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東京高等裁判所 平成21年(ネ)992号 判決 2009年8月06日

控訴人

甲野桜

同訴訟代理人弁護士

岩崎政孝

福島隆

被控訴人

乙山竹男

同訴訟代理人弁護士

島田充子

大島佳奈子

被控訴人

甲野花子成年後見人弁護士 安田まり子

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1  控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人乙山竹男の請求を棄却する。

3  訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人らの負担とする。

第2  事案の概要

1  本件は,甲野花子(大正9年5月*日生。以下「花子」という。)の亡姉乙山サクラ(以下「サクラ」という。)の長男である被控訴人乙山竹男(以下「1審原告」という。)が,花子とその亡夫甲野太郎(以下「太郎」という。)の姉の孫である控訴人甲野桜(以下「1審被告桜」という。)との養子縁組は花子の縁組意思がなく無効であるとして,養子縁組無効確認を求めたところ,原審がこれを認容したので,1審被告桜が控訴をした事案である。

2  前提事実及び争点は,次のとおり付加訂正するほか,原判決の「事実及び理由」第2の2,3に記載のとおりであるから,これを引用する。

(1)原判決2頁9行目の「身分関係図」を「親族関係図」と改め,本判決末尾に別紙として親族関係図を添付する。

(2)原判決2頁15行目の「被告後見人」との略称を「花子の後見人弁護士」と改め,これに続く原判決中の「被告後見人」との表示をすべて「花子の後見人弁護士」と改める。

(3)原判決2頁19行目の「意思能力の有無,」を削除する。

(4)原判決2頁20行目の「(1) 原告の主張」から3頁15行目の「無効である。」までを,次のとおり改める。

「(1) 1審原告の主張 本件養子縁組においては,養母である花子は縁組意思を欠き,当事者間に縁組意思の合致がないので,無効である。

ア サクラの夫の前妻との間の長男乙山松男(以下「松男」という。)の妻である乙山ウメ(以下「ウメ」という。同人は花子の義理の姪であり,1審原告の義理の姉に当たる。)は,平成18年に入ると一人暮らしの花子の判断能力に不安を感じるようになり,同年11月6日に病院へ連れて行った。花子は,長谷川式スケール30点満点中1点から5点(20点未満は認知症)であり,重度の老年性認知症(健忘,記銘力の低下著しい)との診断を受けた。認知症の症状の一般的特徴として,昔のことはよく覚えているが新たなことは覚えられず,話した内容もすぐに忘れ,話が食い違っても本人にはわからず,その場の雰囲気が本人にとってよければ「はい,はい。」と言ってしまう,というものがあるが,花子はこれに当てはまった。医師から見ても,財産の管理ができずに危険だと感じられたので,成年後見制度の利用を促された。ウメから様子を聞いた1審原告は,平成19年1月22日,成年後見開始の申立てを行ったが,直後に本件養子縁組届出がなされたことが判明した。花子の認知症が,平成18年11月6日の初診時の直前に発症したということはなく,数か月以上前から症状はあったはずである。また,認知症の症状が一時的に回復して,例えば養子縁組をした日のみ回復していたということも考え難い。

イ 意思能力,縁組意思は法的判断に基づく法的評価である。上記のとおり,花子は当時認知症に罹患しており,事理弁識の精神能力・判断力が低下していた。認知症に罹患しているといっても,その症状にはいろいろな程度,段階がある。花子は,日常生活は不十分ながらも一応何とかできていたのであり,意思能力を喪失したとまでは評価できない。しかし,事理弁別の精神能力・判断力は相当程度低下し,その影響により,1審被告桜を養子として縁組をすることの持つ法律的な意味を理解できず,したがって,その意思もないのに言われるままに書類に署名したというのが実情である。そうすると,これは縁組意思が欠如し,縁組意思の合致がないものであって無効である。ただし,前提たる意思能力の段階で,既に意思能力が欠如していると評価されるならば,民法の一般法理により本件養子縁組は無効となろう。」

(5)原判決3頁16行目の「(2) 被告後見人の主張」から19行目の「把握していない。」までを,次のとおり改める。

「(2) 花子の後見人弁護士の主張

本件養子縁組は花子の能力の範囲内の決断であり,その真意に基づくものである。

ア 当職は,平成19年5月19日,ウメ同席の上,花子と初めて面会した。その際,当職が花子に何か尋ねても,ウメが代弁して答え,花子はウメから同意を求められ,恥ずかしげな笑みを浮かべながら曖昧な返答をしたり,うなずくだけであり,花子の判断能力は相当程度低いものと評価せざるを得なかった。

その後,ウメ,1審原告,花子の調停申立代理人に就任した高石弁護士は,いずれも,花子の「意思」の存在を前提とした主張をしていた。当職は,ウメが花子の「意思」を利用し,1審原告及び高石弁護士はウメの意を受けているに過ぎないものと考えていた。

ところが,平成19年12月15日,花子と面会したところ,花子は5月の面会時とは別人のように,はっきりと自らの意思を述べ,当職の言葉に同調する(肯定的に動く)傾向は見られず,当職の誘導に乗ることはなく意に沿わぬ提案には理由も述べた上で反対の意思を表示し,当職の従前の評価が誤りであったことに気付いた。

ただし,記銘力は低下し,本件養子縁組をした事実も,ウメに財産を残す遺言を作成した事実も失念し,それらが存在しない前提で,その時点での自らの考えを述べた。「養子」という概念については,「養子をとる」という言葉を花子自らが使い,なぜ1審被告桜であったか,養子にする届を出したか等について,当職の質問を理解した上で,全ての問いに矛盾なく答え,「養子」という用語を一般人と同程度に正しく理解していたことは明らかである。

以上のとおり,花子は養子という概念を,本件養子縁組から約11か月後の平成19年12月15日の時点でも正しく理解し,本件養子縁組の時点で理解していたことは明らかである。

イ 上記のとおり,本件養子縁組当時,花子は縁組の意図を有し,本件養子縁組は花子の真意に基づくものであったと考える。

当職としても,現状,ウメが花子の身上監護を親身に行っていることについては決して否定するものではないが,本件が決着した後は,ウメと1審被告桜が花子の身上監護について協力し合い,花子が誰にも気兼ねなく幸せな余生を過ごすことができるよう,最善の途を選択して頂くことを願っている。」

(6)原判決3頁20行目の「(3) 被告桜の主張」から4頁18行目の「有効である。」までを,次のとおり改める。

「(3) 1審被告桜の主張

ア 花子及び太郎の夫婦と1審被告桜の実家丁谷家は,旅行,年中行事を一緒に行ったり,太郎が1審被告桜の父丁谷夏彦(以下「夏彦」という。)に事務所として自宅マンションの1階を賃貸して頻繁に行き来する等,親戚の中で長年特に親しく深い付き合いがあった。花子は太郎の生前も没後も甲野家を残したいとの長年の願望を持ち養子を探していた。1審被告桜が大学生になった頃には,養子の候補者は事実上同人のみに絞られ,平成17年秋の墓参り頃には既に当事者間で内諾していた。

花子は当日,自筆で養子縁組届出書面に所定の諸事項を書き込み,提出のために区役所出張所まで1審被告桜らと共に出向いて担当者と応対し,届出書面を完成させる際に,涙ぐんで,「ありがとう,よろしくお願いします。」「自分がお墓に入っても,(夫に対して)胸が張れる。」等と述べ,縁組届の理解なしにはあり得ない臨場感のあるやりとりをした。また,本件養子縁組後,花子が実家である丙川家の墓を1審被告桜と一緒に訪れて菩提寺の関係者に1審被告桜を養子として紹介し,親類の戊沢葉子に1審被告桜が養子になってくれると約束したことを喜んで語った等の事実は,花子が本件養子縁組を当時理解していたことの裏付けとなる事実である。

なお,花子は,本件養子縁組届出の後,ウメ宅に連れ出された後の,認知症の状態が悪化し記憶障害も顕著に悪化したとみられる段階で,花子の後見人弁護士の事情聴取に対し,以前から養子をとる話が出ていたこと,1審被告桜と養子縁組をする話があったこと,1審被告桜を養子にしてもよいと思っていたこと,養子にするには丁谷家がよいと思っていたこと,養子縁組の届出を出したことがあったかもしれないことを自ら語っている。1審被告桜との養子縁組の約束があり,それをかつて花子も望んでいたという遠隔記憶は依然として保持されているのである。

花子は,アルツハイマー型認知症の疑いとの診断がなされているが,認知症に罹患したとしても,本人の知的機能が全て失われてしまう訳ではない。認知症の重症度合いに鑑みてどの程度の知的機能が存在したかについて具体的に検討されなければならない。

花子の認知症は,本件養子縁組当時,失語,失行,妄想,徘徊,せん妄等が顕著に起こっていない発症前期ないし初期段階である。高度の知的機能障害が生じるのは,末期以降の段階である。また,花子には,独立して生活する能力は残っており,十分に身の回りの始末をし,判断も比較的損なわれていなかったので,軽症の程度であった。このような花子の行動状況,生活機能の評価は,自宅での日常生活状況を診断した行政機関による要支援2という平成18年8月当時の認定結果にも合致している。

イ 養子縁組を行うに際して当事者に必要とされる精神状態は,一般的には,格別高度な内容である必要はなく,親子という親族関係を人為的に設定することの意義をごく常識的に理解しうる程度の状態であれば足りると考えられる。それは,養子縁組が親子関係を設定する身分行為であって,当事者本人の意思をできる限り尊重すべきだからであり,かつ,行為の中核的要素が,特別な知識や能力がなくても社会生活の経験があれば常識的に理解している親子関係の創設という単純で分かりやすい法律関係に関するものだからである。縁組の結果,養子となった者を子として法定相続人に加えるという単純な効果が発生するに過ぎず,遺贈のような遺産相続に伴う複雑な法律関係の理解も不要である。本件のように,養子が成年者であれば,親権行使のような諸制度の理解は必要なく,養親が高齢者であれば,養子から老後の世話を受けつつ,家名や祭祀を存続できるという専ら利益的な立場を得るのみであるから,養親は,親子関係に関する常識的な理解ができる程度の精神状態であれば足りる。

このような常識的な理解は,通常の社会経験で既に獲得しているものであるから,認知症により高度の機能障害が生じていない精神状態であれば十分に可能であると考えられる。また,この養子縁組に必要とされる一般的な精神状態に加え,上記アの本件特有の個別事情を踏まえれば,花子については,既に合意をしていた1審被告桜との間で縁組を行う事実を確認し届出を行うという単純な事実を理解できる精神状態さえあれば,養子の意味に関して理解していたものと判断すべきことになる。

本件縁組当時,花子がアルツハイマー型認知症に罹患していたとしても,段階及び程度は上記アのとおりであり,知的機能が高度に障害された状態には至っていなかったし,人に関する見当識も障害されておらず,認知症による記憶障害は近時記憶から徐々に遠隔(遠時)記憶に及ぶとされ,本件養子縁組の約束に関する遠隔記憶に関しては十分保持されていたから,花子が1審被告桜との間で既に合意していた縁組の届出を行うという単純な事実に関しては理解できる精神状態にあったことが十分に裏付けられるのである。」

第3  当裁判所の判断

1  本件養子縁組に至る事実関係は,原判決の理由説示(「事実及び理由」第3)の1のとおりであるから,これを引用する。

2  争点(花子の縁組意思の有無)について

(1)縁組意思をめぐる事実関係

縁組意思の有無について検討を要する事実関係を,原判決第2の2,3及び第3の1認定の事実に基づいて整理する(上記認定事実に含まれない事実については,認定に供した証拠を摘示する。)と,次のとおりである。

ア 花子と乙山家との関係

乙山家は,花子の姉であるサクラの嫁ぎ先の親族であり,花子は結婚前に乙山家で暮らしたことから,花子が最も親しいと考えている親族であり(後記オ②参照),一時はサクラの子である1審原告を養子とする話もあったが実現しなかった。花子には実子がなく,配偶者である太郎が平成10年3月14日に死亡してからは,花子の法定相続人は1審原告のみである。花子は,平成10年当時80歳に近い高齢であったことから,その後花子は乙山家と行き来し,主に1審原告の義姉にあたるウメが花子の世話をすることとなった。花子はウメのことを「よくしてくれる姪」と認識しており(後記オ①参照),平成16年8月23日には,花子の全財産をウメに遺贈し,祖先の祭祀を主宰すべき者としてウメを指定する旨の遺言公正証書が作成された。この公正証書作成の場には,証人として2人の弁護士が立ち会った。この当時,花子は84歳であり,老年性認知症の症状は,この時点では出ていない。

イ 花子と丁谷家の関係

丁谷家は花子の夫の姉である丁谷春江の親族であり,丁谷春江の子である夏彦及び同人の妻丁谷奈津江並びに同人らの子である1審被告桜及び丁谷冬彦(以下「冬彦」という。)は,親しい親族として花子宅をしばしば訪問する関係にあった。平成18年9月16日,夏彦親子が甲野家の墓参りのため花子を訪ねた際に,花子から最近物忘れが著しくなったことを聞き,会話を重ねるうちに(丙1,2,証人夏彦,1審被告桜),その場で遺言書と題するメモを花子が作成して夏彦親子側に渡すこととなった。このメモには,1審被告桜が養子になり墓を守ってくれると約束してくれたので同人に全財産を相続させる旨が記載されたが,遺言書としての様式を備えていないものであり,遺言の効力を有しないものであった。また,このメモ作成時には,平成16年8月に花子が自ら公証人役場に赴き公証人から意思確認を受けた上で作成された前記公正証書との関係はまったく念頭に置かれていない。

なお,花子は,丁谷家については,乙山家ほどには親しい関係ではないと認識しているが,夫の親族でもあり,良好な関係を保っている(後記オ②④参照)。

ウ 花子の老年性認知症の診断

花子については,平成18年11月6日に国立精神神経センター武蔵病院精神科において診察がされ,平成19年2月1日に東京女子医科大学病院脳神経センター神経内科において診察がされ(丙5,7),平成19年3月13日に再び国立精神神経センター武蔵病院精神科において診察がされた。その診断内容は,国立精神神経センター武蔵病院精神科においては老年性認知症に罹患しているとの診断であり,東京女子医科大学病院脳神経センター神経内科においてはアルツハイマー型老年性痴呆疑との診断である。また,認知症の程度を表す長谷川式スケールでは,上記3回の診察時にそれぞれ6/30,10/30,2/30であり,数値上の違いがあるものの,いずれの診察においても,明らかな痴呆症状が認められるとされており,これらのいずれの時点においても,著しい記銘力・記憶力障害があるものと認められる。

エ 平成19年1月30日の縁組届出の状況

本件養子縁組については,平成19年1月29日に夏彦が届出用紙を取得し,当日夜,養子届出人欄に1審被告桜が署名押印し,証人欄に夏彦及び冬彦が署名押印し,翌30日,1審被告桜を加えた親子3人で花子方に赴き,夏彦と冬彦が立ち会う中で,養親届出人欄に花子が署名押印した(丙1,2,証人夏彦,1審被告桜)。この署名を終えた後,1審被告桜と花子は,記入済みの届出用紙を示しつつ,並んでにこやかに写真撮影をした(丙4)。その後,夏彦親子3人と花子は共に新宿区役所四谷出張所に赴き,届出用紙を提出した。しかしながら,花子が公証人役場で意思確認を受けた後に作成した前記公正証書等については,当日誰からも説明がされず,この公正証書の内容と養子縁組の両者を対比して花子の意思を確認することは行われていない。

オ 花子の後見人弁護士の調査結果及び意見(乙3,平成21年6月16日付け同後見人弁護士準備書面)

花子については,平成19年4月4日後見開始の審判がなされ,花子の後見人弁護士が成年後見人に選任された。同弁護士は,その後数回,ウメが同席する中で花子と面談をしたが,19年12月15日,花子が施設で一人でいるときに聞き取り調査を行い,東京家庭裁判所あての報告書を作成した。同弁護士は,ウメが同席する場と比べると,この日,花子が自分の考えをよりはっきりと表明したように感じたために,この場での陳述内容が花子の真の気持を知る上で重要と考え,この面談の詳細を報告書に取りまとめた。同弁護士が聞き取った内容は,次のとおりである。この聞き取り調査の中で,同弁護士は,花子の養子縁組への意思が平成19年12月の時点でも存在する以上,本件養子縁組が花子の意思に基づくものと認めるべきであると考えるに至った。

① ウメについては,よくしてくれる姪(姓は覚えていない)であるという認識である。

② 一番仲良くしていたのは乙山の家である。姉が嫁に行った先なので。世話になるのはウメでよい。ウメに財産を上げることについては,そういうことを考えたことはない。公正証書については記憶していない。

③ 1審被告桜については,どんな人かわからない。

④ 夏彦については,好きではないが普通である。1審被告桜や夏彦に別に会いたくない。面倒くさい。会うのがいやだということはない。

⑤ 養子をもらうなら主人の方の丁谷家側から養子をもらうほうがよいと思った。考えたら養子などいらない。やめてしまおうと思う。養子にする届出はあったかもしれない。そのときは養子にしてもよいと思った。今はやめてしまおうと思う。ずっと一人で,一生いい。

(2)縁組意思の有無についての判断の視点

以上の事実関係に基づいて,平成19年1月30日における花子と1審被告桜との養子縁組の届出について,花子に縁組意思があったかどうかについて検討する。

平成19年1月30日においては,縁組の届出用紙への花子の署名押印の状況をみても,花子が任意に署名押印し,花子が縁組に賛意を有していたことは疑いのないところである。

ところで,当時の花子の縁組に関しては,次のような事情があることに留意する必要がある。すなわち,花子は,一方で,老年性認知症発症前の健常時である平成16年8月23日に公証人役場に赴き,花子の全財産をウメに遺贈し,祖先の祭祀を主宰すべき者としてウメを指定する旨の遺言公正証書の作成を得ていながら,このことをまったく顧慮することなく,平成18年9月16日には,1審被告桜が養子になり墓を守ってくれると約束してくれたので1審被告桜に全財産を相続させる旨の遺言書と題するメモ書きを作成して夏彦親子側に渡しているのである。

このことは,花子が,祭祀を重視し,自己に配偶者や実子がいないことから,祭祀を実施してもらう者に全財産を譲渡する意思を有していたことを示しているが,それを姉の嫁ぎ先である乙山家側にするか,配偶者の属する丁谷家側にするかについては,あるときは一方に,あるときは他方に気持が揺れる状態であったことを示すものといえる。すなわち,花子は,姉の嫁ぎ先である乙山家側とより親しい関係にあり,面倒をみてもらうのはウメでよいと考え,平成16年8月には,乙山家側であるウメに全財産を譲ることを決断したものの,平成18年9月には,1審被告桜を養子にして丁谷家側に全財産を譲ることでもよいと考えたのであり,平成18年秋に老年性認知症の症状が出るようになった花子にとって,そのいずれも一面の真意であるが,一方のみが真意であるとはいえない状況にあったものと認めるのが相当である。この状況下において,平成18年11月以降,花子の老人性認知症の症状は進行し,著しい記銘力・記憶力障害が生じたのであり,あるときに一方が真意かと訊かれると肯定し,別の機会に他方が真意かと訊かれると,それも肯定する状況に陥っていたものと認められる。

このような状況において花子が縁組意思を有していたかどうかを確定するには,慎重な検討を要する。平成19年1月30日の養子縁組の届出書への花子の署名押印及び新宿区役所四谷出張所への提出の当時,これに立ち会ったのは,夏彦並びにその長男の冬彦及び長女の1審被告桜のみであり,その際に,花子には記憶がないであろう乙山家側に対する花子の考えを改めて記憶喚起した上で花子の真意を確認することは行われていない。夏彦親子の側は,この時点では,ウメへの公正証書の作成の事実を承知していなかったのであるから,このことは無理からぬことではあるが,花子は,後に花子の後見人弁護士の調査に応じて意見を表明したように,養子縁組をしなければよかったという感情も有しているのであり,注意喚起の仕方によっては,養子縁組の届出をしなかった可能性も相当高い程度で存在したものといえる。

(3)縁組意思の有無

このような花子の置かれていた状況からすると,平成19年1月30日の時点において,花子は自ら養子縁組の届出書に署名押印をしているものの,注意喚起の仕方によっては,かなり高い確率において,養子縁組について再考して,署名押印を差し控えた可能性があったものといえる。すなわち,本件養子縁組届は,花子の考えの中にある2つの相矛盾する意思のうちの一つに基づくものであり,老年性認知症に罹患して著しい記銘力・記憶力障害が生じている花子については,他の考えが存することを注意喚起した上で,自らの判断により矛盾する2つの意思のいずれかを選択するよう促すことがない限り,相矛盾する2つの意思のいずれかを優越した意思として認めることはできない状況にあったものといわざるを得ない。そうすると,本件養子縁組は,それが全面的に花子の意思に反するとはいえないものの,花子の縁組意思に基づいて行われたものということはできず,結果として,縁組意思を欠いて無効であるといわざるを得ないのである。

花子の後見人弁護士は,花子の養子縁組への意思が平成19年12月の時点でも存在する以上,本件養子縁組が花子の意思に基づくものと認めるべきであるという意見を有しており,公正な立場にある同弁護士の意見は傾聴に値するが,前記認定のとおり,花子の養子縁組及び1審被告桜に全財産を承継させるとの意思は,ウメに全財産を承継させるとの意思と併存していたのであり,このことを考えると,同意見は,上記認定を覆すまでのものではないと解される。

3  以上のとおり,1審原告の請求を認容した原判決は,結論において正当であるから,本件控訴を棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 園尾隆司 裁判官 藤下健 裁判官 櫻井佐英)

別紙 親族関係図<省略>

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