東京高等裁判所 平成2年(う)938号 判決 1991年12月02日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役一五年に処する。
原審における未決勾留日数中一四〇日を右の刑に算入する。
理由
被告人の控訴の趣意は、弁護人宮田桂子作成の控訴趣意書、同補充書に、これに対する答弁は、検察官荒木紀男作成の答弁書に、検察官の控訴の趣意は、検察官北島敬介作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人宮田桂子作成の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。
一 弁護人の控訴趣意(事実誤認の主張)について
所論は、要するに、原判決は、被告人が本件被害者Aを殺害した旨認定しているが、被害者を実際に殺害したのは、B某という人物であつて、被告人はBから脅されて包丁を準備し、同人が被害者を殺害した後、その指示に従つて被害者の所持品などを盗んだものであり、本件犯行について被告人は従犯的な地位にとどまるから、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。
しかしながら、原判決挙示の各証拠によれば、原判決の「罪となるべき事実を」を優に肯認することができ、原判決の認定判示は、「弁護人の主張に対する判断」の項において説示するところも含め、正当として是認することができるから、原判決に所論の事実誤認は認められない。
すなわち、原判決が正当に説示するとおり、被告人は、逮捕された後、ごく一時的に犯行を否認したほかは、捜査の初めから終わりまで一貫して本件が自分独りの犯行であることを自白しており、その供述内容も、極めて詳細、具体的であつて、実際に経験した者でなければ供述できない迫真性、臨場感に富んでいるばかりでなく、刺した部位や具体的な刺し方、特に、左下腹部を刺した後被害者に馬乗りとなり、その抵抗を排して頚部を刺した上、更に前胸部にとどめを刺すまでの状況及び犯行直前の被害者の行動などについての供述は、遺体の左下腹部の刺創の深さ、頚部の損傷の状況、前胸部内の創洞の状況及び寝室の洋服だんす内の衣類の収納状況などの客観的事実と極めてよく合致していること及び被告人の供述やこれを裏付ける客観的証拠から明らかなとおり、被告人には十分な犯行動機が存在したことなどを考え合わせると、右自白内容は自然で合理的と言うことができ、十分信用に値すること、これに対して殺害行為を否定する被告人の原審及び当審公判廷における弁解供述は不自然で不合理なものというほかなく、右捜査段階での供述と対比して到底納得できるものではないことにかんがみると、原判示「罪となるべき真実」を優に肯認することができるというべきである。
以下、所論にかんがみ検討する。
1 所論は、まず、被告人の捜査官に対する自白調書の信用性について、被告人の表現能力は稚拙で、筆談、手話による理解力も不十分であり、また、筆談、手話による長時間の取調べは被告人を著しく疲労させる結果、いい加減な供述をさせ易い。このような被告人の表現能力や手話による表現上の制約に加えて、被告人を犯人と決めてかかる捜査官らの強引な捜査態度を考えると、迫真性と臨場感に富む被告人の捜査供述を過大評価することは危険である。例えば、被告人が被害者の胸部に「ずぶずぶと包丁を刺した」とか、被害者が包丁を抜いたとき「眼をぱつと開きました」などと記載されているように、被告人の述べていない言葉が、捜査官による理詰めの追及、誘導によつて作り出された疑いが強い旨主張する。
しかしながら、証人C及び同Dの原審公判廷での各供述によれば、被告人は、任意同行の求めに応じて綾瀬警察署に到着した後、事情聴取が開始されると間もなく、黙つて自分からメモ紙に犯行を含む当夜の行動を箇条書き的に書き始め、その後引き続き右のメモよりも詳細な上申書を作成しており、その間、捜査官の方では質問も控え、被告人が書くのに任せていたこと、その後の多数回に及ぶ取調べの際も、捜査官は被告人が聴覚障害者であることを常に念頭におき、できるだけ誘導を避けるため、被告人自身に犯行状況を紙に書いて説明させたり、言葉遣いや顔の表情にも気を配るなど任意の供述を得るよう細心の注意を払つていたことが認められる。このことは被告人が、原審公判廷で殺害の状況など犯行の核心的部分についても、自分の方から述べたものであつて、捜査官の誘導によるものではない旨供述している事実及び被告人の司法警察員に対する供述調書には、できる限り供述の過程をも明らかにするため、問答形式の記載が多用されている事実などからも窺うことができる。また、筆談、手話による長時間の取調べの疲労を言う点については、証人Cの原審及び当審における供述によれば、取調べの間には休憩時間を設けてあり、被告人からも取調べの時間が長いという苦情は出ていないこと、捜査官の方でもできるだけ筆談による取調べを避け、被告人が疲労しないよう配慮していること及び図面やメモ作成など手話によらない部分もかなりあることが認められるから、筆談、手話による取調べが所論のように誤つた供述を導き出すほどのものとは認め難い。さらに、被告人の表現能力を言う点については、なるほど、被告人の文章は全体として幼稚な印象を否めないが、それでもなお文意は十分に汲み取ることができるのであつて、所論が当を得ないものであることは、原審弁護人や妹にあてた手紙などの文面からも窺えるように、被告人は漢字を豊富に使つて自分の言いたいことを極めて詳細に述べることができ、自分の意思を相手に伝える能力にそれほど欠けるところはないと認められること及び所論が指摘する表現についても、当審公判廷で被告人が、「ずぶずぶと刺す」、「ぱつと眼を開いた」などの言葉は否定しながらも、包丁をひと突きにではなく二段階に分けて刺す動作や人指し指と親指を開く動作など調書の表現に相当するような動作によつて説明した旨供述していることなどからも裏付けられているというべきである。結局、所論指摘の諸点は被告人の自白調書の任意性はもとより、信用性を左右するものではない。
2 所論は、次に、被告人の自白調書では、被害者を刺した際に血はあまり出なかつたとされているが、被害者方寝室のベッドの北側付近、ベッドの上、寝室入口襖の下方、その他部屋のあちこちに血痕が付着しており、被告人の供述内容と合致せず疑問である旨主張する。しかし、被告人の自白その他関係証拠によると、犯行当時被害者は上半身裸であり、腹部を刺した後の攻撃が洋服だんすの前からベッドの北側へ移動し、更にベッドの上に仰向けになつた被害者の上に、包丁を左手に持つた被告人が馬乗りになつて押さえつけていること、喉を刺される際被害者は必死に抵抗していること、被害者の腹部を圧迫すれば体外への出血が十分考えられ、現に被告人の両足の甲に血が付着していたこと、被害者の右足が寝室入口襖の下方に接着していたこと、犯行後被告人が素足で室内を歩き回つたため、各所に血痕が付着していること、などの事実が認められる。このような状況を考え合わせると、ベッドの北側及び入口襖下方の血痕については、被害者の腹部または刺した包丁から滴下した血液が、被害者または被告人の足によつて拡散、付着したものであり、また、ベッド上の細長い血痕については、刃物様の形状から見て、被告人が被害者の胸部を刺した後、包丁を持つたままベッドに左手をついたために生じたものと考えることができるし、さらに、寝室内の南側壁や整理だんすの血痕についても前記のとおり喉を刺される際の被害者の抵抗を考えると、その過程で血液が飛び散つたものと見ることに支障はないから、いずれも被告人の自白内容と矛盾するものではない。被告人の自白調書に室内の血痕についての明確な供述がない点は、犯行時の心理状態から考えて、被告人にはつきりした記憶がないことも格別不自然ではないから、このことから被告人の自白内容に疑問があるということはできない。
3 所論は、さらに、被告人を脅したBとういう人物は、被告人の弁解によると、被害者のホモのパートナーで、やくざ風の男であり、被害者の薬物事犯にも関係があると思われる人物であるということであるが、被害者には同性愛の傾向があつてその方面の交友関係も広く、また、やくざとのつき合いも窺われるから、被害者の周囲に被告人の述べるBのようなやくざ風の人物がいたとしても何ら不思議ではない旨主張する。
しかし、原判決も正当に説示するとおり、被告人のBに関する供述は、重要な点において前後変転していることや、裏づけ捜査の結果、被害者の周辺にはそのような人物の片鱗さえも見出せないことに加え、Bとの共謀及び打合せに関する状況も極めて漠然としている上、B本人の年齢や日本人か外国人かも一定しないことなどに徴すると、Bという人物の存在は疑問というほかはない。所論が指摘する被害者のやくざとの交友関係や薬物事犯との関係についても、本件当時の被害者の生活状況や被害者の遺体からは何ら薬物反応が出ていない事実に徴して認め難いところである。本件捜査の当初から捜査官が、共犯者の存在を念頭に置き、被告人に対して共犯者の有無を繰り返し確かめながら取調べを進めていることは、被告人の上申書や供述調書の記載内容から明らかであつて、Bのことを話す機会は十二分にあつたことを考えると、被告人の原審及び当審公判廷における弁解は、いかにも唐突、不自然であり、このような捜査の経過及び弁解内容に照らして、所論は到底首肯できるものではない。
その他、所論が原判決を論難する諸点も、原判決「罪となるべき事実」の認定を左右するものではないから、所論は失当である。論旨は理由がない。
二 検察官の控訴趣意第一及び第二(事実誤認又は法令適用の誤りの主張)について
所論は、要するに、原判決は、被告人を「いん唖者」と認定した上、刑法四〇条を適用して法律上の減軽をしているが、同条に定める「いん唖者」とは、判例・学説上、聴覚及び言語の両機能を喪失した者をいうものと解されているところ、被告人は、健常者とそれほど違わない聴力及び言語能力があるため、職場やその他日常生活の面で大きな不便を感じておらず、両機能を喪失しているとは到底言えないから、原判決の右認定判示は、被告人が聴覚及び言語の両機能を喪失しているとの重大な事実誤認を犯したものであるか、又は、被告人が現在保有している聴覚及び言語の機能の程度であつても、なお、刑法四〇条の「いん唖者」に当たるという誤つた右法令の解釈適用に基づくものであつて、これら事実誤認又は法令適用の誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
そこで、原裁判所が取り調べた証拠を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて考察すると、以下の事実を認めることができる。
1 被告人は、正常児として出生したが、生後一年を迎えるころ、風邪から中耳炎を併発し、治療に使用した抗生物質の副作用によると思われる聴覚障害を負うに至つた。そのため東京都立足立ろう学校小学部へ入学し、同校中学部、綾瀬ろう学校高等部本科を経て、昭和五八年三月同部専攻科を卒業したが、これら各学年を通じて被告人の成績は中程度であり、また、足立ろう学校就学当時の記録によれば、被告人は不十分ながら聴く能力と話す能力を持つていた。
2 被告人は、同年四月、甲野工業甲田工場に就職し、約二年九か月間、自動二輪車エンジン部品の加工作業に従事したが、その間、職場での作業や会社の社員寮での日常生活では、補聴器を使用して相手の声を聞き取り、また、肉声で会話するなどしており、上司や同僚との意思の疎通に格別の支障はなかつた。
3 家族との日常生活においても、被告人は、補聴器を使用することにより、家族らの話す言葉を十分聞き取ることができ、補聴器を外している場合でも、少し大きな声を出せば聞き取ることができた。また、多少聞きづらい点はあるものの、日常生活に必要な簡単な言葉を肉声で話すことができた。
家族以外の者との間でも、被告人は、補聴器を使用することにより、手話や筆談ではなく、肉声で、アパートの住人と話を交わし、時には寸借を申し入れたり、また、質店で質入れの交渉に必要な言葉を話したり、店の者の言葉を聞き取ることができた。
4 本件の警察での取調べにおいて、被告人は、手話通訳者が到着するまでの間や通訳者が来署できなかつた際などには、補聴器を使用することにより、取調官の言葉を聞き取り、難しい用語などは別として、筆談によることなく、ほとんど口話で取調べが行われた。また、取調べの合間の雑談では肉声で的確に返事したり、更に、口話の例として、取調べ終了後被告人の方から、当時関心の強かつたプロ野球のドラフト会議の結果について次々と問いかけ、取調官の答えに反応を見せながら聞き入るということもあつた。
5 被告人は、昭和四六年三月、聴覚障害により、東京都から一種二級の身体障害者手帳の交付を受けており、右交付申請時の聴力測定結果は、右九三デシベル、左九一デシベル(現行の一〇一及び一〇三デシベルに相当)に該当するとされているが、他方、綾瀬ろう学校就学当時の一学年、三学年及び専攻科一年の聴力検査における平均聴力レベルは、右七一・二ないし七八・七デシベル、左六二・五ないし七二・五デシベルであつて、この数値を現行の身体障害者障害程度等級表(身体障害者福祉法施行規則別表第五)に当てはめると、四級ないし六級に相当する。
そして、現在の被告人の平均気導聴力レベルは、右八六デシベル、左八四デシベルであつて、この難聴の程度は前記等級表の四級に相当する。被告人の場合、補聴器の使用開始時期が遅く、手話などに頼つていたため、本来有している聴覚能力が十分に発揮できない面はあるものの、高度の難聴ではあるがろう者ではない(一般に、全ろうとは、両耳の平均聴力が一〇〇デシベル以上の者がこれに当たると考えられており、一部には測定器の限界である一一〇デシベル以上とする見解もある。)。
また、被告人の発声機能には異常がなく、ただ、構音の障害であるひずみのため多少聞き取りにくい点はあるものの、自分の話す言葉を相手に理解させる能力は損なわれていない。
右に認定した被告人の聴力測定結果、学校、職場やその他日常生活における意思伝達の状況及び本件取調べ時の口話による問答の状況などを総合すれば、被告人は、高度の聴力障害者ではあるが、なお、聴力及び言語の両機能を保有していると認められ、いまだこれを喪失した者とは言えないから、したがつて被告人は刑法四〇条にいう「いん唖者」には当たらないと言わざるを得ない。
弁護人は、被告人の聴覚障害の程度であつても、そのために言語的発達が遅れ、これが被告人の知的未発達、ひいては精神的能力の未成熟をもたらしているから、同条の立法目的に照らし、「いん唖者」に当たると解すべきである旨主張する。しかし、刑法四〇条は、いん唖者が、その障害のため一般通常人に比べて精神的発達の面で著しく劣つているとの観点から、その刑事責任を減免することを定めたものであるから、その障害の程度は、一般的にみて真に精神的発達を阻害する程度に重いものであることを要するのであつて、聴覚及び言語の両機能を先天的に有しないか、又は、極めて幼少時に失つたろう唖者に限られると解するのが相当である。そして、同条の規定は、旧刑法八二条が、いん唖者の行為を画一的に不可罰としていたのを改め、立法当時のろう教育の状況に照らし処罰可能な場合があることを認めたものであるところ、更にその後のろう唖教育の著しい進歩によつて、いん唖者を特別扱いする必要がなくなつたことなどの理由から、改正刑法草案では現行刑法四〇条に相当する規定を設けないこととされるに至つたという法改正の沿革や動向に徴すると、刑法四〇条の「いん唖者」については、前示のとおり限定的に解釈すべきであつて、その範囲を拡張することは相当でないと解される。被告人の精神的能力の発達の程度は、いん唖者とされた上での不可罰か減軽かを決する事由ではあつても、いん唖者の判定に当たり考慮するのは妥当ではない。
以上によれば、被告人をいん唖者と認定の上、刑法四〇条を適用して法律上の減軽をした原判決には、被告人が聴覚及び言語の両機能を喪失した者であるとの重大な事実誤認を犯したか、又は、被告人が現在保有している両機能の程度であつても、なお、刑法四〇条の「いん唖者」に当たるという同条の解釈を誤つたかの、いずれかの違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。したがつて、検察官のその余の論旨(量刑不当の主張)について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。
三 破棄自判
そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により更に次のとおり判決する。
(罪となるべき事実)
原判決「罪となるべき事実」記載のとおり(ただし、冒頭の「いん唖者であるが」を削除する。)。
(証拠の標目)《略》
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二四〇条後段に該当するところ、所定刑中無期懲役刑を選択するが、犯情を考慮し、同法六六条、七一条、六八条二号を適用して酌量減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役一五年に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一四〇日を右刑に算入することとし、刑訴法一八一条一項ただし書により原審及び当審における訴訟費用は被告人に負担させないことにする。
(量刑の理由)
本件は、定職に就かず、友人や元同僚らから次々と借金を重ねて遊び暮らしていた被告人が、これら多額の借金の返済に加えて、女友達との旅行の費用などまとまつた現金を作る必要に迫られた結果、知人である被害者を殺害して金品を強取しようと決意し、入念な準備をした上で被害者の帰宅を待ち受け、帰つてきた被害者に対し、口実を設けて同人方に入り、隠し持つていた刺身包丁で被害者の腹部、頚部、胸部を突き刺して殺害し、現金約一万四〇〇〇円及びセカンドバッグなど五点(時価合計約二万九〇〇〇円相当)を強取したという事案である。
犯行の態様は、右の包丁で、無警戒の被害者の腹部をめがけて体当たりして一回強く突き刺した上、被害者の必死の抵抗を排して更に喉を刺し、なおも最後のとどめを刺すため、瀕死の被害者の胸部を徐々に突き刺して殺害の目的を遂げたものであつて、極めて非情冷酷であるばかりか、綿密な準備の上で行われた計画的犯行であることに徴して誠に悪質である。
犯行の動機も、身についた浪費癖と二年近くも遊び暮らす生活によつて累積した多額の借金の返済に加えて、女友達に対する見栄もあつて全額負担を約した旅行費用の支払いなど、まとまつた金を作る必要に迫られたあげくの犯行であつて、被告人のために酌むべき事情を見出すことは困難である。
一方、被害者は、被告人と同じ聴覚障害者である上、同じく聴覚障害者である二人の娘を養護施設に預けるという不幸な境遇にもかかわらず、犯行当時は定職に就き、娘たちと同居できる日を楽しみに堅実な生活を送つていたものであつて、何の落ち度もないのに、無残にも被告人によつて突然その生命を奪われた無念さはもとより、残された遺族の悲しみは察するに余りあるものというべきであるが、現在に至るまで被害者の遺族に対しては何らの慰謝の措置も講じられておらず、遺族の被害感情はなお極めて厳しいものがある。
このような本件の犯情に照らすと、被告人の責任は誠に重いと言わなければならず、被告人に対しては無期懲役の刑が相当であるとする検察官の意見にも一理あると認められる。
しかしながら、他方、被告人は、前示のとおり、ごく幼いころから高度の聴覚障害という重荷を背負つて成長して来た者である。被告人は明るい外向的な性格の反面、他人に依存し易くまた、虚言の多い無責任な性格の持ち主でもある。被告人の幼児期からの聴覚障害が、このような幼児性ないし社会性の未発達という性格的特徴の形成に直接間接の影響を及ぼしていることは否定し難いところである。のみならず、被告人は、幼少期弟妹がいたため母親から十分面倒を見てもらえず、また、中学校当時父親が病死し、母親が働きに出たことなどから、親との接触の機会を持てないまま思春期を過ごしており、このことも被告人の右のような性格を強める結果となつたことが考えられる。したがつて、本件犯行の動機自体については酌量に値する事情が認められないとしても、犯行動機の背景となる被告人の性格、感情及び思考態度などの全人格的形成の面に影響を及ぼした前記の事情は量刑上考慮するのが相当であり、この点の弁護人の指摘は十分首肯することができる。このほか、被告人には前科、前歴がないことなど被告人に有利な事情を併せ考え、酌量減軽の上、主文のとおりの刑を量定する。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 新谷一信 裁判官 荒木勝己 裁判官 上田幹夫)