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東京高等裁判所 平成6年(ネ)3325号 判決 1997年12月26日

主文

一  原判決を次のとおり変更する。

1  被控訴人は控訴人原沢米子に対し、一七五万円及びこれに対する昭和六一年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被控訴人は控訴人原沢春代、同砂盃多美子及び同奥泉典子に対し、それぞれ五一万六六六六円及びこれに対する昭和六一年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  控訴人らのその余の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、第一、二審を通じ、一〇分の一を被控訴人の負担とし、その余を控訴人らの負担とする。

三  この判決の第一項の1、2は仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】 一 当事者の求めた裁判

控訴人らは、原判決取消しとともに原判決二枚目表六行目から一〇行目までに記載の給付を命じる判決及び仮執行宣言を求め、被控訴人は控訴棄却の判決を求めた。

二 前提事実及び控訴人らの請求内容

1  当事者、亡泰典と被控訴人との間の診療契約の締結、被控訴人による診察・治療の経過と亡泰典の容体経過は、原判決二枚目裏二行目から七枚目表末行までに示されているとおり争いがなく、亡泰典が昭和六〇年五月二六日午前一時四分に被控訴人病院で死亡したことも争いがない。亡泰典の死因については、《証拠略》によれば、胃潰瘍出血に対する胃切除手術の後の心不全、呼吸不全が先行し、縫合不全を基盤にした腹腔内感染症の重症化を伴って、肝臓、腎臓等の全身主要臓器の機能障害、すなわち多臓器不全を惹き起こして死亡に至ったものと認められる。その推移は、原判決七枚目裏四行目から八枚目表五行目までのとおりと認められる。

2  控訴人らは、亡泰典の逸失利益四四四〇万〇〇九〇円及び慰謝料一二〇〇万円、控訴人原沢米子の固有の慰謝料七〇〇万円、その余の控訴人らの固有の慰謝料各一〇〇万円、葬祭費用九〇万円、弁護士費用六〇〇万円(控訴人原沢米子分三〇〇万円、その余の控訴人ら分各一〇〇万円)とし、亡泰典の損害については控訴人原沢米子が二分の一を、その余の控訴人らがそれぞれ六分の一を相続したと主張した。

三 被控訴人の責任原因に関する控訴人らの主張

亡泰典の死因は縫合不全である。脾臓を摘出しながら、胃の全摘手術を実施せずに残胃をそのままにしていれば、縫合不全ないし残胃の壊死の発生は必至であった。脾摘出手術を縫合終了後に行うという極めてリスクの高い方法を執り、その手術手技の技術が未熟であって、被控訴人の医師らは患者の身体状況の改善のための十分な管理(心肺管理、栄養管理)を怠った。更に胃を一部残したことによる血流の不足という要素も加わって、縫合不全を惹起した可能性が高い。そして、術後縫合不全を発見した場合には、的確な患者観察と検査の実施による早期発見、早期治療をしなければならない。

本件では、後腹膜からの出血を止めないまま閉腹するという異常な方法が執られた。少なくとも被控訴人の医師としてはドレーンを的確な位置に入れるべき高度の義務を負っていた。しかしながら、ヘモグロビン値の推移をみると、腹腔内の出血がうまく体外にドレーンによって排出されずに腹腔内にたまっていたということができ、ドレーンが的確に設置されなかったことが明らかである。

五月二〇日(術後四日目)に体温上昇、頻脈が出現し、二一日にはドレーンより膿性茶褐色の排液があった。遅くともこの時点で縫合不全の発生を疑うべきであった。それにもかかわらず、被控訴人の医師らは速やかに縫合不全の有無を確認する手段を講じなかったから、この点において過失がある。消化管造影法の反復、単純腹部X線検査、超音波検査、CT検査、ドレーンからの排液の細菌学的検査などが行われていれば、遅くとも二一日の段階で縫合不全が確認できたはずである。

縫合不全を発見した場合には、有効なドレナージと強力な栄養管理を効果的に行えば、極めて高い治癒率が期待できた。

以上のとおり、被控訴人の医師には縫合不全の発生、その早期発見及び適切な対処、特に強力な栄養管理などについて過失があり、よって、泰典を死亡に至らせた。被控訴人には、診療契約上の債務不履行がある(控訴人らは、選択的に、被控訴人の医師の注意義務違反による不法行為責任(使用者責任)も主張している。)。

四 被控訴人の主張

一九日と二〇日の体温には顕著な差は認められないし、二一日にはむしろ平熱であった。脈拍も痰出困難や吸入との関連があり、肺合併症に由来する可能性もある。直ちに縫合不全を予感すべしとするのは逆行的な推論である。

術後二日目にフィオゾール三号(一〇%の糖)から開始し、術後三日目にハイカリック一号(一七%の糖)に替えており、順次カロリーを上げていく手順であった。胃潰瘍による胃の広範囲切除術の術後三日目ころまでは高カロリー輸液は通常考えられていないが、本件で高カロリー輸液を志向していたのは、術後管理に慎重を期し、縫合不全などの合併症の予防に気を配っていたからである。

縫合不全を確認する手段についても、人工呼吸器装着中の患者に強行するまでの意味のある情報は得られない。控訴人ら主張の検査を実施しなかったことを過失とすることはできない。

縫合不全又はそれに先行したかもしれない腹腔内感染が死因に無関係とはいえないにしても、全身状態悪化の中で、縫合不全だけを独立して死因と捉えるのは妥当でない。全身状態の悪化は少なくとも縫合不全から始まったわけではなく、手術直後からである。

被控訴人に責任があるとしても、亡泰典に賠償額を算定するに当たり斟酌すべき事情があることは、原判決一七枚目裏六行目から一八枚目表二行目までのとおりである。

五 当裁判所の判断

1  本件手術前から後にかけて亡泰典の容体及び被控訴人の医師らの執った処置等は、原判決一八枚目表七行目から二二枚目裏一〇行目まで(ただし、一八枚目裏四行目から五行目にかけての「証人小玉仁、証人塩崎」を「訴え取下げ前原審被告小玉仁、同塩崎」に改め、同行目の「鑑定」の次に「(原審)」を、一九枚目表九行目の「甲三九」の前に「以上につき、」を、一〇行目の「九九、」の次に「一二八、」をそれぞれ加え、同行目の「証人小玉」を「訴え取下げ前原審被告小玉」に改める。)、及び、三〇枚目表七行目から三一枚目裏五行目まで(ただし、三〇枚目表九行目「証人小玉仁、証人塩崎」を「訴え取下げ前原審被告小玉仁、同塩崎」に改め、一〇行目の「鑑定」の次に「(原審)」を加える。)に認定されているとおりである。

2  争いのない事実、《証拠略》によれば、術後の経過に関して次の事実が認められる。

亡泰典の直接死因である多臓器不全への寄与度が最も高いのは、胃切除後の腹腔内感染症の発生と増悪であった。この結果、敗血症性ショック、次いで汎発性血管内凝固症候群を惹起して、直接死因である多臓器不全につながった。腹腔内感染症は、前記のとおり縫合不全を基盤にしたものであった。

一般に縫合不全の発生を確認するためには、全身状態、腹部症状、理学的所見をきめ細かく観察すること、ドレーンからの排液性状の変化観察、腹部単純X線検査を反復実施すること、水溶性造影剤、ガストログラフィンによる消化管造影検査の反復実施が必要である。

亡泰典については、術後二日目(五月一八日)まではドレーンからの排液が血性であったものが、三日目(五月一九日)には血性茶褐色になり、四日目(五月二〇日)も同様。五日目(五月二一日)にはやや濃性茶褐色、正中部のドレーンから膵液様の排液となった。六日目(五月二二日)にはドレーンからの排液は膿汁様となった。この排液の性状の推移からすると、五日目(五月二一日)から腹腔内感染を示唆するものがあった。四日目(五月二〇日)にはガストログラフィンによる造影が行われたが、造影剤の管腔外への漏出は認められなかった。七日目(五月二三日)に再度ガストログラフィンによる造影が行われた結果、腹腔内への造影剤の漏出が明らかになった(ただし、水溶性造影剤のガストログラフィンが消化管から上腹部腹腔外に漏出している部位が胃・十二指腸吻合口、縫合不全部であるのか、残胃の壊死部であるのか不明である。)。

他方、術後一日目(五月一七日)に三八度近くに上昇した体温は、二日目(五月一八日)には三七度以下となった。その後、三日目(五月一九日)には三八度の発熱があり、六日目(五月二二日)午後に三九度の発熱、その後三八度前後の体温上昇が持続した。この間、一万六千から一万八千台の白血球増多症が持続しており、このことからすると、体温上昇は肺病変によるものと考えることも可能であったが、前記の排液の性状の推移からすると、前記再度のガストログラフィンによる造影が行われた五月二三日より前に縫合不全(胃切除後の造影剤の消化管漏出の事態)の疑いを持つことは可能であった。そして、術後五日目(五月二一日)には膿性の排液となり、腹壁の皮下溢血斑、下腹部膨隆もみられ(被控訴人医師団が後記溢血性滲出を含め、これらの原因を何と考えていたのかは明らかでない。)、六日目(五月二二日)の午前中には下腹部から下肢にわたるチアノーゼがみられたのであり、遅くとも術後五日目の午前中には縫合不全が発生していることの疑いを持つことが可能であった。

亡泰典の胃切除術に際して脾損傷と摘出を完全に防止するのは困難である(原審鑑定)。そして、いったん脾摘出に踏み切ったならば、摘出後の出血点も可及的に完全に止血を行って、手術を終えるべきであるというのも標準的な考えとされている(原審鑑定。なお、本件において、臓器による圧迫止血を期待して閉腹をした点について不適切な点があったことを認めるべき証拠はない。)。また、本来手術の途中で腹腔内は既に細菌に汚染されていたことから、腹腔内感染の可能性は高かった(原審鑑定)。手術終了に当たって自然止血を期待したのであるから、一般の術後に比して出血が多いことは予測されていた(当審鑑定)が、それだけに、すなわち、後記とおり本件手術の施行自体に被控訴人医師らの過失は認められないとしても、その経過は全く問題のないものではなかったから、縫合不全及び止血の予後についてはより細心の注意を払うべきであった。

前記のとおり、術後四日目を過ぎても血性の滲出が続いていたし、四、五日を経過しても体温上昇、頻脈が続き、正常域への収斂曲線が得られなかったが、このような場合には、肺病変によると即断せず、感染症など合併症の発生を疑い、きめ細かい観察と各種の検査を適宜行うべきであった。特に、前記認定の経過の下で遅くとも術後六日目(五月二二日)の午前中には、縫合不全が発生しているとの疑いを持つべきであった。この時期に再開腹、腹腔内の洗浄、より有効なドレーン、あるいは持続吸入用のチューブの挿入、縫合不全部の補強などが行われたとすれば、その後の経過が多少なりとも好転した可能性のあることを否定できない。

3  以上認定の事実によれば、執刀医の選択を始め本件手術終了までの一連の被控訴人の対応については、特に責められるべき点は認められない(当時の医療水準において心肺管理が不十分であったと認めるべき証拠はない。)。しかしながら、被控訴人の医師らが縫合不全の疑いを持ったのは五月二二日の夜になってからであり、それまでは縫合不全の発生を十分に意識してその対処措置を執ったものと認めるべき証拠はない。塩崎医師の反論書における記載によっても、一般的に縫合不全を疑っていたとの事実が認められるにとどまり、前記認定の術後の推移を前提にした十分の対処がされたものとは認められない。この時期に、縫合不全に対する措置として、恒常的なドレーン開口部の消毒、抗生物質の投与などの措置以外に、手術直後からの栄養管理の強化(当審鑑定及び乙一五〇参照)、再開腹、腹腔内の洗浄、より有効なドレーン、あるいは持続吸入用のチューブの挿入、縫合不全部の補強などを執ることが十分に検討され、かつ実施されたことを認めるべき証拠はない。

被控訴人の医師らには、縫合不全の発生を十全に観察し、その疑いが持たれた時期に速やかにそれに対する措置を執るべき注意義務を怠った過失があるというべきである。被控訴人には診療契約上の注意義務違反が存したと認められ、これによって亡泰典が被った損害を賠償する義務がある。

4  亡泰典及び控訴人らの被った損害について判断する。

(一)  前記認定のとおり、縫合不全を基盤にした腹腔内感染症及びそれに起因した多臓器障害が一つの原因となって、亡泰典の死の転帰を招いた。他方、本件手術は、亡泰典の胃潰瘍の悪化、大量吐血によるショック状態に陥ったことによる緊急手術であった。右手術以前からみられた右疾病及びその悪化に伴う呼吸機能不全(低酸素血症を伴う)及び心不全を主因とする全身状態の悪化も、多臓器障害に至る要素となっていたことは、原審鑑定からも明らかである(当審鑑定によってもこの事実を否定できない。)。縫合不全に対する処置のために再開腹を行うとすれば、そのリスクは極めて高く、止血できたとしても、再手術後の心肺機能への影響は甚大であり、感染拡大の機会も一層増加して、敗血症への移行は更に促進されて、救命の可能性は少なかったものと認められるし(原審鑑定)、完全、有効なドレナージや高カロリー輸液法(なお、本件手術が緊急手術によるものであり、術前から計画的に高カロリー輸液を行うことが期待できないことは、被控訴人主張のとおりである。)などを徹底して行ったとしても、併発していた呼吸機能不全や心不全に対する処置が、退院できるまでに回復させることを可能ならしめたとは認められない。本件手術については、その成功の高度の蓋然性は認められない。

そうすると、被控訴人の医師らには縫合不全に対する万全の措置を怠った点で注意義務違反があるといえるものの、いずれ退院の上健康に復し税理士の仕事に戻るなどの日常生活に復帰することができたものと認めることはできない。亡泰典の逸失利益の損害は認めることができず、また、葬儀費用についても診療上の過失による損害と認めることはできない。ただ、万全の治療を受けていたならば、救命の可能性があったかもしれないという亡泰典らの無念の想いを慰謝するため、相当の慰謝料請求を認めるのが相当である。

(二)  そして、亡泰典が被控訴人の医師らの前記注意義務違反によって被った精神的損害は、被控訴人の医師らの注意義務違反内容、亡泰典の年令、職業、病歴症状、生存可能性の程度、相続人らが固有の慰謝料を請求していること、その他本件に表れた一切の事情を斟酌し、二五〇万円と認めるのが相当である。控訴人原沢米子は亡泰典の妻として右額の二分の一である一二五万円の、その余の控訴人らは子としてそれぞれ六分の一である四一万六六六六円(円未満切捨て)の損害賠償債権を相続するに至ったものである。

控訴人らは固有の慰謝料も請求しているところ、被控訴人と診療契約を締結したのは亡泰典であるから、診療契約上の注意義務違反による損害として控訴人ら固有の慰謝料は認められない。しかしながら、被控訴人の医師らの前記注意義務違反の過失について被控訴人は使用者責任を負うべきであり、控訴人らは被控訴人に対し、亡泰典に適切な術後管理がされればわずかながらも救命の可能性があったのに、十分の術後管理されないまま同人が死亡したことにつき、近親者として被った精神的損害の賠償を受ける権利がある(民法七一一条)。この額は、亡泰典と控訴人らとの関係に、亡泰典の精神的損害の額について斟酌した前記一切の事情を合わせ考慮すると、控訴人原沢米子につき三五万円、その余の控訴人らにつきそれぞれ五万円と認めるのが相当である。

(三)  被控訴人は、亡泰典及び控訴人らにも、その症状の悪化を自ら招くような行為をするなど賠償額算定に際して斟酌すべき事情(過失相殺)があると主張する。しかしながら、本件においては、右の事情は救命可能性が少ないと認定することで参酌されており、これ以上特に斟酌すべき事情は認められない。被控訴人の右主張は理由がない。

(四)  控訴人らは弁護士に依頼して本訴を追行したが、本件事案の難易、訴訟の経緯、認容額、その他本件に表れたすべての事情を総合判断すると、被控訴人に対して請求し得る弁護士費用は、控訴人原沢米子につき一五万円、その余の控訴人らにつきそれぞれ五万円と認めるのが相当である。

六 結論

よって、本訴請求を全部棄却した原判決を主文第一項のとおり変更する(遅延損害金の始期は訴状送達日の翌日)。仮執行宣言につき民訴法一九六条適用。

(裁判長裁判官 稲葉威雄 裁判官 大藤 敏 裁判官 塩月秀平)

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