東京高等裁判所 平成2年(行ケ)202号 判決
一 請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、二(本願発明の要旨)及び三(審決の理由の要点)の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで原告の主張する審決の取消事由の存否について判断する。
1 成立について争いのない甲第五号証(特許出願公告公報)及び甲第七号証(平成二年二月一四日付手続補正書)によれば、本願明細書には、本願発明の技術的課題(目的)、構成及び作用効果について次のとおり記載されていることが認められる。
(一) 本願発明は、円鋸刃切削工具、とくに超硬合金製の歯を有し、主逃げ面に歯から歯に交互にずらして設けられた、すくい面から出発して主逃げ面に開口している切粉分割溝を有している円鋸刃切削工具に関する(前記補正書中の明細書第一頁第一五行ないし第一九行)。
公知の円鋸刃は、別紙図面一第5図に示すとおり歯(チツプ歯)2´を有しており、切粉分割溝14´は円板状砥石30を用いて歯2を研削して形成されているが、この切粉分割溝14´はすくい面8で始まり主逃げ面11に極めて長い平行な溝底15´を有している。
また、このような切粉分割溝の溝底が円弧状でありながら、その溝底において正の逃げ角を有するために、溝長さの大きいものを示した文献として第一引用例が存在する(同第二頁第三行ないし第三頁第一行)。
ところで、同図面第5図の右側に示すように、従来の切粉分割溝14´は、円板状砥石30を先ず下方方向<1>、つぎに平行方向<2>、最後に上方方向<3>とそれぞれ送られ、その場合の送り方向の変更と全体における送り長さが大きいため、研削熱が蓄積し内部応力が増大したまま残留する。
したがつて、この切粉分割溝14´は主に切削楔24a、24b(第6図参照)を介して欠け易く、寿命が短い欠点があり、また、溝底が円弧状であつてもその溝長さの大きいものについては、研削面積ないし量が大きくなり、そのため研削熱の発生量が多く蓄積し、そのまま内部応力として残留するが、歯2は超硬合金製であるので材質上もろく、小片側の切刃ないし切削楔24bを介して欠損し易い。
本願発明は、前記の知見に基づき、研削熱による内部応力を極めて少なくして、とくに切刃が欠損し難く、歯(チツプ歯)の寿命を長く保たせる切粉分割溝を備えた円鋸刃切削工具を提供することを技術的課題(目的)とする(同第三頁第三行ないし第四頁第三行)。
(二) 本願発明はその目的を達成するために本願発明の要旨のとおりの構成を採用し(第四頁第五行ないし第一一行)、それによつて、同図面第4図に示されるように、円板状砥石30に一方向にのみ送りをかけて研削されることにより、切粉分割溝14は主逃げ面11に形成され歯背側へのびた円弧状溝底15を具備し、その研削による研削熱が最小にとどまり、したがつて内部応力の発生は極力さけられ、長寿命が保証される。
さらに、同図面第1図に示すように、溝底逃げ角18が正ではなく負または〇度であると、溝長さ17は大きくならず、また、溝深さ17も歯背側7へ大きくならずに切粉分割溝14が形成されるという作用効果がある(同第四頁第一三行ないし第五頁第二行)。
2 原告は、本願発明の円鋸の歯の切粉分割溝は歯の主逃げ面に形成され歯背側へのびた円弧状溝底を具備することを前提にして、その溝底において〇度または負の逃げ角が設定されているのに対し、第二引用例記載の円鋸の歯のチツプブレーカ(本願発明にいう切粉分割溝)は先端切れ刃に刻まれているのであり、歯の主逃げ面に形成され歯背側へのびた円弧状溝底を具備していないので、〇度または負の逃げ角が設定されていることにはならないにもかかわらず、審決はこれにつき歯の主逃げ面に形成され歯背側へのびた溝底を具備し、この溝底において〇度または負の逃げ角が設定されていると認定したことは誤りであると主張する。
成立に争いのない甲第四号証によれば、第二引用例は、「チツプソー」と題する刊行物中の「10.歯形の組合わせ」及び「15.歯の整形研削」の項中の記述及び図面であつて、「一般に、削り出る切りくずは膨張して母体材料から分離するから、みぞの中で切削が進行する丸のこの場合は、先端切れ刃全体にわたつて切削が行なわれると、切りくずはひきみぞの側面を強く摩擦して切削抵抗を増加せしめる。そのため、鋼製の、たとえば、金切り用のコールドソーでは先端切れ刃にチツプブレーカ(図10―6)を刻み、切りくずを粉砕してひきみぞの側面との摩擦を避け、なお、歯底へ逃げやすいようにしてある。」(第七七頁第二〇行ないし第七八頁第二行)と記載され、図10―6(別紙図面三)にはその具体例が図示されていることが認められる。
右記載事項によれば、第二引用例記載のコールドソーの先端切れ刃はすくい面と主逃げ面とで構成され、そのすくい面と主逃げ面とにわたつてチツプブレーカ(これが本願発明にいう切粉分割溝に相当することは原告も争わない。)が設けられていることが明らかである。そして、原告のいう歯背側は主逃げ面のある歯の後側(背側)で切れ刃の最先端と反対方向の部所を意味するものと認められるところ、同図のとおり、第二引用例のチツプブレーカは、主逃げ面の後側に向かいその溝の深さが漸次浅くなるように傾斜して延びていることが認められるのであるから、第二引用例には歯の主逃げ面に形成され歯背側へのびた溝底を有する切粉分割溝が記載されているということができる。
次に第二引用例記載のチツプブレーカの溝底の逃げ角についてみる。
本願発明における溝底の逃げ角は、別紙図面一第1図に示すとおり、切粉分割溝14の溝底15とすくい面8の交点に関して、この交点と溝底15の円弧との接線とその交点上の周回線に接する線とのなす角度からなり、この交点上の周回線に接する線を基準にして交点と溝底の円弧との接線が上方にある場合を正の角度、右接線が下方にある場合を負の角度というところ、切粉分割溝14の溝底15とすくい面8の交点上の周回線とは、被告の主張するとおり、隣接する歯のそれぞれの該交点を通る円弧でもある(この点については原告も争わない。)。そして、別紙図面三によれば、そのチツプブレーカの溝底が略直線状をなしており、かつ、すくい面から出発して上方に向かい主逃げ面に終了していることとこの交点上の周回線に接する線との相対関係からみて、第二引用例記載のチツプブレーカの溝底の逃げ角は負である。
以上のことからして、第二引用例に記載されたチツプブレーカは、主逃げ面に形成され歯背側へのびた溝底を有し、その逃げ角が負であるものである。
なお、審決は、第二引用例のチツプブレーカの溝底の角度を「〇度または負の逃げ角」と認定しているが、前掲甲第七号証によれば、これは、切粉分割溝の溝底の逃げ角を正ではなく〇度または負に形成すれば切粉分割溝が大きくならないとの本願明細書の記載(第四頁第一九行ないし第五頁第一行)を受けて、第二引用例記載のチツプブレーカの溝底の逃げ角も正のものではないという趣旨でそのように認定したものと認められ、必ずしも誤りということはできないのみならず、本願発明の要旨においても、逃げ角は〇度または負のいずれであつてもよいとするものであるから、この点はなんら審決の結論に影響を与えるものではない。
これらの点について、原告は、第二引用例記載のチツプブレーカの溝底が明確な円弧状ではなく、略直線状をなしていることから直径の大きい円板状砥石で研削しているとし、これでチツプブレーカを主逃げ面に形成しようとすれば鋸体の一部に当たつてそこを研削してしまうため不可能であるので、先端切れ刃に形成するしかない旨主張するが、そもそも先端切れ刃は、主逃げ面とすくい面により構成されるものであるから、円板状砥石を先端切れ刃に当てれば必ず主逃げ面とすくい面が研削されるのであり、チツプブレーカが主逃げ面ではなく先端切れ刃に形成されているとの主張は意味をなさず、別紙図面一の第1図に示される本願発明の切粉分割溝と別紙図面三に示される第二引用例のチツプブレーカとは単に円板状砥石を当てる角度が相違する(したがつて溝底の逃げ角も相違する。)だけであり、他に違いはないものである。
確かに、研削角度の選択によつては、研削工具が鋸体の他の部分に当たりそこを研削してしまうことはあり得るが、角度の選択は、そのような状態が生じない程度のものとすることはその目的からして当然であり、また、本願発明においても、第二引用例においても、溝底の逃げ角の負の程度については何らの限定をしていないのであるから、第二引用例記載のチツプブレーカの溝底が本願発明のように主逃げ面に形成されるものではありえないとする原告の主張は根拠がない。
以上のとおり、第二引用例に歯の主逃げ面に形成され歯背側へのびた溝底を具備し、この溝底において〇度または負の逃げ角が設定された切粉分割溝が記載されているとの審決の認定を誤りとする原告の取消事由の主張は理由がない。
3 次に、第二引用例における円鋸の歯のチツプブレーカの長さの開示の有無について判断する。
第二引用例に審決の認定した各記載があることは当事者間に争いはない。
その一五七頁の記載における研削仕上げが長時間にわたると歯先に欠けを起すおそれがあるとの指摘は、材質が超硬合金であるため短時間の研削にくらべて研削熱が多く発生し、かつ、それが切れ刃に蓄積することによつて内部応力として残留することを意味すると解され、その結果として切れ刃に欠けを起こす原因となつていることを示しているものと認められる。原告は、この記載は歯の整形研削に関するものであり、ここでいう「仕上げ」とは同頁に示されているように細密か荒削りかを決める砥石の粒度の選択に関するものであり、余りに細密な粒度をもつ砥石を使えば仕上げに時間がかかることを示唆しているものにすぎないと主張するが、直接的にはそれを意味するものの、これには研削仕上げ時間と刃先のだれ、欠けの関係についても示されていることは明らかであり、この点に関する原告の主張は理由がない。
そして、切粉分割溝の長さが長いものより短いもののほうが研削に要する時間が短くてすむことは自明のことであるから、審決がこれらの記載をもつて「円鋸の超硬合金製の歯に切粉分割溝を形成する場合に歯先の欠けを避けるためには、その長さが長いものより、短いものの方が良いことが実質的に示されている」と判断したことに誤りはない。
4 以上のとおり、第二引用例には、すくい面から出発して主逃げ面に開口しており、主逃げ面に形成された歯背側へのびたほぼ直線状の溝底を具備し、この溝底において負の逃げ角が設定されているチツプブレーカ(本願発明にいう切粉分割溝)が記載されており、かつ、円鋸の超硬合金製の歯に切粉分割溝を形成する場合に歯先の欠けを避けるためには、その長さが長いものより短いものの方が良いことが示されているから、第一引用例記載の発明に第二引用例記載の右技術を適用し、溝底が正の逃げ角に設定されている切粉分割溝を溝底が負の逃げ角に構成することは、当業者が容易に想到できることと認められる。
したがつて、本願発明と第一引用例記載の発明との相違点についての審決の判断に誤りはなく、審決に原告主張の違法は存しない。
三 よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は失当としてこれを棄却する。
〔編注1〕本願発明の要旨は左のとおりである。
超硬合金製の歯を有し、主逃げ面に歯から歯へ交互にずらして設けられた、すくい面から出発して主逃げ面に開口している切粉分割溝を具有している円鋸刃において、切粉分割溝が主逃げ面に形成され歯背側へのびた円弧状溝底を具備し、この溝底において〇度または負の逃げ角が設定されていることを特徴とする円鋸刃切削工具(別紙図面一参照)。
〔編注2〕本件における図面は左のとおりである。
別紙図面一
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別紙図面 (三)
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(他は省略)