東京高等裁判所 平成7年(行ケ)99号 判決 1999年4月27日
イギリス国ロンドン市エスダブリュー1ピー3ジェイエフ、
ミルバンク、イムペリアル ケミカル ハウス
原告
イムペリアル ケミカル インダストリーズ ピーエルシー
代表者
アラン オールドロイド
訴訟代理人弁護士
尾﨑英男
同
品川澄雄
同
吉澤敬夫
同
弁理士 社本一夫
同
浜野孝雄
アメリカ合衆国デラウェア州ウイルミルトン19898
マーケットストリート 1007
被告
イー・アイ・デュ ポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー
代表者
ジョン・ダブリュウ・カイター
訴訟代理人弁理士
小田島平吉
同
深浦秀夫
同
田中貞良
同
小田嶋平吾
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 請求の趣旨
特許庁が平成3年審判第18941号事件について平成6年10月6日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
2 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、発明の名称を「テトラフルオロエタンの製造方法」とする特許第1338522号の特許発明(昭和53年5月24日特許出願(1977年(昭和52年)5月24日のイギリス国の特許出願に基づく優先権主張)、昭和61年9月29日設定登録。以下「本件発明」といい、同発明に係る特許を「本件特許」という。)の特許権者である。
原告は、平成3年9月27目、被告から、本件特許の無効の審判の請求を受け、平成3年審判第18941号事件として審理を受けた結果、平成6年10月6日に「特許第1338522号発明の特許を無効にする。」との審決を受け、同年12月14日にその謄本の送達を受けた。なお、この審決に対する訴訟提起期間として90日が付加された。
2 本件発明の特許請求の範囲
1、1-ジクロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタンまたは1-クロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタンを上昇温度においてパラジウム触媒の存在下で水素と反応させることを特徴とする、式:CF3CH2Fで表わされるテトラフルオロエタンの製造方法。
3 審決の理由の要点
(1) 本件発明の要旨は、前項記載のとおりである。
(2) 引用例
(イ) 本件発明の出発物質である1、1-ジクロロ-1、2、2、2-テトラフルオルロタン(CF3CFCl2又はCCl2FCF3。以下「本件原料化合物(1)」という。)及び1-クロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタン(CF3CHFCl又はCHClFCF3。以下「本件原料化合物(2)」という。)は、それぞれ、審決の甲第1号証(本訴の甲第4号証。特公昭41-203号公報)及び審決の甲第2号証(本訴の甲第5号証。米国特許第3258500号明細書、昭和40年10月12日特許庁資料館受入)に記載されている。
(ロ) 本件発明の目的物質であるテトラフルオロエタン(CF3CH2F又はCH2F・CF3。以下「本件目的化合物」という。)は、審決の甲第3号証(本訴の甲第6号証。米国特許第2885427号明細書、昭和34年8月26日特許庁資料館受入)に記載されている。
(ハ) 審決の甲第5号証(本訴の甲第8号証。PB 136732 AFOSR Document No.TR-58-99 ASTIA 1頁ないし60頁)の1頁ないし54頁には、下記のとおり、種々の弗素化-塩素化炭化水素を加熱下にパラジウム触媒の存在下で水素と反応させることにより、水素化反応(「水素化脱塩素反応」ともいう。)が行われることが開示されている。
<1> CClF2CClF2の水素化
炭素に担持したパラジウム触媒(5%パラジウム及び95%炭素)の存在下で、245℃で、CClF2CClF2を水素と反応させることにより、CClF2CClF2の少くとも90%がCHF2CHF2に転換したことが赤外線吸収スペクトルによって確認された。
なお、この反応(以下「反応A」という。)は、次の反応式(A)で示される。
CClF2CClF2+H2→CHF2CHF2
・・・・・・(A)
<2> CClF2CF3の水素化
炭素に担持したパラジウム触媒(5%パラジウム及び95%炭素)の存在下に、水素対CClF2CF3の流量を2.1~2.2対1のモル比で、238~248℃の温度で反応させた結果、反応生成物は基本的に完全にCHF2CF3に転換したことが赤外線スペクトル分析によって示された。
なお、この反応(以下「反応B」という。)は、次の反応式(B)によって示される。
CClF2CF3+H2→CHF2CF3
・・・・・・(B)
<3> CCl2FCClF2の水素化
炭素に担持したパラジウム触媒(2.5%パラジウム及び97.5%炭素)の存在下に、CCl2FCClF2と水素とを、
H2の流量/CCl2FCClF2の流量=5.6~7.2のモル比の流量で、約163~169℃の温度で反応させると、CCl2FCClF2が70.6%~100.0%の転換率でCH2FCHF2に転換した。
なお、この反応は(以下「反応C」という。)、次の反応式(C)によって示される。
CCl2FCClF2+H2→CH2FCHF2
・・・・・・(C)
(ニ) また、審決の甲第6号証(本訴の甲第9号証。米国特許第2942036号明細書)には、炭素に担持したパラジウム触媒(3重量%パラジウム及び97%炭素)の存在下に、CF3CCl2CClF2と水素とを、約1対3.3のモル比で175~190℃の温度で反応させると、反応凝縮物約190gからCF3CH2CHF2(沸点約14℃)約108gが得られたことが記載されている。
なお、この反応(以下「反応D」という。)は、次の反応式(D)で表わされる。
CF3CCl2CClF2+H2→CF3CH2CHF2
・・・・・・(D)
(3) 審決の判断
上記反応AないしDに見られるとおり、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素を、炭素に担持したパラジウム触媒の存在下で、加熱下、例えば約160~250℃のような加熱下で水素と反応させることにより、該炭化水素の塩素原子を水素原子と置換させる水素化反応が進行すること(弗素化-塩素化低級アルカンの水素化反応)は、本件特許出願の優先権主張日前に知られていたとみるのが相当である。
そうすると、本件発明は、既知の弗素化-塩素化低級アルカンの水素化反応に、既知の本件原料化合物(これが炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素に該当することは明らかである。)を単に適用して、対応する既知の本件目的化合物を製造したに過ぎない程度のものと認められる。
そして、本件発明によって格別予期し得ない顕著な効果が奏されたものとも認められない。
(4) 結論
以上のとおりであるから、本件発明は、審決の甲第1号証ないし第3号証(本訴の甲第4号証ないし第6号証)、審決の甲第5号証及び第6号証(本訴の甲第8号証及び第9号証)刊行物に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明することができたものと認められ、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない。
4 審決を取り消すべき事由
審決の理由の要点(1)、(2)(イ)、(ロ)、(ハ)の<2>及び<3>の開示、(ニ)は認め、同(2)(ハ)<1>は否認し、同(3)、(4)は争う。
審決は、次のとおり、本件発明と引用例との対比及び容易推考性の認定判断を誤り、また、本件発明の顕著な作用効果を看過し、その結果、本件発明の進歩性を否定したものであって、違法であり、その違法は審決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、取り消されるべきである。
(1) 取消事由1(対比と容易推考性の認定判断の誤り)
審決は、本件発明は、既知の弗素化-塩素化低級アルカンの水素化反応に、既知の本件原料化合物(これが炭素数2~3の弗素化塩素化炭化水素に該当することは明らかである。)を単に適用して、対応する既知の本件目的化合物を製造したに過ぎない程度のものと認定判断しているが、誤っている。
(イ) 本件発明の反応と反応AないしDとは、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素の水素化反応である点で共通するというだけで、その他は全く別の出発物質と目的物質についての異なる反応であるから、反応AないしDが知られているからといって、どのような炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素の水素化反応が工業上有用性があるかを予見することはできないのであり、したがって当業者が既知の反応AないしDから本件発明を予見することはできない。
審決の論理は、反応AないしDの反応が知られている以上、今後、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素の水素化反応をパラジウム触媒の下で行う発明には特許は一切認めないというものであり、このような審決の論理は、発明を知った後の後知恵によるものであって、不当である。
(ロ) 本件発明は、本件目的化合物とHClとが反応しやすいとの熱力学的エネルギー計算の予測に反して、初めて、意外にも、本件目的化合物が水素化反応によって安定に生成することができることを発見したのであるから、反応AないしDが知られているからといって、これらの反応から本件発明を容易に推考し得ないものである。
すなわち、本件発明の反応と反応AないしDが、<1>炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素を出発原料として用いる、<2>パラジウム触媒の存在下で、上昇温度において、水素と反応させて、水素化反応を行う、<3>目的物質として炭素数2~3の水素化-弗素化炭化水素を得るという点で共通しているとしても、弗素化-塩素化炭化水素の化学反応は、上記共通性のみによって予想できるような単純な反応ではない。
本件目的化合物とHClとの反応について、本件発明の優先権主張日の当時に入手可能なデータにより熱力学エネルギー計算をすると、反応の前後の熱力学エネルギーの差を表わす△G/Kcal mol-1の数値がマイナスとなっていることから、本件目的化合物とHClとは反応によって熱力学エネルギー的に安定することが認められ、このように本件目的化合物が、水素化法により同時に生成するHClと非常に反応しやすい場合、本件目的化合物は、安定して存在することができず、水素化法によって高収率で生成することを期待することができないのである。
ところが、本件発明の水素化法においては、上記熱力学的エネルギー計算に反し、弗素化法と同様に本件目的化合物とHClとが存在しながら、本件目的化合物が安定して取り出せるのである。
以上のとおり、本件発明の優先権主張日前に、上記<1>ないし<3>の共通性のある反応AないしDが知られていても、当業者として、同時に、熱力学的エネルギー計算に基づく本件目的化合物とHClとが反応しやすいという予測も存在するから、これらの事実を考慮するならば、水素化反応によって本件目的化合物を製造することは困難であるとの結論に至るのであり、本件発明が、反応AないしDから容易に推考し得たとはいえないのである。
(ハ) 甲第8号証刊行物の反応Aについての記載は、本文と第7図の記載が一致しておらず、信ぴょう性を欠いており、信用することができない。
すなわち、審決は、反応Aについて、245℃で、CClF2CClF2を水素と反応させることにより、CClF2CClF2の少くとも90%がCHF2CHF2に転換したことが赤外線吸収スペクトルによって確認された旨認定している。しかし、甲第8号証刊行物の本文には、245℃における反応Aについて、「CHF2・CHF2への転換は、少なくとも90パーセントであると信じられる」と記載されているが、同時に、それを示すはずの赤外スペクトル(同刊行物の第7図)は、そのような反応の進行を示しておらず、第7図は、本文の記載と合致していないのである。そうすると、甲第8号証刊行物を読む当業者は、同刊行物の記載に誤りがあることには気がつくが、「90%」という本文中の数値が誤っているのか、それとも第7図のチャートが誤っているのか、あるいは両方とも誤っているのか分からないのであって、結局、甲第8号証の反応Aについての記載は、信ぴょう性を欠いているのであって、信用することができるものではない。
(ニ) 反応Aは、大量の弗化水素を発生し、また、触媒との長い接触時間を要するので、工業的生産に適した容易な方法とはいえないから、反応Aを本件発明の容易推考性の根拠とすることはできない。
すなわち、甲第8号証刊行物には、245℃における反応Aに関して大量の弗化水素の発生が記載されており、この反応が工業的生産に適していないものであることが示唆されている。また、乙第2号証によれば、反応Aが245℃において転換率90%以上となるためには触媒との接触時間50秒以上を要するというのであり、そうだとすると、反応Aは、工業的生産に適した容易な方法ではないことを示唆していることになる。
(ホ) 本件発明は、反応CやDと反応機構等について異なっており、関連性がないから、本件発明の優先権主張日前に反応C及びDが知られていたとしても、反応C及びDから、本件発明の方法を容易に推考することはできない。
すなわち、甲第14号証(審決の乙第3号証。米国特許第2704775号明細書、1955年3月22日発行)及び甲第15号証(審決の乙第4号証。米国特許第2760997号明細書、1956年8月28日発行)によれば、甲第8号証及び第9号証刊行物が発行される前から、反応C及びDのように出発物質が2つの隣接する炭素原子の各々に1対の塩素原子が結合している構造を有しているものの場合、反応に当たって、その1対の塩素原子が離脱して炭素原子間に2重結合が生じるという反応機構が知られていたのである。これに対して、本件原料化合物は、反応C及びDの出発物質のような構造を有しておらず、反応機構も異なっているから、本件発明の優先権主張日前に反応C及びDが知られていたとしても、本件発明の反応と関連性がないのであって、本件発明の方法は、甲第8号証、第9号証刊行物に示唆されているとはいえない。
(ヘ) 進歩性の認定のためには、いわゆる「二次的考察(Secondary consideration。)」、すなわち、発明の非自明性の判断資料として、本来の非自明性の判断資料である先行技術に加えて、技術課題と先行技術が知られていたが、その技術課題が長い間解決されなかったという事実をも考察の対象にすべきであるところ、本件において、本件目的化合物の工業生産の必要性という技術課題が広く当業者に認識され、かつ、反応Aや甲第8号証刊行物が幅広く当業者に知られうる状態にあったにもかかわらず、5年間という長い期間、本件発明の解決方法を誰も見つけ出さなかったという事実があるのであるから、本件発明は、甲第8号証、第9号証刊行物等から容易に推考し得るものとはいえない。
(2) 取消事由2(顕著な作用効果の看過)
(イ) 審決は、本件発明の作用効果について、格別予期し得ない顕著な効果が奏されたものとも認められない旨認定判断しているが、誤っている。
本件目的化合物の製造方法として、本件特許出願の優先権主張目前には弗素化法しか知られていなかったところ、本件発明の方法は、水素化法によって、従来の弗素化法に比べて高純度、高収率で本件目的化合物を製造することができるものであって、実際に本件目的化合物を工業的規模で生産するのに適した方法であり、本件発明によって本件目的化合物が実際に工業的に水素化法で製造されるようになったのであるから、本件発明は、顕著な作用効果を奏するものということができる。
(ロ) 仮に反応AないしDが高収率で進行する反応であったとしても、本件発明の反応と反応AないしDは、炭素数2~3の弗素化水素化炭化水素の水素化反応である点で共通しているだけであって、反応AないしDから、本件発明の反応が工業上使用することができるような反応であることを予測することはできない。また、炭素数2~3の弗素化水素化炭化水素の水素化反応であればどのような反応であっても工業的に使用することができるような好ましい条件で反応が進行するという一般的な結論を導くことはできない。
(ハ) 被告は、本件明細書の実施例における本件目的化合物の収率が反応AないしCの転換率に比べて低い数値であることを根拠に、本件発明の作用効果の顕著性を否定しているが、本件発明の作用効果、言い換えれば、従来技術と比較した産業上の有用性は、本件目的化合物の製造方法としての有用性であって、別の化合物の製造方法と比較して収率の大小を論じても意味がないのであり、前記のとおり、本件発明の方法は、水素化法によって、従来の弗素化法に比べて高純度、高収率で本件目的化合物を製造することができるものであるから、本件発明には顕著な作用効果が存在するのであって、被告の主張は理由がない。
第3 請求の原因に対する被告の認否及び主張
1 請求の原因1ないし3は認め、4は否認する。審決の認定判断は相当であり、審決を取り消すべき事由はない。
2 被告の主張
(1) 取消事由1(対比と容易推考性の認定判断の誤り)について
(イ) 原告は、本件発明の反応と反応AないしDとは、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素の水素化反応である点で共通するというだけで、その他は全く別の出発物質と目的物質についての異なる反応であるから、反応AないしDが知られているからといって、どのような炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素の水素化脱塩素反応が工業上有用性があるかを予見することはできないのであり、当業者が、既知の反応AないしDから本件発明を予見することはできない旨主張するが、本件発明は、甲第8号証の反応AないしDと、単に、炭素数2~3の弗素化塩素化炭化水素の水素化反応である点で共通しているだけでなく、反応を炭素に担持したパラジウム触媒の存在下で行う点でも、また、反応を、例えば約160~250℃のような上昇温度で、気相で行う点においても、更に、触媒との接触時間(通常5秒ないし60秒)についても、すべて共通しているのである。のみならず、反応AないしDにより、極めて高収率で水素化反応生成物(目的物)を生成することができることも開示されている。したがって、反応AないしDから、本件原料化合物(1)及び(2)について工業上使用することができると予測することはできても、工業上使用することができないなどと予測することは不可能である。
(ロ) 原告は、本件発明は、本件目的化合物とHClとが反応しやすいとの熱力学的エネルギー計算の予測に反して、初めて、意外にも、本件目的化合物が水素化反応によって安定に生成することができることを発見したのであるから、反応AないしDが知られているからといって、これらの反応から本件発明を容易に推考し得ないものである旨主張するが、本件目的化合物とHClとの反応が生起するかどうかを予測するためには、同反応の活性化自由エネルギーの大小を究明する必要があるところ、本件特許出願の優先権主張日の当時、活性化自由エネルギーについて全く不明であったのであるから、本件目的化合物とHClとの反応が生起するかどうかを予測することはできず、原告の上記主張は理由がない。
(ハ) 原告は、甲第8号証刊行物の反応Aについての記載は、本文と第7図の記載が一致しておらず、信ぴょう性を欠いており、信用することができない旨主張するが、甲第8号証刊行物には、反応Aを245℃で行った場合について、「2つの反応からの生成物の赤外スペクトル、第7図、は区別することができず、そしてキアンポア博士により得られたテトラフルオロエチレンの水素化からの生成物のスペクトル9と極めて良く似ている。この生成物は、反応体分子中の両塩素原子の水素による置換により形成されたCHF2CHF2であった。・・・CHF2CHF2への転化率は、少くとも90%であった、と信じられる。」(26頁下から1行ないし27頁11行)との記載があるところ、甲第8号証刊行物が引用している甲第10号証(「TRANSACTIONS OF THE FARADAY SOCIETY」52巻 1956年 1500頁ないし1508頁)の1506頁には、第3図(Fig.3)にCF2HCF2H(134)の赤外吸収スペクトルが示されており、その赤外吸収スペクトルには、ほぼ11μの位置及び12.8μの位置に強い吸収バンドが見られる(これらの2つの特徴的な吸収バンドはCF2HCF2Hの特徴的な吸収バンドである)のに対して、甲第8号証刊行物の第7図には、CF2HCF2Hの特徴的な12.8μの吸収バンドがほとんど見られず、また、第7図の標題として「H2とCClF2CClF2との120℃の反応生成物」と記載されているのである。したがって、甲第8号証刊行物の第7図が誤記であることは明白である。
また、反応Aを245℃で実施した場合に、少なくとも90%の転化率でCHF2CHF2が実際に得られることは乙第2号証(シー・ステイーブン・ケルナー博士の宣誓供述書)の追試実験の結果から証明されているものである。
(ニ) 原告は、反応Aは、大量の弗化水素を発生し、また、触媒との長い接触時間を要するので、工業的生産に適した容易な方法とはいえないから、反応Aを本件発明の容易推考性の根拠とすることはできない旨張する。
しかしながら、甲第8号証刊行物の記載は、ガラスの触媒管の出口等の腐蝕に見られるような弗化水素の発生もはっきり認められたというに過ぎないところ、例えば、装置の材質としてガラスを使用しないこと等の適当な設計を施すことによって、装置の腐蝕を防止することができるのであり、原告自身、米国において弗化水素を用いる本件目的化合物の工業的生産を実施しているのである。また、乙第2号証の表Ⅰに記載されているとおり、反応ガスの触媒との接触時間を16秒ないし54秒に調節することは、工業的に容易に行うことができるのであり、それ故に、本件明細書において、本件発明における触媒との接触時間につき、「接触時間は、反応を気相で行う場合には通常5~60秒・・・である。」(甲第3号証の1の17頁12行)と記載されているのである。
以上のとおり、原告の上記主張が失当であることは明らかである。
(ホ) 原告は、甲第14号証及び第15号証を根拠に、本件発明は、反応CやDと反応機構等について異なっており、関連性がないから、本件発明の優先権主張日前に反応C及びDが知られていたとしても、反応C及びDから本件発明の方法を容易に推考することはできない旨主張するが、甲第14号証及び第15号証の方法(反応)は、触媒及び反応条件が、反応C及びDとも本件発明の反応とも全く相違するから、甲第8号証、第9号証刊行物による開示について何の影響も与えるものではないうえ、甲第9号証には、反応条件を適宜選択することによって、何らの実質的な困難もなく高収率で塩素を水素で置換する方法が開示されているのであるから、原告の上記主張は、その前提を誤っているものである。
(ヘ) 原告は、進歩性の認定のために二次的考察をすべきであり、本件において、本件目的化合物の工業生産の必要性という技術課題が広く当業者に認識され、かつ、反応Aや甲第8号証刊行物が幅広く当業者に知られ得る状態にあったにもかかわらず、5年間という長い期間、本件発明の解決方法を誰も見つけ出さなかったという事実があるのであるから、本件発明は、甲第8号証、甲第9号証刊行物等から容易に推考し得るものとはいえない旨主張する。
しかしながら、甲第8号証刊行物に開示されている反応Aは、本件特許出願の優先権主張日(1977年5月24日)よりもはるか以前から当業者に公知となっていた反応(方法)であるところ、この反応Aは、本願明細書に記載され、本件発明に包含されていたものであり、かつ、反応Aの出発物質であるCClF2CClF2は、本件原料化合物(1)や(2)の均等物として記載されていたものであって、本件発明は、いわば、反応Aと均等の方法の一つとして特許出願されたものである。このような本件発明の特許出願の経緯を見ると、本件発明は、甲第8号証刊行物の存在を看過して出願されたものと推測されても止むをえないものであって、本件発明につき原告のいう二次的考察を適用する余地は全くない。
(2) 取消事由2(顕著な作用効果の看過)について
原告は、本件目的化合物の製造方法として、本件特許出願の優先権主張日前には弗素化法しか知られていなかったところ、本件発明の方法は、水素化法によって、従来の弗素化法に比べて高純度、高収率で本件目的化合物を製造することができるものであって、実際に本件目的化合物を工業的規模で生産するのに適した方法であり、本件発明によって本件目的化合物が実際に工業的に水素化法で製造されるようになったのであるから、本件発明は、顕著な作用効果を奏するものということができる旨主張するが、本件発明の特許請求の範囲1の項においては、反応手段について、「上昇温度において・・・水素と反応させる」としか記載されておらず、反応ガスである水素と出発物質との割合(例えばモル比)、これらの反応ガス触媒との接触時間(反応時間)、反応温度がいずれも特定されていないのであるから、これでは、本件発明の方法によって目的物を高収率で得ることは不可能である。また、本件発明の実施例に示されたデータに基づいて比較しても、本件発明の方法は、本件特許出願の優先権主張日前に公知の甲第8号証及び第9号証刊行物に開示された反応AないしDと比べて、何ら優れたものではなく、かえって劣っていることが認められる。更に、本件目的化合物が工業的生産に使用されているか否かは、発明の顕著な作用効果とは無関係のことである。
第4 証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録に記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
第1 請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本件発明の特許請求の範囲)、同3(審決の理由の要点)は、当事者間に争いがない。
第2 本件発明の概要
甲第2号証(特公昭56-38131号公報)、甲第3号証の1(特許法第64条の規定による補正の掲載)、6(平成3年12月13日発行の特許公報の訂正)によれば、本件明細書の発明の詳細な説明には、「本発明はテトラフルオロエタンの製造方法に関する。本発明によれば、1、1-ジクロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタン(CCl2FCF3)または1-クロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタン(CHClFCF3)を上昇温度においてパラジウム触媒の存在下で水素と反応させることを特徴とする、式:CF3CH2Fで表わされるテトラフルオロエタンの製造方法が提供される。」(甲第3号証の1の1頁下から4行ないし2頁1行)、「本発明の方法においては、フルオロエタン出発物質から2個または1個の塩素原子を除去し、これらを水素で置きかえる。水素化触媒としてはパラジウムの酸化物または塩が使用される。・・・パラジウムは適当な担体、例えばアルミナまたは活性炭上に担体(「担体」とあるのは「担持」の誤記と認める。)させ得る。水素と有機出発物質の割合は大巾に変動させ得る。・・・大気圧または大気圧を超える圧力を使用し得る。反応は少なくとも200℃であるが450℃を超えない温度にて気相で行うことが適当である。反応温度は225~400℃であることが適当である。接触時間は、反応を気相で行う場合には通常5~60秒、特に5~30秒である。」(同2頁2行ないし12行)、「本発明の方法は所望の1、1、1、2-テトラフルオロエタンを簡単かつ好都合な方法により、種々の割合で得ることができる利点を有する。所望の化合物が高純度で得られかつフルオロクロロエタン出発物質の転化率も良好である。」(同2頁18ないし20行)との記載があることが認められる。
第3 審決を取り消すべき事由について判断する。
1 取消事由1(対比と容易推考性の認定判断の誤り)について
(1) 本件発明の特許請求の範囲の記載によれば、本件発明は、本件原料化合物(1)又は(2)を、上昇温度において、パラジウム触媒の存在化で、水素と反応させることによって本件目的化合物を製造するというものであるところ、上記反応は、前記第2認定の事実を併せ考慮すると、より具体的には、水素化反応によって、本件原料化合物(1)又は(2)の弗素化-塩素化炭化水素のうちの塩素原子を水素原子で置換させ、本件目的化合物を生成するというものであることが認められる。
また、本件原料化合物(1)、(2)、本件目的化合物が、いずれも本件特許出願の優先権主張日前に公知の物質であったことは、甲第4号証ないし第6号証から明らかであり、かつ、原告も認めるところである。
(2) また、
(イ) 炭素に担持したパラジウム触媒(5%パラジウム及び95%炭素)の存在下に、水素対CClF2・CF3の流量を2.1~2.2対1のモル比で、238~248℃の温度で反応させた結果、反応生成物は基本的に完全にCHF2CF3に転換し、この反応(反応B)は、次の反応式
CClF2CF3+H2→CHF2CF3
によって示されること、
炭素に担持したパラジウム触媒(2.5%パラジウム及び97.5%炭素)の存在下に、CCl2FCClF2と水素とを、
H2の流量/CCl2FCClF2の流量=5.6~7.2のモル比の流量で、約163~169℃の温度で反応させると、CCl2FCClF2が70.6%~100.0%の転換率でCH2F・CHF2に転換し、この反応(反応C)は、次の反応式
CCl2FCClF2+H2→CH2FCHF2
によつて示されること、
炭素に担持したパラジウム触媒(3重量%パラジウム及び97%炭素)の存在下に、CF3CCl2CClF2と水素とを、約1対3.3のモル比で175~190℃の温度で反応させると、反応凝縮物約190gからCF3CH2CHF2(沸点約14℃)約108gが得られ、この反応(反応D)は、次の反応式
CF3CCl2CClF2+H2→CF3CH2CHF2
によって示されること、
以上は、甲第8号証及び第9号証から明らかであり、かつ、原告も認めるところである。
(ロ) 更に、甲第8号証によれば、炭素に担持したパラジウム触媒(5%パラジウム及び95%炭素)の存在下で、245℃で、CClF2CClF2を水素と反応させることにより、CClF2CClF2の相当量がCHF2CHF2に転換したこと、この反応(反応A)は、次の反応式
CClF2CClF2+H2→CHF2CHF2
で示されることが認められる。
(ハ) 上記(イ)及び(ロ)認定の事実によれば、反応AないしDは、いずれも、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素を、上昇温度において、パラジウム触媒の存在化で、水素と反応させることにより、出発物質の炭化水素の塩素原子を水素原子で置換させて、水素化反応を行い、目的物質を製造するというものであることが認められる。
そして、甲第8号証によれば、同号証刊行物には、「水素分子と塩素を含む有機化合物の反応は塩化水素の発生を伴う水素による塩素の置換に利用することができる。・・・ハロゲン化有機化合物が低温で反応することが可能なほど十分な反応性を有している時は、単一の反応物が得られるかもしれない。同じ事は反応物がmono-halo(ハロゲンを一つだけ含む)炭化水素である場合の反応にも言える。しかし、もしハロゲン化有機化合物が1つより多くの塩化原子を含んでいたり、又他のハロゲン原子をも含んでいて、かつ、もし反応のために高温度が必要とされるならば、数種の反応物が生成する。本研究は主に塩素と弗素を含んだ多ハロゲン化合物の触媒下での水素化反応に関するものである。・・・かくして、水素による塩素原子の触媒による置換は、フルオロカーボンに水素を導入する魅力的な手段を提供することができる。この研究の1つの目的はこのタイプの反応の可能性を予備的に検討することである。主要な目的は単に数種の反応を調べてそれらの反応変数や反応生成物に対する効果を調べることである。」(12頁26行ないし13頁23行の訳文)との記載があること、甲第10号証によれば、同号証刊行物には、「有用であるためには、触媒チャンバ内で実際上定量的に生じなければならないカーボン上のパラジウム触媒を用いて、我々は以下の化合物の水素化反応を研究した。」(1500頁下から16行ないし1501頁11行の訳文)、「これらの触媒の研究から導き出すことができる第2の一般的な結論は、弗素を水素で置換するよりも、塩素を水素で置換する方が容易である。」(1506頁下から4行ないし下から2行)との記載があることが認められる。また、甲第7号証によれば、甲第8号証刊行物は、昭和37年7月23日に国立国会図書館に受け入れられ、甲第10号証によれば、同号証刊行物は、1956年(昭和31年)に発行されたことが認められる。以上を併せ考えると、本件特許出願の優先権主張日当時、一般的に、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素を、パラジウム触媒の存在化で、水素と反応させることにより、出発物質の炭化水素の塩素原子を水素原子で置換させて、水素化反応を行い、目的物質を製造することは、当業者にとって周知の技術であったものと認められる。
(3) そこで、本件についてみるに、本件原料化合物(1)又は(2)は、いずれも塩素数が2又は1、炭素数が2の弗素化-塩素化炭化水素であるところ、反応Aの出発物質(CClF2CClF2)は、塩素数が2、炭素数が2、反応Bの出発物質(CClF2CF3)は、塩素数が1、炭素数が2、反応Cの出発物質(CCl2FCClF2)は、塩素数が3、炭素数が2、反応Dの出発物質(CF3CCl2CClF2)は、塩素数が3、炭素数が3であるから、本件原料化合物(1)又は(2)と反応AないしDの原料化合物とは、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素として共通している。そうすると、公知の本件原料化合物(1)又は(2)について、周知の水素化反応により、パラジウム触媒の存在化で、水素と反応させることにより、出発物質の炭化水素の塩素原子を水素原子で置換させて目的物質を製造することは、当業者が容易に想到し得るものであり、また、水素化反応の結果、塩素原子と水素原子とが置換され、本件目的物質を得ることができることも、当業者が容易に想到し得るものであるというべきである。
(4) そこで、原告の主張について検討する。
(イ) 原告は、本件発明の反応と反応AないしDとは、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素の水素化反応である点で共通するというだけで、その他は全く別の出発物質と目的物質についての異なる反応であるから、反応AないしDが知られているからといって、どのような炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素の水素化脱塩素反応が工業上有用性があるかを予見することはできないのであり、したがって、当業者が既知の反応AないしDから本件発明を予見することはできない旨主張するが、原告の上記主張は、上記(3)の認定判断に照らし、採用することができない。
(ロ) 原告は、本件発明は、本件目的化合物とHClとが反応しやすいとの熱力学的エネルギー計算の予測に反して、初めて、意外にも、本件目的化合物が水素化反応によって安定に生成することができることを発見したのであるから、反応AないしDが知られているからといって、これらの反応から本件発明を容易に推考し得ないものである旨主張する。
しかしながら、化学反応は、一般に、理論値のみで結果を予測することが難しく、単に熱力学エネルギー計算だけで、当該反応を的確に予測することが困難であるのは、当裁判所に顕著な事実である。しかも、前記(1)及び(2)認定のとおり、本件特許出願の優先権主張日当時、本件原料化合物(1)、(2)、本件目的化合物は、いずれも公知の物質であり、また、一般的に、炭素数2~3の弗素化-塩素化炭化水素を、パラジウム触媒の存在化で、水素と反応させることにより、出発物質の炭化水素の塩素原子を水素原子で置換させて、水素化反応を行い、目的物質を製造することは、当業者にとって周知の技術であったものである。そして、甲第8号証によれば、反応Aでは、目的物質であるCHF2CHF2が少なくとも90%の収率で得られていること、反応Bでは、目的物質であるCHF2CF3が100%に近い収率で得られていること、反応Cでは、目的物質であるCH2FCHF2が70.6%ないし100.0%の収率で得られていることが認められる。そうすると、本件発明は、公知の出発物質について、これと同種の弗素化-塩素化低級アルカンに関して周知となっていた水素化反応を適用し、公知の目的物質を製造するというものであり、しかも、同種の弗素化-塩素化低級アルカンの水素化反応において、70.6%ないし100.0%という著しく高い収率で目的物質を得ているのである。
そうすると、熱力学的エネルギー計算のみによって、本件目的化合物とHClとが反応しやすいと結論付けるのは相当ではなく、本件目的化合物とHClの反応についての熱力学的エネルギー計算のみによって、反応の予測を論ずる原告の主張は、それ自体失当というほかない。
その上、原告が主張の前提としている熱力学的エネルギー計算についてみるに、甲第21号証及び乙第11号証(株式会社化学同人1997年4月1日発行の「入門有機化学」73頁ないし77頁)によれば、有機反応において、出発物質より最終生成物のエネルギーが低くなる場合、反応の自由エネルギー変化を示す△Gは負の値をとり、このような反応を熱力学的に有利な反応ということ、一方、出発物質が結合の開裂、形成を経て最終生成物に至るまでに、反応系において自由エネルギーの高い点を通過しなければならないこと(反応系における自由エネルギーの最も高い点(遷移状態という)エネルギーの自由エネルギーと出発物質の自由エネルギーとの差は、反応の活性化自由エネルギー(△G^≠^^といわれる。)が認められ、そうすると、本件目的化合物とHClについては、△Gの値だけではなく、△G^≠^^の値をも考慮する必要があることが認められる。したがって、△Gの値のみを根拠に本件目的化合物とHClとが高い反応性を有すると結論付けることはできない。
以上のとおりであって、原告の上記主張は、採用することはできない。
(ハ) 原告は、甲第8号証刊行物の反応Aについての記載は、本文と第7図の記載が一致しておらず、信ぴょう性を欠いており、信用することができない旨主張するので、検討する。
甲第8号証によれば、同号証刊行物には、CClF2CClF2の水素化反応について、「245℃での反応は、・・・2つの反応からの生成物の赤外スペクトル、第7図は、区別することができず、そしてキアンポア博士により得られたテトラフルオロエチレンの水素化からの生成物のスペクトル9と極めてよく似ている。この生成物は、反応体分子中の2個の両塩素原子の水素によって置換により形成されたCHF2CHF2であった。・・・CClF2CClF2の特性を示す13.6ミクロン及び14.8ミクロンにおける2つの中程度に強い吸収ピークが完全に存在しないことは、生成物ガス中には非常に少量の未反応出発物質しか存在しなかったという証拠である。CHF2CHF2への転換は、少なくとも90パーセントであると信じられる。」(甲第8号証の訳文7頁7行ないし19行)との記載があることが認められる。
上記記載によれば、CClF2CClF2について245℃で水素化反応を実施して生成した物質の赤外線吸収スペクトルは、第7図に示されるとおりのものということであり、また、これとキアンポア博士の実験により得られたCHF2CHF2の赤外線吸収スペクトルとを比べるとよく似ており、この対比によれば、少なくともCClF2CClF2の90パーセントがCHF2CHF2に転換されたと推測できるということである。ところで、甲第10号証(「TRANSACTIONS OF THE FARADAY SOCIETY」 52巻1956年 1500頁ないし1508頁)は、上記キアンポア博士らによる「有機弗化物及び塩化物の水素化」を標題とする論文であるところ、同号証刊行物の第3図には、CHF2CHF2の赤外吸収スペクトルが示されており、その赤外吸収スペクトルをみると、ほぼ11μの位置及び12.8μの位置に強い吸収ピークが存在することが認められる。
そこで、上記赤外吸収スペクトルと甲第8号証刊行物の第7図の赤外吸収スペクトルとを対比すると、後者には、12.8μの位置に吸収ピークがないなど著しく相違していることが認められる。
また、上記第7図の標題には、「H2とCClF2CClF2との120℃の反応生成物」と記載されており、本文の内容に対応する「245℃」との記載はない。
更に、乙第2号証(シー・ステフェン・ケルナー博士の宣誓供述書)によれば、甲第8号証とほぼ同様の条件で反応Aの追試実験をしたところ、パラジウム触媒を用いて、245℃で、54秒の反応時間を要して、92%の収率でCHF2CHF2を生成するという実験結果が得られたことが認められる。
以上によれば、甲第8号証刊行物において、CClF2CClF2について245℃で水素化反応を実施して生成したという物質がCHF2CHF2であることは明らかであり、キアンポア博士により得られたCHF2CHF2の赤外線吸収スペクトルと対比した赤外吸収スペクトルの図は、第7図ではないものといわざるを得ず、誤記と認めるのが相当であり」原告の上記主張は、採用することができない。
(ニ) 原告は、反応Aは、大量の弗化水素を発生し、また、触媒との長い接触時間を要するので、工業的生産に適した容易な方法とはいえないから、反応Aを本件発明の容易推考性の根拠とすることはできない旨主張するが、大量の弗化水素の発生や触媒との接触時間50秒以上を要することが、直ちに、工薬的生産を困難にすると認めるに足りる証拠はないから、原告の上記主張も、採用することができない。
(ホ) 原告は、甲第14号証及び第15号証を根拠に、本件発明は、反応CやDと反応機構等について異なっており、関連性がないから、本件発明の優先権主張日前に反応C及びDが知られていたとしても、反応C及びDから本件発明の方法を容易に推考することはできない旨主張するので、検討する。
甲第14号証及び甲第15号証中には、
CCl2FCClF2+H2→CClF=CF2+2HCl
との反応式が示されており、この反応は、原告が指摘するとおり、出発物質が2つの隣接する炭素原子の各々に1対の塩素原子が結合している構造を有しているものにおいて、その1対の塩素原子が離脱して炭素原子間に2重結合が生じるという反応機構を有するものであることが認められる。
しかしながら、甲第14号証に記載された反応は、ニッケル、コバルト.、銅もしくは活性炭系触媒によるものであり、しかも、反応温度が400℃ないし550℃とかなり高温であり、また、甲第15号証に記載されたの反応についても、特別の触媒を充填することなく鉄製反応容器で約550℃ないし600℃という高温で反応を実施するというものであることが認められ、そうすると、甲第14号証、第15号証に記載された反応は、いずれも、甲第8号証及び第9号証の反応と相違している。したがって、原告の上記主張は、その前提を欠いているものであって、採用することができない。
(ヘ) 原告は、進歩性の認定のために二次的考察をすべきであり、本件において、本件目的化合物の工業生産の必要性という技術課題が広く当業者に認識され、かつ、反応Aや甲第8号証刊行物が幅広く当業者に知られうる状態にあったにもかかわらず、5年間という長い期間、本件発明の解決方法を誰も見つけ出さなかったという事実があるのであるから、本件発明は、甲第8号証、甲第9号証刊行物等から容易に推考し得るものとはいえない旨主張するが、本件特許出願の優先権主張日前において、本件目的化合物の工業生産の必要性という技術課題が広く当業者に認識されていたことを認定するに足りる証拠はないのみならず、前記(ロ)認定のとおり、本件発明は、公知の出発物質について、これと同種の弗素化-塩素化低級アルカンに関して周知となっていた水素化反応を適用し、公知の目的物質を製造するというものであり、しかも、同種の弗素化-塩素化低級アルカンの水素化反応において、70.6%ないし100.0%という著しく高い収率で目的物質を得ていることが知られていたうえ、後記認定のとおり、本件発明は、従来技術に比べて格別の作用効果を奏するものともいえないので、原告が本件発明の方法を見出したことに格別の意義があるとはいえないのであって、原告の上記主張は、その余の点について検討するまでもなく、理由がない。
(5) 以上によれば、原告の主張は、いずれも理由がなく、本件発明は、既知の弗素化-塩素化低級アルカンの水素化反応に、既知の本件原料化合物を単に適用して、対応する既知の本件目的化合物を製造したに過ぎない程度のものと認められるとした審決の認定判断は、相当である。
2 取消事由2(顕著な作用効果の看過)について
(1) 甲第3号証の1及び6によれば、本件発明の発明の詳細な説明には、「本発明の方法は所望の1、1、1、2-テトラフルオロエタン(注.「1、2、2、2-テトラフルオロエタン」と同じ。)を簡単かつ好都合な方法により、種々の割合で得ることができる利点を有する。所望の化合物が高純度で得られかつフルオロエタン出発物質の転化率も良好である。」(甲第3号証の1の2頁18行ないし20行)との記載があること、そして、実施例1において、出発物質として、1、1-ジクロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタン(本件原料化合物(1))を使用した場合、71.7%ないし72.0%の収率で本件目的化合物を得ることができたこと、実施例2では、出発物質として、1-クロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタン(本件原料化合物(2))を使用した場合、82.0%ないし95.8%の収率で本件目的化合物を得ることができたこと、これに対して、比較例1ないし8として、ジクロロテトラフルオロエタン(1、2-ジクロロ-1、1、2、2-テトラフルオロエタンと1、1-ジクロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタンの混合物)を使用した場合、最大46.2%(比較例4)の収率で本件目的化合物を得ることができたにとどまったことが記載されていることが認められる。
上記記載によれば、本件発明は、ジクロロテトラフルオロエタン(1、2-ジクロロ-1、1、2、2-テトラフルオロエタンと1、1-ジクロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタンの混合物)を出発物質とした場合と比較する限りでは、高い収率で本件目的化合物を得ることができたことが認められるが、比較例として使用した出発物質は、上記のとおり、1、2-ジクロロ-1、1、2、2-テトラフルオロエタンと1、1-ジクロロ-1、2、2、2-テトラフルオロエタンとの混合物であって、必ずしも実施例と同一の条件で比較されているとはいえないことに加え、前記1(4)認定のとおり、反応AないしCにおいて70.6%ないし100%という高い収率で目的物質が得られていることをも考慮すると、本件発明の方法による本件目的化合物の収率が、格別のものであるとは認めがたい。
(2) 原告は、本件目的化合物の製造方法として、本件特許出願の優先権主張日前には弗素化法しか知られていなかったところ、本件発明の方法は、水素化法によって、従来の弗素化法に比べて高純度、高収率で本件目的化合物を製造することができるものであって、実際に本件目的化合物を工業的規模で生産するのに適した方法であり、本件発明によって、本件目的化合物が実際に工業的に水素化法で製造されるようになったのであるから、本件発明は、顕著な作用効果を奏するものということができる旨主張する。
本件目的化合物の製造方法として、本件特許出願の優先権主張日前には弗素化法しか知られていなかったことは、原告の主張するとおりであるが、前記1(4)(ヘ)に認定判断したとおり、原告が本件発明の方法を見出したことに格別の意義があるとはいえないのであり、しかも、本願明細書に、反応ガスである水素と出発物質との割合(例えばモル比)、これらの反応ガス触媒との接触時間(反応時間)、反応温度が明らかにされていないことからすると、直ちに、本件発明の方法が工業的規模での生産に適した方法であると認めるに足りない。したがって、原告の上記主張は、採用の限りでない。
3 以上認定判断したところによれば、本件発明は、甲第4号証ないし第6号証、甲第8号証及び第9号証刊行物に記載された技術に基づいて当業者が容易に発明することができたものであるから、特許法29条2項の規定により特許を受けることができないものであって、審決の認定判断は、相当である。
第4 よって、審決の取消しを求める原告の本訴請求は、理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告及び上告受理の申立てのための付加期間について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条、96条2項の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結日 平成11年4月15日)
(裁判長裁判官 清永利亮 裁判官 山田知司 裁判官 宍戸充)