東京高等裁判所 平成2年(ネ)1607号 判決 1991年4月30日
控訴人
野村次郎
右訴訟代理人弁護士
中元信武
同
大西啓介
被控訴人
国
右代表者法務大臣
左藤恵
右指定代理人
武井豊
同
石原秀
同
宮崎明好
同
渡邉泰雄
主文
一 原判決を取り消す。
被控訴人は控訴人に対し、金六〇四万八〇〇〇円及びこれに対する昭和五九年九月一七日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
控訴人のその余の請求を棄却する。
二 訴訟費用は、第一、二審を通じ、一〇分し、その八を控訴人、その二を被控訴人の各負担とする。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は控訴人に対し、三〇二四万円及びこれに対する昭和五九年九月一七日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
4 仮執行の宣言
二 被控訴人
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
3 仮執行免脱の宣言(敗訴の場合)
第二 当事者の主張
当事者双方の主張は、次のとおり補正・追加するほか、原判決の事実に摘示されたところと同一であるから(原判決二枚目表六行目から同一四枚目裏一〇行目まで)、これを引用する。
1 原判決二枚目表七行目の「昭和五九年九月一二日ころ」から末行の「示したが」までを「ダイイチ信用の名称で金融業を営む者であるが、昭和五九年九月一二日、「鈴木邦夫」と名乗る者(以下「鈴木」という。)から、電話で、従業員富永勝夫を介し、鎌倉市七里ガ浜東二丁目二二四七番一〇宅地297.89平方メートル(以下「本件土地」という。)を担保に、三〇〇〇万円ほど借り受けたい旨の申込みを受けた。そして、鈴木は、同月一四日控訴人方事務所を訪れ、営業部主任の中村剛(本名鄭剛憲)(以下「中村」という。)に対し横浜地方法務局鎌倉出張所(以下「本件登記所」という。)の作成、交付に係る本件土地の登記簿謄本を示したが」に、同二枚目裏六、七行目の「原告は」から八行目の「昭和五九年九月一七日」までを「中村は、鈴木が本件土地の所有者であると信じ、控訴人の了承を得て、同月一七日、三二〇〇万円を返済期日一か月後の約定で貸し渡すこととし、保証書、印鑑証明書等の根抵当権設定登記申請に必要な書類を預かった上」にそれぞれ改め、九行目末尾の次に「そして、控訴人は、本件土地につき翌一八日受付で極度額四〇〇〇万円の根抵当権設定登記を受けた。」を加える。
2 同二枚目裏末行の「本件登記簿謄本の本件記載は不実のものである。」を「右の登記簿謄本は、本件土地の登記簿原本に不正に記入された本件記載につき、作成、交付されたものであった。」に改める
3 同三枚目表一行目から七行目までを次のとおり改める。
「3 右の不実・不正の記入は、何者かが、昭和五九年九月一四日以前のさほど遠くない日に、本件登記所備付けの登記簿の閲覧に際し、本件土地の登記簿原本の用紙をひそかに抜き取った上、これに本件記載を記入し、登記官の偽造印を押印して改ざんした後、再び閲覧の機会を利用して右改ざんされた登記用紙を本件登記所備付けの登記簿にひそかに戻す方法によりなされたものである。」
4 同四枚目裏九行目の「不実な」を「不正記入に係る登記記載のある」に、一〇行目の「不実記載がある本件登記簿謄本」を「本件記載のある本件土地の登記簿謄本」にそれぞれ改める。
5 同五枚目表七行目の「請求原因1の事実は知らない。」の次に「ただし、本件記載のある本件土地の登記簿謄本を作成、交付したこと、及び、控訴人が本件土地につき昭和五九年九月一八日受付の根抵当権設定登記を経由していることは認める。」を加える。
6 同五枚目裏一行目の「同2の事実は知らない。」を「同2の事実のうち、本件土地の登記簿謄本が登記簿原本に不正に記入された本件記載につき作成交付されたものであったことは認め、その余は知らない。」に改める。
7 同五枚目裏二行目から四行目までを次のとおり改める。
「3 同3の事実は知らない。もっとも、その実行者、時期及び方法等の詳細は明らかでないが、本件記載が控訴人の主張する登記用紙の抜取り・改ざんの方法によりなされたものと推測することはできる。」
8 同六枚目裏三行目の「規定しているが、」を「規定している。」に改め、三行目の「このうち」から八行目の「ここでいう」までを次のとおり改める。
「 このうち、細則九条は、
「登記官ハ登記用紙ノ脱落ノ防止其他登記簿ノ保管ニ付キ常時注意スヘシ」とし、同三七条は、
「登記簿…ノ閲覧ハ登記官ノ前面ニ於テ之ヲ為サシムヘシ」
としている。前者は、登記簿保管上の一般的注意義務を明らかにしたものであって、登記官に個々の閲覧者の一挙一動を常時監視する義務まで負わせたものとは解されないし(閲覧者の圧倒的多数は善良な市民であって、本件不正行為のような犯罪発生の確率は極めて小さいうえに、登記用紙の抜取りは僅か数秒でもって完了する瞬間的犯罪であるため、閲覧者の動静を常時監視するとすれば、閲覧者数名につき一名の割合で監視員を置かなければならないが、そのようなことは予算上・定員上のみならず社会経済上も不可能であることから、右のような義務を負うものでないことは明らかである。)、また、後者は、登記官の目の届く範囲の場所で閲覧させることを要求したに止まり、必ずしも登記官と対面して閲覧させることまで要求したものではないと解される。
また、準則三一二条は、
「登記簿を閲覧させる場合には、次の各号に留意しなければならない。
一 登記用紙又は図面の枚数を確認する等その抜取、脱落の防止に努めること
二 登記用紙又は図面の汚損、記入及び改ざんの防止に厳重に注意すること」
としており、二号からは、登記簿保管の上で登記官に課せられる注意義務の程度が高度のものであることを示唆するものと解される。しかし、一号でいう」
9 同八枚目表末行の「考えられ、」の次に「しかも、登記用紙の抜取りに要する時間は五秒前後と推定される瞬間的犯行であることからすると、」を加える。
10 同九枚目表三行目の「閲覧件数に照らすと」を「閲覧件数は一万七〇三三件、一日平均八五一件であり、一日当たりの閲覧供用簿冊は約一七〇冊であるため、一冊につき約一五〇枚の登記用紙が編綴されているとして、」に改める。
11 同一一枚目裏六行目の「合致している。」を「合致しており、氏名を冒用された各登記官の登記官印の印影と酷似し、使用された朱肉の色も全く似通ているうえに、各登記官は、不正記入に係る登記の受付日当時いずれも本件登記所に勤務していた実在の登記官であった。」に、同行の「不実の記載」を「不正に記入された登記記載」に、一〇行目の「本件登記簿謄本」を「本件記載のある登記簿謄本」にそれぞれ改める。
第三 証拠<省略>
理由
第一登記用紙の抜取り・改ざんによる金員の騙取と被控訴人の損害賠償責任について
当裁判所は、控訴人が、鈴木から不正に記入された登記記載のある本件土地の登記簿謄本を示され、同人を本件土地の所有者であると誤信した上、貸付金名下に金員を騙取されたものであり、右犯行は登記簿への不正記入を利用したものであるところ、本件登記所の登記官に登記簿の閲覧監視を怠った過失があり、それが本件土地の登記簿原本の用紙の抜取り・改ざんを可能にさせたものであって、結局右過失が控訴人において被害を受けるに至った原因であることを否定できないため、被控訴人は、国家賠償法一条に基づく損害賠償責任を免れないと判断する。その理由は以下のとおりである。
一まず、控訴人が鈴木から金員騙取の被害を受けた点については、原判決の認定判断するとおりであるので、次のとおり補正・追加するほか、原判決の理由中の説示(原判決一五枚目表四行目から同二〇枚目裏一行目まで)を引用する。
1 原判決一五枚目表九行目の「午後五時ころ、」の次に「電話で従業員富永勝夫に対し、」を加える。
2 同一六枚目裏四行目の「及び乙第三号証」を「、小沢司法書士事務所を撮影した写真であることに争いのない乙第三号証」に、同一七枚目裏二行目の「利息分」を「月5.5パーセントの割合による一か月分の利息一七六万円」にそれぞれ改め、同行末尾に「控訴人は、翌一八日付けで右の根抵当権設定登記を経由した。」を加える。
3 同一八枚目裏三行目の「甲第一〇号証の二ないし四」の次に「(甲第一〇号証の四については原本の存在とも)を加える。
4 同二〇枚目裏一行目の次に改行して次のとおり加える
「4 本件土地の登記簿中の本件記載が不正に記入されたものであることは当事者間に争いがなく、右の事実と弁論の全趣旨を総合すれば、本件土地の所有者である近藤眞佐子と鈴木との間には何ら所有権移転の原因となる事実がなかったことが明らかである。」
二そこで、鈴木による金員騙取の犯行に利用された本件土地登記簿への不正記入が行われるについて、本件登記所の登記官にその職務遂行上過失があったか否か、また、その過失が右の不正記入を可能にさせたものであるか否かにつき検討する。
1 本件不正記入については、犯人が検挙されておらず、実行者、時期、方法等の詳細が不明である。しかし、<証拠>によれば、本件記載は、登記簿の登記用紙に直接記入する方法で行われたものであり、右の記入に当たっては、本件登記所で使用されているものと同一機種のものとみられるタイプ活字が使用され、文字の配列・間隔等も他の真正な登記記載と明らかな差異がなく、また、偽造された登記官の認印は不正記入に係る登記記載の受付日当時本件登記所に勤務していた実在の人物であり、その印影は形状、寸法更に朱肉の色は真正な認印の印影と酷似しているため、これが不正に記入されたものであるとは容易に看破ることができないものであったことが認められる。
以上によると、本件不正記入は、周到な準備の下に計画的に実行に移されたものであることは明らかであるが、本件登記所内部の者がこれに加担したとみられる形跡はない。そうすると、何者かが登記簿の閲覧を装って本件土地の登記簿から登記用紙を抜き取って本件登記所外に持ち出し、これに本件記載を不正に記入することにより改ざんを加えた上、再び登記簿の閲覧を装い、本件登記所内に持ち込み、登記簿に改ざんした登記用紙を返戻したものであると推認される。そして、本件記載のうち、所有権移転登記の受付日は昭和五四年一一月二六日、その付記登記である登記名義人表示変更の受付日は昭和五九年七月一三日と記載されているが、両登記記載に使用されたタイプ活字に印字上の濃淡に差異のないこと(前掲斎藤証言)や前示のような不正記入・金員騙取の態様に照らすと、本件記載がなされた時期は登記名義人表示変更の受付日とされている昭和五九年七月一三日から鈴木が金員騙取の犯行に着手する同年九月一二日までの間の同年九月に近接した時期と推認するのが相当である。
2 <証拠>並びに弁論の全趣旨によると、本件土地の登記簿から登記用紙の抜取り、改ざんがされたとみられる昭和五九年九月に近接した時期における本件登記所の登記簿の閲覧に対する監視状況は、以下のとおりであったことが認められ、前掲中村証言中右認定に反する部分は採用せず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) 昭和五九年四月現在、本件登記所には所長以下一〇名の職員が配置されており、このうち、登記官は、所長である統括登記官、権利担当登記官、表示担当登記官の計三名であり、所長が本件登記所事務全般につき統括管理するほか、登記校合・供託を、権利担当登記官が登記校合・調査のほか庶務会計を、表示担当登記官が登記校合・調査をそれぞれ担当し、登記官以外では、調査担当一名、記入担当二名、供託・庶務会計担当一名、認証担当二名の職員が各自事務を分担していた。このほか、臨時の賃金職員一名が登記簿の粗悪用紙の移記作業に従事しており、繁忙時には認証事務の補助もしていた。右の職員の配置・事務分担は、同年九月当時においても変更はなかった。
そして、登記簿の閲覧に対する監視は、職員が本来の事務を処理する傍ら、これに当たるものとされていた。
(二) 登記簿の閲覧は、事務室内に設けられた、細長い六台の閲覧机で行うことになっており、右閲覧机は一台につき三人掛けのため最大一八名までが閲覧可能であった。閲覧者は、閲覧を希望する土地建物の所在地番等を記載した閲覧申請書を受付に提出した上、担当職員から当該の土地建物の登記簿が編綴されたバインダー式の登記簿冊を受け取り、右閲覧席で閲覧した後、閲覧席近くの返却台で返却することとされていた。公図の閲覧席は、登記簿の閲覧席とは別個に設けられていた。
そして、右の閲覧監視のため、所長席と権利担当登記官席とが閲覧者と向かい合う位置にあり、閲覧席後方には電動式の閲覧監視用鏡が一個設置され、所長と権利担当登記官は、その席から閲覧者の正面と背後からその動静を監視することが可能であった。
なお、閲覧席には「バインダーから登記用紙をはずさないこと」と記載した書面を貼付し、天井から同様の文言を書いたボードを吊り下げていた。
(三) 本件登記所の事件数は、毎年増加しており、昭和五九年度は、不動産登記等の登記申請事件である甲号事件が二万二二一七件、不動産登記簿等の謄抄本・閲覧申請事件である乙号事件が五六万三〇八九件(謄本申請三二万四二四八件、抄本申請一万八四五〇件、閲覧申請二〇万八一二三件、証明書申請一万二二六八件)であり、所長を除く甲号事件担当職員七名の一人当たりの取扱事件数は三一七三件、乙号事件担当職員二名の一人当たりの取扱事件数は二八万一五四四件であった。また、昭和五九年九月当時本件登記所を訪れる人は一日平均三〇〇名に上り、このうち、一五〇名から二〇〇名くらいは登記簿等の閲覧申請者であり、ピークの時間帯には待合室、閲覧席とも混雑し、閲覧席は三人掛けになって閲覧者と閲覧者との間隔が十分保てない状況となった。
このため、当時の所長は、本件登記所が横浜地方法務局管内でも超繁忙庁に位置付けされると考え、正規の職員の増員方につき繰り返し本局に上申していたが、実現には至らなかった。しかし、繁忙時には賃金職員の配置を受け、これに対応していた(本件後、賃金職員一名がさらに増員となった。)。
(四) 当時、本件登記所は、登記簿の閲覧の前後に登記用紙の枚数確認を行っていなかったし、また、登記簿の閲覧監視に専従する職員を置くことはなかった。職員のなかで閲覧監視に適した位置に席があったのは、所長と権利担当登記官だけであった。
このため、当時の所長は、昭和五八年四月に着任後、事務室のレイアウトを変更し、前記(二)のように所長席や権利担当登記官席を監視しやすい位置に変え、登記簿の閲覧席を六台の細長い閲覧机に変更し、登記簿の閲覧席と公図の閲覧席を分け、公図用のコインコピーを設置し、所長自らも閲覧席を見回るなど、閲覧監視態勢の強化に努めて来たが、それにもかかわらず、閲覧者のなかには登記簿を閲覧席から待合室まで持ち出したり、閲覧席の下の棚に入れたりする者や抜取り目的ではなかったものの登記簿冊のバインダーの止め金を外そうとした者もあった。
(五) 本件登記所では、昭和五九年九月当時閲覧者のために所持品を置くための専用の台を設けていたものの、所持品の閲覧席への持込み自体は禁止していなかった(本件以後、所持品を閲覧席下の足元に置くように指導するようにはなったが、相変わらず鞄類を閲覧机の上に置く者が少なくなかった。また、本件後も、同時に借り出し数冊の登記簿冊を閲覧者の手元が見えないような格好で閲覧机の上に立てて置く者もあった。)。
3 ところで、登記事務は国家の行う公証事務の一つであり、そのうち不動産登記制度は国が公簿により不動産に関する権利関係を公証・公示して不動産取引の安全に資するものであるから、これに従事する登記官は、いやしくも登記簿に不正記入が行われることのないように厳重に登記簿を保管する責務があるといわなければならない。細則九条が登記簿の保管につき「登記官ハ登記用紙ノ脱落ノ防止其他登記簿ノ保管ニ付キ常時注意スヘシ」と規定してその一般的注意義務を明らかにした上、同三七条が登記簿の閲覧につき「登記簿…ノ閲覧ハ登記官ノ面前ニ於テ之ヲ為サシムヘシ」と規定してその具体的な方法を定め、さらに準則二一二条一号及び二号において「登記用紙又は図面の枚数を確認する等その抜取、脱落の防止に努めること」、「登記用紙又は図面の汚損、記入及び改ざんの防止に厳重に注意すること」と規定しているのも、右の責務の内容を明確かつ具体化したものである。そして、被控訴人が抜取り自体は僅か数秒で完了する瞬間的犯行である旨主張していることからも明らかなように、現行のバインダー式の簿冊では比較的容易に登記簿から登記用紙を取り外すことができ、現に昭和五八年一二月に横浜地方法務局管内の他の出張所で本件と同様の登記用紙の抜取り・改ざんが発生していた(この点は当裁判所に顕著な事実である。)ことを併せ考えると、本件登記所においても、登記簿の閲覧監視の責任がある登記官は、自ら又は補助職員をして登記簿の閲覧の前後に抜取り・改ざんの有無を点検し(その効果的な方法について十分工夫を凝らすことも含まれる。)、その点検に不十分なところが生じるのであれば、閲覧者の動静に対する監視を一層厳重に行って防止に努めることが必要であったというべきである。そのためには、登記官以下の職員の監視の目が十分行き届かない繁忙庁にあっても、専門の閲覧監視員の配置が困難であれば輪番で閲覧監視に専従する等効果的な監視の方法を検討し、また、閲覧席における閲覧者同士の間隔を十分とり、鞄・紙袋類の閲覧席への持込みを制限又は禁止する等、登記用紙の抜取り・改ざんの防止のため可能な限りの措置を採るのでなければ、必要な注意義務を尽くしたとはいい難い。右の措置を採る上で人的・物的な障害が存在することは、不動産登記制度のもつ公証事務の重要性に照らして、直ちに右の注意義務を軽減させたり、免れさせるものではないというべきである。
ところが、本件登記所では、昭和五八年四月以降事務室のレイアウトを変更し、閲覧席を監視に適したものに改め、登記簿と公図とで閲覧席を区分し、所長自らも閲覧席を見回るなど、閲覧監視態勢の強化のために一定の措置を講じたことは認められるものの、前認定のように、昭和五九年九月当時、本件登記所の事務処理は輻輳しており、閲覧者の動静に対し十分な監視を行うことは到底期待しえない状況にあったにもかかわらず、専門の閲覧監視員を配置したり、あるいは輪番で閲覧監視に専従する等の措置を採っておらず、また、閲覧席における閲覧者同士の間隔も十分ではなく、閲覧者が抜き取った登記用紙の持出し・持込みに使うおそれのある鞄・紙袋類の閲覧席への持込みも禁止せず、一度に多数の登記簿冊閲覧を許していたというのである。そうしてみれば、本件登記所における職員の登記簿閲覧者に対する閲覧監視の態勢は十分なものであったということはできない。
そして、この種の犯行は、職員の閲覧に対する監視の目が行き届いていない登記所を選んで行われる傾向にあり、かつ、登記用紙の抜取り、持出しのためには複数の者が関与したことが十分考えられることからすると、右の本件登記所の閲覧監視の不十分さが犯人をして本件土地の登記簿から登記用紙を抜取り・改ざんすることを可能にさせたものと認めるのが相当であり、結局、控訴人が金員騙取の被害に遭ったことの原因には本件登記所の登記官の閲覧監視上の過失があるというべきである。
したがって、被控訴人は、控訴人が鈴木の詐欺によって被った損害金三〇二四万円につき、国家賠償法一条による損害賠償責任がある。
三なお、本件登記所の登記官に不正記入に係る本件記載のある登記簿謄本を作成、交付した点について過失があったものと認めることはできない。その理由は、原判決の認定判断するとおりであるから、原判決の理由中の説示(原判決三三枚目裏六行目から同三四枚目裏三行目まで)を引用する。
第二控訴人側の過失(被控訴人の過失と損害との因果関係の存否及び過失相殺)について
一被控訴人は、控訴人が事前に必要な調査を尽くさず、自ら危険を覚悟で本件貸付を行ったために被害に遭ったものであり、登記官の閲覧監視義務違反との間には因果関係がないと主張する。
1 <証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、控訴人が鈴木に金員を貸し付けるに至った経緯につき、前記引用に係る原判決認定の事実が認められるほか、
(一) 鈴木は、控訴人とは一度も取引がない、いわゆる飛込みの客であったが、中村は、運転免許証で本人であることを確認しただけで、不動産ブローカーであると称していた同人の身元や職業、収入、資産状況等につき全く調査しなかったこと、(二) 鈴木は、三〇〇〇万円もの高額の貸付を必要とする理由につき、茅ヶ崎の物件を約三〇〇〇万円で購入して約四五〇〇万円で転売するまでの間のつなぎの資金であると説明したが、これに対し、中村は、その取引に関係する不動産業者の名前を聞いて業者名鑑で確認したものの、それ以上に取引の内容を調査したことはなく、貸付金の返済時期に関係する右物件の転売の見込み等についても調査・確認をしなかったこと、(三) 本件土地は、鈴木が持参した登記簿謄本によれば、昭和五四年一一月二六日に同人が前所有者から売買で取得したとされていたこと、(四) 中村は、小山に命じて本件土地の調査をさせたが、その結果、本件土地は、更地であり、担保権の設定もなく、地元の不動産業者によればその価格は七〇〇〇万円程度で、貸付希望額の二倍を超える好物件であることが判明したこと、(五) 鈴木は、登記簿謄本、印鑑証明書、住民票を持参したが、登記済証については別れた妻に持ち逃げされたといって持参せず、これに代えて保証書を持参したのに対し、中村は、保証人となった司法書士夫婦に保証の経緯につき照会したことはなかったこと、が認められる。
2 右に認定したところによれば、中村としては、鈴木の身元が明らかでない、いわゆる飛込みの客であった上、その貸付希望額は三〇〇〇万円であったから、その身元や職業、収入、資産状況等につき十分調査をする必要があったにもかかわらず、僅かに運転免許証で本人であることを確認したに止まること、また、不動産ブローカーが本件土地のような好物件を取得後五年近くも転売するとか担保に供することなく所有していること自体不自然であり、他物件の購入資金を月5.5パーセントの高利で緊急に調達しようとしているという話自体に不自然なところがあったから、説明のあった売買取引の詳細を確認し、更には本件土地の所有関係について前所有者に確認するなど十分な調査をする必要があったのに、この点でも調査らしい調査をしなかったものであり、これらの点についての調査不足が本件被害に遭うことになった最大の原因であることは否定し難い。しかし、前記のとおり、中村は、本件土地の登記簿に本件記載があることから、鈴木が所有者であると信じ、本件貸付をするに至ったものであり、不動産登記簿の記載が不動産取引について有する前示のような重要性に照らすと、登記官の前記閲覧監視義務違反との間に因果関係がないとする被控訴人の主張は採用できない。
二しかし、控訴人が鈴木に対して本件貸付をするについては右に述べた調査不足の点があり、控訴人の従業員中村が十分な調査を行っていたならば更に不自然・不審な点が判明し、本件被害を容易に避けることが可能であったといえるから(前掲中村証言によれば、中村は、貸金の返済日が一か月後であり、まだ返済期日が到来していなかったが、貸付の翌々日には茅ヶ崎の物件の売買取引を確認するため鈴木と電話連絡を取ろうとして、同人が所在不明になっていることを知ったというのであり、中村自身、鈴木の説明に疑念を抱いていたことが窺われる。)、控訴人側の過失は重大であるというべきである。そして、登記簿への不正記入を利用した金員騙取の犯行において登記簿の記載内容がその成否を左右する重要な要因であることは否定し難いが、もともと不動産登記は公示された権利と実体とが一致することまで担保しているものではなく、右の不一致による被害についてはこれを利用する側で回避すべく期待されている。殊に本件のような金員騙取にあっては被害者側で被害回避のため採り得る措置が十分にあるのに対し、登記簿からの登記用紙の抜取りは閲覧監視に当たる職員の隙をみていわば瞬時に行われる犯行であって、本件登記所のように閲覧監視態勢の強化のため意を用いていたところでも実行されている。
以上の諸点を併せ勘案するならば、控訴人の被った損害につき被控訴人の過失責任を判断するに当たり、相殺すべき過失の割合は八割と定めるのが相当である。
したがって、被控訴人が賠償すべき損害額は六〇四万八〇〇〇円となる。
第三結論
以上の次第で、控訴人の本件損害賠償請求は六〇四万八〇〇〇円及びこれに対する昭和五九年九月一七日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるというべきであり、控訴人の請求を棄却した原判決は失当であるから、これを取り消し、右の限度で控訴人の請求を認容し、控訴人のその余の請求を棄却し、仮執行の宣言は相当でないから、これを付さないこととし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、九二条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大石忠生 裁判官渡邉温 裁判官犬飼眞二)