東京高等裁判所 平成25年(ネ)3891号 判決 2014年1月29日
控訴人(原告)
リーマン・ブラザーズ証券株式会社
同代表者代表清算人
A
同訴訟代理人弁護士
飯塚孝徳
同
高尾和一郎
同
福森亮二
同
田中信隆
同
江見弘武
被控訴人(被告)
野村信託銀行株式会社
同代表者代表執行役
B
同訴訟代理人弁護士
相原亮介
同
藤原総一郎
同
植田利文
同
井上愛朗
同
有井友臣
同
高木新二郎
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は、控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人に対し、11億0495万3136円及びうち11億0455万1192円に対する平成20年10月1日から支払済みの前日まで2パーセントを365で除した割合を日利とする各日複利の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は、第1、2審を通じ、被控訴人の負担とする。
4 仮執行宣言
第2事案の概要等
1 事案の要旨
本件事案の概要は、次のとおりである。控訴人と被控訴人は、通貨オプション取引及び通貨スワップ取引に関する基本契約を締結し、上記各取引を行っていた。控訴人は、被控訴人に対し、上記基本契約の約定により上記各取引が期限前である平成20年9月15日に自動的に終了したと主張して、上記基本契約に基づき、上記各取引の時価額と、再構築コスト及び未決済プレミアムの合計額との差額に当たる清算金11億0811万1192円と、これに対する同月30日までに発生した確定約定遅延損害金40万3239円及び同年10月1日から支払済みの前日までの約定遅延損害金の支払を請求した。これに対し、被控訴人は、上記清算金額を争うとともに、上記清算金支払債務は、上記基本契約に基づき、被控訴人の関係会社が控訴人に対して有する債権を自働債権とし、控訴人の上記清算金支払請求権を受働債権とする相殺により消滅したと主張して、請求を争った。
原審は、上記相殺を認め、控訴人の請求を棄却したところ、これを不服とする控訴人が、請求を減縮し、上記第1の2記載の限度での請求の認容を求めて控訴した。
2 前提事実、争点及びこれに関する当事者双方の主張は、下記(1)のとおり補正し、(2)及び(3)のとおり当事者双方の当審にける主張を付加するほかは、原判決の「事実及び理由」中の「第2 事案の概要」の1及び2に記載のとおりであるから、これを引用する。
(1) 原判決の補正
2頁25行目の「原告は、」の後に次のとおり加える。
「米国法人を親会社とするリーマン・ブラザーズグループの」
(2) 控訴人の争点①(本件清算金支払債務の金額等)に関する予備的主張
(控訴人)
仮に、平成20年9月16日が損害算定の基準日と認められない場合、控訴人は、予備的に、被控訴人が非期限の利益喪失当事者として決定する損害について、次のとおり主張する。
債務不履行時の損害賠償において債権者の過失あるいは損害軽減義務違反として損害を拡大させたり、損害の発生を回避ないし減少させる措置を講じることを怠ったことが考慮されていることや衡平法上の原則に照らすと、上記損害は、実際に再構築した際の再構築価格、すなわち再構築時に実際に授受されたプレミアムの金額とするのが相当である。被控訴人は、代替取引を再構築したことにより8億5062万6100円を受領しているから、これが再構築価格となる。したがって、被控訴人が控訴人に対して支払うべき金額は、上記再構築価格から未決済プレミアム53万4490円及び弁護士費用81万1200円を控除した8億4928万0410円、上記再構築価格から未決済プレミアムを控除した8億5009万1610円に対する平成20年9月15日から同年10月1日までの間のノン・ディフォルトレート年利0.83パーセントを365で除した割合を日利とする各日複利の割合による確定遅延損害金30万9346円及び上記8億4928万0410円に対する平成20年10月2日から支払済みの前日までの間のディフォルトレート年利2パーセントを365で除した割合を日利とする各日複利の割合による確定遅延損害金となる。
(被控訴人)
争う。上記主張は、ISDAマスター契約が定める損害の定義から外れたものである。
(3) 被控訴人の争点②(本件相殺の有効性)に関する追加主張
(被控訴人)
被控訴人は、本件相殺条項の法的性質に関し、選択的に、次のとおり主張を追加する。
本件相殺条項は、被控訴人と控訴人が、本件基本契約において、被控訴人の関係会社である野村證券の有する控訴人に対する債権と、控訴人の有する被控訴人に対する債権とを対当額で清算することを合意した相殺契約であり、本件相殺はこの相殺契約に基づき債権債務を清算したもので、有効である。
(控訴人)
争う。本件相殺条項が相殺契約であるとしても、当該相殺契約は、契約当事者ではない野村證券の同意がなければ効力が生じない。仮に、有効であったとしても、再生債権者ではない者が行う相殺であり、民事再生法92条の要件を充たしておらず、実質的にみて同法の相殺禁止規定の趣旨に反する相殺であり、相殺の効力は認められない。
第3当裁判所の判断
当裁判所も、控訴人の請求は、理由がないと判断する。その理由は、下記1のとおり補正し、2及び3を付加するほかは、原判決の「事実及び理由」中の「第3 当裁判所の判断」に説示するとおりであるから、これを引用する。
1 原判決の補正
39頁6行目冒頭から45頁8行目末尾までを次のとおり改める。
「(2) 本件相殺条項について
ア 本件相殺条項は、通貨オプション取引及び通貨スワップ取引というデリバティブ取引の当事者である清算前の控訴人(以下、清算の前後を問わず「控訴人」という。)と被控訴人が、上記各取引の基本契約締結の際に、当事者のいずれかが再生債務者となった場合に、再生債務者となった者に対して債務を負うこととなった者が、その関係会社において再生債務者となった者に対して有する債権を自働債権として相殺することを認めるものといえる。そして、本件は、本件相殺条項に基づき、再生債務者となった控訴人に対し債務を負うこととなった被控訴人が、その関係会社である野村證券の控訴人に対して有する野村清算金債権を自働債権として、本件相殺をしたものである。
被控訴人は、本件相殺条項について、選択的に、①本件相殺条項は、関係会社である野村證券が同意することを停止条件として、野村證券の有する債権の債権者を野村證券から被控訴人に交替させることを内容とする、債権者の交替を定めた更改契約又はこれに類する非典型契約に当たる、②本件相殺条項は、被控訴人の関係会社である野村證券が控訴人に対して有している債権と、控訴人が被控訴人に対して有している債権とを対当額で清算することを合意した相殺契約に当たると主張する。しかし、更改契約は、新旧債権者及び債務者の三者間の合意により成立するところ(大審院明治43年(オ)第13号同年2月10日第一民事部判決・民録16輯76頁)、本件では旧債権者に当たる野村證券は本件基本契約の当事者ではない。また、当事者の更改意思が特に明白な場合のほかは、更改契約の成立を認めるのは相当でないところ(大審院昭和7年(オ)第885号同年10月29日第四民事部判決・新聞3483号17頁参照)、本件相殺条項においては、当事者の更改意思が明白であるとまではいえない。そうであるとすると、本件相殺条項が更改契約又はそれに類する非典型契約を定めたものと解することは困難である。
他方、本件相殺条項は、控訴人と被控訴人とが本件基本契約において合意した契約であるところ、その内容は、双方の関係会社を含めての債権債務の相殺を認めるものである。この点につき、控訴人は、相殺により関係会社の債権を消滅させることになるのに、その旨についての関係会社の同意がない上、本件相殺条項が関係会社の同意の有無を問題としていないことによれば、本件相殺条項は無効であると主張する。しかし、当事者間の合意により成立した契約については、契約自由の原則により、当事者間において何らかの合理性の下で合意したものとみるのが相当である。したがって、当該契約の解釈上、何らかの要件を加えることが可能であり、これにより契約の趣旨、目的を達成することが可能であるならば、そのような解釈を行うことで当該契約の効力を認めるのが相当である。そうであるとすると、控訴人の上記指摘をもって直ちに私法上効力がないとまでいうことは相当ではない。そこで、以下、本件相殺条項が合意された趣旨、目的について検討することにする。
イ まず、本件相殺条項は、デリバティブ取引の当事者間で合意されたものである。デリバティブ取引は、一定の割合を証拠金として供託することで、一定幅の価格変動リスクを他の業者や市場参加者に譲渡するリスクヘッジ契約の一種であり、基礎となる商品(原資産)の変数の値(市場価値あるいは指標)によって、相対的にその価値が定められるような金融商品による取引であるから、取引当事者間の債権債務が日々刻々変化する上、取引終了までは債権債務がいずれにどのように発生するか判然としない取引である。そうであるとすると、取引当事者において契約前終了事由が生じるような場合には、リスク管理が重要な問題となるということができる。
次に、本件相殺条項の当事者である控訴人は、世界有数の金融グループであったリーマン・ブラザーズグループに属する証券会社であり、他方被控訴人も、同じく世界有数の投資銀行・證券持株会社である野村ホールディングス株式会社の100パーセント子会社であり、いずれも持株会社を頂点とする分社化が進んだ企業グループの一員である。このような企業グループは、効率的な経営のため持株会社の設立や分社化が進んだ現在ではしばしばみられるものであり、グループ内の会社は、相互に、あるいは持株会社の信用を法的に又は事実上利用することで、より効率的な経営が図れるものといえる。そうであるとすると、グループ企業間におけるデリバティブ取引においては、グループ内の企業や持株会社の信用をも利用してより高額な取引を行うことが可能である一方、グループ全体でのリスク管理、リスク分散の要請も高いというべきである。そして、本件相殺条項における関係会社は、人に関してその人に直接的又は間接的に支配を受ける法的主体、直接的又は間接的にその人を支配する法的主体、又は直接的又は間接的にその人と共通の支配下にある法的主体をいうとされ、支配とは、法的主体又は人の議決権の過半数を所有することを意味するとされており(本件マスター契約14条)、上記それぞれの属する企業グループ内の会社をいうものと解される。
以上によれば、本件相殺条項は、当事者間において、相当の合理性をもって合意されたものと認めるのが相当である。そして、相殺により契約当事者ではない関係会社の債権を消滅させることについては、少なくとも当該関係会社の同意があれば、これを認めることが可能であるといえる。したがって、本件においては、本件相殺条項は、非期限の利益喪失当事者に対し、期限前終了事由が発生することと、非期限の利益喪失当事者が、関係会社の同意を停止条件として、関係会社を含めて債権債務の相殺を行う権限を認めた規約として合意されたものと解するのが相当であり、当該判断を覆すに足りる証拠は存在しない。
(3) 本件相殺の有効性について
本件取引は、平成20年9月15日に期限前終了事由の発生により終了し、その後控訴人について同月19日午後5時に民事再生手続開始決定がされているところ、本件相殺は同年10月2日にされたものであり、野村證券が本件相殺に同意している旨の通知書も、同日に控訴人に到達している。そうであるとすると、本件相殺が民事再生法上有効といえるかどうかが問題となる。
この点について、控訴人は、民事再生法は、対立当事者間に債権債務が存在している状況にある民法上の相殺制度を前提として、再生手続における債権者間の公平を維持するため、相殺を規律する規定を設けているのであるから、同一の企業集団に属するとはいえ、別個の法主体である第三者の債権債務を直接相殺するような本件相殺を認めることは、上記民事再生法の規律を潜脱するものであり許されず、本件相殺は、民事再生法93条の2第1項1号又はその類推適用により無効であると主張する。他方、被控訴人は、本件相殺は相殺契約に基づくものであり、民事再生法が前提とする対立当事者間に債権債務が存在している状況における相殺ではないから、民事再生法の相殺の規律に関する規定は適用されないと主張する。
そこで検討するに、確かに、本件相殺は、対立当事者間に債権債務が存在している状況における相殺ではない。しかし、目的物の授受を省略して差引計算を行い清算を行うという点ではいずれも同じであることによれば、本件相殺が被控訴人がその関係会社の債権を自働債権とするものであることをもって、直ちに民事再生法が前提としていない相殺であるとまでいうことはできない。そうであるとすると、このことをもって直ちに民事再生法上許されない相殺であるとして本件相殺の効力を否定したり、民事再生法の相殺を規律する規定の適用を否定することは相当ではない。本件相殺の効力が認められるかどうかは、民事再生法が倒産法規の観点から相殺に関する規定を設け、再生債権者による相殺について制限を加えている趣旨に照らし、同法において許容されている相殺に当たるか否かという観点から検討するのが相当である。したがって、控訴人及び被控訴人の上記各主張は、いずれも採用することができない。以下、上記観点から、本件相殺の効力について、検討することにする。
ア 民事再生法92条は、再生債権者が、再生手続開始当時再生債務者に対して債務を負担する場合において、債権及び債務の双方が債権届出期間の満了前に相殺に適するようになったときは、相殺をすることができるとしており、再生手続開始後に相殺適状が生じた場合でも相殺することができることを認めている。そして、同法87条1項3号ホ、ヘでは、停止条件付債権又は将来の請求権も再生債権となるとし、同法92条は、これらの債権について再生手続開始後に相殺適状が生じた場合を除外していない。
他方、同法93条の2は、第1項1号で、再生手続開始後に、他人の再生債権を取得した場合には相殺をすることができないとし、同項2号ないし4号で、再生債務者の危機時期後に再生債権を取得した場合には原則として相殺をすることができないとしているが、第2項2号では、再生債務者が危機時期にあることを知った時より前に生じた原因に基づき再生債権を取得したときは、相殺をすることができるとしている。
以上によれば、民事再生法は、同法92条で再生債権者が再生手続開始当時再生債務者に対して債務を負担する場合の相殺の担保的機能や相殺の合理的期待を再生手続開始後においても保護する一方、同法93条の2第1項各号により、債務者が危機時期にあることを認識した後又は再生手続開始後に債権を取得して相殺をすることを認めないこととして再生債権者間の公平及び平等を確保しているものということができる。そして、民事再生法には、破産法67条2項、70条のように停止条件付債権等を自働債権として相殺することを認める明示的な規定は存在しないが、民事再生法の解釈において、破産法の上記各規定と異なる解釈をとる必要性が認められないことに照らすと、民事再生法は、停止条件付債権等を自働債権として相殺することを許容しているものと解するのが相当である。したがって、本件相殺が、再生手続開始時点において再生債権者が再生債務者に対して債務を負担している場合と同様、相殺の合理的期待が存在すると認められ、かつ、相殺が再生債権者間の公平、平等を害しない場合には、本件相殺条項に基づく本件相殺は民事再生法において制限される相殺には当たらないと解するのが相当である。
イ 本件においては、平成20年9月15日に本件期限前終了が発生したこと及び野村證券が同年10月1日付けの通知書で野村證券清算金請求権を本件相殺の自働債権に供することに同意し、同月2日にその通知書が控訴人に到達したことにより、同日の時点で、本件相殺条項の停止条件が成就し、被控訴人において野村證券清算金請求権を相殺に供する権限が与えられ、かつ、野村證券清算金請求権と本件清算金支払債務の相殺適状が生じたものと認められ、控訴人の再生手続が開始された同年9月19日より後に相殺適状が生じたものといえる。
ところで、上記(2)イで述べたとおり、本件相殺条項の合意時において、契約当事者である控訴人及び被控訴人が、本件基本契約に基づく取引に期限前終了事由が発生した場合において、関係会社である野村證券が控訴人に対して有する債権が相殺に供されること、すなわち、控訴人が被控訴人に対して有する債権と関係会社である野村證券が控訴人に対して有する債権とが相互に引き当てになり得ることについて、相互に十分に認識し、関係会社を含めたグループ企業同士で総体的にリスク管理をすることを企図していたことは明らかである。そして、上記本件相殺条項の趣旨、目的に加え、本件基本契約において、関係会社が上記のとおり定義されていることに照らすと、野村證券が被控訴人の関係会社に該当することは、被控訴人は当然に認識していたと認められるし、控訴人からも容易に認識し得たものと認めるのが相当である。
また、本件のように民事再生手続の申立てにより期限の利益喪失事由が発生した場合には、非期限の利益喪失当事者の関係会社が有する期限の利益喪失当事者に対する債権の実質的な価値は相当程度下落していることが一般的であること、関係会社は、当事者である控訴人、被控訴人と強固な支配関係で結ばれた会社であることに照らすと、本件相殺において関係会社の同意が必要であるとしても、当事者である控訴人と被控訴人においては、関係会社が相殺に供することに同意することは容易に想定できるというべきである。そして、本件においては、控訴人と野村證券との間の野村證券基本契約においても、被控訴人の関係会社である野村證券が控訴人に対して有する債権が相殺に供されることを予定した内容の三者間相殺を定めた条項が設けられており(前提事実(10)エ)、そして、本件で自働債権に供された野村證券清算金請求権は野村證券基本契約に基づいて行われた取引の清算により生じたものである。
さらに、被控訴人が第三者と締結したISDAマスター契約のスケジュールにおいても本件相殺条項と同様の相殺条項が設けられていること(乙15ないし19。枝番を含む。以下同じ。)、多数の金融機関がデリバティブ取引に関与しており、金融機関においては持株会社の設立等による分社化が進んでいたといえることに照らすと、本件相殺条項のような三者間の相殺を定めた契約は、分社化が進んだ金融機関におけるデリバティブ取引慣行といえる程度に広く用いられていたと推認するのが相当である。
以上によれば、本件においては、再生手続開始時点において再生債権者が再生債務者に対して債務を負担している場合と同様の相殺の合理的期待が存在すると認めるのが相当である。
ウ 控訴人は、野村證券の同意が被控訴人に到達したのは平成20年10月2日であり、被控訴人の危機時期以降であるから、本件相殺の効力は、民事再生法93条、同法93条の2第1項1ないし4号の趣旨に照らし、無効であると主張する。しかし、野村證券清算金請求権は、本件取引が期限前終了した段階で発生していたものであり、野村證券が控訴人の危機時期以降に再生債権を取得したということはできない。そして、本件相殺条項が上記のような趣旨、目的で合意され、本件相殺が上記のような相殺であることに照らすと、被控訴人が、本件相殺条項に基づき、野村證券の同意を得て本件相殺をしたことが、直ちに危機時期以降に取得した債権を自働債権として相殺したということはできない。したがって、控訴人の上記主張は採用することができない。
エ 控訴人は、本件の場合、被控訴人は再生手続開始時において控訴人に対する再生債権を有していないから、相殺の担保的機能は認められず、また、被控訴人において相殺の合理的期待を抱くことはあり得ないと主張する。しかし、本件相殺条項が上記のような経緯、趣旨で合意されたことに照らすと、被控訴人やその関係会社にとり、相殺の担保的機能が認められ、かつ、被控訴人やその関係会社において相殺の合理的期待を抱くものというべきであり、控訴人の上記主張も採用することができない。この点について、控訴人は、本件相殺条項は、債権債務が未確定の段階で合意されたもので、そもそも当事者には相殺に対する期待をすること自体合理的ではないと主張する。しかし、本件相殺条項は、上記のような趣旨目的で合意されたことに照らすと、終了時にならないといずれが債権債務を負うか確定しないデリバティブ取引におけるリスク管理のために合意されたものと認めるのが相当である。そうであるとすると、当事者及びその関係会社においては、相殺に対する期待をすることは十分合理的なものというべきであり、控訴人の上記主張も採用することができない。
オ 控訴人は、本件相殺条項を設けることは稀であり、取引慣行とまでいうことはできないし、本件相殺の効力を認めることは、再生債権者間の公平、平等を害するおそれがあると主張する。確かに、証拠(甲22)によれば、本件相殺条項のような条項は稀に見られるとする文献が存在することが認められる。しかし、本件相殺条項による合意は、ISDAマスター契約部分ではなくスケジュールとして合意されたものであるところ、証拠(乙29)及び弁論の全趣旨によれば、本件相殺条項を設ける旨の提案は控訴人側からされたものと推認され、控訴人は、デリバティブ取引の基本契約をISDAマスター契約を用いて締結するに際し、本件相殺条項をスケジュールとして提案していたものということができる。そして、控訴人を含むリーマン・ブラザーズグループが世界有数の金融グループとして多くのデリバティブ取引を行っていたことは公知の事実である。他方、証拠(乙15ないし19(枝番号を含む。以下同じ。))によれば、被控訴人も、他のデリバティブ取引において基本契約を締結する際にスケジュールとして本件相殺合意と同様の合意をしていることが認められる。そうであるとすると、リーマン・ブラザーズグループ及び野村グループの規模や金融業界における位置づけに照らし、本件相殺条項を合意することが稀であるとまで認めることはできないというべきである。
カ 控訴人は、米国の裁判所では、本件と同様の相殺の効力が否定されており、また、本件相殺のような三者間の相殺については、その法的効力が疑問視されていると主張する。確かに、証拠(甲41、42)によれば、米国の2つの連邦倒産裁判所が、三者間の相殺について、米国連邦倒産法553条の相互性の要件、すなわち、債務者の債権者に対する債権と債務者の債権者に対する債務は相互でなければならないとされる要件を欠き、認められない旨判断していることが認められる。しかし、民事再生法において、相殺について上記のような相互性の要件が要求されているとまで解釈することはできず、他の倒産法規においても同様である。そうであるとすると、上記米国の裁判例の存在をもって、直ちに本件相殺が無効であるとまでいうことはできない。
キ そもそも、本件相殺条項は、再生債務者である控訴人が再生手続開始前に自らの意思により自己の保有する債権を受働債権として将来の相殺のために供することを合意したものであるところ、控訴人の再生手続開始よりも1年以上前に合意されたもので、危機時期に相殺を目的として濫用的に締結されたものとはいえない。また、分社化した企業グループ同士が一括決済をするような行為は、他の者においても十分想定できる事態であるところ、とりわけ、本件においては、被控訴人と関係会社である野村證券とはいずれも持株会社の100パーセント子会社であり、強固な支配関係の下にある会社同士である。これらの事情に照らすと、本件相殺は、再生債務者に対して債務を負担する者が、再生手続開始後に、再生債務者の意思に基づくことなく他人の債権を譲り受けて相殺適状を作出した上で同債権を自働債権としてする民事再生法93条の2第1項1号により禁じられている相殺に類似するということはできず、むしろ被控訴人において自己の債権を自働債権としてする相殺に類似しているというべきである。そうであるとすると、本件相殺が再生債権者の公平、平等を害するとまではいえない。
そして、上記イのとおり本件相殺において相殺適状が生じた時点が債権届出期間の満了前であることによれば、本件相殺は、民事再生法93条の2第1項によって相殺が禁止される場合には当たらず、同法92条により許容されるものと解するのが相当であり、同法85条により相殺が無効となると解することもできない。
ク その他、控訴人は種々主張して本件相殺条項の効力及び本件相殺の効力を否定するが、いずれも上記判断を左右するものとはいえない。」
2 控訴人の当審における予備的主張について
控訴人は、前記第2の2(2)記載のとおり、被控訴人が非期限の利益喪失当事者として決定する損害については、実際に代替取引を行ったことにより生じた実損害よりも大きい金額の評価損を請求することは相当ではなく、再構築した際の再構築価格、すなわち再構築時に実際に授受されたプレミアムの金額とするのが相当であると主張する。
しかし、上記損害の決定は、本件損害定義規定等に基づく約定損害として約定に基づいた方法で決定されたものである。そうであるとすると、被控訴人が約定に基づいてした決定が善意で合理的であれば、これを損害賠償の一般原則等に基づき修正することは相当ではない。これを本件についてみるに、ISDAマスター契約ないしこれに基づいてされた本件基本契約における本件損害定義規定等によれば、被控訴人がした損害の決定及びこれを修正した原審の損害の認定が、本件基本契約で約定された損害の定義に外れたものということはできない。したがって、控訴人の上記主張は採用することができない。
3 その他、控訴人は縷縷主張するが、いずれも上記補正後の原判決の判断を左右するものとはいえない。
第4結論
以上によれば、控訴人の請求は、理由がないから棄却すべきであり、これと同旨の原判決は相当である。
よって、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 難波孝一 裁判官 野口忠彦 飛澤知行)