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東京高等裁判所 平成20年(ネ)1430号 判決 2010年1月28日

控訴人兼被控訴人

X1<他12名>

(原審における原告。以下「一審原告」という。)

一審原告ら代理人弁護士

澤藤統一郎

加藤文也

水口洋介

秋山直人

新村響子

平松真二郎

白井劍

山中眞人

彦坂敏之

川口彩子

穂積匡史

金哲敏

雪竹奈緒

被控訴人兼控訴人

東京都(以下「一審被告」という。)

同代表者知事

石原慎太郎

同代理人弁護士

細田良一

同指定代理人

添田和美<他4名>

主文

一  一審被告の控訴に基づき、原判決中一審被告敗訴部分を取り消す。

二  一審原告らの請求をいずれも棄却する。

三  一審原告らの控訴をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、第一、二審とも一審原告らの負担とする。

事実及び理由

第一一審原告らの控訴の趣旨

一  原判決を次のとおり変更する。

二  一審被告は、一審原告X1、同X2、同X3、同X4及び同X5に対し、それぞれ五五九万〇四〇〇円及びこれに対する平成一七年九月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  一審被告は、一審原告X6、同X7、同X8、同X9、同X10、同X11、同X12及び同X13に対し、それぞれ五五九万〇四〇〇円及びこれに対する平成一八年四月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

四  訴訟費用は、第一、二審とも一審被告の負担とする。

五  仮執行宣言

第二一審被告の控訴の趣旨

主文第一、二、四項と同旨

第三事案の概要

一  本件は、都立高等学校の職員又は学校司書(以下、両者を「教職員」という。)であった一審原告らが、平成一五年一〇月二三日以降に都立高等学校で行われた卒業式や創立記念式典に際し、各校長から発令された、国歌斉唱時に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを命ずる職務命令に従わず、起立して斉唱をしなかった(以下、この行為を「不起立行為」という。)ところ、東京都教育委員会(以下「都教委」という。)により、一審原告らがこの職務命令に違反したことを理由として、平成一六年度又は平成一七年度の東京都公立学校再雇用職員の採用選考において不合格とされた(以下、このことを「本件不合格」という。)が、上記職務命令は一審原告らの思想及び良心の自由を侵害するなど違憲、違法なものであり、上記不合格は不法行為を構成する旨主張して、都教委の設置者である一審被告に対し、国家賠償法一条一項に基づく損害賠償としてそれぞれ五五九万〇四〇〇円(逸失利益、慰謝料及び弁護士費用)及びこれに対する各訴状送達の日の翌日である平成一七年九月二日(一審原告X1、同X2、同X3、同X4及び同X5)又は平成一八年四月二五日(一審原告X6、同X7、同X8、同X9、同X10、同X11、同X12及び同X13)から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  原判決は、一審原告X1、同X2、同X3、同X4及び同X5の請求について、各二一二万八六〇〇円及びこれに対する平成一七年九月二日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、同X6、同X7、同X8、同X9、同X10、同X11、同X12及び同X13の請求のうち、各二一一万六〇〇〇円及びこれに対する平成一八年四月二五日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度でそれぞれ認容し、その余の各請求を棄却したところ、これを不服として、当事者双方が控訴した。

三  争いのない事実等、争点及び争点に対する当事者の主張は、次項に一審原告らの当審主張を、次々項に一審被告の当審主張をそれぞれ加えるほかは、原判決の「事実及び理由」中の「第二 事案の概要」の一から三に記載のとおりであるから、これを引用する。

四  一審原告らの当審主張

(1)  争点ア(本件職務命令は、一審原告らの思想及び良心の自由を侵害し、憲法一九条に違反するか)について

ア 一審原告らの思想及び良心の具体的内容は、① 昭和期戦前の日本の軍国主義やアジア諸国への侵略戦争とこれに加功した日の丸・君が代に対する痛烈な反省に立ち、平和を志向する思想、② 国民主権、平等主義等の理念から、天皇という特定個人又は国家神道の象徴を賛美することに反対するという思想、③ 個人の尊重の理念から、多様な価値観を認めない一律強制や国家主義に反対する思想、④ 教育の自主性を尊重し、教え子たちを戦場に送り出してしまった昭和期戦前教育と同様に教育現場に画一的統制や過剰な国家の関与を持ち込むことに反対する教育者としての良心、⑤ これまで人権の尊重・自主的思考・自主的判断の大切さ等を強調する教育実践を続けてきたことと矛盾する行動はできないという教育者としての良心、⑥ 多様な国籍・民族・信仰・家庭的背景等から生まれた生徒の信仰・思想を守らなければならないという教育者としての良心、⑦ 教育は、子どもの成長・発達に資するよう、個々の子どもとの間の対話を通じてなされなければならず、命令・強制によるものであってはならないという教育者としての良心のほか、⑧ 卒業式等の学校行事において、国民の間で価値中立的な存在となっていない国旗及び国歌を強制してはならないという思想も含まれている。このように、一審原告らの思想及び良心には、⑧の思想が含まれている以上、一審原告らに対して国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを命じる都教委教育長発出に係る平成一五年一〇月二三日付「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(以下「本件通達」という。)及び原判決別紙一覧表記載の全職務命令(以下「本件職務命令」という。)は、一審原告らの思想及び良心そのものに対する直接的抑圧となる(平成一九年二月二七日最高裁判所第三小法廷判決・民集六一巻一号二九一頁(以下「ピアノ伴奏事件最高裁判決」という。)における藤田宙靖裁判官の反対意見参照)。

イ(ア) 人間の内心と行為は一般的に結びつくものであって、人間の内心が外部的行為に現れたり、逆に外部的行為の強制により人間の内心に影響を与えることがある以上、両者を完全に切り離して考えることは困難である。完全なる内心の自由のみが保障されていても、その内心と不可分一体となった行為の自由が保障されなければ、憲法一九条の思想及び良心の自由は画餅にすぎないことになってしまう。したがって、憲法一九条の思想及び良心の自由の保障範囲には、当然に一定の外部的行為の自由も含まれると考えるべきである。思想又は良心に基づくあらゆる外部的行為が憲法一九条の保障対象となるものではないが、憲法一九条の保障対象とされる外部的行為は、具体的には、外部からの一定の作用、働きかけ(命令、要求、勧誘、推奨など)によって、自己の思想及び良心の領域が侵害されようとしている場合に、その思想及び良心を保護・防衛するため防衛的、受動的にとる拒否の外部的行為と考えるべきである。そして、外部からの一定の作用、働きかけが、その者の思想及び良心の領域を侵害するものであるかどうかは、客観的要因としての思想及び良心の内容の合理的説明可能性に加えて、主観的要因としての当人の真摯性を中心とした諸般の事情を勘案して判定すべきである。

ピアノ伴奏事件最高裁判決は、国歌のピアノ伴奏を命じる職務命令はそもそも憲法一九条の保障する思想及び良心の自由の制約に当たらないと判断したものと解される。しかるに、本件通達及び本件職務命令は、一見、外部的行為の規制であっても、その趣旨は思想及び良心そのものの規制にあるのであり、ピアノ伴奏命令が思想及び良心を規制する趣旨であるか否かの審査を行っていないピアノ伴奏事件最高裁判決の判示は、本件と事案を異にし、本件に適切でないというべきであるが、原判決も、ピアノ伴奏事件最高裁判決と同様に、本件職務命令が一審原告らの思想及び良心を制約するとは認められないと判断したものと考えられる。ピアノ伴奏事件最高裁判決、原判決ともに、思想及び良心の侵害とならない理由については、職務命令によって命じられる当該行為と思想及び良心が「一般的に」不可分に結びついているといえないことを理由として挙げるが、一審原告ら自身の主観から見た思想及び良心と拒否行為との不可分性・真摯性について考察することなく、上記のように「一般的には」との一言で思想及び良心と拒否行為との結びつきを否定してしまったことは、そもそも内心の在りようは個人ごとに異なるという思想及び良心の自由の特性からみて問題がある。また、「一般的には」とは、すなわち多数者にとってどうかという観点にすぎないところ、多数者にとってその思想及び良心と不可分ではない行為であっても、少数者にとって不可分の行為である場合、その少数者の立場を保護することこそ憲法の要請する人権理念であり、また、それが各人によって多種多様であるべき思想及び良心の自由の保障であればなおさらである。したがって、何らかの拒否行為が、その者の思想及び良心と密接不可分であるかどうかの判断にあたっては、その拒否行為が「一般的に」みてどういうものなのかというだけでなく、本人にとってどういう意味を有するものなのか、本人の内心の在り方、拒否の真摯性といった本人の主観的要因を併せて検討することが必ず必要である。一審原告らは、自己の戦争体験や人生体験に基づいた国旗及び国歌に対する思想及び良心、あるいは過去の戦争、そこでの教育の役割への痛烈な反省に立って教育現場での強制に反対する信念、長年の教育実践の中で培われた教育信念といった、いずれも各人の人生と切り離せない根本的な思いに従って、起立・斉唱を拒否したのである。かような主観的要因に基づく考察によれば、一審原告らに対して国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを命じる本件通達及び本件職務命令は、一審原告らの思想及び良心の領域を侵害し、制約するものであることは明らかである。

そして、一審原告らは、自己の思想及び良心の領域が侵害されることを防衛するために、ただ静かに座ったまま、国歌を歌わないという極めて消極的な拒否態様により自らの思想及び良心を防衛したにすぎないのであり、一審原告らの不起立行為によって、何ら具体的・現実的害悪は生じておらず、他者の人権との衝突もない。したがって、一審原告らの不起立行為は、一審原告らの思想及び良心の自由の侵害を防衛するための受動的行為であるから、憲法一九条の保障を受ける。

(イ) のみならず、以下に主張するとおり、本件通達及びこれに基づく本件職務命令は、ピアノ伴奏事件最高裁判決の判断枠組みの下でも、一審原告らの思想及び良心の自由を制約したものと判断されるべきである。

すなわち、まず、ピアノ伴奏事件最高裁判決は、「国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。」と判示し、この判示部分において、外部的行為に従わないことと思想及び良心とが一般的に見て不可分であれば思想及び良心を直ちに否定することになる旨判示していると解されるところ、卒業式のような公的儀式における一審原告らの不起立行為は、一審原告らの国旗及び国歌に係る思想及び良心と一般的にみて不可分であることは明らかであるから、一審原告らの思想及び良心の自由を侵害するものである。

また、ピアノ伴奏事件最高裁判決は、「(ピアノ伴奏の職務命令は、)従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し、音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。」と判示する。この思想外部表明性の有無は、客観的な観点と主観的な観点の両面から検討されるべきものであるところ、国旗に向かって起立して、国歌を斉唱する行為は、国旗に敬意を表し、君が代の歌詞に表現されているように、日本国及び日本国民の統合の象徴である天皇に敬意を表し、あるいは賛美することにほかならず、価値中立的な行為とはいえない。国旗に向かって国歌である君が代を斉唱する行為は、その態様、歌詞の内容、情感や心情を込める身体的心理的な歌唱行為であることから、客観的に見て、天皇及び国歌に対して敬意を示す行為にほかならず、起立・斉唱を命ずる行為は、一審原告らの思想及び良心の自由を直ちに否定するものである。

ウ(ア) 思想及び良心の自由が制約される場合に、その制約が正当化できるか否かについての原判決の判断枠組みは、一審原告らが公務員であることを踏まえて、制約に必要性かつ合理性があれば良いとの合理性の基準を当てはめたものと解される。原判決がかかる判断をしたのは、ピアノ伴奏事件最高裁判決の多数意見に影響を受けたものと思われるが、同最高裁判決の当該判示は、ピアノ伴奏を命じた職務命令が上告人の思想及び良心の自由を制約するものに当たらないことを前提としているのであって、本件職務命令のように、一審原告らの思想及び良心の自由に対して制約を与えたと認められる事案において、当該職務命令に目的及び内容において合理性があれば、思想及び良心の自由の制約が許されるとした趣旨ではないと解される。したがって、原判決が、思想及び良心の自由に対する制約があるとしながら、その制約を正当化する論拠として、安易に職務命令の目的・内容の合理性・必要性が認められれば足りる旨説示したところは、ピアノ伴奏事件最高裁判決を正解しない誤りがあるというべきである。

(イ) 公務員の精神的自由の制約に関しては、いわゆる猿払事件に関する昭和四九年一一月六日最高裁判所大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁(以下「猿払事件最高裁判決」という。)が、「行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがって、公務員の政治的中立性を損なうおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。」、「国公法一〇二条一項及び規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必要やむをえない限度にとどまるものか否かを判断するにあたっては、禁止の目的、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である。」と判示した。

本件は、猿払事件と比較すると、精神活動としてより消極的態様であるというべき不起立行為における思想及び良心の自由に関する事案であり、猿払事件最高裁判決よりも厳格な基準が採用されるべきであるが、同最高裁判決に沿って、その判示する上記三点について検討すると、まず、本件職務命令の目的については、仮に、高等学校学習指導要領のいう「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」(以下「国旗・国歌条項」という。)という中間目的が正当だとしても、直ちに、当然に、教師に対して「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」の不可欠性が導かれるものではない。また、猿払事件最高裁判決が、目的と手段との関連性につき、合理的関連性があれば良いとした点は多数の学説から強く批判されており、本件のように内面領域を保護する思想及び良心の自由に関する審査基準としては、思想及び良心の自由の優越的地位にかんがみても、最も厳格な審査基準を採用すべきであって、少なくとも、実質的関連性を求める「厳格な合理性の審査」を行うべきであるところ、多様な思想や良心を持った者の共存・共生を否定し、教職員全員を一律に起立斉唱させる本件通達及びこれに基づく本件職務命令は、より制限的で他に採り得る手段を選択しなかったことになり、高等学校学習指導要領における国旗・国歌条項の枠を超えるものであり、目的と手段との実質的関連性は認められない。さらに、利益の均衡の点について述べれば、本件職務命令によって得られる利益とは、卒業式・入学式において、全教職員が都教委及び校長の職務命令に従い、統一性を持って整然と起立し斉唱するという外観や秩序であり、これに対して、失われる利益は、第一に、教師が、自らの信念ないし信条に従って起立斉唱しなくて済むという精神的な利益のみならず、再雇用職員として採用されることによる重大な雇用上・生活上の利益であり、第二に、生徒の内心の自由を保障する学校環境という利益である。国旗掲揚・国歌斉唱に際しての統一性を持った整然さという利益は、「全体主義的な統一性」、「異論を排除したあとの墓場での意思統一」や「偽りの愛国主義」、「強制された忠誠」であってはならない。そのような利益は、憲法上、許容された利益とは到底いえないというべきであって、本件において、得られる利益と失われる利益は均衡していない。

したがって、猿払事件最高裁判決が判示した三つの基準を当てはめた場合でも、本件通達及び本件職務命令による一審原告らの思想及び良心の自由に対する制約は、正当化されるものではない。

エ 本件通達は、「学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること」を名目にして発令されている。しかし、本件通達前の平成一五年七月二日都議会本会議での答弁において、卒業式等における内心の自由の説明を不適切とする議員要求を教育長が受け入れた事実や、本件通達後の平成一六年三月一六日の都議会予算特別委員会での答弁において、生徒が起立しないクラスの担任を処分せよとの議員要求を教育長が受け入れた事実、本件通達が特有の国旗・国歌観に基づいていること等にかんがみれば、本件通達は、一部政治勢力に都教委が迎合して発出されたものであって、その実質的な意図は、国旗・国歌と法定された日の丸・君が代に関する知識を伝達するという限度を超えて、偏狭なナショナリズムや愛国心などの特定の観念・思想を一方的に子どもに植え付けようとするものである。したがって、本件通達及び本件職務命令は、実質的には生徒に対して向けられたものというべきである。

現在の都立高校及びその生徒の置かれた状況を前提とすれば、本件通達及びこれに基づく本件職務命令に従って教職員全員が一律に国旗に向かって起立し国歌を斉唱するという状況は、生徒に対し、「指導」を超えて「強制」に及ぶ効果を客観的に与えることになる。生徒の思想や信仰の自由を保障するためには、事実上の圧力を除去するような配慮としていわゆる「内心の自由の説明」をする必要があり、そのような配慮をすることなく、教職員が一律に起立斉唱することは、生徒の思想や信仰の自由を侵害するおそれが極めて高いというべきである。国旗及び国歌に対して信仰、民族的出自や思想上の理由などで否定的な考えを持ち、起立斉唱をしない(できない)という生徒が、少数であっても現に存在しており、この生徒らに対して、本件通達及び本件職務命令、さらには生徒に適正な指導をせよと命じる職務命令の下、教師が一方的な「指導」を行うことは生徒の内心の自由を侵すものというべきである。

したがって、本件職務命令は、以上の点からも、憲法一九条に違反するものである。

(2)  争点イ(本件通達及びその後に都教委が各校長に行った指導は、旧教育基本法一〇条一項にいう「不当な支配」に該当するか)及びウ(一審原告らに教職員としての専門職上の自由が認められるか。また、本件職務命令は、これを侵害するか)について

ア 本件通達の発令以降、都教委は、都立学校の全校長に対し、説明会の開催や、職務命令を出すようにとの口頭及び文書での指導等により、卒業式・入学式等での国旗掲揚、国歌斉唱等に関して種々の締付け・押付けを行い、校長から裁量の余地を奪い、卒業式等について従前は認められていた各学校ごとの多様な在り方を否定し、卒業式等を画一的・硬直的なものとした。現実に、本件通達以降の上記一連の指導の結果、平成一六年三月の都立学校の卒業式では、すべての学校で、校長が所属の教職員らに対して「指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」を含む職務命令を発出した。

同月の卒業式当日にも、一部の島嶼の高校を除いて全ての都立学校の卒業式に教育庁職員が派遣され、国歌斉唱時の教職員や生徒(果ては保護者)の起立・不起立の状況等を監視し、逐一記録して都教委に報告する等し、不起立・ピアノ伴奏拒否等の教職員がいた全ての学校で、都教委の指示に従い、式当日に校長・教頭が当該教職員を校長室等に呼び出して、国歌斉唱時に起立しなかったことの確認を求める等の措置がされたほか、都教委は、校長から服務事故報告書を提出させた後、指導主事らを大量に動員して、不起立等の教職員がいた学校の校長に対し、「服務事故の監督責任に関する事情聴取」を行い、事情聴取書を作成した。その事情聴取の中では、校長に対し、「あなたは、この事故をどのように受け止めていますか。また、その責任をどのように取ろうと考えていますか。」と聞く等して、校長の責任問題と結びつけることによって校長を一段と身動きの取れない状況に追い込んだ。

このような状況の中で、校長は、本件通達を自らに対する職務命令として受けた上、一連の「指導」を受けた結果、個々の教職員に対する職務命令を発令するように拘束された。かかる都教委の本件通達以降の一連の施策は、まさに校長を通じて教育現場に平成一八年一二月二二日法律第一二〇号による改正前の教育基本法(以下「旧教育基本法」という。)一〇条一項が禁ずる「不当な支配」を及ぼしたものに他ならず、これにより発出された本件職務命令は、本件通達と一体のものであり、「不当な支配」の下になされたものであって違法・無効である。

イ 本件通達後、生徒への「内心の自由の説明」が禁止された。具体的には、まず、都教委が、平成一六年三月一一日付で、① ホームルーム活動や卒業式等の予行等において、生徒に不起立を促すなどの不適切な指導を行わないこと、② 生徒会や卒業式実行委員会等の場で、生徒に不起立を促すなどの不適切な指導を行わないこと、③ 式典の妨げになるような行動に生徒を巻き込まないことを内容とする、「入学式・卒業式の適正な実施について(通知)」と題する通知(以下「三・一一通知」という。)を指導部高等学校教育指導課長名で、各都立高校校長あてに発出した。

この通知は、教師の生徒に対する教育活動の内容そのものに対し、教育行政が「適切」、「不適切」という一方的な物差しを持ち込んで直接に介入したもので、教育行政の本分を弁えない極めて問題のあるものであり、現実にも、この通知によって、ホームルーム活動や入学式・卒業式等の予行等において従前のような「内心の自由の説明」を行うことが厳しく制限されたし、生徒会や卒業式実行委員会等の場で、生徒たちが国旗及び国歌について自由な討論を行うことが、「(生徒会顧問などの)教師による不適切な指導」とみられることを恐れて、極端に制約されることとなった。

また、平成一六年三月一六日の都議会予算特別委員会において、教育長が、生徒が起立しないクラスの担任を処分せよとの議員要求を受け入れる答弁を行い、都教委は、平成一五年度の卒業式・入学式における生徒の不起立について、平成一六年六月、合計六七名もの管理職及びクラス担任教員に対し、「指導不足による生徒の不起立」、「不起立を促す教員の不適切な言動」等を理由として、厳重注意等を行った。

過去において日の丸・君が代が果たした役割、特に昭和期戦前及び戦中の学校教育で果たした役割を踏まえるならば、国旗及び国歌を無条件に尊敬すべきもの、敬意を表すべきものであると教えなければならず、これと異なる見方は教えてはならない、とすることは、明らかに生徒に対する一方的な観念の植付けである。また、教師が高校生に対して、憲法一九条による思想及び良心の保障の意義を説明し、日の丸・君が代が、過去の歴史的事実から、個人個人によって今なお評価の分かれるものであり、憲法一九条の保障が問題になるレベルの事項であることを説明したことを捉えて、都教委が高等学校学習指導要領を根拠に厳重注意をしたことは、余りにも異常である。さらに都教委は、生徒会主催で国旗及び国歌についての討論会が開かれたことを問題視し、校長に対し、「参加する教員に対して、学習指導要領に基づき発言するよう事前に指導するべきであったのに(つまり、卒業式等の国歌斉唱時には起立して斉唱すべきと発言するよう指導するべきであったのに)、そのような指導をしなかった」ことを理由に厳重注意を行ったものであるが、かかる行為は、生徒に対して自由な思考を許さず、教師に対して一面的な指導しか許さない、極めて偏狭で不当な教育行政による介入というほかない。生徒は、学校という場において、さまざまな物の見方、考え方に触れ、特定の見方、考え方を強制されずに、他者との議論等を通じて自ら選び形成していく権利を保障されなければならず、これが憲法二六条の学習権保障の要請するところであるにもかかわらず、都教委は、生徒のそのような権利をないがしろにし、一方的な観念を植え付けようとした。

そして、都教委が、校長に本件職務命令を出させ、従わない場合に懲戒処分を科することも、教職員全員に一律に起立斉唱をさせることで、生徒に対して「範を示す」効果を狙ったものである。すなわち、教職員全員に一律に起立斉唱をさせることで、「国歌斉唱時には国旗に向かって起立し国歌を斉唱することが、国旗及び国歌に対して取るべき正しい態度・行動であって、不起立不斉唱は許されざるものである」、「国旗及び国歌は尊重すべき、敬意を払うべきものであって、これと異なる考え方は不適正で許されないものである」といった一方的な観念を、生徒に植え付けようとするものであるといえ、憲法二六条、二三条、一三条に違反し、かつ、旧教育基本法一〇条一項の「不当な支配」に当たる。

原判決は、このような重大な問題を含む「厳重注意」等の実質的処分について、認定事実部分で軽く触れているだけであって、都教委の施策が生徒への一方的な観念の植付けに及んでいることに対する問題意識を欠いているといわざるを得ないし、都教委による内心の自由の説明の禁止について、原判決が、憲法二六条、二三条、旧教育基本法一〇条一項の観点から検討していないことは重大な欠陥である。

ウ(ア)a いわゆる旭川学力テスト事件に関する昭和五一年五月二一日最高裁判所大法廷判決・刑集三〇巻五号六一五頁(以下「旭川学テ事件最高裁判決」という。)は、憲法二六条及び二三条に基づき、憲法上の制度的保障として、教育分野における国家権能(教育権能)の行使は、① 親の教育の自由、私学教育の自由、教師の教育の自由の妥当する教育領域には、国家の介入は許されない、② それ以外の教育領域においても、国による教育権能は、子どもの学習権の充足という目的(またはこれを究極の目的とする許容される中間目的)のため、目的達成に必要かつ相当と認められる範囲で、教育条理に基づき羈束的・謙抑的に行使されなければならない、という二つの制約を受けることを明らかにしたものと解される。しかるに、原判決は、同最高裁判決について、上記の理解を欠き、ことさらに同最高裁判決を教育行政機関の広範な教育権能を是認する趣旨の判決として引用しているが、かかる引用は判例法理の理解を誤るものである。

そして、旧教育基本法一〇条一項の「不当な支配」禁止原則が、上記制度的保障の明文化として、教育行政機関による教育の内的事項への介入に対する制約規範となるところ、都教委の教育内容・方法への介入も、一次的には大綱的基準の範囲にとどめられなければならない。

b この点、旭川学テ事件最高裁判決は、教育行政機関による教育内容及び方法の介入については、大綱的基準の設定を超えることができないとする「大綱的基準説」の枠組みを是認した上で、教育の内容及び方法について、国がどの程度の介入をすることができるかにつき、「許容される目的のために必要かつ合理的な大綱的基準の設定」の範囲を超えることは許されないことを明確にしたが、旧教育基本法一〇条一項の「正当な支配」禁止原則は、子どもの学習権を充足するために必要な教育の本質的要請に照らし、教育の自主性の法理により、親の教育の自由・私学教育の自由・教師の教育の自由(いずれも、子どもとの直接の人格的接触を行い得る主体の自由)が妥当する領域外においてのみ、国が教育権限を行使し得るものと判示した。教育の地方自治の原則は、かかる教育の自主性の法理を前提として、国に教育権限行使が認められる場合における、国と地方公共団体における教育委員会(以下「地教委」という。)との内部的な権限調整の問題として、付随的に考慮されているものにすぎない。したがって、地教委の権限行使についても、教育の自主性の法理に由来する同最高裁判決が定立した大綱的基準論の規範が原則的に妥当するというべきである。原判決が、都教委による教育行政権能の行使について、教育の地方自治の原則に反することがないとして、大綱的基準論の適用を全面的に否定した点については、同最高裁判決の旧教育基本法一〇条一項及びその基礎となる憲法解釈論の理解を誤り、教育の自主性と教育の地方自治の法理を混同するものである。

c また、旭川学テ事件最高裁判決は、国と地教委を区別することなく、「旧教育基本法一〇条一項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるものといわなければならない。」旨明確に指摘し、「不当な支配」に該当するか否かの審査については、教育行政機関の行為が法令に基づき、形式的権限を有しているか(法律による行政の原則を満たすか)の審査とは、明確に切り離して検討されるべきであることを判示している。したがって、仮に地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」という。)二三条五号に基づき都教委に本件介入をなし得る形式的な権限が認められると解しても、本件介入が不当な支配禁止原則に違反するか否かについては、別途、その実質的違法性が厳格に審査されなければならないことに変わりはない。原判決は、地教委の職務権限を定めた地教行法二三条五号において、地教委が学校の組織編制、教育課程、学習指導等に関することを管理し、及び執行すると定められていることを根拠に、都教委による教育介入については大綱的基準論が妥当しないものと判示するが、同条の規定については、文部科学省の現在の行政解釈のような、地教委は、同条を根拠として、所管公立学校に対する同条所定の職務権限事項のすべてにわたって、全面的に無限定の包括的支配権を有すると解する(包括的支配権説)のは誤りというべきであり、また、上記の原判決の判示は、地教委と文部大臣の形式的権限が認められる範囲の広狭についての議論(法律による行政の原則)と、地教委の権限行使に対する憲法上の制約範囲の広狭についての議論(不当な支配禁止の原則)とを混同して論じているものといわざるを得ず、失当である。

d 原判決は、旭川学テ事件最高裁判決を引用して、本件における不当な支配性の審査について「必要性・合理性」の基準によるべき旨判示した。しかし、この判示に対応する同最高裁判決の判示部分は、「市町村教委は、市町村立の学校を所管する行政機関として、その管理権に基づき、学校の教育課程の編成について基準を設定し、一般的な指示を与え、指導、助言を行うとともに、物に必要な場合には具体的な命令を発することもできる」とする部分(同最高裁判決「三 本件学力調査と地教行法五四条二項(手続上の適法性)(二)」)であるところ、この判示部分は、単に手続上の適法性に関するものにすぎず、都教委による介入に手続上の違法性はないとしても、それがその実質上の適法性の問題との関連においてどのように評価、判断されるべきかは、改めて別個の観点から検討されるべき問題である。それにもかかわらず、原判決は、同最高裁判決を上記のとおり引用して、不当な支配性の審査基準を定立しているのであって、明らかに同最高裁判決の解釈・引用を誤るものである。

(イ)a 教育行政機関による本件介入が「不当な支配」に該当するかの審査においては、まず、当該介入が大綱的基準の範囲に止まるものであるか否かが厳格に審査されなければならない(大綱的基準論に基づく一次的審査)。しかるに、都教委による本件介入は、卒業式等での国旗掲揚・国歌斉唱の具体的実施方法等について各学校ごとの弾力化・個別化・創意工夫の余地を奪い、教師に対して一方的な理論ないし観念を生徒に教え込むことを強制する側面を含むもので、その内容も目的達成のために必要な最小限度の介入の域を大きく超え、大綱的基準の範囲にとどまるものでないことは明らかである。

また、高等学校学習指導要領は、特別活動の目標について「望ましい集団活動を通して、心身の調和の取れた発達と個性の伸長を図り、集団や社会の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てると共に、人間としてのあり方生き方についての自覚を深め、自己を生かす能力を養う。」ことにあると定め、実施する学校行事の内容については、「学校行事においては、全校若しくは学年又はそれらに準ずる集団を単位として、学校生活に秩序と変化を与え、集団への所属感を深め、学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。」と定めている。また、学校行事の中の儀式的行事については、「指導計画の作成と内容の取扱い」において、「一(1) 学校の創意工夫を生かすとともに、学校の実態や生徒の発達段階及び特性等を考慮し、教師の適切な指導の下に生徒による自主的、実践的な活動が助長されるようにすること。」、「二(3) 学校行事については、学校や地域及び生徒の実態に応じて、各種類ごとに、行事及びその内容を重点化するとともに、行事間の関連や統合を図るなど精選して実施すること。」などを、国旗・国歌条項よりも上位に定めている。これらの定めに照らせば、都教委による本件介入は、本件通達は、上記の高等学校学習指導要領の趣旨さえも逸脱するものである。

b 次に、教育委員会による介入について、形式的には教育の内容・方法に踏み込むものでない等、一応教育行政機関の権限行使が妥当し得る領域の権限行使であるとされる場合でも、教育委員会による権限行使が、子どもの学習権の充足という目的(またはこれを究極の目的とする許容される中間目的)のため、目的達成に必要かつ相当と認められる範囲で、教育条理に基づき羈束的・謙抑的に行使されているかが審査されなければならない(二次的審査)。

しかるに、本件通達の目的は、① 国旗及び国歌に関する都教委の方針に従わない教職員らを「がん細胞」とみなし、起立・斉唱の強制を通じて排除する、② その上で、都教委が「正当」、「適正」と考える一定の理論ないし観念を生徒に植え付ける、という点にあり、本件介入の目的は、子どもの学習権に資する中間目的ということはできず、都教委の所掌事務との関係でも合理的関連性が認められる余地などない。また、仮に、本件通達及びこれを含む本件介入が、「高等学校学習指導要領に基づく卒業式等を実施するよう改善、充実を図る」ことを目的とすると解しても、そもそも高等学校学習指導要領が、卒業式等について、各学校における創意工夫に応じた内容となるよう求めており、それにも関わらず、都教委が、国旗掲揚・国歌斉唱という卒業式等における副次的な事項を中心に据えて、卒業式等の内容を一義的に決定し、全都立学校において、都教委が決定したとおりの内容で卒業式等を一律・統一的に実施し、例外なく全教職員に起立・斉唱するよう強制することが、上記の目的達成のために、不必要な過度の介入であることは明らかである。なお、一審被告は、本件介入について、生徒に国際儀礼を学ばせる点にも目的があり、そのためには本件介入が必要である旨の主張をするが、この主張は、高等学校学習指導要領においても求められていない教育内容を、都教委において決定し、一義的に強制するものであり、かかる権限が都教委に存するか自体疑問があるし、本件通達の内容は、国際儀礼を学ぶ上でも明らかに不必要なものである。

これらの点等に照らせば、本件介入は、子どもの学習権の充足という目的(またはこれを究極の目的とする許容される中間目的)のため、その達成に必要かつ相当と認められる範囲で、教育条理に基づき羈束的・謙抑的に行使されているということはできない。

c 以上のとおり、旭川学テ事件最高裁判決が、市教委の発出した学力調査命令に対する「不当な支配」性の判断において判示した全ての要素について、本件介入には強度の「不当な支配」性が肯定される。

(ウ) よって、本件介入すなわち都教委による校長に対する本件通達とその後の一連の指導名下による強制は、いずれも憲法二六条、二三条及び旧教育基本法一〇条一項に違反するものとして違憲・違法であって無効である。

エ 都教委教育長が平成一一年一〇月一九日付「入学式及び卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について(通達)」(以下「平成一一年通達」という。)を発出した後、平成一三年三月の卒業式以降は、都立高校での国旗掲揚・国歌斉唱の実施率は一〇〇パーセントに達していた。平成一一年通達が求めていた、国旗を「式典会場の正面に揚げる」との点や、「式次第に『国歌斉唱』を記載する」との点についても、本件通達発出に近い時期である平成一五年五月二二日にプレス発表された教育庁調査によれば、ほぼ全ての都立高校において実施されていた。このプレス発表からも明らかなように、平成一五年三月から四月の卒業式、入学式の段階でも、都教委が調査項目としていたのは国旗を式典会場内ではどこに掲揚したか、会場外ではどこに掲揚したか、国歌斉唱を式次第に記載して実施したかといった点であって、教職員が起立斉唱したか、内心の自由の説明があったか、国歌斉唱がピアノ伴奏かCD伴奏かといったことはそもそも正式な調査項目になっていなかった。また、そうした平成一一年通達の下で、教職員らが国旗掲揚・国歌斉唱に関して組織的に理不尽な抵抗をして、卒業式等に混乱を招いたり、校務に支障が生じた事実もない。たしかに、国旗及び国歌に関する法律(平成一一年法律第一二七号。以下「国旗・国歌法」という。)施行後である平成一二年度卒業式以降、都立高校での国旗掲揚・国歌斉唱の実施率が一〇〇パーセントになった中で、① 国旗を舞台壇上正面へ掲揚するのではなく三脚で掲揚する高校があったこと、② 卒業式等に先だっていわゆる内心の自由が説明されたこと、③ いわゆるフロア方式で卒業式が行われていたこと、④ 国歌斉唱の際に起立しない教職員がいたことはあったものの、これらの事実は、何ら「混乱」でも、解決すべき「課題」にも当たらず、決して、一審被告が主張するような、「本来なされるべき国旗及び国歌の適正な指導がなされていないという事態を改善すべく、本件通達を発出せざるを得ない」というような状況ではなく、教育現場の実態から特に必要性に迫られて本件通達発出に至ったというような経過ではない。ところが、都教委において、当初はごく一部の突出した意見にすぎなかった強硬派委員の意見が受け入れられるところとなり、平成一一年通達後に行われていた国旗掲揚・国歌斉唱に関する施策を急激に転換させ、本件通達の発出に至った。

なお、国旗・国歌法には、義務付け条項・尊重条項が入っていないが、その制定過程における政府答弁等に照らせば、義務付けをしてはならないとの立法者意思があったからであり、同法は、君が代を歌いたくなければ歌わずに済むことを保障する意思を含めて制定されたものである。それにもかかわらず、都教委は、この立法趣旨をあえて無視し、それを逸脱した本件通達発出に踏み切った。

したがって、本件介入が「不当な支配」に当たるか否かを検討するにあたって、「平成一五年当時の国旗掲揚・国歌斉唱の実施状況からして、本件通達の目的に合理性があり、本件通達を特に発すべき必要性があった。」旨の原判決の判断は、事実に基づかない誤ったものである。

(3)  争点オ(本件不合格について、都教委に裁量権の逸脱、濫用があるか)について

ア 本件通達や本件職務命令が一部の政治勢力に迎合する形で進められたことや、本件通達が特有の国旗・国歌観を有していること、入学式・卒業式でのいわゆる不起立教職員に対する大量処分や内心の自由の説明禁止、生徒の不起立を理由とする担任教師に対する「厳重注意」等の実質的処分等、本件職務命令を発出した前後の経過にかんがみれば、本件通達や本件職務命令の真の趣旨・目的は、単に教職員の外部的行為の規制を狙うものではなく、特定の信念を有する教職員をあぶり出し、外部的行為の規制違反を口実として処分を加えようとしたものであり、本件不合格は、単に不起立行為という外部的行為を理由としたものではなく、一審原告らが起立・斉唱しない(できない)という信念を有していたことを真の理由とするものである。

イ 都教委は、要綱上の本来の選考資料である推薦書及び面接票における評定が仮に全てAであろうと、不起立行為という本件職務命令違反一回のマイナス評価が他の有利な事情によるプラス評価を上回ると判断し、同違反一回のみで不合格としていた。このことからも、本件不合格は、従前の再雇用選考における判断と大きく異なり、本件職務命令違反を極端に過大視する一方で、一審原告らの勤務成績に関する他の事情をおよそ考慮した形跡がないのであって、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠くものであることは明白である。

ウ 本件のような再雇用拒否が違法であるか否かを判断する基準は、第一に、身分の得喪をもたらす裁量判断の過程において考慮すべき事項あるいは考慮することのできる事項は、当該裁量を付与した制度の趣旨及び目的並びに当該制度の根拠法規の定め方によって規定されていること、第二に、このようにして規定された考慮事項のうち、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮に入れて判断すれば、当該判断は違法であること、第三に、考慮事項が広範に及ぶ場合など、考慮事項に基づく判断がなされたと認め得る場合であっても、これにより生じる不利益の大きさ等に照らして、その判断のもたらす結果が著しく不合理であれば、当該判断は違法であることである。

本件再雇用制度の趣旨及び目的は、退職教職員の生活の安定とその知識及び技能の活用であるとされており、その採用選考に当たっては、東京都公立学校再雇用職員設置要綱(以下「本件要綱」という。)において、「勤務成績」、「知識及び技能」、「健康」及び「意欲」を判断の基準とすることが定められており、教育庁人事部長が定める「東京都公立学校再雇用職員設置要綱の運用について」(以下「本件運用内規」という。)により、これらは申込書、推薦書及び面接結果の三点資料を判断資料として用いて判断されるべきものであるとされている以上、本件再雇用制度の下では、上記の判断基準及び判断資料が、裁量判断の過程において考慮すべき事項あるいは考慮することのできる事項の範囲を画することになる。したがって、これらの考慮事項に基づくことなく判断した場合や、これらと異なる他の事情を考慮して判断した場合には、当該判断は違法であることを免れない。そして、退職教職員の採用拒否が一方的に身分の喪失という重大な不利益をもたらすことに照らせば、その違法性の審査は、厳密かつ慎重でなければならない。

しかるに、本件不合格は、起立・斉唱しない(できない)との信念を有する者の排除を目的としてされたものであり、その採用選考判断においては、上記三点資料とは別に、都教委人事部選考課が、職員の服務事故に関する事務を所管する職員課に対して、国歌斉唱時の不起立の有無について特に情報提供を求め、一審原告らの思想及び良心に関わる問題であることについての相応の考慮をしておらず、また、採用拒否の判断において、本件職務命令違反以外の事実を考慮していない。そして、一審被告は、他の評定がすべてAである等一審原告らに有利な事情を斟酌しても、本件職務命令違反行為という非違行為のマイナス評価が有利な事情に対するプラス評価を上回るとの判断の下に、本件職務命令違反行為のみで不採用としており、国歌斉唱時の職務命令違反を余りにも過大視する一方で、本来当然に考慮すべき、一審原告らの勤務成績に関する事情をおよそ考慮していない。その上、過去における選考合格の実例と比較しても不平等であること、一審原告らの不利益が甚大であり、比例原則の観点からも、本件不合格が不相当に過酷な措置であることにもかんがみると、都教委による本件不合格は、考慮すべき事項を考慮しておらず、また、考慮された事実に対する評価が著しく不合理であり、その結果、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠くものであって、都教委の裁量権を逸脱、濫用したものとして違法であり、不法行為を構成することが明らかである。

エ 一審被告は、控訴審の弁論終結近くになって、平成四年度から平成九年度における再雇用につき相当数の不合格者があったことを示す資料として乙六二の一及び二を提出してきたが、その成立の真正は認められず、公印も発番もない文書で作成経緯も不明であって、少なくとも公文書とは認められず、また、そこに記載された数字も、新規に再雇用職員に採用されることを申し込んだケースと、既に再雇用職員に採用されており、その更新を申し込んだケースとを区別しておらず、選考の運用において実情の異なる小中学校と都立学校(都立高校及び都立盲ろう養護学校)とを区別していないというものであり、一審原告らの期待権の要保護性を判断する基礎資料として意味に乏しい。客観的資料から明らかな本件再雇用職員制度の採用選考合格者数、不合格者数は、原判決別紙二に記載の平成一二年度から平成一七年度の数字であり(ただし、平成一六年度以降の不合格者数には一審原告らが含まれる。)、これを基礎に期待権の要保護性の判断がなされるべきである。

五  一審被告の当審主張

(1)  争点イ(本件通達及びその後に都教委が各校長に行った指導は、旧教育基本法一〇条一項にいう「不当な支配」に該当するか)について

原判決は、本件職務命令について、「形式的には、本件職務命令を発すべき必要性の判断は、各校長が有していたとしても、事実上、本件通達やその後の都教委が行った指導により、校長にその裁量を働かせる余地はなく、本件職務命令を発することを余儀なくされていたものと評価するのが相当である。」、「都教委は、本件通達を定めたうえ、都立高等学校における卒業式等を本件通達のとおりに実施させるため、各校長をして、本件職務命令を発出させたといえるから、本件職務命令の発出についても、実質的にみると、都教委が行ったものと評価することができる。」旨判示しているが、これは誤りである。本件通達の名宛人は都立学校の各校長であって、教職員ではなく、また本件通達では各校長に教職員に対する職務命令の発出を義務付けていないことは本件通達の文辞上明らかである。都教委は、地教行法二三条五号に基づき都立学校の教育過程、学習指導を管理・執行する権限を有するのであって、都立高校における卒業式等の式典における国旗及び国歌についての指導が適正に実施できるようその一環として国歌斉唱の実施方法について校長に対し指導助言できることは当然のことであるし、各都立学校が国旗及び国歌についての適正な指導のために校長において教職員に対して職務命令を発する必要のある状況であれば、その旨の指導助言をすることも当然である。また、都教委は都立学校の教職員の任命権者であり、教職員が校長の職務命令に反する事態が万一発生した場合には、当然のことながら教職員の服務上の責任の問題となるのであるから、管理上、これに備えて、校長が自らの責任と判断のもとに職務命令を発する場合の発令方法の留意点、教職員の職務命令違反行為確認の留意点、都教委への報告方法等を各校長に指導助言し、周知しておくことは当然のことである。また、本件職務命令を発したのは、校長が学校現場の状況にかんがみて、本件通達どおりに卒業式及び入学式を適正に実施するには本件職務命令を発するしか方法がないと自ら判断したからにほかならない。本件職務命令の発出を実質的に都教委が行ったものとする上記判示部分は、この点について事実誤認があるといわざるを得ない。

(2)  争点オ(本件不合格について、都教委に裁量権の逸脱、濫用があるか)について

ア 本件においては、公教育を担う教育公務員であった一審原告らが、学校行事である卒業式の場において、公教育の根幹である高等学校学習指導要領に基づく教育過程を適正に実施するために発出された本件職務命令に反するという重大な非違行為を行い、しかも、それが生徒、保護者及び来賓の面前において公然となされ、生徒に対する教育効果が著しく減殺されるとともに、教育公務員に対する信用を大きく損なう恐れがある行為がされた。式典の主催者側である学校の教職員が起立しなかったことで、式典の厳粛さは大きく損なわれ、式に参列する来賓や保護者に対し、不信感を抱かせたり、嫌悪感や不快感を覚えさせただけでなく、厳粛で清新な気分を味わおうとして式典に臨んだ際に抱いていた期待も大きく損なわせ、さらには、職務命令違反、信用失墜行為という服務規律に係る事故が発生したことになるのであるから、公務員の服務上の規律が害されたことになる。本件の不起立行為は、国旗・国歌条項の実施についての都教委の関与・介入に対する抗議としての一種の示威行為とも評価し得るものであって、その態様は決して消極的かつ受動的な性格のものではない。このような不起立行為の性質、効果等にかんがみれば、任命権者である都教委が、一審原告らの勤務成績が良好でないと判断して、再雇用選考につき不合格としたことは、少なくとも社会通念上著しく不合理であるとは到底解されないところであり、本件不合格が国家賠償法上違法とされる余地がないことは明らかである。

イ 本件は、公務員の採用における任命権者の権限(裁量権)行使の問題である。しかるに、原判決は、一審原告らを公務員として採用しなかったことが、あたかも、任命権者である行政庁が一審原告らに不利益処分を行った場合の取消訴訟における裁量統制論と同様な審査方式を採用して判断していると考えられるものである上、「当該申込者について不合格と判断した理由が著しく不合理である場合や、全くの恣意的な理由で不合格とした場合」などに裁量権の濫用、逸脱になると判示しながら、実質的には、任命権者の裁量の範囲を著しく狭め、実体判断代置方式、すなわち、任命権者の選考不合格という判断結果と裁判所の判断する結果とが一致しない場合には、裁判所の判断を優先させ、いわば、任命権者の判断に代置する形で、その採否に係る判断を違法とする方式による審査をしたに等しいほど、任命権者の判断を軽視しているものであって、誤りである。

ウ 本件再雇用制度の嘱託員は、特別職の地方公務員であり、そうである以上、任命権者の行政処分である任命行為により初めてその地位が与えられるのであって、それ以前に、契約(合意)等により嘱託員の地位を保障することが許されないことはもとより、制度としても、嘱託員の希望者に対してその地位を付与することを予め保障することなどできない。再雇用職員の任用については、勤務成績等の要件を備えている者の中から選考を行った上で、都教委が任命することとされており、決して、本人が希望しさえすれば採用される制度とはなっていない。したがって、嘱託員の申込者が選考に不合格となったとしても、これにより何ら任用に係る権利が侵害されたものということできないのである。選考に当たって、特定の申込者が、任用要件の判断等について任命権者から不当な差別的取扱いをされたなどの事情があれば、人格的利益を侵害するものとして違法となることはあろうが、任用される権利又は任用されることに係る「期待」が侵害されたものとみることはできない。そうだとすれば、再雇用の申込者が任用されるとの期待を抱いたとしても、その期待は主観的な事実上のものにすぎず、この期待が法的保護に値する程度にまで高められた期待権であるということはできない。

エ 近年、判例及び行政法理論において、国民の行政に対する信頼は保護されなければならないという法理(信頼保護原則)が形成されてきている(昭和五六年一月二七日最高裁判所第三小法廷判決・民集三五巻一号三五頁)が、この信頼保護原則を適用するに当たっては、まず国民が信頼する契機となるような行為を行政が行ったということがなされなければならず、それに加えて、行政の措置等を信頼する国民の側に、そのような行政の行為を信頼するのは当然であるという客観的状況あるいは保護すべき信頼が客観的な基盤を有するものとして存在していたことが必要とされており、この二つの要件を満たしているときに国民の信頼保護が問題になるとされている。

しかし、本件において、一審原告らは最初から不合格とされたのであり、嘱託員として採用又は更新されることを期待するような事情は全く存在しておらず、本件再雇用の制度趣旨や過去の状況から、直ちに申込者全員に対して一律に期待権の成立を認めることはできない。また、本件通達の発出により、教職員が本件職務命令に従わない場合には服務上の責任が問われることが周知されていたのであり、懲戒処分を受ければ、昇給や昇格等において不利益を受けることは公務員にとっては常識ともいうべきであって、再雇用選考にも影響があることについて、一審原告らは当然認識していたというべきである。したがって、上記二つの要件はいずれも認められず、本件について信頼保護原則の適用も認められない。

オ 原判決は、再雇用制度の過去の運用状況として、「平成一二年から平成一四年まで、都立学校の再雇用職員に申し込んだ者(三一二二名)は、全員選考に合格し、その後も圧倒的に多数は合格していたから、選考の結果、不合格とされるのはごくごく例外的な場合であったと考えられる。」と判断するが、これは、都教委が原則全員採用するようにことさら制度を運用してきたからではなく、毎年の選考の結果の積み重ねにすぎない。加えて、平成四年から平成九年の間に実施された採用選考においては、年平均で五・七人(平成八年度は九名)が不合格になっており、希望者全員が合格しているとまではいえない(乙六、六二の二)。

第四当裁判所の判断

一  当裁判所は、一審原告らの請求はいずれも理由がないと判断する。その理由は、後記三において一審原告らの当審主張に対する判断を、後記四において一審被告の当審主張に対する判断をそれぞれ加えるほかは、原判決の「事実及び理由」中の「第三 争点に対する判断」の一から五に記載のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決を次項のとおり改める。

二(1)  原判決四〇頁一二行目冒頭から同二三行目末尾までを次のとおり改める。

「ア 憲法一九条は、『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。』と定めるものであって、人の内心における精神活動が外部に現われる外部行為を保障するものではないが、人の思想及び良心の自由ときわめて密接な関係を有するものである外部的な行為を保障しないものとは解されない。したがって、人は、その内心における思想や良心に反するという主観的な理由により法規制に従った外部行為をすることを拒むことは許されないとしても、その思想及び良心の本質又は核心にあるものときわめて密接な関係を有するものとみるべき外部的な行為に限っては、法規制をもってこれを強制されることを拒み得るものと解するのが相当である。」

(2)  原判決四二頁七行目の「児童」を「生徒」と改める。

(3)  原判決四二頁九行目の「以上によれば」から同四三頁二三行目末尾までを、「以上によれば、本件職務命令は、一審原告らの有する思想及び良心の自由そのものを直接否定するものとは認められず、また、一審原告らが各有する思想及び良心という内心の自由の本質又は核心ときわめて密接な関係にあるとみるべき外部的な行為を命ずるものであるとも認められない。」と改める。

(4)  原判決四五頁一三行目の「本件通達」を「本件職務命令」と改める。

(5)  原判決五二頁一四行目末尾の次に改行して以下のとおりを加える。

「六 争点オ(本件不合格について、都教委に裁量権の逸脱、濫用があるか)について

(1)ア 本件再雇用制度は、定年退職等によりいったん退職した一般職の地方公務員を地方公務員法三条三項三号に定める特別職の非常勤公務員として新たに任用する制度であり、その前後で身分上の連続性はなく、都教委は、地教行法三四条に基づき、一定の基準の下に再雇用の希望者を選考した上で再雇用職員(嘱託員)として任命する権限を有しているものであって、再雇用の希望者を全員採用しなければならない義務を負うものではなく、都教委は、この採用許否の判断につき、広範な裁量権を有していると解される。

再雇用を希望する者に対する不採用に当たり、上記の裁量権について著しい濫用ないし逸脱があった場合に、それが不法行為を構成する余地のあり得ることはいうまでもない。しかし、再雇用は、新たに公務員として任用する行為であって、現に公務員の身分を有する者についてその身分を失わせる懲戒免職のような処分とは異なる上、前記第二の一(5)イ、ウに記載のとおり、任命の要件として成績要件等を定めた本件要綱も、一般職の地方公務員の任用についての地方公務員法一五条等とは異なる内部的なものにすぎず、規範性を有するものではないから、この成績要件についての評価及び判断に係る裁量権は、かなりの程度に広いものであり、その不採用が上記のように不法行為を構成するのは、例外的な場合であるといわざるを得ない。

イ ところで、《証拠省略》によれば、本件再雇用制度は、地方公務員法の改正により、それまで定年退職制度がなかった東京都の職員について、昭和六〇年三月から六〇歳定年制が導入された際、東京都教職員組合や東京都高等学校教職員組合等の連合組織である東京都労働組合連合会から、定年制導入の代償措置として、定年後の教職員の雇用の確保の要請を受け、同連合会との交渉を経て導入された制度であること、本件再雇用制度は、定年退職者やこれに準ずる者等を対象としていること、導入時に定められていた最長三年間という雇用期間は、当時の年金制度では、六三歳から年金受給を開始すると、その最高額が受給できたという事情によるものであったことなどの事実が認められる。また、前記第二の一(5)エに記載のとおり、東京都教育庁人事部が作成した手引にも、本件再雇用制度の制度趣旨について、『高齢化社会に対応し、退職する職員に生きがいと生活の安定を与えるとともに、長年都に在職して培った豊富な知識や技能を退職後も都に役立てることにある。』と記載され、退職後の職員の生活安定に資するための制度であることが明記されている。これらを併せ考慮すると、本件再雇用制度が教職員の定年後の雇用を確保するという意義を有することは明らかであるといえる。また、前記第二の一(6)に記載のとおり、平成一二年から平成一四年まで、都立学校の再雇用職員に申し込んだ者(三一三二名)が全員選考に合格し、その後も圧倒的多数は合格していたのであるから、選考の結果、不合格とされるのは例外的な場合であったと考えられる。しかしながら、これらの事情は、制度の機能及び事実上の運用を述べたにすぎず、これらの事情があるからといって、再雇用を希望する者が採用されることについて抱く期待というものは、事実上のものであって、これが法的保護を受ける期待権に当たると解することは困難である。

ウ 本件において、一審原告らは、前記認定事実のとおり適法な本件職務命令に違反するという非違行為を行った上、これにより戒告処分を受けたのであり、そのことは、本件要綱が要件として定める勤務成績について低い評価をもたらすことはやむを得ないことというべきである。

なお、前記六(1)に記載の認定事実に照らせば、従前、不起立行為を理由として再雇用につき不採用となった例はみあたらず、少なくとも、そのような事実のみを理由として不採用とされたのは、一審原告らが初めてであったと認められる。また、《証拠省略》によれば、従前は、退職前に戒告処分を受けた者のみならず、地方公務員法上の争議行為禁止規定違反を理由に停職処分を二回受けた者や、交通事故を理由に懲戒処分を受けた者が再雇用で採用されていたことが認められる。しかし、前示のとおり、再雇用に当たっては、都教委は、免職処分や一般職地方公務員の任用の場合に比して広範な裁量権を有しているものと解さざるを得ず、また、その多様な考慮要素群の中における各考慮要素についても、常に一律不変の重点を置かなければならないものとまではいいがたく、その時々によりその比重が変化することも許容され得るところであって、上記のような事実があるからといって、前記アで判示したような性質を有する再雇用における本件不合格が、裁量権の著しい濫用ないし逸脱に当たるとまでいうことはできない。

エ したがって、本件不合格が不法行為を構成すると解することはできないというべきである。」

三  一審原告らの当審主張について

(1)ア  一審原告らは、一審原告らの思想及び良心には、高等学校における卒業式等の儀式的な学校行事において、国民の間で価値中立的な存在となっていない国旗及び国歌を強制してはならないという思想、信条が含まれている以上、教職員である一審原告らに対して国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを命じる本件通達及び本件職務命令は、儀式的行事において教職員として儀礼的な行為を強制するものであって、まさに一審原告ら各人の内心における思想及び良心の自由そのものに対する直接的抑圧となる旨主張する。

検討するに、憲法一九条は、人の内心における思想及び良心の自由を保障するものであって、これに基づく外部行為の自由まで保障するものではないが、個人の内心の自由の本質又は核心にあるものときわめて密接な関係にあるとみるべき外部的な行為、すなわち、一般的に人の内心の自由と不可分に結び付けられたものと認められる外部的行為に限り、なお憲法一九条の保障するところであると解されるべきことは、前示のとおりである。

しかるとき、一審原告らは、教職員として卒業式等の儀式的行事において国旗に向かって国歌を斉唱することが全国民の間で価値中立的な存在となっていない以上、上記の起立・斉唱を強制してはならないという考えに基づき、卒業式等において不起立行為を行ったものであるが、上記の起立・斉唱というものは、教職員として高等学校学習指導要領に基づき行う儀式的行事における学校職員という社会的な立場における行動にすぎず、一般的に一審原告ら個人の内心における国旗及び国歌に対する特定の思想や信条と不可分的に結び付けられたものと認められる類型の外部的な行為ではない。

したがって、一審原告らに対する本件職務命令が、一審原告らの思想及び良心そのものに対する直接的な侵害となる旨の主張と解される一審原告らの上記主張は、採用することができない。なお、本件通達は、校長に対して発せられたもので、一審原告らに直接何らかの義務付けをするものではなく、それ自体としては、一審原告らの思想及び良心の自由を侵害するものではない。

イ(ア)  一審原告らは、原判決が、本件職務命令が思想及び良心の侵害とならない理由について、一審原告ら自身の主観からみた思想及び良心と拒否行為との不可分性及び真摯性について考察することなく、「一般的には」との一言で思想及び良心と拒否行為との結び付けを否定したことを非難し、かつ、一審原告らは、自己の思想及び良心の領域が侵害されることを防衛するために、極めて消極的な拒否態様により自らの思想及び良心を防衛すべく不起立行為に及んだにすぎず、かかる行為は憲法一九条の保障を受ける旨主張する。

しかし、思想及び良心の自由と上記した外部的行為との不可分性について、当人の主観を考慮要素に入れて判断すると、その不可分性の有無が、結局、当人の判断に委ねられてしまい、各人が、自己の内心における思想や良心に反すると主観的に考えるか否かによって、当該外部的な行為について憲法一九条違反の問題が生じ得るか否かが決定されることとなる。また、一審原告らは、そのような主観的要素として、真摯性を考慮すべきである旨もいうが、各人の内心における思想及び良心が真摯なものであるか否かの判断自体、当人の主観によるとするならば、結局、上記と同様の理となる。しかし、各人が、その内心における思想や良心に反するという主観的な理由から外部行為を拒否する自由が保障されるとした場合には、社会の秩序は成立し得ず、憲法一九条がかかる趣旨の保障規定であると解することはできない。純粋に内心の自由の外においても、憲法一九条の保障を認めるべきであるという判断は、自己の内心における思想及び良心の本質又は核心にあるものときわめて密接に関係するとみるべき類型の外部的な行為に属するかどうかという一般的、客観的な観点を中心として判断されるべきであると解するのが相当である。

したがって、一審原告らの上記主張は、採用することができない。

(イ) 一審原告らは、卒業式等のような公的な儀式的行事において、国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを強制することは、それに反対する信念を直ちに否定するものであるし、国旗に向かって起立して国歌を斉唱する行為は、国旗及び国歌に賛成できない思想、信条を否定する意味の思想を外部に表明させる種類の行為にほかならないから、一審原告らの思想及び良心の自由を直ちに否定するものであって、本件通達及びこれに基づく本件職務命令は、ピアノ伴奏事件最高裁判決(最高裁平成一六年(行ツ)第三二八号同一九年二月二七日第三小法廷判決・民集六一巻一号二九一頁)の判断枠組みの下でも、一審原告らの思想及び良心の自由を制約していると判断される旨主張する。

たしかに、起立は、一般的に起立の対象に対して敬意を表す行為であり、歌唱は、一定の思想、感情を言語で表現した歌詞を歌うものであって、ピアノによる伴奏行為とは、思想外部表明性の評価の点において相違が全くないとはいえない。もっとも、それはなお相対的なものであるともみ得ると解される点はしばらく措き、高等学校の卒業式等の学校行事において教職員として起立・斉唱を行うことが直ちに国旗及び国歌に対する多様な意見のうちの特定の考えを体現するものであるとはいえないことは前示のとおりである。

したがって、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを命ずることが、一審原告らの思想及び良心の自由を直ちに否定するものであるということはできず、一審原告らの上記主張は、採用することができない。

ウ  一審原告らは、猿払事件最高裁判決(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁)を援用して、本件通達及び本件職務命令による一審原告らの思想及び良心の自由に対する制約は正当化されるものではない旨主張する。

しかし、上記最高裁判決は、本件と事案を異にする上、前示のとおり、本件職務命令は、一審原告らの思想及び良心の自由を侵害するものではないと解されるから、一審原告らの上記主張は、採用することができない。

エ  一審原告らは、本件職務命令は、実質的には生徒に対して向けられた、生徒の内心の自由を侵すものであって、この点からも憲法一九条に違反する旨主張する。

しかし、本件通達や本件職務命令が、偏狭なナショナリズムや愛国心などの特定の観念・思想を一方的に子どもに植え付けようとするものであるとは認められないことは、原判決の「事実及び理由」中の「第三 争点に対する判断」の二(2)ウに記載のとおりであって、卒業式等の学校行事において起立・斉唱という儀式的行為を命ずること(しかも、本件職務命令の名宛人は、教職員であって生徒ではない。)が、生徒の内心の自由を侵し、憲法一九条に違反すると解することはできない。

したがって、一審原告らの上記主張は、採用することができない。

(2)ア  一審原告らは、都教委の本件通達以降の一連の施策は、校長を通じて教育現場に旧教育基本法一〇条一項が禁ずる「不当な支配」を及ぼしたものに他ならず、これにより発出された本件職務命令は、本件通達と一体のものであり、「不当な支配」の下になされたものであって違法・無効である旨主張する。

当裁判所も、原判決の「事実及び理由」中の「第三 争点に対する判断」の三(1)に記載のとおり、本件職務命令の発出は、本件通達やその後に都教委が各校長に対して行った指導と一体のものといえ、この発出が旧教育基本法一〇条一項にいう「不当な支配」に該当するか否かは、本件職務命令の違法性に影響する余地があると判断する。ただし、当裁判所も、同三(1)に記載のとおり、結局、本件通達は「不当な支配」に該当しないと判断するものである。

イ  一審原告らは、都教委が、本件通達後の「内心の自由の説明」を禁止したこと、平成一五年度の卒業式等における生徒の不起立について、平成一六年六月、合計六七名の管理職及びクラス担任教員に対し、「指導不足による生徒の不起立」、「不起立を促す教員の不適切な言動」等を理由として厳重注意等を行ったこと、校長に本件職務命令を出させ、従わない場合に懲戒処分を科したこと等は、憲法二六条、二三条、一三条に違反し、かつ、旧教育基本法一〇条一項の「不当な支配」に当たる旨主張し、原判決が、上記「内心の自由の説明」の禁止について認定事実部分で軽く触れているのみであること及び上記「厳重注意」等の実質的処分について憲法二六条、二三条、一三条に違反し、かつ、旧教育基本法一〇条一項の観点から検討を加えていないことを非難する。

しかし、これらの点に関する判断は、争点イ(本件通達及びその後に都教委が各校長に行った指導は、旧教育基本法一〇条一項にいう「不当な支配」に該当するか)及びウ(一審原告らに教職員としての専門職上の自由が認められるか。また、本件職務命令は、これを侵害するか)について直接影響を及ぼすものではなく、当裁判所において判断の限りではない。

ウ  一審原告らは、旭川学テ事件最高裁判決(最高裁昭和四三年(あ)第一六一四号同五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号六一五頁)を援用し、都教委の教育内容・方法への介入も、大綱的基準の範囲にとどめられなければならないことを前提として、本件介入、すなわち、都教委による校長に対する本件通達とその後の一連の指導が、憲法二六条、二三条及び旧教育基本法一〇条に違反するものとして違憲(違法)無効である旨主張する。

旧教育基本法一〇条一項の「不当な支配」の主体には国、地方公共団体を問わず、その教育行政機関も含まれると解される。しかし、国の教育行政機関による介入は、大綱的基準の程度に止められるべきであるとしても、地教委の介入については、教育の地方自治の理念や、地教行法二三条五号において、地教委が学校の組織編制、教育課程、学習指導等に関して管理、執行する旨定められていることにも照らすと、必ずしも大綱的基準に止められる必要はなく、必要性、合理性が認められる場合に、地教委が、卒業式の在り方等について具体的に介入することが、上記不当な支配に当たるとは解されない。なお、地教行法二三条について、上記と異なる解釈を述べる一審原告らの主張は、同条の文理にも反することなどにかんがみて、採用することができない。

また、上記最高裁判決における大綱的基準論は、もっぱら、国(文部大臣)の介入について述べられたものであることは判文上明らかであり(なお、同最高裁判決は、大綱的基準論を述べつつも、「教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められる介入は、たとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、必ずしも旧教育基本法一〇条の禁止するところではないと解するのが相当である。」旨判示して、全国中学校一斉学力調査自体は、不当な支配に当たらないと結論付けている。)、むしろ、同最高裁判決は、地教委の介入については、「市町村教委は、市町村立の学校を所管する行政機関として、その管理権に基づき、学校の教育過程の編成について基準を設定し、一般的な指示を与え、指導、助言を行うとともに、特に必要な場合には具体的な命令を発することもできると解するのが相当である。」旨判示しているのである。なお、一審原告らが、この判示部分をもって、単に手続上の適法性に関するものにすぎない旨主張する点は、採用することができない。

したがって、その余の点について判断するまでもなく、本件介入、すなわち、都教委による校長に対する本件通達とその後の一連の指導が、憲法二六条、二三条及び旧教育基本法一〇条一項に違反するものとして違憲(違法)無効である旨の一審原告らの上記主張は、採用することができない。

エ  一審原告らは、平成一三年三月以降の卒業式等の状況について、教育現場の実態から特に必要性に迫られて本件通達発出に至ったというような経過ではなく、原判決が、本件介入が不当な支配に当たるか否かを検討するに当たって、平成一五年当日の国旗掲揚・国歌斉唱の実施状況からして、本件通達の目的に合理性があり、本件通達を特に発すべき必要性があった旨判断したことは、事実に基づかない誤ったものである旨主張する。

しかし、本件通達を発出することを必要とする状況が認められることは、原判決の「事実及び理由」中の「第三 争点に対する判断」の三(2)エに記載のとおりであって、一審原告らが上記主張の証拠として提出する校長等の陳述書や証人尋問調書は、いずれも、一部の高校の状況を評するものにすぎず、この認定を必ずしも妨げるものではない。加えて、《証拠省略》によれば、平成一一年通達の発出後から本件通達の発出までの間においては、一部の高校で、入学式実施要領に「国歌斉唱」が記載されておらず、校長の職務命令で記載させたこと、卒業式等に関して話し合われた職員会議で、国旗の掲揚や国歌斉唱に反対する教員が長時間にわたり執拗に反対したり、怒号が飛んで騒然となったこと、あるいは、卒業式等で、司会の教頭が「国歌斉唱」と発声したところ、ある教員が「やめて下さい。」と言ったことについて、保護者から苦情があったこと等が認められるのである。

したがって、一審原告らの上記主張は、採用することができない。

(3)ア  一審原告らは、本件不合格は、単に不起立行為を理由としたものではなく、一審原告らが起立しない(できない)、斉唱しない(できない)という信念を有していたことを真の理由とするものである旨主張する。しかし、再雇用を申し込んだ退職者で、国旗に向かって起立したものの、内心においては上記の信念を有していた者、国歌を斉唱したものの、内心においては上記の信念を有していた者などが採用されなかった事実は、本件全証拠によるも認められず本件不合格は、不起立行為という外部行為をしたことを理由に本件職務命令違反という勤務成績に関する低い評価を受けたことによるものであると認められる。

したがって、一審原告らの上記主張は、採用することができない、

イ  一審原告らは、本件不合格は、従前の再雇用選考過程における判断と大きく異なり、本件職務命令違反を極端に過大視する一方で、一審原告らの勤務成績に関する他の事情をおよそ考慮した形跡がなく、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く旨主張する。

しかし、前示のとおり、公務員の身分を有している者についてその身分を失わせる処分とは異なり、いったん退職した者について新たに採用、不採用を決定する場合には、採用権者としては広範な裁量権を有していると解するほかはなく、また、その際の多種多様な考慮要素のうちどの点を重視するかについても、その時々の人事政策をめぐる諸条件の変容に応じて変わり得るものであるといわざるを得ない。本件不合格に至る経緯は、前示のとおりであって、本件不合格は、勤務成績の評価において本件職務命令違反の事実を重くみたことによるものであることは明らかであるが、そのことをもって、本件不合格が一審原告らに対する不法行為を構成するとまで解することは困難である。

したがって、一審原告らの上記主張は、採用することができない。

ウ  一審原告らは、本件不合格は、考慮された事実に対する評価が著しく不合理であり、その結果、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠くものであって、都教委の裁量権を逸脱、濫用したものとして違法であり、不法行為を構成する旨るる主張する。

しかし、まず、本件不合格が、起立斉唱しない(できない)との内心における信念を有する者の排除を目的としてされたものであることを認めるに足りないことは、前示のとおりである。

また、本件要綱上、本件再雇用制度における採用選考に当たっては、「勤務成績」、「知識及び技能」、「健康」及び「意欲」を判断の基準とすることが定められており、本件運用内規により、これらは申込書、推薦書及び面接結果の三点資料を判断の資料として判断されるものとされていることは、原判決の「事実及び理由」中の「第二 事案の概要」の一(5)に記載のとおりである。しかし、本件運用内規における三点資料の定めは、本件要綱上の上記基準を判断する際の資料について定めたものであって、上記の「勤務成績」の基準についての評価に当たり、上記三点資料以外の資料や情報を参酌したからといって、考慮すべき事項以外の事項を考慮したことにならないことは明らかである。

その他、一審原告らが主張するところは、前示したところに照らし、いずれも採用することができない。

四  一審被告の当審主張について

一審被告は、各校長が本件職務命令を発したのは、本件通達どおりに卒業式等を適正に実施するには同命令を発するしか方法がないと自ら判断したからである旨主張し、同命令の発出を実質的に都教委が行ったものとする原判決の認定判断を非難する。しかし、当裁判所も、原判決の「事実及び理由」中の「第三 争点に対する判断」の三(1)に記載したとおり、この点については原判決と同様に認定・判断するものである。《証拠省略》によれば、一部の校長が、自らの意思により職務命令を発したことが認められるが、このことは、前記引用に係る原判決の判示にも照らすと、一審原告らに対する本件職務命令が、全体的にみて、実質的に都教委が行ったとの認定判断を妨げるものではない。

したがって、一審被告の上記主張は理由がない。

第五結論

以上によれば、一審原告らの請求はいずれも棄却すべきである。よって、原判決中一審原告らの請求をそれぞれ一部認容した部分は不当であるから、一審被告の控訴に基づきこれを取り消し、一審原告らの請求をいずれも棄却し、一審原告らの控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 稲田龍樹 裁判官 原啓一郎 内堀宏達)

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