東京高等裁判所 平成8年(う)1552号 判決
被告人 小泉喜一
〔抄 録〕
所論は、本件では、違法なおとり捜査を行い、さらに、令状のないまま職務質問に藉口した強制捜査を行って、これにより発見された覚せい剤の所持につき被告人を現行犯人として逮捕しているが、これらの手続は、脱法的になされたもので違法であり、その後の証拠収集手続も違法であって、これら収集された証拠は、令状主義に反し、証拠能力を欠くから、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。
1 そこで検討するに、本件は、被告人が、知り合いの松永芳彦に同行して車で静岡まで赴いた際に、静岡県警の捜査官に職務質問を受けて発覚したものであるが、関係証拠によれば、発覚の経緯はおよそ以下のとおりである。
(一) 静岡県警の捜査官は、覚せい剤事犯の被疑者であった鈴木某に対して、大きな覚せい剤取引の情報を提供するよう申し入れていたが、右被疑事実につき有利な取扱いを期待した同人は、平成七年九月一五日、捜査官と打ち合わせながらその面前で在京の森坂光男と電話で数回連絡をとり、右森坂を介して密売人と同日の午後一〇時ころ静岡市内の原判示の場所で落ち合って覚せい剤一〇〇グラムを買い受ける約束をした。
(二) 同日午後、森坂から、覚せい剤一〇〇グラムを静岡へ持参して価格六〇万円で譲渡する取引話を持ち掛けられた松永は、足代を別に貰うことでこれを応諾し、午後五時ころ約一〇〇グラムの覚せい剤を三五万円で仕入れて用意し、その他に、同年八月に二回仕入れた覚せい剤の残り約二八グラム余(約九・三グラム在中のビニール袋二袋、約〇・〇三グラムないし約三・八グラム在中の一三袋に小分けされたもの計一五袋)を携帯して、森坂が鈴木某と電話連絡をとったうえ、深夜、川崎市内から黒色の乗用車ニッサン・グロリア(本件車両)の助手席に被告人が、後部座席に松永と森坂がそれぞれ乗りこみ、渡邉某が運転して、静岡市内の打ち合わせの取引場所へ向かった。
(三) 他方、静岡県警の捜査官は、十数名で約束の取引場所付近に張り込み、近くに鈴木某を乗せた車を配置して見張っていると、翌一六日午前二時過ぎころ、先に連絡のあった密売人の車両の特徴に符合する、川崎ナンバーの黒のニッサン・グロリアが約束の場所付近路上に駐車しているのを発見したので、仲介役の森坂が降車して鈴木某の乗っている車に向かった直後、周囲を車両数台で取り囲み、そのうち右側と後部に停めた二台の車両の赤色燈を点灯したうえ、職務質問のため本件車両の窓ガラスをノックしてドアを開けるように求めたところ、急発進させて周囲の車両に衝突しながら逃走しようとしたので、はずみで開いた右側後部ドアから車内に入り、車内に残っていた被告人、松永、渡邉の三名を車外に連れ出し、個別に職務質問を実施した。
(四) 捜査官は、右三名のうちで比較的落ち着いていた助手席の被告人に承諾を求めて了承を得たうえ、その立会いのもとで車内を見分したところ、後部座席に置かれたセカンドバッグを開披してビニール袋入りの覚せい剤様の粉末一五袋を発見し、後部座席中央の肘掛けの小物入れの中からビニール袋入りの覚せい剤様の粉末一袋を発見し、さらに助手席に置かれていたセカンドバッグの所有者を被告人に尋ねると自分のバッグであると言い、中身を見せてくれというと、「いいですよ。」と答えたので、開披すると、ビニール袋入りの覚せい剤様の粉末五袋を発見したので、被告人に告げて試薬検査をしたところ、覚せい剤の反応を示した。そこで、同日午前二時三一分ころ、現場において、被告人ら三名を覚せい剤の共同所持の現行犯人と認めて逮捕し、被告人を静岡中央警察署に引致した。
(五) 同署において、捜査官が被告人から弁解を録取し、覚せい剤使用についても質すと、打ったばかりである旨供述し、左腕手首近くに注射痕が認められたので、被告人の承諾のもとに、同日午前八時五五分ころ尿の任意提出を受け、鑑定の結果、覚せい剤が検出され、車内から発見された覚せい剤様の粉末計二一袋も、鑑定の結果、覚せい剤であることが判明した。
2 右の経緯に照らすと、鈴木某には、森坂を介して持ちかけた覚せい剤取引を成就する意思はなかったのであり、右鈴木の協力を得て、静岡市内の約束の場所に来た密売人を検挙した静岡県警の本件捜査活動が、架空の覚せい剤取引を持ちかけて売手をおびき寄せた、いわゆるおとり捜査であったことは、所論主張のとおりであると認められる。
しかしながら、前記松永が森坂から取引当日午後に一〇〇グラムの覚せい剤の申し込みを受けて数時間のうちに仕入れた状況、申し込みを受けた約一〇〇グラム以外に静岡へ持参した覚せい剤の量、その体裁、これまでの同人の薬物犯罪の前科内容、被告人をはじめ静岡へ同行した者の覚せい剤取締法違反の前歴など、関係証拠から認められる事実関係に徴すると、松永は、かねてよりまとまった量の覚せい剤取引に従事していたもので、本件も日常的な密売活動の一環であったことが窺われるのであり、鈴木某からの申し込みによって密売を思いついたなどというものではないと認められる。したがって、大量の覚せい剤の密売組織の摘発をもくろむ捜査官が、このような者に対する捜査において、本件のような手段を用いたからといって、直ちに違法であるとはいえない。しかも、被告人の場合、右おとり捜査の対象とされた密売目的の覚せい剤に関して刑責を問擬されているのではなく、その検挙の場に居合わせたことがきっかけとなって発覚した、右とは別の覚せい剤の所持及び覚せい剤の使用の刑責が問われているのであって、おとり捜査との関わりは間接的である。したがって、本件おとり捜査の違法を前提とする所論は容れることができない。
3 また、所論は、本件で行われた職務質問とそれに引き続く現行犯人逮捕手続等の後続手続の適法性を問題にするが、被告人が乗車していた車両が職務質問を受けるに至った経緯は、先にみたとおりであって、捜査官の得ていた確度の高い情報により、約束の場所付近路上に停車した本件車両(川崎ナンバーの黒のニッサン・グロリア)に多量の覚せい剤を携帯した氏名不詳の密売人が乗車している疑いは濃厚であったから、捜査官が職務質問をしようとすれば、そのまま逃走する可能性は大であったと認められるのであり、そのような事態を未然に防ぐために、用意した警察車両等で周囲を取り囲むことは、本件の場合、職務質問の手段として許容されないものではないというべきである。そして、捜査官が本件車両のガラスをノックして質問のためドアを開けるよう促したところ、右車両は、これに応じないで突然発進して逃走を企て、周囲の警察車両に接触を繰り返して停止したのであるから、その嫌疑はますます濃厚となったといえるのであって、捜査官が開いたドアから身を乗り入れ、被告人の氏名や住所等を質し、腕を取るなどして他の同乗者二名と共に一旦車外に連れ出し、比較的落ち着いていた被告人を選んで承諾を得たうえ、その立会のもとで車内を見分し、助手席に置かれていたセカンドバッグを見つけて、被告人に尋ねると自分のバッグであると言い、中身を見せてくれと言うと、「いいですよ。」と応じたので、これを開けると、ビニール袋入りの覚せい剤様の粉末五袋(原判示第二事実の覚せい剤)を発見し、その了解のもとで試薬検査をして覚せい剤であることを確かめたことは、職務質問とこれに伴う車内の見分、所持品検査として許容される範囲内の職務の執行であったということができる(なお、捜査官は、後部座席にあったセカンドバッグを、立ち会った被告人を含め、乗車していた者の承諾を得ないままに開披して覚せい剤を発見したことが窺われ、このような開披行為は職務質問に伴う所持品検査としての限度を超えており、違法というべきである。しかし、右に検討したとおり、被告人について所持品検査は適法に行われたのであって、その結果バッグの中から五袋の覚せい剤が発見されたことにより、被告人を覚せい剤所持の現行犯人として逮捕する要件は充足していたということができる。このように、被告人に関する職務質問と所持品検査の手続については、後部座席の覚せい剤発見に関する手続の違法の問題と切り離して、それと関係なく適法性を認めることができる。)。また、これに引き続いて、被告人を覚せい剤所持の現行犯人として逮捕し、その現場で右覚せい剤をはじめ関係証拠物を差し押さえたことに違法の廉はなく、関係証拠を検討しても、その後の採尿手続、尿の鑑定手続、被告人の供述調書の作成など後続手続にも違法は認められない。なお、被告人は、土地の暴力団に車が囲まれたと思って怖くなり逃走を図った、車から出されて警察車両に連行された後、無理に車内の見分に立ち会わされたなどと述べるが、赤池芳彦警部の原審証言、同警部ら作成の現行犯人逮捕手続書などに照らし、にわかに信用し難い。
論旨は理由がない。
(高木俊夫 久保眞人 岡村稔)