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東京高等裁判所 平成7年(ネ)4793号 判決 1999年4月26日

第四七八九号事件控訴人・第四七九三号事件被控訴人(一審原告) 井上清志

第四七八九号事件控訴人(一審被告) 国 ほか五名

代理人 八代宏 大野重國 田邊哲夫 須藤義明 鍛冶宗宏 糸山隆 森悦子 大圖明 松田良宣 根原稔

第四七九三号事件控訴人(一審被告) 菊井良治

主文

一  本件控訴をいずれも棄却する。

二  控訴費用は、そのうち、一審原告と一審被告菊井良治との間に生じたものは一審被告菊井良治の負担とし、一審原告とその余の一審被告との間に生じたものは一審原告の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求める裁判

一  平成七年(ネ)第四七八九号事件

1  控訴人(一審原告)

(一) 原判決中控訴人の被控訴人らに対する請求を棄却した部分を取り消す。

(二) 被控訴人らは、控訴人に対し、連帯して二九〇五万五六〇〇円及びこれに対する昭和六〇年一二月二九日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

(三) 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

(四) (二)及び(三)につき仮執行宣言

2  被控訴人(一審被告)国

(一) 被控訴人国に対する控訴を棄却する。

(二) 控訴費用のうち控訴人と被控訴人国との間に生じたものは、控訴人の負担とする。

(三) 仮執行免脱宣言

3  被控訴人(一審被告)東京都

(一) 被控訴人東京都に対する控訴を棄却する。

(二) 控訴費用は、控訴人の負担とする。

4  被控訴人(一審被告)水崎松夫、同親崎定雄、同長山四郎

(一) 被控訴人水崎松夫、同親崎定雄、同長山四郎に対する控訴をいずれも棄却する。

(二) 控訴費用のうち控訴人と右被控訴人らとの間に生じたものは、控訴人の負担とする。

(三) 仮執行免脱宣言

5  被控訴人(一審被告)堀内英治

(一) 本件控訴を棄却する。

(二) 控訴費用は、控訴人の負担とする。

二  平成七年(ネ)第四七九三号事件

1  控訴人(一審被告)菊井良治

(一) 原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

(二) 右取消しに係る被控訴人の請求を棄却する。

(三) 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

2  被控訴人(一審原告)

本件控訴を棄却する。

第二事案の概要

次のとおり付け加えるほか、原判決「事実及び理由」中の「第二 事案の概要」記載のとおりであるから、これを引用する。

一  原判決書の補正

一七頁二行目から三行目にかけての「東薬大社研ンバー」を「東薬大社研メンバー」に、二三頁一〇行目の「犯人隠匿」を「犯人隠避」に、九一頁三行目の「看破する」を「看過する」に、それぞれ改め、一〇八頁一一行目の「組合」の次に「(勤務先組合)」を、一五〇頁二行目の「菓子箱」の次に「(あるいはケーキ箱)」を、それぞれ加え、一八六頁三行目の「付けで」を「付けの」に、一九三頁九行目の「行使した」を「執行した」に、二六〇頁一〇行目の「6」を「7」に、二九九頁七行目から三〇〇頁九行目までの間の各「河村」を「河村巡査」に、三〇六頁三行目の「増渕及び村松」を「村松及び増渕」に、三三〇頁七行目の「若松町アジトの謀議」を「若松町アジトでの謀議」に、三六七頁五行目の「中条」を「中條」に、それぞれ改める。

二  一審原告が当審において追加又は敷衍した主張

1  捜査の違法性について

(一) 冤罪の根本原因

(1) 本件ピース缶爆弾の製造を計画実行したのは、牧田のグループであり、製造された爆弾は、関西アナキストグループ、赤軍派などに配布され、一連のピース缶爆弾事件に使用された。そして、八・九機事件は、赤軍派のメンバーであった若宮の単独行動によるものであった。

したがって、一審原告、増渕などのL研グループは、これらのピース缶爆弾事件とは無関係であった。

(2) このような冤罪を生んだ根本原因は、増渕らL研グループのメンバーを一連のピース缶爆弾事件の犯人として追及した本件捜査全体が日石・土田邸事件の犯人検挙のための別件として利用されたからであり、本件捜査全体に、早すぎた犯人の断定とそれによる自白偏重、客観的証拠の無視又は軽視(独善的証拠収集)という誤りを犯した違法がある。

(二) 犯人の断定と見込み捜査について

(1) 本件において、捜査当局が誤った見込みを立てて厳しく増渕や佐古を追及し自白を迫ったことにより虚偽の自白が大量に生産されるに至ったことは明らかな事実である。そのような捜査のあり方は、捜査権力の適正な行使に対して認められるところの、客観的証拠を重視する科学捜査の実施や自白と客観的事実との慎重な対比など、自白偏重に陥らない捜査のあり方とはまるで正反対のものであり、本件捜査は、過去に幾多の冤罪を生んだ日本的捜査の伝統に則り、一度犯人であるとの見込みを立てたら何が何でも自白をさせ、その自白に沿った証拠のみを収集し、これに沿わない証拠は無視するといった類の無反省な「板金捜査」そのものであった。

(2) 五部判決は、捜査当局がL研グループに対し、昭和四七年段階から一連のピース缶爆弾事件との関連について嫌疑を抱き、同年一二月四日以前から増渕に対して具体的にアメ文事件について追及していたこと、佐古に対しても厳しい追及を始めていたことを認定している。そして、五部判決は、本件ダンボール箱について、佐古と前原が符節を合わせるように虚偽の事実を供述していることは、これらの自白が証拠物を見た取調官の印象に基づいて佐古が追及され、その旨の自白がされた後、これを前提として前原さらには増渕に対しても同様の追及がされた結果、これに迎合する形で得られたものではないかという疑いを抱かせるものである旨判示している。また、五部判決は、本件ダンボール箱の包装状況に関する佐古の自白について、包装に用いられた紙袋の開披された状態が一見して一枚ものの包装紙のように見受けられるところから、これをそのように見た取調官がその印象に基づいて追及し、佐古がこれに迎合していった可能性が強い旨判示している。さらに、五部判決は、佐古らの自白には取調官の知っていたこと、推測していたことなどは、取調官の誤解の反映ではないかと思われる点すら含めて、いくつも現れているのに、真犯人なら知っているはずであるが取調官には明らかではなかったであろう事項についての言及が全くない旨判示している。このように、五部判決は、捜査当局が見込捜査を行い、誤った前提に立って佐古らを犯人として厳しく追及し虚偽の自白をさせたとの経過を事実上認めている。

(3) さらに、九部判決も、ダンボール箱製造に関する佐古の自白は、取調官から与えられるヒントや場合によっては取調官から示された新聞記事から得た知識を基にして取調官の有する証拠物についての知識に沿う供述をした疑いが強い旨判示している。また、九部判決は、アメ文事件のダンボール箱は、一見したところ手製のダンボール箱であるかのように見受けられるのであって、この解体されたダンボール箱を見た捜査官が手製のダンボール箱ではないかと思い込む方がむしろ自然ともいえる旨判示している。さらに、九部判決は、「本件捜査を見るのに、捜査官の証拠物や関連事件との関係について検討の不十分さ、各自白内容の吟味の不十分さ、被告人らの本件当時の行動状況(アリバイ関係)の調査の不十分さが目立つのであり、もし慎重な捜査がなされていたならば事件の真相を解明することができたのではないかとも思われるのである。」と判示している。

(4) 以上のとおり、本件捜査が全体として誤った見込みに基づきL研グループを犯人として追及するものであったことは明らかであり、これを違法でないとすることはできない。

(三) 別件逮捕について

(1) 本件においては、法大図書窃盗事件その他の窃盗事件は一連のピース缶爆弾事件の捜査に利用され、さらに、ピース缶爆弾事件は日石・土田邸事件の捜査のために利用されるという関係にあったのであり、捜査当局は、増渕らを長期間拘束して自白を強要する手段としてこれらの各事件を利用したのであって、本件捜査は、全体として違法な権限行使と評価されるべきである。

(2) 法大図書窃盗事件による逮捕勾留について五部判決等の刑事判決が違法な別件逮捕であるとの弁護人の主張を認めなかったのは、刑事裁判所がこの問題を主として逮捕後の供述調書の証拠能力との関係で検討したからであって、本件国賠訴訟において問題とされている捜査全体の違法性との関係で検討し判断したものではない。

法大図書窃盗事件の被害届が昭和四七年一〇月二四日に法政大学から出されたという事実は、警視庁から促された結果と推測できるのであり、ピース缶爆弾事件の捜査のために法大図書窃盗事件を利用して行こうとする捜査当局の意図が明らかに見て取れる。

(3) 本件においては、窃盗事件の取調べを終えた後にL研グループとピース缶爆弾との関連を追及する取調べがされた。そのことは、ピース缶爆弾に関する初の佐古供述となった昭和四七年一一月一七日付け員面調書の作成経過がそのことを端的に示している。すなわち、佐古は、窃盗事件で勾留中に、当日の取調官である小林正宏から、一〇・二一新宿署襲撃の際にトラックを運転したときに火炎びん以外のものを投げたはずだと追及され、認めさせられている。この新宿署襲撃事件は、L研の活動ではなく赤軍派の闘争であったことは公知の事実であり、図書窃盗とは何の関わりもない別の事件である。それにもかかわらず、取調官は、「その際に爆弾を投げたはずだ。俺たちの方では分かっているんだ。」との追求をしたのであって、それをもって窃盗事件の余罪捜査あるいは関連事情の捜査ということはできない。

一審原告に対する取調べも、窃盗事件の逮捕勾留中には直接は爆弾事件の追及はなかったが、「言っておくが、これだけではないぞ。もっと大きいやつ、おまえが一番知っているではないか。」といった追及があった。これは、捜査当局が最初から「もっと大きいやつ」、つまりピース缶爆弾事件の捜査のために一審原告を窃盗罪で逮捕したことを示している。

(四) 長時間の取調べと自白の強要について

(1) 本件における長時間の取調べと自白の強要は、別件逮捕の多用とともに、本件捜査が全体として自白偏重の誤りを犯したことを具体的に示している。

(2) 日石・土田邸事件に関する増渕らの供述調書について刑事九部は、任意性に疑いがある等の理由により証拠能力を否定しており、九部判決に対する控訴審判決も同じ結論に達している。異なる裁判所の判断とはいえ、一連の増渕らに対する逮捕勾留中の取調べの後半部分がこのように供述調書の任意性を認められないようなものであったことは、前半部分の取調べにおいても程度の差こそあれ同様の厳しい取調べがあったことを推測させるものである。

(3) 前記のように五部判決及び九部判決は、捜査当局が何も知らない佐古らを誘導又は強要して自白調書を作成したという実態があったことを指摘しており、そのような取調べが適法であるとすることは、自白しない被疑者に対しては取調官が自分の有する事件に関する知識ないし推測に基づいて誘導又は強要することにより自白するよう仕向けても構わない、被疑者はそのような取調べであっても甘受せよというに等しいものであり、不当である。

(4) 一審原告に対する取調べについては、黙秘又は否認する一審原告を、連日、平均八時間半にわたり二か月もの間取り調べて自白を求めたものであり、これは、自白の強要そのものである。

(五) 客観的証拠の無視、軽視について

(1) 佐古の昭和四七年一二月一一日付け員面調書は、アメ文事件の最初の自白調書であるが、爆弾を仕掛けたのが「虎の門」付近の「アメリカ領事館」であること、「池袋のサンコウレンタカー」の車を利用したこと、「赤軍派の板東」が参加したこと等、明らかに虚偽の内容を多量に含む調書であり到底信用することができないものであって、その添付図面に現れた爆弾入りダンボール箱も包装されていない裸の状態であることなど客観的事実に反するものである。このように明らかに客観的事実に反する供述が発端となっている以上、それを前提とした一二月二八日の佐古の自白の信用性も根本的な疑問が生じるはずであり、取調官の誘導・強制があったのではないかと疑うのが当然である。

右の点について、五部判決は、佐古のアメ文自白に至るきっかけについて、捜査当局が石田の供述や佐古の一一月一七日付け員面調書などから佐古らとピース缶爆弾事件との関係に嫌疑を抱き、佐古に対して厳しく追及を始め、これに対して佐古が取調官との友好的雰囲気の維持を考え、その顕著な迎合的性格に基づきイメージを形成増幅して供述し、それを事件に結びつけられていったものと考えられると判示しており、昭和四七年一二月二八日、取調官から手製のダンボール箱であることを前提に具体的にヒントを出される形で誘導された旨の佐古の公判供述も一概に虚偽のものとして排斥することはできない旨判断している。この判断は、正当であり、そのように考えない限り、このような虚偽の自白が生じた理由を合理的に説明することはできない。

以上で明らかなとおり、一二月二八日の佐古の自白は、本件ダンボール箱が手製のものであると勘違いした取調官や取調補助者らにおいて、佐古らがその製造に関与しているとの誤った見込みの下、「ヒントをやるから思い出せ」と巧みに誘導して供述させたものである。そのような取調べ方法は、まさしく「度を越えた誘導」そのものであり、到底正当化できるものではなく、それ自体、違法な取調べと言わねばならない。

(2) 佐古は、昭和四八年一月二四日に本件ダンボール箱の一側面継ぎ足しを供述しているが、右供述は、本件ダンボール箱の実物を見せられてから後にされたものであるから、それ自体一種の誘導によるものであり、任意にされたとの根拠を欠いている。しかも、当時、その実物は、四つの縦辺が開披された状態であり一側面が本体から分離していたのであるから、これを見た取調官が継ぎ足しを想像したとしても何ら不思議ではない。しかも、佐古の右供述においては、継ぎ足しはガムテープを用いたのではなく、ホッチキスで止めたとされている。これは明らかに真実に反する供述であるところ、このような誤った供述がされたのは、客観的事実に反する他の自白と同様に、実物を見た取調官がのりしろ部分に打ち込まれている平線を見てホッチキスで止めたと勘違いした結果と考えられる。このように、佐古の一側面継ぎ足しの供述は、佐古の供述の任意性を裏付けるものではなく、かえって取調官の誘導の存在を裏付けるものである。

(3) また、佐古は、同日、ダンボール箱の製造再現作業を行っているが、佐古の供述するような大型ホッチキスを用いたのでは、実物のように、箱の底辺よりの部分に針を打ち込むことも、縦方向に平行に針を打ち込むことも不可能である。

したがって、佐古が行ったという再現作業では、結局、実物のような箱は完成できなかったはずであり、そのことからも、佐古が本件ダンボール箱を製造したものでないことを認識できたはずである。

2  起訴の違法性について

検察官の公訴提起行為の違法性の判断基準としては結果違法説を採るべきであるが、仮に、職務行為基準説に立つとしても、本件起訴の違法性の判断基準については、次のように考えるべきである。

本件のように起訴の違法性について事後的に判断する場合にその判断基準となるのは、当該起訴の時点で検察官が収集済みであった証拠資料と捜査当局が一般に有すべき注意力をもってすれば収集し得たはずの証拠資料とを前提とし、これらの証拠資料によって当該被疑者に対する有罪判決を得る確たる見込みがあったか否か、すなわち、刑事訴訟の大原則である無罪推定を打ち破って有罪判決を得るだけの確たる証拠資料が存在したといえるか否かであるというべきである。仮に有罪判決の根拠たり得る一応の証拠資料がそろっているように見えたとしても、その内容がその他の証拠資料との関係で合理的な疑いをいれる余地のあるものであれば、無罪推定により無罪判決が言い渡される可能性が生じるのであるから、検察官としてはそのような起訴は避けるべきであり、敢えて起訴をした結果、無罪判決が下された場合には、当該起訴には過失があったとして違法とされるべきである。

本件においては、アメ文事件、八・九機事件、製造事件の犯行と被疑者とを直接結びつける証拠資料としては共犯者とされた被疑者らの中の数名の自白があるだけであったから、これらの自白の信用性に合理的な疑いをいれる余地があったか否かが本件起訴の違法性を判断するポイントとなるのである。

したがって、裁判所としては、収集済みの証拠資料と収集可能であった証拠資料に照らして、右自白の信用性について厳密な検討をし、公判においてその信用性が争われた場合に合理的な疑いが生じるような可能性がなかったのかどうかを判断すべきである。

そして、右の観点から自白と客観的事実との矛盾、自白相互の矛盾等について検討する場合には、個々の問題点について、「検察官の行った判断が不合理とはいえない」と判断したのみでは、自白の信用性について合理的な疑いをいれる余地がなかったとの判断をしたことにはならない。

3  控訴の違法性について

検察官の起訴に被疑者について犯罪の嫌疑が必要であるのと同様に、検察官の行う被告人に不利益な控訴についても、十分に根拠のあるものでなければならないことは当然である。しかし、五部判決の控訴審において検察官が取調請求をした証拠中、目新しいものと言えば、九部判決に対する控訴審での検察官申請(昭和六〇年三月一八日)に係る元L研メンバーであった峰孝一の公判(証人)調書のみであるが、九部判決の控訴審においても、昭和六〇年一二月一三日に控訴棄却判決がされたのであって、検察官は、その主張を到底裏付けるに至らない程度の証言を唯一の新証拠として五部判決に対する控訴を提起したことになる。すなわち、検察官の五部判決に対する控訴は、無罪判決を下した一審の蒸し返しでしかなかったのであり、検察官が事実誤認を理由として控訴審で逆転有罪判決を獲得できる見込みがあったとはおよそ考えられない。これは、その後検察官が自ら控訴を取り下げたことからも明らかである。

五部判決に対して検察官が行った控訴は、九部判決に対する控訴を維持するためにのみ行ったものであり、まさに控訴権の濫用に当たり、違法な職務執行行為である。

4  一審被告長山の違法な職務行為について

一審被告菊井が偽証した事項は、昭和五四年当時にすでに判明していた各種事情により虚偽と判断できるものばかりである。したがって、ベテラン検察官であった一審被告長山において通常の注意力をもって検討すればその真実性に疑問が生じ、それが虚偽であることを容易に見抜くことができたものである。そのことから逆に、一審被告長山が一審被告菊井と共同で積極的に虚偽供述の創作に関与したことを推認することができる。

一審被告菊井の昭和五四年七月一〇日付け検面調書<証拠略>に添付されている一審被告菊井作成の図面<証拠略>には、ダイナマイトについて、わざわざ赤字で「本体は紙で包装してあり商票が印刷してあったが詳細は忘れました」と記入されているが、一審被告菊井は公判では一転して「包装された状態のダイナマイトは見たことがない。図面と注記は誤りである。」と証言するに至った。このような一審被告菊井の態度は、右調書の作成段階で取調べに当たった一審被告長山が包装や商標について一審被告菊井を誘導し、全く知らない事項について敢えて供述させた結果としか説明できない。

本件においては、一審被告菊井の偽証は一審被告長山の違法な職務執行により導かれたと評価する以外に評価のしようがないはずである。

三  一審被告らが当審において追加又は敷衍した主張

1  一審被告国

(一) 捜査の違法性について

一連のピース缶爆弾事件の捜査全体についてその違法性の有無を判断すべきであるという一審原告の主張は、具体的職務行為の特定を欠いており、主張自体失当である。

(二) 控訴の提起の違法について

検察官が五部判決の控訴審において取調請求をした公判調書における峰孝一の証言は、その証言内容からして、本件ピース缶爆弾事件が一審原告らL研のメンバーによって行われたことを強く推認させる重要な間接証拠と評価できるものであった。

(三) 一審被告長山は、一審被告菊井の取調べに際し、誘導・押付けをしたことはない。一審被告菊井の供述は、同人が自ら体験した事実を忠実に供述したものであると認められるものであった。

2  一審被告東京都及び一審被告堀内

(一) 捜査全体の違法性について

個々の捜査に違法がない場合に、捜査全体が違法になるということはない。

(二) 犯人の断定と見込み捜査について

捜査官が、佐古らの供述や裏付け捜査の結果に基づき、本件ピース缶爆弾事件の犯人がL研グループではないかとの嫌疑を抱き、そのメンバーを取り調べたことは当然のことであり、九部判決が「増渕、前林、堀、江口がそれぞれ起訴されたピース缶爆弾事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残る」と判示していることからしても、右取調べをもって誤った見込みに立った違法な捜査であると評価することはできない。

捜査官は、L研グループを本件ピース缶爆弾事件の犯人であると断定してそのメンバーの取調べを行ったものではなく、また、誤った犯人としての断定に基づき見込み捜査を行ったこともない。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。

第四争点に対する判断

次のとおり付け加えるほか、原判決「事実及び理由」中の「第三 争点に対する判断」記載のとおりであるから、これを引用する。

一  原判決書の補正

1  本件ピース缶爆弾に関する捜査の違法性(争点1)

(一) 四八二頁七行目の「<証拠略>」を「<証拠略>と弁論の全趣旨」に改め、四八七頁一〇行目の「二四日に」の次に「初めて」を、四八八頁九行目の末尾の次に「同月五日に」を、四八九頁一行目の末尾の次に「(前示のとおり被害届が昭和四七年一〇月二四日になって初めて提出されたことは、法大図書窃盗事件による逮捕勾留が別件逮捕・勾留として違法であることを根拠付けるものではない。)」を、それぞれ加える。

(二) 四九七頁四行目の末尾の次に行を改めて次のとおり加え、四九八頁一〇行目から四九九頁一行目までを削る。

「田村ほか三名の警察官は、同日、佐古及び原義一を立会人として、佐古がダンボール箱を窃取してきたとする新宿区河田町六番地原義一方倉庫付近を検証し、ダンボール箱の窃取場所を確認した。」

(三) 五〇四頁九行目の「一方、」の次に「前記(2)で述べたとおり、」を加える。

(四) 五〇七頁二行目の「ものであった」の次に「(なお、佐古は、右作製に際し大型ホッチキスを用いているが(<証拠略>)、捜査官は、佐古が作製したダンボール箱と本件ダンボール箱とを比較対照するに際し、ホッチキスの針の形状、打たれた位置、向き等についてその意味を十分認識していなかったものと認められる(<証拠略>)。」を加える。

(五) 五一〇頁三行目の「供述したこと」を「供述し、河田町アジトでの検証に際し、作製時の状況を詳細に指示説明したこと(<証拠略>)」に改め、同頁九行目の末尾の次に「なお、本件ダンボール箱に打ち込まれていた平線は大型ホッチキスでは打てないものであったから、捜査官において、佐古が捜査官の面前で作製したダンボール箱と本件ダンボール箱とを比較対照するに際し、針の形状、打たれた位置、向き等について十分注意を払っていれば、佐古が大型ホッチキスを用いて再現した方法では本件ダンボール箱を作製することができないことを見抜くことができたともいえるが、右に判示した事情の下では、再現されたダンボール箱の平線について捜査官が十分な注意を払わず、その結果として手製のものでないことを見抜けなかったことをもって本件捜査が違法であったとまでいうことはできない。」を加える。

(六) 五一五頁二行目の「<証拠略>」を削り、同頁三行目の「<証拠略>」の次に「<証拠略>」を加える。

(七) 五一八頁五行目の末尾の次に「昭和四八年」を加える。

2  本件ピース缶爆弾事件に関する公訴提起の違法性(争点2)

(一) アメ文事件の起訴の違法性

(1) 五二六頁五行目の「ならない」の次に「(公判段階になって本件ダンボール箱が既製品であることを証するために提出された証拠資料は、アメ文事件の起訴の時点において有罪と認められる嫌疑があったかどうかの判断の資料とすることができない。)」を加える。

(2) 五二七頁二行目の「認めることはできない」を「採用することができない」に改め、同頁八行目の「からといって、」の次に「不合理であるとすることはできず、」を加える。

(3) 五四二頁三行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」に改める。

(二) 八・九機事件起訴の違法性

(1) 五四八頁一〇行目の「取調官に、」の次に「一〇月二九日に」を加える。

(2) 五五〇頁九行目の「<証拠略>」の次に「<証拠略>」を加える。

(3) 五五六頁五行目の「判断した」の次に「(一審被告水崎の本人尋問及び弁論の全趣旨による。以下、アメ文事件及び八・九機事件の起訴に関する検察官の判断であって、認定の根拠となった証拠を掲げていないものについて同じ。)」を加える。

(4) 五九五頁一〇行目の「行動の」を「供述の」に改める。

(5) 五九七頁末行の「これを」から五九八頁一行目の末尾までを「これを不自然と考えない検察官の判断が不合理であるとまではいえない。」に改める。

(6) 六二二頁六行目の「同日」を「同月一七日」に改める。

(7) 六二六頁一行目の「の成立」を「についてその可能性を指摘し又は高度の蓋然性に言及してはいるものの、その成立」に改める。

(8) 六二六頁九行目の末尾の次に「したがって、公判段階において提出された右経緯に関する証拠資料は、一審原告の起訴時に有罪と認められる嫌疑があったといえるかどうかの判断の資料とすることができない。」を加える。

(9) 六二九頁九行目の末尾の次に「また、右各証言の内容を一審原告の起訴時に有罪と認められる嫌疑があったといえるかどうかの判断の資料に加えることはできない。」を加え、同頁一〇行目から六三〇頁二行目までを次のとおり改める。

「(六) 結論

右(一)、(三)及び(四)において判示したとおり一審原告が主張する各自白の問題点に関する検察官の判断が不合理であるとすることはできず、また、それらの問題点に対する判断を前提として、検察官が各自白を総合考慮し右(二)において判示したとおり判断したことが不合理であるとすることもできないから、検察官が八・九機事件の起訴の時点において一審原告に有罪と認められる嫌疑があるとしたことが合理的根拠を欠くとすることはできず、したがって、右公訴の提起をもって違法とすることはできない。このことは、内藤が八・九機事件につき有罪の判決を受けたこと(<証拠略>)からも首肯できよう。」

(三) 製造事件起訴の違法性

(1) 六三二頁四行目の「できない」の次に「(一審原告の起訴時に有罪と認められる嫌疑があったといえるかどうかの判断の資料に公判段階になって提出された右アリバイの存在に関する証拠資料を加えることはできない。)」を、同頁一〇行目の「できない」の次に「(一審原告の起訴時に有罪と認められる嫌疑があったといえるかどうかの判断の資料に公判段階になって収集された右休業日に関する証拠資料を加えることはできない。)」を、それぞれ加える。

(2) 六三七頁一行目の「論理則上」を削る。

(3) 六三九頁一行目の「認められる」の次に「(<証拠略>及び一審被告親崎の本人尋問の結果と弁論の全趣旨による。以下、製造事件の起訴に関する検察官の判断であって、認定の根拠となった証拠を掲げていないものについて同じ。)」を加える。

(4) 六四〇頁五行目の「判断した」の次に「ものと認められる」を加える。

(5) 六四五頁八行目の「ついて」を「ついては」に、同頁一〇行目の「右判断」を「検察官の判断」に、それぞれ改める。

(6) 六五一頁八行目の「前田」の次に「祐一」を加える。

(7) 六五二頁八行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」に改める。

(8) 六五六頁九行目の「八日」を「九日」に改める。

(9) 六五七頁五行目の「したがって、」の次に「京都公安調査局事件の関係証拠のうち本件起訴後に収集されたものは、本件起訴時において有罪と認められる嫌疑があったといえるかどうかの判断の資料とすることはできず、」を加える。

(10) 六八〇頁六行目、六八六頁一〇行目、六八七頁二行目、七行目の各「等」を削る。

(11) 六八一頁七行目の末尾に続けて「なお、ダイナマイト一本の実際の大きさは全長約一七・八センチメートル、直径約三センチメートルというのが代表的なものであること(<証拠略>)からすると、右の各供述は目撃したダイナマイトのおおよその概念を伝えるものとして著しくかけ離れたものではないということができる。」を加える。

(12) 六九八頁六行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」に改める。

(13) 七〇八頁八行目の「前記2の(二)の(2)で述べたとおり、」を削り、同頁九行目から一〇行目にかけての「維持したこと」の次に「(後記三1の(一)の(2)」を、七〇九頁一行目の「肯定されている。」の次に「<証拠略>(以下、五部判決の内容は<証拠略>による。)」を、同頁二行目の「あっても、」の次に「前記2の(二)の(2)で述べたとおり、」を、それぞれ加える。

(14) 七二三頁一〇行目の「右方法は」を「その方法は」に改める。

(15) 七三六頁五行目の「員面調書」の次に「(<証拠略>)」を加える。

(16) 七四四頁八行目から末行までを次のとおり改める。

「(三) 結論

(二)において判示したとおり、一審原告が主張する証拠資料の個別的問題点に関する検察官の判断が不合理であるとすることはできず、検察官において、各証拠を総合考慮し製造事件につき一審原告に有罪と認められる嫌疑があるとしたことが合理的根拠を欠くとすることはできない。このことは、製造事件につき内藤及び石井が有罪判決を受けたということ(<証拠略>)からも首肯できよう。」

3  本件ピース缶爆弾事件に関する公訴の追行・維持の違法性(争点3)

(一) 七四五頁一行目末尾の次に行を改めて次のとおり加える。

「右二において見たように本件ピース缶爆弾事件のいずれについても公訴の提起が違法であると認めることはできないところ、公訴の提起が違法でなければ、原則としてその追行・維持も違法でないと解すべきである。そこで以下、本件において別異に解すべき事情があるかどうか控訴人の主張に沿って判断することとする。この場合、公訴追行時の検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解するのが原則であることに留意すべきである(最高裁判所第一小法廷平成元年六月二九日判決・民集四三巻六号六六四頁参照)。」

(二) 七五二頁六行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」に改める。

(三) 七六二頁八行目の「被告人」を「村松」に改める。

(四) 七六七頁一一行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」に、七六八頁二行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」に、それぞれ改める。

(五) 七七三頁四行目の「荒木久樹」を「荒木久義」に改める。

4  本件ピース缶爆弾事件に関する控訴提起の違法性(争点4)

七八六頁六行目の「<証拠略>」の次及び七八七頁六行目の「<証拠略>」の次に、それぞれ「と弁論の全趣旨」を加える。

5  一審被告菊井の偽証の有無(争点5)

(一) 七九三頁二行目の「<証拠略>」の次に「と弁論の全趣旨」を、八〇一頁一行目の「九部証言は、」の次に「一審原告に対する」を、それぞれ加える。

(二) 八〇二頁三行目の「被告菊井は」の次に「、原審において」を加え、同頁六行目の末尾の次に行を改めて次のとおり加える。

「また、一審被告菊井は、原判決に対して控訴をしたが、適式な呼出しを受けながら、当審の口頭弁論期日に出頭しない。そして、陳述したものとみなされた控訴状には、「原判決は事実誤認に基づくものであり、到底承服し難いものであるから控訴を提起する。その詳細は、後日、準備書面をもって提出する。」と記載されているが、右準備書面は、提出されなかった。」

(三) 八五一頁八行目の「国井録取書」の次に「(<証拠略>)」を加え、八五三頁七行目の「そうすると」から同頁八行目末尾までを、「そうすると、本件ピース缶爆弾の製造に関する一審被告菊井の証言は、L研グループのメンバーが本件ピース缶爆弾を製造したかどうかにかかわらず、一審被告菊井において、その製造に関与し製造状況を目撃したという点において偽証であると認めざるを得ない。」に改める。

(四) 八五四頁の一行目から二行目までを次のとおり改める。

「なお、前示のとおり、一審被告長山は、昭和五四年七月一〇日付けで一審被告菊井が公判廷で証言したのと同内容の詳細な検面調書を作成しているが、一審被告長山において一審被告菊井に対し虚偽の内容の供述をするように教唆し、あるいは故意にそのように仕向けた事実を認めるに足りる証拠はなく、一審被告長山が右検面調書を作成したこと、一審被告菊井の証人尋問を行ったことをもって違法な職務行為と見ることはできない。また、九部判決の控訴審判決が「右にみたところからすれば、菊井の証言はまさに本件の真実を語っているのではないかとの考えを容れる余地は相当大きいものといわなければならない。」と判示していること(<証拠略>)からしても、右検面調書作成に関与した一審被告長山が一審被告菊井の供述が虚偽であることを見抜けなかったことや、一審被告菊井に公判廷において同内容の証言をさせたことに過失があるとすることもできない。したがって、一審被告長山の行為が違法な職務行為であるとして国に対して損害賠償を求める一審原告の請求は、理由がない。」

6  一審被告水崎、同親崎、同長山及び同堀内の不法行為責任(争点6)

八五四頁九行目の「ものではない。」の次に「国又は公共団体が賠償の責に任ずればそれによって被害者の救済に欠けるところはなく、その上更に当該公務員個人に直接の責任を認めても、被害者の報復感情を満足させる以外に実益はなく、報復的な意味で公務員個人の賠償責任を認めるのは妥当ではないからである。」を加える。

二  一審原告が当審において追加又は敷衍した主張に対する判断

一審原告が当審において追加又は敷衍した主張に対する当裁判所の判断は、次のとおりである(なお、一審原告が当審において追加又は敷衍した主張のうち、以下において判断していないものに対する当裁判所の判断は、右一における補正後の原判決書の該当箇所に記載のとおりである。)。

1  刑事事件の係属状況と帰結

(一) 本件ピース缶爆弾事件に関する起訴と判決内容について

(1) 一連のピース缶爆弾事件のうち、L研グループが起訴された事件(本件ピース缶爆弾事件)は、次の三件であり、事件の発生時期によると、製造事件、八・九機事件、アメ文事件の順となるが、捜査の進展及び起訴の順序としては、アメ文事件、八・九機事件、製造事件の順となる(<証拠略>)。

<1> アメ文事件

右事件の公訴事実は、次のとおりである。

(増渕、村松、佐古について)

「被告人は、ほか数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一一月一日午後一時ころ、東京都千代田区永田町二丁目一四番二号山王グランドビル二階アメリカ大使館広報文化局アメリカ文化センター受付において、煙草ピース空缶にダイナマイト及び塩素酸カリウムを充填し、これに電気雷管、タイマー及び電池を結合した時限装置付手製爆弾を右受付カウンター上に装置し、もって、爆発物を使用したものである。」

(前原について)

「被告人は、ほか数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月末ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方の被告人及び佐古幸隆の居室において、煙草ピース空缶にダイナマイト及び塩素酸カリウムを充填し、これに電気雷管、タイマー及び電池を結合した時限装置付手製爆弾一個を製造したものである。」

なお、検察官は、爆発物使用の共犯者は、増渕、村松、佐古、前原及び氏名不詳者一名であるとしている。

<2> 八・九機事件

右事件の公訴事実は、次のとおりである。

(増渕、村松、一審原告(井上)、前原、堀、内藤について)

「被告人は、ほか数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月二四日午後七時ころ、東京都新宿区若松町九五番地警視庁第八機動隊・第九機動隊正門前路上において、煙草ピース空缶にダイナマイトなどを充填し、これに工業用雷管及び導火線を結合した手製爆弾一個を右導火線に点火して前記機動隊正門に向かって投てきし、もって、爆発物を使用したものである。」

なお、検察官は、右使用の共犯者は、右被告人らと赤軍派の者二名(氏名不詳)であるとしている。

<3> 製造事件

右事件の公訴事実(ただし、九部判決及び五部判決における訴因変更後のもの)は、次のとおりである。

(増渕、村松、佐古、前原、内藤、一審原告(井上)、平野、石井、堀、江口、前林について)

「被告人は、ほか一〇数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月中旬ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方秋田修こと佐古幸隆の居室において、煙草ピース空缶にダイナマイト・パチンコ玉などを充填し、これに工業用雷管及び導火線を結合し、もって、爆発物である手製爆弾一〇数個を製造したものである。」

なお、検察官は、右製造の共犯者は、右被告人らと国井及び菊井であるとしている。

(2) 事実認定上の最大の争点

何者かが本件ピース缶爆弾事件の犯行を敢行したことは明らかであったが、検察官が犯行を行ったと主張する者と犯行とを直接結びつける客観的証拠は存在せず、共犯者とされた者の中で自白をした者の供述の信用性が最大の争点であった(<証拠略>)。

(3) 本件ピース缶爆弾事件に関する起訴の状況は前示のとおりであるが、これを判決との関係で整理すると、次のとおりである。

<1> 内藤関係の判決

昭和四八年一〇月二三日地裁判決  有罪・執行猶予(<証拠略>)

昭和四九年一〇月二四日高裁判決  控訴棄却(<証拠略>)

昭和五一年三月一六日最高裁判決  破棄差戻し(<証拠略>)

昭和五三年三月一七日高裁判決   有罪・実刑(<証拠略>)

昭和五三年一二月一二日最高裁決定 上告棄却(<証拠略>)

<2> 石井関係の判決

昭和四九年三月一九日地裁判決   有罪・執行猶予(<証拠略>)

平成元年三月二〇日地裁決定    再審開始(<証拠略>)

平成元年一二月一九日地裁判決   再審無罪(<証拠略>)

<3> 九部判決

アメ文事件では増渕が、八・九機事件では増渕及び堀が、製造事件では増渕、堀、江口及び前林が起訴されており、その結果は、次のとおりである。

昭和五八年五月一九日地裁判決 無罪(<証拠略>)

昭和六〇年一二月一三日高裁判決 控訴棄却(<証拠略>)

<4> 五部判決

アメ文事件では村松及び佐古が爆発物の使用の罪で、前原が時限装置付手製爆弾の製造の罪で、八・九機事件では村松、一審原告(井上)及び前原が、製造事件では一審原告(井上)、平野、村松、佐古及び前原がそれぞれ起訴されていたが、佐古については第一〇二回公判に弁論が分離され、その結果は、次のとおりである。

昭和五九年三月二二日地裁判決 無罪(<証拠略>)

(二) 無罪理由について

(1) アメ文事件

<1> 九部判決は、「以上詳述したように、村松のアリバイは認められないが、佐古、前原、村松及び増渕のアメリカ文化センター事件に関する各自白の信用性には結局疑問が残り、増渕が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずることはできず、犯罪の証明がないものである。」と判示して、アメ文事件につき増渕を無罪とした(<証拠略>)。

その控訴審判決も、右各自白内容の信用性にはいずれも疑問があるとした上、増渕が犯人であると断ずることはできないとした九部判決の判断を支持し、検察官の控訴を棄却した(<証拠略>)。

<2> 五部判決は、「以上、検討してきたように、佐古、前原、村松及び増渕の本件への荷担に関する各自白の信用性には多大の疑問があるばかりでなく、村松には前記のとおり、本件の敢行と相容れない可能性のある事情すら認められることを併せ考えると、これらの自白によって、本件公訴事実と被告人ら及び共犯者とされる者らとの結びつきが合理的な疑いを超える程度に確立されているとは到底いうことができない。」と判示して、アメ文事件につき村松及び前原を無罪とした(<証拠略>)。

(2) 八・九機事件

<1> 九部判決は、「以上に詳述したとおり、増渕らのアリバイは認められないが、前原、内藤、村松及び増側の八・九機事件に関する各自白の信用性には結局疑問が残り、増渕及び堀が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずるには至らず、犯罪の証明がないものである。」と判示して、増渕及び堀に対し八・九機事件につき無罪とした(<証拠略>)。

その控訴審判決も、右各自白内容の信用性にいずれも疑問があるとした上、増渕及び堀が犯人であると断ずることはできないとした原判決の判断を支持し、検察官の控訴を棄却した(<証拠略>)。

なお、九部判決は、若宮の単独犯行であるとする若宮、古川及び荒木の各証言をもって、「直ちに、弁護人の主張するように、第八、九機動隊事件は若宮の単独犯行であって、被告人らの犯行でないことを示す証拠であると認めることはできない」としている(<証拠略>)。

<2> 五部判決は、前原、内藤、村松及び増渕の各自白をもって、「本件公訴事実(八・九機事件)と、その犯人とされている被告人村松、同井上及び同前原との結びつきを示す確証とすることはできない」と判示して、八・九機事件につき村松、一審原告(井上)及び前原を無罪とした(<証拠略>)。

なお、五部判決は、「以上の諸点を総合して考察すると、八・九機事件は若宮の単独犯行であるとする若宮証言及びこれを補強する古川並びに荒木の各証言は、相当高度に信用すべきもののようであるけれども、他面、右に指摘したような問題点がなお残されているのであって、犯人は若宮であると断定するまでには至らず、弁護人らが主張するように、これらの証言によって被告人らは八・九機事件に無関係であることが判明したとは言えない。」としている(<証拠略>)。

(3) 製造事件

<1> 九部判決は、「以上に詳述したように、被告人らのピース缶爆弾製造事件に関する各自白及び菊井の証言の信用性には結局疑問が残り、増渕、前林、堀及び江口が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずることはできず、犯罪の証明がないものである。」と判示して、増渕、前林、堀及び江口を無罪とした(<証拠略>)。

その控訴審判決も、右各証言は増渕らが本件の犯人であるとするには足りないとした上、増渕、堀、江口及び前林が犯人であると断ずることはできないとして原判決の判断を支持し、検察官の控訴を棄却した(<証拠略>)。

なお、九部判決は、本件ピース缶爆弾は牧田のグループが製造したものであるとの牧田証言をもって、「直ちに、弁護人の主張するように、ピース缶爆弾製造事件の真犯人の証言にほかならず、被告人の無罪を示す証拠であると認めることはできないものである。」としている(<証拠略>)。

<2> 五部判決は、「以上の次第で、本件ピース缶爆弾製造事件に被告人四名が関与したとする各自白(菊井証言を含む。)は、いずれもその信用性が極めて乏しく、これをもって本件公訴事実(ピース缶爆弾製造)と被告人四名との結び付きの確証とすることは到底できないのである。」と判示して、製造事件につき一審原告(井上)、平野、村松及び前原を無罪とした(<証拠略>)。

なお、五部判決は、「以上の諸点を総合して考察すると、牧田吉明が本件ピース缶爆弾の製造に深く関与しているのではないかとの嫌疑は、ある程度認められるものの、そうと断ずるには看過し得ない疑問点も少なからず存するのであって、弁護人らが主張するように、牧田証言は十分な信用性を具備し、本件ピース缶爆弾製造事件の真犯人を明らかにするものであるとは言えない。」としている(<証拠略>)。

2  捜査の違法性について

(一) 刑事判決の結論

前示のとおり、九部判決とその控訴審判決並びに五部判決は、いずれも、各自白の信用性を否定した上、本件ピース缶爆弾事件に関し犯罪事実の証明がないとして各被告人を無罪としたものであって、製造事件についてピース缶爆弾の製造を計画実行したのがL研グループではなく牧田のグループであると積極的に認定したものではなく、八・九機事件についてもこれが若宮の単独犯行であると積極的に認定したものではないし、右各判決において、一審原告、増渕などのL研グループのメンバーが本件ピース缶爆弾事件と無関係であると積極的に認定したものでもない(その点は、石井の再審無罪判決(<証拠略>)も同様である。)。

また、<証拠略>と一審原告が本件において主張するところを基に、本件において提出された関係証拠を検討しても、五部判決の判示するところを超えて、本件ピース缶爆弾の製造を計画実行したのが牧田のグループであり、八・九機事件が若宮の単独犯行であって、一審原告、増渕などのL研グループのメンバーが製造事件及び八・九機事件と無関係であると積極的に認定することはできないし、増渕、村松、佐古、前原がアメ文事件(前原については製造)と無関係であると積極的に認定することもできない。

(二) 捜査全体の違法

次に、一審原告は、増渕らL研グループのメンバーを本件ピース缶爆弾事件の犯人であるとして追及した本件捜査全体が日石・土田邸事件の犯人検挙のための別件として利用されたものであり、本件捜査全体に早すぎた犯人の断定とそれによる自白偏重、客観的証拠の無視又は軽視(独善的証拠収集)という誤りを犯した違法があると主張する。

確かに本件捜査に種々の問題があることは、九部判決(<証拠略>)及びその控訴審判決(<証拠略>)並びに五部判決(<証拠略>)が各所において指摘するところである。

そして、本件捜査の進展状況を見ると、昭和四七年八月二七日に増渕と交際のあった石田が火薬庫に侵入しようとして逮捕された時以降、日石・土田邸事件をも念頭において順次捜査がされた可能性がある。しかし、捜査当局が、各事件に関連して種々の嫌疑を持ち、また、各事件の関連性、捜査の進展具合、捜査の難易度などを考慮した上で各事件の捜査方針を立てるのは当然であり、仮に窃盗事件において収集した資料が一連のピース缶爆弾事件の捜査に役立ち、また、ピース缶爆弾事件の捜査において収集した資料が日石・土田邸事件の捜査に役立つ可能性があるとして各事件の捜査方針を立てたとしても、そのこと自体から各捜査が違法となるものではない(なお、本件の各窃盗事件、ピース缶爆弾事件が、逮捕、勾留等を要しない軽微な事件でないことは明らかであり、これらの事件における逮捕勾留をもって別件逮捕・勾留として違法であるとすることはできない。)。

したがって、国賠訴訟との関係では、各事件の捜査における具体的職務執行行為につき、それが捜査機関に与えられている権限の違法な行使に当たるかどうかを検討して、捜査当局の職務の執行が違法かどうかを判断すべきものである。そして、その場合において、捜査機関が誤った見込みに基づき、あるいは早すぎた犯人の断定等により、違法に職務を執行したと認められるときは、当該職務執行行為を違法として国又は公共団体に賠償を命ずべきことになる。

(三) 自白の原因と捜査の違法性について

(1) アメ文事件

アメ文事件については、前原、佐古、増渕及び村松の捜査段階における自白があり、佐古及び前原の各供述の経過は前示(原判決書四九三頁六行目から五〇〇頁一〇行目まで、五二七頁末行から五三六頁七行目まで及び五四二頁二行目から五四四頁五行目まで(補正後))のとおりである。九部判決及びその控訴審判決並びに五部判決は、前示のように、いずれも各自白の信用性を否定したが、佐古及び前原の自白の状況と公判段階の弁解等を検討した上、本件ダンボール箱が既製品であったにもかかわらず、佐古及び前原がこれを手製のものであるとして、その製造状況について具体的かつ詳細で細部にまでわたって証拠物と一致するように見受けられる自白をするに至った要因について、次のとおり判示している。

<1> 九部判決

「佐古が右に弁解するところをそっくりそのまま措信することはできないにしても、少なくとも取調官からダンボール箱を製造したことはないかとの追及を受け、佐古においてダンボール箱を製造した事実がないのに、取調官に迎合的な心理状態になったものか追及に根負けしたものかは不明であるが、取調官から与えられるヒントや場合によっては同月一四日に取調官から示されたアメリカ文化センター事件の新聞記事(写真を含む。……中略……)から得た知識を基にして取調官の有する証拠物についての知識に沿う供述をした疑いが強い。」(<証拠略>)

「前原及び増渕は、捜査官から佐古のダンボール箱製造の自白及びアメリカ文化センター事件の解体されたダンボール箱を見た捜査官の印象に基づいてダンボール箱を製造したのではないかとの追及を受け、これに合わせた供述をしたとの疑いが強い(前原に対し爆弾を入れる箱を作ったのではないかとの発問をしたことは、同人の取調官である高橋警部補も認めている。……中略……)」(<証拠略>)

「前述したように、佐古は取調官からアメリカ文化センター事件の犯人であると断定され自白を迫られた状況は窺い得ず、佐古が自白した理由について弁解するところも不合理かつ不自然なものがあって、佐古が右事件に関与していないとすればなぜ自白するに至ったのか疑問の大きいところであるが、佐古の弁解中、佐古が取調官との協調関係を維持したいと考えた旨弁解するところに佐古の真意があるように思われるのであり、佐古は取調官の意を迎えるため自白するに至ったものと考えることも全く不合理とはいえないように思われる。」(<証拠略>)

<2> 五部判決

「証拠品となっている本件ダンボール箱は、発見直後、事件現場において、警視庁鑑識課員によって開披された際、箱の四隅が縦に切断されており(……中略……)、かつ、ガムテープがおおむね各稜に貼付されている状況が看取されるため、一見、手製のダンボール箱の如き印象を与えるものであるが、佐古及び前原の取調べ当時も同様な状態にあったものと解され、これを見た本件取調官らが手製のものと誤解したとしても何ら不思議ではなく、佐古及び前原が符節を合わせるように結果的に虚偽の事実を内容とする前記のような供述をしていること(なお、増渕も、佐古及び前原の自白の後に、取調官の高橋警部補に対し、八・九機への攻撃後、佐古に命じてアジトにあったダンボール箱を小さく作り直させ、ピース缶爆弾が入るくらいの物を作らせた旨、供述した模様であり(……中略……)、あるいは前原に対し、八・九機への攻撃後、爆弾、時限装置の入れ物を作るように指示し、ダンボール箱の入れ物ができた旨の供述をしている。)は、むしろ、これらの自白は、右証拠物を見た取調官の印象に基づいて佐古が追及され、その旨の自白がなされた後、これを前提として前原にも(また、更に増渕にも)同様の追及がなされた結果、これに迎合する形で得られたのではないかという疑いを抱かせるものである。」(<証拠略>)

「佐古は、昭和四七年一一月三日法大図書窃盗事件で逮捕されて以後、同事件はもとより、余罪であるいくつもの窃盗事件について自白し、あるいは昭和四四年及び昭和四五年の佐古、増渕らの活動状況について詳細なメモを作成するなど取調に対し協調的であり、取調官とは比較的友好的雰囲気にあった。一方、捜査当局は、……中略……石田茂の供述、佐古44・11・17員面のピース缶爆弾に関する供述、あるいは佐古メモ中の同爆弾についての記載内容から、佐古らL研グループが当時未解決であったピース缶爆弾事件に何らかの関係があるのではないかとの嫌疑を抱き、佐古に対し、厳しく追及を始めた(但し、佐古が公判廷で供述するような、佐古をアメリカ文化センター事件の犯人と断定しての取調べであったとは認められない……中略……)。これに対し、……中略……村松の言動などから、村松らがピース缶爆弾事件の犯人ではないかとの疑いを抱き始めていた佐古は、取調官との友好的雰囲気の維持を考え、その顕著な迎合的な性格に基づき、漠然とした記憶の中から、……中略……「真暗な中から車が出て来て、真黒い人間が二人降りて、何も持たずに帰って来た」というイメージを形成、増幅して行き、取調官の意思を迎えるとともにその反応を見るため、右イメージにつき、供述した。すると、これがアメリカ文化センター事件に結びつけられ、その後引き続き取調を受ける中で、取調官の質問に如才なく答えたいためにした場当たり的な発言が明確に供述に転化させられ、調書に録取されるようなことを通じ、記憶と想像の区別が曖昧になり、徐々に自分自身の関与の有無も判然としない状態になって行き、更にこれが新たな供述へと増幅され、フィードバックされるに至った。そして、その後、捜査段階を通じ、一貫して自白が維持され、かつ、その自白の内容が具体的かつ詳細になっていったについては、取調を受ける過程でその迎合的性格が一層助長されたことのほか、公判廷供述においても顕著にみられるような佐古自身の饒舌、多弁の傾向が影響している。佐古が坊主刈りにしたのも、窃盗事件の取調や「一〇・二一ピース缶爆弾の所持」の供述を通じて形成された取調官との友好的雰囲気の維持に連なる迎合的行動である。

このようなことが可能性として考えられるばかりでなく、このように考えることによってはじめて、佐古の取調段階における態度と公判段階における態度とを統一的に理解できるのではあるまいか。」(<証拠略>右記述中の「佐古44・11・17員面」は、「佐古47・11・17員面」の誤記である。)

「前原は、……中略……比較的短時日の取調で自白するに至ったのであって、真犯人でないのに自白したとするには、一般的に言って相当な難点がある。しかし、……中略……公判段階における自白の理由についての弁解……中略……、すなわち、取調官に対し、誠実な態度を示すため、明確な記憶のないことでも認めたとするところは、一見信じがたいようではあるけれども、前原自白に含まれている上来説述の諸問題に鑑みれば、これを一概に虚偽、作為として排斥し去ることはできず、前原にも、佐古ほどではないにせよ、その性格に迎合的傾向の存することが窺われると言うべきである。その上、前原に対しては、これまで指摘して来たように、佐古の自白に基づく追及がある程度厳しくなされた蓋然性が強いから、これに対して、前原が、右のような性格から、さしたる抵抗も試みることなく迎合した結果、速やかな自白となったと考えることができる。」(<証拠略>)

(2) 八・九機事件

八・九機事件については、前原、内藤、増渕及び村松の捜査段階に於ける自白があり、その自白の経過は前示(原判決書五四六頁末行から五六二頁二行目まで)のとおりである。九部判決及びその控訴審判決並びに五部判決は、前示のとおり、いずれもその信用性を否定したが、九部判決及び五部判決は、自白の経緯と公判廷での弁解等について検討した上、自白の要因について次のとおり述べている。

<1> 九部判決

「以上の諸点を総合すると、昭和四四年一〇月ごろのある日、村松、前原らが河田町アジトか、あるいは他の場所に集まった際に内藤も同席し、村松が八・九機を火炎ビン等で攻撃する計画を提案したものの横から侵入するといった実現可能性の薄いものでともかく実行には至らなかったというようなことがあって、内藤がこの話合いについて断片的に記憶していたこと、及び内藤が河田町アジトか八・九機付近にある大学の友人の下宿へ遊びに行くような機会に八・九機付近を歩き、その時の状況を断片的に記憶していたことがあり、捜査官から「増渕、村松、前原らが八・九機事件の犯人で認めている。お前の名前も出ている。何か八・九機について思い出すことはないか」との追及を受けて、増渕らが八・九機事件の犯人である旨思い込み、右断片的記憶に基づき供述したが、その後逮捕され取調が続くうちに捜査官の追及に根負けしたものか迎合したものかは不明であるが、追及に合わせた供述をしたとの疑いを否定し去ることはできないように思われる。」(<証拠略>)

「前原は、取調官の厳しい追及に根負けし、又は迎合して虚偽の自白をするに至った疑いが残る。」(<証拠略>)

<2> 五部判決

「以上の諸点を総合して考察するときは、昭和四四年一〇月ころ、河田町アジト等において、村松が、前原、井上らに対し、八・九機を火炎瓶で攻撃し、横から進入するという内容の計画を提起したことがあり、内藤もその場に居合わせたが、右計画は結局実行されるには至らなかった事実及び内藤が、そのころ、河田町アジト、若松町アジトあるいは前記若松町の友人方に赴いた際、八・九機付近を歩いたり、菊井と若松食堂で食事をした事実があり、右のような事実を断片的に記憶していた内藤が、昭和四八年二月に至り、取調官から八・九機事件を追及され、前原らが同事件を認め、内藤の名前も出している旨聞かされ、いわゆる東薬大事件における鉄パイプ爆弾製造に増渕らが関与している旨信じていたこともあって、同人らが八・九機事件の犯人であると思い込み、かつ、内藤自身、村松らと八・九機の攻撃について話しあった前記断片的記憶もあって、自己の同事件に対する関与の有無についても半信半疑の状態になり(爆弾事件への関与という非日常的な事柄について、かかる記憶の混乱が生ずることは、通常考え難いが、内藤のように主体性が乏しく、特異な迎合的性格の持主の場合には、極めて例外的に、そのようなこともあり得ないではないと考える。)、その後厳しい追及が続くうちに同事件を前記のような断片的な記憶に結びつけ、これを増幅し、取調官の追及に合わせた供述をした可能性が否定できない。」(<証拠略>)

「前原の右自白は、アメリカ文化センター事件に関する自白同様(……中略……)、取調官の追及に迎合してなされたものと考えるべきであろう。」(<証拠略>)

(3) 製造事件

製造事件については、前原、村松、佐古、内藤、増渕、石井及び江口の捜査段階における各自白がある。九部判決及びその控訴審判決並びに五部判決は、いずれも各自白の信用性を否定したものであるが、五部判決は、そのうち、石井の自白の要因について、次のように述べている。

「以上見て来たとおり、石井のレポに関する自白は不自然、不合理な点が多く、真実性に乏しいのであるが、他面、石井が、既に繰返し述べたとおり、公判段階に至っても起訴事実を基本的に認める立場をとっていること、また、石井の取調べに対する抵抗力がさまで強いものと認め難いことに照らすと、石井が、捜査の攪乱を図り、あるいは将来の裁判段階で争う余地を残すため、ことさらに虚偽の事実を供述したものとは考えにくい。更に、石井は、日本プラスチック玩具共同組合におけるアルバイトの事実を指摘されてからも、なお、「アルバイトをやめて以後と思うが、河田町アジトに村松を探しに行ったところ、何の目的かわからないが、誰かからレポをやってくれと頼まれて、数分立っていた記憶がある。レポの際、河田町アジトでは佐古、富岡とあっている。他に誰かいたかは覚えていない」と述べる(……中略……)など、河田町アジト付近におけるレポの経験を供述するのである。以上の諸点から見て、石井には目的ははっきりしないものの、そのようなレポをした断片的な記憶が残っているものと認めるべきである。……中略……そこで、石井が前記のような自白をするに至ったのは、前記のとおり、佐古自白に基づいて追及を受ける過程で、右のような断片的な記憶があったため、あるいは増渕、佐古らが自分には知らせないまま爆弾を製造し、その際レポをさせられたのかもしれないなどと思うようになったり、右の断片的な記憶を佐古自白に結びつけ、迎合して供述したことによると考えてよいのではあるまいか。」(<証拠略>)

(4) 違法な自白の取得

<1> まず、右(1)において本件ダンボール箱の製造に関する佐古及び前原の自白の要因として九部判決が掲げたところは、いずれも各自白の信用性を検討する上で、各自白がそこに掲げるような経過によりされた疑いがあるとしたものであって、積極的にそのような経過により自白がされたものであることを認定したものではない。また、五部判決も九部判決より強い調子で佐古、前原等が取調官に迎合する等して虚偽の自白をするに至った疑いがある旨の判示をしているが、虚偽自白の原因を迎合によるものであると積極的に認定したとまでいえない。

そこで、改めて、佐古及び前原の捜査段階における供述経過を前提として、関係証拠(<証拠略>の刑事事件段階の証拠と<証拠略>及び証人前原和夫の証言を含む。)を検討すると、本件ダンボール箱が既製品であるにもかかわらず、佐古がそれを手製のものである旨供述し、前原もそれに符合する供述をしたという点については、取調官において手製のものであるとの印象を持っていることを知った佐古が取調官に迎合して手製のものである旨供述するとともにその製造の方法を詳細に供述し、前原も、佐古の右供述を前提とする取調官の追及から佐古の供述内容を察知するとともに取調官に迎合してそのような佐古の虚偽の供述に合わせて供述をしたということは認められる。しかし、前示のとおり、佐古及び前原は、本件ダンボール箱が手製のものであるとした上、河田町アジトの実況見分に際し、その製造状況を詳細に指示説明しており、また、佐古は、本件ダンボール箱を製造するために二つのダンボール箱を盗んだとしてその場所についても指示説明をした上、本件ダンボール箱を製造した状況を実演し写真に撮らせているのであって、本件ダンボール箱が手製のものであるということについては、佐古及び前原が取調官の追及に如才なく応答することによって意識的に虚偽の供述をしたことは明らかである。さらに、佐古は、一連の取調べにおいて詳細なメモ(<証拠略>)を作成して積極的に取調べに協力し供述をしている。

右のような状況からすると、右自白の要因については、右に判示したところを超えて、取調官が佐古又は前原に対しそのような虚偽の事実の供述を強制し、又は押し付けたとすることはできない。また、佐古の昭和四七年一二月一一日付け員面調書(<証拠略>)添付の図面には、蓋が半ば開いたダンボール箱が書かれていたのであるから、取調官においてダンボール箱の由来や、それが既製のものか、手製のものか、手製であるとすれば、誰がいつどのようにして製造したものであるか等について順次具体的に追及するのは当然であり、そのような追及がされたことをもって違法とすることはできないし、本件においては、その追及が度を越えた誘導に当たると認めるに足りる証拠はない。

さらに、佐古及び前原の本件ダンボール箱の製造状況以外の供述についても、九部判決及びその控訴審判決並びに五部判決の各判示を考慮しても、関係証拠からは、取調官の違法な強制、押付け、誘導があったとまで認めることはできない。

<2> 次に、八・九機事件及び製造事件に関する各自白については、後記4(二)(2)において判示するように、L研グループが昭和四四年一〇月ころ、爆弾闘争を志向し、八・九機攻撃やそのためのレポと思われる行為を行い、ピース缶爆弾の製造をも具体的に計画していた可能性があることを考慮すると、本件ピース缶爆弾事件における八・九機攻撃や本件ピース缶爆弾の製造をL研グループが行ったものではないとしても、右のような計画や準備をしていたことが各自白者の記憶にあったため、取調官の追及に際し、これに迎合して答えようとして、自己の断片的な記憶や不確かな記憶を前提に推測をも加えて詳細な供述をするに至った可能性があるといえよう(右(2)において判示したように九部判決及び五部判決は、八・九機事件における内藤の自白についてそのような見方をし、右(3)において判示したように、五部判決は、石井の自白についてそのような見方をしている。)。

したがって、本件八・九機事件及び製造事件において問題とされた各自白(一審被告菊井の自白を除く。)についても、それらが、アメ文事件における佐古及び前原の各自白と同様に取調官の追及に当たり取調官に迎合してされた可能性があるとはいえるが、各自白が取調官の違法な強制、押付け、誘導によってされたとまで認めることはできない。

<3> そうすると、九部判決及びその控訴審判決並びに五部判決が指摘するように本件ピース缶爆弾事件における各自白の中に事実に反する部分があっても、そのような自白をさせた取調べ自体が違法であったとまで認めることはできないし、その点を根拠として本件捜査全体が早すぎた犯人の断定と誤った見込みに基づく違法な捜査であったとみることもできない。

なお、本件ピース缶爆弾事件に関するいずれの自白についても、長期間にわたり逮捕勾留されたことが原因となって虚偽内容の自白がされるに至ったと認めることはできない。

3  起訴の違法性について

(一) 判断の基準

公訴の提起は、検察官が裁判所に対して犯罪の成否、刑罰権の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから、起訴時における検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証とは異なり、起訴時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものとするのが相当である(最高裁判所第二小法廷昭和五三年一〇月二〇日判決・民集三二巻七号一三六七頁参照)。そして、公訴提起の違法性の有無の判断は、検察官が公訴提起時に現に収集していた証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料をもってすべきものである(最高裁判所第一小法廷平成元年六月二九日判決・民集四三巻六号六六四頁参照)。

(二) 立証責任

国家賠償法一条一項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と規定しているが、この場合における公権力の行使に当たる公務員の職務行為が違法であることについての主張立証責任は、同項に基づき国又は公共団体に賠償責任があると主張する者において負担するものと解するのが相当である。

したがって、検察官の公訴の提起が違法であると主張して国に対し同項に基づく損害賠償を求める者は、公訴の提起が違法であったことについて主張立証責任を負担することになる。そのことは、無罪判決が確定した場合においても同様である(ただし、判決が無罪とする理由によっては、国において公訴の提起が違法でなかったことを根拠付ける事実を主張立証すべき事実上の負担が生じることはある。)。

そして、右の主張立証責任を前提として右(一)の判断基準を適用する場合において、検察官が収集していた証拠資料とそれに基づく検察官の判断を認定することができるときは、検察官が有罪と認められる嫌疑があると判断した過程の合理性を検討し、その判断過程における個々の問題点に対する判断に合理性を欠く部分がありその結果として有罪と認められる嫌疑があるとはいえない場合、個々の問題点に対する判断が合理性を欠くとはいえないがその総合評価の判断に合理性を欠く部分がありその結果として有罪と認められる嫌疑があるとはいえない場合には、検察官が有罪と認められる嫌疑があると判断したことに合理的根拠がないとして、当該起訴を違法とするのが相当である。

なお、右の主張立証責任の関係から、公訴提起後に新たに収集された証拠資料が起訴時において通常要求される捜査を遂行すれば収集し得たものであることについての主張立証責任も、起訴の違法を主張する者にあることになる。

4  控訴の違法性について

(一) 控訴提起の許容性

前示のとおり、本件ピース缶爆弾事件における最大の争点は各共犯者とされた者の自白の信用性であり、この点について九部判決も五部判決も各自白に信用性がないとした上、九部判決は、各事件につき被告人らが事件に関与しその犯人であるとの疑いは強く残るものの、犯人であると断ずることはできないとして無罪を言い渡し、五部判決は、各自白をもって被告人らと公訴事実とを結びつける確証とすることはできないとして無罪を言い渡したものであるが、いずれの判決も、各共犯者とされた者についてアリバイの成立を認め、あるいは、他に真犯人がいることなどの確実な証拠に基づいて被告人を無罪としたものではない。

したがって、一審の裁判官による各自白の信用性に対する判断に対して納得できない検察官としては、その判断が裁判官の自由心証に委ねられているものであることからして、より適正な刑事裁判の実現という観点から、一審の判断を覆し有罪判決を得る見込みがあると判断するときは、その判断に合理性がない場合を除き、既に提出した証拠や新たに提出する証拠について上級裁判所の判断を求めて控訴を提起することが許されるというべきである。

(二) 九部判決の控訴結果

(1) 九部判決に対する控訴審判決は、本件ピース缶爆弾事件について、各被告人について九部判決の結論を支持して控訴を棄却したが、控訴審において検察官の申請により取り調べた証人峰孝一の証言内容(<証拠略>)について、これを次のように要約している(<証拠略>)。

「自分は昭和四四年四月法政大学に入学し、同年五~六月L研に入った。L研のリーダーは増渕で、メンバーとして他に村松、佐古、前原、井上、菊井、国井、それから東薬大から来ていた者として、江口、平野、内藤らがいた。

昭和四四年一〇月二〇日午後中野にある喫茶店クラシックで、増渕、村松から八・九機に爆弾を投げるよう言われた。当時アルバイトをしていた馬込精機に村松か佐古から電話がかかってきてクラシックに出かけた。その場にいたのは、増渕、村松、江口、佐古ほかで、全部で七~八人であった。増渕から、赤軍派と協力して大がかりな爆弾闘争を一〇月二〇日の夜から二一日にかけてやるという話があり、自分と前原、佐古で構成していた軍団は八・九機にピース缶爆弾を投げるということだった。自分はやることは無意味だと反対し議論となり、増渕は途中でクラシックを出ていった。次いで村松から同じような話があったが、主張が折り合わずけんか別れとなり、自分はクラシックを出た。このことがきっかけとなって自分はL研を離脱した。

同年九月から一〇月初めにかけて佐古と二人で、八・九機の下見をしたことがある。たまたま、佐古のうちに行ったとき、東京都内の地図上の主要官公庁等を丸で囲ったものがあり、国家権力の配置状況を住まいの近くから手始めに偵察するということになった。その一~二日後の昼間に、機動隊の周りを一周し、逃走経路、機動隊員の配置状況等を一時間位かけて見た。そのときには、自己の属する軍団の全員が正門を第一目標として爆弾を投げるという程度の話はあり、また爆弾の種類としては、鉄パイプ爆弾とピース缶爆弾を予定していた。

立教大学で金庫窃盗をしたころ、友人の部屋にあったピース缶を二~三個持ってきて、同大学の心理学教室でだったと思うが、村松に渡したことがある。またそれとは別の機会に、九月終りから一〇月初めにかけ、大森のパチンコ屋で入手したパチンコ玉二〇個位を立教大学心理学教室等において村松(佐古についての記憶もある)に渡した。それらは、いずれもピース缶爆弾に使われると想像していた。

佐古からピース缶爆弾の製造への参加を誘われたことがある。二~三週間のうちに二~三回誘われたが、最後に言われたのは、一〇月中旬ころで、佐古の住んでいたフジテレビ近くの倉持方付近の喫茶店エイトにおいてである。赤軍派と協力して本格的な爆弾闘争に入るためピース缶爆弾を作るということで、ダイナマイト等の準備はすべて整っており、また作る場所は佐古の部屋で、承知した場合は地下に潜って佐古と共同生活をするということであった。自分は爆弾闘争を行う条件が熟していないということで断った。なお、爆弾闘争ということは、L研内部では当初から言われていた。」

そして、右控訴審判決は、峰孝一の右証言について「峰が昭和四四年五~六月以降L研に所属していたことは記録上明らかであり、かつ同人の供述はきわめて具体的であるとともに弁護人の反対尋問にもかかわらずおおむね首尾一貫しており、これを弁護人のいうように真実経験しないことを述べたものとは到底解し難い。そして、同人の供述によれば、少なくとも当時L研が爆弾闘争を志向していたことは一層明確になったものというべきである。」とした(<略>)が、関係証拠に照らせば、「峰の供述するところは、原判決(<略>)もその存在の可能性を認めている、一〇月頃L研の者らによってしばしばなされたそれほど具体性を持たない機動隊や交番の攻撃に関する話合いの域を出るものとは認められず、同月二四日に発生した本件の具体的謀議ないし実行を裏付けるには足りないといわなければならない。」として(<略>)、八・九機事件の具体的謀議及び実行を裏付けるものではないとしている。

(2) ところで、九部判決は、「昭和四四年一〇月ごろL研の者らが集まって機動隊や交番を攻撃するようなことを話し合うということはしばしばあったのではないかと思われ、八・九機を攻撃目標にした話合いもされた可能性もある」と判示しており(<証拠略>)、また、五部判決も「村松及び前原については、九月三〇日早大ブントの者らと八・九機に対する火炎瓶による攻撃を計画したが、結局挫折したことがあったことに照らし、このほかにも、その当時、L研の者らが集まり村松が中心になって、八・九機を攻撃目標とする話し合いがなされた可能性がある(現に増渕、井上は、公判廷において、村松がそのような話をしていたことを肯定するほか、前原もその可能性を示唆する供述をする。)」と判示している(<証拠略>。なお、右(1)において判示したように、証人峰孝一は、増渕及び村松から昭和四四年一〇月二〇日に喫茶店「クラシック」において、同日の夜から二一日にかけて、峰、前原及び佐古の軍団が八・九機に爆弾を投げるように指示された旨供述しているところ、増渕は、昭和四八年二月一八日付け員面調書(<証拠略>)において、峰孝一の名は挙げないもののそのような計画があったことを認め、赤軍派からの指示で村松及び佐古が急きょトラックを盗みに行くことになったので計画を中止した旨の供述をしており、証人峰孝一の右証言は、十分信用できる。また、証人峰孝一の村松にピース缶二、三個とパチンコ玉二〇個位を渡したとの証言及び佐古からピース缶爆弾の製造に参加するよう求められたとの証言も十分信用できるというべきである。それらは、九部事件の控訴審判決が述べるように本件ピース缶爆弾の製造や八・九機攻撃と直接結びつくものではないが、当時のL研の活動実態を示すものとして看過できない重要な事実である。)そして、九部判決の控訴審判決は、右(1)の峰孝一の証言内容を真実経験したものを述べたと認め、当時、L研が爆弾闘争を志向していたことは一層明確になったとした上、本件ピース缶爆弾事件の総括として、次のように判示している(<証拠略>)。

「既に考察したアメリカ文化センター事件、第八、九機動隊事件、ピース缶爆弾製造事件を内容とするピース缶爆弾事件全体については、被告人らと各犯行とを直接結びつけるような物的証拠はないものの、被告人らが各犯行の犯人であっても格別不思議ではないような原判示のL研の活動等の情況が認められる(当審証人峰孝一の供述もこのことを裏付けるものである。)うえ、増渕及び江口を含む多数の者が捜査段階において自白しており、しかもこれらの自白は大綱において一致し、かつその多くは具体的かつ詳細な内容のものである。そして、自白がされた経緯をみても、多くの者が比較的短期間の取調後に自白し、かつその後はおおむね一貫してこれを維持したものであり、なかには内藤や石井のように公判廷においても自白を維持した者もいるのである。もっとも、自白をした者のほとんどは公判段階においては公訴事実を否認するにいたったのであるが、それらの者の公判廷内外の供述には同人らが本件の犯人であることを一応疑わせるような点が散見されるのである(例えば、前原の菊井宛の手紙の存在や同人が証人として「取調中に、八・九機前を通った時にその正門付近に機動隊員が二〇人ぐらいいてフラッシュがかなり焚かれていた情景が浮かんだ」旨供述していることなど)。さらに、原審において証人として出頭した菊井の証言内容は、既にみたとおり自己及び増渕らにおいて本件ピース缶爆弾を製造したことを詳細に供述するものであって、まさに本件の真相を物語っているのではないかとの感が深く、以上述べた諸点によれば、本件各犯行が増渕らによってなされたのではないかとの疑いを払拭し難いものがあることを否定できない。

しかし、ひるがえって考えてみるに、捜査当時得られた増渕らの自白には既に見たように重要な点において証拠物の形状等客観的情況との不一致、内容の不自然さ、供述の変遷、各供述相互のくい違い等が少なからず見受けられるのであり、特に客観的情況との不一致(アメリカ文化センター事件において爆弾を収納したダンボール箱が既製のものでないとする点、第八・九機動隊事件において犯行に直接関与した者の数を三人とする点、ピース缶爆弾製造事件において犯行日を昭和四四年一〇月一五日以降とする点など)は到底看過し得ないところである。しかも、複数者が符節を合するごとく右の客観的情況に反する自白をしているということは、本件に関する捜査の方法についても疑念を抱かせるものである。また、菊井の証言は、既にみたように他の共犯者とされる者の自白に比べ難点の少ないものであるが、なお疑問点の存在することを否定できず、これのみによって増渕らを有罪と認定するには不十分である。

いうまでもなく、「疑わしきは被告人の利益に」ということは刑事裁判の鉄則である。かくして、当裁判所としては、これにしたがい、本件ピース缶爆弾事件の各公訴事実につき被告人らに対し犯罪の証明がないとして無罪を言渡した原判決を維持すべきものとの結論に到達した次第である。」

(三) 五部判決に対する控訴の違法性

もとより、九部判決と五部判決とは、被告人も、事件を審理した裁判所も、審理の経過も異なり、取り調べられた証拠も完全には一致しないのであるから、九部判決とその控訴審判決との関係に基づいて短絡的に五部判決の控訴について一審判決の判断を覆す見込みがあったかどうかを判断することはできないが、九部判決の控訴審判決においても、右(二)(2)において示されているとおり、本件ピース缶爆弾事件については、被告人とされた者の犯行でないかという疑いが残るとされたものである。

そうすると、九部判決と五部判決とは、自白に関する争点はほぼ共通であり、また、各判決において取り上げられている主要な証拠も共通であって、自白の信用性に対する評価は、L研グループの事件当時の活動状況に対する評価とも密接に関連するものであったといえるから、五部判決についても、検察官において、当時のL研の活動状況に関する新たな証拠(峰孝一の証言)を提出するとともに、五部判決の判決理由の問題点を指摘して、控訴裁判所の判断を求めることは、より適正な刑事裁判の実現という見地から相当というべきであるとともに、最大の争点が各自白の信用性という裁判官の自由心証の大きく働く場面での評価に関するものであったことからして、検察官が一審判決を覆し有罪の判決を得られる見込みがあると判断したことが不合理であるとすることはできないし、検察官の控訴をもって控訴権の濫用に当たるとすることはできない。

第五結論

よって、本件控訴はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法六七条一項本文、六一条、六五条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 新村正人 生田瑞穂 岡久幸治)

(参考)第一審(東京地裁 昭和六二(ワ)第一六七一八号 平成七年一〇月一七日判決)

主文

一 被告菊井良治は原告に対し、金二〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年一二月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二 原告の被告菊井良治に対するその余の請求並びに被告国、同東京都、同水崎松夫、同親崎定雄、同長山四郎及び同堀内英治に対する請求をいずれも棄却する。

三 訴訟費用は、原告と被告菊井良治との間においては、原告に生じた費用の一〇分の一を被告菊井良治の負担とし、その余は各自の負担とし、原告と被告国、同東京都、同水崎松夫、同親崎定雄、同長山四郎及び同堀内英治との間においては、全部原告の負担とする。

四 この判決の第一項は仮に執行することができる。

事実及び理由

第一原告の請求

被告らは原告に対し、連帯して金二九〇五万五六〇〇円及びこれに対する昭和六〇年一二月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一 前提となる事実

1 当事者

原告は昭和二四年九月二〇日生まれの男性であり、昭和四四年四月に法政大学に入学したが、昭和四六年に中退した後、同年四月に同志社大学文学部に入学し、後述する昭和四八年二月の逮捕当時は同大学二回生であった者である。右逮捕当時は独身であったが、昭和五五年二月一六日に結婚している。

被告水崎松夫及び同親崎定雄は、昭和四八年当時、東京地方検察庁公安部所属の検察官として、後述する原告に対する公訴の提起をした者である。

被告長山四郎は、昭和五四年当時、東京地方検察庁所属の検察官であり、原告に対する公判の維持追行のため、後述する被告菊井良治の取調べ及び証人尋問をした者である。

被告堀内英治は、昭和四八年当時、警視庁公安部極左暴力取締本部(以下「極左本部」という。)爆弾事件担当班(以下「堀内班」という。)の責任者たる警察官であり、後述する原告の捜査及び逮捕をした者である。

被告菊井良治は、昭和四四年当時、原告と学生運動を共にしたことがあり、その後、朝霞自衛官殺害事件等を起こして有罪判決を受けて服役したが、その服役中である昭和五四年当時、被告長山の取調べを受け、更に、後述の原告に対する公判において検察官側証人として出廷して数回にわたり証言した者である。

2 一連のピース缶爆弾事件の発生

昭和四四年当時、たばこ「ピース」の空き缶にダイナマイト等を充填した爆弾(以下「ピース缶爆弾」という。)を使用した次のような一連の爆弾事件が発生した(以下、これらを総称して「一連のピース缶爆弾事件」という。)。

(一) 一〇月一七日午後一一時三〇分ころ、京都市東山区所在の京都地方公安調査局庁舎屋上でピース缶爆弾一個が爆発した(以下、この事件を「京都公安調査局事件」という。)。

(二) 同月二一日、東京都新宿区中野坂上交差点付近でピース缶爆弾三個が遺留されているのが発見された(以下、この事件を「中野坂上事件」という。)。中野坂上事件に至る経緯は以下のとおりである。同日正午前後ころ、東京都渋谷区千駄ヶ谷所在の日本デザインスクール寮内の中條某の居室において、赤軍派第一中隊の者数名が集まり、一〇・二一東京戦争に向けての戦術会議が開かれたが、そのころ、右会議に出席した同派の山下こと若宮正則及び石田こと劉某の両名が、ピース缶爆弾の入った菓子箱あるいはケーキ箱二個くらいを同所に持ち込み、その後、右菓子箱が東京都新宿区柏木所在の東京薬科大学(以下「東薬大」という。)に運ばれた。赤軍派の者十数名位は、午後一〇時三〇分過ぎころ、複数の触発性火炎瓶及び右菓子箱のうち少なくとも一箱を携行した上、小型トラックの荷台に乗り込み発進させ、警視庁淀橋警察署前に至って、火炎瓶を投てきした後、更に走行を続け、右中野坂上交差点手前に至り、同交差点に停車中のパトカーに対し火炎瓶等を投てきし、結局右トラックをその場に乗り捨てたまま逃走した。

(三) 同月二四日午後七時ころ、東京都新宿区若松町所在の警視庁第八機動隊・第九機動隊正面前路上において、ピース缶爆弾一個が右機動隊正面に向けて投てきされたが、不発に終わった(以下、この事件を「八・九機事件」という。)。

(四) 一一月一日午後一時一〇分ころから一五分ころまでの間に、東京都千代田区永田町所在の山王グランドビル二階アメリカ大使館広報文化局アメリカ文化センター受付カウンター上に、段ボール箱入り時限式ピース缶爆弾一個が仕掛けられたが、不発に終わった(以下、この事件を「アメ文事件」という。)。

(五) 同月五日、山梨県塩山市大菩薩峠所在の民宿「福ちゃん荘」において、赤軍派四九名が兇器準備集合罪で逮捕された際、ピース缶爆弾三個が発見された(以下、この事件を「福ちゃん荘事件」という。)。右ピース缶爆弾三個は、同派の出口光一郎が、前記中野坂上交差点付近から逃走する際に持ち帰ったもので、その後同人から保管を依頼された同派の木村一夫が、一一月三日、福ちゃん荘に搬入したものである。

(六) 同月一〇日午前三時五八分ころ、東京都千代田区神田駿河台所在の中央大学会館玄関口前において、ピース缶爆弾一個が爆発した(以下、この事件を「中大会館事件」という。)。

(七) 同月一二日、千葉県松戸市大字松戸所在の岡崎直人所有のアパート一階四号室の井田一夫方居室(赤軍派のアジトと認められる。)において、ピース缶爆弾二個が発見された(以下、この事件を「松戸市岡崎アパート事件」という。)。

3 法政大学レーニン研究会(以下「L研」という。)の活動状況

L研は、昭和四四年四月、共産主義者同盟(以下「共産同」という。)の構成員であった増渕利行及び共産同の下部組織である社会主義学生同盟(以下「社学同」という。)の構成員であった村松和行が、法政大学に入学して間もなく、中心となって結成した思想研究会であるが、実質的には社学同法大支部という面を有していた。当初のメンバーは増渕、村松の他、国井五郎、今井誠、菱沼某、石井ひろみらであったが、その後、原告、佐古幸隆、前原和夫、被告菊井、峰孝一らが加入し、さらに増渕との関係で、堀秀夫、前林則子、江口良子らも出入りするようになった。他方、平野博之は当時東薬大の学生であり、同年春ころ増渕と知り合い、同年四月には増渕の助言も得て東薬大内に社会科学研究会(以下「社研」という。)を組織し、その責任者となったが、増渕は右社研に対する指導を通じて、平野を含め、社研メンバーである内藤貴夫、町田敏之、石本武司、高野一夫、元山貴美子、富岡晴代にも影響力を及ぼすようになっていった。

L研は、そのころ、法大全共闘による法大封鎖占拠に加わっていたが、増渕は、同年八月の千葉県興津海岸におけるL研合宿等を通じ、革命の必要性を説き、今後の闘争は、いわゆる大衆カンパニア闘争方式を乗り越えた武装闘争が必要であると主張し、L研メンバーの意志統一を図っていった。その過程において、L研は、同年八月下旬ころ、法大全共闘からの依頼に応じ、機動隊の学内への導入に備え、触発性の火炎瓶数十本を製造するとともに、同年九月ころには、その後の闘争の便宜のために、新宿区市谷河田町所在の秋田修こと佐古の居室(以下「河田町アジト」という。)、同区若松町所在の「宮里荘」アパートの一室(以下「若松町アジト」という。)及び同区西早稲田所在の中華料理店二階の借間(以下「早稲田アジト」という。)を設定した。また、そのころ、村松及び石井が同区住吉町所在の「風雅荘」アパートの一室(他のアジトと性格が異なる面もあるが、以下「住吉町アジト」という。)に転居した。

その後、L研は、法大内における社学同右派(叛旗派)等との内ゲバで法大を追われ、早大、立大へと順次その拠点を移していったが、その過程において、同年九月共産同関西派が独立し、新たに結成した過激派武闘集団である共産同赤軍派の主張する「前段階武装蜂起」論に共鳴するようになり、「東京戦争」を呼号する共産同赤軍派と行動を共にするようになった(もっともこの点については、原告のように、既に一〇月九日ころにL研が解体しており、以後の赤軍派との行動は、L研メンバーの赤軍派との個人的なつながりで参加していたにすぎないと主張する者もあり、そのような見方も成り立たないわけではない。)。

L研と赤軍派とが行動を共にした活動は次のとおりである。

(一) 神田戦争(日大奪還闘争)

昭和四四年九月三〇日、日大奪還闘争に際し、赤軍派は神田戦争と呼号し、ゲリラ活動を計画し、L研もこれに同調して参加したが、その詳細は不明である。なお、当日、村松及び前原は、早大に赴き、早大ブントの者らと神田戦争に呼応する形でのゲリラ活動を企図し、第八機動隊・第九機動隊に対する火炎瓶による攻撃を計画し、村松が右機動隊隊舎周辺を自転車で下見する等したが、結局これを断念している。

(二) 巣鴨駅前派出所及び池袋警察署襲撃未遂

同年一〇月九日、赤軍派では一〇・一〇闘争に先立ち、武装蜂起に突入することを企て、東京都内各地の警察署、派出所等への襲撃を計画し、L研もこれに同調して、巣鴨駅前の喫茶店に赤軍派の者と参集し、同駅前派出所への火炎瓶による攻撃を企図したが、警戒が厳しかったため、池袋警察署を攻撃することに変更し、同夜、池袋周辺に赴いた。しかし、赤軍派の者とともに火炎瓶を都内に搬入しようとした今井誠が水戸駅で逮捕されたため、結局襲撃は未遂に終わった。

(三) 一〇・二〇東薬大火炎瓶製造

同月二〇日、東薬大において、増渕らL研メンバー数人と東薬大社研メンバーが、翌二一日の一〇・二一闘争に赤軍派が使用する武器として、触発性の火炎瓶七、八〇本を製造した。

(四) 一〇・二〇トラック窃盗

同日夜、増渕の指示により、佐古、村松及び被告菊井が赤軍派の花園紀男とともに、佐古運転のレンタカーで三多摩方面に向かい、同日から翌二一日未明にかけて一〇・二一闘争に用いる小型トラック一台を日野市付近で窃取した。

(五) 一〇・二一東薬大鉄パイプ爆弾製造幇助

同月二一日、赤軍派は、東薬大において当日の闘争用の鉄パイプ爆弾を製造したが、この日、平野は、増渕の指示により、教室を赤軍派のために確保し、さらに爆弾を製造すると知って社研メンバーの石本、富岡及び元山に見張りを命じる等種々の便宜を供与した。

(六) 一〇・二一淀橋署襲撃等

前記2の(二)に述べた赤軍派が淀橋署襲撃に使用した小型トラックは右(四)のとおり入手されたもので、佐古が増渕の説得を受けて運転した。右トラック荷台には原告が乗り込んでおり、当時、東薬大周辺には、村松、平野及び堀らも居合わせた。

(七) 柏ダンプカー窃盗

同月三一日夜から翌一一月一日にかけて、村松及び被告菊井は、花園の指示により、赤軍派の者らとともに、同派の首相官邸突入用のダンプカー窃盗に向かい、村松らは千葉県柏市内においてダンプカー一台を窃取した。

4 原告の逮捕及び原告に対する公訴の提起

原告は、昭和四八年二月九日、法政大学図書窃盗事件(以下「法大図書窃盗事件」という。)で逮捕され、同月一一日に勾留され、同月一九日に起訴された。また、同月二〇日に八・九機事件で逮捕され、同月二二日に勾留され、三月一〇日に起訴された。さらに、同月一三日、ピース缶爆弾を製造した容疑(以下「製造事件」という。なお、アメ文事件、八・九機事件及び製造事件を総称して以下「本件ピース缶爆弾事件」という。)で逮捕され、同月一六日に勾留され、四月四日、起訴された。原告の身柄は昭和四九年一〇月二五日に保釈されるまで勾留された。

八・九機事件についての原告に対する公訴事実は、「被告人は、ほか数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月二四日午後七時ころ、東京都新宿区若松町九五番地警視庁第八機動隊・同第九機動隊正面前路上において、煙草ピース空缶にダイナマイトなどを充填し、これに工業用雷管及び導火線を結合した手製爆弾一個を右導火線に点火して前記機動隊正面に向けて投てきし、もって、爆発物を使用したものである。」というものであり、爆発物取締罰則違反(同罰則一条、刑法六〇条)の罪が問われた。八・九機事件については、被告水崎が主任検事として捜査及び公訴提起を担当した。

製造事件についての原告に対する公訴事実は、「被告人は、ほか数名(第一回公判で「十数名」に訂正)と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月一六日ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方秋田修こと佐古幸隆の居室において、煙草ピース空缶にダイナマイト・パチンコ玉などを充填し、これに工業用雷管及び導火線を結合し、もって、爆発物である手製爆弾十数個を製造したものである。」というものであり、爆発物取締罰則違反(同罰則三条、刑法六〇条)の罪が問われた。製造事件については、被告親崎が主任検事として捜査および公訴提起を担当した。

5 原告に係る刑事事件の公判の経過

原告に対する第一審公判は昭和四八年一〇月二〇日に開始されたが、同年一二月一一日の併合決定後、共犯とされた被告人村松、同前原、同平野、同佐古及び原告に対する刑事被告事件が東京地方裁判所刑事五部で併合審理された。その後、第一〇二回公判に、相被告人佐古の事件の弁論が分離され、第一六二回公判(昭和五九年三月二二日)に判決が言い渡された。

東京地方裁判所刑事五部が昭和五九年三月二二日に言い渡した本件ピース缶爆弾事件の第一審判決(以下「五部判決」という。)は、審理の対象となったアメ文事件、八・九機事件及び製造事件の全てについて、犯罪の証明がないとして被告人全員を無罪とするものであった。なお、法大図書窃盗事件については、原告に対し、懲役六月執行猶予二年の刑が言い渡された。

右判決に対し、検察官が控訴を申し立て、昭和六〇年一一月二二日に控訴審第一回公判が行われたが、第二回公判前である同年一二月二八日に検察官が控訴を取り下げ、その結果、右一審判決が確定した。

右一審無罪判決の確定後、原告に対し、刑事補償金二九四万四四〇〇円及び費用補償金五二九万三四七三円の計八二三万七八七三円が支払われた。

6 本件ピース缶爆弾事件についての捜査等の状況

増渕は、昭和四四年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争に関連し、東薬大において、平野に対し、火炎瓶材料である塩素酸カリウム等を手渡す等したとして毒物及び劇物取締法違反等に問われ、昭和四五年一月ころから指名手配を受け、潜伏生活を続けていた。昭和四七年八月二七日、増渕と交際のあったいわゆる牛乳屋グループの一員の石田茂が東京都西多摩郡檜原村所在の火薬庫に侵入しようとして逮捕され、同人の供述により増渕の所在が判明し、同年九月一〇日、新宿署に逮捕された。その後、増渕の逃走を援助したとして、石田や江口らが極左本部の堀内班(被告堀内公安部管理官指揮)により犯人隠匿で逮捕されるうち、牛乳屋グループの佐藤安雄の供述から増渕が主宰したL研による法大図書窃盗事件が発覚した。法大図書窃盗事件に関し、一〇月二五日に増渕が、同月二九日に村松が、一一月三日に佐古が逮捕された。右事件に関しては、後に昭和四八年一月八日に前原が、二月九日に原告が逮捕されている(右事件の処理は、いずれも勾留が認められたうえ、村松が昭和四七年一一月一八日に、佐古が同月二四日に、増渕が一二月四日に、原告が昭和四八年二月一九日にそれぞれ窃盗罪で起訴され、前原については同年一月二〇日に不起訴処分とされた。)その後、極左本部では、法大図書窃盗事件の取調べ中に判明した東経堂団地・西経堂団地のタイヤ窃盗、法大生協関係の窃盗、青梅のブルーバード窃盗、立大ホテル研究会の金庫窃盗等の取調べを続け(立大金庫窃盗事件について増渕が昭和四七年一一月一四日に逮捕され、村松及び佐古が同月二五日に追送致された。東経堂団地タイヤ窃盗事件について梅津宣民が同月二八日に逮捕され、増渕及び佐古が同月二九日に、村松が同月三〇日に追送致された。西経堂団地タイヤ窃盗事件について村松、佐古及び梅津が同年一二月一一日に追送致された。法大大学院図書窃盗事件について佐古及び村松が同月二〇日に追送致された。)、そのうち、タイヤ窃盗について、増渕が昭和四七年一二月四日に、佐古及び村松が同月二七日にそれぞれ起訴された(増渕は一二月四日に釈放され、佐古及び村松は同月二八日に保釈された。)。

佐古は、右各窃盗事件の取調べ中の一一月一七日、昭和四四年一〇月二一日夜の淀橋署襲撃の帰途、一緒に逃げていた二、三人の男から中野坂上でピース缶爆弾二個を受け取り、まもなく側溝に捨てた旨供述し、さらに一二月一一日、右淀橋署襲撃事件後一〇日くらいして、アメリカ領事館(同月一四日にアメリカ文化センターと訂正)に増渕、村松らと爆弾を仕掛けた旨供述した。佐古は、翌昭和四八年一月八日、アメ文事件容疑で逮捕され、同月一六日、佐古がアメ文事件に前原も関与している旨供述し、一七日に前原が、二二日に増渕及び村松が、それぞれアメ文事件容疑で逮捕された。各逮捕者はいずれも勾留され、二九日に佐古が、二月八日に前原が、同月一二日に増渕及び村松が、アメ文事件につき起訴された(他に江口がアメ文事件に関連して同月二〇日に逮捕されたが、昭和五一年八月六日に不起訴処分となっている。)。

佐古は、アメ文事件につき勾留中の昭和四八年一月一七日、前原が八・九機事件に関係したことを佐古に話した旨供述し、アメ文事件につき勾留中の前原を取り調べたところ、前原が自白した。そして、二月一二日、増渕、村松及び堀が八・九機事件容疑で逮捕され、内藤は一月ころから任意で取調べを受けた上、二月一七日同事件容疑で逮捕され、さらに、同月二〇日、原告が同事件容疑で逮捕され、いずれも勾留された。三月六日に増渕、村松及び堀が、同月一〇日に前原、原告及び内藤がそれぞれ八・九機につき起訴された。

製造事件に関し、二月一二日ころ、佐古及び増渕が自白し、三月一三日に原告、前林、堀、江口及び石井が、同月一四日に増渕が、一六日に被告菊井が、二五日に平野が逮捕され、いずれも勾留され、四月三日に石井が、同月四日に増渕、前林、堀、江口及び原告が、一四日に平野が、一八日に佐古、前原、村松及び内藤がそれぞれ起訴された。なお、被告菊井は製造事件で三月一六日に逮捕され、勾留されたが、六月二五日に不起訴処分となっている。(以上の事実は、当事者間に争いのない事実及び弁論の全趣旨により認めることができる。)

二 原告の主張

1 捜査の違法

(一) 誤った犯人の断定とこれに基づく見込捜査

昭和四六年、警視庁高官に対する爆弾テロによりその家族が死亡した土田邸事件及び警察庁長官を目標とした日石本館地下郵便局事件(以下「日石事件」という。また、土田邸事件と併せて「日石・土田邸事件」という。)が発生したが、昭和四七年八月まで犯人は不明のままであった。そのため、警察、とりわけ警視庁公安部は、その威信にかけて右事件の解決を図らねばならなかった。右状況のもと、遅くとも昭和四七年末から四八年初めころに、捜査当局は、増渕ら数名を日石・土田邸事件の犯人と目するに至った。したがって本件ピース缶爆弾事件は、日石・土田邸事件の犯人として増渕らを追及するための「壮大なる別件」として利用されたものである。

捜査当局(警視庁公安部及び東京地検公安部)は、日石・土田邸事件の「別件」としての本件ピース缶爆弾事件の解決を焦る余り、増渕らL研グループが本研ピース缶爆弾事件の犯人であるとの誤った見込みに基づき、別件逮捕等の身柄拘束を利用して取調べを行い、厳しく自白を強要したものである。このような犯人の早すぎた断定による誤った捜査方向の決定とそれによる独善的な証拠収集(虚偽自白の獲得と客観的証拠の無視ないし軽視)とは、冤罪事件一般に見られる特徴である。

捜査当局が、昭和四七年一一月にはL研グループに狙いをつけていたことは次の事実から明らかである。

(1) ピース缶爆弾と赤軍派との関わり

一連のピース缶爆弾事件の内、昭和四七年一一月の時点で未解決のものは本件ピース缶爆弾事件の公訴事実である八・九機事件及びアメ文事件の他、京都公安調査局事件及び中大学館事件の計四つ(以下「未解決のピース缶爆弾事件」という。)であった。他方、中野坂上事件、福ちゃん荘事件及び松戸市岡崎アパート事件については、ピース缶爆弾の使用者ないし所持者がいずれも赤軍派の構成員であることが判明していた。したがって、右未解決のピース缶爆弾事件の犯人が赤軍派の構成員かあるいは赤軍派と何らかの関わりのある者であろうという疑惑もしくは予断を捜査当局が抱いていたであろうとの推測は容易に成り立つ。そして、昭和四四年当時、赤軍派の前田祐一らを通じて同派と関わりがあり、かつ、後に自らも赤軍派に加わった増渕及びそのグループが捜査当局に未解決のピース缶爆弾事件の犯人と疑われる素地があったことは明らかである。

(2) 新宿署襲撃事件と増渕グループ(特に佐古)との関わり

捜査当局は、遅くとも昭和四七年一一月一二日ないし一三日ころには、増渕グループ(特に佐古)とピース缶爆弾とが一〇・二一新宿署襲撃事件においていわば接点を有した可能性を認識していた。

すなわち、いわゆる国際反戦デーであった昭和四四年一〇月二一日の夜、赤軍派約二〇名がトラックに乗り込んで新宿署(当時は淀橋警察署)に向かって火炎瓶を投げつけ、さらに中野坂上付近でパトカーめがけて火炎瓶を投げて逃走した。その際、右トラックにピース缶爆弾が積み込まれており、内三個が中野坂上の現場に遺留されていた(中野坂上事件)。右中野坂上事件の詳細は、右事件に参加した木村一夫、大桑隆及び大川保夫の各供述等によって、佐古逮捕のかなり前に捜査当局に判明している。そして右事件には増渕、原告及び佐古も関与したのであって、特に佐古は襲撃に用いられたトラックの運転手をさせられ、やはり中野坂上付近で逃走している。捜査当局は佐古の右関与の事実を遅くとも昭和四七年一一月一二日ないし一三日ころには知るに至った。

(3) 石田の供述

石田は前記一の6記載の火薬庫侵入容疑で逮捕され、昭和四七年九月一二日ころの取調べにおいて、「増渕がピース缶を利用した爆弾を作ったと昭和四六年一〇月ころに言っていた」旨供述した。石田の背後にいるグループと何らかの爆弾事件との関連を疑っていた捜査当局が右供述を見逃すはずがない。

以上のとおり、堀内班は昭和四七年九月以降、未解決のピース缶爆弾事件の犯人として増渕グループに狙いをつけ、犯人隠匿や窃盗等の別件も利用して増渕グループを次々と逮捕していった。佐古が逮捕されたのは同年一一月三日であるから、堀内班が初めから佐古をピース缶爆弾事件で取り調べることを狙っていたことは明白であるし、遅くとも一一月一二日ないし一三日には、はっきりと狙いをつけていたことが明らかである。

(二) 別件逮捕

いわゆる別件逮捕が違法とされる要件としては、一般に、(1)重大事件である本件について取り調べる目的があること、(2)本件について逮捕するだけの証拠がないこと、(3)軽微な別件で逮捕することが挙げられる。原告が初めて逮捕された法大図書窃盗事件(逮捕状請求は二月五日、逮捕日は同月九日)は、明らかに違法な別件逮捕である。

すなわち、(1)の要件については、逮捕の担当警察が一般の窃盗事件担当である刑事課ではなく、爆弾事件専門の警視庁公安部堀内班であったこと、同班は既にアメ文事件について佐古及び前原を送検しており、さらに八・九機事件等についても追及中であったこと、原告を八・九機事件の共犯とする旨前原が一月二二日に供述していたこと等から明らかである。実際にも、逮捕された原告は、本件ピース缶爆弾事件につき厳しい追及を受け自白を強要された。(2)の要件については、逮捕日には右前原の供述以外には原告の八・九機事件への関わりを示す証拠がなく、製造事件については未だ誰も自白していない状態であったことから、十分に認められる。(3)の要件については、前記のとおり法大図書窃盗事件は本件ピース缶爆弾事件に関連した捜査の中で偶然発覚したものにすぎないこと、発生後三年以上も被害届がなされていなかったにもかかわらず、本件ピース缶爆弾事件の捜査に別件として利用するために警察が被害届の提出を大学側に求めたと見られること、右事件は学生が大学占拠中に図書館から持ち出した図書をそのまま返還しなかったというに過ぎず、被害額も四万円弱と極めて軽微な事件であること等から、容易に認められる。

(三) 長時間にわたる取調べ及び自白の強要

右被疑者らに対する取調べは、ほとんど連日、朝から夜まで長時間にわたり執拗に続けられた。このような執拗かつ長時間にわたる取調べは、被疑者を精神的・肉体的に屈伏させ、捜査側の意に沿う虚偽自白を強要するために組織的に行われたのである。

また、原告を含む被疑者らに対する取調べは、記憶に基づく任意の供述を求めるものではなく、ひたすら犯行を認めることを迫り、否認あるいは記憶にないとの弁解は許されないものであった。

増渕及び佐古らは、このような自白の強要に屈し、虚偽の自白をせざるを得なかった。原告は、本人の強い精神力だけでなく、当時の弁護人の熱心な接見活動により絶えず励まされたこと、家族や知人らが本人の無実を信じて激励を続けたこと等幾つかの好条件に恵まれたので、虚偽自白をせずに最後まで否認を貫くことができた。

増渕らに対する公判において東京地方裁判所刑事九部が自白調書の任意性を否定し、右判断が控訴審においても維持されたという事実は、警視庁公安部による取調べの実態を物語っている。

(四) 客観的証拠の無視

(1) アメ文事件のダンボール箱と佐古及び前原の供述との矛盾

アメ文事件に使用されたピース缶爆弾は、時限装置とともに、既製のダンボール箱(以下、アメ文事件に使用されたダンボール箱を「本件ダンボール箱」という。)内に収納されていた。しかし、佐古及び前原は本件ダンボール箱が手製であると供述しており、明白な虚偽自白である。五部判決が「これらの自白は、右証拠物を見た取調官の印象に基づいて佐古が追及され、その旨の自白がなされた後、これを前提として前原にも(また増渕にも)同様の追及がなされた結果、これに迎合する形で得られたのではないかという疑いを抱かせる」と認定しているとおり、このように「まことに具体的かつ詳細で、直接体験した者でなければ供述しえないかのような迫真性をもった外観を呈する右ダンボール箱の製造状況に関する供述が、虚偽としか判断し得ないものであること」は、捜査当局の強制と誘導が本件捜査の本質であったことを暴露しているものである。しかも、その強制と誘導が証拠物を冷静かつ科学的に分析、検討することなく、誤った取調官の印象にのみ基づいてなされるという、いわば二重の違法捜査がなされているのである。

本件ダンボール箱が既製品であることは、公判開始後に開示された証拠物を見た弁護人の調査により判明したものである。すなわち、まず、本件ダンボール箱に打ち込まれている平線(箱の胴部等の接合に使用される針金)が佐古の自白するようなホッチキスの針ではなく、ステッチャーという大型機械によって打ち込まれたものであることが、ダンボール箱メーカーへの問い合わせによって簡単に判明した。次に、弁護人らは裁判所を通じて専門家の鑑定を求め、その結果、ダンボール箱そのものが既製品であることが証明されたのである。

このように、捜査当局は素人でもすぐ気付くような事実すら見過ごして、ただひたすら自白さえさせればよいとの、まことに安易かつ不当きわまりない捜査を続けたのであり、このことは客観的証拠の無視以外の何者でもない。

(2) アメ文事件のその他の証拠物

ダンボール箱への爆弾本件の収納状況、時限装置の作動、電池と雷管の結線、ダンボール箱の包装状況、ダンボール箱内部の接着剤ようの物質等に関する自白は、いずれも客観的証拠に明らかに反しており、前記(1)のダンボール箱製造の自白と同様に、取調官の誤った印象に基づいた強制、誘導がなされたことを示している。しかもこれらは、捜査当局が証拠物を冷静に分析、検討していれば容易に判明しえた事実ばかりであり、本件捜査が客観的証拠を無視して行われたことを証明している。

(3) 石井アリバイ

石井は、昭和四四年当時、L研の村松と同棲していた女性であるが、捜査当局により製造事件に参加したとされた。しかし、石井は、右製造事件当時、東京都台東区にある日本プラスチック玩具工業協同組合(以下「勤務先組合」という。)にアルバイトとして勤務していたので、その勤務状況に応じてアリバイが成立する。すなわち、昭和四四年一〇月九日については、石井が午後早退したとの可能性を全面的には否定できないものの、同月一三日ないし一六日については、石井は、昼過ぎころから午後五時ころまで河田町アジト及びその周辺には赴いていない。

石井は、捜査段階で右アリバイを取調べに当たった警察官に話しているが、勤務先組合に出向いた警察官がおざなりな聴取をしただけで勤務の事実なしと速断し、調査を打ち切ってしまったため、公判に至るまで右事実が判明しなかった。石井アリバイも、公判開始後の弁護人の調査により判明したものであるが、その根拠となる帳簿・伝票類は捜査当時から勤務先組合の事務所に保管されていたのであるから、捜査当局が石井の記憶にのっとり捜査を進めていれば、捜査段階で右帳簿・伝票類を容易に発見しえたはずである。ところが、捜査当局は、石井が犯人であると頭から決めつける余り、当時の記録が残っているはずがないと一蹴してしまった。

(4) その他

製造事件について喫茶店「ミナミ」(以下「ミナミ」という。)及び喫茶店「エイト」(以下「エイト」という。)の休業日、江口アリバイ、平野アリバイ並びに平野の身体障害、アメ文事件について一〇・二一の佐古・国井アリバイ、使用車両、村松アリバイ、発見された爆弾の導火線の長さの違い及び薬品の有無、八・九機事件について増渕・内藤アリバイなどの増渕ら被疑者が犯人ではないことを推認させる事実が多数存在したが、捜査段階でこれらが検討された気配は全くない。

(五) 八・九機事件逮捕及び製造事件逮捕の違法

捜査官憲が人を逮捕しようとする場合、被疑者に及ぼす重大な利益侵害に鑑み、証拠資料を十分に収集し、かつ、それらをよく調査し、被疑者に無実の可能性がないかどうかを慎重に検討し、有罪と認めるに十分な合理性がある場合にのみ逮捕することが許される。

ところが、本件での原告に対する八・九機事件及び製造事件についての各逮捕については、その時点において捜査当局が収集済みの証拠資料及び収集可能であった証拠資料を前提とした時、逮捕に係る嫌疑に多くの疑問が認められる。このような疑問を無視して安易に原告を犯人と断定したことは、明らかに違法である。

(六) まとめ

以上のとおり、原告を含むL研グループに対する捜査は、捜査当局、とりわけ警視庁公安部が、客観的証拠を無視ないし軽視し、誤った見込みにより同グループを本件ピース缶爆弾事件(増渕らについては、さらに、日石・土田邸事件)の犯人であると断定して、別件逮捕を利用して身柄を拘束した上、強制、誘導により自白を強要したものであって、全体として違法な職務執行と言わねばならない。

2 公訴提起の違法

(一) 概観

本件ピース缶爆弾事件に関する各公訴の提起は、昭和四八年二月のアメ文事件から始まり、同年三月の八・九機事件、最後に同年四月の製造事件というように、現実の事件の発生経過とは逆にこれを遡及するように行われた。原告に対しては、被告水崎が昭和四八年三月一〇日付けで八・九機事件の、被告親崎が同年四月四日付けで製造事件の起訴をそれぞれ行った(原告はアメ文事件については起訴されなかった。)。

しかし、L研に的を絞り、メンバーを順次起訴していった公訴提起の経過は、当初から検察官の判断が誤りであったことを示している。すなわち、各事件の捜査においては取調べ担当警察官の取調べ時間が極端に長く、その反面、検察官の取調べはほとんどなされず、あるいは司法警察員作成の供述調書ないしは警察側の想定した事件の筋書きに対するチェックがなされておらず、警視庁主導型の捜査、検察官のチェックの不存在、東京地方検察庁の警視庁への極度の依存という状況が存在した。また、検察官が当時収集し、また収集し得た証拠資料に基づき合理的に判断するならば、ピース缶爆弾事件と原告らL研グループを結び付ける客観的な証拠または第三者の供述は皆無であり、逆に、客観的証拠に照らし被疑者らの供述の信用性が誠に疑わしいものであることを発見できたはずである。そして早期に被疑者らの自白に正当な疑問を抱きさえすれば、L研グループの一連の犯行であるとして本件原告らを狙い撃ちにした一連の公訴提起は存在しなかったのである。本件各公訴はそれぞれ関連しつつ、そのいずれの段階においても検察官は公訴の誤りに気付く機会があったはずである。したがって、本件各起訴は、ほとんど自白のみに依拠した起訴なのであるから、起訴担当検察官としては、より慎重な手抜かりのない検討を経た上で、起訴不起訴を決定すべきであり、本件については、後述する事情に照らせば、通常の注意を尽くせば当然に不起訴の結論に到達すべきであった。にもかかわらず、被告水崎及び同親崎は、十分な検討精査を怠り、警視庁の捜査結果を無批判に受け入れたのであって、右行為はもはや適法な職務執行とはいえず、むしろ高度の違法性を有するものと目されるべきものである。

検察官の職務行為における違法性判断基準としては、結果違法説を採用すべきである。この説を採らず職務行為基準説を採用すると、いかなる基準のもとにその違法性を判断するかが問題となり、緩やかな基準が採用されるおそれが極めて強い。人権保障に資するという点で、結果違法説のほうが優れている。

検察官が公訴提起する際に要求される犯罪の嫌疑の程度については、起訴が重大な人権侵害たる刑罰権の発動につながるものであることから、被疑者が有罪判決を受けることが確信として検察官に予想されていなければならない。有罪判決を期待しうる合理的根拠の存在で足りるとしても、その合理性の内容は、極めて厳格に解釈されなければならない。

違法性判断に際し、通常考えられる検察官の個人差を考慮すること及び合理性を肯定することができない程度が「到底」という程度に至らなければ国家賠償法上違法とならないとするような考え方を採るべきではない。検察官の個人差の存在は否定できないにしても、最も考慮すべきは被疑者及び被告人の人権保障であるから、個人差を考慮に入れて適法範囲を拡大する理論は明らかに採用できない。

(二) 検察官の収集し、収集し得た証拠資料

本件公訴提起時までに検察官が検討できた物的証拠として、八・九機事件で使用されたピース缶爆弾並びにアメ文事件で使用されたピース缶爆弾、時限装置及びダンボール箱等のあることはいうまでもない。

また一連のピース缶爆弾事件が、爆弾の形状及び材料等に照らし、本件ピース缶爆弾事件と何らかの関係があり、右事件の真相解明に重要な手掛かりを与えるものであったところ、検察官は当然に一連のピース缶爆弾事件の爆弾又は鑑定書を検討の材料とし、また京都公安調査局事件、中野坂上事件及び福ちゃん荘事件については、併せて事件記録の検討が可能であり、関係者に供述を求め、取調べを行うこともできたはずである。

さらに被疑者及び被告人以外の者の供述としては、例えば八・九機事件について高杉早苗、松浦英子、河村周二及び仁科正司らの供述が既に存在している。また製造事件については京都公安調査局事件との関連においても製造日時の特定が事実認定に必要不可欠なのであるから、謀議場所とされるエイト及びミナミ等の喫茶店経営者からの事情聴取が考慮され得た。

本件ピース缶爆弾事件の被告人らは、原告、平野及び前林を除き自白しているが、その信用性の吟味は慎重になされねばならず、否認供述の調査をなすべきことも当然である。

(三) アメ文事件起訴の違法

(1) 自白と物証との決定的矛盾

アメ文事件については、佐古、前原、増渕及び村松が自白しているが、増渕及び村松の供述は抽象的なものであり、したがって右事件起訴に重要な位置を占めるのは、佐古及び前原の各自白供述である。

しかし、右両名の自白は、現場に遺留された物的証拠と決定的に矛盾し、信用できないものである。すなわち右両名は、増渕から指示されて河田町アジト近くのパン屋から大型ダンボール箱二個を入手し、そのダンボール箱の一隅を切り取り、本件ピース缶爆弾を収納する小さいダンボール箱の製造行為を行った旨供述する。

ところが、アメ文事件に実際に用いられた本件ダンボール箱は、日本工業規格JIS・Z一五〇七に規定されたB―一形に該当する既製のダンボール箱であり、右両名は事実無根の供述をしている。佐古は、製造したという箱の展開図を作成し、また製造の実演をした上、「記憶と現物が一致する」等と供述しているのであるが、公訴提起にあたった検察官が、本件ダンボール箱を一見し展開図を想定してみれば、右供述が虚偽であることを容易に認識したはずであり、また佐古がアメ文事件への関与を認めながらことさらにダンボール箱についてのみ虚構を述べる理由はないから、結局佐古自白全般について信用性を疑うのがむしろ当然なのである。このことは同趣旨を述べる前原の自白にも当てはまる。

本件ダンボール箱に打ち込まれた平線についても、前原らは大型ホッチキスで赤胴色の針を打ち込んだと供述しているが、家庭用大型ステイプラー用のものとしては赤胴色の平線はないのであって、こうした事実は検察官が警察捜査を鵜呑みにせず、証拠物を正しく観察し、関連ありと考えられる企業に照会するだけで判明したはずなのである。

本件ダンボール箱の底に貼り付けられた割り箸の意味についても、佐古及び前原は箱の補強が目的であると自白しているが、むしろ実物を見れば爆弾を固定する目的で使用されたことが明らかであって、右供述も虚偽としか判断できない。また佐古自白中のダンボール箱の包装状況に関する供述、時限装置の形状に関する供述、時限装置がゼンマイ作動であるのにコード接続で作動するとした供述、「ボンド」という接着剤を使用したとする供述、前原自白中の電池と雷管の結線状態及び電池の個数に関する供述等も事実に反し、犯行を現に行った者の供述としては誠に不自然不合理であることが、実物を一見し、あるいは公私の団体に照会するだけで容易に明らかになったはずである。

(2) 佐古及び前原の自白の信用性の検討の過怠

佐古及び前原自白には、前記(1)のほか、下見、使用車両及び爆弾設置状況等多数の事項につき、不自然な変遷が認められる。さらに、昭和四四年九月から一一月にかけて、佐古が都内のレンタカーを借りたのは九月七日ころ、一〇月二〇日から二二日まで及び一一月一〇日の計三回だけであるところ、佐古は捜査当局の強制及び誘導により、一〇月三〇日ころにアメ文の下見にレンタカーを利用した等明白な虚偽供述をさせられている。これらのことは合理的常識的に見るならば、前記(1)と相まって、さらに一層自白全体に疑問を投げかけるべき事情となる。

アメ文事件では、被告人らと事件を直接結び付ける物証が皆無なのであるから、公訴提起にあたる検察官は、立件の有力な証拠となる佐古及び前原の自白が客観的事実に沿うかどうか、あるいはその自白の供述過程等を十分に吟味しなければならず、また、本件において右各自白の信用性を的確に判断することは極めて容易であった。そして十分な吟味を加えたならば、当然L研グループを起訴することはなく、また起訴することは許されなかったといわなければならない。にもかかわらず、検察官はかかる検討を殆ど怠り、証拠評価に関し余りに不合理な判断の下に、違法な起訴を行ったのである。

(四) 八・九機事件起訴の違法

(1) アメ文事件の自白との関連

八・九機事件起訴の根拠となる証拠としては、前原ら四名の自白しかなく、このうち増渕及び村松の各自白は供述内容及び供述経過等に照らし、一見して明らかに信用性を欠くため、検察官が公訴を提起・維持しようとするためには前原及び内藤の自白の信用性に依拠する以外にない。

ところで、前原は、一〇・二一闘争時に持ち帰った二個のピース缶爆弾をアメ文事件と八・九機事件にそれぞれ一個ずつ使用したと供述していた(右供述はアメ文事件起訴以前の昭和四八年一月段階において現れている。)。しかし、前記(三)で述べたようにアメ文事件に関する前原自白は重要な部分において客観的事実に反し、信用性は皆無というべきであって、検察官及び捜査官が通常の注意を払って証拠物を観察し捜査するならば、むしろ同人が犯人であることを疑う根拠となるべき資料であった。前原自白におけるアメ文事件と八・九機事件との関連性をみるならば、アメ文事件の自白の虚偽性が直ちに八・九機事件の供述の信用性判断に影響を与えないはずがなく、右判断は常識的な判断力を備えた者にとって、誠に容易であったと考えられる。

検察官は、警察捜査を批判的に吟味検討して訴追すべきか否かを決定する職責を負うものであるところ、アメ文事件及び八・九機事件等がL研の一連の犯行であるという想定に対して昭和四八年一月段階から疑問を抱くべきであって、八・九機事件起訴にあたり、重要な証拠である前原自白(さらに八・九機事件の直接の証拠とはならないものの、本件ピース缶爆弾事件全体にとり重要な地位を占める佐古自白)の信用性をそもそも疑い、吟味して、それが虚偽であることを発見すべきであったのであり、またそうすることが可能であった。にもかかわらず、検察官は、自白のみに依拠し、しかもその信用性を検討せずに余りに杜撰な起訴を行った。

(2) 前原及び内藤自白の問題点

<1> 八・九機事件実行状況に関する前原・内藤の行動及び役割についての供述の不自然性

前原自白には次のように明らかに不自然な点がある。

I 都電に乗り、八・九機正面前でフラッシュが焚かれているのを見た後の行動について、前原の供述は著しく変遷している。右供述の変遷はその変遷状況に照らし、逐次正確な記憶を喚起していった過程とは到底見ることができない。また、既に八・九機事件における自己の行動の主要部分を供述している以上、都電による結果確認後の行動を秘匿する理由も必要性も存しなかったはずであるから、前原がことさらに言を左右にしたものとも考え難い。

II 前原は、午後七時一〇分ころになっても変わった事態がなく、赤軍派の者からも「爆弾は投げ込まれたらしいが、何も変わった様子がない。」旨の報告を受け、自分の発案で午後七時三〇分ころ都電にのった旨供述する。右供述によれば、前原は報告を受けてから都電に乗るまで約二〇分間、無為のうちに河田町電停付近に立っていたことになるが、この行動はいかにも不自然な印象を与える。フラッシュを午後七時三〇分ころ見た旨の供述も、むしろこのことは取調官にとって明らかな事実であったのだから、検察官としては前原が取調官に迎合したことを疑い、供述を慎重に吟味する契機とすべきであった。

III 本件現場付近の居住者高杉早苗は、午後七時直後、八・九機正門から警察用緊急車両が出動した旨、本件発生直後に供述する。右供述は犯行に関係のない第三者の事件発生当日の供述として十分信用に値する。ところが、八・九機正門付近を注視していたはずの前原が、この点についての供述を全くしていない。

IVIV 前原は、当初、効果測定に同行した赤軍派の者の存在を述べず、一月三一日付け司法警察員に対する供述調書(以下「員面調書」という。)に至って初めてこれを述べる。本件が赤軍派との共闘の一環としての機動隊に対する爆弾攻撃という特異な体験であることを考えると、犯行当時単独で行動したか同行者がいたかという点について記憶を喪失し、あるいは他の場合と混同することは考え難く、また、既に本件への関与を自白した以上、同行した赤軍派の者の存在をことさら秘匿する理由はないことを考えると、右供述の変遷が不合理であると検察官は疑うべきである。ことに、前原は同月二二日付け員面調書において、事件当日の午前中、赤軍派の者と会い、事件の計画を連絡した旨供述しているところ、同月三一日付け員面調書以降の供述によれば、前原に同行した赤軍派の者は右連絡を受けた者から派遣されたというのであるから、少なくとも、右赤軍派への連絡を供述した時点において、同行者である赤軍派の者の存在を容易に想起できたはずである。

内藤自白も次のように不自然である。

I 八・九機事件に占める内藤の役割が結局判然とせず、内藤が自白するレポの必要性が疑わしい。すなわち、爆弾投てき時のレポ(見張り)の核心は、投てきが通行人等に不用意に目撃されることのないよう四囲の状況に注意し、あるいは投てき後の投てき者の逃走経路の安全を確認し、これを投てき者に伝達することにあると考えられる。しかし、内藤の供述する役割は、これらに比べて必要性の乏しいものにすぎず、しかも内藤と投てき者との間の連絡方法が、余りにも杜撰な感を免れない。また、レポ役の内藤が「途中の路地の入口で路地の中に立っている村松他一名に会ったが、意識的に無視して通り過ぎた」と供述する点には疑問がある。すなわち、右供述は、一面、現場における緊迫した雰囲気を描写するかのようであって、一見迫真性に富むように見えるが、他方、内藤自白によれば、村松は爆弾投てき班員とされており、八・九機事件の警備状況等の把握が最も必要な立場にあったのだから、内藤が村松に対する報告もせず、ことさらに無視して通り過ぎたというのは、不自然であるといわざるを得ない。

II 内藤自白のうち、レポの具体的内容に関する部分も、他の事項と同じく、当初曖昧な供述に終始し、徐々に具体的、詳細になっていく。右変遷状況には一貫性がないほか、機動隊に対する爆弾による攻撃という特異な状況に自らを置いた際の自己の行動については、その大筋の記憶まで失ってしまうとは考え難いことに照らすと、右供述経過を正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることはできない。内藤は、任意の取調べ段階から八・九機周辺を歩いた記憶がある旨供述しており、右供述態度に照らせば、真実、同事件にレポ役として関与しながらこれを秘匿しようと考えていたという見方には難点がある。

III レポの同行者についても、著しい供述の変遷がみられる。前記のとおり八・九機事件時のレポは内藤にとって極めて特異な体験であったはずであるばかりか、レポの際の同行者の有無及び同行者が誰であったか等の点は特に記憶に残りやすい事柄であり、なかでも同行者の有無についてまで記憶が消失するようなことは、通常考え難い。また、レポの事実を自白したのに同行者についてのみその有無ないし氏名をことさらに秘匿し、あるいは曖昧にしなければならない特段の理由も見当たらない。したがって、右供述に著しい変遷が見られること自体、甚だ不自然であると思われる上、右変遷経過には、何らの脈絡も認められず、正確な記憶が次第に喚起され、若しくは追及によって真相が逐次解明されていった過程とは到底考えられない。殊に、三月七日以降の供述変遷の状況は、内藤が、取調官の追及の仕方によって、たやすくこれに迎合し、供述を変更したのではないかとの疑問を抱かせるものである。

<2> 前原及び内藤の効果測定及びレポに関する各自白の相互矛盾ないし不自然な点

前原は、爆弾投てきの効果測定の際内藤に会った旨供述し、内藤も、レポの際前原に会った旨供述しているところ、出会った場所についての両名の供述が全く異なる。両者の述べる場所は、八・九機正門をはさみ、全く正反対の側に位置し、その間の距離も少なくとも三〇〇メートル近く離れているのであって、両者の供述が大幅に食い違っていることは明らかである。両者が出会ったことに関する供述は、両名の起訴を目前に控え、取調官である濱田検察官が、内藤供述と前原供述とをできる限り整合させるべく、内藤の三月七日付け員面調書及び同月八日付け検察官に対する供述調書(以下「検面調書」という。)に基づいて前原を追及したところ、前原がこれに合わせる供述をした結果であると思われる。両名が遭遇した地点に関する供述の不一致について、さらに検討すると、爆弾投てき予定時刻である午後七時の時点において、両名は極めて近接した地点にいたのであり、互いの存在について認識しないのは不自然である。また、内藤が供述する午後七時五分過ぎ以降の行動経路によれば、河田町電停付近に立っていた前原に出会うはずであるが、両名はこのことを一切供述していない。

<3> 犯行メンバーに関する供述の不自然性

前原及び内藤は、いずれも八・九機事件の爆弾投てき班を村松、原告及び堀の三名であると供述し、特に前原は、原告及び村松から投てきの際の状況を聞いた旨具体的に供述する。しかし、被告人及び共犯者とされる者の自白並びに真犯人と称する者の証言を除いた関係各証拠によれば、本件ピース缶爆弾の投てきに直接関与した犯人は、一名である可能性が高く、前原の供述する原告及び村松の発言の真実性はむしろ疑わしいというべきである。爆弾投てき班の存在及びそのメンバーについて、前原は比較的早い段階から村松、原告及び堀と一貫して供述するのに対し、内藤は、取調べ当初から事前謀議の状況及びレポ時の状況に関する供述はするものの、投てき班については全く述べず、三月七日にようやく供述を始め、その後も構成メンバーが変遷する。本件のような重大事件において、投てき者のためのレポを担当した者が投てき者を知らないとすることには根本的な疑問があるし、また、内藤は同月三日にそれまで否認していた八・九機事件における爆弾投てきに対する認識を自白するに至っており、その時点において供述していた内容に照らすと、投てき班についても供述するのが自然であるのに何ら述べず、同月七日にようやく供述を始め、その後も構成メンバーが変遷する。右供述経過からすると、内藤の供述の変遷を正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることは出来ず、かえって内藤の取調官である田村巡査部長が、前原の自白を基に内藤を追及し、結果的に内藤が迎合して供述したことが明らかである。

ところで、被告水崎は二月二一日、投てきを目撃した河村周二巡査の取調べを行い、投てき犯人を追いかけている途中、出会った女性から「三人がまっすぐ急いで駆けて行った」旨聞いたとの供述を得ている。しかし、右供述は、河村の同月一八日付け員面調書の「追跡の途中で、通行人の女性に、誰か走っていく姿を見なかったかと尋ねたが、いずれもそれらしい姿は見なかったとのことであった」という供述と明確に矛盾し、また、右員面調書の三日後に唐突にもこれと矛盾する内容の記憶が回復した理由が右検面調書に録取されていないこと等に照らすと、被告水崎は前原らの自白と辻褄を合わせるためだけに河村を取り調べ、その供述を誘導したと認められるのであって、真相解明のため自白あるいは供述を吟味しようとしていなかったことが明らかである。そもそも実行犯人の数という事件像の最も基本的な部類に入る事実については、可能な限り客観的証拠に基づき、より十分な捜査と証拠の吟味が行われるべきであって、安易に自白との辻褄合わせを行うようなことがあってはならない。検察官は、右事実を解明し、自白の信用性に正当な評価を下すためには、第三者の目撃者である松浦英子及び高杉早苗らから再度事情を聴取して事実調査を行い、また目撃した警察官である河村周二及び仁科正司から供述を不当に誘導することなく事情を聴取すべきであったのである。

菊井の参加の有無についての前原と内藤の各自白には黙過できない不自然さと相互不一致が存する。すなわち、この点に関する内藤の供述は曖昧でかつ変遷を重ね、他方、前原は菊井の参加を明確に否定している。そして、前原は菊井の不参加を一貫して供述するものの、参加しなかった理由ないし経緯、特に菊井に対する事前の連絡の有無については供述が変遷する。前原は最終的に、内藤に菊井を呼んで来るよう依頼したが、菊井が誘いを断った旨供述するが、一方、内藤は、右依頼のことを全く供述しない。

<4> 自白と使用爆弾・導火線の客観的形状との食い違い

八・九機事件に使用されたピース缶爆弾は導火線の長さが中野坂上事件のピース缶爆弾三個に比べて短く、かつ、その先端の形状も後者がいずれもほぐされているのに対し、前者は斜めに切られている点で異なっている。前原らが供述するように八・九機事件で使用されたピース缶爆弾が中野坂上から持ち帰られたものであるとするならば、持ち帰り後、八・九機事件関係者らのうちの誰かによって導火線の先端部が切断されたことになると思われるのであるが、前原及び内藤の各自白は、この点に触れない。

前原は、本件謀議の際の導火線燃焼実験に使用した導火線は、中野坂上から持ち帰ったピース缶爆弾二個のうちの一個の導火線を引き抜いたか切り取って使用した、実験に使用した導火線の長さは一二ないし一三センチメートルと供述し、内藤は実験に使用した導火線の長さは一〇センチメートル余りと供述する。佐古らが持ち帰ったというピース缶爆弾が中野坂上事件のピース缶爆弾と同種であったとする限り、導火線燃焼実験に使用された後のピース缶爆弾が八・九機事件で使用されたピース缶爆弾でありえないことは明らかである。また、前原の右供述は八・九機事件のピース缶爆弾の導火線が切り縮められていることに対応しない。

<5> 下見に関する供述の不自然性

前原が供述し、引当り捜査で指示した下見の経路は、八・九機正門前及びその付近の警備状況の把握という目的に照らすと、時間的にも距離的にも迂遠で無駄が多い。すなわち、フジテレビ前通り東京電力河田町変電所角を左折してから抜弁天交差点に至るまでの道程が右下見の目的にほとんど資するものでないことは明らかであり、かつ、下見に同行したとされる原告は、爆弾投てき役の一員とされており、投てき後の逃走経路を確認する必要があるところ、右下見はいわば現場付近の大通りばかりを歩いており、逃走経路たるべき路地や脇道の状況を確認した形跡がない。このような不自然さは下見そのものの実在にかなりの疑問を投げかけるものであり、検察官がこれに疑問を抱かないとすれば、明らかに不注意である。さらに、前原は機動隊員の立哨位置につき供述に沿う指示説明を行っている一方で、河田町電停方向に交番があることを考慮して逃走方向を考えた旨供述する。右供述によれば、前原は下見の際現認したはずの機動隊員の立哨位置を考慮にいれて逃走方向を決定したとは思われず、したがって、下見に関する一連の供述の間に不自然な抵触があることになる。検察官は当然右抵触のあることを知っているのであるから、通常の注意を払ってさえいれば、下見に関する右各供述が現実体験に基づくものでなく、想像の産物であることを看破できたはずである。

<6> 犯行前後の喫茶店集合に関する供述の不自然性

前原及び内藤は犯行直前に喫茶店に集合した旨供述するが、右供述は次のとおり信用性を欠如することが明らかである。

まず、喫茶店に集合した者について両名の供述が一致しない。

次に、両名とも河田町アジトにおいて最終的な打合せをしたというのであるから、さらに犯行直前に喫茶店に集合する必要性に乏しい。かえって、犯行直前に現場近くの喫茶店に集合し、同店から順次出発するなどというのは、事件後、同店の従業員あるいは他の客らに不審を抱かせる一因ともなりかねず、供述の信憑性評価はより慎重でなければならない。

さらに、右犯行直前の喫茶店への集合は、両名の当初の供述には出ておらず、内藤が三月三日付け員面調書で初めて供述し、前原は同月九日付け検面調書で突然供述している。犯行直前に共犯者らが喫茶店に集合したこと自体は、それまでの両名の供述内容からして別段秘匿しておく必要性があったとは思われず、また右供述経過自体からみて、両名がいずれもこの点に関する記憶を消失していたところ、自然のなりゆきで想起し、供述したものと解することも甚だ困難である。そして、増渕が二月一八日付け員面調書において内藤及び前原に先立ち、村松に八・九機前の通りの喫茶店を出撃拠点にして出発するように指示した旨供述していることをも併せ考えると、内藤の取調官である田村巡査部長が、右増渕供述を基に犯行前の喫茶店集合について追及した結果、内藤がこれに迎合して虚偽の供述をしたものではないかとの疑いをもって然るべきである。また、前原の三月九日付け検面調書における供述は、内藤自白と整合させるべく、取調官の濱田検察官が、内藤の三月七日付け員面調書及び同月八日付け検面調書に基づき前原を追及したところ、前原がこれに合わせて虚偽の供述をした疑いが濃厚である。

次に、前原及び内藤は犯行直後に喫茶店に集合した旨供述する。しかし、集合した喫茶店について内藤は犯行直前に集合した喫茶店と同一の喫茶店と供述するのに対し、前原は右喫茶店と異なる東大久保の喫茶店であると供述する。また、菊井の参加の有無について両名の供述が異なる。このように両名の供述には、同一の実在する事象についての共通の体験を真摯に再現するものであるならばありえないような不一致が存する。さらに、前原供述は推測的性格を有するものであり、理屈の問題として犯行直後の集合を考えているに過ぎず、前原の断定的自白が前原自身の確たる記憶に基づかないものであることを検察官は疑うべきである。

<7> 犯行前日の謀議状況に関する供述の不自然性

I 謀議の場所等

犯行前日の謀議の場所及び謀議の状況に関し、内藤はかなり変遷、混乱した供述をしている。一方、前原は当初の自白以来、概ね一貫した供述をしていたが、三月九日付け検面調書に至り、突如喫茶店における謀議を供述している。まず、内藤には喫茶店謀議を秘匿しておかなければならなかった理由は見当たらず、内藤がことさらに隠し立てをし、あるいは言を左右にした結果、右変遷が生じたものとは認められず、真実性に疑問を持って当然である。また、前原の喫茶店における謀議の供述は、本件の他の供述事項に比べ余りにも漠然としており、かつ、にわかに右供述をした理由も述べられていない。ところで、村松及び増渕は、内藤及び前原に先立って、犯行前日の喫茶店謀議につき供述していた。右事実に照らすと、内藤の供述は、取調官が村松ないし増渕の自白に基づき、追及した結果、内藤がこれに合わせて供述したものであり、また、前原の供述は、起訴を控え、内藤自白との整合性を重視していた濱田検察官による誘導の結果、前原が迎合して漠然とした認め方をしたものというべきである。

II 謀議の内容

八・九機に対する攻撃方法について、内藤の自白には「横の方からの侵入」ないし「横からの攻撃」に強く固執する傾向がみられる。一方、前原は「横からの攻撃」については一切供述せず、一貫して謀議段階以来「正門前の道路端から正門に向かって投てきする」旨供述するのであって、右供述内容の不一致は看過し得ないものを含む。

八・九機事件に使用する爆弾について、内藤は犯行前日の謀議の際一〇月二一日に東薬大で製造された爆弾を使用すると聞いた旨供述する。しかし、一〇月二一日に東薬大で製造された爆弾は鉄パイプ爆弾であって、爆弾の入手経路に関する右供述は客観的事実に明らかに反する。

前原は、河田町における謀議の際、ピース缶爆弾二個をその場にいた者に見せた旨供述するのに対し、内藤はこの点を供述しない。爆弾投てきの認識について自白した以上、謀議の際、ピース缶爆弾を目撃したことを内藤が秘匿しなければならない理由はないはずであるのに、その後もこのことを供述していないのは不自然である。検察官がこの点を考慮しなかったとすれば、明らかに不注意である。

III 増渕の参加の有無

前原は自白の当初から八・九機への爆弾攻撃を提起したのは増渕である旨一貫して供述する。一方、内藤は、最終的にはほぼ同様の供述をするに至るが、当初は、村松から八・九機への攻撃が提起された旨供述していた。増渕は、内藤の属する東薬大社研も頻繁に出入りして指導する等、内藤にとって、村松、前原及び原告に比し、より接触の多い人物であり、増渕が他の者に先立って、最初に八・九機に対する爆弾攻撃を提起したのであれば、これを内藤が忘失し、村松と混同するということは考え難い。また、内藤が増渕だけを特にかばわなければならない理由の存在を窺わせるような事情も何ら存しない。したがって、内藤の供述の右変遷は不自然であって、取調官が右供述を押しつけたものとみるべきである。

IV 導火線燃焼実験

前原及び内藤は、犯行前日の夜河田町アジトで八・九機攻撃の謀議をした際、導火線の燃焼速度を測る実験をした旨供述する。しかし、右供述には次のような疑問がある。

導火線は、これに点火して燃焼させた場合、その火が端末まで達すると、端末から炎が吹き出すが、右火吹きの強さはJIS規格により五〇ミリメートル離れた別の導火線に点火させるものであることが必要とされている。真実、導火線を燃焼させたことがあるならば、右火吹きの現象は、誠に印象的なものとして記憶に残存すると考えられるのに、前原及び内藤は、右火吹き現象について全く供述しない。のみならず、内藤は線香花火の点火を思わせるようなイメージの供述をするが、そのような燃やし方をすれば、炎が導火線の末端から上方に吹き出て危険なことはいうまでもなく、これが現実体験に基づく供述でないことも明らかである。導火線燃焼実験に関する供述には既に疑問が生じているのであるから、検察官は導火線の燃焼の仕方をより客観的に調査確認すべきであり、しかもこれは容易であったから、このような裏付け捜査をしなかったことは、明らかな義務違反というべきである。

また、前原の供述中には導火線が点火したことにより短くなったのではないかとする部分がある。しかし、導火線は中の芯薬だけが燃えるのであって、被覆線自体は燃焼せず、したがって、導火線を燃焼させた前後において、導火線の外形的な長さには別段変化がない。検察官が裏付け捜査をしさえすれば、前原の右供述が事実に反することを明らかにできたはずである。

<8> 関連事項

I 佐古供述との関連

佐古の一月一七日付け員面調書には、前原から八・九機攻撃の話を聞いた(以下「前原発言」という。)旨の供述があり、右供述が前原が自白する引き金となったが、佐古の右供述には次のような疑問がある。

佐古の供述する前原発言と前原の自白内容は大きく相違しており、前原発言の真実性が疑わしい。

また、前原発言は有力な傍証になり得るものであるのに、佐古の検面調書に録取されていない。検察官がことさらにこの点を落とした調書を作成する理由はないから、既に検察官取調べの段階で取調べ検察官が前原発言を信用しなかったものと考えられ、このことは当然に前原自白の評価にも関わりがある。

佐古の供述する前原発言は一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰りを大前提にしたものである。しかし、佐古は一〇月二一日夜は豊島区の兄のアパートに泊まり、佐古と行動を共にした国井は杉並区の自宅に戻っていたのだから、二人とも河田町アジトに戻っていない(佐古・国井アリバイ)。したがって、持ち帰り自体、実在性に疑いを持って然るべきである。

以上の点を総合すると、取調官は、前原の一月一六日付け員面調書(佐古による一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰りに関する供述)に基づき、翌一七日に佐古を追及して同旨の供述を引き出すのに成功し、さらに、アメ文事件で使用された以外の残り一個の爆弾の使用先として、未解決であった八・九機事件を挙げ、前原が使用先について何か言っていなかったかという形で佐古を追及したところ、同人がこれに迎合して前原発言を供述したと見られる。したがって、取調べの方向が右のような見込みに基づいていなければ、本件が虚構であることが容易に判明したはずである。

II 増渕及び内藤のアリバイ

増渕及び内藤には、八・九機事件の発生した当日の夕刻から午後一〇時ころにかけて、同月二〇日に東薬大で東薬大社研の者らが製造し、同月二三日及び二四日の各早朝に、同大から平野の下宿に運び込んであった火炎瓶七、八〇本を町田敏之らとともに、同下宿から渋谷区本町所在の江口・前林アパートに運び込んでいた旨のアリバイがある。右アリバイについて、増渕及び内藤が早くから供述していたのであるから、検察官が公平、虚心にこれらの供述の信憑性を確認しようとしたのであれば、町田はもとより、当時江口と同居していた前林及び両名の知人友人から広く事情を聴取し、より明確な事実関係を捜査できたし、そうすべきであった。

<9> 前原・内藤自白の総括的問題点

I 内藤自白について

内藤の自白は、事件への関与について全面的に否認するのでもなく、曖昧な供述に終始した挙げ句、次第に具体的かつ詳細な供述をするに至っているが、その最終的自白についても、公訴提起時において既に多くの疑問点の存することが明らかであり、その供述過程は総じて記憶を喚起して供述したものとは評価できないはずのものであった。

内藤がかかる自白をするに至った要因を検討すると、任意取調べの段階においては、河田町アジトにおける八・九機襲撃の話合いの状況についてかなり具体的に供述するものの、八・九機周辺における行動については、断片的な記憶らしきものを供述するだけで、右話合いと関連づけて供述するものではない。そして八・九機事件による逮捕(二月一七日)から同月二四日付け員面調書ころまでの供述においては、同事件への関与をあやふやに認めつつ、河田町話合いの翌日に八・九機周辺を歩いた旨、右話合いと関連づけて供述するようになったが、その内容は、まことに曖昧かつ漠然として理解し難く、具体的な事件への関わりを持った者の供述とは到底思われないようなものであった。同月二五日か二六日ころ、内藤の取調官であった田村巡査部長は、管理官から内藤の供述はよくわからんから、もうちょっとしっかり調べてくれと指示され、その後追及の語調を多少強めたとのことであり、その後の供述は自白としての体をなすようになり、したがって逆に信用性は欠如したものであることが明らかになった。

さらに、被告水崎は濱田検察官を含む取調官から内藤の供述態度には、顕著な迎合傾向があることを知らされていたと思われ、こうした虚偽自白が生まれたことも看破し得たはずである。

II 前原自白について

前原の自白に対しても、その供述の担当部分につき、多くの疑問点が指摘されるほか、その信用性については、取調べの経緯に鑑み、特に慎重な検討が必要であること等を考えると、前原の自白は、アメ文事件に関する自白同様、取調官の追及に迎合してなされた信用性を欠如する供述であり、訴追官たる検察官がこのことを看破することは到底許されない。結局前原の自白の信用性には疑問が残らざるを得ず、内藤、増渕及び村松の各自白並びに前原発言に関する菊井証言及び佐古供述も、その信用性を補強ないし補完するものとはいえない。

(3) 村松自白の問題点

村松は、二月一二日、八・九機事件により逮捕され、当初否認していたものの同月一四日自白し、同月二二日再び否認に転じたが、三月三日あらためて自白するに至った。

村松自白の内容は、事件前日の謀議の内容及び犯行時の村松自身の行動等重要な事項について、前原及び内藤の自白と大きく相違するものであり、特に、村松自身の犯行時の行動として木村コーヒー店で待機していた旨述べるところは、そもそも右待機が、八・九機事件の遂行にどのような意味をもつものであるか判然とせず、さらに、村松自白に従えば、爆弾投てきが誰によってなされたかも不明である等具体的事件に関与した者の供述としては不自然な内容となっている。

以上のような供述内容及び供述経緯を総合すると、村松の八・九機事件に関する自白は、アメ文事件に関する自白と同様、否認を続ければかえって自己に不利になると考え、事件への加担は認めつつ、専ら増渕が主導的であって、自己の関与は従たるものに過ぎないと強調しようとの動機に出たもので、真実性のないことは明白である。右村松供述は、さらに、前原及び内藤の自白の信用性を減殺するもので、被告水崎がこのことを考慮しなかったことは、まことに不当である。

(4) 増渕自白の問題点

増渕は二月一一日八・九機事件について事件の実行を指示した旨自白し、翌一二日逮捕され、以後事前謀議の状況等具体的な供述をするに至った。

増渕の自白は、次のとおり、重要かつ多くの点において、前原、内藤及び村松の自白と異なるほか、不自然、不合理な内容を含む。

<1> 前日の喫茶店謀議

喫茶店の店名及び参加メンバーの点が内藤及び村松の自白と相違し、また、下見をした日について、前原、内藤及び村松の供述と食い違う。さらに、増渕が、八・九機裏側を回る形で下見した旨供述し図示するところ、下見経路に合致する道路は存在しない。

<2> 前日のアジト謀議

住吉町アジトであった可能性を供述する点及び参加メンバーの点で、前原、内藤及び村松の自白と異なる。また、爆弾投てき役が前原及び内藤の自白と相違し、爆弾投てき後の効果測定役の存在及び赤軍派との連絡について供述しない点で前原の自白と異なる。

<3> 事件当日の行動

増渕自身の行動について、前原、内藤及び村松の自白と異なる。

<4> 導火線燃焼実験

導火線燃焼実験をした場所について、前原及び内藤の自白と異なる。

増渕の供述経過は、供述内容の変転ぶりに照らし、とうてい正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることはできず、また前原及び内藤らとの右供述の不一致あるいは供述内容の不自然さが記憶の変容ないし混同によるものとも解し難く、増渕自白の信用性は大きいとはいえない。さらに、増渕の取調官であった被告水崎は、増渕が本当のことを話しておらず、捜査を間違った方向に引きずってゆく供述をしていると感じていたのであるから、増渕の自白の信用性にはそれ自体多大な疑問があり、到底前原、内藤及び村松の各自白を補強ないし補完するには足りないことが明らかであった。

(5) 福ちゃん荘事件の証拠との関連

八・九機事件については、第一審公判審理段階において、自分が投てき犯人である旨の若宮正則の証言、右証言を補完する古川経生及び荒木久義の各証言があった。

右三名は、いずれも福ちゃん荘事件に関係する赤軍派関係者である。福ちゃん荘事件で押収されたピース缶爆弾が缶体・内容物等の点において八・九機事件で使用されたピース缶爆弾と明らかな関連性が窺え、また、前原及び内藤が八・九機事件に赤軍派の者が加わった旨供述する以上、検察官が福ちゃん荘事件関係記録証拠を十分に検討し、赤軍派関係者からも事情聴取すべきであったことはいうまでもない。刑事公判廷における証言態度からすれば、少なくとも荒木及び古川からは供述を得られる可能性が十分にあり、そのことによって前原及び内藤らの自白の虚偽性も明白になったものと考えられる。検察官は、右のような当然の捜査と証拠評価を怠り、原告らを違法に起訴した。

(6) むすび

以上のとおり、村松及び増渕の自白はもとより、前原及び内藤の自白も客観的事実に反し、また多大な疑問を抱かせる不自然な部分を多数蔵していた。これらの問題点は検察官の八・九機事件公訴提起当時、既に明らかであり、または容易に真相を究明し得たはずのものであった。

すなわち、検察官は福ちゃん荘事件関係証拠を検討し、関係者から事情を聴くことも容易であり、高杉及び松浦らの第三者に真相解明のため事実関係を確認し、投てきされた爆弾を正確に検討して各自白の信用性が欠如することを明らかにすることもたやすいことだった。右のように自白獲得のみに頼らず、可能な限り客観的な物証及び第三者の冷静な供述により捜査を行い、公訴権行使をするということは、それらの権限を付与された機関のとるべき常道なのであり、とりわけ公訴権を独占する検察官には格別に要求される職務上の義務なのである。

しかるに、八・九機事件起訴にあたり検察官は、右のような捜査及び証拠の正当な評価に基づく公訴権行使を怠り、自白のみに、しかも信用性を全く欠く自白のみに依拠して公訴を決定したものであって、右職務上の義務に違反したことは明らかである。

(五) 製造事件起訴の違法性

(1) 客観的事実との関連

被告親崎が起訴を決する段階において、一連のピース缶爆弾事件とL研グループとの関係を否定し、あるいは、被疑者及び被告人らの各自白に反する客観的事実が数限りなく存在していた。

すなわち、本件公訴提起時までに検察官が検討できた物的証拠として、八・九機事件のピース缶爆弾並びにアメ文事件のピース缶爆弾、時限装置及びダンボール箱等がある。また、一連のピース缶爆弾事件は、爆弾の形状、材料等に照らし、本件と何らかの関係があり、本件の真相解明に重要な手掛かりを与えるものであった。

一連のピース缶爆弾事件に係るピース缶爆弾を通観すると、さらに次のような事実が判明する。

<1> アメ文事件のピース缶爆弾を除くその余のピース缶爆弾一一個は、同一の形状及び構造と認められるか、あるいはそのように推認されるべきものである。さらにアメ文事件のものを含む一二個の爆弾には、いずれも「SGC」という刻印のあるパチンコ玉が用いられている。同じころに爆弾というような極度に特殊かつ非日常的な性質のもので、同一の特徴を持ったものを、別個のグループがそれぞれ独立に製造するというようなことはまずあり得ないと思われ、右ピース缶爆弾は、同一人あるいは同一グループないしこれに準ずる者らによって製造されたものである蓋然性が極めて高い。

<2> 各ピース缶爆弾に使用されたピース缶のうち、缶番号が判明しているのは、アメ文事件に係るピース缶爆弾を含め計八個であるところ、そのうち五個は「9S171」、二個は「9T211」、他の一個が「8W281」であり、右番号は、ピース缶の製造年月日、製造場所を示すものであることに照らすと、「8W281」のものについては格別、その余の番号のものは、それぞれ同一機会にある程度一括して購入されたものと認めて差し支えないであろう。

検察官は、これらの物的証拠を少しでも検討すれば、むしろ製造事件と被疑者らが全く無関係であることを了知し得たはずであるのに、何ら捜査をしなかった。

さらに、石井、江口及び平野にはアリバイが存し、平野には身体障害があることから、製造事件に参加することが非常に困難であった。右の諸点は、検察官に、極めて容易に被疑者らがなんら製造事件に関係のないことを了知させるものである。

また、製造事件においては、京都公安調査局事件との関連で製造日時の特定が事実認定に必要不可欠なのであるから、日時特定の前提たる謀議の場所とされたエイト及びミナミの喫茶店経営者からの事情聴取や営業日の調査が直ちに必要とされていた。にもかかわらず、検察官は、これらを完全に看過していた。

(2) 製造事件の被疑者らの自白の吟味

<1> 謀議

I 謀議の場所及び参加者

製造についての謀議の場所及び参加者に関し、これに参加したとされる者らの供述が、一致せず、区々に分かれていることは、同一の事柄を経験したはずの者らの供述としてはまことに不自然である。起訴時においてもこの点につき留意すべきは当然で、何としても解明すべきであった。またこの点の解明に努めれば、同じような内容の謀議が何度も繰り返されるという不自然さが判明したはずである。

II 製造の契機(早大正門前集結と佐古自白)

佐古は早大正門前集結が大きな節目となって製造謀議に至ったもの、すなわち、右集結と製造謀議とが極めて密接な関係にあるものと供述する。しかし、前原、村松及び増渕の各自白には佐古の供述する右早大正門前集結の事実が述べられていない。

爆弾製造の契機ないし動機は、極めて重要な事項であり、通常は印象深いものとして記憶されやすいと思われるが、佐古以外の者にはこの点に関する自白がないことは極めて不自然である。検察官は起訴時において当然このことに気づくべきであった。このことは、ひいては製造の謀議、さらには製造の事実自体に関する佐古自白の信用性にも疑いをさしはさませるものである。

III 謀議の内容(製造目的と使用主体)

佐古のピース缶爆弾の製造目的及び使用主体に関する供述は変遷している。右変遷は極めて不自然であって、到底真実の記憶を次第に喚起していった過程とみることはできない。検察官は起訴時において右自白が不自然であることに当然気づくべきであった。

IV 導火線燃焼実験

佐古、前原及び村松は導火線燃焼実験をした旨供述するのに対し、増渕はこの点について供述しない。また、導火線燃焼実験をした時間帯について、佐古及び前原が昼間と供述するのに対し、村松は夜であったと供述する。そして村松は佐古の中間自白とほぼ合致した供述をするものの、佐古の最終自白及び前原自白と一致せず、かつ、村松は住吉町アジトで謀議をしていないとする点で、佐古及び前原自白と大きく相違する。参加メンバーについて、佐古及び村松は一致した供述をするが、前原は菊井を加える。実験の方法につき、点火役を佐古は佐古自身、村松及び前原はいずれも村松、前原と供述する。また使用した導火線の長さについて、佐古及び前原は一〇センチメートル位と述べるのに対し、村松は一〇センチメートル位、七センチメートル位、五センチメートル位の三種類と供述する。

右供述の相違は、各人の記憶の混乱によるものとも考えられないではないが、それにしても同一の事象についての真摯で正確な自白というには余りにも食い違う点が多く、不自然さを免れない。

V 結論

本件謀議に関する各自白は、いくつもの重要な点につき、相互に著しい不一致を示しており、検察官がその信用性を高く評価し、各自白の中でも基本的地位にあるといってよい佐古及び前原の各自白間でさえ、その不一致は顕著であるばかりでなく、右佐古及び前原の各供述は、その内容に看過し難い不合理な部分を含み、また供述経過にも不自然と思われる大きな変遷が認められるのであって、同一の犯行の謀議に関するものであるはずの各供述がこの程度にまで区々に分かれ、あるいは不合理な点、不自然さを含むことは、各自白の信用性を著しく減殺し、ひいては供述の対象である謀議の存在自体について強い疑いを抱かせるものである。

検察官は、自白の信用性につき重大な疑問を感じるべきであったのであり、本件を起訴すべきでなかったことは明らかである。

<2> 製造日時(謀議日時を含む)

I 製造日時の不特定

起訴の段階において、検察官は、製造日時を特定できていない。「昭和四四年一〇月一六日ころ」と極めて曖昧にしか特定できなかったのである。検察官が、ピース缶爆弾製造に多人数が参加したと主張しながら、製造日を何ら特定できなかったということの中に本件の砂上の楼閣性が如実に示されていた。爆弾製造が仮に行われたのであれば、それは各人にとって印象深いものであり、記憶に残るはずである。しかし、本件においては自白が全く一致せず、曜日すら特定できなかった。

II 石井、江口及び平野アリバイ

検察官は、公訴提起にあたり、アリバイ等の存在につき真面目に調査せず、むしろこれを覆い隠そうとした。

本件製造の日に、昼過ぎから夕方まで河田町アジト付近で見張り役を担当したとされる石井は、検察官がピース缶爆弾の製造日として主張する一〇月九日から同月一六日までのうち、同月九日及び同月一三日から同月一六日までの午後少なくとも五時までは、東京都台東区所在のJR浅草橋駅近くにある日本プラスチック玩具工業協同組合にアルバイトとして勤務していたのであるから、石井にはその限りでアリバイがあった。

江口は、一〇月当時、日曜と祝日を除く月曜日から土曜日までの午前一〇時から午後七時ころまで築地の国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室に研究員として勤務しており、特に同月九日及び同月一五日の両日については同研究室で動物実験に関与していたことが明らかであり、河田町アジトで行われた本件に参加しているわけがない。

平野は、一〇月一四日午前中に従前の下宿先であった杉並区天沼の八田方から新宿区柏木の糠信荘に引っ越しをし、同日午後はその荷物整理をしていたのであるから、平野には、少なくともこの日ついては明らかなアリバイがあった。

被疑者らの自白によれば、製造日の前日ころ、新宿区若松町所在のミナミにおいて謀議が行われたとされている。しかし、ミナミは当時、日曜祝日は休業していた。また、被疑者らの自白によれば、製造実行日に石井及び原告らはアジト周辺の見張りを担当したが、その際、近くのエイトを利用したとされている。しかし、当時のエイトは日曜祝日は休業しており、L研グループによる利用は不可能であった。謀議場所とされていたミナミそして製造実行日に使用したとされるエイトの休業日を調査していれば、喫茶店の利用が製造日との関係で不可能となることが了知できたはずである。

III 結論

検察官は、本件ピース缶爆弾製造の日を「昭和四四年一〇月一六日ころ」として起訴した。

ところで、一連のピース缶爆弾事件のうちで最初に発生した京都公安調査局事件との関係からすると、一〇月一五日以前にピース缶爆弾が製造されたと考えざるを得ない。

さらに、石井アリバイの検討結果によれば、右期間中、石井が昼過ぎから夕方まで河田町アジト近辺で製造当日のレポに従事できたのは、九日、一〇日、一一日及び一二日の四日間に限られることとなり、製造参加者とされる江口のアリバイ(九日及び一五日)によって、右のうち、九日も除外しなければならない。また、九日は、巣鴨駅前派出所及び池袋警察署襲撃のためL研の者たちが巣鴨、池袋付近に参集していた日でもある。

したがって、製造可能日として残されるのは、一〇日、一一日、一二日となるが、これらの日は各自白と大きくかけはなれている。

結局、検察官は、当時収集可能であった資料を何ら収集せず、また、各自白を検討することなく、製造日も特定することができなかったにもかかわらず、漫然と起訴したのである。

<3> 製造参加者

I 自白の合理性の欠如

まず、ピース缶爆弾製造は、いわゆる武装闘争のための手製爆弾の製造という非合法活動であって、性質上、極秘裡に行われるべきものである。したがって、これに参加させる者は、発覚を厳に防ぐためにも、秘密を漏らすおそれのない信頼のおける最小限度の者に限られてしかるべきである。しかるに、首謀者とされる増渕らが、その当時、例えば内藤や石井に対して、それほどまでの信頼感を抱いていたとは甚だ考え難い。しかも、本件ピース缶爆弾は、比較的簡単な構造のものであるから、その製造工程が複雑であったはずはなく、右のような者まで参加させなければならない程に多くの人数を必要としたとも考えられない。加えて、爆弾の製造場所とされる河田町アジトは、独立家屋とか外部と遮断された堅固なアパートの一室とかでなく、単なる間借りであって、玄関を家主と共通にしており、その広さは四畳半と二畳の続き間で、当時、右アジトに置かれていた長机、本棚等の占めるスペースを除けば、実質は五・五畳程度に過ぎず、その上、家主の使用する部屋との境は壁一枚、一部は襖一枚で仕切られているだけであった。そして、検察官の主張するところによれば、そのような狭い場所に、製造作業開始前十数名の者が全員入り込んで増渕らの説明を受け、その後、屋外に出たというレポ担当者らを除いても、十名近くの者がそのまま残留し、右室内に裏返したパン運送用の木箱や爆弾材料あるいは使用する器具等を置いて、薬品の調合、ピース缶への充填等の製造作業に従事したということになるのであるが、いかにも窮屈であって、果して、そのような作業をするだけの余地があったかどうかすら心もとない。また、このような間借り人の部屋に十数名の者が集合し、何名かの者が出たり入ったりするということになれば、当然家主の不審を招くおそれが大である。

もし、真実このような形で本件製造が実行されたのであれば、爆弾製造作業としては、余りにも密行性を欠いたやり方であり、非現実的なまでに安直な発想によるものとせざるを得ず、その場で発覚しなかったことが、むしろ奇異でさえある(以上の点は五部判決も指摘するところである。)。

また、平野が製造参加者とされているが、平野は身体障害のため、座って作業するには背中を壁等の固定物にもたれかからせた上、足を前方に投げ出し、しかも身体の正面間近に座卓を引き寄せてその上で作業するという特異な姿勢を保持しなければならないが、平野の作業姿勢に関し、誰も供述していない。

したがって、右に述べた自白内容に照らせば、検察官は、自白の信用性につき当然疑問を持ち、起訴すべきではなかった。

II 各自白の問題点

製造当日、平野及び内藤が河田町アジトに来た状況について、佐古、内藤及び石井の各自白がいずれも具体的かつ明確であって、記憶の希薄化あるいは混同を思わせる表現は見られないにもかかわらず、相互に著しい食い違いを示している。すなわち、佐古及び内藤の供述は、二人が出会ったこと自体については一致しているものの、出会った場所及び出会った時点が相違し、また、内藤供述は、途中石井と出会ったとは述べない点で、石井供述と食い違う。

佐古の供述する参加者は、後の供述になるに従い、次第に数を増し、当初五名(ないし七名位)と供述していたものが、最終的には一三名と約二倍に達している。時日の経過による記憶の希薄化を十分に考慮しても、一三名の内六ないし八名もの存在を忘失し、また想起するというのは不自然であるばかりか、その想起の具体的なきっかけも明らかでない。

III 結論

参加状況という重要な事項につき、右に述べたように区々に各供述が分かれ、かつ、一人の供述が変遷していることは極めて奇異である。特に、佐古自白においては、前記IIに述べた参加者の増加という問題点があり、検察官が、その不自然さに留意しなかったことは理解し難いというべきである。更に、前記Iに述べたように、五・五畳程の部屋に一〇名程の者が集まって爆弾を製造したという自白内容は不合理かつ不自然なものというべきであり、かつ、通常、爆弾製造は密行性を帯びる行為というべきであって、このような筋書きは荒唐無稽というべきである。

したがって、検察官が通常人の常識を持っていれば、本件は起訴にならなかったというべきである。

<4> 爆弾材料及び使用器具

I ダイナマイト、工業用雷管及び導火線

ダイナマイト、工業用雷管及び導火線の入手に関する佐古、村松、増渕及び前原の各自白には次のような問題点がある。

村松は、製造前日、早稲田アジトから新聞紙に包まれた物を河田町アジトに持ち込み、同アジトにおいて包みを開きダイナマイト等を見たが、その際、増渕、前原及び佐古らも同席したと供述する。しかし、佐古及び増渕は右状況を全く供述せず、また、前原の自白は、住吉町アジトにおいてダイナマイト等を目撃したというものであって、大きく相違する。右供述の不一致は、その供述内容に照らし、記憶の混同によるものと見ることはできず、村松の右供述の信用性には大いに疑問がある。さらに、村松は、縦一〇センチメートル、横二〇センチメートル、厚さ四センチメートルの新聞紙包みの中に、長さ二〇センチメートル、直径二センチメートルのダイナマイトが二〇ないし三〇本位の他、雷管や導火線が入っていたと具体的に供述するけれども、村松が供述するダイナマイトが入っていたのであれば、新聞紙包みは少なくとも二倍以上の大きさであるはずであって、右供述自体に矛盾がある。

前原の自白は、前記のとおり、住吉町アジトでの謀議の際、ダイナマイト等を目撃したというものであって、佐古、村松及び増渕の各自白と大きく相違する。前原の右自白は、目撃した際の描写が極めて具体的で、かつ、住吉町アジトにおける導火線燃焼実験とも結びついていると思われ、簡単に記憶違いとすることはできない。結局、前原が早稲田アジトからのダイナマイト等の入手について供述しないことには大きな疑問がある。

仮に、村松らが早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行ったとしても、右ダイナマイト等がさらにそれ以前、どこからどのようにして入手されたものかについて触れる増渕及び佐古の自白には、次のような疑問があり、他に確たる証拠がない。

この点に関する増渕の自白は、具体性に欠けるとともに裏付けがない。ダイナマイトの入手先という極めて重要な事項に関し、このような曖昧な自白しかないのは不自然であり、かつ、何の裏付けもないことは、捜査の杜撰さを意味する。検察官は、何らチェックもせずに漫然と起訴している。

また佐古の自白は、一見増渕自白に似ているが、盗取行為に増渕が参加したと供述する点で増渕自白と相違する。さらに右供述についてなされた引当り捜査は成功せず、盗取行為に相当する被害届もなく、使用したレンタカーの借り出しについての裏付けもない。検察官としては、何故引当りが成功しなかったのか、レンタカーの借り出しについての裏付けもないのか、検討すべきであった。

ピース缶爆弾製造にとって重要なダイナマイトの入手先に関する右のような問題点は、本件起訴を取り止めるべき重要な事実である。

さらに、佐古、前原、村松、内藤及び増渕は目撃したダイナマイト一本の大きさについて供述するが、各供述にはかなりの食い違いがあり、検察官は、この点に十分留意すべきであった。

II ピース缶

佐古のピース缶の入手に関する供述は具体的であって、記憶の混同があるとは認め難いが、大学毎に収集要員を決めたと供述する点は、佐古の他誰も述べる者がなく、また東薬大へ前原と同行したと供述する点も、前原自身は供述しない。また、佐古は東薬大社研メンバーを介してピース缶を集めたとするが、第三者、ことに佐古自白によれば闘争意識の低いとされる社研メンバーにピース缶を集めさせれば、後日ピース缶爆弾に関する報道等がなされた場合に、当該社研メンバーからさかのぼって不審を抱かれる素地を残すこととなり、そこから発覚するおそれもあることを考えると、佐古の自白には合理性がない。

前記(1)で述べたように、一連のピース缶爆弾のうち八個については、ピース缶の缶番号が判明しており、内五個が「9S171」、二個が「9T211」、残り一個が「8W281」であって、右番号はピース缶の製造年月日及び製造場所を示すものである。佐古、前原及び増渕の各自白のように、缶入りたばこを購入することなく、空き缶だけを手分けして集めたのであれば、右のように缶番号が一致することは確立論的には到底考えられず、かつ、たばこを購入せずに缶だけを十数個も集めてくることは一般に困難ではないかと考えられることに照らすと、右ピース缶については、ある程度一括して購入されたものと認めるのが合理的である。その意味で、佐古、前原及び増渕(さらに村松)のこの点に関する各自白の信用性はない。

III パチンコ玉

佐古の自白は不自然に変遷している。すなわち、爆弾材料としてのパチンコ玉の入手という印象的な事柄であり、かつ、入手先の新宿ゲームセンターは新宿三越デパートの一階という比較的特徴のある場所に位置していることを考えると、仮に記憶の希薄化を来したとしても、おおよその所在地まで忘失してしまうということは考え難く、また、同行した者についても記憶に残りやすいのではないかと考えられる。それにもかかわらず、入手先であるパチンコ店についての佐古の引当り前の供述は客観的事実と全く相違する。さらに、同行した者についても、当初は村松と行ったと供述していたのに、その後村松と行った他にも前原と行った旨供述を動揺させ、最終的には前原と行った旨供述を変更する。以上のような供述の変遷は、佐古が次第に正しい記憶を喚起していった過程と見ることはできない。

パチンコ玉を入手した日時に関する佐古及び前原の最終的自白を見ると、佐古は製造日当日の午前中というのに対し、前原は住吉町アジトにおける謀議の日かその翌日の午後七時ころというのであって、大きく相違する。右相違は事柄の重要性を考えると、記憶の混同によるものと見ることはできない。

IV 塩素酸カリウム

アメ文事件のピース缶爆弾には、爆薬としてダイナマイトの他に塩素酸カリウムと砂糖の混合物が加えられている。塩素酸カリウムの入手方法について、佐古及び増渕の各自白と前原の自白と大きく異なる。また佐古自白と増渕自白は、村松が河田町アジトに持ち込んだとする点では一致するものの、増渕自白は、村松が製造当日持ち込んだというニュアンスの点で佐古自白と異なる。爆弾材料の主要なもののひとつである塩素酸カリウムの入手状況について各自白間に右のような重大な違いが存していたのであるから、検察官は、これら自白の信用性に疑問を抱くべきであった。

V 砂糖

砂糖の入手状況について佐古及び前原が自白するが、その内容は大きく異なり、同一の事象の体験を語るものとは到底考えられない。検察官が自白調書のチェックを何らしないまま、漫然と起訴した疑いが極めて強い。

VI ガムテープ

本件ピース缶爆弾には、茶色及び青色の二種類のガムテープが使用されているが、右二種類のガムテープが使用されたと述べるのは前原だけである。青色ガムテープは日常見かけないものであって、印象的で記憶に残りやすいと考えられるが、青色ガムテープを使用したと供述するのが、前原一人であったのであるから、検察官は自白の信用性につき当然疑問を感じるべきであった。

茶色ガムテープの入手状況については、佐古及び前原の自白は一致するが、村松の自白は異なる。また、青色ガムテープの入手状況について供述する者がいなかったことは、まことに奇異なことである。青色ガムテープが日常見かけないものであることから、検察官は入手状況を調査し、ひいては、本件と被疑者らに何ら関係がないことを了知すべきであった。

増渕自白は、缶体と蓋の固定にビニールテープを使用したというのであって、客観的事実に反する。検察官がこの点を看過し起訴したことは、明らかな不注意である。

VII その他の薬品及び使用器具等

佐古、村松及び内藤は、本件製造に関連して黒色火薬、濃硫酸、ピクリン酸及びニトロ系薬品の準備を供述するが、いずれも本件ピース缶爆弾とは無関係であり、かつ、これらについては他に同旨の供述もない。また、内藤が供述する使用器具についても、その多くはピース缶爆弾の製造には必ずしも必要なものとは考えられず、かつ、乳鉢を除いては他に同旨の供述もない。以上の諸点のほか、爆弾製造に当たっては、その構造等について事前に十分検討し、爆弾材料や使用器具を決定した上、実行に移すものと考えられ、製造現場において爆弾製造に無意味なものが持ち込まれることは通常考え難いことに照らすと、右各供述の信用性には疑問がある。

検察官が関係証拠を慎重に吟味検討すれば、本件ピース缶爆弾製造と全く関係ない材料や器具が次々と自白によって出現していることに不審の念を抱くはずである。検察官は公訴を提起するに当たり、自白の信用性に疑問を抱くべきであった。

<5> 製造の実行

I 爆弾の構造と添加物

内藤の爆弾の構造に関する自白は特異なもので、客観的事実と大きく異なる。また、ダイナマイトは微黄色で、固さは糊よりもはるかに固く羊羹に近い感じのものであるから、内藤が供述する「褐色のブヨブヨした糊様のもの」は、ダイナマイトと色、形状とも異なる。内藤の右供述態度を見れば、内藤はピース缶爆弾の構造を何ら知らないことが明らかである。検察官は、内藤の客観的事実に全く反する右自白を見れば、当然自白の信用性につき疑問を感ずるべきであった。

本件に関連すると認められる一連のピース缶爆弾一三個(琵琶湖に解体投棄された一個を含む。)のうち、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加充填されていたことが明らかなものは、アメ文事件のピース缶爆弾一個であり、その可能性があるものは京都公安調査局事件のピース缶爆弾一個であって、添加物があるのは最大限二個である。

前原は、塩素酸カリウムと砂糖の混合物の充填を明確に述べ、佐古も薬品と砂糖を混合したものを充填したと客観的事実に近い供述をするのに対し、村松は白い粉を入れたと述べ、増渕は塩素酸カリウムを充填したと供述し、砂糖との混合について述べない。塩素酸カリウムは混合火薬の酸化剤として用いるものであって、増渕あるいは村松が砂糖との混合を述べないのは不自然である。なお、内藤の自白は、爆薬についてはダイナマイトよりも混合薬品を主体とするかの如き特異な供述である。さらに、佐古、前原、村松及び増渕の各供述は、製造したピース缶爆弾の少なくとも大部分に右混合物ないし白色粉末を添加充填したとの趣旨に解せられるべきものであって、右混合物が充填されているものがむしろ例外的である右客観的事実と食い違う。

佐古及び村松はピース缶爆弾の構造につき、最終的にほぼ客観的事実に符合する供述をしたものの、佐古は中間的自白の段階でこれと異なる構造を述べており、村松は構造の一部に関して最後まで特異な供述に固執していた。すなわち、佐古は、当初、工業用雷管について供述しなかった。さらに、火薬に薬品を浸みこませたものをダイナマイトの上に添加した旨供述するが、右発想自体奇異であり、黒色火薬を入れたとする点は村松の供述する状況と大きく異なるし、ほかに同旨の供述をする者もいない。結局、佐古の当初の供述は、内容がすこぶる不自然であって、佐古が供述当時、本当は爆弾というものの構造を知らなかったのではないかとの疑問を抱かせるものである。また、村松はピース缶爆弾に紙火薬を利用した手製の導火線が使われたかのような趣旨の供述をし、その後も紙火薬に固執した供述を行っている。右供述は、いうまでもなく客観的事実に反する。

II 作業の分担

作業の分担については、佐古、前原及び内藤の各自白が詳細であり、増渕及び村松の各自白も比較的詳細であるといえる。しかし、その割には供述内容の不一致が目立ち、各自白の信用性について疑問を生ぜしめている。また、自己の担当した作業内容については、爆弾製造という極めて非日常的な体験であることを考えると、記憶に強く印象されるはずである。検察官は、起訴するか否かを決定するに当たり、慎重に判断すべきであった。

すなわち、ダイナマイトをピース缶に充填する作業を担当した者について、佐古、前原、村松、増渕及び内藤の各供述は、それぞれかなりの食い違いを見せる。検察官が信用性が高いと評価する佐古、前原及び内藤の各自白をみても、その内容は大きく相違し、確定は到底しかねる状況である。また右各供述はそれぞれ複数の者の名を挙げるが、そのうち供述者本人が右作業を担当したというものは皆無である。さらに、本件ピース缶爆弾は一本一〇〇グラムのダイナマイト二本をそれぞれ約半分の長さに切るなどして充填したものであるところ、佐古は村松がダイナマイトを四本くらいピース缶に詰め込んでいたと供述し、切断されたとの供述はないのであって、切断の点では客観的事実に相違する。

パチンコ玉をダイナマイト内に充填する作業を担当した者について、佐古、前原、村松、増渕及び内藤の各供述は、ダイナマイトの切断及び充填作業の担当者と同様、それぞれかなりの食い違いを見せ、担当者を確定し難い状況にある。他方、供述者自身が右作業を担当したと自白する者は一人もいない。

佐古は、導火線と雷管の接続について、導火線の先端を少しほぐしてボンドをつけ、少し乾かしてから雷管をその中に押し込めるようにして接着し、ガムテープを巻いて補強した旨述べる。これは、導火線の一方の先端部に接着剤を塗布して雷管空管部に差し込んで接着させた客観的事実と全く逆の内容である。そもそも、導火線を工業用雷管空管部に挿入することは、接続作業の最も基本的な事柄であり、一度右作業に関与すれば、その点を忘失することなど到底考えられない。また、佐古が、ボンドによる接着及びガムテープによる補強という本件ピース缶爆弾についてとられている特徴的な手法について供述していることに照らすと、佐古が右の点について理解と記憶を有しながら、ことさら虚偽の内容を述べたとすることにも疑問がある。結局、佐古の右自白は、むしろ佐古が雷管について十分な知識がないこと、すなわち、導火線と雷管の接続作業を実際にしたことがないことを強く窺わせるものである。

塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の担当者について、佐古、前原及び内藤の各供述は、相互に食い違いを見せ、担当者を確定し難い状況にある。また前原は、自分が担当者であったとして作業方法を供述するが、右方法は危険この上ないものであって、少なくとも当時爆弾教本「薔薇の詩」に接していた増渕あるいは江口が、右方法を指示して行わせたとは到底考えられない。さらに、内藤の自白には、他の作業に比べ、薬品調合を担当した者が不自然に多い内容となっていること、堀及び江口が調合したとする「褐色のブヨブヨしたもの」については前期I記載の疑問があること、前原及び原告の薬品の調合に至っては、本件製造にいかなる意味を持つのか不明であること、内藤自身が混合した瓶入りの薬品二種類がピース缶爆弾に添加されたと供述するところ、ピース缶爆弾に添加されたのは塩素酸カリウムと砂糖の混合物以外にはあり得ず、薬学を専攻した内藤が薬品と砂糖を混同するなどとは考えられないこと等の疑問点がある。

ピース缶の蓋に穴をあける作業について、佐古及び前原は、いずれも自分が担当者の一人であったと供述し、作業方法についても、同じような方法を供述する。両名の供述は一見信用できるかのようでもあるが、他方、以下のような疑問がある。

まず、佐古及び前原の供述するような方法をとった場合、缶蓋に穴はあくものの、バリ(めくれ)の発生は免れ得ない。本件各ピース缶爆弾のうち、缶蓋の穴の形状が明らかなものは、八・九機事件及びアメ文事件の各爆弾並びに大菩薩峠事件の爆弾三個のうちの一個の合計三個であり、そのうち大菩薩峠事件に係る一個のバリは切断されていないように見受けられるが、八・九機事件及びアメ文事件の各爆弾については、発生したバリが金切りばさみ等で切断されているのであって、佐古及び前原がこの点について述べないのはいささか不自然である。缶蓋に穴をあけたことのみが記憶に残存し、バリの切断処理については記憶が希薄化したということも考えられるが、佐古はアメ文事件の証拠物を、前原は八・九機事件及びアメ文事件の各証拠物を、いずれも製造事件について自白する以前の段階で取調官から見せられているのであって、仮にバリに関する記憶が薄れていたとしても、その際、缶蓋の穴の形状を見れば、バリの切断処理についても容易に記憶喚起ができたはずと考えてよい。また、穴あけ作業を詳細に認めた以上、バリの切断という比較的些事をことさらに隠し立てする必要性にも乏しいと考えられる。このことは、佐古及び前原の右供述が真実の記憶に基づくものであるかを疑わせる事実である。

次に、佐古及び前原は、右穴あけ作業を路地脇の河田町アジト玄関前付近で行ったというのであるが、右作業は缶蓋の穴あけという一般人がこれを見れば、たちまち奇異に感じ不審を抱くべき性質のものである。河田町アジトの玄関は、家主と共通であって、右作業中家主が姿を見せるおそれが十分にあり、あるいは路地を通行する近隣の者があるかもしれず、密行性が強く要請される作業の場所としては、いかにも場当たり的で、何らの配慮も窺われず、非現実的である。右自白の真実性には少なからぬ疑問がある。

また、石井も穴あけ作業に関し供述するが、その内容は不自然に変遷し、かつ、中間的な自白はもとより、最終的自白内容も、佐古及び前原の各自白と大きく相違する。

本件ピース缶爆弾に使用されているガムテープは、青色ガムテープと茶色ガムテープの二種類であるが、導火線と工業用雷管の結合部に巻き付けられたガムテープの色が判明しているものは四個であり、それらはいずれも缶体そのものに巻かれたガムテープの色と一致している。前原は、前記<4>VIで述べたように、ただ一人青色ガムテープと茶色ガムテープの二種類が使用されたことを供述するが、使用方法について、「ピース缶に混合物を充填した後、ほぼ全員で、既に導火線を接続した雷管をピース缶の中央部に埋め込み、蓋の穴から導火線を通した上、蓋を接着剤で固定し、その上からガムテープを巻きつけた。この時、青色ガムテープが足りなくなって、一部に茶色のガムテープも使用した」旨供述する。右供述は、青色ガムテープのみを当初使用し、足りなくなって初めて茶色ガムテープを使用したという趣旨か、両方のガムテープを並行して使用していたが、青色ガムテープが先になくなったとの趣旨か、いささか判然としないが(もっとも、後者の趣旨であれば、青色ガムテープが先になくなったことをことさら述べる必要があるかは疑問があり、前者の可能性が高い。)前者であるならば結合部に巻かれたガムテープはすべて青色になるはずであって、雷管と導火線の結合部に巻かれているガムテープの色が判明している四個のピース缶爆弾のうち、中野坂上事件に係る一個は茶色である客観的事実に反する。また後者の趣旨であれば、缶体に巻き付けられたガムテープの色が確認できる九個のピース缶爆弾のうち、雷管と導火線の結合部に巻かれたガムテープの色が判明している四個のすべてにおいて、缶体のガムテープの色と右結合部のガムテープの色とが互いに一致するのはいささか偶然に過ぎよう。いずれにせよ、前原の右自白は証拠物の状態にそぐわず、真実性に乏しいものである。

レポ(見張り)に関する石井自白には以下のような疑問がある。

まず、本件ピース缶爆弾の製造は、事の性質上隠密裡に実行される必要があり、決して第三者に不審を抱かせぬよう十分な配慮のもとに行われるべきものであって、もとよりレポも例外ではない。ところが、石井自白によれば、石井は、昼過ぎころから夕方まで、パン屋の角に立ち、あるいは富岡及び元山と三人でパイプ管方式と称してパン屋角から河田町アジト横までの区間を等間隔に立ってレポしたというのである。右レポ方法は、長時間にわたる場合には、かえって人目を引き、パン屋の従業員や近隣居住者、通行人等に不審を抱かせるに十分であり、レポの趣旨に大きく背馳するものであって、現実的でなく、不自然極まりない。また、パイプ管方式と称して石井ら三名が等間隔に並んだとする点も、パン屋の角から河田町アジト横までは約一八メートル弱に過ぎず、三名が並ぶ必要は全くないことに照らし、まことに不自然、不合理なレポ方法としなければならない。さらに、石井自白によれば、先端レポの国井及び原告との連絡方法は、国井らにおいて、道路横断用の黄色い旗を持って行っており、その旗で合図をすることになっていたというのであって、このような人目を引き、不審感を招きやすいと思われる連絡方法をとるというのは奇妙であり、不自然である。

次に、石井は昭和四八年三月一三日、製造事件により逮捕され、勾留後、同年四月一日に至りようやく詳細な自白をするのであるが、石井は元来活動家というのではなく、当時同棲していた村松にいわば引きずられる形でL研に出入りしていたものと認められ、昭和四六年五月ころ村松と別れてからは両親のもとに帰り、活動には一切関与していなかった。このように取調べに対する石井の抵抗力はさまで強いものとは認められないことに照らすと、自白の時期が右のとおり遅いのは、製造に参加したことを頑強に秘匿していたというよりも、自白すべき事実を持たなかったことによるのではないかとの見方が成り立つ。また、石井の供述は、富岡及び元山の参加並びに国井らとの連絡方法の点を除き、佐古の三月九日付け各員面調書(及び同月二六日付け検面調書)に酷似している。佐古の右供述もまことに不自然な内容であって、石井供述と佐古供述との酷似が、同一の現実体験についての供述であるが故の一致ではなく、石井が佐古の右供述に基づいて追求を受けた結果、これに合わせて供述をしたためであることを窺わせる。

以上述べたように、作業の分担という極めて重要な事項について、これだけ供述の信用性に問題があったのであるから、検察官が、関係証拠を慎重に吟味検討すれば、当然に自白の信用性について多大な疑問を持ったはずである。

<6> 完成品の処分

I 自白の相互不一致

佐古、村松及び内藤の各自白は、爆弾は製造当日河田町アジトから搬出されたというのに対し、前原の自白は、一〇月二一日まで河田町アジトに保管されていたものがあるというのであって、大きく相違する。増渕の自白も一〇月二一日までに赤軍派に渡っていないというものであって、その点では前原自白に近い内容ともいえるが、同日の爆弾搬出状況に関して述べるところが前原自白とは全く符号しない。

II 内藤自白の問題点

内藤は、花園が爆弾を取りに来た旨述べる。しかし内藤は、三月一〇日、八・九機事件について濱田検察官の取調べを受けた際、花園の写真を呈示されながら、それが誰であるか見分けがつかなかったくらいであるから、右供述の信用性には多大の疑問がある。なお、この点については村松自白が先行しており、かつ、内藤は当初爆弾の搬出について何も述べていなかったのに、三月二五日付け員面調書に至り初めて右供述をしたものであることを考えると、内藤は村松自白を基に追求され、安易にこれに迎合した可能性が強い。

III 客観的事実との不整合(前原及び増渕自白)

前記一の2の(二)記載のとおり、一〇月二一日ころ、赤軍派の若宮正則らによって、東京都渋谷区千駄ヶ谷所在の日本デザインスクール寮の中條某の居室に菓子箱二個に収納されたピース管爆弾が搬入され、その後東薬大に運ばれている。前原及び増渕の自白は、その内容が右事実と抵触するように見受けられ、真実性に疑問がある。ことに、前原は、当初、製造当日の爆弾搬出を述べず、一〇月二一日に東薬大近くの赤軍派アジトで花園に手渡したと供述していたのに、後に、製造当日に赤軍派の者が一部を持ち出した旨供述するに至る。一〇月二一日のことは覚えているのに製造当日の搬出は忘れているというのも奇妙なことであり、右供述経過を、正しい記憶を次第に喚起していった過程と見ることは困難である。その反面、前原が記憶に反し、ことさらに製造当日の搬出のみを隠し立てしたと考えることは、そのようなことをすべき理由が見当たらないので、できない。前原の右供述の変遷は、当初の前原自白が佐古らの自白と大きく相違し、かつ、京都公安調査局事件と矛盾することに気付いた取調官によってその点が追求され、前原がこれに迎合していった結果であると見て差し支えない(以上の点は五部判決も指摘するところである。)。

(3) 各自白の信用性

前記(2)において述べたように、右各自白には、本件ピース缶爆弾製造の謀議状況をはじめ、製造の日時あるいは製造参加者、材料や使用された器具、さらには具体的な製造作業や完成品の処分をめぐって、深刻な疑問点が多数含まれている。

自白についての疑問点は、例えば、自白内容と客観的証拠によって認められる事実との不整合、同一の事象についての共通の認識を示すものであるはずなのに、到底そうとは考えられない程の供述の相互不一致、自白された事柄と相いれず、その真実性を疑わせるようなアリバイその他の事実の存在、想起あるいは改悛によって次第に真実が明らかにされていったものとは認め難いほどに顕著かつ不自然な供述の変遷というように様々であって、その中には、個別的に見れば、当初からの認識の誤りや欠如、本件の時点から自白の時期に至るまでの時日の経過による記憶の変容あるいは消失、ことさらな虚言ないし真実の秘匿等として説明できるように思われるものもないではないが、そのように断定するに足りる根拠はなく、むしろ、かくも多数かつ多様な疑問点が、これほどまでに関連自白の全般にわたって存在し、しかもそれらが各自白の根幹をなす部分にまで及んでいる以上、もはや、各自白は真実を反映するものではないと評価すべきである。各自白はいずれも信用性を著しく欠くものとしなければならない。

(4) まとめ

五部判決は、製造事件に被告人四名が関与したとする各自白(菊井証言を含む)は、いずれもその信用性が極めて乏しく、これをもって製造事件と被告人四名との結び付きの確証とすることは到底できないとする。

被告人らと製造事件との関係を否定する客観的証拠が多数存在し、かつ、その客観的証拠に反する点が自白全般にわたって無数に存在していたのである。しかも自白相互間の不一致及び一人の人間における自白の変遷は、目をおおうばかりである。そして原告についていえば、共犯者とされた者の自白はあったものの、原告自身の自白は全くなかったのである。

検察官が右事実に留意しなかったことは、不可解ですらある。常識に欠ける本件公訴提起は、検察官が、当時、初歩的な注意義務さえ払わなかったことを明瞭に示している。以上により、被告親崎の行為は、どの観点からも適法な職務行為とは到底いえないのである。

3 公訴追行・維持の違法

(一) 公訴の追行・維持と検察官の職責に関する考察

公訴提起だけでなく、公訴の維持・追行も検察官の裁量的権限に属する。しかし、公益の代表者としての検察官には法の正当な適用を請求する義務があり(客観義務。検察庁法四条、刑事訴訟規則一条二項参照)、事案の真相を解明すべき真実義務(刑事訴訟法一条参照)が課せられている。

右客観義務及び真実義務からすると、検察官は、公訴の追行・維持にあたって、公益の代表者として、被告人に有利となる事項についても考慮しなければならず、被告人に有利な証拠をも開示することが義務づけられるほか、全ての証拠を客観的、合理的に総合評価し、有罪判決を得る合理的な見込みがない場合は、公訴の維持にこだわることなく、公訴の取消を行うか(刑事訴訟法二五七条)、あるいは無罪の意見を述べる等の相当な処置に出るべきであって、いずれにしても速やかに被告人を裁判手続から解放すべきなのである。

(二) 公訴追行・維持の違法を基礎付ける視点

公訴の提起自体が違法であるならば、その後新たに有罪を基礎付ける証拠が出現しない限り、公訴の追行・維持は当然に違法である。本件は前記2で述べたように公訴提起自体が違法であって、しかも新たに有罪を基礎付ける有力な証拠は全くといってよいほど得られていない。したがって、本件公訴追行・維持は当然に違法である。

また、公訴提起時の事情に加えて、その後さらに有罪の基礎付けを疑わしめ、あるいは無罪を基礎付ける事情の加重があれば、公訴の追行・維持は、それ自体が新たに違法となるか、あるいはその違法性が一層強度のものとなる。

(三) 本件における公訴追行・維持の違法

(1) 概観

<1> 被告人及び弁護人らの反証活動の成功

本件公判審理の全過程を通じて、被告人及び弁護人らは、検察官の主張に覆いがたい矛盾や欠陥が存することを明らかにするとともに、被告人らが無実であることを証明する多数の証拠を顕出した。その結果、検察官の主張の虚構性はますます明白となっていった。特に、検察官の主張には次のような致命的欠陥、初歩的な過ちが存することが、弁護人らの反証活動を通じて明らかになった。

I 検察官の主張は基本的に自白のみに依存するものであり、客観的事実や証拠物等の客観的証拠に基づかないものであること

II その結果、自白と右客観的事実や証拠との間に多くの矛盾が生じたこと

III 本件が十数個のピース缶爆弾を製造し、かつ、これを使用したとされる事件であるにもかかわらず、それら爆弾の流れが全く解明されておらず、かえって検察官においては、自白との矛盾が表面化するのをおそれる余り、爆弾の流れを敢えて黙殺したのではないかと考えられること

<2> 自白と客観的事実・証拠との矛盾

検察官は、本件ピース缶事件においても、自白を証拠の王とあがめ、客観的事実・証拠との照合を怠るという冤罪事件特有の初歩的過ちに陥っている。被告人及び弁護人の反証活動により、本件公判廷に数多くの客観的事実・証拠が顕出され、被告人らの自白との間に次のような覆いがたい矛盾の存することが明らかになった。

製造事件については、石井アリバイ及び江口アリバイ等の決定的ともいえる事実が明らかにされた。またピース缶等爆弾の製造材料との関連で、自白との矛盾や不自然な点が多数存在することが明らかにされた。さらに、河田町アジトの現場検証等を通じて、そもそも右場所が犯行場所たりえないことさえ明白になった。

八・九機事件については、目撃者らの目撃状況や犯行・逃走現場の状況に照らし、犯人の数という最も基本的で重要な点について、被告人らの自白や検察官の主張に重大な矛盾の存することが明らかになった。また鑑定人らの証言等を通じて、導火線燃焼実験との関係で被告人らの自白の信用性に重大な疑義が生じた。

アメ文事件については、佐古アリバイ、国井アリバイ及び村松アリバイ等の重大な反証がなされた。またダンボール箱製造状況との関連で、佐古及び前原らの自白にはほとんど決定的ともいえる重大な矛盾の存することが明らかになったほか、時限装置の形状及び作動状況並びに電池と雷管の結線状況についても、被告人らの自白と証拠物との間に大きな矛盾齟齬の存することが明らかになった。

以上の客観的事実は捜査段階でさえ容易に判明しえたものである。しかるに、検察官からは、捜査段階でそれを怠ったばかりでなく、公判廷で右事実が明らかになった以降も、原告が無実であることを知り、または容易に知り得たにもかかわらず、あえて原告の有罪を主張して公訴を維持・追行した。

<3> 爆弾の流れの未解明と検察官主張の崩壊

検察官の主張は、爆弾製造日時の点で重大な疑義を生じ、これに関する訴因変更請求の時点で基本的に瓦解した。さらに若宮真犯人証言及び牧田真犯人証言によって虚構の崩壊は決定的でかつ最終的なものとなった。本件ピース缶爆弾事件の捜査当時、高度の類似性を有し、同一人あるいは同一のグループないしこれに準ずる者らによって製造されたものである蓋然性が極めて高いピース缶爆弾一三個の存在が具体的に判明していた。しかし、検察官は、このうち八・九機事件及びアメ文事件の各一個の計二個についてのみその流れを解明したにとどまり、その余の一一個については、本件製造以後の流れの解明を敢えて放棄した。

検察官が、京都公安調査局事件に係るピース缶爆弾二個の流れを解明していれば、製造日時の特定に関し訴因変更請求することはなかったであろうし、また、一〇月一六日ころに製造したとする被告人らの自白が虚偽であることを容易に喝破できたはずである。さらに、右二個の爆弾を大村寿雄に交付したのは牧田である蓋然性が極めて高く、牧田がその製造にも何らかの形で関与したのではないかと強く窺われるところ、関係記録をつぶさに検討すれば、このような観点から牧田、三潴及び大村らの関与を追及する手掛かりが重分に得られていた。しかし、検察官は、弁護人らからこの点を指摘され、京都公安調査局事件の一件記録が公判廷に顕出された後も、これを一切黙殺しようとした。そればかりか、右京都公安調査局事件に係るピース缶爆弾二個が被告人らの製造によるものであるか否かについてさえ、主張を二転三転させる等、無理な公判維持に努めた。

次に、中野坂上事件に係るピース缶爆弾三個は、昭和四四年一〇月二一日当日の正午前後ころ中條の居室で開かれた赤軍派の戦術会議に持ち込まれたピース缶爆弾一二個の一部であるところ、この点についても、若宮らの証言をまつまでもなく、酒井隆樹、大川保夫、木村一夫及び大桑隆らの供述を手がかりに容易に解明することができた。同様に、出口光一郎及び木村一夫らの供述を手掛かりに大菩薩峠事件に係る三個の流れが解明され、松戸市岡崎アパート事件に係る二個が赤軍派アジトで発見されたことが判明していた以上、これら一連のピース缶爆弾一二個が、少なくともある段階以降、完全に赤軍派の占有支配下におかれていたことは容易に推察できたはずである。そして、右中條住宅室に持ち込まれた右一二個のピース缶爆弾のそれ以降の流通経路を丹念に追跡していけば、八・九機事件及びアメ文事件を含む一連のピース缶爆弾事件の全体像を掌握することができたであろう。しかし、検察官は弁護人からこの点についても指摘を受け、福ちゃん荘事件等における赤軍派関係者の供述調書及び証言調書が顕出された後も、八・九機事件とアメ文事件のわずか二個の爆弾に関する被告人らの自白のみを根拠に、あくまでL研グループの犯行と決めつけて、公訴を維持・追行してきたのである。

増収賄事件や横領事件と同様に、爆弾の製造・使用事件であれば、製造から使用に至る一連の経路を解明することは、捜査、公訴提起及び公訴の追行・維持の基本である。被告人及び弁護人らの反証活動により、この点における捜査の杜撰さが誰の眼にも明らかになった以上、検察官は公訴を取り消すか、あるいは直ちに無罪の意見を述べて被告人を速やかに裁判手続から解放すべきであった。

<4> 検察官の基本的姿勢・態度

以上の点は、公判審理の比較的早い段階から明らかにされ、公判審理が進行するにつれ弁護側の反証の成功はますます明瞭となっていった。そして弁護人らは直ちに公訴を取り消すか、さもなくば無罪の論告をなすべきことを再三にわたって求めてきた。ところが、検察官は、弁護側の反証の成功に対し、証拠や客観的事実をもって再反論するのではなく、その主張自体を拡散させ、曖昧にし、あるいは主張を二転三転させることによって、有罪の主張を維持しようとし、実体的真実発見の義務に真っ向から反する行為を反復継続した。例えば、製造事件については、「一〇月中旬ころ」に訴因変更請求して主張を拡散させたほか、京都公安調査局事件に係るピース缶爆弾二個が被告人らの製造に係るものであるか否かについては主張を二転三転させた。また、八・九機事件については、「投てき班四人説・二方向逃走説」を展開した。このようなことは、公益の代表者としての検察官のとるべき姿勢・態度としては、とうてい許されない。検察官の右一連の行為は明白な違法行為であり、もはや単なる過失というにとどまらず、故意とも言うべき暴挙である。

(2) 製造事件の訴因変更請求の違法

<1> 製造事件の訴因変更請求に至るまで

I 冒頭手続における求釈明・釈明論争

起訟状記載の公訴事実及び検察官の冒頭陳述書記載の事実について、弁護人らは数多くの事項にわたって求釈明をなした。これに対する検察官の釈明はまことに不十分なものであった。そして、この求釈明・釈明論争を通じて検察官の主張には、犯罪を構成する重要な部分に矛盾や不明確な点があり、被告人らが真犯人であれば容易に判明しているはずの事実関係が曖昧なままであること、事件の筋書、展開に脈絡がなく、唐突な印象を免れないこと、製造された爆弾十数個の流れが全く明らかでないことのような問題点があることがわかった。

II 冒頭陳述追加補充の問題点

第一五回公判(昭和四九年九月五日)において、検察官の冒頭陳述追加補充がなされた。ここで検察官は前記Iの釈明論争で明らかになった爆弾十数個の流れの未解明の点を補うべく、中野坂上事件に係る三個、大菩薩峠事件に係る三個及び松戸市岡崎アパート事件に係る二個の使用状況を明らかにした。しかし、なぜか中大会館事件に係る一個及び京都公安調査局事件に係る二個については本件との関連を主張してきた。おそらく京都公安調査局事件に係る二個の存在とその流通経路が明らかになると、一〇月一六日ころに製造したという被告人らの自白に重大な疑義が生じ、公訴を維持できなくなることをおそれたのであろう。検察官は、この時点で既に、重大な事実を無視することによって公訴を追行・維持しようとした。また、右追加補充を立証するため請求された証拠は、いずれも大菩薩事件等に関連して既に昭和四四年ないし四五年段階で入手されていた。

III 石井アリバイ

第一五回(昭和四九年九月五日)ないし第一八回公判(同年一〇月二一日)における石井の証人尋問の結果、石井の製造事件への関与を否定する重大なアリバイの存することが明らかになった。右アリバイによって被告人らの自白の信用性に重大な疑義が生じたのであるから、検察官としては、この時点で、事件全体を見直し、証拠を総合的客観的に再吟味した上、公訴の追行・維持の当否につき根本的に再検討をなすべきであった。しかし、検察官はこれを怠った。

IV 江口アリバイ

第三一回公判(昭和五〇年一〇月二九日)における証人江口の証言により、製造事件に関与したとされる同人にアリバイの存することが明らかになった。江口アリバイは、その後の公判審理を通じ、川添豊の証言(九部第二八三回公判)及び庭山正一郎の証言(同第二八五回)等によってさらに強固な裏付けを得ていくのであるが、当時検察官としても、容易に右アリバイを確認できたはずである。しかし、検察官はこれを怠った。

V 河田町アジトの現場検証

弁護人の昭和五一年六月二二日付け証拠調請求に基づき行われた第四五回公判(昭和五一年九月二日)終了後の現場検証において、本件製造現場とされる河田町アジトが、爆弾製造現場としては余りにも密行性を欠くことが明らかになった。このことは、被告人らの自白の信用性に重大な疑義をなげかけた。

VI その他自白の信用性を疑わしめる事実

第六〇回公判(昭和五二年六月二八日)までに、遺留物である爆弾等の証拠物を鑑定した横川、福山、飯田、徳永及び三宅らの鑑定人の証人尋問がなされ、導火線の点火方法、導火線が燃焼した場合の状況及び時限装置の構造やセット方法等に関連して、被告人らの自白の真偽を判断する重要な手掛かりが与えられた。また、弁護人らの昭和五一年一一月二五日付け証拠調請求に基づき、ピース缶の底面の刻印番号との関連で、ピース缶の入手方法につき被告人らの自白に重大な疑義が投げかけられ、弁護人らの昭和五三年二月二四日付け証拠調請求に基づき、ダンボール箱の製造状況に関連し、赤銅色の金属製の針が業務用ステッチャーによって打ち込まれたものではないかとの観点から、被告人らの自白に重大な疑義が投げかけられた。そして弁護人らの主張に沿う証拠が公判廷に顕出された。

このようにして、検察官の主張は客観的事実や証拠物との関連での詰めが著しく甘く、杜撰なものであることが徐々に明らかになっていった。

<2> 製造事件の訴因変更請求の違法

I 訴因変更請求に至る経緯

弁護人らは、早くから本件ピース缶爆弾事件と京都公安調査局事件との関連を指摘し、第五〇回公判(昭和五一年一一月二五日)において京都公安調査局事件の公判記録の取寄を請求し、第七〇回公判(昭和五三年二月二四日)において右記録の証拠調請求をなした。右記録は第七七回公判(同年七月一四日)において取り調べられた。

これに対し、検察官は、第七五回公判(同年六月二日)において、突如として製造事件の訴因変更請求をなし、「昭和四四年一〇月中旬ころ」製造したと主張するに至った。さらに、右訴因変更の理由につき、第七六回公判(同年六月二六日)において、釈明書を提出し、本件ピース缶爆弾製造日時の特定はもっぱら被告人ら実行行為担当者の記憶をたよりになされており、これを根拠づける合理的事実の裏付けに乏しかったものであるところ、右京都公安調査局事件の捜査結果から、訴因変更請求書記載事実のとおり日時を変更するのが合理的であると思料されるに至ったので、訴因変更請求に及んだ旨述べた。

II 右訴因変更請求の違法

検察官は、これまで曖昧にしてきた八・九機事件及びアメ文事件と右京都公安調査局事件との関連を右変更請求によって初めて認めた。また、これまでの公訴提起及び追行・維持が被告人らの自白のみに依存しており、しかもそれが全く客観的事実の裏付けを持たないものであることを自認するに至った。そして、本件と京都公安調査局事件との関連を肯定することは、これまでの検察官主張の基本的筋書や枠組自体が崩壊したことを意味する。したがって、検察官は、もはや本件公訴追行・維持を断念するほかなかったはずである。

しかも前記<1>のIないしVで述べたように、製造事件については有力なアリバイや反証がなされて被告人らの自白に重大な疑義が投げかけられ、しかも八・九機事件及びアメ文事件の自白にもいくつかの観点から疑いがさしはさまれていたのであるから、右のように京都公安調査局事件との関連で検察官のつくりあげた事件の筋書、事件の基本的構造自体がほとんど決定的ともいえる破綻を遂げた以上、これ以上の訴訟追行・維持に無理があることはだれの眼にも明らかであった。

しかし、検察官は、あえて無謀な公訴追行・維持に挑み、その後論告に至るまで、本件と京都公安調査局事件との関連につき、主張をさらに二転三転させていくのである。

(3) 八・九機事件若宮真犯人証言

<1> 若宮真犯人証言に至る経緯

検察官は、第一五回公判において、冒頭陳述追加補充をなすとともに、福ちゃん荘事件関係記録の証拠調請求をなした。右記録は第八七回公判(昭和五四年三月二七日)において取り調べられた。これにともない、右事件に関与した赤軍派関係者である木村一夫、大桑隆、大川保夫、酒井隆樹、荒木久樹、前田祐一、出口公一郎及び若宮正則らにつき、検察官申請または弁護人申請ないしは双方申請による証拠調請求がなされ、第八六回公判(同年三月九日)の証人木村一夫を筆頭に、大部分の者が順次証人として取り調べられるに至った。

そして既に昭和四四年当時に入手されていた福ちゃん荘事件の記録により、昭和四四年一〇月二一日正午前後ころピース缶爆弾一二個が中條宅で開かれた赤軍派の戦術会議に持ち込まれていたことが明らかになっていた(同時に導火線切り縮めという重要な手掛かりも明らかにされていた。)が、右一連の証人調べにより、ピース缶爆弾一二個の流れの詳細がさらに解明されようとしていた。

このような経緯の中で、第八七回公判(同年三月二七日)に出頭した証人荒木久義は、本件被告人らか無実であり、若宮正則が八・九機事件の真犯人であること、すなわち昭和四四年一〇月下旬、荒木、若宮及び遠藤こと古川経世らが大森アジトに居住し、そこから若宮と古川が犯行現場に赴き、若宮が実行し、古川が脱落していったという事件の真相を明らかにした。

続いて第八八回公判(同年四月一〇日)及び第八九回公判(同年五月一五日)において、証人若宮正則は、八・九機事件の真犯人として事件の全体を詳細に証言した。さらに第九二回公判(同年九月一八日)及び第九三回公判(同年一〇月五日)において、証人古川経世は、荒木及び若宮らの証言をさらに具体的に裏付けた。

<2> 若宮ら三証人の証言の信憑性

右各証言は、相互に内容が一致するのみではなく、真相を知る者のみが語り得る具体性、迫真性を有し、周囲の客観的状況とも正確に符合した極めて信憑性の高いものである。そして若宮証言は、単独犯行を示唆する目撃者らの証言とも合致しており、若宮が真犯人であることは疑いをさしはさむ余地がないほどまでに立証された。

<3> 検察官のとるべき態度

このように若宮らの証言による八・九機事件の真相が明らかになった以上、検察官としては、直ちに本件公訴追行・維持を断念すべきであった。製造事件に次いで八・九機事件についても検察官主張の虚構性が明らかになった以上、検察官がなお公訴を追行・維持するいかなる合理的理由も存しなかった。

しかるに、検察官は、右三名の証人尋問途上において、一方で裁判所及び弁護人に対し証人古川の住所は不明であると虚偽の報告をなしつつ、他方で古川の取調べを行う等の背信的行為に及ぶ等したものの、公判審理の見通しについて再吟味することもなく、あくまで公訴を追行・維持しようとした。そして昭和五五年六月六日付け意見書において、検察官は、「犯人は四名以上で、二方向に逃走した」なる珍説を展開するに至った。これは、被告人らの自白による犯人三名説と単独犯行を示唆する目撃証人の証言によっても裏付けられている若宮真犯人証言とをあえて結合させようとする意図に出たものではないかとさえ推察される奇怪な説であった。

(4) 本件ダンボール箱製造状況と村松アリバイ

<1> 本件ダンボール箱製造状況と村松アリバイ

アメ文事件に用いられた本件ダンボール箱の製造状況に関する前原及び佐古の自白については、前記(2)の<1>のVIで述べたように第七〇回公判(昭和五三年二月二四日)において既に疑義が表明されており、第七七回公判及び第七八回公判において、高橋文男の鑑定書、同人の証言及びその他の重要な証拠が法廷に顕出された。そして、本件ダンボール箱が既製の大型ダンボール箱の一隅を利用して作られた手製のものでないことが明らかにされた。すなわち、まことに具体的かつ詳細で、直接体験した者でなければ供述しえないかのような迫真性をもった外観を呈する本件ダンボール箱の製造状況に関する供述が、虚偽としか判断できないものであることが明白となった。

さらに、弁護人らは、いわゆるダンプ窃盗事件との関係で村松がアメ文事件に関与できないことを立証すべく、早くも第五〇回公判(昭和五一年一一月二五日)において、右ダンプ窃盗事件の記録取寄申請をなし、その後被告人村松の供述(第七九回公判)等を通じて、右村松アリバイの詳細を明らかにした。

<2> 本件ピース缶爆弾事件の虚構の崩壊

このようにして、製造事件に次いで、八・九機事件とアメ文事件の虚構性もあい前後して明白となっていき、検察官の起訴にかかる全ての訴因について、有罪を得られる見込みはほぼ完全に喪失した。公益の代表者たる検察官としては、いかなる躊躇もなく、公訴の追行・維持を断念すべきであった。しかし、検察官はこれを怠った。

(5) 虚構の究極的崩壊

<1> 製造事件における犯行日の不存在(ミナミ・エイトの休日)

昭和五六年六月九日における新宿簡裁出張尋問及び第一二一回公判(昭和五六年六月二四日)における斎藤都之、南君枝及び斉藤コウらの証言を通じて、ミナミ及びエイトの休日が明らかにされ、検察官主張にしたがっても、もはや製造事件の犯行日が存在しないことが立証された。

<2> 国井・佐古アリバイ

佐古靖典証言(第一五二回公判)及び国井啓子証言(第一五七回公判)により、昭和四四年一〇月二一日のピース缶爆弾二個の持ち帰りに関して佐古及び国井に有力なアリバイの存することが明らかにされた。

<3> 牧田真犯人証言に伴う検察官主張の究極的瓦解

前記<1><2>にもまして、検察官主張の虚構性を明らかにしたのは、第一三七回公判(昭和五七年五月二五日)ないし第一四三回公判(同年八月二五日)における証人牧田吉明の証言であった。証人牧田の証言は、本件ピース缶爆弾が被告人らによって製造されたものではなく、牧田こそが真犯人であることを明らかにするものであり、多くの秘密の暴露を含み、極めて信憑性の高いものであった。

<4> 論告において検察官のとるべき態度

本件と京都公安調査局事件との関連性を前提にすれば、牧田がピース缶爆弾の製造に深く関与していると考えざるをえない。したがって、検察官としては、公判審理のもっと早い段階で公訴の追行・維持を断念すべきであった。しかし、検察官はあえて公訴の追行・維持に踏み切ったのであるから、牧田真犯人証言に直面することは必然であった。

論告において、検察官は、被告人ら全員につき無罪の意見を述べるしかなかった。しかし、検察官は無罪の意見を述べることなく、それどころか、いわゆる京都公安調査局事件の爆弾は被告人らか河田町アジトにおいて製造したピース缶爆弾十数個の一部であると、積極的に主張する意志はないなどと、またもや本件と京都公安調査局事件との関連性を曖昧にした。この無節操さ、無責任こそ、本件公訴提起及び追行・維持に一貫する検察官の訴訟行為の不法性を物語って余りあるものがある。

4 控訴の違法

(一) 控訴の経過

東京地方裁判所刑事第五部は、昭和五九年三月二二日、原告を含む本件ピース缶爆弾事件の被告人ら五名全員に対し右事件の各公訴事実全部につき無罪とする判決を言い渡した。右無罪判決に対し、検察官は、四月三日、事実誤認を理由として控訴を申し立て(以下「本件控訴」という。)、その後、昭和六〇年四月二五日付けで控訴趣意書を提出した。これに対し弁護人は、同年一〇月三一日付けで答弁書を提出し、一一月二二日、本件控訴審第一回公判期日が開かれたものの、第二回公判前の一二月二八日、検察官は本件控訴を取り下げ、これにより同日、右第一審の無罪判決が確定した。

なお、右事件の共犯者として日石・土田邸事件で起訴され、東京地方裁判所刑事第九部に係属していた増渕、前林、堀及び江口に対しては五部判決に先立つ昭和五八年五月一九日、本件ピース缶爆弾事件を含む各公訴事実全部につき無罪とする判決(以下「九部判決」という。)が言い渡された。そして九部判決に対する検察官の控訴は、昭和六〇年一二月一三日に東京高等裁判所第七刑事部によって棄却され、同月二七日、右無罪判決が確定した。

(二) 検察官による不利益控訴に関する基本的な視点

刑事訴訟法三五一条一項は検察官の上訴権限について何ら限定することなく認めているかのようである。しかし、無罪判決に対する検察官の上訴すなわち不利益上訴に対しては、実体法上、被告人の上訴権の行使に比し、より厳しい規制原理が課されているというべきである。

現行の刑事裁判制度は、無辜の被告人の刑事訴追からの早期の解放すなわち消極的実体真実主義と被疑者被告人に対する無罪推定の法理とを第一の指導原理とし、右消極的実体真実主義等と矛盾しない範囲において、犯罪事実の真相の究明及び適正な刑罰権の実現すなわち積極的実体真実主義の実現を図ることを目的としている。

この理は、単に各審級における審理やその判断の形成過程においてのみではなく、捜査や上訴制度等をも含む刑事司法手続全体を通じての基本的な法理念として貫徹されている。そして、右法理は、被告人に対する無罪判決の言渡を経過することにより、単なる一般的抽象的法理としてではなく、検察官の控訴申立等のその後の当事者による訴訟法上の諸手続をも強固に規制する一つの具体的な実体法上の規制法理に変容するものと解すべきである。

すなわち、第一審における無罪判決の言渡に対し検察官が控訴の申立を行う場合には、一旦、裁判所により、検察官の主張するところの嫌疑に合理的な疑いがあるとの判断が形成された以上、右消極的実体真実主義等の法理は、検察官のその後の控訴申立に対する具体的な規制原理として働き、この場合検察官はその控訴権を適法に行使するためには、ただ単に、原判決に是認できない法定の理由があることを指摘するのみでは十分ではないのである。

このことは、無罪推定則のもとに置かれている被告人が有罪判決に対し控訴をなすには、その有罪判決に合理的な疑いがあることを指摘すれば十分であるのとは、明らかに様相を異にする。

また、現行の刑事裁判制度は、第一審裁判所を第一次的な事実審理裁判所とし、控訴審を事後審たる性格を有するものとして位置づけ、一審において訴訟法上も口頭主義・直接主義等充実した事実審理のための審理構造を名実ともに確保していることから、右事実審たる第一審における充実した審理を通じ、主張立証が尽くされた以上、公益の代表者として右消極的実体真実主義の実現について職責上その一端を担う検察官には、右無罪判決を尊重し、安易な上訴の申立を避けるべき義務が課されているのである。

これを事実誤認を理由とする控訴についてみると、検察官が刑事訴訟法三八二条に基づき事実誤認を理由として控訴を申し立てることができるのは、犯罪の証明がないとする原判決の事実認定について単に疑いがあるという程度では十分ではなく、客観的かつ合理的根拠をもって無罪判決に重大な事実誤認があることを控訴審裁判所に信用させ得る場合で、しかも犯罪事実を合理的な疑いを越える程度に証明し得る場合に限られるのである。換言すれば、検察官は、単に一審における主張を繰り返しあるいは蒸し返すこととなるにすぎない主張や一審における審理経過等からして客観的合理的根拠を有しているとは言い難い理由をもって、一審の無罪判決を批判するような控訴を申し立てることは、消極的実体真実主義の法理及び検察官の責務からして、検察官として厳に慎むべき実体法上の義務を負わされているのであり、右義務に違反し控訴を申し立てた場合は、右検察官の控訴申立自体が国家賠償法一条所定の違法な職務行為となるのである。

(三) 本件控訴の違法

本件における右検察官の控訴理由は、要するに、被告人及び共犯者らの捜査及び公判段階における自白は基本的に信用できるもので、右信用性を否定した原判決はその信用性の有無及び証拠価値の判断を誤り、その結果、事実を誤認したというものであった。

しかし、検察官が右控訴理由として縷々主張するところは、いずれも、一審における主張の単なる蒸し返しかあるいは詭弁もしくは憶測さらには極めて便宜的な主張の変更を積み重ねることにより、一審判決が指摘した右自白の信用性等に対する重大な疑問点を、あくまでも糊塗し合理化しようとする試み以上の域を出るものではなかった。

ところで、本件ピース缶事件に対する検察官の主張は、基本的に被告人らの自白にのみ依拠するものであった。右主張の虚構性は公訴提起の段階で見抜き得るものであり、一審の審理過程においてますます明白となっていった。このように、本件の虚構性がそもそも明らかであった以上、検察官としては、右事実を真摯に受け止め、公訴の提起を断念しあるいは公訴を取り下げるか、遅くとも論告において無罪論告を行うべきであった。まして、結審まで一六一回もの公判を積み重ね、その間、五〇名以上もの証人を取り調べる等一二年もの長い年月を費やした結果、その判決において検察官の主張がことごとく排斥され無罪の言渡がなされた以上、前記(二)の責務を負う検察官としては、控訴権を放棄し、原告ら関係者らを刑事裁判の束縛から早期に解放すべき義務を負うというべきである。

しかし、検察官は、本件における右経緯を真摯に受け止めることなく、右一審判決を変更させ得る見込みもそのための具体的な立証計画をも有していないにもかかわらず、敢えて控訴の申立に及び、もって違法にその職務を行使したものである。

(四) 控訴理由の不当性

(1) アメ文事件について

アメ文事件については、佐古、前原、増渕及び村松が自白していた。一審判決は右各自白、とりわけ重要な位置を占めている佐古及び前原自白について、その内容に客観的証拠あるいは他の証拠から確認される客観的事実との不一致や不自然、不合理な点が幾つも含まれており供述経過にも不自然な変遷や動揺が見られ、到底信用し難いとした。例えば、佐古及び前原自白には、次のような客観的な証拠物や客観的な事実と食い違う点が多々存することを指摘し、その信用性に疑問を投げかけたのであった。

<1> 時限装置付爆弾を収納したダンボール箱が既製のダンボール箱であるのに、近所のパン屋から入手したダンボール箱を利用し、手製の箱を製造し、かつ製造に当たってはホッチキスを利用したとする点

<2> ダンボール箱の底面に十字に貼り付けられている割り箸は爆弾等の内部での移動を防ぐことに目的があったと認められるのに、箱自体の補強を目的とするとしている点

<3> 時限装置はぜんまい式動力であるのに、電気動力であるとしている点

<4> 右ダンボール箱の外装に関する供述が客観的形状と異なっている点

<5> 乾電池から発見された手袋の指痕につき言及がない点

これに対し、検察官は、一審における主張をただ繰り返すのみで、一審判決が指摘する問題点に対する合理的かつ客観的な根拠を有した反論を提示することを全くしなかった。また一審判決が指摘した国井アリバイの存在については、言及すらしようとしなかった。

(2) 八・九機事件について

八・九機事件については、前原、内藤、増渕及び村松が自白をしていた。一審判決は右各自白、とりわけ重要な位置を占めている前原及び内藤自白について、客観的な犯行状況とも相違し、またその自白の変遷には極めて著しいものがあり、その内容においても著しく不自然不合理な点が多々見られ、しかも各自白間に黙過できない相互矛盾がある等として、到底信用し難いとした。例えば前原及び内藤自白には、<1>爆弾投てきに直接関与した者の人数が一名である可能性が強いのにいずれも三名とする点において、客観的犯行状況と明らかに相違し、<2>導火線の燃焼実験<3>犯行直前の喫茶店集合状況<4>内藤及び前原の犯行時の役割及び同行者並びに赤軍派の参加の有無<5>爆弾投てき時の客観的状況やレポの目的<6>攻撃方法が当初、横からの侵入であったとする点等、犯行の主要部分を占める状況につき、その自白内容が余りにも不自然で、かつ、<7>事前謀議の存否及びその参加者<8>犯行時における各人の行動及び参加者<9>犯行直前及び直後の集結状況及び場所<10>菊井の参加の有無等、各自白は一貫性のない変遷を重ね、かつ客観的な状況との不一致やその内容において不自然不合理な点が多々あることを指摘し、その信用性を否定したのであった。

これに対し検察官は、一審における主張をただ繰り返し、一審判決の指摘する疑問点等につき、合理的客観的な根拠を有した反論を一切提示することをしなかった。また一審判決が、相当高度に信用すべきで、被告人らが犯人でないとしたらあり得べき事実経過の一つを伺わせるものとした若宮ら真犯人証言については言及さえしなかった。

(3) 製造事件について

製造事件については、前原、村松、佐古、内藤、増渕、石井及び江口が自白をした他、菊井が証言を行った。一審判決は、いずれの自白もその内容に軽視できない不合理な点、不自然な変遷があり、また各自白相互間に無視できない齟齬矛盾が存し、到底信用し難いとした。例えば、右佐古らの自白には、次のような客観的な証拠物あるいは事実等と異なる点が多々あることを指摘し、その信用性を否定した。

<1> 導火線と雷管管口部との接続状況が証拠物と異なる点

<2> 塩素酸カリウム及び砂糖の混合物が充填されている爆弾が二個であるのに、製造した十数個の爆弾の大多数に充填したとする点

<3> 塩素酸カリウムと砂糖との混合方法が客観的状況と異なる点

<4> 「褐色のぶよぶよした糊様のもの」「黒色火薬」等爆弾の客観的状況と明らかに異なる物を充填したとする点

これに対し検察官は、証拠上全く現れていない事実を捏造し極めて恣意的な推測を重ねたり、詭弁を弄したり、あるいは一審における主張をただ繰り返すのみであった。さらに検察官は、牧田真犯人証言につき全く言及すらしなかった。

(五) 結論

このように、本件控訴は、そもそも控訴を申し立てたこと自体が前記(二)の検察官の責務に反する違法な行為であったのであり、まして前記(四)に述べたように種々の詭弁を弄しあくまでも真実から目を背け続け、公訴の維持を図ろうとしたことは、公益の代表者として法の正当な適用を請求し、右権利を誠実に行使すべき義務を課されている検察官としては、余りにも無責任極まりない行為というべきであり、その違法性は極めて大きいというべきである。

5 被告菊井の偽証

(一) 被告菊井の偽証の経過及び動機

(1) 被告菊井は、本件ピース缶爆弾事件の第九四回(昭和五四年一〇月二三日)ないし一〇一回及び一五六回公判期日並びに九部昭和五七年九月二日岡山地方裁判所で行われた出張尋問において、証人として宣誓したうえ証言した。右証言の骨子は、「原告を含むL研グループ十数名が、昭和四四年一〇月中旬ころ、河田町アジトにおいてピース缶爆弾十数個を製造するのを目撃した。被告菊井自身は右アジト付近のレポとして関与した」というものであった。

(2) 五部判決は、具体的かつ詳細な右菊井証言を精密に分析し、菊井証言が具体的で詳細であるにもかかわらず「少なからぬ疑問」があり、「かえって不自然」で、「ことさら特定を避けて証言している」もので、「妥当する範囲をできうる限り広く、符合する可能性をできるだけ大きくしておこうと」するもので、「その想起を信用し難」く、「供述全体の真実性への疑問を深」め、「現実体験の不存在を疑わせ」、「奇妙としか言いようがなく」、「大きな疑問が残」り、「現場の状況を目撃したという者のそれというには疑問の多いもの」で「不可解」であり、その「記憶が変容するということはうなずけない」うえ、菊井の行為であるレポは「行動の非現実性を一段と顕著ならしめ」、「証言の現実性を薄め」、この証言と共通の内容の昭和四八年四月二日付け員面調書は「虚偽であり」と断じた。

右判示は被告菊井の証言が具体的で詳細な一方で、かえって、客観的事実との相反や経験則に反すること、他の自白内容との齟齬、検察官の主張に奇妙に符合すること等の問題点があり、そのことを吟味した裁判官の判断の謙抑的表現というべきで、常識的には、偽証であることを宣明したものと言っても過言ではない。

(3) 被告菊井は製造事件の被疑者として逮捕された昭和四八年三月一六日ないし四月時点では、自らの関与を否認しており、最終的には、本件ピース缶爆弾事件の被告人らが製造事件に関与したことを抽象的レベルで認めたものの、菊井証言のように具体的かつ詳細には供述できなかった。右供述は昭和四八年段階における取調官の追及の言辞やヒントのみから考え得る範囲を供述したものに過ぎなかったというべきである。

(4) 被告菊井は、別件で服役中の昭和五四年五月三〇日以降、被告長山の補充捜査と称する取調べを受けた。このころ本件ピース缶爆弾事件の審理が終盤に差しかかり、既に石井アリバイが顕出され、京都公安調査局事件の事実及びミナミ・エイトの休日が明らかになることによって、ピース缶爆弾の製造日がありえないこととなり、検察官は製造事件の訴因変更を余儀なくされた。また。福ちゃん荘事件等の記録の顕出によってピース缶爆弾の構造及び流れが明らかとなり、アメ文事件のダンボール箱の構造が明らかとなって佐古自白の中核部分が崩壊し、検察官の主張する事件の筋書全体が砂上の楼閣であることが明白になりつつあった。そして第八七回公判(昭和五四年三月二七日)に証人荒木久義が八・九機事件は赤軍派大森アジトで同宿していた若宮正則及び古川経世の犯行であることを証言し、右若宮及び古川も同旨の証言をした。右証言により、八・九機事件が完全にフレーム・アップ事件であることが明らかになった。

(5) 被告菊井は、同年六月一二日まで、前記(3)と同様の供述態度あるいは内容の供述をしていた。ところが、同月一三日、中野刑務所に移監されるや、七月一〇日までの間取調べに応じ、菊井証言の下敷きとなった同年七月一〇日付け検面調書の作成に協力関与した。

被告菊井がなぜこの時期に、積極的に、具体的詳細な事実を存在したかのように供述したか真意を知る由はない。ただ、<1>当時、残刑が八年有余もあったこと、<2>取調べに応じることは懲役としての役務を免れることになること、<3>被告長山の言動から、自己が製造事件に関与したことを前提にして供述しても起訴されるおそれはないことを確信したこと、<4>被告長山に協力することによって、受刑中の処遇について何らかの有利な取扱いを期待できるとの感触を得たこと(現に被告菊井は刑期を約二年半残して仮出獄している。)、<5>新聞報道や被告長山の取調べの中で、前記(4)に述べたように本件ピース缶爆弾事件の被告人らの冤罪が一歩一歩明らかになりつつあることを知ったことを指摘することができる。昭和四四年に短期間ながら交友を結び、活動的なことを共にした原告らの恵まれた状態は、被告菊井にとって、我慢のならないことであったと考えられる。まして自己顕示欲に溢れ、さわやかそうに見える口舌を有する被告菊井にとっては、法廷で証言することは何の損もない一つのパフォーマンスにすぎない。

(6) 被告菊井は、法廷で証言をなすことを前提に約一か月かけて被告長山とともに一冊の膨大な七月一〇日付け検面調書を作り上げた。右検面における供述は、被告長山のヒントを参考に被告菊井が創造で作り上げたものである。

(7) 被告菊井は、証言に際し、もちろん虚偽であることの自覚があるがために、反対尋問で具体的に追及されるや、忘れたとか曖昧にするとかで信用性がないと判断されるのを危惧して、より具体的に詳細化し、そのために客観的事実と相反して、その虚偽であることを誰の眼にも明らかにした。

菊井証言は虚偽であり、これはもちろん故意による犯罪行為であって、原告に対する不法行為であって、その責任は重大である。

(二) 菊井証言の分析

(1) 被告菊井の性癖と能力

被告菊井は、証人という立場にありながら、法廷において「従来述べたことは嘘を言った」「でたらめを言った」「ちゃらんぽらんに述べた」「嘘を記載した」等と公言する。菊井は嘘を述べたと証言する際にも何の臆面もなく、あるいは恥ずかしそうにする訳でもなく、まさにしゃあしゃあとして嘘を述べたことを認めるのである。たとえ宣誓をした証人であっても、自らに罪責の及ぶ可能性がある場合には嘘を述べることも正当化されることを公言してやまないのである。被告菊井の証言中、何が真実で何が嘘であるか、その根拠は全く存在しないというべきである。また被告菊井は非常に饒舌で、かつ嘘であることを見破られまいとして、「……もあったし、……もあった」「……の可能性もある」などと伏線を張ることを決して忘れない。さらに自己の供述や言動に矛盾があることを追及されたり、自己にとって都合の悪い事実が持ち出されれば、その原因や責任は全て他人にあるとして責任転嫁する。被告菊井と一度でも交際したことのある者で、同人の虚言癖ともっともらしい話を作り上げ吹聴する能力を指摘しない者はいない。被告菊井が自己を肥大化して語り、あたかも革命家であるかのように飾った言動をして、逃げ場がなくなり惹起した事件がいわゆる朝霞事件であったところ、右事件の共犯者らからも、被告菊井は全く信用されていない。同人が「知識と情報さえあれば、自らが経験したかのように語ることができる」と証言するように、被告菊井は、断片的につかんだ知識をもとに物語を空想し、見てきたかのように述べることのできる、そして何らの心の痛みも感じずにそれができるという類まれな能力を有している。また被告菊井が、相手が異なれば全く正反対のことを供述し、あるいはAに対してはBを非難し、Bに対してはAを誹謗中傷するという、いわゆる二枚舌の巧妙な使い手であるということは、同人の前原に対する手紙、前林に対する手紙及び増渕に対する手紙を読み比べると明らかである。

(2) 「週刊朝日」昭和四六年三月五日号及び「朝日ジャーナル」同年五月二一日号からみる菊井証言の虚偽性

体験に基づかない事実をさも見聞したかのように述べることが人格化しており、かつまた自己の矛盾や都合の悪いことを指摘されるや、これをはぐらかし、言い抜けることを得意とする被告菊井にとって、右記事の出現は強い衝撃を受けるものであった。

<1> 被告菊井は右記事を指摘されて、大筋、同人が京浜安保共闘関係者として週刊朝日及び朝日ジャーナルの記者に述べた事柄が記事になっていることを認めた。右記事から判明することは、被告菊井が全く関係もなく、体験もないにもかかわらず、新聞や雑誌で仕入れた知識・情報をネタに見てきたように嘘を言い、講釈師よりも巧妙に体験記ともいうべき嘘を語り、あるいは創作をでっち上げたという事実であり、かつまた同人が京浜安保共闘の行為や活動について嘘を語ることによって金儲けをしたとの事実である。被告菊井は、そのつもりになれば特定の人になりきることができ、その者であればこうしたであろうことを想像し、それをあたかも自らが体験者であるように語ることができるという類まれな人格と能力の持ち主である。菊井証言は、このような人格と能力の産物以外の何物でもない。

<2> さらに被告菊井が週刊朝日の中西記者に語ったピース缶爆弾の内容は、同人が昭和四六年二月ころまではピース缶爆弾の構造及び内容物について何一つ知るところがなく、自らの頭の中で空想したことを吹聴したものであることを示している。すなわち「ピース缶爆弾」という呼称が一般的に使用されるようになったのは昭和四八年四月に本件審理が開始されて以降であり、公安当局の資料をみても、昭和四六年九月一日付け「焦点」あるいは同年二月二五日付け大菩薩峠事件検察官冒頭陳述までは「ピース缶爆弾」という呼称の使用は皆無なのである。被告菊井は新聞等で得た「昭和四四年当時ピースの缶を使用した爆弾も存在した」との知識をもとに、中西記者に「ピース缶を使用した爆弾を準備していること」、またピース缶を使用した爆弾は「クギ、パチンコ玉、黒色火薬を詰めたものだ」と述べたのである。右のようなピース缶を使用した爆弾が実在したのか否か確かではないが、少なくとも被告菊井の中西記者への吹聴は、同人の空想の産物である。そして重要なことは、昭和四六年二月当時、被告菊井は、いまだ公安当局に逮捕されたことがなく、したがって公安当局の情報にも触れる機会がなかったことから、ピース缶の内容物を「くぎ、パチンコ玉、黒色火薬」としか表現できなかったという事実である。同人がピース缶爆弾の内容物について情報を入手したのは、昭和四八年三月に逮捕され逮捕状を示されたときが初めてなのであって、このことは、昭和四八年三月までは被告菊井はピース缶爆弾の構造及び内容について何一つ知らなかった、すなわち同人がピース缶爆弾製造に関与していないことを物語っている。

被告菊井は右記事の記述が中西記者の創作であるかのように仄めかすのであるが、右記事が被告菊井の大ぼらの一断面にすぎないことは明白である。すなわちこの点に関する弁護人の尋問に対し、被告菊井は「覚えてない」「記憶にない」「わからない」と繰り返すのみで、否定しておらず、かつ、右応答は武器の一つ一つを区別してなされたものではなく、すべてに共通しているということである。「準備された武器」は全て中西記者の創作によるものであるとの解釈は、前記(1)記載の被告菊井の人格と能力を看過し、さらに中西記者及び朝日新聞社が創作を常とする者という前提に立たない限りあり得ない。言い抜けを得意とし、嘘を言ったことを公言する被告菊井にして、「覚えてない」「記憶にない」を連発せざるを得なかったことは、右記事が同人において中西に語った内容そのものであったということを如実に表している。

(3) 七月一〇日付け検面調書添付図面の空想性

<1> 菊井証言は、製造事件発生後九年を経た後に受けた約三か月間に及ぶ取調べに基づくものである。被告菊井はその取調べの過程で被告長山に対し、同人が目撃したというピース缶爆弾等の形状及び構造等を図示したが、そのうち導火線付き雷管、ダイナマイト及びダイナマイトの充填されたピース缶の各図(以下「本件添付図面」という。)は、同人の体験・目撃に基づくものではないことを公判廷で自認せざるを得なかった。同人は、検察官の再主尋問に対しては、本件添付図面は誤りであるが、法廷で尋問を受けているうちに正しい記憶が蘇ったなどと弁解する。しかし、右弁解こそ、本件添付図面が取調べにおける取調官とのやりとりの中で、また同人が被告人らとの文通で聞き知った事件の筋書をもとに、想像をたくましくして創作した想像図であることを、より明白に物語っている。

とりわけ、ダイナマイトの図には、被告菊井が包装紙に包まれたダイナマイトなるものを生涯見たこともないと証言するにもかかわらず、「本体は紙で包装してあり商標が印刷してありましたが詳細は忘れました」との説明文が注記されているのである。わずか一回五分以内計二回という短時間に目撃したにすぎない約一〇年前の事柄であるにもかかわらず、ダイナマイトが紙で包装され、商標が印刷してあったなどという細かい事実の記憶がある旨の供述自体、不自然なことが明白である。それにもまして、右細かい事実の記憶があったということは間違いで、ダイナマイトは裸であったとの事実を思い出したなどという記憶の蘇り方は経験則上あり得ないものである。被告菊井は右の点について、検察官の再主尋問に答えて、本件添付図面の誤りを断言したうえで、取調べ検察官の取調べ方法や調書作成方法が悪い、あるいは取調べ検察官のミスで誤った図面が添付されたなどという口ぶりをした。ところが、本件添付図面の提示を受け、これを見た裁判長に図面に注記してある言葉と右証言のニュアンスの違いを指摘されるや、動揺を隠しきれず、弁解とすら言うことのできない繰り言に終始した。

<2> 被告菊井は、本件添付図面の作成日を右図面に記載された昭和五四年七月一〇日ではないと強弁している。本件添付図面が誤りであるとの証言をもっともらしくみせかけるため事情聴取の段階で本件添付図面を作成したとする同人の弁解は虚偽であると判断して差し支えない。

仮に本件添付図面が取調べ過程において七月一〇日以前に作成されたものであるとしても、「昭和54年7月10日(作成者)菊井良治」という部分だけは、昭和五四年七月一〇日に記述されたことが疑い得ない。なぜなら、調書が完成する日にちが同日以前に被告菊井にわかるはずがないからである。だとすれば、本件添付図面を作成した時点では誤った記憶であったが、調書の作成時点(七月一〇日)では正しい記憶が喚起されていたという前提にたつと、本件添付図面の下方に作成月日を記述した際に図自体が眼に入らないはずがなく、同人が誤りであるという部分または体験していない事実を書き込んだという部分、特に「接着剤で結合してあった」「本体は紙で包装してあり商標が印刷してあったが詳細は忘れました」との注記は赤ボールペンで記述されているのであるから、右誤りに気付かないはずがない。すなわち、被告菊井には右書き過ぎを改める機会は十分にあったのであり、同人が述べるように調書作成時に徐々に記憶が呼び戻ったのであれば、本件添付図面及びその注記が訂正されていなければならない。

<3> 被告菊井は、「調書作成段階においては、つまり本文ですかそこでは、ダイナマイトに包装紙はついていなかった旨はっきりと申し上げました」と証言するが、結局、検面調書中に右供述がないことを指摘されるや、同人は検面調書に記載された供述自体誤りであるとまで言わざるを得なくなった。同人が何故公判廷における証言で、「裸のダイナマイトを見た」と述べ、検察官に対して図示した包装紙に包まれた状態のダイナマイトを見たとの供述を維持しなかったのか不明である。もっとも、被告菊井は意識的に虚偽の証言をなしているのであるから、おそらく、検察官に対する供述及び図示の内容を公判廷での証言段階では忘れてしまい、取調べ段階及び検察官主尋問において示されたピース缶爆弾の中身であるダイナマイトの写真に写されているダイナマイトの形状を証言してしまったのであろう。同人は右証言の信用力を維持させるため、本件添付図面及びその注記が誤りであること並びに検察官の取調べ過程における供述の変遷を証言した。しかし、右変遷過程におけるという供述内容が検面調書中の供述と矛盾することを指摘されるや、右検面調書中の供述をも誤りであることを自認してしまったのである。

<4> 被告菊井は、昭和四八年に逮捕された時点ではダイナマイトを一度も見たことがない旨供述していたところ、昭和五四年七月一〇日には同人が目撃したというダイナマイトを図示し、「本体は紙で包装してあり、商標が印刷してあった」と注記した。そして証言中では、「裸のダイナマイトを見た。本件添付図面及びその注記は誤りである」と、臆面もなく供述を変転させた。このことは、昭和五四年の取調べにおける供述が空想であるというにとどまらず、菊井証言が見てきたかのように述べられた想像の産物であるということを露呈するものである。

(4) 目撃したと称する製造行為に関する証言の虚偽

菊井証言のうち、被告人らの製造行為及び材料製造中の状態等を目撃したという部分は、一見すると信用性があると誤信しやすいものである。しかし、主尋問から反対尋問にいたるその証言内容の変遷及び同人が公判廷で図示した図を冷静に検討すると、右部分こそ、自らの体験や目撃に基づくものではなく、同人が昭和四八年三月以降、取調べにおいて追及された際の取調官の質問、示された写真、拘置所において被告人らから送られた手紙(その中には江口が冒頭陳述を書き写したものも含まれている。)及びパンフレットで得た情報をもとにして、頭の中でイメージを描き、それを見てきたかのように証言したに過ぎないものであることが明らかである。

<1> 目撃した製造行為について

被告菊井は主尋問において、同人が爆弾製造行為のうち、ピース空缶にダイナマイト及び薬品を入れる行為並びに導火線と雷管をセメダインのような形をした接着剤で結合する行為を目撃したと理解して当然の証言を行った。しかし、反対尋問において、薬品を入れる行為を見たのではなく、入っている状態を見たのだと証言の意味を平然と変更した。さらに、増渕が接着された導火線付き雷管を缶のふたに通すところを見た以外には、個々の製造行為は一切目撃しなかったことに証言を後退させた。

<2> 第九九回公判調書速記録添付第一一図について

被告菊井に目撃した状態を図示させたところ、同人は製造行為を見るという体験をしていないのみならず、同人の見たという状態も客観的にありえないはずのものであることが明らかになった。すなわち、同人の証言が前記<1>に述べたような主尋問と反対尋問との間の動揺・変転から信用性に疑問が呈せられるというレベルよりさらに進んで、証言が空想の産物にすぎないことが明白となった。

右第一一図は被告菊井が証言するダイナマイトがピース缶に入っている状態を図示したものである。同人は右図面をもとにさらに詳細に証言したが、その証言内容は客観的になかった状態である。久保田作成の昭和四四年一二月一二日付け鑑定書添付写真七によれば、缶のふた及び導火線付き雷管を取り去ると、パチンコ玉及びそれを埋め込んだ穴はみえず、ダイナマイトのみが知見されるものであることが明らかであり、外見上の形状が菊井の証言するところと明確に反する。すなわち、外見上、ピース缶の中にダイナマイトのみが入れられているように見え、ダイナマイトが棒状の形を残しているとは全く見えず、一体化しており、ピース缶の内壁とダイナマイトとの間には空間がなく、ダイナマイトの上辺からパチンコ玉は顔を出していないのである。

また、製造に従事した者及びこれを現実に見た者は、パチンコ玉がダイナマイト薬高中間まで埋め込まれていることを当然知っている。ところで、徳永作成の昭和四四年一二月一三日付け鑑定書添付の写真を一見すると、パチンコ玉がダイナマイトに深く埋め込まれているにもかかわらず、ダイナマイトの上辺に顔を出しているように見える。このことは、被告菊井が取調べ時に取調官から示された右写真をもとにイメージを空想し、証言したことを如実に物語っている。

<3> 同第一二図2について

被告菊井は、真ん中付近に穴の開いているピース缶の蓋を右第一二図2として図示し、その穴の形はいびつな感じの丸穴であったと証言し、さらにピース缶の蓋に穴を開けるための釘と金槌を同第八図1及び2として図示し、その釘の長さは八センチであったと証言する。

被告菊井の右証言は、証拠物となっているピース缶の蓋の穴の形状及びその穴を八センチ釘で開けることができるかという点で、容易に虚偽であることが判明しうる。すなわち、公判廷において領置中のアメ文事件及び八・九機事件に係るピース缶の蓋の穴はきれいな丸い穴であって、いびつな丸穴ではない。他の一連のピース缶爆弾も鑑定書添付写真を見る限り、真円に近い穴である。そして右のようなきれいな丸い穴は、少なくとも八センチ釘を金槌で叩くことによっては絶対にできない。また釘を打ち込んだ場合、反対面には穴の周りにふたの金属片(バリ)がぎざぎざに残るはずである。結局、被告菊井が証言する「いびつな丸い穴」は、釘と金槌で穴を開けることを意識した用意周到な証言であった。右開け方は同人が昭和四八年三月ないし四月に逮捕され取調べを受けた際、取調官から共犯者の誰かが供述していることとして、確認を求められまたは追及されたことによって入手した知識だったのである。したがって被告菊井は、共犯者のうちの誰かの供述に合わせるため、金槌と釘でピース缶の蓋に穴を開けたと証言すべきと思い込み、だとすれば、ふたの穴はせいぜいいびつな丸い穴でなければならないと推測して証言したのである。

(5) 増渕の行為に関する証言について

被告菊井は増渕の行為を目撃したとして迫真性のありそうな証言をする。しかし、右証言がいかにも作為的であることは次のとおり明らかである。

<1> 被告菊井の証言するような、ダイナマイトとパチンコ玉に加え、塩素酸カリウムと砂糖が充填され、かつこれに導火線付き工業雷管が埋め込まれたピース缶爆弾は、証拠上存在しない。

<2> 導火線と雷管部分の接続について、自らが現認していないにもかかわらず、セメダインのような接着剤で接続したと証言しながら、他方、当然目に触れているはずの接続部分に巻かれたガムテープの存在について全く言及していない。

また、一連のピース缶爆弾のなかでニトロセルローズを主剤とした接着剤(例えばセメダイン)が発見されるのは、アメ文事件に係るピース缶爆弾の電気雷管の付着物のみである。工業用雷管と導火線との接続に使用されている接着剤は、ピース缶の缶体と蓋の接着に使用されているものと同じ、クロロピリンを主剤とした接着剤である。したがって、被告菊井が右接続にあたかもセメダインが使われたかのように証言するのはあきらかに客観的事実に反する。また右接続に使用された接着剤は、十数個の缶体と蓋を接着するためにも使用されたのであるから、同人が図示したチューブ様のもの一個では量的に明らかに不足する。

<3> 缶の蓋と缶体との固定について、被告菊井はガムテープでぐるぐる巻きにした旨証言する。ところで、右固定はまずクロロプレン系の接着剤で接着固定されたのであり、被告菊井は増渕の直近にいたのであるから、終始一貫注目していたわけでなくても、右工程を見落とすはずがない。また中野坂上事件に係るピース缶爆弾三個の解体写真を見る限り、ガムテープはぐるぐる巻きになっていない。

<4> 作業手順として、導火線付き雷管のダイナマイト中への埋め込みは、導火線をピース缶の蓋の穴に通すより先になされるのが自然である。まして蓋の内側部分及び缶体の上辺には相当量の接着剤がつけられなければならないのであるから、被告菊井の証言する手順で作業が効果的にできるのか疑問である。常識的に考えれば、ピース缶缶体中のダイナマイトの中に導火線を結合した雷管を埋め込み、その後で缶体上辺と蓋の内側に接着剤をつけ、上方に導火線を伸ばしてその先端を蓋の穴に挿入し、蓋を缶体まで下ろして接着させるのが、合理的である。したがって、被告菊井の証言する手順は絶対といっていい程あり得ないものである。

(6) 江口の行為に関する証言について

<1> 被告菊井はレポの途中河田町アジトにおけるピース缶爆弾製造現場に足を踏み入れ、その状況を見たとし、印象に残っていることとして、江口が乳鉢の中で乳棒を使って薬品を混ぜていた者の混ぜ方を注意し、実演してみせた旨証言する。そして右乳鉢、乳棒、塩素酸カリウム入りの瓶及び砂糖を図示する。右証言は一見するとまことに迫真性のあるもののように考えられなくもない。しかし右証言を本件審理過程で明らかとなっている物の状態及びこれから合理的に導き出される推論並びに経験則上の常識から検討すると、以下に述べるとおり右証言が空想の産物にすぎないことは明らかである。

<2> 被告菊井は、江口の位置について図示したが、第一〇〇回公判における図示と第一五六回公判における図示とで、江口の位置が被告菊井との関連で逆になっている。右変化は同人の証言が体験に基づかないものであることを示している。

<3> 塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加されたピース缶爆弾はアメ文事件に係る一個のみである。そして右アメ文事件に係るピース缶爆弾一個は、導火線付き工業用雷管を使用したピース缶爆弾がいずれかの機会に何物かの手によって改造され電気雷管が使用されたものと推論でき、さらに塩素酸カリウムと砂糖の混合物は右改造の時点で新たに添加されたと推論できる。右の点を前提にすると、何者かが工業用雷管付きピース缶爆弾を製造した際には塩素酸カリウムと砂糖の混合という作業は存在しないはずである。しかし、被告菊井は右作業を江口の行為としてまことに迫真性のあるもののよう証言する。

<4> 仮に工業用雷管付きピース缶爆弾が製造された際に塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加されたことがあるとすると、被告菊井が証言し図示する塩素酸カリウム及び砂糖の量を前提にすれば、右混合物の添加されたピース缶爆弾の数は相当数なければならないはずであるのに、客観的にはゼロかあるいはアメ文事件に係る一個のみである。

<5> 被告菊井は、江口の行為について「ごりごりすりつぶすような力を入れたこすり方ではなくて柔らかくまぜるような感じでソフトな感じでやって見せた」「ごりごりとまぜるのではなくて軽くかきまぜるという程度のやり方」であった旨証言する。通常塩素酸カリウムを他の薬品と混合する場合、乳鉢の中で乳棒を使うとすれば塩素酸カリウムを強くごりごりとつぶさなければならない。また塩素酸カリウムはある程度摩擦に敏感なためエチルアルコール等を入れ、この液中で結晶状のものを粉末状になるまですりつぶすという方法がとられる。このことは江口程度の知識(薬学部出身)があれば誰でも知っている。そして右方法を採らない限り、混合後の状態が砂糖と混然一体となり、外見上には砂糖としか見えない状態にはならない。しかしながら、被告菊井は右に述べたように、江口が仮に行うとすれば採ったであろう方法と正反対の方法を証言する。

<6> 被告菊井は、右混合物の状態がギラギラした感じの結晶で、ザラメ状であった旨証言する。塩素酸カリウムがザラメのような結晶状のままであったとすると、江口が乳鉢と乳棒を使って何をしたのかわからないし、また外見上砂糖とみえる客観的事実に明らかに反する。徳永作成の昭和四八年一月八日付け鑑定書添付の写真をみると、写真の持つ光反射作用によってギラギラとした感じに見えなくもないことから、被告菊井の右証言は、体験に基づくものではなく、捜査過程及び公判廷における検察官主尋問の際に示された右写真に基づくものであることが明白である。

<7> 被告菊井の作成した塩素酸カリウムの入った瓶の図は明らかに誤っている。すなわち塩素酸カリウム等摩擦に敏感な薬品の容器の口の蓋は、できるだけ摩擦が生ずることのないようにとの配慮から「落とし蓋」なのである。

(7) ダイナマイトと包丁に関する証言について

<1> 被告菊井はレポに出る前の指示の際に見たダイナマイトについて、昭和五四年の証言ではすべて同じ長さであるとの前提で答えていた。しかし、昭和五七年九月二日の岡山地方裁判所における裁判官の尋問に対し、長いのも切ったのもあったと答え、証言を変更した。また右変更に伴って、昭和五四年の尋問では自炊用の包丁でダイナマイトを切断するのは気持ち悪いから新しいのを一本買ってくる話があった旨証言していたところ(このことはレポに出る前には包丁を見ておらずダイナマイトは切断されていなかったことを意味する。)、右岡山地裁における尋問においては、当初から一部のダイナマイトは切ってあった、最初は新しい包丁がなかったが、一度目にアジトに戻ったときにはあった旨証言した。検察官の主尋問ではレポに出る前に見たダイナマイトの形状を聞かれなかったため、レポから帰ってきた時に切断されたダイナマイトを見たと、あたかも見てきたように証言することができた。ところが、従前の証言を忘れたのか、もしくは弁護人の反対尋問や裁判官の尋問そのものの中から証言の矛盾が追及されていることを感得し、被告菊井は証言の妥当する範囲を広げようとして、レポに出る前のダイナマイトの大きさについての証言を変更した。その結果、被告菊井は自炊用包丁でダイナマイトを切断したにもかかわらず、製造作業中に新しい包丁を購入した旨証言するに至り、破綻を招いたのである。

<2> 被告菊井は、ダイナマイトを包丁で切断していた旨証言する。ところで、ダイナマイトは柔らかいもので、これを二つに分ける場合は竹べらのようなもので切断するか、手でちぎることになる。また包装紙をはがして使用することはなく、包装紙をはがすと非常に強い臭いがし、頭が痛くなったりする。右のことからすると、包丁でダイナマイトを切断するとしても、包装紙をはがして、一度パンの木箱に俵のように積み上げてからこれを一本一本置き直して包丁で切断するという行為は不自然である。またダイナマイトの柔らかさからすると、裸のまま積み上げるということ、まして、裸にしたものを包丁で切断し、再びこれを並べ積み上げるというのも不可解である。

また、アメ文事件に係るピース缶爆弾内のダイナマイトの形状は、徳永作成の昭和四八年一月八日付け鑑定書添付の写真四及び五を見る限り、一本のダイナマイトの両端であり、包装紙ともども両端部分でねじられたしわがある部分や、また一本のダイナマイトがちぎられたときにできる形状をなしている部分が認められる。右写真を見る限り包丁で切られた痕跡は一切ない。

被告菊井作成のダイナマイトの図(第九九回公判調書速記録添付第一図)はダイナマイトの両端が平面であって包装紙で絞られているということに何ら触れていない。また同人が証言する程のダイナマイトが裸にされたとすれば、同人とダイナマイトの距離が二メートル四〇センチメートル位なのであるから、強烈な臭いを感じたはずであるのに、同人は印象に残っていないと証言する。

ところで、前記(4)の<2>で述べた第九九回公判調書速記録添付第一一図は、ダイナマイトを包丁で切断する旨の菊井証言と密接に結びついている。すなわち被告菊井は、ダイナマイトが相当柔らかいものであることは知らないのであって、同人が昭和四八年の取調べ時に包丁で切断したのだろうと追及された経験に基づき、包丁で切断したと証言し、だとすればダイナマイトはある程度固いものだと考え、ピース缶に入れられたダイナマイトの上辺は平らであり、かつ棒状に見え、ピース缶の内壁とダイナマイトとの間に空間があったと想像して証言したのであった。

<3> 前記<1>で述べた「食料品を扱う包丁でダイナマイトを切って、またご飯を作るのは嫌だ」という迫真性ある証言自体、思いつきの域を出ないが、本件ダイナマイトが包丁で切られたものでないことが判明した以上、右証言は、菊井証言全体が虚偽であることの重要な証左となる。

(8) 導火線に関する証言について

被告菊井は、レポに出る前後を問わず、河田町アジトで現認した導火線は既に短く切ってあった、その長さは一〇センチくらいであった旨証言し図示していた。ところが、昭和五七年九月二日の岡山地裁での尋問では、長いもので三〇センチくらい、短いもので一五センチくらいと供述を変更した。被告菊井が右のように供述を変転させたのは、裁判長や弁護人の質問から導火線の長さが約一〇センチというのは客観的資料との関係で短いということに気づいたからである。結局、従前の約一〇センチという供述自体、中野坂上事件に係るピース缶爆弾の写真(ピース缶の蓋の上に出ている導火線の長さが九・五センチ)を見た上での推測にすぎないのである。

(9) たばこ「ピース」に関する証言について

被告菊井はピース缶を集めるについて個数は定かでないが、新しい缶入りピースを購入したとし、製造当日は中身のたばこも、ダイナマイト・パチンコ玉等を置いたパンの木箱の横に置いてあった旨証言し、その状況を図示する。

しかし、格別の作業をすることなく、被告菊井が図示したように底辺が楕円で半球状のようにたばこが積まれるということはありえない。また同人が図示した容積では、たばこはせいぜい一〇〇本未満しかない。

ところで、新しい缶入りピース缶を購入したと供述するのは被告菊井のみである。被告菊井は缶番号に着目した弁護人らの主張をパンフレット等で読み、これをピース缶の中身が製造現場に存在し自ら吸ったなとど具体化して証言したものである。しかし、製造現場において、製造行為の最中、製造そのものと全く関係のないたばこが室内の枢要な位置である木箱の横に置かれていたのは不自然である。また、昭和五四年の尋問では製造当日にたばこを吸った旨証言していたところ、昭和五七年の尋問では喫煙した日を曖昧にして証言した。右喫煙体験は被告菊井のアジト内における数少ない行為の一つであり、この点についての供述が正反対になること自体、菊井証言が体験を語っているものでは決してないことを示している。

(10) 製造日に関する証言について

<1> 被告菊井は製造の日について一〇月一一日から一九日までの可能性があるというのみで、それがいつだったか記憶にないと証言する。しかし、同人は昭和四四年一〇月に体験したとする他の事柄については、おおよその日を証言できているにもかかわらず、ピース缶爆弾製造日だけは可能性を述べるだけで、特定をしないばかりか、思い出そうともしない。同人が真にピース缶爆弾製造の現場を目撃し、かつ自らも関与していたとすれば、衝撃的な経験であり、その時期についても記憶が残るはずである。ところで、被告菊井の証言するL研が爆弾製造をするに至る動機は非常に唐突な感があり、また同人は製造日を絶対に特定しようとしない。このことは検察官の変更後の訴因と奇妙に符合する。このことだけみても、被告菊井の証言が空想の産物であることは明らかである。

<2> 被告菊井は当初、検察官の主尋問及び弁護人らの反対尋問に対して、ミナミで謀議した翌日に河田町アジトでピース缶爆弾を製造したと断言していた。ところで、被告菊井は検察官の主尋問において、朝霞事件の謀議は全て喫茶店で行った旨証言していたところ、弁護人らの反対尋問の過程で、喫茶店で謀議を行うなど考えられないと被告菊井が朝霞事件の公判廷で供述していることを指摘され、矛盾を追及された。これに対し被告菊井は平日の河田町の客もおらんようながらんとした喫茶店とは条件が違うと言い抜けし、謀議の日が日曜日ではないと証言するに至った。こうして被告菊井は製造日特定の要因を証言せざるを得なくなったので、製造日はミナミ謀議の翌日であるとの確固とした証言を変転させることによって、自らの証言の妥当する可能性を残さなければならないと考えた。被告菊井は、第一〇〇回公判(昭和五五年三月六日)ころから製造日はミナミ謀議の翌日とは言えないなどと言い出し、さらに弁護人から、ミナミ・エイトは日曜日・祭日が休業日であることを指摘されたことから、ついに昭和五七年九月二日の尋問で、製造日が謀議の翌日だったとの証言を訂正し、翌日だった可能性もあると証言するに至った。

(11) ミナミ謀議の外的状況に関する証言について

被告菊井はミナミ謀議の際の参加者を一二人程度になると証言したうえで、その座った状況を図示した(第一〇〇回公判)。しかし右図示と異なって、昭和四四年当時、東側壁とテーブルの間に人が座れる余地はなかった。また被告菊井は第一五六回公判期日における尋問では、右第一〇〇回期日で作成した図と相当異なった図を作成した。このことは、原体験のない証言は証言の時が異なれば証言内容が動揺することの例であるし、また、新たに作成した図では同人の供述する人数が座れるはずもないことが明らかである。

ところで、右証言及び図が被告菊井の真実体験した事柄に基づいているとすると、店内の机及び椅子等の配置を大幅に入れ替えて、一二人が一同に会するかのような座席を作ったことになる。右作業が非常に目立つのは明らかであり、何げないふうを装って飲み物を飲んだりしながら、若い連中が集まって雑談しているというふうには絶対に見えない。

(12) レポ中の石井呼出の電話に関する証言について

被告菊井は、昭和五四年の尋問では、レポ中に石井に一定の時間毎に電話を入れた、何回か電話したうち二度ほど電話に出ないことがあった旨証言する。ところが、昭和五七年九月二日の尋問では、石井はせいぜい一回目の電話にしか出なかった、石井に電話をかけたのは三ないし四回にすぎない旨証言が変転した。そして右変転を指摘されると、つじつま合わせを試みた。

右証言の変転を、石井はエイトにいなかった旨の被告菊井の証言と併せて検討すると、昭和五七年九月二日の尋問での石井アリバイの指摘及びアルバイトに出ているとしても石井がレポに参加してから勤務についた、あるいはアルバイトを抜け出してレポに関与した旨の検察官の主張に符牒を合わせようとする作為的変転と判断せざるを得ない。

また被告菊井は、石井を呼び出す方法として、いかにも非合法闘争らしく偽名を用いた旨供述していたが、昭和五七年の岡山地裁における尋問では、石井さんという名前で呼んだと証言し、その半年後の第一五六回公判における尋問では、石井さんという名前で呼んだかあるいは何か別の名前を使ったか覚えがないと証言した。体験に基づく証言であれば、右のように明らかに正反対の証言をすることはあり得ない。

(13) その他

菊井証言の真実に反したり、不自然、不可思議な部分については、右(1)ないし(12)に述べたほか次のような点が挙げられる。

<1> パチンコ玉は平面上に置くならば、容器に入れない限り、限りなく拡散するのであって、被告菊井の作図のような積み上げられた形状には絶対にならない。

<2> 本来あるべきピース缶の内蓋及びダイナマイトの包装紙について何ら現認していない。

<3> 被告菊井の証言する導火線と雷管の口径が実物の約二倍となっている。

<4> 被告菊井は一一月二日の昼もしくは夕方に前原からアメ文事件の話を聞いたというが、前原は当日午後七時まで主婦会館で配膳等のアルバイトをしていた。

(14) 証言動機の支離滅裂さ

<1> 被告菊井は、ピース缶爆弾製造についての昭和四八年三月段階の取調べに対して黙秘否認の態度を貫いたと証言したうえ、黙秘否認した理由そして今回証言するに至った理由を証言した。

<2> しかし、被告菊井は昭和四八年三月当時、黙秘と否認を堅持して闘ったわけではない。被告菊井が、毅然とした革命的活動家が初めて口を開き、加えて旧来の仲間にとって不利益なことを述べているのであるから菊井証言は信用するに値すると裁判所が評価することを期待して、右のような証言動機を述べたにすぎないことは明らかである。

昭和四八年三月段階において、被告菊井は自ら知悉していた事柄を逮捕直後から供述していた。同人は、三月二四日ころまでは、記憶の誤りや混同はあるものの、真摯に自らの体験事実のみを供述していた。ところが、同月二八日以降、被告菊井は一方で自らに対するピース缶爆弾製造等の容疑から身を守りつつ、他方で、L研メンバーが冤罪に陥れられることを否定しないのみか、取調官に迎合しつつ、手を貸していたのである。

右段階において被告菊井が具体的に供述していないのは、自ら体験もなく、知識も乏しかったからにすぎない。同人が昭和五一年八月六日付け村松宛の手紙で、一連のピース缶爆弾事件のストーリーを教えてほしいと述べているのは、当時、同人に体験も知識もなかったことを示している。また、同人は昭和四八年一〇月二〇日付け山中宛書簡及び昭和五二年八月二三日付け仙谷宛書簡において、自らが関係しているものの捜査官に認めなかった事実については黙秘をしたとしながら、自らの体験したことのない事実については否認をしたとわざわざ断っている。被告菊井は、体験事実を否認すると嘘になると考え、体験事実を肯定しないときには黙秘するのであるから、否認したということは同人が体験した事実ではないということを意味するのである。

結局、被告菊井が昭和四八年段階の取調べに対し、徹底的に黙秘・否認したということはなく、むしろその供述は、ピース缶爆弾事件に関与していないことを明らかにしている。

<3> 被告菊井は供述の動機として、同人に誹謗中傷を加える被告人らに義理立てする必要がなくなったこと、被告人らが武装闘争を清算したことを容認できないこと、爆弾闘争の正当性を主張しないことを容認できないこと、最初の歴史的な爆弾闘争をやったとかやらないとか争うのは人民に対する背信行為であり、許せないこと、当時の活動を自己批判し、謝罪したいこと等を挙げる。しかし、右供述動機については以下の疑問がある。

被告人らが冤罪を叫ぶことを非難する点については、そのことが供述の動機になるのか疑問であり、被告人らに対する挑発的言辞にすぎないというべきである。また、革命武装闘争の意義を人民の前に明らかにすると言いながら、全く述べない。

被告人らからスパイ呼ばわりされた、江口の手紙によってもう我慢できないと考えた、という点については、江口の菊井宛手紙は、江口の本意としても、その内容からも、常識人が読む限り、被告菊井の証言するような内容ではない。また誰も被告菊井をスパイ呼ばわりしたことはなく、このことを指摘すると、同人をスパイ呼ばわりした雑誌「情況」に仙谷弁護人が情報提供したと指弾して、それを供述の動機とした。さらに右「情況」の記事を読んだであろう時期から約二年以上経過した時に、仙谷弁護人及び森本弁護人と接見し、仙谷宛取調状況報告書を作成した点の疑問を指摘されるや、右疑問にまともに答えることなく、弁護人らも被告人らの冤罪の主張が虚偽だと認識しているのは当然の前提だと、弁護人に責任を転嫁した。

(15) 国井供述との矛盾

国井は、刑事事件係属中の昭和五八年二月一三、一四日の両日、居住地であるケニア共和国ナイロビ市で、羽柴弁護人と丸山弁護人に対し、昭和四四年当時の事情を供述した。国井は、ピース缶爆弾事件に関与していないことを述べるとともに、<1>九月ころからL研に疑問を感じ、一〇・二一闘争を最後に離脱したこと、<2>L研のアジトには河田町アジトにしか行ったことがないこと、<3>一〇・二一闘争では東薬大正門前の道路で見張りをした後、新宿に行って機動隊に追われ、駅構内から群衆の中へ逃げ、久我山の家まで歩いて帰ったこと、<4>被告菊井の証言する犯行のうち、自分に関する部分は身に覚えがないこと、<5>L研メンバーとは一〇・二一以後は全く会っておらず、被告菊井とは吉祥寺のジャズ喫茶でたまたま会ったことが一度ある以外、会っていないこと、<6>牧田とは会ったこともないし、牧田がアパートに来たこともないことを供述した。右国井供述は、被告菊井の証言の最も重要な部分を否定するものであり、このことからも被告菊井の偽証は明らかである。

(16) 結論

被告菊井は、昭和四八年三月の取調べ時から、その後昭和五四年に被告長山の取調べを受けるまでの間、自らが冤罪に巻き込まれないようにしつつも、自らの体験に忠実に供述し、かつ被告人ら、弁護人ら及び救援関係者に対して、ほぼ一貫して本件ピース缶爆弾事件へのL研の関与を否定していた。しかし、被告長山の取調べに際し、何を述べようとも起訴されることはないことを感得し、むしろ虚偽の供述をしてL研グループを冤罪に陥れることにより、自らの行刑等に利益が生じるとの期待と予測のもとに、取調べ時あるいは被告人らとの文通で得た知識を総動員して、虚偽の目撃証言をしたのである。

6 被告長山の故意又は重大な過失による違法な職務の執行

被告菊井の証言は、前記5記載のとおり偽証であるが、結局のところ、七月一〇日付け検面調書及びそれに続く菊井証言は、被告菊井と被告長山が密室で練りに練って作り上げた共同製作に係るものである。仮にその程度に至らないとしても、被告長山は、被告菊井に虚言癖があることを熟知しており、被告菊井が自己の誘導に迎合し、体験したことのない事実を供述し証言しているのかもしれないがそれでもよいとの未必の故意のもとに、被告菊井の取調べをし、被告菊井にこれに基づく証言をさせた。仮にそうでないとしても、この時点で、既に真犯人が名乗りを上げており、本件が冤罪であることが明らかになりつつあったのであるから、取調べをして公判廷で尋問する際には、客観的証拠とのつき合わせを十分に行うべきであった。にもかかわらず、右信用性の吟味を一切行わず、被告菊井に虚偽供述及び偽証をさせるに至らしめた被告長山の行為には、検察官としての職務執行につき重大な過失がある。

被告長山の右のような故意又は重大な過失による違法な職務執行により被告菊井の偽証が導かれ、これによって原告が無罪判決を受けるのに少なくとも一年半もの月日が余計に費やされた。この間の原告の苦労や苦痛は甚大なものであった。

7 被告水崎、被告親崎及び被告堀内の故意又は重大な過失による違法な職務の執行

被告水崎は、前記2記載の原告に対する八・九機事件の公訴提起をなした者として、被告親崎は前記2記載の原告に対する製造事件の公訴提起をなした者として、被告堀内は、前記1記載の捜査の責任者として、原告に対し、故意又は重大な過失により前記のような違法な職務の執行を行ったものである。

8 損害

(一) 原告は、昭和四八年二月九日の逮捕当時、同志社大学文学部二回生であり、昭和四九年一〇月二五日に釈放されるまで、のべ六二四日にもわたり拘禁された。そのため原告は、学業の機会を奪われ、適時に卒業して就職する機会を失った。

原告は右逮捕当時から一貫して、自己が無実であることを主張してきたが、結局その無実を明らかにするために、公判の出廷は一六〇回(京都地裁での主張尋問等を含めれば一六四回)にもわたり、多大の時間と労力を要する公判活動及び公判準備を必要とした。そのために原告は自己の生活を犠牲にせざるを得なかった。

原告は本件無罪判決が確定するまで過激派爆弾犯人の汚名を着て、社会的地位を奪われ、種々の誹謗中傷に耐えながら生活を支え、無実を明らかにすべく公判に臨まざるを得なかった。

(二) 以上のように、被告らの前記1ないし6記載の不法行為によって、原告が受けた損害は深刻かつ広範なものであり、原告の逸失利益を含めた包括的慰謝料は、三〇〇〇万円を下らない。

ところで、無罪判決確定後、刑事補償金が原告に対して二九四万四四〇〇円交付されているから、結局、原告の包括慰謝料は右刑事補償金を控除した二七〇五万五六〇〇円を下らないことになる。

なお、公判活動のために原告が費やした弁護士費用その他の実質もこれとは別に多額に上るが、費用補償金五二九万三四七三円が交付されているので、除外する。

(三) 原告は、本訴訟追行のため弁護士仙谷由人らに対し二〇〇万円を支払うことを約した。

9 結論

よって、原告は、被告国及び被告東京都に対しては国家賠償法一条に基づき、その余の被告らに対しては民法七〇九条に基づき、損害賠償として二九〇五万五六〇〇円及びこれに対する不法行為の終了の日(控訴取下の日)の翌日である昭和六〇年一二月二九日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

三 被告国の主張

1 検察官の職務行為についての違法性の判断基準

(一) 検察官の職務行為についての国家賠償法上の違法性の判断基準

検察官の勾留請求及び公訴提起は、無罪判決が確定した場合でも、国家賠償法一条一項上直ちに違法と評価されるべきではなく、検察官が職務上遵守すべき基準すなわち行為規範に対する違反がある場合に初めて違法と評価されるべきものである(職務行為基準説。最高裁判所昭和五三年一〇月二〇日第二小法廷判決参照)。

(二) 公訴提起の違法性の判断基準

右職務行為基準説によれば、検察官が、公訴提起時において、証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、検察官の公訴提起に国賠法上の違法性は存しないというべきである(最高裁判所平成元年六月二九日第一小法廷判決参照)。右違法性判断基準を検察官の公訴提起の特質を踏まえて具体化すると、検察官の公訴提起は、有罪と認められる嫌疑があると判断した検察官の証拠評価及び法的判断が、法の予定する一般的検察官を前提として通常考えられる検察官の個人差による判断の幅を考慮に入れても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達している場合に、初めて違法となると解すべきである。

検察官の公訴提起の違法性の有無を判断する場合の判断資料については、公訴提起時において検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料に限って判断資料に供し得るものと解するのが相当である(最高裁判所平成元年六月二九日第一小法廷判決参照)。右「通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料」とは、検察官が公訴提起時までにそれらの証拠を収集しなかったことに義務違反があると認められる場合、すなわち、公訴の提起時に検察官が現に収集した証拠資料に照らし、その存在を予想することが可能な証拠資料であって、通常の検察官において公訴提起の可否を決定するに当たり、当該証拠資料が必要不可欠と考えられ(捜査の必要性)、かつ、当該証拠資料について捜査をすることが可能である(捜査の可能性)にもかかわらずこれを怠った等特段の事情のあると認められる場合をいう。

(三) 公訴追行の違法性の判断基準

公訴提起が違法でないならば公訴の追行は原則として違法ではない。公訴提起後、公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑を客観的かつ明白に否定する証拠が公判において提出され、もはや到底有罪判決を期待し得ない状況に至らない限り、公訴追行が違法とされることはない。

(四) 控訴の提起・追行の違法性の判断基準

第一審の判決ないし判断を不当とする検察官が、既に提出した証拠や新たな証拠について上級裁判所の評価、判断を求めて控訴を提起し追行することは、それが明らかに不当であり、検察官に控訴権を付与した法の趣旨に反すると認められるような特別な場合を除いては、検察官の権限に属する適法な行為であると解すべきである。

2 公訴提起の適法性

(一) 八・九機事件の公訴提起の適法性

(1) 検察官の公訴提起において現に収集していた証拠資料

被告水崎は、原告を八・九機事件の共犯者として起訴するに当たり、収集した検察官あるいは警察官作成の捜査関係書類、供述調書のほか証拠物等多くの証拠を検討し、原告が、八・九機事件の共犯者であることを立証するには、次の<1>ないし<8>が重要な証拠であると判断した。

<1> アメ文事件において遺留されたピース缶爆弾等の形状

<2> 佐古、前原、村松及び増渕のアメ文事件に関する各自白

<3> 八・九機事件において現場に遺留されたピース缶爆弾の鑑定

<4> 八・九機事件に関する目撃者の供述

<5> 前原、内藤、村松及び増渕の八・九機事件に関する各自白

<6> 関係各証拠によって認められるL研の活動状況

<7> 佐古の八・九機事件に関する供述

<8> 原告及び堀の否認ないし黙秘

(2) 検察官の公訴提起における判断

被告水崎は、八・九機事件について、現場に遺留された証拠物(前記(1)の<3>)及び目撃者の供述(前記(1)の<4>)等を検討したところ、増渕の指揮の下に原告、村松及び堀が爆弾の投てき班となって、これを実行し、前原と内藤が見張りを担当した旨の佐古、前原及び内藤の各自白があり、いずれも信用性が高いと判断されたこと(前記(1)の<5>)、村松及び増渕も一部を除き犯行を概ね自白していたこと(前記(1)の<5>)、原告及び堀の供述態度は否認または黙秘で、アリバイ主張もしなかったこと(前記(1)の<8>)等に照らし、原告が八・九機事件の共犯であって、有罪と認められるに足りる嫌疑があると判断した。

なお、八・九機事件は、アメ文事件より前に発生した事件であるが、アメ文事件の捜査の方が先行した。しかも、佐古及び前原の供述によると、両事件で使用されたピース缶爆弾が、いずれも佐古らが中野坂上事件の際に河田町アジトに持ち帰った二個のピース缶爆弾のうちの一つであると認められ、しかも八・九機事件に一個使用された後、アメ文事件で残り一個が使用されているものと思料されたことから、事件自体極めて密接に関連しており、証拠もかなりの部分が共通であると認められた。このように被告水崎は、八・九機事件に関し原告について公訴を提起するに当たり、アメ文事件に関する証拠資料(前記(1)の<1><2>)及びそれに対する判断を前提として判断をしている。

したがって、右捜査経緯にかんがみ、八・九機事件に関する原告についての公訴提起に関連する範囲で被告水崎のアメ文事件に対する証拠評価及び法的判断についても一括して論じる。

(3) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料についての検討

<1> 本件ダンボール箱に関する裏付け捜査について

佐古が最初に本件ダンボール箱を製造したと自白したのは昭和四七年一二月二八日である。取調官の好永巡査部長は、同日、佐古が本件ダンボール箱の中身を認識していたか否か取り調べたところ、佐古は箱の中身を見ていることを認めるとともに、箱自体を自分達で製造した旨供述した。また、佐古は、昭和四八年一月二四日、捜査官から本件ダンボール箱を見せられた際、側面一枚を切り落とし、継ぎ足して作った旨供述している。本件ダンボール箱は、一見しただけでは一側面を継ぎ足してあるなどとは到底見分けられる状況ではなく(現に、問題意識を持ちつつ証拠物を見分した東京地方裁判所刑事九部の裁判官でさえ見誤っている。)、当時、佐古の取調官を含め捜査官は誰もそのことに気付いていなかったのであるから、佐古が何人の誘導もなく、正に佐古自身が先行的、自発的かつ顕示的に右供述をしたことは明白である。被告水崎は、佐古が右のようないわゆる秘密の暴露ともみられる供述をしたこと自体、同人が真実本件ダンボール箱の一側面を切り落とし、継ぎ足す作業をしたことを物語っており、佐古が本件の犯人であることをうかがわせる極めて有力な証拠の一つであると判断したのであるが、右判断はむしろ当然であったというべきである。

アメ文事件に用いられた本件ダンボール箱は既製品のようであり、これに打ち込まれていた平線も大型ホッチキスではなくステッチャーによるものであることが公判段階で明らかとなり、その限りにおいて、佐古及び前原の供述内容は客観的事実と矛盾する。しかし、次に述べるとおり、検察官が通常行うべき注意を払って観察しても、右事実を到底認識し得ないような状況が存したのであるから、本件の被疑者らを犯人と認定する具体的判断過程において、被告水崎がダンボール業者等への確認をしなかったからといって、裏付け義務懈怠の違法があるとは到底いえない。

すなわち、本件における捜査機関は、本件ダンボール箱等の証拠物について、それ自体に指紋等の被疑者特定のための参考資料が存在しなかったため、その入手先を裏付けることによって被疑者を絞り込めるかという観点から証拠物としての価値を認識していた。ダンボール箱のように特段個性がなく、一般に同種の物が多数流通・存在しているものについては、とりわけ商店の脇から持ってきた旨供述し、当該商店の脇にダンボール箱が置かれていても自然な状況であったとの裏付けがとれている本件においては、本件ダンボール箱の流通ルートを追って入手先、製造元までを特定して裏付けをとる必要性に乏しく、また、仮にそれをしても被疑者を絞り込む効果はないに等しく、右観点からの証拠物としての価値はさほど高くないと判断していた。本件主任検事らとしては、本件ダンボール箱の証拠価値を主として右の観点から位置付けていた上、本件ダンボール箱に関する佐古及び前原の供述内容には、特段不自然さをうかがわせる部分がなく、佐古は当該ダンボール箱を示されても供述を変更せず、しかも、自らダンボール箱を再製するなど積極的に行動していたことから、その供述を一応信頼した確認的な裏付けを行い、それが供述内容と合致するか否かを検討すれば、裏付けとしては十分であると判断したのである。さらに、本件ダンボール箱は、発見直後に開披されて原形をとどめていなかったこともあって、その外観上作成方法について種々の見方が可能な証拠物であったことから、被告水崎が、供述の信用性を判断する資料としては二次的な意味しか有しないと判断したのはやむを得ないことであった。

平線の打ち込み方及び色については、本件ダンボール箱の構成部分の一部という、アメ文事件全体からすれば非常に細部にわたる問題であり、本件ダンボール箱自体の裏付け捜査に吸収され独立に裏付けを行うほどのものではなかった。また、平線打ち込みに使用した大型ホッチキスは法政大学から持ち込んだ旨の佐古らの供述自体には整合性があり具体性があって、到底不合理などとはいえない。

本件ダンボール箱の底の割り箸の張り付け目的については、証拠物の状況を子細に検討すると、箱の底の補強と爆弾の固定の両目的を有していたものと認めるのが相当であり、原告主張のように爆弾等の固定だけの目的であったとは到底認められない。

<2> 同種他事件の記録検討及び関係者の事情聴取

原告は赤軍派関係者の事情聴取を行っていれば、八・九機事件に関する前原らの自白が虚偽であり、真犯人が別にいることが分かったはずであると主張する。しかし、原告は、赤軍派関係者からどのような供述を得られたのかについて何ら具体的な主張立証をしていない。さらに、参考人の取調べは参考人の協力が得られなければ不可能であるところ、捜査機関が、本件捜査当時において、反権力思想が強固な過激派の闘士である赤軍派関係者から本件事案の解明に有意義な供述を得ることなど不可能に近いものである。

また八・九機事件は、同事件の証拠物及び被疑者らの供述等の証拠によって十分事件処理が可能であり、被疑者らの供述内容からも、他の爆弾事件の記録を検討しなければ事件処理ができないほど他事件と密接不可分に関連する事案といえないことが明らかであった。

(4) 検察官の公訴提起における判断の合理性

<1> 佐古自白に関する判断の合理性

被告水崎は、佐古自白を以下の理由からその信用性が極めて高いと判断した。

I アメ文事件に関する自白

佐古は、窃盗の容疑で勾留中であったにすぎず、爆弾事件の嫌疑を抱かれて取調べを受けていたわけではないのに、突如自発的に爆弾事件を自白した。また、同人は右自白に先立って座禅を組む等の態度を示して顕著な心境の変化を見せていた。佐古は詳細に自白し、それを維持した。佐古は昭和四七年に窃盗の容疑で勾留中に自白し、昭和四八年一月八日に逮捕されてからいったん否認に転じたものの、同月一六日に再び自白し、とりわけ同月一九日には、保釈中に上野の喫茶店「シャンネル」及び渋谷区内の喫茶店「プランタン」において、増渕と会った際、同人から警察の取調官に対するアメ文事件に関する供述を覆すよう迫られた(以下、これらの会談を「シャンネル・プランタン会談」という。)という、捜査官が知る由もない事実についても詳細に自白し、この点については以後も一貫して自白を維持した。被告水崎はシャンネル・プランタン会談に関する供述を佐古自白の信用性を高く評価する根拠の一つとした。右供述は、犯人にしか語りえない重大な秘密の暴露であるということができ、被告水崎の証拠評価には合理性があったというべきである。

被告水崎は直接佐古の取調べを担当し、その供述態度から佐古自白の信用性が高いと判断した。また、被告水崎が、佐古の自供内容について、その真偽を確かめるべき前原に対する取調べを行ったところ、同人も、間もなく、警察官に対し自白し、佐古の供述を裏付けた。したがって、両者の供述が相互に相手の供述内容を裏付け、その信用性を高めることとなり、被告水崎は右佐古自白の信用性を高く評価した。

II 八・九機事件に関する供述

被告水崎は、佐古のアメ文事件での自白の信用性を高く評価していたことから、八・九機事件に関する一月一七日の供述も基本的に信用できると判断した。

<2> 前原自白に関する判断の合理性

被告水崎は、前原自白を以下の理由からその信用性が極めて高いと判断した。

I アメ文事件に関する自白

検察官及び警察官が一連のピース缶爆弾事件の犯人について昭和四八年一月一五日までに収集し得た証拠資料についてみると、前原に対する嫌疑は生じ得べくもなかった。そして佐古が同月一六日、前原がアメ文事件に関与している旨自白したことに基づき、前原に対しても同事件の取調べがされたところ、同人は取調べ開始後間もなくアメ文事件を自供した。しかもその供述内容中には、取調警察官が全く知らなかった事実が含まれていた。それゆえ、警察官が、前原に、右供述を誘導することはあり得ず、前原の右自白は、同人が進んで供述したものであることは疑う余地がなかったし、右自白がその後、佐古、村松及び増渕らの自白等によって裏付けられたことや、アメ文事件のピース缶爆弾の時限装置の導線が実際にはんだ付けされていたこと等からみて、その信用性は極めて高いと認められた。したがって、被告水崎は、前原の自白についても、自白に至る経緯やその内容の特異重大性からみて、大筋において真実と大きく異なっているものとは到底考え難く、佐古の供述と同様、極めて信用性の高いものであると判断した。

前原の自白は、佐古のそれと同様に、一貫してほとんど動揺や変遷のないまま維持されており、その内容も具体的かつ詳細で、特に直接関与したダンボール箱の製造の状況等に関する供述は、佐古の自白と相互にほぼ符合していること等の事実に照らしても、その信用性は極めて高いものと思料された。もっとも、右両名の供述の一部には、客観的事実と食い違った部分や、供述に変遷があるというべき部分も見られたが、これらは年月の経過等による記憶の希薄化、混同あるいは記憶が次第に喚起されたこと等によるものであるとみるのが合理的であると判断された。

さらに、被告水崎は直接前原の取調べを担当し、その供述態度からも前原自白の信用性が高いと判断した。

II 八・九機事件に関する自白

前原は他の共犯者に先駆けて、八・九機事件を自白したが、その経過は極めて自然で信用性に富むものであった。すなわち、高橋警部補は、昭和四八年一月一七日、佐古が同日捜査官に、前原が、八・九機事件に関与したと話していた旨供述したことから、上司の指示を受けて夕刻から前原を取り調べた。前原はこれに対し、直ちに自白をし、その内容も、佐古の供述とは異なっていた。このことからも、前原の自白が、佐古の供述に基づく取調官の誘導や押し付けの結果得られたものでないことが明らかであり、その信用性は十分に担保されていると解された。

八・九機事件に関する前原の詳細な自白と後述するように信用性の高い内藤供述とを対比すると、諸点において符合しており、相互の信用性を損なうほどの矛盾・齟齬はなく、このことは前原の自白の信用性を十分に裏付けるものと判断された。

また、前原の自白の内容をみると、同人は、自己が経験し、かつ、記憶にある事実については率直に認め、一方、記憶にない点についてはその旨供述するなど、認める事柄と否定する事柄とを明確に区別して供述しており、しかも供述内容はほぼ一貫して大きな変遷はみられず、具体性に富んでいるのであって、前原は、自己の行為に対する反省から、でき得る限り真実を明らかにしようとしているものと認められた。

以上のほか、被告水崎は、前記Iで述べたように前原のアメ文事件に関する供述に高い信用性が認められた上、それに引き続いて供述する八・九機事件についても、同人の供述態度等に特段の変化がなく、依然として素直かつ積極的に供述していたことから、信用性が高いとの心証を得た。

<3> 佐古及び前原自白の信用性に関する刑事裁判所の見解

本件ピース缶爆弾事件については、原告ら併合組に対する刑事事件が東京地裁刑事五部に係属し、増渕ら統一公判組に対する刑事事件が同地裁刑事九部に係属しており、いずれの判決においても、右佐古及び前原の自白の信用性について最終的には消極的判断を下しているものの、両判決とも、右両名の自白の信用性について、肯定的に受け取れる理由もある旨含みを残している点が注目に値する。この点は、被告水崎が右両名の自白の信用性を積極評価したことの合理性を肯定する一事情となり得る。

<4> 内藤自白に関する判断の合理性

内藤の供述経過は、同人が、秘匿していた事実を逐次自白していった過程を如実に示すものであると解されたことから、内藤が八・九機事件に関与したことを認める同人の自白は十分に信用できると判断された。

なお、内藤は、その供述態度から、捜査官に迎合しやすい性格が看取されたため、同人の取調べを担当した濱田検事及び田村巡査部長においては、誘導を避け、内藤の自発的な供述を得るように心がけ、かつ各調書の記載からも明らかなように、同人の言をそのまま録取するなど、十分な配慮をして取調べを行ったものである。この点からも、内藤の供述は、その内容に若干の記憶違い、混同等はあっても、大筋において信用するに値するものと判断された。実際、内藤は、自己の公判段階でも、論告終了に至るまで公訴事実をほぼ認める旨の供述を維持した。

<5> 村松自白に関する判断の合理性

I アメ文事件に関する自白

村松は、その長い過激派活動歴と極めて強い革命思想、反権力思想、反抗的、激情的な性格等に照らし、検察官あるいは警察官の取調べに対し、身に覚えのない犯行への関与を自白するなどということは到底考えられなかった。しかし、村松は、起訴後においてではあるが、自らアメ文事件に関与したことを認めたのであって、右事実は、それ自体、同人が真実アメ文事件に加担していたことを物語るものと判断された。そこで、同人の自白中、前原及び佐古の各自白と符合しない部分を除き、その他の供述には基本的に信用性を認めることができるばかりか、村松自白によって裏付けられた佐古及び前原の各供述は、極めて信用性が高いとの確信が得られた。

他方、村松が、自白する一方で、客観的証拠と符合しない虚偽の事実をあえて混入させた供述をし、また、全般的に抽象的かつ曖昧な供述をしていることについては、村松が、自白しながらもなお将来公判で争う余地を作っておく意図から、故意に虚偽の供述を混在させ、共犯者の供述との齟齬、矛盾を作出しているものと判断された。

II 八・九機事件に関する自白

村松は、アメ文事件について、起訴翌日の二月一三日、自らすすんで検事調べを受けたいと申し出た上、事件への関与を積極的に認めた。さらに、八・九機事件についても、同日から自白を始め、被告水崎は、右供述に一応の評価を与えていた。

被告水崎は、村松の取調担当官であった濱田検事からの取調状況に関する報告や作成された供述調書の内容からして、村松供述については、事案の真相に近いが、最後の土壇場になると責任回避的になる傾向が認められるが、前記<2>のII及び<4>で述べたとおり信用性の極めて高い前原及び内藤の供述と符合する部分や関係被疑者らの行動に関する部分については、村松の供述の信用性が高いと判断した。

一方、村松の供述は、信用性の高い前原及び内藤の各自白と重要な事柄について大きく相違していた。この点、被告水崎は、その供述の経緯、態度等に照らして、村松が、捜査の攪乱を図り、あるいは自己の罪責の軽減を企てるため、殊更に虚偽の事実を織り交ぜた供述をしているものと解すべきで、同人の自白中、前原及び内藤の自白と符合しない部分については、その裏付けもないところからその信用性が十分でないと判断した。しかし、村松はL研メンバーの中で増渕と並んで指導的立場にある活動家であり、その活動歴、革命思想、反権力意識の強固さ等からみて、検察官あるいは警察官に対し、身に覚えのない犯罪に加功したなどという虚偽の自白をするとは到底考えられなかったところ、その村松が虚偽供述を織り交ぜながらも、諸点につき前原及び内藤の各自白と基本的に符合した供述をしたのであって、被告水崎は信用し得ると判断した。

<6> 増渕自白に関する判断の合理性

I アメ文事件に関する自白

被告水崎は、増渕の自白内容をつぶさに検討した結果、増渕が自己の罪責の軽減あるいは捜査の攪乱等を意図して、殊更虚偽の事実を混入させたり、共犯者の供述と食い違う供述をしたり、あるいは具体的な供述を避けたりしている疑いが濃厚であり、したがって、同人の自白の中の佐古及び前原の各自白と符合しない部分については、その裏付けもないところからその信用性は十分ではないとの心証を得た。しかし、増渕についても、L研のリーダーであるばかりでなく、社研グループに対しても強い指導力を及ぼしていた活動家であり、村松と同様、その長い過激派活動歴や極めて強い革命反権力思想を持つものであり、現に取調べにおいても完全黙秘を続けるなど強い抵抗を示していたこと等に照らすと、身に覚えのない犯行への関与を自白することは到底考えられず、増渕自身がアメ文事件に関与し、しかもその指揮をとったことを自認していることこそを重視すべきものと判断した。

したがって、増渕の自白のうち、基本的に佐古及び前原の自白と符合している部分の限りにおいては、十分に信用し得ると判断した。

被告水崎は、L研のリーダー格であり、強固な暴力革命思想、反権力思想を有する増渕や村松が、自ら本件への関与を認めたことも、佐古のみならず前原の自白の信用性を担保するものであると判断し、アメ文事件がL研グループの増渕、村松、佐古及び前原の共犯による犯行であるとの判断を揺るぎないものとした。

II 八・九機事件に関する自白

増渕は前記Iのアメ文事件のときよりも積極的で素直に八・九機事件を供述した。被告水崎は右供述にも一応の評価を与え、事件の重要な部分についての供述は信用できると判断した。

増渕は八・九機事件に関与した事実こそ認めているが、その供述経過や内容の変転並びに前記<2>のII及び<4>で述べた信用性の高い前原及び内藤らの供述との不一致等に照らすと、被告水崎は、前記<5>のIIで村松について述べたのと同様、前原及び内藤の自白と符合しない部分については、その信用性が十分でないと判断した。しかし、増渕は、L研の中心人物であり、共産同あるいは赤軍派メンバーとして、東海大学及び法政大学の各在学中を通じて長期間過激派の活動に従事し、L研のリーダーとして指導力を発揮し強固な暴力革命思想や反権力思想を有していたものであるから、前記<5>のIIで村松について述べたのと同様、検察官あるいは警察官に対し、身に覚えのない犯罪に加功したなどという虚偽の自白をするとは到底考えられなかった。被告水崎は、このような増渕が取調べに対し、自ら八・九機事件に関与し、しかも犯行の指揮をとったことを認めたこと自体、特にその供述の信用性が高いと評価すべきと考えた。そして増渕の自白のうち、前原及び内藤の各自白とほぼ符合する点については、信用し得ると判断した。

<7> 原告及び堀の黙秘ないし否認供述に関する判断の合理性

原告及び堀については、前原、内藤及び村松らの各自白等によって、いずれも八・九機事件の実行行為者である嫌疑が認められ、逮捕・勾留の上、取調べを受けるようになった。

このような場合、被疑者たる地位に置かれた者は、通常、自白に有利な事実があれば、それを自発的に供述しようとするものであり、特に本件のような重大事件の被疑者とされた者らが、仮に無実であったなら、アリバイ等それを証明ないし疎明する事実を積極的に主張するなどあらゆる努力をするのが当然である。しかし、原告及び堀は、検察官あるいは警察官から、アリバイ等を含め自己に有利な供述をし弁解をする機会を十分に与えられるとともに取調官から幾度か慫慂されたにもかかわらず、いずれも単に事件との関係を否定し又は黙秘するのみで、何ら具体的な弁解をしなかった。

したがって、被告水崎としては、原告らが何ら自己のために有利な具体的弁解をしない以上、その否認等には何らの根拠がなく、他の関係証拠に照らし、八・九機事件に係る犯罪の嫌疑につき合理的疑いをさしはさむ余地はないと判断した。

<8> 八・九機事件起訴を違法とする原告のその他の主張に対する反論

I 八・九機事件の実行状況(原告の主張2の(四)の(2)の<1>及び<2>)について

前原のフラッシュを見たとの供述は、経験した者にして初めて述べ得るような臨場感に富んだものである一方、フラッシュを見た後の行動はこれに比して記憶の希薄化や混同を来しやすい事柄であり、これについての供述の変遷はあながち不自然ではない。被告水崎が、前原のフラッシュを見たとの供述が臨場感に溢れ極めて信用性が高く、ひいては同人の供述全体の信用性を増すものであると評価したのは当然である。

また、当時の過激派学生らの行動様式や思考形態は、合理性を欠き社会の通常の尺度をもって測り難いものがあったのであり、増渕らがレポの必要性や実行方法について十分検討しないまま教条的にレポを立てたとしても特段奇異なことではなく、原告指摘に係る程度のことは、内藤の自白の信用性を何ら左右するものではないと思料された。

前原及び内藤が本件の取調べを受けたのは、事件後約三年半も経過した時点であること、また、両名は爆弾投てきそのものを担当したのではなく、現場付近で効果測定やレポという従的役割を担当したにすぎず、したがって、爆弾投てき班の者に比し、犯行現場における緊張感の度合いや印象がやや弱かったものと推測されること等を考慮すると、原告主張の両名の供述の相違等がその自白全体の信用性を損なうものとは到底考えられなかった。

II 八・九機事件の投てき犯人の人数(前記項目の<3>)について

原告の主張は、八・九機事件で爆弾投てきに直接関与した犯人が一名である可能性が高いことを前提とする。しかし、原告のいう「投てきに直接関与した犯人の数」とは、要するに目撃者によって本件現場付近から逃走したと思料される者の数であり、一方、前原及び内藤の供述する「投てき者三名」は、増渕の指示で爆弾投てきを担当することとなったか又はこれを担当した者(投てき班)の人数である。現場付近から逃走した者の人数については、河村巡査の目撃した男一名と高杉早苗が現認した男一名が同一人物か否かさえ明確でない上、同巡査が通行人から三人の男が逃げて行ったと教えられている点からしても、その数は必ずしも明らかでない。仮に目撃者の供述から認められる「逃走した人物」が一人であったとしても、それが直ちに「投てき班に属した人物」の数を示すものでないことも自明の理であるから、このことをもって投てき班が三名であったとする前原及び内藤の供述の信用性を否定する根拠とはできない。

河村の昭和四八年二月二一日付け検面調書は、河村の昭和四四年一〇月二五日付け現認報告書の内容と一致している。右報告書は、事件の翌日、外部からの情報等がほとんど期待できない状況下で河村自身が作成したものであるから、非常に信憑性が高く、それと合致する右検面調書の信用性も高いことは明らかである。河村の昭和四八年二月一八日付け員面調書の作成者は、右報告書の記載内容を十分把握せず、犯人追跡状況全般を概括的に聴取して調書化したため、目撃者からの事情聴取部分は、いささか不正確な記載になったものと推認される。また、その時点では、約三年半の経過等の理由から河村自身の記憶が不鮮明になっていたものと思われる。一方、被告水崎は、爆弾投てき犯人グループを特定するため、その人数、特徴等を確認することに力点を置いて河村から事情を聴取し、その際、右報告書に基づいて、詳細に河村の記憶を喚起したことから、結果的に右報告書と同じ内容の供述が得られたのである。

また、内藤は、八・九機事件が被告菊井も参加した製造事件及び一〇・二一闘争と接近していたことや、そのころ被告菊井と共に喫茶店及び若松町食堂に行ったという記憶があったこと等から、記憶の混同を来したため、被告菊井が八・九機事件にも参加していたものと思い込み、前原と異なる供述をしたものと思料された。そして、前原供述は被告菊井に参加を誘いかけたか否かの点で変遷するものの、この点の供述は伝聞にわたる事柄であって、しかも約三年半前の事件に関する供述であるから、この程度の変遷があることも当然というべきであり、八・九機事件に被告菊井が参加しなかった旨の前原自白の信用性に影響を及ぼすものではないと判断されたのである。

III 導火線切断に関する供述(前記項目の<4>)について

導火線切断に関する供述が前原及び内藤の自白に現れていないのは、原告主張に係る導火線の特徴が極めて些細な事柄であり、取調官がこの点を究明する必要性を認識し得なかったことから、前原らに供述を求めなかったからだと思料される。したがって、右供述がないからといって、異とするに足りるほどのものではなかった。また、前原の最終供述をみると、実験に使用した導火線について同人は明確な記憶を有していなかったものと認められる。原告主張のように、前原の多岐にわたる中間供述の一部を取り上げて自白全体の信用性を検討するのは相当でない。

IV 下見に関する供述の不自然性(前記項目の<5>)について

そもそも下見は、襲撃に備えて対象物の状況及び周辺の道路状況を見て回るもので、可能な限りその周囲を広く見て回らなければ無意味であるから、前原が供述するように、八・九機隊舎及びその周辺を広く歩き回るのはむしろ当然のことであって、何ら不自然なことではない。また前原が、機動隊員が河田町交差点方向にいたことまで述べなかったとしても、それは同人の説明不足にほかならず、下見の結果と何ら抵触するものではないと解された。したがって、被告水崎は原告主張の事実は前原自白の信用性を損なうものとは考えなかった。

V 犯行前後の喫茶店集合に関する供述の不自然性(前記項目の<6>)について

犯行に関与した者が犯行直前に喫茶店に集合したとの点は、一見不自然の感がなくはないが、各自がばらばらにアジトを出て、喫茶店に集合することは、警察の目をくらますことになる上、アジト出発後参加者の一部に事故が発生するなどした場合、より臨機応変の行動を可能にし、また、犯行直後の集合は、素早く結果を把握し、状況に応じた対策を講じる意味で効果的である。このような目的で犯行に参加した者が客として出入りしたとしても、不特定多数の客を相手とする喫茶店の従業員らが、いちいちその言動に関心を抱くとは思われないから、喫茶店の集合そのものを目して不自然であるというのはあたらない。また、集合者についての前原と内藤の供述が一致しない点も、集合した顔ぶれが日常的に顔を合わせていたL研メンバーらであって、もともと記憶の希薄化、混同を来しやすい事柄であることを考えれば、取り立てて重視すべきものとは思われなかった。

また、捜査官は、増渕が取調べ当初から事実を否認し、あるいは意図的に虚偽の供述を混入するなどしていたことを熟知していた上、増渕の二月一八日付け員面調書は極めて抽象的で、しかも虚偽の事実が含まれている疑いもあったのであるから、取調官が増渕の右供述に基づいて前原及び内藤を追求することはありえない。

VI 犯行前日の喫茶店における謀議に関する供述の不自然性(前記項目の<7>)について

内藤及び前原は、事件前日の午後、河田町アジトにおいて本件の謀議がされた旨供述しており、その前の喫茶店での謀議の状況等に関する前原の供述がかなり曖昧であることからすると、右謀議は予備的あるいは連絡的なもので、簡単な話し合いがされた程度のものとも解された。したがって、右謀議の有無はさほど重要ではなかった。さらに、前記<5>のII及び<6>のIIで述べたとおり増渕及び村松の自白には措信し難い点が多々あることが明らかであったので、取調官が増渕及び村松の供述を基にして前原あるいは内藤にその事実を押しつけ、これを認めさせるなどということはあり得なかった。

内藤の供述する「横からの攻撃」については、村松も河田町アジトにおける謀議の席上、種々の攻撃方法の話が出たと供述していることに照らすと、右「横からの攻撃」もその一つとして話し合われたものの、その後それが正門への攻撃に固まっていったものと認められたのであり、内藤が右経過を詳細に供述しないのは年月の経過による記憶の脱落のためと合理的に認められた。また、前原がこの点につき供述しないのも同様の理由によるものと認められたので、内藤及び前原の供述の信用性が否定されるものとはいえないと判断された。

内藤の供述する爆弾の入手経路については、内藤が三月七日付け員面調書で客観的事実に反する爆弾の入手経路を供述した時点で、同人は、いまだピース缶爆弾製造の事実を自白していなかった。右時点で、内藤が、自己がピース缶爆弾の製造に参加したことを秘匿するため、殊更虚偽の供述をしたとみるのが自然である。また、前原の供述によれば、内藤は、八・九機攻撃に使用する爆弾が自己らの製造にかかるもので、一〇・二一闘争で使用されずに持ち帰られたものであることを知っていたと認められたことからも、内藤の右供述は問題とするに足りないと思料された。

内藤が、捜査の初期において、増渕は八・九機事件に参加しなかったように思うと供述していたのは、当初記憶を十分喚起し得なかったためと認められる。その後記憶を喚起して増渕も謀議に参加したことを思い出したことは、内藤が東京地裁刑事八部における自己の第三回公判でも、増渕が謀議に参加した旨明瞭に述べていることからも明らかである。右供述の変遷を不自然とする原告の主張は失当である。

(二) 製造事件の公訴提起の適法性

(1) 検察官の公訴提起において現に収集していた証拠資料

被告親崎は、原告を製造事件の共犯者として起訴するに当たり、収集した検察官あるいは警察官作成の捜査関係書類、供述調書のほか証拠物等多くの証拠を検討し、原告が製造事件の共犯者であることを立証するには、次の<1>ないし<6>が重要な証拠であると判断した。

<1> アメ文事件及び八・九機事件において遺留されたピース缶爆弾等の形状

<2> 八・九機事件において現場に遺留されたピース缶爆弾等の鑑定

<3> 佐古、前原、内藤、江口、石井、村松及び増渕の製造事件に関する各自白

<4> 関係各証拠によって認められるL研の活動状況

<5> 檜谷伝言(前原が、昭和四八年二月二八日、東京地方検察庁地下同行室において、増渕とたまたま留置場で同房であった檜谷啓二に対し、増渕への伝言として、「窃盗は処分保留となったが、アメ文で再逮捕された。アメ文と八・九機については、ある程度供述してしまったが、爆弾製造の件についてはまだ供述していない。佐古は自分をきれいにするつもりで完全に供述していると考えられる。堀からは、あまり供述が出ていないと考えられる」などと伝えてくれるよう依頼した。)

<6> 原告、堀、前林、被告菊井及び平野の否認ないし黙秘

(2) 検察官の公訴提起における判断

被告親崎は、製造事件について、アメ文事件あるいは八・九機事件の際現場に遺留された証拠物(前記(1)の<1>及び<2>)等を検討したところ、いずれも犯人を特定するに足るものではなかったが、佐古、前原及び内藤の「増渕の指揮の下に原告、村松、佐古、前原、内藤、堀、前林、江口、石井、平野、国井及び被告菊井の一三名が河田町アジトにおいてピース缶爆弾を製造した」旨の各自白は、いずれも信用性が高いと判断されたこと(前記(1)の<3>)、江口、石井、村松及び増渕も、それぞれの組織上の地位あるいは立場から一部虚偽を交えていると思料されたものの、少なくとも自らが右爆弾製造に関与したことを認めていたこと(前記(1)の<3>)、原告、堀、前林、被告菊井及び平野は否認ないし黙秘をしており、アリバイ主張がなかったこと(前記(1)の<6>)等に照らし、原告が製造事件の共犯であって、有罪と認められるに足る嫌疑があると判断した。

(3) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料についての検討

<1> 石井アリバイに関する裏付け捜査について

石井は、捜査段階では本件爆弾製造当日河田町アジトの周囲でレポをした旨自白しており、公判段階に至っても起訴事実を基本的に認める立場をとっていたのであるから、犯罪事実を否定する根拠となるアリバイを主張することなどあり得ないのであって、本件訴訟において石井アリバイを強調するのは明らかに誤っている。すなわち、仮に捜査段階で石井が犯行を積極的に否定してアリバイを主張していたのであれば、捜査機関としても、そのアリバイの成否を確認するための積極的かつ突っ込んだ裏付け捜査をしていたはずであるが、本件捜査当時、捜査機関は、石井の勤務状況を犯行日時(爆弾製造日)を特定するための一つの裏付け証拠として把握していたのであって、犯行日の特定に関して複数存する裏付け手段のうちの選択肢の一つにすぎないと考えていた。したがって、本件において実際に行われた警察の裏付け活動は、石井の勤務先組合に行って石井の勤務実態と勤務日時に関する資料等の提供を求めた程度であり、結局勤務先組合からの協力が得られなかったため、それ以上執拗な裏付けを断念しているのである。当時の捜査機関は石井の勤務状況をアリバイの問題として明確に認識していなかったのであるから、任意で協力を依頼した勤務先組合から資料等の提供を拒まれた以上、当該裏付けを断念したのは誠にやむを得ないことであり、また、これを是認して再度の入念な裏付けまで指揮しなかった被告親崎の判断にも特段の落ち度は認められない。

したがって、捜査段階から石井アリバイが主張されていたことを前提として、アリバイの成立を完全に払拭する裏付けをしなかった違法があるという原告の主張は、石井供述の意味を取り違えたもので、明らかに失当である。被告親崎は、捜査段階で石井の勤務状況に関し通常要求される捜査を遂げており、右状況に関する裏付けが取れなかったのはやむを得なかったのであるから、本件訴訟の違法性判断資料として斟酌することはできない。

<2> ミナミ及びエイトの休業日に関する裏付け捜査について

右休業日は、本件捜査当時、爆弾製造日を特定するための有力な証拠とはなり得なかったのであり、被告親崎において、その必要性を踏まえて休業日を特定する裏付け捜査をしなかったのはやむを得ないことであって、通常要求される捜査を怠ったものではない。

本件捜査が進行していた時点において、ミナミ及びエイトの休業日の捜査における必要性の程度について検討すると、まず一般論として右休業日が爆弾製造日(犯行日)の限定に資することは否定できないものの、被疑者らは、その大半が学園紛争が熾烈で講義も開くことができない状況下における学生達であったから、日曜祭日だけでなく、平日のいついかなる時点においても連絡・集合が可能であり、また、当時の各人の日々の行動を明らかにできるような日程表等も存しなかったので、三年半も前の犯行日を特定すること自体が非常に困難な状況にあった。その上、石井アリバイにおける石井の勤務状況に関する資料を考慮に入れることができなかった当時の状況下においては、仮に右ミナミの休業日によって製造前謀議日を限定しようとしても、せいぜいで一週間のうち一日程度(実際にも、一〇月一〇日及び一二日の二日間にすぎなかった。)が除外されるにとどまり、犯行日の特定ないし限定にさしたる影響を与えず、まして犯罪事実の存否の認定の積極的な資料になり得なかったことは明らかであった。

したがって、石井アリバイが出現していない本件捜査が進行していた段階での証拠関係からすれば、ミナミ及びエイトの休業日だけでは犯行日の特定にほとんど意味を持たなかったので、被告親崎がこの点についてまで明確な裏付けをしなかったとしてもやむを得なかった。

(4) 検察官の公訴提起における判断の合理性

<1> 佐古自白に関する判断の合理性

被告親崎は、アメ文事件に関して若干佐古を取り調べただけであるが、同人は、非常に素直であり、供述も一つ一つ頭の中で整理した上、メモを作成するなど積極的で、非常に真摯な供述態度であるとの印象を受けた。佐古は、取調警察官が、ピース缶爆弾の入手ないし製造に関する従来の佐古供述に不審を抱き、昭和四八年二月一二日、右の点について佐古を取り調べたところ、取調べ開始後間もなくピース缶爆弾を製造した事実を自白したものであって、その経緯は極めて自然なものであった。そして佐古は同年一月一六日ころ以降、一貫してアメ文事件及び八・九機事件の自白を維持していただけでなく、同人の自白がアメ文事件及び八・九機事件の捜査の端緒となり、その後前原あるいは村松、増渕らの自白によりこれが裏付けられて事案の解明がされてきたという従前の捜査の経緯があった。また佐古が製造事件について自白した際に、それまで受け入れてきた救援連絡センターからの差入れを断ったこと及び自白の二日後の二月一四日に、シャンネル・プランタン会談における江口の日石・土田邸事件に関する会話を暴露する供述をしていること等を併せ考えると、佐古がこの時点において、これまで隠していたことを明らかにして罪を清算する心境になっていたことが認められた。しかも、佐古の自白は、その後も一貫して維持され、かつ、その内容は具体的で、その後の前原、増渕及び内藤らの自白とも大筋において合致していた。右に述べた諸事情に照らし、被告親崎は佐古自白の信用性が極めて高いと判断した。

<2> 前原自白に関する判断の合理性

被告親崎は、前原の取調べを行った結果、同人が人間的にしっかりしている上、非常に真摯な供述態度で、自分の供述に自信を持っているとの印象を受けていたので、同人の供述に高い信頼を置いていた。

前原は檜谷伝言の告白を契機に製造事件について自白した。右伝言は、共犯者の増渕に対するものであるだけに、自己の心情を披瀝したものと認められるところ、明らかにアメ文事件、八・九機事件及び製造事件について、自分達が敢行したものであり、取調官から追及を受けるのは当然であることを前提にしているものと理解された。このように、前原の自白の経緯は極めて自然であって、このことは同人の自白の信用性を強く担保するものと解された。

また、前原の本件ピース缶爆弾事件に関する一連の自白を調書の記載上からみると、同人は、アメ文事件については乾電池と電気雷管の接続を、八・九機事件については下見を、製造事件については導火線燃焼実験を、それぞれ漠然とした形で供述し、これらの記憶を手掛かりとして次第に記憶を喚起していったような外観となっている。右供述状況から、前原は、自己が関与した事実を初めからすべて打ち明けて自白するというのではなく、隠しきれないと思った事実から小出しに供述しているものと認められた。調書の体裁は「思い出した」という形になっているが、取調官も前原の立場、面目を考え、前原の供述態度を知りながら、前原の言うまま調書に録取したのである。しかし、たとえ自己の非を悔い、犯行を自供しようと決意した場合であっても、当初から犯行の全容を述べることは、供述心理の面からみて通常ほとんどないことであるから、右供述態度は、何ら不自然なものではなく、その信用性を何ら減殺するものではないと判断された。

したがって、前原の自白はその大筋において一貫しており、同人は、自己の行為に対する反省等から自己の体験した事実を逐次明らかにし、最終的にはその全容を供述するに至ったものと認められた。

<3> 内藤自白に関する判断の合理性

内藤は自己が製造事件に関与したことについて、一時否認に転じたことがあったが、再度これを認めてからは詳細に事実を供述するようになり、その後も一貫して右自白を維持した。

もっとも、内藤の供述中には、他の共犯者の供述には現れない富岡晴代、元山貴美子といった者までが爆弾製造に参加していた旨、爆弾の製造現場には特殊な薬品が多数用意されており、製造したピース缶爆弾には糊状の薬品が詰められた旨の客観的事実と矛盾する部分もないわけではなかった。しかし、内藤は、前記(一)の(4)の<4>で述べたとおり、既に八・九機事件について、佐古及び前原らの自白と大筋において符合する信用性の高い供述をしていた上、製造事件についても、細部はともかく大筋において佐古及び前原らの自白と符合する具体的かつ詳細な供述をしたことから、被告親崎は、その自白の信用性は決して低いものではないと判断した。

<4> 増渕及び村松の自白に関する判断の合理性

増渕及び村松は、前記(一)の(4)の<5>及び<6>で述べたとおり、自白内容に殊更に虚偽の事実を混入させて供述しているものと認められ、同人らの供述中、佐古及び前原らの供述と符合しない部分は信用性が十分でないと考えられた。

しかし、増渕及び村松の組織内における地位やその革命思想、反権力意識の強固さ等にかんがみると、両名が、自己らを含むL研グループの者が赤軍派の指示に基づいてピース缶爆弾を多数製造し、製造された爆弾は花園ら赤軍派の者に引き渡されたことなど、事件の基本的な流れを認めたことは、それ自体極めて信用性が高いと判断された。

また、増渕は、取調べ当時、同人との結婚が約束され、妊娠中であった前林について、ピース缶爆弾製造時、同女がレポをしていたことを認めるに至っているところ、仮に同女が真実犯行に加わっていないのであれば、増渕において同女を庇い立てこそすれ、殊更虚偽を述べてまで同女を共犯者に仕立て上げなければならない必然性はどこにもなく、被告親崎は、この点からも右供述の信用性が高いと判断した。

<5> 江口及び石井の自白に関する判断の合理性

江口は、弁護人と接見直後、警察官の取調べに対し、「やったかどうかはっきりしない」と言いつつも「認めてもよい」と言うに至り、直ちに被告親崎が江口を直接取り調べたところ、江口は、結論的に自己の罪責を認め、続く緒方検事の取調べに対してもこれを維持し、より詳細な自白をするに至った。江口は自己の行為のみについて供述するだけで、共犯者等については一切供述せず、しかもその供述内容は曖昧かつ全体的に概括的である。しかし、一〇・二一闘争の直前ころ、河田町アジトにL研メンバーが集まってピース缶爆弾を作り、自らもピース缶に薬品を充填したこと、そのピース缶爆弾は一〇・二一闘争で機動隊を殲滅するために使われるものだとの認識を持っていたことについては明確に認めているところ、江口は、長期間にわたり左翼、労働運動に従事し、極めて強い反権力意識や権利意識を有していることからも、同女が取調べに対して身に覚えのない事柄を自白するなどということは到底考えられなかった。よって、被告親崎は、右供述は極めて信用性が高いと評価した。また、右自白は、江口が一連のピース缶爆弾事件の捜査過程でしたほとんど唯一の不利益事実の自認であるが、これは、否認を貫こうとした江口が隠し切れなくなって自白を決意したものの、最低限の自己の罪責のみを認め、それでもなお共犯者については供述しないという過激派組織に属する者としては十分に了解可能な供述態度と解されるのであり、この点からも右自白は十分信用できると判断した。さらに、被告親崎は、直接江口を取り調べた結果、同女が非常にしっかりしており、人の顔色を見ながら小出しにする癖は認められたものの、供述について後で撤回するようなことはなく、かなり責任を持っているという印象を受け、この点からも江口供述に高い信頼をおいた。

石井は、製造事件当時は、まだ左翼活動等に対する関心、興味の程度も低く、村松と同棲中で、同人の強い影響を受けて本件に関与するようになったという事情があった上、石井自身記憶力が必ずしもよくなく、記憶の混同や思い違いもあって、同女の供述は必ずしも全面的には信用し難い。しかし、佐古、前原、内藤、そして増渕さえもが石井においてレポをしたことを認めていることに照らすと、被告親崎において、石井の「河田町アジトでL研メンバーらが爆弾を製造した時に、これを承知の上でレポをした」旨の供述は十分信用に値するものと判断できた。

<6> 原告、堀、前林、菊井及び平野の黙秘ないし否認供述に関する判断の合理性

原告は、昭和四八年三月一三日に製造事件で逮捕されてからも黙秘を続け、起訴直前の同年四月三日までの間に、一九回にわたる取調べを受けているが、終始黙秘し、供述調書の作成にも応じなかった。右取調べの際、原告は、取調官から十分な弁解の機会を与えられ、アリバイ等の反証があるなら提示するよう求められたが、結局最後まで黙秘を通したのである。また、同じく黙秘ないし否認に終始した堀、前林、菊井及び平野についても、取調官は、十分な弁解の機会を与え、かつアリバイ等の反証を提示するよう求めたが、何らの反証の提示はなかった。したがって、被告親崎は、右黙秘ないし否認供述には何らの根拠がなく、他の関係証拠に照らして犯罪事実を否定するような積極的評価を与えるほどのものではないと判断した。

なお、菊井については、被告親崎が製造事件の弁解録取を担当し、結局は否認であったものの、その内容はこの段階では認めないという流動的なものであった。さらに、菊井の方から、アジト設定の経緯や出入り状況、増渕との関係、一〇・二一闘争に向けての増渕と赤軍派との関係や増渕の取組状況等を積極的に供述したので、被告親崎はこれを全面否認とは受け取らず、割合しっかりした男であるとの印象を受けていた。そして菊井は公判段階に至って本件犯行を認める証言をしたのである。

<7> 製造事件起訴を違法とする原告のその他の主張に対する反論

I 謀議(原告の主張2の(五)の(2)の<1>)について

(a) 謀議の場所及び参加者(前記項目のI)について

被告親崎は、捜査の過程で製造事件の謀議に関し、被疑者らの供述をできる限り整理して、謀議の事実を認定し得るか否かを解明するよう努め、次のとおり判断した。

すなわち、いわゆるミナミ謀議については、起訴の時点において被告菊井が製造事件への参加を否認していたため、菊井証言に基づいて裁判所が行ったような具体的な検討をする余地がなかったものの、増渕及び村松が、一致した供述をしていたことから、右謀議の存在を認定することができた。

前原が供述する住吉町アジトでの謀議については、同所で導火線燃焼実験をしたことやその参加メンバーについて前原と村松の供述が一致したことに照らし、前原の供述の信用性は極めて高く、右謀議存在の可能性もまた極めて高いものと判断した。

一方、佐古の供述する若松町アジトの謀議については、住吉町アジトでの謀議に比して確たる心証を得るには至らなかった。

被告親崎は、右のような検討の末、起訴時においては、喫茶店「ミナミ」で増渕、村松及び原告が、住吉町アジトで前原、佐古、増渕、村松及び石井が各謀議したものと証拠上十分認定できると判断した。

そして原告については、住吉町アジトでの謀議に参加していたと断定はできなかったものの、右に述べた増渕及び村松の各供述により、少なくともミナミから早稲田アジトにダイナマイト等の爆弾材料を受け取りに行った事実が明らかに認められたことから、増渕らと原告との間に論理則上、ピース缶爆弾製造について事前の意思疎通があったことは十分推認できたのである。

ところで、各被疑者間での謀議の場所や参加メンバーについて供述の一致をみなかったのは、次のようなことに原因があると考えた。すなわち、製造事件当時の状況をみると、増渕の爆弾製造の提案は、L研及び社研メンバーにとっては当然のこととして受け取られ、しかも、集合という事象自体は当時日常的にしばしば行われ、各アジト及びその付近の喫茶店などは右メンバーが共通して出入りしていたことから、謀議の場所、内容及び参加メンバー等の印象が薄いものにとどまったと考えられた。これに加え、約三年半の日時の経過を考慮すると、多数回のそれぞれの集合日時、場所、参加者の氏名や席上での話題等については、記憶の混同、忘失を生じ、容易に記憶が蘇らないことがあっても何ら不自然ではないと思われた(むしろ完全に一致する方が信用性に疑問が残るのである。)したがって、この点についての供述不一致は、各人の供述全体の信用性を左右するようなものではないと判断された。

また、被疑者間において同じような内容の謀議が繰り返されたとの点について、爆弾製造に関する話し合いは、その性質上、根回し的なものや確認的なもの等各般にわたるものであるから、謀議的行為が数回行われたからといって、一概に不自然とはいえない。そして謀議の内容についての供述も、各人それぞれ、その時々の立場、関心等によって自ずからニュアンスが異なるのは当然であることから、複数回の謀議内容を混同し、あるいは一括して記憶していることもあり得ないことではないと思料されたので、この点についても、被告親崎は、各人の供述全体の信用性に疑問をさしはさむ余地はないと判断した。

(b) 製造の契機(前記項目のII)について

前原が早大正門前集結について述べないのは、右集結が赤軍派との共闘であり、かつ現場に赤軍派の者がかなりいたことから、同派のメンバーの氏名を秘匿する必要があったためと思料された。また、増渕及び村松については、その供述態度から右集結を秘匿しているものであると認められ、さらに、佐古は、右集結の日時やこれに参加したL研メンバーについて特定するに足りるだけの確たる証拠があって供述したものではないと考えられた。以上の検討から、被告親崎は、右集結の日時、参加メンバーこそ明確でないものの、集結の事実自体は存したことが明らかであると判断した。したがって、原告主張の点は、佐古の自白全体の信用性を損なうものとは到底考えられなかった。

(c) 導火線燃焼実験(前記項目のIV)について

佐古及び前原の導火線燃焼実験に関する供述は、その大筋において合致しており、年月の経過による記憶の希薄化を考えると、原告主張に係る細かい事項についての供述の齟齬を重視するのは相当でない。しかも、前記<4>で述べたように、村松の供述は、その個々の事項に関する限り、必ずしも全面的には借信し難いものであるから、その細部に食い違いがあることをもって、佐古及び前原の供述の信用性を否定するのは失当である。

被告親崎は、右燃焼実験に関する佐古、前原及び村松の供述は、L研主要メンバーが一堂に会して右実験を行ったとする特異な事象についての具体的供述として、その信用性を高く評価できるものであり、とりわけ、これまで極力具体的な供述を避けていた村松が、自分と石井が住んでいた住吉町アジトで右実験を行ったことを認める具体的な供述をしたことは、極めて重要な意義のあることであって、基本的に信用することができると判断した。

また、その際住吉町アジトで製造の謀議と解される会話があったか否かについて、関係者の供述は一様ではないが、前記(a)で述べたとおり、右会話があったと推認すべきである。右会話の内容等についての供述の相違は、各人の記憶の程度、受け取り方の違い、本件への参加に至る経緯の違い、さらには供述態度、立場の相違等によるものと合理的に判断されたのであり、右実験がされたとの認定を左右するような不一致とは到底解されなかった。

したがって、原告主張の点は、佐古らの自白全体の信用性を損なうものとは到底考えられなかった。

II 製造(謀議)の日時(原告の主張2の(五)の(2)の<2>)について

確かに、本件起訴後公判廷に顕出された関係証拠をも含めて本件謀議及び製造の日を検討すると、本件のピース缶爆弾は、一〇月一一日(土曜日)に製造の謀議がされ、翌一二日(日曜日)に製造されたと認めるのが相当であろう。

しかし、本件起訴時においては、まだ京都公安調査局事件の全容が解明されていなかったところ、本件ピース缶爆弾の製造には必ずしも特殊な知識や技能が必要であるとは認められないこと等の事情に照らすと、本件製造事件と京都公安調査局事件とが必然的に結び付くものとは思われなかった。一方、石井アリバイについては、石井自身アリバイの主張を何らしなかったばかりか、被告親崎は、本件起訴までに警察官に同女の勤務先における稼働状況を捜査させたにもかかわらず、後に公判廷に提出されたような資料を得るには至らなかった。

また、製造の日時につき各人の供述が一致しない点も、例えば、佐古が日付特定の基準にした前記Iの(b)記載の早大正門前集結の日は、同人が必ずしも確たる記憶によって述べたものではなく、これを基準とした製造日時についての供述も確固不動のものではなかった。元来日時に関する記憶は三年もの年月が経過するとかなり希薄になることは経験則上明らかであるから、特段の資料でもない限り、数日の相違が生じることはやむを得ないものというべきで、このことは、前原、内藤及び石井らの供述についても同様であった。したがって、被告親崎が、起訴時において、それまでの捜査結果を総合して、本件のピース缶爆弾製造の日を、比較的多くの者が供述する日とし、当時このような認定をしても客観的な障害となるような事情が何ら存しなかった一〇月一六日ころと認定したことには相当の理由がある。

なお、原告主張の江口アリバイ及び平野アリバイは五部判決も認めていないのであって、右主張事実が被疑者らの自白全体の信用性を損なうものでないことが明らかである。

III 製造参加者等(原告の主張2の(五)の(2)の<3>)について

(a) 爆弾製造の密行性等(前記項目のI)について

本件製造に参加したメンバーについては、各人の供述に不一致が認められたところ、被告親崎が特に注目したのは、その不一致は組織の末端に位置するとみられる者や供述がされた当時未検挙であった者についてであり、L研の組織的犯行であれば当然参加してしかるべきと思料される主要メンバーについては、各被疑者の供述相互間に不一致がなく、各被疑者毎にみれば、本件製造に参加したメンバーについての供述の変遷もさして大きなものではなかった点である。

被告親崎は、右状況を考慮の上、各被疑者が供述する参加者相互の具体的な接触状況等を基礎に慎重に検討した結果、本件製造に参加したメンバーは、増渕、村松、佐古、前原、原告、堀、前林、江口、菊井、国井、石井、平野及び内藤であると認定した。

そして、本件十数個の爆弾の製造にはかなりの手数がかかり、レポ要員を除き、被疑者らの述べる九名くらいで製造しても約四時間を要しており、仮にこれを四ないし五名で行えば、それ以上の相当長時間を要したものと推認されるところ、被疑者らにおいては、発覚の危険を少なくするため、当然できる限り短時間で作業を終わらせることを意図していたこと、秘密保持の面から少人数であることが好ましいとはいえ、本件では数名が見張りやレポをしていること、作業に際し履物、音声等に配意(特に対家主の関係で会話等に留意)していたこと等からすれば、被疑者らが述べる人数が不必要であったと断定することはできなかったし、その供述内容が決して不自然とも解されなかった。

しかも、製造場所である河田町アジトは、その玄関の位置が、表通りから約一七・七メートル入った人目につきにくい路地沿いの民家内にあり、爆弾を製造するには格好の場所と言い得るものであり、また、家主らの家族も間借人である佐古らの行動に格別の関心を抱いていたとは認められなかったことを併せ考えると、これを密行性を欠いた非現実的な発想であると断ずる原告の主張は、余りにも一方的な見方であり、到底納得し難いものである。

なお、平野の身体障害に関する主張については、右事情が、平野が爆弾作業に参加したか否かの判断に当たり、特段支障を来す事情とまでは考え難く、事実認定を左右するものではない。

(b) 平野及び内藤が河田町アジトに来た状況(前記項目のII)について

佐古は、既に村松が内藤及び平野の爆弾製造行為への参加を認め、内藤もこれを認めた後の昭和四八年三月三〇日に至って初めて、内藤及び平野の参加について供述している上、内藤らの行動についての供述が他の参加者についてのそれに比べて概略的な表現になっていること等に照らすと、当初は内藤及び平野を庇うつもりであり、その後同人らの参加自体を認めたとしてもその行動については詳細にわたって記憶が明確であったわけではなかったため、供述の不一致が生じたものと思料された。そして、内藤自身が爆弾製造行為への参加を認める具体的供述をしている以上、佐古の供述との不一致は取り立てて問題視するほどのものではないと判断された。

また、佐古、内藤及び石井の相互に会った場所についての供述に不一致がある点については、同人らは、製造当日午後一時ころに個々別々に河田町アジトに来ているのであって、その状況を正確に記憶していないとしても何ら不自然とはいえず、事柄の性質上、その相違が、同人らの供述の信用性を左右するものではないことが明らかであった。

(c) 製造参加者に関する佐古供述の変遷(前記項目のII)について

佐古の当初の供述をみると、同人は、増渕、村松、前原、佐古及び堀の五名を参加メンバーとして挙げ、「この五名ははっきりしておりますが、その他に青山(原告の偽名)や国井らがいたかもしれませんがはっきりしません」と述べているにすぎず、参加人数を五名ないし七名に限定して供述しているわけではない。しかも、佐古は、本件爆弾をL研として製造したということで自白を始めたところから、現実にもL研メンバーで製造の中心的な役割を果たした自己や、増渕、村松、前原、堀、原告及び国井の名前を参加者として挙げたことは極めて自然な経緯とみることができた。佐古はその後の取調べに対し、石井、江口、菊井、平野、内藤及び前林の六名の名前を挙げたのであるが、当時佐古には、事案の性質上、犯行加担者をできるだけ限定しようとする意図があったこともうかがわれ、佐古が後に名前を挙げた者は、いずれもL研の正規のメンバーではない者(平野及び内藤は社研のメンバーである。)、結成当初からのメンバーではない者(江口、前林及び菊井)、L研の活動自体についてもまた製造事件の際の行動についても必ずしも積極的、重要な役割を果たしたとは認め難い者(石井、菊井、平野、内藤及び前林)等であることから、佐古において従属的なこれらの者を庇う気持ちがあったと思料された。

したがって、佐古が右六名の名前を順次自白していったこともあながち不自然、不合理とはいえなかった。

なお、佐古は当初、「平野及び内藤は参加しなかった。謀議の際、社研メンバーを製造メンバーに加えないことになった」旨供述していた。しかし、謀議の席上で右のような話が出たとするのは佐古のみであったことに徴しても、佐古の右供述は、内藤及び平野を隠すために考えた口実であると合理的に判断され、この点も佐古の供述全体の信用性を損なうものとは到底考えられなかった。

IV 製造材料及び使用器具(原告の主張2の(五)の(2)の<4>)について

(a) ダイナマイト、工業用雷管及び導火線(前記項目のI)について

ダイナマイト等の入手に関する村松供述の裏付けとして、増渕供述は<4>に述べたとおり、全てをありのままに自供したものではなく、佐古供述にはその個々の供述内容に記憶の混乱ないし欠落による誤りがないわけではないことを考慮すると、増渕及び佐古が村松供述に符合した供述をしていないことを過大視して村松の右供述の信用性を疑うことは相当でない。

早稲田アジトにあったとされるダイナマイト等の同アジト搬入前の入手先に関する佐古の供述についていえば、増渕供述は前記<4>に述べたとおり、殊更虚偽を混入するなどしている疑いが強いものであるから、これと合致しないことをもって佐古の右供述の信用性を疑うのは相当でない。そして、原告主張のとおり、青梅方面からのダイナマイト窃取についての裏付けはないが、当時は、ダイナマイト等の盗難があっても管理者がその責任を問われることを恐れるためか被害届を出さない例もまれではない状況にあった。さらに、佐古は、ダイナマイトを窃取した際には、夜間、不慣れな道を増渕らの指示のままに車を運転したにすぎないのであるから、佐古が窃取した場所を特定できなかったことには無理からぬものがあり、まして、ダイナマイト等の早稲田アジト搬入前の入手先が不明であることをもって、右佐古自白の信用性、ひいては同アジトからこれらを持って来たとする右村松自白の信用性を疑うことは失当である。

なお、被告親崎は、本件を処理するに当たって、赤軍派とL研の関係及び共闘状況、製造された爆弾の処分先、処分状況等を解明する必要があると判断したことから、当時、別件で身柄勾留中の赤軍派幹部の花園及び前田に対する取調べを行おうとしたが、同人らは留置場からの出房を拒否して取調べに応じなかった。そのため、被告親崎は、右の点だけでなく、右佐古供述の裏付けを取ることもできなかった。花園らの強硬な取調べ拒否の態度からして、通常の検察官においても、同人らの取調べは不可能であった。

(b) ピース缶(前記項目のII)について

佐古及び前原は、ピース缶をたばこ屋でまとめて買ったとは述べていないものの、両名以外の者が、たばこ屋でまとめて買った可能性を否定しているわけではない。また、「9S171」及び「9T211」はそれぞれ一括購入された可能性が強いものの、「8W281」の缶は一個であり、製造番号不明の五個について異なる製造番号のものがある可能性も強いこと等を併せ考えれば、ピース缶を手分けして集めたとする佐古らの供述に信用性がないとは判断されなかった。

(c) パチンコ玉(前記項目のIII)について

佐古のパチンコ玉入手についての供述の変遷等もあながち不自然とはいえない。佐古が当初、新宿ゲームセンターとは異なるパチンコ店に村松と行った旨供述したのは、かって村松とパチンコ遊びをしていたことがあって、同行者が村松であると思い込んでいたことに原因があったものと思料される。人の記憶の過程には、このような事実に反する思い込みが往々にしてあり得ることであるし、引当り捜査の際、佐古が新宿ゲームセンターを特定するに至った経過は極めて自然であると解され、被告親崎がその結果を高く評価したのは当然であった。

原告主張に係る佐古供述と前原供述との不一致の点は、記憶の希薄化、混同を生じても何ら不自然ではないような細かな事項であり、佐古及び前原供述の信用性は何ら損なわれない。

(d) 塩素酸カリウム(前記項目のIV)について

塩素酸カリウムの調達者については、佐古及び増渕が村松を、前原が平野を挙げているところ、この点につき、村松及び平野が供述していないため、そのいずれが調達者であるかは確定し難い(両名の供述態度に照らせば、入手先の解明に至らなかったこともやむを得ない。)。しかし、関係証拠によれば、L研及び社研のメンバーは、昭和四四年一〇月二〇日、二一日の両日にわたり、東薬大において、塩素酸カリウムを使用して火炎瓶を多数製造し、しかも、右塩素酸カリウムは増渕から平野に交付されたことが明白である。L研及び社研のメンバーが同年一〇月当時、塩素酸カリウムを容易に入手し得たことに照らすと、本件においても、L研及び社研のメンバーが爆弾の製造に当たり塩素酸カリウムを調達したことを強く推認させるものであり、爆弾に充填したとの佐古及び前原らの自白の大筋には信用性を十分に認め得る一方、調達者についての供述の不一致は、いずれかの者の日時の経過による記憶違いと判断された。

(e) 砂糖、ガムテープその他(前記項目のVないしVII)について

砂糖の入手状況については、砂糖は日常的にどこからでも容易に入手し得るもので、本来印象に残らないさ末な事項に関するものであり、また、記憶の希薄化、混同が生じやすい事象であるから、これについての供述の不一致は、佐古及び前原の各自白の全体的な信用性に影響するものとはいい難い。

前原以外の者が二種類のガムテープについて述べていないことは、本件製造作業が手分けして行われたものであること、青色の缶体に青色ガムテープがはってある場合にはガムテープをはったこと自体も印象に残りにくいと考えられること、年月の経過によって記憶を喚起できないこともあり得ること等の事情を併せ考えると、自白の信用性に疑問を抱くほどの理由ではなく、かえって前原が右二種類のガムテープの使用を供述している点こそが高く評価された。

爆弾製造に無関係な薬品や使用器具が持ち込まれることは通常考え難い旨の原告の主張は、単なる推測を前提にしての推論にすぎない上、内藤が本件製造には客観的に無関係と認められる薬品等について供述をしたのは、同人の記憶が希薄化していたことと相まって、当時増渕から一〇・二一闘争に備えて薬品類の入手を依頼され、その中にピクリン酸があったこと及び内藤が平野の下宿においてピクリン酸を見たことがあったこと等から、記憶の混同を来していたためであると判断された。その他の材料及び器具については、そもそも細かな事柄であり、記憶の混同が生じても不自然ではなく、被疑者らにとってピース缶爆弾の製造が初めての経験であったとすれば、各人が、それぞれの判断で必要かもしれないと考えた物品を持ち込むことも十分あり得たと考えられたことから、この点に関する内藤らの供述の信用性は一概に否定できないと判断された。

V 製造の実行(原告の主張2の(五)の(2)の<5>)について

(a) 爆弾の製造と添加物(前記項目のI)について

佐古、前原、村松及び増渕が製造したピース缶爆弾の少なくとも大部分に混合物ないし白色粉末を添加充填した旨の客観的事実と食い違う供述をする点については、佐古らがピース缶爆弾を製造した際には多数の者が手分けして作業に当たり、誰かが、実際に何個のピース缶に右混合物を入れたかを数えていたわけでもなかったことに照らすと、佐古らが、本件製造当時、ピース缶に添加物を充填したことは明確に認識し得たものの、その個数についてまで明確に認識していなかったとしてもあながち不自然ではなく、佐古らの右供述は、年月の経過等により更に記憶が不鮮明となった状態でされたものであると認めるのが相当であり、右食い違いが佐古らの自白全体の信用性に影響を与えるものではないと判断された。

佐古が中間的供述の段階では客観的事実と異なる構造を述べる点については、佐古は元来理工系の知識に乏しく、しかも、本件製造に当たり、中心人物として立ち働いたとも認められないのであるから、約三年半の日時の経過により記憶の希薄化や混同等を来し、当初は正しい記憶が蘇らなかったとしても奇異とするに足りず、右中間的供述の存在は、佐古の自白の信用性を損なうものとは判断されなかった。

また、村松が構造の一部に関し最後まで特異な供述に固執した点については、前記<4>で述べたとおり、同人には供述中に殊更虚偽を混入させようとしていた傾向が見られ、その供述は全面的には借信し難いものであり、右特異な供述が佐古及び前原の自白はもとより、村松自身の自白全体の信用性に影響を及ぼすものとは到底考えられなかった。

(b) 作業分担(前記項目のII)について

原告は被疑者各人の自白の内容を種々論難して信用性がない旨主張するが、いずれも失当である。

ダイナマイトの切断及び充填作業の担当者について各人の供述に不一致が生じたのは、被疑者らが製造の各種作業を手分けして行ったことから、記憶違いや混同が生じたためであると考えられ、また切断等の作業を担当したことを述べる者がいないのは、右作業が爆弾製造の核心部分であることから、事柄の性質上、自己の罪責の軽減を策して秘匿したためと判断された。したがって、被告親崎が右供述の不一致があるからといって各人の自白全体の信用性に影響が及ぶものではないと判断したのは当然である。

なお、佐古ら関係者のうち、三名以上の者がダイナマイトの切断及び充填の担当者であるとして述べているのは、増渕、村松及び江口であるが、右作業が爆弾製造作業の核心的なものであることにかんがみると、リーダーである増渕、村松及び爆薬について知識を有する江口が右作業に関与したことは疑いないところであると判断された。

佐古がダイナマイト切断に関し何ら供述しない点については、右に述べたとおり佐古自身は右作業をしたわけではないので、同人が他の者が担当した作業を見ていなかったか、あるいは仮に見ていたとしてもそれを忘失したからといって、不自然ではない。しかも、佐古はダイナマイトの長さは一三センチくらいと供述しているところ、ピース缶の高さは周知の事実であり(約七・五センチ)、佐古も当然知っていたはずであるから、右ダイナマイトをそのままの形でピース缶に充填し得ないことはいうまでもない。したがって、佐古のダイナマイトをピース缶に充填したとの供述は、一三センチくらいのダイナマイトを切断してピース缶に充填した趣旨で述べられているものとみるほかない。

パチンコ玉の充填作業の担当者について各人の供述に不一致が生じたのは、ダイナマイトの切断及び充填作業について述べたのと同様、記憶違い、記憶の混同ないしは意図的な秘匿等によるものと思料されるのであるから、右不一致をもって不自然とまではいえない。

佐古の供述する導火線と雷管の接続方法が押収された証拠物と異なることは原告主張のとおりである。しかし、佐古が客観的事実と異なった供述をしたのは、同人が理工系の知識に乏しい上、導火線や雷管を取り扱った経験がなく、右知識のある増渕及び江口らから接続方法を教えられて機械的に作業をしたにすぎなかったため、約三年半の年月の経過により、接続方法についての記憶の稀薄化、混同を来したことによると推認された。したがって、佐古の「導火線と雷管を接続させてボンドで接着させ、さらに外側からガムテープを巻きつけて補強した」旨の自白は、本件ピース缶爆弾の導火線と雷管が接着剤を用いて接続されており、かつ、外側からガムテープが巻きつけられている限りにおいて、右証拠物の状況と合致しており、このことは、佐古が右作業を担当したことを物語っていると判断された。

塩素酸カリウムと砂糖の混合作業は、前原が供述するのとは手順を異にし、実際には、塩素酸カリウムと砂糖とを別々に乳鉢ですりつぶした上、これを混合したものと認められる。前原が実際の手順と異なった供述をしたのは、同人が火薬に関する知識に乏しく、右知識を有する増渕及び江口らから右作業の手順を教えられ、機械的に作業したにすぎなかったため、約三年半の年月の経過により作業手順について記憶の稀薄化、混同を来し、すりつぶし作業と混合作業の手順を取り違えたことによると推認された。したがって、前原が右のような誤った供述をするに至ったことには、相当の理由があり、一方、前原が順序こそ取り違えているものの、すりつぶし作業と混合作業の双方を述べていることは、同人が江口らの指導により、安全な方法で実際に作業を行ったことを物語っていると判断された。

佐古及び前原がバリ(めくれ)の処理について何ら述べない点については、判明している本件ピース缶爆弾の蓋の穴には、ほぼ真円に近いものと、いびつなものとがあり、また、穴を開ける際できたバリが切断されているものとされていないものがあって、一様ではなく、このことからすると、本件十数個のピース缶の蓋の穴開け作業は、佐古及び前原を含む複数の者が、異なった形の器具を用い、それぞれの方法で行ったもので、佐古及び前原は、バリを切断しなかったとも考えられた。また、バリの切断は細部の事柄であって、仮に佐古らがこれを行っていても取調べ時には記憶を失っているとも考えられた。したがって佐古らが右の点に触れていないからといって、同人らの自白全体の信用性を損なうものではない。

また蓋の穴開けの作業場所については、佐古らが供述する河田町アジトの玄関前の庭は、人の目につきにくい場所であった。そして、ピース缶の蓋に穴を開ける作業は、蓋にドライバーを突き刺し金槌等で叩く程度のことであり、近隣の注意をひくようなものではない上、右作業を目撃されても特段怪しまれる態様のものでもないのであるから、蓋の穴開け作業を河田町アジトの玄関前で行ったとする右供述は、特段不自然ではない。

二種類のガムテープを使用したとの前原供述は、要するにピース缶爆弾の製造に際して青色のガムテープと茶色のガムテープの二種類を使ったということを述べているにすぎず、このことは正に証拠物の形状と合致するもので、何ら自白の信用性を損なうものではない。

VI 完成した爆弾の処分(原告の主張2の(五)の(2)の<6>)について

本件ピース缶爆弾は、一〇・二一闘争に用いるために製造されたものと認められるところ、佐古及び内藤らの供述によると、完成した爆弾は、製造当日増渕らの手によって河田町アジトから搬出され、赤軍派の手に渡ったものと認めることができた。このことは、増渕が時間を気にして製造作業を急がせていたこと、万一の発覚を防ぐためには完成した爆弾を一刻も早く河田町アジトから搬出するのが自然であること、昭和四四年一〇月二一日午前中には、赤軍派の連絡場所として使用されていた渋谷区千駄ヶ谷所在の日本デザインスクールの中条の部屋に、ピース缶爆弾約一二個が搬入されていること等の諸状況からも裏付けられた。

右爆弾の引渡については、L研のリーダーであり、本件爆弾製造について指揮をとった増渕がやはり中心的役割を果たしていたと認められるところ、増渕の引渡に関する供述は、右の諸状況及び佐古供述等に照らし、増渕が自己の罪責を軽減し、かつ、赤軍派のメンバーの氏名及び本件製造に係る爆弾の流れ等を秘匿し、ひいては証拠の不一致を狙う意図の下に、殊更虚偽を述べたものと認められた。また、前原の引渡に関する供述は、同人の赤軍派との連絡役という立場上、引渡の詳細を知悉しているところから、爆弾を引き渡した赤軍派のメンバーを秘匿する等の目的で、故意に虚偽を述べたものと認められ、各被疑者の供述の齟齬は、その自白全体の信用性に影響を及ぼすものではないと判断された。

むしろ、被告親崎が注目したのは、赤軍派との共闘のためL研においてピース缶爆弾を製造し、その大部分を花園ら赤軍派関係者に引き渡したという大筋において、被疑者らの供述が一致しており、しかも、前記一の2で述べたとおり、現実に東京及び大菩薩峠等において合計一三個のピース缶爆弾が使用され、あるいは発見押収されているところで、そのほとんど全てが赤軍派関係者によって使用あるいは保管されていた事実である。右事実は、被告親崎において、被疑者らの自白が基本的には信用できることを裏付ける最も動かし難い事実であると判断された。

3 公訴追行の適法性

(一) 公判段階における証拠関係等

(1) 一部共犯者の有罪判決確定

<1> 石井の有罪判決確定

石井は、昭和四八年四月三日、製造事件について起訴され、東京地方裁判所刑事二部の審理において公訴事実を全面的に認め、昭和四九年三月一九日、増渕及び原告らの共同正犯と認定されて懲役三年執行猶予四年の判決を言い渡された。そして、石井は、同判決に対して控訴することなくこれを確定させた。石井は、公判段階でもなお捜査段階における自白を維持し、公訴事実を認め、被告人質問の際にも率直に犯行を供述した。そして石井は、自己のアリバイについて捜査・公判のいずれの段階においても主張することがなかった。

<2> 内藤の有罪判決確定

内藤は、昭和四八年三月一〇日、八・九機事件について、同年四月一八日、製造事件について各起訴され、東京地方裁判所刑事八部の審理において各公訴事実を認め、論告求刑後にわかに否認に転じたものの、同年一〇月二三日、増渕及び原告らの共同正犯と認定されて懲役三年執行猶予四年の判決を言い渡された。これに対し、検察官は、使用罪の法律解釈を争い控訴したが、東京高等裁判所は、昭和四九年一〇月二四日、これに対し控訴棄却の判決を言い渡し、そこで検察官が上告したところ、最高裁判所は、破棄差戻しの判決を言い渡した。これを受けた東京高等裁判所は、昭和五三年三月一七日、八・九機事件について爆発物の使用罪が成立するとし、内藤に対し、懲役三年六月の判決を言い渡した。その後内藤が再び上告したが、同年一二月一二日、これが棄却されて有罪判決が確定した。

内藤は第一審公判の証拠調べが終了するまでは自白を維持していたが、検察官から論告求刑を受けるやにわかに否認に転じ、アリバイ主張をし、公訴事実を争った。しかし、東京地方裁判所刑事八部は、右アリバイ主張を排斥した上、有罪判決を言い渡し、その後東京高等裁判所及び最高裁判所の審理を経た後、さらに審理を尽くした東京高等裁判所刑事一一部も、内藤のアリバイが成立しないことを前提とする有罪判決を言い渡し、内藤の上告にもかかわらず最高裁判所も原審の事実認定を支持した。

<3> 右有罪判決に対する検察官の評価

原告らの共犯者の一部がそれぞれ原告らと同一の事実により有罪判決を受け、これが確定しているという事実は、訴訟法的には論理必然的に原告らの有罪判決をもたらすものではないとしても、右共犯者がそれぞれ自己に対する審理の過程で裁判所の面前において公訴事実を認め、裁判所も検察官が提出した捜査時における共犯者の自白を録取した検面調書等が十分信用できるものであることを認め、これをもって有罪と認定したことを公に宣明したものにほかならない。

なお、石井は、昭和六一年七月九日に再審請求をし、東京地方裁判所刑事二部において、平成元年三月二〇日に再審開始決定があり、同年一二月一九日に無罪の判決が宣告され確定した。右再審無罪判決は、石井の確定判決の言渡時点の同女の供述の信用性を評価しており、原告に対する公訴の維持追行に当たる検察官が、原告に対し十分有罪判決を得られるものと判断することに何ら不合理はなかった。

(2) 被告菊井の証言

<1> 供述に至る経緯

赤軍派メンバーの若宮は、昭和五四年四月一〇日、自分が八・九機事件の真犯人である旨の証言をした。そこで、検察官は、本件ピース缶爆弾事件の基本的証拠である佐古及び前原の自白について、改めてその信憑性を検討するのに必要な証拠を収集することとし、補充捜査を行った。この過程において、東京地方検察庁公安部所属の被告長山が、L研と赤軍派との関係について事情聴取するべく、同年五月二五日ころから、参考人として被告菊井の取調べを開始し、一時中断したものの、菊井は、同年六月一四日ころから再び被告長山の取調べを受けた際、製造事件に関与したことを自白した。そこで、被告長山は、同年七月一〇日付けで、後に菊井が公判廷で証言したのと同内容の詳細な検面調書を作成した。

<2> 菊井証言の意義及び信用性

菊井は、公判廷で、自己の出廷、証言の決意等について、検察官に対して説明したよりも踏み込んでその心情を吐露しており、菊井証言は十分信用性に富むものであった。菊井は、菊井証言とほぼ時期を並行して同地裁刑事九部においても同趣旨の証言をしている。同地裁刑事九部の控訴審である東京高等裁判所第七刑事部は、昭和六〇年一二月一三日に言い渡した判決で、「菊井の証言はまさに本件の真実を語っているのではないかとの考えを容れる余地は相当大きいものといわなければならない」、「本件においては、被告人増渕、同江口及び共犯者とされている佐古、前原、内藤、村松の各自白のほか真実を語っているかのように思われる菊井の証言があるものの、菊井の証言にはなお疑問点の存在することを否定できず、また前記各自白についてもその内容の信用性につき種々の疑問があり、いずれも増渕らが本件の犯人であるとするには足りないものというべきである」とし、菊井証言を基本的には信用性のあるものと認定している。

(3) 共犯者の法廷供述の不合理な変遷等

<1> 石井の法廷供述

石井は、検察官の主尋問に対し、「爆弾製造現場付近で見張りをしたことはあるが、現在その内容についての記憶がない」旨証言しながら、弁護人の反対尋問で「昭和四四年一〇月一九日か二〇日に見張りをしたことは、間違いない」旨述べ、全く首尾一貫しない法廷供述をした。

<2> 内藤の法廷供述

内藤は、検察官の主尋問に対し、自己の捜査段階の供述を覆して、「警察官から執拗に追及され、本当にやったのかなという気持ちになり、虚偽の自白をしたものである」旨弁解して、犯行を全面的に否認した。しかし、前記(1)の<2>で述べたとおり、同人は自らが被告人となっていた公判廷では、論告求刑段階まで公訴事実を認めていたのであり、その上、爆弾の製造という重大事件について、自己が犯行に関与していないにもかかわらず、やったのかなという気持ちになり自白したなどというのは、それ自体極めて不自然かつ不合理で到底信用できない。

<3> 江口の法廷供述

江口も、検察官の主尋問に対し、「警察官から執拗に追及されるなどし、頭の中が混乱してしまい、一瞬ピース缶爆弾のようなものに手を触れたような幻覚が生じ、虚偽の自白をした」旨弁解して犯行を全面的に否認した。しかし、内藤と同様、そのような弁解自体極めて不自然かつ不合理で到底信用できない。

<4> 増渕の法廷供述

増渕は、証人尋問において、「警察官から共犯者らが事実を認めていると言われるなどし、警察官の誘導のまま認めてしまい、検察官の取調べの際にもそのまま認めた」旨弁解して犯行を全面的に否認した。しかし、既に述べたように、増渕が捜査官の取調べに対し殊更虚偽の事実を混入させて供述していることは明らかであり、このことからしても取調べ警察官の誘導や押し付け等によって増渕が自白したものでないことが明らかである。

<5> 佐古の法廷供述

佐古は、被告人質問において、自己に対する全ての公訴事実を否認し、捜査段階の自白は全て捜査官の強制による内容虚偽のものであると供述した。しかし、同人は、自発的に本件ピース缶爆弾事件について自白したのであり、その内容が爆弾事件という極めて非日常的で特異な体験に関する自白であることからすると、同人の右法定供述は不自然かつ不合理であるといわざる得ず、また、同人を取り調べた好永幾雄警察官の証言等によって認められる佐古の自白状況及び内容からみて、同警察官等の強制によって自白がなされたものとは到底解し難く、佐古の右法廷供述をもって原告に対する公訴提起の嫌疑が払拭されたとは全くいえなかった。

<6> 前原の法廷供述

前原は、昭和四八年六月三〇日ころ、当時在監していた東京拘置所から浦和拘置所に在監していた菊井に「ボクはアメ文についてのごく一部、アメ文に使われたタイマーと乾電池を見たということを思い出した。これもマズかった」などと記載のある手紙を送った。右記載は、その記載自体からみると、アメ文事件に関して知識を有する者が取調べにおいてそのことに関連して供述してしまったことを反省する心理状態を表現しており、アメ文事件に関する前原自白の自発性及び真実性を表わすとみるのが自然である。一方、前原は、昭和五七年七月一四日、増渕らを審理していた東京地裁刑事九部の第二六九回公判において証人として証言した際、右記載につき、「これが事実であったのではないかというふうに思い込んでいた時点だったのでそのように書いた」旨証言したのに対し、その後の昭和五八年三月二四日、刑事五部の被告人質問において、右証言を訂正し、「右記載は、表現が正確でなく、アメ文事件に使用されたタイマーと乾電池を思い出したと捜査官に供述したことがまずかったとの意味である。この手紙を書いた時点でアメ文事件においてタイマーや乾電池のはんだ付けに関わっていないことははっきりと分かっていた」旨証言している。ところが、前原は、平成六年七月五日、本件の証人として証言した際、「この手紙を書いた当時、この乾電池のはんだ付けというのが高校時代の経験であることを思い出していない時期であり、自分の実体験と自分が思い込んでいたことが明確に区別されていない時期であることからこのような記載になったと思う」旨証言している。五部判決は、右手紙の記載をもって前原自白の真実性を指し示すものであると断定することはできないと判示したが、前原が本件の証人尋問において右に述べた五部における被告人質問の結果を翻し、右に述べた九部における証言に戻っていることをも併せ考えると、右手紙の記載は、前原自白の信用性を表わすとみるべきである。

<7> 村松の法廷供述

村松は、被告人質問において、取調べ警察官から執拗に自白を強要された結果、虚偽の自白をした旨弁解して犯行を全面的に否認した。しかし、既に述べたように、増渕と同様、村松が捜査官の取調べに対し殊更虚偽の事実を混入させて供述していることは明らかであり、このことからしても取調べ警察官の誘導や押し付け等によって村松が自白したものでないことが明らかである。

<8> 平野の法廷供述

平野は、被告人質問において、捜査段階と同様、公訴事実について否認に終始するとともに、検察官において原告らがピース缶爆弾を製造した可能性がある月日の一つとして主張していた昭和四四年一〇月一四日の午後は自己にアリバイがある旨供述した。しかし、平野の右供述は、単に「同日の午後は、引っ越しの荷物を自室で整理していた」ということにとどまり、客観的にこれを裏付ける証拠は一切なかったのであるから、これをもって、原告に対する公訴提起時の犯罪の嫌疑が払拭されたなどとはいえなかった。

<9> 原告の法廷供述

原告は、被告人質問において、公訴事実については捜査段階と同様否認したものの、アリバイ等自己に対する犯罪の嫌疑を客観的かつ明白に否定するに足る具体的供述は一切しなかった。

(4) 被告人のアリバイ主張について

<1> 石井のアリバイ主張について

弁護人の提出に係る石井アリバイの裏付け証拠として、石井の勤務先組合の伝票等の会計帳簿類及び勤務先組合の常務理事である牧野の証言がある。しかし、伝票等の顕出経緯は極めて不自然で、その記載内容の信用性をも減殺するものと評価された。また、牧野の証言中には推測にわたる事項が少なくなく、その信用性は高くないと考えられた上、牧野の法廷外での行動をも併せ考えると、同人の証言は公正さが担保されているとは認め難く、この点からも信用性が高くないと評価された。したがって、石井アリバイが成立して原告らに対する公訴事実が客観的に成立し得ないものとは到底考えられなかった。

仮に組合の伝票等の記載が信用できるとしても、その記載による限り、本件製造日とされた昭和四四年一〇月九日から同月一六日までの間において、石井が組合で稼働していなかったのは、一〇月一〇日(体育の日)、同月一一日(土曜日)の午後及び同月一二日(日曜日)のみであるかのようにもみられる記載がある一方で、日曜日を含めて給料が計算されている箇所もあり、右伝票等から直ちに同人の稼働日時を特定できるものではない。さらに、石井が右休日等以外は稼働していたとしても一〇月一〇日、一一日の午後及び一二日にピース缶爆弾を製造したとする余地もあり、これによって、石井が本件製造日とされた昭和四四年一〇月九日から同月一六日までの間、連続して一日中勤務していたことが明白となり、本件公訴事実が成立する余地のないことが明らかになったというわけではないから、原告に対する公訴提起時の犯罪の嫌疑にいささかも消長を来すものとは考えられなかった。

<2> 江口のアリバイ主張について

江口及び江口アリバイの裏付けとして申請された証人川添自身が、研究室の勤務形態についてはルーズであった旨証言しており、江口アリバイが成立したものとは到底認められないと解された。

<3> 増渕らのアリバイ主張について

増渕は、公判廷で八・九機事件のアリバイとして主張する火炎瓶を平野方から江口方に運び込んだことについて、捜査段階において、同月二四日の出来事と特定していたものではない。よって、アリバイの主張たり得ない。

<4> 佐古のアリバイ主張について

佐古アリバイの裏付けとして佐古靖典の証言があるが、同人は佐古の実兄で必ずしも公正に証言できる立場にある者ともいえず、右証言をもって佐古のアリバイが成立したとは到底認められなかった。

また国井アリバイについても、これを裏付けるのは、国井の実母の証言とその作成に係る日記に尽きていた。国井の実母は全くの第三者と同様な立場にあるとは言い切れない上、日記に「泊」と記載されていないから国井が帰宅していたと思うというにとどまり、記載漏れがないとの確証もなかった。したがって、右証拠によって国井アリバイが確実に成立するものと認定することはできず、原告に対する公訴提起時の犯罪の嫌疑が払拭されたと考えることはできなかった。

<5> 村松のアリバイ主張について

仮に村松が主張するように同人が昭和四四年一一月一日未明にダンプカーを窃取したとしても、その後若松町アジト又は風雅荘の自室で寝ていたということを客観的に裏付ける証拠は全くない。したがって、村松がアメ文事件の実行に関わっていないとは到底いえないことから、これをもって、原告に対する公訴提起時の嫌疑を客観的かつ明白に失わせるものとはいえなかった。

(5) いわゆる真犯人と称する者の証言

若宮証言は、他の客観的証拠と符合しない点も多々あったことから、結局若宮が単独で八・九機事件を敢行し、原告らが八・九機事件と無関係であると断定することは到底できないものであった。

牧田証言は、重要な点において客観的証拠と一致していない等から、全体としては信用できないと評価された。

したがって、検察官は、右両名の証言についてはいずれも信用できないと判断したもので、原告に対する犯罪の嫌疑が客観的かつ明白に否定されたという特別な事情が生じたとは到底いえなかったものである。この点、五部判決も、「本件ピース缶爆弾製造事件及び八・九機事件について、その『真相』を述べ、被告人らは犯人でなく、事件と無関係であるとする牧田証言及び若宮、荒木、古川各証言は、かなりの真実性を示し、被告人らが犯人でないとした場合におけるあり得べき事実経過の一つを窺わせるものとして、本件の結論にも、いくばくかの影響を及ぼさないわけではないものの、なお少なからぬ問題点を残すため、全面的には信用することができず、これらの証言によって本件事案の実体的真実が解明され、『真犯人』が確定されたと言うことはできない。それ故、右各証言をもって、右各事件につき、被告人らに対し無罪を言渡すべき直接の根拠とはしない」と判示している。

(6) 小括

右に検討したとおり、公訴提起後の原告及び共犯者の刑事事件の公判審理の状況をみると、一方において、一部共犯者につき有罪判決が確定し、あるいは捜査時には否認していた共犯者菊井が検察官に対し原告らと共にピース缶爆弾を製造した事実等につき、詳細に供述して公判廷でもこれを維持するなど、検察官が原告につき有罪判決を得るに足りる嫌疑があると判断したことが合理的であることが裏付けられた。他方、共犯者の一部については捜査段階の自白を翻して否認に転じ、あるいは弁護人立証として関係者のアリバイ立証や真犯人と称する者の証言がされたものの、これらの信用性を認めることはできなかった。したがって、原告に対する公訴提起時の犯罪の嫌疑が客観的かつ明白に否定されたという特別な事情が生じたものとは到底解し難いものであったことが明白である。

(二) 公訴の追行に関する原告のその他の主張に対する反論

(1) ピース缶爆弾製造日についての訴因変更の適法性(原告の主張3の(三)の(2))

検察官の製造事件における訴因変更請求は、その経緯、事件の性質、重大性、証拠関係等から、十分な理由があり、かつ、変更後の訴因によってもなお有罪判決を十分見込める合理的な理由があったというべきである。すなわち、製造事件は、犯行後約三年半を経過して捜査が開始され、多数の被疑者の供述が得られたが、ピース缶爆弾製造日については、いずれも各人の記憶に基づく供述によって認定せざるを得ず、これを一義的に明確にして訴因を構成し難い事情にあった。ところで、製造事件の公訴提起から約一年半後に始めて京都公安調査局事件の被疑者として村橋、杉本及び牧田らが検挙され、赤軍派メンバーである大村が右事件の犯行数日前に爆弾を杉本方に運び込んだ事実がようやく判明した。そして右事件現場で押収されたパチンコ玉とアメ文事件現場で押収された時限装置付きピース缶爆弾のパチンコ玉及び新宿ゲームセンターから任意提出を受けたパチンコ玉のそれぞれに刻印されたSGCマークがおおむね合致していること等を併せ考えて、京都公安調査局事件で使用された爆弾が被告人らの製造したピース缶爆弾の一部であることが認められるに至った。右経緯、事件の性質、重大性等にかんがみて、検察官が訴因変更を請求することには十分な理由があり、かつ、右訴因変更請求当時、原告につき変更後の訴因に関しても有罪判決を得るに足りる犯罪の嫌疑が十分あると判断できた。右検察官の判断に不合理はなく、何ら違法性のないことが明らかである。

(2) 菊井証言を巡る検察官の行為の適法性(原告の主張6)

前記(一)の(4)で述べたように、共犯者らのアリバイが完全に立証されたものとは認められなかった上、被告長山は、被告菊井の供述を吟味検討し、その信用性が高いものと判断したことから、被告菊井の証人尋問を行った。右判断に不合理はなく、何ら違法でないことが明らかである。なお、被告菊井は菊井証言が偽証罪にあたるとして東京地方検察庁に告発されたが、右事件は、昭和六一年八月二二日、嫌疑がないとして不起訴処分に付されている。また、同処分については、昭和六二年一月二一日、東京検察審査会により不起訴相当と議決されている。

なお、原告提出の国井の供述録取書(甲C第六八号証)は、被告菊井の供述及び証言の内容を否定し、ひいては、製造事件に関与したとして起訴された者の犯人性を減殺する意味も持つと評価される可能性がある。しかし、右録取書は被告側の反対尋問や裁判所による補充尋問による吟味を受けていないのであるから、証明力、証拠価値が極めて低いといわざるを得ない。

4 控訴の提起・追行の適法性

検察官は五部判決には重大な事実誤認があるとして、昭和五九年四月三日東京高等裁判所に控訴を申し立てた。

ところで、検察官が、本件ピース缶爆弾事件の主犯者であると認定し起訴していた増淵については、いわゆる日石・土田邸事件と併せて、東京地裁刑事九部で他の被告人八名と共に審理されていたが、昭和五八年五月一九日、増渕に対する窃盗被告事件を除いていずれも無罪の判決が言い渡された。そこで、検察官は、同地裁九部に係属していた被告人九名のうち増渕ら六名に対する右判決につき、東京高等裁判所に控訴した。しかし、同裁判所第七刑事部は、昭和六〇年一二月一三日、控訴棄却の判決を言い渡した。検察官は、右控訴審判決に対し、法律審である最高裁判所への適法な上告理由を見いだせなかったことから、上告を断念し、同月二七日の経過をもって右無罪判決が確定した。このため、検察官は、本件ピース缶爆弾事件において主犯である増渕に比し従属的な立場にあった原告らに対する控訴を維持することは、処罰の均衡上相当でなく、その実益も乏しいと判断し、同月二八日、原告らに対する控訴を取り下げ、原告の無罪が確定した。

五部判決は、捜査段階における各自白や公判中に得られた菊井証言等の信用性につき、公訴事実に沿う限りにおいて、いずれも信用性が甚だ低いものであるとの判断に至り、これらに基づいて被告人らを本件犯行の犯人とするに足りないとの結論に達したことを理由に、無罪の判決を言い渡した。もとより右判決は、原告ら被告人及び共犯者のいずれの者についてもアリバイ成立を認めたわけではなく、また他に真犯人がいることなどの確実な証拠に基づいて原告ら被告人を無罪にしたわけではないことも明白である。

してみると、検察官と五部判決との結論の差異は、自白等の証拠の価値判断の差異によるものというほかなく、このような差異は証拠の価値判断、事実認定に当たっての証拠の取捨選択が裁判官の自由心証に委ねられていることから生じた結果である。このような場合、検察官が、一審の判断を不当と考え、既に提出した証拠や新たに提出する証拠について上級裁判所の評価、判断を求めて控訴を提起することは、より適正な刑事裁判の実現という見地から法が検察官に与えた当然の権限の行使である。

また、本件における検察官の控訴提起は、一審裁判所とは異なる自白その他の証拠の評価を求めるものであり、したがって、本件控訴は検察官に控訴権を付与した法の趣旨に反するものと認められるようなものではない。また、右控訴理由のような評価判断を経て、検察官が、一審の判決を覆し有罪の判決を得られる見込みがあるとしたことには、合理性があるといわなければならない。したがって、本件における控訴の提起・追行時において検察官が、違法又は不当な目的をもってその付与された権限の趣旨に明らかに背いたと認め得るような特別の場合に当たらないことも明らかであり、本件控訴の提起・追行は適法な検察権の行使そのものにほかならず、何ら国家賠償法一条の違法に該当しない。

四 被告東京都の主張

1 法大図書窃盗事件捜査の適法性

(一) 原告の逮捕が違法な別件逮捕でないこと

被告堀内らは、昭和四八年二月九日、原告を法大図書窃盗事件で逮捕したが、その後、原告を八・九機事件で逮捕する同年二月二〇日までの間、法大図書窃盗事件以外の容疑で原告を取り調べた事実はない。よって、原告の逮捕が違法な別件逮捕に当たらないことは明らかである。

(二) 原告を法大図書窃盗事件で逮捕するに至る経緯について

被告堀内らは、法大図書窃盗事件について捜査した結果、逮捕の理由及び必要性があると認められたことから、原告らを逮捕した。すなわち、大学という学術研究、教育機関にとって、図書館の蔵書は、貴重な公的財産であって、その忘失による影響は広範囲に及ぶ。さらに、右事件は、大学不法占拠中に、私利私欲の目的から組織的かつ計画的に行われた悪質な犯行である。そして、右事件は多数人を共犯者とするものであって、盗難品の処分方法及び処分先も区々であり、裏付け捜査に多大な日時と労力を要するものである。したがって、逮捕の必要性があるものと判断された。

前原及び原告については、人定関係の特定された時期との関係で、昭和四八年に入って逮捕した。すなわち、前原については、昭和四七年一二月下旬に至り、特定することができた。原告については、村松及び佐古が右事件の共犯者として「青山」なる人物を供述していたところ、佐古が「青山」の本名が井上である旨供述したことに基づき、昭和四八年二月初旬、「青山」なる人物が原告であることが判明した。

(三) 原告を法大図書窃盗事件で逮捕し、取り調べた結果

黒澤警部は、昭和四八年二月五日、法大図書窃盗事件の犯行が多数の共犯者によって行われ、通謀、証拠隠滅のおそれがあることから、原告の逮捕の必要性を認め、東京簡易裁判所裁判官に対し、原告に対する右事件の逮捕状の発付を請求し、同日その発付を得た。

黒澤警部、蜂谷巡査部長、亀田巡査及び久留田巡査は、同月九日、京都市上京区所在の同志社大学ハワイ寮一二号室において、原告を右事件で通常逮捕した。

右事件で同月一九日に起訴するまでの間、小林一巡査部長が、三沢巡査部長及び久留田巡査に補助を行わせ、刑事管理課取調室において、原告を右事件で取り調べた。原告は、右期間、身上関係、事実関係共に、終始黙秘ないしは否認した。右期間中における取調べ時間は、概ね午前一〇時ないし午前一一時ころから午後七時ないし午後九時ころまでである。

(四) その余の窃盗事件の捜査

被告堀内らは、昭和四七年一二月ころ、村松らについて、前記一の6で述べた立教大学金庫窃盗事件、東経堂団地タイヤ窃盗事件、西経堂団地タイヤ窃盗事件及び法大大学院図書窃盗事件の捜査を行った。さらに法大図書窃盗事件の一連の捜査において判明した、増渕らによる法大生協からの電気製品及び衣料品等の窃盗事件、法大生協傘下の政文堂書店からの図書の窃盗事件、法大宿直室からの複写機の窃盗事件、立教大学教授室からのタイプライター等の窃盗事件、普通乗用自動車の窃盗事件、トラックの窃盗事件、ダンプカーの窃盗事件並びに千葉県下におけるあわびの窃盗事件等の窃盗余罪事件についても捜査を行った。

2 アメ文事件捜査の適法性

(一) 捜査の端緒

佐古が、法大図書窃盗事件で逮捕拘留中の昭和四七年一一月一七日、「昭和四四年の一〇・二一闘争当日、中野坂上付近において赤軍派の者から爆弾を受け取り、近くの側溝に捨てた」旨供述し、次いで、同事件で起訴勾留中の同年一二月一一日、「増渕の指示でレンタカーを運転し、ダンボール箱入りの時限爆弾をアメリカ領事館に仕掛けに行った」旨、初めてアメ文事件に関与したことを認める供述をした。右供述を端緒にアメ文事件の捜査が開始された。

(二) 被疑者らを逮捕した経緯

(1) 佐古を逮捕した経緯

佐古は、法大図書窃盗事件で逮捕勾留中の昭和四七年一一月一七日、同人の身柄戒護に当たっていた小林正宏巡査部長に対し、「昭和四四年の一〇・二一闘争当日、中野坂上付近において赤軍派の者から爆弾を受け取り、近くの側溝に捨てた」旨、爆弾事件に関して初めて具体的な供述を行い、その後も、同年一二月一一日、同月一四日及び同月二八日にアメ文事件について自己の関与を認める供述をした。

<1> 昭和四七年一一月一七日の供述の信用性

佐古の右供述は、たまたま同人の身柄戒護の任に当たっていた小林正宏巡査部長が、東京地検での取調べが終了した後、同人を久松署に護送し、午後四時ころ警備課の取調室において、同人の兄からの差し入れを食べさせながら、一〇・二一闘争のことについて雑談的に質問したことに対し、ごく短時間のうちに同人が供述したものである。小林は、予め佐古を取り調べる意図を持っていなかったのであり、佐古は自発的に右供述をしたものである。

<2> 同年一二月一一日の供述

佐古は同年一二月八日ころ頭髪を坊主刈りにし、留置場で座禅を組んで考え込む等心境の変化を見せており、また、爆弾事件という極めて重大な事件について、同人が体験したことがないにもかかわらず、自己が関与したなどと供述することは到底考えられない。したがって、佐古が、犯した罪を清算するつもりで右供述をしたと見るのが自然であり、同人の供述は十分に信用できると認められた。

佐古は同月一一日、被告堀内の指示により、たまたま食事休憩中に同人の看視の任に当たっていた多田巡査部長と雑談中、同巡査部長の、「事件は全部片づいて調書にしてもらったのか」との問いに対し、首を横に振り、「爆弾事件がまだあるんだ。アメリカの施設に仕掛けた爆弾のことなんだ。話さなくちゃいけないんだ」と述べ、その直後、本来の取調担当者である好永巡査部長の取調べを受け、ワラ半紙三枚にわたって詳細なメモを作成し提出するとともに、右供述をした。

高橋警部補ほか三名の警察官は、右供述に基づき、翌一二日、佐古を同道の上、渋谷区本町四丁目一四番五号小野方(江口が居住していたアパート)、中野区新井一丁目九番付近(中野ブロードウエイ入口付近)及び千代田区永田町二丁目一三番付近等の引当り捜査を実施した。同人は、時限爆弾を仕掛けるため車を止めた場所は、港区赤坂三丁目二番付近である旨指示したのであって、このことからも、右供述が自発的かつ任意なものであることが窺われた。

<3> 同月一四日の供述

佐古は、前記<2>で述べたように、同月一二日、高橋警部補らと引当り捜査に同行し、翌一三日及び一四日、好永巡査部長に対し、右供述を行った。

佐古は、引当りに行った結果、右供述のような印象が強い旨述べた。好永は、右引当り捜査結果の報告書を見たことがなく、佐古が述べたブロードウエイ反対側の喫茶店が実在するものかどうか分からなかったが、同人の供述をそのまま録取した。実際の現場を見ることによって曖昧な記憶が鮮明に蘇ることは何ら不自然ではないから、佐古の右供述は、引当りによって記憶を喚起した同人の自発的なものであると見るのが自然である。

<4> 同月二八日の供述

同月一一日付けの佐古の員面調書添付の図面に蓋が半ば開いたダンボール箱が書かれているにもかかわらず、同調書に「中身はこの時には何であるかわかりませんでした」との供述が録取されていた。そこで、好永は佐古に対し、箱の中身を認識していたか否か確認したところ、同人が箱の中身も見ていたことを認めるとともに、同人らがダンボール箱を製造した旨供述するに至った。好永の取調べの目的は、右に述べたように佐古がダンボール箱の中身を認識していたか確認することにあったのであり、また、右供述の時点で、アメ文事件に使用されたダンボール箱を製造した旨の供述は誰一人として行っていなかったのであるから、好永が佐古に対し、ダンボール箱を製造したかどうか殊更に追及する必要性はない。したがって、右ダンボール箱製造に関する供述が強制や誘導によるものでなく、信用できるものであることは明らかである。

<5> 佐古の逮捕

佐古は、法大図書窃盗事件で起訴勾留中のところ、同月二八日保釈されたが、被告堀内らは佐古の供述状況及び捜査結果から、同人がアメ文事件について、増渕らと共謀の上、時限式ピース缶爆弾の製造段階から関与し、同爆弾を設置するに当たり、実行犯を犯行現場付近まで送迎する等実行行為にも深く関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、翌昭和四八年一月六日、裁判官から同人に対する同事件の逮捕状の発付を得て、同月八日、同人を通常逮捕した。

(2) 前原を逮捕した経緯

<1> 佐古の昭和四八年一月一六日の供述

佐古は、アメ文事件で勾留中の同年一月一六日、岩間警部補に対し、「昭和四四年一〇月二九日、増渕に言われて、私と前原某とで増渕が持って来た時限装置と電池付きのピース缶爆弾を入れるものを、権力機関に仕掛ける目的で、ボール紙、ガムテープ、ボンド、大型ホッチキス、割箸などを使って造った」旨供述した。

<2> 前原の同月一六日及び一七日の供述

被告堀内は、同月一六日、前記<1>の供述の報告を受け、法大図書窃盗事件で勾留中の前原を取り調べていた高橋警部補に対し、佐古の右供述の真偽を前原に確認するよう指示した。被告堀内から指示を受けた高橋は、同日午後七時三〇分ころから前原を爆弾事件で初めて取り調べたところ、同人は短時間のうちに、爆弾事件への関与を供述した。右供述の報告を受けた被告堀内は、高橋に対し、直ちに調書を作成するよう指示したところ、高橋は、既に時間が午後九時近かったため、これから調書を作成すると取調べが深夜に及ぶこと、前原の供述態度から明日になっても供述は絶対にひっくり返らないとの確信があったことから、被告堀内の承諾を得て、調書を作成しなかった。翌一七日、前原は前日の供述を維持し、供述調書が作成された。

取調官が、同月一三日ころから、前原に対し、爆弾事件の犯人であると断定した追及をした事実はない。すなわち、高橋は、前原を爆弾事件で取り調べるに際し、同人に対して、窃盗事件とは別の事件を調べること、黙秘権があることを告げた。そして、高橋自身、急に爆弾事件の取調べを行うことになったため、どのように調べたら良いのか悩んだ末、「ピース缶爆弾を見たことあるか」と切り出したところ、前原は考えながら、「思い出せない。ピース缶考えるとひっかかっちゃうんだ。実は一〇・二一以降もL研は爆弾闘争をやったが、自分も関わっているような気がする」旨述べ始め、以後、漸次供述した。また、前原に対する法大図書窃盗事件についての勾留期限は同月一七日であり、被告堀内は、検察官から勾留を延長しない旨聞いていた。これらのことからすれば、前記<1>の佐古供述以前においては、前原がアメ文事件に関与したことを窺わせる資料等は存在しなかったと見るのが相当であり、何ら追及する材料もないのに、取調官が決めつけて追及することは考えられない。

前原の右供述には、佐古を含め他の誰もが供述していない事実、すなわち、一〇・二一の夜に佐古と原告が河田町アジトへピース缶爆弾を持ち帰ったこと及び前原が乾電池と電気雷管のはんだ付けをしたこと等が含まれている。右事実は真実体験した者でなければ供述できないものであり、前原の供述は十分信用できると認められた。さらに、同人は、同月一七日以降も、供述の細部においては多少の変遷が見られるものの、アメ文事件に関与した旨の供述を一貫して維持し続けたのであるから、被告堀内らが、同人の供述を十分信用できると判断したことは当然である。

高橋は、同月一七日の取調べにおいて、前原が、箱の中に入れた物は「原物」である旨述べたことに疑問を抱き、原物というのは爆弾ではないかと追及したが、前原は、「爆弾がついていたかどうかわからないから、原物としておいてくれ」と聞き入れなかったため、結局、前原が供述するとおり「原物」としたままで調書を作成した。このように、高橋は疑問点を追及しつつ、強制や誘導にわたらないように注意しながら供述を録取した。

前原は、同月一六日に、佐古の取調官である原田巡査の取調べを受け、否認を続けることができなくなった旨弁解する。しかし、原田巡査が前原を取り調べた事実はなく、また、警部補である高橋が、自分の担当する被疑者を、他の取調べの補助をしているに過ぎない一介の巡査に取り調べさせることはいかにも不自然である。

前原は、同月一六日に供述した乾電池と電気雷管のはんだ付けについて、はんだ付けした記憶は高校時代のトランジスタラジオと乾電池のはんだ付けについてのものであった旨供述する。しかし、右弁解には以下に述べる疑問があり、全く信用できない。

I 高校を卒業して約二八年後の当審証言時でさえ、高校時代に行った乾電池のはんだ付けを明確に記憶していると称する同人が、高校卒業の僅か数年後、しかも取調べを受けた一時期に限ってその記憶が曖昧になるなどということは極めて不自然である。

II 乾電池と電気雷管を接続した旨供述すれば、爆弾事件に関与した嫌疑が生じることは容易に判断できるはずであり、軽々しく右のような供述をするとは到底考えられない。

III 前原は、東京拘置所在監中の昭和四八年六月二九日ころ、菊井に宛てた手紙の中で、「アメ文に使われたタイマーと乾電池を見たということを思い出した。これもマズかった」と書いている。このことは、前原の右供述が高校時代のことではなく、アメ文事件のことであることを示している。

IV 前原は、取調室の室温が異常に高く、意識が朦朧として正常な判断力を失った結果、現実の体験と捜査官の追及内容とを渾然一体化させ、自分の思い込みとして供述する状況に陥ったなどと述べる。取調室の暖房がよく効いていたことは事実である。しかし、前原が室温が高すぎるなどと訴えたことはなく、また、同人が取調室での取調官とのやりとりとして述べる内容は、実に詳細かつ具体的であり、意識が朦朧とした状態での記憶とは到底考えられない。

前原は、高橋から、「認めなければいつまでたっても出られない。素直に認めて反省すれば、一か月で保釈になるし執行猶予は間違いない」旨言われ、佐古とダンボール箱を製造したことをも認めてしまった旨供述する。しかし、高橋が右のような発言をした事実はない上、前原は取調官の誘導等によって自白調書が作成されたとしながら、その旨を接見した弁護人に話した記憶がはっきりしないなどと不自然な供述をする。実際上も、弁護人を務めた下山弁護士が、被告堀内らに対し、前原の取調べに関する抗議や申し入れ等をした事実はないのであって、このことは前原の自白が、記憶に基づく任意の供述であり、十分信用できるものであることを示している。

<3> 前原の逮捕

被告堀内らは、佐古及び前原の供述等から、前原にはアメ文事件に使用された時限式ピース爆弾を製造した嫌疑があり、爆発物取締罰則三条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、昭和四八年一月一七日、裁判官から同人に対する同事件の逮捕状の発付を得て、同日、同人を通常逮捕した。

(3) 増渕及び村松を逮捕した経緯

<1> 佐古の逮捕後の供述

佐古は、前記(1)で述べたとおり、法大図書窃盗事件で起訴勾留中の昭和四七年一二月一一日、初めてアメ文事件に関与した旨供述し、保釈された同月二八日までの間、右供述を一貫して維持したが、翌四八年一月八日、アメ文事件で逮捕された直後、一旦否認に転じた。右否認に疑問を待った岩間警部補が、同月一四日、保釈中に何かあったのか問いかけたところ、同人は、保釈中に増渕から、アメ文事件は村松らがやったことにしておけと言われたので、非常に悩み、気持ちがひっかかって言い出せなかったなどと、否認に転じた動機を説明した。そして翌一五日、アメ文事件に加担している旨供述し、翌一六日、「自分が将来の罪の重さに苦しみ続けるよりも一切を清算して私のためにも父や兄弟のためにも再出発しようという考えに達した」旨心境を述べるとともに、アメ文事件の犯行を認める供述をし、その後も一貫して右供述を維持した。

佐古は、同月一九日、岩間に対し、シャンネル・プランタン会談について述べ、「清算しようとした気持ちが一層動揺し、増渕や江口のためにも絶対に真実を話すことは出来ないと決意した」旨供述した。このことから、佐古が一旦否認に転じたのは、シャンネル・プランタン会談における増渕及び江口の口止めが契機となっていることが推認され、佐古の供述経過には不自然な点は認められなかった。右会談については、増渕がアメ文事件で勾留中の同月二六日、供述を行い、佐古の供述を裏付けた。

<2> 前原の逮捕後の供述

高橋は、同月一九日ころまでにアメ文事件の時限装置付ピース缶爆弾を見たことがなく、導線に関する知識もなかったのであり、同月二〇日か二一日ころ、初めて写真で見たのであるから、同月一八日及び一九日の時点において、前原に対し、本件ピース缶爆弾の形状等を誘導することはあり得ない。

高橋は、誘導にわたらないように注意しながら、村松のいたずら書きに関する取調べを行ったのであり、机の上のワラ半紙に「毛沢東万歳」という字を書いた事実はない。現に、高橋は、前原本人が乾電池のはんだ付けを行ったにもかかわらず、乾電池のメーカーは分からない旨の調書を作成しており、露骨な誘導を行っていない。また、高橋が落書きの点を取り調べた当日に前原が供述したことは、同人の自白が自発的かつ任意であることを示している。

<3> 増渕及び村松の逮捕

被告堀内らは、佐古及び前原の供述並びにアメ文事件の捜査結果等から、増渕及び村松が、同事件の実行行為及び時限式ピース缶爆弾の製造にそれぞれ関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、同月二〇日、裁判官から同人らに対する同事件の逮捕状の発付を得て、同月二二日、右両名を通常逮捕した。

(4) 増渕及び村松の供述の信用性

<1> 増渕の供述の信用性

増渕の取調官である高橋警部補は、同人の取調べを行うに当たっては、罪を憎んで人を憎まずという基本方針をもって、同人に対しL研のリーダーとしての責任を取るべきである旨説得しながら取り調べた。これに対し、増渕は、雑談には応じ、なれなれしい態度でくつろいだ状況も見受けられるものの、犯罪事実については、「全く心当たりがない。事実は黙秘する」などと述べ、さらに、「記憶にないから事実を挙げて教えてくれ、思い出すかもしれない」などと、警察の手の内を探ろうとする意識か窺われたばかりか、殊更に虚偽の事実を混入したりして、捜査を撹乱するような意図が認められたので、慎重に取調べを行った。その結果、増渕は、同年二月一〇日に至り、アメ文事件の実行を指示した旨述べ、翌一一日、「村松に、早急にアメリカ文化センターをやれと指示した」旨供述し、その後、同年三月一日以降、犯行の具体的状況を自白するに至ったもので、その供述経過は自然である。また、同人の供述内容は、佐古及び前原の供述内容と大筋において一致し、信用できるものと認められた。

増渕は、同年一月二六日、シャンネル・プランタン会談に関し、自己に不利益となる事実をいとも簡単に認め、しかも、その内容は、同月一九日における佐古の供述よりも詳細であるから、右供述は、増渕が任意に供述したものと認められる。また、右供述からすれば、増渕は、事実体験した爆弾事件について取調べを受けた際は、「一切知らない」こととして、白を切る覚悟でいたことが認められる。実際、同人は、アメ文事件で逮捕された当初は、同事件以外のことに関しては詳細に供述しているものの、同事件については、「全く心当たりがない」と述べ、否認に徹していることからしても、取調官の追及に抗し切れなくなって、虚偽の自白をすることなど考えられない。

さらに、増渕は、L研のリーダーであり、左翼運動の活動家で、反権力意識がかなり強かったものと認められ、自己の意に反する供述をすることも考えられないから、同人の供述に虚偽の事実が混入されていたとしても、それは、同人の打算に基づくものとみるべきであり、アメ文事件に関与したことを認める同人の供述は、十分信用できるものと認められる。

<2> 村松の供述の信用性

村松は、同年一月二二日、アメ文事件で逮捕された際、岩間警部補の取調べに対し、「やっていない。やっているというなら証拠を見せろ。事件当日は自分のアパートで寝ていた」などと述べ、アリバイについての説明を求めると、「そんなことはお前らの仕事だろ」などと述べ、さらに、「木っ端役人、税金泥棒、政府の犬」などと怒鳴り、供述調書の署名指印も拒否するなど、強い反抗的態度を続けていた。ところが、同年二月七日、検察官の取調べ後の岩間の取調べの際、村松が岩間と二人だけで話がしたい旨要求し、妻が妊娠していること等家庭内の心配事を述べるとともに、爆発物取締罰則の刑が重いことに悩んでいる様子を見せ、「できることなら軽い刑になりたい」旨述べるなど、心境の変化を見せた。

その後、村松は、アメ文事件起訴当日の同月一二日、検察官から、「本日起訴する。証拠はある。増渕も供述している」旨を告げられた際、非常に動揺した態度を示し、さらに同日、八・九機事件で逮捕され、翌一三日、八・九機事件については否認したものの、アメ文事件に加担したことを認め、時限装置の落書きは自分が書いたものである旨述べた上、「妻が妊娠しており、生まれてくる子供の将来のことや妻と営んでいた家庭のこと、両親の社会性の問題、妹のこと、母方の祖母のこと等を真剣に考え、一刻も早く自分の責任を明らかにし、罪を償い社会復帰して平和な暮らしに戻りたいので、爆弾に関する一切のことを誤りと認め自分なりに総括したい」と述べ、アメ文事件への関与を自白するに至った。

さらに、村松は、同月一四日、一七日及び三月三日もアメ文事件に関与した旨の供述を維持し、中でも二月一七日は、「思い出した点を記憶のまま整理し、自分の責任を明らかにしたいと思う」などと述べた上で、同事件について詳細な供述をしており、自白の経過は自然である。

村松がアメ文事件について自白するに至ったのは、検察官から、「増渕も供述している。証拠もある。起訴する」旨告げられたことが契機となったものと認められるところ、同人は、増渕とともにL研結成時からのメンバーであり、反権力意識が強く、取調べ当初から頑強に否認し、強い抵抗をしていたものであり、自己の意に反して自白することなどは到底考えられないことからすれば、同人の自白は、他の被疑者の供述状況等から、否認していたのでは益々不利になるとの功利的打算によるものであることは明らかである。

一方、村松は、「爆弾を仕掛けに行ったのは増渕と原告である」旨供述し、村松がもう一人の男と爆弾を仕掛けに行った旨の佐古の供述と明らかに異なる供述もしている。これは、反省の態度を示して情状を良くしようとしながらも、自己の不利な点は隠し、刑責を少しでも軽減しようとして行った供述と認められる。このことは、取調官が村松に対し、佐古の供述に基づいて村松を誘導したり強要したりせず、同人の供述をそのまま録取したことの証左である。

右に述べたとおり、村松のアメ文事件に関する供述態度は、否認から自白に転じるまでの動機や心境の変化が自然であり、しかも同人の自白は、信用性の高い佐古及び前原の供述と大筋において一致しており、十分に信用し得るものというべきである。したがって、被告堀内が、村松がアメ文事件に関与したものと判断したことは当然である。

(5) 江口を逮捕した経緯

<1> 佐古の供述

佐古は、二月一五日、江口がアメ文事件に関与している旨の供述を行った。

<2> 江口の逮捕

被告堀内らは、佐古の供述及び捜査結果等から、江口が増渕らと共謀の上、時限式ピース缶爆弾の製造に関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則三条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、二月一九日、裁判官から同人に対する同事件の逮捕状の発付を得て、翌二〇日、同人を通常逮捕した。

3 八・九機事件捜査の適法性

(一) 初動捜査の状況

警視庁牛込警察署員らを始めとする警察官は、八・九機事件発生直後から、本件犯人の検挙や目撃者からの供述を得るべく、本件現場付近の検索及び聞き込み調査等を行った。その結果、河村巡査の現認報告並びに高杉早苗及び松浦英子の各目撃供述が得られた。

(二) 捜査の経過

八・九機事件については、昭和四八年一月一七日に佐古及び前原から、同事件に関する供述を得たことから具体的捜査が開始された。

(1) 佐古の供述の信用性

前記2の(二)の(3)の<1>で述べた昭和四七年一二月一一日から昭和四八年一月一六日までの佐古の供述経過からすれば、同月一七日の取調べにおいて、佐古が、前原から八・九機事件関与の話を聞いた旨の供述を行ったことに何ら不自然はなく、同人が自己の罪を全て清算しようとしていたことが窺われる。

佐古の同月一七日における供述は、佐古が前原から八・九機事件の話を聞いたとする日の二日後の夜、増渕に言われて、河田町アジトの引っ越しを行った旨の供述と符合する。また、右引っ越しの際、佐古らが家賃を滞納したまま夜逃げ同然に河田町アジトを引き払っている事実からしても、被告堀内らが、捜査結果等により、佐古の右供述を信用できると判断したのは当然である。

(2) 前原の供述の信用性

前原は、前記2の(二)の(2)の<2>で述べたとおり、同月一六日、高橋警部補から初めてアメ文事件について取調べを受けたところ、短時間のうちに同事件に関与したことを認め、また、同月一八日には、同人が昭和四四年当時使用していたアドレスブックの所在を進んで明らかにしており、警察官の取調べに積極的に応じる姿勢を示していたものと認められた。このことからすれば、同月一七日に初めて八・九機事件についての取調べを受け、短時間のうちに、「八・九機周辺を下見した」旨、同事件に関与したことを窺わせる供述を行ったとしても、何ら不自然とは思われない。

前原は、同月一七日の供述では、八・九機の下見をしたのは昭和四四年一〇月二六日ころとし、八・九機事件の発生日時に照らし、不自然な供述をする。しかし、高橋は、右取調べ時点において、八・九機事件という事件の存在についての認識はあったが、その発生日時については昭和四四年の一〇月二一日より後の一〇月下旬ころという記憶しかなく、前原についても、三年半前の事をいきなり聞かれたのであるから、十分な記憶喚起ができていなかったものと思われる。したがって、事実と供述との食い違いは、高橋が前原の供述をそのまま録取した結果と認められ、同人が前原に供述を強要したり、誘導したりした事実がないことの証左である。

(三) 関係者の逮捕経緯

(1) 増渕、村松及び堀を逮捕した経緯

<1> 前原の供述

前原は、前記(二)の(2)で述べたとおり、昭和四八年一月一七日、八・九機事件にも関与した旨述べ、アメ文事件で勾留中の同月二二日には、八・九機事件のほぼ全容にわたる詳細な供述を行い、その後も右供述を維持した。

前原の八・九機事件に関する供述は以下に述べるとおり信用できるものである。

I 一月一七日の供述については前記(二)の(2)のとおりである。

II 同月二二日の供述には、「八機正門前で機動隊員がフラッシュを使って写真を撮っているのを見た」など、体験した者でなければ供述し得ない内容が認められる。この点について前原は、事実かどうか判断できない中で録取されたもので、いまだに判断がつきかねる旨曖昧な弁解をする。しかし、爆弾事件のような非日常的かつ特異な体験に関することについて、事実体験したことかどうか判断がつきかねるなどということは、あり得ないことである上、同日の員面調書には、八・九機事件のほぼ全容にわたって詳細に供述が録取されているほか、同調書の末尾には、同人か作成した八・九機付近の略図が添付されており、同図面は、一見して丁寧に作成されたものと認められるから、同人の右弁解は全く信用できない。また、同人は右供述に際し、記憶にあることとないことを明確に区別して述べていたのであって、前原自身、知らないことは知らない旨述べていたことを認めており、同人の右弁解が信用できないことはこの点からも明らかである。

さらに、右供述については、八・九機を攻撃対象として選定した理由について客観的事実と概ね合致した供述があること、導火線燃焼実験に関する供述に臨場感が認められたこと及び逃走方法に関する供述が実際に謀議なり検討を行った者でなければ供述し得ない内容であると思われたこと等から、被告堀内らが、右供述を信用できるものと判断したのは当然である。

<2> 増渕の供述

増渕は、アメ文事件で勾留中の昭和四八年二月一一日、高橋警部補に対し、前原の供述を裏付ける供述をした。

<3> 増渕、村松及び堀の逮捕

被告堀内らは、佐古、前原及び増渕の供述並びに捜査結果等から、増渕が八・九機事件の首謀者として計画及び事前謀議に、村松及び堀が同事件の事前謀議及び実行行為にそれぞれ関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、二月一二日、裁判官から同人らに対する同事件の逮捕状の発付を得て、同日、右三名を通常逮捕した。

(2) 内藤を逮捕した経緯

<1> 内藤の供述

被告堀内らは、前原及び増渕の供述並びに八・九機事件の捜査結果等から、内藤が同事件に関与していた嫌疑があると判断し、同年二月六日及び八日、内藤に任意出頭を求め、田村巡査部長が取り調べたところ、同人は八・九機事件への関与をほのめかす供述をした。

<2> 前原の供述

前原は、同月一三日千葉巡査部長に対し、内藤が八・九機事件に関与している旨の供述をした。

<3> 村松の逮捕後の供述

村松は、八・九機事件で逮捕後の同月一四日、岩間警部補に対し、内藤と一緒に結果確認役を担当した旨の供述をした。

<4> 内藤の逮捕

被告堀内らは、内藤及び他の被疑者らの供述並びに捜査結果等から、内藤が八・九機事件の実行行為及び事前謀議に関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、二月一五日、裁判官から同人らに対する同事件の逮捕状の発付を得て、同月一七日、同人を通常逮捕した。

(3) 原告を逮捕し取り調べた経緯

<1> 原告を逮捕した経緯

佐古の昭和四八年一月一七日付け供述、前原の同月二二日付け、三一日付け、二月一〇日付け、同月一一日付け、一三日付け及び一八日付け供述、村松の二月一四日付け供述並びに内藤の二月六日、八日及び一八日付け供述から、被告堀内らは、原告が八・九機事件の実行行為ないし事前謀議に関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、二月一九日、裁判官から原告に対する同事件の逮捕状の発付を得て、同月二〇日、原告を通常逮捕した。右判断は当然というべきものであって、原告の逮捕は適法である。

<2> 原告の取調べ結果

小林一巡査部長及び三沢巡査部長は、刑事管理課取調室及び愛宕警察署取調室において、原告を取り調べたところ、原告は、「事実無根だ。爆弾なんか見たことも触ったこともない。全く知らない。デッチ上げだ。答える必要はない」などと述べて、単に事件との関係を否認ないし黙秘するのみで、アリバイを主張するなど、自己の無実を証明しようとする態度は全く認められなかった。右期間中における取調べ時間は、概ね昼前後ころから午後九時ころまでである。

(四) 増渕、村松及び内藤の逮捕後の供述及びその信用性

(1) 増渕の逮捕後の供述及びその信用性

増渕は、昭和四八年二月一二日、八・九機事件で逮捕された後、同月一八日ころまでは、同事件に対する自己の関与については認めながら、「赤軍派の前田の指令で、村松に指示してやらせた」などと供述し、自己の直接関与を認めなかったが、同年三月一日に至り、「今更責任を逃れることもできないと悟ったので真実を話す」などとして、詳細な供述を行った。右供述経過は自然である。

また、増渕は、八・九機事件の当日、午後四時ころからは村松のアパートにいたなど、前原、内藤及び村松と食い違う供述をしているものの、大筋においては他の共犯者と一致した供述をすること、L研の中心人物として長期間、いわゆる過激派の活動に従事し、強固な反権力思想を有していたこと及びシャンネル・プランタン会談において、佐古及び江口らにしたたかな発言をしていること等からすれば、同人が取調官からの追及に対して、関与したこともないのに爆弾事件を自白することなど考えられないから、同人の右供述は信用できるものと認められた。

(2) 村松の逮捕後の供述及びその信用性

村松は、取調べの当初、八・九機事件への関与を否認していたが、同事件で逮捕後の昭和四八年二月一四日、「妻が妊娠中であり、生まれてくる子供のためにも事実を明らかにし、一刻も早く社会復帰して、両親を含めて幸せな家庭生活を送りたい」旨述べた上、前記(三)の(2)の<3>のとおり、同事件への関与を認めた。その後、同人は、再び否認に転じたものの、同年三月三日、再度同事件に関与した旨を認めた。

村松は、八・九機事件に自己が関与していることは認めたものの、同年二月一四日の取調べにおいて、「自分は結果確認役であった」などと述べるなど、同人は投てき役であったとする前原及び内藤の供述と異なる供述も存在する。しかし、村松の供述は、前原、増渕及び内藤の供述と大筋においては一致しており、右供述の食い違いは、村松が自己の刑責の軽減を図るために虚偽の事実を織り交ぜて供述したものと解された。

また、同人の三月三日の供述には、体験した者しか語れない内容が含まれており、このことは、取調官が強制、誘導によって同人を取り調べた事実のないことの証左である。

さらに、同人は、L研結成当時からの中心的メンバーであり、強固な反権力思想を持っていたことからすれば、身に覚えがない爆弾事件への自己の関与を認めることなど、到底考えられないから、同人の右供述は、信用できるものと認められた。

(3) 内藤の逮捕後の供述及びその信用性

内藤は、任意で取調べを受けた同年二月六日及び八日、L研の背の低い男と八機正門付近を歩いた記憶があることや、河田町アジトで八機を襲う話が出たなど、八・九機事件に関与したことをほのめかし、同月一七日、同事件で逮捕された後、同事件に関与した旨を認め、同月二八日以降、その供述は次第に詳細かつ具体的になっている。

内藤は、任意の取調べの段階から、田村巡査部長に対し、「記憶が曖昧だからヒントがあったら教えて下さい」などと述べ、逮捕後においても、田村に対し、「記憶が曖昧だから誘導してくれ」などと再三述べていたため、田村は、内藤に対し、誘導は絶対できない旨を告げ、誘導にわたらないよう注意しながら、同人の供述を同人の言葉どおりに録取した。中でも、「八機への横の方からの侵入」に関する供述は、同人以外に述べる者がいないことからすれば、同人が任意に供述したことを、田村がそのまま録取したものと認められる。

したがって、内藤の供述が、取調官の強制や誘導によるものでないことは明らかであり、また、前原、村松及び増渕の供述と大筋で一致していることからすれば、信用できるものと認められる。

(五) 前原の追送致

被告堀内らは、佐古、前原、増渕、村松及び内藤の供述並びに八・九機事件の捜査結果等から、前原が同事件の実行行為及び事前謀議に関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があると判断し、公安第一課長は、同年三月五日、同人に対する八・九機事件の関係書類を検察官に追送致した。

(六) まとめ

以上のとおり、佐古、前原、増渕、村松及び内藤の八・九機事件に関する供述は大筋において一致し、いずれも信用性が認められたのであり、しかも、前原、村松及び内藤は、八・九機事件において、原告が投てきグループの一員として関与している旨の供述をしていることからすれば、被告堀内らにおいて、原告が右事件に関与したと疑うに足りる相当な理由があるものと判断し、逮捕したことは当然であって、何ら違法はない。

4 製造事件捜査の適法性

(一) 捜査の端緒

(1) 佐古は法大図書窃盗事件で逮捕勾留中の昭和四七年一一月一八日、自発的に作成したメモの中で、月日不明としながらも、「村松が、昭和四四年九月から住んでいたフジテレビ前のアパートでピース缶にダイナマイトの火薬を詰め込み、爆弾を造ったことを話してくれたと思う」旨明らかにし、次いで、右事件で勾留中の同年一二月一〇日、好永巡査部長に対し、「昭和四五年六月段階で、増渕が赤軍派の森恒夫、坂東国男らに爆弾の造り方を教えていた」旨供述した。

さらに、佐古は、アメ文事件で逮捕勾留中の昭和四八年一月二〇日、岩間警部補に対し、「昭和四四年一〇月中旬ころ、青梅付近において、増渕、花園紀夫、前田祐一と四人でダイナマイトを盗んだ。村松から、前田が盗って来たダイナマイトを使ってピース缶爆弾を造ったことがあると聞いた」旨供述し、右事件で勾留中の同年二月一〇日、好永に対し、再度、「昭和四五年六月中旬ころ、増渕が赤軍派の森恒夫、坂東国男に爆弾の造り方を教えていた」旨、増渕らが爆弾を製造していたことを窺わせる供述をした。

(2) 右各供述を録取した好氷は、佐古が昭和四七年一一月一七日の取調べ及び昭和四八年一月一七日の取調べにおいて、一〇・二一闘争の際、赤軍派の者からピース缶爆弾を受け取った旨供述していたことと、増渕らが爆弾を製造していたこととは矛盾することから、佐古の供述に不審を抱き、同年二月一二日、右の点について佐古を取り調べた。佐古はこれに対し、ワラ半紙四枚にわたる詳細なメモを作成し、その中で、「第一次東京戦争の敗北により、早急に我々で武器を造る必要があった。昭和四四年一〇月一七日ころ、河田町アジトで、我々の持つダイナマイトの中身を取り出してピース缶に詰め、殺傷力を高めようと当時ベトナム戦争で使われていたナパーム弾をヒントにパチンコ玉を入れ、ピース缶爆弾七~八個を造った。これには、私のほか増渕、村松、堀、前原らが加わった」旨、爆弾製造を認めるに至った。

一方、増渕は、右同日、水崎検事に対し、「一〇・二一闘争の前に私らかダイナマイトを盗み、村松がそれを利用してフジテレビ前のアジトでピース缶爆弾を造った」旨供述し、翌一三日、高橋警部補に対し、「八・九機攻撃に使った爆弾は、一〇月中旬ころ、河田町アジトで村松が中心となり造ったものである」旨供述した。

(3) 被告堀内らは、佐古及び増渕の前記(2)記載の供述から、L研グループによってピース缶爆弾が造られた疑いが強いと判断した。ところで、被告堀内らは、当時、八・九機事件の捜査に着手しており、同月一二日に、右事件の被疑者として増渕、堀及び村松を逮捕したため、八・九機事件の捜査に追われていた。そのため、製造事件の捜査を本格的に開始したのは、同年三月初旬ころからであった。

(二) 原告、増渕、堀、前林、江口、石井、菊井及び平野を逮捕した経緯

被告堀内らは、佐古、増渕、前原、村松及び内藤の供述状況から、増渕、堀、前林、江口、原告、石井、菊井及び平野について、製造事件の爆弾製造行為に加担していた嫌疑があり、爆発物取締罰則三条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、三月一一日、裁判官から右八名に対する同事件の逮捕状の発付を得て(平野については、同月二四日に発付を得た。)、同月一三日、堀、前林、江口、原告及び石井を、同月一四日、増渕を、同月一六日、菊井を、同月二五日、平野をそれぞれ通常逮捕した。右判断は当然というべきであるから、原告らの逮捕は適法である。

また、佐古、前原、村松及び内藤は、別件で勾留中であったが、製造事件についての取調べに対して任意に応じ、右事件に関与したことを認める供述を行っていたため、右事件では逮捕されなかった。

(三) 被疑者らの供述及びその信用性

(1) 佐古の供述及びその信用性

<1> 佐古の供述経過

佐古は、前記(一)の(2)で述べたとおり、アメ文事件で起訴勾留中の昭和四八年二月一二日、ワラ半紙四枚にわたる詳細なメモを作成し、ピース缶爆弾を製造したことを認め、その後も一貫して右事件に関与したことを認める供述をした。

<2> 佐古の供述の信用性

佐古は、前記2の(二)の(3)の<1>及び3の(二)の(1)で述べたとおり、昭和四八年一月一五日、アメ文事件に加担した旨述べるに至り、以後、右事件に関与したことを認め、八・九機事件捜査の端緒となる供述をするなど、その自白経過は自然で、その後は一貫してアメ文事件への関与を認めており、自ら積極的に供述を行っていたものと認められる。

佐古は、製造事件について自白した同年二月一三日ころ、それまで受け入れていた極左暴力集団の支援組織(救援連絡センター)からの差し入れを断り、同月一四日には、喫茶店プランタンにおいて江口が日石・土田邸事件に関与している旨話していたこと(いわゆるシャンネル・プランタン会談)を暴露する供述を行うなど、自己の知っている事実を明らかにして、罪を清算する心境になっていたことが認められる。

被告堀内は、佐古の製造事件に関する同年三月九日付け員面調書中の供述が、臨場感があり、事実体験した者でなければ供述できない内容であること、また、右員面調書中の穴開け作業の場所に関する供述が河田町アジトの現場の状況に合致しており、体験した者のみが語れる内容であると思われたこと等から、同人の供述は十分信用できるものと判断した。さらに、佐古の供述は前原、増渕、村松、内藤及び石井の供述と大筋で一致していることからしても、被告堀内らが、佐古の供述は信用できるものと判断したことは当然である。

佐古は、L研がピース缶爆弾を製造した動機について、早大正門前集結を挙げるが、右集結については、同人以外に述べる者がいない。このことは、同人の供述が取調官の強制、誘導によってなされたものでないことの証左である。

(2) 前原の供述及びその信用性

<1> 前原の供述経過

前原は、アメ文事件で起訴勾留中の同年二月二〇日ころより、千葉巡査部長から製造事件についての取調べを受け、当初は、「わからない。記憶がない」など、右事件への関与を否認していた。しかし、同年三月四日、増渕が留置されていた留置場の同房者を介して増渕と通謀したことを打ち明けるとともに、右事件に関与したことを認めた。さらに、同月九日には、右事件について具体的かつ詳細な供述を行い、その後も一貫して右事件に関与した旨の供述を維持した。

<2> 前原の供述の信用性

前原は、前記<1>で述べたとおり、当初は製造事件への関与を否認していたが、同年三月四日、千葉巡査部長から、「最近態度がおかしいじゃないか。何かあったのか」と追及され、増渕と同房の檜谷を介して増渕と通謀したこと(檜谷伝言)を打ち明けた上、さらに、千葉から、その通謀内容について追及されたことを契機として、右事件に関与したことを認めるに至った。

前原は、刑事審において、檜谷に「外へ出たらまた活動するつもりだ」という増渕への伝言を依頼した旨供述する。右伝言の意味について、前原は、「アメ文にしろ製造にしろ、嘘を認めてベラベラしゃべったのと同じことだったから、そういうことを増渕に知られるのは恥ずかしいため、逆に頑張っているということを印象づけたいというつもりで話した」旨供述する。しかし、増渕と共に反権力闘争を闘った前原が、増渕に知られては恥ずかしいという気持ちを持ちながら、虚偽の犯罪事実を自白することは考えられない上、檜谷伝言を行った二月二八日の僅か四日後である三月四日、千葉に対し、右伝言について自ら進んで供述し、さらに製造事件に関与した旨を初めて認めるなど、前原の供述によれば、増渕に知られると恥ずかしいことを繰り返したことになる。このように、檜谷伝言の意味に関する前原の右供述はまことに不自然で、全く信用できない。

前原は、刑事審において、三月五日の取調べ中、取調官に対し大声で怒鳴り返した旨供述する。しかし、仮に前原が右のような強い抵抗を示していたとすれば、その後、体験したこともない製造事件の自白をすることは考えられないのであり、また、前日、爆弾製造を追及される端緒となった檜谷伝言をいとも簡単に供述した事実とも矛盾するから、右供述は信用できない。さらに、前原は、同月九日、千葉に対し、ピース缶爆弾を製造するに至る経緯並びに住吉町アジトでの増渕、村松、佐古、石井及び菊井らとの事前謀議の状況等について具体的かつ詳細に供述しており、この点からしても、取調べに対して強く抵抗していたものとは認められない。

千葉が、爆弾製造を認めなければ再逮捕するなどと言って、前原を脅迫した事実はない。前原は、法大図書窃盗事件で勾留中の同年一月一三日ころにアメ文事件及び八・九機事件を追及される際にも、再逮捕すると取調官の高橋が脅したので、自白を余儀なくされたと供述するところ、結局、前原は、同月一七日、アメ文事件で再逮捕され、同年二月八日、右事件で起訴されている。仮に高橋が右のような脅迫を行ったのであれば、前原としては約束を反故にされたことになるのであるから、その後、千葉が同じような脅迫をした場合に、製造事件を認めるなどということは考えられない。したがって、右のような脅迫をされた旨の前原の供述は信用できない。しかも、前原は、同年二月中旬ころ、下山弁護人から「保釈は無理である」旨聞いていたというのであるから、「認めなければ保釈もあり得ない」旨脅されたことによって製造事件を自白したなどという前原の供述は、この点からも信用できない。

前原の同年三月一一日付け員面調書中の、ピースの空き缶に関する佐古とのやり取り及び一〇・二一闘争当日に爆弾を赤軍派に交付した旨の部分は、前原だけが供述している。したがって、取調官が誘導することはできないのであるから、被告堀内が、前原の右供述は信用できるものと判断したことも何ら不自然ではない。

(3) 内藤の供述及びその信用性

<1> 内藤の供述経過

内藤は、八・九機事件で起訴された同年三月一〇日、弁護人との接見の後、製造事件に関与したことを認める供述を行い、その後同月一四日否認に転じたものの、同月一九日、再び右事件への関与を認め、以後、再三にわたり、詳細な供述を行った。

<2> 内藤の供述の信用性

内藤は、八・九機事件で起訴された同年三月一〇日、渋谷警察署取調室において、田村巡査部長から製造事件について初めて取調べを受けたが、途中、弁護人と接見を行った後、取調べを再開し、田村が、「一〇・二一より前に河田町へ行ったことはないのか」と聞いたところ、同人はしばらく考えた後、「確か女の人がいた。二四日よりもっと大勢の人間がいたような記憶がある。調合かなんかやった」と述べ始め、詳細な供述を行った。右供述に至る経緯からすれば、供述の任意性に疑いのないことは明らかである。

もっとも、内藤は、同月一四日に至り、河田町アジトで爆弾を製造したのは事実でない旨を述べて、否認に転じた。しかし、同月一九日、検察官の取調べを受け、再度右事件への関与を認める供述を行い、以後、一貫して右事件への関与を認めており、その内容は詳細かつ具体的である。

内藤の供述には、ピース缶への充填物について、客観的事実と明らかに異なる供述や、製造当日河田町アジトにあった薬品及び器具について、爆弾製造には不必要と思われるものに関する供述等も見られる。このことは、取調官が同人の供述をそのまま録取したことの証左であるから、同人の供述は任意性が高いといえる。また、内藤は、作成された供述調書については読み聞かせ等によって細部まで確認し、誤りについては訂正を申し出ているのであって、取調官が供述を押しつけたり、誘導をした事実のないことが明らかである。

内藤は、田村に対し、爆発物取締罰則の法定刑や予想される自己の刑事処分等について、何回も聞いていたのであって、同人が経験した事実を全てありのままに供述するというよりも、何とか刑責を免れたいと考え、細部において、意図的に虚偽の事実を織り交ぜるなどして供述したとも考えられる。しかし、同人は、製造事件について、自己の関与を一貫して認めており、右事件に関する供述内容は、細部において他の被疑者の供述との間に食い違いがあったとしても、信用性の高い佐古及び前原らの供述と大筋において一致するばかりでなく、任意性も高いと認められるから、同人の供述は信用できるものと認められた。

内藤は、公判段階においても自白を維持したことから、東京地裁刑事八部は、製造事件及び八・九機事件について有罪判決を言い渡し、右判決は確定した。この一事をもってしても、内藤の供述が信用できるものであったことは明らかである。

(4) 村松の供述及びその信用性

<1> 村松の供述経過

村松は、八・九機事件で起訴勾留中の同年三月八日、岩間警部補に対し、「昭和四四年一〇月一五日ころの午後一時ころから午後五時ころまでの間、河田町アジトで増渕の指揮によりピース缶爆弾を五個くらい製造したことがある」旨供述し、以後も一貫して製造の事実を認める供述を行った。

<2> 村松の供述の信用性

岩間警部補は、同年三月六日、被告堀内から、製造事件及び昭和四五年六月ころ梅津の部屋で硝化綿や雷管等を製造した事件等について、村松を取り調べるよう指示され、同人に対し、起訴後の取調べであるから取調べに応じるかどうかは任意である旨告げた上、右事件について取り調べた。

村松は、翌七日、製造事件に関与した旨を認め、次いで、八日には、「起訴後の取調べに応じなくともよいことは知っているが、自分から進んで整理して、一日も早く社会復帰したい」として、「増渕の指揮により、佐古、菊井、江口、堀、前林、前原、平野、富山、内藤、国井らとピース缶爆弾を製造した」旨を供述し、右事件に関与したことを認めるに至った。

さらに、同人は、同月一五日、小林正宏巡査部長に対し、「製造した爆弾の個数は一二~一三個である」旨述べ、同月一八日には、導火線燃焼実験を含めて右事件に関する詳細な供述を行ったものであり、その供述経過はきわめて自然である。

村松は、刑事審において、製造事件に関する供述調書は、予め作成されていた調書に強制的にサインや指印させられたものであって、自らの意思で事実関係を述べたことはないとして、製造事件に関与した事実はない旨供述している。しかし、同人の三月八日付け員面調書をみると、右調書には、村松が製造に関与した事実が詳細かつ具体的に録取されている上、三月八日以前には、他の共犯者の誰もが述べていない内容が録取されている。また、取調べに当たった岩間は、紙火薬をほぐして導火線を作った旨の供述を聞いて、実際にそのようなことができるのか疑問を感じ、村松に確かめたところ、同人は、「確かに作った。作ったから話すんだ」と述べたため、そのまま録取したのである。このように、他の共犯者の誰もが述べていない具体的事実を取調官が勝手に虚構して、供述を押しつけるなどということは、到底考えられないから、村松の供述が、自発的かつ任意のものであることは明らかである。村松が、関与した事実もないのに、爆弾事件という重大な犯罪の自白をすることなど到底考えられない。したがって、自ら製造事件に関与した旨の村松の供述は、細部においては事実と異なる部分があったとしても、大筋においては、佐古及び前原ら他の被疑者の供述と一致していたのであるから、信用できるものと認められた。

(5) 増渕の供述及びその信用性

<1> 増渕の供述経過

増渕は、八・九機事件で逮捕後の同年二月一三日、高橋警部補に対し、「八機攻撃に使ったピース缶爆弾は、河田町アジトで村松が中心になって造った」旨述べ、同月一八日、高橋に対し、「前田から指示があり、村松達に爆弾製造を指示した」旨述べるなど、村松らが爆弾の製造に関与した事実は認めたものの、自分は指示したに過ぎないなどと、自己の刑事責任を軽減するための供述を行い、同年三月一四日には、日石・土田邸事件に関与した旨を認める一方で、「ピース缶爆弾を製造した記憶はどうしてもありません」などと述べ、否認に転じたが、同月二二日に至り、製造事件に関与したことを再度認め、詳細な供述を行った。

<2> 増渕の供述の信用性

増渕は二月一三日及び同月一八日、八・九機事件に関連して製造事件に関する取調べを受け、製造事件に関与したことを認める供述をしていた。その後、三月一四日に日石・土田邸事件で逮捕された後は、右事件に関与したことは認めながら、製造事件については、「記憶はどうしてもない」旨述べ否認したが、同月二二日に至り、ピース缶爆弾製造時の任務分担、構造図等についてのメモを作成した上、昭和四四年一〇月一七日正午過ぎから午後五時ころまでの間に河田町アジトで佐古、村松、原告、前原、国井、堀、内藤、江口、石井及び前林らとピース缶爆弾一二、三個を作った旨具体的かつ詳細に供述した。増渕の製造事件に関する供述は、大筋において前原、佐古、村松及び内藤の供述と一致する。もっとも、個々の任務分担や、製造した爆弾を赤軍派に渡す経緯等について、佐古及び前原の供述と異なった供述をするが、これらは、取調官が何ら誘導することなく、増渕の供述をそのまま録取した事実を示すものにほかならない。

増渕が、関与した事実もないのに、爆弾事件という重大な犯罪の自白をすることなど到底考えられない。このことは、シャンネル・プランタン会談において、増渕が佐古に対し、爆弾事件のことは絶対認めてはいけない旨口止めし、他人に責任転嫁しろと入れ知恵していることからも明らかである。増渕が自己の刑事責任を免れようとする打算によって、細部において殊更に虚偽の内容を織り交ぜて供述していたとしても、製造事件への関与を認めた同人の供述は、大筋において佐古及び前原ら他の被疑者の供述と一致していたのであるから、十分信用できるものと認められた。

(6) 石井の供述及びその信用性

<1> 石井の供述経過

石井は、同年三月一三日、製造事件で逮捕された当初から、西尾警部補の取調べに対し、経歴、身上関係及びL研との関係等については供述していたが、製造については、「身に覚えがない」などと否認していた。

その後、同月二〇日に至り、ピース缶爆弾を製造したことは否認したまま、昭和四四年一〇月一六日か一七日ころ、佐古らの指示により河田町アジト周辺でレポしたことを認めた。

次いで、石井は、同月三〇日、弁護人と接見した後、西尾に対し、武器製造の認識でレポしたことを認め、さらに四月一日、両親と接見した後の取調べにおいて、西尾に対し、佐古の指示により、佐古らが河田町アジトで爆弾を製造していた時、これを認識した上でレポしたことを認める供述をするに至った。

<2> 石井の供述の信用性

前記<1>て述べたとおり、関与を徐々に明らかにしていった石井の供述経過に不自然な点はない。

石井は、同年三月二〇日、ピース缶爆弾の製造に富岡及び元山が加わっていたとして、同人らの行動を具体的に供述した。同人らの関与は、同日までに他の被疑者の誰もが供述していなかったことである。ところで、佐古、前原、増渕及び村松が、富岡及び元山の右事件への関与を述べていないことからすると、石井の右供述は同人の記憶の混同によるものとも思われるが、いずれにしても、取調官の強制、誘導によって行われたものでないことが明らかである。

そして、他の被疑者の供述と細部において齟齬が認められるとしても、佐古、前原、内藤及び増渕らが皆一様に、石井がレポをしていた事実を認めていたこと及び石井の供述が弁護人や両親と接見した直後になされたことに照らすと、石井の供述は十分信用できるものと認められた。

石井は、内藤と同様、公判の段階に至っても自白を維持し、有罪判決の言渡しを受けている。さらに東京地裁刑事五部及び九部において、証人として出廷し、弁護人から自己のアリバイを指摘された後も、なお、河田町アジト周辺でレポしたことは間違いない旨の供述を推持していた。この一事をもってしても、被告堀内らにおいて、同女の供述が信用できるものと判断したことは当然である。

(7) 江口の供述及びその信用性

<1> 江口の供述経過

江口は、同年二月二〇日、アメ文事件で逮捕され、取調べに対し、「デッチ上げだ。何もしていない。一切話さない」、「爆弾なんか、生まれてから見たこともない」等と述べ、身上関係の供述も拒否するなど、頑強に否認ないし黙秘を続けていた。

その後、同年三月一三日、製造事件で逮捕され、当初、平塚警部補の取調べに対し、「記憶にない」などと述べ、否認ないし黙秘していたが、同月一五日には、増渕と昭和四六年中に三回旅行に行ったこと、堀のこと、村松のこと等について具体的に述べ、前日である同月一四日に逮捕された日石・土田邸事件については、「全く知らないし、絶対関係していない」と述べる一方、製造事件については、「河田町の製造については何か責任があるような気がする」などと述べるなど、両事件を明確に区別して供述していた。

また、江口は、翌一六日の取調べにおいて、日石・土田邸事件に関し、自己のアリバイを具体的に供述して右事件への関与を否定し、弁護人との接見の後、製造事件について、「認めていいが記憶がないからよく説明してほしい。一〇人位が集まった部屋に行ったような気もするか、今ははっきりしないので、記憶がはっきりしたら話す」などと供述した。

<2> 江口の供述の信用性

前記<1>に述べた供述経過からすれば、江口は、製造事件で逮捕されて間もない三月一五日及び一六日、取調官に対して自己の主張を積極的に行った上で、右事件について自己の関与を窺わせる曖昧な供述を行っているのであり、取調官が江口に対し、供述を強要した事実はない。

江口の製造事件に関する供述は、かなり曖昧であり、自己の行為のみを述べ、他の共犯者等に関することはほとんど供述せず、ピース缶に黄色い粉を入れた旨の供述は客観的事実と異なっている。

しかし、江口は、過激派の活動家で反権力意識が強く、前記<1>のとおり、取調べに対し強い抵抗を示していたのであるから、自己の意に反して取調官の追及や誘導に簡単に屈することなどは到底考えられない上、右供述が本件ピース缶爆弾事件の捜査の過程において江口のなした唯一の自白であること、右供述は逮捕後間がない時期になされ、取調官が供述を誘導したり強制した事実も見られないことからすれば、他の被疑者の供述状況から、否認を貫くと自己に不利になると判断し、製造事件に関与したことを曖昧に認めながらも、自己の刑事責任を軽減しようと、虚偽の事実を織り交ぜて供述したものと認められる。このことは、江口が同月一七日、いわゆる六月爆弾への関与を認める際、「完黙を続けると不利になると判断し、供述する」旨述べていることからも明らかである。

その後、江口は再び否認に転じ、一切自白しなかったことからしても、製造事件に関与した旨を認めた江口の右供述は十分信用できるものと認められる。

(8) 原告、堀、前林、菊井及び平野の供述状況

原告は、同年三月一三日、製造事件で逮捕された後、右事件について取調べを受けたが、終始黙秘ないし否認を貫き、「やっていない。答える必要はない。公判で明らかにする」などと言うのみで、供述調書の作成にも一切応じなかった。右期間における取調べ時間は、概ね午前一一時前後ころないし午後から始めて午後八時ころから午後一〇時ころまでである。また、原告は、取調官から弁解の機会を与えられ、犯行に加担した事実がないのなら、当時の行動を具体的に供述し、アリバイ等を提示するよう説得されたが、それに対しても一切応ぜず、何らの弁解もすることなく、否認ないし黙秘に終始した。

堀、前林、菊井及び平野についても、原告と同様に、弁解及び反証の機会を与えられ、取調官からも事実を述べるよう説得されたが、嫌疑を払拭するような弁解等は何ら行わず、否認ないし黙秘に終始した。

(四) まとめ

以上のとおり、製造事件の捜査は適正に行われており、また、佐古、前原、村松、増渕、内藤及び石井のいずれもが、原告が右事件に関与していた旨供述し、その供述はいずれも信用性が認められたことから、被告堀内らが、右事件の被疑者として、原告を逮捕し取り調べたのは当然のことであり、何ら違法は存在しない。

五 被告水崎、同親崎、同長山及び同堀内の主張

公権力の行使に当たる国の公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を与えた場合には、国がその被害者に対して賠償の責に任ずるのであって、公務員個人は被害者に対して直接に賠償責任を負わないものと解すべきである。

六 被告菊井の主張

被告菊井が偽証をしたとする原告の主張は否認する。

七 争点

1 本件ピース缶爆弾事件に関する捜査の違法性(原告の主張1)

2 右事件に関する公訴提起の違法性(原告の主張2)

3 右事件に関する公訴の追行・維持の違法性(原告の主張3)

4 右事件に関する控訴提起の違法性(原告の主張4)

5 被告菊井の偽証の有無(原告の主張5)

6 被告水崎、同親崎、同長山及び同堀内の不法行為責任(原告の主張6及び7)

7 原告に生じた損害(原告の主張8)

第三争点に対する判断

一 本件ピース缶爆弾事件に関する捜査の違法性(争点1)

1 誤った犯人の断定とこれに基づく見込捜査(原告の主張1の(一))

<証拠略>によれば、昭和四六年一〇月一八日、日石本館内郵便局において、警察庁長官後藤田正晴、新東京国際空港公団総裁今井栄文宛の小包郵便物が爆発し、郵便局員が加療約四〇日を要する傷害を受けたこと(日石事件)、同年一二月一八日、警視庁警務部長土田国保方において、郵送された小包郵便物が爆発し、同人の妻が死亡し、息子が加療約一か月を要する傷害を受けたこと(土田邸事件)、昭和四八年二月一四日、佐古が「昭和四八年一月五日、喫茶店プランタンで増渕及び江口と会った際、江口が増渕に対し、昭和四七年一一月ころ窃盗事件で逮捕、勾留されていた間に昭和四五年六月の爆弾製造について取調べを受けたかどうかを尋ね、『これが警察にわかれば日石事件が発覚し、日石事件が発覚すれば土田事件が発覚してしまう』旨発言した」等のことを供述したこと、右供述を契機に同年三月一四日、増渕、堀、江口及び前林が日石・土田邸事件により逮捕されたことが認められる。

<証拠略>によれば、昭和四七年一一月当時、一連のピース缶爆弾事件のうち、中野板上事件、福ちゃん荘事件及び松戸市岡崎アパート事件については、ピース缶爆弾の使用者ないし所持者がいずれも赤軍派の構成員であること、増渕が、昭和四四年当時、L研を主宰し、前田らを通じて赤軍派と関わりがあり、かつ、後に自らも赤軍派に加わったことが捜査当局に判明していたことが認められる。

<証拠略>によれば、中野坂上事件の詳細は、右事件に参加した木村一夫、大桑隆及び大川保夫の各供述等によって、昭和四五年には捜査当局に判明していたこと、右事件にはL研メンバーも関与したのであって、特に佐古は襲撃に用いられたトラックの運転手をさせられ、中野坂上付近で逃走していたこと、捜査当局は佐古の右関与の事実を遅くとも昭和四七年一一月一二日ないし一三日ころには村松の供述等によって知るに至ったことが認められる。

<証拠略>によれば、石田の火薬庫侵入事件については、火薬庫に侵入したこと、ペンチや火薬関係の本を所持していたこと、氏名等を黙秘したことに照らし、組織的背景が窺えたので、極左本部が所轄の五日市署を支援、応援したこと、石田が昭和四七年九月一二日ころ、増渕から昭和四六年一〇月か一一月ころに爆弾を作ったとき使った毛布、ピース缶みたいなもの及び硫酸をもらった旨、爆弾材料の残りとの説明を受けてピースの空缶をもらった旨供述したこと、石田の供述から増渕に対する牛乳屋グループの犯人隠避事件が発覚したところ、五日市署も増渕の毒劇法違反事件の所轄署(新宿署)も捜査体制が十分確保できなかったことから、極左本部が右犯人隠避事件の捜査を直接担当したこと、被告堀内は、一〇月二四日(法大図書窃盗事件につき増渕に逮捕状を請求した日)ころ、増渕が石田を指導して火薬庫侵入を唆したことから増渕に爆弾志向があり、何らかの事件に関与した可能性があると考えていたこと、もっとも、他に証拠はなく具体的嫌疑があったわけではないので、爆弾事件に関係する資料等が出れば、注意深く把握する必要があると考えていたことが認められる。

右認定事実によれば、昭和四七年一一月当時、捜査当局が本件ピース缶爆弾事件と増渕らL研グループとの関連について一定程度の関心及び嫌疑を抱いていたことを認めることができるが、その当時、捜査当局が本件ピース缶爆弾事件の犯人を増渕らL研グループであると断定し、以後これに従った見込捜査を行っていったものと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

2 別件逮捕(原告の主張1の(二))

<証拠略>によれば、原告ら本件ピース缶爆弾事件の被告人及び弁護人は、法大図書窃盗事件について、当該刑事裁判の当初から違法な別件逮捕である旨主張したこと、五部判決、九部判決及び九部判決に対する控訴審判決のいずれも、右主張に沿った判断をしなかったことが認められる。

<証拠略>によれば、法大図書窃盗事件は、昭和四七年九月末、佐藤安雄の供述を端緒として発覚したこと、右事件の捜査は極左本部が担当し、同年一〇月二四日に被害届の提出を受けたこと、右事件は組織的な犯行で、共犯者も多数であったこと、盗難品の処分方法及び処分先、現場引当りその他の裏付け捜査等に多大の日時と労力が必要なことが見込まれ、現に要したこと、法大図書窃盗事件に引き続く捜査の中で、様々な窃盗余罪が発覚し、右余罪についての捜査も併せて行われたこと、昭和四四年当時のL研の活動状況の取調べを行ったものの、右の点は法大図書窃盗事件及びその余罪と関連のある取調べであったこと、前原については、一二月末に人定と住所確認がとれたので、翌昭和四八年一月に逮捕したこと、原告については当初「青山某」として供述に現れたので特定に時間を要し、まず、昭和四八年一月二〇日、「青山こと井上某」で逮捕状の発付を受け、昭和四八年二月初めころ、氏名と所在が判明し、改めて逮捕状の発付を受けたことが認められる。

右認定事実によれば、法大図書窃盗事件による逮捕勾留が別件逮捕として違法であると認めるのは困難であり、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

3 長時間にわたる取調べ及び自白の強要(原告の主張1の(三))

<証拠略>によれば、原告ら本件ピース缶爆弾事件の被告人及び弁護人は、本件ピース缶事件の刑事裁判において、被告人らの捜査段階における自白の任意性を争ったこと、右被告人らの主張を踏まえ、裁判所が供述調書の任意性について供述者及び取調官の証人尋問を行う等の審理を行ったこと、右事件の審理を担当した東京地方裁判所刑事五部は、第一五二回公判において各供述調書について任意性に疑いをさしはさむに足りないと判断し、右供述調書を証拠採用したことが認められる。右経過を踏まえ、さらに、本件訴訟において改めて、刑事裁判における被告人質問並びに共犯者及び取調官の証言を初めとする関係各証拠を検討しても、本件ピース缶爆弾事件の被疑者らの取調べについて、取調官の誘導、押しつけ、長時間の取調べ、脅迫、利益誘導等による虚偽の自白を強要するような違法な取調べが行われた事実を認めることはできない。

なお、特に、原告の取調べについて、虚偽の自白を強要するような違法な取調べがあったか否かを検討してみるのに、<証拠略>によれば、原告が法大図書窃盗事件の取調べには終始、黙秘したこと、法大図書窃盗事件の逮捕勾留中には、窃盗事件の事実関係、昭和四四年当時の交際関係及び活動状況の取調べを受けたこと、本件ピース缶爆弾事件についての具体的な取調べはなかったこと、八・九機事件で逮捕された直後の二月二〇日、弁護人との相談も踏まえて当該被疑事実について黙秘を解き否認の供述をしたこと、同日、否認調書の作成に応じたこと、製造事件についても否認の供述をしたこと、逮捕勾留期間を通じて弁護人との接見が二日おき位に行われたこと、取調べ時間は一日平均八時間半くらいであったことが認められる。しかし、右認定事実からは、原告に対して長時間の取調べその他の虚偽の自白を強要するような違法な取調べがあったものと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

4 客観的証拠の無視(原告の主張1の(四))

(一) 本件ダンボール箱と佐古及び前原の供述との矛盾

(1) ダンボール箱の客観的形状

<証拠略>によれば、アメ文事件に使用された爆弾は、概要、電気雷管を埋め込んだピース缶爆弾とタイマー、電池等を利用した時限装置を連結し、時限装置をセットすることにより一定時間経過後に電気雷管に通電し爆発する構造のもので、右ピース缶爆弾と時限装置は本件ダンボール箱内に収納され、本件ダンボール箱は紙で包んだ上、梱包用テープで封をされていたことが認められる。また、<証拠略>によれば、本件ダンボール箱(縦約一七・五センチメートル、横約一三センチメートル、高さ約一二・五センチメートル)は、既製のダンボール箱(日本工業規格JIS・Z一五〇七に定められたB―1型)の一側面を何らかの理由により切り取り、その後において、右切り取った側面あるいは他のダンボール箱を利用して同じ大きさに作製したダンボール紙を、切り取った場所にあてガムテープで固定して箱としたものであること、本件ダンボール箱に打ち込まれていた平線は、大型ホッチキス(家庭用大型ステイプラー)によるものではなく、ステッチャーといわれる工作機械によるものであることが認められる。

(2) ダンボール箱の作製に関する佐古及び前原の供述経過及び内容

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

佐古は、昭和四七年一二月二八日、好永に対し、本件ダンボール箱はダンボール箱を縮めて造った旨供述した。

佐古は、昭和四八年一月一六日、前原とボール箱、ガムテープ、ボンド、大型ホッチキス、割箸等を使って、一〇月二九日、時限装置及び電池付きのピース缶爆弾を入れるものを造った旨供述した。

前原は、同日、高橋に対し、「一〇月二八日ころ、佐古とダンボール箱を改造して縦一五センチくらい、横一〇センチくらい、高さ一五センチくらいの蓋付きの箱を造った。何か原物があってこれに合わせてその物が入るように造った気がする。ダンボール箱は佐古か誰かが持って来た。部屋にあった大きなはさみでダンボール箱を切り、大きなホッチキスで四箇所位止めて箱を作り、周りをガムテープで補強した。ボンドも使った気がする。箱ができてから原物を中に入れた」旨供述した。

前原は、同月一七日、右供述を維持し、供述調書が作成され、また、作製したダンボール箱を図示した。

佐古は、同日、「河田町アジト裏のパン屋からダンボール箱を盗んで来て、前原に手伝ってもらって、大型日本はさみで箱の隅の一つを利用して立方体の箱ができるように切り取り、合わさる部分を大型ホッチキスで止め、ガムテープを貼り、底の部分は割箸を十字に据えてボンドで貼りつけ、その上にガムテープか紙テープで押さえて補強し、箱を造った。出来上がった箱は横が一五センチくらい、高さが一三センチくらい、幅が一三センチくらいであった」旨供述し、ダンボール箱の隅から本件ダンボール箱を切り取った状況を図示した。

前原は、同月一八日、佐古とダンボールの空き箱を利用して一〇センチ×一五センチ×一五センチくらいの蓋付きの箱を作った旨供述した。

前原は、同月二一日、「佐古が外から折りたたんだダンボール箱二個を持ってきた。私と佐古で高さ一五センチくらい、縦一五センチくらい、横二〇センチくらいの箱一個を造ったが、佐古が主体で私が手伝った。はさみ、大型のホッチキス、ガムテープ及びボンドを使った」旨供述し、作製したダンボール箱を図示した。

佐古は、同月二二日、「前原と二人で、一〇月二九日、時限装置付ピース缶爆弾を入れる箱を造った。裏のパン屋の物置横から折りたたまっていたダンボール箱二個を盗んで来て、厚い方を使った。箱造りに使った用具は、日本はさみ、大型ホッチキス、ボンド、ガムテープ、紙テープ、割箸である」旨供述し、大型ホッチキス等を図示した。

田村ほか六名の警察官は、同月二三日、佐古及び前原を立会人として、河田町アジトにおいて検証を実施した。その結果、同人らは、同所で本件ダンボール箱を造ったことは間違いない旨、詳細に指示説明した。

佐古は、同月二四日、本件ダンボール箱の作製を再現するとして、ダンボール箱を、任意に短時間のうちに作製した。佐古は、その後、「本件ダンボール箱を、材料を取り寄せてもらい実際に造って見たところ、大きいダンボール箱を切り抜いた形が一七日作成の図面と若干違う。最初に作製した箱は若干大きめで、二回目に作製した箱の大きさが当時のものと同じだと思う。したがって、箱の大きさは、一七日員面調書と違って、横一七センチくらい、高さ一二センチくらいである」旨供述し、ダンボール箱を造った状況などと題する図面一枚を作成し提出した。右作製状況については写真撮影報告書が作成されている。さらに、好永から、本件ダンボール箱及び在中品の提示を受け、「このダンボール箱は、ダンボール箱の一つの角を使っていること、展開した形が記憶と一致していること、ガムテープと紙テープの貼り方、切り方及び種類並びに補強用に底に貼り付けた割箸等から、昭和四四年一〇月二九日河田町アジトで私と前原で造ったものに間違いない。ホッチキスの針も前に話したとおり真ちゅう色だ。包装紙は、包んだ覚えがないので誰かが包んだと思う」旨供述した。

田村ほか三名の警察官は、同月二五日、佐古及び原義一を立会人として、佐古がダンボール箱を窃取してきたとする新宿区河田町六番地原義一方倉庫付近一帯を検証し、ダンボール箱の窃取場所を確認した。

前原は、同月二六日、「使ったホッチキスの針は赤っぽい色で、普通の書類綴り用のものよりひと回りくらい大きかった。ボンドは直径二~三センチくらいの使いかけのチューブ入りで、白いどろどろしたものだった」旨供述した。

前原は、二月三日、「佐古と二人で時限爆弾を入れる箱を造ったが、大体蓋付きの箱ができあがったころ、佐古か増渕の発案で、箱が潰れにくいようにするため、また、爆弾や時限装置を固定し易くするため、箱の底に割箸を十文字にいれてボンドで固定して補強した」旨供述した。

前原は、同月六日、本件ダンボール箱及び在中品の提示を受け、「ダンボール箱は、大きさ、形、使われているホッチキスの針、角などに使われているガムテープと紙テープ、底の状態等から、一〇月二九日河田町アジトにおいて、増渕の指示で私と佐古で造ったものに間違いない。大きさは自分の記憶よりちょっと小さめのようだが、これに間違いない」旨供述した。

前原は、同月七日、アメ文事件に関連して撮影された証拠物等の写真の提示を受けて、「箱や電池の組み合わせ等は、私が直接造ったものに間違いない」旨供述した。

また、被告堀内らは、佐古が法政大学から盗んで来たと供述した大型ホッチキスの捜査を行ったが、結局、ホッチキスを確認することができなかった。

(3) 佐古及び前原の供述の信用性に関する捜査当局の判断の違法性

前記(1)で述べたとおり、本件ダンボール箱は既製のダンボール箱であり、これに打ち込まれている平線はステッチャーといわれる工作機械によって打ち込まれたものであるところ、佐古及び前原の自白は大型ホッチキスを用いた手製のものとなっており、客観的事実に反する。そこで、右自白獲得の過程に捜査当局の強制又は誘導等の違法な取調べがあったか否か、及び右自白が客観的事実に反するものであることを捜査当局が捜査当時見抜いて、改めてこの点の真偽ないし信用性を慎重に検討すべきであったか否かについて検討する。

まず、本件ダンボール箱の製造に関する最初の供述は、昭和四七年一二月二八日の佐古供述である。右供述の発端について、<証拠略>によれば、同月一一日付けの佐古の員面調書添付の図面に蓋が半ば開いたダンボール箱が書かれているにもかかわらず、同調書に「中身はこの時には何であるかわかりませんでした」との供述が録取されていたこと、そこで、好永が佐古に対し、箱の中身を知っているのではないかと取り調べたところ、佐古が箱の中身も見ていたことを認めるとともに、佐古らがダンボール箱を製造した旨供述するに至ったことが認められる。右供述の発端からすると、取調官が、この段階でダンボール箱の作製について、度を越えた誘導又は強制にわたる違法な取調べを行ったとは認めがたい。<証拠略>中の取調補助者の原田及び坂口が佐古の供述を次々と誘導していった旨の供述は、<証拠略>に照らし、容易に信用できず、他に違法な取調べが行われたことを認めるに足りる証拠はない。

次に、<証拠略>によれば、佐古が、一月二二日、「材料にしたダンボール箱には、横の方に何か赤いような文字が印刷してあったかも知れません」と供述したこと、同月二四日の再現作業後、「何か赤い文字の印刷があったようですが、箱をつくるに際し、これらの文字をさけてつくったような気がします」と供述したこと、さらにアメ文事件の現場に遺留された本件ダンボール箱の実物を提示された際、「印刷されていたと記憶する赤色の文字が一つもなく現物を見て思い出しましたが、文字のある部分をさけた為、側面一枚分を文字があったので切り落とし、つぎ足してつくった為ホッチキスで止めたことを思い出しました」旨供述したことが認められる。また、<証拠略>によれば、本件ダンボール箱は、一見しただけでは一側面を継ぎ足してあることを見分けられる状況ではないこと、九部判決は五部判決と異なって、右一側面切り落としの事実を否定したこと、当時、佐古の取調官であった好永が、本件ダンボール箱にはガムテープや接着剤等が付着していて、どの部分が切り落とされたのか分からなかったことが認められる。右認定事実に基づいて考えると、本件ダンボール箱に関する「一側面切り落とし、継ぎ足し」供述は、佐古の供述が任意になされたことについての一つの裏付けとなるものである。

一方、前原が最初に本件ダンボール箱の作製について供述したのは、一月一六日(調書作成は翌一七日)であるところ、<証拠略>によれば、前原は同日、本件ダンボール箱の作製だけでなく、「一〇・二一の夜に、佐古と原告が紙袋を持って河田町アジトに戻ってきた。佐古が原告からピース缶爆弾を見せられたような気がする」と佐古が未だ供述していない一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰りを供述したこと、箱造りに関連して何か思い出すことはないかとの発問に対し、佐古の供述に現れない乾電池と雷管のはんだ付けによる結線作業について供述したこと(<略>)が認められる。右事実に照らせば、前原の自白についても、捜査当局の強制又は誘導等の違法な取調べによるものとは認め難い。

次に、右自白が客観的事実に反するものであることを捜査機関が見抜いて、改めてこの点を取り調べ、ことの真偽ないし信用性を慎重に検討すべきであったか否かについて検討する。

<証拠略>によれば、佐古が昭和四八年一月二四日に本件ダンボール箱の製造を再現した経緯は次のとおりであったと認められる。

佐古は午前九時三五分に麻布警察署留置場を出場し、刑事管理課取調室に護送された後、午前一〇時ころから取調べを受け、前日行われた河田町アジトの検証についての供述調書が一通作成された。その後、午前一一時ころから正午を少し過ぎるころまでの間、本件ダンボール箱の製造を再現した。佐古はダンボール箱を作製し終わった時に、実際の物より大きいと述べた。そこで好永が再度作製するよう話したところ、同人は直ぐに二個目を作製し、作製状況の写真撮影(一二時一五分から四五分まで)について特に異議を述べることなく同意した。佐古が作製したダンボール箱は、切断開披された証拠物から想定される箱とほぼ合致するものであった。右認定事実によれば、佐古は、一時間程度で、展開図を書き、ダンボールを切り抜いて手際よく箱を作製したのであって、右再現作業の状況は、佐古が実際に本件ダンボール箱の作製を行ったと推認させる事実といえる。

また、<証拠略>によれば、本件ダンボール箱は、発見直後、事件現場において警視庁鑑識課員により箱の四隅が縦に切断開披されたこと、その際、ダンボール箱の外側や内側に各稜線をはさむ形で貼付されていたガムテープごと切断されたため、ダンボール箱の切り口は複雑な様相を呈していたこと、事件発生から三年後の昭和四七年一二月ころ、アメ文事件の捜査が本格的に開始された時点において、本件ダンボール箱は、指紋を採取するための薬品等によりかなり変色し、ダンボールに折り目がついているなど、一見、手製のものとも見られる状態であったことが認められる。すなわち本件ダンボール箱は、手製か既製か、既製品としても一側面切り落としがされたか否かという点に関し、様々な見方が可能な証拠物であったものといえる。さらに、<証拠略>によれば、近所のパン屋の脇から大型ダンボール箱二個を持ち込んだとの佐古の供述について、右場所が実在すること及び当該場所の状況がダンボール箱が置かれていたとしても不自然でないことについて裏付けが取れていたことが認められる。

また、<証拠略>によれば、アメリカ文化センター受付窓口から発見者及び捜査関係者を除いた捜査対象者と対照可能な指紋が採取されたこと、本件ダンボール箱からは、捜査対象者の指紋が採取されなかったこと、捜査機関が、本件ダンボール箱の入手先を裏付けることによって被疑者を絞り込めるかという観点から本件ダンボール箱を検討したことが認められる。すなわち、捜査機関は、本件ダンボール箱を主に入手先の解明という視点から検討したものの、本件ダンボール箱に指紋等の犯人に結びつく有力な材料が存在しなかった上、ダンボール箱は大量に流通しており、ダンボール箱の製造元の特定は一般に困難であり、そのための調査が犯人特定の有力な材料になるとは考えにくいことから、証拠価値をそれほど高く評価しなかったものと認められる。

以上の認定事実、すなわち、佐古及び前原は本件ダンボール箱を作製したことを一致して供述したこと、佐古は自ら作製を再現し、その過程に特段不自然な点がみられなかったこと、本件ダンボール箱の調査及び保存の状況、本件ダンボール箱の証拠価値の程度等に照らせば、捜査機関が業者等に照会するなどして本件ダンボール箱の構造を明らかにし、佐古らの自白が客観的事実に反するものであることを見抜かなかったことが違法であるということはできず、他に捜査当局がこれを見抜かなかったことの違法性を裏付けるに足りる証拠はない。

(二) アメ文事件のその他の証拠物

アメ文事件のその他の証拠物についても、原告主張(原告の主張1の(四)の(2))のような客観的事実に反する自白あるいは客観的事実との関係で疑問のある自白があるが、前記3で述べたように、右自白がされる過程において取調官による強制、誘導などの違法な取調べがあったものと認めるに足りる証拠はない。

(三) 石井アリバイ

(1) 刑事裁判における石井アリバイの成否

<証拠略>によれば、石井が、製造事件にレポ担当として参加したとされたこと、石井が、右製造事件当時、勤務先組合でアルバイトしていたこと、したがって昭和四四年一〇月九日については石井が午後早退したとの可能性を全面的には否定できないものの、同月一三日ないし一六日については昼過ぎころから午後五時ころまでに河田町アジト及びその周辺には赴いていないことが認められる。右事実は、刑事裁判の審理により明らかになった事実に照らせば、原告の主張2の(五)の(2)の<2>のとおり、石井の製造事件への参加の有無だけでなく、製造行為そのものの存在にも疑問を投げかける。そこで、捜査当局が、本件捜査当時に石井の勤務に関する事実を慎重に検討すれば石井のアリバイを探知することが可能であったか否かを以下に検討する。

(2) 捜査段階における石井の製造事件に関する供述内容及び石井の勤務先に関する言及について

<証拠略>によれば、石井が、同年三月一三日、製造事件で逮捕された当初から、西尾の取調べに対し、経歴、身上関係及びL研との関係等については供述していたが、製造については、「身に覚えがない」などと否認していたこと、同月二〇日に至り、ピース缶爆弾を製造したことは否認したまま、昭和四四年一〇月一六日か一七日ころ、佐古らの指示により河田町アジト周辺でレポしたことを認めたこと、同月三〇日、弁護人と接見した後、西尾に対し、武器製造の認識でレポしたことを認めたこと、さらに四月一日、両親と接見した後の取調べにおいて、西尾に対し、佐古の指示により、佐古らが河田町アジトで爆弾を製造していた時、これを認識した上でレポしたことを認める供述をするに至ったことが認められる。

また、<証拠略>によれば、製造事件で逮捕された三月一三日、西尾に対し、「昭和四四年八月か九月ころ、浅草橋のプラスチック関係の組合事務所で一~二か月働いた」旨供述したこと、翌一四日、「L研が立大を出たころ、浅草橋のプラスチック関係の組合事務所にアルバイトに行っていたと思う」旨供述したこと、一八日、「風雅荘に引っ越したころは、浅草橋のプラスチック関係の組合事務所でアルバイトをしていたと思う」旨供述したこと、右供述はいずれも、取調官である西尾が、経歴ないし生活実態を質問したのに対し、石井が供述したものであること、西尾が、二一日、石井に対し、アルバイトの事実が確認できなかった旨告げたところ、石井は、「そうですか、行ったり行かなかったり、アルバイトですからね」と述べたことが認められる。

(3) 公判における石井のアリバイに関する供述

<証拠略>によれば、石井は、公判の段階に至ってもアリバイを積極的に主張することなく自白を維持し、有罪判決の言渡しを受けたこと、さらに東京地裁刑事五部及び九部において、証人として出廷し、弁護人から自己のアリバイを指摘された後も、なお、河田町アジト周辺でレポしたことは間違いない旨の供述を維持し、アリバイを積極的に主張しなかったこと、すなわち、具体的には、自己の被告事件の第七回公判(昭和四九年二月八日)において、昭和四四年一〇月一七、八日ころ、河田町アジトにおいて増渕らが爆弾らしいものを製造していると思いながら、同アジト前路上において、レポの役割を果たしたことを自認し、弁護人の質問に対し、「当時、浅草橋にあるおもちゃ屋さんの組合に行ってアルバイトをしていた。アルバイトをしていたのは普通の日だったと思う。アルバイトを休んで河田町の佐古の家に行った記憶がある」旨供述したこと(<略>)、また、五部事件の第一五回ないし一八回公判(昭和四九年九月五日ないし一〇月二一日)に証人として出廷し、弁護人から勤務先組合の出金伝票及び領収書を示されながら、「あなたは、無実の罪で有罪判決を受けたんでしょう」との尋問を受けたにかかわらず、「分かりません」と答え(<略>)、引き続いて行われた裁判長からの尋問に対しても、本件のレポを行った事実を認め、それがアルバイトをしていた期間のある一日であった旨証言した(もっとも、その後の弁護人の質問において「アルバイトを辞めたあとかもしれない」と証言した。こと、さらに、九部事件の第一八〇回及び一八一回公判(昭和五四年一二月五日及び六日)に証人として出廷し、検察官から右出金伝票及び領収書を示されながら、アルバイトの状況について詳細な尋問がなされたのに、当時のことはよく覚えていないが、河田町アジト周辺においてレポを行った記憶がある旨、日にちはよく分からないが、辞めた以降と思う旨証言(第一八〇回)したことが認められる。

(4) 石井アリバイ捜査の必要性及びアリバイ探知の可能性

右(1)ないし(3)で認定した事実からすると、捜査段階で石井がアリバイを積極主張した形跡がない上、自身の公判廷並びに五部及び九部における証人尋問でさえアリバイを積極的に主張しておらず(とりわけ、九部で証言した段階では、弁護人が従前の尋問で示唆していた石井に対する追起訴のおそれがほとんどなくなっている。)、右(2)で認定したとおり、石井が捜査段階で概ね自白していたことに照らせば、石井についてアリバイ捜査の必要性があったものということはできない。

ところで、<証拠略>によれば、被告堀内らは三月一九日、西尾から、石井のアルバイトに関する供述内容の報告を受け、石井のアルバイト勤務状況から製造日時を特定できる可能性があると考え、関根巡査部長ほか一名に対し、その裏付け捜査を命じたことが認められる。そこで、右捜査の過程において石井のアリバイを探知することが可能であるのに捜査当局がこれを無視し、又は見過したといえるか否かを検討する。

<証拠略>によれば、関根らは、同月二〇日、石井が作成した地図を基に、勤務先組合に赴き、勤務先組合の職員らに対し、石井の写真を示した上で、アルバイトの事実の有無について捜査したこと、これに対し、職員らから、見覚えがない旨の回答があった上、当時の給与支払いに関する帳簿は正規の職員のものしか保存されていないとの回答があったこと、関根らは、さらに会館内に居た人全てに石井の写真を示し、見覚えがないかどうかを尋ねたが、アルバイト採用時に石井と面接した組合常務理事牧野伸一でさえ、「わからない」と回答したことが認められる。

右認定事実に、石井の供述する勤務状況が約三年半前の二か月程度のアルバイトであったことを併せ考えると、右捜査の過程において石井のアリバイを探知することが可能であったのに捜査当局がこれを無視し、又は見過したものということはできない。

(四) その他

原告は、製造事件におけるミナミ・エイトの休業日に関する裏付け捜査について、違法な事実の無視ないし見過しがあったと主張する。

そこで、検討するのに、<証拠略>によれば、捜査当局が、捜査段階において、佐古らの供述を基に、製造の前日、ミナミにおいて製造の謀議が行われ、製造当日、エイトを利用してレポが行われていた旨の心証を得たこと、製造した日について、佐古は昭和四四年一〇月一七日ころ、前原は同月一六日か一七日ころ、内藤は同月一五日か一六日ころ、村松は同月一六日ころ、増渕は同月一七日ころ、石井は同月一七日ころと供述したことを基に、被告堀内らが、謀議及び製造は、同月一四日から一七日までの間であると判断したこと、右判断を前提としてミナミ及びエイト(いずれも喫茶店)の裏付け捜査を行ったこと、その結果、両店が右期間は毎日営業していたことが確認されたことが認められる。ところで、前記(三)で述べたとおり、捜査段階においては、石井の勤務状況が判明していなかったのであるから、仮にその時点でミナミ・エイトの休業日に関する裏付け捜査をし、日曜祝日は休業していることが判明したとしても、犯行日の特定にほとんど意味を持たなかったものといえる。したがって、捜査段階において右休業日の裏付け捜査をしなかったことが違法であるということはできない。

原告は右に述べた他にも、江口アリバイ、平野アリバイ、その他原告ら被疑者が犯人でないことを推認させる事実が多数存在したことを主張する。しかし、これらいずれの点についても、捜査当局が、本件捜査当時に、原告らの犯人性との関係で右事実の存否を捜査することが必要であり、これを捜査しなかったことに違法性があるものとは認め難い。これらは、主に製造事件に係るものであるため、詳細は後記二の3において述べることとする。

5 八・九機事件逮捕及び製造事件逮捕の違法性(原告の主張1の(五))

<証拠略>によれば、被告堀内らが、関係各証拠から、原告が八・九機事件の実行行為ないし事前謀議に関わっていた嫌疑があり、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、原告に対する逮捕状を請求したこと、裁判官が、二月一九日、原告に対する同事件の逮捕状を発付したこと、被告堀内らが、関係各証拠から、原告が製造事件の爆弾製造行為に加担していた嫌疑があり、爆発物取締罰則三条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、原告に対する逮捕状を請求したこと、裁判官が、三月一一日、原告に対する同事件の逮捕状を発付したことが認められ、右認定事実と、前記1ないし4の認定判断によれば、原告に対する嫌疑にあった多くの疑問を無視して原告を安易に犯人と断定した旨の原告の主張は理由がないものといわなければならない。

6 結論

以上のとおり、原告を含むL研グループに対する捜査が違法な職務執行である旨の原告の主張は理由がない。

二 本件ピース缶爆弾事件に関する公訴提起の違法性(争点2)

1 アメ文事件起訴の違法性(原告の主張2の(三))

(一) 自白と物証との矛盾

原告は、本件起訴当時、本件ダンボール箱の作製方法について、自白と物証との間に決定的な矛盾があり、公訴提起に当たった検察官が警察捜査を鵜呑みにせず、証拠を再検討していれば、右自白が客観的事実に反するものであることを起訴当時見抜くことが可能であり、改めてこの点を取り調べ、ことの真偽ないし信用性を慎重に検討すべきであったと主張する。

しかし、前記一の4認定の事実、すなわち、佐古及び前原は本件ダンボール箱を作製したことを一致して供述したこと、佐古は自ら作製を再現し、その過程に特段不自然な点がみられなかったこと、本件ダンボール箱の調査及び保存の状況、本件ダンボール箱の証拠価値の程度等に照らせば、アメ文事件の公訴の提起に当たった検察官が、本件ダンボール箱を手製のものとする自白が客観的事実に反するものであることを見抜くことができず、さらに捜査を尽くすよう指示しないまま公訴を提起したことについて、違法性があるということはできない。

原告は、本件ダンボール箱に打ち込まれた平線について関連ありと考えられる企業に照会するだけで、それが大型ホッチキスによるものではなく、ステッチャーによるものであり、自白と物証との間に矛盾があることを容易に知り得た旨主張する。ダンボール箱の平線に関する右事実は、公判開始後に開示された証拠物を見た弁護人の調査により判明したものであり、この点については、右弁護人の真実発見への真摯な姿勢と労を惜しまない熱意が評価されるところである。

しかし、前記認定のような事実関係の下においては、公訴提起に当たった検察官がそこまでの調査をしなかったからと言って、直ちに公訴の提起に違法性があるものということはできないものといわなければならない。

また、原告は、本件ダンボール箱の底に貼り付けられた割箸の意味について、爆弾を固定するためのものであることが明らかであり、箱の補強が目的であるとの自白が不合理であることは明らかであると主張するが、<証拠略>によれば、箱の底の補強が目的としておよそあり得ないとまではいえず、ダンボール箱の底に割箸を貼り付ける目的が箱の補強のためであるとの供述を直ちに虚偽の自白と判断しなければ合理的な判断とはいえないとする原告の主張を認めることはできない。

原告は、右に述べた他にも客観的事実との関係で矛盾あるいは疑問のある自白が存在し、そのことを検察官が容易に発見することができた旨主張する。しかし、原告の述べるその他の事項は、およそあり得ないという程不合理なことではなかったり、記憶の忘失、混乱あるいは供述者の誤解と理解し得るものであったりするのであって、右の点を根拠に供述の信用性を否定的に解しなかったからといって、アメ文事件の起訴に違法性があるものとはいい難い。

(二) 佐古及び前原の自白の信用性の検討の過怠

(1) 佐古の供述経過

<証拠略>によれば、佐古の供述経過は次のとおりである。

法大図書窃盗事件で逮捕勾留中の昭和四七年一一月一七日、押送要員を臨時に担当した小林正宏巡査部長(堀内班の一員)に対し、東京地検での取調べが終了し、午後四時ころ、佐古の留置先である久松警察署に戻ってから、雑談的に佐古と会話を交わし、一〇・二一新宿署襲撃に話が及んだ際、「昭和四四年の一〇・二一闘争当日、中野坂上付近において青山と逃走する途中、赤軍派の者から円筒形の物二個(赤軍派の者の話から爆弾だと感じた。)を受け取ったが、青山と相談して近くの側溝に捨てた」旨、爆弾事件に関して初めて具体的な供述を行った。小林は右供述を上司に報告の上、その指示を受けて供述調書を作成した。

同月一八日、佐古が昭和四四年六月の法大図書窃盗事件から昭和四七年一一月三日に逮捕されるまでの行動を記載したメモを作成した。右メモには、一〇月二一日の前々日位、立川方面で村松他一名と小型トラックを盗んだこと、同月二一日、小型トラックの運転を命じられ、赤軍派の仲間を乗せて新宿署攻撃に向かったこと、二二日ころ、つまらなくなって大阪の実家へ帰ったこと、村松からピース缶にダイナマイトの火薬を詰め込んだ爆弾を作った話を聞いたことがあることが記載されている。

同月一九日、中野坂上付近を引当り捜査したが、一七日の供述にあるようなどぶ川は見つからなかった。

同月二〇日から一二月一四日までに、佐古が昭和四四年五月から昭和四七年一一月三日に逮捕されるまでの行動を記載したメモを作成した。右メモには、「一〇月二一日、新宿署襲撃を行った後、青山(原告の組織名)と二人で渋谷に逃げる。その時、赤軍の兵隊が同じように逃げる中で、あるグループと会って、爆弾どうしようかということになって、私がその爆弾二個を受け取って逃げたが、おそろしくなって、それを近くの疎水に投げ捨てたように思う」「一〇月ころ、立教から持ってきた時計を、村松のアパートで村松がこわして『ゼンマイの接触とか、針の接触によって時限装置をつくるんだ』『火薬は紙火薬からひとつずつ取り出して、ピースカンに入れてやればできるんだよ』と言った」ことが記載されている。

同月三〇日、佐古が昭和四四年一〇月二一日前後の行動を記載したメモを作成した。右メモには、一〇月一九日夕方、増渕から連絡が入り、レンタカーを借りてきて、菊井のアパートだったと思うが、その付近から増渕と私の二人で東薬大に行き、そこで薬品瓶二箱ダンボールに入ったものを堀秀夫のところへ運び込んだこと、二二日朝、兄貴の家からフジテレビ前のアジトに行き、みんなに会ったことが記載されている。

同年一二月八日ころ、佐古は頭髪を坊主刈りにし、留置場で座禅を組んで考え込むなどしていた。

同月一一日、食事休憩中の身柄戒護の任に当たっていた多田巡査部長(法大図書窃盗事件で佐古の逮捕及び家宅捜索を担当)と雑談していた際、多田の、「事件は全部片づいて調書にしてもらったのか」という趣旨の問いに対し、「爆弾事件がまだあるんだ。アメリカの施設に仕掛けた爆弾のことなんだ。話さなくちゃいけないんだ」と述べ、その直後、本来の取調担当者である好永巡査部長の取調べを受け、ワラ半紙三枚にわたって詳細なメモを作成し提出するとともに、「アメリカ領事館に爆弾を仕掛けに行った。爆弾は見ていないが、爆弾を仕掛けに行くという話は聞いた」旨供述し、調書が作成された。なお、右調書には佐古の作成した「爆弾の入ったダンボール箱」と題する蓋が半開きになった蓋付きダンボール箱の図面が添付されている。

同月一二日、高橋警部補ほか三名の警察官は、右供述に基づき、佐古を同道の上、渋谷区本町四丁目一四番五号所在の小野方(江口が居住していたアパート)、中野区新井一丁目九番付近(中野ブロードウェイ入口付近)及び千代田区永田町二丁目一三番付近等の引当り捜査を実施した。佐古は、時限爆弾を仕掛けるため車を止めた場所は、港区赤坂三丁目二番付近である旨指示した。

同月一四日、好永に対し、「一昨日刑事さんを連れてこの事件に関連した場所に行ったが、これまで記憶していた点で思い違いをしていたことがある。村松と坂東については、中野ブロードウェイ入口で待ち合わせたと話したが、中野ブロードウェイ反対側の喫茶店に私が迎えに行った。現場で車を止めた場所は、虎の門寄りの場所だと思っていたが、この通りを通ってみた感じでは、赤坂見附交差点に向かって一〇〇ないし二〇〇メートルくらい手前であったと思う。爆弾を仕掛けたのはアメリカ領事館と記憶していたが、引当りの時点で間違いだったことに気付いた。アメリカ関係の建物であることには間違いない」旨供述した。そして、好永から昭和四四年一一月の朝日、毎日、読売新聞の縮刷版を提示され、「事件の翌朝、新聞で読んだのを覚えている。爆弾を仕掛けた場所は、アメリカ文化センターであることを思い出したので訂正する。また、江口のアパートで増渕から、爆弾を仕掛けに行くので運転してくれと言われたのを覚えている」旨供述した。

同月二八日、好永に対し、アメリカ文化センターに仕掛けた爆弾は江口方で造った、箱はピース缶爆弾の時限装置が入る箱で、ダンボール箱を縮めて作り、底に割箸を十字にして補強した旨供述した。

昭和四八年一月八日、アメ文事件容疑で逮捕。右容疑を否認(一月九日員面調書)。

同月一四日、岩間警部補が、保釈中に何かあったのか問いかけたところ、佐古が、保釈中に増渕から、アメ文事件は村松らがやったことにしておけと言われたので、非常に悩み、気持ちがひっかかって言い出せなかったなどと、否認に転じた動機を説明した。

同月一五日、アメ文事件に加担している旨供述した。

同月一六日、逮捕されてから一週間の間、悩んだり苦しんだりしてきたのですが、自分が将来の罪の重さに苦しみ続けるよりも一切を清算して私のためにも父や兄弟のためにも再出発しようという考えに達した旨心境を述べるとともに、アメ文事件の犯行を認める供述をし、その後も一貫して右供述を維持した。

同月一九日、岩間に対し、法大図書窃盗事件について保釈中の同月四日及び五日に喫茶店シャンネル及びプランタンで増渕及び江口と会い、アメ文事件について話し合ったこと(いわゆるシャンネル・プランタン会談)、その結果、清算しようとした気持ちが一層動揺し、増渕や江口のためにも絶対に真実を話すことは出来ないと決意したこと、約一週間悩み続けて黙秘したが、今は真実を全部話して清算するつもりであることなどを供述した。

(2) 検察官の佐古供述に対する評価及びその当否

<証拠略>によれば、被告水崎は、佐古が、窃盗の容疑で勾留中に、爆弾事件の嫌疑を抱かれて取調べを受けていたわけではないのに、突如自発的に爆弾事件を自白したこと、佐古が、昭和四八年一月八日に逮捕されてからいったん否認に転じたものの、同月一六日に再び自白し、とりわけ同月一九日には、捜査官が知る由もないシャンネル・プランタン会談についても詳細に自白し、この点については以後も一貫して自白を維持したことから佐古自白に信用性があると評価したこと、佐古を実際に取り調べたところ、慎重に考え、素直に供述したこと、罪を清算したいという気持ちが窺えたこと、また、佐古の自供内容について、その真偽を確かめるべく前原に対する取調べを行ったところ、前原も、間もなく、警察官に対し自白し、佐古の供述を裏付けたこと、したがって、両者の供述が相互に相手の供述内容を裏付け、その信用性を高めることになると判断したことが認められる。

そこで、検察官の右評価の当否について判断する。

右(1)に認定した佐古の取調べ過程及び前記一の1認定の事実によれば、捜査当局が昭和四七年一一月当時、本件ピース缶爆弾事件とL研グループとの関連について一定程度の関心ないし嫌疑を抱いていたことは推認できるものの、L研グループが本件ピース缶爆弾事件の犯人であるとの見込みのもと、誘導、強制等の違法な取調べを行い、佐古の一一月一七日付け供述を引き出したとは認め難い。佐古はその後、一二月一一日にアメ文事件への関与を認めるが、五部判決もいうように、捜査当局が、一二月段階で、佐古に対しアメ文事件についてより具体的な嫌疑を持っていたとは認め難く、佐古をアメ文事件の犯人と断定して取り調べたとは認められない。したがって、一二月段階での佐古の供述も強制、誘導等の違法な取調べによって引き出されたとは認め難く、佐古の供述は任意の供述であると認められる。

次に、一二月段階までの佐古の供述を見ると、当初はアメ帝の建物、アメリカ領事館に爆弾を仕掛けたとし、現場引当りの際にも、アメリカ文化センターとは異なった場所を指示説明している。このことは、供述の不自然さを示すものともいえる。しかし、五部判決も判示するように、この供述が取調官の誤導等によるものとは認め難く、検察官がこの供述を記憶の忘却によるものと考えたことを一概に不合理であるということはできない。

逮捕後、佐古はいったん否認に転じるが、一月一四日ころから再び自白を始めている。佐古はいったん否認に転じた理由として、シャンネル・プランタン会談を供述する。右会談については、本件が過激派の引き起こした爆弾事件であることに照らし、真犯人同士が、それぞれの思惑からお互いに事件に関与していないかのように装いながら、アメ文事件について話し合ったと理解することも不可能ではなく、検察官の右判断が不合理であるとはいえない。

また、<証拠略>によれば、昭和四四年九月から一一月にかけて、佐古が都内のレンタカーを借りたことについて裏付けがとれたのは九月七日ころ、一〇月二〇日から二二日まで及び一一月一〇日の計三回だけであること、佐古が一〇月三〇日ころにアメ文の下見にレンタカーを利用した旨供述したこと、当日の爆弾運搬についても当初はレンタカーを利用した旨供述していたことが認められる。しかし、<証拠略>によれば、佐古が、当時、常日頃から新宿や池袋のレンタカー業者からレンタカーを借りたり、友人の自動車を借りたりして運転をしていたことが認められ、右事実に照らせば、約三年半もの年月の経過に伴い、記憶の混同を来し、不正確な供述をすることもあり得ることであって、裏付けがとれなかったことを重視しなかった検察官の判断が不合理であるとはいえない。

佐古の自白には、その他いくつかの点につき不自然な変遷や不合理な内容があるが、検察官が右に述べた判断を行い、その結果、それらが佐古の供述の信用性を損なうものではないとしたことを不合理であるということはできない。

(3) 前原の供述経過

<証拠略>によれば、昭和四八年一月一五日までに収集し得た証拠資料についてみると、一連のピース缶爆弾事件について前原に対する具体的嫌疑を抱かせるものがなかったこと、佐古が同月一六日、前原がアメ文事件に関与している旨自白したことに基づき、前原に対して同日午後七時三〇分ころから右事件について初めて本格的に取り調べたところ(なお、法大図書窃盗事件の取調べが一通り終わった遅くとも一四日ころから、一〇・二一に至るまでの前原の行動及びL研の活動状況を取り調べていた。)、前原は短時間のうちに、爆弾事件への関与を供述したこと、しかもその供述内容中には、一〇・二一の夜に佐古と原告が河田町アジトへピース缶爆弾を持ち帰ったこと及び前原が乾電池と電気雷管のはんだ付けをしたことなどの少なくとも佐古の供述には現れていなかった事実が含まれていたこと、翌一七日、前原は前日の供述を維持し、「一〇・二一の夜、河田町アジトで佐古か原告からピース缶爆弾を見せられたような気がする。二二、三日ころ、佐古が大阪に帰ることについて意見が対立した。その二日くらい後、佐古が大阪に帰ったかどうかを確かめるため佐古の兄を訪ねた。二五日ころ、増渕及び村松とともに時限装置を造った。自分ははんだつけを担当した。二六日ころ、村松の指示で自分と原告が八・九機を下見した。二八日ころ、河田町アジトで佐古と一緒にダンボール箱を改造して縦一五センチくらい、横一〇センチくらい、高さ一五センチくらいの蓋付きの箱を作製した」旨の供述調書が作成され、前原の記載した乾電池と電気雷管のはんだ付け状況及び作製したダンボール箱に関する図面が添付されたことが認められる。

(4) 検察官の前原供述に対する評価及びその当否

<証拠略>によれば、前原がアメ文事件について本格的取調べを初めて受けた一月一六日、短時間のうちに、自白したこと、前原の自白がその後、佐古及び増渕の自白等によって裏付けられたこと、被告水崎が前原を実際に取り調べたところ、慎重に考え、素直に供述し、罪を清算したいという気持ちが窺えたこと、一六日の自白には一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰りとアメ文事件のピース缶爆弾の時限装置の導線のはんだ付けという、他の共犯者の供述に全く現れていない事項が含まれていたことに照らし、被告水崎が前原供述の信用性は高いと判断したこと、供述中には、客観的事実と食い違った部分や、供述に変遷があるというべき部分も見られたが、これらは年月の経過等による記憶の希薄化、混同あるいは記憶が次第に喚起されたこと等によるものであるとみるのが合理的であると判断したことが認められる。

検察官の右判断は、前記(3)認定の前原が自白に至る経緯及び自白の内容に照らせば、これを不合理であるということはできない。

(三) 結論

以上のとおりであるから、検察官がアメ文事件について公訴を提起したことに違法性を認めることはできない。

2 八・九機事件起訴の違法性(原告の主張2の(四))

(一) アメ文事件の自白との関連

前記1で述べたとおり、検察官は、アメ文事件の公訴提起を決する際に前原及び佐古の自白が信用できると判断し、その判断は不合理とはいえなかったものであるから、八・九機事件の公訴提起を決する段階において、検察官がアメ文事件に関する前原の自白の信用性に疑念を抱き、さらには右自白と密接な関連性を有する八・九機事件に関する前原の自白の信用性に疑念を抱くべきであったとする原告の主張は理由がない。

(二) 前原、内藤、村松及び増渕の自白とこれらに対する検察官の評価

<証拠略>によれば、被告水崎は、八・九機事件の公訴の提起をする際に、前原が、取調べ開始後間もなく八・九機事件に関与したことを自白し、以後も一貫して自白を維持したこと、前原の自白に他の共犯者に先立って供述した事項が多く含まれていること等から前原の自白を信用できると判断したこと、そして、内藤が任意取調べの段階から八・九機事件への関与を認める自白をし、次第に詳細な自白をするに至ったことから、内藤の自白を信用できると判断したこと、原告及び堀は否認ないし黙秘したが、前原及び内藤らの供述によれば関与は疑いえないところであると判断したこと、したがって、両名の自白を基本に関係各証拠を検討した結果、増渕が指揮をとり、村松、堀及び原告の三名が八・九機正門への爆弾の投てきを担当し、内藤と赤軍派の一名が見張り、前原と赤軍派の一名が効果測定をそれぞれ担当するとの役割分担に従って犯行を決行したものと認定判断したことが認められる。以下、前原らの自白の詳細及びこれらに対する検察官の評価について摘示することとする。

(1) 前原の自白について

<証拠略>によれば、前原が八・九機事件を自白するに至る経緯及び自白内容について以下の事実が認められる。

佐古が、昭和四八年一月一七日、取調官に、一〇・二一闘争時に持ち帰った爆弾の行方を前原に尋ねると、前原が八・九機の方を指して「爆弾の一発は花園に言われ、俺と青山(原告の組織名)でやったんだ。やった時、職質されそうになり、近くに住んでいる村松も職質されたりした」と八・九機事件に関与したことを話してくれた旨供述した。高橋警部補は、同日、右供述を基に上司の指示を受けて夕刻から前原を取り調べた。前原はこれに対し、直ちに八・九機事件の共犯者の中で最初の自白をし、その内容は、二六日ころ、村松に指示されて原告と八機の警備状況を下見し、村松に報告したというもので、佐古の供述とは異なっていた。そして同月二二日、犯行日についての記憶が蘇ってきたとして、従前の供述を訂正するとともに、詳細かつ具体的に自白し、以後一貫して自白した。

また、<証拠略>によれば、被告水崎が、前原が、自己が経験し、かつ、記憶にある事実については率直に認め、一方、記憶にない点についてはその旨供述するなど、認める事柄と否定する事柄とを明確に区別して供述しており、しかも供述内容はほぼ一貫して大きな変遷がみられず、具体的であったこと、内藤の自白と大筋において合致したこと、前原を実際に取り調べたところ、アメ文事件と同様、慎重に考え、素直に供述したこと等を踏まえて、前原の自白は信用できると判断したことが認められる。

(2) 内藤の自白について

<証拠略>によれば、内藤は、参考人としての任意取調べを受けていた二月六日、一〇月二三日河田町アジトにおいて、八・九機襲撃の話し合いの場に居合わせたこと等を供述していたこと、逮捕された二月一七日、八・九機事件への関与を明確に否定せず、一〇月二三日の河田町アジトでの話し合いや八・九機周辺を歩いた記憶があることを理由に、あるいは八・九機事件に参加したかもしれない旨供述したこと、同月一八日、河田町アジトでの話し合いを具体的に供述したこと、同月一九日、検察官に対して、八・九機襲撃の謀議に参加したこと及び事件当日の夜、八・九機周辺をうろついた記憶があると供述したこと、内藤の自白は、事件への関与について全面的に否認するのでもなく、曖昧な供述に終始していたところ、次第に具体的、詳細な供述をするに至っていること、内藤は、その供述態度から、捜査官に迎合しやすい性格が看取されたこと、内藤の供述調書には内藤の言をそのまま録取したものが多くあるなど取調官も発問が誘導にわたることのないよう配慮していたこと、取調べ担当検察官が内藤の迎合しやすい性格を被告水崎にも報告していたことが認められる。

<証拠略>によれば、検察官が、右供述内容及び供述態度を基に、内藤の供述経過を、同人が、秘匿していた事実を逐次自白していった過程を如実に示すものであると解したこと、故に内藤が八・九機事件に関与したことを認める同人の自白は十分に信用できるものと判断したことが認められる。

(3) 村松の自白について

<証拠略>によれば、村松の八・九機事件に関する供述経過及び内容は次のとおりである。

村松は、昭和四八年二月一二日、八・九機事件により逮捕され、当初否認していたものの、同月一四日自白し、同月二二日再び否認に転じたが、同年三月三日あらためて自白するに至った。

村松は、一〇月二三日増渕から電話連絡を受け、喫茶店エイトに行くと、増渕、前原、原告他一名(内藤であったかもしれない。)がおり、増渕から河田町アジトに爆弾が入ったので八機を攻撃することに決めた旨の話がなされた。八機付近の地理を説明しろと言われ、自分が説明した。同日夜増渕の指示どおり河田町アジトに赴くと、増渕、前原、原告、内藤が既に来ており、八機の攻撃方法について話し合った結果、翌日話をさらに詰めるということになったが、その時点では、翌日決行という話も、決行時の役割分担の話もなかった。翌二四日午後一時ころ河田町アジトに行き、増渕の指示で堀を近くの駅に迎えに行って同アジトまで連れ戻った後、午後三時ころ、再び増渕に指示され、堀と二人で八機周辺の下見をし、その結果を増渕に報告した。午後四時ころ、当夜八機に爆弾を投てきすることに決し、増渕が各自の任務分担を決めていった。その時点では、増渕、前原、原告、内藤、堀、自分の計六人がいた。当初投てき班として「村松、原告、前原」と言われたが、前原も自分も断った。増渕は、前原に菊井を呼んで来るよう指示し、前原は出かけたが、三〇分位して一人で戻って来た。増渕は、その後一人で外出し、戻ってくると自分に木村コーヒー店に行って連絡が入るのを受けるよう指示したので、午後六時ころ、同アジトを出て同コーヒー店に行った。同店には午後七時三〇分ころまでいたが、その間前原から電話があり、また堀も顔を出した。その後、住吉町アジトに戻った後、石井とテレビを見ていると八機の件がスポットニュースで放送された。午後一〇時ころ、増渕が来て、爆弾が不発だったことを知った旨、最終的に供述する。

被告水崎の本人尋問の結果によれば、被告水崎が、村松の取調担当官であった濱田検事からの取調状況に関する報告や作成された供述調書の内容からして、村松供述については、事実の真相に近いが、最後の土壇場になると責任回避的になる傾向があること、信用性の極めて高い前原及び内藤の供述と符合する部分や関係被疑者らの行動に関する部分については、村松の供述の信用性が高いと判断したことが認められる。

検察官は、村松の供述が前原及び内藤の自白と重要な事柄について大きく相違する点については、その供述の経緯、態度等に照らして、村松が、捜査の攪乱を図り、あるいは自己の罪責の軽減を企てるため、殊更に虚偽の事実を織り交ぜた供述をしているものと解すべきで、同人の自白中、前原及び内藤の自白と符合しない部分については、その裏付けもないところからその信用性が十分でないと判断した。しかし、村松はL研メンバーの中で増渕と並んで指導的立場にある活動家であり、その活動歴、革命思想、反権力意識の強固さ等からみて、検察官あるいは警察官に対し、身に覚えのない犯罪に加功した旨の虚偽の自白をするとは考えられなかったところ、その村松が虚偽供述を織り交ぜながらも、諸点につき前原及び内藤の各自白と基本的に符合した供述をしたことは高く評価した。このように、検察官は村松がアメ文事件及び八・九機事件への関与を認めたこと自体は信用できるものと判断したが、前原及び内藤らの供述と食い違う点については信用性をさほど評価しなかったものである。

(4) 増渕の自白について

<証拠略>によれば、増渕の八・九機事件に関する供述経過及び内容は次のとおりである。

増渕は、昭和四八年二月一一日、「喫茶店で村松か菊井から電話連絡を受けた際、ピース缶爆弾を入手した旨聞き、同人に爆弾投てきを指示した」旨自白し、翌一二日逮捕され、その後「一〇月一八日ころ、L研で八・九機への爆弾攻撃を計画したが中止したことがあり、同月二三日喫茶店で村松から電話連絡を受けた際、ピース缶爆弾の入手を聞いてあらためて八・九機への爆弾攻撃を決意し、同人にその旨指示し、翌二四日住吉町アジトにおいて、さらに同人に最終的指示を行い、八・九機事件を実行させた」旨供述し、最終的には以下のとおり供述した。

増渕は、一〇月二三日河田町アジトか住吉町アジトで菊井に会った際、菊井から、一〇・二一闘争後原告がピース缶爆弾二個を河田町アジトに持ち帰った旨聞き、直ちに爆弾闘争を決定し、前原か村松にL研メンバーをミナミに集合させるよう指示して、同日午後四時ころ、ミナミに菊井、前原、国井、原告、自分が集まった。石井も来たかもしれない。村松はいなかった。自分が、入手したピース缶爆弾で八機を攻撃することを提起し、全員が賛成したので、八機の下見を指示し、自分も同店を出て八機の裏を回る形で下見をした。下見後喫茶店にいた者全員が住吉町アジトか河田町アジトに集合し(村松が後から来たかもしれない。)、自分がもっぱら指示する形で「明日夕方実行する。爆弾は正門に向かって投げることとし、投てき役は村松と菊井、他の者はその前後のレポとする。実行前の集合場所は河田町アジトとする」旨打合せをした。同夜、内藤、堀にも電話連絡し、八・九機事件への参加を依頼し了承を得た。同月二四日午後四時ころ、住吉町アジトに行き、村松、石井、前田と会い、村松に打合せの結果を話して了承を得た上、実行前にいったん八機斜め向かいの喫茶店に入り、そこから出発するよう指示した。村松は午後六時か六時三〇分ころ、住吉町アジトを出発した。自分は住吉町アジトで待っていたが、午後八時か九時ころ菊井が来て失敗だった旨報告を受けた。なお、当日河田町アジトか住吉町アジトかで導火線の燃焼時間を計測するため、燃焼実験を行っている。ピース缶爆弾は、当日夜までに見ているかも知れないがよく思い出せない旨、最終的に自白した。

<証拠略>によれば、増渕が二月ころ、事件内容を具体的に教えてほしいとしきりに言ったこと、取調官は迎合供述のおそれがあったので教えなかったこと、増渕の供述について、取調官は、警察がどの程度真相をつかんでいるかを探り、また捜査を攪乱させるためにことさら虚偽供述をしていると理解していたこと、被告水崎が、増渕は後日の否認に備え、捜査を間違った方向に向けようとする意図があるのではないかと感じたことが認められる。

被告水崎は、増渕が八・九機事件に関与した事実こそ認めているが、その供述経過や内容の変転並びに信用性の高い前原及び内藤らの供述との不一致等に照らすと、前原及び内藤の自白と符合しない部分については、その信用性が十分でないと判断した。しかし、増渕は、L研の中心人物であり、共産同あるいは赤軍派メンバーとして、東海大学及び法政大学の各在学中を通じて長期間過激派の活動に従事し、L研のリーダーとして指導力を発揮し強固な暴力革命思想や反権力思想を有していたものであるから、検察官あるいは警察官に対し、身に覚えのない犯罪に加功した旨の虚偽の自白をするとは考えられなかった。したがって、被告水崎は、このような増渕が取調べに対し、自らアメ文事件及び八・九機事件に関与し、しかも犯行の指揮をとったことを認めたこと自体、特にその供述の信用性が高いと評価すべきと考えた。以上の考察を踏まえ、被告水崎は、増渕の自白のうち、前原及び内藤の各自白とほぼ符合する点については、信用し得ると判断した。

(三) 前原及び内藤の自白に関する検察官の評価の違法性

(1) 八・九機事件実行状況に関する供述の不自然性

<1> 前原・内藤の行動及び役割について

都電に乗り、八・九機正門前でフラッシュが焚かれているのを見た後の行動について、<証拠略>によれば、前原は以下のとおり供述する。

(一月二二日員面調書)落ち合う場所(思い出せない。)に向かった。午後八時ころ、落ち合う場所で解散後、河田町アジトに戻った。

(二月二日検面調書)投てき後の集合場所(喫茶店だったと思う。)に行ったかどうかはっきりしない。午後一〇時ころ河田町アジトに戻った。

(同月一三日員面調書)都電でそのまま新宿周辺まで行き、かねて打ち合わせていた場所(新宿周辺の喫茶店だったと思うが、店名、場所は思い出せない。)に行った。午後九時ころ解散した。

(同月一六日検面調書)どこで都電を降りたか記憶がない。とにかく暫く時間がたってから河田町アジトに戻った。

(同月二六日検面調書)どこかの喫茶店で皆が集まり、それから河田町アジトに帰ったと思う。これだけ大胆なことをやりながら総括もせずバラバラに別れてしまうはずがない。

(三月九日検面調書)都電を東大久保で降りた。近くで降りて怪しむ乗客がいるのではないかと思いつつも思い切って降りた。事件後に集合する喫茶店は、その近辺で、赤軍派の者と一緒に行った。その後、河田町アジトに帰った。

右供述の変遷について、検察官は、フラッシュを見たことが特に強く印象に残り、記憶も鮮明で、一方、その後の行動はこれに比して記憶の希薄化や混同を来しやすい事柄であり、供述が変遷しても一概に不自然とはいえないと判断したものであり、右供述の変遷をこのように理解したことを一概に不合理であるということはできない。

<証拠略>によれば、前原が、午後七時一〇分ころになっても変わった事態がなく、赤軍派の者も、爆弾は投げ込まれたらしいが、何も変わった様子がない旨報告してきた旨、前原の発案で午後七時三〇分ころ都電に乗った旨供述したことが認められる。右供述によれば、前原は赤軍派から報告を受けてから都電に乗るまで約二〇分間、無為のうちに河田町電停付近に立っていたことになる。しかし、この点は、真実体験していない事柄あるいはおよそ体験したとは思えない事柄を前原が供述しているのではないかとの疑念を抱かせるほど不自然な供述内容ではない。また、前原自白の信用性に重大な影響を与える事項でもなく、検察官が、起訴当時、さほど重視しなかったとしても、それが一概に不合理であるということはできない。

<証拠略>によれば、高杉が午後七時直後、八・九機正門から屋根の上にライトをつけた車が来たので、進路を譲った旨供述したことが認められる。しかし、前原が、八・九機正門から警察用緊急車両が出動した旨供述しないからといって、このことが前原自白の信用性に重大な影響を与えるわけではないから、この点を根拠に供述の信用性を否定的に解しなかったからといって検察官の判断が不合理だとはいえない。

<証拠略>によれば、前原が一月三一日、効果測定に同行した赤軍派の者の存在を初めて述べたことが認められる。この点、<証拠略>によれば、前原が、一〇・二一闘争に向けて赤軍派との連絡役を担当したことが認められ(なお、<証拠略>によれば、前原は公判廷(第六三回公判調書二二丁)でもこのことを認めている。)、八・九機事件においても赤軍派との連絡役を担当した旨供述する前原が、共闘の相手である赤軍派を庇う等の目的から殊更その存在を供述しなかったと理解しても、不合理な判断とはいえない。

八・九機事件における内藤の役割について、<証拠略>によれば、内藤は「自分はレポ役であって、増渕から、八機を中心にして、河田町から東大久保交差点までのレポをやり、八機正面前の警備状況と回りの警察の動きを見て、その状況を途中で出会った者に報告するよう指示され、赤軍派の者一名とレポに出発した。河田町交差点から、八機前の通りを機動隊と反対側の道路を歩いて、東大久保の交差点に向かった。八機正門前歩道上には三人位の制服の機動隊員が立っていた。八機前を過ぎ、余丁町電停付近に至って、前原他一名(誰かは思い出せない。)に会ったので、八機正門前の警備状況を報告した。その後、余丁町電停付近で暫く待機した後、再び八機の方に引き返した。途中の路地の入口で路地に立っている村松他一名に会ったが、意識的に無視して通り過ぎた。八機前を通過し、河田町電停付近まで来ると、反対方向から原告が来たので、八機前の警備状況を伝えた。原告と別れ、時刻を確認したところ、午後七時の四、五分前だったので、近くの路地に入り、時間の調節をした後、午後七時一分前に路地から出て、路地入口付近に立ち、斜め向かいの交番と八機正面の様子を見ていた。同行していた赤軍派の者は原告と出会った前には近くにいたが、この時点でどこにいたかは記憶がない。午後七時を五分くらい過ぎても何の変化もないので出発前に集合した喫茶店に戻った。赤軍派の者がどうしたかは確認していない」(三月七日員面調書、同月八日検面調書)旨供述したこたが認められる。

右役割は結局判然とせず、内藤が自白するレポの必要性は疑わしい。しかし、この点について検察官は、当時の過激派学生らの行動様式や思考形態は、合理性を欠き社会の通常の尺度をもって測り難いものがあったのであり、増渕らがレポの必要性や実行方法について十分検討しないまま教条的にレポを立てたとしても特段奇異なことではなく、右の程度のことは、内藤の自白の信用性を何ら左右するものではないと判断したものであり、右判断は、内藤がレポ担当であることを共犯者全員が一致して供述すること、内藤の供述する役割がおよそあり得ないという程不自然なものではないこと等の事実に照らせば、不合理とまではいえない。

内藤は、レポの具体的内容に関する部分について、<証拠略>によれば、以下のとおり供述する。

(二月六日員面調書)一〇月二二日から同月二四日までの間の午後八、九時ころ、八機正門前の路地を村松と思われる男(L研関係の背の低い男)と歩いたことがある。その男は「この道は抜けられるかな」と言い、二人して五〇メートルくらい歩いたが、行き止まりで引き返したことがある。

(同月八日員面調書)日ははっきりしないが、八機付近の路地に一人で入ったことがある。この時のことかどうかわからないが、「同じ場所を単調に歩くな」と言われたことがある。

(同月一七日員面調書)記憶ははっきりしないが八機周辺を歩いた記憶がある。

(同月一八日員面調書)一〇月二四日に八機周辺に行ったかどうか思い出せない。同月二三日から同月三一日までの間の午後八時ころ、八機正門前あたりの小さな路地に入ったことがある。目的ははっきりしないが、単調に歩くとまずいと思ったのではないか。

(同月二一日員面調書)一〇月二三日から同月末ころの間の夜、八機前都電通りで、L研の者と会ったことがある。自分は一人だった。L研の者とは立ち止まって二、三言話して別れたが、内容はレポに関することだった。

(同月二二日員面調書)一〇月二三日かあるいは二四日の下見なのかレポなのかはっきりしないが、村松、前原、菊井のうちの一人と、暗くなってから八機の周囲をかなり時間をかけてぐるぐる回り、河田町に帰ったことがある。また、同月二四日のことか同月二一日のことかはっきりしないが、八機前の八機と反対側の道路を歩きながら、八機の様子を見るためという感じで八機正門の方をチラッと見たことがある。

(同月二八日員面調書)一〇月二四日薄暗くなってから、もう一人の男(前原と思う。)と八機前の通りを歩き、八機正門前付近でL研の者(原告と思う。)と会った、その者は複数だったように思う。

(三月三日員面調書)一〇月二四日八機正門前を往復する形で二回位通った。相棒がいたのか一人だったのかはっきりしない。相棒がいたとすれば村松、菊井、前原、堀のうちの一名である。新宿方向から河田町方向に向かい八機正門前を少し通り過ぎた地点で原告と会い、自分と一緒だった男が原告にレポの状況を報告した。その後河田町交差点少し手前の路地に一人で入った。その路地が行き止まりであることを確認して、八機前の通りに戻り、河田町電停方向へ歩いた。そのあとのことは思い出せない。

(同月七日員面調書)前述のとおり(ただし、同行した赤軍派の者を「梅内」とし、前原と一緒にいた者を「花園」とする。)

(同月八日検面調書)前述のとおり。

右内藤の供述経過及び内容をみると、内藤は、当初曖昧な供述に終始していたが、徐々に具体的、詳細に供述している。右変遷の理由について、検察官は、事件後約三年半も経過した時点での供述であること、爆弾投てき班の者に比し、犯行現場における緊張感の度合いや印象がやや弱かったものと推測されること等を考慮して、実際に経験した事柄であっても記憶の欠落や希薄化を生じても不自然とはいえないと判断し、さらに、内藤は本件後、過激派としての活動から離れていたので、他の者に比し、一層記憶の希薄化や混同が生じたものと判断したものである。右判断は、内藤が任意の取調べ段階から八・九機周辺を歩いた記憶がある旨一貫して供述していたこと及び前記(二)で述べたとおり、各人の自白が大筋において合致していたことを重視して心証を形成したことを併せ考えると、不合理とまではいえない。

レポの同行者についても、<証拠略>によれば、内藤は以下のとおり供述する。

(二月二二日員面調書)村松、前原、菊井のうちの一人(ただし、一〇月二三日かあるいは二四日の下見なのかレポなのかはっきりしないとする。)

(同月二八日員面調書)前原と思う。

(三月三日員面調書)相棒がいたのか一人だったのかはっきりしない。相棒がいたとすれば、村松、菊井、前原、堀のうちの一人。

(同月七日員面調書)梅内

(同月八日検面調書)赤軍派の者(比較的背の低い男)

(同月九日実況見分立会時)梅内

(同月一〇日検面調書)(三月八日検面を訂正することはない旨供述)

右供述には著しい供述の変遷がみられるところ、検察官は、右に述べた、レポの具体的内容に関する部分についての供述変遷の理由と同じような判断をしたものである。右判断は、内藤が任意の取調べ段階から八・九機周辺を歩いたという限りでは、一貫して供述していたこと及び前記(二)で述べたとおり、各人の自白が大筋において合致していたことを重視して心証を形成したことを併せ考えると、不合理とまではいえない。

<2> 前原及び内藤の効果測定及びレポに関する各自白の相互矛盾ないし不自然な点

前記<1>で述べた前原及び内藤の供述内容を検討すると、前原と内藤が八・九機付近で出会った場所についての両名の供述が全く異なる。右食い違いの原因について、検察官は、事件後約三年半も経過した時点での供述であること、爆弾投てき班の者に比し、犯行現場における緊張感の度合いや印象がやや弱かったものと推測されること等を考慮して、実際に経験した事柄であっても記憶の欠落や希薄化を生じても不自然とはいえないと判断したものであり、さらに、内藤は本件後、過激派としての活動から離れていたので、他の者に比し、一層記憶の希薄化や混同が生じ、それが供述の変遷や前原自白との齟齬の原因になったと考え、両名の供述の相違がその自白全体の信用性を損なうものとは考えなかったものである。右判断は、内藤が任意の取調べ段階から八・九機周辺を歩いた記憶がある旨、一貫して供述していたこと及び前記(二)で述べたとおり、各人の自白が、大筋において合致していたことを重視して心証を形成したことを併せ考えると、不合理とまではいえない。また、原告は、取調官である濱田検察官が内藤供述をもとに前原を追及し、前原がこれに合わせる供述をした旨主張するが、前記一の3で述べたとおり、本件捜査に違法な点があったとは認めがたいので、右主張は理由がない。さらに、原告は、前原及び内藤が別の機会にも出会ったはずであるのに供述がないのは不自然である旨主張するが、そのような供述がないからといって、検察官の右判断が不合理とまではいえない。

<3> 投てき犯人の人数に関する供述の不自然性

<証拠略>によれば、前原が、八・九機事件の爆弾投てき班を村松・原告及び堀の三名であると供述したこと、原告及び村松から投てきの際の状況を聞いた旨具体的に供述したことが認められる。また、<証拠略>によれば、内藤が、八・九機事件の投てき班は村松及び原告であり、増渕は役割が不明で、堀は何の役だったかはっきりしない旨(三月七日員面調書)、投てき班は原告、村松ともう一人(増渕であったと思う。)だった、堀の役割は忘れた旨(三月八日検面調書)供述したことが認められる。

一方、原告は、八・九機事件で爆弾投てきに直接関与した犯人が一名である可能性が高いとして、これに反する前原らの供述の真実性は疑わしいと主張する。

ところで、<証拠略>によれば、検察官は、原告のいう「投てきに直接関与した犯人の数」とは、要するに目撃者(松浦英子及び高杉早苗)によって本件現場付近から逃走したと思料される者の数であり、一方、前原及び内藤の供述する「投てき者三名」とは、増渕の指示で爆弾投てきを担当することとなったか又はこれを担当した者(投てき班)の人数であるという理解のもと、右の点に検討を加えたことが認められるのであるから、まず、右理解に検討を加え、さらに、右理解のもとでの判断が不合理といえるかを検討する(なお、右のような目撃者供述の理解は、投てき班を複数と解するためには当然必要なものであって、第一〇五回公判での検察官の更新意見陳述における主張に立脚して初めて導かれるものではない。)。

<証拠略>によれば、本件の目撃者の供述は以下のとおりである。

(高杉早苗の昭和四四年一〇月二四日員面調書)「花寿司」横の路地を余丁町小学校方向に進み、余丁町通り方向に向かって右折する最初の小路に面する自宅前路上にいて、姉と二人で、「花寿司」方向から余丁町通り方向に勢いよく走り去る男一人とその後を追いかけて行く機動隊員の姿を目撃した。警察用緊急車両が通った後で、機動隊の人が走って来たので「男の人なら余丁町通りの方に行きましたよ」と教えた。逃走した男の人相について、一見して工員風で年齢三〇歳くらい、身長一六〇センチメートルくらい、やせ型、髪はオールバックで油がついていたように思う、着衣はグレーの背広型作業衣、同系か黒のズボン、黒短靴、黒縁眼鏡をかけていた。

(高杉の昭和四八年二月二七日検面調書)玄関を出て石段を降りて道路に出ようとした時、一人の男がものすごい勢いで駆けて来た。男の人相については、昭和四四年の供述と同じ。機動隊の人(数人だと思う。)が男を追いかけて行った。警察用緊急車両が通った後で、大勢の機動隊員が駆けて来て、出世稲荷方向に、一部は先程の男が逃げた方向に駆けて行った。「花寿司」の所に立っていた私服の警察官に余丁町通りの方に男が走って行くのを見たことを話した。

(松浦英子の昭和四四年一一月一四日員面調書)爆弾が投てきされた際、偶然八・九機正門付近を通りかかった。目の前をたばこの火のようなものが八・九機正門の方に飛んでゆくのを目撃した。飛んで来た方向を見たところ、一人の男が「花寿司」横の路地を奥の方に向かって駆け出して逃走する姿を現認した。逃走した男の人相は、年齢二〇ないし二四、五歳くらいで身長が一七〇センチくらい、髪は長く学生のような感じでやせ型、あずき色の上着に黒っぽいズボンをはいていた。投げ込んだ犯人は、私の見た限りでは逃げた男一人ではないかと思う。

(松浦の昭和四八年二月二一日検面調書)飛んできた方向を見たところ、黒っぽい人影がすごく早く駆け出して路地の奥の方へ行くのが見えた。私が見た限りでは一人だった。人相等はよくわからないが、割に小柄で太っていない若い男だと思う。

(河村周一の昭和四四年一〇月二五日現認報告書)立番勤務に赴くため八・九機正門に向かっていた際、同正門前の通りをはさんだ向かい側にある「花寿司」横の路地角から男が爆弾を投てきするのを現認した。「タクシーの間をぬって本職は全速で花寿司わきの幅員三メートルぐらいの路地を追跡しましたが、花寿司角へ行った時すでに男の姿は見あたらなかった。なおも本職は真っすぐ一〇〇メートルぐらい追跡したが、それらしい男の姿はなく、丁度その反対方向から二〇歳ぐらいのワンピースの女の人が来たので『誰か逃げて行かなかったですか。』と聞いたところ、『三人が急いで、かけていきましたよ。』とこたえたので、さらに追跡し、商店街まで追跡したが、発見に至らなかった。」

(河村の昭和四八年二月一八日員面調書)黒っぽい服装をした男一人が何か物を投げるのを見た。余丁町小学校方面に直進して追跡したと思う(最初の小路で右折して追跡したかもしれない。)。追跡の途中で、通行人の女性に、だれか走って行く姿を見なかったかと尋ねたが、いずれもそれらしい姿は見なかったとのことであった。

(河村の昭和四八年二月二一日検面調書)「その時のことは、その翌日、すなわち一〇月二五日付けで私が隊長宛てに作成している現認報告書に書いておいた通りです」。一人の男が何か物を投げようとする姿勢をとっているのを見た。余丁町方面に直進して追跡し、二つ目の角で曲がったようにも思う。犯人を最初に追いかけたのは自分である。「追いかけている途中で出会ったワンピース姿の二〇歳位の女性に『誰か逃げて行かなかったですか』と尋ねたら、その女の人に、『三人がまっすぐ急いで駆けていきましたよ』旨教えられたのですが、それにもかかわらずそのような人影を発見できなかったのです」。どこで尋ねたのかとの供述録取者の問いに対し、曲がる前と曲がってからと二か所でいずれも女の人に私から尋ねたように思いますと供述している。

(加藤清五の昭和四八年二月一七日員面調書)花寿司の角から路地を余丁町小学校方面に五、六〇メートル走り、その後反転し、余丁町に至る路地に入った。余丁町小学校方向への路地は見通しもよく、犯人の姿が見えなかったので反転したのかどうか、よくわからない。反転して最初の路地に入ってから、若い高校生くらいの女の子に出会ったので、「誰かこっちへ来ませんでしたか」と尋ねた。女の子は何か答えたと思う。

右認定事実によれば、複数の目撃証言が犯人一名を示唆するようにみえるが、にもかかわらず、検察官が投てき班を三名と判断したことが不合理といえるかを検討すると、<証拠略>及び被告水崎の本人尋問の結果によれば、検察官は、現場付近から逃走した者の人数については、河村巡査の目撃した男一名と高杉早苗が現認した男一名が同一人物か否かさえ明確でない上、同巡査が通行人から三人の男が逃げて行ったと教えられている(二月二一日付け検面調書)点からしても、その数は必ずしも明らかでないと判断したこと、さらに、仮に目撃者の供述から認められる「逃走した人物」が一人であったとしても、それが直ちに「投てき班に属した人物」の数を示すものでないと判断したこと、最終的には、投てき現場付近には、少なくとも三名の犯人と目されるものがあり、犯人らは、投てき後、花寿司脇の路地を通り、少なくとも二手に分かれ、内一名は直ちに右折して高杉方前路地を通り、他の者は余丁町小学校角まで至って右折し、同小学校前の路地を余丁町通り方向へそれぞれ逃走したとの心証を得たことが認められ、河村及び高杉が目撃した男が同一人物でないとの検察官の判断は、河村は投てきを目撃した後、犯人を見失っており、他方、高杉は自宅前で逃走する者を見たにとどまることから、必ずしも不合理な判断とはいえない。

原告は、三名逃走の情報を通行人から得た旨の河村の二月二一日付け検面調書について、同月一八日付け員面調書の「追跡の途中で、通行人の女性に、誰か走っていく姿を見なかったかと尋ねたが、いずれもそれらしい姿は見なかったとのことであった」という供述と対比すると、右検面調書は、前原らの自白と符合させるために検察官が河村の供述を誘導したものであると主張する。しかし、右認定事実によれば、三名説の始まりは河村の現認報告書にあり、被告水崎は右報告書をもとに三名説の見地から再度、河村を取り調べ、その取調べの結果、河村が通行人から得た情報を供述し、被告水崎は、河村が記憶を喚起したものと理解して調書を作成したのであって、被告水崎が河村に記憶のない虚偽の供述をさせたとは認め難く、他に原告の右主張を認めるに足りる証拠はない。さらに、目撃された逃走した人物が直ちに投てき班に属した者の数を示すものではないと考えても、不合理とはいえない。したがって、投てき班を三名と考えた検察官の判断が必ずしも不合理であるとはいえない。

なお、右に述べたとおり、内藤の投てき班メンバーに関する供述は変遷する。このことは、本件が単独犯であるとの理解によれば不自然であるが、投てき班三名説の見地からすれば、このことを理由に内藤供述の信用性を否定的に解しなかったからといって、検察官の判断が不合理であるとはいえない。

<4> 菊井の参加の有無に関する供述の不自然性

菊井の参加の有無について、<証拠略>によれば、前原及び内藤は以下のとおり供述する。

(内藤)犯行前日の事前謀議で菊井に対して何か役が割り振られた(ただし、事前謀議に参加したとは述べない。)。犯行当日、爆弾投てき直後、集合すべき喫茶店に行ったところ、菊井がいた(最終的な供述内容。三月八日検面調書)

(前原)一〇月二三日河田町アジトに原告といると、村松が現れ、内藤と菊井を集めておけと指示した。内藤がひょっこり現れたので、内藤に菊井を呼んで来るよう依頼したところ、しばらくして内藤は戻って来たが、「菊井は行く必要がないと言って来なかった」とのことだった。そのため、原告と二人で不思議に思い、菊井の噂をした(最終的な供述内容。三月九日検面調書)

右供述の不自然さ及び不一致について、検察官は、内藤が、被告菊井も参加した製造事件及び一〇・二一闘争と八・九機事件が接近していたことや、そのころ被告菊井と共に喫茶店及び若松町食堂に行ったという記憶があったこと等から、記憶の混同を来したため、被告菊井が八・九機事件にも参加していたものと思い込み、前原と異なる供述をしたものと判断したものである。そして、前原の供述は被告菊井に参加を誘いかけたか否かの点で変遷するものの、この点の供述は伝聞にわたる事柄であって、しかも約三年半前の事件に関する供述であるから、この程度の変遷もありうることであり、八・九機事件に被告菊井が参加しなかった旨の前原の自白の信用性に影響を及ぼすものではないと判断したものである。右判断は、前記(二)で述べたとおり、各人の自白が大筋において合致していたことを重視していたことを併せ考えると、不合理とはいえない。

<5> 自白と使用爆弾・導火線の客観的形状との食い違い

<証拠略>によれば、八・九機事件に使用されたピース缶爆弾は導火線の長さが中野坂上事件のピース缶爆弾三個に比べて短いこと、その先端の形状が中野坂上事件の物がいずれもほぐされているのに対し、八・九機事件の物は斜めに切られていること、前原が、「本件謀議の際の導火線燃焼実験に使用した導火線は、よく考えてみたところ、佐古らが持って来たピース缶爆弾二個の中の一個の導火線を抜き出すか切り取って使ったように思う」旨供述したこと(二月一〇日員面調書)、また、実験に使用した導火線の長さは一二ないし一三センチメートルと供述したこと、内藤が、実験に使用した導火線の長さは一〇センチメートル余りと供述したことが認められる。

ところで、<証拠略>によれば、前原が実験に使用した導火線について、増渕がどこからか一二~一三センチくらいの導火線を取り出した旨(一月二二日員面調書)、導火線の長さは一二~一三センチくらいだった、ピース缶爆弾のうちの一個から引き抜いて使ったものか、増渕が別に用意して来た物かその辺の所がはっきりしない旨(二月一六日検面調書)供述し、最終的には、誰かが準備して持ってきたのか、爆弾のうち一個から抜きとったのかはっきりしない旨(三月二日検面調書)、確か増渕が用意して、持参して来た物だと思う旨(三月九日検面調書)供述したことが認められる。右供述過程及び最終供述に照らすと、前原は実験に使用した導火線について明確な記憶を有していなかったものとも考えられるのであり、したがって、燃焼実験に使用した導火線に関する前原の前記供述は、多岐にわたる供述の中の不確かな記憶に基づく一部分であり、この供述部分と前原の供述中に導火線切断の事実が述べられていないことを取り上げて、前原の供述全体の信用性を議論するのは、必ずしも当を得ない。

(2) 犯行前後の行動状況に関する行動の不自然性

<1> 下見

<証拠略>によれば、前原は下見について以下のとおり供述し、引当り捜査で指示したことが認められる。

二月一六日、犯行当日の午後三時ころ原告と二人で河田町アジトを出て下見に出かけた。八機正門やその付近の警備状況を注意して見て回った。八機前の道路を隔てた向かい側の裏路地等も見て回った。一時間位下見をしてから河田町アジトに戻った旨供述した。

同月一七日、右下見の経路等を明らかにするための実況見分において、下見の経路を、河田町アジトを出て、フジテレビ前通りを右折して河田町交差点方面に向かい、途中新宿区市谷河田町一六東京電力河田町変電所角を左折して住吉町商店街に向かい、同区住吉町二三近藤商店街を右折し、さらに同区市谷台九深井医院角を左折した上、地獄坂通りに出て右折し、その後同通りを抜弁天交差点まで至り、同交差点を右折して若松通りに入り、その後厳島神社付近の路地に入ったりした後、同通りの八機反対側道路を河田町交差点方向に向かい、八機前を通過し、同区市谷河田町一八東京都中央児童相談所角を右折し、同町一七先を左折し、同番地所在の新宿区検察庁角を右折してフジテレビ前通りに至り、河田町アジトに戻る旨指示した。

原告は右下見の経路について、現場付近の大通りばかりを歩いており、逃走経路たるべき路地や脇道を確認した形跡がなく、検察官がこの不自然さに疑問を抱かないとすれば明らかに不注意であると主張する。しかし、右に認定した下見の経路がおよそありえないという程のものではなく、これを不自然と考えない検察官の判断に、直ちに違法性があるということはできない。

また、<証拠略>によれば、前原が機動隊員の立哨位置につき供述に沿う指示説明を行ったこと、河田町電停方向に交番があることを考慮して逃走方向を考えた旨供述したことが認められる。右供述によれば、前原は下見の際現認したはずの機動隊員の立哨位置を考慮にいれて逃走方向を決したとは思われず、不自然な抵触があるといえなくもない。しかし、検察官は、前原が、逃走方向を考える際に考慮したこととして、機動隊員が河田町交差点方向にいたことまで述べなかったとしても、それは同人の説明不足にほかならず、下見の結果と何ら抵触するものではないと判断したものであり、右判断が直ちに不合理であるとはいえない。

<2> 犯行直前の喫茶店集合

<証拠略>によれば、前原及び内藤が犯行直前に喫茶店に集合した旨以下のとおり供述したことが認められる。

(前原)河田町アジトで最終的な打合せをした後、増渕と赤軍派の者二名が出発した。その際、赤軍派二名と喫茶店で落ち合うよう打ち合わせた。その後、村松、堀、原告が出た後、自分と内藤も河田町アジトを出発し、赤軍派と落ち合う約束の河田町交差点近くの喫茶店に行った。同店には増渕もおり、自分と内藤は、増渕から具体的任務の内容について指示を受けた。村松、原告、堀は来ていなかった。増渕、内藤らが出ていった後、午後六時四〇分ころ、赤軍派の者一名と同店を出発した。

(内藤)河田町アジトで最終的な役割分担を確認した後、午後六時ころ、二、三のグループに分かれ、同アジトを出た。自分は前原と一緒に出て、前原の案内で河田町電停方面へ向かい、途中の喫茶店に入った。同店には、河田町アジトにいた者が全員集まった。自分は増渕からレポについて指示を受けた後、赤軍派の者一名と同店を出発した。

右供述を対比すると、喫茶店に集合した者について両名の供述が一致しない。しかし、本件が発生した昭和四四年一〇月ころ、L研が様々な活動を行っており、打合せ等のために集合する機会が多かったこと、本件逮捕取調べ当時、事件から既に約三年半が経過し、記憶の希薄化、混同が見込まれたことを併せ考えれば、右供述の不一致が直ちに右両者の供述の信用性を否定する要因とはならない。

次に、犯行直前に現場近くの喫茶店に集合した点については、それを不自然と見る考え方もあるが、本件犯行実行においておよそあり得ないという程のものでもなく、前原及び内藤が一致して供述し、増渕も供述していることを併せ考えると(検察官の証拠判断が、各人の任意に行った自白が大筋において合致していることを重視するものであることは前記(二)で述べたとおりである。)、この供述も直ちに右両者の供述の信用性を否定する要因とはならない。

原告は、右犯行直前の喫茶店への集合について、取調官が増渕の供述を基に内藤を追求した結果、内藤がこれに迎合して虚偽の供述をし、次いで、右内藤供述を基に前原を追求した結果、前原がこれに迎合した疑いが濃厚である旨主張する。確かに、<証拠略>によれば、内藤が、公判廷で「取調官から佐古の下宿をわいわい出て行くはずがない。どこかに集まったんじゃないか。喫茶店を使ったんじゃないかとさかんに追求された」旨、「ほかのメンバーも喫茶店を使っていると言っていると追及された」旨証言したこと、増渕の二月一八日付け員面調書は「村松に、八機前の通りの喫茶店に全員を入れ、そこを出撃拠点にして出発するように指示した」という内容であることが認められる。しかし、前記(二)の(4)記載のとおり、取調官は、増渕が取調べ当初から事実を否認し、あるいは意図的に虚偽の供述を混入するなどしていたことを承知していたのであり、右事実に照らせば、取調官が増渕の右供述に基づいて前原及び内藤に対し、度を越えた追求等の違法な取調べをしたとは認め難く、他に原告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。前原についても同様に、違法な取調べがされたとは認め難く、他に原告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。

<3> 犯行直後の喫茶店集合

<証拠略>によれば、前原及び内藤は犯行直後に喫茶店に集合した点について、以下のとおり供述する。

(前原)都電に乗って、八機前を通過した後、東大久保で下車し、午後七時四〇分か五〇分ころ、事件後集合することになっていたその付近の喫茶店に赤軍派の者一名と行った。同店では原告、内藤に会った。増渕がいたかどうかは、はっきりしない。村松、堀は来なかった。

(内藤)午後七時から五分位過ぎても何も変わった様子がないので、レポ出発前に集合した喫茶店に戻った。同店には菊井がいた。前原もいたが、自分より早く戻っていたか断言できない。その後、原告、増渕が来た。村松、堀は来ていない。

右に認定したとおり、前原と内藤の供述は、犯行直後に喫茶店に集合したことは一致しているが、その内容は大きく相違する。この事実から、本件に関して右集合が実際に行われたと判断するのか、右集合がなかったと判断するのか、あったとして、いずれかの供述が全面的に正しいのか、双方の記憶の一部に誤りがあるのかについては、いくつかの考え方があり得るが、このことから直ちに、前原らの供述が自己の確たる記憶に基づかないものと判断しなければならないともいえない。

(3) 犯行前日の謀議状況に関する供述の不自然性

<1> 謀議の場所等

<証拠略>によれば、犯行前日の謀議の場所及び謀議の状況に関し、内藤及び前原が供述した内容及びその経過は以下のとおりである。

まず、内藤の供述は次のとおりである。

(二月六日員面調書)河田町アジトに村松、前原、原告他二名位(一人は菊井と思う)と集まり、村松が機動隊を攻撃しようとの話を始めた。「八機が手薄だ」「正門のところに何か投げ込み、注意を引きつけてその隙に横の方から侵入する」などの話も出、村松が略図のようなものを書いた。増渕はいなかったと思う。誰かから「明日、町田か高野を連れて来い」と言われた。

(二月八日員面調書)河田町アジトで八機襲撃の話が出た際のメンバーは前回の供述どおり。増渕はいなかったと思う。「明日、高野か町田を連れて来い」と言ったのは村松か誰かだった。

(二月一八日員面調書)河田町アジトで、村松が、八機の地図を書き、「八機の正門のところに何か投げ、注意を引きつけてから、横の方から八機の中に侵入する」という話をしだす。何を投げるか具体的には聞いていないが、ジュース(火炎瓶の意)と思う。その際、話し合ったメンバーは従前の供述どおり。帰り際に村松(確かそうだったと思う。)から「高野か町田を連れて来れないか」と聞かれた。

(二月二四日員面調書)河田町アジトで前原、原告(あと一名いたかもしれない。)といると村松が来た。村松から八機襲撃の話が出た。村松は略図を書いて一気に説明した。その際、「これからは爆弾等を使用する時代だ」などと話す者がおり、それが増渕だったと思う。

(二月二八日員面調書)河田町アジトに前原、原告(あと一名いたかもしれない。)といると村松が来て、八機の略図を書き、「正門に何か投げ注意を引きつけ横の方から侵入する」という話をした。侵入は勘違いかもしれない。その際、爆弾闘争の話があったが、増渕からだと思う。その後増渕が各自の任務を決めた。帰り際、増渕(そうだったと思う。)から、「明日、町田か高野を連れて来てくれ」と言われた。

(三月七日員面調書)午後四時か五時、喫茶店に増渕、前原、原告、梅内、花園と集まり(村松がいたかははっきりしない。)、増渕から八機を爆弾で襲撃する話が出された。午後六時か七時ころ、河田町アジトに前原、原告と三人で戻っていると、村松が来て、略図を書いて八機襲撃計画を説明した。その後増渕が少し遅れてやってきて各自の任務を決めた。

(三月八日検面調書)午後四時ころ、喫茶店に増渕、前原、原告、初対面の赤軍派の男二名と集まり(村松はいなかったように思う。)、増渕から爆弾による機動隊攻撃が提案された。午後六時ころ、前原、原告と三人で河田町アジトに戻っていると村松がやってきて、村松が中心となって図面を書いて話し会った結果、八機襲撃が確定した。八機横の路地から攻撃することに決まったと思うが、それが正門に投てきするとどの段階で変更になったのか記憶がない。増渕がいつ来たかははっきりしないが、その後の各自の役割を決定する段階では来ており、増渕がこれを行った。

次に、前原の供述は次のとおりである。

夜、河田町アジトに増渕、村松、原告、内藤と自分が集まり、増渕から爆弾闘争の提起があり、一〇・二一夜佐古らが持ち帰ったピース缶爆弾を用いて八機を攻撃することになった。その後増渕を中心に各自の任務が決定した旨、当初から概ね一貫して供述していた。

ところが、三月九日検面調書で、夜の謀議に先立って、午後五時三〇分から午後八時までの間に、喫茶店で増渕からピース缶爆弾による機動隊攻撃の提起があり、皆賛成した。どういう経緯でどのようなメンバーが集まったかは思い出せない旨供述した。

右に認定したとおり、内藤の供述はかなり変遷、混乱しており、一方、前原は当初の自白以来、概ね一貫した供述をしていたが、三月九日付け検面調書に至り、突如喫茶店における謀議を供述している。この点について、検察官は、<証拠略>によれば、内藤及び前原が、事件前日、河田町アジトにおいて本件の謀議がされた旨供述しており、その前の喫茶店での謀議の状況等に関する前原の供述がかなり曖昧であることが認められることに照らし、右喫茶店での謀議は予備的あるいは連絡的なもので、簡単な話し合いがされた程度のものとも解され、したがって、喫茶店での謀議の有無はさほど重要ではなかったと判断したものであり、右判断は、河田町アジトでの謀議については両名が一貫して供述すること、内藤が、攻撃対象及び方法についての具体的な話し合いは河田町アジトでなされた旨一貫して供述し、喫茶店での謀議の際には機動隊に爆弾攻撃をするという程度の話に止まった旨供述することに照らせば、不合理とはいえない。さらに、前記(二)の(3)及び(4)で述べたとおり、検察官は増渕及び村松の自白には容易に信用できない点が多々あると判断していたことに照らせば、取調官が増渕及び村松の供述を基にして前原あるいは内藤にその事実を押しつけ、これを認めさせるなどの違法な取調べをしたものとは認め難い。

したがって、検察官が、一〇月二三日午後まず喫茶店エイトで増渕、原告、前原、内藤らが八・九機事件の謀議をし、次いで、同日夜河田町アジトにおいて増渕、村松、原告、前原、内藤らが再び謀議を行ったと判断したことが不合理であるとは言えない。

<2> 謀議の内容

<証拠略>によれば、八・九機に対する攻撃方法について、内藤の自白には「横の方からの侵入」ないし「横からの攻撃」に強く固執する傾向がみられること、村松が河田町アジトにおける謀議の席上、「自転車を使用して爆弾を投げるとか、自動車を使用する等の話が出て、正面から投げるとか、裏から回って投げるという話になった」などと種々の攻撃方法の話が出たと供述したことが認められる。検察官は、右村松供述に照らすと、「横からの攻撃」も攻撃方法の一つとして話し合われたものの、その後それが正門への攻撃に固まっていったものと心証を取った上、内藤が右経過を詳細に供述しないこと及び前原がこの点につき供述しないことは年月の経過による記憶の脱落のためと考えられ、内藤及び前原の供述の信用性が否定されるとはいえないと判断したものであり、右判断が不合理であるとはいえない。

八・九機事件に使用する爆弾について、<証拠略>によれば、内藤が、三月七日付け員面調書で、犯行前日の謀議の際、一〇月二一日に東薬大で製造された爆弾を使用すると聞いた旨供述したこと、一〇月二一日に東薬大で製造された爆弾は鉄パイプ爆弾であったことが認められる。内藤が客観的事実に反する供述をした点について、検察官は、内藤が、自己がピース缶爆弾の製造に参加したことを秘匿するため、殊更虚偽の供述をしたものと判断したものであり、<証拠略>によれば、内藤が三月一〇日に製造事件への関与の自白を始めたことが認められることに照らせば、右判断が不合理であるとはいえない。

また、<証拠略>によれば、前原が、河田町における謀議の際、ピース缶爆弾二個をその場にいた者に見せた旨供述したことが認められるのに対し、内藤はこの点を供述しない。この点について、検察官は、前原の供述によって、内藤が、八・九機攻撃に使用する爆弾が自己らの製造に係るもので、一〇・二一闘争で使用されずに持ち帰られたことを知っていたと認定している。内藤がこの点を供述しないからといって、直ちに供述の信用性を否定的に解すべきとはいえない上に、内藤が製造事件発覚につながる供述を避けたとの考え方も成り立ちうるのであって、前原と内藤の供述が一致しないことが両者の供述の信用性を否定し去るものとはいえない。

<3> 増渕の参加の有無

前記<1>で述べたように、前原は自白の当初から八・九機への爆弾攻撃を提起したのは増渕である旨一貫して供述していたが、一方、内藤は、最終的にはほぼ同様の供述をするに至るが、当初は、村松から八・九機への攻撃が提起された、八・九機攻撃の話が出た際、増渕はいなかったと思う旨供述していた。内藤が当初増渕の参加を否定していた点について、検察官は、内藤が当初記憶を十分喚起できなかったためであると判断したものであるが、<証拠略>によれば、内藤が、二月二八日、弁護人と接見した後に、増渕の主導的役割を具体的に供述したこと、東京地裁刑事八部における自己の第三回公判でも、増渕が謀議に参加した旨述べていることが認められるのであって、右事実に照らせば、内藤は当初、記憶を喚起できなかったが、後に記憶を喚起できたとする検察官の判断が不合理であるとはいえない。

<4> 導火線燃焼実験

<証拠略>によれば、前原及び内藤が、犯行当日の夜河田町アジトで八・九機攻撃の謀議をした際、導火線の燃焼速度を測る実験をした旨供述したことが認められる。

<証拠略>によれば、佐古、前原及び村松が、増渕らはピース缶爆弾製造謀議の際にも、導火線の燃焼実験を行った旨供述したことが認められる。右供述によれば、八・九機実行に際して再び同様の実験を行ったことになり、それは不自然ではないかという見方ができなくもない(特に、前原は八・九機及び製造の両方について実験をした旨供述する。)。この点、<証拠略>によれば、検察官が、製造時には、被告人らが自らこれに点火・使用するかどうか決めていなかったので、導火線の燃焼実験も、一般的に導火線をどの程度の長さにすれば良いかの観点で行い、その結果にしたがって製造したものと考えたこと、その後、右爆弾を被告人ら自ら点火・投てきすることに決したところから、導火線の燃焼速度を的確に把握することが犯行の成否にとどまらず、自己らの安全に係る切実な問題となったのであるから再度念を入れて実験するのは誠に自然な心理であり、かつ、当然の行動というべきだと判断したこと(前原の四月六日検面調書参照)が認められ、自ら爆弾を使用するに際し、再度入念な実験を行うことがおよそありえないと断定できるものでもなく、燃焼実験に参加したとされる者の大多数が詳細で、迫真性に富んだ自白をしていたことをも併せ考えると、検察官の右判断を不合理とまでいうことはできない。

<証拠略>によれば、導火線は、これに点火して燃焼させた場合、その火が端末まで達すると、端末から炎が吹き出すこと、右火吹きの強さはJIS規格により五〇ミリメートル離れた別の導火線に点火させるものであることが必要とされていることが認められる。前原及び内藤は、右火吹き現象について全く供述しないが、前原らは、燃焼速度を実験するのが目的だったのであるから、右供述がないことをもって、前原らの供述全体の信用性に疑問を差し挟まなかった検察官の判断が不合理であるということはできない。

また、<証拠略>によれば、内藤が、誰かが和紙をより合わせたようなひも状のものの端をぶら下げる形で持ち(手で直接ではないと思う。)下から火をつけた旨供述したことが認められる、右のように内藤が燃焼実験の最初の自白において線香花火の点火を思わせるようなイメージの供述をした点については、内藤が自ら担当した行為に関する供述ではないこと、前記(二)の(2)で述べたように、検察官が、内藤の供述には細部に若干の記憶違い、混同等があっても、大筋において信用するに値するものと判断していたことに照らせば、右供述をさほど重視せず、右供述を根拠に供述全体の信用性を否定的に解しなかった検察官の判断が不合理であるとまではいえない。

なお、原告は、本件起訴当時に、導火線燃焼実験に関する供述の不自然さに照らし、燃焼の仕方についてより慎重な裏付け捜査をすべきであった旨主張する。しかし、右に述べたとおり検察官の右実験が再度繰り返されたとの判断が必ずしも不合理とはいえない上、燃焼実験に関する供述内容には具体性、迫真性があり、自ら体験した事柄についての供述と考えても特段不自然な点はない内容だったのであるから、より一層慎重に信用性の吟味や裏付け捜査をしなかったからといって、検察官の判断が不合理であるとはいえない。

<証拠略>によれば、前原が八・九機事件に係るピース缶爆弾の写真の呈示を受けた際、導火線が点火したことにより短くなったのではないかと供述したことが認められる。導火線は中の芯薬だけが燃えるのであって、被覆線自体は燃焼せず、したがって、導火線を燃焼させた前後において、導火線の外形的な長さには別段変化がないことからすると、右供述は、導火線燃焼実験を行った者の供述としては不自然であるともいえるものであるが、右供述は導火線の長さの印象に関する理由づけにすぎないものであるから、検察官が導火線の燃焼に関する右問題点を重視しなかったことが不合理であるとまではいえない。

(4) 関連事項

<1> 佐古供述との関連

<証拠略>によれば、一月一六日、佐古がアメ文事件を自白していたこと、同日、前原が佐古による一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰りに関する供述をしたこと、同月一七日、佐古が、一〇月二八日再び上京し、翌二九日河田町アジトに行くと、前原がおり、前原に一〇・二一に持ち帰った爆弾二個の行方を尋ねると、八・九機の方を指して「爆弾の一発は花園に言われ、俺と青山(原告の組織名)でやったんだ。やった時職質されそうになり、近くに住んでいる村松も職質されたりした」旨前原が話してくれた(前原発言)と供述したこと、右前原発言を基に取調官が前原を取り調べたところ、前原が取調べ開始後間もなく八・九機事件への関与を自白したこと、前原自白の内容は、村松に指示されて原告と八機の警備状況を下見し、村松に報告したというものであることが認められる。

右に認定したとおり、佐古の供述する前原発言と前原の供述内容には差異があり、前原発言は佐古の検面調書に録取されていない。しかし、右差異をもって、検察官が、前原発言の真実性を疑わなかったことが不合理な判断であるとはいえないし、前原発言が佐古の検面調書に録取されていないことのみをもって、既に検察官取調べの段階で取調べ検察官が前原発言を信用しなかったものと推認するには足りない。

一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰りに関する佐古、国井アリバイについては、<証拠略>によれば、佐古が、爆弾を投棄した後、渋谷の喫茶店に行き、それから兄のアパートに帰った旨供述したこと(昭和四七年一一月一七日員面調書)が認められる。しかし、右供述はその後変更され、爆弾を投棄せずに持ち帰ったことを隠匿するために殊更虚偽を述べたものと判断されていたのであるから(供述変更に至る過程に違法な取調べが介在しなかったことは既に述べたとおりである。)、本件起訴当時、右アリバイの主張があったとは言いがたい。<証拠略>によれば、五部判決も、佐古アリバイの成立が決定的であるとすることはできないとし、アリバイの成立を認めていない。

一方、<証拠略>によれば、五部判決が国井アリバイの成立の蓋然性は極めて高いと判断したことが認められる。しかし、本件起訴当時、国井は国外に居留していたので、国井の供述を得ることは事実上不可能であったし、国井アリバイの裏付け証拠である国井啓子の供述及び国井啓子作成のポケット新日記の入手も、具体的なアリバイ主張がない段階では、事実上困難であった。したがって、国井が一〇月二一日夜、自宅に帰宅したという主張自体、検察官が起訴当時に考慮すべきであったとはいえない。

このように、本件起訴当時、佐古、国井アリバイを検察官が考慮すべきであったとはいえない上、五部判決においても右両名のアリバイの成立は認められておらず、本件訴訟において改めて関係証拠を検討しても、右アリバイの成立を認めるに足りる証拠はない。したがって、右アリバイの成立を前提とする原告の主張は理由がない。

右認定事実によれば、検察官が佐古の供述する「一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰り」自体の実在性を否定的に解しなかったからといって、その判断が不合理であるとはいえない。そして、刑事公判廷に顕出された関係各証拠に照らせば、起訴の時点までに、中野坂上事件の関係記録を参照して一〇・二一にピース缶爆弾が赤軍派によって持ち込まれた経緯に至るまで検討する必要があったものとはいえない。

<2> 増渕及び内藤のアリバイ

<証拠略>によれば、増渕及び内藤が八・九機事件のアリバイについて、以下のとおり供述していたことが認められる。

増渕は、一〇月二四日ころ、東薬大から平野宅に運びこまれてあった火炎瓶を江口方に運んだことがあり(一月二六日員面調書)、また、二五日ころに運んだとも供述する(二月二五日付けメモ)。

内藤は、一〇月二三日から三日間にわたり、朝六時ころ、火炎瓶を東薬大から平野方へ搬出した旨供述する(一月一二日員面調書、二月六日員面調書及び同月一八日員面調書)。

右供述内容にあるように、両名のアリバイ主張は内容に齟齬があり、必ずしも明確でなく、そのこと自体、成立に疑念を抱かせるものであり、五部判決は、一〇月下旬のある一日の夕方から夜間にかけて、二回にわたり、火炎瓶を平野方から江口方に搬出したことを認めたにとどまり、右両名のアリバイの成立を認めてはいない。本件訴訟において改めて関係証拠を検討しても、右アリバイの成立を認めるに足りる証拠はない。したがって、右アリバイの成立あるいは成立の蓋然性を前提とする原告の主張は理由がない。

(四) 村松及び増渕の自白に関する検察官の評価の違法性

村松及び増渕の自白に関する検察官の前記(二)の(3)及び(4)の評価が不合理であるとはいえないことについては、前記(三)において検討したところから明らかである。

(五) 福ちゃん荘事件証拠との関連

原告は、検察官が福ちゃん荘事件関係記録証拠を十分に検討し、赤軍派関係者からも事情聴取すべきであった旨主張する。確かに、<証拠略>によれば、一審公判審理段階において、赤軍派の若宮正則が自分が投てき犯人である旨証言したこと、赤軍派の古川経生及び荒木久義が右証言を補完する旨の証言をしたことが認められる。しかし、昭和四八年当時、赤軍派関係者から同趣旨の証言が得られた可能性は必ずしも高くない上、刑事公判廷に顕出された関係各証拠に照らせば、起訴前に右の者らに供述を求める必要があったとはいい難い。したがって、検察官が、赤軍派関係者の取調べを行わなかったことが違法であるということはできない。

(六) 結論

以上のとおり、検察官が、原告について八・九機事件につき公訴を提起するに当たり行った判断が不合理であるということはできず、したがって、右公訴の提起に違法性を認めることはできない。

3 製造事件起訴の違法性(原告の主張2の(五))

(一) 客観的事実との関連

一連のピース缶爆弾事件とL研グループとの関係を否定し、あるいは被疑者及び被告人らの各自白に反する客観的事実として原告が主張する事項(原告の主張2の(五)の(1))については、まず次の二項目を検討し、その余の事項については後記(二)の中で検討することとする。

(1) 石井アリバイ

前記一の4の(三)で述べたように、石井が捜査段階でアリバイを積極主張した形跡がない上、自身の公判廷並びに五部及び九部における証人尋問でさえアリバイを積極的に主張しておらず、石井が捜査段階で概ね自白していたことに照らせば、製造事件の起訴前に石井のアリバイについて捜査をする必要性があったものということはできない。

また、前記一の4の(三)の(2)及び(4)認定の事実によれば、捜査機関は、本件捜査当時、石井の勤務状況を犯行日時を特定するための一つの裏付け証拠として把握していたのであって、犯行日の特定に関して複数存する裏付け手段のうちの選択肢の一つに過ぎないと考えていたものである。捜査機関は右観点から石井の勤務先組合における裏付け捜査を行ったのであって、任意で協力を求めた勤務先で石井の勤務の事実さえ分からない旨の回答があった以上、捜査機関は必要な捜査を尽くしており、被告親崎がさらに入念、慎重な捜査をするよう指示しなかったからといって、それが違法であるということはできない。

このような捜査状況にあった以上、検察官が石井アリバイの存在を検討することなく製造事件の公訴を提起したことが違法であるということはできない。

(2) ミナミ及びエイトの休業日に関する裏付け捜査

前記一の4の(四)で述べたように、石井アリバイが出現していない起訴前の捜査段階においては、ミナミ及びエイトの休業日を裏付け捜査しても、製造事件の犯行日の特定にほとんど意味を持たなかったのであるから、検察官がこの点について明確な裏付けをしないまま製造事件の公訴を提起したことが違法であるということはできない。

(二) 製造事件の被疑者らの自白の吟味

(1) 謀議

<1> 謀議の場所及び参加者

<証拠略>によれば、喫茶店ミナミでの謀議について、増渕及び村松が以下のとおり供述したことが認められる。

(増渕)増渕、村松、原告が参加。村松と原告を早稲田アジトに材料を取りに行かせた。

(村松)増渕、村松、原告、前原、堀が参加(佐古もいたと思う)。増渕の指示で原告と早稲田アジトに行き、新聞紙に包まれた物を受け取る。

<証拠略>によれば、被告親崎は、増渕及び村松が、原告を含めて喫茶店ミナミで話し合い、そこから村松と原告が早稲田アジトへダイナマイト等を取りに行った旨の一致した供述をしていたことから、右謀議の存在を認定できると判断したことが認められる。

<証拠略>によれば、住吉町アジトでの謀議に関連して、前原及び村松が以下のとおり供述したことが認められる。

(前原)増渕、村松、原告、石井、佐古、菊井、前原が参加

(村松)増渕、村松、佐古、前原、石井で導火線燃焼実験を行う。

<証拠略>によれば、被告親崎は、住吉町アジトで導火線燃焼実験をしたことやその参加メンバーについて前原と村松の供述が一致し、同アジトで導火線燃焼実験を行った以上、その際に参加した者達の間でピース缶爆弾製造に関する話し合いが持たれたことは経験則に照らして当然のことと推認されたので、前原のこの点に関する供述の信用性は高く、右謀議存在の可能性も高いものと判断したことが認められる。

<証拠略>によれば、若松町アジトでの謀議について、佐古が、増渕、村松、前原、原告、菊井、国井、石井及び佐古が参加した、河田町アジトだったかもしれないと供述したことが認められる。

<証拠略>によれば、被告親崎は、若松町アジトへのL研の主要メンバーの集合という事象自体が当時日常的にしばしば行われていたと推測された上、佐古が後に河田町アジトであったかもしれないと供述していることや、住吉町アジトでの導火線燃焼実験に際しての話し合いと並列的に供述していることからみて、住吉町アジトでの謀議に比して確たる心証を得るには至らないと判断したことが認められる。

<証拠略>によれば、被告親崎は、右のような検討の末、起訴時においては、喫茶店ミナミで増渕、村松及び原告が、住吉町アジトで前原、佐古、増渕、村松及び石井が各謀議したものと証拠上認定できると判断したこと、原告については、住吉町アジトでの謀議に参加していたと断定はできなかったものの、右に述べた増渕及び村松の各供述により、少なくとも喫茶店ミナミから早稲田アジトにダイナマイト等の爆弾材料を受け取りに行った事実が明らかに認められたことから、増渕らと原告との間に論理則上、ピース缶爆弾製造について事前の意思疎通があったことは推認できると判断したことが認められる。

そして、謀議の場所や参加メンバーについて各被疑者間の供述に一致をみなかったことについて、<証拠略>によれば、被告親崎が、製造事件当時の状況をみると、L研及び社研のメンバーは、増渕の唱導する武装闘争、暴力革命主義に同調し、L研は赤軍派と共闘しており、しかも、佐藤首相訪米阻止闘争を目前に控えていたことから、爆弾の製造は従来の闘争方針に沿うものであること、したがって、増渕の爆弾製造の提案は、L研及び社研メンバーにとっては当然のこととして受け取られていたこと、しかも、本件で集合したメンバーは平素から親交があり、集合という事象自体は当時日常的にしばしば行われ、各アジト及びその付近の喫茶店などは右メンバーが共通して出入りしていたことから、謀議の場所、内容及び参加メンバー等の印象が薄いものにとどまったと考えられたこと、各人のその時々の立場、関心によって受け止め方が異なること、これに加え、約三年半の日時の経過があったことを考慮すると、多数回のそれぞれの集合日時、場所、参加者の氏名や席上での話題等については、供述が完全に一致する方がむしろ信用性に疑問が残るのであって、記憶の混同、忘失を生じ、容易に記憶が蘇らないことがあっても何ら不自然ではないと思われたこと、したがって、この点についての供述不一致は、各人の供述全体の信用性を左右するようなものではないと判断したことが認められる。

また、被疑者間において同じような内容の謀議が繰り返されたとの点について、被告親崎は、爆弾製造に関する話し合いは、その性質上、根回し的なものや確認的なもの等各般にわたるものであるから、謀議的行為が数回行われたからといって、一概に不自然とはいえないと考えた。そして謀議の内容についての供述も、各人それぞれ、その時々の立場、関心等によって自ずからニュアンスが異なるのは当然であることから、複数回の謀議内容を混同し、あるいは一括して記憶していることもあり得ないことではないと思料されることから、この点についても、各人の供述全体の信用性を揺るがすものではないと判断した。

同一の事柄について共犯者の供述が区々に分かれることは、供述の信用性に疑問を抱かせる要因となりうるものであるが、そのことから直ちに供述の信用性が失われるものではなく、供述が一致しない原因をさらに探究して信用性を吟味する必要がある。右認定事実によれば、検察官は右観点からさらに各供述の信用性を吟味検討して、右矛盾点があっても各人の供述全体の信用性は左右されないと判断したのであって、検察官の行った右信用性の判断が不合理な判断であるとはいえない。

<2> 製造の契機(早大正門前集結と佐古自白)

<証拠略>によれば、佐古が製造の契機として、一〇月一四日か一五日ころの夜八時ころ、赤軍派とともに、L研メンバー六名位と東薬大社研の平野が早大正門前に集結し、機動隊を攻撃しようとしたが、赤軍派が用意する予定の火炎瓶が届かず、失敗に帰した旨、その夜、若松町アジトに集まり、増渕を交えて総括した結果、赤軍派に武器を頼っていては闘い抜けない、爆弾材料は入手済みであるので爆弾を作ろうとの提起がなされ、翌日の若松町アジト及び住吉町アジト謀議を経て製造に至った(早大正門前集結が大きな節目となって製造謀議に至った)旨供述したこと、前原、村松及び増渕は右早大正門前集結について供述していないことが認められる。

この点、被告親崎は、前原が早大正門集結について述べないのは、<証拠略>によれば、早大正門前集結が赤軍派との共闘であり、かつ現場に赤軍派の者がかなりいた旨佐古が供述すること、前原が一〇・二一闘争に向けて赤軍派との連絡役を務めたことが認められることに照らし(なお、<証拠略>によれば、前原は公判廷(<略>)でもこのことを認めている。)、赤軍派との連絡役である前原が同派のメンバーの氏名を秘匿する必要があったためと判断したものである。また、被告親崎は、増渕及び村松が右集結を供述しないのは、その供述態度から右集結を秘匿しているためであると認め、さらに、佐古は、右集結の日時やこれに参加したL研メンバーについて特定するに足りるだけの確たる証拠があって供述したものではないと考えられ、以上の検討から、右集結の日時、参加メンバーこそ明確でないものの、集結の事実自体は存したことが明らかであると判断したものである。

検察官は、右のとおり、早大正門前集結が実際にあったものと判断しており、また、佐古は右集結が製造の契機となったという独特の供述をしているが、検察官は、右集結を製造の動機として捉えるよりも、むしろ製造日時特定の一資料として捉えたにすぎず、製造事件において何らかの重要な意味を持つ事項とは理解しなかったものであり、さらに、右に述べたように前原、増渕及び村松は右集結を殊更秘匿しているものと判断されていたことに照らせば、佐古のみが供述することに特段の不自然さはなく、佐古のみが早大正門前集結を製造の契機として供述することから、佐古供述の信用性を疑わなかったからといって、検察官の判断が不合理であるとはいえない。

<3> 謀議の内容(製造目的と使用主体)

<証拠略>によれば、佐古がピース缶爆弾の製造目的及び使用主体について、以下のとおり供述したことが認められる。

(二月一三日員面調書)早大正門前集結の失敗に基づくL研独自の爆弾製造

(二月一五日員面調書)右に同じ。ただし、爆弾が出来上がったら一応赤軍派に渡しておく旨謀議

(三月九日員面調書)右に同じ。さらに、謀議の過程においては、今後は製造する者と使用する者を分けていく必要がある。東薬大の連中に製造させ、我々が使用しようとの話も出る。

(同日員面調書)完成した爆弾は赤軍派に渡すという話が謀議の段階で出ていた。

(同月二六日検面調書)早大正門前集結の失敗に基づくL研独自の爆弾製造。製造後、増渕が新宿署を襲撃する兵士に渡すといって、爆弾を河田町アジトから搬出した。

(同月三〇日検面調書)一〇・二一の赤軍派の新宿署襲撃に使用する武器として爆弾製造。

検察官が右供述の変遷から佐古自白の信用性に疑問を抱かなかったことについて、当時L研と赤軍派は共闘関係にあり、L研を主とするか、赤軍派を主とするかは、重点の置き方の差異とも見られたものであって、この点を重視しなかったとしても、右判断が不合理であるとはいえない。

<4> 導火線燃焼実験

<証拠略>によれば、佐古、前原及び村松の導火線燃焼実験に関する供述は以下のとおりである。

(佐古)増渕、村松、佐古、前原、石井が参加。河田町アジトにピースの空缶を運んだ後、午後二時ころ、住吉町アジトに行った。燃焼実験とともに、製造の任務分担の打合せも行った。点火役は自分。使用した導火線の長さは一〇センチくらい(三月二六日検面調書)。(二月一五日員面調書では、午後七時ころから謀議と実験を行った、点火役は自分と前原の二人くらいだったと思う旨供述。三月九日員面調書では、河田町アジトへ各人が爆弾材料を搬入した後、午後二時ころ、住吉町アジトに行った、菊井がいたと思うがはっきりしない。国井・原告は遅れて来たか来なかったかはっきりしない旨供述。)

(前原)増渕、村松、佐古、前原、石井、菊井、原告が参加。午後一時ころから住吉町アジトで謀議をした後、燃焼実験を行った。点火役は村松と自分。使用した導火線の長さは一〇センチくらい(三月一六日検面調書、同月二八日検面調書、同月九日員面調書、同月一一日員面調書)。

(村松)増渕、村松、佐古、前原、石井が参加。河田町アジトへ各人が爆弾材料を搬入した後、午後七時ころ、住吉町アジトに行った。謀議はしていない。点火役は自分と前原。使用した導火線の長さは一〇センチメートル位、七センチメートル位及び五センチメートル位の三種類(三月二四日検面調書、同月一八日員面調書)。

<証拠略>によれば、被告親崎は、右燃焼実験に関する佐古、前原及び村松の供述は、L研主要メンバーが一堂に会して右実験を行ったとする特異な事象についての具体的供述として、その信用性を高く評価できるものであり、とりわけ、これまで極力具体的な供述を避けていた村松が、自分と石井が住んでいた住吉町アジトで右実験を行ったことを認める具体的な供述をしたこと(三月二四日検面調書、同月一八日員面調書)は、重要な意義のあることであって、基本的に信用することができると判断したことが認められる。右判断は、佐古及び前原の導火線燃焼実験に関する供述が、その大筋において合致しており、年月の経過による記憶の希薄化を考えると、細かい事項についての供述の齟齬を重視するのは相当でないこと、検察官は、村松の供述が、その個々の事項に関する限り、必ずしも全面的には措信し難いと判断していたことに照らせば、供述の細部に食い違いがあることをもって、佐古及び前原の供述の信用性を否定しなかった検察官の判断が不合理であるとはいえない。

また、前記<1>で述べたように、検察官が、住吉町アジトで謀議があったと判断したことが不合理であるとはいえず、また、住吉町アジトでの会話内容等についての供述の相違は、各人の記憶の程度、受け取り方の違い、本件への参加に至る経緯の違い、さらには供述態度、立場の相違等によるものとした検察官の右判断が不合理であるとはいえず、したがって、右供述の不一致を理由に検察官が右燃焼実験の存在に強い疑念を抱かなかったことが不合理であるとはいえない。

(2) 製造日時(謀議日時を含む)

<1> 製造日時の不特定

<証拠略>によれば、製造日時について、各人が次のとおり供述する。

(佐古)一四日か一五日に早大正門前に集結し、翌日、若松町アジトで謀議し、河田町アジトに爆弾の材料を運び込み、住吉町アジトで導火線燃焼実験を行い、その翌日の一六日か一七日ころ製造した(三月二六日検面調書)。一五日ころに早大正門前に集結し、翌日、河田町アジトに爆弾の材料を運び込み、住吉町アジトで導火線燃焼実験を行い、その翌日、製造した。したがって製造日は一七日ころと思う(三月三〇日検面調書)。

(前原)一二日から一四日ころまでの間にL研メンバーが集まって雑談した時に、「L研で爆弾を造ろう」という話が出て、一五日ころ、住吉町アジトで謀議をして一七日ころ製造(三月一六日検面調書)。製造日は一六日か一七日である。家計簿によると一五日は下宿に帰っていたので製造日は一五日ではない(同月二八日検面調書)。

(村松)製造日の翌日、前田が住吉町の居宅に泊まり、その翌日、前田とプロレスのテレビを見た覚えがある。プロレスは一七日(金曜日)の放送だから、製造日は一五日ころである(三月二四日検面調書)。

(増渕)一六日に謀議し、一七日に製造した。

(内藤)大学の時間割を参考にして、製造日は一五日か一六日の可能性が強い。

(石井)製造日は一七日か一八日ころと思うが、日を特定する根拠は別にない。あるいは一六日ころだったかもしれない(四月三日検面調書)。

(江口)一〇・二一闘争の直前ころ製造。

<証拠略>によれば、勾留状では製造日が一七日ころとされていたこと、各人の供述中に日時を完全に特定できるような基準となる出来事は存しなかったこと(佐古が日時特定の基準とする早大正門前集結についても、佐古の確たる記憶に基づいて日時が特定されているとはいえず、現に、<証拠略>によれば、佐古が、公判廷において、「早稲田正門前集結は一五日夜ではない。集結の記憶は間違いなくある」と供述したことが認められる。)、被告親崎が製造事件起訴に当たり、製造日時を「一〇月一六日ころ」と特定したことが認められる。日時に関する記憶は三年もの年月が経過するとかなり希薄になることは経験則上明らかであること、製造事件に関与したとされた者が江口のほかはいずれも学園紛争中の学生であって、昼夜とも自由な時間が多いことを併せ考えると、検察官が、関係証拠を検討して可能な限り日時の特定に努め、「一六日ころ」として公訴を提起したことを不合理であるということはできない。また、右に述べた日時特定の困難性に照らせば、日時について一致した供述がないからといって、検察官が供述の信用性に疑問を抱かなかったことが不合理であるということはできない。

<2> 石井、江口及び平野アリバイ並びにミナミ及びエイトの休業日

前記(一)で述べたように、石井アリバイ及びミナミ及びエイトの休業日を理由に製造事件起訴が違法であるということはできない。

原告主張の江口アリバイについては、起訴当時、アリバイ主張があったことを認めるに足りる証拠がなく、また、<証拠略>によれば、五部判決も一〇月九日及び一五日についてしか成立を認めなかったことが認められる。また平野アリバイについては、<証拠略>によれば、五部判決においてさえ成立を認めていない。したがって、右各アリバイ成立を前提とする原告の主張は理由がない。

<3> 京都公安調査局事件との関連について

<証拠略>によれば、京都公安調査局事件が昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ころ発生したこと、右事件で使用された爆弾の火薬の種類を推定すると、塩素酸塩、硫黄を使った爆薬使用の可能性があり、また、ダイナマイトその他ニトロ化合物を主とする爆薬、黒色火薬などを使用した疑いがある旨、また、ピースの空缶を使用した爆弾である旨同年一一月二五日に鑑定されたこと、昭和四八年三月一六日、被告堀内から京都府警に対し、京都公安調査局事件についての照会があり、京都府警が、右事件に係る爆弾にはピース缶が使用されていること、パチンコ玉にSGCの刻印があること、アナキストグループの仕業という捜査情報を得ていることを回答したことが認められる。したがって、本件起訴当時、京都公安調査局事件において使用され、爆発した爆弾が八・九機事件及びアメ文事件等に係るピース缶爆弾と類似の物であることが判明していたものの、犯人は特定されていなかったものである。

そして<証拠略>によれば、村橋、三潴及び杉本の京都公安調査局事件に関する調書が作成されたのは、昭和四九年九月三〇日から同年一一月八日までの間であり、京都公安調査局事件の犯人が逮捕され、使用された爆弾の入手時期及び残された爆弾の琵琶湖への投棄等が判明したのは、昭和四九年一〇月以降のことであることが認められる。したがって、製造事件起訴当時には、京都公安調査局事件の関係証拠を検討しても、右事件の発生日時しか、本件製造日時を特定する資料は見いだせなかったものであり、東京・京都間の搬送時間を考慮しても、昭和四四年一〇月一七日夕刻までに本件ピース缶爆弾が製造されたとしか判断できなかったものである。したがって、各自白及びそれに基づく被告親崎のなした「一六日ころ」との特定は、起訴当時の証拠資料に照らせば、不合理な判断であるということはできない。

ところで、<証拠略>によれば、本件起訴当時、一連のピース缶爆弾事件について、押収されたピース缶爆弾の鑑定がなされていたこと、アメ文事件のピース缶爆弾を除くその余のピース缶爆弾一一個は、同一の形状及び構造と推認されること、アメ文事件のものを含む一二個の爆弾には、いずれも「SGC」という刻印のあるパチンコ玉が充填されていることが認められる。右鑑定結果に照らせば、各ピース缶爆弾は同一グループが製造したとの見方もできる。しかし、<証拠略>によれば、被告親崎を始めとする捜査当局は、本件ピース缶爆弾事件等と京都公安調査局事件とが必然的に結びつく事件ではないと判断したこと、本件ピース缶爆弾は、材料及び形状等は極めて類似しているものの、製造に特別の知識能力を要するものでもないこと、京都公安調査局事件に係るピース缶爆弾は爆発しているので、形状が自明のものではないことが認められ、右認定事実によれば、捜査当局の右判断が不合理とまではいえない。したがって、京都公安調査局事件と本件ピース缶爆弾事件とが必然的に結びつくという前提で捜査し、起訴不起訴を決しなかったことが不合理な判断であるということはできない。

(3) 製造参加者

<1> 自白の合理性の欠如(爆弾製造の密行性等)について

<証拠略>によれば、本件製造に参加したメンバーについての各人の供述は次のとおりである。

(佐古)増渕、村松、佐古、前原、原告、平野、江口、前林、堀、内藤、菊井、国井、石井(三月二六日検面調書及び同月三〇日検面調書)

(前原)増渕、村松、佐古、前原、原告、平野、江口、前林、菊井、石井。内藤、堀もいたと思うが、はっきりしない。国井、元山、富岡は参加せず。(三月二八日検面調書)

(村松)増渕、村松、佐古、前原、原告、江口、前林、堀、内藤。国井、菊井もいたと思うが、はっきりしない。石井の行動はわからない(三月二四日検面調書)。(なお、原告起訴後の四月一一日検面調書(<証拠略>)では、菊井、平野、石井はいなかったと思う旨供述する。)

(増渕)増渕、村松、佐古、前原、原告、江口、前林、堀、内藤、国井、石井(三月二三日検面調書)。(なお、原告起訴後の四月一四日検面調書(<証拠略>)では、平野も参加したように思うが、はっきりしない旨、供述する。)

(内藤)増渕、村松、佐古、前原、原告、江口、前林、堀、内藤、菊井、国井、石井。富岡、元山については、はっきりしない(三月一九日検面調書及び同月二三日検面調書)。

(石井)増渕、佐古、前原、原告、平野、江口、内藤、石井、富岡、元山。国井はレポをしていたと思うが、見ていない。村松も河田町アジトでは見ていない。堀、前林も見ていないが、参加していたかどうかは分からない(四月三日検面調書)。

右に認定したとおり、参加メンバーについて各人の供述には多くの不一致がある。この点、<証拠略>によれば、被告親崎は、右不一致が組織の末端に位置するとみられる者や供述がされた当時未検挙であった者についてみられ、L研の組織的犯行であれば当然参加してしかるべきと思料される主要メンバーについては、各被疑者の供述相互間に不一致がなく、各被疑者毎にみれば、本件製造に参加したメンバーについての供述の変遷もさして大きなものではなかった点に特に注目したことが認められる。右供述の対象となったのは約三年半前の出来事であること及び参加メンバーが少なくはないことからして、記憶の混同、忘却が起きていても不自然ではないこと並びに未検挙の者を庇う目的等から真実を述べないことも十分ありうることに照らせば、被告親崎の右判断が不合理であるとはいえない。

<証拠略>によれば、被告親崎は、右視点を前提に、各被疑者が供述する参加者相互の具体的な接触状況等を基礎に慎重に検討した結果、本件製造に参加したメンバーは、増渕、村松、佐古、前原、原告、堀、前林、江口、菊井、国井、石井、平野及び内藤であると認定したことが認められる。爆弾製造が密行性を強く求められる行為であることからすると、製造行為に一三名もの者が参加したとする右参加者の認定が不自然ではないかという問題がある。また、<証拠略>によれば、河田町アジトは単なる間借りであって、玄関を家主と共通にしており、その広さは四畳半と二畳の続き間で、当時、右アジトに置かれていた長机、本棚等の占めるスペースを除けば、実質は五・五畳程度に過ぎず、その上、家主の使用する部屋との境は壁一枚、一部は襖一枚で仕切られていたにすぎないことが認められ、このような場所が爆弾製造に選定されるのは不自然ではないかという問題もある。

この点、<証拠略>によれば、被告親崎は、本件十数個の爆弾の製造にはかなりの手数がかかり、レポ要員を除き、被疑者らの述べる九名くらいで製造しても約四時間を要し、仮にこれを四ないし五名で行えば、それ以上の相当長時間を要したものと考えたこと、被疑者らにおいては、「製造に関与した者が、発覚の危険を少なくなすため、できる限り短時間で作業を終わらせることを意図していた」、「作業に際し家主がいるので、作業中の話し声も小さくし、努めて世間話をし、他から察せられないように気をつかった」、「多くの者が部屋の中にいることを家主にも察せられないために履物を部屋の中にいれておいた」旨供述したこと、被告親崎は、被疑者らの右供述に照らし、秘密保持の面から小人数であることが好ましいとはいえ、本件では数名が見張りやレポをしているのであって、被疑者らが述べる人数が不必要であったと断定することができず、その供述内容が不自然であるとは考えなかったことが認められる。そして、<証拠略>によれば、製造場所である河田町アジトは、その玄関の位置が、表通りから幅約一・三メートルの路地を約一七・七メートル入った袋小路沿いの民家内にあったことが認められ、対外部との関係では、爆弾製造に向いているとも言い得るものであり、他方、<証拠略>によれば、対内部との関係では、右アジトの家主らの家族も間借人である佐古らの行動に格別の関心を抱くことはなかった(右アジトの家主の家族は、「佐古らが居住していた時は人の出入りが多かったように思う。中で何をしているかはわからなかった。大勢集まったこともあったと思う。話し声はほとんど聞こえなかった」旨供述している。)ことが認められる。

右認定事実に基づいて考えると、製造途中に不意に発覚する恐れを少なくするため、参加人数を増やすことによって、出来るだけ早く製造作業を完了させようとしたり、爆弾製造に参加させることによって闘争意識を高めようとすることもありうるのであり、一方、レポ要員を除いて常駐は九名くらいで河田町アジトで本件製造行為を行うということが、現実にあり得ないと断言できる程不自然なことではない。そして、製造に参加したとされる者の大多数が多人数による製造を自白していたこと、当時のL研が活動を行う場合に河田町アジトを使用することは自然であることをも併せ考えると、河田町アジトで多人数が参加して製造行為を行ったとする被告親崎の判断が不合理であるということはできない。

また、原告は、平野の身体障害に関して主張する。しかし、右事情が、捜査段階においてどのように主張されたか定かでない上、平野が爆弾作業に参加したか否かの判断に当たり、特段支障を来す事情とまでは考え難く(平野の身体障害については、五部判決も触れないところである。)、また、右障害に関する供述がないからといって、当然に他の共犯者の自白の信用性に多大な疑問を投げかけるべきものともいえない。したがって、原告の右主張は理由がない。

なお、<証拠略>によれば、製造事件の起訴状には当初「被告人ほか数名」と記載されていたが、第一回公判において起訴状の訂正により「被告人ほか十数名」に訂正されたことが認められる。被告親崎はその本人尋問において、起訴当時から製造参加者を一三名と考えていた旨供述しており、第一回公判における起訴状の訂正の性質に照らせば、そのような起訴状の訂正ないし被告親崎の右供述が必ずしも不合理であるということはできない。

<2> 平野及び内藤が河田町アジトに来た状況について

<証拠略>によれば、製造当日、平野及び内藤が河田町アジトに来た状況について、佐古、内藤及び石井は以下のとおり供述する。

(佐古)爆弾の製造を開始して一時間位して後、レポとの連絡のため、外に出たところ、パン屋のところ(四月一日員面調書によれば、パン屋横の路地の中)で、平野と内藤が来るのに出会った。(三月三〇日検面調書)

(内藤)平野とともに河田町アジトに赴いたところ、同アジトの外あたり(四月二日員面調書によれば、佐古の居室の東側窓付近)で菊井と国井に会った(右員面調書によれば、さらに玄関前で佐古に会った。)。部屋に入った後、石井が入って来た。その後、増渕から説明があり、製造作業が始まった。(三月二八日検面調書)

(石井)佐古の指示でパン屋の角に立ってレポをしていると、午後一時ころ増渕が来て、その後間もなく平野と内藤が来た。(四月三日検面調書)

佐古と内藤の供述に不一致がある点について、佐古が昭和四八年三月三〇日に至って初めて、内藤及び平野の参加について供述したこと、右時点において、既に村松が内藤及び平野の爆弾製造行為への参加を認め、内藤もこれを認めていたこと、内藤らの行動についての佐古の供述が他の参加者についてのそれに比べて概略的な表現になっていること等に照らして、検察官は、佐古が当初は内藤及び平野を庇うつもりで供述せず、その後同人らの参加自体を認めたとしてもその行動については詳細にわたって記憶が明確であったわけではなかったため、供述の不一致が生じたものと判断したというのであり、右判断が不合理であるということはできない。

また、佐古、内藤及び石井の相互に会った場所についての供述に不一致がある点については、同人らは、製造当日午後一時ころに個々別々に河田町アジトに来ているのであって、事柄の性質上、その状況を正確に記憶していないとしても、それが不自然とはいえない。したがって、右相違が同人らの供述の信用性を左右するものではないと判断したことが不合理であるともいえない。

<3> 製造参加者に関する佐古供述の変遷について

<証拠略>によれば、佐古の製造参加者に関する供述は次のとおりである。

(二月一三日員面調書)増渕、村松、佐古、前原、堀。原告、国井らがいたかもしれないが、はっきりしない。計五名(ないし七名位)。東薬大メンバーは意識が低いので、秘密が漏れる心配があることから除外した。

(同月一五日員面調書)増渕、村松、佐古、前原、堀のほか石井が参加。計六名。

(三月九日員面調書)増渕、村松、佐古、前原、原告、江口、菊井、国井、石井。堀もいたかもしれない。計九名(ないし一〇名)。

(同月二六日検面調書)増渕、村松、佐古、前原、原告、江口、堀、菊井、国井、石井の計一〇名。前林はわからない。

(同月三〇日検面調書)平野、内藤、前林も参加。計一三名。

(四月一日員面調書)右に同じ。

右のとおり、佐古の供述する参加者は、次第に数を増し、当初五名(ないし七名位)と供述していたものが(もっとも、最大七名と限定した趣旨でもない。)、最終的には一三名と約二倍に達している。

検察官は、佐古の当初の供述が参加者を五名ないし七名に限定したものではないと理解したこと、しかも、佐古は、本件爆弾をL研として製造したということで自白を始めたところから、現実にもL研メンバーで製造の中心的な役割を果たした自己や、増渕、村松、前原、堀、原告及び国井の名前を参加者として挙げたことを自然な経緯と判断したというのであり、右判断が不合理であるということはできない。検察官は、当時佐古には、事案の性質上、犯行加担者をできるだけ限定しようとする意図があったことがうかがわれたこと、佐古が後に名前を挙げた者は、いずれもL研の正規のメンバーではない者(平野及び内藤は社研のメンバーである。)、結成当初からのメンバーではない者(江口、前林及び菊井)、L研の活動自体についてもまた製造事件の際の行動についても必ずしも積極的、重要な役割を果たしたとは認め難い者(石井、菊井、平野、内藤及び前林)等であることから、佐古において従属的なこれらの者を庇う気持ちがあったと判断したというのであり、右自白の過程に誘導、強制等の違法な取調べがあったとは認め難く、右過程を、参加者を過少に供述した佐古が次第に真実を供述していく過程と判断したことが不合理とまではいえない。

また、<証拠略>によれば、佐古が当初、平野及び内藤は参加しなかった、謀議の際、社研メンバーは闘争意識が低く、秘密が漏れる心配があることから製造メンバーに加えないことになった旨供述していたことが認められる。しかし、謀議の席上で右のような話が出たとするのは佐古のみであったこと、内藤が接見後に製造事件を自白し、内藤の参加は疑い得ないと判断されたことに照らし、佐古の右供述は、内藤及び平野を庇うために考えた口実であると判断することが不合理であるとまではいえない。

(4) 爆弾材料及び使用器具

<1> ダイナマイト、工業用雷管及び導火線

<証拠略>によれば、ダイナマイト、工業用雷管及び導火線の入手について、佐古、村松、増渕及び前原は以下のとおり供述する。

(佐古)謀議の際、増渕から村松と菊井に早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行くようにとの指示があった。製造当日、村松、石井、菊井が連れ立って河田町アジトに来た際、村松がダイナマイト、工業用雷管、導火線の入った紙袋を持って来た(三月二六日検面調書)

(村松)製造の前日、ミナミで増渕から指示を受け、原告と二人して早稲田アジトに赴き、花園から新聞紙に包んだ物(縦一〇センチメートル、横二〇センチメートル、厚さ四センチメートル)を受け取り、ミナミに戻って増渕に手渡した。その後、増渕らと河田町アジトに行き、同アジトで右包みを解いたところ、ダイナマイト二〇ないし三〇本位(長さ二〇センチメートル位、直径二センチメートル位)、雷管(長さ五センチメートル位)何個か、導火線一メートル余りが入っていた(三月二四日検面調書)

(増渕)自分の指示により、村松と原告が早稲田アジトからダイナマイト、工業用雷管及び導火線を持って来た(三月二三日検面調書)

(前原)住吉町アジトでの謀議の際、村松が整理ダンスの引出しからダイナマイト、導火線、雷管を出した(三月二八日検面調書)。(なお、原告起訴後の四月六日検面調書(<証拠略>)では、ダイナマイトは一〇本位、導火線は長さ二・三メートル位、雷管は片手のひらにのるくらいであった、村松が簡単に入手できたようなことを言っていた旨供述する。)

<証拠略>によれば、被告親崎は、増渕及び村松が、原告を含めてミナミで話し合った上、そこから村松と原告が早稲田アジトへダイナマイト等を取りに行った旨の一致した供述をすることを重視して、村松供述は信用できるものと判断したことが認められる。右に述べたとおり、増渕及び佐古は村松供述に完全に符合した供述をするわけではないが、増渕供述は全てをありのままに自白したものではなく、佐古供述については、ダイナマイト等を持って来るのを現認したわけではなく、ただその指示を聞いただけに過ぎず、思い違いあるいは記憶の混同による供述の可能性があることを考慮すると、供述の不一致を重視して信用性を否定的に解しなかったからといって、右判断が不合理であるとはいえない。また、前原のダイナマイト等の入手に関する供述は、他の者の供述と大きく相違していることから信用性があまりないものと判断しても不合理であるとはいえない。したがって、前原供述を重視して村松らの供述の信用性を否定的に解しなかった検察官の判断が不合理であるとはいえない。

さらに、村松がダイナマイト等を包んだ新聞紙について具体的に供述するものの、包みが過小な点については、検察官は、村松供述は細部においてあまり信用できないと判断しており、右判断が不合理であるとはいえないのであるから、検察官が、早稲田アジトから搬入したという大筋において村松自白を信用できると判断したことが不合理であるとはいえない。

<証拠略>によれば、佐古、前原、村松、内藤及び増渕が、目撃したダイナマイト一本の大きさについて、以下のとおり供述したことが認められる。

(佐古)全長約一三センチメートル、直径約二センチメートル(三月二六日検面調書等)

(前原)全長約二五センチメートル、直径約三、四センチメートル(三月一六日検面調書)

(村松)全長約二〇センチメートル、直径約二センチメートル(三月二四日検面調書)

(内藤)全長約一七、八センチメートル、直径約三センチメートル(三月二三日検面調書、同月二一日員面調書)

(増渕)全長一五センチメートル位、直径二、三センチメートル(三月二二日員面調書)

右供述にはかなりの食い違いがあるが、目撃時から三年半もの年月が経過していたことに照らすと、右食い違いから各人の供述の信用性に疑問を投げかけなかったからといって、それが不合理であるとはいえない。

早稲田アジトにあったダイナマイト等がさらにそれ以前、どこからどのようにして入手されたものかについて、<証拠略>によれば、増渕及び佐古は以下のとおり供述する。

(増渕)一〇月中旬ころ、前田からダイナマイトの窃盗のため兵隊を出してもらいたい旨依頼を受け了承した。その後どこからどのようにしてダイナマイト等を盗んだかは知らないが、一週間位後、前田からダイナマイトを入手した旨聞いた(二月二一日検面調書)

(佐古)一〇月中旬ころ、増渕、花園、前田と一緒にレンタカーで青梅に行き、増渕ら三名がダイナマイトを盗んで来た。夜道を言われるままに運転したので、場所ははっきりわからない(一月二〇日員面調書、二月一三日員面調書)

検察官は、増渕の供述は、殊更虚偽を混入するなどしている疑いが強いものと判断しており、右判断が不合理であるとはいえないので、増渕供述と合致しないことをもって佐古の右供述の信用性を疑わなかったことをもって不合理な判断であるということはできない。そして、青梅方面からのダイナマイト窃取についての裏付けはないが、<証拠略>によれば、検察官は、当時、ダイナマイト等の盗難があっても管理者がその責任を問われることを恐れるためか被害届を出さない例もまれではない状況にあったこと、佐古が、ダイナマイトを窃取した際には、夜間、不慣れな道を増渕らの指示のままに車を運転したにすぎないのであるから、佐古が窃取した場所を特定できなかったとしても無理がないと考えていたことから、右のとおり裏付けが取れなかったことに重大な問題があるとは判断せず、さらに捜査を行うよう指示しなかったことが認められる。また、<証拠略>によれば、被告親崎が、本件を処理するに当たって、赤軍派とL研の関係及び共闘状況、製造された爆弾の処分先、処分状況等を解明する必要があると判断したことから、当時、別件で身柄勾留中の赤軍派幹部の花園及び前田に対する取調べを行おうとしたこと、同人らが留置場からの出房を拒否して取調べに応じなかったことが認められる。被告親崎は、右取調べ拒否のため、製造された爆弾の処分先等だけでなく、右佐古供述の裏付けを取ることもできなかったのであって、右事実も併せ考えると、被告親崎が右のとおり裏付けが取れないのにさらに捜査を指示しなかったことが不合理であるとはいえない。また、右ダイナマイト窃盗については使用車両についての裏付けも取れていないが、佐古が約三年半もの年月の経過に伴い、記憶の混同を来し、不正確な供述をすることも十分あり得ることであって、裏付けが取れなかったことを重視しなかった検察官の判断が不合理であるとはいえない。

<2> ピース缶

<証拠略>によれば、一連のピース缶爆弾事件で使用されたピース缶のうち、缶番号が判明しているのは、アメ文事件に係るピース缶爆弾を含め計八個であるところ、そのうち五個は「9S171」、二個は「9T211」、他の一個が「8W281」であること、右番号は、ピース缶の製造年月日、製造場所を示すものであることが認められる。右番号に照らすと、「8W281」のものについては格別、その余の番号のものは、それぞれ同一機会にある程度一括して購入されたものと推認できる。

<証拠略>によれば、佐古、前原及び増渕はピース缶の入手について、以下のとおり供述する。

(佐古)爆弾製造の話が出るまでに、各アジトに一、二個位のピース缶は用意してあったが、足りないので、占拠中の大学に行き、具体的には、自分と前原が東薬大方面に行き、原告と国井は早大、立大方面に行き、それぞれ集めてくるよう増渕から指示があった。指示後、前原と二人で東薬大に行き、社研メンバー二、三名に頼んでピース缶を集めさせ、一、二個入手して河田町アジトに持ち帰った(三月二六日検面調書、二月一三日員面調書等)

(前原)ピース缶は全員で手分けして集めることとされ、石井、佐古その他の者が少しずつ河田町アジトに持ち寄った(三月一六日検面調書等)

(村松)製造当日増渕から指示されていたピース缶一個を持って河田町アジトに行った(三月一五日員面調書。ただし、その後の検面調書では同旨の供述はない。)

(増渕)ピース缶は皆であちこちから集めた(三月二三日検面調書等)

<証拠略>及び被告親崎の本人尋問の結果によれば、検察官は、佐古及び前原が、ピース缶をたばこ屋でまとめて買ったとは述べていないものの、両名以外の者が、たばこ屋でまとめて買った可能性を否定しているわけではないと理解したことが認められ、また、「8W281」の缶は一個であり、また、製造番号不明のピース缶も五個あり(琵琶湖に解体投棄された一個を含む。)、その五個については番号が区々に異なっている可能性があることに照らせば、ピース缶を手分けして集めたとする佐古らの供述に信用性がないと判断しなかった検察官の判断が不合理であるということはできない。

また、原告の主張する佐古供述の自白の合理性を疑わせる事情については、各人の供述が佐古の供述を否定する趣旨でもないこと、社研の者が闘争意識が低いとの佐古の供述は社研の者を屁うための方便と理解されていたことに照らし、右の点を根拠に供述の信用性に疑問を投げかけ、供述の信用性を否定的に解しなかったからといって、検察官の判断が不合理であるということはできない。

<3> パチンコ玉

<証拠略>によれば、佐古はパチンコ玉の入手先について、以下のとおり供述し、引当り捜査で指示説明した。

(二月一三日員面調書)製造当日の午前中、爆弾を作り始めたころ、急にパチンコ玉を入れるという話になり、村松か前原が河田町アジト近くのパチンコ店に取りに行った。

(三月九日員面調書)製造前日、住吉町アジトにおける謀議の際、村松がパチンコ玉の充填を提案し、すぐ村松と一緒に同アジトから徒歩二〇分くらいの明治通りと大久保通りの交差点にあるパチンコ店に行き、村松が二〇〇円で玉を買い、二人で分けて同アジトに持ち帰った。村松は少しはじいたかもしれない。持ち帰ったパチンコ玉は一〇〇個である。

(同月二六日検面調書)製造当日、住吉町アジトにおける謀議の際、村松がパチンコ玉の充填を提案し、その後村松と一緒に同アジトから徒歩二〇分くらいの所にあるパチンコ店に行った。村松が一〇〇個くらい玉を買って、二人で分けて同アジトに持ち帰った。

(同月三一日引当り)新宿ゲームセンターを指示(佐古が二幸裏か三越裏付近と供述したので、まず、自動車で二幸裏付近のパチンコ店四店を車内から観察したが、パチンコ店のある状況が記憶と違うと述べた。次に、三越裏付近の新宿ゲームセンターを含む四店を車内から見たところ、通りの状況はこの付近が一番合致する旨述べたので、下車して、一店ずつ見て回った。そして、四店目で新宿ゲームセンターを指示特定した。)

(四月一日員面調書)製造日の午前中、河田町アジトから前原と新宿三越裏の新宿ゲームセンターに行き、一〇〇円ずつ玉を買い、持ち帰った。前原は少しはじいたような気もする。

(同月二日検面調書)自分の記憶では爆弾製造の前日村松と一緒にパチンコ玉を買いに行き、さらに製造当日の午前中、前原と新宿のパチンコ店に出かけ、パチンコ玉を買って河田町アジトに戻ったと思うが、村松と一緒に行ったというのは記憶違いかもしれない。

<証拠略>によれば、被告親崎は、右に述べた佐古の供述の変遷について、佐古が当初、新宿ゲームセンターとは異なるパチンコ店に村松と行った旨供述したのは、かって村松とパチンコ遊びをしていたことがあって、同行者が村松であると思い込んでいたことに原因があったと考えられたこと、引当り捜査の際、佐古が新宿ゲームセンターを特定するに至った経過は極めて自然であると解されたことから、変遷の経過が不自然とはいえないと判断したことが認められる。これらの認定事実によれば、当初の供述を事実に反する思い込みであると考えた検察官の判断が不合理であるということはできない。

また、<証拠略>によれば、前原が、住吉町アジトにおける謀議の日かその翌日の午後七時ころ、新宿駅近くのパチンコ屋へパチンコ玉を入手に行った旨供述したことが認められる。<証拠略>によれば、前原は当時パチンコが好きで、若松町や時には新宿のパチンコ店に行っていたことが認められ、この事実に照らせば、パチンコ玉の入手日時に関する前原の右供述と佐古供述との日時の不一致は、記憶の希薄化や混同を生じても何ら不自然でないような事項と見ることもできるので、右相違を根拠に、検察官が、佐古及び前原供述の信用性を否定的に解しなかったからといって、右判断が不合理であるということはできない。

<4> 塩素酸カリウム

<証拠略>によれば、アメ文事件に係るピース缶爆弾には、爆薬としてダイナマイトの他に塩素酸カリウムと砂糖の混合物が加えられていることが認められる。

<証拠略>によれば、塩素酸カリウムの入手方法について、佐古、前原、増渕及び内藤は以下のとおり供述する。

(佐古)塩素酸カリウムは、製造日の四、五日前に村松が他の薬品類とともにリュックサックに入れて河田町アジトに持ち込んだ(三月二六日検面調書。なお、佐古は、同月九日員面調書において、右薬品類については東薬大から入手したと村松が述べていた旨供述しており、右供述は、その後も調書上明確な形では否定されていない。)

(前原)塩素酸カリウムは、製造作業開始後間もなく、平野が持って来たと思う。(四月六日検面調書。原告起訴後の供述)

(増渕)塩素酸カリウムは、L研が法大にいたころ村松が盗み、保管してきたもので、村松が持って来た。(三月二三日検面調書)

(内藤)製造当日、平野が薬品瓶二本を携え、河田町アジトに赴いたが、増渕がそれを見てピクリン酸だと言った。(三月一九日検面調書)

<証拠略>によれば、検察官は、塩素酸カリウムの調達者について、共犯者の供述によって調達者とされた村松及び平野が供述していないので、いずれが調達者であるか確定できなかったことが認められる。そこで、調達者が確定出来ないにもかかわらず、塩素酸カリウムが調達されたと判断したことが不合理であるといえるかどうかを検討する。

<証拠略>によれば、L研及び社研のメンバーは、昭和四四年一〇月二〇日、二一日の両日にわたり、東薬大において、塩素酸カリウムを使用して火炎瓶を多数製造したこと、右塩素酸カリウムは増渕から平野に交付されたことが認められる。右事実に照らせば、L研及び社研のメンバーは同年一〇月当時、塩素酸カリウムを容易に入手し得たのであって、本件においても、L研及び社研のメンバーが爆弾の製造に当たり塩素酸カリウムを調達したと推認することが不合理であるということはできない。また、佐古と前原の供述が一致しない点については、いずれかの者の日時の経過による記憶違いと判断しても不合理であるということはできない。

<5> 砂糖

<証拠略>によれば、砂糖の入手状況について、佐古及び前原は以下のとおり供述する。

(佐古)砂糖は河田町アジトにあったものを使用し、さらに、製造途中、江口か増渕に言われて自分が河田町アジト近くの店から買って来た。(三月二六日検面調書)

(前原)砂糖は江口が持って来た。(原告起訴後の四月六日検面調書等)

砂糖は日常的にどこからでも容易に入手し得るもので、本来印象に残りにくいものであり、記憶の希薄化とそれによる混同が生じやすい事象であるから、これについての供述の不一致は佐古及び前原の各自白の全体的な信用性に影響するものとはいい難いと考えた検察官の判断が不合理であるということはできない。

<6> ガムテープ

<証拠略>によれば、本件ピース缶爆弾には、茶色及び青色の二種類のガムテープが使用されたことが認められる。

ガムテープに関連して、<証拠略>によれば、佐古、前原、村松及び増渕が以下のとおり供述したことが認められる。

(佐古)茶色ガムテープは河田町アジトにあったものを使用した。青色ガムテープについては記憶がないが、誰かが巻きつけたと思う。製造当時、河田町アジトには青色ガムテープはなかったので、村松あたりが、製造の際持って来て巻いたのではないか。(原告起訴後の四月一〇日員面調書)

(前原)茶色ガムテープと青色ガムテープが使用された。茶色ガムテープは、以前から河田町アジトにあったが、青色ガムテープは誰が持ち込んだかわからない。(三月一六日検面調書)

(村松)河田町アジトでの謀議の際、前原にガムテープを購入するよう指示があった(三月二四日検面調書)。青色ガムテープについては記憶がない。茶色ようのガムテープ一種類と思った(原告起訴後の四月一六日員面調書)

(増渕)缶体と蓋の固定にビニールテープを使用した。(三月二三日検面調書)

青色ガムテープについて前原しか供述しない点について、検察官は、本件製造作業が手分けして行われたものであること、青色の缶体に青色ガムテープが貼ってある場合にはガムテープを貼ったこと自体も印象に残りにくいと考えられること、年月の経過によって記憶を喚起できないこともあり得ること等の事情を併せ考えると、自白の信用性に疑問を抱くほどの理由ではなく、かえって前原が右二種類のガムテープの使用を供述している点を評価すべきであると判断したというのであり、右判断が不合理であるということはできない。

ガムテープの入手状況に関連して原告が主張する事実は、それらの事実を根拠に被疑者らの供述の信用性を否定的に解しなかった検察官の判断が不合理であることを根拠づけるものとはいえない。

増渕がビニールテープを使用したと主張する点については、検察官が、増渕は殊更虚偽の事実を供述することもあると考えており、右判断が不合理であるとまではいえないことに照らし、検察官がビニールテープに関する供述を根拠に増渕の供述の信用性を否定的に解しなかったからといって、その判断が不合理であるということはできない。

<7> その他の薬品及び使用器具等

<証拠略>によれば、佐古、村松及び内藤は、本件製造には客観的に無関係と認められる薬品あるいは使用器具等を入手あるいは目撃した旨供述したことが認められる。その詳細は以下のとおりである。

(佐古)黒色火薬の瓶があり、ピース缶爆弾に黒色火薬を入れたように思う。濃硫酸があった。(三月九日員面調書。なお、同月二六日検面調書)

(村松)増渕の指示で紙火薬を入手した。(三月一五日員面調書)

(内藤)ピクリン酸、塩素酸カリ、粉末よう薬品約二本、液体薬品一本、アルコール一本、乳鉢一個、乳棒一個、ガラス棒二本、マクロスファーテル一本、薬包紙約五〇枚、ビーカー二個、天秤秤一個その他(三月二七日員面調書)。堀がニトロ系の薬品を持って来た(同月二一日員面調書)

右薬品等は本件爆弾製造に無関係であるところ、<証拠略>によれば、当時内藤は増渕から一〇・二一闘争に備えて薬品類の入手を依頼され、その中にピクリン酸があったこと及び内藤が平野の下宿においてピクリン酸を見たことがあったことが認められ、検察官は、この事実と時間の経過による記憶の希薄化により、内藤は記憶の混同を来していると判断したものである。また、その他の材料及び器具については、記憶の混同が生じても不自然ではなく、被疑者らにとってピース缶爆弾の製造が初めての経験であったとすれば、各人が、それぞれの判断で必要かもしれないと考えた物品を持ち込むことも十分あり得たと考えられたことから、この点に関する内藤らの供述の信用性は一概に否定できないと判断したものである。爆弾製造に当たっては、その構造等について事前に十分検討し、爆弾材料や使用器具を決定した上、実行に移すものと考えられ、製造現場において爆弾製造に無意味なものが持ち込まれることは通常考え難いという原告の主張は一つの物の見方ではあるが、検察官の右判断も一つの物の見方であり、検察官の右判断が不合理であるとはいえない。

(5) 製造の実行

<1> 爆弾の構造と添加物

<証拠略>によれば、本件で製造されたピース缶爆弾の基本的構造は、缶入りたばこピースの空き缶にダイナマイト約二〇〇グラムを充填し、工業用雷管に導火線を装着したもの(導火線の一方の先端部に接着剤を塗布して雷管空管部に差し込み、内管上面と接着させた上、管口部周囲にガムテープの小片を巻きつけたもの)を右ダイナマイトのほぼ中央に埋め込み、その周囲のダイナマイトの中にパチンコ玉七ないし八個を薬高の中間まで埋め込んだ上、缶蓋ほぼ中央にあけられた円孔を通して導火線がピース缶外に出ているというものであることが認められる。

<証拠略>によれば、内藤がピース缶爆弾の構造について、以下のとおり供述したことが認められる。

(三月一〇日員面調書)ピース缶に薬品を混入したものを注入した。

(同月一九日検面調書)褐色のブヨブヨした糊様のもの及び二種類の薬品を混合したものを詰めたと述べ、爆弾の構造図を作成。

(同月二〇日員面調書)茶褐色の粘土状のものと混合薬品を入れたと述べ、爆弾の構造図として同月一九日検面添付の図と類似した図を作成。

(同月二一日員面調書)(河田町アジトに行ったところ、)ピース缶七、八個置いてあり、そのうちの一、二個には既にダイナマイトが充填されていた。増渕が、「缶の中にダイナマイトを入れ、殺傷能力を高めるためにパチンコ玉を入れる」旨爆弾の構造を説明した。

(同月二二日員面調書)ピース缶の中に褐色の糊状のものを半分位入れ、ダイナマイトを切ってその中に埋め込み、混合薬品(白色粉末)を入れたと述べ、爆弾の構造図として、同月一九日検面調書及び同月二〇日員面調書添付の各図と大きく異なる図を作成。

(同月二三日検面調書)棒状のダイナマイトを見た記憶がある。ブヨブヨした糊様のものが棒状のダイナマイトの中身かどうかわからない。

(同月二五日員面調書)ダイナマイトは紙を剥がして充填した。糊状のものは何かの薬品に液体の薬品を加えて作り上げたものである。爆弾の構造図について、同月二〇日員面調書添付の図と同月二二日員面調書添付の図が相違するが、どちらが正しいかはわからない。

また、<証拠略>によれば、ダイナマイトは微黄色で、固さは糊よりもはるかに固く羊羹に近い感じのものであることが認められる。右事実に照らすと、内藤が供述する褐色のブヨブヨした糊様のものは、ダイナマイトと色、形状とも異なる。

右に述べたように、内藤は当初、ダイナマイトの充填を述べず、最終的には、ダイナマイトの充填を供述するが、爆薬についてはダイナマイトよりも混合薬品を主体とするかのような供述をし、本件ピース缶爆弾と大きく相違する構造を図示している。内藤供述に客観的事実と異なる部分が含まれている点について、被告親崎は、内藤は既に八・九機事件について、佐古及び前原らの自白と大筋において符合する信用性の高い供述をしていた上、製造事件についても、細部はともかく大筋において佐古及び前原らの自白と符合する具体的かつ詳細な供述をしたことから、内藤供述の信用性は決して低いものではないと判断したものである。前記2の(二)の(2)で述べたとおり、内藤が自己の公判段階でも、論告終了に至るまで公訴事実をほぼ認める旨の供述を維持したこと及び五部判決が内藤調書の自白の任意性を全て肯定したこと(取調官が内藤への追及の語調を多少強めたとされる同月二五日ころ以降の供述調書についても任意性が肯定されている。)を考えると、内藤の供述に客観的事実と異なる点があっても、大筋において信用するに値するものと検察官が起訴当時に判断したことが不合理であるとはいえない。

また、<証拠略>によれば、村松が白い粉を入れたと供述したこと(三月二四日検面調書。なお、三月一五日員面調書では白い粉末は瓶詰の薬品であると供述する。)、増渕が塩素酸カリウムを充填したと供述したこと(三月二三日検面調書)が認められる。両名が砂糖との混合について述べない点は、塩素酸カリウムが混合火薬の酸化剤として用いるものであることに照らし、不自然である。しかし、五部判決も隠し立ての可能性を全面的には否定できないとするのであって、右不自然さから両名の供述全体の信用性を否定的に解しなかったからといって、その判断が不合理とはいえない。

<証拠略>によれば、佐古、前原、村松及び増渕が添加物のある爆弾の数量について以下のとおり供述したことが認められる。

(佐古)砂糖は河田町アジトにあったものを使用したが、製造作業の途中、さらに増渕か江口に指示されて砂糖を買いに行った旨供述し(砂糖一袋くらいを使用した。)、混合物の添加充填されていないものがあることは述べない。(三月二六日検面調書。同月九日員面調書)

(前原)ほか一名の者と一緒に混合した塩素酸カリウムをスプーンですくって、ダイナマイトが充填されたピース缶に入れた。全部のピース缶にいれたと思うが、あるいは量が足りなくて一部には入れられなかったかもしれない。(三月一六日検面調書)

(村松)ダイナマイトを詰めた上に瓶詰めの薬品(白色粉末)を増渕が入れていたが、途中で薬品がなくなり、薬品の入った爆弾と入っていない爆弾ができた(三月一五日員面調書)

(増渕)塩素酸カリウムを加えたと供述するが、これを加えなかったものがあることは述べない。(三月二三日検面調書)

右に述べた各人の供述は、製造したピース缶爆弾の少なくとも大部分に混合物ないし白色粉末を添加充填した趣旨の供述と解される。ところが、混合物が充填されたピース缶爆弾はアメ文事件に係る一個しか発見されておらず、その可能性があるのは京都公安調査局事件に係る一個にすぎず、他の発見されたピース缶爆弾には混合物が充填されていないのであって、右供述は客観的事実と食い違う。この点について、検察官は、佐古らがピース缶爆弾を製造した際には多数の者が手分けして作業に当たり、誰かが、実際に何個のピース缶に右混合物を入れたかを数えていたわけではなかったことに照らすと、佐古らが、本件製造当時、ピース缶に添加物を充填したことは明確に認識できたものの、その個数についてまで明確に認識していなかったとしてもあながち不自然ではなく、佐古らの右供述は、年月の経過等により更に記憶が不鮮明となった状態でされたものであると認めるのが相当であり。右食い違いが佐古らの自白全体の信用性に影響を与えるものではないと判断したものであり、右判断が不合理であるということはできない。

<証拠略>によれば、佐古が、二月一三日員面調書で「ピース缶内に充填したダイナマイトの上に、起爆力を高めるため、火薬に薬品を浸みこませたものを添加し、その火薬に火がつくように、導火線の一方の先端を右火薬にとりつけた」旨供述したことが認められる。右中間的供述が客観的事実と異なる構造である点について、<証拠略>によれば、佐古が「増渕の判断で堀の薬品の知識を利用しようとすることからメンバーに加えた」「増渕達が火薬に薬品をしみ込ませた」「火薬に薬品をしみ込ませる方法は、はっきり覚えていない」旨供述することが認められるのに照らし、検察官は、佐古が元来理工系の知識に乏しいと考え、しかも、本件製造に当たり、中心人物として立ち働いたとも認められないのであるから、約三年半の日時の経過により記憶の希薄化や混同等を来し、当初は正しい記憶が蘇らなかったとしても奇異とするに足りず、右中間的供述の存在は、佐古の自白の信用性を損なうものとは判断しなかった。佐古が当初雷管を欠いた構造のものを供述し、その後供述を変更した理由について、<証拠略>によれば、「よく考えると、雷管を使っていた。堀と増渕が雷管の不足から火薬と何かの薬品を調合して雷管の代用品として作っていたのが記憶に強かったので、それを使ったと思い違いをしていた。私は導火線と雷管を接着させる作業も行った」旨供述したことが認められる。右供述に照らせば、検察官が、記憶の希薄化や別の機会の作業との混同のために、当初は正しい記憶が蘇らなかったと判断しても、それが不合理であるとまではいえない。

<証拠略>によれば、村松が当初、ピース缶爆弾の構造について紙火薬を利用した手製の導火線を作り、使用した旨供述し、その後も紙火薬に固執した供述をしたことが認められる。右のとおり、村松が構造の一部に関し最後まで特異で、客観的事実に反する供述に固執した点について、検察官は、村松には供述中に殊更虚偽を混入させようとしていた傾向が見られ、その供述は全面的には措信じ難いものであったと判断しており、右特異な供述が佐古及び前原の自白はもとより、村松自身の自白全体の信用性の影響を及ぼすものとは到底考えられないと判断したものである。村松供述に対する検察官の評価は不合理なものであるということはできず、右評価を前提として、検察官が村松の特異な供述により佐古及び前原の供述並びに村松供述全体の信用性に影響を及ぼすものではないと判断したことが不合理であるということはできない。

<2> 作業の分担

I ダイナマイトの切断及び充填作業の担当者について

<証拠略>によれば、ダイナマイト充填作業を担当した者について、佐古、前原、村松、増渕及び内藤がそれぞれ以下のとおり供述する。

(佐古)村松、菊井、平野、内藤

(前原)増渕、村松、江口、菊井

(村松)増渕、佐古、堀、江口

(増渕)村松、前原

(内藤)増渕、堀、江口

右のとおり各人の供述に不一致が生じたことにつて、<証拠略>及び被告親崎の本人尋問の結果によれば、被告親崎が、被疑者らが製造の各種作業を手分けして行ったことから、記憶違いや混同が生じたためであると考え、また切断等の作業を担当したことを述べる者がいないのは、右作業が爆弾製造の核心部分であることから、事柄の性質上、自己の罪責の軽減を策して秘匿したためと判断したこと、したがって、被告親崎は右供述の不一致があるからといって各人の自白全体の信用性の影響が及ぶものではないと判断したことが認められる。そして右に述べた各供述によれば、三名以上の者がダイナマイトの切断及び充填の担当者であるとして述べているのは、増渕、村松及び江口であること、右作業が爆弾製造作業の核心的なものであることにかんがみ、被告親崎は、リーダーである増渕、村松及び爆薬について知識を有する江口が右作業に関与したことは疑いないと判断したものである。右供述の不一致及び充填担当者に関する検察官の判断は、製造に参加したとされる者の大多数が任意に自白したことを重視した上でのものであることを併せ考えると、不合理であるということはできない。

また、佐古がダイナマイト切断に関し何ら供述しない点については、被告親崎は、佐古自身が右作業をしたわけではないので、同人が他の者が担当した作業を見ていなかったか、あるいは仮に見ていたとしても、それを忘失したとしても不自然ではないと判断したものであり、右判断も不合理であるとはいえない。

II パチンコ玉の充填作業について

<証拠略>によれば、パチンコ玉をダイナマイト内に充填する作業を担当した者について、佐古、前原、村松、増渕及び内藤が以下のとおり供述したことが認められる。

(佐古)村松、菊井、平野、内藤

(前原)増渕、村松、江口、菊井

(村松)増渕、佐古、堀、江口

(増渕)前原、原告、内藤、国井

(内藤)増渕

各人の担当者に関する供述に右に述べた不一致が生じた点について、検察官は、前記Iと同様の判断をしたものであり、右判断も不合理であるとはいえない。

III 導火線と雷管の接続について

<証拠略>によれば、佐古が、導火線と雷管の接続について、導火線の先端を少しほぐしてボンドをつけ、少し乾かしてから雷管をその中に押し込めるようにして接着し、ガムテープを巻いて補強した旨供述し、右供述に沿う図を作成したことが認められる。右供述は前記<1>で述べた客観的事実と明らかに異なる。この点について<証拠略>によれば、検察官は、佐古が理工系の知識に乏しい上、導火線や雷管を取り扱った経験がなく、右知識のある増渕及び江口らから接続方法を教えられて機械的に作業をしたにすぎなかったため、約三年半の年月の経過により、接続方法についての記憶の希薄化や混同を来したことによると推認したこと、佐古の「導火線と雷管を接続させてボンドで接着させ、さらに外側からガムテープを巻きつけて補強した」旨の自白は、本件ピース缶爆弾の導火線と雷管が接着剤を用いて接続されており、かつ、外側からガムテープが巻きつけられている限りにおいて、右証拠物の状況と合致しており、このことは、佐古が右作業を担当したことを物語っていると判断したことが認められる。原告が主張するように、導火線を工業用雷管空管部に挿入する作業に一度関与すれば、その点を忘失することなど到底考えられないともいえず、記憶の混乱、忘失によって事実と正反対に思い込むこともありうることに照らせば、右判断は不合理とまではいえない。

IV 塩素酸カリウムと砂糖の混合作業について

<証拠略>によれば、塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の担当者について、佐古、前原及び内藤が次のとおり供述したことが認められる。

(佐古)増渕、江口、堀

(前原)前原、佐古、石井

(内藤)内藤、村松、原告、前原、堀、江口

各人の担当者に関する供述に右に述べた不一致が生じた点について、検察官は、前記Iと同様の判断をしたものであり、右判断も不合理とはいえない。

また前原は、自分が担当者であったとして作業方法を供述するが、右方法は危険この上ないものである。この点について、検察官は、実際には、塩素酸カリウムと砂糖とを別々に乳鉢ですりつぶした上、これを混合したものと推認したことが認められる(右検察官の認定は、本件当時、増渕あるいは江口が入手研究していた爆弾教本「薔薇の詩」の記載に合致するものである。)。前原が実際の手順と異なった供述をした理由について、検察官は、前原が火薬に関する知識に乏しく、右知識を有する増渕及び江口らから右作業の手順を教えられ、機械的に作業したにすぎなかったため、約三年半の年月の経過により作業手順について記憶の希薄化や混同を来し、すりつぶし作業と混合作業の手順を取り違えたことによると推認したものであり、これが不合理な判断であるとまではいえない。

原告は、内藤の薬品調合に関する供述について種々の疑問点を指摘するが、前記<1>で述べたとおり、内藤の供述に客観的事実と異なる点があっても、大筋において信用するに値するものと検察官が起訴当時に判断したことが不合理であるとはいえない。

V 蓋の穴開け作業について

<証拠略>によれば、ピース缶の蓋に穴をあける作業について、佐古及び前原は、以下のとおり供述する。

(佐古)佐古とほか一名が担当。玄関前の庭で作業した。最初、釘か折りたたみ式ナイフで缶蓋に小さな穴をあけ、前の植木の根っこあたりに蓋を置いて穴の部分にドライバーを突き刺し、金槌か石でドライバーの頭を叩いて穴をあけた。(三月九日員面調書、同月二六日検面調書)

(前原)前原、佐古、石井が担当。玄関前の地面で作業をした。最初五寸釘をハンマーで叩いて穴をあけたが小さすぎた。石井がもっと適当な道具があるということで、住吉町アジトからプラスドライバーかポンチを取って来て、それで穴をあけた。(三月一一日員面調書、同月一六日検面調書・同月二八日検面調書)

<証拠略>によれば、佐古及び前原の供述するような方法をとった場合、缶蓋に穴はあくものの、バリ(めくれ)の発生は免れ得ないこと、本件各ピース缶爆弾のうち、缶蓋の穴の形状が明らかなものは、八・九機事件及びアメ文事件の各爆弾並びに福ちゃん荘事件の爆弾三個のうちの一個の合計三個であり、そのうち福ちゃん荘事件に係る一個のバリは切断されていないように見受けられるが、八・九機事件及びアメ文事件の各爆弾については、発生したバリが金切りばさみ等で切断されていること、蓋の穴の形状からその穴の開け方を特定することができないことが認められる。佐古及び前原が、右バリの処理について何ら述べない点について、検察官は、本件十数個のピース缶の蓋の穴開け作業は、佐古及び前原を含む複数の者が、異なった形の器具を用い、それぞれの方法で行ったもので、佐古及び前原は、バリを切断しなかったとも考えられたこと、また、バリの切断は細部の事柄であって、仮に佐古らがこれを行っていても取調べ時には記憶を失っているとも考えられたこと、したがって佐古らが右の点に触れていないからといって、同人らの自白全体の信用性を損なうものではないと判断したものである。検察官の右判断が不合理であるとはいえない。

次に、佐古及び前原が供述する蓋の穴開け作業の場所について、<証拠略>によれば、河田町アジトの玄関前の庭は、表通りから幅員約一・三メートルの私道を約一八メートル、さらに西方向の袋小路を約五メートル入った位置にあること、玄関の反対側は塀で遮られ、私道を利用する民家は同アジトのほか一軒で、袋小路は同アジトの住民のみが使用しており、通常、玄関付近を通行するのは本件の被疑者らのほかには家主のみであったことが認められる。検察官は、ピース缶の蓋に穴を開ける作業は、蓋にドライバーを突き刺し金槌等で叩く程度のことであり、近隣の注意をひくようなものではない上、右作業を目撃されても特段怪しまれる態様のものでもないことから、蓋の穴開け作業を河田町アジトの玄関前で行ったとする右供述は、特段不自然ではないと判断したものである。右行為が不審を抱くべき性質のものであるか否か、また、密行性の要請に反するものであるか否かは、それを見る人の主観や行為者の警戒心にも大きく左右されるところ、佐古らの供述する方法がおよそあり得ないという程度のものでもなく、他の共犯者も屋外での穴開け作業を任意に供述していることに照らせば、検察官の判断が不合理であるということはできない。

また、石井は<証拠略>によれば、穴あけ作業について以下のとおり、供述する。

(三月三〇日員面調書)レポ途中、原告が河田町アジト前の垣根のところで何かやっていたが、富岡らに聞くとドリルで木の幹に穴をあけているとか缶の蓋に穴をあけているということだった。佐古が原告のところに行ったり来たりしていた。

(四月一日員面調書)同右

(同月三日検面調書)原告が、垣根の向こう側の林の中で、かがみ込んで何かやっているので、富岡らに聞くと、缶に穴をあけているということだった(ドリルについては述べない。)。

(同月四日員面調書)河田町アジトの部屋の入口付近で、佐古と原告が缶の蓋に穴あけ作業をやっていた。ヤスリで穴をあけているようだった。その後、原告から、「ヤスリでは穴があかないので五寸釘を買って来てくれ」と言われたが、店がわからないと答えると、釘は原告が買い、私はバンドエイドを買うことになり、二人で出かけた。

右供述内容及び変遷をもって、佐古及び前原の自白の信用性を否定的に解しなかったからといって、後記VIで述べる検察官の石井供述に対する基本的評価を前提とすれば、右判断が不合理であるということはできない。

<証拠略>によれば、本件ピース缶爆弾に使用されているガムテープは、青色ガムテープと茶色ガムテープの二種類であること、導火線と工業用雷管の結合部に巻き付けられたガムテープの色が判明しているものは四個であり、それらはいずれも缶体そのものに巻かれたガムテープの色と一致していること、導火線と工業用雷管の結合部に巻かれたガムテープの色は中野坂上事件に係る一個が茶色であるほかは、青色であることが認められる。また、<証拠略>によれば、前原が、二種類のガムテープの使用方法について、ピース缶に混合物を充填した後、ほぼ全員で、既に導火線を接続した雷管をピース缶の中央部に埋め込み、蓋の穴から導火線を通した上、蓋を接着剤で固定し、その上からガムテープを巻きつけた旨、この時、青色ガムテープが足りなくなって、一部に茶色のガムテープも使用した旨供述したことが認められる。検察官は、右供述が要するにピース缶爆弾の製造に際して青色のガムテープと茶色のガムテープの二種類を使ったということを述べているにすぎず、このことは正に証拠物の形状と合致するもので、何ら自白の信用性を損なうものではないと判断したものである。原告はこの点について、極めて分析的・論理的な検討を加えるが、検察官が行ったような概括的判断にとどめても、不合理な判断であるとまではいえない。

VI レポ(見張り)に関する石井供述について

<証拠略>によれば、レポについて、石井は次のとおり供述する。

佐古の指示で、河田町アジトに入る路地入口のパン屋の角に立った。国井と原告がフジテレビ前通りで先端レポに従事し、自分は右両名からの連絡を受け、河田町アジトに中継する役目であった。間もなく、元山と富岡が来たので、パン屋の角付近に三人して立っていたところ、佐古が出て来て、「一緒に立たないで間隔を置いて立ってくれ」と注意され、その際、「四・五機の方を見て来てくれ」とも指示されたので、その方面にレポに出て、一時間くらいして戻った。その後、富岡及び元山と三人で、パイプ管方式と称してパン屋角から河田町アジト横まで等間隔に立ってレポをした。富岡らの話では、原告は都営住宅方向に、国井は女子医大方向に行っているということだった。また、先端レポの国井及び原告との連絡方法は、国井らにおいて、道路横断用の黄色い旗を持って行っており、その旗で合図をすることになっていた。なお、途中買い物にも行っている。

検察官は、石井供述の信用性について、次のとおり考えていた。

石井は、製造事件当時、まだ左翼活動等に対する関心、興味の程度も低く、村松と同棲中で、同人の強い影響を受けて本件に関与するようになったという事情があった上、石井自身記憶力が必ずしもよくなく、記憶の混同や思い違いもあって、石井の供述は必ずしも全面的には信用し難い。しかし、佐古、前原、内藤、そして増渕さえもが石井においてレポをしたことを認めていることに照らすと、石井の「河田町アジトでL研メンバーらが爆弾を製造した時に、これを承知の上でレポをした」旨の供述は十分信用に値するものと判断できた。

右検察官の判断は、<証拠略>によって認められる、石井が自己の公判段階でも、公訴事実をほぼ認める旨の供述を維持し、第一審のなした有罪判決に控訴することなく服したこと及び五部判決が石井調書の自白の任意性を全て肯定したことを併せ考えると、必ずしも不合理な判断とはいえない。

また、石井が佐古の昭和四八年三月九日付け員面調書を基に、違法な追及を受けて自白した旨の原告の主張は、関係証拠を検討してもこれを認めるに足りる証拠がない。

(6) 完成品の処分

<証拠略>によれば、佐古、村松、内藤、前原及び増渕は、完成した爆弾の処分について、以下のとおり供述する。

(佐古)製造後、増渕が黒色ビニール製鞄に詰めて河田町アジトから持って出ていった。増渕は新宿署を襲撃する赤軍派の兵士に渡すと言っていた。(三月二六日検面調書)

(村松)午後五時ころ、花園が来た(外にもう一人いたと思う。)。増渕が部屋にあった佐古の鞄に詰めて、花園に渡した。花園は急いで帰って行った。(三月二四日検面調書)

(内藤)花園が取りに来たように思う。花園が来ると増渕が爆弾を黒色鞄に入れて一緒に出て行った。(三月二八日検面調書)

(前原)製造当日、赤軍派の者(一度くらい、会ったことがある人のような気もする。)が来て、増渕と一緒に何個か持ち出した。残りの爆弾は、ダンボール箱に入れ、河田町アジトの押入れに保管していたが、一〇月二一日午前一〇時ころ、一〇個位の爆弾をバッグ一、二個に詰め、増渕及び堀と共に、これを持って大久保駅に行った。自分はそこで別れたが、増渕と堀は、それを持って東薬大の方に歩いて行った。東薬大近くの平野のアパートか赤軍派のアジトに持って行ったと思う。(三月二八日検面調書。なお、前原は、三月一一日員面調書において、製造当日の爆弾搬出を述べず、「一〇月二一日午後一時ころ東薬大近くの赤軍派アジトに、増渕及び堀と共にピース缶爆弾を持って行き、花園に手渡した」と供述していた。そして、三月二二日員面調書で「製造作業の途中で赤軍と思われる者一名位が来たかもしれないが、それが誰で何のためにいつ来ていつ帰ったのか思い出せない。二一日午前一〇時ころ、増渕及び堀とともにピース缶爆弾の入った鞄を持って、大久保駅に行き、そこで別れた。」と供述した。)

(増渕)製造当日、村松らに爆弾を赤軍派に渡すように指示して自分は帰った。同月二一日、夏目に連絡したところ、爆弾が赤軍派に渡っていないということだったので、まだ河田町アジトにあると思い、夏目に対し、L研の者に爆弾を赤軍派に持って行くように伝えてくれと依頼した。それで、その日に赤軍派に渡ったと思う。(三月二三日検面調書)

<証拠略>によれば、検察官は、右供述等を検討して、本件ピース缶爆弾が、一〇・二一闘争に用いるために製造されたものである旨、佐古及び内藤らの供述によると、完成した爆弾は、製造当日増渕らの手によって河田町アジトから搬出され、赤軍派の手に渡ったものである旨判断したことが認められる。右判断は、増渕が時間を気にして製造作業を急がせていたこと、万一の発覚を防ぐためには完成した爆弾を一刻も早く河田町アジトから搬出するのが自然であること、<証拠略>によれば、昭和四四年一〇月二一日昼ころ、赤軍派の連絡場所として使用されていた東京都渋谷区千駄ヶ谷所在の日本デザインスクールの中條の部屋に、ピース缶爆弾約一二個が搬入されていることが認められること等の諸状況からも裏付けられるものである。

被告親崎は、<証拠略>によれば、右爆弾の引渡は、L研のリーダーであり、本件爆弾製造について指揮をとった増渕が中心的役割を果たしていたと認められるところ、増渕の引渡に関する供述について、右の諸状況及び佐古供述等に照らし、増渕が自己の罪責を軽減し、かつ、赤軍派のメンバーの氏名及び本件製造に係る爆弾の流れ等を秘匿し、ひいては証拠の不一致を狙う意図の下に、殊更虚偽を述べたものと判断したこと、前原の引渡に関する供述について、<証拠略>によれば、前原が赤軍派との連絡役であったことが認められる(なお、<証拠略>によれば、前原は公判廷(<略>)でもこのことを認めている。)のに照らし、その立場上、引渡の詳細を知悉しているところから、爆弾を引き渡した赤軍派のメンバーを秘匿する等の目的で、故意に虚偽の事実を述べたと判断したこと、したがって、各被疑者の供述の齟齬は、その自白全体の信用性に影響を及ぼすものではないと判断したこと、むしろ、被告親崎は、赤軍派との共闘のためL研においてピース缶爆弾を製造し、その大部分を花園や赤軍派関係者に引き渡したという大筋において、被疑者らの供述が一致しており、しかも、現実に東京及び大菩薩峠等において合計一三個のピース缶爆弾が使用され、あるいは発見押収されているところ、そのほとんど全てが赤軍派関係者によって使用あるいは保管されていたことに注目したことが認められる。ところで、<証拠略>によれば、被告親崎が、本件を処理するに当たって、赤軍派とL研の関係及び共闘状況、製造された爆弾の処分先、処分状況等を解明する必要があると判断したことから、当時、別件で身柄勾留中の赤軍派幹部の花園及び前田に対する取調べを行おうとしたこと、同人らが留置所からの出房を拒否して取調べに応じなかったことが認められる(なお、<証拠略>によれば、花園こと前之園紀男については弁護人の申請により第一一七回(昭和五六年三月二三日)及び一一八回(同年四月八日)公判において証人尋問を行う予定であったが、出頭しなかった。)。被告親崎は、右取調べ拒否のため、製造された爆弾の処分先等の裏付けを取ることもできなかったのであって、右事実も併せ考えると、被告親崎の右判断が不合理であるとはいえない。なお、前原の供述の変遷過程に取調官の追及等の違法な取調べがあった旨の原告の主張は、関係証拠を検討してもこれを認めるに足りる証拠がない。

また、<証拠略>によれば、内藤が、三月一〇日、花園の写真を呈示されながら、誰であるか分からなかったことが認められる。原告は、このことを根拠に、検察官が内藤供述の信用性に疑問を投げかけるべきであったと主張するが、検察官は、内藤の供述に客観的事実と異なる点があっても、大筋において信用するに値するものと判断していたのであって、爆弾の処分先についても大筋において供述が信用できるという前提で判断したのであるから、内藤供述の信用性を否定的に解しなかったからといって、不合理な判断とはいえない。また、内藤が村松自白を基に違法な追及を受け、右自白をするに至った旨の原告の主張は、関係証拠を検討してもこれを認めるに足りる証拠がない。

(三) 結論

以上のとおり、被告親崎が、原告について製造事件につき公訴を提起するに当たり行った判断が不合理であるということはできず、したがって、右公訴の提起に違法性を認めることはできない。

三 本件ピース缶爆弾事件に関する公訴の追行・維持の違法性(争点3)

1 本件公訴提起後に生じた事情の概観(原告の主張3の(三)の(1))

(一) 石井及び内藤の有罪判決の確定

(1) 石井の有罪判決の確定

<証拠略>によれば、石井が、昭和四八年四月三日、製造事件について起訴され、東京地方裁判所刑事二部の審理において公訴事実を全面的に認め、昭和四九年三月一九日、増渕及び原告らの共同正犯と認定されて懲役三年執行猶予四年の判決を言い渡されたこと、石井は、右判決に対して控訴することなくこれを確定させたこと、石井は、公判段階でもなお、捜査段階における自白を維持し、公訴事実を認め、被告人質問の際にも犯行を供述したこと、石井は、自己のアリバイについて捜査・公判のいずれの段階においても自ら積極的に主張することがなかったことが認められる。

(2) 内藤の有罪判決の確定

<証拠略>によれば、内藤が、昭和四八年三月一〇日八・九機事件について、同年四月一八日製造事件について各起訴され、東京地方裁判所刑事八部の審理の第一回公判(同年五月一五日)において各公訴事実をほぼ認め、第三回公判(同月二五日)においても同様の供述をしたが、論告求刑後の第五回公判(同年六月二六日)において否認に転じ、アリバイを主張して公訴事実を争ったものの、同年一〇月二三日、右アリバイの主張は排斥され、増渕及び原告らの共同正犯と認定されて懲役三年執行猶予四年の判決を言い渡されたこと(同判決は、本件ピース缶爆弾を爆発すべき状態に置いたとはいえないとして八・九機事件について爆発物取締罰則一条の爆発物使用罪の成立を否定し、同罰則四条の使用罪の共謀罪とした。)、これに対し、検察官は、使用罪の法律解釈を争い控訴したが(内藤は控訴していない。)、東京高等裁判所は、昭和四九年一〇月二四日、控訴棄却の判決を言い渡し、これに対し、検察官が上告したところ、最高裁判所は、破棄差戻しの判決を言い渡したこと、これを受けた東京高等裁判所は、昭和五三年三月一七日、八・九機事件について爆発物の使用罪が成立するとし、内藤に対し、懲役三年六月の判決を言い渡したこと、これに対し、内藤が上告したが、同年一二月一二日、上告棄却の判決が言い渡され、有罪が確定したことが認められる。

(3) 右各有罪判決の位置づけ

石井及び内藤が原告らの共同正犯として、製造事件及び八・九機事件について有罪判決を受け、これが確定しているという事実は、本件ピース缶爆弾事件について公訴を維持・追行することを正当付ける一つの事実である。

(二) 被告菊井の証言

<証拠略>によれば、検察官は若宮証言を受けて、本件ピース缶爆弾事件の基本的証拠である佐古及び前原の自白について、改めてその信憑性を検討するのに必要な証拠を収集することとし、補充捜査を行ったこと、この過程において、東京地方検察庁公安部所属の被告長山が、L研と赤軍派との関係について事情聴取すべく、同年五月二五日ころから、参考人として被告菊井の取調べを開始したこと、右取調べは一時中断したものの、同年六月一四日ころから再び開始され、被告菊井は、そのころ、製造事件に関与したことを自白したこと、そこで、被告長山は、同年七月一〇日付けで、後に菊井が公判廷で証言したのと同内容の詳細な検面調書を作成したことが認められる。

そして、<証拠略>によれば、被告菊井は、公判廷で、右検面調書に沿う具体的、詳細な証言をしたことが認められる。共犯者が右のように公判廷で犯行を認める証言をした事実は、本件ピース缶爆弾事件について公訴を維持・追行することを正当づける一つの事実である。

(三) 共犯者とされた者の法廷供述の概観

本件ピース缶爆弾事件では、捜査段階で共犯者として自白していた多数の者が公判廷で否認に転じている。

(1) 石井の法廷供述

<証拠略>によれば、第一五回公判(昭和四九年九月五日)ないし第一八回公判(同年一〇月二一日)において、石井は、「昭和四四年一〇月一八日か一九日ころ(反対尋問では一九日か二〇日)、河田町アジト付近で武器製造の見張りをした。爆弾ではないかとも思っていた」旨証言したこと、アリバリを自ら積極的に主張することはなかったこと、アリバイを弁護人に指摘された後も見張りをしたことは間違いない旨証言したことが認められる。

(2) 内藤の法廷供述

<証拠略>によれば、第一九回公判(昭和四九年一一月八日)ないし第三〇回公判(昭和五〇年一〇月二八日)において、内藤は検察官の主尋問に対し、自己の捜査段階の供述を覆して、「警察官から執拗に追及され、本当にやったのかなという気持ちになり、虚偽の自白をした。果して本当に関与したのだろうかと思い続けていたところ、共犯者からの手紙を契機に事件に関与していないことがわかり、否認に転じた」旨弁解して、犯行を全面的に否認する証言をしたことが認められる。しかし、前記(一)の(2)で述べたとおり、内藤は自らが被告人となっていた公判廷では、論告求刑段階まで公訴事実をみとめていたのであり、その上、爆弾の製造という重大事件につき自白した理由について、自分がやったのかなという気持ちになり自白したというのでは、直ちにこれをもっともな弁解として認めるのはためらわれるのであり、検察官が右証言の信用性を低く評価しても、あながち不合理とはいえない。

(3) 江口の法廷供述

<証拠略>によれば、第三一回公判(昭和五〇年一〇月二九日)及び三二回公判(同年一一月一一日)において、江口は検察官の主尋問に対し、「警察官から執拗に追及されるなどし、頭の中が混乱してしまい、一瞬ピース缶爆弾のようなものに手を触れたような幻覚が生じ、虚偽の自白をした」旨弁解して犯行を全面的に否認する証言をしたことが認められる。しかし、前記(2)と同様、そのような弁解を直ちにもっともなものとして認めるのはためらわれるのであり、検察官が右証言の信用性を低く評価しても、あながち不合理とはいえない。

(4) 増渕の法廷供述

<証拠略>によれば、第三四回公判(昭和五〇年一二月一一日)ないし四四回公判(昭和五一年六月二二日)において、増渕はその証人尋問において、「警察官から共犯者らが事実を認めていると言われるなどし、警察官の誘導のまま認めてしまい、検察官の取調べの際にもそのまま認めた」旨弁解して犯行を全面的に否認する証言をしたことが認められる。しかし、前記(2)と同様に、直ちにこれをもっともな弁解と認めるのはためらわれるのであり、検察官が右証言の信用性を低く評価しても、あながち不合理とはいえない。

(5) 佐古の法廷供述

<証拠略>によれば、第四六回公判(昭和五一年九月二八日)ないし五九回公判(昭和五二年六月八日)において、佐古は被告人質問に答えて、自己に対する全ての公訴事実を否認し、捜査段階の自白は全て捜査官の強制による内容虚偽のものであると供述したことが認められる。しかし、佐古に対して捜査官が自白を強制したことを認めるに足りる証拠はないので、検察官が右供述の信用性を低く評価しても、あながち不合理とはいえない。

(6) 前原の法廷供述

<証拠略>によれば、第六〇回公判(昭和五二年六月二八日)ないし七七回公判(昭和五三年七月一四日)において、前原は被告人質問に答えて、自己に対する全ての公訴事実を否認し、捜査段階の自白は全て捜査官の強制による内容虚偽のものであると供述したことが認められる。また、<証拠略>によれば、前原は、昭和四八年六月三〇日ころ、当時在監していた東京拘置所から浦和拘置所に在監していた菊井に「ボクはアメ文についてのごく一部、アメ文に使われたタイマーと乾電池を見たということを思い出した。これもマズかった」などと記載した手紙を送ったことが認められる。右手紙の記載内容は、アメ文事件に関して知識を有する者が取調べにおいてそのことに関連して供述してしまったことを反省する心理状態及びアメ文事件に関する前原自白の自発性及び真実性を表わすとみるのが自然である。<証拠略>によれば、前原は、昭和五七年七月一四日、増渕らを審理していた東京地裁刑事九部の第二六九回公判において証人として証言した際、右記載につき、「これが事実であったのではないかというふうに思い込んでいた時点だったのでそのように書いた」旨証言したこと、その後の昭和五八年三月二四日、刑事五部の被告人質問において、右証言を訂正し、「右記載は、表現が正確でなく、アメ文事件に使用されたタイマーと乾電池を思い出したと捜査官に供述したことがまずかったとの意味である。この手紙を書いた時点でアメ文事件においてタイマーや乾電池のはんだ付けに関わっていないことははっきりと分かっていた」旨供述したことが認められる。右手紙が前原の捜査段階における自白の信用性を担保し、公判段階における供述を弾劾する有力な証拠とも考えられ、右手紙の記載内容はそのような趣旨のものではないとする前原の説明が明快とはいえないことからすると、検察官が前原の公判段階における供述を信用できないと判断しても、あながち不合理とはいえない。

(7) 村松の法廷供述

<証拠略>によれば、第七七回公判(昭和五三年七月一四日)ないし八五回公判(昭和五四年二月二〇日)において、村松は被告人質問に答えて、取調べ警察官から執拗に自白を強要された結果、虚偽の自白をした旨弁解して犯行を全面的に否認する証言をしたことが認められる。しかし、前記(2)と同様、そのような弁解を直ちにもっともなものとして認めるのはためらわれるのであり、検察官が右証言の信用性を低く評価しても、あながち不合理とはいえない。

(8) 平野の法廷供述

<証拠略>によれば、平野は、第一四六回公判(昭和五七年一〇月七日)、第一四七回公判(同月二七日)及び第一五一回公判(同年一二月二三日)の被告人質問において、捜査段階と同様、公訴事実について否認に終始するとともに、検察官において原告らがピース缶爆弾を製造した可能性がある月日の一つとして主張していた昭和四四年一〇月一四日の午後は自己にアリバイがある旨供述したことが認められる。しかし、平野の右アリバイ供述は、単に「同日の午後は、引っ越しの荷物を自室で整理していた」というにとどまり、客観的にこれを裏付ける証拠は一切なかったのであるから、検察官が平野の供述によって、原告らの嫌疑が裁判所の判断を待つまでもなく払拭されたとはいえないと判断しても、あながち不合理とはいえない。

(9) 原告の法廷供述

<証拠略>によれば、原告は、第一四四回公判(昭和五七年九月一六日)及び一四五回公判(同月二九日)の被告人質問において、公訴事実については捜査段階と同様否認し、アリバイ等の主張はなかったことが認められる。

(四) 共犯者とされた者の自白の問題点の明確化と公訴追行・維持の違法性

原告は、本件ピース缶爆弾事件を立証するに当たり、有力な証拠となる各共犯者の自白について、自白内容自体の不合理性、自白と客観的事実との矛盾またはアリバイの存在等、様々な問題点が公判廷で明らかになったのであるから、検察官は、公訴の維持にこだわることなく、公訴の取消を行うか、あるいは無罪の意見を述べる等の措置を取るべきであったと主張する。しかし、前記(一)ないし(三)で述べた点を併せ考えると、原告主張の問題点が公判審理の途中において裁判所の判断を待つまでもなく明瞭な事柄となり、検察官の起訴当時の判断を完全に覆し、もはや有罪判決を期待し得ないことが明らかな状況に至ったものということはできない。したがって、右理由により検察官の公訴追行・維持が違法となったものということはできない。

2 製造事件の訴因変更請求の違法性(原告の主張3の(三)の(2))

(一) 製造事件の訴因変更請求に至るまでの経過

(1) 冒頭手続における求釈明・釈明論争

<証拠略>によれば、訴訟冒頭における釈明論争等は以下のとおりであったことが認められる。

第一回公判(昭和四八年一〇月二〇日)において、製造事件の起訴状記載の公訴事実中の「ほか数名と共謀のうえ」が「ほか十数名と共謀のうえ」と訂正され、弁護人の求釈明の結果、製造事件について、参加者が原告、村松、前原、増渕、堀、江口、前林、石井、平野、佐古、内藤、国井及び菊井の計一三名であること、一〇月一五日ころ及び一六日ころに河田町アジトで、赤軍派が一〇・二一武装蜂起に使用する爆弾を製造することを謀議したこと、被告人らが塩素酸カリ及び砂糖を爆弾に充填したこと、前原、村松、増渕、江口、堀、佐古、内藤及び平野が製造作業を行ったこと、、一五、六個の爆弾が製造されたことが明らかにされる一方、製造日の「一六日ころ」はそれ以上に特定されなかった。八・九機事件については、原告が前原、村松、増渕、堀、内藤、氏名不詳者二名と共謀したこと、点火し投てきしたのは村松、原告、堀のいずれかであることが明らかにされた。また、アメ文事件につき被告人が増渕、佐古のほか氏名不詳者一名と共謀したことが明らかにされた。

第二回公判(同年一一月九日)において、一五日ころの共謀参加者は増渕、村松、原告、前原、佐古、国井及び菊井、一六日ころの共謀参加者は増渕、村松、原告、前原、佐古、国井、堀、江口、平野、内藤、石井及び前林であることが明らかにされた。一方、爆弾材料の入手者、入手先は明らかにされず、爆弾の処分先はアメ文事件及び八・九機事件のほかは明らかにされなかった。

(2) 冒頭陳述追加補充

<証拠略>によれば、第一五回公判(昭和四九年九月五日)において、検察官が冒頭陳述追加補充を行ったこと、検察官は右追加補充において、中野坂上事件に係る三個、大菩薩峠事件(福ちゃん荘事件)に係る三個及び松戸市岡崎アパート事件に係る二個の使用状況を明らかにしたことが認められる。原告は、検察官が右追加補充において京都公安調査局事件との関係に言及しないことを捉えて、検察官が右事実を無視することによって公訴を追行・維持しようとした旨主張する。しかし、<証拠略>によれば、捜査機関に右事件で使用された爆弾の入手・処分等が判明するのは昭和四九年一〇月以降であることが認められ、右事実に照らせば、検察官がいまだ使用事実の他は入手経路等の詳細が不明な京都公安調査局事件との関連に触れなかったことが違法であるということはできない。

(3) 石井アリバイ

<証拠略>によれば、第一五回(昭和四九年九月五日)ないし第一八回公判(同年一〇月二一日)において石井の証人尋問が行われたこと、第二〇回公判(同年一一月一三日)において、右尋問に際し呈示された勤務先組合の伝票や領収書綴りの証拠申請に対し、検察官が同意し、取調べがされたことが認められる。また、<証拠略>によれば、弁護人の提出に係る石井アリバイの裏付け証拠として、石井の勤務先組合の伝票等の会計帳簿類及び勤務先組合の常務理事である牧野伸一の証言があること、第一一一回公判(昭和五五年一一月一三日)及び一一三回公判(昭和五六年一月一四日)に、牧野の証人尋問が行われたこと、第一五七回公判(昭和五八年四月二一日)において、勤務先組合の残業許可簿、金銭出納帳等の書証が取り調べられたことが認められる。

ところで、右帳簿類はアリバイの有力な裏付け証拠であるところ、<証拠略>によれば、昭和四八年三月に捜査官が勤務先組合を訪れ、石井の勤務の事実を照会したところ、石井には見覚えがない旨の回答であったこと、昭和四九年一〇月、弁護人から出金伝票や領収書が提出されたこと、昭和五四年六月一八日、検察事務官が組合から金銭出納帳、元帳、職員賃金書類(石井分)の任意提出を受けたこと、その際、牧野が他に書類はないと述べたこと、警察官が同年七月二五日に牧野の指示のもと書類を捜査したが、特に発見されなかったこと、その後、別の場所に保管されていたとして、残業許可簿が弁護人から提出されたことが認められる。

このように、捜査機関の照会の際には発見されないのに、弁護側が照会すると発見されるという経緯があったことからすれば、検察官がその記載内容に疑念を抱いて、その信用性につき慎重な判断を要するとの姿勢をとったこともやむを得ないことといえる。また、組合の伝票等の記載が信用できるとしても、一〇月一〇日、一一日の午後及び一二日にピース缶爆弾を製造したとする余地が依然として残る。したがって、石井アリバイが成立して原告らに対する公訴事実が客観的に成立し得ないものとは考えられないと検察官が判断したことをもって不合理であるということはできない。

(4) 江口アリバイ

<証拠略>によれば、第三一回公判(昭和五〇年一〇月二九日)における江口の証人尋問において、江口がアリバイを主張したことが認められる。しかし、<証拠略>によれば、江口及び証人川添(江口の勤務先研究室の室長)が、研究室の勤務形態はルーズであった旨証言したことが認められ、右証言に照らせば、検察官が右アリバイに疑問を持ったことをもって不合理であるということはできない。実際、<証拠略>によれば、江口アリバイは五部判決によっても一〇月九日及び一五日のほかは成立が認められるには至っていない。

(5) 河田町アジトの現場検証

<証拠略>によれば、弁護人の昭和五一年六月二二日付け証拠調請求に基づき、昭和五一年九月二日に河田町アジトの現場検証が行われたことが認められる。右現場検証の結果に照らしても、河田町アジトが製造現場としておよそ考えられないという事実が明らかになったものとは言えない。

(6) その他自白の信用性を疑わしめる事実

遺留物である爆弾等の証拠物を鑑定した鑑定人の尋問結果及び本件ダンボール箱の製造状況に関連する鑑定の結果に照らしても、裁判所の判断を待つまでもなく、検察官の起訴当時の判断を覆し、もはや有罪判決を期待し得ない状況に至ったものとまでいうことはできない。

(二) 製造事件の訴因変更請求の違法性

(1) 訴因変更請求に至る経緯

<証拠略>によれば、弁護人らが、第四一回公判(昭和五一年四月二七日)における公判手続更新に対する意見陳述において、本件ピース缶爆弾事件と京都公安調査局事件との関連を指摘したこと、第五〇回公判(昭和五一年一一月二五日)において京都公安調査局事件の公判記録の取り寄せを請求し、第七〇回公判(昭和五三年二月二四日)において右記録の証拠調請求をなしたこと、右記録が第七七回公判(同年七月一四日)において取り調べられたこと、第七五回公判(同年六月二日)において、検察官が、製造事件の訴因変更請求をし、「昭和四四年一〇月中旬ころ」製造したと主張するに至ったこと、右訴因変更の理由につき、第七六回公判(同年六月二六日)において、検察官が釈明書を提出し、「公訴提起当時ですら、京都公安調査局事件の犯人や爆弾が運ばれ爆発するに至った経路等は全く不明であったこと、本件ピース缶爆弾製造日時の特定はもっぱら被告人ら実行行為担当者の記憶を頼りになされており、これを根拠づける合理的事実の裏付けに乏しかったものであるところ、右京都公安調査局事件の捜査結果から、訴因変更請求書記載公訴事実のとおり日時を変更するのが合理的であると思料されるに至ったので、訴因変更請求に及んだこと」を明らかにしたことが認められる。

(2) 右訴因変更請求の違法性の有無

<証拠略>によれば、刑事裁判所が第八七回公判(昭和五四年三月二七日)において右訴因変更請求を許可したことが認められる。この事実と既に認定した一連の訴訟経過及び京都公安調査局事件の全容が判明した時期に照らせば、検察官が第七五回公判の時期に訴因変更請求をしたことが違法であるということはできず、また、既に認定した証拠関係によれば、変更後の訴因について有罪判決を期待し得ないことが明らかな状況にあったとはいえない。原告は、検察官が本件製造事件と京都公安調査局事件との関係を不当な目的をもって殊更曖昧にしてきたと主張するが、右主張を認めるに足りる証拠はない。

したがって、右訴因変更請求の段階で検察官が公訟の追行・維持を断念すべきであったものということはできない。

3 八・九機事件若宮真犯人証言(原告の主張3の(三)の(3))

(一) 若宮真犯人証言に至る経緯

<証拠略>によれば、検察官は、第一五回公判において、冒頭陳述追加補充をなすとともに、福ちゃん荘事件関係記録の証拠調請求をしたこと、右記録は第八七回公判(昭和五四年三月二七日)において取り調べられたこと、これに伴い、右事件に関与した赤軍派関係者である木村一夫、大桑隆、大川保夫、酒井隆樹、荒木久樹、前田祐一、出口光一郎及び若宮正則らにつき、検察官申請または弁護人申請ないしは双方申請による証拠調請求がなされ、第八六回公判(同年三月九日)の証人木村一夫を筆頭に、大部分の者が順次証人として取り調べられるに至ったこと、右赤軍派関係者の供述調書及び証言調書並びに本件ピース缶爆弾事件における証言によって、昭和四四年一〇月二一日正午前後ころピース缶爆弾一二個が中條宅で開かれた赤軍派の戦術会議に持ち込まれていたことが明らかになったことが認められる。右公判経過によれば、赤軍派関係者の証人尋問によって、一〇・二一闘争当日にピース缶爆弾が赤軍派の支配下にあったことが明らかになったが、このことは、製造したピース缶爆弾を赤軍派に引き渡した旨及び一〇・二一闘争に際し、ピース缶爆弾を持ち帰った旨並びに持ち帰った爆弾を八・九機事件とアメ文事件に使用した旨の佐古らの各供述と矛盾するものではない。

<証拠略>によれば、第八七回公判(同年三月二七日)において、証人荒木久義が、大森アジトに一緒に居た二人が、一〇・二一闘争から間もない二四日ころ、八・九機に赴いた旨、その晩、その内の一人が、「独りで攻撃を実行した。もう一人の者は脱落した」と荒木に話した旨、八・九機事件と本件被告人らとは無関係である旨、右実行者が若宮であることを示唆する旨の証言をしたことが認められる。そして、<証拠略>によれば、第八八回公判(同年四月一〇日)及び第八九回公判(同年五月一五日)において、証人若宮正則が、八・九機事件の真犯人として事件の全体を詳細に証言したこと、若宮は、検察官の反対尋問には一切応ぜず、裁判所側の発問にも一部答えない点があったこと、さらに第九二回公判(同年九月一八日)及び第九三回公判(同年一〇月五日)において、証人古川経世は、若宮とともに八・九機攻撃に赴いたが、八・九機前で中止を主張し、引き返した旨証言したことが認められる。また、<証拠略>によれば、昭和五八年三月一五日の期日外尋問において、若宮が第八八回及び第八九回公判におけるのと概ね同じ内容の証言をしたこと、右尋問の際も、検察官の発問には一切答えず、裁判所側の尋問にも一部答えない点があったことが認められる。

(二) 若宮証言と公訴の追行・維持

若宮証言には、前記(一)記載の三人の証言が一致すること、八・九機事件を単独犯行とすること、攻撃対象選定に用いた「前進」の地図について裏付けがあること、八・九機に至る経路、導火線切断、点火方法及び八・九機正門前の警備状況に関する証言が客観的事実に合致すること、逃走途中に犬を連れた女の子とぶつかりそうになった旨証言するところ、右女の子は目撃者である高杉早苗である可能性が高いことなど、証言の信用性を肯定すべき事情が含まれている。しかし、若宮は、検察官の反対尋問に対して一切の供述を拒否しており、このような証言拒否は訴訟法の許容しないところであり、主尋問の信用性を著しく減殺するものであること、下見の経路と所要時間に疑問があること、出世稲荷付近の状況が客観的事実と相違することなど、証言の信用性を否定的に解すべき重要な事情もある。

右のように、若宮証言には信用性を肯定する事情もあるものの、これを否定的に解すべき重要な事情もあるのであり、若宮証言によって八・九機事件の犯人が原告らではないことが裁判所の判断を待つまでもなく明らかになったということはできない。したがって、若宮証言を契機に公訴の追行を取り止めなかった検察官の行為を違法であるということはできない。

(三) 検察官の更新意見について

<証拠略>によれば、検察官が第一〇五回公判における更新意見陳述において、「八・九機事件の現場付近には投てき班員たる村松、原告、堀の他に少なくとも一名の共犯者がおり、投てき後、犯人らは少なくとも二手に分かれ、一名は高杉方前路地を通って逃走し、他の少なくとも三名は余丁町小学校裏方向を通って逃走した。河村は右余丁町小学校方面に犯人を追跡し、その途中通行人から『犯人三名逃走』の情報を得たのであり、高杉方前を通って犯人を追跡した警察官は、別人である」旨主張したことが認められる。右意見は、当時の証拠関係に照らすと、有罪を期待できないのに、専ら訴訟を追行するためだけになされた主張ということはできない。

4 アメ文事件ダンボール箱製造状況と村松アリバイ(原告の主張3の(三)の(4))

<証拠略>によれば、第七七及び七八回公判において、高橋文男の鑑定書及び同人の証言等が法廷に顕出されたこと、本件ダンボール箱が既製の大型ダンボール箱の一隅を利用して作った手製のものでないことが明らかになったことが認められる。右鑑定の結果、佐古らの自白と客観的事実とが矛盾する可能性が極めて高くなったが、佐古の一側面切り落とし供述が佐古供述の信用性を担保するとも考えられ、また、自白中に客観的事実に反する部分があっても自白全体の信用性に影響を与えるものではないとの見方もあったことに照らし、裁判所の判断をまつまでもなく、佐古及び前原の供述全体の信用性が否定されたとはいえない。

<証拠略>によれば、弁護人らは、いわゆるダンプ窃盗事件との関係で村松がアメ文事件に関与できないことを立証するために、第五〇回公判(昭和五一年一一月二五日)において、右ダンプ窃盗事件の記録取寄申請をし、その後被告人村松の供述(第七九回公判)等を通じて、右村松アリバイの詳細について立証活動を行ったことが認められる。しかし、仮に村松が主張するように村松が昭和四四年一一月一日未明にダンプカーを窃取したとしても、その後若松町アジト又は風雅荘の自室で寝ていたということを客観的に裏付ける証拠は全くない。したがって、右アリバイが確実に成立し、村松がアメ文事件の実行に係わっていないとはいえないのであるから、これをもって、原告に対する公訴提起時の嫌疑を客観的かつ明白に失わせるものとはいえない。

5 牧田真犯人証言を初めとする訴訟終盤の立証活動(原告の主張3の(三)の(5))

(一) 製造事件における犯行日の不存在(ミナミ・エイトの休日)

<証拠略>によれば、昭和五六年六月九日における新宿簡裁出張尋問及び第一二一回公判(同月二四日)における斎藤都之、南君枝及び斎藤コウらの証言によって、喫茶店ミナミ及びエイトの休日についての立証がなされたことが認められる。しかし、これによって石井アリバイが確定的に成立するものとまではいえなかったのであり、右立証により公訴追行が直ちに違法になるものとはいえない。

(二) 国井・佐古アリバイ

<証拠略>によれば、佐古靖典証言(第一五二回公判)や国井啓子証言(第一五七回公判)により、昭和四四年一〇月二一日のピース缶爆弾二個の持ち帰りに関し佐古及び国井にアリバイの存することの立証活動がなされたことが認められる。しかし、佐古靖典は佐古の実兄で必ずしも公正に証言できる立場にある者ともいえず、また、国井アリバイについても、これを裏付けるのは、国井の実母の証言とその作成に係る日記に尽きるのであり、これらの証拠によって佐古及び国井アリバイが確実に成立するものとは考えなかった検察官の判断が違法であるということはできない。

(三) 牧田真犯人証言

<証拠略>によれば、第一三七回公判(昭和五七年五月二五日)から第一四三回公判(同年八月二五日)において証人牧田吉明が、本件ピース缶爆弾は牧田、三潴末雄、桂木行人、A及びBが製造した旨証言したこと、牧田が、反対尋問において、証言中に出て来る右A及びB、ダイナマイト等窃盗の下見の際の同行者である大学の後輩某及び大村寿雄に対し導火線等を手渡した際に居合わせた者の各氏名を問われたが、この点の証言は拒絶したこと、牧田証言において、関係者として実名を挙げられ、検察官から証人尋問の請求がなされた三潴、桂木、田辺繁治及び小俣昌道が、いずれも召喚を受けて出廷しながら宣誓を拒絶して証言するに至らなかったこと、大村が、同様にして召喚を受けながら出頭せず、結局、検察官が、大村が証言する見込みもないとして証人請求を撤回したことが認められる。

右牧田証言については、証言後に証言内容に沿うダイナマイト等の盗難の事実が明らかになったこと、牧田の証言する右盗難現場の状況及び盗難品の形状等が客観的事実とほぼ合致すること、京都公安調査局事件(琵琶湖解体事件を含む。)のピース缶爆弾を右事件の犯人である大村寿雄に交付したのは牧田である蓋然性が高いことが<証拠略>によって認められるところ、牧田証言はこれに符合すること等、証言の信用性を肯定すべき事情がある。他方、牧田証言には、証言を拒絶した事項が含まれること、ダイナマイト窃取の日、窃取したダイナマイトの種類及び電気雷管をも窃取したとする点について客観的事実との関連でやや疑問があること、火薬庫周辺の足跡、窃取後に引き返した道筋及び火薬庫発見状況について疑問があること、五〇個以上一〇〇個以下製造したとする割には、存在が明らかになったピース缶爆弾が一三個にすぎないこと等、供述の信用性を否定的に解すべき事情がある。

牧田証言については、五部判決が判示するように、牧田が本件ピース缶爆弾の製造に深く関与しているのではないかとの嫌疑を、ある程度示すものであって、かなりの信用性を有するものとも考えられる。しかし、右に述べた疑問点がある上に、公訴時効期間が経過した後の証言であること、ダイナマイト等を窃取した点のほかは、爆弾製造に直接携わっていない旨の証言内容であり、製造の核心部分については伝聞、推測事項が多く含まれていることに照らせば、右証言によって、原告に対する公訴提起時の犯罪の嫌疑が払拭されたと考えることはできない。

(四) 論告において検察官のとるべき態度

以上述べてきたことからすると、終結段階においても、原告に対する公訴提起時の犯罪の嫌疑が完全に払拭され、裁判所の判断を待つまでもなく有罪判決が到底期待できない状況に至ったとはいえないのであるから、検察官が無罪の論告をしなかったことや京都公安調査局事件と製造事件との関係を明確に主張しなかったことが違法であるということはできない。

6 結論

以上のとおり、検察官が本件ピース缶爆弾事件について公訴を維持・追行したことに違法性を認めることはできない。

四 本件ピース缶爆弾事件に関する控訴提起の違法性(争点4)

<証拠略>によれば、東京地方裁判所刑事第五部が、昭和五九年三月二二日、原告を含む本件ピース缶爆弾事件の被告人ら五名全員に対し右事件の各公訴事実全部につき無罪とする判決(五部判決)を言い渡したこと、右無罪判決に対し、検察官が、四月三日、事実誤認を理由として控訴を申し立て、その後、昭和六〇年四月二五日付けで控訴趣意書を提出したこと、検察官は五部判決の証拠の価値判断や事実認定に当たっての証拠の取捨選択を不当と考え、既に提出した証拠や新たに提出する証拠について上級裁判所の評価、判断を求めて控訴を提起したこと、弁護人は同年一〇月三一日付けで答弁書を提出し、一一月二二日、本件控訴審第一回公判期日が開かれたものの、第二回公判前の一二月二八日、検察官が本件控訴を取り下げ、これにより同日、五部判決が確定したことが認められる。また、<証拠略>によれば、右事件の共犯者として日石・土田邸事件で起訴され、東京地方裁判所刑事第九部に係属していた増渕、前林、堀及び江口に対しては五部判決に先立つ昭和五八年五月一九日、各公訴事実全部につき無罪とする判決(九部判決)が言い渡されたこと、右判決に対する検察官の控訴が昭和六〇年一二月一三日に棄却され、同月二七日、右無罪判決が確定したことが認められる。

右認定の経過によりなされた本件ピース缶爆弾事件に関する検察官の控訴につき、これが刑事訴訟法の趣旨に反する違法なものであることを認めるに足りる証拠はない。また、その控訴理由をみても、製造事件において、一〇月一一日に謀議した上、一二日に製造した旨新たに主張する点は、一審で製造日を一〇月中旬としていたことの範囲内で主張を変更したにすぎず、その他の控訴理由をみても違法と目されるような主張は存しない。

原告は、検察官が、日石、土田邸事件の公訴をあくまでも維持する必要から、右事件の壮大なる別件である本件ピース缶爆弾事件の無罪確定を阻止するために本件公訴を申し立てた旨主張するが、被告国の主張によれば、日石、土田邸事件の無罪が確定した結果、本件ピース缶爆弾事件の主犯である増渕の無罪が確定したので、増渕に比し従属的な立場にあった原告らに対する控訴を維持することは、処罰の均衡上相当でなく、その実益も乏しいと判断したことから、検察官は五部判決に対する控訴を取り下げたというのであり、被告国の右主張を覆し、原告の主張を裏付けるに足りる証拠はない。

したがって、検察官が本件ピース缶爆弾事件に関し控訴を提起したことについて違法性を認めることはできない。

五 被告菊井の偽証の有無(争点5)

1 被告菊井の本件ピース缶爆弾事件に関する供述の経過等(原告の主張5の(一))

(一) 製造事件による逮捕勾留中の供述

<証拠略>によれば、昭和四八年三月一六日、被告菊井が製造事件容疑で逮捕されたこと、被告親崎が、右被疑事実につき同年六月二五日、被告菊井についても嫌疑が認められるものの、加担の程度が比較的軽微であった上、既に別件の強盗殺人罪等により起訴されており(いわゆる朝霞自衛官殺害事件)、本件を追起訴しても量刑にさしたる影響を及ぼさないと思われることなどを考慮し、同人を起訴猶予に付したこと、右逮捕勾留中、被告菊井が以下のとおり供述したことが認められる。

(三月一六日弁解録取書)被疑事実については私は関係ありません。

(同日員面調書)身上、経歴等。被疑事実は否認。ピース缶爆弾を見たことはない。前原からではないかと思うが、一〇・二一闘争で爆弾が手に入ったと聞いたが自分は見ていない。誰かからこの爆弾が八・九機事件に使われたらしいと聞いた。

(同月一八日員面調書)L研の活動状況。赤軍と共闘態勢になり武器として爆弾を使用するという話を聞いていたが、これまでの闘争においては爆弾を一度も見ていない。

(同日検面調書)被疑事実については記憶がない。

(同月一九日勾留質問調書)被疑事実は全く身に覚えがない。

(同月二一日員面調書)赤軍派との関係

(同月二二日検面調書)L研の活動状況

(同月二四日員面調書)河田町アジトについて。被疑事実は思い出せない。

(同月二八日員面調書)否認。増渕、村松、前原、佐古、原告、国井、平野が喫茶店で一堂に会した記憶は、どうもはっきりしない。若松町アジトで一堂に会したことはなかったと思う。爆弾を作るという話を聞いた記憶はない。ダイナマイト、導火線及び工業用雷管を一度も見たことがない。ピース缶爆弾を見たことがない。前原から「八・九機は自分がやった」というような意味の話を聞いた(誤りのないことを申し立てたが、署名指印は拒否)。

(四月二日員面調書)日時及び目的は不明であるが、たしか国井と一緒に河田町アジト付近をぶらぶら歩いたりしたことがあったような気がする。もしかするとその日が爆弾製造の当日であって、その行動が外周警戒ということであったかもしれない。

(同月五日検面調書)右に同じ。

(二) 補充捜査を受けるまでの供述その他

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

昭和四八年六月三〇日ころの前原から被告菊井に宛てた手紙に、「君について今回の事件には全く関係していない者からだが妙なことを聞いた。『君が権力のスパイ』だというのだ。ボクは絶対に信じない。何故なら君はボクにとって誰よりも信頼できる人だったから。今でも親友だと思っている。ただボクを納得できるように話して欲しい。君の現状とか、思想信条とか、あわてなくともいいから。」との記載がある。

同年一〇月二〇日ころ、被告菊井が山中幸男に取調べ状況報告書を送付している。内容は後述する昭和五二年作成の報告書と概ね同じ。

雑誌「情況」昭和四九年一〇月号の「朝霞自衛官殺害事件」と題する記事に、被告菊井が左翼を装った情報ブローカーである旨記載されている。

同年一一月二〇日ころの被告菊井から増渕に宛てた手紙に、公判の何か役に立てたらと思っているので、できることがあれば言って下さいとの記載がある。

昭和五一年四月八日ころの被告菊井から増渕に宛てた手紙に、「僕の場合、とりわけ六九年当時の事実関係、およびピース缶爆弾の製造ならびに使用(八・九機、アメリカ文化センター)ということになりますが、僕が証言台に立つことにより、佐古ら権力に屈伏・迎合し遂にスパイになり下った奴らの偽証を粉砕し、事件当時のマス(増渕のこと)たちのアリバイについて証言できると思います」との記載がある。

同年八月六日ころの被告菊井から村松に宛てた手紙に、当時の記憶を呼びおこし、事実関係についてまとめるために、製造事件、八・九機事件及びアメ文事件の全体の流れというか、ストーリーというか、最低限それだけの資料を与えてほしい旨の記載がある。

昭和五二年七月三一日ころの江口から被告菊井に宛てた手紙に、本件ピース缶爆弾事件の冒頭陳述の簡単な抜粋が添付されていた。また、右手紙には、昭和四八年の取調べ当時、被告菊井と何回も顔を合わせたのが不思議だ、冒陳にも調書にも被告菊井の名前が登場するのに、起訴しなかったことからも、被告菊井がデッチ上げの対象に入ってなかったのかもしれないとの記載がある(被告菊井は、右手紙を読んで、江口が遠回しに自分をスパイ呼ばわりしたと理解した旨証言する。)。

同年八月二日ころの被告菊井から江口に宛てた手紙に、江口の右手紙を読んで、憤慨した、江口に関しては一切、公判協力を拒否する旨の記載がある。

同年八月ころ、仙谷弁護人及び森本弁護人が被告菊井に接見し、昭和四八年当時の取調べ状況を報告するよう求めた。

同月二二日ころの被告菊井から仙谷弁護人に宛てた手紙で、弁護人の依頼を受けて、ピース缶爆弾事件について受けた取調べの状況を報告している。調書の作成と署名捺印に応じたのは弁解録取書のみであること、被疑事実について否認し、L研の構成や活動状況等については黙秘するという姿勢で対処し、否認の姿勢を堅持したこと、取調官は自分の役割が特定できていないようで、ダイナマイトを包丁で切ったり、薬品を調合するなどして製造行為に直接タッチした、玄関前の庭で蓋に導火線の穴を開けた、外で見張りをしたという、三つの筋で追及されたこと、ダンプカー窃盗についても追及を受け、全面的に黙秘した(否認すると嘘をつくことになるし、かといって喋るとマズイからである)こと等を報告している。

(三) 補充捜査を受けてからの供述

<証拠略>によれば、被告長山が、昭和五四年五月二五日ころから同月三一日まで及び同年六月八日から同月一二日まで岡山刑務所で被告菊井を取り調べたこと、被告菊井が、五月三〇日付け検面調書で、昭和四四年九月及び一〇月当時の活動状況を供述し、ピース缶爆弾事件については「答えたくありません」と供述するにとどまったこと、右検面調書を読み聞かせたところ、誤りのない旨申し立てたが、署名指印は拒否したこと、六月一〇日付け検面調書で、昭和四四年九月及び一〇月当時の活動状況をより詳細に供述し、製造事件については、「現段階では何とも申し上げられませんが、もう少し記憶を整理し、良く考えてから話すかどうか決めたいと思います」と供述し、八・九機事件及びアメ文事件については「関与した記憶はありません」と供述したこと、同月一二日付け検面調書で、「一〇・二一闘争時に、ピース缶爆弾の残りのいくつかを持ち帰って来たという話を聞いたような気もしますが、私はその爆弾は直接見ていません」「誰かが八・九機にピース缶爆弾を投げたというようなことを聞いたような記憶はあります。」「製造当日、レポしたかどうかについても、又、何の目的でレポしたのかもう少し考え、記憶を整理してから答えるかどうか決めたいと思います。」「製造事件について私が関与したかどうか、どの程度知っているかどうか等については、もう少し考えてから、自分の気持ちに踏ん切りがついた段階で答えるかどうか決めたいと思います」と供述したこと、被告菊井が同月一四日ころに中野刑務所に移監されたこと、被告長山が同日ころから被告菊井の取調べを再開し、その後、被告菊井が製造事件に関与した旨の供述を始めたこと、被告菊井の製造事件に関与した旨の供述は、七月一〇日付け検面調書に録取されたこと、被告菊井の取調べは七月三一日まで行われたこと、中野刑務所移監後は一週間のうち一ないし二日は取調べがなかったこと、取調べは終日のこともあれば、午前中のみや午後からのこともあったことが認められる。

(四) 証言

<証拠略>によれば、被告菊井が、本件ピース缶爆弾事件の第九四回(昭和五四年一〇月二三日)ないし一〇一回(昭和五五年三月二四日)及び一五六回公判期日(昭和五八年三月二九日)並びに九部昭和五七年九月二日岡山地方裁判所で行われた出張尋問において、証人として宣誓したうえ証言したこと、右証言の骨子は、「原告を含むL研グループ十数名が、昭和四四年一〇月中旬ころ、河田町アジトにおいてピース缶爆弾十数個を製造するのを目撃した。被告菊井自身は右アジト付近のレポとして関与した」というものであったことが認められる。また、<証拠略>によれば、被告菊井が九部第一七八回公判(昭和五四年一一月八日)ないし一八六回公判(昭和五五年二月一九日)において、五部で行ったのと同旨の証言をしたことが認められる。昭和五四年ないし昭和五五年の九部証言は、刑事裁判では証拠とされていないが、本件訴訟では被告菊井の偽証の有無が判断の対象であるので、併せて考慮することにする。

(五) その他

<証拠略>によれば、被告菊井が一〇月一五日に証言のため中野刑務所に再度移監されたこと、被告長山が第九六回公判(同年一一月二七日)と第九七回公判(同年一二月一四日)の間、九七回公判と九八回公判(昭和五五年一月一八日)の間に証人テスト及び主として他の爆弾事件に関する事情聴取を行ったこと、公判立会検察官が第九八回公判と第九九回公判(同年一月三〇日)の間に、主として他の爆弾事件に関する事情聴取を行ったことが認められる。

(六) 本件訴訟における訴訟追行態度

被告菊井は訴状記載の請求原因事実を否認する旨の答弁書を提出しているものの、適式な呼出を受けながら七年余の間に三四回にわたって開かれた口頭弁論期日に一度も出頭せず、適式な呼出を受けながら被告本人尋問の期日にも出頭しなかった。

2 被告菊井の証言の分析(原告の主張5の(二))

(一) 「週刊朝日」昭和四六年三月五日号及び「朝日ジャーナル」同年五月二一日号の記事と菊井証言との関係

<証拠略>によれば、被告菊井が、昭和四六年二月ころ、京浜安保共闘の関係者を自称して、週刊朝日の記者の取材を受けたことがあること、右取材に対応する記事が「週刊朝日」同年三月五日号に、「独占インタビュー 京浜安保共闘の戦術と戦略」の表題のもとに掲載されたこと、右記事中に、「武器奪取に続いて、次に来るものは?」との記者の質問に対し、相手が、「実行だ。すでにわれわれの手にある武器はダイナマイト、散弾銃、ニップル爆弾(鉄パイプの中に黒色火薬をつめたもの)、キューリー弾(火炎びんの一種)、モロトフカクテル、ピースカン(中にクギ、パチンコ玉、黒色火薬をつめたもの)、日本刀などだ」と答えた旨の記載があることが認められる。<証拠略>には、右記事に記載されている人物の特徴は自分とは全くの別人である旨の被告菊井の証言があるが、容易に信用できない。

右記事は、記者の誇張ないし脚色等が若干あるにせよ、基本的には被告菊井の説明を基にして報じられた可能性が相当高いと考えられる。右のようなピース缶を使用した爆弾が実在したのか否かは定かでないが、本件製造事件との関連でいえば、充填物が全く異なっている。<証拠略>によれば、被告菊井は、ピース缶爆弾のことを話したかはっきり覚えていないとか、捜査当局を警戒して、わざと適当なことを言った可能性もある旨弁解して証言したことが認められる。しかし、<証拠略>によれば、右取材当時、本件ピース缶爆弾の構造の骨子は、既に新聞報道されていたことが認められ、また、被告菊井は、京浜安保共闘の関係者であると偽り、しかも、偽名でインタビューを受けたのであるから、ことさら虚偽の内容を述べる必要があるとは考えられない。したがって、右記事の記載は、少なくとも被告菊井の証言の信用性を否定的に解すべき事情であるといえる。

なお、<証拠略>によれば、「朝日ジャーナル」同年五月二一日号の記事も被告菊井が京浜安保共闘の関係者として受けた取材に基づくことが認められる。原告はこのことを捉えて、被告菊井が創作能力に富んでいることの証左であるとするが、悪性格による立証をめざすものであるから、考慮しない。

(二) 菊井検面調書添付図面と菊井証言との関係

(1) <証拠略>によれば、被告菊井が被告長山による取調べの際に、同人が目撃したというピース缶爆弾等の形状及び構造等を図示し、七月一〇日付け検面調書に添付したこと、右添付図面の「導火線付き雷管」の図に「接着剤で結合してあった」旨注記してあること、「ダイナマイトの充填されたピース缶」の図にはパチンコ玉が示されていないこと、「ダイナマイト」の図に「本体は紙で包装してあり、商標が印刷してあったが詳細は忘れました。」旨注記してあること、被告菊井が公判廷における証言で、現在の記憶に照らし、右各図が誤っている旨証言したこと、検察官の再主尋問に対しては、本件添付図面は誤りであるが、法廷で尋問を受けているうちに正しい記憶が蘇ったと弁解したこと、パチンコ玉充填については、右図面は記憶喚起が不十分のまま作成したもので、調書作成後、パチンコ玉充填を思い出した旨証言したこと、接着剤については、接着する場面はみていないが、製造開始前に接着剤で接合するという話があり、現に接着剤を見たので、当然接着剤が使われたものと考えて図示した旨証言したことが認められる。

(2) <証拠略>によれば、被告菊井は、右添付図面の作成経過について、「事情聴取の段階で本件添付図面を作成し、調書に署名押印した昭和五四年七月一〇日に、同日付を記載した。したがって、添付図面を作成した段階では記憶喚起がまだ不十分であった」旨証言する。<証拠略>によれば、被告長山が菊井検面調書に添付されている図面、地図の記入、写真の説明などは、それまでの取調べの途中逐次作って行ったものであり、それを調書完成の日に日付を入れさせ、署名押印させたものである旨被告菊井と同旨の証言をしたことが認められるのであって、被告菊井の作成時期に関する右証言は信用できる。したがって、添付図面は取調べの過程で逐次作成されたという前提で、被告菊井の証言をさらに検討することにする。

(3) <証拠略>によれば、被告菊井が昭和四八年に逮捕された時点ではダイナマイトを一度も見たことがない旨供述していたこと。昭和五四年七月ころ同人が目撃したというダイナマイトを図示し、「本体は紙で包装してあり、商標が印刷してあったが詳細は忘れた」と注記したこと、公判廷で、「ダイナマイトを目撃したのは本件製造時のみで、包装された状態のダイナマイトは見たことがない。本件添付図面及びその注記は誤りである」旨証言したことが認められる。右供述変転の理由について、<証拠略>によれば、被告菊井は、「右略図を作成したのは記憶が十分喚起されていない段階であるが、その段階では包装紙の存否ははっきりわからなかったので、包装紙があったかもしれないが、商標とかについてはわからない旨注記した。しかし、その後ダイナマイトが裸であったという記憶が喚起されたので、検面調書の本文ではその旨の供述が録取されているが、略図の方は訂正をし忘れて、そのまま添付してしまった。単純なミスである」旨弁解したことが認められる。しかし、右証言は、記憶喚起の過程として不自然である上、添付図面の注記及び「レポから帰って来た時に包装紙を外し、半分位に切ったダイナマイトを見た」旨の検面調書における供述にも合致しない。さらに、被告菊井が証言するように、本件添付図面を作成した時点では誤った記憶であったが、調書の作成時点(七月一〇日)では正しい記憶が喚起されていたという前提にたつと、本件添付図面の下方に作成月日を記述した際に図自体が眼に入らないはずがなく、同人が誤りであるという部分または体験していない事実を書き込んだという部分、特に、接着剤で結合してあった」「本体は紙で包装してあり、商標が印刷してあったが詳細は忘れました」との注記は赤ボールペンで記述されているのであるから、右誤りに気付かないはずがない。にもかかわらず、訂正がなされていないのは不自然であり、被告菊井が実際にはダイナマイトを見たことがないのではないかとの疑念を抱かせるものである。

(三) 目撃したと称する製造行為に関する証言について

(1) 目撃した製造行為について

<証拠略>によれば、被告菊井は主尋問において、同人が爆弾製造行為のうち、ピース空缶にダイナマイト及び薬品を入れる行為並びに導火線と雷管をセメダインのような形をした接着剤で結合する行為を目撃したと理解するのが素直な証言を行ったこと、反対尋問において、薬品を入れる行為を見たのではなく、入っている状態を見たのだと右証言の意味を説明し、以後、その説明を維持したこと、増渕が接着された導火線と雷管を缶の蓋に通すところを見た他、個々の製造行為は一切目撃しなかった旨証言したことが認められる。右証言は真実体験したことを反対尋問の場で補って説明したとも考えられるし(接着剤の点は、主尋問においても単に接着剤を見たという趣旨の証言にすぎないと思われる。)、一方、目撃事項について詳細な証言を避けるため巧みな言い抜けをしたとも考えられる。

(2) 第九九回公判調書速記録添付第一一図について

<証拠略>によれば、被告菊井が「ダイナマイトがピース缶に入っている状態を見た。ダイナマイトが棒状に見えた。ピース缶の内壁とダイナマイトとの間に空間があったように思う。パチンコ玉がダイナマイトの上辺から顔を出していた」旨証言したこと、右状態を図示(<略>)したことが認められる。右目撃状況については、ダイナマイトが棒状に見え、内壁とダイナマイトとの間に空間があったように思うとする点に疑問がある。また、<証拠略>によれば、パチンコ玉はダイナマイトの中程に埋め込まれていたことが認められ、この点でも疑問がある。右疑問点は、被告菊井が体験したことのない事実を証言した証左ともいえるが、あるいは、被告菊井が垣間見た感じをそのまま図示したのかもしれず、右図のみから一概に決することができない。

(3) 同第一二図2について

<証拠略>によれば、被告菊井が、真ん中付近に穴の開いているピース缶の蓋を右第一二図2として図示し、その穴の形はいびつな感じの丸穴であったと証言したこと、さらにピース缶の蓋に穴を開けるための釘と金槌を同第八図1及び2として図示し、その釘の長さは八センチであったと証言したことが認められる。ところで、<証拠略>によれば、ピース缶の蓋の穴はきれいな丸い穴のもの、ややいびつな丸穴のもの等が見受けられる。既に述べたとおり、穴開けに用いた道具ないし方法は一つであるとは断定できないのであるから、この点に関する被告菊井の証言が客観的事実に反すると断定することはできない。

(四) 増渕の行為に関する証言について

<証拠略>によれば、被告菊井が、増渕が白色粉末の詰められたピース缶を持ち、雷管と導火線を装着したものをピース缶の蓋の穴に裏から表に通しているのを目撃した旨証言したことが認められる。右証言は迫真性を有するものだが、その内容について、以下のような疑問点がある。

(1) 被告菊井の証言する、ダイナマイトとパチンコ玉に加え、塩素酸カリウムと砂糖が充填され、かつこれに導火線付き工業雷管が埋め込まれたピース缶爆弾は、証拠上存在しない。もっとも、この点は、一旦製造されたピース缶爆弾がアメ文事件で使用される前に改造されたとも考えられるので、右証言が客観的事実に反するとはいえない。

(2) <証拠略>によれば、被告菊井は、導火線と雷管部分の接続について、自らが現認していないにもかかわらず、セメダインのような接着剤で接続したと証言しながら、他方、当然目に触れているはずの接続部分に巻かれたガムテープの存在について全く言及していない。このことは不自然ともいえる。もっとも接着剤の点は製造開始前に接着剤を見たことから推測して供述したとも考えられるし、また、ガムテープの点については、比較的瑣末な事柄であり、真実体験した場合であっても、記憶の混乱、混同が生じても不自然ではない。したがって、右供述が被告菊井の証言の信用性、ひいては偽証性に影響する事情であると断定することはできない。

(3) 缶の蓋と缶体との固定について、被告菊井はガムテープでぐるぐる巻きにした旨証言する。ところで、<証拠略>によれば、右固定はまずクロロプレン系の接着剤で接着固定されたことが認められるところ、被告菊井が接着剤による固定に触れないのはやや不自然であるが、そのことから直ちに体験が基づかない供述をしたとはいえない。また、ガムテープについても、全ての固定に際し、ぐるぐる巻きにしたという趣旨で証言しているわけでもないので、直ちに体験に基づかない供述をしたとはいえない。

(4) 被告菊井の証言する手順はやや合理性に欠けるが、およそあり得ないという程のものでもない。

したがって、増渕の行為に関する被告菊井の証言中の疑問点は、同人が体験に基づかない供述をしたために生じたものであるとも考えられるが、他方、同人の記憶の混同、忘却によるとも考える余地がないわけではない。

(五) 江口の行為に関する証言について

(1) <証拠略>によれば、被告菊井がレポの途中河田町アジトにおけるピース缶爆弾製造現場に足を踏み入れ、その状況を見た際に印象に残っていることとして、江口が乳鉢の中で乳棒を使って薬品を混ぜていた者の混ぜ方を注意し、実演してみせた旨証言したこと、右乳鉢、乳棒、塩素酸カリウム入りの瓶及び砂糖を図示したこと、江口の位置について図示したが、第一〇〇回公判における図示と第一五六回公判における図示とで、江口の位置が被告菊井との関連で逆になっていることが認められる。江口の位置について異なった図示をすることは、比較的瑣末な事柄で、供述全体の信用性に影響を与えるものでないとも考えられる。しかし、一方で、被告菊井の証言には、以下に述べるとおり、信用性に疑念を投げかける事項や、さらには体験していない事柄を想像で供述したのではないかとの疑念をもたらす事項も含まれている。

(2) <証拠略>によれば、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加されたピース缶爆弾はアメ文事件に係る一個(あるいは京都公安調査局事件に係る爆発したピース缶爆弾を含め二個)のみであることが認められ、右アメ文事件に係るピース缶爆弾一個は、導火線付き工業用雷管を使用したピース缶爆弾がいずれかの機会に何者かの手によって改造され電気雷管が使用されたものと推論できる。原告は、さらに、塩素酸カリウムと砂糖の混合物は右改造の時点で新たに添加されたと推論するが、製造当初から混合物が充填されたピース缶爆弾があったとも十分考えられる。したがって、右証言を、製造過程にありえない行為を証言したものだとすることはできない。

製造当初から混合物が充填されたピース缶爆弾があったと考えた場合(<証拠略>によれば、検察官が、製造事件の冒頭陳述において、爆力を高めるため塩素酸カリ、砂糖を調合したものをピース缶爆弾に添加してあることを主張したことが認められる。)、被告菊井が証言し図示する塩素酸カリウム及び砂糖の量を前提にすれば、右混合物の添加されたピース缶爆弾の数は相当数なければならないはずである。しかし、右混合物の添加されたピース缶爆弾はアメ文事件に係る一個しか発見されていない。このことは、被告菊井の右証言の信用性に疑念を抱かせる事実といえる。また、塩素酸カリウム等を全て使用せず、ピース缶爆弾一個(あるいは京都公安調査局事件に係る爆発したピース缶爆弾を含め二個)にしか混合物を充填しなかったとすると、被告菊井が、製造現場は、レポの途中に二回にわたり各五分間くらいずつ見たにすぎない旨証言することに照らし、たまたま混合作業及び混合物が充填されたピース缶爆弾を見たというのは不自然であり、冒頭陳述に証言を符合させたとの推論を一概に排斥することはできない。

(3) <証拠略>によれば、被告菊井が、江口の行為について「ジリジリと混ぜるのではなくて軽くかき混ぜるという程度のやり方だった」「ごりごりすりつぶすような力を入れたこすり方ではなくて、柔らかくまぜるような感じでソフトな感じでやって見せた」旨証言したこと、本件ピース缶爆弾に充填された混合物は外見上砂糖にみえることが認められる。通常塩素酸カリウムを他の薬品と混合する場合、乳鉢の中で乳棒を使うとすれば塩素酸カリウムを強くごりごりとつぶさなければならない。また塩素酸カリウムはある程度摩擦に敏感なためエチルアルコール等を入れ、この液中で結晶状のものを粉末状になるまですりつぶすという方法がとられる。右方法を採らない限り、混合しても、砂糖と混然一体となり、外見上には砂糖としか見えない状態にはならない。これらのことは江口程度の知識(薬学部出身)がある者にはわかっていることであるが、被告菊井は、江口が仮に行うとすれば採ったであろう方法と正反対の方法を証言する。このことは、被告菊井の右証言の信用性に疑念を抱かせ、さらには、真実体験していないことを証言したのではないかとの疑念をもたらすといえる。

(4) <証拠略>によれば、被告菊井が、右混合物の状態がギラギラした感じの結晶で、ザラメ状であった旨証言したことが認められる。塩素酸カリウムがザラメのような結晶状のままであったとすると、江口が乳鉢と乳棒を使って何をしたのかわからないし、右混合物が外見上砂糖とみえることに照らし、疑問がある。

(5) 被告菊井の作成した塩素酸カリウムの入った瓶の図は明らかに誤っている旨原告は主張する。しかし、右の点は比較的瑣末な事柄であるから、このことから直ちに被告菊井が体験していない事実を証言したということはできない。

(六) ダイナマイトと包丁に関する証言について

(1) ダイナマイト切断と包丁について

<証拠略>によれば、被告菊井がレポに出る前の指示の際に見たダイナマイトについて、第九九回公判で、「レポから帰って来た時に、平均して半分程度の長さに切られていた」「レポに出る前に切ったものもあったような気がする。長いものが置いてあったのは、はっきり覚えているが、何か短いようなもの、切ったものもあった気がする」旨証言したこと、九部一八四回公判で、裁判長の「ダイナマイトはあなたが見た感じでは全部長さは同じだったですか」との問いに対し、「そうです」と答えたこと、昭和五七年九月二日の岡山地方裁判所における期日外尋問で、「切ったのもあったし、長いものもあった。全部が全部切ってあったわけではない」「切ってあったものは、大体半分位の長さに切られていた」旨証言したこと、第一五六回公判では、現在の記憶では切られていた、大体どのくらいの長さに切られていたかはっきりしない旨証言したことが認められる。また、<証拠略>によれば、第九四回公判で、製造開始に先立って増渕からダイナマイトの切断について指示があった、レポの途中でアジトをのぞいた時、新聞紙の上に切断したダイナマイトが置いてあった旨証言したこと、第九九回公判で、包丁はレポに出かける前に見ていない、一回目に帰って来た時に見た、製造前に集まった際に、誰かがダイナマイト切断に使った包丁を自炊用に使うのは気持ちが悪いから嫌だと言い、新しい包丁を買おうという話になった旨証言したこと、昭和五七年九月二日の岡山地方裁判所における期日外尋問及び第一五六回公判で、レポに出る前、誰かが、自炊用の包丁でダイナマイトを切断するのは気持ち悪いからダイナマイトを切る専用に包丁一本を購入しようと言った、レポの途中、一回目に河田町アジトに戻ったとき新品の包丁を見た旨供述したことが認められる。

右に述べたとおり、被告菊井の証言はダイナマイト切断の時期について不自然に変遷する。また、レポに出る前に切断専用に包丁を買う話があった旨の証言は、既にダイナマイトが切断されていた旨の証言と矛盾する。仮にダイナマイトの一部は被告菊井がレポに出た後で切断されたのだとすると、河田町アジトにあった包丁で予めダイナマイトを切断したのだから、右包丁をそのまま切断に使用し、製造作業終了後に新しい包丁を購入すれば事足りるのに、製造中にわざわざ新しい包丁を購入したことになり、不自然である。

ところで、原告は、ダイナマイトの包丁切断自体が被告菊井の想像の産物である旨主張するので、包丁による切断の有無を検討する。この点、<証拠略>によれば、写真五に写されているダイナマイト塊の下方部分には、包装紙によるダイナマイトの端の部分の包装の痕跡と認められるものがそれぞれ存し、これらが切断前のダイナマイトの両端を形成していたこと、したがって、写真四に写されたダイナマイト塊の向かって右側の部分が切断面を示すものであること、右切断面の形状は、包丁で切断されて生じたものと見るのは困難であることが認められる。しかし、右ダイナマイト塊以外のダイナマイトの切断方法は定かでなく、本件ピース缶爆弾に充填されたダイナマイトが一切、包丁で切断されていないとはいえない。

しかし、ダイナマイトの切断時期及び包丁の購入時に関する被告菊井の前記供述の変遷は、少なくとも被告菊井の証言の信用性に否定的評価をもたらし、ひいては被告菊井が現実に体験していない事項を供述したのではないかとの疑念を抱かせるものである。

(2) ダイナマイトに関するその他の事項

<証拠略>によれば、被告菊井が第九九回公判及び九部一八四回公判で裸のダイナマイトがピラミッド型に積み上げられていた旨図示したこと、九部期日外尋問で「作成した図はあくまでも図であって、とにかく積んであったということを証言するために作成した。乱れのないピラミッド型という感じではない」旨証言したことが認められる。右図示と証言を併せ考えると、裸のダイナマイトが概ねピラミッド状に積み上げられていた趣旨であると解される。このような積み上げは印象的で、比較的記憶に残りやすいと考えられるが、被告菊井以外の者は誰も供述していない。

さらに、<証拠略>によれば、ダイナマイトは包装紙をはがして使用することは通常なく、包装紙をはがすとナフタリン臭がすることが認められる。被告菊井が証言する程のダイナマイトが裸にされたとすれば、同人とダイナマイトの距離が二メートル四〇センチメートル位なのであるから、強い臭いを感じたはずであるのに、<証拠略>によれば、被告菊井は印象に残っていないと証言する。このことは不自然で、被告菊井が現実にそのような体験をしたことがないのではないかとの疑念を抱かせる。

<証拠略>によれば、被告菊井作成のダイナマイトの図(第九九回公判調書速記録添付第一図)はダイナマイトの両端が平面であって包装紙で絞られているということに何ら触れていないことが認められる。このことは、ダイナマイトが包装されていたという図示と矛盾するものの、被告菊井は第九九回公判でダイナマイトの両端については特にはっきりした記憶がない旨証言し、また、瑣末な事柄であり、供述の信用性に影響をもたらすものではない。

(七) 導火線に関する証言について

<証拠略>によれば、被告菊井が、レポに出る前後を問わず、河田町アジトで現認した導火線は既に短く切ってあった、その長さは一〇センチぐらいであった旨証言し図示していたこと、昭和五七年九月二日の岡山地裁での期日外尋問では、導火線は雑然と切ってあって、長いのも短いのもあったという感じだ、長いもので三〇センチくらい、短いもので一五センチくらい、裁判官からの質問を契機に思い出した旨証言して供述を変更したこと、第一五六回公判では短いもので一〇ないし一五センチくらい、それから長いもので二〇ないし三〇センチくらいと証言したことが認められる。被告菊井は、右のように証言を変更させたことについて、合理的な説明をすることができない。被告菊井が右のように供述を変転させたのは、裁判長や弁護人の質問から導火線の長さが約一〇センチというのは客観的資料との関係で短いということに気づいたことから修正を試みたとする原告の推論も一概に排斥できない。

(八) たばこ「ピース」に関する証言について

<証拠略>によれば、被告菊井がピース缶を集めるについて個数は定かでないが、誰かが新しい缶入りピースを購入したとし、製造当日は中身のたばこも、ダイナマイトやパチンコ玉等を置いたパンの木箱の横に置いてあった旨証言し、その状況を図示したことが認められる。

しかし、格別の作業をすることなく、被告菊井が図示したように底辺が楕円で半球状のようにたばこが積まれるということはありえず、また同人が図示した容積では、たばこはせいぜい一五〇本程度しかない。したがって、右供述の信用性には疑問がある。

また、<証拠略>によれば、被告菊井が当初、「(ピース缶)の中身は出して河田町に置いてあったから、僕等煙草の積んであったのを取ってすったことがあります」(第九四回公判)、「その室内にあったものを何本かもらって喫煙したことがあります」(第九五回公判)などと、製造当日河田町アジトの室内で喫煙したかのような趣旨の供述をしていたこと、岡山地方裁判所における期日外尋問で、「製造当日皆でピースを分けたことはない。少なくとも自分はもらっていない。ただし、他の日だったかもしれないが、河田町アジトにたくさんあったので、何本かもらって吸った記憶がある」、「自分がたばこをもらって吸ったと(証言したと)いうのは、製造当日という趣旨ではなかったと思う」証言したこと、さらに、「今は、当日かどうかはよく覚えていないが、後日だったかもしれないが、河田町アジトにあったピースをもらって吸ったという記憶はある」、「製造しておるときに吸ったという記憶はない」、「今の記憶では製造したあと、バラで残っているたばこを適当にもらって若松町アジトへ持ち帰って吸った」旨証言したことが認められる。右のとおり被告菊井の証言は不自然に変遷している。なお、新しい缶入りピースを購入したと供述するのは被告菊井のみである。

(九) 製造日に関する証言について

(1) 製造について

<証拠略>によれば、被告菊井が製造の日について一〇月一一日から一九日までの間である旨、トラック窃盗の前日に製造した記憶はないので、一九日は除外できる旨、謀議の当日に製造したということはないが、製造が謀議の翌日なのか翌々日なのか断言はできない、とにかく謀議をしたその直後ころということしか言えない、製造日が一一日に近いのか、二〇日に近いのかも言えないと証言したことが認められる。被告菊井が、<証拠略>によれば、昭和四四年九月三〇日、神田戦争に参加したこと、一〇月九日、巣鴨駅前派出所・池袋署襲撃未遂に参加したこと、同月一〇日、明治公園での集会に参加したこと、二〇日、トラック窃盗に参加したこと、二一日、東薬大火炎瓶製造に参加したことを証言したことが認められる。被告菊井が、昭和四四年一〇月に体験した事柄の日にち及び本件製造行為に関する他の証言事項に比して、本件製造日について抽象的で曖昧な特定しかできないのは、不自然であり、製造日特定を意図的に避けているのではないかとの疑いを払拭できない。

(2) ミナミ謀議の日と製造日に関する部分について

<証拠略>によれば、被告菊井がミナミ謀議の日と製造日について、以下のとおり供述ないし証言したことが認められる。

(昭和五四年七月一〇日検面調書)ミナミ謀議の翌日かそれ以降の日に製造したと思う。

(九四回公判・昭和五四年一〇月二三日)製造は、ミナミ謀議の当日ではない。それから二日も三日もたってから(爆弾を)作ったということもない。翌日だと思う。

(九部一七八回公判・同年一一月八日)製造は、ミナミ謀議の当日ではない。その翌日だったと記憶している。

(九部一八四回公判・昭和五五年一月二九日)謀議と製造は連続した日でした。

(九九回公判・同年一月三〇日)弁護人からの「前日ミナミで指示を受けて、次の日に河田町のアジトでピース缶爆弾を作るということで集まったわけですね」との質問を「はい」と肯定し、引き続く弁護人の「そうすると指示を受けた翌日に集まったわけですね」との念押しの質問に対しても「はい」と肯定。

(九部一八五回公判・同年二月一四日)製造はミナミで謀議した日の翌日に絶対間違いないかと念を押されると断定はちょっとできない。現在の記憶では連続した日であったように思うが、しかしじゃあ本当に間違いないのか、どんな根拠があるか証拠があるならあげてみろと、こう言われた場合には、具体的な根拠まではないと、こういう趣旨です。

(一〇〇回公判・同年三月六日)謀議の翌日ころ製造した。謀議の翌日とは断言できない。(謀議の日と製造の日は)非常に近かった気がするけれども、何日も後に離れて、例えば、一週間とか一〇日とか離れて製造の日があったという記憶はなく、割と近い日で、翌日ころだったのではないかという趣旨で言っている。

(九部期日外尋問・昭和五七年九月二日)証言を訂正することになるかもしれないが、(製造が謀議の)翌日と言われてもちょっとよくわからない。一日か二日かずれておったかもしれない。(謀議の際)明日来いと言われたのか、あさって来いと言われたかはっきりしない。五日も離れていることはないと思う。割と接近していたと思う。翌日という可能性は否定できない。

(一五六回公判・昭和五八年三月二九日)謀議をした翌日なのか翌々日なのか断言できないけれども、とにかく謀議をしたその直後ころとしか言えない。

右のとおり、被告菊井は当初、検察官の主尋問及び弁護人らの反対尋問に対して、ミナミで謀議した翌日に河田町アジトでピース缶爆弾を製造したと断言していたといえる。ところで、<証拠略>によれば、第九六回公判(昭和五四年一一月二七日)において、弁護人が、喫茶店で謀議を行うなど考えられないと被告菊井が朝霞事件で供述していることを指摘し、朝霞事件の謀議は全て喫茶店で行った旨の主尋問における証言との矛盾を追求したこと、被告菊井が喫茶店で爆弾製造の謀議ができるかとの弁護人の質問に対し、「土曜日の新宿という盛り場で、客が満員の喫茶店で殺害してでもとるというような謀議ができるかどうかという問題と平日の河田町の客もおらんようながらんとした喫茶店、これとは明らかに条件が違う」と答え、平日だと何故わかるのかとの弁護人の質問に対し、「別に日曜日じゃないという、そういう記憶があるからだ」と証言したことが認められる。

被告菊井が謀議日を日曜日でないと証言した経緯をみると、弁護人の質問に対し反論するための例えであったと見られる面があり、過度に重視するのは相当でない(現に、被告菊井は、日曜日でない旨の証言は失言であったとして、直ちに撤回する。)。しかし、被告菊井は、その後謀議日と製造日の関係を幅をもたせて証言するようになった。被告菊井は補充捜査段階における被告長山の質問及び公判廷における弁護人の質問を通じて、製造日が本件の重要な争点であることを了知していたものと推認されるところ、右証言の変転は、少なくとも供述の信用性を大幅に低下させるものである。そして、右変転が製造日特定を避けようとした動機からなされたものと推論することも、一概には排斥できない。

(一〇) ミナミ謀議の外的状況に関する証言について

<証拠略>によれば、昭和四四年一〇月当時のミナミ店内は、入口を入って左側(東側)にレジが、店内奥にカウンターがあり、ほぼ中央に店内を東西に仕切る形で衝立が立てられていたこと、テーブル及び椅子の配置状況は、東側から順次、東側壁沿いに四人掛け用のボックス(テーブルと椅子)が四個、通路をはさんで衝立の東側に二人掛け用のボックスが三個、衝立の西側に四人掛け用のボックスが三個、さらに通路をはさんで西側壁沿いにソファ及びテーブルがそれぞれ配置されていたことが認められる。また、<証拠略>によれば、被告菊井がミナミ謀議の際の参加者を少なくとも一一人以上になると証言し、その座った状況を図示したこと(第一〇〇回公判期日)、右図示と異なって、昭和四四年当時、東側壁とテーブルの間に人が座れる余地がなかったこと、被告菊井が第一五六回公判期日における尋問で、右第一〇〇回期日で作成した図よりも衝立寄りにテーブルを配置した図を作成したこと、右図は一見して、東側壁とテーブルの間に人の座る余地があったかという点で、右第一〇〇回期日で作成した図と相当異なっているところ、被告菊井は同趣旨のつもりだと証言したことが認められる。右供述の変転はやや不自然である上、被告菊井の証言内容が事実だとすると、店内の机及び椅子等の配置を替えて、少なくとも一一人が一堂に会するかのような座席を作ったことになる。しかし、<証拠略>によれば、被告菊井は、何げない風を装って飲み物を飲んだりしながら、若い連中が集まって雑談しているというふうに装った旨証言したことが認められるのであり、右各証言の間には矛盾があり、被告菊井が現実にはミナミ謀議を体験していないのではないかとの疑念を抱かせるものである。

(一一) レポ中の石井呼出の電話に関する証言について

<証拠略>によれば、被告菊井が、第九四回公判で、「エイトに何回か連絡したうち、何回か石井が出ないこともあった」旨証言したこと、第九五回公判で、「何回かエイトに連絡したうち、その中で石井が電話に出て来ないことがあったのでグルグル回るうちにエイトをのぞいたことがあったが、石井はいなかった」旨証言したこと、昭和五七年九月二日の期日外尋問で、「石井が電話に出たのは一度くらいあったと思う」、「石井が電話に出たのはせいぜい一回くらいである。電話に出たのは、おそらく一番早い段階である。一番最初電話を入れたとき石井はいたが、その後入れたときは出なかった。電話をしたのは全部で三、四回くらいである」、「一番最初かけたところ、いなくて、おかしいということで、すぐかけ直し、すぐ出たということだったかもしれない」旨証言したこと、第一五六回公判で、「一番最初電話を入れたときか、あるいは入れたが出なかったため、すぐ入れ直して出たのか、とにかく最初の段階では石井に通じている。全部で三、四回くらい電話をいれているが、その後は石井は出なかった」旨証言したことが認められる。

右に述べたとおり、被告菊井は、当初、不十分ながら石井との連絡がとれていたかのように証言したが、後に、石井と連絡がとれたのは最初のころの一回だけであとは連絡がとれなかった旨証言を変更する。被告菊井の証言が右のとおり変転することは、供述の信用性を否定的に解すべき事情となり、原告が主張するように、昭和五七年九月二日の期日外尋問での石井アリバイの指摘に対処して、アルバイトに出ているとしても石井がレポに参加してから勤務についた、あるいはアルバイトを抜け出してレポに関与した旨理解できる余地を作ろうとしたと推論することも一概には排斥できない。

<証拠略>によれば、被告菊井が、石井を呼び出す方法として、九部第一八五回では偽名を用いた旨証言したこと、昭和五七年の岡山地裁における尋問では、石井さんという名前で呼んだと証言しながら、その半年後の第一五六回公判期日における尋問では、石井さんという名前で呼んだかあるいは何か別の名前を使ったか覚えがないと証言したことが認められる。右変遷は、時日の経過により記憶に混乱が生じうることを考慮しても、事が秘密保持に関わる点であるだけにやや不自然である。

(一二) 証言動機について

(1) <証拠略>によれば、被告菊井は、ピース缶爆弾製造についての昭和四八年三月段階の取調べに対して黙秘否認の態度を貫いたこと、黙秘否認した理由として、第一に、当時朝霞自衛官刺殺事件につき強盗殺人罪で起訴され、死刑又は無期懲役という重大事件について孤立無援の法廷闘争を行っており、非常に困難な状況下にあったこと、第二に、強盗殺人に比べれば爆取違反(本件製造事件)は月とスッポンみたいなもので、かつての同志であり友人であったL研グループや赤軍派活動家が、自分の置かれていた状況を顧みることなく、自分を権力に売り渡した結果、逮捕状が出されたので、憤慨に耐えず、絶対認めるわけにはいかないという気持ちがあったこと、第三に、被疑事実を認めることは革命活動家としての自分自身の思想的敗北につながること、第四に、昔の仲間を助けたいという気持ちがあったこと、今回証言することを決意した理由として、第一に、自分が黙秘否認を貫いて不起訴になったところ、被告菊井は権力のスパイであるなどとして被告人や救対関係者が誹謗中傷を加え、一方で公判協力を求めてきたこと、自分は昔の仲間だし、対権力という点では一致できるから、偽証くらいしても助けてやろうと思っていたが、下獄するしばらく前に江口が自分にとって屈辱に耐えないひどい手紙を送って来たので、我慢の限界をこえ、もはや義理立てする必要がなくなったこと、第二に、被告人らが武装闘争を清算したばかりか、法廷では自己保身と責任のなすり合いの醜い争いを繰り返しているが、これは革命武装勢力とはもはや無縁の存在で、自分は認めることができないこと、第三に、本当に革命家であり、共産主義者であるのならば、まず法廷に出廷することを拒否すべきで、なぜ爆弾闘争が悪いのか、裁くなら裁けなどと何故言えないのか、残念であること、第四に、本件ピース缶爆弾事件はL研グループそして赤軍派によって遂行された最初の歴史的な爆弾闘争であって、これをやったやらないと言うのは、当時、この闘いに青春をかけてきた無名の戦士たちに対する限りない侮辱であるとともに、救援をやってくれている善意の人々や闘う人民に対する背信行為であって、犯罪的ではないかと思うこと、第五に、自分が共産主義者として人間として未熟であり、修行が足りなかったために、活動の過程において多くの誤りを犯したし、失敗もした、自分はこのことについて深く自己批判し、反省し、謝罪したいこと、以上の結論として、自分の関わった一〇年前の革命武装闘争の意義を人民に明らかにし、自己の責任の所在を明らかにしたいと考えたことを証言したことが認められる。

(2) <証拠略>によれば、被告菊井は、昭和四八年三月の逮捕勾留時に調書は一、二通しか作成に応じていない、署名指印した調書は一通もない旨証言したことが認められる。前記1の(一)で述べた被告菊井の昭和四八年三月当時の供述内容に照らせば、被告菊井が黙秘否認の態度を貫いたとの証言は信用できない。同人が右のように証言した理由については、単なる見栄とも考えられるし、さらには、毅然とした革命的活動家が初めて口を開き、加えて旧来の仲間にとって不利益なことを述べているのであるから菊井証言は信用するに値すると裁判所が評価することを期待してなされたものとも考えられる。

ところで、被告菊井が、昭和四八年三月段階で具体的に供述していないのは、取調官に抵抗した結果であるとも、あるいは、自ら体験もなく、知識も乏しかったからにすぎないとも考えられる。同人が前記1の(二)で述べた昭和五一年八月六日付け村松宛の手紙で、本件ピース缶爆弾事件のストーリーを教えてほしいと述べていることからすると、被告菊井が、当時、本件ピース缶爆弾事件について体験も知識もなかったとも考えられる。また、同人は前記1の(二)で述べた昭和四八年一〇月二〇日付け山中宛書簡及び昭和五二年八月二三日付け仙谷宛書簡において、自らが関係しているものの捜査官に認めなかった事実については黙秘をしたとしながら、自らの体験したことのない事実については否認をしたとわざわざ断っている。右記載にそのまま従えば、被告菊井は、体験事実を否認すると嘘になるとして、体験事実を肯定しないときには黙秘するのであるから、同人が否認したということは同人が体験した事実ではないことを意味すると考えられる(もっとも、右手紙について、被告菊井は当局の検閲を考慮しているので、真実をありのままに記載したものではないと証言する。右証言の信用性は一概に排斥できないので、手紙の記載からの推論を重視するのは相当でない。)

(一三) 国井供述について

被告菊井は「製造当日、国井と二人でレポをした。昭和四四年当時、国井と親しく交際していた」旨証言する。一方、国井録取書は右証言内容を否定するものである。したがって、国井録取書は被告菊井の証言の信用性、ひいては偽証性を判断する上で、重要な意味を持つ証拠といえる。しかし、国井録取書は被告菊井の立場からの反対尋問による吟味を経ていないものであるから、右録取書が被告菊井の偽証の有無を左右しかねないものであることに照らし、弾劾証拠として採用するのは格別、本件訴訟の争点である被告菊井の偽証を裏付ける証拠として取り上げるのは相当でない。

3 結論

被告菊井の証言する製造行為については、具体的で迫真性のある供述に照らせば、被告菊井が実際に体験した事柄を供述したのではないかとも考えられる。しかし、本件訴訟の口頭弁論終結時までに収集された関係各証拠を検討すると、石井アリバイ、爆弾製造の密行性の要請、塩素酸カリウムの充填された爆弾の数など、被告菊井の証言の信用性を減殺させる事情が認められる上に、被告菊井の証言中には、ダイナマイトの包装及び商標(前記2の(二))、江口の薬品混合作業(前記2の(五))、ダイナマイト切断用の包丁の購入(前記2の(六))、ダイナマイトの積み上げ及び臭い(前記2の(六))、導火線の長さ(前記2の(七))、製造日特定の曖昧さ及び謀議日と製造日との関連に関する証言の変転(前記2の(九))、ミナミ謀議の外的状況(前記2の(一〇))など、真実体験した事柄を証言したとは思えない程度の不自然さ、変転、矛盾等が多く含まれている。このように、被告菊井の証言には客観的事実に反する事項が多く含まれ、右証言の矛盾点は、その内容からみて、思い込み、記憶の忘却、混乱等によって説明し尽くせるものではない。そうすると、被告菊井の証言は、偽証であると認めざるを得ない。

そして、被告菊井の右偽証が原告に対する不法行為を構成することは明らかであるから、被告菊井は原告に対し、右不法行為によって原告に生じた損害を賠償すべき義務を負うものである。

なお、被告菊井の右偽証が被告長山の違法な職務執行により導かれたとする原告の主張事実を認めるに足りる証拠はない。

六 被告水崎、同親崎、同長山及び同堀内の不法行為責任(争点6)

原告は、被告水崎、同親崎、同長山及び同堀内の違法な職務行為につき、右被告らには故意又は重過失があったので、右被告らは原告に対し、不法行為による損害賠償義務を負う旨主張する。

しかし、公権力の行使に当たる国又は公共団体の公務員がその職務を行うにつき不法行為により損害を与えた場合には、国又は公共団体が被害者に対して賠償の責に任ずるのであり、公務員個人はその責を負うものではない。したがって、原告の右被告らに対する請求は理由がない。

七 原告に生じた損害(争点7)

被告菊井の不法行為の態様、原告についての公訴事実の重大性、右公訴事実の証明に際しての被告菊井の供述及び証言の重要度、刑事判決が被告菊井の証言を信用性に乏しいものと評価し、原告を無罪としたこと、原告が本件訴訟追行のため弁護士に委任して相当額の出費をしたこと、その他本件訴訟に表れた一切の事情を考慮すると、原告が被告菊井の前記五認定の不法行為によって受けた精神的苦痛を慰謝するには、被告菊井に対し、二〇〇万円の支払を命じるのが相当である。なお、原告は、慰謝料の請求に加えて、弁護士費用の賠償も求めているが、被告菊井に対し支払いを命ずべき弁護士費用の額については、右のとおり、慰謝料の算定の際に考慮しているので、独立の損害として取り上げることはしない。

八 結論

以上のとおりであるから、原告の請求は、被告菊井に対し、不法行為による損害の賠償として二〇〇万円及びこれに対する不法行為後である昭和六〇年一二月二九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるから認容し、被告菊井に対するその余の請求及びその余の被告に対する請求は理由がないから棄却し、訴訟費用については当事者の勝訴の程度を考慮して主文第三項のとおり定め、申立てにより原告勝訴の部分に仮執行の宣言を付することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 園尾隆司 森高重久 古河謙一)

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