大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成20年(う)245号 判決 2008年7月08日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は,弁護人高見澤重昭作成の控訴趣意書及び控訴趣意補充書面に記載されたとおりであるから,これらを引用する。

論旨は,事実誤認の主張であり,要するに,原判決は,被告人は,足立区梅島所在の木・鉄骨造瓦葺2階建3軒長屋(床面積合計約229.6m2)の西側部分(床面積約103.6m2。以下「被告人方」という。)を所有して居住し,被告人方を本店とする有限会社A工業(以下「A工業」という。)の代表取締役であったが,(1)被告人方につき,A工業がニッセイ同和損害保険株式会社との間で保険金4100万円(保険目的として商品,受託品を含む。)の火災保険契約を締結していたことを奇貨とし,乙野一郎ほか4名が現に住居に使用し,かつ,同人らが現にいる上記長屋に放火して火災保険金を詐取しようと企て,平成15年9月12日午前4時11分ころ,被告人方1階南側倉庫兼車庫内において,2か所に置いた段ボール箱等に灯油を散布するなどし,これに何らかの方法で火を放ち,その火を被告人方1階の天井及び東側壁に燃え移らせて,現に人が住居に使用し,かつ,現に人がいる上記長屋の被告人方1階部分(焼損面積約2m2)を焼損し(原判示第1の1。以下「15年放火」という。),(2)同年10月22日ころ,上記放火の事実を秘して,被告人方が原因不明の出火により焼損したもののように装って,中央区明石町所在の上記損害保険株式会社の従業員らに火災保険金の支払を請求し,同従業員らをしてその旨誤信させて火災保険金支払の意思決定をさせ,平成16年4月14日,同従業員に被告人名義の銀行預金口座へ190万6638円を振込入金させて,人を欺いて財物を交付させ(同第1の2),(3)同年8月25日ころ,(2)と同様に装って,新宿区西新宿所在の株式会社損害保険ジャパン(以下「損保ジャパン」という。)の従業員らに火災保険金の支払を請求し,同従業員らをしてその旨誤信させて火災保険金支払の意思決定をさせようとしたが,同人らが被告人方の出火原因に不審を抱き,これに応じなかったことからその目的を遂げず(同第1の3),(4)上記乙野ほか1名が現に住居に使用し,かつ,同人らが現にいる上記長屋に放火しようと企て,同年10月28日午前2時37分ころ,被告人方1階南側倉庫兼車庫内において,4か所に置いた段ボール箱等に灯油を散布するなどし,これに何らかの方法で火を放ち,その火を被告人方1階の天井等に燃え移らせて,現に人が住居に使用し,かつ,現に人がいる上記長屋の被告人方1階部分(焼損面積約47m2)を焼損した(同第2。以下「16年放火」といい,15年放火と併せて「本件放火」という。),という事実を認定したが,被告人は,本件放火の犯人ではない(したがって,(2)(3)の詐欺及び詐欺未遂の被害者らを欺く行為や故意もないというものと解される。)から無罪であり,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,というのである。

そこで,所論にかんがみ,原判決が挙示する関係証拠を含む原審記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討すると,原判決が「事実認定の補足説明」の項(以下「補足説明」という。)で説示するところは一部に賛同できない部分があり,被告人が本件放火の犯人であることについては合理的な疑いが残るといわざるを得ず,したがって(2)(3)の詐欺(詐欺未遂も含む。以下,同様である。)についても被害者らを欺く行為や故意があったとは認められず,被告人が本件放火及び上記詐欺について有罪であることの証明が十分ではないとの判断に到達したので,原判決は事実を誤認したものとして破棄を免れない。以下,その理由を説明する。

1  原判決は,「補足説明」において,被告人が本件放火の犯人であると認定した理由について,おおむね次のとおり説示している。

すなわち,本件放火に係る火災の原因がいずれも灯油を用いた何者かによる放火であることは証拠からも明らかであり,本件では被告人が本件放火の犯人であるか否かが争点となるところ,これについては状況証拠によって被告人が犯人であると認定できるか否かが問題となるのであって,その検討の前提事実として「補足説明」第2の1ないし3の各事実が認められ,以上を踏まえると,本件では,①被告人の家族等を除き,犯行当時,被告人以外の者が被告人方へ侵入した可能性や形跡はないこと,②放火場所や放火態様に照らすと,被告人又はその家族以外の者が放火したとは想定しがたいこと,③とりわけ15年放火については,被告人に放火の動機が存すること,④被告人は,相次いで自宅を放火されながら,警察に対して被害申告をしたり,防災設備を設置したりするなど,放火行為に関与していない者ならば当然とるべき行動に一切出ていないこと,⑤被告人が,15年放火について,火災保険会社の調査員等に対して虚偽の説明をしていること,⑥被告人の家族には,被告人の関与なしに放火行為に及ぶ理由がないこと,⑦被告人の犯行であるとした場合,これと矛盾する事情等が存しないことが認められ,これらの事情からすると,⑧15年放火の際に被告人が自力で脱出せず,助けを求めるなどしなかった点は不自然ではないこと,⑨16年放火の際に被告人が声を出して居場所を告げるなどせず,普段着を着て預金通帳や印鑑等の貴重品をバッグにまとめていたことなどから火災の発生を事前に知っていたのではないかと疑われる点は,これらの行動が不自然とはいえず,被告人が火災の発生を事前に知っていたことの裏付けになるとはいえないこと,⑩16年放火の火災の当日,被告人が,搬送先の病院で警察官に事情聴取された際,服装について虚偽の説明をした点は被告人の犯人性を基礎付ける事情としては薄弱であることなどを考慮しても,本件放火に被告人自身が関与していることは合理的な疑いを容れる余地がない程度に立証されている,というのである。

そして,関係証拠によれば,原判示冒頭の事実や本件放火の外形的な事実(被告人が本件放火の犯人であることは除く。なお,各事実に「段ボール箱」とあるのは「段ボール紙(片)」の誤りである。),(2)(3)の保険金請求に係る外形的な事実(被告人が相手方らを欺き又は欺こうとした事実や被告人にその故意があったことは除く。),更に「補足説明」第2の各事実(前提となる事実)を認めることができる。

2  しかしながら,「補足説明」第3における説示については,是認できる点は多く存するものの,その推論や結論には賛同できない部分もいくつかみられる。以下,順を追って説明する。

①(外部の者の侵入可能性等)については,15年放火の際,南側出入口(被告人方1階南側の公道に面して存在するアルミサッシ製ガラス戸と電動シャッターの出入口)から外部の者が侵入することは著しく困難であったこと,被告人方1階の各窓(1階西側の最も南側にある窓も含む。)から外部の者が侵入することは不可能又は著しく困難であったこと,被告人方2階の各窓から外部の者が侵入することは困難であり,その痕跡もなかったことは認められる。

しかしながら,北側裏口(被告人方1階北側にある木製ドアによる出入口)については,15年放火の当日に放火現場の実況見分を行った警察官東田昭男の原審公判証言等によっても,ドアの施錠の状況あるいは外部の者による開閉の可能性や難易が必ずしも明らかではなく,むしろ,実況見分調書添付の写真等を子細に見ると,同ドアのノブの鍵をかけるつまみの部分が縦になっており,通常であれば鍵が開いた状態であって,実況見分時には施錠されていなかった可能性が高い。また,ノブに結び付けられていたひもは,その結び目と反対側の状況が実況見分調書等によっても不明であり,このひもは固定物とはつながっておらず外部から開けることは可能であったという被告人の原審公判供述は排斥できない。次に,屋上への階段に通じている被告人方2階の北側ドアについては,施錠の状況が不明であり,外部の者が同ドアから侵入した痕跡がなかったか否かも,必ずしも明らかではない。この点につき,原判決は,外部の者が同ドアから侵入した痕跡がなかった旨を述べる東田証言が実況見分調書添付の写真等によって裏付けられているというが,同写真を子細に見てもそのような痕跡がないことが明白とはいいがたいし,15年放火の火災時に消火活動等を行った消防士西村和男が同ドアを通って屋上まで赴いた旨を述べていること(本甲51・検察官調書)からすれば,東田らによる実況見分の前に同ドアを人が出入りしたことは明らかであるから,上記証言の信用性には疑問を抱かざるを得ない。

以上によれば,被告人方の出入口の中には,外部の者の侵入が不可能又は非常に困難とはいいがたいものが存するのであって,外部の者が侵入して放火に及んだ可能性がまったくないとはいいきれない。殊に北側裏口については,外部の者が侵入することも不可能ではないし,非常に困難ともいえないように思われ,原判決も「北側裏口から侵入した可能性が残る」(13頁2行目)と説示している。また,2階からの侵入について,原判決は「被告人は,2階北側和室(北側から2番目の部屋で階段に近い位置にある。)で就寝していたというのであるから,放火犯人が2階の窓等から侵入すれば,窓を開ける物音や階段を降りる際の靴音等に気付いたと考えるのが合理的である」(12頁11ないし14行目)と説示しているが,他方で,前記⑧に関し,被告人が自力で脱出せず,助けを求めるなどしなかった点は必ずしも不合理ではない旨を説示する部分で「被告人は,目が覚めた後,時間をおかずに消防隊員が来た旨弁解しているところ,一方で,被告人は,元来低血圧で,前日夜には酒を飲んだとも述べていることから,このような理由から単に煙や音に気づくのが遅れた可能性も否定できない」(21頁16ないし19行目)と説示しており,その記載にはいささか整合しない点がみられ,結局,後者の被告人の上記供述を排斥できないとすれば,2階からの侵入についても被告人が気付かなかった可能性は残り,その他の状況を考慮に入れても,外部の者が2階北側ドアから侵入した可能性がまったくないとはいいきれない。

16年放火の際,南側出入口から外部の者が侵入した可能性はないこと,被告人方1階の各窓から外部の者が侵入した可能性もないこと,同2階の各窓から外部の者が侵入することは不可能又は著しく困難であり,その痕跡もなかったことは,「補足説明」で説示されているとおりであるが,北側裏口が施錠されていたことを認めるに足る証拠はなく,15年放火の際の実況見分で認められた北側裏口ドアのノブに結び付けられていたひもは,16年放火の際の実況見分では認められず,外部の者が北側裏口から侵入した可能性は否定できない。また,被告人方2階北側ドアから侵入した形跡がないとは必ずしもいえず,その可能性が残ることは15年放火の場合と同様である。

②(放火態様等)について,15年放火をみると,その態様は,原判示第1,「補足説明」第2の2(4)及び第3の2(1)で認定しているとおりであるが,「補足説明」における「被告人方の放火そのものを目的としていれば,殊更屋内に放火する必要性はないのであって,家人に発見される危険をあえて冒してまで,手間をかけて放火するのは,その行動が著しく不合理だといわなければならない」(15頁2ないし5行目),「他方で,被告人あるいは太郎ら家族にとっては,上記放火場所は,被告人方建物外部に放火するよりは,人目に付かず,仮に出入りを目撃されても容易に弁解できるという意味で危険が少なく,かつ,段ボールや灯油等の所在も分かっていて犯行が容易な場所であったということができる。そうすると,本件放火は,その犯行態様等に照らすと,被告人あるいは太郎ら家族の犯行と考えるのが自然で,これらを除いた第三者による犯行であるとするには,状況が余りに不自然,不合理というべきである」(同頁12ないし18行目)との説示は,一面的であって,そのような見方ができることも否定はできないものの,反面で,仮に外部の者が被告人方の放火を決意すると共に,被告人又はその家族に疑いの目が向くことを企てたとすれば,あえて放火場所として建物内部を選ぶことも考えられるし(上記のような危険を冒してでもそのような行為に出ることが著しく不合理とはいいがたいと思われる。),他方で,仮に被告人又はその家族が被告人方の放火を決意したとしても,放火場所として建物内部を選べば自らに疑いの目が向くことになるのは明らかであるから,むしろ放火場所としては建物外部を選ぶ方がより自然かつ合理的であるともいい得るのである。

なお,原判決は,放火犯人が被告人方1階に置かれていた消火器の入ったロッカー15個すべてに灯油を染み込ませた新聞紙を入れたと認定し,それを前提に放火犯人の目的は被告人方の放火だけではなかったという趣旨を説示している(「補足説明」第3の2(1))が,被告人は,原審公判で,自らが上記ロッカーに新聞紙を入れたことは認めながら,灯油を染み込ませてはいないと述べており,この供述が排斥できなければ,上記前提事実を認定することは困難であるところ,原判決はその点について何ら触れておらず,その点で上記説示はやや不適切であるとの感を否めない。被告人の上記供述はなるほど不自然であり,上記新聞紙の一部から灯油が検出されている事実にもそぐわないが,他方で,被告人の長男である甲山太郎の原審公判証言では被告人の上記供述に沿う内容も述べられており,同証言が被告人の親族によるものであることを考慮しても,被告人の同供述を信用性がないとして直ちに排斥することは難しいように思われる。仮に被告人の弁解が真実であるとしても,例えば,消火器のロッカー内にあった新聞紙に放火犯人が灯油を染み込ませたという事態も想定できないではないが,消火器を加熱・破損させることは被告人方を放火する行為と矛盾するようなものではなく,むしろ,消火器が破裂することなども想定し得ることなども考えれば,上記行為は被告人方の放火を目的とする行為(被告人方建物を焼損させ,大きな損傷を与えること)に沿う側面も有するのであるから,放火犯人の上記行為をもって「犯人が被告人方の放火を目的としていたのであれば,はなはだ不合理,不自然である」(15頁10,11行目)とまではいいがたいのではないかと思われる。

16年放火についても,上記と同様に原判決の説示には必ずしも賛同しがたい。

原判決は,被告人又はその家族以外に放火犯人として考えられる者の存在がまったくうかがわれないとし,平成13年1月から平成17年12月までの間に被告人方近辺において本件と類似する放火事犯が起きていないとしている(「補足説明」第3の2(3))が,捜査報告書(追甲25)で平成14年1月27日に被告人方で起きた火災(以下「14年火災」という。)が類似の放火事案として挙げられている点をどのように評価するのかは明らかではない。仮に14年火災が放火であるならば,その犯人が存在しており,被告人又はその家族がその犯人であるとはされていない現時点においては,被告人又はその家族以外の者が14年火災の放火犯人である可能性があることも想定し,本件放火についても検討すべきであって,その火災の原因等の詳細は明らかではないが,14年火災が被告人方内部で起きたものであり,その火災の状況が本件放火と類似していることや,その際被告人は建物から逃げ出し,その途中で隣家に火事を知らせ,屋根から飛び降りる際に全身打撲の傷害まで負っていることなど(本甲58・火災調査書抄本,追甲31はその謄本)からすると,本件放火について,被告人又はその家族以外に放火犯人として考えられる者の存在がまったくうかがわれないとはいいきれないと思われる。なお,原判決も,「補足説明」第3の4において,「14年火災については放火の疑いがあり,その後約1年半で再び15年火災が,その約1年余り後には16年火災が起き,しかも,15年及び16年火災が何者かの放火によることは客観的状況から明白だったのである」(18頁6ないし8行目)として,14年火災が放火である可能性があることを前提とした説示をしている。

そもそも,本件放火の態様については,火を放った方法やこれに用いた道具等をみると,確かに,いずれの放火においても,放火犯人は被告人方1階の数か所(15年放火では2か所,16年放火では4か所)で灯油や段ボール紙(片)等を用いて着火行為に及んでおり,被告人方内部の者の方がより容易に犯行に及ぶことができる態様であったことは間違いないものの,このような方法や手段が,被告人又はその家族にしか採り得ないようなものであるとか,同人らしか知り得ないような道具を用いたものであるとまではいえず,本件放火の手段と同人らとの間に高度の結び付きが認められるような事情はうかがえない。また,放火場所の点からしても,その犯人が被告人又はその家族である疑いが強いとはいえるものの,それ以外の者の可能性もなお排除できないと思われるのである。

③(動機等)については,本件放火当時,いずれも被告人の経済状態が芳しい状況ではなく,火災保険金の取得を目的として本件に及んだ可能性を否定できないことは「補足説明」第3の3の説示のとおりである。しかしながら,15年放火の際に消火器のロッカー内に灯油を染み込ませた新聞紙が入れられていたことから,被告人方を放火することだけが目的であったとはいえないとする点については,前記のとおり,灯油を染み込ませた新聞紙を放火犯人が入れたという事実を必ずしも認定できず,仮に放火犯人が消火器のロッカー内にあった新聞紙に灯油を染み込ませたとしても,「犯人が被告人方の放火を目的としていたのであれば,はなはだ不合理,不自然である」(15頁10,11行目)とまではいいがたく,この事情が被告人の犯人性を「強く」裏付けるとまでは思われないし,15年放火の際,損保ジャパンに対しては被告人自らが積極的に保険金請求を行ったとまではいえないことや16年放火の際には被告人が保険金請求を行っていないことなどからすると,動機の面から被告人の犯人性が強く裏付けられるとはいいがたい。

④(被告人の本件放火後の行動)について,被告人が本件放火後に採った振る舞いが放火の被害者の行為として必ずしも自然ではないことやその点が被告人の犯人性を裏付ける事情になり得るということは「補足説明」第3の4の説示のとおりであり,⑤(被告人の虚偽説明)についても,被告人が保険会社の調査員に対し15年放火の火災の原因について虚偽の説明をしたということやその点が被告人の犯人性を裏付ける一つの事情になり得るということは「補足説明」第3の5の説示のとおりである。⑥(被告人の家族による犯行の可能性)については,被告人以外の家族(特に太郎)において本件放火に及ぶ可能性がなかったとはいえないものの,他方で本件放火に及ぶ独自の動機・理由があったとは想定しがたいことは,「補足説明」第3の6の説示のとおりであるが,原判決が同項の冒頭で「これまで検討したところからすると,被告人あるいは太郎ら家族を除いた者による放火の可能性は,合理的な疑いを容れることなく否定できる」(19頁9,10行目)と説示するところは必ずしも賛同できない。

⑦(矛盾する事情の不存在)について,原判決は「補足説明」第3の7で「関係証拠によっても,本件各放火が被告人の犯行によるものであるとした場合に,矛盾あるいは齟齬するような事情は見当たらない」(20頁13,14行目)と説示するが,これには賛同しがたい。すなわち,被告人が本件放火の犯人であるとすれば,被告人はあらかじめ火災が起きることは承知していたことになり,そうであれば,自らの生命を守るために放火行為の後に建物の外へ出て被害者を装うのが自然であると思われるのに,本件放火において被告人はいずれも2階で消防隊に救出されているのであって,このような事実からすると,たとえ本件放火の火災の状況やその救出時の被告人の様子等からみて客観的には被告人の生命がおびやかされるような状況等にはなかったとしても,なお被告人を犯人と断定するには躊躇を覚えざるを得ないのである。原判決は「火勢が予想より早く回ったとしても,犯人である被告人にとっては,その生命に危険をもたらすような事態は容易に回避し得た」(同頁20,21行目)というが,原判決は被告人の犯人としての人物像を,自己を被害者としてより強く印象付けるために慎重に火災の様子をうかがい,自己が建物の外へ逃げ出すことができるいわばぎりぎりの状態になるまで火勢が強くなるのを待つような,冷静な判断と行動ができる人物を想定しているように思われるところ,原審記録及び当審における事実取調べの結果によっても,被告人の人物像がそのようなものとは見受けられず,この点は,原判決も「公判供述からうかがわれる被告人の知的能力や場当たり的な供述態度等に照らすと,被告人が深く考えもしないで2度目の放火に及んだと考えることも十分可能」(同頁末行,21頁1行目)と説示し,被告人の性格等を上記人物像とはやや異なるもののように捉えていることがうかがえるのであって,「深く考えもしないで」放火に及ぶような被告人が,いわば自らの生命の危険を顧みずに火災が起きている建物内に救助隊から救出されるまであえてとどまっているというのは,不自然というほかない。付言すると,その詳細は明らかではないものの,14年火災の際に被告人は建物の外に逃げており,その途中で隣家に火事を知らせるなどしているのであって(前記火災調査書抄本),本件放火において被告人が被害者を装うのであれば,14年火災の際と同様の振る舞いに及ぶのがむしろ自然ではないかと思われる。被告人は,14年火災で建物から脱出するために屋根から飛び降り,その際に全身打撲の傷害まで負っているところ,被告人が本件放火において被害者を装うに当たり,そのような負傷を恐れて建物内にとどまったとみることもできないではないが,そのような受傷のおそれを回避しながら建物外へ脱出する方法を採ることがさして困難とは思えないことからすると,負傷を恐れたために生命の危険を冒してまで建物内にとどまったとみるのは,やはり不自然である。仮に被告人が本件放火の犯人であるとした場合,被害者を装うためにあえて14年火災の際とは異なる振る舞いに及んだことについての合理的な理由は見出しがたいであろう。被告人が本件放火の際に建物外部に逃げなかったという事実は,被告人が本件放火の犯人であることとは整合しないように思われるのである。

⑧⑨⑩の諸事情が必ずしも被告人の犯人性を基礎付ける事情とはなり得ないことは,原判決が「補足説明」第3の8で説示しているとおりであり,さらに付け加えれば,原判決は,⑧において,15年放火の際に被告人が自力で脱出せず,助けを求めるなどしなかった点につき,煙や音に気付くのが遅れた可能性も否定できないなどと指摘して,これを必ずしも不自然ではないとしており,そうすると被告人は火災を事前に察知することができなかった,すなわち,被告人は犯人ではないということになってしまいそうである。原判決は,⑨において,16年放火の際に被告人が声を出して居場所を告げるなどせず,普段着を着て預金通帳や印鑑等の貴重品をバッグにまとめていたことなどから火災の発生を事前に知っていたのではないかと疑われる点についても,いずれも必ずしも不自然とはいえないとしているが,特に被告人が階段を上ろうとして転倒したと述べる部分は排斥できないとされていることや焼失によって重大な被害を受ける物でバッグに入っていなかった物(被告人宅の権利証等)があること,救出の際に被告人がこのバッグを携帯していたような様子はうかがえないことなどからすると,上記のような事情は被告人が火災の発生を事前に知っていたことの裏付けにはならないというだけでなく,むしろ被告人が事前に火災が起きることを知らなかったことをうかがわせる事情といえ,ひいては被告人が犯人ではないことを示唆すると考えられるのである。

3  以上を踏まえて,被告人が本件放火の犯人であると認定できるだけの状況証拠が揃っているといえるか否かについて,総合的に検討する(この検討においては,本件と同種の放火の事案につき無罪を言い渡した最高裁第一小法廷昭和48年12月13日判決(判例時報725号104頁)が特に参考になる。)。

まず,本件放火の際の被告人方建物の各窓や各出入口の施錠や鍵の管理の状況,各窓の格子や雨戸の状況,外部からの侵入の痕跡の有無,同建物の構造や部屋の配置,同建物の周辺の様子や本件放火が発生した時間帯等の諸事情に照らすと,本件放火に際して被告人又はその家族以外の者が侵入した可能性は低いこと,本件放火の手段や方法,着火場所等からみても,被告人又はその家族以外の者が犯行に及んだ可能性は低いこと(殊に15年放火の際には消火器のロッカー内にあった新聞紙に灯油が染み込んでおり,これが犯人の仕業だとすれば,外部の者より被告人又はその家族の方がより容易に行うことができると思われる。),15年放火の後に被告人が火災保険金の支払を請求している点などからすると,被告人が営むA工業の経営状態が芳しくない中で,14年火災による保険金取得の経験等から,被告人が再度保険金を取得するために15年放火に及んだと考える余地は十分にあり,特に15年放火については被告人が放火に及ぶ有力な動機があるといえ,16年放火についても,被告人の経済状態は好転しておらず,被告人には動機があるといえること,本件放火後,被害者であれば通常行うと思われる行動(消防署に出火原因を確認し,警察署に被害申告をし,自宅に防災設備等を設置するなど)を被告人が行っていないなど,被害者としては極めて不自然な振る舞いに及んでおり,この点は被告人が本件火災に関与していることを強く裏付ける事情といえること,被告人が保険会社の調査員に対し15年放火の火災の原因について虚偽の説明をしており,その点も被告人の犯人性を裏付ける事情といえることなどが認められ,以上によれば,本件放火の犯人は被告人ではないかと相当強く疑われるところである。

しかしながら,他方で,本件放火の際に外部の者が被告人方に侵入することがおよそ不可能であったとか,著しく困難であったとまではいえないこと,本件放火の態様が,被告人又はその家族によってしか行うことができないものであったとはいえず,本件放火の手段や方法と被告人らとの間に高度な結び付きまでは認められないこと,動機については,15年放火の後の損保ジャパンに対する保険金請求は火災後1年近く経過した後に同社従業員からの意向打診に答える形で行っており,16年放火の後には保険金請求を行っていないなど,被告人において必ずしも保険金取得の強い目的があったとはいいがたいことなどに加え,本件放火はいずれも被告人方内部で放火行為が行われているところ,なぜことさらに自ら疑いを招くような場所を放火場所として選んだのか,また,本件放火のいずれの際にも火災時に被告人方2階で消防隊に救出されており,自力で建物外部へ逃げていないところ,なぜ自らの生命の危険を冒してまでことさらに建物内に残っていたのか,16年放火では救出時に預金通帳等の貴重な物が入っていたバッグを被告人が携帯しておらず,そのバッグの中には貴重な物すべてが入っていたわけではないところ,なぜそのバッグの中に貴重な物すべてを入れず,かつ,そのバッグを救出時に携帯していなかったのかなど,仮に被告人が犯人であるとした場合,いずれもその意図を合理的に理解することは困難であることなど,被告人を本件放火の犯人と認める妨げになると思われる事情も存する。そして,14年火災も放火の疑いがあり,その犯人がいまだ検挙されていない状況において,被告人以外の者(その家族だけでなく第三者も含む。)が放火犯人としてまったく想定し得ないとはいえないという事情も存するのである。

以上の諸事情を総合考慮すれば,本件において認められる状況証拠を検討してみても,被告人が本件放火の犯人である疑いは相当に強く認められるものの,なおそうであると断定することについては躊躇を覚えるのであって,本件放火に被告人自身が関与していることを合理的な疑いを容れる余地がない程度に立証されたとする原判決の判断は支持しがたいものというほかない。

4  なお,当審における事実取調べの結果によれば,15年放火に関しては,捜査段階の被告人の自白(自白に至った経緯に関する供述も含む。)もある(当審検7ないし11,供述書・警察官調書・検察官調書(なお,検7以外のこれらの書証は,原審の公判前整理手続において,検察官がその請求を撤回したものであり,検7は請求されていなかった。))が,その供述を見ても,放火犯人でなければ述べられないような,具体的又は迫真的な内容が含まれているとはいえず,例えば,放火の動機を「保険屋の女への腹いせ」と述べ(検10,11),放火の前夜(平成15年9月11日から12日にかけての夜)の行動について「酒は,いつもは缶ビールを2本ぐらい飲んで寝てしまうのですが,その晩は,日本酒を3合以上は飲んだと記憶しています」,「火を点けた後で,2階の奥の部屋のベットに戻り横になっていたところ,消防隊に助けられました」と述べる(検10)など,その内容が必ずしも合理的とはいいがたい部分もあり(前者は何故そのような事情が動機になるのか合理的な説明がされていないし,後者は酒を飲んで寝入ってしまった場合にいかにして逃げ出すつもりであったのかなどが説明されていない。),被告人が当審公判において述べる上記自白調書等の作成経緯等(いろんなことを強く言われてどうでもいいやという気持ちになり,また,取調べの状況はテープ録音されているから大丈夫だと警察官から言われたため,虚偽の自白調書に署名をしても,後に真実は判明するはずだと考えた,という趣旨が述べられた。)についても,一慨に信用できないとはいいがたく,結局,被告人の上記自白をもって被告人が15年放火の犯人であることの証拠とすることは困難であるといわざるを得ない。他方で,原審記録及び当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても,被告人の弁解について,不自然あるいは不合理な部分がないではないが,明らかに虚偽であるとしてこれを直ちに排斥できるような部分は見当たらないし,もとより被告人が虚偽を述べたということ自体で被告人が本件放火の犯人であると強く推認できるわけでもない。

5  以上によると,結局,被告人が本件放火を犯したと認定することはできず,したがって,(2)(3)の詐欺についても,被告人において被害者らを欺く行為があったとは認められず,もとよりその故意も認められないから,被告人がこれらの詐欺を犯したと認定することはできない。

そうすると,被告人を本件各公訴事実につき有罪とした原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があると認められる。

論旨は理由がある。

よって,刑訴法397条1項,382条により,原判決を破棄し,同法400条ただし書を適用して被告事件について更に判決する。

本件各公訴事実(訴因変更後のもの。原判示の各事実のとおりであって,その要旨は冒頭に記載したとおりである。)については,前述したとおりの理由によって,いずれも犯罪の証明がないことに帰するから,同法336条により被告人に対し無罪の言渡しをすべきものである。

よって,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 安廣文夫 裁判官 小森田恵樹 裁判官 地引広)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例