法と評価される場合もありうることは否定できない。しかしながら,被控訴人が本件においてそのような方法で撮影したのは,任意同行という状況下での警察の捜査活動を妨害することになるのを避けるとともに,早朝の撮影であったこともあり,周辺住民の生活の平穏を乱さないようにする目的もあったと認められる(証人黄木)から,このような手段によったことについてはそれなりに合理的な理由があったというべきである。そうすると,撮影手段が相当でなかったということを理由とする肖像権侵害の主張は採用できない。

その他,控訴人が主張する事情を考慮しても,本件撮影が肖像権侵害として違法になるとはいえない。

(2)  名誉毀損について

報道機関が報道をするに当たって広く様々な関係者等に取材をし,事実の真相に可能な限り迫った上で報道を行うのが望ましいことはいうまでもない。しかしながら,取材源が少数に留まる場合であっても,当該取材源の信頼性が一般的に高く,取材によって得られた内容について疑念を差し挟むような特段の事情がない場合には,仮に当該取材結果に基づいて報道した内容が事後的に真実でないことが判明したとしても,報道機関には報道内容を真実と信じたことについて相当な理由があるというべきである。そのような場合であっても,さらに時間をかけて広範な取材をしなければ相当性に欠けるとするのでは,日々の事件や事故の発生の速報を重要な任務とする報道機関の活動を過度に制約することになりかねない。

そして,本件では,直接的には,控訴人逮捕に際して警視庁で持たれた会見の結果を踏まえて報道内容が作成されたのであるが,犯罪被疑者が通常逮捕された場合の警察側の発表は,警察がその有する権限を行使して様々な証拠を収集分析し,被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるとして裁判官から逮捕状を得た上で行うものであるから,後に述べるように発表内容に疑念を抱かせる特段の事情もなかった本件においては,発表された内容を被控訴人が信頼したとしてもやむを得なかったというべきである。また,本件においては,警視庁での会見内容と概ね符合する本件報告書も存在し,被控訴人の報道内容はこれにも依拠していたものであるところ,同報告書は,本件大学に設置された調査委員会により,心研からの治療経過報告,関係者からの事情聴取及び人工心肺装置を用いた2回にわたる実地検分等を踏まえて作成されたものであり,高度の専門的知識を有する医療機関によって作成された本件報告書の内容を被控訴人が信用したとしてもそれには無理からぬものがあったというべきである。なお,同報告書を踏まえた本件大学による本件手術の失敗原因等についての見解が報道発表されてから控訴人の逮捕に至るまで半年ほどの時間があったのであるから,その間に,控訴人や第三者への取材等が不可能であったとはいえず(被控訴人がこのような取材を行ったとは証拠上認められない。),これを行っていれば控訴人においてもある程度納得のいく報道内容になった可能性がないではない。しかしながら,平成13年12月の本件大学の報道発表以降,控訴人の逮捕に至るまで,同発表や本件報告書の内容について疑念を呈する意見が公にされていたといった事情も証拠上見受けられないのであり,そのような中で本件報告書と警察の発表に依拠した報道をしたとしても,相当性を欠くということはできない。

なお,控訴人は,本件報告書は,本件大学の正式文書ではなく,組織防衛の目的で作成されたものであり,公正・中立性に欠けるものであることは,被控訴人にも容易に認識できたはずであると主張する。しかし,本件報告書は本件大学の理事長の指示によって設置された死亡原因調査委員会によって作成され,理事長宛に提出されたものであり(乙2),対外的にそのまま公表されることこそ予定されていなかったものの,これを踏まえた報道発表が行われ,また,本件手術で死亡した患者の遺族に対しては直接交付されたものであったから,正式なものでないとはいえない。また,本件報告書の作成に当たっては,外部有識者が参加しないなどその客観性を確保するための手当が必ずしも十分でなかったきらいはあるが,だからといって本件大学が組織防衛のために作成したものであると認めるだけの事情もない。実際にも,その後の平成14年8月に,外部有識者も入った上で作成された「医療安全管理外部評価中間報告」(乙7)でも,事故原因についての本件報告書の結論を疑うべき事実は認められなかったとされているところである。

このほか,控訴人は,本件報告書の誤りや本件報告書の内容と警視庁での会見内容との食い違い等について縷々主張するが,控訴人が誤りや食い違いと主張する部分によって,取材当時,本件報告書全体の信用性等が疑われる状況であったとはいえず,以上の認定は左右されない。

また,控訴人は,被控訴人が人工心肺装置を説明するものとして本件報道の際に用いたコンピュータグラフィックスの内容が正確さを欠き,控訴人にミスがあったという誤った印象を視聴者に与える内容となっていると主張する。しかし,報道にあたっては,事故原因の正確な解明が求められる医療機関内での検討や刑事裁判での主張立証等の場面とは異なり,専門的知識を持つわけではない一般の国民に対して報道内容の要点を瞬時に理解させる必要があるのであるから,そのために事実関係を大幅に簡略化した図面等を用いることは当然に許されることであり,本件報道の際に用いたコンピュータグラフィックスもそのような目的で作成されたのであって,ことさら控訴人にミスがあったことを際立たせようといった目的で作成されたとか,控訴人のミスを際立たせるような内容になっているとは見受けられない。また,本件報道の際の用語の選択には,本件報告書のそれとは異なるものがあるが,これとて一般の国民に対しての分かりやすさを狙ったものであり,そのような言葉を使ったことに不相当な点は見受けられない。

第4  結論

よって,原判決は相当であり,本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 南敏文 裁判官 安藤裕子 裁判官 小林宏司)

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