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東京高等裁判所 平成2年(う)289号 判決 1992年3月03日

主文

原判決中被告人横手文雄に関する部分を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人紺野稔、同大石宏、同萩原太郎、同古川善博、同秋田徹が連名で提出した控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事溝口昭治名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一  控訴趣意第二章について

所論は、次のように主張する。

一  本件の争点は帰するところ、被告人が強く主張している二度にわたる賄賂の授受の存否である。

一般に、このような贈収賄事件においては、直接、事実の立証につながる物証に乏しく、検察官としては、関係者の供述証拠を重視せざるをえないのが常態であるところ、本件では、特にそれが顕著である。すなわち、通常は、賄賂金品の原資(出所)、授受行為、使途等の事実を示す物証のどれかが多少なりとも存在するのであるが、本件では、全く皆無であって、検察官は、結局、直接贈賄に関与したというI・S(以下、Iという。)の原審公判における証言(以下、I証言という。)とO・K(以下、Oという。)の検察官に対する供述調書(以下、O調書という。)及び贈賄の一部幇助的役割に関与したとされるM・H(以下、Mという。)の検察官に対する供述調書(以下、M調書という。)によって立証を進めた。このような場合、金品の授受の存否につき物証を欠くのであるから、その存否を合理的に判断するため、状況証拠となる前提事実や背景事情を的確に把握することが必要であるところ、関係者の供述が対立することが多いので、その証明力を判断するにあたっては、照合すべき客観的証拠が乏しい以上、経験則や論理法則に基づき、すぐれて常識的判断を必要とするにかかわらず、原判決は、国会運営のしきたりや国会内の慣例に理解を欠き、背景事情に浅い考察しか加え得なかったため、状況証拠となる前提事実等を的確に把握せず、検察官側の人証のみを尊重し、弁護人側の反証を排斥するに急なあまり、世間的常識にも反する結果となっている。

二  端的にいって、原判決の事実誤認の原因は、I証言のみに無条件で依存し、それに沿う限りでのO調書やM調書だけを信用し、証拠の評価を誤ったことに尽きるのである。

原判決は、I証言は、「全体的に極めて詳細、具体的で内容も合理的で自然である。」としているが、I証言には、関係証拠と符号しない面も少なからず見受けられ、また、本人が体験した事実の筈なのに、惻惻として迫る臨場感ないし迫真性もなく、それが作られた証言であることを示している。Iは、昭和六一年二月一三日詐欺罪で逮捕され、その後三月六日業務上横領罪で再逮捕、さらに同月二六日通産事務官に対する贈賄罪で再再逮捕されたものであるところ、本件日本撚糸工業組合連合会(以下、撚糸工連という。)関係の取調べは、右詐欺事件で取調べを受けていた当時並行して行われていた事実等を重ね合わせると、Iは、その取調べを受ける時点で、検察が撚糸工連の使途不明金の捜査をもとに政界汚職の摘発に非常に関心を有していることを察し、自己の重罪事件の処理につき寛大な取扱いを受けるため、たまたま被告人が本件設備共同廃棄事業(以下、共廃事業という。)の件で国会質問したことに着眼し、巧みにこれと結び付け、自らひそかに流用していた出費を国会議員の被告人に対する供与という架空の使途にすり替えて検察官の歓心を買い、併せて自らの罪責を免れようとしたとの推測を試みることも可能であって、決して原判決のいうような「その信用性には全体として高度なものがある。」とは考えられないのである。

次に、O調書については、Oが取調べを受けたのは、本件がなされたとされる時から三年半も経っており、本件について記憶がなかったのは当然である。にもかかわらず事件の内容を認めた供述調書が作成されたのは、検察官からIの供述に基づく強力な記憶喚起が図られたからにほかならず、「Iがこういっている。」、「Iがこういっているから間違いない。」とかの強力な追及により、Oは、明確な記憶のないままこれに追随したものであり、O調書中の現金授受を認める供述は、Oの直接の記憶に基づくものではないのである。

三  本件の背景事情をみると、Mが昭和五七年(以下、特に断らないかぎり昭和五七年をいう。)八月上旬ころ、被告人が一般質疑に立つことを聞知したことも、これをIに連絡して本件共廃事業について質問して貰うよう同人に勧めたという事実もないのである。また、当時の共廃事業の進捗状況は、原判決が認定するように、七月二九日ころ、原紡課と計画課の間で本件共廃事業を実施することで合意が成立したのであるから、被告人の質問が行われるころは、撚糸関係者の間では、Iが証言するような本件共廃事業の実施についての危機感は全くなかったのである。

次に、Iが八月四日被告人を訪ねたのは、本件共廃事業の作業進捗状況につき事情説明(レクチュア)をするためであり、翌五日再度被告人を訪ね、前日に引き続き共廃事業の必要性や作業の進捗状況について説明をし、五日夜の「源氏」における会食も右事情説明とOの被告人に対する表敬訪問にすぎなかったもので、もともと撚糸工連側から被告人に対する「請託」は存在せず、論理上それに先立つ謀議も存在しなかったものである。

四  原判決は、被告人は、八月五日「源氏」において、O及びIの両名から供与された現金一〇〇万円を収受した、と認定しているが、この認定はきわめて不合理といわなければならない。

その第一は、金員供与の場所の不自然さである。右「源氏」は、ホテル一階にある飲食店で外部からガラス越しに店内の様子が見通せ、内部は椅子席で、客や従業員の出入りの多い店であり、このようなオープンな飲食店の一角で、国会議員のバッジをつけた現職代議士に一〇〇万円の賄賂の供与がなされたとするのは、きわめて不合理である。

次に、I証言及びO調書に表れたO及びIの行為には、右のほかにも不自然な点が多い。すなわち、①現金一〇〇万円は帯封をつけたまま白封筒に入れ、封筒には宛名も差出人の名も書かなかったということ、②Oが、Iから現金入り封筒を受け取った後、「中をちょっとみたり」した上で、被告人に差し出したということ、③国会議員に対し贈賄してまで陳情、依頼するのに、招待の送迎のための車を用意しなかったこと、④Oがいかに会社の用事があったとはいえ、「源氏」の会食に四〇分ないし五〇分遅れているということなどは、国会議員に対し重要な頼み事をする際の行為として、非礼きわまりないものである。

また、右両名の各供述によれば、被告人は右白封筒を受け取った後、着用していた背広のポケットにしまったことになっているが、被告人は当時背広を脱いでいたと供述しており、これは当時の状況から信用することができる。

さらに、この八月五日及び同月一〇日の各一〇〇万円につき、それがどこから支出され、どのようにして授受され、またどのよう用途に使われたかの痕跡が証拠上全く表れていない。

結局、八月五日の「金員収受」の事実は認められず、これを認定した原判決は、重大な事実誤認をおかしたものとして破棄を免れない。

五  原判決は、被告人が、八月一〇日、議員会館の自己の事務室において、O及びIの両名から供与された現金一〇〇万円を収受した、と認定しているが、これは重大な事実誤認である。

原判決は、弁護人の主張に沿う被告人の秘書根本央子(昭和六三年三月婚姻前の姓は古河であるが、以下、全て根本という。)、被告人の地元(福井県)の秘書吉岡秀雄(以下、吉岡という。)、被告人の妻横手ハツヨ(以下、ハツヨという。)及び被告人の四名の供述は、内容自体、時刻、時間の点を含め、極めて詳細であって、相互によく符号していること、右各供述には、それを裏付ける証拠があること、さらに、右各供述は、関係者である宮本浩次、高溝久平、夏野宜秀の各証言にも合致していることを認めながら、結局、前記四人の供述の信用性を否定しているのである。原判決は、その論拠として、被告人、根本、吉岡、ハツヨは、本件捜査が終了した昭和六一年九月ころ、一堂に集まるなどして、本件訴訟準備のため、八月一〇日の出来事について相互に話し合い確認し合うなどしていたことが認められるから、右四名の供述が符号していることは、それほど各供述の信用性を裏付けるものとはいえない上、右四名が各供述において真にその記憶しているところを述べているのか極めて疑わしい、としているのである。このような原判決の証拠判断には、①身内の者の証言は信用できないという態度と②公判廷の証言は「生の記憶」か、独力で思い出したものでなければ信用するに足りない、と考えているかの如き態度が含まれているように思われるが、それはいわれのない独断である。

また、原判決は、証人U・I(以下、Uという。)が「八月一〇日の昼前後のころで、午後一時か二時ころ食事をするより前に、根本が平服でやって来たが、午後三時か四時ころには、根本はいなかったと思う。私は、根本は議員会館に帰ったのだと思った。通夜の際また根本の姿を見たが喪服姿だった。」旨供述したことについては、同居の実弟の通夜の日という証人Uにとって特異な印象を残す日の出来事にかかるものである上、それ自体内容も明確であって信用性が高いと認められると認定し、右認定を前提にして、根本、吉岡、ハツヨ及び被告人が、そろって根本は八月一〇日午前九時ころから午後三時ころまで引続き議員会館にいた旨供述していること、根本、吉岡及び被告人が、午後零時前ころO、Iが被告人の事務室を訪問した際、根本がそこに居合わせていた旨供述していることは、いずれも信用し難いということにならざるを得ない、と結論づけているが、Uの右証言は明らかに虚偽である。右Uの証言は、根本が同日午後一時三〇分ころ全日自労の高溝と議員会館近くで出会っていること、同二時ころ事務室で日刊福井の夏野の取材に応じていること、同二時三〇分すぎころ大和銀行衆議院支店から二〇万円を引き出していることなどの明白な事実と矛盾している。また、Uの証言どおりであるとすれば、根本が議員会館と池田方の間(この間は、地下鉄、バスを利用して片道一時間程度を要する。)を行って帰って、また行くという行動をとらなければならなかった理由が見出せない。他方、O及びIが被告人の事務室を訪ねたときの秘書室の状況について、Iは、「それが秘書であるかどうかは、はっきりしないが、一人か二人、人がいた。」旨証言し、O調書も、「私が横手の事務室に入ると、たしか女の秘書がいたので挨拶した。」と供述しているのであるから、原判決は、もっと慎重にUの証言内容を検討すべきであったのに、単に池田惠市郎の通夜の日の出来事であるという特異性のみをもって、その信用性を高く評価したのは、甚だ軽率であるとのそしりを免れない。

また、福井新聞東京支社の記者宮本浩次は、「池田秘書の死亡について、被告人の事務室で根本に取材したことがあり、それは八月一〇日の昼前後ころと思う。」旨証言しているが、これも、当時根本が被告人の事務室にいたことを裏付けるものである。宮本は、また、時期はともかく、議員会館の被告人の事務室で被告人からハツヨ夫人を紹介されて会ったことが一回あること(しかし、ハツヨに会ったのと池田秘書の死亡の取材をしたのとは、記憶は全くつながらないという。)を具体的に証言しており、信用性が高い。問題は、その会った日が、被告人及びハツヨのいうように八月一〇日であるか否かであるが、宮本が福井新聞東京支社の記者をしていたのは、昭和五六年二月から昭和五九年二月までで、この間にハツヨが上京したのは三回であり、細かく検討すると、本件の八月一〇日である可能性が最も高く、少なくとも、検察官は、この日ではないという立証責任を尽しているとはいえない。

結局、被告人は、八月一〇日の「金員収受」についても無罪であり、これを認めた原判決は、重大な事実誤認をおかしたものとして破棄を免れない。

第二  当裁判所の判断

原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を合わせて検討する。

原判決は、「衆議院議員、同院商工委員であった被告人が、撚糸工連理事長O・K及び専務理事I・Sから、昭和五七年八月六日商工委員会で行われる一般質疑で過剰仮より機設備共同廃棄事業を所管する通商産業省のS生活産業局長らに対して撚糸工連のため有利な取り計らいを求める質問をされたい旨の請託を受け、①同月五日、有利な質問をする報酬として、東京ヒルトンホテル(当時)一階の飲食店「源氏」において、O及びIの両名から、現金一〇〇万円を収受し、②同月一〇日、有利な質問をした報酬として、衆議院第二議員会館三三九号室の自己の事務室において、右両名から、現金一〇〇万円を収受し、もって、自己の職務に関し賄賂を収受した。」旨を認定している。

被告人は、①八月五日「源氏」でO及びIの両名と会食したこと、②同月一〇日議員会館の自己の事務室で右両名と会ったことを認めているが、それらの機会に各現金一〇〇万円を受け取ったことは、捜査段階から一貫して否認している。

右のように、本件では、現金の授受自体が争われているのであるが、贈賄というO及びIら撚糸工連側にも、収賄したとされる被告人側にも、金の出入りを窺わせる帳簿やメモなどの物証が全くなく、現金授受についての証拠は、贈賄したというI証言及びO調書のみである(なお、Oは、原審公判においては、贈賄の事実を否認している。)。したがって、これらの供述の証明力の評価が重要な問題となる。原判決は、I証言及びO調書に、一般的に高い信用性を認め、これに反する証言は採用できないという態度を取っている。

そこで、当裁判所としては、まず、I証言及びO調書の一般的な信用性を検討した上、便宜上、比較検討すべき証拠が多い八月一〇日の現金授受の方から検討することにする。

一  I証言及びO調書の一般的な信用性について

1  原判決は、I証言については、「全体として極めて詳細、具体的で、内容も合理的で自然であり、他の関係各証拠ともよく符号し、多方面にわたる詳細な反対尋問にもよく耐えていると認められ、その率直な供述の仕方等にも照らし、その信用性には全体として高度なものがあることを優に肯認することができる。」旨判示している。

しかし、Iは、当時撚糸工連の専務理事の職にあり、最高の常勤職員として、本件共廃事業につき、産地の状況、通産省との交渉過程、稲村左近四郎議員及びそのM秘書との交渉等の全てについて掌握していたものであるから、詳細かつ具体的な証言をなし得るのは当然のことである。多方面の反対尋問によく耐えているとはいえ、その証言内容については全てが合理的で自然であるとは認められない。しかも、Iは、昭和六一年二月一三日詐欺の被疑事実で逮捕され(同年三月六日起訴)、同日業務上横領の被疑事実で再逮捕され(同月二六日釈放)、同日通産事務官に対する贈賄の被疑事実で再再逮捕され(同年四月一六日起訴)、これらの事件で身柄拘束中に、本件について検察官の取調べを受けたのであり、Iとしてはこれらの事件で軽い処分、あわよくば執行猶予の裁判を受けたいと考えて検察官に迎合した可能性を否定できず、その結果、昭和六一年一二月二五日東京地方裁判所で詐欺、贈賄の罪で懲役三年・五年間執行猶予の判決を受け、右判決は確定したが、右判決後間もない昭和六二年二月九日から、原審公判での証人尋問が始まったのであるから、同様に検察官に迎合して証言した可能性を否定できないのである。

2  また、原判決は、O調書については、「Oは、前記Iと同様に三回にわたって逮捕され(いずれも起訴)、これらの事件で身柄拘束中に、本件について検察官の取調べを受け、検面調書が作成されたが、本件の取調べの方法や検面調書作成過程等に格別不当とされるべきところはなかったと認められる。Oは、取調べの際には、取調べ検察官から、関係者ことにIの供述内容を告げられて追及され、これを受入れざるを得ない状況に追い込まれたとの趣旨の証言をし、弁護人もこれと同旨の主張をするが、取調べ状況に関するOの証言は、変遷が目立つ上、不自然な点も多々包含しているのであって、それ自体信用性が疑わしい。」旨判示している。

しかし、Oも、Iの場合と同様に取調べ検察官に迎合したのではないかとの疑いを払拭しきれないのである(なお、Oは、Iと同じ日に詐欺、業務上横領、贈賄の罪で懲役四年の実刑判決を受けたためか、昭和六二年六月二九日から始まった原審公判での証人尋問では、捜査段階での供述を翻して贈賄の事実を否認している。)。

3  したがって、I証言にも、O調書にも、一般的に高度の信用性を認めるのは疑問であるので、個々の事実毎にその信用性を検討することにする。

二  八月一〇日における現金一〇〇万円の授受について

1  I証言及びO調書によると、I及びOの両名は、次のように供述している。

(一) Iは、「八月一〇日午前九時半から一一時ころまで、虎の門の大和銀行ビルの会議室で繊維工業審議会と産業構造審議会の繊維部会との合同小委員会が開かれ、撚糸工連からは、O理事長、田端、近藤両副理事長ほか二名が出席した。私は、予めOの指示に従って紫のふくさに包んだ一〇〇万円入り白封筒を持って、会場に行った。右会議終了後、O、田端、近藤、私の四人が午前一一時四五分ころ議員会館の稲村の事務室に行った。議員会館へ行った目的は、横手代議士(以下、被告人又は横手という。)にお礼をすることと池田秘書が死亡したことについてOからお悔やみを述べるためであった。稲村はおらず、M秘書がいた。一休みした後、Oに、『横手先生のところにお悔やみにちょっと顔を出して下さい。』と声をかけて、被告人の事務室に行った。入口側の秘書室に、一人か二人、人がいたと思うが、秘書かどうかは、はっきりしない。奥の議員執務室に入り、初め立ってOがお悔やみをいった。それからソファに座り、Oが、『先日の商工委員会での質問は本当にありがとうございました。おかげで我々の共廃事業も予定どおり実行できることになりました。』といった。私、『大変お世話になりました。』といい、ふくさの中から一〇〇万円入りの白い封筒を出して、『お礼の、ほんの気持ちです。』といいながら、机の上に差し出した。被告人は、辞退するような様子もなく、これを受け取り、『私もやりました。お役に立ててよかった。幸せだと思います。』といっていた。」旨供述し、

(二) Oも、「八月一〇日午前九時半少し前に繊工審の会場に着いた。たしか、この会場でだったと思うが、Iから、『理事長、一〇〇万円準備しております。』といわれた。私は、Iに、『君から渡すようにしてくれよ。』といった。繊工審が終わってから、田端、近藤、I、私がタクシーに乗って議員会館に行った。議員会館に着いたのが一二時少し前だった。稲村先生の部屋に寄ったが、先生は留守だった。M秘書に挨拶した後、私とIは、隣の横手の事務室に行った。部屋に入ると、たしか女の秘書がいたので挨拶した。Iと一緒の奥の部屋に入った。部屋には横手一人だった。Iから、横手の秘書が亡くなったことを聞いたので、まずお悔やみの挨拶をしてから、応接セットに座った。私は、横手に、『先日の委員会では、いい質問をしていただき本当にありがとうございました。おかげ様で共廃事業も目処がつき早急に実施されると思います。』などとお礼をいった。横手は、『いやあ、頑張りました。お役に立つことができて光栄です。』といった。その後、Iが、『ほんの気持ちですが、納めて下さい。』といって、一〇〇万円入りの無地の白い中封筒をテーブルの上に差し出した。横手は、このときは割りとあっさりと、『そうですか。ありがとうございます。』といって、その封筒を自分の方に引き寄せ、テーブルの端の方に置いた。私とIは、その後すぐ立ち上がって部屋を出た。」と供述している。

(三) 右両名の各供述によると、両名は、被告人の事務室の議員執務室において、現金一〇〇万円入りの白封筒をIが被告人に手渡して供与したというのである。

2  これに対して、被告人、根本、ハツヨ及び吉岡は、原審公判において、八月一〇日の午前から昼にかけての行動について、次のように供述している。

(一) 被告人は、「八月一〇日は、ハツヨ、吉岡と議員宿舎から、午前九時前発のマイクロバスに乗り、議員会館の自分の事務室に行った。根本が既に来ていて、池田の机の上に花とお茶が供えてあった。九時二〇分に民社党の国会対策委員会(以下、国対という。)に出席した。この時吉岡を連れて行った。国対終了後、吉岡と別れて、佐々木民社党委員長の部屋に行き、一〇時半ころ事務室に帰った。秘書室には根本が、議員執務室にはハツヨがいた。一一時前ないし一一時半ころ、福井新聞東京支社の宮本記者が来たので、私が秘書室に出て行って挨拶をし、ハツヨを秘書室に呼んで宮本に紹介した。吉岡が帰って来たのは一一時過ぎか一一時半ころである。午後零時直前ころ、OとIが来て、『この間、質問ありがとうございました。秘書さんが亡くなられたんだそうですね。それは大変でございました。』と挨拶した。一人が事務室の入口のドアを持ったままでの立ち話だったし、その際何も受け取らなかった。ハツヨは議員執務室にいたが、挨拶させなかった。その後、ハツヨ、吉岡と事務室を出て、院内か議員会館で昼食をとった。」と供述し、

(二) 根本は、「八月一〇日は、午前八時半ころから九時の間ころには横手の事務室に入り、花屋で花を買って来た。九時ころ横手夫妻と吉岡が事務室に来た。横手は、九時二〇分からの民社党の国対に吉岡を連れて出かけた。横手が佐々木民社党委員長の部屋に行ったことは、委員長の秘書から連絡があった。ハツヨは議員執務室のソファに座っていた。一〇時か一〇時半ころ横手が帰って来た。吉岡が帰って来たのはこれより後だった。午前中ではなかったかと思うが、福井新聞の宮本が来た。午前零時ころOとIが来た。Iは事務室入口のドアのノブを持ったまま立ち、Oは、その横から秘書室内に入って来てIの近くに立った。横手は、それを見て、秘書室の方に出て来た。皆立ったままの状態で、たしかIが『先日はどうも。』と、Oが『このたびはどうも。』といい、横手は、これに対してお辞儀して挨拶していた。このとき議員執務室のソファにはハツヨが座っており、O、Iは、議員執務室には行かず、一分もいないうちに退出した。二人は、全くの手ぶらで、横手に物を渡すようなことはなかった。午後零時過ぎと思うが、横手、ハツヨ、吉岡が昼食のため外出した。」旨供述し、

(三) ハツヨは、「八月一〇日は、横手、吉岡と午前九時前にマイクロバスで青山議員宿舎を出て、一〇分くらいで議員会館に着いた。横手の事務室に行ったら、根本がいた。池田の机の上に白い花とお茶が供えられていた。私は、議員執務室のソファに座った。横手は、事務室に着いた一〇分後ころ、会合に出るといって、吉岡を連れて事務室を出た。一〇時二〇分ないし三〇分ころ横手が帰って来た。吉岡は、それより遅れて帰って来た。一一時三〇分ころ、横手に呼ばれて秘書室で、福井新聞の記者という人に挨拶した。その後、また議員執務室に戻った。O、Iが来訪したことは知らない。昼食に立つまで、記者に挨拶した以外は議員執務室にいたのだが、その間議員執務室に入ってきた来客はいなかった。午後零時過ぎ、横手、吉岡と院内の食堂に行き、一時ころ三人で事務室に帰った。」と供述し、

(四) 吉岡は、「八月一〇日は、横手夫妻とともに、午前九時ころ議員会館に着いた。横手の事務室には根本がおり、白い花とお茶が供えられていた。ハツヨは奥の議員執務室に入った。横手が九時二〇分からの民社党国対に出席するのに同行した。国対は三〇分ないし四〇分位で終わったが、横手は、委員長の部屋に行く用があり、横にいた桑原秘書に私を連れて帰るよう頼んでくれた。桑原と議員会館の地下で、一一時三〇分ころまでコーヒーを飲んだ。事務室に戻ったら、横手夫妻が議員執務室に、根本が秘書室にいた。昼食に立つまでの間、一般の来客としては、一人で来た人と二人連れで来た人とが各一組いた。いずれも中年で、その二人連れの客の方には、横手も戸口付近まで来て応対していたが、奥の議員執務室へ入った人はいない。私が帰って来てから昼食に出るまで、ハツヨはずっと議員執務室にいた。午後零時過ぎ横手夫妻と院内議員食堂に行き、一時ころ事務室に帰った。」と供述している。

(五) 右四名の各供述によると、O及びIの両名が午後零時前ころ被告人の事務室を訪れたとき、秘書室には根本及び吉岡がおり、議員執務室にはハツヨがおり、被告人は秘書室で立ったままO及びIと応対し、その際現金の授受はなかったというのである。

3  そこで、前記I及びOの各供述が右被告人、根本、ハツヨ及び吉岡の各供述と対比して信用できるかを検討する。

(一) 原判決は、右四名の各供述について、内容自体、時刻、時間の点を含め、極めて詳細であって、相互によく符号していることを認めながらも、「右四名は、本件捜査の終了した後の昭和六一年九月ころ一堂に集まるなどして、本件の訴訟準備のため、八月一〇日の出来事につき、相互に話し合い確認し合うなどしていたことが認められるから、右四名の供述が符号していること自体では、それほど右各供述の信用性を裏付けるものとはいえない上、右各供述内容に、右四名がかかる記憶を喚起するに至った経緯等として供述するところ等を対照しても、右四名が前記各供述において真にその記憶するところを述べているのか、極めて疑わしいといわざるを得ない。」旨判示している。右判決のいうところを端的にいえば、右四名が打合せの上、虚偽の事実を述べているということになる。

しかしながら、当審において取り調べたゼンセン新聞昭和六一年五月八日付号外によれば、同号には、宇佐美ゼンセン同盟会長の談話(一問一答)の一部として、「八月十日にO、Iが議員会館の横手議員の部屋を訪ね、そこでお礼の百万円を渡したという供述ですが、そのときの議員の部屋の状況は金銭を受け渡すような雰囲気ではありませんでした。それというのも前日の九日に横手議員の秘書が急死し、横手議員の部屋はおくやみにこられた方々、通夜や葬式の関係で応援して下さる方々で、小さな議員の部屋はごったがえしていました。奥の部屋には奥さんや地元の人、入り口の事務所には秘書や何人かの弔問客もいるという状況です。その日の晩はお通夜でもありました。この十日にO、Iが横手議員の部屋にやってきたことは確かですが、こんな状況であったため、O、Iとはドア口で立ち話をして帰って貰ったとのことです。大勢人のいるというときに、一〇〇万円もの大金を渡したり、受け取るというようなことはとてもできようがありません。」との記載がある。この宇佐美会長の談話の情報源が被告人であることは想像に難くなく、被告人がこの当時から、八月一〇日奥の部屋(議員執務室)にハツヨがいたこと、O及びIの両名はドア口で立ち話をしただけで帰って貰ったことを供述していたことが窺われるのである。

検察官は、当審における弁論において、「右ゼンセン新聞の記事は、八月一〇日にハツヨや吉岡秘書が上京しているという客観的事実を踏まえて、いわば議員の秘書が死亡した場合の通夜や葬儀の日の混雑した状況を具体性がないまま一般論的に述べたにすぎない内容で、その意味で、誰もが一応考え話すことができる特異性のないものである。」旨主張する。たしかに、議員の部屋がごったがえしていたとか、何人もの弔問客がいたことなどについては、そのようなこともいえると思われるが、「奥さんが奥の部屋にいた。」とか、「O、Iとはドア口で立ち話をして帰って貰った。」などということは、必ずしもそのようにはいえず、被告人は、当時からこのように供述していたもので昭和六一年九月ころの打合せなどで口裏を合わせた虚偽のものではないことを示すものといえる。

(二) また、原判決は、被告人の死亡した秘書池田惠市郎の実姉であるU・Iが、原審公判において、「八月一〇日当時は実家に同居していた。通夜の日である同日の昼前後ころ(午後一時か二時ころ食事するより前)、根本が平服でやって来た。通夜の手伝いに来てくれたものと思う。根本がやって来るのを玄関か玄関わきの洋間で見た。午後三時か四時ころ私が桑原秘書と話をした時には、根本はいなかったと思う。私は、根本が議員会館に帰ったのだと思った。午後七時から通夜が始まった。通夜の際また根本の姿を見た。その時根本は喪服姿だった。後日、母から、『この日根本の持っている紙袋の中に喪服が入っているのを見た。根本は議員会館で喪服に着替えてくるといっていた。』と聞いた。」旨証言していることについて、「同居の実弟の通夜の日という証人にとっては特異な印象を残す日の出来事にかかるものである上、それ自体内容も明確であって、信用性が高いと認められるのであるが、Uの右証言を前提とすると、根本自身及び被告人、ハツヨ、吉岡が、そろって、根本は八月一〇日当日は午前九時ころから午後三時ころまで引続き議員会館にいた旨供述していること、ことに根本、被告人、吉岡が、午後零時前ころO、Iが被告人の事務室を訪問した際根本はそこに居合わせていた旨供述していることは、いずれも信用し難いということにならざるを得ない。」旨判示している。

しかしながら、Uの前記証言は、その証言の核心的部分が母親からの伝聞供述であるばかりでなく、それが八月一〇日か九日かという点についても、「母が議員会館にいなくていいんですかといったら、だれか、秘書仲間かに頼んであるからというようなことで」などと八月九日と紛らわしい供述をしていること(一〇日であれば地元秘書の吉岡が来ているので、秘書仲間に頼む必要がない。)、Oも、「たしか女の秘書がいたので挨拶した。」と根本にあたる女性が秘書室にいた旨供述していること、職場の同僚の女性が通夜の手伝いに行くとすれば、夕方から行くのが普通であり、特別に早く来てほしいと頼まれもしないのに、根本が事務室から約一時間もかかる池田方に昼ころから行って、また事務室に帰り喪服に着替えて行くとは常識的におかしいことなどを考えると、八月一〇日午前零時前ころO及びIの両名が訪ねて来たとき根本が秘書室にいたという根本らの供述の方が信用でき、同日の昼前後に根本が池田方に来たというUの供述は信用できないというべきであって、原判決は、この点において証拠の評価を誤ったものといえる。

(三) 次に、福井新聞社の記者宮本浩次は、原審公判で、「昭和五六年二月から昭和五九年二月まで東京支社に在勤したが、昭和五七年八月一〇日に被告人の事務室で根本から取材し、池田秘書の死亡の記事を送稿している。横手の事務室で一回ハツヨを紹介されたことがある。挨拶をしたとき、ハツヨの靴がかなり古くエナメルがひび割れしていたのが強く印象に残っている。」旨供述している。右宮本の証言は、具体性に富み極めて信用性が高いと考えられる。ただ、「ハツヨに紹介された日と八月一〇日とは記憶が結びつかない。」というのである。ハツヨの証言によれば、「宮本記者の東京在勤中には三回上京したことがある。一回目は昭和五六年の春ころでリューマチの検査と治療のためであり、二回目は池田秘書の通夜と告別式のためであり、三回目は池田の四九日の法要の時で、被告人は在京しなかった。」というのであって、三回目は被告人不在で問題にならないし、宮本の証言中にリューマチのことが片鱗も窺えないこと及びハツヨと被告人が、八月一〇日にハツヨが福井新聞の記者に会ったことを明確に供述していることから考えると、宮本がハツヨを紹介されたのは八月一〇日である可能性が最も強いといえる。

(四) このようにみてくると、前記被告人、根本、ハツヨ及び吉岡の各供述は、原判決のいうように、昭和六一年九月ころ右四名が打合せをするなどして口裏合わせをしたことによるものとは認められず、いずれも信用してよいと考えられる。したがって、O及びIの両名が被告人の事務室を訪ねた際、議員執務室にハツヨがいなかったことを前提として、議員執務室で被告人に対して封筒に入った現金一〇〇万円を供与したとする前記I及びOの各供述は、いずれもその信用性に根本的な疑問があって、信用できないというべきである。

4  その他、I証言及びO調書には、次のような疑問がある。

(一) I及びOの各供述によれば、「Iは、被告人が八月六日の商工委員会でS局長から撚糸工連に有利な答弁を引き出してくれたので、共廃事業の実施時期や買上価格等の懸案も目処がついたと喜んで、同日夕方、Oにその旨を報告した。すると、Oも、喜ぶとともに被告人の尽力に感謝し、Iとの間で、被告人が請託に応えて撚糸工連のため有利な質問をしてくれたことに対する報酬として、さらに一〇〇万円を贈ろうと話し合って決めた。」というのである。

しかし、もともと、O及びIの両名が被告人に対して感謝の気持ちを持ったかも疑問がある。すなわち、関係証拠によると、右両名は、共廃事業については、かねてから稲村議員にS局長らへの働きかけを依頼していたのであり、商工委員会における被告人の質問に対して、S局長が予め用意していた答弁内容よりも一歩進んだ答弁をしたのは、稲村が「検討ばかりでは駄目だ。」と大声で発言して、S局長にさらに具体的な答弁を求めるとともに、被告人に対しさらに撚糸工連のため有利な答弁を引き出すべく質問の続行を促す趣旨の言動に出たので、被告人がS局長に再度答弁を求めたためであること、しかも、被告人は、一一月一二日の日本撚糸会館落成、撚糸工連創立三〇周年記念祝賀式典の御招待者名簿には当初入っていなかったことが認められるからである。さらに、I及びOの各供述によると、現金一〇〇万円を無地の白封筒に入れ、理事長が行っているのに自分で渡さなかったというのであり、また、被告人本人に会ってお礼がいえるように、事前に事務室を訪問する旨の連絡をしておくのが通常であると思われるのに、右両名は、直接被告人の事務室を訪問したというのであって、通常の礼儀に反しており、到底、O及びIがいうほど感謝の気持ちを持っていたとはみられない。

(二) O及びIの前記各供述をみると、Iは、被告人が封筒を受け取ってから「お役に立ててよかった。」といったと供述しているのに、Oは、被告人が同様のことをいった後でIが封筒を差し出したと供述しており、現金一〇〇万円入りの封筒を被告人に差し出したときの状況についての供述が異なっているのも疑問である。

5  結局、八月一〇日における現金一〇〇万円の授受についてのI証言及びO調書は、いずれもその信用性に種々の疑問があって、信用できないというべきであり、これらによって右現金授受の事実を認定した原判決は、事実を誤認したものといえる。論旨は理由がある。

三  八月五日における現金一〇〇万円の授受について

1  I証言及びO調書によると、I及びOの両名は、次のように供述している。

(一) 現金授受に至った経緯について、Iは、「①八月三日ころ、稲村議員の秘書Mから電話があり、『八月六日の商工委員会で横手先生が合繊の不況問題で質問することになっているので、懸案になっている共廃事業の問題を合わせて質問して貰ってはどうか。』との話があった。当然稲村の考えも入っており、根回しもしてあると思った。野党の先生にやって貰うということは私の常識にはなかったが、八月という時期を考えると、やはり質問して貰い、通産省のS局長から言質なり約束をとって貰うのはいいことだと考えた。そこで、小松にいたOに電話で、Mからの電話内容を伝えた。Oは『すぐ頼め。』といった。Oに横手へのお礼について相談したところ、金額の点は、Mと相談することになった。また、Oは、八月五日夜上京して横手にお願いとお礼をすることにした。場所については、ヒルトンホテルの「源氏」でどうかと聞くと、Oも了解した。②八月四日午後四時ころ、議員会館の稲村の事務室にMを訪ね、同人から横手の事務室で横手を紹介して貰った。横手は、何か来客があるとか、だれかを呼んでいるとかいった。Mが、『今稲村がいないので、うちの部屋を使って下さい。』といったので、稲村の議員執務室で、横手に対して、撚糸工連としての共廃事業の経緯や役所との折衝経過、買上価格の問題、早期実施の必要性等を口頭で説明した。横手は、簡単なメモを作成した上さらに説明して欲しいと指示した。その後、同月五日午後七時に「源氏」で会食することの承諾を得た。」旨供述し、Oも、おむね右Iの供述①に符号する供述をしている。

(二) 次に、現金授受の際の状況について、Iは、「八月五日の午後一時過ぎころ、撚糸工連の金庫の中から帯封のしてある一〇〇万円の束を取り出して白無地の封筒に入れた。封筒には何も書かなかった。午後六時ころ、横手の事務室に行き、会食の確認と自動車を用意すべきかどうかを尋ねた。横手は、近いから歩いて行くといった。午後七時過ぎに横手が「源氏」に来たので、予約してあった同店の入って左方の窓際の一番奥の席に、横手が入り口の方に向かって座り、私は左斜め前に座って、飲食を始めた。Oは、午後七時四〇分か五〇分ころ来て、私の左隣、横手の前に座った。Oは、まず遅れてきたお詫びをいった後、明日の商工委員会で質問してくれることに対するお礼を述べ、共廃事業の必要性等を説明し、『共廃事業が実施できるようにご質問いただき、S局長から、業界の考えているような方向で処理する、というような前向きの答弁を引き出して戴くようにお願いします。』といった。横手は、『わかりました。やらしてもらいます。』といって、快諾してくれた。食事が終わったころを見計らって、現金の入った白い封筒を机の下でOに渡した。Oは、それを受け取り、中をちょっと見てから、中腰の形で『お礼の気持ちです。』といって両手で差し出した。横手は、『いや申し訳ない。』と簡単な言葉を述べて受け取り、それを背広の内ポケットに入れた。」と供述し、Oも、右Iの供述とほぼ同趣旨の供述をしている。

2  しかしながら、I証言及びO調書には、次のような疑問がある。

(一) まず、Iが、「Mから稲村議員が不在だからと勧められて、打合せに議員執務室を使った。」旨供述している点である。議員執務室は、議員用の個室であるから、秘書が、議員の承諾を得ることなく、しかも、野党の議員に貸すというようなことは有り得ないことのように思われる(なお、M調書によれば、Mは、「Iを伴って横手の部屋を訪ねたところ、横手が在室していたので、Iを紹介して自室に戻った。しばらくして、Iが私共の部屋に戻って来た。」旨供述している。)。

(二) 次に、OとIが、被告人との会食の場所として「源氏」を選び、そこで現金一〇〇万円の供与をしたということにも、大きな疑問を感じる。

関係証拠によれば、「源氏」は、ホテルの一階にある椅子式の料理店であって、個室式でないため、客や従業員が出入りするほか、周囲がガラス張りになっているため、外部からガラス越しに内部の様子を見ることのできる構造になっており、現金一〇〇万円の賄賂を供与するには適当な場所とは思われない。この点につき、原判決は、「I証言、O調書等によると、この時O、Iが被告人に渡した現金は、縦一八センチメートル位、横一二センチメートル位の事務用の白無地封筒に入れられ、もとよりこの中に現金が入っていることなどは第三者に分からない態様で授受されたというのであるから、右「源氏」店内でかかる授受を行ったとしても、格別他人の目を気にしなければならないようなことはなかったと認められる。」旨判示して、このような場所で賄賂の授受が行われるとは考えられないとする弁護人の主張を排斥している。たしかに、外見的には原判決のいうところにも一理はあるが、議員に現金一〇〇万円の賄賂を贈る場合、賄賂を突き返されることも考えられるし、賄賂を贈るような場合には、一見第三者にその中身を気付かれることはないと思われる場合でも、人目に触れるのを極力避けようという心理が働くのが通常であろう。しかるに、I証言によれば、「源氏」の窓際の一番奥の席を指定して予約しているが、窓際といえば奥の席といっても、やはり人目につきやすい場所である。賄賂を渡そうとする者として、この場所の予約はいかにも不合理である。また、個室になっている料亭などではなく「源氏」を選んだ理由につき、I証言によれば、「急に頼んであるかということと、料亭などでやると経費等も膨大になるということもあって、Oと相談して決めた。」というのである。しかし、八月というと飲食関係の店は空いているのが普通であろうし、議員に対し大事な頼み事をして一〇〇万円もの現金を供与するというのに、料亭に支払う経費程度を惜しんで、一人当り一万数千円の食事で済ませたというのも頷けない(なお、Iは、「源氏」の飲食代は、多分業界対策事業費として落としていると思う。」旨供述している。)。

(三) 次に、疑問なのは、O及びIの両名は、被告人に現金一〇〇万円の賄賂を供与して質問を依頼しなければいけないほどの重要な問題と考えていなかったのではないか、ということである。関係証拠によると、右両名は、共廃事業については、かねてから稲村議員にS局長らへの働きかけを依頼していたこと、Oは、「源氏」での会食に一時間近くも遅れたばかりか、翌日の商工委員会の傍聴もせず大阪に帰っていることが認められ、このような行動をみると、右両名は、Mに勧められて被告人に依頼してみたものの、その質問に多くを期待していなかったように思われる。

(四) また、現金一〇〇万円の賄賂を贈ったという時期が早すぎはしないか、という疑問もある。Iは、Mから被告人が商工委員会で質問することを知らされ、Oに連絡したときお礼の問題を持ち出して、それを実行した旨供述している。しかし、被告人の質問の効果は、少なくともその結果を見なければ判断できないと思われる上、M調書によれば、Iから被告人に対するお礼の相談を受けたMは、「終わってからでいいんじゃないですか。」と答えたというのである。この点について、Mは、「横手先生の国会質問が終わりその質問状況などを見て、業界として本当に感謝しお世話になったという気持ちになるのであれば、その時点で考えられたらいかがですか、ということであった。」と説明している。Mは、国会議員のベテラン秘書であり、被告人の質問をIに連絡してくれた人である。そのようなMの助言を無視して、I及びOが質問前に賄賂を供与したというのも合理的でない。

(五) 更に、現金入り封筒を手渡す前にしたというOの仕種も不自然である。I及びOの各供述によれば、Oは、Iから現金一〇〇万円入りの封筒を受け取った後、中をちょっと見たというのであり、いかにも現実感がある。しかし、理事長が専務理事の用意してきた封筒に現金が入っていないのではないかと疑いを持つものであろうか。一〇〇万円であれば、その厚さで現金が入っていることが分かるのではないかと思われる。そのためか、O自身も、「枚数を数えたわけではないが、その時触ってみた厚さと、Iがちゃんと準備してくれた一〇〇万円であるということから、間違いなく封筒には一万円札一〇〇枚が入っているものと思った。」と述べているのであり、何も客の前で、このような仕種をする必要は全くなかったのである。したがって、右仕種についての両名の各供述は、現実感を持たそうとした創作ではないかとの疑問がある。

3  結局、八月五日における現金一〇〇万円の授受についても、I証言及びO調書は、いずれもその信用性に種々の疑問があって、信用できないというべきであり、これらによって右現金授受の事実を認定した原判決は、事実を誤認したものといえる。論旨は理由がある。

四  よって、その余の論旨について判断するまでもなく、刑事訴訟法三八二条、三九七条一項により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により被告事件について更に判決する。

被告人に対する本件公訴事実は、「被告人は、衆議院議員で同院商工委員会の委員として通商産業省の所管に属する議案、請願等の審査及び国政に関する調査に関与する職務を有しているものであるが、昭和五七年八月五日ころ、東京都千代田区永田町二丁目一番二号所在衆議院第二議員会館三三九号室及び同町二丁目一〇番三号所在東京ヒルトンホテル(当時)一階所在飲食店「源氏」において、ねん糸製造業を営む中小企業者の安定等に資する各種制限の総合調整、設備の共同廃棄等を事業目的とする日本撚糸工業組合連合会の理事長O・K及び専務理事I・Sから、同月六日開かれる同委員会において、被告人が同委員として政府に対し通商産業の基本施策に関する調査案件について質疑するに当たり、過剰仮より機共同廃棄事業の実施計画の策定、関係機関との連絡調整等を所掌する通商産業大臣及び同省関係部局の幹部に対し、同連合会が望んでいる昭和五七年度の同事業を早期に実施するとともに、同事業における仮より機の買上価格を高額に設定するなど同連合会のため有利な取り計らいを求める質問をされたい旨の請託を受け、その報酬として供与されるものであることを知りながら、

一  同年八月五日ころ、前記飲食店「源氏」において、前記O及びIの両名から、現金一〇〇万円を

二  同月一〇日ころ、前記衆議院第二議員会館三三九号室において、右両名から、現金一〇〇万円を

それぞれ収受し、もって、自己の職務に関し収賄したものである。」というのであるが、前記のとおり犯罪の証明がないので、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官堅山眞一 裁判官虎井寧夫 裁判官O健司は、病気のため署名押印することができない。裁判長裁判官堅山眞一)

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