東京高等裁判所 平成3年(う)478号 判決 1992年6月17日
本籍
群馬県館林市大街道三丁目六七一番地
住居
同市大街道三丁目一番八号
税理士
山﨑昭
昭和三年二月二〇日生
右の者に対する法人税法違反被告事件について、平成三年三月二五日前橋地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官小谷文夫出席の上審理し、次のとおり判決する。
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人山田一郎及び同大森勇一連名の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官小谷文夫名義の答弁書にそれぞれ記載のとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意中、事実誤認を主張する論旨について
所論は、要するに、以下のようにいうのである。すなわち、《原判決は、被告人が税理士として税務申告書類の作成等を引き受けていた株式会社中村電線工業(以下「中村電線」という。)の取締役中村元(以下「中村」という。)と共謀の上、同社の業務に関し、架空仕入れや架空外注費を計上するなどの方法により所得を秘匿した上、虚偽過少ないし欠損の法人税確定申告書を館林税務署長に提出し、同社の昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の法人税をそれぞれ逋脱した旨認定した。しかし、被告人が中村の依頼に応じて脱税に協力したような事実は一切なく、かえって中村らによる脱税に気付いた後は、税理士としての立場から同人を諌め、脱税を思い止まらせようとしていたのであるから、被告人が右のような有罪認定を受けるいわれは全くない。原判決は、永島みや(以下「永島」という。)の検察官に対する各供述調書(以下検察官に対する(各)供述調書を「検面調書」という。)並びに証人中村元の原審公判廷における供述及び原審第二ないし第四回公判調書中の各供述部分(以下「中村の供述」という。)を双軸に据えて右有罪認定をした。しかし、永島は、被暗示性の強い性格の持主である上、生まれて初めて身柄を拘束されたため、取調べ検察官に迎合して、被告人から指示されて架空仕入れや架空外注費をコンピューターに入力して総勘定元帳を改ざんするなどの所得秘匿工作をした旨虚偽の供述をしたものであるから、永島の検面調書は信用することができない。また、中村は、被告人が中村電線の乗っ取りを策したなどと邪推し、被告人に対し強い悪感情を抱いていた上、被告人を脱税の共犯者に巻き込むことにより自己の刑責の軽減を図った者であるから、中村の供述も信用することができない。実際、中村の供述は重要な点で客観的証拠ないし事実と矛盾相反しており、同人が虚偽の供述をしていることが明らかである。また、永島の検面調書についても、同様の問題点が存する。したがって、これらの証拠から、被告人の脱税関与の事実を認定することはできないのに、これを肯認した原判決は事実を誤認したものであり、この誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかである。》というのである。
そこで、原審記録及び証拠物を調査して検討するに、以下に説示するとおり、永島の検面調書中、永島が、昭和六〇年一〇月末ころ及び翌六一年六月上旬、被告人から指示され、中村電線の昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期について、それぞれ架空外注費及び架空仕入れを計上して利益を圧縮した旨供述している部分は十分信用することができる。また、中村の供述中、中村が、昭和六〇年一〇月二八日ころ、被告人に対し、中村電線の同年八月期の法人税の確定申告に関し、申告利益を一〇〇〇万円未満とする虚偽過少の法人税確定申告書の作成を依頼したところ、被告人がこれを承諾し、所得金額を八九二万円余りとする確定申告書を作成してくれたとする部分、昭和六一年六月、株式会社サーモテック(中村電線の子会社。以下「サーモテック」という。)に税務調査があった際、被告人の主導により、赤字会社である同社については中村電線に対する架空売上を計上し、黒字会社である中村電線については、これに対応する架空外注費を計上したほか、これとは別個の架空外注費及び架空仕入れをも計上し、同社の同年八月期の利益を圧縮する経理操作をした上、同年一〇月末ころ、欠損金額を八五七万円余りとする確定申告書を作成してくれたとする部分、右に関連する事実として、中村が被告人に対し四回にわたり合計九一〇〇万円又は八七〇〇万円の現金を渡した経緯につき述べる部分は概ね信用することができる。そして、これらを含む原判決挙示の証拠を総合すれば、被告人による脱税の共謀の事実を含む原判示罪となるべき事実を優に認定することができ、原判決に所論のような事実の誤認があるとは認められない。
以下、所論にかんがみ、敷衍して説明する。
一 永島の検面調書の信用性について
永島の検面調書の信用性については、既に原判決がかなり詳細に説示しているところであり、その説示は、概ね正当として是認することができる。所論にかんがみ、若干補説すれば以下のとおりである。
永島の検面調書には、永島が、昭和六〇年一〇月末ころ、被告人からメモを示され、これに基づきコンピューターに保存された中村電線の総勘定元帳の記載事項中、昭和六〇年八月期の外注費と仕入れについて、金額の増額や新たな取引の月日、金額等の入力を行った状況や、翌六一年六月には、中村の経営するサーモテックに税務調査が入ったのを契機に、被告人からメモを示され、これに基づき前年一〇月末にしたと同様に、総勘定元帳の昭和六一年八月期の外注費と仕入れの金額の増額修正やこれまでなかった取引を追加してコンピューターに入力したほか、中村の妻中村みどりを事務所に呼び、同事業年度分及び前事業年度分について、同人に修正した総勘定元帳の記載に一致するように現金出納残高式伝票や外注費支払帳等に追加記入させたり、従前の現金出納残高式伝票を破棄して新たに書き直させたり、これらに対応する領収書を作成させて届けさせるなどし、また、サーモテックの事務員松本一美(以下「松本」という。)にも同様の作業をさせた状況等が具体的かつ詳細に供述されているところ、右供述は、永島が中村みどりに右作業を指示するために作成した「K中村 外注支払台帳」と題する書面(当庁平成三年押第一二三号の6。以下「外注支払台帳」という。)、中村電線の昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の総勘定元帳(前同押号の38、34)、同会計伝票綴(同押号の39、35)、外注費ノート(同押号の37)、外注費支払帳(同押号の36)、サーモテックの昭和六一年一〇月期の会計伝票綴(同押号の30)等の客観的証拠を踏まえたものであって、これらの証拠物と符合していることはもとより、中村の供述、原審第七、第八回公判調書中証人中村みどりの各供述部分(以下「中村みどりの供述」という。)、原審第五回公判調書中の証人松本一美の供述部分(以下「松本の供述」という。)とも一致していること、関係証拠によれば、永島が検面調書中で述べる右増額あるいは新規に計上した外注費(月一回の小口集計分及びサーモテックへのコネクター検査等依頼分。但し、以下、単に「外注費」というときには、原則として右月一回の小口集計分をいうものとする。)及び仕入れはいずれも架空のものであることが明らかであること、また、原判決も指摘するように、永島の供述中には、同人が供述しない限り判明しなかったと思われる事項も含まれていること、更に、永島は被告人の妻山崎キミの妹で、昭和五一年ころから被告人の経営する山崎税務会計事務所に事務員として勤務し、被告人とその家族に恩義と親近感を抱いている者であり、容易に被告人に不利益な虚偽の供述をするとは考えられないこと等に照らすと、永島の検面調書中、同人が被告人からの指示に基づき中村電線の昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の外注費(昭和六一年八月期のサーモテックへのコネクター検査等依頼分を含む。)及び仕入れについて金額の増額や新たな取引をコンピューターに入力するなど架空費用の計上以外には考えられない作業をした旨供述している部分は十分信用に値するものというべきである。
これに対し、永島は、原審公判廷において(原審第六、第七回公判調書中証人永島みやの供述部分)、前記検面調書の供述を変更し、昭和六〇年一〇月末に中村電線の同年八月期の外注費及び仕入れの金額等を修正したのは、被告人から指示されてしたものではなく、中村から、未計上の外注費等があると言われてしたものであり、翌六一年六月に外注費や仕入れの金額等を修正したのも同様であって、コンピューターへの入力のし直し、伝票や請求書等の証憑書類の作成指示等は単に形式を整えたものに過ぎない旨、また、検面調書中の供述については、夢中で、気が動転していたため、その内容が自分が実際に述べたのと違う内容になっているのに気付かなかったとか、検察官から「いろいろ話してくれれば裁判にも出さない。」と言われたので適当に述べたなどと供述している。しかし、右公判供述は、内容自体不自然であるばかりでなく、前記のように詳細かつ具体的にした供述を虚偽とする理由としては、具体性に欠け、著しく不十分である。また、原審第一三回公判調書中証人岩槁義明の供述部分及び永島の昭和六三年一一月二一日付検面調書によれば、永島は、逮捕されるまでは、自己及び被告人の脱税への関与を否定していたが、同月八日逮捕され、岩槁検察官から、中村みどりに現金出納残高式伝票等を改ざんさせるため自ら記載した外注支払台帳等を示されて追及されるに及び、もはや否認し続けることはできないと観念し、自供するに至ったことが窺われるのであって、これらの点に照らすと、永島の原審公判廷での右供述は到底信用することができない。
ところで、所論は、原判決が、永島の検面調書の供述が取調べ検察官に迎合してなされた虚偽の供述であることを否定する根拠として、永島が、昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期については脱税関与の事実を認めながら、昭和五九年八月期についてはこれを認めなかった態度を挙げているのは、取調べの実態を無視したもので、失当であるとし、永島が同事業年度について脱税への関与を自白しなかったのは、同事業年度については、検察官が他の二事業年度ほどには永島を追及しなかったことの反映でしかないなどと主張する。
しかし、永島の検面調書の供述が検察官に迎合してなされたものであるなどとする永島の公判供述が措信し難いことは前記のとおりである。そして、永島が所論のような被暗示性の強い性格の持主であることを示す確たる証拠はない。また、所論が、検察官は昭和五九年八月期については、翌六〇年八月期及び同六一年八月期ほどには永島を追及しなかったというのは憶測の域を出ない主張である。かえって、証人岩槁義明の原審公判廷での前記供述、永島の昭和六三年一一月二一日付検面調書、大蔵事務官作成の原材料仕入高調査書謄本(三ないし五丁及び一二丁を除く。以下、除外部分の記載を省略する。)、同外注費調査書謄本(三ないし五丁及び三三丁を除く。以下、除外部分の記載を省略する。)その他の関係証拠によれば、中村電線では、昭和五九年八月期においても、架空外注費や架空仕入れを計上するなど、翌六〇年八月期及び同六一年八月期と同様の方法により所得を秘匿し、四〇〇〇万円を超える法人税を逋脱していたこと、そこで、検察官は、昭和五九年八月期についても被告人らの関与を疑い、永島を取り調べたが、同人の自白を得るには至らなかったこと、なお、この点に関しては、同事業年度の中村電線の経理関係及び被告人事務所との折衝を一手に引き受けていた中村の母中村きみが昭和六〇年九月一七日死亡したため、右所得秘匿の状況や被告人及び永島のこれへの関与の有無・態様について直接知る者は永島と被告人のみであり、永島らの否認の態度を虚偽とする確実な証拠がなかったことが認められる。すなわち、永島が昭和五九年八月期についての脱税関与を自白しなかったのは、同事業年度については、それを示す確たる証拠がなかったためではないかとみる余地もないではないのであって、いずれにしろ、右所論は採るを得ない。
次に、所論は、永島が、検面調書において、昭和六〇年八月期及び六一年八月期における外注費や仕入れの記載がある日の総勘定元帳の記載順序と現金出納残高式伝票の記載順序とが一致しないのは、後に外注費や仕入れの架空計上(金額の改ざんと追加記入)がなされたためであり、また、コンピューターから打ち出された総勘定元帳の記載順序とコンピューターへの入力順序との関係について、同一年月日内のものについては、入力の順序と印字の順序とが逆になるので、先順位で印字されている記載ほど後から入力されたものである旨供述している点について、右供述は、以下に指摘するような点において、客観的証拠と一致せず、内容的にも不合理性を包含しており、信用できない旨主張する。すなわち、《<1>永島は、検面調書において、昭和六〇年八月期に関し、ほとんどの月について外注費を一二〇万円上乗せした旨供述しているけれども、昭和五九年九月分の外注費を計上している同年一〇月一一日及び昭和六〇年一月分外注費を計上している同年二月一二日の各記載を見ると、総勘定元帳の記載順序と現金出納残高式伝票の記載順序は一致しており、その限りでは、永島の検面調書の供述はこれらの客観的証拠と一致しないことになる。<2>昭和五九年一一月分外注費を計上している同年一二月一〇日の記載では、総勘定元帳の記載順序と現金出納残高式伝票の記載順序は異なるが、総勘定元帳の外注費の記載は前から二番目になっており、最後に入力されたものではない。<3>永島の検面調書及び中村の供述その他の関係証拠に従えば、被告人は、昭和六〇年一〇月末ころ、中村から依頼され、永島に命じて、中村電線の同年八月期の所得に関し、外注費月一二〇万円の一年分一四四〇万円余り、仕入れについて大川電材分及び中島電線加工分を合わせた五五九三万円余り(控訴趣意書中に五六九三万円余りとあるのは誤記と認める。)を新たに架空計上するためコンピューターに入力させ、総勘定元帳を作り直させたことになるが、中村の供述及び被告人の供述では、中村電線の同事業年度の所得についての被告人の認識は、期末整理前の段階で四〇〇〇万円程度であったというのであるから、そのような認識を有する被告人が、期末整理に加え、合計七〇三三万円余り(控訴趣意書中に七一三三万円余りとあるのは誤記と認める。)にも及ぶ前記費用の架空計上を企てるなどということはおよそあり得ないことである。<4>昭和六一年八月期における総勘定元帳の外注費の記載順序をみると、昭和六〇年一一月九日、同年一二月一〇日、翌六一年二月一〇日、同年四月一〇日の各記載では、外注費はいずれも最初の記載とはなっておらず、現金出納残高式伝票でも最後の記載とはなっていない。また、これを同事業年度における仕入れについてみると、昭和六〇年一二月二三日については、総勘定元帳の冒頭に架空仕入れ先である明友の記載があるものの、現金出納残高式伝票でも冒頭に記載されており、昭和六一年三月二五日については、明友の記載は冒頭にないなど、永島が検面調書でいう法則からはずれた記載もかなり存する。<5>架空外注費及び架空仕入れについて、昭和五九年八月期の総勘定元帳の記載順序と現金出納残高式伝票の記載順序とをみると、昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の場合と同様、ほとんどの場合順序が異なっており、架空仕入れ中には、現金出納残高式伝票では最後に記載されているものが、総勘定元帳では最初に記載されている例がある。更に、架空外注費や架空仕入れの前後に記載される勘定科目の配列にも類似性がみられる。以上要するに、架空外注費及び架空仕入れについて、被告人の指示により架空外注費や架空仕入れの計上がなされたとされる昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の総勘定元帳及び現金出納残高式伝票の記載順序と、永島が同人及び被告人の関与を否定している昭和五九年八月期のそれらとを比較すると、それほど際立った差異はないのであって、永島が検面調書で指摘する前記記載順序の点が架空計上を示すものといえるかどうか疑わしい。<6>永島が検面調書において、架空外注費を月一二〇万円上乗せ計上したと供述している点にしても、既に昭和五九年八月期において同様の金額の外注費が計上されていたため、永島は、昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期については、経理に疎い中村や中村みどりが未計上のまま放置しているのではないかと考え、計上の仕方を教えてやったものである。》などというのである。
そこで、右所論指摘の諸点について順次検討する。
右<1>の主張の前提事実である昭和六〇年八月期の外注費について、架空でないもの及び中村きみが独自に架空計上したものに上乗せする形で概ね毎月一二〇万円が架空計上されていることは、大蔵事務官作成の外注費調査書謄本、中村電線の同事業年度の総勘定元帳(前回押回の38)、同会計伝票綴(同押号の39)その他の関係証拠から明らかであり、外注費の記載を含む所論指摘の日の総勘定元帳及び現金出納残高式伝票の各記載順序が同順序になっていることも所論のとおりである。したがって、その限りでは、右元帳及び伝票の記載順序は、永島が検面調書でいう、後から架空外注費や架空仕入れを計上すると、元帳と伝票間で記載事項に順序の不一致が生ずるとの指摘とは合致していないこととなる。しかし、永島の右指摘は、あくまでも元帳及び伝票の記載順序についての単純な基本を述べたに止まるのであって、条件設定の如何によっては、これと異なる結果が生じることを否定するものではない。ところで、同人の検面調書を仔細に検討すると、実際には、現金出納残高式伝票の空欄に追加記入する場合のほか、従前から存した伝票を破棄して新たに書き直したものもあったこと、殊に、外注費の上乗せの場合には、現金出納残高式伝票に既に記載されている外注費の金額全部を改ざんしなければならないが、それでは改ざんの事実が明白になってしまうため、外注費の記載のある伝票を破棄し、新たに書き直させていたことが述べられているのである。そして、所論指摘の各年月日分を含む外注費の記載のある現金出納残高式伝票が、昭和六一年六月、中村みどりにより書き改められたものであることは、中村の個々の現金出納残高式伝票の筆跡を点検しながら明確に供述している(原審第一九回公判)ところである。そうだとすれば、後に架空外注費の金額を上積み計上しても、総勘定元帳と現金出納残高式伝票との間で記載事項の順序に違いが生じない場合もあり得ることとなるから、所論指摘の日について、架空外注費の記載がある元帳と伝票との間に記載順序の違いがないとの点は何らこれを異とするに足りないのであって、右は永島の検面調書における供述の破綻を示すものではないといわなければならない(かえって、右所論指摘の日における総勘定元帳では、両日もと外注費が冒頭に印字されており、後日改ざんされた可能性が示されている、というべきである。)
右<2>の指摘は、総勘定元帳の昭和五九年一二月一〇日の記載では、外注費が前から二番目に来ている、というものであるが、永島の検面調書によれば、架空費用の計上以外の理由でも、総勘定元帳や現金出納残高式伝票が後日訂正されることが稀ではなかったとのことであり、そうだとすれば、右の点は何ら異とするに足りないというべきである。
右<3>の指摘は、被告人は、中村電線の昭和六〇年八月期における期末整理前の所得を四〇〇〇万円程度と認識していたのであるから、七〇三三万円余りにも及ぶ架空費用の計上を永島に指示するはずがないというものであるが、後に詳述するように、被告人が中村電線の昭和六〇年八月期の期末整理前の所得を四〇〇〇万円程度と認識していたとの点は否定されるべきであるから、所論はその前提を欠くというべきである。
右<4>の指摘は、昭和六一年八月期においては、外注費が総勘定元帳の冒頭になく、かつ、現金出納残高式伝票の末尾にない月の方が多く(永島の検面調書でも改ざんの対象とされなかったとされる昭和六一年五月以降分は検討外とする。)、架空仕入れについても、総勘定元帳の冒頭に記載されていないものがあるなどというものである。しかし、永島の検面調書及び外注支払台帳によれば、同事業年度の同年四月までの分については、同年六月上旬ころ、関連会社であるサーモテックの調査に絡んで、念入りに総勘定元帳記載事項のコンピューターへの入力のし直し、それに合わせた現金出納残高式伝票の改ざん等が行われたとのことであり、その作業状況については、中村みどり、中村、松本、当時サーモテックの専務取締役であった渋谷豊(原審第九回公判調書中証人渋谷豊の供述部分)も具体的に供述しているところであって、このような事実の存したことが明らかである。また、前記のとおり、架空費用の計上以外の理由から総勘定元帳や現金出納残高式伝票が後日訂正されることがあったことをも併せ考慮すれば、右指摘の点も、永島の検面調書の信用性を何ら損なうものではない。
右<5>の指摘は、永島が検面調書でも被告人らの関与を否定する昭和五九年八月期における総勘定元帳と現金出納残高式伝票の架空外注費と架空仕入れの記載順序等と、被告人らが関与したとされる昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期におけるそれらとの間にそれぼと際立った差異が認められないなどというものである。しかし、先に言及したように、中村電線の昭和五九年八月期における経理処理や被告人事務所との折衝状況については、中村電線側にあってこれを一手に引き受けていた中村きみが死亡したこともあって、十分な解明が行われているとは到底いい難く、同事業年度における総勘定元帳と現金出納残高式伝票の架空外注費と架空仕入れの記載順序等についても不明な点が多いことからして、同事業年度の総勘定元帳等の記載順序等は、昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期におけるそれらについての事実認定の当否を判断するための基準とはなし得ないものといわざるを得ない。更にいえば、中村は、委細は承知していないが、母中村きみは脱税をするのに被告人の協力を得ていた様子である旨供述し、中村きみの弟今井信昭や中村きみの妹前島律子もこれに副う供述をしていること(原審第九回公判調書中証人今井信昭及び同前島律子の各供述部分)や、所論指摘の総勘定元帳及び現金出納残高式伝票の記載状況、昭和五九年八月期における所得秘匿の方法等に照らすと、永島や被告人の否定にもかかわらず、中村電線の同事業年度の脱税についても、被告人らによる何らかの関与があったのではないかとの疑念が全く生じないわけではない。それ故、いずれにしても、右所論指摘の点は、昭和六〇年八月期以降の脱税について述べる永島の検面調書の信用性を損なう事由とはなし得ないものといわなければならない。
右<6>の所論は、永島が、昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期において被告人の指示により計上したとされる月一二〇万円の架空外注費に相当する金額の外注費が昭和五九年八月期において既に計上されているのを知っており、かつ、それが架空のものであることは知らなかったことを前提ないし根拠とするものである。しかし、所論のいう昭和五九年八月期における合計一六一〇万円の架空外注費の存在は、大蔵事務官作成の外注費調査書謄本においてこそ明確であるものの、現金出納残高式伝票では、これらの金額は他の架空あるいは実際に存した外注費との合計金額として記載されているのである(昭和五九年八月期の合計伝票綴(前同押号の52)、永島の昭和六三年一一月二一日付検面調書)から、永島が架空計上の事実を知っていない限り、その存在を知ることは困難であり、所論が立論の根拠ないし前提としているような事実が存したかどうかは極めて疑わしい。また、永島は、原審において、右所論に副う供述をしてるけれども、同供述は、外注支払台帳や総勘定元帳、現金出納残高式伝票等に基づき、架空外注費の計上を指導したとする検面調書の供述と対比して到底信用することができない。すなわち、右所論は、その前提ないし根拠となる事実を認めることができないから、採用に由ないものといわざるを得ない。
以上のとおり、永島の検面調書中、永島が、昭和六〇年一〇月末ころ及び翌六一年六月上旬ころ、被告人から指示され、中村電線の昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の外注費(同事業年度のサーモテックへのコネクター検査等依頼分を含む。)及び仕入れについて架空費用の計上以外には考えられない金額の上乗せや取引の追加等を行った旨供述している部分は、総勘定元帳や現金出納残高式伝票等の客観的証拠に基づく詳細かつ具体的なもので、客観的証拠と符合することは勿論、内容的にも何らの不合理性も包含するものではないから、十分信用できるというべきであり、その信用性に疑問があるとする所論は理由がない。
二 中村の供述の信用性等について
中村の供述の信用性についても、既に原判決がかなり詳細に説示しているところであり、その説示は、中村が昭和六〇年一〇月二八日ころ被告人から「今期は四〇〇〇万円位利益が出ている。」と告げられたとの供述の信用性を肯定する部分を除き、概ね正当として是認することができるが、所論にかんがみ、中村の供述中、被告人の脱税への関与を示す部分を中心に、被告人の供述と対比しつつ、その信用性について検討する。
中村の供述、原審第一〇回公判調書中証人真下尚久の供述部分、袋入り告訴状の写し等一袋(前同押号の2)、その他の関係証拠によれば、以下の事実が認められる。すなわち、中村は、昭和六一年秋ころになって、被告人から中村電線を解散して新会社を設立するよう勧告されたが、知り合いの税理士の話等からしても、解散が自己に有利な選択であるとは到底思われず、被告人が会社の乗っ取りを策しているのではないかと疑い、また、この一年間ほどの間に必ずしも納得のいかない経過で前後四回にわたり合計八七〇〇万円又は九一〇〇万円もの現金を被告人に渡す羽目になり、これも被告人に取り込まれてしまうのではないかとの不安を抱いたことから、弁護士を立てて被告人と交渉した結果、中村電線やサーモテック、株式会社関東電線の税務会計を被告人事務所に依頼していたこれまでの関係を解消し、同年一二月一日、被告人から、右八七〇〇万円の現金並びに右各会社の会計帳簿及び証憑書類等の返還を受けた。右に至るまでの間、中村は被告人との対応に苦しみ、相談を持ちかけた税理士の真下尚久に「被告人と刺し違えて死にたい。」とまで言ったことがあった。その後の昭和六二年二月、中村電線に館林税務署の調査が入り、同年六月には関東信越国税局の査察が入り、中村は大蔵事務官からの質問調査を経て、昭和六三年一〇月ころから同年一一月まで検察官の取調べを受けることとなった。そこで、中村は、検察官に対し、中村電線の昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の脱税については被告人の指導を受けた旨、本件において証人として証言したのと概ね同内容の供述をした。そして、中村は、中村電線の昭和五九年八月期の脱税については中村の単独犯行として、昭和六〇年八月期及び翌六一年八月期の脱税については被告人との共同犯行として起訴された。以上の事実を認めることができる。そして、右事実に徴すると、中村が被告人に対し強い悪感情を抱いていることが窺われ、また、中村電線の脱税にかかる刑事責任についての中村、被告人それぞれの防御が相反していることも明らかであるから、中村の供述の信用性の検討にあたっては、右の点からの考察を忘れてはならないことは、所論のとおりである。
しかし、中村の供述中、原判決が要約摘記した部分(前記除外部分を除く。)は、具体的かつ詳細で、客観的証拠や他の関係者の供述とも大筋において一致する一方、これと対応する各点についての被告人の供述が不自然、不合理で信用し難いことに照らし、概ね信用することができる。
所論は、中村のこれらの供述部分の信用性につき、縷々疑問を提起しているので、以下順次判断する。
第一に、所論は、中村の供述中、「昭和六〇年八月一二日、被告人との話合いの中で、中村電線の利益隠しのため架空仕入れ先の口座を作ることになり、翌日、大東京信用組合押上支店に松田泰名義の口座を開設して六万〇八一二円を入金し、被告人の指示により、同月二一日一二五五万六三〇〇円を中村電線振出の小切手で入金した上、同年九月三日七〇〇万円を引き出して被告人に交付した」とする部分について、次のように主張する。すなわち、《中村電線では、松田泰名義の口座を開設する以前から赤石通商名義の架空領収書を作成して脱税に利用していた前歴があり、架空口座の開設につき被告人の指示を待つまでもなく、独自にこれを実行できた。また、口座の新規開設と同時に小切手を入金するような手口ではすぐ税務署に気付かれてしまうから、かつて税務職員として税務調査に携わり、税理士としても経験豊富な被告人がそのような拙劣な方法を指示するはずがない。被告人が入金させ、払い戻させたという金額決定の理由や時期選択の理由も判然としない。》というのである。
そこで、右所論について検討するに、大東京信用組合押上支店支店長作成の証明書によれば、松田泰名義の預金口座が設定させた日は昭和六〇年八月一三日であり、申込み時に六万〇八一二円が入金され、同月二一日一二五五万六三〇〇円が小切手で入金され、同年九月三日七〇〇万円が引き出されたことが明らかである。そして、関係証拠によれば、右七〇〇万円の引出しは、中村みどりが東武鉄道館林駅から浅草まで電車に乗り、同支店まで出掛けて行ったものであるが、これには永島が同行し、引き下ろしてきた七〇〇万円の現金は当日にうちに被告人が預かったことが認められる。右事実経過に関する中村の供述は、前記のとおり、架空口座の設定、入金から七〇〇万円の引出しまですべて被告人の指示により、架空の支払いを仮装したものであり、また、払戻しに永島が同行したのも被告人の指示があったためであって、中村としては、払い戻してきた七〇〇万円は当然自分に戻ってくるものと思っていたところ、引き出してきた当日、被告人が自分に断りなく、中村みどりから受け取って返還しない、というものである。一方、被告人の供述は、架空口座の設定、入金から七〇〇万円が引き出しまでは自分の全く与かり知らなかったことであり、七〇〇万円が引出された後、その事実を知り、この金員の出所や使途について中村に問い質したところ、翌日ころ同人が被告人事務所に来て、七〇〇万円の現金を置いていった、というものである。そこで、右両者の供述の信用性について考えるに、七〇〇万円の引出しは、中村電線の事務であるから、被告人事務所の事務員である永島がこれに同行する理由はないと思われるのに、同人がそうしたのは、被告人の指示があったからではないかとみられること、引き出してきた当日、中村みどりが七〇〇万円の現金を被告人に渡して帰宅した後、中村から言われて、右七〇〇万円を返して欲しいと言って被告人事務所を再び訪れたことは、中村、中村みどりのみならず、永島も検面調書においてそのように供述していること、一方、被告人の供述のとおりであるとすれば、被告人において、七〇〇万円引出しの事実を知った際、その出所等について中村を追及するべき何らの理由もないばかりか、追及を受けた中村が自発的にそれを被告人のもとに置いていったというのも不自然、不合理極まる話であって、到底措信し難いことなどに照らすと、七〇〇万円授受に至る経緯に関しては、中村の供述の信用性が高いものというべきであり、所論の指摘する諸点はいまだ右の判断を覆すに由ないところである。
右に関連して、所論は、中村の供述中、「昭和六〇年八月一二日ころ、被告人から、株式会社日本オペレーションセンター(以下「日本オペレーションセンター」という。)の出資者に対する配当支払いに必要なので三〇〇万円用意して欲しいと言われ、脱税指導の報酬の趣旨で同金額を支払った」旨の部分につき、《日本オペレーションセンターには、新、旧二会社があり、当時、旧会社は既に解散後であり、新会社は設立直後で、ともに配当原資を必要とする状況ではなかったから、被告人がそのようなことを言うはずがない。また、被告人が中村から預かり、昭和六一年一二月一日に返還した三〇〇万円のうち、一〇〇万円の束の一つの帯封には、中村の言う三〇〇万円授受の日よりも後の昭和六〇年八月二九日の日付が記載されていることからも、中村の供述の虚偽であることが明らかである。実は、右三〇〇万円は、中村が同年一〇月二八日ころ、被告人に確定申告書の作成を依頼に来た時、差し出したが、被告人に受取りを拒否されて持ち帰り、翌六一年一〇月末ころ、被告人に確定申告書の作成を依頼に来た時、被告人方に置いて帰ったものなのである。そして、右三〇〇万円授受の日についての中村の供述が虚偽であるということは、単に金銭授受の日時の誤りだけの問題には止まらず、中村と被告人との間で所得秘匿工作についての共謀がなされたという中村の供述の根幹部分もまた虚偽であることを示すものである。》と主張する。
なるほど、袋入り告訴状の写し等一袋(前同押号の2)中の「引渡書類」と題する書面(以下「引渡書類」という。)の記載によれば、封筒に収められた三〇〇万円(一〇〇万円束三個)のうち、一個の一〇〇万円束の帯封の日付が、中村の供述する授受の日より後の昭和六〇年八月二九日となっていることは所論のとおりである。しかし、引渡書類に記載されている三〇〇万円が同月一二日、三日ころ中村が被告人に交付したという三〇〇万円と同一物であるということについては、被告人の供述以外に何らの証拠もない。ところで、中村の供述からすれば、右三〇〇万円は被告人への贈与の趣旨で授受されたものであり、しかも、授受から返還までに一年以上の日時が経過しているのであるから、その間右三〇〇万円が同一性を保っていたというのはむしろ不自然であることなどに照らせば、被告人の供述のみから右同一性の点を肯認することは到底できない。してみれば、右帯封の日付の点は、中村の供述の信用性を否定する決定的な証拠とはなり得ない。他方、中村の供述は、被告人から三〇〇万円を用意して欲しいと言われたのは亡母きみの入院した八月一三日の前日である旨、日時の記憶について明確な根拠を示しているほか、三〇〇万円の原資は床下の収納庫に保管してあった七、八〇〇〇万円の現金である旨述べるなど具体的詳細であって、その信用性は高いものというべきである。そして、中村の供述する本件三〇〇万円授受の趣旨にかんがみると、被告人が日本オペレーションセンターの配当支払いの必要を言ったのは、中村に金を出させるための口実に過ぎないとみることができるから、同社が実際に配当原資を必要とする状況にあったか否かは、中村の供述の信用性とは関係がない。
第二に、所論は、中村の供述中、「昭和六〇年一〇月二八日ころ、被告人に法人税確定申告書の作成方を依頼した際、被告人から、今期は四〇〇〇万円位の利益が出ている、と言われ、何とか一〇〇万円台にしてくれと頼み込み、その承諾を得たが、その際、被告人から、中村方に国税局が入る虞があるから自宅にある現金を持参するよう慫慂され、同年一一月一日ころ、現金七五〇〇万円を入れたボストンバッグを被告人に手渡した」とする部分につき、次のように論難する。すなわち、《被告人は、脱税への協力を承諾したことも、それを実行したこともないし、同年一〇月二八日の段階では、中村らのいうような架空費用を計上する余地はなかったものである。中村の供述や永島の検面調書、大蔵事務官作成の外注費調査書謄本及び原材料仕入高調査書謄本からすると、中村の依頼を受けた被告人の指示により、永島において、架空外注費一四四〇万円余り、架空仕入れ大川電材分五一二六万円余り、同中島電線加工分四六七万円余りの計七〇三三万円余りの架空費用を計上し、利益を圧縮したことになるが、同時点では、決算書の作成に必要な期末資料はいまだ被告人事務所には届いていなかったから、被告人は期末整理前の利益として四〇〇〇万円の金額を示したものであるところ、中村電線の昭和六〇年八月期の確定申告書に記載した所得金額八九二万円余りから、期末整理前の利益を計算すると、その額は三六七三万円余りとなること及び同期末整理では、外注費や仕入れの金額にはほとんど動きがみられないこと(損益計算書(弁護人証拠請求番号14)に徹すると、期末整理前の利益が四〇〇〇万円程度の場合には、右のような架空費用を計上する余地のないことが明らかである。そして、そうであるからには、被告人が右のような多額の架空費用の計上を指示するはずもないのである。右のとおり、同年一〇月二八日ころ、中村と被告人との間で中村電線の同年八月期の脱税方について最終的に共謀が成立し、被告人が実行したとする中村の供述は不合理な虚偽の供述であり、したがって、それに続いて、中村が七一〇〇万円(中村は七五〇〇万円と供述するけれども、七一〇〇万円が正しい。)をボストンバッグに入れて被告人方に持参した理由として述べるところも虚偽である。確かに、右ボストンバッグの持参は被告人が求めたものであるが、被告人は、生前の中村きみから、自分に万一のことがあったときには、弟今井信昭立会いのもとで開けてもらいたいものがある、と言われていたので、同女の死後、中村にその持参を求めたところ、中村が右ボストンバッグを持参したものであって、被告人としては同バッグの中身は相続関係の書類等とばかり思っていたものである。中村の供述によれば、右現金は脱税により蓄積されたものであるとのことであるが、そのような現金を預かったことが露顕すれば、たちまち脱税への関与を疑われることとなるから、税理士である被告人がそのような危険なことをするはずがなく、また、被告人は右バッグを段ボール箱に入れて書類置場に放置してあったものであるが、この保管状況は、被告人がその中身が現金であるとは知らなかったことを示すものである。》というのである。
そこで、右所論について検討するに、中村が、昭和六〇年一〇月二八日ころ、被告人事務所において、被告人に対し、改めて中村電線の同年八月期の決算及び確定申告書の作成方を依頼した際、被告人から数字を記載したメモ(前同押号の3)を渡され、四〇〇〇万円という数額を示されたことは、関係証拠上明らかである。
問題は、右四〇〇〇万円という数額の意味である。
中村は、これを被告人が計算した中村電線の当期利益(所得金額)と理解しており、被告人からそう説明されたと供述している。しかし、税務当局が捕捉した同社の当期の実際所得金額は一億六二九〇万四六三三円であることにかんがみると、右四〇〇〇万円の金額は、たといこれが期末整理未了段階の数字であり、また、費用中に被告人の認識していない架空費用が紛れ込んでいた可能性等を考慮しても、これを利益と解するには、実際との差異があまりにも大き過ぎる。むしろ、四〇〇〇万円という数額は、当期の正規の税額である六九二三万二五〇〇円の方に近い。中村は原審公判廷において、被告人から「お前んちはこれだけ利益が上がっているんだと、四〇〇〇万円といわれた記憶があるんですが」と述べた後、「それで払えるんかと、そんなに払えないですと、どのくらいだったら払えるんだというから、一〇〇万単位なら払えるでしょうという話をした」旨供述している(記録二八三丁の四四)。利益ないし所得金額を支払うということはあり得ないから、被告人が「それで払えるんか」と尋ねたのは税額を意味することが明らかである。そして、右メモの下から二行目に「39,150-」と記載してあるのが問題の四〇〇〇万円を指すものであるが、その一行上の「13,995-」というのは前年の脱税額であり、最下段に記載してある「169,459-」がトータルだというのである(同二八三丁の二六五)。脱税額と所得額を合計することは無意味であるから、「13,995-」から上の記載が脱税額であるとすれば、問題の「39,150-」の記載も、所得額ではなく、税額を記載したものとみるのが合理的である。
一方、被告人は、この時にはまだ中村電線から期末資料(期中を現金主義で処理してきた会計を決算時に発生主義に直すため必要な棚卸高、未払金、売掛金、買掛金等を記載した書面)が届いていなかったので、期末資料による期末整理前の試算表に基づき同事業年度の利益を概算で述べた記憶であり、そして、申告利益から逆算して期末整理前の経常利益を求めると、三六七三万円余りとなる(損益計算書(弁護人請求番号14)の前月残高欄記載の経常利益)ことからしても、利益は四〇〇〇万円程度になると言ったと思う旨供述する。しかし、同損益計算書及びこれと一体をなす製造原価報告書(弁護人請求番号13)と大蔵事務官作成の修正損益計算書謄本(昭和六〇年八月期分)、原材料仕入高調査書謄本及び外注費調査書謄本とを対照すれば、被告人が期末整理前のものという右損益計算書の当期製品製造原価は、所論にいう七〇〇〇万円余の架空外注費及び架空仕入れを含む架空費用計上後のものであることが明らかであるから、同損益計算書の金額に重ねて所論の架空費用を計上する余地がないのは当然である。そして、中村や永島(検面調書)が供述するように、被告人が中村との話合い後、永島に指示して架空費用を計上させたのだとすれば、期末整理前の試算表にはいまだ所論の架空費用は計上されておらず、試算表に記載された当期利益は、同損益計算書に記載されている金額を上回る金額だったはずである。すなわち、被告人は、同損益計算書を根拠に、被告人は当時中村電線の同事業年度における期末整理前の利益を四〇〇〇万円程度と把握していた旨供述するけれども、当時被告人が見たと言う期末整理前の試算表に同損益計算書に記載された経常利益と同程度の金額が記載されていたという確たる証拠はなく、したがって、同損益計算書はほとんど被告人の右供述の根拠とはならないものといわざるを得ない。更に、被告人の右供述は、被告人と中村が話合いをした時には、まだ中村電線からの期末資料が未着で、期末整理前の段階であったというものであるが、実はこの点も証拠上必ずしも分明ではないのである。すなわち、この点に関する被告人の供述は右のとおりであるが、これまで中村電線の経理事務を一手に引き受けていた中村きみが同年九月一七日に死亡したという事実があったにしても、同社の確定申告期限が三日後に迫っているというのに、決算事務に必要な期末資料がいまだに税理士のもとに届いていない、あるいは、顧問税理士事務所が、督促もせず、この時期までそのような状態で放置していたというのは不自然であり、また、中村も、期末資料は既に届けてあった記憶であり、当日はいくつかの書類に押印して帰り、その後、決算に必要な期末資料の類を届けたことはない旨供述していることに徴すると、被告人の右供述はかなり疑わしいものといわざるを得ない(永島は、この点について、期末資料は、一〇月下旬ころ、あるいは一〇月も終わり近くになって、中村が持参した旨供述するが、その時期が、中村と被告人による右話合いの前後のいずれの時点であるかの点についてまでは供述していない。)。そして、もし、両者による右話合いが、期末資料が届き、これをも加えた試算表が作成された後のことであったとするならば、被告人が、その試算表があるのに、期末整理前の試算表に基づき当期利益の説明をしたとは考えられないから、この場合にも、同損益計算書に記載された前月残高欄記載の経常利益の額は、四〇〇〇万円の利益の根拠とはならないのである。
右のとおり、被告人が中村と確定申告について話し合った際、昭和六〇年八月期の期末整理前の利益を四〇〇〇万円程度のものと考えていて、そのように説明したということは、否定されるべきであり、これを前提とする所論は採用できない。
そして、昭和六〇年一一月一日ころ、中村が現金七一〇〇万円又は七五〇〇万円を入れたボストンバッグを持参して被告人に預けたことは関係証拠上明らかである(同バッグ内の現金の額に関しては、引渡書類その他の関係証拠によれば、昭和六一年一二月一日、被告人から中村にボストンバッグが返還された際、中身を検したところ、入っていた現金の額は七一〇〇万円であったこと、それに対し、中村が四〇〇万円足りないと異議を述べたが、被告人により一蹴されたことは認められるが、右証拠ないし事実からは、周バッグ内の現金の額は、当初から七一〇〇万円だったのか、それとも中村が供述するとおり、当初は七五〇〇万円程度の金額が入っていたのかの点は、いずれとも確定し難く、他にこれを確定するに足りる証拠はない。)。同バッグ授受の趣旨についての中村、被告人それぞれの供述の信用性については、被告人から、税務当局の調査に備えて、脱税によって蓄積した現金を被告人方に持参するようにと言われて持参したという中村の供述の方が、右授受の時期やバッグの中身と照応するなど信用できるのに対し、亡中村きみから自分に託されたものがあるはずだから、持ってくるようにと中村に言ったところ、同人が持参したものであり、中村きみの相続関係の書類とか貴金属等の遺品の類が入っているものと思っていたという被告人の供述は、実際に同バッグから出てきたものが被告人の言うものとは違っていること、中村が被告人に多額の現金の入ったバッグを預けるのに、その中身を告げなかったとは考えられないこと、中村はもとより、中村きみの弟今井昭信や妹前島律子も、中村きみと被告人との間には、中村きみが被告人に後事を託するような信頼関係はなかった旨供述していること等に照らして信用できない。所論は、被告人の同バッグの保管方法(段ボール箱に入れ、倉庫内に保管)が、多額の現金の入ったバッグの保管方法として相応しいものでないとして、右被告人の供述を裏付けるものであると主張するけれども、仮に、バッグの中身についての被告人の認識が被告人の供述するようなものであったとしても、同バッグの保管に慎重を期する必要があることに変わりはないと考えられるし、被告人事務所では倉庫が一番安全な場所であることは被告人の自認するところでもあって(被告人の収税官吏に対する昭和六二年一二月二四日付質問てん末書)、右所論は採るを得ない。また、所論のいう、脱税によって蓄積された現金を預かることの危険性の点も、右両者の供述の信用性についての判断を左右するものとは思われない。
第三に、所論は、中村の供述中、「昭和六一年六月上旬、サーモテックに館林税務署の調査が入った際、被告人の指示により、中村電線がサーモテックにコネクターの検査等を依頼し、手数料を支払う旨の架空の契約書を両社の間で作成し、これに従った架空取引を記載した伝票等を作成したほか、サーモテック以外の関係でも、架空仕入れや架空外注費を計上し、伝票や領収書等を作成し、同月二〇日ころ、被告人から、その報酬の趣旨で六〇〇万円を預けるよう要求され、これに応じた」とする部分について、以下のとおり主張する。すなわち、《中村きみが伝票操作をしていた昭和五九年八月期においても、月一〇〇万円から一五〇万円程度、合計一六一〇万円の架空外注費が計上されており、同じく中村きみが伝票操作をしたとみられる昭和六〇年八月期においても、一六〇〇万円余りの架空外注費が計上されていたため、中村きみの死亡後、昭和六一年八月期においては、これに相当する金額の計上がないのに気付いた永島が、従前のそれらが架空のものであったことを知らないで、その記載方法等を指導したものであり、領収書等の作成指示も、架空のものを作れと言ったのものではない。被告人が指導した中村電線とサーモテックとのコネクターの検査等に関する契約書の作成にしても、サーモテックが中村電線の子会社であることから、実際に存した取引を税務署から否認されることのないよう形式を整えたものに過ぎない。中村は、被告人に渡した六〇〇万円はサーモテックの中村電線に対する二四〇〇万円の架空売上を税務署に認めさせた報酬として要求されたものであるというけれども、サーモテックが昭和六一年六月の税務調査により指摘された中村電線に対する売上の計上漏れは二五五万円余に止まる(大蔵事務官作成の昭和六三年一一月九日付査察官報告書)のに、被告人が右のようなことを言うとは考えられず、中村の右供述が虚偽であることが明らかである。実際は、中村が脱税をして簿外資金を有するに気付いた被告が中村を追及したところ、同人がそれを認めて六〇〇万円を持参したので、被告人が預かったものであって、架空売上を認めさせた報酬などというものではない》というのである。
そこで、右所論について検討するに、永島がした外注支払台帳に基づく毎月一二〇万円の外注費の上乗せ計上の指示が、架空と知らないでした計上漏れの指摘及び計上の仕方の指導であるとする所論が採用し難いことは、既に永島の検面調書の信用性に関して説示したところから明らかであり、領収書等の作成指示に関する所論も、同様の理由により採用できない。
中村電線、サーモテック間の昭和五九年八月一日付「コネクター検査及び修理並びに管理契約書」(前回押号の5)が、昭和六一年六月上旬、被告人と起案した原案を清書して作成されたものであることは、関係証拠上明らかである。被告人は、右契約書作成の理由について、親会社、子会社間の取引は、税務当局から疑われる虞があるので、中村電線とその子会社であるサーモテック間に実際に存する取引が否認されることのないよう備えたに過ぎない旨供述する。しかし、大蔵事務官作成の外注費調査書謄本、納品書(控)(前同押号の33)、各会計伝票綴(同押号の30、35)、総勘定元帳(同押号の34)、外注支払台帳、永島の検面調書、中村の供述その他の関係証拠によれば、中村電線では、サーモテックにコネクターの検査等を依頼したことにして、昭和六〇年八月期に合計一八七二万円余、昭和六一年八月期は昭和六〇年一一月以降毎月(昭和六一年四月までに合計約一二五〇万円、同事業年度末までに合計二二八四万円余)、架空外注費を計上していること、右架空外注費のうち、同事業年度の昭和六一年四月分までの計上は、同年六月上旬、サーモテックに税務調査が入った際、被告人の指示によりなされたことが認められ、これに反する被告人の供述は信用できない。
そして、メモ書きのある封筒(前同押号の9)、引渡書類及び中村の供述によれば、昭和六一年六月二〇日ころ、中村が被告人に現金六〇〇万円を交付し、被告人がこれを受け取ったことが認められる。被告人は、右封筒に記載された「6\20.中村より予り.」の記載は後に記入したものであり、同年五月以前に預かった記憶である旨供述するけれども、引渡書類によれば、一〇〇万円束六個の帯封のうち一個の日付は同年六月四日となっており、これが後に入れ換えられたことを窺わせる証拠もないので、被告人の右供述は採用できない。次に、右現金授受の趣旨について、中村は、被告人から、右税務調査で、赤字会社のサーモテックへの架空支払い二四〇〇万円を税務署に認めさせ、一二〇〇万円税金の支払いを免れることができることになったから、その半額の六〇〇万円を預かりたいと言われ、届けた旨供述する。ところで、後記認定のとおり、サーモテックに対する調査は、同社の昭和五九年一一月から昭和六〇年一〇月までの事業年度についてのものであったから、同社、中村電線間のコネクター検査等に関する架空外注費についての偽装工作は、中村電線においては、当然既に計上済の前記昭和六〇年八月期分についても行われたはずであり、永島も検面調書においてそのように供述しているところである。したがって、架空外注費(コネクター検査等依頼分)を税務署に認めさせた被告人の功績は、昭和六一年八月期分のみらなず、昭和六〇年八月期分についてもあったことになり、右意味での被告人の功績は多大であったということができるから、中村の右供述は相当の根拠を有し、信用できるというべきである。この点に関し、所論は、税務調査によりサーモテックが指摘された中村電線への売上の計上漏れは二五五万円余に止まったとの事実を指摘するけれども、大蔵事務官作成の昭和六三年九月一二日付及び同年一一月九日付各査察官報告書、右調査が行われた当時サーモテックの専務取締役であった渋谷豊、同事務員であった松本、中村みどり及び中村の各供述、永島の検面調書等によれば、サーモテックの昭和五九年一一月から昭和六〇年一〇月までの事業年度についてなされた右税務調査の際、同社では、被告人の指示により、総勘定元帳や現金出納残高式伝票等が見当たらないことにして時間を稼ぎ、その間に、前記架空外注費を計上するなどの会計帳簿や証憑書類の改ざん等を含む調整を行った後、これらを税務職員に提出したこと、そして、右二五五万円余の売上計上漏れの指摘は、右改ざん等がされた後の調査結果に基づくものであることが認められる。それ故、右二五五万円余は、中村が供述する架空売上とは全く性格を異にするもので、被告人がそれを根拠に中村に報酬を請求し得るようなものではないことが明らかであるから、所論がこれを根拠に中村の供述を虚偽というのは失当である。一方、被告人は、右税務調査の際に会計帳簿等を検討した結果などから、中村電線の会計処理が杜撰なことを知り、先に預かった七〇〇万円の残りの貯金の使途等について中村を追及したところ、中村が、裏金はこれですべてであると言って六〇〇万円を持参し、先の七〇〇万円とで昭和六〇年八月期について修正申告をして欲しいと言って置いていった旨供述する。しかし、被告人の右供述は、被告人が中村電線の昭和六〇年八月期の脱税及び昭和六一年六月上旬ころ行われた架空外注費(サーモテックへのコネクター検査等依頼分を含む。)や架空仕入れの計上に関与しているとする永島の検面調書、中村の供述、これに副うその他の関係証拠に照らし到底信用することができない。
右のとおり、中村の供述は、その大筋において概ね信用することができ、原判決が、これを一つの柱として、原判示罪となるべき事実を認定したことに誤りはない。一方、これと対立する被告人の供述は、不自然で、中村の供述のほか、外注支払台帳、会計伝票綴、総勘定元帳等の客観的証拠と符合する永島の検面調書や中村みどり、松本一美の各供述等とも相反するもので、信用できない。
以上のとおりであって、永島の検面調書は十分信用することができ、また、中村の供述も概ね信用することができる。そして、これらを含む原判決挙示の証拠を総合すれば、被告人による脱税関与の事実を含む原判示罪となるべき事実を優に認定することができるのであって、右に検討した点のほか、金銭消費貸借契約書(前同押号の1)をめぐる中村、被告人両者の供述の食い違い、両者による共謀の機会の回数等、所論が縷々主張するその余の諸点について検討、再考してみても、原判決に所論のような事実の誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。
控訴趣意中、理由不備を主張する趣旨について
所論は、要するに、原判決が、弁護人の指摘した前記三〇〇万円授受の時期をめぐる問題点及び四〇〇〇万円の利益に関する問題点について判断を明示しなかったのは、いずれも理由不備の違法を犯すものである、というのである。
しかしながら、被告人に対する有罪判決である原判決が、刑訴法三三五条一項所定の要件をすべて具備していることは明らかであるから、原判決に理由不備の違法はない。論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 半谷恭一 裁判官 新田誠志 裁判官 浜井一夫)
○ 控訴趣意書
被告人 山﨑昭
右の者に係る法人税法違反被告事件につき、控訴の趣意は左記のとおりである。
平成三年六月二八日
右被告人弁護人弁護士 山田一郎
同 大森勇一
東京高等裁判所第一刑事部 御中
記
原判決には、以下述べるとおり事実誤認の誤りがあり被告人は無罪であるとともに、弁護人の無罪主張に対しなんらその理由を付しておらず、理由不備の違法がある。
以下、原判決の判示につきその検討を加えるとともに、被告人無罪の理由ならびに理由不備の違法を詳細に述べることとする。
第一、原判決の判示についての概説。
一、永島みや(以下、永島という。)の供述についての判断部分。
1 詳細は後述のとおりであるが、原判決は永島の検察官に対する供述の信用性につき、これを認めているが、原判決が説示するところは、同判決八丁表四行目の「永島作成の『外注支払台帳』と題する書面の作成経緯」の部分から九丁一行目部分までを指摘して、これらの供述部分は「永島が進んで供述しない限り判明しない事項もかなり含まれている」旨判示している。
然しながら、右判示部分で指摘する永島の供述部分は、被告人と中村元との共謀を認定するには、さして重要でない事実であり、永島がこれら部分を任意に供述し、これが信用に値するとしても、永島の他の供述部分が直ちに信用に値することにはならない。
2 又、原判決は、右指摘に続いて、永島は昭和六〇年八月期と翌六一年八月期とにつき、被告人と中村元との共謀を認め、昭和五九年八月期については被告人の関与を否定しており、認める点と認めない点とをはっきり区別して供述しているとして、永島の供述には信用性があるとしてる。
然しながら、原判決のこの部分の指摘は、本件捜査の過程及び実態を無視した全く誤った判断である。即ち、捜査をなした捜査官は、被告人の逮捕前、既に中村元から詳しい供述(内容的に措信出来ないものであることは後述のとおり)を得ており、その中村元の供述で、被告人との共謀は昭和六〇年八月ころとなっていたため、検察官は当初から、被告人の本件犯行への関与時期は昭和六〇年八月ころ、即ち、昭和六〇年八月期からとの前提で捜査を進めていたのである。
従って、検察官は永島に対し、昭和五九年八月期について、被告人の関与があったか否かについては殆ど事情を聞いておらず、激しい追及も行なわれていない。
そして、検察官は昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期に関する総勘定元帳・現金出納残高式伝票の記載について尋問した際、後述の如く昭和五九年八月期についてもその記載に類似性が認められるところから、一応念のため尋問したにすぎないのであって、それ以上深く追及することなく、また、他に被告人の関与を裏付けると見られる資料もないため、永島の供述をそのまま録取したにすぎないのである。
以上のとおり、原判決が、永島は認める点と認めない点をはっきり区別して供述しているとの説示部分は、永島の供述の信用性を認める何らの理由になり得ない。
3 更に、原判決は弁護人の、総勘定元帳及び現金出納残高式伝票の記載状況が、昭和五九年八月期、同六〇年八月期、同六一年八月期のいずれもが類似して、昭和六〇年八月期から、被告人が本件犯行に関与していたとする点は極めて不自然である指摘に対し、「他の関係証拠を併せ考えると、それらの点は、必ずしも永島の検察官に対する前記各供述調書の供述内容の信用性を損なう要因とはいえない」(一〇丁表)とする。
然しながら、本件で考察されなければならない最も重要な点の一つは、被告人が中村元と共謀したか、仮に共謀があったとして、その時期はいつであるかというもので、この弁護人の指摘に対して、原判決は永島供述の信用性を損なう要因とはならないという評価を与えるのみで、被告人と中村元との共謀成立の阻害要因となるか否かについての判断を全くしていない。
これは、弁護人主張に対する巧みなすりかえ的判示であって、当審においては、是非とも共謀成立の有無及びその時期につき、この弁護人指摘の点を正当に判断して頂きたい。
二、被告人の供述についての判断部分。
1 ここで強く指摘しておきたいのは、中村元から被告人に対して交付された金員の受領時期・金額についての判示である。原判決は、全く不当にも、「受領した時期や金額については一部食い違いがあるものの」(一〇丁裏)、「中村元の証人としての公判廷における証言の方が被告人の許に持参した時期や金額の点に関して一部分を除いて」(一一丁表)信用出来るとしている。
2 しかし、ここで重要なのは、被告人と中村元とが本件犯行を共謀した時期がいつであるかということで、その時期が不明確となれば、その他の金員の授受についても、その趣旨が中村元の供述どおり信用してよいか否か、慎重に吟味する必要が出てくるといわなければならない。
3 そこで、本件犯行の共謀時期の認定に関し、極めて重要な意味をもつのが、検察官主張によれば昭和六〇年八月一三日中村元から被告人に交付されたとする三〇〇万円である。
にも拘らず、原判決は、結局右三〇〇万円の受け渡しの時期につき、明確な判断を避け、「一部食い違い」があるということで片付けている。しかし、右三〇〇万円は、検察官の主張によれば、被告人と中村元との間に授受された最初の報酬金であり、その授受こそが右両名に本件共謀が成立した証拠であるというのであるから、原判決は共謀の成立を認めるならば、この時期につき、明確な判断は避けて通れないはずである。しかし、原判決はこれは「一部食い違い」という一言で片付けており、その他、判決文のどこにも被告人と中村元との共謀がいつころ成立したかについての判示はない。
4 これは、三〇〇万円の授受の持つ意味を考えるにあたって、結局、中村元の供述では全く説明のつかない部分であって、このことこそが、同人の供述の全体的信用性を失わしめる重要な要因であるにも拘らず、原判決は、漫然「一部食い違い」などという全く的はずれな判示をして、何ら中村元供述の信用性につき具体的な判断をなしていない。
しかし、この三〇〇万円授受の点の考察が右のとおり欠如していることは、到底許されるべきものではなく、理由不備のそしりを免れないものである。
5 なお、原判決は一〇丁裏で、この三〇〇万円の受領を、一番最後にもってきて、検察官主張の順序と異なる判示の仕方をしているうえ、一二丁裏からの中村元供述に基づく事実の認定においても、右三〇〇万円の授受に関する認定を避けている。
この原判決の説示をみると、結局、証拠上、この三〇〇万円の授受の時期を認定出来なかったということであろうと思われるが、これは単に、時期の認定が出来なかったに止まるものではなく、右のとおり直ちに共謀の有無、その時期、更には中村元供述全体の信用性に重大な影響を及ぼすものであって、当審における正当なる判断を望むものである。
第二、被告人は、本件各公訴事実につき、中村元と共謀した事実はない。
一、概説
証拠上明らかなとおり、中村元と被告人が交渉を持ったのは、始めに昭和六〇年八月一二日、次が昭和六〇年一〇月二八日、その次が昭和六〇年一一月始め、その次が昭和六一年六月始め、最後が昭和六一年六月二〇日ころの合計五回であり、検察官はその内、脱税のことを話し合ったのは、昭和六〇年八月一二日、昭和六〇年一〇月二八日、そして昭和六一年六月始めの三回であると主張する。
そして、検察官は、右三回の話し合いの際、昭和六〇年八月期と昭和六一年八月期の脱税につき、その方法から態様まで全てを話し合ったというのであるが、中村元の供述によっても、その具体的内容は明らかにされていないうえ、被告人が仮に、このたった三回の話し合いで、全てを把握し脱税を主導的に画策していたとすれば、被告人が以前から中村電線の脱税工作に深く関与していなければ出来ることではない。
然しながら、被告人が以前から中村電線の脱税に関与していたという証拠は皆無であり、検察官の主張ならびに原判決の認定はその点の考慮を全くなすことなく、被告人が当然の如く関与してたかのように判断をなしているが、これは誤りであることは後述のとおり明らかである。
そこで、以下、時系列に従って概括的に被告人と元との交渉状況を整理する。
時系列的整理
検察官の主張 弁護人の主張
(原判決の認定と推測される)
<1> 昭和六〇年五月ころについて
被告人はこのころには株式会社中村電線の脱税の事実を知っており、株式会社日本デジタルシステムの資本金二〇〇〇万円を裏金から出すように中村元に指示し、その隠蔽工作として、被告人から中村元らが右金員を借用したことにし、借用証書を捏造した。 被告人は古くから面倒を見ていた中村家のことを思い、サーモテック前橋営業所所長であった大塚賢一が同人の社内における待遇に不満を訴え、退職意思を表明していたところから同人の右意志を翻意させるべく、同営業所を別会社として独立させ、同人に会社責任者として責任をもたせるとともに待遇の改善を中村元に示唆し株式会社日本デジタルシステムが設立された。 しかして、中村元においては右デジタルシステムの資本金につきその出所を大塚賢一に知られないよう、また、大塚賢一より同人に割当てた株式相当額の出資金を大塚賢一より取戻すべく、被告人が右デジタルシステムの出資金全額につき中村元らに貸し付けた形式をとるべく被告人に依頼し借用証書を作成してもらったものである。 なお、同時期に設立された株式会社関東電線工業の資本金二〇〇〇万円の出所につき、借用証書が作成されていないのは関口國志郎との間には、右大塚賢一とのような軋轢がなかったことによる。
<2> 昭和六〇年八月一二日
大東京信用組合押上支店に架空口座を開設したのは、被告人から中村元に対する指示によるものであり、これは被告人の脱税指導の報酬目当ての行為であった。 同支店に開設した口座名義人の「赤石通商」、「松田泰」は、中村元が考えたものである。 そして、この架空口座名義人は中村電線において以前から使っていた架空仕入先の名称をそのまま利用したものであって(この点は、中村元自身認めている。)、中村元は裏金作りの手段方法を十分知悉していたことがうかがえ、被告人の指示で口座開設をしたとの中村元の供述は虚偽である。
<3> 昭和六〇年八月一三日
被告人は脱税工作指導の報酬として、三〇〇万円を昭和六〇年八月一二日中村元に要求し、翌一三日三〇〇万円を受領した。 被告人の右要求の言い訳は株式会社日本オペレーションセンターの配当金としてどうしても必要であるとのことであった。 被告人には株式会社日本オペレーションセンターの配当金として金員が必要な状況は全くなく、かつ、配当金が必要であるとの嘘までいって中村元に三〇〇万円を用意させる必要性は全くない。 たとえば、前日中村元のいうように被告人の指示のもと大東京信用組合に口座開設を命ぜられたのであれば、その開設した口座の預金から後述の昭和六〇年九月三日の際三〇〇万円上乗せして取得すれば足りることである。
<4> 昭和六〇年九月三日
中村元は、前日被告人に翌日永島を同道させるから中村元の妻みどりを東京の銀行に行かせ、開設を指示した口座から七〇〇万円をおろしてくるように命ぜられた。 そして、三日その指示どおり大東京信用組合押上支店にみどりと永島が行き七〇〇万円をおろし、その金員は直ちに被告人の手に渡った。 被告人において、中村元に七〇〇万円をおろしてくるよう命じた事実はない。 この七〇〇万円は、中村元が自らの使途に使用するべく、妻みどりに命じおろさせてきたものであるが、中村元としては妻みどりだけを東京に行かせるのが不安であったため、永島に同道を依頼したものであり、被告人は全く関知していない。 被告人の手元に七〇〇万円を持ってきたのは中村元であり、その日にちは九月三日ではなく、翌日か翌々日のことである。 又、被告人がこの七〇〇万円を預かったのは中村元の手元にこのお金を置いておいたのでは簿外資金らしきものによって同人が勝手に会社の機械を買うと恐れたからである。
<5> 昭和六〇年一〇月二八日
被告人は、中村元に「今期は四〇〇〇万円ほど利益が上がっている。過去脱税した金がこれくらいある」云々を伝え、最終的に被告人が中村元の要求とおり一〇〇〇万円以下に利益を圧縮した行為は脱税共謀が確定した証左である。 弁第五号証のとおり、株式会社中村電線の昭和六〇年八月期の期末処理前の利益額は三六七三万円余りであり、これを被告人において調整し、利益額を約八九二万円にしたことは認めるが、その調整内容は主として未払金勘定、納税充当金勘定、減価償却費勘定、賃借料勘定等であり、外注費や仕入費については操作せずに調整をなしているものである。 仮に、検察官の主張どおりに架空外注費として月一二〇万円の他架空仕入費を上乗せすれば、その合計金額は七〇〇〇万円余りになり、決算の数字である八九二万円の利益とは全く符合しない多額の赤字計上になる。 従って、この時点での架空の外注費や仕入費の新たな上乗せした事実は客観的にあり得ず、脱税共謀の事実はない。 加えて、中村元自身、当期の利益圧縮につき自分で操作して、一〇〇〇万円くらいに利益圧縮が出来たと思っていた旨原審公判廷で供述しており、被告人の期末処理操作以前に、中村元自身利益圧縮工作を行ったことを認めており、この工作が被告人とは無関係に、中村元において、架空外注費・架空仕入費の架空形状をなしていたなによりの証拠である。
<6> 昭和六〇年一一月一日
被告人は中村元からボストンバッグに入った金七五〇〇万を脱税の報酬の一部として中村元から受け取った。 金額は七一〇〇万円である。 また、被告人はボストンバッグの中身はきみの遺産関係のものと思っていたものであり、七〇〇〇万円を超える程の多額の現金が入っていたことの認識は被告人には全くなかった。 もしボストンバッグの中身が七〇〇〇万円を超える多額の現金であることを被告人が認識していたとすれば、その保管場所とされていたところは(被告人が会計事務所の書類倉庫として使用しているプレハブ建物)、それにふさわしいところでなく、このことは被告人がボストンバッグに高額の金員が入っていたことを知らなかったこと示す何よりの証拠である。
<7> 昭和六一年一月ころ
主張及び認定なし 中村元はこのころ被告人の事務所を訪れ、母きみの相続税処理を被告人に依頼した。 被告人は、中村元に戸籍謄本等の書類の取り寄せを指示し、同書類は事務所に持参されたが、その後中村元は何ら具体的な依頼をなさず、相続税申告時期は経過した。 その間に被告人は、中村元に対し預かっているボストンバックの開封につき今井信昭を立ち会わせるよう要求したが、中村元は言を左右にして今井信昭を連れて来ず、時期が経過し、被告人はボストンバックをそのまま預かり続けていた。 被告人が、仮に中村元と脱税の共謀をしていたならば、このきみの相続税申告処理の際、中村電線の脱税につきその一部でも裏金を表に出す操作をするのが自然であるが、被告人がきみの相続税申告を何らなしていないことは、本件脱税共謀のなかった証左である。
<8> 昭和六一年六月初めころ
被告人は中村元に対し、一二〇万円の架空外注費の上乗せの指示をなし、かつ、コネクター修理検査費用の上乗せ計上をなした。 かつ、被告人は永島に指示をし、架空外注費や架空仕入費につき総勘定元帳に架空仕入先の名称の記入をさせるとともに、その旨の記載を現金出納残高式伝票に記入させるなど、脱税工作をなした。 被告人が、永島に対し架空仕入先の名称につき総勘定元帳に記入させた事実や架空外注費につき新たに計上をなした事実はない。 又、被告人が一二〇万円の架空外注費の上乗せをなした事実のないことも勿論である。 コネクター修理検査費用につき、その契約書を作成したのは従前から右費用が計上されていたところから、いくら親会社・子会社の関係とはいえ税務当局に対しその費用を認めてもらうには、せめて契約書は必要と思ったためであり、右費用が架空であるという認識は有していなかった。 なお、永島がみどり等に対し指示説明をなした結果なされた伝票の処理は顧問会計事務所として、顧問会社に対しなすべき当然の職務であり、脱税工作ではない。
<9> 昭和六一年六月二〇日
被告人は中村元から、サーモテックへの外注分を同社の売上として認めさせたので、それが発覚した際に税務署に支払うことになる一二〇〇万円の半分の六〇〇万円を脱税工作の報酬として取得した。 被告人は、この時点はでは中村電線がかなりの金額について脱税をなしているのではないかと疑いを持っており、脱税額も中村元がいうような金額(計一三〇〇万円余り)にとどまらないと感じており、以前から前述の金七〇〇万円以外に簿外資金があるならば明らかにするよう要求していたところ、ようやく中村元が実はあとこれだけ簿外資金があるといって持って来た金員がこの六〇〇万円である。 被告人においては、これ以外にも簿外資金があるだろうと中村元を追及したが、中村元は頑としてその事実を認めなかった。 被告人としては、いずれにせよ中村電線の修正申告をいずれなさなければならないと考えており、その際の納税金の一部に充当するためこの六〇〇万円を預かったものである。 だからこそ、この六〇〇万円が入っていた封筒に被告人はわざわざ「予り」を記入したものである。 なお、サーモテック云々との話についてはこれが虚偽であることは、コネクター修理検査費用がサームテックの売上として、中村電線としては外注費として計上されていることからして明らかであり、被告人がこのような虚偽の話を中村元に申し向けることは一切ない。
<10> 昭和六一年一〇月ころ
被告人は中村元に対し、中村電線の脱税事実を隠蔽するために、同社の解散、新会社の設立を提案してそれを実行しようとした。 被告人の新会社の設立という考えは、きみの死亡後株式会社日本デジタルシステムの大塚賢一に関する給料問題、外注関係の主任であった関口國志郎の退社、上尾工場の久保田の退職に関連する諸種の問題など、中村元では中村電線及び関連会社の統率が取れなくなり、中村電線及び関連会社は被告人の見るところでは、まさに崩壊寸前の状況であった。 このため、中村元ではこれら問題を解決していく能力に欠けると判断した被告人が、新会社を設立して、しかるべき人間を役員に入れ、中村電線を実質的には永続させようとの意図から出たものであった。
<11> 昭和六一年一〇月末
被告人は、中村電線の昭和六一年八月期の税務申告につき、中村元と共謀のうえ実際にはその所得額が七三六二万円余りであり、これに対する法人税額が三〇五七万円余りであるにも拘らず、欠損金が八五七万円余りである旨の虚偽の申告をなした。 被告人は、中村元に対し脱税しているならば早急に修正等の手続きをすべき旨指導したにも拘らず、中村元は一向に被告人の指導に従う様子を示さなかったため、これに業を煮やした被告人が、昭和六一年八月期の申告業務を行わないという強硬手段に出たことに対し、中村元が申告手続きをしてくれるように哀願して、被告人の制止を振り切り同人方玄関先に三〇〇万円を置いていった。 被告人は、この三〇〇万円も修正申告の際の納税金の一部に充てるべく預かった。 被告人が、中村電線の昭和六一年八月期につき赤字申告をなしたのは、中村元が右のような態度であったため、現状ではこれ以上何もすることが出来ないためその帳簿上どおりの数字を単に申告したに過ぎず、いずれにせよ被告人としては修正申告を必要と考えていたので、その際にウミを出させるつもりでいたものである。
<12> 昭和六一年一一月末ころ
中村元は、被告人が前述のとおり中村電線を解散させ、新会社を設立し中村電線の脱税を隠蔽しようとしているのを断わり、被告人との顧問契約を解除した。 中村元は、被告人が誠意を以って新会社の設立、中村電線の修正申告を勧めていたものであるにも拘らず、被告人を邪魔物扱いし、このまま被告人を中村電線の顧問税理士としていたのでは、いつ何時、被告人より税務当局に対しその脱税の事実を申し向けられるか判らないと邪推し、被告人の税理士としての守秘義務を強調し、被告人より中村電線の秘密が外に漏れないようにするため、わざわざ弁護士を雇い顧問契約の解除に踏み切り帳簿等一切の書類を、被告人事務所より引き上げたものである。
二、詳説
以下、右概括的時系列整理に基づき、各時点での被告人と中村元との交渉内容等につき、詳述する。
1 昭和六〇年五月ころの状況について。
(一) 検察官は昭和六〇年五月ころには、そのころ設立された株式会社日本デジタルシステムの資本金二〇〇〇万円について、中村元の「山﨑先生のほうで中村の家に確か現金が置いてあるわけだから、それをお袋に言って出してもらえといってお袋に出してもらった。」旨、又、その資本金は、「出所がはっきりした方がいいと被告人に言われ山﨑先生から私共が借用したということで借用証書を書いた。」等という供述から、そもそも本件犯行以前より被告人は中村電線の脱税を知っていたという。
(二) 然しながら、仮に検察官主張のとおり、被告人が中村電線の脱税を本件犯行以前から知っており、中村家には脱税した現金がたくさん置いてあることを知りぬいているが故に、株式会社日本デジタルシステムの資本金二〇〇〇万円について脱税したお金で設立したのではない旨の形を整えるべく、右資本金について被告人から中村家等に貸したとの借用証書が必要だったとするならば、株式会社日本デジタルシステム設立とほぼ時期を同じくして、中村家が設立した株式会社関東電線工業(資本金二〇〇〇万円)の場合には、同様の借用証書を作らなかったことの説明が全くつかない。
(三) 中村元の供述によれば、右設立した二社はいずれも被告人より、別会社として独立させた方が良いとの指導のもと、設立された株式会社であって、その資本金についてはいずれも中村家の、以前からの脱税金によってまかなわれているのであるが、もし、被告人がその資本金について出所を明らかにする必要があると考え、その資本金が中村家の脱税金で設立されたものではないとの形を整える事を、是非とも、しなければならないと考えていたならば、その必要性は株式会社日本デジタルシステムの場合も、株式会社関東電線工業の場合も、何ら差異はない。
株式会社日本デジタルシステムの場合には、借用証書をわざわざ作成し、株式会社関東電線工業の場合には、何ら作成しなかったという違いが存在する事実が、正に、中村元の株式会社日本デジタルシステムの資本金について、脱税金ではない金員にて会社を設立したという形式を整えるとの意味にて、その出所は明らかにした方が良いとの、被告人の指導のもと、借用証書をわざわざ作成したとの供述がそもそも虚偽であることを明らかに物語っているのである。
(四) そして、右借用証書が作成されたのは、原審における弁論要旨で詳述しているとおり、株式会社日本デジタルシステムの前身であるサーモテック前橋営業所の責任者であった大塚賢一と、中村元との確執の所以である。
即ち、大塚は、前橋営業所の時代より、同営業所では、かなりの利益を上げているにも拘らず、株式会社サーモテック全体とすると、赤字であるため、給与・賞与の待遇面で中村電線より低く扱われていることが不満として常々あり、昭和五八年及び同五九年の二回にわたり、辞表を書いている。
ところが、一向に自分の待遇が改善されないため、大塚は被告人のもとに、株式会社サーモテックの業績等を尋ね、不満をぶちまけていたものと推測される。
このため、被告人は中村家の事を思い、大塚の退職を思いとどまらせるため、サーモテック前橋営業所を株式会社日本デジタルシステムとして独立させ、大塚賢一に株式会社日本デジタルシステムの株式を持たせ、かつ、会社の責任者として責任を持たせるとともに、給与面における待遇の改善を図ろうとしたのである。
そして、中村元も大塚賢一を引き止めるためには別会社の設立も巳むを得ないものと考えたが、中村家も決して楽ではないということを大塚賢一に示すため、ならびに大塚賢一より大塚分の株式会社日本デジタルシステムの株式相当分の出資金を大塚賢一に払わせるため、被告人に頼み被告人を貸主とする借用証書を作成してもらったというのが事実である。
右の理由があったからこそ株式会社日本デジタルシステムの場合は、借用証書があり、株式会社関東電線工業の設立の場合には、大塚賢一のような問題がないため、借用証書を作成する必要がなかったのである。
(五) 従って、右借用証書の作成及び存在は、被告人が本件犯行以前から中村電線の脱税を知っていたとの証拠には全くならない。
2 昭和六〇年八月一二日の状況について。
検察官は、被告人が中村電線の脱税を以前から知っていたとの前提のもとに、昭和六〇年八月一二日被告人の指示のもと、会社の利益を少し落すべく、東京の銀行に架空仕入先の口座を作ったとしている。
(一) 中村元は原審の公判廷の主尋問において、右架空仕入先の口座名義である「赤石通商」、「代表者名である「松田泰」、住所である「江東区富岡二-三-四」、電話番号である「六四三-三五九一」について全く適当につけた旨供述したが、弁護側の反対尋問の際、弁護人より「江東区富岡二-三-四」という住所や「六四三-三五九一」という電話番号が、実際に存在することを指摘されるや、その一致は全くの偶然であると言い逃れをし、かつ、「赤石通商」との名称については最終的には以前から「赤石通商」という架空仕入先の領収証が、中村電線では予め用意されており、架空仕入先として使用する意図を有していたところからこの名称を使用したことを認めており、何ら昭和六〇年八月の時点で、始めてつけられた名称や住所等ではないことが、明らかにされている。
(二) 右明らかにされた事実からすれば、中村元は以前から、架空仕入先を作り、会社の利益を圧縮する方法を、充分知っていたこと、そして、その架空仕入先名義として「赤石通商」なる会社名を、中村電線においては使用していたことを、知っていたものであり、何も、被告人からわざわざ指示されなくとも自らの手で、誰の指示も受けることなく、架空仕入先を作る能力と技術を持っていたことが、立証されている。
(三) 又、仮に検察官の主張どおり被告人が口座を作り、すぐに小切手を入金するよう、中村元に指示したとすれば、新規開設の口座に、口座開設と同時に、すぐ小切手を入金すれば、税務署としては、直ちにこれはおかしいと気付くのが道理である。
ちなみに、現在の銀行取引の通例として口座開設と同時に小切手入金を受け付けることはなさないことになっており、税理士である被告人が右銀行の取扱いを知らない筈はないし、税務署勤務中、調査関係に長く携わり、税理士としての経験も豊かな被告人が、敢えて、そのようなあまりにも不自然な操作を指示すること自体、到底あり得ることではない。
即ち、右各諸点からして、中村元の「今年は利益が上がっているから、少し利益を落すべく口座を作りなさい。」等と被告人から、あたかも指示された旨の中村元の供述自体全くの作り事であることは明白である。
3 昭和六〇年八月一三日の状況について。
(一) まず、検察官が主張するこの時期に金三〇〇万円の授受が行われたことはあり得ない。即ち、被告人が昭和六一年一二月一日、中村元から預かっていた書類等を同人に返還した際、その内容を詳細に記載したものが「引渡書類」(弁第六号証、甲号証として提出されている同様の書面が一部中村元側の手により改ざんされていることは明らかであるが、三〇〇万円の点については改ざんはなされていない。)と題する書面であるが、右三〇〇万円についての記述は前記「引渡書類」一枚目の「一、封筒(封印してあるもの)三個」という部分の「<3>三〇〇万円」という部分に該当する。
ところで、この三〇〇万円は、一〇〇万円束三個からなっていて、それぞれに帯封があり、かつ、その帯封には日付が記載されている。そして、そのうちの一つの一〇〇万円束の帯封の日付は、「昭和六〇年八月二九日」となっている。検察官の冒頭陳述では、その受渡時期を、「八月中旬ころ」と幅を持たせてはいるが、中村元は原審の公判廷でこの受渡時期につき、「昭和六〇年八月一三日」と断定した供述をしている。然しながら、前記のとおり、右「引渡書類」からは、そのうちの一〇〇万円束一つの帯封の日付は、中村元の公判廷供述の「八月一三日」から、二週間以上も経過した、「八月二九日」の日付入帯封でまとめられていたことが明らかで、少なくとも、中村元が被告人に、この三〇〇万円のうちの一〇〇万円を渡したのは、昭和六〇年八月二九日以前ではあり得ないといわざるを得ない。原審の公判廷で、弁護人からこの点を追及された中村元は、被告人が右札束を入れ替えたかのような趣旨の供述をしているが、この三〇〇万円は、一括して封筒に入れられ、かつ、封印がされていたものであるから、中村元の、「そのうちの一束を被告人が入れ替えた」旨の供述は信用出来ないうえ、他の二つの札束も、右封印された封筒に入っていた事実に照らせば、八月二九日以前に、これら現金が、被告人と中村元との間に受渡されたことは、到底あり得ない。
(二) 又、中村元は、この三〇〇万円は被告人から「株式会社日本オペレーションセンター」の配当金として、準備させられた旨供述するが、このオペレーションセンターなる会社は、新旧二社あり(中村元は新会社については全く知らない。)旧会社は昭和六〇年五月には解散し、精算手続に入っており、新会社は同年六月に設立されており、いずれの会社でも、昭和六〇年八月ころに、配当金を準備する必要性は、全くなかったのである。
加えて、仮に被告人が金三〇〇万円をこの時期中村元から受け取るにしても、敢えて嘘言を中村元に申し向けてまで、金三〇〇万円を受け取るような、迂遠な方法を取る必要は全くなかった。なぜならば、検察官の主張によれば、被告人が本件脱税指導をして、報酬を得ようとした時期は、正に、この昭和六〇年八月一二日あるいは一三日ころであって、額面金一二五五万六三〇〇円の小切手を、大東京信用組合押上支店に入金をさせたのが、同月二一日というのであるから、もし右三〇〇万円という金員を被告人が必要としたならば、この預金口座から後述の七〇〇万円と同様に払戻しさせれば、こと足りた筈であり、少なくとも七〇〇万円の払戻を一〇〇〇万円にさせれば済む話である。それを、この七〇〇万円の授受の時期(九月初めころ)に近接した時期に、中村元にわざわざ嘘までついて金員を取得したという、検察官の主張には到底無理があり、それは偏に中村元の虚偽供述に基づく誤った認定の結果である。
この三〇〇万円は、後述のとおり、これより一年以上経過した、昭和六一年一〇月ころ、中村元が昭和六一年八月期の中村電線の決算を被告人にしてもらうために、被告人方に置いていったというのが事実である。
4 昭和六〇年九月三日ころの状況について。
(一)
(1) 検察官はこの金員は同年八月一二日ころ、被告人が脱税指導により報酬を得ようと決意して、その手始めとして裏金作りを中村元に指示して、額面金一二五五万六三〇〇円の小切手を、大東京信用組合押上支店に口座開設させて振り込ませたのち、その内金七〇〇万円を自己のものとするため、九月三日、中村元の妻みどりと永島の両名を同支店に赴かせ、七〇〇万円の払戻しをさせて、自己のものにしたという。
(2) 然しながら、この時期に、被告人が前述のとおり裏金作りのための口座開設を、中村元に行なわしめたというのは唐突であり不自然である。
加えて、検察官主張のとおり、被告人が、中村電線の裏金から脱税指導の報酬として、金員を取得しようとするならば、被告人と中村元との間には、もっと詳細な打ち合わせなり、交渉が持たれて然るべきところ、被告人の内心の意図(裏金作りを指示し、かつ、その裏金の内から金員を得る。)が、中村元に具体的に伝わらないまま、被告人の「今期かなり利益が出ているから、架空材料費を作らなければならない。どこかに口座を作らなくちゃいけないから、一番信用出来る人間に頼んで東京のどこでもいいから銀行に架空口座を作って来い」という指示に、中村元が、唯々諾々としてそれに従ったこと自体、通常あり得べきことではない。そして、中村元自身前述のとおり、右の様な裏金作りにはそもそも精通していたものであって、被告人が関与・指示する必要性などは全くないのである。
(3) さらに、被告人が裏金を口座に入金させたとするならば、その金額が一二五五万六三〇〇円という端数のある数字であることも、極めて不自然である。
被告人においても、たとえ中村電線の経理を見ていたとしても、いくらいくらの金額が中村元の手元にあるかの点まで知りうべき立場にあったとは到底考えられないところであり、この金額にて小切手を作成し入金したのは、中村元一人の才覚で行なわれたというしか考えられない。
(4) また、そのうちから、金七〇〇万円を払い戻させたという点も、その払い戻しの状況とともに、不自然な話といわなければならない。
まず、払い戻した金額である。
もし被告人が脱税指導に対する報酬を得ようとしたとすれば、一二五五万円余りの預金(中村元の供述によれば被告人は大まかな数字は知っていることになっている。)があるにも拘らず、なにゆえそのうちの七〇〇万円だけを払い戻させたという、その理由が全く明らかにされておらず、中村元もこの点については被告人からの指示内容について、何等具体的供述をしていない。
被告人が、もし本当に報酬を得てやろうと考えたとすれば、わざわざ預金額の一部にしか過ぎない金七〇〇万円を払い戻すために中村元の妻みどりと一緒に、事情を知らない永島を駆り出す危険を犯してまで、東京に行かせたことはいかにも不自然である。
この点は、被告人が供述するように、中村元が一人の才覚でその捻出した裏金を、東京の銀行に預けたものであり、その払戻しも被告人の関与しないことであったというのが真実である。
加えて、中村元自身において、払い戻してくる金をどうするのが、被告人に何ら事前に確認もせず、ただ漫然と被告人のいうままに、ともかく七〇〇万円を妻みどりに払い戻させたというのも、あり得る話ではない。その意味で、中村みどりの、この点に関する供述も、到底、信用出来ない。
(5) また、もし検察官主張のとおり、払い戻してきたその日のうちに、金七〇〇万円が被告人の手に渡っているとすれば、同金員が入れられていた封筒は、大東京信用組合の封筒であった可能性が高いところ、中村みどり及び永島の供述からは、右金員が入っていたのは、むしろ通常の茶封筒であったと思われ、中村元及び妻みどりがいう、払い戻してきた当日直ちに、被告人の手許に届けたという供述は、信用出来ず、このことはひいては、中村元の、この七〇〇万円の授受に関する供述全体の信用性を失わせるものといえる。
(6) ちなみに、この七〇〇万円は封筒に入ったまま、昭和六二年一二月一日被告人から中村元に返還されていることは、当日山﨑恵子が作成した引渡書類からしても明らかである。
そして、前述の三〇〇万円も封筒に入っていたことは、右引渡書類から明らかである。
然るに、原審公判廷には後述する六〇〇万円入りの封筒しか証拠として提出されておらず、他の封筒(七〇〇万円入りのもの及び三〇〇万円入りのもの)については、同日返還されたのち中村元の手で廃棄されたと推察されるところである。
中村元はなにゆえ、同じ日に返還された現金入りの封筒三個の内、一つのみを残し、他の二つは残しておかなかったのであろうか?
この点を推察すると、被告人はいずれの封筒の場合も日付を記載し、預かったものである旨供述していることからして、残されていない右二つの封筒にも預り日の記載がなされていたのである。しかし、中村元としては右二つの封筒が残っていたのでは、その日付の点、封筒の形状からして、中村元自身の供述内容との間に齟齬が生じ、自らの供述を検察官及び裁判所に信用されないと考えた結果、わざわざ中村元はこの七〇〇万円入りの封筒を、そして、前述の三〇〇万円入りの封筒も破棄してしまったものである。
(7) さらに、この七〇〇万円の払戻し後の残金の処理を見ると、中村元は、それこそ被告人に何らの相談もせず、了解も得ないで、被告人の全く関与しない形で、払い戻しているのである。この事実は、中村元は被告人の指示どおりに動く、主体性のない立場にあったわけではないことを物語ると同時に、この小切手の作成・入金・その他一切の行為が、中村元単独の考えで行なわれたことを明確に指し示しているのである。
5 昭和六〇年一〇月二八日ころの状況について。
検察官は、昭和六〇年八月期の脱税につき、昭和六〇年一〇月二八日ころ中村元が被告人方事務所を訪ねた際、被告人より「今期は四〇〇〇万円程、利益が上がっている。そして、メモを見せられ、お前らはこれだけ過去に脱税している。これがばれたら云々と盛んにおどかされ、何とか一〇〇万単位にしてくれとお願いしたら、結局なんとかしてくれるという話しになった。」との中村元の供述をもとに、このときに確定的に共謀が成立したと主張する。
(一) ところで、右日時ころ、被告人と中村元が会ったことは弁護人としても否定するものではないが、この話し合いの際、想起されたいのは、被告人が「今期は利益が四〇〇〇万円程上がっている。」と言ったその金額である。この四〇〇〇万円という数字が被告人の口から出た数字であること及びその金額に間違いないことを検察官は何回も中村元に念を押し、同人は確定的に間違いない旨答えていることである。
(1) まず、被告人が四〇〇〇万円といった際には、未だ中村電線からは、確定申告書を作成する際に必要な期末資料は、被告人方事務所には届いておらず、被告人が中村元に四〇〇〇万円という数字を口に出して際には、最終の試算表は作成されていない段階であったことは、関係各証拠から明らかである。
(2) そして、被告人側で確定申告書にある最終利益八九二万余りから、期末における調整額を計算し、期末処理前の、利益額を出したところによれば、その利益額は約三六七三万余りであることは弁第五号証のとおりである。
そして、右証拠において調整したものは、主に未払金・納税充当金・減価償却費・賃借料等であって、検察官の指摘するところの、外注費や仕入費については、ほとんど数字的に動きがみられないのである。
ちなみに、検察官は右弁第五号証の数字等につき全く争っていない。
(二) ところが、検察官は永島の検察官に対する昭和六三年一一月二一日付供述調書における供述をもとに、被告人は右中村元との話し合いののち、永島に命じて、外注費や仕入費を架空計上し、再度右費用をコンピューターに入力し、総勘定元帳を作り直し、昭和六〇年八月期の中村電線の決算につき、その利益を四〇〇〇万円から八九二万円に圧縮したと主張する。
然しながら、この主張が極めて矛盾に満ちたものであることは計算上から明らかである。
即ち、検察官の主張からすれば、この段階で少なくとも外注費につき、被告人の指導外であった今井信昭らの分を除き、月一二〇万円合計金一四四〇万円余り、仕入費につき、有限会社大川電材分五一二六万円余り、中島電線加工分四六七万円余り合計金五六九三万円余り、以上外注費と仕入費を足して合計金七一三三万円余りを、新たに架空計上し、コンピューターに入力、総勘定元帳を作り直したことになるが、これだけの金額を新たに架空計上すれば、「四〇〇〇万円」という当初の数字からして、これだけで三〇〇〇万円以上の大赤字となり、前述のとおり、期末処理をすれば、六〇〇〇万円という巨額の赤字申告をしていなければならないことになるのである。
原判決は弁護人のこの主張に全く答えておらず理由不備のそしりを免れない。
(三) 又、以上述べたことに加え、中村元が原審の公判廷において、当時は「僕の感覚では一〇〇〇万円ぐらい」利益は出ているという感じを持っていた。
そして、これはいわゆる脱税工作をした後の数字である旨述べているように、自らが中村電線の実質的経営者として、脱税工作をなした後の利益金の概要を、自分なりに、把握していたことを供述している。
従って、右中村元の供述、即ち、感覚を前提に、検察官の主張とおり、更に被告人において、架空仕入費や毎月当たり一二〇万円余りの架空外注費の上乗せをすれば、前述した巨額な金額以上の赤字を、計上しなければならなかったことは必定であり、この点からしても架空仕入費等検察官の主張する被告人がなしたとする脱税工作が、予め、中村電線において、即ち、故中村きみと中村元の共謀のうえ、既に経費計上の画策がなされていたことが、十二分に認められるのであって、被告人は右脱税工作につき何らの関与をしていない。
(四) 更に、念のため昭和六一年八月期についても考察すると、中村元は、当時が赤字になった理由について、当公判廷において、「六〇年八月期が一応四〇〇〇万円くらい黒で、がちゃがちゃやりましたので、その四〇〇〇万円くらいは俺が落としちゃえということで、落としたのでとんとんにはなるんじゃないかと思ってました。」、「ちょっとやりすぎたかなという感じはしていました。」といみじくも述べているように、中村元においては、前期である昭和六〇年八月期につき、自分では、いろいろな脱税工作をした後の利益金が、一〇〇〇万円くらいと思っていたところ、被告人から四〇〇〇万円くらいになるといわれたため、自分の感覚で「とんとん」、即ち、利益金が殆ど生じないような状態にするには、前記の数字から推し測り、更に四〇〇〇万円程の架空経費の上乗せが必要だと、思っていたことがはからも露呈されており、被告人の関与なしに脱税工作をなしていたことを自ら認めているのである。
6 昭和六〇年一一月一日ころの状況について。
(一) 被告人がこの金員を中村元に要求した状況についての検察官の主張も、そして、それを事実として認定した原判決は極めて不当である。
まず、被告人が、同金員を中村元から預ろうとした動機について、簿外資金取得のため、公訴時効の完成まで、被告人自らがこれを保管しようとしたためという。然し、少なくとも、この点の証拠は皆無であり、この点の検察官の主張は想像以外の何物でもない。
更に、中村元の自宅に保管しておくより、被告人が預っておくほうが安全と、被告人が中村元に申し向けたというが、前記のとおり、被告人がこの金員を預っていることが、仮に、税務当局等に明らかになった場合における、被告人の立場を考えた場合、その危険性は極めて高いものがあり、このような身の危険を犯してまで、中村元の手元から、被告人がこの金員を預かる必要性は、全く無い筈であり、到底予測される状況ではない。
ちなみに、中村元はその自宅に隠し金庫・隠し戸棚の類を多数持っており、安全性の点からも、わざわざ中村元が被告人に右金員を預ける必要性は全くない。
ましてや、脱税指導の報酬としてならば、自分が得ようとする金員を、「預かり」などといわずに、中村元から完全に取得すれば済むことである。中村元によれば、後に被告人が、そのうちの半分を取得する意思を表していたというのであるから、そのとおりならば、七一〇〇万円(七五〇〇万円が虚偽であることは前述の引渡書類が中村元側の手で改ざんされている事実から明らかである。)の半分を中村元から受領すれば済むことであり、中村元のいうような迂遠なる方法を取る必要は全くない。
(二) 更に、この金員を入れたバックは、そのまま被告人の事務所の書類置場の倉庫として使用していたプレハブ建物の棚の上に被告人は放置していた(この点、本件バックの保管状況について被告人の供述は、段ボールにバックごと入れておいた等具体的・詳細で、信用するに値する。)が、その場所は、七〇〇〇万円を超す多額の現金を、長期間保管して置くには適さない、盗取される危険の極めて高い場所であり、このことは、被告人が同バックに金七一〇〇万円もの大金が入っているとの認識があったとは、到底考えられないことを、雄弁に物語っている。
もし、仮に原判決認定のとおりであるとすれば、それこそ、金七〇〇万円の場合と同様に、架空名義で東京の銀行等に預金しておけば済むことで、それがまた通常の簿外資金保管の方法であろう。
この点の被告人の供述は、中村きみ生存中、同女から「自分に万一のことがあったら、大切なものがあるので元に言ってそれを持ってこさせ、叔父の今井信昭立会のうえで開封し、元に渡してほしい」と言われており、その言に従って、行動したまでであり、同バックの中身は、きみの相続関係の書類や財産が入っていたと思っていたというもので、このバック引渡しの際に、今井の立会いを求めたという(今井信昭も被告人の供述に沿う供述をしている。)、被告人のその後の言動等から照らしても、その供述は十分に信用出来る。
即ち、原判決の認定は以上の諸点からして誤りである。
7 昭和六一年一月ころの状況について。
―― 弁護人側の新たな指摘 ――
(一) 中村元はこのころ被告人方事務所を訪れ、被告人に対し、母きみの相続に関する税務処理を依頼し、被告人は、基本的には右事務処理をすることに同意した。その際、被告人は中村元に対し、相続税申告に必要な書類である戸籍謄本等を用意するように指示し、その後、被告人は新件依頼があったとする書類を作成して、被告人事務所に保管しておいた。このような状況から、被告人は、前年の一一月一日ころ、中村元が被告人のもとに持参したボストンバックには、きみの相続に関する財産や書類が入っているとの認識をますます強くしたのである。
ところが、中村元は被告人に右依頼をし、同人から必要書類の取寄せを指示されたが、その後は一向に被告人に対し、事務処理につき具体的依頼をせず、かつ、被告人の今井信昭を連れて来てバックの開封に立ち会って欲しいとの要請にも言を左右にして応じなかったため、きみの相続問題はその後ずっと放置されてしまうこととなり、右バックも前記棚の上に置かれたままになってしまった。
(二) しかして、原判決認定のとおり、それ以前から被告人と中村元との間に、中村電線工業の脱税の共謀が成立していたとすれば、右状況の推移は極めて不自然である。
なぜならば、もし、中村電線工業の脱税を共謀し、その隠蔽工作を被告人が行なっているならば、きみの相続に関する税務申告というのは、中村電線のなしていた脱税によって得た金員の少なくとも一部について、裏から表に出来る格好の機会であったはずなのだからである。
然しながら、被告人はきみの相続について実際のところ何ら作業をせず、相続税申告期限を徒過しており、その後もきみの相続税については特別考慮をしなかったし、考慮するだけの意思も持っていなかったのが現実である。
(三) 即ち、被告人がきみの相続について何らの動きもしなかったという事実は、逆にいえば、被告人と中村元との間に脱税の共謀がなかったことの何よりの証左といえるのであって、当裁判所におかれては、この点につき十分なる考察を加えられんことを希求するのである。
8 昭和六一年六月初めころの状況について
(一) これについては、証拠上明らかなとおり、昭和五九年八月期においても、毎月一〇〇万円や一五〇万円といった金額にて外注費の上乗せがなされている。
そして、その合計額は一六一〇万円にのぼっており、その金額は、検察官において被告人が関与して上乗せしたという、昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期の各期の毎月一二〇万円の合計額にほぼ匹敵する金額である。
そして、これについても故中村きみ生存中は、中村きみが伝票上にて操作済みのものを、被告人事務所に報告し、事情を知らない、被告人及び永島においては、そのまま計上していたのである。
この点は、故中村きみ生存中同女がその処理をなしていたとみられる、昭和六〇年八月期について、中村みどり作成分として合計金一六〇〇万円余りが計上されていることからも十分推認出来るものである。
ただ、中村きみが昭和六〇年九月一七日死亡してからは、中村元は伝票処理にうといため、又、妻みどりも故中村きみ生存の時代のように、故中村きみより指示されていなかったため、昭和六〇年一〇月以降は計上するのを忘れたか放置し、たまたま、昭和六一年六月に、山﨑会計事務所が伝票のチェックをすることとなった折、永島が善意でそのチェックを手伝い、記入の仕方を教えてもらったと考えるのが筋である。
なお、付言するに、顧問会計事務所として顧問会社の伝票のチェックをし、かつ、領収書等についても、相手先からもらい忘れているならばもらっておくように顧問会社に指示することは、当然のことであり、何ら奇異なことではない。
この点について、昭和六一年当時、具体的にどのようなことがなされたのか、証拠調べの結果を見ても判然とはしないが、会計事務所としては、今回の場合ならば、第一に、総勘定元帳と現金出納残高式伝票の記載が合っているか否か、次に、現金出納残高式伝票の記載に合致する支払いを証明するところの領収書が保管されているか否かを、確認するのが手順であり、いきなり領収書を作れ等と、被告人が指示したと言うのは、余りにも飛躍しすぎている。
(二)
(1) ここで、中村電線と株式会社サーモテックのコネクター修理検査の件につき述べると、原判決は右修理検査分は全て脱税分であるという。
然しながら、右修理検査加工料というものは、サーモテックの売上げに以前から計上されていたものであり、昭和六一年六月になされた、館林税務署のサーモテックに対する税務調査の際には否認されておらず、逆に売上げ漏れがあったとして売上げ計上されているものである。
この点、中村元も原審の公判廷において、検察官の質問に対し、「その件については、両方とも代表取締役が私なもので、金銭的に解決出来ない問題が大分ありますんで、そういう相談は私がしたと思います。」と歯切れの悪い言い方ながら、同人の意識として実際には同じ会社なので、コネクター修理検査費用として税務署に認容してもらう方法を、自らが被告人に持ちかけた旨の供述をしている。
(2) このため、被告人としては、サーモテックが中村電線の一〇〇%子会社ではあるが、契約書もなしに修理検査をし売上げ計上していては、最終的に税務署とのやり取りの際、税務署にサーモテックとしては売上として、中村電線としては経費として認容してもらえないため、従前から行なわれていた取引状態を明確にするために、契約書の作成を指導しただけであり、あくまでも節税の一環としてその指導をなしたにすぎなく、脱税工作としての意識は毛頭なかったものである。
又、このことは、以前からコネクター修理検査加工料は、サーモテックとしては売上げとして、中村電線としては必要経費として計上されていたものであって、昭和六一年六月の段階で、以前にさかのぼって計上したものではないことからしても、なおさらのことである。
(3) なお、今回の中村電線に対する査察においても、この点脱税とされているが、そうだとすると、従前のサーモテックにおける売上げ計上は否認されたのであろうか。
もし、そうでないとすれば、今回の検察官の起訴及び原判決は極めて不当と言わざるを得ない。
9 昭和六一年六月二〇日ころの状況について。
(一) 中村元は、この金員の受け渡しがなされたのは、被告人より『中村電線のサーモテックへの外注分二四〇〇万円というお金を認めてもらったので、お上に持っていかれる半分の六〇〇万は私が預かりますから持って来て下さい』旨いわれたので、昭和六一年六月二〇日ころ手渡したとの供述をなし、原判決は、この金員も報酬であると認定している。
(二) 然しながら、被告人が中村元に申し向けた右内容は、昭和六三年一一月九日付大蔵事務官浅間博作成の報告書から虚偽であることは明らかである。
同報告書によれば、サーモテックの決算期は、一一月一日から翌年一〇月三一日であるところ、問題の昭和五九年一一月一日から翌昭和六〇年一〇月三一日までの決算期中、昭和六〇年七月一五日以前の売上げは全て計上されていて、売上げの計上漏れは七月一六日からその年の一〇月三一日までの金二五五万七二一三円のみであったことになっている。
従って、被告人か中村元に申し向けた話の内容は、右報告書で明らかとなっている事実とは全く異なっている。
又、仮に中村元の供述が事実であったとすれば、その言葉の真偽は、実際にサーモテックが修正分を納税するときに、直ちに明らかになることであって、そのことに税務のプロである被告人が思い至らないわけがない。かように、被告人が中村元にすぐ判明するような嘘までついて、金六〇〇万円を得ようと画策することなど、到底考えられることではなく、そのような要求をすること自体、そもそもあり得ないことである。
(三) 更に、関係証拠から明らかなように、被告人は、右六〇〇万円を中村元から受領した際、右金員を封筒に入れて厳重に封をしたあと、その封筒の表に「6/20、中村より予り」と記入しているが、もし、被告人がこれを自己のものとする意思を有していたならば、そのような文言を書く必要は全くない。
中村元は、この封筒に書かれた「予り」との文言を、その封筒自体が確たる物証として存在するが故に、そして、それに合わせるがために、被告人が「俺が預かる」といっていた旨供述するが、被告人が報酬目的にて右金六〇〇万円を受領するならば、わざわざ「預かる」などといわずに、「貰う」ことにすれば済むことであり、この点についての合理的判断を示すことなく、漫然これも被告人の報酬であるとした原判決の認定は到底承服出来るものではない。
(四)
(1) この六〇〇万円の受け渡しは、被告人自身、この時点ころには中村電線工業が脱税をして、簿外資金を有していることにうすうす気付き(勿論、本件で明らかになった程の多額の脱税をしていることなど被告人は想像だにしていなかった。)、中村元に対し、簿外資金の追求をなしているおりに、中村元が被告人に許にあとこれだけありますといって持って来た金員であって、中村元としては被告人がうるさく簿外資金の追求をするので、それをかわすため、また、それだけで全てであると何とか被告人を納得させようとして持ち込まれたためなされたものである。
(2) そして、被告人は、前記4の七〇〇万円のときと同様、脱税した金を中村元の手元に留保させて置けば、又々、被告人に内緒でそれを使用しようとすることを危惧するとともに、後日修正申告をなした際の納税金の一部に充当するため、被告人の管理下に置いておいたにすぎないものであり、このような事情にあったからこそ、封筒に自ら「予り」と書き、ガムテープにて封筒(被告人が預かっていたその他の金員も全て封印等がなされている。)までなしたものであって、報酬としての性格は全くなく、原判決の金員預かりに関する認定は、被告人が多額の現金を預かっていたという外形的事実のみに目を奪われた不当なものといわざるを得ない。
10 昭和六一年一〇月ころの状況について。
(一) 検察官は、被告人が本件犯行の発覚を恐れて、中村電線の解散を考え、その旨中村元に伝えた事実があるとの前提で、立論を組み立てている。
そして、被告人が本件犯行発覚の危惧を抱いた時期は、昭和六一年九月末ころと主張するが、その時期に、本件犯行が税務当局及び検察当局に知られるような客観的状況は皆無であり、その主張は、検察官の単なる推測にすぎない。
従って、被告人がそのような動機で、中村電線の解散を、中村元に持ちかけたというのも、何等根拠のないものである。
(二) 被告人が中村電線の解散と新会社設立とを考えたのは、同社及び関連会社が、前述のとおり大塚の不満、関口國志郎の退社、上尾工場の久保田の退職等、中村電線及び関連会社が内部から崩壊寸前の状況になり、右危機的状況は中村元一人の才覚では乗り切れないと判断した結果である。
(三) そして、被告人は新会社の役員に然るべき人物を据えて、実質的には中村前線を発展的に解消しようとしたわけであるが、中村元においては、中村きみ死亡後、自分が中村電線及びその関連会社の実権を握り誰の束縛もなく、自分の思いどおりに経営をしようと思い、そのとおりに行動をなしていたところに、被告人の横槍が入ったことで、従前から被告人の存在をけむたがっていた中村元は、被告人が自分を追い出しにかかっていると邪推し、更には、自己の不正行為を被告人に知られ、それによる自己の身にかかる当局の調査を恐れたため、被告人との関係を断つことが、自分の保身に取って最も簡単であり、かつ、最上な手段であると考え、結局は、被告人を本件脱税の事実に巻き込むに至ったのである。
11 昭和六一年一〇月末ころの状況について。
(一) 原判決は、前述のとおり三〇〇万円を被告人の報酬として認定しているが、その受け渡し時期については判断していない。然しながら、前述の如く検察官の主張は昭和六〇年八月一三日に、被告人が中村元に要求した結果、そのころこれを脱税指導の報酬として受け取ったものと主張し、本件の共謀もこの時に成立したというのであるから、この三〇〇万円の受け渡しがいつ行われたかは、極めて重要な事実であり、被告人及び弁護人は、右認定時期如何によっては、更に反証を用意することとなるが、原判決のように、報酬として認定しながら、その時期を明確にしないことは到底許されるべきことではない。
(二) そして、この点の被告人の主張は、右三〇〇万円を中村元から受け取った時期は、検察官主張の時期から一年以上経過した、昭和六一年一〇月ころであり、その授受の理由は、中村電線が以前から脱税をしていたことを知った被告人が、中村元に対し、過去の脱税行為の内容を明らかにするよう強く求め、さもなくば、六一年期の決算事務を行わない旨の、強硬な態度を表明したため、中村元が、被告人の右かたくなな態度を何とか和らげて、六一年期の決算作業をなしてもらいたいとの意図で、被告人の玄関先に被告人が拒否したにも拘らず、それを置いて、中村元は逃げるように立ち去ってしまったというものであり、又、これが真実である。
そして、被告人は、いずれ中村電線の法人税の修正申告の際、必要となる追徴金等に充当するつもりで、中村元に返還することなく保管していたのである。
(三) なお、被告人は、この三〇〇万円につき、最初に中村元が持参したのは、昭和六〇年一〇月二八日ころで、そのときは被告人の強い拒絶により、中村元が一旦それを持ち帰ったと供述する。
この中村元が翌六一年一〇月ころ被告人方に持参した三〇〇万円と、昭和六〇年一〇月二八日ころに持参した三〇〇万円とは同一のものである。
なぜならば、本件で中村元方から押収された証拠から明らかなように、同人は古い日付の入った帯封付き札束を、長期間(国税に捜索されるまで)、自宅に保管していたという事実からして、昭和六〇年一〇月二八日ころ被告人方に持参した三〇〇万円と、翌六一年一〇月ころに持参した三〇〇万円とが同一のものである可能性は十二分にあり、そうであるからこそ、被告人が中村元に引き渡した三〇〇万円の金員のうち、一〇〇万円の束の帯封の日付が、中村元が被告人に持参したとする昭和六〇年八月一三日以降の「八月二九日」になっていることも、合理的に説明出来るのである。
この点の被告人と中村元との供述は全く異なり、真実はいずれなのかの判断に当たっての直接証拠はない。
然し、このような状況下において、右両名のいずれが真実を語っているかの判断をするときに、前述の中村元供述の不自然な諸点は、その供述の信用性を疑わしめるに十分であり、この三〇〇万円が、被告人の脱税指導の報酬金の性質を帯びているものでないことは、原審の弁論で述べたとおり、明らかである。
12 昭和六一年一一月末以降の状況について。
(一) 中村元は、この時期以前から被告人の修正指導に対して全く誠意ある態度を示さず、これに対し、被告人は、自主的に修正申告をしないならば、税理士として、然るべき方法を採らざるを得ないとの忠告をしていたが、前述のとおり中村元、被告人の誠意ある意図を邪推し、このままでは被告人に中村電線の恥部を全て握られており、今後とも顧問税理士として居続けられては、いずれ修正申告をなさせられ、修正申告に応じなければ税務当局に脱税の事実を申し述べられてしまうと考え、被告人との顧問契約の解除に踏み切った。
この点は、中村元の代理人である高橋弁護士からの書面にて「税理士としての守秘義務」が強調されていることからも明らかである。
そして、顧問契約の解除にともない、一切の書類を被告人事務所より引き上げ、中村電線の脱税を隠蔽しようとしたのである。
ところが、被告人としては中村元のやり方があまりにひどいため立腹し、昭和六一年一二月一一日付にて内容証明郵便を発した。
中村元は、右内容証明郵便を受け取ったのち、やり方を柔らげ、被告人と和解を同月暮なしたがその後も、被告人が本気で本件脱税の事実を、税務当局に漏らすかも知れないとの不安を抱いていたところ、昭和六二年二月始め税務調査が入ったことで、被告人が本件脱税の事実を漏らしたものと思い込み、本件犯行に被告人を巻き込むべく、又、中村元自身の刑責を軽くするべく被告人の指導に従って本件脱税を行なっていたものであるとの供述をなしたものである。
(二) もし、被告人が、中村元との間に、本件脱税に関して共謀し、自ら多額の報酬を得ていたとすれば、果たして、この時期に自らの税理士という資格を失うことになるような行為に出るであろうか。
たとえ、中村元との関係が悪化し、顧問関係の解消という事態が発生しても、何とか、自らの犯行を隠蔽しようと、中村元の感情を慰撫する行動をとるのが普通である。
しかるに、被告人の行動はこれとは全く正反対のものであり、このことは、とりもなおさず、被告人が中村元との間に何らの共謀もなしていなかった何よりの証拠である。
(二) もし、被告人が、中村元との間に、本件脱税に関して共謀し、自ら多額の報酬を得ていたとすれば、果たして、この時期に自らの税理士という資格を失うことになるような行為に出るであろうか。
たとえ、中村元との関係が悪化し、顧問関係の解消という事態が発生しても、何とか、自らの犯行を隠蔽しようと、中村元の感情を慰撫する行動をとるのが普通である。
しかるに、被告人の行動はこれとは全く正反対のものであり、このことは、とりもなおさず、被告人が中村元との間に何らの共謀もなしていなかった何よりの証拠である。
第三、永島みやの検察官面前調書における供述の信憑性のついて
一、原判決は、永島の検察官に対する昭和六三年一一月二一日付及び同月二三日付各供述調書の供述内容には、永島作成の「外注支払台帳」と題する書面の作成経緯、一見しただけでは意味不明な同書面中「不突合分」をはじめとする幾つかの記載事項の意味内容、現金出納残高式伝票中のボールペンで記載した箇所のインクの濃さに違いがある理由、外注費支払帳の架空外注に関する鉛筆等による記載方法、更には、昭和六〇年八月期の架空仕入れについては先に金額だけをコンピューターに入力しておき、仕入先名称は昭和六一年六月になってから入力したことなどをはじめとする総勘定元帳中の仕入先名に関するコンピューターへのデーター入力の経緯と時期など永島が進んで供述しない限り判明しない事項もかなり含まれているばかりでなく、検察官の取調べにおいて、永島は、中村電線の昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期に関する法人税のほ脱についての被告人の犯行(本件犯行)を結局は認めたが、昭和五九年八月期のほ脱については被告人の関与を肯認しなかったことなどに照らすと、認める点と認めない点とをはっきり区別して供述しているうえ、永島と被告人との身上等の関係を考慮すると、敢えて虚偽の供述までして被告人の不利益になることと肯認しなければならない事情も全く認められないところであるとし、永島の検察官に対する供述調書における供述を全面的に信用・採用し被告有罪の重要なる一つの柱にしている。
二、そこで、右各点について検討するに、第一に永島は同女の検察官に対する昭和六三年一一月二一日付供述調書において、昭和六〇年一〇月二八日以降に、被告人に指示されて外注費の上乗せや、仕入費の上乗せをしたとの供述をなし、更にその裏付けとして中村電線の昭和六〇年八月期における仕入と外注については、現金出納残高式伝票の記載順序と、総勘定元帳の記載順序が異なっていることが、改ざんをした証拠であると述べている。
そこで、
1 昭和六〇年八月期についてその点を再度検証するに、総勘定元帳と現金出納残高式伝票の記載順序については、原審における弁論要旨にて詳述しているので、割愛し、その検討結果について述べることとする。
(一) ところで、永島は検察官に対する昭和六三年一一月二一日付検面調書において、昭和六〇年八月期については、昭和六〇年一〇月二八日すぎころ、被告人に言われて「架空の仕入取引を加え、外注費の金額を増やしてもう一度一年分を打ち出した。」、「勿論、被告人から言われた仕入や外注だけではなく、本当に金額を訂正したり、後から取引があったことが分かったような場合には、今申し上げた方法で訂正しますので、伝票の記載順序と総勘定元帳の打ち出し順序が違ってくることがありますが、仕入と外注については、毎月順序が狂って打ち出されています。これは私が被告人から言われて入力し直したからでした。」、「なお、今見せてもらった元帳には仕入先として『大川電材』、『中島電線加工』といった相手方の名前が入っていますが、これは後からお話するようにこの部分について、昭和六一年六月にもう一度訂正入力して取引先の相手方名を追加したからです。」、「昭和六〇年一〇月の段階では仕入については、相手方の欄を空白にしておき、被告人に言われた金額だけを上乗せし、外注費については、金額を訂正して総勘定元帳を作り直しました。」、「そして、改めて試算表を作って手続きを進め、中村電線の利益を圧縮し所得をごまかして税務署に申告していました。」と供述し、更に、総勘定元帳の作成に必要なコンピューターへの入力出力の操作方法につき、「事務員によって入力する順番はそれぞれ違いますが、私は、同じ日の取引については、伝票の後に書いてある方から入力していました。この方が、出力した場合に伝票に記載された順序で打ち出されてくるからです。」、「そして、一旦入力した取引を訂正する場合には、訂正の対象となる取引をもう一度入力し、削除キーを押して、その取引をデーターから削除してやります。それから、訂正された取引を入力してやるのです。そうすると訂正した取引はその日に行われた取引の中で、一番最後に入力したことになりますから、これを出力したときには、伝票の記載順序にかかわりなくその日の取引の一番最初に打ち出されてくることになります。」と説明し、被告人に指示された架空仕入や架空外注について、伝票の記載順序とは異なってコンピューターから打ち出されてくることを理由づけている。
(二) しかし、検討結果によれば、前記記載順序について、まず外注費についてみると、
昭和五九年一〇月一一日及び昭和六〇年二月一二日分については、現金出納残高式伝票の記載順序に従い、総勘定元帳は打ち出されている。
また、昭和五九年一二月一〇日分については、現金出納残高式伝票と総勘定元帳の記載順序は異なるが、「一一月分外注費支払い」は、「短期借入金」の次に打ち出されている。
(三) 次に、仕入費についてみると、架空仕入費は、総勘定元帳ではいずれもその日の始めに打ち出されており、現金出納残高式伝票の記載順序とは異なっている。
(四) そして、全般的に特色としては、必ずといって良い程、総勘定元帳の場合には、その日の金額のいわゆる帳尻り合わせと考えられる短期借入金・預金の払い戻しや家賃・土地代の固定経費の支払いがまず始めの方に打ち出され、その後に当日支払いのなされた役員報酬や給料・源泉預り金等、福利厚生費・接待交際費が打ち出されてくるところ、現金出納残高式伝票の記載では役員報酬や源泉などの預り金が始めに記載され、先程指摘した家賃や短期借入金が最後の方に記載されていることである。
(五) そこで、以上の事から判明することは、第一に前記永島の供述では総勘定元帳と現金出納残高式伝票では毎月仕入と外注については、記載順序が異なるとあるが、実際には、前記のとおり昭和五九年一〇月一一日分及び昭和六〇年二月一二日分は記載順序は同一であり、永島が前記供述調書にて述べている様な関連性は否定されること、第二に、本来現金出納残高式伝票は領収証などを見ながらこれを記入するため、取引先名を詳しく記載するが、総勘定元帳の場合、コンピューターに入力するため取引先名はある程度省略して入力するのが通常である。そして、今回の架空仕入先である有限会社大川電材・中島電線加工が総勘定元帳には「オオカワデンザイ」、「ナカジマデンセン」とのみ記入されているのは、右入力の仕方から考え充分うなずけるところであるが、もう少し詳細に記載すべき現金出納残高式伝票にも「大川電材」「中島電線」とのみ記載があり、「(株)大川電材」とか「中島電線加工」と記載されていない。「(株)大川電材」の場合、(株)を省略する事はある程度理解出来るが、「中島電線加工」につき「加工」を省略することは極めて不自然である。
そして、この点について考察すると、まず最初にこれら架空仕入先名がコンピューターに入力、即ち総勘定元帳に記載がなされ、その後、それに対応する伝票を作成する必要上総勘定元帳の記載をそのまま現金出納残高式伝票に書き写したと考えるのが最も素直な思考方法であり、昭和六〇年一〇月末に総勘定元帳を作成した際には、架空仕入先名は既に総勘定元帳には記入がなされていたと認めるのが至当であること、第三に、中村電線の現金出納残高式伝票の記載には、記載漏れが多く、後日不足分を記入することが非常に多いことが判明する。
(六) 従って、第一に前述のとおり関連性が否定されるところから、前記永島の供述はそのまま措信することは出来ないばかりか、前述のとおり、永島の供述をそのまま措信し、検察官の主張のとおり、昭和六〇年一〇月末の時点で架空仕入や架空外注費を入力すれば中村電線の昭和六〇年八月期は巨額の赤字が出るという客観的事実からしても、右永島の供述を信用することは出来ない。
そして、永島が、何故かような供述をしたとすれば、検察官の抱いていた本件事件に対する予断と偏見を持った思い込み
即ち、
検察官は、昭和六三年九月から在宅にて中村元を取り調べ、中村元より被告人が本件犯行に関与しているとの供述を得たうえ、昭和六三年一一月始め被告人及び永島を本件脱税容疑で逮捕した。然しながら、検察官は右中村元の供述が当時国税より検察庁に送致されていた資料と照らし、客観的証拠と合致しない部分が多々あったにも拘らず(三〇〇万円の帯封の点、旧日本オペレーションセンター解散の点、赤石通商名義の領収証が存在していた点、大川電材と枝川電材の住所・電話番号が一致していた点、その名称が一字違いであった点、コネクター修理検査料につきサーモテックの帳簿上は昭和六〇年七月一五日まで計上されており、税務当局が修正申告をなさしめたのは二五五万円余りである点など)、その資料を何ら検討せず、その供述がすべて信用出来るとして、いきなり逮捕に踏み切っており、検察官が本件について当初から予断と偏見を持っていたことは明白である。
からくる誤導が永島をして前記の如き供述をさせてしまったとしか言い様がないのである(なお、永島は極めて暗示を受け易く、又、主体性欠ける性格の持ち主であることから、当時、中村電線の経理処理をなしていた際には何ら不自然なことと思っていなかったことが、国税局における取調べ及び検察庁における同女の逮捕といった事実が積み重なり、自分は悪いことをしていたのだと思い込みをし、やってもいない行為をさもあたかもなしてしまった様に錯覚し、右のような供述をしたものと推測される。永島は当時既に五八才であり、それまで平穏な社会生活を営んでいた者であって、逮捕という事態に直面した際の同女の驚愕不安は想像にかたくない。)。
(七) なお、永島の昭和六三年一一月二二日付検面調査中には、昭和六〇年八月期について、「総勘定元帳には、大川電材や中島電線加工(但し実際には「加工」とは記載されていない。)といった仕入先名が入っていますが、これは、今お話したように昭和六一年六月にもう一度打ち直したものです。これまでの癖で半年分を区切って、昭和六〇年二月までをまとめて打ち出し、その後、残りの半分を打ち出しましたが、仕入の相手方を入力してから一年分をまとめて一回で打ち出しました。」、「ですから、前の半年分のインクの濃さと後の半年分のインクの濃さが同じになっています。」、「普通は半年分をまとめて打ち出し、ひとまず綴っておいて決算期に後の半年分を打ち出して合体させ、一冊の元帳にしますのでインクの濃さが前半と後半で違ってくるのが普通なのですが、この年度分は、同じ濃さになっています。」との供述がある。
右供述によれば、先程指摘した信用出来ない同女の供述とも相まって、「大川電材」とか「中村電線」とかの架空仕入先名を昭和六一年六月に改めて入力したこととみえるが、この事は、先程指摘した取引先名の記載を考慮に入れて考えなければならない。
即ち、前記永島の供述のとおり、昭和六一年六月に改めて、昭和六〇年八月期の総勘定元帳を打ち出したとすれば、それは、昭和六一年六月サーモテックに税務調査が入った際、次に当然予期されるところの、中村電線に対する税務調査に備えて、中村電線の総勘定元帳の記載と現金出納残高式伝票の記載に一致していない部分があるか、否か、前もって、調べるため(これは、会社の税務関係の申告を任せられている顧問税理士として当然の職務である。)コンピューターから同期の分を一年分まとめて打ち出し、現金出納残高式伝票と照合する必要のためである。
そして、その結果、総勘定元帳には記載されている「大川電材」とか「中島電線」の仕入先名が現金出納残高式伝票には記載がなかったため「記載漏れ」を指摘したというのが、最も実情の沿った推測であり、何ら、被告人が、不正な脱税行為に関与したという証拠には、なり得ないのである。
2 次に、昭和六一年八月期について再度検証した結果から永島の供述を考える。
(一) 永島の昭和六三年一一月二一日付検面調書においては、昭和六一年八月期につき、中村電線の関連会社である株式会社サーモテックに昭和六一年六月初めころ、館林税務署の税務調査があった時のことであるが、その「調査が始まったころ、山﨑会計事務所の二階建ての事務所に中村元がやってきて被告人と何やら話しをしており、小耳にはさんだところでは、中村電線とサーモテックの間にコネクターの修理に関する契約がある、というような事を言っていました。」、「その後、私は被告人からまたメモを見せられ、中村電線からサーモテックにこれだけのコネクターの修理の外注がある。それに中村電線の今期の外注について、毎月一二〇万円増やすから元帳を訂正し、中村に言って領収書を書いてもらい、外注の台帳を訂正させろ、昭和六〇年八月期の外注についても領収書を作っておいた方がいい。」、「そこで、私は、既に入力していた総勘定元帳に毎月一二〇万円と被告人に見せられたメモを基にコネクターの金額を加えて、外注費の金額を訂正しました。」また、仕入関係については、同女の同月二二日付の検面調書においてサーモテックの税務調査が始まった折、「被告人から二階事務所でメモを見せられ、このように仕入先が決まったから総勘に名前を入れておいてくれと言われ、」メモに基づいてコンピューターに入力しましたとの供述をなしている。
そして、更に、「この仕入に対応するように会計伝票を書き直してもらうべく、私が訂正すべきところに訂正すべき内容を書いたメモをはさんでおき、事務所でみどりさんに書き直してもらいました」、「この仕入に関する訂正は、外注費に関する訂正と同じときに一度にやってもらったように記憶しています。」旨供述している。
(二) 以上の供述のとおりとすれば、昭和六一年八月期も昭和六〇年八月期と同じく外注費・仕入費については、総勘定元帳と現金出納残高式伝票とは記載順序が異なってくるのが道理であるので、その点につき検討する。
(三) ところが、総勘定元帳の打ち出し順序につき、外注費の記載をみると、昭和六〇年一一月九日分については、中村五郎代表者借入を始めとし、次に中村元よりの短期借入金と続き、その次に一〇月分外注費の記載が、同年一二月一〇日分については、中村五郎代表者借入を始めとして、次に中村元よりの短期借入金と続き、一一月分外注費の記載がその次に続いており、同六一年二月一〇日分については、中村五郎代表者借入を始めに、次に中村元短期借入金・コネクター外注費と続き、その次に一月分外注費の記載が、同年四月一〇日分については、始めにコネクター外注費が、次に振込料・中村五郎代表者借入れ・中村元短期借入金と続き、その次に三月分外注費の記載がそれぞれある。
そして、これに対応する現金出納残高式伝票の記載を見ると、昭和六〇年一一月九日分については、最後からその記載を追うと、外注費コネクター加工代・代表者借入中村五郎・一〇月分外注費支払い・代表者借入返済・中村元短期借入金の順に、同年一二月一〇日分については、同じく最後から記載を追うと、中村元短期借入金・源泉等の預り金・雑給支払い・代表者借入・外注費コネクター加工料・通信費・一一月分外注費の順に、同六一年二月一〇日分については、同じく最後からその記載を追うと、外注費コネクター加工料・代表者借入中村五郎・短期借入金中村元・預り金財形・預り金・通信費・一月分外注費の順に、同年四月一〇日分については、外注費サーモテック・雑費・短期借入金中村元・代表者借入・外注費コネクター加工料・三月文外注費の順に、それぞれ記載がなされている。
(四) 次に、総勘定元帳の打ち出し順序につき、仕入費の記載をみると、昭和六〇年一二月二三日分は、明友材料仕入・お茶くまの園の順に、同六一年三月二五日分は、中村元短期借入金・材料仕入明友・保険料・諸費・交通費の順に、記載がなされている。
そして、これに対応する現金出納残高式伝票の記載をみると、昭和六〇年一二月二三日分は、材料明友・お茶くまの園の順に、同六一年三月二五日分は、最後からその記載を追うと、短期借入金中村元・材料代明友の順にそれぞれ記載がなされている。
(五) ところで、永島の前記供述からすれば、架空外注費の上乗せ・コネクター修理に関する株式会社サーモテックに対する加工料の支払い及び架空仕入費の支払いにつき、コンピューターへの入力は同じ時期になされたものと推測されるが、総勘定元帳の打ち出し順序と現金出納残高式伝票の記載順序は、今指摘した如く、永島の前記供述では全く説明のつかない部分が、多くみられるとともに、昭和六〇年八月期と同様に、数字のつじつま合わせのための短期借入金や代表者借入の記載が総勘定元帳では先にくるなど、予め中村電線において数字のつじつま合わせをなしていた公算が極めて高いと推認されるところである。
(六) 従って、この点に関する永島の前記供述をそのまま措信することは出来ないものであり、前述したとおり検察官の思い込みから、永島が前述したその性格上の欠点ゆえに検察官の意のままに供述した結果が、如実に反映しているものと思料するものである。
3 なお、本件起訴分には含まれていない昭和五九年期について検証する。
(一) 総勘定元帳の外注費に関する打ち出し順序をみるに、昭和五八年九月一二日分は、八月分外注費が一番最後に、同年一〇月八日分は九月分外注費が一番始めに、次に役員報酬・給料手当の順に、同年一一月一〇日分、同年一二月一〇日分、同五九年一月一〇日分、同年二月一〇日分、同年三月一〇日分、同年四月一〇日分、同年五月一〇日分、同年六月九日分、同年七月一〇日分、同年八月一〇日分については、それぞれ前月分外注費の記載が、家賃などの固定経費の支払いや短期借入金の次にきており、その記載順序には本件起訴分である、昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期と極めて類似性がある。
そして、これに対応する現金出納残高式伝票の記載順序をみとる、同五八年九月一二日分が総勘定元帳と同じ記載順序である以外は、全て総勘定元帳の記載順序とは異なっていることも同様である。
(二) 次に、総勘定元帳の仕入費に関する打ち出し順序をみるに、昭和五八年一二月五日分を除き、いずれも、これに対応する現金出納残高式伝票の記載順序とは全く異なっていることも同様である。
(三) 以上のとおり、中村電線の昭和五九年八月期の総勘定元帳及び現金出納残高式伝票の記載をみると、本件起訴分である昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期と同じく架空外注費及び架空仕入費につき、総勘定元帳の記載順序は現金出納残高式伝票の記載順序と殆どの場合異なっていることが判る、のみならず、中村電線、即ち、故中村きみ及び中村元において、単独にて脱税工作をしていた、昭和五九年八月期の現金出納残高式伝票の記載と総勘定元帳の記載には、被告人が関与していたと、検察官が主張する昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期の記載と極めてる類似している部分が多々みられる。
(四) 即ち、昭和五九年八月期においても、現金出納残高式伝票では、最後に記載されている「司電子」の架空仕入費が、総勘定元帳では、一番最初に打ち出されていたり、架空外注費についても、家賃などの固定経費の支払いや、帳簿上のつじつま合わせとみられる、短期借入金等の借入が、現金出納残高式伝票では、最後の方に記載されているにも拘らず、総勘定元帳では、最初に打ち出されてくるなどから明らかといえる。
そして、このような家賃等の固定経費やつずつま合わせの短期借入金の記載が、現金出納残高式伝票では、最後の方に記載されているにも拘らず、総勘定元帳では、最初の方に打ち出されてくることは、本件起訴分である昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期においても、前述のとおり同様であって、ただ、昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期の場合には、架空外注費・架空仕入費支払い日の前日か前々日あたりにその計上がなされているため、当日の記載には出てこないという場合が多いというに過ぎないのである。
(五) してみれば、そもそも中村電線において単独にて、架空外注費や架空仕入費を、上乗せして脱税工作をしていた、昭和五九年八月期と本件起訴分である昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期には、強いて、差異はなく、中村電線、即ち、故中村きみ及び中村元においては、自らの力だけで、脱税工作をすることが十二分に出来る訳であり、敢えて、被告人の力を借りる必要はなかったことは、明らかであるといわねばならない。
ただ、中村元や中村みどりは、伝票記載の仕方にうといため、中村きみが昭和六〇年九月一七日死亡した前後ころからは、中村きみがなしていたような、伝票記入が出来ず、その処理がままならなかったところ、丁度サーモテックに税務調査が入った、昭和六一年六月に、それまでの伝票整理を山﨑会計事務所、具体的には同事務所の中村電線担当者であった永島の助けを借りて、整理をしたとする考えが実情に沿っていると思料するところである。
そして、被告人及び永島においては、中村電線の実情(以前から架空仕入費や架空外注費の上乗せをして脱税していた。)を知らずに、顧問会計事務所として、顧問会社の伝票整理を手伝っていたに過ぎないと認めるのが至当とされる。
4 次に、昭和六一年六月になしたとする外注費の毎月一二〇万円分に関する上乗せの件につき検討する。
(一) これについては、検察官においても認めるとおり、昭和五九年八月期においても、毎月一〇〇万円や一五〇万円といった金額にて外注費の上乗せがなされている。
そして、その合計額は一六一〇万円にのぼっており、その金額は、検察官において被告人が関与して上乗せしたという、昭和六〇年八月期及び昭和六一年八月期の各期の毎月一二〇万円の合計額に匹敵する金額である。
そして、これについても故中村きみ生存中は、中村きみが伝票上にて操作済のものを、被告人事務所に報告し、事情を知らない、被告人及び永島においては、そのまま計上していたのである。
この点は、故中村きみ生存中同女がその処理をなしていたと見られる、昭和六〇年八月期について、中村みどり作成分として合計金一六〇〇万円余りが当初から計上されていたことからも、明らかである。
ただ、前にも述べたとおり、中村きみが昭和六〇年九月一七日死亡してからは、中村元は伝票処理にうといため、又、中村みどりも故中村きみ生存中の時代のように、故中村きみより指示されていなかったため、昭和六〇年一〇月以降は計上するのを忘れたか、又は放置していたところ、たまたま、昭和六一年六月に、山﨑会計事務所が伝票のチェックをすることになった折、永島が善意でそのチェックを手伝い、記入の仕方を教えてもらったと考えるのが筋である。
(二) なお、付言するに、顧問会計事務所として顧問会社の伝票のチェックをし、かつ、領収書等についても、相手先からもらい忘れているならばもらっておくように顧問会社に指示することは、当然のことであり、何ら奇異なことではない。
この点について、昭和六一年当時、具体的にどのようなことがなされたのか、原審の証拠調べの結果をみても判然とはしないが、会計事務所としては、今回の場合ならば、第一に、総勘定元帳と現金出納残高式伝票の記載が合っているか否か、次に、現金出納残高式伝票の記載に合う支払を証明するところの領収書が保管されているか否かを、確認するのが手順であり、いきなり領収書を作れなどと、被告人が指示したとするのは、余りにも飛躍しすぎている。
検察官においては、被告人が巨額のお金を中村元より預かっていたことに目を奪われ、中村元の不自然な供述を鵜呑にし、被告人が本件に確実に関与していると思い込んだ結果、永島にありもしない状況を供述させたとしか、弁護人には考えられないのであって、当裁判所におかれては、中村元の証言及び永島の供述を客観的事実(昭和五九年八月期も含め)と照合し、その非整合性を十二分に検討して頂きたいと思料するところである。
5 中村電線と株式会社サーモテックのコネクター修理検査の件につき、検討する。
(一) まず、原判決においては、右修理検査分は全て脱税分であると主張する。
然しながら、先にも述べたとおり、右修理検査加工料というものは、サーモテックの売上げに以前から計上されていたものであり、昭和六一年六月になされた、館林税務署のサーモテックに対する税務調査の際には否認されておらず、逆に漏れがあったとして売上げ計上させているものである。
この点、中村元も原審公判廷において、検察官の質問に対し、「その件については、両方とも代表取締役が私なもので、金銭的に解決出来ない問題が大分ありますんで、そういう相談は私がしたと思います。」と歯切れの悪い言い方ながら、同人の意識として実際には同じ会社なので、コネクター修理検査費用として税務署に認容してもらう方法を、自らが被告人に持ちかけた旨の供述をしている。
(二) このため、被告人としては、サーモテックが中村電線の一〇〇%子会社ではあるが、契約書もなしに売上げ計上していては、最終的に税務署とのやり取りの際、税務署にサーモテックとしては売上げとして、中村電線としては経費として認容してもらうべく、従前から行われていた取引状態を明確にするため、契約書の作成を指導しただけであり、あくまでも節税の一環としてその指導をなしたにすぎなく、脱税工作としての意識は毛頭なかったものである。
なお、このような節税方法は、世間にて良く行われているところであり、強いて問題にするところではないものと、弁護人は強く信じるものである。
又、今回の場合、既に指摘したとおり、以前からコネクター修理検査加工料は、サーモテックとしては売上げとして、中村電線としては必要経費として計上されていたものであって、昭和六一年六月の段階で、以前にさかのぼって計上したものではないことからしても、なおさらのことである。
(三) なお、今回の中村電線に対する査察ならびに原判決においては、この点脱税とされているが、そうだとすると、従前のサーモテックにおける売上げ計上は否認されたのであろうか。その点、証拠上全くつまびらかにされていないことに、弁護人としては極めて強く疑問を抱くものである。
三、ところで、故中村きみは、生前自らの死亡後の架空外注費(昭和六〇年一〇月分及び一一月分につき、合計金一八一万四八八四円)まで、予め、外注費支払台帳に記入し、領収証まで作成していたものである。
そして、この事実は、そもそも、被告人の関与なく中村電線が単独にて脱税工作をなしていたことを、十二分に推認するに足る事実である。
この点、原判決においては、被告人に関与なく中村電線自ら外注費等を上乗せして脱税工作をなしていた部分があることは認め、被告人がなした脱税工作を架空仕入費及び外注費につき、毎月当り金一二〇万円の上乗せ、サーモテックに関するコネクター修理加工分に限定しているようである。
1 然し、この点については、昭和六〇年八月期については、前にも述べたことに加え、中村元が原審公判廷において、当時は「僕の感覚では一〇〇〇万円ぐらい」利益は出ているという感じを持っていた。そして、これはいわゆる脱税工作をなした後の数字である旨述べているように、自らが中村電線の実質的経営者として、脱税工作をなした後の利益金の概要を、自分なりに、把握していたことを供述している。
従って、右中村元の供述、即ち、感覚を前提に、更に被告人において、架空仕入費や毎月当り一二〇万円余りの架空外注費の上乗せをすれば、前述した巨額な金額以上の赤字を、計上しなければならなかったことは必定であり、この点からしても、そもそも架空仕入費等検察官の主張する被告人がなしたとする脱税工作分が、予め、中村電線において、即ち、故中村きみと中村元が共謀のうえ、既に経費計上の画策がなされていたことが、十二分に認められる。
なお、この点については昭和六三年二月一〇日付け大蔵事務官浅間博作成の原材料仕入高調査書中にも、中村元自身昭和五九年八月期の架空仕入先「枝川電材」、「司電子」につき、故きみに会計伝票の記載を任せていたが、架空仕入を計上していることは知っていたと述べている旨記載されており、中村元がそもそも架空仕入の計上方法やその名称につき十二分に知っていたことが明らかであり、昭和六〇年八月期以降において改めて被告人より一つ一つ指示を受ける必要がなかったことは明白になっている。
2 又、この点、昭和六一年八月期についてみると、中村元は、当期が赤字になった理由について、原審公判廷において、「六〇年八月期が一応四〇〇〇万円くらい黒で、がちゃがちゃやりましたので、その四〇〇〇万くらいは俺が落としちゃえということで、落としたのでとんとんにはなるんじゃないかと思ってました。」、「ちょっとやりすぎたかなという感じはしてました。」といみじくも述べているように、中村元においては、前期である昭和六〇年八月期につき、自分では、いろいろな脱税工作をした後の利益金が、一〇〇〇万円くらいと思っていたところ、被告人から四〇〇〇万円くらいになるといわれたため、自分の感覚で「とんとん」、即ち、利益金が殆ど生じないような状態にするには、前期の数字から推し測り、更に四〇〇〇万円程の架空経費の上乗せが必要だと、思っていたことがはからずも露呈されている。
そして、この供述と、昭和六〇年期に関する前期中村元の供述から推認すれば、昭和六一年八月期についても自らの単独の力にて、脱税工作をなしていたことが、十分に認められるところであり、被告人は前に述べたように、昭和六一年六月の段階では、中村電線の実情を知らずに単に顧問会計事務所として顧問会社に助力をしていたにすぎないことが、中村元の前記供述にても十二分に認められるところである。
3 なお、昭和六一年八月期の確定申告時期である、昭和六一年一〇月末には、被告人においては中村電線が以前から脱税をなしていたことを確実に知り(但、本件で明らかになったような巨額な金額とは思っていなかった。)、被告人は中村元に対し、修正申告をし積年のうみを出し、今後は中村元単独では会社の結束は覚束ないと考えていたため新会社を設立し、新会社を発足させ、新たな再出発を中村元に促している最中であったため、本来ならば、それまで黒字申告をしていた会社がいきなり赤字になるということについては、顧問税理士として当然考慮をはらうべきであったが、いずれにせよ近々修正申告をしなければならないと考えていたため、中村電線からきた数字をそのまま計上し赤字申告をなしたものである。
そして、この被告人の態度からしても、逆に被告人が中村電線の脱税工作に関与していなかったと推測される一端(即ち、それまで黒字計上をしていた会社が、いきなり赤字計上をすれば税務署としては、どの様な理由で赤字になったのか興味を持ち、調査に入るのであろうことは、経理のプロである税理士に、容易に判断のつくことである。)が示されているといえる。
四、以上、原判決においては、これまでに述べた中村元の客観的事実に沿ぐわない不自然な供述及びそれを信用して被告人が必ず関与している筈だという思い込みから取調べをなしたうえで得た、永島のやはり客観的事実に沿ぐわない供述をもとに、被告人が中村電線のあたかも実質的オーナーであるかの如く、さまざまな脱税工作をなしていたことを認定しているようである。
然しながら、原審における検察官の主張においても、中村元と被告人が脱税のことも含め話し合ったのは、始めに昭和六〇年八月一二日、次が昭和六〇年一〇月二八日、その次が昭和六〇年一一月始め、その次が昭和六一年六月始め、最後が昭和六一年六月二〇日ころの合計五回であり、その内、脱税のことを話し合ったのは、昭和六〇年八月一二日、昭和六〇年一〇月二八日、そして昭和六一年六月始めのたった三回にしかすぎない。
そして、検察官はそのたった三回の話し合いの際、昭和六〇年八月期と昭和六一年八月期の脱税につき、その方法から態様まで全てを話し合ったというのであろうか、被告人が仮に、このたった三回の話し合いで、全てを把握し脱税を主導的に画策していたとすれば、被告人が以前から中村電線の脱税工作に深く関与していなければ出来ることではない。
然し、この点は原判決において全く判断されていない点であり、逆に、原判決の根幹をなす中村元の供述において、前述のとおり「一〇〇〇万円云々」とか「ちょっとやりすぎた云々」など中村元自ら中村電線の唯一の主体的経営者であることを露呈した供述をしていることからも、原判決の認定は、根底から誤りであると判断せざる得ないことを、ここに強く指摘するものである。
五、なお、その他中村元の原審公判廷における供述は、これまでに指摘した以外に、被告人から架空仕入費の領収証を作るように言われ、作成枚数分だけをもらい作成したところ、数枚失敗したがそのまま渡したところ、被告人からは何も言われなかったとか、架空仕入先の名前とか領収証を印刷したり、電話を設置するのに二五〇万円かかったといわれたが請求されていないので、まだ払っていないとか、昭和六二年一月に改めて領収証を作成していて面倒になった云々とかいろいろ不自然な供述が随所にみられる。
然し、これらの点は、一つずつ詳細に反論しなくても、これまでの中村元の不自然な供述や、中村元の被告人に対する悪感情等からして虚偽であることは明らかといえるので、この詳細は省くこととする。
第四、結語
以上のように、原判決は中村元の極めて欺瞞に満ちた供述を大筋において信用に値するとし、その供述を補完するところの永島の検察官に対する供述調書についても客観的事実と合致しない部分については全く目をつぶり、強引に右各供述を被告人有罪の証拠とし、弁護人の数々指摘した矛盾については何ら答えることなく判決をなしている。
然しながら、本趣意書において指摘した数々の諸点は、右供述等の信用性を失わしめるに十二分であると信ずるところであり、御庁におかれては再度記録を十二分に精査検討のうえ、正義に則った公正なる判決を賜りたいと心より願うものである。
以上