大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成22年(う)756号 判決 2010年6月29日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中90日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は,弁護人髙濱豊彦作成の控訴趣意書に記載されたとおりであるから,これを引用する。弁護人は,量刑不当を主張しており,被告人を懲役17年に処した原判決の量刑は重すぎて不当である,という。

そこで検討すると,本件は,被告人が,①平成21年8月27日,千葉県船橋市内の被告人の居住するアパート前の路上において,同アパートの隣家に住んでいた被害者(当時64歳の女性)に対し,殺意をもって,牛刀(刃体の長さ約26.7cm)で,同人の腹部を2回突き刺し,腹部刺創に基づく右外腸骨動脈損傷等により失血死させて殺害し(原判示第1),②業務その他正当な理由による場合でないのに,上記牛刀1丁を携帯した(同第2)という事案であるが,以下に述べるように,原判決の量刑に関する判断は正当である。

1 まず本件において重視すべき量刑事情について検討する。

原判決も説明しているとおり,子供らの将来を楽しみにしながら健康に生活していた当時64歳の被害者は,本件殺人により,突如,命を奪われたもので,その結果は誠に重大であること,被害者を失った遺族の衝撃や喪失感は計り知れないこと,被告人は,刃体の長さが約26.7cmもある鋭利な牛刀で,女性である被害者の腹部を1回突き刺し,さらに,逃げる被害者に体当たりするようにして,再度腹部を突き刺したもので,本件殺人は強い殺意に基づく冷徹かつ非情な犯行といえること,被告人は,以前野良猫の餌付けに関して苦情を言ってきた被害者に罵声を浴びせたことがあったことなどから,被害者に避けられていたところ,被害者が猫を虐待したり,被告人の悪口を言いふらしたり,被告人に嫌がらせをしたり,他の近隣住民が被告人に苦情を言うように差し向けたりしているといった一方的な思い込みや邪推によって憤りを募らせ,短絡的に本件犯行に及んだのであって(弁護人は,被害者等の被告人に対する接し方や態度には問題があった,と主張するが,証拠を精査しても,この点につき被害者等に何らかの問題があったことをうかがわせるものはなく,被告人が被害者に対する憤りを募らせていった過程は,原判決がいうとおり一方的な思い込みや邪推というほかないものである。なお,被害者が猫を虐待していたといい得る証拠も見当たらない上,そもそも被害者の猫に対する態度が本件犯行をいささかでも正当化することはあり得ない。),経緯ないし動機は理不尽極まりないものであり,被害者に落ち度は全くないことなどの事情に照らすと,被告人の刑事責任は相当重いといわざるを得ない。

被告人は,犯罪事実そのものは争わず,原審公判において,捜査段階での態度をやや改めて,被害者の遺族に対して申し訳ないなどと述べ,当審公判においても,被害者に対してはまことにすまないと思っていると述べており,反省の姿勢を見せ始めている。しかし,被告人は,原審公判において,今振り返ってみて被害者を殺す以外の方法があったかという弁護人からの質問に対して,面と向かって怒鳴るように言ってもよかったと答え,怒鳴り付けられたら被害者が怖がるとは思わないのかという検察官からの質問に対して,別に思っていないと答えるなどしており,未だに自分の独り善がりな考え方から抜け出て,真しな反省の態度を示しているとはいい難い。その他に特に被告人のために有利な方向に働く事情は見当たらない(被告人に前科前歴は見当たらないが,上記のような本件事案の内容等に照らすと,これを大きく酌むべきであるとまではいえないとした原判決の判断は誤りとはいえない。なお,弁護人は,被告人の父親が事故で死亡しており,妻のアルコール依存症を契機として離婚に至っているなどの被告人の生活歴上の出来事を量刑上酌むべきであるというが,いずれも本件犯行から数十年以上前のことであるし,本件犯行との関連性も薄く,そのような点を本件の量刑に影響を与える事情として扱うのは困難である。)。

2 これらの量刑事情を前提として,原判決の刑の量定について検討する。

原判決は,本件事案と同種事件について過去の裁判例で示された量刑幅を検討し,本件については従来の量刑幅よりも重い量刑をもって臨むのが相当であるとの判断を示した上で,懲役17年という刑を量定している。

刑の量定に当たって,従来の量刑傾向を参考とすることは当然であるが,同種事例における量刑傾向あるいは量刑相場(原判決のいう量刑幅)といったものは,あくまで参考資料にとどまるものであって,拘束性のある基準といったものではないのであるから,最終的な量刑判断に当たっては,法定刑ないし処断刑の範囲内において,個別事案における固有の量刑事情を考慮して,宣告刑を量定すべきものである。そして,裁判員裁判においては,裁判員制度が導入された趣旨,すなわち,一般市民の量刑感覚を個々の裁判に反映させるという趣旨を踏まえ,従来の量刑傾向を参考にしながらも,これに無用にとらわれることなく,裁判員と裁判官との多様な意見交換,評議によって刑を量定すべきであるし,裁判員の参加によって量刑傾向ないし量刑相場が従来のものよりも幅の広いものとなり得ることもいわば当然であって,控訴審としても,そのような制度の趣旨を踏まえた上で第一審の量刑判断に対して事後審としての判断を行うべきこととなる。

これを本件についてみると,なるほど原判決の量刑は,従来の同種事案の量刑傾向からするとやや重い部類に属するが,従来の量刑傾向からしても,それを極端に外れるものではないし,これまで指摘してきた本件における量刑事情,ことに本件犯行の動機が全く理不尽なものであって,被害者にしてみればおよそ予期することのできない被害にあったものであること,態様は白昼,買い物帰りの被害者に対し,路上においていきなり牛刀という殺傷能力の極めて高い凶器で2回にわたって腹部を突き刺すというものであることといった,本件犯行の罪質,動機,態様の冷酷さ,結果の重大性等に照らすと,懲役17年という原判決の量刑はやむを得ないものであって,これが重すぎて不当であるとはいえない。

原判決は,従来のこの種事案についての量刑幅は,この種犯罪の結果・行為の評価としては不十分であるとした上で,本件については従前の量刑幅よりも重い量刑をもって臨むのが相当であるとの判断を示しているところ,この種事案についての一般的な量刑傾向の当不当を論じることの是非はともかくとして,本件事案の内容に照らし,従来の量刑幅からすればやや重い量刑をすることもやむを得ないものであるという意味において,この点の説示も理解できるものである。

3 弁護人は,さらに,ア 被告人が被害者を牛刀で刺そうと思ったのは犯行の直前であり,計画的犯行としての性格はない,イ 本件殺人の犯行における故意は,被害者が死亡するかもしれないがそれでもやむを得ないというもの(未必の故意)であったとみるべきで,原判決が「強い殺意」を認定しているのは不当である,ウ 被告人はビールを飲んだ後に本件犯行に及んでおり,当時,アルコールの作用により,刑法39条にいう心神喪失ないし心神耗弱には該当しないとしても,事物の理非善悪を弁識する能力又はその弁識に従って行動する能力が相当程度減退した状態にあったといえる,エ 自分の母親が死亡したという一事と,被害者や近隣住民による偏った被告人非難の情報にのみ接していたという状況からすれば,遺族らの感情を重視することは,罪刑の均衡という観点からみて,危険極まりない,などと主張している。

ア(殺意形成の時期に関する主張)については,被告人は本件犯行の4日前に上記アパートの住人の1人に対して被害者を殺そうと思っている旨の発言をしていること,被告人自身,原審公判において,8月23日ころに被害者を殺してやろうと思うようになったと認めていることなどから,本件殺人の犯行以前から被告人が被害者の殺害を決意していたことは明らかである。

イ(殺意の強さに関する主張)については,被告人が被害者に対する憤りを募らせて殺害を決意するに至った経緯などを踏まえ,上記のような本件殺人の犯行態様をみれば,犯行の際被告人が強い殺意を抱いていたことは明らかである。

ウ(被告人の弁識能力や行動制御能力に関する主張)については,被告人は,徒歩で買い物から帰ってくる被害者を遠方に見るや,今なら殺せると思い,即座に上記アパートの階段を上って自室から牛刀を持ち出し,階段を降りて路上に出て被害者と対面し,その目論見どおり本件殺人の実行行為に及んでいるのであって,犯行時の被告人の弁識能力や行動制御能力が本件の量刑に影響を及ぼすほどに低下していたなどとは到底いえない。

エ(遺族らの感情に関する主張)については,被害者が何の落ち度もないのに突然本件殺人により命を落としたものであることは上記のとおりであり,遺族らが被告人に対して厳しい処罰感情を抱くことは無理もなく,同遺族らが被告人を非難する趣旨の誤った情報にさらされたためにそのような処罰感情を抱いたなどとはいえない。弁護人の主張は採用できない。

その他弁護人が主張している点を検討しても,上記の判断は動かない。

量刑不当の主張は理由がない。

よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却し,当審における未決勾留日数の本刑算入につき刑法21条を,当審における訴訟費用の処理につき刑訴法181条1項ただし書をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小西秀宣 裁判官 地引広 裁判官 三上潤)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例