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東京高等裁判所 平成25年(ネ)3169号 判決 2013年8月28日

控訴人

甲野花子

外2名

上記3名訴訟代理人弁護士

石上尚弘

且優希

被控訴人

乙川一郎

同訴訟代理人弁護士

錦織淳

新阜直茂

磯貝朋和

主文

1  本件各控訴をいずれも棄却する。

2  控訴費用は,控訴人らの負担とする。

事実及び理由

第2<編注 原文ママ> 控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

3  訴訟費用は,第1,2審を通じ,被控訴人の負担とする。

第2 事案の概要

1  事案の要旨

本件は,亡乙川太郎(以下「被相続人」という。)の相続人である被控訴人が,被相続人の公正証書による遺言(以下,この公正証書のことを「本件遺言公正証書」といい,これによる遺言のことを「本件遺言」という。)における受遺者である控訴人らに対し,被相続人の遺言能力の欠如及び方式違背を理由として,本件遺言の無効確認を求めた事案である。

原審が被控訴人の請求を認容したところ,これを不服とする控訴人らが請求の棄却を求めて控訴した。

2  当事者の主張等

前提となる事実,争点及び争点についての当事者の主張は,次のとおり補正するほかは,原判決の「事実及び理由」中の「第2 事案の概要等」の2ないし4に記載のとおりであるから,これを引用する。

(1)2頁24行目の「被相続人は」から同26行目末尾までを次のとおり改める。

「被相続人は,同年11月中旬ころ,慶應義塾大学病院に入院して,検査を受けたところ,膵臓癌及び肝転移が発見された(甲5)。しかし,既に進行していて手術適応はないとされ,同病院にて,化学療法が行われた。」

(2)3頁2行目の「信託銀行」を「三菱UFJ信託銀行」に,同5行目の「財産」を「遺産」にそれぞれ改める。

(3)同13行目の「なお」から同14行目末尾までを次のとおり改める。

「なお,被相続人は,平成22年2月下旬ころから,上記病院の外来で,疼痛緩和のために麻薬鎮痛薬の処方を受けるようになった(甲5)。」

(4)同26行目の「慶應」の次に「義塾」を,同行目の「入院した」の次に「(甲4,7)」をそれぞれ加える。

(5)4頁2行目の「春野桃子」の次に「(以下「春野」という。)」を加える。

(6)同3行目の末尾に「。」を加える。

第3 当裁判所の判断

1  認定事実

前記前提となる事実に加え,証拠(甲4ないし6,9,22,23,24の3,56,乙2,7及び8の各1・2,乙9)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。

(1)被相続人は,平成21年11月中旬ころ,慶應義塾大学病院に入院し,検査を受けたところ,膵臓癌及び肝転移が発見された(甲5)が,既に進行していて手術適応はないとされ,同病院にて,化学療法が行われた(前記前提となる事実(3)イ)。

(2)被相続人は,遺言する意思を有し,三菱UFJ信託銀行に対し,遺言信託に係る事務処理を依頼し,同信託銀行は,平成22年1月5日付けで遺産の分割案の試算書面(乙2)を作成した。この書面における遺産の配分先は,本件遺言の内容と概ね同旨のものであった(前記前提となる事実(3)ウ)。

(3)被相続人は,同年2月下旬ころから,上記病院の外来で,疼痛緩和のために麻薬鎮痛薬の処方を受けるようになった(甲6)。

(4)被相続人に対して行われていた上記化学療法は,芳しい効果がみられなかったため,同年6月に中止された(前記前提となる事実(3)エ)。

(5)被相続人は,同年7月6日付けで,大学ノートに,相続について従前のものと大きく変更するとして,遺産を基本的に被控訴人に相続させ,控訴人らに分配する財産を同年1月5日付けの書面に記載したものよりも大幅に減少させることなどを内容とする考えを記載した(前記前提となる事実(3)オ,甲9)。

(6)被相続人は,同年7月23日の上記病院の外来受診時に,食欲不振,下腿浮腫,全身浮腫が認められたため,対症療法・緩和療法を受けるため,同日から同年8月16日まで,上記病院に入院した(前記前提となる事実(3)カ,甲4)。

(7)被相続人は,上記入院中,疼痛緩和のため,麻薬鎮痛薬の処方を受けた。被相続人には,入院当初から傾眠傾向があり,便失禁も多くあった。さらに,同年8月初めころから,被相続人には,上記症状以外にも,つじつまの合わない発言や意味不明な発言の繰り返しや見当識障害も見られるようになった。なお,被相続人が,この頃,せん妄状態であったか否かについて断定するまでの証拠はないが,上記症状に加え,被相続人に処方された麻薬鎮痛薬の中には,せん妄をきたしやすい薬剤も含まれ,その投与量についてもせん妄を生じるに十分な量であったことからすれば,被相続人が,当時,そのような状態になっていた可能性は否定できず,かつ,被相続人に係る診療録等の記載に照らすと,被相続人の上記薬剤による精神症状の劇的な改善は見られなかった。(甲5,乙9)

(8)公証人は,同月10日に,本件遺言公正証書作成のため,被相続人の病室に赴いた。公証人が病室に着いた際,そこには控訴人らがいたが,同公正証書作成に先立ち,病室から退出した(なお,そのころ,病室に被控訴人はいなかった。)。公証人は,事前に,被相続人の意向であるとして,控訴人花子から,本件遺言公正証書と同旨の内容を聞き,公正証書の案文を用意していたところ,本件遺言公正証書作成の際のやりとりは,基本的には,公証人が,同案文に沿って誘導的な質問をし,被相続人が(酸素マスクを装着したまま)「うん」あるいは「ああ,はい」等の声を発するという形で進められた。

このやりとりの中で,被相続人は,不動産を誰に取得させるかとの旨の質問に対しては,当初「春野」と答えるなどし,その後,公証人の誘導的な質問が繰り返された後,くぐもった声で「春野,一郎」と聞こえる名を挙げた(乙8の1)。また,事前に用意されていた公正証書遺言の案文を被相続人が見ながら,公証人が読み上げをすることが予定された場面では,被相続人は,すぐに目を閉じてしまった。さらに,被相続人は,年齢を聞かれ,明らかに実際とは異なる年齢(57歳や67歳)を答えるなどした。なお,公証人からは,他に,肯定か否定で答えられないような質問も格別なされず,また,被相続人の方からも,積極的に何か言うこともなかった。

被相続人の右手は,著しい浮腫が認められ,ペンを持つことが困難であると見受けられたため,本件遺言公正証書の被相続人署名欄への署名は公証人が代署した。(前記前提となる事実(3)ク,甲22,23,24の3,56,乙7及び8の各1・2)

2 前記認定事実によれば,確かに,被相続人は,遺言する意思を有し,自己の遺産の配分等について,遅くとも平成22年1月ころより検討していたことが認められる。しかしながら,被相続人は,進行癌による疼痛緩和のため,同年2月末ころから,慶應義塾大学病院より麻薬鎮痛薬を処方されるようになり,同年7月23日に同病院に入院した後は,せん妄状態と断定できるかどうかはともかく,上記の薬剤の影響と思われる傾眠傾向や精神症状が頻繁に見られるようになった。そして,本件遺言公正証書作成時の被相続人の状況も,公証人の問いかけ等に受動的に反応するだけであり,公証人の案文読み上げ中に目を閉じてしまったりしたほか,自分の年齢を間違えて言ったり,不動産を誰に与えるかについて答えられないなど,上記の症状と同様のものが見受けられた。加えて,本件遺言の内容は,平成22年1月時点での被相続人の考えに近いところ,被相続人は,同年7月に上記考えを大幅に変更しているにもかかわらず,何故,同年1月時点の考え方に沿った本件遺言をしたのかについて合理的な理由は見出しがたい。

以上のような本件遺言公正証書作成時ころの被相続人の精神症状,同公正証書作成時の被相続人の態様及び合理的な理由がないにもかかわらず,被相続人の直近の意思と異なる本件遺言が作成されていることに鑑みると,被相続人は,本件遺言公正証書作成時に遺言能力を欠いていたと認めるのが相当である。

3(1)この点,控訴人らは,被相続人が,①平成22年7月31日に,看護師に対し,公証人など病室に招き入れて差し支えないかを確認し,あらかじめその同意を得ていたこと,②同年8月1日に,被控訴人,控訴人花子,同葉子及び(本件遺言公正証書の証人となった)春野らに対し,本件遺言公正証書の内容を説明したところ,被控訴人は異議を述べなかったこと,③同月4日に,三菱東京UFJ銀行の行員2名を病室に呼んで,控訴人花子に借地権持分を贈与した練馬区桜台所在の不動産に係る増改築費用を支弁するため,(被相続人の)預金引出等の代理権を控訴人花子に委任したい旨を伝え,上記行員らが被相続人の意思を確認の上,控訴人花子の代理人就任を了解して所定の事務手続をしたことなどの経緯を持ち出して,本件遺言が被相続人の意思に合致しており,本件遺言公正証書作成時において,被相続人には遺言能力が認められた旨の主張をする。

(2)しかしながら,まず,上記①については,看護記録上(甲4),平成22年7月31日の欄に,そのような記載がないばかりではなく,同年8月10日に公証人が被相続人の病院に来た時のことについて,「従姉2人,姪,息子ではない男性,弁護士のような方が集まり」と記載されていることに照らしても,看護師において,事前に公証人などが来ることが説明され,これを了承していたとは認められない(なお,甲56によると,被控訴人は,同年7月31日に,被相続人が看護師に対して,資産運用管財人を呼べるかという質問をした事実はあったとしているが,いずれにせよ被相続人が看護師に対し,病室に公証人を呼ぶことの了解を得たとまでは認められない。)。

よって,控訴人らの上記①の主張は採用することができない。

(3)次に,上記②について検討するに,春野及び控訴人花子はこれに沿う陳述(乙11,12参照)及び証言(供述)をしている。また,控訴人花子が用意したノート(甲59の3参照。以下「本件ノート」という。)に被相続人を見舞った者が書き込んだ介護等の状況を春野がまとめた記録(乙3,証人春野。以下「本件記録」という。)の同日欄にもこれに沿う記載がある。そして,確かに,同年8月1日に,病室内に,被相続人,被控訴人,控訴人花子,同葉子及び春野がいる中で,被相続人の財産に関する話題が出たことまでは認められる(前記前提となる事実(3)キ)。しかしながら,本件ノートの同日欄には,被相続人が本件遺言公正証書の内容を話したとまで認められるような記載はない上,これを被控訴人が了解したとの記載も一切ない(甲59の3)。さらに,甲4の看護記録の同日欄においても「Family集まり会社の話等している。」との記載にとどまっている以上,控訴人らが指摘する上記各証拠から,直ちに,被相続人が,被控訴人や控訴人花子,同葉子らに対し,本件遺言公正証書の内容を説明し,被控訴人がこれに異議を述べなかったことまで認めることはできず,この他に,これを認めるに足りる的確な証拠はない。

よって,控訴人らの上記②の主張は採用することができない。

(4)上記③については,確かに,本件記録の同月4日の午前9時10分欄にこれに沿う記載がある。しかし,その元となった本件ノートの同日欄は破られて存在せず(甲59の3),甲4の看護記録の同日欄にも銀行員がきた旨の記載がない(甲4)ことからすると,そもそもそのような事実があったのか疑わしいところである。この点を措くとしても,上記看護記録には,同日午前9時の被相続人の状況として「氏名,生年月日いえるが,失見当あり。」との記載があるところであるから,仮に,控訴人らが主張するようなことがあったとしても,それをもって,本件遺言が被相続人の意思に沿うとか,当時,同人に遺言能力があったということにはならないというべきである。

よって,控訴人らの上記③の主張は採用することができない。

(5)控訴人らは,上記以外にも,本件遺言公正証書作成時に,被相続人に遺言能力があったとして縷々主張するが,いずれも採用することはできない。

第4 結論

以上によれば,被控訴人の請求は理由があるから認容すべきであり,これと同旨の原判決は相当である。よって,本件各控訴は,いずれも理由がないから,これを棄却することとする。

(裁判長裁判官 難波孝一 裁判官 中山顕裕 裁判官 飛澤知行)

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