東京高等裁判所 平成2年(行ケ)172号 判決 1993年3月25日
アメリカ合衆国、カリフォルニア・九〇〇四八、ロス・アンジェルス、
ベヴァリー・ブールヴァード・八七〇〇
原告
シーダーズーサイナイ・メディカル・センター
右代表者
ポール・イェガー
右訴訟代理人弁護士
品川澄雄
同
弁理士 青山葆
東京都千代田区霞が関三丁目四番三号
被告
特許庁長官
麻生渡
右指定代理人
真寿田順啓
同
磯部公一
同
田中靖紘
同
田辺秀三
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告のための附加期間を九〇日と定める。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告
「特許庁が昭和六一年審判第二四一三七号事件について平成二年三月三〇日にした、昭和六一年一月三一日付け、昭和六二年一月一四日付け各手続補正の各却下決定を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決
二 被告
主文第一、二項と同旨の判決
第二 請求の原因
一 特許庁における手続の経緯
原告は、名称を「血漿の加熱処理」とする発明(以下「本願発明」という。)につき、一九八二年五月一三日にアメリヵ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和五八年五月一二日特許出願をし、昭和六一年一月三一日付けで手続補正(以下「第一次補正」という。)をしたが、同年九月一一日拒絶査定を受けたので、同年一二月一五日審判を請求した(昭和六一年審判第二四一三七号事件)。そして、原告は、昭和六二年一月一四日付けで手続補正(以下「第二次補正」という。)をしたところ、特許庁は、平成二年三月三〇日、第一次補正及び第二次補正をいずれも却下するとの決定をした(出訴期間として九〇日を附加)。
二 本件各補正に係る特許請求の範囲
1 第一次補正に係る特許請求の範囲
(1) 出血障害治療用AHF含有組成物中の後天性免疫不全症候群(AIDS)関連ウィルスを実質的に不活化する方法であって、前記組成物はヒト第Ⅷ因子濃縮物から成り且つ血液凝固酵素を本質的に含まず、(a)前記第Ⅷ因子濃縮物を凍結乾燥し、(b)後天性免疫不全症候群(AIDS)関連ウィルスを実質的に不活化するために、少なくとも六〇℃の温度で所定時間凍結乾燥状態で前記第Ⅷ因子濃縮物を加熱することから成り、前記ヒト第Ⅷ因子が加熱前後においてタンパク質一gあたり約一二〇〇AHF単位以上のAHF純度を有しており、前記ADIS関連ウィルスが第Ⅷ因子活性の実質的な低下をともなうことなく実質的に不活化されていることを特徴とする前記方法。
(2) 個々の血液凝固酵素に対するAHFの相対的活性(単位)が一〇対一ないし五〇〇対一の範囲にあることを特徴とする特許請求の範囲第1項に記載の組成物。
(3) 前記組成物が無菌水に溶解されていることを特徴とする特許請求の範囲第1項または第2項に記載のAHF含有組成物。
(4) 前記温度が六〇℃ないし一二五℃の範囲にあることを特徴とする特許請求の範囲第1項ないし第3項のいずれかに記載のAHF含有組成物。
2 第二次補正に係る特許請求の範囲
(1) (a)プールヒト血漿から製造され、(b)プロトロンビン複合体、第Ⅸ因子、第ⅩⅡ因子、第ⅩⅢ因子、フイブリノーゲン、アルブミンおよびガンマグロブリンを実質的に含まない程度まで純化されており、(c)凍結乾燥状態において六〇ないし一二五℃の温度範囲で第Ⅷ因子活性の実質的な低下をともなうことなく後天性免疫不全症候群(AIDS)関連ウイルスが実質的に不活化されるに足る時間加熱された、(d)実質的にAIDS関連ウイルスを含まず、かつ(e)タンパク質一gあたり約一二〇〇AHF単位以上のAHF純度を有するヒト第Ⅷ因子濃縮物。
(2) プールヒト血漿から製造され、かつプロトロンビン複合体、第Ⅸ因子、第ⅩⅡ因子、第ⅩⅢ因子、フイブリノーゲン、アルブミンおよびガンマグロブリンを実質的に含まない程度まで純化された、後天性免疫不全症候群(AIDS)関連ウイルス含有ヒト第Ⅷ因子濃縮物を、凍結乾燥状態において六〇ないし一二五℃の温度範囲で第Ⅷ因子活性の実質的な低下をともなうことなくAIDS関連ウイルスが実質的に不活化されるに足る時間加熱することを特徴とする、実質的にAIDS関連ウイルスを含まず、かつタンパク質一gあたり約一二〇〇AHF単位以上のAHF純度を有するヒト第Ⅷ因子濃縮物の製造法。
三 本件各補正却下決定の理由の要点
1 第一次補正却下決定の理由の要点
(一) 第一次補正は、<1>特許請求の範囲を全文補正するとともに、<2>例1及び例2を加入するものである。
(二) <1>の補正について
(1) 補正された特許請求の範囲第1項に記載された発明は、前記二項1(1)記載のとおりであって、ヒト第Ⅷ因子濃縮物中のエイズ関連ウイルスを、第Ⅷ因子活性を実質的に低下させることなく不活化することを発明の構成に欠くことのできない事項とするものである。
(2) これに対して、本願の願書に最初に添付した明細書(以下「当初明細書」という。)をみると、その特許請求の範囲の第1項に「(1)第Ⅷ因子を含む実質的に乾燥した組成物中に存在する微生物の感染性を弱め若しくは除去するための該組成物の処理方法であって、微生物の感染性を弱め若しくは除去するのに充分な所定の温度で所定の時間該組成物を加熱することからなる前記処理方法。」の発明が記載され、その微生物がウイルスである実施態様が第25項に、さらにそのウイルスが肝炎ウイルスである実施態様が第26項に記載されている。また、当初明細書には、本願発明の技術的背景及び発明の課題に関して、肝炎ウイルスは血しょうの分画に際して、第Ⅷ因子、第Ⅸ因子等の血液凝固因子の画分に分布することが知られており、したがって、血液凝固因子を治療に用いる場合には肝炎のリスクがあるが、先行技術ではこれが回避できなかった旨、及び、本願発明によって血液凝固因子の活性を破壊することなくその中に存在する肝炎ウイルスを不活化する方法が確立された旨記載されている(第一六頁七行ないし第二二頁二行)。さらに、当初明細書には、凝固因子活性保持確認テスト方法及び結果が記載され(第二二頁三行ないし第四七頁一一行)、それに基づいて、第Ⅷ因子は凍結乾燥状態では凝固活性を著しく損なうことなく高温で長時間加熱することができる旨記載され(第四七頁一二行ないし一五行)、これを利用すれば、凝固因子の治療上の完全性を保持しながらその中に含有される肝炎ウイルスを不活化し得る旨記載されている(第四八頁七行ないし一二行)。
(3) しかしながら、AIDSに関連する記載としては、当初明細書の第五〇頁六行ないし一〇行に「本発明の他の典型的具体例の内に、AIDSすなわち後天性免疫不全症候群と関連のあるウイルス、サイトメガロウイルス(cytomeglovirus)およびEBウイルス(epstain-Burvirus)の如き好ましくない微生物の不活性化が含まれる。」があるのみで、どのような条件を採用すればどの程度不活化されるか具体的な事実は全く示されていない。
そして、請求人(原告)が平成元年九月一八日付け上申書に参考資料2として添付したドラーナ博士の宣誓供述書において文献を引用しながら「特定のウイルスの不活化の挙動は、ウイルスの構造(蛋白含量、脂質の有無、核酸の型など)、ウイルスの物理的条件、不活性化剤、不活化の温度と時間及び生物学的製剤それ自身の性質を含む種々のパラメータによって左右される」(訳文第六頁二行ないし六行)と述べられているところからも明らかなように、一般に或るウイルスがどのような条件で不活化されるかは、実施してみて始めて判明することであって、単にウイルスであるということのみを根拠に、特定条件で不活化されることが自明であるということはできない。
しかも、本願出願時においては、AIDSすなわち後天性免疫不全症候群という病気は知られていたが、その原因については、ウイルスである可能性が論じられていた程度で、原因となるウイルスは未だ発見されてなく、ウイルスの種類、血しょう分画の際の分布、熱に対する感受性等全て明らかではなかったのである。
さらに、それにもかかわらず本願出願時にAIDS関連ウイルスを不活化する発明が完成していたと主張する根拠を求めて発した平成元年九月二八日付けの尋問書に対して、原告は、単に本願発明者は当該技術分野における卓越した知識と経験に基づき、本願発明の加熱条件において第Ⅷ因子活性を実質的に損なうことなくAIDSウイルスを不活化することができるであろうことを確信した旨述べるのみで、どのような事実を根拠に確信したのか具体的に説明していない。
してみると、当初明細書の前記数行の記載は、きわめて漠然とした着想を述べたにすぎないというべきであって、これをもってAIDS関連ウイルスを不活化する方法の発明が開示されているとはいえない。
(4) したがって、<1>の補正は、明細書の要旨を変更するものに該当する。
(三)<2>の補正について
本願の当初明細書には、前記したとおり、AIDS関連ウイルスを不活化する方法の発明は開示されていなかったのであるから、その実施例を補充する<2>の補正も、明細書の要旨を変更するものに該当する。特に、補充された実施例は、第Ⅷ因子濃縮物にAIDS関連ウイルスを特定量加え、加熱処理後に残存するウイルスを測定するものであるが、前記したとおり、AIDSウイルスは、本願出願時には未だ発見されていなかったのであるから、このような実施例が当初明細書に記載された事項の範囲内のものとは到底いえない。
(四) 以上述べたとおり、<1>及び<2>の各補正は、いずれも明細書の要旨を変更するものに該当するから、第一次補正は、特許法第一五九条第一項において準用する同法第五三条第一項の規定により却下すべきである。
2 第二次補正却下決定の理由の要点
(一) 第二次補正は、特許請求の範囲を全文補正するものであって、補正された特許請求の範囲に記載された発明は、前記二項2(1)、(2)記載のとおりであって、第1項の発明及び第2項の発明ともに、ヒト第Ⅷ因子濃縮物中のエイズ関連ウイルスを、第Ⅷ因子活性を実質的に低下させることなく不活化することを発明の構成に欠くことのできない事項とするものである。
(二) 前記1(二)(2)、(3)と同一である。
(三) したがって、第二次補正は、明細書の要旨を変更するものに該当し、特許法第一五九条第一項において準用する同法第五三条第一項の規定により却下すべきである。
四 本件各補正却下決定を取り消すべき事由
1 第一次補正却下決定の理由の要点(一)、(二)(1)、(2)は認める。同(二)(3)のうち、本願の当初明細書(甲第五号証の二)の第五〇頁六行ないし一〇行及びドラーナ博士の宣誓供述書に審決摘示の各記載があることは認めるが、その余は争う。同(二)(4)、同(三)、(四)は争う。
第二次補正却下決定の理由の要点(一)は認める。同(二)については、第一次補正却下決定の理由の要点(二)(2)、(3)に対する認否と同一である。同(三)は争う。
本件各補正却下決定(以下「本件各決定」という。)は、当初明細書にはAIDS関連ウイルスを不活化する方法の発明が開示されているとはいえないとした上、第一次補正に係る<1>、<2>の各補正及び第二次補正は、いずれも明細書の要旨を変更するものに該当するとしているが、右認定、判断は誤りであり、本件各決定はいずれも違法である。
本願の優先権主張日当時において、ウイルスは一般に熱処理によって不活化されること及びエイズの原因はウイルスであることが知られており、エイズウイルスも熱処理によって不活化されるという知見が得られていたものであり、右各知見に基づいて本願の当初明細書をみれば、当初明細書には、エイズ関連ウイルスを不活化する方法が開示されているものというべきである。
2(一) まず、本願の優先権主張日当時において、ウイルスは一般に熱処理によって不活化されることが知られていたことは、飯田廣夫著「微生物学入門」(甲第一六号証の一ないし三)の第一三六頁に「ウイルスは一般に熱に対しては抵抗性が弱く、五五~六〇℃、数分間の加熱によって感染力を失う。これはキャプシド蛋白の変性による。」と記載されていること、C.A.Knight著/北村敬訳「ウイルスの化学」(甲第一七号証の一ないし四)の第一七一頁に「ある感染性ウイルス粒子が感染性を保持しうるためには、その核酸の化学的構造に不可逆的な損傷を受けてはならず、また、その核酸が、転写-翻訳機構(酵素、附着のための諸因子、その他)と正常に反応しうるような形でウイルス粒子より遊離されえなくてはならない。この公式から、次のように二つの一般的方法でウイルスを不活化することができると予言される:(1)核酸に変化を与え分子生物学の中心公理の図式(自己複製、転写、翻訳)内での機能を失わせる。(2)ウイルス粒子の蛋白質外被あるいはその他の構造(例えば、ファージの尾糸、ボックスウイルスのRNA重合酵素等)に変化を与え、ウイルス核酸を遊離させて細胞内の機能部位に到達させることを不可能ならしめる。このような二つの不活化方式のいずれも幾つか実用的な方法が発見されており、いずれの方式の不活化も、加熱、放射線照射、化学薬品処理、等で起こりうる。」、第一七二頁に「二五~七〇℃の温度での感染性の喪失は、疑いもなく、大部分蛋白質成分の変化に帰することができる。熱による変性は、核酸よりも、蛋白質のほうにずっと起こりやすいからである。」、「七〇℃以上になると、二本鎖核酸の解裂が起こるし、すべての核酸で、最終的には糖-燐酸骨格の無秩序な断裂が起こる。すなわち、高温では蛋白質、核酸共に重篤な、時として不可逆的な損傷を受ける。更に、幾つかのウイルスの脂質を含むエンベロープでは、七〇℃以下の温度でも崩壊がみられる。」と記載されていること、安田純一著「血液製剤」(甲第一九号証の一ないし三)の第一三〇頁に「WHO基準がCohn法で分画し、六〇℃一〇時間加温処理する製法を『汚染のriskが最小であることが経験的に示された方法』(略)という辺りが正当な評価といえよう。」と記載されていること、一九六九年開催の輸血国際学会第一二回会議会報(甲第二四号証)に、肝炎ウイルス感染のフィブリノーゲンとアルブミン調整品を乾燥させた後、六〇℃で一〇時間乾熱するとウイルスが不活化することが記載されていること、世界保健機構技術レポートシリーズ第五一二号(甲第二五号証)に、ウイルス感染の恐れのある製品と考えられているアルブミン等も、六〇℃で一〇時間加熱処理することによって安全である旨記載されていること、からいって明らかである。
(二) 次に、エイズの原因はウイルスであることが知られていたことは、ウイリー・ローゼンボウム外著「エイズを生きる」(甲第八号証の一ないし四)、杉本正信著「エイズとの闘い」(第九号証の一ないし五)、広瀬弘忠著「エイズへの挑戦」(第一〇号証の一ないし三)、別冊サイエンス・「エイズへの挑戦」(第一一号証の一ないし三)、北村敬著「エイズ 今世紀最大の医学の謎」(第二三号証の一ないし四)、からだの科学臨時増刊・塩川優一編「エイズ戦略」(第二七号証の一ないし三)及び「現代科学一九六号 特集エイズの科学」(第二八号証の一・二)により明らかである。
(三) そして、エイズウイルスも熱処理によって不活化するものであることの知見が得られたことは、甲第一七号証の一ないし四の第一七一頁に記載のウイルスの不活化に関する前記一般的知見から明らかである。
3 ところで、本願の当初明細書には、特許請求の範囲第15項において、乾燥組成物を「六〇℃乃至一二五℃の範囲内」で加熱することが記載されており、発明の詳細な説明には、「本発明による第Ⅷ因子を含む実質的に乾燥した組成物の加熱処理は、凝固因子活性を減じることなく、該組成物中に存在するウイルスの如き微生物の感染性を不活性化し、減じ又は除去する。」(甲第五号証の二の第一八頁一四行ないし一七行)と記載され、種々の条件(温度条件を含む)下において、「凝固因子活性」が保持されつつ、ウイルスが不活化されることを確認する種々の試験結果が第二二頁ないし第四九頁に記載され、要約的に、「したがって、加熱温度、加熱時間および用いられる純度レベルの適当な調整によって、B型および非A非B型両方の肝炎ウイルスを、血漿画分の能力(viability)および治療上の完全性(therapeufic integrity)を保持しながら、血漿画分中で不活性化し得る。」(第四八頁七行ないし一二行)と述べ、さらに、「本発明の他の典型的具体例の内に、AIDSすなわち後天性免疫不全症候群と関連のあるウイルス、サイトメガロウイルス(cytomeglovirus)およびEBウイルス(Epstain-Barrvirus)の如き好ましくない微生物の不活性化が含まれる。」(第五〇頁六行ないし一〇行)と述べられているのである。
また、当初明細書には、「乾燥状態でウイルス汚染AHFを加熱する効果は、上記の如きAHF凝固活性およびウイルス力価を検定することにより追跡され得る。肝炎ウイルスの場合のように生物学的に活性なウイルスの力価を測定するのが難しい場合には、PCT国際出願WO 82/03871(一九八二年一一月一一日刊行)に開示されているように、バクテリオファージ、シンドビス(sindbis)、アデノウイルスもしくはEHCウイルスの如き候補ウイルス(candidate virus)を使用し得る。あらかじめ力価を測定した候補ウイルスを加熱処理するための組成物溶液中に接種し、溶液を凍結乾燥しそして種々の加熱処理をする。生成物の加熱処理を左右するであろう条件として、実際の測定もしくは回帰分析(regression analysis)(統計的補外法)が所望のウイルス不活性化度を表わすポイントを選択し得る。組成物の湿気含量も調整すべき変数であるけれども、これらの条件は一般的にウイルス不活性化の時間と温度である。時間および温度は上述した。湿気含量は五重量%より低くすべきであり、通常は一重量%より低い。AHFの不活性化および変性は乾燥状態の加熱工程でおこるが、それは、耐久性のある候補ウイルスもしくは肝炎ウイルスの不活性化よりも遅い速さでおこる。このように、感染AHF組成物は、感染性型のウイルスを実質上含まなくされ得る。」(第五五頁一五行ないし第五七頁五行)と記載され、エイズウイルスそのものでなくとも、当初明細書に例示の「候補ウイルス」を使用することによって、不活化の条件が追跡、捕捉し得ることが明らかにされている。
4 前記2(一)ないし(三)の知見に基づいて、当初明細書の右各記載をみれば、当初明細書には、本願発明がエイズゥイルスにも適用し得ること、すなわちエイズ関連ウイルスを不活化する方法の発明が開示されているものというべきであり、「(AIDSに関連する記載としては、)・・・どのような条件を採用すればどの程度不活化されるか具体的な事実が全く示されていない。」とした本件各決定の認定は誤りである。
また、本件各決定は、「一般に或るウイルスがどのような条件で不活化されるかは、実施してみて始めて判明することであって、単にウイルスであるということのみを根拠に、特定条件で不活化されることが自明であるということはできない。」としているが、ウイルスは、蛋白質と核酸とから構成されているにすぎず、蛋白質もしくは核酸のいずれかが熱によつて変性した場合には活性を失うものであって、決して実施してみて始めて判明するというように全く予測の域を超えるものではないから、右判断も誤りである。
以上のとおりであるから、本願の当初明細書にはAIDSウイルスを不活化する方法の発明が開示されているとはいえないとした上、第一次補正に係る<1>、<2>の各補正及び第二次補正は、いずれも明細書の要旨を変更するものであるとした本件各決定の認定、判断は誤りである。
第三 請求の原因に対する認否及び反論
一 請求の原因一ないし三は認める。同四は争う。本件各決定の認定、判断は正当であって、原告主張の誤りはない。
二1 本願方法は、血液凝固第Ⅷ因子濃縮物を凍結乾燥状態に調整し、凍結乾燥状態で加熱するという手段を採用し、そのことにより始めて、熱に不安定であった血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく加熱処理し得たものである。このように、従来予測されなかった結果(血液凝固第Ⅷ因子は熱に不安定であるにもかかわらず、加熱によりその活性が損なわれなかったという結果)が得られたということは、凍結乾燥状態で加熱処理した場合に各ウイルスの不活化についてもいかなる結果が得られるのか予測し得ないといえるのである。
ところで、凍結乾燥状態におけるウイルスの熱不活化については、乙第一号証(国立予防衛生研究所学友会編「ウイルス実験学総論」)に「ウイルスの熱不活化は乾燥状態ではほとんど進行しない。これをウイルスの保存に利用したのが凍結乾燥法である。残存水量三%以下であると、一〇〇℃に一時間加熱しても、感染価の低下は一log以下にとどまる。」(第四四二頁)と記載されているように、右状態における不活化は湿熱不活化を含む一般のウイルスの不活化とは異なり、極めて弱い処理条件であって、六〇℃一〇時間の加熱という一般の不活化における不活化条件をもって凍結乾燥状態においても各ウイルスが不活化し得ると予測できるものではない。また、審決引用のドラーナ博士の宣誓書の記載、乙第一号証中の19・1の項(ウイルスの不活化に関する一般論)の記載及び甲第一七号証の一ないし四中の「ウイルスの熱不活化は外来性の蛋白質の存在、Mg++、Ca++のような二価の陽イオン、などの環境条件によっても影響されるので、注意していただきたい。」(第一七二頁二四、二五行)との記載によっても裏付けられているように、ウイルスの不活化条件は、ウイルスの種類及び血液凝固第Ⅷ因子という蛋白質の存在、その他によって異なるものであり、各ウイルスの不活化条件は実施してみなければわからないものなのである(したがって、「一般に或るウイルスがどのような条件で不活化されるかは、実施してみて始めて判明することであって、単にウイルスであるということのみを根拠に、特定条件で不活化されることが自明であるということはできない。」とした本件各決定の判断に誤りはない。)。
右のとおり、液体状態における一般的な不活化が知られていたとしても、一般的な不活化方法とは異なる凍結乾燥という特定の状態にあっては、各ウイルスがどのような条件で不活化されるかということは、実施してみて始めて判明することであり、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく各ウイルスを不活化し得るか全く不明である。しかも、本願方法によるヒト血液凝固第Ⅷ因子のように、血友病患者に投与されるものにあっては、治療上安全に使用し得ることが確認されなければならないから、尚更のこと、不活化されたことが明細書において具体的に記載されて、そのことが裏付けられなければならないのである。
しかしながら、本願の当初明細書には、特に問題が具体的に示されていた肝炎ウイルスについてすら不活化されたことの具体的な裏付けがなく、他のウイルスについても、いかなる温度で何時間加熱したら、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく不活化し得たかということに関し、具体的な裏付けをもって記載されていないのであるから、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく、ウイルスが凍結乾燥状態において不活化されたことが、当初明細書に開示されていたなどとは到底いえない。しかも、後述のとおり、本願出願時においては、エイズの原因がウイルスによるものであることは明らかでなく、また、エイズに関する当初明細書の記載は、本件各決定で摘示したように、同明細書の第五〇頁六行ないし一〇行の記載があるのみであり、エイズウイルスの不活化については何ら具体的に示されていないのである。
したがって、本件各決定が、本願の当初明細書には、「(エイズに関連する記載としては、)・・・どのような条件を採用すればどの程度不活化されるか具体的な事実は全く示されていない。」とし、AIDS関連ウイルスを不活化する方法の発明が開示されているとはいえないとした認定、判断に誤りはない。
2(一) 原告が、ウイルスは、一般に熱処理によって不活化されることが知られていたという主張を裏付けるために援用した証拠は、以下述べるとおり、いずれも血液凝固第Ⅷ因子の凍結乾燥状態における熱処理において、ウイルスが不活化されることの具体的根拠となるものではない。
甲第一六号証の一ないし三、第一九号証の一ないし三及び第二五号証は、いずれも液状加熱における一般の不活化法を述べるものであり、ウイルスの凍結乾燥状態における不活化については何も示していない。
甲第一七号証の一ないし四は、温度と熱不活化の機序の一般的な関係を述べているだけであり、凍結乾燥という特定の条件下におけるウイルスの熱不活化の条件を含め、いかなる条件(温度、加熱時間等)を採用すれば、各ウイルスが不活化されるのかについては何も述べていない。
甲第二四号証には、いろいろな肝炎ウイルスのうちの一種類であるボトキン伝染性肝炎の原因ウイルスである可能性のあるアデノウイルスⅠ型とコクサッキAウイルスあるいはイヌ肝炎ウイルスが、凍結乾燥状態で六〇℃一〇時間加熱することにより不活化されたとのみ記載されているのであって、右記載からは、いろいろな肝炎ウイルスのうちボトキン伝染性ウイルスについての不活化が推定されるのみで、他の肝炎についてのウイルスが不活化されることが推定され、裏付けられるものでないことは勿論であり、まして、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく、血液濃縮物中の他のウイルスが不活化されることが裏付けられたことにならないことは明らかである。
(二) 原告が、エイズの原因はウイルスであることが知られていたという主張を裏付けるために援用した証拠は、いずれも本願のわが国における出願後、何年も経過し、その原因が明らかになってから頒布された刊行物であるから、右主張を裏付けるものではない。
エイズウイルスの単離が報告されたのは、本願のわが国における出願後の一九八三年五月二〇日であり、しかも、それを報じる論文に注目する研究者はほとんどいなかったとさえいわれている(乙第一四号証)ことからしても、本願のわが国における出願時点においては、エイズがウイルスによるものであることは不明であったし、平均的な当業者が、エイズはウイルスによるものであるなどということを知るすべもなかったのである。
(三) 原告は、エイズウイルスも熱処理によって不活化するものであることの知見が得られていたことは、甲第一七号証の一ないし四の第一七一頁に記載のウイルスの不活化に関する一般的知見から明らかである旨主張するが、同号証は、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく、ウイルスを不活化し得ることを何も示していないのであるから、原告の右主張も理由がない。
3 原告は、請求の原因四項2(一)ないし(三)の知見に基づいて、同項3に掲記の各記載をみれば、当初明細書には、エイズウイルス関連ウイルスを不活化する方法の発明が開示されていると主張する。
しかし、右知見に関する主張が理由のないことは、前項のとおりである。
そして、当初明細書には、加熱処理温度として一二五℃までの温度が示されてはいるが、血液凝固第Ⅷ因子の活性を実質的に低下させることなく、右温度で各ウイルスが不活化されることが明確に具体的な裏付けをもって記載されているわけではなく、まして、エイズの原因がウイルスによることは本願出願前には知られておらず、凍結乾燥状態での加熱処理により、エイズウイルスの不活化と血液凝固第Ⅷ因子の実質的な保持がどうなるかは確認してみなければ、全く予測ができず不明のことである。また、各ウイルスが不活化されることは、明細書に具体的な裏付けをもって記載されていることが必要であり、当初明細書の記載をもとに該不活化を追跡、捕捉し得ることが、当初明細書に該不活化が開示されていることにはならない。のみならず、当初明細書の記載からは、肝炎ウイルスは勿論のこと、他のウイルスについても容易に不活化の条件を追跡、捕捉することはできないし、しかも、エイズの原因がエイズウイルスであることが知られていない状態にあっては、「候補ウイルス」を選定することすらできず、エイズウイルスの不活化の条件を追跡、捕捉し得るはずがない。
したがって、原告の右主張は理由がない。
4 以上のとおりであるから、第一次補正に係る<1>、<2>の各補正及び第二次補正は、いずれも明細書の要旨を変更するものに該当するとした本件各決定の認定、判断に誤りはない。
第四 証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録記載のとおりである。
理由
一 請求原因一ないし三の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで、本件各決定の取消事由の当否について検討する。
1 第一次補正は、特許請求の範囲を全文補正する(<1>の補正)とともに、例1及び例2を加入するもの(<2>の補正)であり、第二次補正は、特許請求の範囲を全文補正するものであること、第一次補正に係る特許請求の範囲第1項に記載された発明及び第二次補正による特許請求の範囲に記載された発明は、いずれもヒト第Ⅷ因子濃縮物中のエイズ関連ウイルスを、第Ⅷ因子活性を実質的に低下させることなく不活化することを発明の構成に欠くことのできない事項とするものであること、これに対して、本願の当初明細書(成立に争いのない甲第五号証の二)の特許請求の範囲第1項には、「(1)第Ⅷ因子を含む実質的に乾燥した組成物中に存在する微生物の感染性を弱め若しくは除去するための該組成物の処理方法であって、微生物の感染性を弱め若しくは除去するのに充分な所定の温度で所定の時間該組成物を加熱することからなる前記処理方法。」の発明が記載され、その微生物がウイルスである実施態様が第25項に、そのウイルスが肝炎ウイルスである実施態様が第26項に記載されていること、また、当初明細書には、本願発明の技術的背景及び発明の課題に関して、肝炎ウイルスは血しょうの分画に際して、第Ⅷ因子、第Ⅸ因子等の血液凝固因子の画分に分布することが知られており、したがって、血液凝固因子を治療に用いる場合には肝炎のリスクがあるが、先行技術ではこれが回避できなかった旨、及び、本願発明によって血液凝固因子の活性を破壊することなくその中に存在する肝炎ウイルスを不活化する方法が確立された旨記載されていること(第一六頁七行ないし第二二頁二行)、さらに、当初明細書には、凝固因子活性保持確認テスト方法及び結果が記載され(第二二頁三行ないし第四七頁一一行)、それに基づいて、第Ⅷ因子は凍結乾燥状態では凝固活性を著しく損なうことなく高温で長時間加熱することができる旨記載され(第四七頁一二行ないし一五行)、これを利用すれば、凝固因子の治療上の完全性を保持しながらその中に含有される肝炎ウイルスを不活化し得る指記載されていること(第四八頁七行ないし一二行)、しかしながら、AIDSに関連する記載としては、当初明細書の第五〇頁六行ないし一〇行に「本発明の他の典型的具体例の内に、AIDSすなわち後天性免疫不全症候群と関連のあるウイルス、サイトメガロウイルス(cytomeglovirus)およびEBウイルス(Epstain-Burvirus)の如き好ましくない微生物の不活性化が含まれる。」があるのみであること、以上の事実は当事者間に争いがない。
2 原告は、その立論の前提として、まず、本願の優先権主張日当時において、ウイルスは一般に熱処理によって不活化されることが知られていた旨主張するので、この点について検討する。
(一) 成立に争いのない甲第一六号証の一ないし三(飯田廣夫著「微生物学入門」一九七七年九月五日発行)の第一三六頁、同甲第一七号証の一ないし四(C.A.Knight著/北村敬訳「ウイルスの化学」一九七七年七月二〇日発行)の第一七一頁、第一七二頁には、原告主張の請求の原因四2(一)摘示のとおりの記載があること、同甲第一九号証の一ないし三(安田純一著「血液製剤」一九七九年九月一日発行)の第一三〇頁には、「アルブミン製剤は加温処理の過程でB型肝炎の感染性が失われているといわれているが、通常の方法で不活化を証明できるのでない以上、規定の製法で作った製品がすべて安全であると信用してよいことにはならない。(略)わが国のチンパンジーに対する感染実験は、おそらく少量の血清を加温処理したモデル実験の域を出ないと思われ、その成績から加温処理法に過大の期待を寄せるのも、逆に悲観的になるのも正しくない。その意味で、WHO基準がCohn法で分画し、六〇℃一〇時間加温処理する製法を『汚染の汚染のriskが最小であることが経験的に示された方法』(略)という辺りが正当な評価といえよう。」と記載され、「六〇℃一〇時間の加熱」によって、アルブミン製剤中のB型肝炎ウイルスが経験的に不活化されることを示していること、同甲第二四号証(一九六九年開催の輸血国際学会第一二回会議会報(一九七一年刊行)所収の「乾燥フィブリノーゲンおよびアルブミン調整品におけるボトキン肝炎ウイルスの熱不活化について」と題する論文)には、「常套の方法により凍結乾燥した直後の乾燥フィブリノーゲンとアルブミン調整品を乾燥装置のカセット内で六〇℃に一〇時間加熱することは、ボトキン伝染性肝炎ウイルスを確実に不活化する方法であると結論してよい。」(訳文第八頁下から四行ないし末行)と記載されていること、同甲第二五号証(世界保健機構技術レポートシリーズ第五一二号・一九七三年発行)には、「新鮮全血と単一供血者血漿は『平均的危険性のある』材料とみなされ、プール血漿、フィブリノーゲンおよび抗血友病グロブリンは『高い危険性のある』製品と考えられ、イムノグロブリン、六〇℃に一〇時間加熱処理したアルブミンおよび精製加熱したアルブミン画分(血漿蛋白質溶液)は広汎な使用によって安全であることが証明されている。」(訳文第二頁)と記載されていることがそれぞれ認められる。
(二) ところで、成立に争いのない乙第一号証(国立予防衛生研究所学友会編・「ウイルス実験学総論」昭和四八年六月一日発行)には、「ウイルスの熱不活化は乾燥状態ではほとんど進行しない。これをウイルスの保存に利用したのが凍結乾燥法である。残存水量三%以下であると、一〇〇℃に一時間加熱しても、感染価値の低下は一log以下にとどまる。」(第四四二頁三行ないし六行)と記載されていることが認められ、右記載によれば、一般に、ウイルスは、凍結乾燥状態においては、熱処理による不活化はほとんど進行しないものと認められる。
右認定事実、並びに前掲甲第一六号証の一ないし三、第一七号証の一ないし四及び第二五号証には、ウイルスの熱処理による不活化がどのような状態において行われたものであるかについての明確な記載がないことからすると、右甲各号証に記載されている、「ウイルスは熱処理によって不活化される」というのは、通常の、すなわち溶液状態における熱処理による不活化を示しているものと理解するのが相当である。また、甲第一九号証の一ないし三の前記記載も、血漿成分を溶液中で加熱して不活化する際の条件に関するものであると認められる。したがって、本願の優先権主張日当時において、ウイルスの熱処理による不活化について、当業者に知られていたことは、溶液状態におけるものと推認するのが相当である。
ところで、前記1のとおり、本願発明は、血液凝固第Ⅷ因子濃縮物を凍結乾燥状態に調節し、その状態で加熱するという手段を採用し、そのことにより始めて、熱に不安定であった第Ⅷ因子の活性を損なうことなく加熱処理し得たものであるとするものであるところ、前記のとおり、凍結乾燥状態においては、一般に、ウイルスは熱による不活化がほとんど進行しないものと認められるのであるから、前記甲各号証に記載されている、溶液状態における熱処理によるウイルスの不活化条件をもって、凍結乾燥状態におけるウイルスの不活化をなし得るものと予測することはできないものというべきである。
次に、甲第二四号証の前記記載によれば、ボトキン伝染性肝炎ウイルスは、「六〇℃、一〇時間の乾熱」によって不活化するものと推定される。しかし、同号証には、「伝染性肝炎ウイルスは、これまでに単離されておらず、かつ実験室条件でこれを培養する方法も存在しないので、我々のモデル実験では、病気の原因ウイルスに対する代替ウイル久を使用した。これら代替ウイルスには、一九六一年に急性段階の伝染性肝炎患者の血液から単離されたコクサッキAウイルス一五八KR株と、一九六五年に伝染性肝炎患者の血清から単離されたアデノウイルスI型七五三九株が含まれる。これら二種のウイルスは、今日、ボトキン伝染性肝炎の原因ウイルスである可能性を持つものと考えられている(略)。上記二種に加えて、イヌ感染性肝炎ウイルスPS株も試験対象とされる。これらのウイルスは全て熱抵抗性である。」(訳文第三頁一二行ないし二四行)と記載されていることが認められ、この記載によれば、本来の伝染性肝炎ウイルスが使用不可能であるため、ボトキン伝染性肝炎の原因ウイルスである可能性のあるコクサッキAウイルス、アデノウイルス及びイヌ感染性肝炎ウイルスが使用され、その乾熱不活化が確認されているにすぎないものと認められる。
してみると、甲第二四号証の記載からは、いろいろな肝炎ウイルスのうち、ボトキン伝染性肝炎ウイルスについては、乾熱不活化の可能性が推定されるものの、他の肝炎ウイルスについてまでも乾熱不活化の可能性が推定されるものということはできない。
さらに、成立に争いのない乙第一〇号証によれば、本願発明の発明者であるアラン・ルビンスタインは、「ブラッド」第五八巻第五号補遺一(一九八一年一一月発行)において、「血友病AおよびBの犬における加熱凍結乾燥した第Ⅷ因子濃縮物および第Ⅸ因子濃縮物の研究」と題して、「加熱凍結乾燥した第Ⅷ因子濃縮物がインビボで第Ⅷ因子凝固(Factor Ⅷ coag)を増大するか否かを試験するために、(略)凍結乾燥状態で六〇℃、一〇時間加熱され、次いで、再構築された一用量の第Ⅷ因子濃縮物を注射した。(略)加熱が肝炎ウイルスを有意に不活化したか否かを決定するためにチンパンジー試験が計画されている。」(摘要番号六五〇)と、また、成立に争いのない乙第一一号証によれば、同人は、「トロンボシ スアンド ヘモスタシス」第四六巻第一号(一九八一年七月発行)において、「加熱凍結乾燥した第Ⅷ因子濃縮物-付加的予備的インビトロ研究」と題して、「水浴中における凍結乾燥された第Ⅷ因子の六〇℃一〇時間の加熱は凍結乾燥された粉末中の肝炎ウイルスの意味ある不活化のためには十分ではないという可能性のため種々の加熱実験を行った。(略)明らかに、いかなる加熱温度および加熱時間が意味ある肝炎ウイルスの不活化にとって必要であるかを今後のチンパンジー試験で決定しなければならない。」(摘要番号一〇五一)とそれぞれ発表していることが認められ、右事実によれば、本願発明の発明者自身、一九八一年当時において、肝炎ウイルスを凍結乾燥状態における加熱処理で不活化することについて未確認であって、確認の必要があると考えていたと認められることからしても、甲第二四号証の記載からは、肝炎ウイルス一般について乾熱不活化が推定されるものでないことが裏付けられるものというべきである。
(三) 以上のとおり、本願の優先権主張日当時において、溶液状態におけるウイルスの熱処理による不活化は当業者に知られていたものと推認されるが、液状加熱による不活化条件をもって、凍結乾燥状態におけるウイルスの不活化をなし得るものと予測することはできず、また、凍結乾燥状態において、ウイルスが熱処理によって不活化されることが知られていたものと認めるに足りる証拠はない。
3 次に、本願の優先権主張日当時において、エイズの原因がウイルスであることが知られていたか否かについて検討する。
成立に争いのない甲第八号証の一ないし四(ウイリー・ローゼンボウム外著「エイズを生きる」)は一九八七年一〇月一五日、同第九号証の一ないし五(杉本正信著「エイズとの闘い」)は一九八八年五月二〇日、同第一〇号証の一ないし三(広瀬弘忠著「エイズへの挑戦」)は一九八九年五月二五日、同第一一号証の一ないし三(別冊サイエンス・「エイズへの挑戦」)は一九八七年三月二五日、同第二三号証の一ないし四(北村敬著「エイズ 今世紀最大の医学の謎」)は昭和六一年(一九八六年)四月三〇日、同第二七号証の一ないし三(からだの科学臨時増刊・塩川優一編「エイズ戦略」)は一九八九年九月三〇日、同第二八号証の一・二(「現代科学一九六号 特集エイズの科学」)は一九八七年七月にそれぞれ初版が発行されたものであって、いずれも本願のわが国における出願日以降に頒布されたものであること、また、右各刊行物には、本願の優先権主張日当時においてすでに、エイズの原因がウイルスであることが知られていた旨の記載もないことが認められる。
したがって、右各刊行物をもって、本願の優先権主張日当時において、エイズの原因がウイルスであることが知られていたと認定することはできない。
かえって、成立に争いのない乙第一三号証(ケネス・H・メイヤー外著「エイズ ファクト ブック」一九八四年六月一〇日発行)には、「エイズが医療の重要な問題として注目されて二年半たちますが、今だにその正体は解明されていません。」(第三頁二、三行)、「HTLウイルスとエイズとの結びつきは、今だにはっきりしません。」(同頁一二行)、「エイズに冒されていない日本人にこのHTLウイルスの保菌者がたくさん発見されています。それでこのウイルスとエイズとの関係はいぜん謎とされています。」(第四頁二、三行)と記載されていることからすると、右文献の発行時においてすら、エイズの原因がウイルスであることは一般的には知られていなかったものと認められる。また、前掲甲第二七号証の一ないし三及び成立に争いのない乙第一四号証(広瀬弘忠著「エイズへの挑戦」)によれば、フランス国パスツール研究所のモンタニエらは、一九八三年五月二〇日にエイズウイルスの単離を報告したことが認められるが、右乙第一四号証によれば、右報告論文に注目する研究者はほとんどいなかったことが認められるから、本願のわが国における出願時点においても、当業者は、エイズがウイルスによるものであることは知り得なかったものと認められる。
したがって、本願の優先権主張日当時において、エイズの原因がウイルスであることが知られていた旨の原告の主張は採用できない。
4 さらに、原告は、エイズウイルスも熱処理によって不活化するものであることの知見が得られていたことは、甲第一七号証の一ないし四の第一七一頁に記載されている、ウイルスの不活化に関する前記一般的知見から明らかである旨主張するが、前記認定のとおり、同頁の記載は、ウイルスの不活化に関する一般的な機序ないし方法を述べるだけであり、いかなる条件(温度、加熱時間等)を採用すれば、各ウイルスが不活化されるのかについては何ら教示するものではない。
ところで、前掲乙第一号証には、「ウイルスの基本的な構造は核酸の遺伝子とこれを取りまくタンパク質よりなり、ときにこれに、脂質および炭水化物が加わって個々のウイルス特有の構造が、それぞれの活性と密接に結びついた形で成立している。」(第四三五頁三行ないし五行)、「さらに各種の不活化要因に対する感染性の耐性の比較により、あるウイルス粒子の機能的構造、例えばウイルスenvelopeの有無、活性部位の脂質の関与などを推定し、ウイルスの分類同定により利用することも行なわれ」(同頁一一行ないし一三行)、「反応の進行は、機能的ウイルス粒子の均質性、温度、浮遊外液の塩類濃度、浸透圧、PHなどによって規定されるから、これらの条件を正確に記載、再現しないと、結果の解釈に誤りをきたす。」(同頁一九行ないし二二行)と記載されていることが認められ、右各記載によれば、主として蛋白質と核酸とから構成されるウイルスには種々の構造のものがあり、ウイルスの種類によって不活化に対する耐性にも差異があり、各ウイルスの不活化条件は実施してみなければ判らないものであると認められる。
このことは、ドラーナ博士の宣誓供述書に「特定のウイルスの不活化の挙動は、ウイルスの構造(蛋白含量、脂質の有無、核酸の型など)、ウイルスの物理的条件、不活性化剤、不活化の温度と時間及び生物学的製剤それ自身の性質を含む種々のパラメータによって左右される」と記載されている(このことは、当事者間に争いがない。)ことによっても裏付けられるところである(したがって、「一般に或るウイルスがどのような条件で不活化されるかは、実施してみて始めて判明することであって、単にウイルスであるということのみを根拠に、特定条件で不活化されることが自明であるということはできない。」とした本件各決定の判断に誤りはない。)。
以上のとおり、ウイルスが蛋白質や核酸から構成されているといったことや甲第一七号証の一ないし四の記載から、各ウイルスの不活化が予測されるものではないし、まして、本願の優先権主張日当時においては、エイズがウイルスによるものであることが不明であったのであるから、甲第一七号証の一ないし四に記載のウイルスの不活化に関する一般的知見から、エイズの病原ウイルスを不活化することが得られるものでないことは明らかであって、原告の主張は採用できない。
5 右2ないし4に説示したとおり、原告がその立論の前提とする、請求の原因四項2(一)ないし(三)の主張はいずれも理由がない。
ところで、本願発明は、血液凝固第Ⅷ因子濃縮物を凍結乾燥状態で加熱処理するものであるところ、溶液状態における熱処理によるウイルスの不活化条件をもって、凍結乾燥状態におけるウイルスの不活化をなし得るものではなく、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく、各ウイルスがどのような条件で不活化されるかということは、実施してみて始めて判明することであり、また、血液凝固第Ⅷ因子の用途からいって安全に使用し得ることが確認される必要があるから、ウイルスが不活化されたことが、明細書において具体的に記載されて裏付けられていなければならないことはいうまでもない。
本願の当初明細書には前記1のとおりの記載があるが、これらは、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく、肝炎ウイルスなどのウイルスの不活化を具体的に裏付けるものではない。当初明細書に本願発明の実施例として記載されている第Ⅰ表ないし第Ⅵ表も、血液凝固第Ⅷ因子濃縮物を凍結乾燥状態で加熱した場合の凝固因子活性が保持されることを示すインビドロ又はインビボの実験結果を示すものであって、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく、肝炎ウイルスなどのウイルスの不活化を達成し得ることを具体的に裏付けるものではない。
結局、当初明細書には、血液凝固第Ⅷ因子の活性を損なうことなく、ウイルスの不活化をなし得たということについて、これを具体的に裏付ける記載はなく、また、エイズに関連するものとしては、本件各決定で摘示された記載があるのみであり、しかも、本願出願時において、エイズの原因がウイルスによるものであることは明らかでなかったのであるから、本件各決定が、当初明細書には、「(AIDSに関連する記載としては、)・・・どのような条件を採用すればどの程度不活化されるか具体的な事実は全く示されていない。」とし、AIDS関連ウイルスを不活化する方法の発明が開示されているとはいえないとした認定、判断に誤りはないものというべきである。
なお、前掲甲第五号証の二によれば、本願の当初明細書には、請求の原因四項3掲記の各事項が記載されていることが認められるところ、原告は、請求の原因四項2(一)ないし(三)掲記の知見に基づいて、右各記載をみれば、当初明細書には、エイズ関連ウイルスを不活化する方法が開示されているものというべきである旨主張するが、右主張が理由のないことは、叙上説示したところにより明らかである。
以上のとおりであるから、第一次補正に係る<1>、<2>の各補正及び第二次補正は、いずれも明細書の要旨を変更するものに該当するとした本件各決定の認定、判断に誤りはなく、取消事由は理由がない。
三 よって、本件各決定の取消しを求める原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための附加期間の付与について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、一五八条二項を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 松野嘉貞 裁判官 濵崎浩一 裁判官 押切瞳)