東京高等裁判所 平成5年(ネ)4020号 判決
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人に対し、三三三八万円及びこれに対する昭和五八年六月二六日から支払済みまで 年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
控訴棄却
第二事案の概要
一 本件は、被控訴人の開設する病院で子宮筋腫の治療のための手術を受け、右手術中に脳内出血を起こし、その結果左上下肢麻痺の後遺症をおった控訴人が、右脳内出血の原因は被控訴人の担当医師が過失によって控訴人の血圧を上昇させたことにある等と主張して、被控訴人に対し、債務不履行または不法行為に基づき、右後遺症による逸失利益等の損害の賠償を求めた事案である。
二 当事者の主張は、原判決の事実の「第二 当事者の主張」欄に記載のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決書を次のとおり訂正する。
1 原判決書三枚目表八行目の「エフェドリンの筋肉注射をし」を「エフェドリンを静脈もしくは筋肉注射し」に改める。
2 同五枚目表六行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「<3>(ネオペルカミンSの過量投与)
本件手術においては一・〇ないし一・五ミリリットルのネオペルカミンSを投与すれば無痛の効果が得られるところ、被控訴人病院の担当医師は、やり直しを含めた三回の穿刺によって、漫然と合計三ミリリットルを超える過量のネオペルカミンSを控訴人の腰椎に投与した過失によりその血中濃度を高めて控訴人の血圧を上昇させた。」
3 同五枚目表七行目の「<3>」を「<4>」に、同裏五行目の「<4>」を「<5>」にそれぞれ改める。
4 同六枚目一行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「<6>(説明義務違反の過失)
仮に右<1>のエフェドリンの予防的投与が過失と評価できないとしても、かかる賛否両論のある処置を行うに当たっては、被控訴人病院の担当医師は控訴人に対し、エフェドリン投与について、その必要性、危険性、実施しなかった場合の代替処置の利益・不利益について説明し、控訴人の同意を得なければならなかったところ、被控訴人病院の担当医師は、これを説明することなくエフェドリンの予防的投与を行った。
<7>(麻酔効果不確認の過失)
被控訴人病院の担当医師は、局所麻酔剤ネオペルカミンSによる麻酔効果が不十分な状態で、その効果を十分確認しないまま本件手術の執刀を開始しこれを継続したため、その痛みも一因となって血圧上昇をきたした。」
5 同一一枚目表二行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「(四) 請求原因4(一)(1) <3>の事実について
被控訴人病院の担当医師が穿刺を三回したことは認めるが、これは髄液の逆流を確認するためであって、一回目及び二回目はこれを確認できなかったため局所麻酔剤であるネオペルカミンSを注入せず、三回目のみ注入したものであり、使用したのは三ミリリットル量の一アンプルである。右の量をもって過量ということはできない。」
6 同一一枚目表三行目の「(四) 請求原因4(一)(1)<3>」を「(五) 請求原因4(一)(1) <4>」に、同九行目の「(五) 請求原因4(一)(1) <4>」を「(六) 請求原因4(一)(1) <5>」にそれぞれ改める。
7 同一一枚目表一一行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「(七) 請求原因4(一)(1) <6>の事実について
エフェドリンのように本件手術において使用される薬剤について、逐一、その薬理作用の説明を求めることは、患者の手術に対する不安を助長することになりかねず、少なくとも、当時の医師の説明義務として確立していた範囲・程度に鑑みれば、昇圧剤の投与に関する説明がなされなかったとしても、説明義務違反、つまり、患者の自己決定権を侵害したことにはならない。
(八) 請求原因4(一)(1) <7>の事実について
本件手術は、腹部を臍下部で正中切開し、腹膜を開いて手術を進めていくものであるから、麻酔が十分効かない状態で執刀すれば、最初に皮膚切開を始める時点で激しい痛みを感じるものであり、これを放置して手術を進めることは困難であるところ、実際に控訴人に対する手術は、一旦中断し全身麻酔に切り換えた時点で、既に子宮が見える状態にまで進行していたのであるから、麻酔効果が不十分なために控訴人が手術の痛みを感じたということはあり得ない。また、仮に執刀に伴う痛みがあったとしても、そのことによる血圧上昇への寄与の有無・程度は何ら明らかでない。」
8 同一一枚目裏一行目の「(六)」を「(九)」に、同裏六行目の「(七)」を「(一〇)」に、同一二枚目表三行目の「(八)」を「(一一)」に、同表七行目の「(九)」を「(一二)」に、同裏三行目の「(一〇)」を「(一三)」にそれぞれ改める。
第三当裁判所の判断
一 当裁判所も、控訴人の本件請求は理由がないものと判断する。その理由は、次のとおり改めるほかは、原判決書一二枚目裏八行目から同三六枚目表六行目までに説示するところと同じであるから、これを引用する。
1 原判決書二一枚目表五行目冒頭から同二四枚目裏一行目末尾までを次のとおり改める。
「(1) エフェドリンは、血管を収縮させることにより血圧を一定の時間上昇させるという薬理作用を有する医薬品で、脊椎麻酔時の血圧降下を適応症とし、右麻酔時の血圧維持を目的として使用される医薬品である(甲四、一八、一九、当審証人花岡)。エフェドリンが筋肉注射された場合、その効果が発現するまでに一〇ないし二〇分を要し(原審及び当審各鑑定の結果)、一定時間持続する(甲一八)ところ、本件においては、前記認定のとおり、エフェドリン四〇ミリグラムが腰椎麻酔前である午後二時二〇分から二五分の間に筋肉注射され、控訴人の血圧は、午後二時四〇分から四五分の間から大きく上昇しているので、控訴人の右血圧の上昇は右エフェドリンの投与によるものであると認めるのが相当である(原審及び当審の各鑑定の結果)ので、その用法・容量が相当であったのかについて検討する。
(2) エフェドリンの一回当たりの使用量については、甲四の説明書には「通常成人一回につき二五ないし四〇ミリグラム」と記載されており、甲五の説明書には「通常一回四〇ミリグラム」と記載されており、右各説明書の記載に照らせば本件における四〇ミリグラムという使用量が多きに失したと認めることはできず、他に右使用量が多きに失したものと認めるに足りる証拠はない。
また、用法については、「運用上の注意」として「皮下注射にのみ使用すること」が掲げられている製薬会社の説明書(甲四)があるものの、「用法・容量」欄に「通常一回四〇ミリグラムを皮下または筋注」との記載がある製薬会社の説明書(甲五)もあり、また、日本薬局方(薬事法四一条参照)によるとエフェドリンの用法は皮下注射、筋肉注射の両方とされているから、筋肉注射をもってエフェドリンを投与したことを用法の誤りとすることはできない(原審鑑定の結果)。
なお、控訴人はエフェドリンを静脈に注射された旨主張するが、本件全証拠によっても右事実を認めることはできない。この点につき、控訴人は、原審における本人尋問において、「手術台に乗せられた後まずされた処置は左腕の肘の内側に注射されたことで、針を抜かれた記憶があり、針を固定された記憶はないので、それは点滴ではなかった。その注射を受けて、右の頭と首筋の境目辺りにどーんとくるような重い感じの痛みがきた。その次に海老状にされて腰椎麻酔の注射を打たれた。座った位置での腰椎麻酔の注射が終わった後は覚えていない。」旨供述するが、前記認定のとおり、被控訴人病院の担当医師は手術室に着き手術台に移った控訴人には、まず水分、電解質を補給するために輸液剤ラクテック(乳液リンゲル剤)を点滴静脈注射していることに照らすと、この点に関する控訴人の記憶はこれから手術を受けるという不安をいだいた精神状態の中で、右点滴静脈注射とこれに引き続いて同じ左腕になされたエフェドリンの筋肉注射を混同したものと考えるのが相当である。
(3) エフェドリンを事前に投与した点については、なるほど、本件手術当時発行されていた医学書の中にも、血圧下降を予防するために腰椎麻酔実施前にエフェドリン等の昇圧剤を筋注する場合もあるが、必ずしもルチーンに行う必要はないとか(甲三四)、血圧下降が強く予想される例では、腰椎穿刺前に昇圧薬を筋注してもよいが、昇圧薬は時に高血圧、不整脈の原因ともなるので、腰椎麻酔に先だち静脈路を確保することが励行されている今日では、血圧が下がったらその時点で対策をたてる方向に変わりつつあるとするものがあり(甲三三)、近年麻酔医が脊椎麻酔の実施及び管理を行うようになってからは、まず輸液路を確保した上で脊椎麻酔を行い、麻酔後ないし手術中血圧の低下を生じて初めて輸液量ないし輸液速度を調整したり、昇圧剤を輸液路を介して投与し正常血圧に保つのが一般的であるとされている(原審鑑定の結果)。麻酔学的にも、安全性の観点からは、血圧の下降程度をみながらそれに合わせて対処するという方法が当時においても推奨されていたと認められる(当審鑑定証人花岡)。しかし、当時は麻酔科医が少なかったこともあって、麻酔科専門医がいない病院にあっては勿論、麻酔料専門医がいる病院であっても、少なくとも本件手術当時においては、患者に高血圧等の昇圧剤の事前投与を控えるべき事情がない場合には、麻酔科専門医が立ち会わず、エフェドリンを事前に投与したうえで腰椎麻酔を実施することで、執刀者が血圧の低下に対する対応に追われることのない環境を整えて、本件のような子宮筋腫の手術を行うことは一般に行われており、また、それが医師の選択し得る一つの方法として承認されていたものと認められる(原審鑑定の結果、当審鑑定証人花岡)。したがって、既に認定したとおり控訴人に高血圧の既往症はなく、本件全証拠によってもエフェドリンの事前投与を控えるべき事情の認められない本件においては、エフェドリンを事前に投与した点をもって被控訴人の担当医師の過失と認めることはできない。控訴人は、当時一般に行われていた右の方法を「悪しき慣行」と論難するが、本件において提出された医学書(甲一、三一ないし四三)にもかかる方法をとってはいけないという記載はなく、これをとるかとらないかは担当医師の裁量的判断に委ねられているものと解され(原審及び当審の鑑定の結果も同趣旨であると解される。)、控訴人の右論難は当たらないといわなければならない。
(4) なお、控訴人は、エフェドリンの投与を受ける前に控訴人は既に頭痛を訴え高血圧状態にあったのであるから、一般的にはエフェドリンの事前投与が許されるとしても、本件においてはこれを避けるべきであった旨主張する。なるほど、エフェドリンの投与を受ける前に控訴人が頭痛を訴えていたという証言(原審証人野崎)はあるが、これと異なる証言(原審証人山岸、同小林)があることに照らすと、右野崎証言のみをもって直ちにエフェドリンの投与を受ける前に控訴人が頭痛を訴えていたものと認定することはできない。また、仮にその事実があったとしても、製薬会社の説明書(甲四)中に慎重に投与すべき患者として、高血圧の患者が記載されてはいるものの、頭痛の症状のある患者が記載されているわけではないから、控訴人に頭痛の症状があったからといって、エフェドリンを投与すべきでなかったということはできない。頭痛の原因は、心因性のもの、筋肉の収縮、緊張によるもの、脳血管の障害によるもの等多種多様であって(甲二四)、とりわけ手術の際には不安と緊張から頭痛を生ずることもあるのである(原審証人山岸)。前記認定のとおり控訴人の血圧は午後二時二〇分において最高一二〇、最低九〇ミリ水銀であり、その後ラクテックが注入されたからといって、にわかに血圧が上昇するということも認め難い(原審証人小林、同山岸)のであるから、控訴人がエフェドリンの投与を受ける前に高血圧状態にあって、そのために頭痛を訴えていたと認めることはできない。したがって、エフェドリンの投与を受ける前に控訴人は既に頭痛を訴え高血圧状態にあったのであるから、被控訴人病院の担当医師はエフェドリンの投与を避けるべきであった旨をいう控訴人の前記主張は採用することができない。
また、前記認定のとおり、被控訴人病院の担当医師が控訴人には脳底部及び中大脳脈の末梢枝と右前大動脈の末梢枝との間の側副血行路(胎芽型血管)の組織が脆弱であるという特性があることを認識していたということも、認識すべきであったということもできないから、エフェドリンの投与による血圧の上昇が右特性と相俟って脳内出血を発生させたとしても、その発生につき被控訴人病院の担当医師に過失があったということはできない。
(5) そうすると、被控訴人病院の担当医師が控訴人にエフェドリンを投与したことに過失があったと認めることはできないといわなければならない。」
2 同二五枚目裏六行目の「ところで」から同二六枚目表三行目末尾までを次のとおり改める。
「控訴人は、ネオペルカミンSが誤って血管ないし髄腔内に注入されたと主張する。しかし、甲二九の2(島田康弘の鑑定書)によれば、仮に控訴人の右主張のとおりだとすると、注入された患者は中毒症状を起こすが、その中毒症状が頭痛ないし血圧上昇の程度に止まったとすると、その中毒症状は瞬時急激に発現するが、一過性のものであるはずであるところ、本件では、前記のとおり控訴人にはネオペルカミンSの中毒症状と同様の症状が若干認められるものの、ネオペルカミンSを注入された後も控訴人は頭痛や血圧上昇が続いているので、ネオペルカミンSが控訴人の血管または髄腔内に直接注入されたことは否定されるというのであるから、控訴人の右主張は採用しがたいものといわなければならない。」
3 同二六枚目表三行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「(三) 請求原因4(一)(1) <3>の過失(ネオペルカミンSの過量投与)
前示のとおり、ネオペルカミンSの血中濃度が異常に高くなった場合には血圧上昇の中毒症状が現れることはあるが、本件全証拠によっても被控訴人病院の担当医師が三ミリリットルを超える過量のネオペルカミンSを控訴人の腰椎に投与したとの事実を認めることはできない。なお、なるほど、前記認定のとおり、被控訴人病院の担当医師は腰椎麻酔をするに当たってやり直しを含めた三回の穿刺を行っているのであるが、側臥位で行った一回目及び二回目は、ルンバール針が骨にぶつかり思うようにくも膜下腔に届かなかったため、麻酔剤ネオペルカミンSが入った注射筒をルンバール針に接続して注入することをしていないのであるから(原審証人小林)、三回の穿刺を行ったからといってこれにより合計で三ミリリットルを超える過量のネオペルカミンSを控訴人の腰椎に投与したものとまで認めることはできない。」
4 同二六枚目表四行目の「(三) 請求原因4(一)(1) <3>」を「(四) 請求原因4(一)(1) <4>」に、同二九枚目表三行目の「(四) 請求原因4(一)(1) <4>」を「(五) 請求原因4(一)(1) <5>」に各改める。
5 同二九枚目表二行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「 なお、控訴人は、本件手術については麻酔記録用紙に脈拍数や呼吸数などの具体的バイタルサイン(生命徴候)記録が欠如しており、セルシンの使用記録も不備であるため、この点についての控訴人の立証が困難となっているとして、かかる場合には、証明妨害の法理に基づき、立証責任を転換し、または控訴人に一応の可能性についての立証責任を負わせることで事実を推定し、その反証を被控訴人の責任とすべきである旨主張する。なるほど、本件手術については記載すべき手術記録に不備が多く、その点で生命をあずかる医療機関としては非難されてもやむを得ないところがあるといわなければならない(甲二九の2、当審鑑定証人花岡)。しかしながら、被控訴人の担当者らが後日の紛争を懸念し、これに備えて本件手術の経過を隠匿するために、敢えて記録をしなかったとか、破棄したとかという特段の事情のない限り、右のような不備があるからといって、そのこと自体によって立証責任を転換したり、一応の可能性の立証をもって事実を推定したりすべきものとする理由があるとはいえない。控訴人の右主張は採用することができない。
6 同二九枚目裏九行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「(六) 請求原因4(一)(1) <6>の過失(説明義務違反の過失)
なるほど、前記のとおりエフェドリンの予防的投与については、これを実施するかしないか、形式的には選択の余地があったものであるが、これを予防的に投与して執刀者を手術に専念させるか、手術中恒常的に患者の血圧に注意を及ぼし血圧低下の事態が生じた段階で初めてエフェドリンを投与するかは、少なくとも本件手術当時においては、本件手術の技法に準ずるものとして担当医師の裁量の範囲内に属する事柄であって、控訴人の同意を得なければ決定することができない事項であったと解することはできないから、被控訴人病院の担当医師が控訴人に対し、エフェドリン投与について、その必要性、危険性、及び実施しなかった場合の代替処置の利益・不利益について説明し、控訴人の同意を得なかったことをもって説明義務違反があったということはできない。
(七) 請求原因4(一)(1) <7>の過失(麻酔効果不確認の過失)
控訴人は、被控訴人病院の担当医師が局所麻酔剤ネオペルカミンSによる麻酔の効果が不十分な状態で本件手術の執刀を開始した旨主張するところ、なるほど本件手術においては、午後三時の段階で腰椎麻酔から笑気ガス、酸素、ハタロンの投与による全身麻酔に切り換えがされていること前記認定のとおりである。
しかし、もし局所麻酔が不十分な状態であったとすれば激しい痛みのため手術を進めることは困難であったと考えられるが、それにもかかわらず右の時点において手術は腹膜を開いて既に子宮が見える状態にまで進行していたのであり、しかも控訴人は腰椎麻酔をされてからの記憶はないというのであること(原審本人尋問)に照らすと、右全身麻酔への切替えの事実があったからといって、これによりそれまでの局所麻酔剤ネオペルカミンSによる麻酔効果が不十分な状態であったとは推認することはできないものといわなければならない。その他に、被控訴人病院の担当医師が局所麻酔剤ネオペルカミンSによる麻酔効果が不十分な状態で、その効果を十分確認しないまま本件手術の執刀を開始しこれを継続したとの事実を認めるに足りる証拠はない。したがって、その余の点については判断するまでもなく、右事実を前提とする控訴人の請求原因4(一)(1) <7>の主張は採用することができない。」
7(1) 同三一枚目裏三行目冒頭から同三四枚目表三行目の「原告の」までを次のとおり改める。
「(一) 控訴人は、被控訴人病院の担当医師としては、右の控訴人が左手足を全く動かさないことに気づいた段階で、直ちに控訴人を脳神経外科に転科させるべきであったところ、これを怠ったため、その間、控訴人は早期に出血部位を発見され、出血巣の拡大を防止するという脳内出血についての専門的治療を受ける機会を奪われ、その結果現在でも左上下肢麻痺の後遺症に悩まされている旨主張する。
そこで検討するに、本件においては、前記認定のとおり、被控訴人病院の担当医師は本件手術の翌日である九月二五日の午前九時になって初めて脳神経外科に控訴人の診断を依頼し、同日午前一〇時一五分になされた頭部CTスキャン検査等により右頭頂部に脳内出血のあることが発見されたものであるが、被控訴人病院の担当医師としては、遅くとも、控訴人が右手右足をよく動かすのに、左半身は、点滴を受けているために緊縛されていた左手だけでなく、緊縛されていない左足も全く動かさないことに気づいた九月二四日午後五時二〇分ごろには、控訴人の脳内出血を疑うことができたというべきである。しかるに、被控訴人病院の担当医師は、そのころ控訴人が左足を全く動かさないことに気がついたが、手術の直後には一過性の症状として手足の麻痺が現れることがある(特に本件の場合には、腰椎麻酔の影響が残り、下半身を自由に動かすことができないことも考えられる。)として、その時点では、控訴人の脳に異常があるとは考えず、翌二五日午前〇時頃、本件手術後既に相当時間が経過しているので、控訴人の脳に異常があると考えたが、その脳の異常は、急激に悪化するものではない反面、手術直後の控訴人を安静にしておく必要があるとして、同日午前九時に脳神経外科の診察を受けるように手配するまで同科の医師に何らのコンタクトもとらなかったことが認められる(原審証人山岸)。一般的にいって、患者に脳内出血の疑いがある場合には、担当していた産婦人科医師としては、そうすることで却って患者の全体的身体状況が悪化する等の事情のない限り、できるだけ速やかに脳神経外科の診断、治療を受けさせるべきであることは当然であり、被控訴人病院には脳神経外科も併設されているのであるから、控訴人に脳神経外科の診断、治療を受けさせることは比較的容易であったと思われる。
(二) しかし、証拠によれば、次の事実が認められる。
控訴人の」
(2) 同三四枚目裏九行目冒頭から同三五枚目表六行目末尾までを次のとおり改める。
「 そして、脳内出血にはいわゆる予兆がなく、脳内出血によって生ずる神経症候は、当該脳内出血があって初めて発現するものであるから、神経症候が発現した午後五時二〇分の時点で控訴人に脳神経外科の診断、治療を受けさせたとしても、当該脳内出血自体を回避することは不可能である(原審証人淵之上、原審鑑定の結果)。
また、脳内出血が起きた場合、数時間以内で止まる出血の途中で手術がすぐにできるという特殊な事情があれば格別、脳神経外科の医師とすればCTスキャンを撮って血管撮影をするという順番で診断、治療を進めることから、午後五時二〇分の時点で控訴人に脳神経外科の診断、治療を受けさせたとしても、控訴人の脳内出血を途中で止めることはできなかった(原審証人淵之上)。
本件出血は手足を動かす中枢となる右脳半球の運動領及び知覚領に生じ、血腫も同じ部位にできているのであって(原審証人淵之上)、前記のとおり控訴人の左半身麻痺は右血腫によって発生したものであると認められるのであるが、出血は数十分ないし数時間で止まり、そのまま血腫となるものであり(原審証人淵之上。甲一四によれば「脳出血は約六時間以内に血腫の進展が停止するといわれている。」という。)、控訴人の場合は、右血腫を除去する手術をすると、本件手術以前から続いていた右中大脳脈水平部の完全閉塞の結果発達し、脳に栄養を送るという機能を果たすようになった側副血行路を遮断せざるを得ないため、却って左半身の麻痺に悪い影響を及ぼす可能性があるとの理由でこれを実施することができなかったというのである(原審証人淵之上)。
なお、控訴人は、この点に関し、「血腫の周りにある脳浮腫も後遺症には影響があるものであり、早期に脳浮腫を改善する治療を始めていれば後遺症を改善し得たのであって、原審証人淵之上医師も右可能性があることを認めている。」旨主張する。なるほど、一般論としては、脳内出血により脳の細胞が圧迫され神経細胞の隙間に水分が溜まることによって発生する脳浮腫を放置すると、後遺症に影響を及ぼすことがあり、脳浮腫はなるべく早く治療すればそれだけ広がりをくい止められると認めるのが相当である(原審証人淵之上)。しかしながら、脳浮腫の発生があれば常に浮腫が生じた組織を変成させ脳細胞を破壊するというものではないところ(原審証人淵之上)、本件においては、前記のとおり控訴人に生じた左半身麻痺の後遺症は、頭部CTスキャン写真の映像から観察される右大脳半球にある血腫のみによって十分説明がつくものであって、本件全証拠によっても、控訴人に生じた脳浮腫が後遺症に影響を与えたとの事実は認めることができない。原審証人淵之上も、「九月二四日の夕方の時点で脳神経外科の診断、治療を受けられなかったことの影響は一切なかったと言えるのか。」という控訴人代理人の尋問に対し、「あった可能性はある。可能性の問題であるからどんな言い方もできるが、麻痺の改善がいささか経過として早かったのかもしれないが、断定はできない。」旨答えているにすぎず、臨床医である原審鑑定人も、経験上、麻痺の予後は、浮腫に対する治療を早く始めても遅く始めても余り変わらず、ただ同じ程度に回復する時間に差異があるという印象がある旨証言していることに照らせば、早期に脳浮腫を改善する治療を始めていれば後遺症を改善し得たと認めることもできない。
(三) 右に認定した事実によれば、控訴人の左上下肢麻痺は脳内出血によって生じた血腫によって発生したもので、脳神経外科の医師であっても、本件においては、脳内出血自体を回避することも、発生した脳内出血を途中で止めることも、右出血により生じた右血腫の除去もできず、血腫の周りにある脳浮腫に対する治療を早く始めても遅く始めても後遺症の程度は変わらないというのであるから、被控訴人病院の担当医師が控訴人が左手足を全く動かさないのに気づいた段階で脳内出血を疑い直ちに控訴人に脳神経外科の診断、治療を受けさせたとしても、これによって現在控訴人に残っている左上下肢麻痺の後遺症を回避することができたとは、認めることができないといわざるを得ない。
そうすると、被控訴人病院の担当医師において、控訴人が左手足を全く動かさないのに気づいた段階で、脳内出血を疑い、直ちに控訴人に脳神経外科の診断、治療を受けさせなかったことについて、この点で過失があると評価すべきかどうかについては判断するまでもなく、被控訴人病院の担当医師において、控訴人が左手足を全く動かさないことに気付いた段階で、直ちに控訴人を脳神経外科に転科させるべきであったのにこれを怠ったため、控訴人が左上下肢麻痺の後遺症に悩まされている旨をいう控訴人の前記主張は採用することができないものといわなければならない。」
二 よって、控訴人の本件請求はいずれも理由がないものとしてこれを棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法六七条一項、六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 小川英明 裁判官 宗宮英俊 裁判官 川口代志子)