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東京高等裁判所 平成2年(行コ)55号 判決 1991年9月12日

控訴人

甲田花子

右訴訟代理人弁護士

吉村節也

合田勝義

被控訴人

右代表者法務大臣

左藤恵

右指定代理人

松本智

村山行雄

白石明教

宮崎忠尚

小尾佳郎

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求める裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は、控訴人に対し、七七九万二八四〇円及びこれに対する昭和五六年六月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

3  控訴費用は、第一、第二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

主文第一項同旨

第二争いのない事実及び争点

一  争いのない事実

1  乙田次郎(以下「乙田」という。)は、国立山梨大学教育学部教授として在職中の昭和五六年六月二一日死亡した。

2  乙田の死亡による退職にともない国家公務員等退職手当法(以下「退職手当法」という。)に基づき同人の遺族に支給される退職手当の額は、七七九万二八四〇円である。

3  控訴人は、乙田が死亡した当時、同人との婚姻届出をしていなかった。

二  争点

1  控訴人の主張

(一) 控訴人は、学徒動員先の理化学研究所(以下「理研」という。)で乙田と顔見知りとなったが、昭和二三年八月理研板橋分室副手となった際に、同分室に居住していた乙田と再会し、恋愛感情を持つようになった。

そして、控訴人と乙田は、昭和二四年ころ、結婚することを合意し、理研所員の亀田董の仲介で控訴人の両親の承諾を得て、同年一二月二四日、東京都大田区蓮沼所在の控訴人方で、控訴人の両親、祖父母同席のもとに仮祝言を挙げ、以後、控訴人方で共同生活を始めた。その後、控訴人らは、東京都新宿区小川町、東京都品川区南品川及び控訴人の肩書地と移り住んだが、その夫婦としての共同生活は、乙田が死亡するまで中断することがなかった。

なお、控訴人と乙田とが夫婦であることは、右両名がそのように認識していたのはもちろん、双方の親族・友人・知人の間でも公知の事実であった。

(二) 控訴人と乙田は、乙田が波風を立てることを嫌う性格であったため、乙田の母乙田美子(以下「美子」という。)の反対を押し切ってまで婚姻の届出をすることはしなかった。

なお、乙田の母親が婚姻届出に反対したのは、最終的には右両名間に子供が生れなかったためである。

(三) 乙田の父親が昭和三四年四月一五日に死亡後、美子は、同年六月には東京都大田区久ケ原に、昭和三六年一一月には東京都目黒区洗足に転居し、居住するようになったが、乙田は、日曜日に美子のもとに泊りに行くのみで、その後も控訴人方に居住していた。

乙田は、昭和三七年四月、山梨大学助教授に任ぜられたが、週に二回程度控訴人方から通勤していた。乙田は、昭和四三年九月一〇日、美子とともに甲府市に転居したが、その後も足しげく東京に通い、毎月給料を持参して家計を共同にし、控訴人方で仕事及び生活をしており、控訴人方が生活の本拠であることにかわりはなかった。このことは、乙田の昭和三七年一〇月から昭和五〇年五月までの給料袋、学位申請論文及び添付論文、研究・著作予定リスト、著作物の原本、多数の金融業者からの借用証書、その返済のための振込送金に関する書類、あるいは乙田が控訴人方を自宅・住所として連絡を受けていたことを示す文書等が、多数控訴人方に残されていることからも明らかである。

(四) 控訴人は、昭和四九年一二月当時、東京都杉並区所在の光塩女子学院に非常勤講師として勤務していたが、その勤務中レーザー光線を目に当てて眼底出血を起こし、昭和五〇年二月から六月まで入院し、退院後も眼底出血の再発と全身の衰弱のため自宅での安静療養を続けなければならない状態になった。

一方、乙田も、昭和五二年一二月二八日、尿毒症で倒れ、甲府市内の病院に入院した。控訴人は、同月二九日、自らの病弱を押して乙田の看病に赴いたが、乙田の入院による精神的ショックも加わり、甲府市で倒れ、右目の悪化等病気が再発し、自宅療養を余儀なくされた。乙田は、昭和五三年四月には、退院することができたものの、以後、人工透析を定期的に受けながら勤務せざるを得なくなった。

このようにして、控訴人と乙田は、お互いの健康上の理由で事実上の別居を強いられることになったが、絶えず電話連絡をとって励まし合う等夫婦としての精神的結びつきは片時も切れることはなかった。乙田から控訴人に対し、生活費の仕送りがあり、経済生活も一にしていた。

(五) 乙田は、昭和五六年一月一七日、脳内出血のため倒れ、甲府市内の病院に入院し、ほとんど回復することなく死亡した。確かに、その間、控訴人が乙田を看病したのは、同年二月及び四月の二回にすぎないが、これは、前記のように控訴人の健康状態がそれを許さなかったからであって、右二回の付添も必死の思いでようやく実現し得たものである。

したがって、控訴人は、乙田の死亡当時、退職手当法一一条一項一号の規定が定める「届出をしないが事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」に該当する。

2  被控訴人の主張

(一) 国家公務員の死亡による退職手当の受給権者は、退職手当法一一条一項一号の規定により、当該職員の死亡当時配偶者(民法七三九条及び戸籍法七四条の規定により婚姻の届出をした者)及び婚姻の届出を欠くが事実上婚姻関係と同様の事情にあった者と規定され、後者に当たる者とは、婚姻の届出を欠くが社会通念上夫婦としての共同生活と認められる事実関係がある者をいい、次の要件を備えることが必要である。すなわち、(1)当事者間に社会通念上夫婦の共同生活と認められる事実関係を成立させようとする合意があり、(2)当事者間に社会通念上夫婦の共同生活と認められる事実関係が存在することである。

(二)(1) 乙田は、控訴人と同居したことも、生計を一にしていた事実もない。すなわち、乙田は、昭和二四年に東京都杉並区阿佐ヶ谷に下宿して以来昭和三四年四月に美子と同居するまでの間に四回転居しているが、その間外泊することはほとんどなかった。美子と同居してからも、同様であった。

乙田は、昭和四三年九月に甲府市に転居して後しばらくは、頻繁に上京し、控訴人方に宿泊したこともあるが、これは、当時多額の債務を負っており、保証人になるなどして返済に協力していた控訴人との打合せ、家庭教師、出版関係の所用、東京大学あるいは国会図書館への所用等のためにであり、費用節減のために控訴人方に宿泊したものにすぎず、控訴人方に生活の本拠があったものではない。

また、乙田が控訴人に送金したのは、乙田の債務の返済のためであって、控訴人の生活費を負担したものではなく、控訴人と生計を一にしたこともない。

(2) 乙田は、昭和五〇年六月ころ、その友人に意中の女性がいる旨を表明し、昭和五一年ころには、同僚に、ある卒業生との結婚につき仲介を依頼したりしていた。このことは、その当時には、乙田に控訴人と婚姻する意思がなかったことの表れである。

(三) したがって、少なくとも乙田の死亡当時には、乙田と控訴人間には社会通念上夫婦としての共同生活と認められるような事実関係はなく、乙田には右事実関係を成立させようとする意思もなかったのであるから、控訴人は、退職手当法にいう「届出をしないが事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」には該当しない。

三  証拠関係は、原審及び当審訴訟記録中の書証目録並びに原審訴訟記録中の証人等目録の記載のとおりであるから、これを引用する(略)。

第三争点に対する判断

当裁判所も、当審における証拠調べの結果を考慮してみても、控訴人の主張は認めることができないものと判断する。その理由は、次のとおりである。

一  まず、乙田が、その死亡当時、控訴人との夫婦関係を成立させようとする意思ないしは控訴人が自己の配偶者であるとの認識を有していたものと認めるに足りる的確な証拠はない。

1  すなわち、

(一) (証拠略)及び控訴人本人尋問の結果によると、控訴人は昭和二〇年ころ理研で乙田と知り合い、昭和二三年ころには、乙田から控訴人に対し、「毎日あなたの事を考へては心の中で泣いてゐます」との書面を手渡したことがあったことが認められるから、乙田が控訴人に対し特別な感情を持っていたことが窺えないではないが、これをもって乙田に結婚の意思があったとは即断し難く、また、控訴人は、(証拠略)の書面をもって、昭和二四年一一月二七日、乙田が控訴人と婚約したものである旨陳述するが、右書面の記載内容は、「次の事を約束する。心の底から愛する女性に会へば必ず結婚する 真に幸福な家庭をつくる 乙田次郎」というものであって、控訴人との婚姻を約束したとするには余りに一般的な表現にすぎるというべきであり、右記載に続けて、「此の約束は第三者には見せない 甲田花子」との記載のなされていることを考慮してみても、これをもって乙田が控訴人と婚約したものとは認められず、また、同書面二枚目の「誠実、信任、良識、愛 人の運命に対する思ひやり、良心」等の記載も結婚を前提としていない若い男女間でもこのような話題を交わすのは通常のことと考えられるので、これも婚約成立の認定資料とすることはできない。

(二) また、控訴人は、昭和二四年一二月二四日、東京都大田区蓮沼所在の控訴人宅で、乙田との仮祝言を挙げ、乙田と控訴人宅で同居生活を開始した旨主張し、(証拠略)、控訴人本人尋問の結果及び(人証略)には、これに副う供述部分がある。

しかし、(証拠・人証略)、控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、控訴人主張の仮祝言には乙田側の親族等の関係者は誰一人出席していないのはもちろん、事前に乙田の両親にこれを知らせてもいないこと、乙田は、その直後、関西の実家に帰省する際に控訴人を同行する等して両親にその旨紹介することもしていない(その後、乙田が実家に行く機会があったにもかかわらず、控訴人を同行したことは全くない。)こと、乙田は当時二四歳の大学院生であって両親からの仕送りで生活していたものであり、一家を構えることができる収入を得ていたものでも、その見通しがあったわけでもないこと、当時乙田が結婚を急がねばならない特段の事情もなかったこと、乙田は右同日以後も別に下宿先を確保していたことが認められ、これらの事実と、控訴人の主張するように乙田が母親の美子との間に波風を立てるのを嫌う性格であったため、その反対を押し切ってまで結婚届をすることができなかったとするなら、乙田が仕送りをしてくれていた両親に無断で控訴人と祝言を挙げることなど考え難いことを考え合わせれば、前記供述及び供述記載部分は到底採用できない。

したがって、仮に昭和二四年一二月二四日に何らかの儀式が行われたとしても、少なくとも乙田に関しては、それによって控訴人との夫婦としての共同生活を開始する意思があったものと推認することはできない。

なお、(証拠略)には、昭和四四年、四五年、五〇年及び五五年の各一二月二四日に乙田から控訴人に電話があった旨の記載があるが、昭和四四、四五年のその会話の内容とされる「今日の分を楽しみに」、「今日の替りは二八日に」については、二四日がクリスマスイブでもあり、これから当然に結婚記念日を意味するものとは受け取れず、また、昭和五〇年の「銀婚式より金婚式を祝えるように」との記載は、その直前の「乙田に電話、ちょうど電話しようとしてた由うれしい」旨の記載からすれば、乙田の発言ではなく、控訴人の気持を記載した可能性もあり、更に、昭和五五年の「記念日おめでとう」との記載はその基礎資料が明確ではなく、いずれもこれをもって、乙田の控訴人との結婚意思の存在を推認する資料とすることはできない。

(三) (証拠略)、控訴人本人尋問の結果によると、乙田は、昭和四三年一月ころ、保険金受取人を控訴人とする生命保険契約を締結したことが認められる。そして、控訴人の続柄欄には「妻」と記載されているところ、右記載を乙田自らがしたものか否かについては、若干の疑念がないではないが、仮に乙田の意思に基づく記載であったとしても、次の事実に照らすと、右事実をもって、乙田が控訴人を自己の配偶者として処遇していたものと解することはできない。

(1) (証拠略)によれば、乙田は、前記保険契約から間もない昭和四三年四月一二日、有限会社ジャパンクレジットから控訴人を連帯保証人として三万円を借入れるに際し、融資申込者票には家族として美子のみを記載し、一方控訴人作成名義の連帯保証人票には、乙田との関係を友人と記載して同社に提出している(妻が連帯保証人となって町の金融業者から借入れることは極く通常のことであって、控訴人を乙田の妻と表示することが借入れの妨げとなるとは考え難く、他には妻との表示をしなかった合理的な理由を窺わせる証拠はない。)ことが認められる。また、(証拠略)及び弁論の全趣旨によると、同じころ、乙田は、上野商会から、家族は美子のみであるとして、美子を連帯保証人として金員を借り受けていることが認められる。

(2) (証拠略)及び控訴人本人尋問の結果によると、前記生命保険の保険料は第一回分を除き控訴人において支払ったものであること、乙田は、昭和四三年ころ以降も自らを被保険者とする何件かの生命保険に加入し、その保険料を自ら支払ってきたが、その中には控訴人を受取人とするものはなかったことが認められる。

(四) さらに(証拠・人証略)によると、控訴人の友人や控訴人と乙田から家庭教師として教えを受けていた者の家族などは、控訴人と乙田が親しくしているところを見、控訴人と乙田が夫婦であると認識していた者がいることが認められる。しかし、いずれも、控訴人から乙田が主人であるとの説明あるいは控訴人から「乙田です」との紹介を受けて控訴人と乙田が夫婦であると受け取ったか、更にその者からの伝聞でそのように信じたものであって、乙田本人から直接に控訴人と夫婦であるとの発言を聞いたものではない。したがって、右事実から直ちに乙田が控訴人を配偶者として処遇していたものと断ずることはできない。

2  かえって、

(一) 乙田の同僚、友人等には、控訴人が乙田の配偶者であると認識していた者がいたことを認めるに足りる証拠はなく、むしろ、(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、乙田の友人、乙田の勤務先である山梨大学教育学部物理学教室の教職員らは、乙田の生前中に配偶者のいることを聞いたことがなく、乙田は独身であると認識していたことが認められる。

(二) また、(証拠・人証略)によると、乙田は、前記教室の事務官に、昭和四七、八年ころ、理研時代の友人から好意を持たれているがそれに応えるつもりはないこと、同人に結婚するつもりがないと話しているが、同人は乙田が結婚するまでは独身を通すといっている旨を話したことがあること、また、乙田の中学時代の同級生の宮内猛は、昭和五〇年五月三一日ころ、乙田に対し結婚相手の紹介を申し出たが、乙田はこれを断り、その際、昔知合った女性がいるが今は全く結婚する気はないこと、しかし、同女が目を悪くしたので、昔の付き合いに責任を感じているから定期的に少しずつ補助している旨や、山梨大学の卒業生に好きな女性がいて結婚したいと思っている等の話をしていたこと、さらに、昭和五一年四、五月ころに、前記教室の乙田の同僚である今井貞三は、乙田から同大学の卒業生との結婚を希望しているとしてその仲介を依頼され、右女性が大学を訪れた際その意向を打診したところ、当時既に婚約中であったため、その話は実現しなかったこと(乙田がジョークあるいは軽い気持で右女性に好意を持っている旨告げたにすぎないと認めることのできる証拠はない。)が認められる。

(三) 国家公務員等共済組合法二条一項二号は、配偶者であって主として組合員の収入によって生計を維持している者を被扶養者とし、その配偶者中には、届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含むと定めている。ところが、(証拠略)及び弁論の全趣旨によると、乙田は、昭和三七年四月に山梨大学助教授に任ぜられて以来、一度も控訴人をその被扶養者として届け出たことのないことが認められる。そして、控訴人主張のように控訴人が、昭和五〇年四月以降無職無収入でかつ病弱の身であって、乙田の送金によって生計を維持してきたというのであれば、しかも、乙田が控訴人を配偶者として処遇しその身を案じていたのであれば、自己に内縁の妻がいることの公表を憚る必要性よりも、被扶養者として届け出て、各種の恩典に浴する必要性の方がはるかに大きかったものと考えられるから、右事実は、乙田が、少なくとも昭和五〇年四月以降は控訴人を配偶者と認識していなかったことを示していると解するのが相当である。

(四) さらに、控訴人の主張する婚約あるいは仮祝言から控訴人が死亡した昭和五六年まで、三二年近くの長期間、乙田が控訴人との婚姻届をしなかった合理的、納得し得る理由を認めることのできる証拠がない(控訴人はその本人尋問等において、美子の反対があったからであり、その理由は最終的には乙田との間に子供が生れなかったからであると供述し、控訴人の母甲田トミは、その証言においてお金の関係で美子が承諾しなかったと供述しているが、右両名は、子供ができなかった原因は乙田にあり、そのことは美子も承知していたとも供述しており、控訴人主張のように強い精神的きずなで結ばれていた二人であるならば、この程度のことで婚姻届出ができないとするのはいかにも不自然である。)ことは、取りも直さず、乙田にその意思がなかったこと、ないしは、そもそも控訴人主張のような乙田との間の同棲生活が存しなかったことを意味するというべきであろう。

3  以上によれば、むしろ、少なくとも乙田が死亡した当時には、乙田は、控訴人と夫婦としての共同生活を成立させようとする意思を有しておらず、控訴人を自己の配偶者として処遇していなかったものと認めるのが相当である。

二  それだけではなく、乙田が死亡した当時、乙田と控訴人とが夫婦としての共同生活をしていたものと認めることも困難である。

この点についての当裁判所の認定、判断は、次のとおり付加、訂正、削除するほかは、原判決一四枚目表九行目冒頭から同二三枚目裏二行目末尾までの記載のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決一四枚目裏一行目の「収入よってその維持」を「収入によってその生計を維持」に、同九行目の「第三四、第三八号証の各四、五」を「第三四号証の各四、五、第三八号証の三、四」に改める。

2  同一五枚目裏五行目の「三の郵便官署作成部分」を「四の郵便官署作成部分」に改める。

3  同一六枚目表三行目の「七〇号症」を「七〇号証」に、同六行目の「金融期間」を「金融機関」に改め、同裏五行目の「乙田は」を削る。

4  同一七枚目表三行目の「乙田の収入の」を「乙田の収入を」に改め、同八行目から九行目の「ものすることが多かったが。)」を削る。

5  同一八枚目表五行目の「帰宅した」を「立ち寄った」に、同一〇行目から一一行目の「昭和毎月」を「毎月」に改め、同裏四行目の「右のほか」を削る。

6  同一九枚目表九行目から一〇行目の「給料袋等等」を「給料袋等」に、同二〇枚目表三行目の「少なくとも」から同四行目の「営んでいなかった」までを「遅くとも昭和五一、二年以降は乙田が控訴人と共同生活をしていなかった」に、同七行目の「乙第六七号証」を「甲第六七号証」に改める。

7  同二〇枚目表八行目の「金銭関係」の次に「(なお、前掲各証拠によれば、前記借入れに際し、借用証等には乙田の住所として、いずれも控訴人方とは異なる乙田が住民登録をしていた下宿先等が記載されていたにもかかわらず、融資元からの乙田宛の連絡の手紙は控訴人方に送付されていた(すなわち、手紙の封筒には控訴人方の住所が記載されていた。)ことが認められるが、融資元が控訴人方を右のように住所として記載したのは単なる連絡先として記載したにすぎず、乙田の生活の本拠地が控訴人方にあることを示すものではないというべきである。)」を、同裏六行目の次に、改行して「また、弁論の全趣旨によって成立の認められる(証拠略)には、控訴人が居住している建物は乙田との同居生活のために賃借した旨の供述記載があるけれども、同号証によればその賃借人名義は乙田ではなく控訴人であること、右木村証言によれば、控訴人方に乙田の表札が掲げられたことがないこと、前記各証拠及び弁論の全趣旨によれば、乙田はその住民登録を控訴人方にしたことは一度もなく、自己の下宿先や甲府市内の宿舎をその住居として届け出ていたこと、がそれぞれ認められるから、右供述記載は採用し難く、むしろ、右各事実によれば、乙田の生活の本拠が控訴人方にあったことはなかったというべきである。」を加える。

8  同二一枚目表九行目の「原告弁論の全趣旨」を「弁論の全趣旨」に改める。

9  同二二枚目裏五行目の「証拠もない」の次に「(なお、甲第一三八ないし第一四五号証の記載も、ほとんどが借入金の返済に関するものであって、右事実を認めるに足りない。)」を加える。

四  結論

控訴人の請求は理由がなく棄却を免れない。

よって、これと同旨の原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 越山安久 裁判官 赤塚信雄 裁判官 桐ケ谷敬三)

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