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東京高等裁判所 平成8年(う)772号 判決 1999年4月28日

判決目次

主文

理由

第一 被告人の身上経歴、身柄拘束の経緯等

一 被告人の身上経歴等

二 被告人の身柄拘束の経緯等

第二 小田原事件

一 本件の客観的状況について

1 被害者の身上関係、被害前の行動

2 本件現場付近の状況

3 被害者の発見状況等

4 被害者の着衣、受傷状況等

5 本件タクシーの状況等

6 本件現場付近の血痕付着状況等

7 本件タクシー及び本件現場付近の足痕跡及び指掌紋の状況

8 果物ナイフの発見状況と形状等

二 客観的状況から推認できる事実

1 犯人の乗車、停車場所

2 本件タクシーの走行経路、犯行時刻

3 被害者の死因

4 犯行現場

5 成傷器

6 犯行態様

7 犯人の逃走経路、脇道上の血痕の由来等

8 犯人への血痕付着の可能性及びその程度

三 丁田の供述について

1 丁田の供述経緯、内容及びその裏付け捜査等

2 丁田の原審公判における供述の要旨

3 丁田の供述経緯からみた信用性

4 丁田の供述内容、能力からみた信用性

5 小括

四 被告人の自白について

1 自白の経緯、取調べ状況等

2 自白の任意性

3 自白の信用性に関連する証拠等

4 自白の信用性

5 体験供述の有無

6 自白と客観的証拠との整合性

7 裏付けとなるべき物的証拠の有無

8 被告人の公判供述との対比

9 まとめ

五 結論

第三 松田事件

一 本件の客観的状況について

1 被害者の身上関係等、被害者の所持金

2 本件現場の状況と火災の発生

3 本件火災後の宿舎と焼死体の状況等

4 被害者の受傷状況、成傷器及び死因等

5 被告人の逮捕に至る経緯、所持金品等

二 被告人の自白の経緯、取調べ状況等

三 被告人の公判供述

四 被告人の自白の任意性、信用性について

五 金員の強取について

六 強取金員等に血痕がないことについて

七 結論

第四 当審の判断

罪となるべき事実

証拠の標目

法令の適用

量刑の理由

主文

原判決を破棄する。

被告人を死刑に処する。

押収してある果物ナイフ一丁(当庁平成八年押第二一四号の1)、メリケン一個(同押号の4)及びライター一個(同押号の5)を没収する。

理由

検察官の控訴の趣意は、検察官淡路竹男作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人竹澤哲夫、同木下淳博が連名で提出した答弁書記載のとおりであり、弁護人の控訴の趣意は、右弁護人両名が連名で提出した控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官伊豆亮衞作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

検察官の論旨は、要するに、原判決は、本件公訴事実第一(以下「小田原事件」ともいう。)につき被告人の犯人性を否定し犯罪の証明がないとして無罪を言い渡しているが、被告人が犯人であって事実を誤認しているというのであり、弁護人の論旨は、要するに、原判決は、本件公訴事実第二(以下「松田事件」ともいう。)につき被告人を有罪と認定しているが、被告人は犯人ではなく事実を誤認しているというのである。

そこで、各所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討する。

第一  被告人の身上経歴、身柄拘束の経緯等

一  被告人の身上経歴等

被告人の司法警察員に対する供述調書二通(原審検察官請求書証乙一、八号証、以下、司法警察員及び司法巡査に対する供述調書を単に「警察官調書」と、原審検察官請求書証乙一号証を単に「乙一」のように略称する。)、桶川眞喜雄(二通)、飯島章次、笠木厚(二通)の各警察官調書(原審検察官請求書証甲一八七、一八八、二四九、二五一、二五二号証、以下、原審検察官請求書証甲一八七号証を単に「甲一八七」のように略称する。)及び小林笑子の原審証言など関係証拠によれば、以下の事実が認められる。

1  被告人は、岩手県久慈市で菓子製造業を営んでいた両親の四男として出生し、昭和二八年同地の中学校を卒業後、花巻市の菓子製造店で一時働いていたものの、昭和三一年ころ退職し、その後上京し燃料店で住み込みとして働くなどした。昭和三六年ころいったん帰郷し、漁船員として働くなどしたが昭和四一年ころからは、神奈川県小田原市、松田町、平塚市などの建設会社などを転々とし、土木作業員として働いてきた。

2  被告人は、昭和六二年三月、丁田三郎の紹介で、小田原市早川にある後記第二の三1(四)の小林土木に働き、同年一〇月から一二月にも同所で働いたほか、同年夏ころと同年一二月下旬から翌昭和六三年一月初旬にかけては、平塚市片岡にある後記第二の四3(六)(4)の飯島建設で働いて、その宿舎に居住し、同年一一月四日から一二月一九日までは、神奈川県足柄上郡大井町にある後記第三の一1(一)の多門建設で働いて、その宿舎に居住していた。

二  被告人の身柄拘束の経緯等

宇井稔、高橋和彦、古賀博憲、石川好久、池憲夫、田原肇及び川崎年治の各原審証言など関係証拠によれば、以下の事実が認められる。

1  昭和六三年一二月二九日、小田原事件発覚後直ちに小田原警察署に捜査本部が設置され、神奈川県警察本部から派遣された警部池憲夫を中隊長として、捜査が開始された。

2  被告人は、昭和六四年一月一日午後一一時四〇分、多門建設の宿舎における殺人及び現住建造物等放火の被疑事件により緊急逮捕され、同月三日以降、同被疑事件により松田警察署に勾留された。松田署には同じく神奈川県警察本部から派遣された警部高橋和彦を中隊長とする捜査本部が設置された。

3  被告人は、同月一九日、松田事件について処分保留のまま釈放された後、直ちに小田原事件の被疑事実により通常逮捕され、同月二一日以降、同被疑事実により小田原署に勾留された。

4  被告人は、平成元年二月九日、小田原事件及び松田事件により起訴された。検察官宇井稔は、双方の事件を担当した。

第二  小田原事件

一  本件の客観的状況について

被害者乙川一郎(以下「被害者」ともいう。)の身上関係、被害前の行動、本件現場付近の状況、被害者の発見状況、被害者の受傷状況、被害者の乗務していたタクシー(以下「本件タクシー」ともいう。)の状況、本件現場付近の血痕付着状況、本件タクシー及び本件現場付近の足痕跡及び指掌紋の状況、果物ナイフの発見状況など本件をめぐる客観的な状況については、以下のとおりである。

1  被害者の身上関係、被害前の行動

石田新吉、府川政一及び新井淳一の各警察官調書(甲七二、七五、七七)、戸叶和夫及び国分善晴各作成の鑑定書(甲八五、三八七)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 被害者は、江南交通株式会社に勤務するタクシーの運転手であったが、昭和六三年一二月二八日、タクシー(登録番号<省略>)に乗務し、午後一一時八分ころ、平塚市土屋<番地略>で、当日の三二番目の乗客を降ろし、その直後、江南交通の無線指令室に「金目回送」という無線連絡を入れ、無線を担当していた府川政一から、平塚市内の焼肉店へ迎車に向かうよう指示されたが、その数分後、「小田原までの客を乗車させてもいいか」との無線連絡を入れ、その承諾を得た。

(二) 本件タクシーに設置されていたタコグラフチャート紙を解析した結果、本件タクシーは、同日午後一一時八分から午後一一時一三分四〇秒まで空車状態であり、最終的に停車した時刻は、同日午後一一時四九分四〇秒であった。

(三) 本件タクシーは、小田原市早川<番地略>所在の早川漁業協同組合前路上に停車した。

2  本件現場付近の状況

写真撮影報告書(甲一)及び実況見分調書(甲三)によれば、次の事実が認められる。

本件現場は、JR東海道線早川駅の東方約一八〇メートルに位置する早川漁協前の幅員七メートルの市道上であり、東は小田原漁港に面し、南方には小田原西漁港があり、付近には魚市場、水産物関連業者の店舗、一般住宅等が建ち並んでいる。早川漁協の北西側には鉄筋コンクリート四階建ての早川マンションがある。早川漁協とその南側の伊藤マッサージ方との間には、幅員四・四メートルの舗装道路(以下「脇道」という。)があり、脇道を約一〇〇メートル西進すると国道一三五号線に至る。

3  被害者の発見状況等

神戸悟の検察官に対する供述調書(甲六六、以下、検察官に対する供述調書を単に「検察官調書」と略称する。)、南智之、中島功、山崎禎子、須藤匠及び市川高志の各警察官調書(甲四五、四六、六五、六八、六九)並びに一一〇番受理状況報告書(甲六四)によれば、次の事実が認められる。

(一) 早川マンション四階に居住する山崎禎子は、一二月二八日深夜、自動車のクラクションが四回位長く吹鳴されるのを聞いて不審に思い、窓の外を見たところ、市道上に本件タクシーが停車していた。その後、山崎は、洗い物をしていたところ、市道の方からゲーゲーと吐くような男の声がしたため、再び窓から見たところ、被害者が、両手を左右に垂らしてよろよろしながら同マンションの出入口に近づき、出入口の屋根に隠れて見えなくなったが、直ぐに同マンションから出てきて、よろよろしながら本件タクシーの方へ行き、その途中、「助けてくれ」と悲鳴を上げたのを認め、午後一一時五六分ころ、一一〇番通報をした。

(二) そのころ、自動車で走行してきた神戸悟は、本件現場に運転席ドアを開けたまま停車していた本件タクシーに気付いて停車し、続いて早川漁協の壁に片手を付いて何かを吐き顔や体中血だらけの被害者を発見したため、降車して近寄り、声をかけると、被害者は、「強盗に遭ったから急いで救急車を呼んでくれ」と小声で言うや、その場に崩れるように座り込み、次いで後ろに倒れた。神戸は、窓から様子を見ていた山崎に一一九番通報を依頼し、山崎は一一九番にも通報した。

(三) 被害者の左後側頚部付近は横に大きく切れており、被害者が話すたびにその傷口から血が流れ出し、口からもしきりに血の塊を吐いていた。翌二九日午前零時七分ころ、本件現場に急行した救急隊員の須藤匠及び同市川高志は、被害者に対し、その頚部に三角布を巻くなどして止血の応急措置をしたが、その際、被害者は、「苦しい、苦しい」「口の中が血でいっぱいだ」などと訴えていた。被害者は、救急車内で吸引器により口の中の血を取り除く措置などを受けながら、西湘病院に搬送されて医師南智之の治療を受けたが、その際、三回ほど吐血し、その量は小さな洗面器にいっぱいくらいで、床に一メートル四方に広がるほどであった。その後、被害者は、東海大学病院救命救急センターに転送され、医師中島功らの治療を受けたが、午前三時五六分、死亡した。

4  被害者の着衣、受傷状況等

伊藤順通及び中島功の各原審証言、死体検案報告書(甲四)、解剖立会報告書二通(甲五、六)、写真撮影報告書(甲一〇)、「被害着衣の損傷箇所の撮影及び測定について」と題する書面(甲一一)、渡邉嘉彦作成の鑑定書(甲二〇)、東海大学医学部法医学教室助教授永田正博作成の鑑定書(甲三一七)などの原審関係証拠のほか、同大学医学部法医学教室教授武市早苗の当審証言、捜査報告書(当審検察官請求書証一号証、以下、単に「当審検一」のように略称する。)、帝京大学医学部法医学教室教授石山いく夫作成の鑑定書二通(当審検九、五一)、ブレザー一着、カーデガン一枚、ワイシャツ一枚、丸首半袖シャツ一枚(当庁平成八年押第二一四号の15ないし18)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 被害者は、身長一七五・五センチメートル、体重七〇キログラムで、血液型はAB、MN型である。

(二) 被害者は、上半身に上からブレザー、カーデガン、ワイシャツ、丸首半袖シャツを着用し、両手に手袋をし、これらには大量の血液がしみ込んでいた。

(三) 被害者の刺切創の外景所見は、以下のとおりである。

(1) 左耳翼上方三・〇センチメートルの部位に、ほぼ横走する二・〇センチメートル×〇・三センチメートル、深さ一・二センチメートルの刺切創(以下、創傷(一)ともいう。)、左耳介辺縁内方一・〇センチメートルの部位に、ほぼ横走する二・二センチメートル×〇・四センチメートルの刺切創(以下、創傷(二)ともいう。)、左耳垂下方一・〇センチメートルの部位に、後頭側でやや弁状を呈する二・二センチメートル×〇・五センチメートル、深さ二・〇センチメートルの刺切創(以下、創傷(三)ともいう。)、左耳翼後二・〇センチメートルの部位に、ほぼ横走する二・〇センチメートル×〇・三センチメートル、深さ二・八センチメートルの刺切創(以下、創傷(四)ともいう。)がある。

創傷(一)ないし(四)はいずれも、創縁は鋭、創角は顔面側が鋭、後頭部側が鈍で、創洞は内下方に向いている。

(2) 左耳垂下方三・五センチメートルの部位で、下顎角より四・〇センチメートル下方の左後側頚部に、上下径三・〇センチメートル、最大幅〇・九センチメートルの開放した刺切創があり、これに連続して、上下径一・七センチメートル、幅〇・二センチメートルの浅い切創のほか、上下径三・五センチメートル、幅〇・八センチメートルの、医師中島功が治療のために切開した浅い切創がある(以下、中島医師による切開部分を除いた創傷を創傷(五)ともいう。)。創傷(五)の創縁はいずれも鋭、創角は前頚側が鋭、後頭側が鈍で、創洞は内下方に向い、深さは二・五センチメートルまで計測できる。

(3) 左肩峰部より内方四・五センチメートル、左鎖骨上方二・八センチメートルの部位に、二・五センチメートル×一・〇センチメートルのほぼ縦軸方向の刺切創がある。その創縁は鋭、創角は鎖骨側が鋭、肩部側が鈍で、創洞は内下方に向い、深さは約九センチメートルを計測できる(以下、創傷(六)ともいう。)。

(4) 創傷(六)の内側直下に一・〇センチメートル×〇・二センチメートルの表面革皮様化した浅い切傷(以下、創傷(七))ともいう。)があるほか、右手拇指、左手人示指及び左手中指にはいずれも防御創(以下、創傷(八)ないし(10)ともいう。)がある。

5  本件タクシーの状況等

長谷川勝衛及び横田一彦の各原審証言、検証調書(甲二)、実況見分調書(甲三)、写真撮影報告書(甲九)、「拡大写真の送付について」と題する書面(甲三三九)、浜辺毅洋、佐藤至及び阿部徹各作成の鑑定書(甲三八、三三五、三五二)、東京女子医科大学法医学教室教授澤口彰子作成の鑑定書(原審弁護人請求書証一八号証、以下、単に「弁一八」のように略称する。)、捜査報告書(甲三五三)、石田新吉、伊藤正美及び出田忠の各警察官調書(甲七三、三七九、三八〇)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 車両の状況

(1) 本件タクシーの形状等

本件タクシーは、四ドア型ニッサンセドリック白色六二年式の事業用普通乗用自動車で、車体の長さは四・六九メートル、幅は一・六九メートル、高さは一・四五メートルであり、車両内の床から天井までの高さは一・一六メートルである。なお、運転席のヘッドレストの部位に防犯用のプラスチック板は取り付けられていなかった。

(2) 本件タクシーの停車状況等

本件タクシーは、市道の左側車線上に中央線に沿ってほぼ平行にエンジンを作動させたまま停車していた。前照灯は消灯していたが、右側車幅灯が点灯し、車両後部の左右の尾灯、車幅灯及び番号灯も点灯していた。運転席ドアは全開し、助手席側後部ドアは約一・五センチメートル開いており、助手席ドア及び運転席側後部ドアは閉まっていた。助手席ドア、助手席側後部ドア及び運転席側後部ドアのロックはいずれも下りていた。助手席側後部ドアは、運転席に取り付けられている手動ドアレバーを操作して開閉する仕組みになっているところ、手動ドアレバーは床から一四・五センチメートル上がっていた。各ドアの窓ガラスはいずれも閉まっていた。

(3) 本件タクシー外部の血痕付着状況

<1> 運転席ドア下方のロッカーパネルに擦過状及び六条の血痕が、車両右側面部の、前輪タイヤホイル、前輪タイヤ、フロントフェンダー、センターボデーピラー、ロッカーパネル、後部ドア、後輪タイヤホイル、後輪タイヤ、リアフェンダーに、針頭大から小豆大の飛沫血痕が付着していた。車両右側面部の血痕付着範囲は、幅が前輪タイヤホイルからリヤフェンダー中央部まで三・三メートル、高さがロッカーパネルからセンターボデーピラーまで一メートルの間があった。

<2> 車両前部、後部、左側面部及び屋根部には、血痕は付着していなかった。

<3> <1>の各部分から採取された血痕八個はいずれも人血で、血液型は被害者と同一のAB型であった。

(二) 本件タクシー内部の状況

(1) 天井中央部に取り付けられている室内灯のスイッチは、ONとOFFの中間の位置にあり、いずれかのドアを開けると照灯し、全部のドアを閉じると消灯する状態になっていた。日報灯は消灯していた。

(2) 料金メーターは六七一〇円を表示し、料金を受け取っていない状態であった。空車表示板は助手席ドア側に倒れ、実車状態になっていた。無線送信機は、POWと表示された部分の黄色ランプが点灯していて、通話できる状態になっていた。助手席座席上には、新聞紙、運転日報を挟んだバインダーのほか、一二月二八日に西湘バイパスを通過した旨の道路公団の領収書があった。運転席タコメーター下のフックには、釣り銭袋が吊り下がっており、同袋には現金合計二万五九二〇円が入っていた。助手席ダッシュボード内にあった黒革製二つ折りの財布には、現金合計五万五〇〇〇円が入っていた。

(3) 本件タクシーは、一二月二九日午前一時四〇分から午前八時四〇分まで本件現場で実況見分された後、ウインチを使い、やや斜めになった状態で車両運搬車の荷台に上げられて、小田原市板橋所在の神奈川県警察本部交通部第二交通機動隊小田原分駐所まで運ばれ、同日午前九時四〇分から午後五時まで同所敷地内で検証の対象とされたが、右検証時における本件タクシー内の血痕付着状況は、以下のとおりである。

<1> 運転席ドアの窓ガラスには、針頭大から小豆大の飛沫血痕が五箇所、小豆大の滴下血痕が一箇所、擦過状の血痕が一箇所付着し、同ドアの窓ガラス開閉ハンドル付近、ドア開閉フック付近、ドアポケット付近にも、滴下状及び擦過状の血痕が付着していた。

<2> 運転席シートベルトに滴下血痕が付着し、その留め金周辺及び上部折り返しフック手前に挟まれていたクリップの両面などに飛沫又は擦過状の血痕が付着していた。

<3> 運転席床上には二枚のゴム製マットが重ねて敷かれており、上側の紺色ゴム製マットには、運転席ドア側に針頭大の血痕が多数付着しているほか、助手席側に粟粒大から鶏卵大の血痕が付着していた。その下側の黒色ゴム製マットには、運転席ドア側に滴下した針頭大の血痕及び擦過した血痕があり、助手席側に長さ二センチメートル大の滴下した血痕があった。

<4> 運転席床上の二枚のゴム製マットを取り除くと、ビニールレザー張り床上のドア取付部に、針頭大から小豆大の血痕があり、アクセル、ブレーキ、クラッチの各ペダル上、ハンドル、ヒーター足元吹出口などにも血痕が付着していた。運転席ステップ上にも滴下した血痕があり、一部は溝に貯留していた。

<5> 運転席の座布団上には、助手席側の背もたれ下に多量の血痕が付着しており、ヘッドレストカバー、座席シートカバー及び背もたれ上にも同様の付着があり、ヘッドレストカバーのドア側及び後部座席側にも及んでいた。手動ドアレバー上に針頭大の血痕が付着していた。

<6> ハンドルには、運転席ドア側のホーンボタンを中心に、縦五センチメートル、横八センチメートル大の血痕が付着しているほか、ステアリング周囲に擦過状の血痕が付着していた。防犯灯スイッチのドア側に滴下状の血痕が一箇所付いていた。

<7> 助手席上の運転席寄りには、縦二七センチメートル、横四三センチメートルの範囲に血痕が付着し、一部は剥離状になっていた。また、背もたれ運転席寄り下方に擦過状の血痕があり、シートベルト取付穴から同ベルトにそって後部座席寄りへと続いていた。シートカバー運転席寄りには、針頭大からそら豆大等の血痕が付着していた。

<8> 助手席シート上に置かれたバインダーに挟まれた運転日報一枚目メモ用紙には、運転席側座席から続いた血痕があり、滴下状のものもあるほか、背もたれ側に長さ一五センチメートルにわたり一〇枚目のメモ用紙まで血痕が付着していた。

<9> 運転席側後部ドアの窓ガラスには小豆大の飛沫血痕が、同ドアロック部分には擦過状の血痕、ドア下方には滴下及び飛沫等の血痕がそれぞれ付着していた。

<10> 運転席側後部ドア側の床上、リアフェンダー、ホイールアーチ部分一四箇所にも滴下状の血痕が付着していた。同ドアのステップ上にも血痕があった。

<11> 運転席背部のヘッドレスト後方の黄色ビニル製安全つりひもには、滴下状等の血痕が付着していた。

<12> 運転席側後部座席の床上のマットには、一番上の青色マットに、幅一四センチメートル、長さ二一センチメートルに血痕が付着し、座席直下に滴下状等の血痕の付着が多く、その下の二枚目の空色マットのドア側、座席直下、運転席後部に滴下状となった血痕が付着し、上から三枚目の黒色マットの運転席後方から中央部に、幅二七センチメートル、長さ三九センチメートルの範囲に血痕が付着しており、同マットのドア側に滴下状等の血痕が付着していた。マットの下の床には、運転席から中央部に、幅二五センチメートル、長さ四〇センチメートルの範囲に血痕が貯溜し、一部は水様になっており、ドア側の床上に滴下した血痕が付着していた。

<13> 運転席側後部座席の右側コーナー部には、幅一五センチメートル、長さ二二センチメートル大等の血痕が付着し、一部は剥離しているほか、座席前部、助手席側後部座席方向に血痕の付着があった。

<14> 助手席側後部ドアの窓ガラス一箇所に血痕が付着していた。

<15> 助手席側後部座席の床上のマットには、一番上の青色マットの助手席シートベルト取付部下に、そら豆大等の血痕が付着し、上から二枚目の空色マットには、助手席後部の中央付近からドア方向に、長さ三五センチメートル、幅一〇センチメートル大の血痕が付着し、上から三枚目の黒色マットには、助手席後部から床中央に、幅八・五センチメートル、長さ三三センチメートル大の血痕が付着していた。マットの下の床には、助手席側から血痕が付着し、幅二一センチメートル、長さ二六センチメートルの範囲に血痕が付着ないし貯溜し、一部は水様になっていた。

<16> 後部座席の背もたれ白色レースカバーの上には、少なくとも一一箇所に粟粒大から小豆大等の血痕が付着していた。

<17> 天井部分には、運転席サンバイザー中央部の天井に長さ一・八センチメートル、幅三ミリメートル大の血痕、運転席側ドア内側の上部に擦過状の血痕があるほか、運転席ヘッドレストの真上付近から後部座席方向に、長さ三一センチメートルの範囲で、ほぼ直線上に飛沫した血痕が付着し、その最後の部分は擦過状であった。

<18> 以上の箇所から採取された血痕七〇個のうち六七個は、いずれも人血で、血液型は被害者と同一のAB型であった。

(4) 天井部はビニールレザー張りであるところ、運転席側後部座席の天井部には、一方の端がやや曲がった長さ二・二センチメートル、深さ約三ミリメートルの切断痕があり、これに続き、運転席方向に、長さ約二六センチメートルの擦過線条痕が印象されていた。それらには目に見える血痕の付着はなかった。

(5) 運転席料金メーター下の灰皿内からマイルドセブンライトの吸殻六本、助手席側後部ドア内側約五五センチメートルの床上からハイライトの吸殻一本、助手席背部中央の灰皿内からキャビン85マイルドの吸殻一本が発見された。右各吸殻に付着していた唾液から血液型を鑑定したところ、キャビン85マイルドからは、唾液の付着量が僅少であったため、血液型が判定できなかったが、マイルドセブンライトからAB型、ハイライトからはA型が検出された。

6  本件現場付近の血痕付着状況等

実況見分調書(甲三)、資料採取報告書二通(甲三四九、三五〇)、阿部徹作成の鑑定書(甲三五二)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 本件タクシー右側付近の路上

(1) 本件タクシー運転席側の下方、市道中央線から西南方向に八〇センチメートル×四〇センチメートル大の範囲で血液が貯溜し、さらに西南方向に四五センチメートル×三五センチメートル大の血液が貯溜していた。運転席下方の右貯溜血液を取り巻くように、本件タクシー右側面部直近の路上には、本件タクシー右側面部の血痕と同形状の飛沫血痕が多数飛散していた。

(2) 本件タクシー右側と早川漁協南東角方向の路上との間には、多数の血痕が付着していた。

(3) 早川漁協南東角の置石や草花の植込みにも、多量の血痕が付着していた。

(4) 本件タクシーの右前方路上には、車両右後角から五・六メートル、道路西端側溝外側から直角に二・二メートルの位置に乗務記録票一枚が放置され、発見時の表面には、右上角部分にややまとまった血痕、真ん中やや左寄りに丸い血痕とやや薄れた血痕が付着し、発見時の裏面には、左上角部分にやや長い血痕、同部分から真ん中にかけて二個の血痕が付着していた。

(二) 本件タクシーの左側、前部及び後部付近の路上

本件タクシーの左側、前部及び後部付近の路上には血痕がなかった。

(三) 脇道上

早川漁協南東角から始まる脇道には、国道一三五号線方向に約四三・五メートルにわたり一八個の血痕が付着していた。この血痕は、いずれも微小な滴下状で、ほぼ一直線上に連続しており、距離間隔は、漁協南東角付近がほぼ一定で国道に向かって徐々に長くなっていた。

(四) 早川マンション付近路上

本件タクシーと北西方向の早川マンション前の間の路上には、約一八・七メートルにわたり血痕が点々と付着し、これが市道端から約五・三メートルある同マンション入口を経て同マンションの階段まで続いており、同マンション入口の駐車場に駐車中の自動車と自転車にも血痕が付着していた。

これらの血痕は、方向が左右に乱れ、距離間隔が不規則で、ところどころに塊状のものがあった。

(五) 早川マンション内部

(1) 早川マンションの入口階段から一階と二階の間の踊り場までの床面及び手摺にはには、血痕が点々と付着し、一階B室ドアの取っ手付近にも血痕が付着していた。

(2) 早川マンションの一階と二階の間の踊り場から三階に至る階段には、微小な滴下状の血痕が数個点在していた。

(六) 血痕の血液型

以上の箇所から採取された血痕六五個は、いずれも人血で、血液型は被害者と同一のAB型であった。

7  本件タクシー及び本件現場付近の足痕跡及び指掌紋の状況

捜査報告書四通(甲三四〇ないし三四三)、現場指掌紋採取報告書(甲三四四)、同対照結果通知書(甲三四五)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 本件タクシーの内部から採取された痕跡は、合計二二個であったが、そのうち足痕跡として採取できたのは、運転席下の床マットから採取された痕跡一個のみであり、同痕跡は、被害者の履物と類似する痕跡であった。他の二一個の痕跡はいずれも対照不可能な痕跡であった。

(二) 本件現場付近から採取された痕跡は、合計七一個であったが、そのうち、四個はタイヤ痕であり、四八個は被害者の履物と類似する足痕跡であり、九個は捜査、救急隊関係又は前記神戸悟の履物と類似する足痕跡であり、五個は印象が不鮮明のため対照不可能な痕跡又は足痕跡であり、残りの五個はそのいずれにも該当しない痕跡であった。

(三) 本件タクシーからは合計二六個の指掌紋が採取されたが、一六個は識別不能であり、その余の一〇個は被告人の指掌紋には合致しないものであった。

8  果物ナイフの発見状況と形状等

佐々木信幸の検察官調書(甲七〇)、遺留品発見報告書(甲一三)、果物ナイフ一丁(前同押号の1、以下「本件ナイフ」ともいう。)、石川富美雄ほか一名及び光用泉各作成の鑑定書(甲一七、二三)、「凶器の販売先等について」と題する書面(甲四四)、現場指掌紋採取報告書(甲三四六)、同対照結果通知書(甲三四七)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 司法巡査佐々木信幸は、一二月二九日午前零時三五分ころ、本件現場付近を検索中、本件現場から南西約一〇〇メートル、国道一三五号線の小田原市早川<番地略>の歩道上で、乾ききっていない血のついた本件ナイフを発見した。

本件ナイフは、刃がステンレス製、柄部が茶色木製で、全長二二・八センチメートル、刃体の長さが一二・四センチメートル、刃の幅の最も広い部分が二八・五ミリメートル、刃の厚さの最も厚い部分が一・四ミリメートルであり、刃体には「関一幸作」という文字が刻まれている。

本件ナイフを刃先を前方に向け、刃を下向きにした状態で上から見ると、柄部の左側付け根部分が一部欠損し、刃体が付け根部分から左側に約二八度曲がり、逆くの字型になっている。

(二) 本件ナイフの柄部の欠損部分は、発見されていない。

(三) 本件ナイフの刃体の両面には、血痕が付着しており、柄部は刃元から一・五センチメートルの範囲まで血痕反応陽性を示し、刃体の曲がった部分と柄部との隙間部分の血痕反応も陽性であった。刃元、刃体中央部、柄部から採取した血痕は、いずれも人血で、血液型は被害者と同じAB型であった。

(四) 本件ナイフの柄部と刃元右側部から二個の指紋が採取されたが、識別は不能であった。

(五) 本件ナイフと同種のナイフは、株式会社イトーヨーカドーが、昭和五三年ころから正広鍛工株式会社に発注して製造させ、卸元の三宝商事株式会社を経由して、全国一二七店舗(神奈川県内では二一店舗)及び系列店六〇店舗において小売価格一二八〇円で販売していたものであり、年間販売本数は三五〇〇ないし四〇〇〇本であった。

二  客観的状況から推認できる事実

以上にみた客観的な状況から推認できる犯人の乗車、停車場所、本件タクシーの走行経路、犯行時刻、被害者の死因、犯行現場、成傷器、犯行態様、犯人の逃走経路、犯人への血痕付着の可能性及びその程度などについて検討する。

1  犯人の乗車、停車場所

前記一の1、5(一)(2)、(二)(2)でみた無線連絡状況、本件タクシーの停車状況及び車両内の状況などに照らすと、犯人は、平塚市金目付近において、被害者が運転する本件タクシーに一二月二八日の三三番目の乗客として乗車し、本件現場まで走行させた者であると推認できる。

2  本件タクシーの走行経路、犯行時刻

前記一の1、3、5(二)(2)でみた無線連絡状況、本件タクシーの走行状況、被害者の発見状況、車両内に西湘バイパスの領収書が遺留されていたことなどに照らすと、本件タクシーは西湘バイパスを経由して本件現場に至ったこと、犯人が本件タクシーに乗車したのは一二月二八日午後一一時一三分ころであり、本件タクシーが本件現場に到着したのは同日午後一一時四九分ころであること、そのころから前記山崎禎子が一一〇番通報した同日午後一一時五六分ころまでに犯行が行われたことが推認できる。

3  被害者の死因

(一) 原判決は、被害者の死因につき、直接の死因は左内頚動脈切断による失血であり、競合死因は左肺刺切創による左血胸であるが、損傷肺血管からの血液逆流による気道閉塞も否定できないと認定しているところ、検察官は、当審において、被害者の死因は左外頚動脈切断等による失血性(乏血性)ショックであると主張している。

(二) そこで、検討するに、永田鑑定書(甲三一七)には、創傷(五)が左内頚動脈を切断しているとの記載があり、北里大学医学部法医学教授船尾忠孝の原審証言及び鑑定書(原審職権一〇号証、以下単に「職一〇」のように略称する。)(以下両者を併せて引用するときは、「船尾鑑定」のように略称する。)、医師中島功の原審証言及び警察官調書(甲四六)、捜査報告書(当審検四七)添付の東海大学医学部救急医学教室の入院記録にもその旨の記載がある。しかしながら、永田鑑定書添付の解剖写真12ないし15に、石山鑑定書(当審検九)及び名古屋大学医学部法医学教室教授勝又義直の当審証言及び鑑定書(当審職権五号証、以下「当審職五」のように略称する。)を加えて考察すれば、解剖写真において切断された動脈にゾンデが挿入された箇所からやや末梢部で前方に分岐している細い動脈は、舌動脈とみられ、創傷(五)が内部で内下方と後方あるいは後ろやや上方の方向に二つの創洞を持つ傷であるとうかがえることからすると、創傷(五)については体内に刃が刺入された状態で二回突きが行われ、内下方に刺した際に左外頚動脈を切断し、後方あるいは後ろやや上方の方向に刺し直した際に顔面動脈が切断されたものとみられる。そして、内頚動脈が脳内に行く血管であることからすれば、もしこの血管が切断されていれば、脳への血流が断たれて極めて重篤な症状が生じ行動能力は著しく低下すると考えられるのに、後記7(三)でみるとおり、被害者は受傷後も本件現場付近を歩行するなどして、かなり行動能力があったとみられる。このような解剖学的な観点と被害者の受傷後の行動に照らすと、被害者の左内頚動脈は切断されておらず、左外頚動脈が切断されたにとどまるものと認められる。

また、永田鑑定書や船尾鑑定書には、創傷(六)が左鎖骨下動脈を切断しているとの記載もみられるが、石山鑑定書及び勝又鑑定書は、一致してそのようなことはあり得ないと指摘しているところ、太い左鎖骨下動脈を切断していれば、被害者は早期に失血して死に至るはずで、受傷後に車外に出て動きまわるような行動をとれるはずがないという理由は、首肯できる。この箇所の解剖写真はないものの、被害者の左鎖骨下動脈は切断されておらず、より小さな動脈や鎖骨下静脈は損傷したにとどまるものと認められる。

(三) 永田鑑定書によれば、被害者の左肺の肺尖部の損傷は〇・八センチメートル×〇・三センチメートル、深さは一・〇センチメートルであることが認められるところ、勝又鑑定書によれば、肺尖部の右損傷は浅く、末梢の血管を損傷するのみで多量の出血の原因とはならないことが認められるから、競合死因が左肺刺切創による左血胸であるとか、損傷肺血管からの血管逆流による気道閉塞も否定できないとはいえない。

(四) 石山鑑定書によれば、犯行現場での滴下血痕ないし吐血、被害者の着衣に吸収された血液、左胸腔内の貯留血液、西湘病院での三回の吐血を考慮すれば、被害者に出血によるショック死を生じさせてもおかしくないほどの出血量があったと考えられるばかりか、心臓の左心室に内膜下出血があり、肺臓は全体的に膨満し、一部貧血性で割面には浮腫があり、人工呼吸の影響を考慮してもショック肺の所見があり、肝臓は全体に浮腫状であり、脳は表面及び割面ともに浮腫状で、特に割面では白質の浮腫が著しいという全身に外傷性ショック状態が存在し、そのために二次性変化が生じていたことを示す各臓器の所見もあると認められ、これらの所見が揃っていることからすると、被害者の死因は出血性(乏血性)ショックであるとする同鑑定書の結論は、首肯できる。

(五) このようにみてくると、被害者の死因に関する原判決は誤りであり、被害者の死因は、左外頚動脈切断等による出血性(乏血性)ショックであると認めるのが相当である。

4  犯行現場

(一) 原判決は、犯人は車両内で被害者を刺していることが認められるものの、客観的な血痕付着状況等に照らすと、車両右側面部及び車両右側付近の路上の血痕が被害者の喀血のみによって生じたものであるとにわかに断定することはできないと説示しているところ、所論は、本件タクシーの車両右側面部及び車両右側路上の飛沫血痕は被害者の吐血によって生じたものであることは明らかであるというのである。

(二) そこで検討するに、本件タクシーの車両右側面部には、前記一の5(一)(3)<1>でみたとおりの、本件タクシー右側付近の路上には、前記一の6(一)(1)でみたとおりの血痕が存在しており、また、被害者が吐血していた状況は、前記一の3(二)(三)のとおりである。ところで、船尾鑑定書(甲三九二)は、<1>被害者の創傷の部位、程度などから判断すれば、受傷部位から周囲に血液が飛散することはないものと推測される、<2>車両右側面部及び車両付近路上に付着している飛沫血痕は、動脈損傷に直接起因するような散布状のものではなく、ほとんど孤立散在性で霧散しており、大きさも長径数ミリ内外以下の微小血痕である、<3>創傷(六)は肺尖部を穿刺し気道内に閉塞性出血を惹き起しているため、被害者には死亡に至る間咳嗽による喀血があったものと推測されることなどを根拠として挙げた上、車両右側面部及び車両付近路上に付着している飛沫血痕は、被害者の損傷部位から直接生じたものではなく、被害者の咳嗽による喀血によって生じたものと思考されると指摘している。石山鑑定書(当審検九)は、<1>動脈切断による飛沫痕は噴水のように一定の地点から一定の方向性をもって直接的に形成されるものであるところ、本件タクシー内にも道路面にも動脈切断によって生じたそのような飛沫痕は全く存在しない、<2>被害者の舌根部には創傷(五)による重篤な出血が存在しており、運転席近くの二つの貯留血痕は吐血によるものであるとみてよいと指摘している。さらに、勝又鑑定も、<1>創傷(五)は、おそらく創の末端は口腔近くに達していても当初は開口しておらず、首を曲げたり、手で圧迫するなどして外表からの出血を抑制しているうちに創洞内の圧力が高まり、ついには口腔内に穿破して血が溜まるようになった公算が大きく、いったん口腔内に開口すれば、以降は抵抗の少ない口腔内に血が溜まってゆき、次々と吐血するようになり、次第に胃内にも嚥下していったと思われる、<2>吐血は、被害者が車を出て脇道の途中から戻って早川マンションの三階近くまで上り、そこから引き返して車に戻ったころから始まった公算が大きいと指摘している。

これらの鑑定は、被害者が吐血ないし喀血するようになった機序については見解を異にする部分があるものの、車両右側面部及び車両右側路上の多数の血痕は、被害者の吐血ないし喀血に由来するものであるとする点では一致しており、さきにみた客観的な血痕の状況や被害者の吐血の状況に照らしても、右各鑑定意見に疑問は生じない。原判決の前記判示は是認できない。

5  成傷器

前記一の4(三)でみた被害者の創傷の状態及び永田原審証言によれば、犯行に用いられた凶器は、鋭利な片刃の刃器であると推認されるところ、前記一の8(一)でみた本件ナイフの刃体の長さ、幅、厚さ等を勘案すると、本件ナイフが成傷器であると考えても矛盾しないことが認められる。また、光用泉作成の鑑定書(甲二三)及び勝又鑑定書(当審職五)によれば、前記一の5(二)(4)でみた本件タクシー内の天井ビニールレザーの切断痕及び線条痕は、本件ナイフの切先によって印象された可能性が強いことが認められる。加えて、前記一の8(一)(三)のとおり、本件ナイフが犯行後間もなく本件現場付近で発見され、被害者と同一の血液型の血液が付着していたことなどにかんがみると、本件ナイフは、本件犯行の凶器と認められ、犯人は逃走の途中でこれを投棄したものと推認することができる。

6  犯行態様

永田鑑定は、<1>被害者の刺切創について、その方向、加えられた力、受傷箇所、創洞の角度などからみて、被害者自身によって作られたものでないことは明白で、危険を全く予期せず無防備で座している被害者の後方から半立位に近い状態の他人によって作られたものと思われ、被害者が立位であったり、加害者と対峙した状態では、このような刺切創はできない、<2>被害者の防御創が軽微で少ない、<3>加害者は多数回にわたり抵抗力の無い状態の被害者に対し同等の外力を同方向に加えていることからすると、被害者は初めに創傷(五)又は創傷(六)の刺切創を加えられ、これによって頚動静脈の損傷、左肺に達する損傷による血胸を起こして抵抗能力を急激に奪われ、その後に側頭から耳部周囲の創傷(一)ないし(四)の刺切創が作られたものと考えるとしている。石山鑑定書(当審検五一)は、<1>被害者の創傷(一)、(二)の創口はほぼ平行に並んでいて、刃物の攻撃から逃避行動に伴う創傷自体の形状や分布パターンの乱れもないことから、受傷時には被害者が身動きできない状態にあった可能性が高い、創傷(四)についても同様なものとみなしてよい、創傷(三)についても拡大写真を検討したところ、犯人が刃物の刃を被害者の前方に向けて攻撃したことが判別できるので、部位的にも左側頭部の創傷群の一つとみなした方が自然であり、かつ、この創傷にも逃避行動をみることはできない、<2>被害者は、創傷(五)及び(六)が加えられた後で無抵抗になり、創傷(一)ないし(四)の傷を負ったといわざるを得ないが、その無抵抗となった原因としては、本件タクシー内に大量の出血が存在していないこと、被害者は受傷後もかなりの行動能力があったということを考慮すると、失血性ショックよりも神経性ショックが誘発されていた可能性が高い、<3>そうすると、創傷(五)が最初で、次に創傷(六)が二番目に加えられ、この際に胸膜刺激が加わったために神経性ショックを起こし、意識混濁の状態で創傷(一)ないし(四)が加わったということが考えられるとしている。また、勝又の当審証言は、創傷(一)ないし(四)はそれほど重大なものでないにもかかわらず、ほぼ同じような方向に同じように刺されていて逃避行動をとっていないことからすると、その前に重大な損傷を受けてショックで動けない、あるいは機敏な行動がとれなくなっていたことを示しており、損傷(五)ないし(六)のいずれか、あるいはその両方の傷を受けた後に創傷(一)ないし(四)の傷を負ったと考えられるとしている。

これらの鑑定意見に後記四の4(二)(5)でみるとおり、本件ナイフは創傷(六)を生じさせた際に曲がったものと認められることを考え併せると、被害者は本件タクシーの運転席に座っていたところを、不意に後部座席から犯人によって本件ナイフで攻撃を受けたもので、その受傷順序については、まず左後側頚部の創傷(五)を、次いで左肩部の創傷(六)を加えられ、被害者の抵抗力が急激になくなった状態で、左側頭部の創傷(一)ないし(四)の傷を負ったものと推認することができる。

7  犯人の逃走経路、脇道上の血痕の由来等

(一) 前記一の5(一)(2)でみたところによれば、本件タクシーの助手席側後部ドアが約一・五センチメートル開いており、運転席側後部ドアはロックがかかったまま閉まっていたから、犯人は、被害者に対し、前記6でみた犯行に及んだ後、助手席側後部ドアから逃走したことが推認できる。なお、前記一の5(二)(3)<10>でみた本件タクシーの血痕付着状況によれば、運転席側後部座席のステップ部やリヤフェンダー・ホイールアーチ部にも血痕の付着が認められるが、前者は、勝又鑑定書(当審職五)によれば、他の箇所からステップ部に剥離落下した粉状の乾燥血痕と認められ、後者は、検証調書(弁一七)、澤口鑑定書(弁一八)など関係証拠によれば、被害者の吐血ないし喀血が、閉められた状態にあった運転席側後部ドアとリヤフェンダー・ホイールアーチ部との隙間に入ったものと認められるから、それらの血痕は、犯人が運転席側後部ドアを開けて逃走した疑いを生じさせるものではない。

(二) 前記一の8(一)でみた本件ナイフが発見された場合と本件現場の位置関係に照らすと、犯人は本件タクシーから出た後、脇道を通って逃走したと推認できる。

(三) 原判決は、脇道上の血痕は、犯人が逃走する際、犯人に付着していた被害者の血液が滴下したものと解するのが最も自然ではないかと考えられると説示しているところ、所論は、右血痕は、被害者が脇道の途中まで犯人を追いかけた際、被害者の身体から滴下したものであるというのである。

そこで検討するに、前記一の6(二)(三)でみた本件現場付近の血痕付着状況によれば、本件タクシーの左側、前部及び後部付近の路上には血痕の付着はなく、脇道の血痕は、早川漁協南東角付近から国道一三五号線に向けて約四三・五メートルにわたり、ほぼ一直線上に一八個あるが、いずれも微小な滴下状のものであり、その距離間隔は、漁協付近はほぼ一定で国道に向かって徐々に長くなっている。そして、石山鑑定書(当審検九)は、<1>被害者の当初の出血は着衣や手袋に吸い込まれ、初期の段階では滴下するまでには至っていなかったが、被害者が脇道奥から本件タクシー方向に戻っている時点で吸収しきれなくなって着衣や手袋からしみ出した血液の滴下が脇道奥四三メートルの地点から開始した可能性が大きい、<2>脇道の血痕の間隔がこの血痕の由来を説明する上で重要な指針を与えており、脇道の血痕はもっとも奥寄りの部から本件タクシー側に近づくにつれて滴下血痕の間隔が狭まり、二メートル内外のほぼ等間隔になっていることは、歩行速度と滴下血痕の生ずる速度が定常状態になっていることを示していると指摘し、勝又鑑定は、<1>脇道の血痕は被害者のものとみられる他の路上の血痕と無理なく連続しているとみてとれる、<2>被害者は、受傷当初の運動能力がやや高い時期に犯人が逃げた方向に犯人を追い、見失うか次第に運動能力が低下してくるのを自覚したかして、本件タクシーの方向に戻り、さらに電気の点いている部屋があった早川マンションに助けを求めに行ったと考えられる、<3>被害者が脇道を往復したのに血痕が一本の線上にあるのみであることについては、例えば、当初は創口を手で圧迫するなどして出血を抑制していたが、次第に衣服にしみ込む容量を超えて出血したため滴下し始めたことが考え易い、<4>右血痕は、本件タクシーに近づいて来るにつれ間隔が狭くなる傾向がみられ、戻って来るにつれ移動の速度が遅くなったか、滴下血痕量が増えたことを示唆している、<5>犯人の逃走の際に生じた可能性があるとみた場合、犯人がタクシーの助手席側後部ドアからタクシーの後ろを回って逃げたとすれば、同ドア辺りから前記血痕の開始時点まで血痕のないことの説明が難しいと指摘している。これらの鑑定意見は、さきにみた本件現場付近の血痕付着状況及び前記一の4(二)でみた被害者の着衣の状況に照らしても、合理的であると考えられる。前記一の6(一)(4)でみた乗務記録票一枚の存在とその位置も、被害者が脇道に入ったと考えた場合に最もよく理解できる。

そうすると、脇道上の血痕は、被害者に由来するものと認められるのであって、原判決の前記判示は誤りである。

8  犯人への血痕付着の可能性及びその程度

(一) 原判決は、真実被告人が犯人であるとすれば、被害者の返り血を浴びたり、被害者や車両内の血痕付着部分に接触するなどして、その手や着衣等には、逃走過程で滴下するほどの量の血液が付着したと考えるのが自然であるというべきであると説示しているところ、所論は、被害者の傷口からは相当量の血液が飛散したはずであるとするその前提に誤りがあるばかりか、原判決の右推論は独自の経験則に基づく不合理な仮説に立脚しているというのである。

(二) そこで検討するに、まず、脇道の血痕が犯人に由来するものでないことは前記7(三)でみたとおりであって、犯人の手や着衣等には、逃走過程で滴下するほどの量の血液が付着したと考えるのが自然であるとする原判示は、その前提を欠くものというほかない。

次に、被害者の創傷及び本件タクシー内の血痕付着状況等に照らし、犯人への血痕付着の可能性及びその程度について検討する。船尾鑑定は、本件タクシー内にみられる多数の血痕の形状は、大部分がいわゆる二次性付着痕、擦過痕、流下痕ないし滴下痕で、飛沫痕は極めて少なく、動脈損傷に直接起因するような散布状飛沫血痕は認められない、検察官主張の態様による犯行の際に、加害者の着衣、帽子、履物等に被害者の血液痕をとどめないことがあっても矛盾しないものと推測される、右犯行の際に、加害者のジャンパーの左右の袖口部分のみに血液痕をとどめることもあり得るものと思考されるとし、その理由として、<1>創傷(五)は、左内頚動脈を切截しているので、切截部からかなり多量の血液が噴出、飛散するが、右動脈の血管壁は平滑筋が発達し、切截時に程度の差はあるが中枢及び末梢方向に収縮するし、右動脈の外側は胸鎖乳突筋で覆われていて、内頚動脈の切截口と皮膚表面の刺切創口とが同一平面上にはないので、血液は受傷後の時間的経過とともに強く湧出流下し、周囲に飛散することはないものと推測される、<2>創傷(六)は、左鎖骨下動脈を切截断しているが、右動脈の前面は前斜角筋、大胸筋で覆われている上、着衣による影響があることなどから、血液が刺切創口から周囲に飛散することはないものと推測される、<3>本件タクシー内の天井や後部座席のシートにみられる血痕は、加害者が被害者の傷口から刃器を抜いた際に生じた二次性の飛沫痕であるが、これが加害者に付着するかは、刃器の動きによるものの、被害者の創洞が内下方に向かっているという方向性からみて凶器が上下に動いたことを示しているから、加害者には付着しない可能性の方が高いと考えられる、<4>加害者の袖口部分のみに血液が付着する場合としては、加害者が刃器を持ち替えたり、被害者の創傷(一)ないし(一〇)の損傷部位から一〇回にわたって刃器を引き抜いたりしたときに二次的に飛散した場合とか、身を乗り出して運転席の金員を探そうとしたときに、被害者に付着している血液を擦過した場合などが考えられるとしている。永田の原審証言は、<1>創傷(五)は、内頚動静脈が斜めに切断されたような状態で切れている、<2>被害者が防御態勢をとると傷口自体がふさがる状態になることから、血液があまり表に飛び散るような形では出ないと考えられる、<3>創傷(六)も、左鎖骨下動脈を切断し肺を損傷しているが、内出血はあっても外出血の状態はそれほどではないと指摘している。石山鑑定書(当審検九)は、<1>動脈切断による飛沫痕は一定の地点から一定の方向性をもって直線的に形成されるものであると考えられるところ、本件タクシー内にはそのような形状の飛沫痕はない、<2>創傷(五)は軟部組織を方向を二回かえて刺入しており、内部では容積の大きな創洞を形成し、筋肉の断端などが外頚動脈の切断面を覆ったりするというようなことが起こっていたであろうし、さらには、この創口が口腔や咽頭に開口していれば、外頚動脈からの出血が外に向かわず、口側に流れ込んだ可能性は十分に存在するし、刃物が刺出する前に、この傷口を手袋をはめた手で押さえるというようなことによっても、動脈性の飛沫血痕が外表に生ずる妨げになったということが考えられると指摘している。また、勝又鑑定は、被害者の頚部、肩、側頭部からの出血が受傷後まもなく運転席、床上、地面に滴下しないことは十分あり得るし、本件タクシー内の運転席にみられる滴下痕や、助手席、運転席側後部座席にみられる吐血痕は、被害者が脇道の途中から戻って早川マンションの三階近くまで上り、そこから引き返して車に戻ってから付いたものと推定されるとし、その理由として、<1>外頚動脈はかなり太い血管で、切断により多量の出血が起こることは明らかであるが、左頚部の創傷(五)は創口が比較的小さく、しかも外表に大きな切れ込みのある刺切創であって、成傷器がえぐるように動いて筋を損傷し、その収縮によって大きな創洞ができていると思われるので、まず創洞内に出血した後、創口から溢れるように血が湧き出てくると思われるし、首を曲げて圧迫したり手で押さえたりすれば外表への出血は抑制される、さらに、出血が口腔内に向かうようになれば外表への出血量は少なくなるであろう、外表に出血しても、被害者の手袋、衣服にまずしみ込むと考えられるので、手袋、衣服の血液の保持能力を超えて後に滴下が起こると思われる、<2>側頭部の創傷(一)ないし(四)による損傷部位は、血管が豊富な部ではあるが、太い血管があまりない上、本件では外頚動脈からの供血がなくなっていると考えられるので、出血量はあまり多くはなかったと考えられる、<3>肩部の創傷(六)は、鎖骨下動脈を損傷した可能性は低く、より小さな動脈や鎖骨下静脈を損傷したと思われるが、いずれにしても出血は左胸腔への開口部を通って抵抗の小さい左胸腔内に向かいやすく、外表からの出血はそれほど大量でなかったと思われる上、損傷部は衣服を貫いており、出血はまず衣服にしみ込むので、受傷後間もなく滴下することは起こらないとし、また、犯人の着衣などに対する被害者の血痕付着の可能性については、<1>被害者の損傷や車の内外の血痕の状況からみて、受傷の時点で頚部等から多量の血液が噴出したとは考えられず、主として創傷(五)から血液が湧出し、衣服などにしみ込むように出血が生じたと考えられる、ただ、創傷(五)から成傷器を抜く際に血液が飛散したとすると、飛散状の血液が本件ナイフを握った手や袖口などに少量付着する可能性があるし、刃物で刺入した際、とりわけ創傷(六)を生じた際や前部座席に乗り出した際には、出血している被害者に触れたりして、血液が手や袖口等に少量付着することも考えられる、<2>本件タクシーの天井に見られる血痕は、出血した創口からナイフを抜いた際に、ナイフを介して飛んだ二次飛沫痕であり、助手席側後部座席の背もたれ及び助手席側後部ドア窓ガラスにみられる血痕は、同様にナイフを介した二次飛沫痕か、あるいは一部に被害者が運転席から運転席側後部座席に向けて吐血した際の飛沫痕を含むものである、右飛沫痕が犯人の着衣に付着する可能性については、刃物をどの方向に動かすかによるが、本件では犯人が刃物を左手に持ち、上後ろやや左方に勢いよく振り上げたと考えられ、そうであれば、飛沫血痕は犯人の上方から後ろやや左方に振り飛ばされた犯人に付着する可能性は低いと考えられると指摘している。

これらの鑑定意見のうち、船尾意見と永田意見が、被害者の内頚動脈や鎖骨下動脈が切断されていることを前提としている部分は、前記3(二)でみたようにそれらの動脈は切断されていないとみるべきであるから、採用できないが、その余の理由づけと結論及びその他の鑑定意見には疑問とすべきところはない。そして、これらの鑑定意見を、被害者の創傷、本件タクシー及び本件現場付近の血痕付着状況に関して前記一の4(三)、5(二)(3)及び6でみた客観的な状況に照らして考察すると、本件タクシー内には、動脈を切断した場合にみられるような飛沫性の血痕は見当たらず、本件タクシーの天井にみられる血痕は、犯人が出血している創口から本件ナイフを抜いた際に、本件ナイフを介して飛んだ二次飛沫痕であり、助手席側後部座席の背もたれや助手席側後部ドア窓ガラスにみられる血痕は、同様にナイフを介した二次飛沫痕か、一部に被害者が運転席から運転席側後部座席に向けて吐血した際の飛沫痕を含むものであり、そられの飛沫痕の方向性も考慮すると、血痕が犯人に付着する可能性は低いとみられる。そして、助手席、運転席側後部座席の吐血痕は、被害者が脇道の途中まで犯人を追いかけ、途中から引き返して車に戻ってから付いたものであるから、これが既に逃走した犯人に付着することはあり得ない。もっとも、犯人の手やその付近の着衣には被害者の血痕が付着したと考えられるが、それは、犯人が被害者の返り血を浴びたというようなものではなく、犯人がナイフを刺入したり、抜いたり、既に血が付いているナイフを持ち替えたりしたときに生じたものであると考えられる。

このようにみてくると、原判決の前記判示は、是認できない。

三  丁田の供述について

原判決は、丁田の供述は、その内容、供述経緯等にかんがみ、たやすく信用できないと判示しているところ、所論は、原判決が丁田の供述の信用性を否定したのは誤りであるというのである。

1  丁田の供述経緯、内容及びその裏付け捜査等

丁田三郎、小林笑子、宇井稔、高橋和彦、池憲夫及び田原肇の各原審証言、牧田重夫及び牧田ひろ子の各警察官調書(甲五二、五三)、佐々木敏雄、鈴木昭夫、斉藤弘彦及び三浦富栄の各検察官調書(甲四八ないし五一)、丁田の捜査段階における供述調書及び上申書(甲三六〇ないし三六七)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 巡査部長宮田勝敏は、松田事件の裏付け捜査の一環として、被告人の一二月三一日以前の行動を捜査するために、昭和六四年一月一日、小田原警察署において、被告人の知人である丁田から事情聴取をした。丁田は、その際、被告人とは昭和三〇年ころ、小田原市早川にあった佐藤組の飯場で一年位一緒に働いたことがあったが、その後は三三年位会ったこともなかった、ところが、昨年九月初めころ、パチンコ屋で偶然に会ったので、自分が牧田組で働いていることを教えた、被告人が一二月二八日、突然訪ねてきたので、同日と翌二九日泊めてやった、そのとき、被告人はこげ茶色のサンダルを履いていた、二八日夜、被告人にカップラーメンや酒を飲食させてやり、その晩は炬燵に入って翌朝まで一緒に寝た、二九日晩にも、おにぎりを食べさせてやったりして一緒に寝たが、翌三〇日午前七時ころ、被告人から、二〇〇〇円だけでも頼むから貸してくれと言われて貸してやった、その後被告人からは何の連絡もなくどこに行ったのかも分からないなどと供述した。

(二) 丁田の勤務先である株式会社牧田組の経営者の妻牧田ひろ子は、昭和六四年一月二日午後八時ころ、松田署から丁田の事情聴取をしたという連絡を受けたので、丁田に対し確認したところ、丁田は、被告人が昨年一二月二八日と二九日に訪ねてきて泊めてくれというので泊めた、被告人は松田の方で宿舎に火をつけて宿舎の人夫を焼き殺したらしい、俺は関係していないと答えた。

(三) 宮田巡査部長は、一月三日も丁田から事情聴取をすることにし、丁田方において午後四時ころまで、話を聴いた。その際、丁田は、被告人が一二月二八日にはこげ茶色のサンダルを履いていたが、二九日には黒の短靴を切って爪先の部分だけを残しスリッパ型にしたものを履いていたことを思い出した。被告人は二八日午後七時ころ丁田方で寝ており、丁田はそれからテレビ番組の忠臣蔵などを見たが、丁田が寝た翌日午前零時ころには、被告人はいびきをかいてぐっすり寝込んでいた、被告人は翌二九日の晩も泊まったが、その二日以外には泊まっていない、おとなしい被告人が殺人、放火事件を起こしたと聞いて驚いているなどと供述した。

(四) 有限会社美建土木(昭和六三年一一月一日より前は、個人経営で、単に小林土木と称した。所在は小田原市早川<番地略>、以下「小林土木」という。)の経営者の妻小林笑子は、被告人が松田の殺人、放火事件で逮捕されたことを新聞で知り、被告人が、小林方に借金を申し込みに来るなどして非常に金に困っていたことや、金目方面にも早川方面にも土地勘があることなどから、被告人が小田原事件の犯人ではないかという疑いを抱き、親族の警察官に相談した結果、昭和六四年一月三日の朝、小田原署に電話をかけ、被告人が小田原事件の犯人ではないかと思うので調べて欲しい、被告人は昭和六二年三月に丁田の紹介で小林土木で働くようになったなどと告げた。

(五) 小田原署では、右小林からの電話を契機に、被告人の行動を把握するため、丁田から事情聴取をすることとし、昭和六四年一月三日午後一時ころ、巡査部長服部正が丁田方を訪れたが、松田署が事情聴取をしていたので、同巡査部長はいったん署に戻った。同巡査部長は、同日夕方、再度丁田方に赴き小田原署へ同行を求めた。丁田は、当初、出頭をしぶったものの同行に応じ、同日午後七時から翌四日午前一時三〇分ころまで事情聴取を受けた。丁田は、最初、被告人とは三〇年来会っていないと供述していたものの、午後九時ころ、事情聴取を担当するようになった警部補田原肇が、丁田に対し、昭和六二年に被告人と一緒に小林土木で働いていたことがないかと問い質したところ、丁田は考え込んで黙ってしまった。同警部補が丁田に対し、知っていることがあれば話してくれ、心配することはないなどとなおも説得すると、午後一〇時か一〇時半ころになって、丁田は、「被告人から口止めされている」「本当のことを言うと殺されてしまう」などと口走り、頭を抱え込んでもじもじするような状況になった。同警部補が、被告人は松田の事件を起こしているから一〇年や一五年は入ってしまう、何も心配することはない、心配するならあとは警察がちゃんとやるから、などと説得を重ねたところ、丁田は、まだ踏ん切りがつかないような様子も示したものの、いきなり、「甲野はナイフを持っているよ、そのナイフはピンクのハンカチに包んで布団の下に置いてあったのを見た」と供述し始めた。

午前一時三〇分ころ作成された一月四日付け供述調書の要旨は、次のとおりである。

<1>被告人とは、昭和三〇年ころ佐藤組で一年位一緒に働き、その後会っていなかったが、昭和六二年秋ころ、パチンコ屋で偶然に会ったことから、自分が当時働いていた小林土木の親方に紹介してやった。被告人は、親方から早川の魚市場の近くの部屋を借りてもらい、二、三か月仕事をしたが、酒が原因で辞めさせられた。昭和六三年九月一五日ころ、パチンコ屋で被告人に再会した。その際、自分が牧田組で働いていることを話した。<2>一二月二六日午後七時ころ、被告人が自分の住んでいるアパートを訪ねてきて、行くところがないから泊めてくれと言ったので泊めてやることにした。二七日朝一緒にアパートを出たが、午後六時ころ帰ると被告人がアパートの前で待っていたので泊めてやった。このとき、被告人は、「給料をもらってきた」と言って、三万円を持っていた。二八日朝も一緒にアパートを出たが、五時に戻ってみると、被告人がアパートの前で待っていたので部屋に入れてやったが、午後七時三〇分ころ、「小田原に行ってくる」と言って部屋を出て行った。このとき、被告人は赤茶色のサンダルを履いていた。この日の朝、布団をあげるとき、全長二〇センチメートル位のステンレスの果物ナイフが出てきてびっくりしたことがあった。被告人は、「これは大事な物だから早くしまわなければ」と言いながら、ポケットの中からピンクのタオル地のハンカチを出してナイフを包み、ジャンパーのポケットに入れた。翌二九日午前三時三〇分ころ、寝ているとドアを叩く音がして目が覚め、鍵を開けてやると被告人が入ってきた。被告人のジャンパーは、左脇下が一〇センチメートル位切れており、左肩の下の方に直径五センチメートル位の汚れがあり、その周囲は上方に向かって飛び散っているように線状になっていた。被告人の履物はサンダルから黒い色のスリッパ型のものに替わっていた。被告人は、「早川で喧嘩をして電車で帰ってきた」「喧嘩したことは黙っていてくれ」と言い、台所の流し台で手を五分位洗っていた。被告人は寝てから、「うーうー」とうなされるような声にならない声を出していた。被告人は、朝起きて顔を洗った際、ピンクのタオル地のハンカチを出して顔を拭いているので、あれ果物ナイフはどうしたのかなと思った。被告人は、アパートを出て別れる際、「早川で事件を起こしてしまった、だから誰にもしゃべらないでくれ」と言った。二九日午後五時三〇分ころ、被告人が、もう一晩泊めてくれと言うので、三〇日の朝まで泊めてやり、「沼津の友達のところに行くから二〇〇〇円貸してくれ」と言うので、二〇〇〇円を貸してやった。<3>被告人が帰った後、新聞をみると小田原事件の記事が出ていたので、被告人が言ったのはこのことかなと思ったが、まさか奴がこんなことできるものかと思い、心の中では打ち消していた。今日まで被告人が言ったことと新聞に出ていた事件が同じなのかどうか気にしていたところである。

(六) 牧田ひろ子は、丁田が今度は小田原署で小田原事件に関して事情聴取を受けたことを知り、昭和六四年一月四日、再度丁田に対し、事件に関係していないかを確認したところ、丁田は、一二月二八日と二九日に被告人を泊めたが、被告人は二八日の夜中に出かけて行き、朝方の午前三時三〇分ころ帰ってきた、そのとき被告人から、今早川で喧嘩してきたと聞かされた、泊めたとき被告人は黒いナイフを持っていた、俺は絶対その事件には関係していないなどと述べた。また、牧田組の経営者である牧田重夫は、妻ひろ子から丁田の話を聞き、同日、自ら丁田に確かめたところ、丁田は、被告人を泊めていたので一二月二八日の飲み会に行けなかった、被告人は二八日午後七時ころ外出し、二九日午前三時三〇分ころ帰宅したなどと話したので、丁田に対し、電車が走っていないのにどのようにして帰ってきたというのか、と追及すると、丁田は、「それじゃタクシーか歩いて帰ってきたのかな」と返事をし、丁田方の包丁がなくなったことがないかとの問いに対し、「俺の包丁は持って行かなかったが、甲野は昔からいつも布に巻いたナイフを持っていたよ」と答えた。

(七) 丁田は、昭和六四年一月五日朝から小田原署で田原警部補から事情聴取を受け、おおむね前記(五)でみた四日付けの供述を維持しながら、次のような付加訂正をした。

<1>一月一日に松田署の刑事、四日には刑事さんに二回にわたって事情聴取を受けているが、一部嘘のことを話していた。被告人から早川の魚市場のところでハイヤーの運転手を刺したことは黙っていてくれと言われたので、刑事から聞かれたときはどうしても正直に話すことができなかった。話したことが被告人にばれれば、被告人が出所後、来て殺されてしまうと真剣に考え怖かったのである。しかし、殺された家族のことを思い、被告人も罪は清算し、早く一緒に仕事ができる日を待つのが、事件を打ち明けられた自分の立場であり、そうするのが正しいことだと判断し、すべてのことを話すつもりになった。<2>松田署の刑事に被告人を泊めたのは二八日と二九日と話したのは、四日も泊めたことが分かれば、親方や奥さんからひどくおこられるからである。<3>被告人は、一二月二七日夜、炬燵で自分の左手横の角に座り、出してやった酒を飲みながら、「給料をもらってきた」と言って、一万円札をかぞえ出し、それが三枚あったのを見た。二八日朝、敷布団を二つ折りにしたら端の方に古新聞が散らかっていたので、それを片付けるとき、敷布団の端を少しまくりあげたところ、ピンクの布地に包まれ、何か柄みたいなものが少し出ているので、何かなと思い布をとってみると、ピンクのタオル地のハンカチで、その中には、長さ二〇センチメートル位のステンレスの果物ナイフがあり、字が四文字書いてあって、刃の方には、ぽつんぽつんと茶色の点々が付いていた。いやなものを持っていると思ったが、被告人に気付かれないように、元どおりに果物ナイフをハンカチで巻きつけ敷布団の下に戻しておいた。午前七時に一緒にアパートを出ようとしたとき、被告人は、「大事な物を忘れた」と言って、たたんである布団のところに行き、果物ナイフを包んだハンカチをジャンパーのポケットに入れた。午後七時三〇分ころ、被告人は「小田原に行ってくる」と言って部屋を出て行き、二九日午前三時三〇分に帰ってきたが、この時刻は枕元の時計を見て確認した。被告人は、台所で顔や手を五分位かけて洗っていた。被告人は炬燵に入り、金を数えていたので、のぞきこんだところ、慌ててしまいこんだが、一万円札、五千円札、千円札があった。<4>二九日朝、被告人に、何の事件を起こしたんだと聞くと、被告人は、顔の血の気が無くなり、青白くなって震え出し、口をがくがくさせながら、「早川の魚市場の所でハイヤーの運転手を刺して来た」と言った。喧嘩と思っていたのに、いきなり恐ろしいことを言われてびっくりした。運転手はどうした、死んでいるのではないかと聞いてみると、被告人は、「肩、腹、腿の三箇所を刺したが、途中で怖くなってずらかって来た」などと言った後、「自分でも夢中だったからどこを刺したか分からない」と言って、「分からないだ」と強く言って考え込んでしまった。自分の方も被告人の様子に言葉を失ってしまい、互いに黙り込んでしまった。午前七時三〇分ころ、一緒に部屋を出たが、そのとき被告人から、「頼むからこのことは誰にも言わないでくれ、俺もどこかへ行くから二〇〇〇円貸してくれ」と言われて、被告人が金を持っているのは知っていたが、逃げるには金もいろう、巻き込まれるのはいやだから二〇〇〇円位ならくれてやれと思い、出してやった。被告人は「沼津の友達のところに行く」と言っていた。<5>一月四日の取調べのときには、二九日の夜も被告人を泊め、三〇日の朝に二〇〇〇円を貸して別れたと話したが、新聞で記事を見て被告人がその事件をやったと思った時期や息子たちが遊びに来た日のことを考えてみると、三〇日では合わず、二九日の朝のことであると気付いた。

(八) 丁田は、一月五日付けで、小田原警察署長宛の「わたしが甲野カらキいタコと」と題する上申書を作成しており、その内容は、<1>一二月二六日から二九日まで被告人を泊めた、<2>被告人が、二八日、小田原に遊びに行って、二九日の午前三時三〇分ころ帰ってきて、「早川で事件を起こしちゃった」と言った、<3>二九日朝、事件のことをきいたら、被告人は、「早川の魚市場でハイヤーの運転手を刺した」「金がなくて運転手ならいくらか金を持っているかと思ってやった」「夢中で刺したのでよく分からないが肩や腹、腿を刺した」「俺も怖くなりずらかってきた」と話し、「このことは誰にも言わないでくれ」と言った、というものである。

(九) 丁田は、昭和六四年一月五日から七日のころ、小林笑子方に電話をした上、金を借りに行ったが、その際、小田原事件や松田事件のことが話題になり、小林に対し、夜中あまり玄関でドアをどんどんたたくから誰だと思って出たところ、被告人であり、顔色が青かった、どうしたんだときくと、早川で人を刺して来ちゃったと言った、手、足、顔を洗っていたなどと話した。

(一〇) 小田原署では丁田が勤務する牧田組の経営者である牧田夫婦のほか、丁田がその一〇三号室に居住する親交荘の住人らから事情を聴取したが、丁田の供述と矛盾するような供述はなかった。

(一一) 巡査部長岡別府宏は、平成元年一月一三日、丁田方で丁田から更に詳しく事情を聴取したが、丁田は、二八日夕方からの状況について、おおむね以下のように述べた。

二八日午後六時ころ、斉藤弘彦が、夕食をやぶ栄で取って下さい、済んだら社長が小田原に皆を飲みに連れて行くらしいよ、と連絡に来てくれたが、被告人が、俺のことをかまわないで飲みに行って来いとも言わないので、生返事をしただけで、行かなかった。被告人とテレビで忠臣蔵を見て、途中コマーシャルが二回入った午後七時三〇分ころ、被告人が、「ちょっと小田原に行ってくる」と言って出かけた。被告人は翌二九日午前三時三〇分ころ、帰ってきたが、顔色は悪いし、少し酔ってふらついている感じであった。横になって見ていたところ、被告人は、台所で水を勢いよく出して、顔や手、首を五分位かけて丹念に洗っていた。

(一二) さらに、岡別府巡査部長が、一月三一日、丁田から事情聴取をしたところ、丁田は、見たというナイフの形状などについて、おおむね以下のように述べた。

<1>ナイフは、全体の長さが二〇センチメートルちょっとあり、幅二、三センチメートル、刃が一二、三センチメートル、柄が木製で茶色っぽい色、柄の長さが七、八センチメートルの、細身のステンレス製の果物ナイフのようなものであり、その柄に近いところに漢字四文字が刻まれていた。示された神奈川県警本部鑑識課機動鑑識班撮影の写真に写っている本件ナイフとは、刃や、茶色と木目の模様の柄の型がまったく同じで、読めなかったが「関一幸作」という四文字の漢字も同じである。見たときは、血が付いておらず、曲がってもいなかった。漢字の付近に、茶色の点々とした染みか錆みたいないものが付いていたことは覚えているが、その写真では確認できない。写真に写っている本件ナイフは刃と柄の付け根のところが欠けているが、自分が部屋で見たときには、被告人に見付からないように急いでいたので、この欠けているところまでは見ていない。<2>ピンク色のタオルは、横三五センチメートル位、縦三〇センチメートル位のハンカチの大きさのもので、パチンコ屋で年賀としてもらった似た物を持っているので提出する。<3>ピンク色のタオルに包まれた刃物の木の柄みたいな物が見えたので、一瞬、あれ何だろうと思って、それを手に取ってみたところ、タオルが巻かれて細長くなっていたので、タオルをくるくる回しながら全部ほどいた。それを見て、いやな物を見てしまったと思ったが、被告人に知れると、何を言われるか、どやされるか分からないので、その巻いてあったとおり復元して、元どおり布団の下に置いた。

(一三) 宇井検察官は、昭和六四年一月七日以前にも丁田を取り調べたが、その際には供述調書を作成せず、平成元年二月七日、再度丁田を取り調べて供述調書を作成した。丁田は、宇井検察官に対し、次に要約するほかは、おおむね従来と同じ供述をした。

<1>ナイフを見たのは一二月二七日の朝か、二八日の朝であるが、二七日だったような記憶が強い。<2>被告人は、「あっ大事な物を忘れてきた」と言って、玄関から畳の部屋に戻ったので、そのナイフだなと感じた。<3>被告人が、二七日の晩、「給料をもらってきた」と言って、一万円札を取りだし、三枚位数えていたのを見た。その直前に、その日の残りの握り飯を与えており、何だ、岡本組から給料をもらってきたのか、と少し裏切られた気がした、金があるならば旅館へ泊まればいいのにと思った。<4>二八日の夜、被告人が時間的に何時ころ出ていったかは覚えていない。<5>寝ていると、被告人が帰ってきたので、何をやっていたんだと聞くと、「やばいことをやっちゃった、早川で喧嘩して来た」などと言ったが、帰ってきたのは、二九日の午前三時過ぎから三時半位の間と思う。被告人は、手や顔を五分か一〇分位時間をかけて洗っていたが、そのとき、ジャンパーの右の脇の下付近が破れたのか、縫い目がほつれたような感じで白い綿が見えており、右の背中付近に五センチメートル位のはねを飛ばしたような染みがあった。部屋の蛍光灯を一つ点けていたので見えた。今まではそのようなほつれや破れには気が付かなかった。被告人は、ジャンパーかズボンのポケットから札を取り出し、一万円札を一枚、五千円札を一枚、千円札を三、四枚交互に重ね数えていた。<6>二九日朝、一緒に部屋を出るとき、ジャンパーの袖の下が破れていることを教えると、被告人は腕を振りながら、分かるかと聞くので、歩いていれば見えるよと話した。被告人には、その朝、たばこがなかったので、一本やった。また、そのとき、被告人が今まで履いていたサンダルではなく、黒い革靴の後ろを切ったようなつっかけを履いており、あれっ、どこかで取り替えてきたのかな、と不思議に思った。<7>三〇日朝、新聞で小田原事件のことを知り、被告人が大変なことをやったんだと思い、警察に届けようかとも思ったが、金を目当てに人を殺す奴だから、密告したことを知れば、刑務所を出てから殺されかねないと恐ろしくなって、やめようと思った。一月一日の松田署の調べでは、自分から進んで小田原事件のことは話さなかったが、三日に小田原署の警察官から根堀り葉堀り聞かれ、いつまでも黙っているわけにはいかないと思うようになり、二八日午後七時前後に被告人が出て行き、翌二九日午前三時半ころ帰宅したことを話したものの、それでも被告人からタクシー強盗殺人をやったと聞いたことを詳しく話すのは、恨まれるような気がして、少しごまかして話した。<8>被告人のことが怖いという気持ちは今でもあるが、本当のことを正直に話した。

2  丁田の原審公判における供述の要旨

丁田は、平成元年七月一四日原審第四回公判において、検察官の主尋問に対し、同年九月八日第五回公判において、弁護人の反対尋問、検察官の再主尋問、弁護人の再反対尋問に対し、おおむね以下のように証言している。

(一) 第四回公判における供述

<1>被告人とは、昭和三〇年ころ、早川の佐藤組にいるときに知り合い、その後は会っていなかったが、昭和六二年九月パチンコ屋で会った。被告人を小林土木に紹介した。被告人は五、六月そこで働いたが、酒を飲んであまり仕事に出ないということで辞めさせられた。昭和六三年九月、パチンコ屋で再会し、牧田組で働いていると話した。<2>同年一二月二六日午後六時か六時半ころ、被告人が親交荘の前で待っていて、今晩泊めてくれと言うので、泊めてやった。そのとき、鼻緒の付いた古い草履を履いていた。当日は、それほど話をせずに寝た。<3>二七日朝、炬燵の敷布団の「こば」(端の意味)をはいだところ、ピンクの古いハンカチのような物にくるんであった柄が見えたので、何かなと思い、ちょっと「こば」だけ広げて柄だけ見て、ナイフじゃないかなと思ってしまった。そのとき見た柄は、押収されている本件ナイフの柄と同じものであるが、刃の方はじっくり見ていないので、刃の長さは、それくらいか、ちょっと短いくらいだったと思う。刃が曲がってはいなかった。被告人と一緒に玄関から出たとき、「いや大事な物を忘れた」と言って、被告人が部屋の中に取りに帰った。それは自分が見たナイフではないかと思った。<4>二七日午後六時か六時半ころ、仕事から帰ってくると、被告人が表で待っていたので、泊めてやった。被告人は、炬燵のところで、「働いた金をもらってきた」といい、一万円を二、三枚出して勘定しているのを見た。当日も炬燵で一緒に寝た。<5>二八日朝一緒に部屋を出て別れたが、午後五時か五時半ころ、部屋に帰り、少し経ってから被告人が来たので泊めてやることにした。鈴木が、仕事じまいで一杯やろうと呼びにきたが、午後六時か六時過ぎころ、親交荘の前の「ぐだんてい」に行って、今日は飲まないと言って断ってきた。それから三〇分かちょっと過ぎたころ、被告人が「小田原行く」とか言って、部屋を出て行った。<6>寝ていたら、翌二九日の午前三時か三時ちょっと過ぎに、被告人が帰ってきた。戸を叩いたので、鍵を開けて入れてやった。部屋の丸い電気の一つは点けたままにしていた。自分は布団に転がったところ、被告人は顔だか手だかを洗っていた。何で帰ってきたと言ったところ、「電車で来た」と言ったので、「ねえ」と言うと、「歩いて帰って来た」と言った。被告人は、「喧嘩やってきた」「早川で人を殴ってきた」とも言った。ジャンパーの脇の下が、右か左か分からないが切れていた。ジャンパーの背中には、はねのような染みみたいなものもあった。被告人は、寝る前に一万円札、五千円札、千円札、五〇〇円玉を出して一万五、六千円の金を勘定していた。被告人は寝た後、うなっているような声を出した。ジャンパーの破れは、押収されている防寒ジャンパーの破れより大きく、白っぽい綿のような物が見えた。<7>二九日朝七時ころ起き、被告人が顔を洗ったとき、ピンクのタオルみたいな物で顔を拭いたのを見たが、刃物は見なかった。寝ぼけているのか、何か言っていたじゃないか、と聞いたところ、被告人は「小田原で喧嘩やって来た」「早川でやべえことをやって来た」と言った。そして被告人は、顔が青ずんで震えながら「早川の築港でタクシーの運転手を刺して来た」「銭が欲しいからやった」「背中と腹、首のちょっと下辺りを刺した」と言ったので、死んじゃってんじゃないかと聞いたところ「死んじゃいなかんべ」と言った。被告人が、「言わないでくれ」「沼津に行く、金がねえ」と言うので、多分二〇〇〇円を貸してやった。被告人は、ジャンパーが切れているのに気付いて、「分かるかな」などと言ったので、それは分からないだろうと言ってやった。被告人が帰るとき、たばこを一本くれと言うので、一本やった。被告人は、黒いスリッパみたいな物を履いていた。<8>三〇日夕方、朝日新聞の朝刊で小田原事件の記事を見て、被告人は本当にやっちゃったのかなと思った。被告人に後で何かやられるといけないから、警察には届けなかった。一日の松田署の警察官には被告人から聞いた内容は話さなかったが、三日から続けて呼び出され、検事にも呼ばれて調べられた。最初は、友達だし、言わないでおこうかと思ったが、やったことを言わないと何回もまた調べられるのがいやだから、記憶していることを話した。

(二) 第五回公判における供述

<1>一日の日は、松田署の人に自宅で話しただけで、警察署に行っていないし、調書も作成していないと思う。二回目は、三日の日に、小田原署から迎えにきて、警察署に行った。小田原署には五回位行っていると思う。調書は、行く度に作られたが、三日と五日と、多分七日に作られたと思う。<2>警察には、被告人が言ったことを話したもので、自分が警察に何度も調べられるのがいやだから話したということではない。<3>警察の方から、ナイフを見たことがあるかと聞かれたことはない。ナイフの話が警察から先に出たということはない。<4>牧田重夫に警察で調べられたことを報告しているが、同人に対し、被告人が昔から布に巻いたナイフを持っていたということは話していない。<5>毎日出かけるときに布団をあげていたわけではない。二七日の朝、敷布団を二つに折ったが、そのときナイフを見た。二八日の朝は布団はあげていない。<6>被告人が「大事な物を忘れた」と言って取りに行ったが、被告人がナイフをポケットに入れたところは見ていない。<7>被告人が帰ってきたのは、自分が寝ていた三時ころか三時半ころであった。テレビのところにある夜光の時計で時間を見た。被告人がその前の夜八時半ころ帰ってきたということはない。<8>ジャンパーのほつれは、一五センチ位あった。<9>牧田夫婦が、自分から二九日夜も被告人を泊めたと聞いたと言っているとすれば、聞き違いである。<10>警察は、自分が見た古いナイフとは違う二本のナイフを見せたが、うち一本は、自分が見たのと似た、でかい新しいナイフであった。自分が見たナイフは、柄がちょっと割れていた。<11>被告人は夜中に帰ってきたので、布団に横になって見ていると、顔と手と何かを洗っていた。ジャンパーも洗っていたような気もするが、分からない。ただ流しでジャンパーの袖をタオルで拭いていたとは思う。しかし手首を拭いていたのではないかと言われると分からない。髭を剃っていたのは朝である。<12>押収されている本件ナイフは、小田原署で見たかはっきりしない。小田原署で見たのは、同じ形であるが、そんなに曲がっているのは見たことがない。<13>二七日の朝、タオルをちょっと広げて、柄の方が見えたので、包んでそのまま布団の下に置いた。つかが割れていたので、間違いなく、押収されている本件ナイフを見た。開いて、柄の方だけ見て、柄がちょっと割れているのは分かった。根元は見えた。本件ナイフと同じである。布団をめくったときの状況と、検事の前でナイフを見せられたときのことを混乱して証言しているかどうかは、分からない。<14>警察では、自分が疑われているような聞き方はされなかった。<15>押収されている防寒ジャンパーやズボンを、被告人は毎日着ていたし、洗ったり干したりしたところは見ていない。<16>被告人が帰ってきた三時か三時半ころ、「話」は交わさなかった。遅く帰って来た理由は聞いた。被告人が「電車で帰って来た」と言ったから、電車はないと言ってやった。それだけ話して寝た。詳しい話は聞かなかった。<17>被告人が銭を持っていたのは、二六日か二七日かと思う。一万円、五千円、千円札があった。やつは金を持っているなと思った。被告人が金を数えている状況を見たのは、一回である。二七日のことと思う。その後は見ていない。<18>被告人が刺してきたと言ったとき、まさかと思った。前に一緒に働いたことがあるから、本気にしなかった。被告人は、普段はおとなしいが、飲むと、口では何かと言ったりする。<19>小林土木に勤めていたときには、被告人は鈴木荘に住んでいた。二、三分で事件のあった築港まで行ける。<20>被告人とは仲は悪くなく、喧嘩したこともない。恨みつらみもない。

3  丁田の供述経緯からみた信用性

(一) 原判決は、丁田は、元旦からほぼ連日にわたり、松田署の捜査官からも小田原署の捜査官からも事情聴取を受け、さらには雇用主である牧田組の社長夫妻から事情聴取の様子を聞かれたりしたものであり、早く取調べを終わらせたい、被告人と自分との関わりを否定したいという心理が働いた余地があったとも考えられるのであって、丁田には、虚偽の供述をする理由が全くないとはいえない、この点について、丁田自身、第四回公判において、「やったことを言わないと何回もまたこっちで調べるのいやだから、それで俺が言った」と供述しているところでもあると説示している。これに対して、所論は、丁田は、被告人の報復を恐れ、当初は小田原事件について供述していなかったが、四日付けの警察官調書以降、被告人と事件との関係について供述し、その供述内容は捜査段階及び公判段階を通じ主要部分において一貫しているものであって、仮に、丁田が、被告人との関わりを否定したいと思っていたならば、そのような供述をするはずがなく、むしろ当初の松田署取調官に対する供述のように、被告人を丁田方に宿泊させた日について虚偽の供述をするなどして、事件とは無関係である旨の供述をしたはずであるのに、原判決の指摘は全くその逆で論理の飛躍がある、牧田夫婦は、小田原署が事情聴取した供述と同趣旨の話を丁田から聞いていて、丁田の供述を裏付けているのであるが、牧田夫妻さえも丁田に供述を強制したかのようにいう原判決には明らかな論理の飛躍がある、原判決が指摘する丁田の証言部分は、本当のことを言わないと何回でも調べられるから、それで本当のことを言ったという意味にしか解されないというのである。

(二) そこで検討するに、捜査段階における丁田の供述経緯は、前記1(一)、(三)、(五)、(七)、(八)、(11)ないし(13)のとおりである。丁田は、昭和六四年一月一日と三日に松田署から取調べられた際には、被告人を一二月二八日と二九日に自室に泊め、被告人は二八日の夜から二九日の朝まで自室で寝ていたと供述しているが、小田原署の一月三日夜から四日午前一時半ころにかけての取調べの際には、被告人がピンクのタオル地のハンカチに包んだナイフを持っていたこと、一二月二八日の夜自室を出て行き、二九日午前三時半ころに帰って来たことなどを供述するに至っている。右の小田原署での供述は、同署の捜査官が、小林笑子から寄せられた情報を基に、被告人とは三〇年来会っていなかったなどと、ことさら被告人との関わりを薄く供述しようとした丁田に対し、説得を重ねた結果得られた供述であって、そのことは、一月四日付け調書の記載内容の順序、構成に照らしてもうかがえる。

丁田は、一月五日、再度小田原署で取調べを受けた際には、被告人からタクシー運転手に対する強盗事件を起こしたことを打ち明けられた状況について、具体的に供述するに至っている。後に丁田が検察官に供述しているところによれば、丁田は、三日から四日にかけての小田原署での取調べの際にも、被告人から聴いた内容を詳しく話すのは、恨まれるような気がして、少しごまかして供述したという心理が述べられている。五日の供述の際には、丁田が、被告人から口止めされていたこと、仕返しされることを恐れていた心情を吐露しながらも、本当のことを供述するつもりになったと前置きしながら供述するに至っていることに照らしても、丁田の五日の供述は重要と考えられる。

原判決は、丁田には、早く取調べを終わらせたい、被告人と自分との関わりを否定したいという心理が働いた余地があるとし、その証左として、同人の第四回公判の前記供述部分を指摘しているが、丁田に早く取調べを終わらせたいという心理があっても、丁田がタクシー強盗殺人事件の犯人に被告人を仕立て上げるような意味を持つ嘘の供述をする動機としては十分でないし、丁田の右供述部分は、前記2(二)<2>で丁田自身が述べている趣旨に解するのが相当である。被告人と自分との関わりを否定したいという心理が働いたというのであれば、別の方法で関わりのないことを強調する方が自然である。牧田夫妻は、丁田が事件と関係がないかに関心を抱いていたことは明らかであるが、丁田が、牧田夫妻から事情を聞かれたために、小田原署の捜査官に対し、被告人を小田原事件の犯人に仕立て上げるような嘘をついたのではないかとの疑いは生じない。

このようにみてくると、原判決の前記説示は相当でなく、むしろ、丁田の供述経緯は、同人の供述の信用性を肯認する方の事情と評価すべきである。

4  丁田の供述内容、能力からみた信用性

(一) 原判決は、丁田の供述は、被告人が一二月二八日夜丁田方に在室していたか否かを初め、その他の重要部分すなわち、自室においてナイフを目撃したときの状況、被告人がナイフを所持しているのを目撃したことの有無、被告人の履物や着衣の目撃状況、金員勘定等の行動の目撃状況などについて、供述が著しく変遷していたり、あいまいであったり、あるいはその裏付けが存在していなかったりする、また、丁田の公判廷における供述態度を見ても、質問を十分理解していなかったり、全体として時間の観念に乏しく、いつの時点のことを供述しているかを混同していたり、自己の矛盾点や不合理な部分を追及されるや、直ちに供述を変遷させる場面が随所に認められる、さらに、丁田は、記憶が不明確なことや自分が想像したことについて、あたかも事実であるかのような供述さえしている、これに対し、丁田の検察官調書及び警察官調書は、内容が整然としていて、具体的に迫真性のある表現が用いられており、丁田の上申書や公判供述との落差が顕著である上、犯行を打ち明けたときの被告人の態度など、細かな描写の部分で、ほとんど同一の表現がされている箇所もある、そうすると、丁田の警察官調書及び検察官調書が、果して丁田自身の供述をそのまま録取したものといえるかについては、疑念を抱かざるを得ない、これらの点にかんがみると、丁田が、果して自己の記憶に基づいて誠実に供述をしているかは、極めて疑問であるといわざるを得ないと説示している。これに対して、所論は、丁田の供述は、被告人が犯行前に本件ナイフを所持していたこと、犯行当夜に丁田方から外出したこと、犯行直後に被告人から犯行の概要を打ち明けられたことなどの点において、被告人が小田原事件の犯人であることを示す決定的な証拠であり、その供述内容は、捜査段階及び原審公判段階を通じ主要部分において一貫しているばかりか、多数の関係者の供述及び関係証拠によって十分に裏付けられている上、丁田の供述に至る経緯並びに同人の性格及び供述態度に照らしても同人の供述が虚偽でないことが明らかであり、その信用性は極めて高いものである、原判決は、丁田の供述の些細な変遷ないし食い違いに目を奪われるとともに、右供述が多数の証拠によって裏付けられている点をことさら無視し、その信用性を漠然と否定しているというのである。

(二) そこで、検討するに、丁田の供述内容を対比検討するに当たっては、前記1(一)、(三)、(五)、(七)、(一三)、3(二)でみたところによれば、丁田の松田署の捜査官に対する供述は一応度外視して考察してよいと考えられる。

(三) 丁田は、その証言や供述調書からみると、質問の意味を正確に理解して的確に答える能力に乏しく、表現力にも劣ることや、日時の感覚に疎く、記憶の保持能力も劣っていることがうかがえる。また、丁田が作成した上申書(甲三六七)を見ると、かたかなとひらがな混じりの稚拙な文章であり、警察官調書(甲三六三、三六五)の添付図面を見ても、ほとんど漢字を書けず、文字に間違いも多い。

(四) 以下、丁田の供述内容について、順次その信用性を検討する。

(1) ナイフの所持について

原判決は、<1>丁田は、一月三一日付け警察官調書において、ナイフの長さ、幅などについて微細にわたる供述をする一方、被告人に見付からないよう急いで見たので、ナイフの柄部が欠けていたかどうかは覚えていないと供述しているが、丁田が、一瞬の間に、ナイフを詳細に観察し、その形状等を正確に記憶し得たかには疑問がある上、他方で柄部の一部が欠損していたかどうかという一見して明らかな特徴を記憶していないというのは不自然である、<2>丁田は、事情聴取の際に本件ナイフを示され、自分が見たナイフにも、本件ナイフと同一の「関一幸作」という四文字の打刻があった旨供述しているが、ほとんど漢字を読めない丁田が、果して打刻の同一性を判断できるかは疑問である、<3>丁田は、捜査段階において、一貫して、ハンカチを広げてナイフを見たと供述し、平成元年一月三一日、自室における実況見分においても、敷布団をめくってナイフの柄部を目撃した状況、ハンカチを広げてナイフの刃体を出した状況等を再現している、それにもかかわらず、丁田は、第四回公判において、「何か柄があったからナイフか何かみたいだなと思った」「柄だけ見て、ナイフじゃないかなと思って、またしまった」と供述し、第五回公判においても、検察官に対してハンカチを全部広げたとは言っていないと供述するなど、ナイフのどの部分を見たかについての供述は著しく変遷し、いずれもあいまいである、<4>仮に、公判供述のとおり、丁田がナイフの柄部しか見ていないとすれば、刃体の長さ、幅、四文字の打刻等についての捜査段階における丁田の供述が信用できないことはいうまでもない、<5>丁田は、一月三一日付け警察官調書において、ナイフの柄部が欠けていたかどうかは覚えていないと明確に供述したにもかかわらず、第五回公判において、一転して、ナイフの柄部が割れて欠けているのが見えたと供述しているが、右公判供述の形成過程をみると、丁田は、事情聴取のときに取調官から示された本件ナイフの柄部が欠損していたことと混同しているようでもあり、果して自分の部屋で見たというナイフのことを供述しているかどうかは明確ではない、加えて、丁田は、公判廷で本件ナイフを示されながら、事情聴取のときに取調官から示されたナイフはこんなに曲がっていなかったとさえ供述しており、このことは、丁田の記憶力が極めてあいまいであることを示している、<6>丁田は、捜査段階において、一二月二七日朝、被告人がナイフをポケットに入れるのを見た旨供述しているが、丁田は、公判廷において、被告人と一緒に部屋を出ると、被告人が大事なものを忘れたと言って部屋に戻ったので、ハンカチに包まれたものを取りに行ったと思った、被告人は部屋から戻ったときに何も持っていなかったので、それをポケットに入れたのではないかと思った旨の供述をしている、そうすると、丁田は、被告人がポケットにハンカチに包まれたナイフを入れた場面を見たわけではなく、被告人がポケットにナイフを入れたという供述は、単に自分の想像を述べたにすぎないことになる、<7>ナイフを包んでいたというハンカチは、捜査を尽くしたにもかかわらず発見されていないとして、丁田の供述には信用性がないと説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、丁田は、被告人が台所で顔を洗っているときに、炬燵の下の布団の下にあったナイフを見たというのであり、被告人がいやなものを持っていると思い、すぐ元に戻したともいうのであるから、丁田は、ナイフを急いで見たにすぎないということになる。そして、丁田が見たというナイフの長さ、幅、形などにつき、一月三一日付け警察官調書において供述している内容は、原判示のごとくナイフを詳細に観察した上での供述とみることは必ずしも相当でなく、ナイフを一瞥した者の供述としてみても、不自然とはいえない。また、丁田が、包んであったハンカチをどの程度開いてナイフを見たのかという点については、表現の上において供述に変遷はあるが、原審公判における供述を前提としてみても、ナイフの柄の色や長さは分かってもおかしくないし、刃先までは確認していないにしても、少し開いたハンカチから刃体の一部が見えたということもあり得るから、ナイフの材質や、刃体に書かれている漢字の感じまで理解できたとしても不自然ではない。ナイフ全体の長さや刃の長さ、幅についても、見た感じで供述することも可能である。柄が一部欠けていたかどうかの点については、欠けていたのを見ていたとしても、急いで見たというのであれば、それを記憶していないのが不自然であるとはいえない。原判示<2>についてみるに、丁田は漢字をほとんど読めないが、漢字を読めない者であっても、見た感じでどのような打刻があったか等について供述することは可能であると考えられる。丁田が一月三一日付け警察官調書において供述している内容は、「関一幸作」という文字を読解することによって打刻の同一性を判断したという趣旨のものでないことは明らかである。原判示<3>についてみるに、丁田は、一月三一日付け警察官調書において、ナイフを包んであったタオルをくるくると回しながら全部ほどいてナイフを見たと供述しているが、同日、自室で「ピンク色タオル地をほどいた状況」として指示説明しているところでは、ナイフの刃体の途中までしかタオルをほどいていない場面が写真撮影されている(甲三三)。そして、二月七日付け検察官調書においては、ハンカチを広げて見ましたと供述しているが、原審公判においては、前記2(一)<3>及び(二)<13>でみたとおり、包んであったハンカチを少し開いて見たと供述している。しかし、ハンカチの開き具合、したがってまたナイフのどの部分を見たかに関するこの程度の差異を、原判示のように著しく変遷しいずれもあいまいであるとみるのは相当でない。原判示<4>についてみるに、「柄だけ見た」という丁田の原審公判供述は、同人が刃体の部分をまったく見なかったという趣旨であるとはいえず、刃体の一部も見た趣旨に理解することもできるところ、前記2(二)<13>の公判供述や丁田がナイフの打刻や幅などについて捜査段階で供述しているところに照らせば、むしろそのようにみる方が自然である。そうとすれば、刃体の長さ、幅、四文字の打刻等に関する丁田の捜査段階の供述が信用できないことが明らかであるとはいえない。原判示<5>についてみるに、丁田の捜査段階における供述調書を通覧し、池憲夫の原審証言(第五二回)、宇井稔の原審証言にも照らすと、丁田は、一月三一日の取調べの際に本件ナイフを撮影した写真を、二月七日の検察官による取調べの際には本件ナイフと同一のナイフを示されたことが認められる。丁田の証言をみると、丁田は、本件ナイフの現物を公判廷でよく観察し、柄が欠けていることを思い出したとみることもできる。丁田の観察力や記憶力が低いことは留意されなければならないが、原判示のように、事情聴取のときに見たナイフと混同しているおそれがあるとか、丁田の記憶力が極めてあいまいであるとみるのは、相当でない。原判示<6>についてみるに、丁田が、被告人がナイフをポケットに入れる場面を見たのかどうかについては、同人は検察官調書においてはそのことを供述しておらず、捜査段階において既に供述に変遷があるとみてよい。しかしながら、被告人が大事な忘れ物をしたと言って部屋の中に戻ったという供述は、被告人が敷布団の下のナイフを取りに戻ったという供述を伴っているのであって、被告人がナイフをポケットに入れる場面を見たという供述との違いは、ナイフを見たという供述の信用性を損なうほどのものではないと考えられる。原判示<7>についてみるに、ナイフを包んでいたハンカチが発見されていない点は、ハンカチがあったとすれば、その後の行方にかかわる事柄であり、丁田供述の信用性を減殺する事情とはならない。

そうすると、<1>ないし<7>の点から丁田の供述が信用できないとする原判示は相当でない。ナイフに関する丁田の供述は、丁田方の炬燵の下の布団の下に隠されていたナイフを見たという具体性のあるものであり、ピンクのタオル地のハンカチに包まれていたという点においても具体性を有している。被告人が、部屋を一緒に出るときに、「忘れ物をした」と言って取りに戻ったとの供述にも、具体性がある。前記(三)でみた丁田の能力からしても、同人が体験していないのにこのような具体性のある嘘をつけるかは疑問である。ナイフに関する丁田の供述は、総体的にみて、ナイフを一瞥したにすぎない者の供述として了解可能である。

(2) 金の所持について

原判決は、丁田は、捜査段階において、被告人が一二月二七日及び二九日の帰宅後に金員を勘定していた旨供述していたが、公判廷において、金員を勘定していたのは二七日だけであると供述するに至った、また、勘定していた金額についても、一万円札二、三枚と供述したり、一万円札、五千円札、千円札及び五百円玉と供述したりし、結局、被告人がいくらの金員を勘定していたかはあいまいであるとして、丁田の供述は信用できないと説示している。

確かに、金の所持に関する丁田の供述には原判決が指摘するような変遷やあいまいな点がある。しかし、被告人が金を所持している場面を見たという 田の供述は、前記1(13)(七)で摘記したとおり、何だ、給料をもらってきたのか、金があるなら旅館へ泊まればいいのにと少し裏切られた気がした、二〇〇〇円貸してくれと言われたときも、金を持っているのを知っていたが、逃げるには金もいろう、巻き込まれるのはいやだから二〇〇〇円位ならくれてやれと思って渡したという同人の具体的な心理描写を伴っている上、金を持っていたか否かという単純な事実については印象に残っても、札の種類や枚数については正確に観察しないこともあり得ることも考慮すると、原判示がいうような理由で丁田の供述を信用できないとするのは相当でない。

(3) 二八日夜の外出について

原判決は、<1>丁田は松田署の宮田巡査部長の事情聴取では、被告人が寝てからテレビで忠臣蔵を観たことなど、一二月二八日夜の記憶を具体的に供述しているのに対し、小田原署の田原警部補の事情聴取を受けるようになってから、一転して、被告人が同夜外出したと供述を変えている、<2>親交荘の丁田方の上階に居住する佐々木敏雄の検察官調書(甲四八)には、一二月二九日午前二時ころから五時ころまでの間に、丁田方の出入口付近でスリッパのような物のかかとを引きずったりこすったりして歩く物音がし、その直後、丁田方のガラス戸が開くような音が聞こえた旨の供述部分があるが、佐々木は、同夜、多量に飲酒して睡眠していたというものであり、その供述内容をみても時間をはっきり覚えているわけではないから、右供述部分をもって直ちに丁田の右供述の裏付けとすることはできないとして、丁田の供述は信用できないと説示している。

しかしながら、原判示<1>については、前記(二)でみたところによれば、松田署の取調べの際の丁田の供述内容を、同人の供述の変遷という観点から考慮するのは相当でない。原判示<2>についてみるに、佐々木の供述は、丁田の供述を裏付けるほどのものではないが、特段の裏付けがないからといって供述の信用性が減殺されるものではない。

(4) 台所での手洗い等について

原判決は、丁田は、公判廷において、被告人が流し台で洗っていた部位の供述を転々と変えている、すなわち、丁田は、弁護人から、被告人がどこを洗っていたかと質問されると、顔と手を洗い、髭を剃っていたと答え、夜中に髭を剃っていたのかと聞かれると、それは朝だと答えている、さらに、丁田は、被告人が顔と手を洗っていたのは見たが、そのほかははっきりしないと供述する一方、ジャンパーの袖をタオルで拭いたと思うと答え、弁護人から、手を拭いたか、ジャンパーの袖を拭いたか、区別できたのかと追及されるや、顔と手を洗い、顔と手を拭いたこと以外ははっきりしないと供述するに至っている、このような供述の変遷過程をみても、丁田は、記憶があいまいな事項についても自己の想像で供述し、質問者に矛盾点や不合理な点を追及されると、あわてて供述内容を変遷させるという傾向が顕著であることが認められると説示している。

しかしながら、丁田の捜査段階における供述をみると、被告人が台所で少なくとも手を洗っていたという点においては、一貫性がみられるが、同人は、もともと、被告人が帰ってきてから、手以外にどの箇所を台所で洗っていたかについての記憶はあいまいであったとうかがうことができ、丁田の証言に原判決指摘のような変遷がみられることを重視するのは相当でなく、まして、それらの受け答えから、丁田の供述傾向一般を推認するのは相当でない。

(5) ジャンパーの状態について

原判決は、丁田は、帰宅後の被告人のジャンパーのほつれや染みについて詳細な供述をするが、深夜、睡眠していた丁田が、薄暗い部屋の中で、被告人の着衣をどの程度注意深く観察し得たかは疑問である。現に、丁田は、公判廷において、ジャンパーの脇が切れていたのは右か左かよく分からないなどと供述し、さらに、被告人のジャンパーを示されていながら、脇はもっと長く切れ、白い真綿のようなものが見えていたなどと供述しているとして、 丁田の供述は信用できないと説示している。

しかしながら、丁田は、検察官調書及び原審公判において、自室の蛍光灯の一つを点けたまま寝ていたと供述しており、寝ていたところを起こされたばかりであるとしても、入口の鍵を開けてやり、被告人と言葉を交わしたというのであれば、帰って来た被告人のジャンパーのほつれや染みなどに気付いたという丁田の供述に原判示のような疑問があるとはいえない。また、ジャンパーの脇の左右のどちらが切れていたかについては、供述に変遷がみられるが、このような右左はどちら側から見たかによっても異なり得るから、この点を重視するのは相当でない。丁田は、原審公判において、被告人のジャンパーを示されながら、脇はもっと長く切れ、白い真綿のようなものが見えていたなどと供述しているが、この点は、丁田が、自室において、帰ってきた被告人のジャンパーを見た状況を、記憶のままに証言しようとしているにすぎないとも考えられる。

(6) 被告人との会話について

原判決は、<1>丁田は、一月四日付け警察官調書において、被告人から「早川で喧嘩をした」ということを聞いただけであるが、被告人が帰った後、早川でタクシーの運転手が殺されたという新聞記事を読んで、被告人が言っていたのはこのことかと思った旨供述していたが、その後、被告人から聞いたという話の内容が次第に詳しくなっている、<2>丁田は、公判廷においても、第四回公判における検察官の主尋問では、被告人が早川で人を殴ってきたと言ったと供述したのに対し、第五回公判の弁護人の反対尋問では、被告人の帰宅後、一言も話をしていないと供述し、検察官から再主尋問を受けるや、帰ってきた手段について簡単な話をしたと供述するなど、質問に応じて供述内容が転々と変わっている、<3>丁田は、捜査段階では、被告人が被害者の肩、腹及び腿の三箇所を刺したと言った旨、公判廷では、背中と腹を刺したと言った旨供述しているが、これらが被害者の創傷の部位と合致しないことは明らかであるとして、丁田の供述は信用できないと説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、丁田は、一月三日から四日にかけての事情聴取のときにはまだ恨まれるような気がして少しごまかして供述した旨を、後に検察官調書において供述しているのであって、そうとすれば、被告人から聞かされた内容についての丁田の供述がその後の取調べの際に詳しくなっていることに疑問は生じない。原判示<2>についてみるに、丁田の二回にわたる証人尋問を通覧すると、原判示の指摘する反対尋問や再主尋問における丁田の答えは、主尋問における供述を訂正する趣旨のものとは解されない。質問に応じて供述内容が変わっていることは、原判示のとおりであるが、丁田が質問の趣旨をよく理解しないまま答えている様子をうかがうことができ、それを重視するのは相当でない。原判示<3>についてみるに、被告人が話したという刺傷部位と客観的な刺傷部位とが異なっていることは、丁田が被告人の話を記憶のとおりに供述しているとも、刺傷部位のような事柄については丁田の記憶が十分でないともみることができる。いずれにしても、原判示のいうような理由から丁田の供述が信用できないとはいえない。

(7) 履物について

原判決は、<1>履物がサンダル(第四回公判では、もともと鼻緒の付いた草履を履いていたと証言している。)からスリッパに替わっていたと供述するが、深夜、睡眠していた丁田が、薄暗い部屋の中で、被告人の履物をどの程度注意深く観察し得たかは疑問である、<2>丁田が供述するサンダルは、ハンカチと同様、捜査を尽くしたにもかかわらず発見されていないと説示し、丁田の供述は信用できないと説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、被告人が帰ってきたとき、蛍光灯の一つを点けたまま寝ていたと丁田が供述していることについては、前記(5)でみたとおりであり、原判示のようにいえないことは明らかである。なお、丁田は、検察官調書で、履物が「つっかけ」に替わっているのに気付いたのは、被告人が出ていった二九日の朝のことであったと供述しているが、このような変遷は、被告人の履物が替わったことに気付いた時期についての記憶が定かでないことを示すにとどまり、被告人の履物が替わったという供述の信用性には直ちに影響しないと考えられる。原判示<2>についてみるに、被告人が二八日夜外出する前に履いていたというサンダルが発見されていないことは、前記(1)でハンカチについてみたのと同様、丁田供述の信用性を減殺する事情にはならない。そうすると、原判示の理由から丁田の供述が信用できないとはいえない。

5  小括

(一) 丁田の供述は、基本的には一貫性があり、それぞれの箇所で指摘したような内容の変遷やあいまいさはみられるが、それらは、口止めをされていたとすれば説明のつくものであったり、真摯に記憶を喚起しながら述べようとする過程で、記憶の不正確な部分につき前後矛盾するような供述をする結果になったり、その他の表現上の問題から混乱が生じたりしたものと説明がつく範囲内にとどまっている。したがって、丁田の供述中にそのような部分があるからといって、その供述全体の信用性に対する疑問が生じるものとは考えられない。丁田の供述は、詳細かつ具体的で迫真性に富むという一般的な信用性の基礎的条件を満たしている。前記1(五)(七)(八)(11)ないし(13)、2で詳しく引用したように、作り事とは到底思われないような内容を有しており、特定の意図から作為を加えて供述しているような形跡はうかがえない。丁田は、行き場のない被告人を宿泊させるなど、友好的な態度を示していたものであり、被告人をことさら罪に陥れるような虚偽の供述をする理由、動機は見当たらない。その他、前記1(六)(九)でみたとおり、丁田が周辺の者に警察に対するのと同旨の話をしていた点も併せて考察すると、前記4(三)でみた丁田の能力を考慮しても、丁田の供述の根幹部分は、信用することができる。

以上の次第で、丁田の供述がその内容、供述経緯等にかんがみたやすく信用することができないとする原判断は誤りであり、丁田の供述の根幹部分は信用できるとみなければならない。

(二) 丁田の供述中とりわけ重要なのは、次の四点である。

第一点は、被告人が一二月二八日夕方丁田方を出て行き、翌二九日午前三時過ぎころ帰って来たという供述である。この供述は、被告人が事件発生前後の時間帯に丁田方にいなかったことと尋常でない時刻に帰って来たことを示している。第二点は、帰って来てから被告人が台所で手を洗い、ジャンパーの脇の下が切れていて、背中付近にはねのような染みか汚れのようなものが付いていたという供述である。この供述は、被告人の帰宅したときの様子が普通でなかったことを示している。第三点は、被告人が丁田に対し、二九日午前三時過ぎころ帰って来た際、「早川で人を殴って来た」と言い、同日朝、「小田原で喧嘩やって来た、早川でやべえことをやって来た、タクシーの運転手を刺して来た」と言い、かつそのことについて他言しないように口止めしたという供述である。この供述は、犯人が事件直後の動揺した心理の下で、親しい者に真実を吐露した状況を示すものとみることができ、被告人の自白とは別に、独自の証拠価値を有するものと考えられる。第四点は、一二月二七日か二八日の朝、炬燵の下の被告人が寝た側の布団の端をめくったとき、本件ナイフと同じようなナイフを見たという供述である。本件ナイフは、前記二の5でみたとおり、本件犯行に使われた凶器と認められるところ、丁田の右供述は、被告人と本件ナイフを結びつける有力な証拠とみることができる。

四  被告人の自白について

原判決は、被告人が取調官に執拗に追及された結果その場を逃れるために取調官に迎合し、あるいは自暴自棄になって虚偽の自白をしたのではないかとの疑いを否定することができないと説示しているところ、所論は、被告人の自白の信用性を否定した原判示は到底容認できないというのである。

1  自白の経緯、取調べ状況等

高橋和彦の原審及び当審証言、古賀博憲、石川好久、田原肇、川崎年治及び宇井稔の各原審証言、被告人の上申書、警察官調書、検察官調書及び原審公判供述、捜査報告書(甲三三七、三三八)、押収してある録音テープ一巻(前同押号の14)その他関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 小田原事件と松田事件は、それぞれの捜査本部において各別に捜査が進められた。

(二) 宇井検察官は、平成元年一月一〇日、松田事件について被告人を取り調べ、調書を作成したのち、なぜ、二万八〇〇〇円程度の金を奪うために丙村を殺した上、殺人事件だと分からないように宿舎に放火しなければならなかったのか、動機については真実を聞いたとは思っていないと言ったところ、被告人は、右取調べ終了後、松田署に戻ってから、どうしても話したいことがあると言って古賀警部補を呼び、同人に対し、「検察官からほかにもあるだろう、徹底的に追及すると言われた、何かあるのかな」と話した。

古賀警部補は、何かあるのならよく考えて思い出し、明日から言ってくれと話して被告人を留置場に戻した後、高橋中隊長に報告したところ、高橋中隊長は、同月六日ころ小田原署の捜査本部から丁田が松田署に話したのとは異なる供述をしているのを聞いていたので、古賀警部補に対し、丁田は、一二月二八日の夜被告人が同人方から出かけて行って二九日の朝方帰ってきて水道で手を洗っていた、そのとき被告人のジャンパーが破けているのを見た、話を聞いたら被告人が、喧嘩してきた、人を殺したというようなことを言っていた、というような供述をしていると告げた。

(三) 古賀警部補は、翌一一日午後、宇井検察官、高橋中隊長及び小田原署の捜査官と打合せをし、被告人に対し小田原事件の取調べをすることとし、同日、被告人を取り調べた。被告人は、取調室や机に自分の頭をぶつけたり、頭を抱え込んで首を振ったり、嗚咽して、「水をくれ、やった」「俺はもう死んだっていいや」と言ったりした。被告人は、一度は認めたもののそれを打ち消し、その後もこれを繰り返した末、午後一〇時ころから自白を維持するに至り、「俺れのやったこと」と題する書面(乙三三)を作成した。

右書面の内容は、昭和六三年一二月二八日の夜、金が欲しくて、早川漁港で、平塚市金目から乗った白色のタクシーの運転手から金を奪い取ろうと思って、持っていた果物ナイフでその運転手を刺し殺した、このことは丁田にも話してあるが、詳しいことは後で話す、というものである。

古賀警部補は、被告人が右上申書を作成する際、小田原署の捜査本部に電話をかけて、平塚市に金目という場所があるか、犯人が金目からタクシーに乗車したことに間違いないか、本件タクシーが白色で間違いないか、成傷器が果物ナイフで矛盾がないかを確認した。

(四) 被告人は、翌一二日午前一〇時過ぎから取調べを受け、一転して否認し、やっていない、分からないと繰り返し供述したが、夕食後の午後七時ころになって再度自白するに至り、上申書(乙三四)を作成した。

右上申書の内容は、<1>昭和六三年一二月二八日の夜、早川漁港でタクシーの運転手から金を奪い取り、タクシー料金を払わないですまそうと思って、持っていた果物ナイフの大きめのやつで運転手を刺し殺した、<2>金がなくて何とかしようと思い、その日泊まっていた丁田の部屋で、金がないから寂しいところへ行ってタクシーに乗り運転手を殺して金を奪おうと決めて、午後七時半ころ、同人方を出た、<3>歩いて小田原駅まで行き、JR線で平塚駅まで行って駅北口から神奈中バスで片岡まで行った、バスを降りてからパチンコグランドホールに入り、一〇分位で五〇〇円位遣った、そのころは九時半か一〇時ころになっていて所持金は四、五百円位しかなかった、タクシーが来ないかと秦野方向に歩いて行った、午後一一時過ぎころ、パチンコ屋から一キロ位行ったとき、秦野の方から白いタクシーが来たので、そのタクシーに乗ってやろうと決めた、タクシーに乗り、平塚の方に走って国鉄貨物駅の横を通り、西湘バイパスに乗って料金所を通り、早川漁港に行ってやろうと思って、果物ナイフをハンカチからはずしてジャンパーの右ポケットに入れて用意し、熱海に行く方に降りて早川橋を渡り、信号機を左に曲がって早川漁港に入り、右に曲がり次の角を左に曲がり、一番先の降り口辺りでタクシーを停めさせた、そのころは午前零時ころになっていたと思う、「いくらだ」と聞くと、運転手が六八〇〇円位と言いながら、売上げ帳面のようなものをつけようとしていたとき、今だ殺してしまおうと思い、ジャンパーの右ポケットから果物ナイフを出して左手に持ち替え、中腰になって刃を下にして持ち、運転手の首の付け根辺りを二回刺したら、ナイフの付け根まで刺さり、運転手が「うわーっ」とドアの方に倒れかかったので、左耳の上を七、八回突いたが動かなかった、怖くなって金もとらず、左の後ろドアのボッチを上げてドアを手と足で開け外に逃げた、<4>運転手は自分より五歳位若い男で卵色の上着で手袋をはめていた、<5>果物ナイフは、刃の長さが一二センチ位、幅は二・五センチ位で、一〇センチ位の茶色の木の柄がついているやつで、見たら血が付いていたので、走りながら早川漁協の角を曲がって国道に出て右に曲がり、二〇メートル位行った右側の歩道に捨てた、その後国道を早川橋の方に走って信号機を右に曲がり、早川漁港に出て左に曲がり、角を右に曲がり、突き当たりの冷蔵会社のところを左に曲がり、早川橋を渡って国道一号線に出て、渡って真っ直ぐ小走りに行き、小田原競輪場の裏を通って早足で下って未決の前を通って丁田の家に着いた、午前三時過ぎころになっていたと思う、<6>使ったナイフは、昭和六二年八、九月ころ、宇津木勝彦のところで働いていたときに、自分と住んでいた男からもらったもので、ピンクのハンカチに包んで持っていたやつである(被告人の書いたナイフの図面には、刃体に字が四つ書いてある、刃元で刃が曲がっている、木の柄に飾りが付いているとの説明がある。)、<7>丁田の家に戻ってから、丁田からジャンパーの脇の下が破けていると言われ、「早川で喧嘩して来た」と言い、その次の朝、この事件のことを丁田に話した、というものである。

古賀警部補は、被告人が右上申書を作成する際にも、小田原署の捜査本部に五、六回電話をかけて、路線バスが金目方面を運行しているか、片岡というバス停があるか、バス停の近くにグランドホールというパチンコ店があるか、本件タクシーが秦野方向から来たか、本件タクシーが西湘バイパスを経由したか、車両内に運転日報があるか、被害者には刃の付け根まで刺さった傷があるか、刺された回数は何回か、被害者が着ていた上着の色や手袋の有無等について、被告人の供述内容に間違いがないかを確認した。

(五) 高橋中隊長は、同月一三日午前一〇時ころから約二〇分間にわたり、他の取調官を外した上、被告人に対し、右上申書の内容を確認した。その際の状況は、前記録音テープに残されており、その内容は、一問一答式で誘導尋問はほとんどなく、被告人は一二日付け上申書に書いたところとほぼ同旨の答をしている。

被告人は、その際、金目を知っているのは、飯島工務店で働いたことがあって知り合いもいるからである、バスには、お菓子屋のところに出たら反対方向から来たので手を上げて乗った、パチンコ屋では負けたので帰ろうかなと思って、一キロ位歩いたところでタクシーに乗った、タクシーを停めたところには、そんなに大きくはないがマンションがあり、海岸への降り口がある辺りである、運転手がライトを点けて売上げ帳簿みたいな帳面を書いている間にナイフで刺した、丁田には、タクシーの運転手を殺めてしまったと話した、被害者には申し訳ない、自分の償いを法に裁いてもらって冥福を祈りたい、などと併せ述べている。

(六) 宇井検察官は、同月一五日、押送の警察官を調べ室から退出させた上、被告人に対し、小田原事件の取調べをしたところ、被告人は犯行を認めるとともに、自白するに至った心情を供述した。

被告人は、その際、<1>一月一〇日に、検察官から前記(二)のように、はっきり言われ、不安が募り、警察や検察庁はどこまで小田原事件のことを知っているのだろうかと思った、それまでは調べ官から小田原事件のことは聞かされなかったので、念頭にないのだろうと思っていたが、松田事件の犯行の経緯として一二月二八日の行動を聞かれると、ドキリとして、丁田の家に泊ったという程度しか話さなかった、検察官から、本当にすまない気があれば、洗いざらい真実を話しなさい、これからも追及することがあると言われ、小田原事件のことが頭に浮かんだ、松田事件について調べを受けていたとき、いつも小田原事件のことが頭にあり、毎日が後悔と苦しみの連続であった、あのタクシー運転手も成仏させてあげたいという気持ちが強くなっており、いっそ自分がどうなろうと小田原事件も自分が起こしたものであると真実を話し、二つの事件で本当に後悔し、自分でも苦しんでいるということを理解してもらおうかと思うようになった、しかし一方、丙村を殺害して金を取っただけでも重い刑なのに、これ以上人を殺していることが分かれば、どんなに重い刑に処せられるかもしれないとの恐怖心があり、二つの気持ちが闘うようになった、<2>一〇日の調べの後、いずれ分かってしまうことだから、小田原事件も話してしまおうかという気持ちにかられた、翌一一日の松田事件の現場検証で説明しているうち、タクシー運転手殺害の件も話してしまおう、そうしなければ誰も自分が本当に後悔している気持ちが分からず、被害者の運転手も成仏できない、そのためには警察から調べられた後ではなく、自分の口から先に話そうと思った、そこで、一一日の夜、調べ官を呼んで、早川の運転手殺しは私のやったことですとと話した、<3>しかし、まだ心には、処罰に対する不安や迷いがあった、二つも殺人事件を話したら大変だという気持ちが強くなり、翌一二日、昨日の話を聞こうと言われたとき、小田原の事件など知りませんと嘘をついた、しかし、調べ官から、なぜそんな嘘をつく必要がある、君から言い出したことだぞと言われ迷った、調べ官から、小田原では丁田を調べているようで、二八日の行動が君の話とは違うようだ、本当に後悔しているなら真実を話すべきだと説得され、小田原署が丁田から事情を聞き、二八日の夜、自分が彼の家から出かけ、翌二九日の夜明け前、彼のところへ帰宅したことを知っているのだと感じた、迷ったがいずれ分かるだろう、それならば私の口から、追及される前に真実を話そうと決心し、その日の夕食を終えた午後七時過ぎ、調べ室に入るとともに小田原事件について話を始めた、<4>今でもタクシー運転手の首を刺し、被害者が叫び声を上げながら運転席のドアに倒れかかったとき、背筋にぞーっという寒けがはしり、思わず後部座席に腰を降ろしてしまったときのことを忘れられない、などと供述した(乙三五)。

(七) 被告人は、平成元年一月一九日、小田原事件の被疑事実により通常逮捕されたが、同日の小田原署での弁解録取、二〇日の検察庁での弁解録取、二一日の裁判所での勾留質問において、いずれも被疑事実を認めた(乙三六ないし三八)。

(八) 小田原署では、池中隊長の下で、田原警部補が被告人の取調べを担当し、川崎巡査部長が補助官として取調べに立ち会った。

小田原署における被告人の供述調書及び上申書の作成経緯は、次のとおりである。

一月一九日付け警察官調書 犯行状況等(乙六)

二〇日付け警察官調書 犯行後の状況(乙七)

二一日付け上申書 本件タクシーに乗車した経緯(乙五〇)

同日付け上申書 バスに乗った状況(乙五一)

同日付け上申書 逃走状況(乙五二)

二二日付け上申書 飯島建設で金を借りようと思った男のこと(乙五三)

同日付け上申書 本件タクシー内での喫煙状況(乙五四)

同日付け上申書 本件タクシーの走行経路(乙五五)

二三日付け上申書 本件ナイフの入手先(乙五六)

同日付け上申書 本件ナイフの所持状況等(乙五七)

二四日付け上申書 履物に関する説明(乙五八)

同日付け上申書 右同(乙五九)

二六日付け警察官調書 身上経歴等(乙八)

二七日付け上申書 着衣の血痕付着状況、袖口の洗浄状況(乙四一)

同日付け上申書 犯行前パチンコをした状況(乙六〇)

二八日付け警察官調書 犯行に至る経緯等(乙九)

二九日付け警察官調書 右同(乙一〇)

同日付け上申書 履物に関する説明(乙六一)

三〇日付け警察官調書 犯行状況等(乙一一)

同日付け警察官調書 犯行後の状況等(乙一二)

三一日付け検察官調書 犯行に至る経緯等(乙一九)

同日付け検察官調書 犯行状況等(乙二〇)

同日付け警察官調書 犯行後の状況等(乙一三)

二月四日付け警察官調書 本件ナイフの入手先(乙四八)

同日付け上申書 右同(乙六二)

五日付け検察官調書 犯行に至る経緯等(乙二一)

同日付け警察官調書 犯行状況等(乙一四)

同日付け上申書 一二月二九日の行動(乙六三)

六日付け警察官調書 本件ナイフの入手先は言えないこと(乙一五)

同日付け警察官調書 自分が犯人に間違いないこと(乙一六)

七日付け上申書 本件ナイフの入手先(乙六四)

八日付け警察官調書 着衣及び証拠物の説明(乙一七)

同日付け検察官調書 起訴状原案の各事実が間違いないこと(乙三九)

同日付け上申書 自分が犯人に間違いないこと(乙六五)

同日付け上申書 自分が上申書を書いたことに間違いないこと(乙六六)

(九) 被告人は、松田署及び小田原署に勾留され、平成元年二月九日に起訴されるまでの間、ほとんど連日にわたり、早いときは午前八時半ころから、遅いときは午後一一時過ぎころまで取調べを受けたが、松田署における取調べにおいても、小田原署における取調べにおいても、黙って下を向いたままの状態を続けたり、取調室の壁や机に自分の頭をぶつけたりしたことがあった。二月一日、弁護人と初めて接見した直後、宇井検察官の取調べの冒頭で否認したが、一時間位で否認を撤回し、同月六日、弁護人との接見直後の田原警部補の取調べにおいても否認したが、午後九時過ぎころには否認を撤回した。

(一〇) 被告人は、公判においては、原審における罪状認否以降、一貫して犯行に及んだことを否認している。

2  自白の任意性

弁護人は、原審弁論において、被告人の自白には任意性がないと主張し、被告人も原審及び当審公判において、松田署で一月一日の夜、本格的な取調べを受ける前に入ってきた名前の分からない二人の警察官から、胸倉を掴まれ一発殴られるという暴行を受けた、一一日の上申書の内容はすべて古賀警部補から教えられた、松田署でも小田原署でも連日午前二時ないし三時半まで取り調べられた、小田原署では川崎巡査部署から二度にわたり暴行された、それらの結果、虚偽の自白をし、検察官に対しても自白を維持せざるを得なかったなどと供述している。

原判決は、被告人が多数の上申書を作成しているが、これらはいずれも被告人が自ら作成したものであり、警察官調書及び検察官調書には、いずれも被告人の署名、指印がされている、被告人が公判で供述するところに反し、留置場からの出入状況に関する捜査報告書(甲三三七、三三八)には、松田署留置期間中も小田原署留置期間中も被告人の取調べが午前二時ないし午前三時まで及んだ旨の記載はないし、捜査段階における自白について、取調官の暴行、脅迫、強制などその任意性に疑いを差し挟む事実は認められないと説示しているが、この認定、説示は、前記1(五)でみた録音テープの存在とその内容、前記1(七)でみた勾留質問の結果、被告人の取調べに当たった警察官や検察官らの原審での各証言その他関係証拠に照らし、是認できる。

3  自白の信用性に関連する証拠等

(一) 本件ナイフについて

(1) 被告人は、本件ナイフの入手先について、昭和六二年八、九月ころ、宇津木勝彦方の物置小屋の前の小屋に住んでいた男からもらった旨、次いで、昭和六三年一二月二三日ころ、有限会社杉本工業の台所からかっぱらってきた旨供述した後、ナイフの入手先は話せない、話すことができない理由についても話せないと供述し、その後、昭和六三年七月ころ、山岸組の流し場で使っていたナイフを盗んだ旨供述している。

また、本件ナイフの所持状況については、一二月二六日、旅館きくよしに預けた荷物の中から取り出してズボンのポケットにしまい込み、持ち歩くときは、ピンクのタオル地のハンカチの包み、ズボンのポケットに入れていた、丁田方では、ハンカチに包んだまま敷布団の下に隠しておいた旨供述している。

(2) ところで、被告人が供述する本件ナイフの入手先については、小田原署でその都度捜査をしたが、裏付けは取れなかった。

(3) 田原肇の原審証言(第二九回)及び川崎年治の原審証言によれば、被告人は、本件ナイフの入手先につき、これを言うと死刑になりますよねとか、くれた人に迷惑がかかるから言えないなどと供述し、宇井稔の原審証言によれば、宇井検察官から、ナイフの入手先につき本当のことを教えてくれと追求された際には、「最後の砦」というように聞こえる言葉を発して供述しないまま取調べの終わった日のあったことが認められる。

(4) 外舘正和は、検察官調書(甲五五)において、昭和六三年六、七月ころ、竹田組で被告人と一緒に生活していたとき、被告人が果物ナイフ様の刃物を所持しているのを見たことがある、そのナイフは新聞紙か紙に包んであったような気がする、被告人はそのナイフを布団の間に隠していた、示された本件ナイフと同様のペティーナイフとは断言できないが、全長、刃の長さや幅、木の柄の色等が自分が見たナイフと非常によく似ていると供述している。

(二) ハンカチについて

(1) 被告人は、ナイフをハンカチに包んでいたと供述をしているほか、一二月二九日朝、顔を洗ってハンカチで拭くとき、ハンカチに血が付いているのに気付いた、丁田の部屋を出たあと、藤沢酒店の自動販売機でワンカップを買った際、百円玉を落としてしまい、道路側溝のグレーチングという網状になっている排水口の方に転がったので、その百円玉を足で踏み付けて止めたとき、いい場所だと思って、そのハンカチを網の穴から押し込んで捨てた旨供述している。

(2) ところで、岡部府宏の原審証言及び捜査報告書二通(甲三二六、三二七)によれば、捜査官は、被告人が指示する排水溝を一四〇メートル位の範囲にわたり川への流入口まで捜索するなどしたが、ハンカチは発見されなかったこと、その際、排水管に二十数センチメートルの増水の跡があったため、降雨量調査をしたところ、前々日に雨が降ったことが判明したこと、ハンカチの入手先や入手方法に関する被告人の供述についても、裏付けが取れなかったことが認められる。

(三) 履物について

(1) 被告人は、一二月二六日、丁田方に行く途中、五百羅漢保育園の前で白山中学校体育館側の道路に捨ててあったサンダルを拾って履き替え、それまで履いていた革靴のかかとの部分を切り取ってスリッパにしたものは同保育園のそばの穴の中に隠した、犯行後、たばこ屋の前のどぶ川に入り、水が深くサンダルや靴下が濡れたので、隠しておいたスリッパに履き替え、サンダルをゴミ捨て場に捨てた旨供述している。

(2) ところで、安藤実英の警察官調書(甲三八四)によれば、白山中学校体育館裏の西側道路脇は、当時、事実上ごみ捨て場になっていたことが認められる。

(3) 原審において行われた検証の結果(職二一)によれば、五百羅漢保育園の東南側運動場に面して二つのほら穴があることが認められる。

(四) 着衣等の血痕付着について

(1) 被告人は、犯行後、早川橋を渡りながら街灯で見ると、ジャンパーの袖口の化繊でできているところに少し擦ったような形で血が付いていた、丁田のアパートに着き、外にある風呂場の横の流し台に行って、うるさくないように水を出し、二〇分位手や袖口を洗った、丁田方に入ってからも、流しに立って干からびたような石けんを使って手と袖口を一〇分か一五分位洗ったが、袖口はろくに泡もたたない感じであった、その後、雑巾でジャンパーの腕の上の方までよく拭き、炬燵に戻ろうとしたとき、飲みかけの酒瓶があったので、何気なしに手の平に酒を入れ、両袖にしみ込ませて雑巾で拭いた、お清めのつもりだったかもしれない旨供述している。

(2) ところで、中村隆志作成の鑑定書(甲三一九)によれば、被告人が、一月一日逮捕されたときに着用していた防寒ジャンパー、作業ズボン、トックリセーターなどの血痕予備検査の結果はいずれも陰性であり、被告人の着衣には、被害者の血痕は全く付着していなかったことが認められる。

(3) 中村隆志の原審証言、血こん検査立会報告書及び実験結果回答書(甲三〇、三一)、被告人の一月二七日付け上申書(乙四一)によれば、血液を含ませた綿棒及び紙製の枠を用いて、被告人が着用していたのと同種の防寒ジャンパーの袖口に、被告人が右上申書で述べているところの、右袖口表面に約二センチメートル×三センチメートル、左袖口裏面に約三センチメートル×一センチメートル、左袖口内側に約三センチメートル×一センチメートルの範囲で、血液を付着させ、三時間二〇分経過後、水道水の流水下で両袖口を二〇分間水洗いして軽く絞り、さらに両袖口に石けんを押し付けてよく泡立たせた後、水道水の流水下で一〇分間揉み洗いして軽く絞り、タオルで拭いた後、両袖口にポリエチレンろ紙を押し当て、このろ紙にロイコマラカイトグリーン試薬を滴下する方法で血痕検査を行ったところ、いずれも、実験前は陽性反応を呈したが、実験後は陰性となったという洗浄実験の結果が得られた。

(五) 動機について

(1) 被告人は、一二月一九日に多門建設を辞めたときには一〇万円余りの金を持っていたが、旅館に泊ったり、パチンコと酒でその金も三日でなくなった、それからは友人や知人を頼って、金を借りて暮らす生活となり、二三日の夜は小田原駅で野宿し、二四日の夜は二四時間営業のコインランドリーで寝、二五日の夜は海岸で寝ようとしたが、寒さで一睡もできなかった、二六日は丁田方に泊めてもらい、二七日、小田原駅の弁当売場に並んでいた男の紙袋の中から四万七〇〇〇円が入った財布を盗んだ、盗もうとして少しかがみ、財布に手を出そうとしたとき、人夫出しをしている小林という男が通りかかったので、声をかけられるのではないかと思って内心ぞっとした、顔を横に向け下を見ていると小林は通り過ぎて行った、盗んだ財布はカミソリで切り裂いて水洗便所に流し、その後パチンコで一万七〇〇〇円を遺った、二八日朝丁田方を出たときには三万円持っていたが、これでは正月も越せない、もう少し金を都合しなければなどと思っており、丁田方に帰って、明日からは泊まれないなどと考えているうち、まだ平塚には行っていない、飯島建設の人夫にいい奴がいたな、あいつに頼んでみようと思い立ち、午後七時前、ちょっと小田原に行ってくると言って丁田方を出た、飯島建設に行きづらくてパチンコグランドホールに入ってしまい、千円札七枚位と、一万円札をくずし千円か二千円遺ったところでやめた、パチンコ玉をハイライト一箱と交換した、グランドホールを出て、三、四回飯島建設の近くまで行ったが、社長の所へ顔を出し、いないかもしれない人の名前を聞くのも怒鳴られるのがせいぜいだなどと考えてあきらめ、タクシーでかえろうと思った、歩きながら、所持金が少なくなってしまったことや、結局金を借りることもできず、電車賃やバス代を遣い、おまけにパチンコで負けてしまったことを思い、このままでは正月から野宿しなければならないなどと考えるうちタクシー強盗を思い立った旨供述し、その後、二七日の小田原駅での財布盗の話は、丁田がそのころ三万円を持っているのを見たと言っていると警察で追及され、嘘の話をしたものであると供述している。

(2) ところで、多門建設代表取締役の樋川眞喜雄及びその妻樋川キヨミは、武井始の紹介で、昭和六三年一一月四日被告人を雇い入れ、宿舎に居住させていたが、酒癖が悪く作業員にからむなどしたことが理由で解雇し、一二月一九日に前借金を精算するなどして一〇万三四三〇円を支払った上宿舎を退去させたと供述し(甲一八七、一八八、一九一)、旅館きくよしの経営者である内田常子は、被告人は一二月二〇日から二三日の朝まで宿泊し、二三日朝に前日の宿泊料金四〇〇〇円を請求したところ、一銭も金がない、払えない、国府津の先の友達のところに行って金を持って来るから、それまで荷物を置いといてくれと言うので、国府津までの足代として一〇〇〇円をあげたと供述し(甲二〇七)、小林笑子は、一二月二三日被告人が訪ねてきて借金を申し込まれたが断ったと証言し、松田町でとび職武井組を経営している武井始は、二四日午後九時過ぎころ訪ねてきた被告人に車代五〇〇〇円を含めて一万五〇〇〇円を貸したと供述し(甲二二〇)、松田町でコンビニエンスストアとその隣りのコインランドリーを経営している鍵和田文孝は、被告人が一二月二四日午後一一時三〇分ころ店に入ってきて言葉を交わした、被告人は翌二五日午前二時二五分ころカップそばを購入した後、コインランドリーで休んでいたのを何度ものぞいて見たと供述し(甲二二一)、牧田組の経営者の長女である平井光代は、二五日午後七時ころ丁田を訪ねて男が来たが、丁田さんはここにはいませんと答えたところ、その男は帰って行ったと供述し(甲五四)、三枝建材工業を経営している三枝静雄は、二六日被告人が訪ねてきた、「働かせてくれ、申し訳ないけど二、三万円貸してくれ」と言われたので、一万円を貸してやったと供述し(甲二二六)、その他、二〇日か二一日ころには原田芳男が、二四日には宮本晋信が、二五日には中村福義がいずれも被告人に一〇〇〇円を貸した旨供述し(甲二五三、二一九、二二四)、理容店を営む神谷盛儀は、二三日か二四日ころ、客で来たことのある被告人が訪ねて来て借金を申し込まれたが断ったと供述している(甲二一四)。

(3) 被告人が、一二月一九日、二〇日と酒場よさこいで飲酒し、一九日と二四日には飲食店夕やけで飲食したことについては、経営者らの供述がある(甲二〇九、二一〇)。

(4) 被告人が、一二月二七日に小田原駅で財布盗をしたと供述している点については、岩重組の人夫出しの仕事をしている小林正彦は、被告人とは昭和五五、六年ころ同じ宿舎に一〇日間位いたことから知り合い、その後は小田原駅前付近でときどき見かける間柄である、昭和六三年一二月二七日午後一時過ぎころ、小田原駅東口に地下から上がり、弁当屋の近くを通ったことは間違いないと供述している(甲二四六)。

(5) 笠木厚は、府川庄吉が飯島建設の宿舎を借りて人夫出しの仕事をやっていたときに飯島建設の宿舎に住んで仕事をするようになった、昭和六二年夏ころ、府川に連れられて入ってきた被告人と宿舎で一緒の部屋に住み、大和の現場で働くようになったが、一週間ほどで被告人はどこかに行ってしまった、同年一二月二四日、五日ころから昭和六三年一月四、五日ころまでも被告人と飯島建設の宿舎で一緒になったが、そのときには、相部屋ではなかったものの、前より話をするようになり、パチンコの話をよくした旨供述し(甲二五一、二五二)、飯島建設を経営している飯島章次は、昭和六二年の夏に宿舎に被告人が住んでいたことを後で確認した、同年の暮れから翌年の正月にかけては宿舎に住み飯島建設の仕事をしていたが、作業現場で被告人を怒鳴りつけたことがあってよく顔を覚えているなどと供述している(甲二四九)。

(六) タクシーに乗るまでの経緯について

(1) 被告人は、一二月二八日午後七時前丁田方を出た後小田原駅まで歩き、JR線で平塚駅に着いたが、秦野行きのバス乗り場が分からず、違うバスの運転手に聞いたりして、午後八時過ぎころ秦野行きのバスに乗り込んだ、飯島のバス停で降り、パチンコグランドホールに入り、午後一〇時過ぎに出たが、飯島建設に行きそびれてしまい、タクシーで帰ろうと思い、以前タクシーが二台停まっていたのを覚えていたので、あそこがタクシー会社だから乗れるだろうと考えて秦野の方に歩いて行った、歩きながらタクシー強盗を思い立ち、タクシー会社と思っていた所まで来ると、自動車の修理工場であることが分かった、更に歩いて、二、三十メートル修理工場付近まで戻ったとき、秦野の方向から空車のタクシーが来たので、手を上げて停め、乗り込もうとしたところ、運転手はドアを完全には開けないでどこまでと聞くので、小田原に行ってくれますかと言うと、少し間を置いてドアを開けてくれたところで乗り込んだ旨供述している。

(2) ところで、原審証人片倉勇は、神奈川中央交通株式会社(以下「神奈中」という。)のバス運転手であるが、二八日午後八時二分ころ、平塚駅北口バス一番乗り場でバスを停車させていた際、黒っぽいジャンパーを着て東北出身者のような訛りのある五〇歳前後の小柄な男性から、秦野行きのバスはどれかと尋ねられた旨、原審証人山田英明は、平塚駅前の神奈中バスセンターで乗車券の販売、案内等の業務に従事中、同日午後八時ころ、襟に毛皮の付いたジャンパーを着て、つばの広い白線の入った帽子をかぶり、ポケットの大きい紺系統のズボンをはいた五〇歳前後の小柄な男性が、秦野行きバス方向に行ったのを見た旨、原審証人吉崎博宣は、神奈中のバス運転手であるが、同日午後八時過ぎころ、秦野行きバスを平塚駅北口二番乗り場に着けたところ、並んでいた乗客の間で、列を乱すんじゃないというような声がして騒ぎが聞こえた、紺色の襟のついた防寒服と、同色の少し裾がたるんだ感じのズボンを着た五〇歳を越え身長一五〇何センチ位の男がバスに乗り込んで、運転席と反対側の前から二番目の席に座った、その男は長持のバス停ではまだ乗っていたのを見たが、南金目のバス停では乗っていなかった旨証言している。

(3) 田原肇の原審証言(第五〇回)、実況見分調書(甲二六)、被告人の一月二九日付け警察官調書によれば、被告人がタクシー会社と誤認したという会社は、捜査の結果、平塚市南金目<番地略>所在の株式会社湘南ボデーという板金修理会社であることが判明し、タクシーの運転手である柏木真一は、原審において、以前湘南ボデーに勤務していたことから、同所にタクシーで立ち寄ったことがときどきあったと証言している。

(4) 飯島章次及び笠木厚の各警察官調書(甲二四九、二五一、二五二)によれば、被告人は、昭和六二年夏と、同年一二月二四日、五日から昭和六三年一月四、五日まで、平塚市片岡<番地略>所在の有限会社飯島建設の宿舎で居住していたこと、実況見聞調書(甲二六)によれば、湘南ボデーからグランドホールまでは約一・八キロメートルであることが認められ、笠木は、被告人と一緒に飯島建設の宿舎にいた際、被告人が五、六百メートルの距離にあるグランドホールでもパチンコをすると話していたと供述している。

(5) 被害者が小田原までの客を乗車させる際、会社の無線指令室と交信した状況は、前記一の1(一)のとおりである。

(七) タクシー乗車後本件現場までの経緯について

(1) 被告人は、タクシーに乗車してから、真っ直ぐ下って西湘へ乗ってくれと指示した、暗い外を見ながら、このままではまともに年を超せない、年を超すには何とか五、六万位でも手にいれなければならない、そうしなければ正月から野宿することになる、丁田の家は明日から泊まれないし、早く金を作らなければ駄目だ、タクシーの運転手から脅し取るしかない、ナイフで脅し取ろうと考えた、心の片隅には、そんなやばいことやめろ、という気持ちもあった、強盗の決意を固めているとき、ハイライトを取り出して吸っており、気が付くと大分短め目に吸っていたので、慌てて前の座席の背もたれの真ん中にある灰皿を引き出し、灰皿を左手で押さえ、右手でたばこの先をつまんで、火をもみ消すようにして消した、吸殻は灰皿の中に入れたものと思っていたが、調べ官に聞いたところ、座席の下の足置き場に転がっていたということであるが、タクシー強盗のことばかり考えていたので、吸殻が落ちたことに気付かなかった、西湘バイパスに入って海岸沿いに車が走り始めたとき、どこで強盗しようかなどと考え始めた、今くらいの時間なら早川にある小田原漁港は人通りがなく、自分が小林土建に勤めていたとき、その近くに住んでいたことがあり、地理もよく知っているし逃げるにも楽だと感じた、逃げることを考えているうち運転手のことが気になり、私より若そうで胸板も厚く、体格の良い人に見え、不安になって、いっそのこと運転手を殺してから金をとってやろうかとう気持ちが起きた、料金所を過ぎた辺りでジャンパーの右ポケットから刃だけをハンカチ等で包んだ包丁を取り出し、両膝の間でハンカチを取り去り、それだけを左ポケットに入れ、ナイフは裸のまま右ポケットに戻し、気を落ち着かせようとして残っていたたばこを取り出した、たばこの包み紙は丸め窓から外に捨てた、最後のたばこを吸い終わって、何となくこれを灰皿に残しておくのはまずいと思い、窓を開けて捨てた、このころはまだ、殺してから金をとるという決心をはっきり固めておらず、さすがに迷っていた、小田原インターで降り、運転手に、早川へ行って欲しいと告げ、指示して、国道一号線を走り、国道一三五号線の別れ道の手前で左折してもらい、真っ直ぐに走らせた、そのとき、周りに家が多く、騒がれれば捕まってしまうという恐怖感が大きくなった、そこで、殺してから金をとるしかないと腹を固めた、漁港沿いに真っ直ぐ海の方に向かい、街灯等が少なくなった漁協前付近まで来て、ここでいいと言って停めさせた旨供述している。

(2) ところで、原審証人小林笑子は、被告人は、昭和六二年三月、小林土木に勤め、いったん辞めたものの、同年一〇月から一二月にかけても、同土木に勤めて、小田原市早川<番地略>のアパートに居住していた、本件現場と右アパートとは一区画程度しか離れていないと供述している。

(3) 戸叶和夫及び国分善晴各作製の鑑定書(甲八五、九〇)、林崎正美の警察官調書(甲九一)によれば、江南交通のタクシー運転手である林崎は、一月二四日、警察官二名をタクシーに同乗させた上、被告人が供述するところに従って、湘南ボデー前の路上付近から出発し、秦野街道を直進し、相模貨物駅前の交差点を右折して国道一号線に入り、大磯方向に進行し、花水橋手前を左折して、花水川沿いに進行し、国道一三四号線を小田原方向に進行して西湘バイパスに入り、橘料金所を経由して小田原インターで降り、国道一号線山王橋交差点に出て左折し、小田原市民会館前交差点を左折し、本町交差点を右折し、箱根方向に進行し、国道一三五号線と交差する早川口交差点を左折し、早川駅近くの土岩かまぼこ店前の交差点を左折し、漁港に入って早川漁協前で車を停めるというコースを運転したが、そのタコグラフチャート紙を解析した結果は、前記一の1(二)のタコグラフチャート紙の解析結果と比較して、西湘バイパスを走行する前後を含め、最高速度、加減速の状況、走行時間等がほとんど同じパターンで、非常に似ていた。

(4) 被告人は、二月三日、実況見分に立ち会って、湘南ボデーから本件現場までの指示説明をしている。

(5) 本件タクシーの後部座席の床上には、前記一の5(二)(5)でみたとおり、ハイライトの吸殻一本(前同押号の13、以下「本件吸殻」という。)が遺留されており、付着していた唾液からはA型の血液型が検出された。

被告人の捜査段階及び原審公判供述、外舘正和の検察官調書(甲五五)などによれば、被告人は普段ハイライトを吸っていたことが認められ、中村隆志作成の鑑定書(甲一四五)によれば、被告人の血液型はA型であることが認められる。

また、宮古隆の原審証言及び捜査報告書(甲三二五)によれば、本件吸殻のように、製造番号の始めの二桁が08番台のハイライトは、福島県郡山工場で製造されたものであること、パチンコの景品替え専門問屋である田中製菓株式会社は、同工場から仕入れたたばこをグランドホールにも卸していたことが判明している。

(6) 当審において、本件吸殻について、検察官の申請により、ミトコンドリアDNA鑑定を行った。その結果は、帝京大学医学部法医学教室講師吉井富夫の当審証言及び同人作成の鑑定書(当審職一)のとおり、茶色フィルター紙口元部と離断フィルターからは同一の型のミトコンドリアDNAが検出され、白色たばこ包装紙からは、別の型のミドコンドリアDNAが検出されたが、それらはいずれも被告人の頭髪から検出されたミトコンドリアDNAとは明らかに異なるものであった。

(八) 犯行状況について

(1) 被告人は、腰を持ち上げ、右手を運転手の後のシートにおき、体を支えてナイフを順手に持った左手を自分の右胸くらいまで持ち上げ、真っ直ぐ運転手の左側の首をねらってナイフを突き出した、運転手は全く無防備で、あーっと声を出しドアの方に体を寄せた、ナイフが刺さったと分かったが、根元まではいかず、それほど深い傷とは思わなかった、慌てて左手でナイフを引き抜き、運転手が手袋をはめた手で傷口をおさえたので、ナイフを逆手で右手に持ち替え、頭の上から斜めに振り降ろすようにして首の付け根をねらったが、外れて少し肩寄りに刺さった、これは深く刺さり根元までいったと思う、慌てて右手で抜こうとしたが運転手が体をドアの方に寄せて、引っ張ってもなかなか抜けず、右手で手前に思い切り曲げるように引いたが、何かに引っかかったようでなかなか抜けず、刺さったナイフの柄を左手に持ち替えて少し前へ押すような感じで抜いたところ、すっと抜けた、夢中でナイフを右手で順手に持ち、左側頭部の耳の後ろ辺りを四回位突き刺した旨供述している。

(2) ところで、犯行状況を再現する実況見分は、二月三日小田原競輪場広場で行われたが(甲二八)、被告人は、それまでの供述どおりに、犯行状況であるという動作や指示説明をしている。

(3) 被害者の創傷の成傷順序については、前記二の6でみたとおりであるが、永田鑑定書(甲三一七)及び石山鑑定書(当審検五一)によれば、被害者の左側頭部の創傷(一)ないし(四)の創傷は、いずれも創角が後頭部側で鈍、顔面側で鋭で、創洞は内下方に向かっており、長さは創傷(一)(四)が二センチメートル、創傷(二)(三)が二・二センチメートルであることが認められるところ、右石山鑑定書は、刺入後または刺入時に手首が外旋し、刃を前方に向けて内下方に刺切創を形成したものであると指摘している。

(4) 本件ナイフが被害者の体内で曲がることがあり得るかどうかの点については、戸叶和夫作成の鑑定書(甲三八九)において、本件ナイフと同種のナイフを二本用意し、その一方の柄部を本件ナイフと同様に破損した上で、両方の刃体を防振ゴムで挟み、刃先から九センチメートルの位置及び刃体後端を万力で固定し、刃体を四五度及び九〇度まで曲げ、復元した角度をそれぞれ測定し、ナイフの柄部に欠損がある場合とない場合とにおける変形状態等を比較したところ、ナイフの柄部に欠損がない場合には、本件ナイフにみられるような柄部の破損が生じず、柄部の下側に亀裂が入って前方左側のリベットが浮き、上方の間隙が拡大する状態となるが、ナイフの柄部に欠損がある場合には、柄部に破損や亀裂は生じず、リベットの浮きや上方の間隙の拡大もない状態で、本件ナイフと同様、柄部の欠損部分から折れ曲ったという実験結果が得られている。また、東海大学工学部動力機械工学科教授康井義明及び同大学医学部整形外科学教室助手菊川久夫作成の鑑定書(当審検一〇)は、<1>有限要素法による応力解析の結果、本件ナイフは刺入の深さが刃体の長さの六五パーセント、約七五ミリメートル以上であれば、応力集中が柄の根元付近に発生し、本件ナイフの変形部位と同様の部位で曲げ折損が起こる、<2>解析の結果、柄を欠損させた同種ナイフでは柄に一一kgfから一四kgf程度、類似ナイフでは一二kgfから一四kgf程度の荷重が加われば、本件ナイフと同様の曲げ折損が生じる可能性があり、柄に欠損がない場合でも、欠損があるナイフに比べ一割程度高い荷重を示すだけである、<3>類似ナイフによる基礎曲げ実験の結果は、刺入の深さを、刃先から六〇ミリメートル、八〇ミリメートル、一〇〇ミリメートル、一二五ミリメートルとしたいずれのナイフにも本件ナイフと同様の部位で曲げ折損を生じ、柄に欠損がない場合には、ある場合に比べ三ないし二七パーセント高い荷重を示し、折損荷重は七kgfから一六kgf程度で、実験結果と<1><2>の解析結果は良い対応を示した、<4>同種ナイフの肉刺入による曲げ実験の結果は、右手に逆手で柄に欠損のある同種ナイフを持ち、十分解凍されたぶた肉に、刃先から九〇ミリメートル及び一〇〇ミリメートル刺入した状態で行ったところ、実験に使ったナイフは三丁とも本件ナイフと同様の部位に一一kgfから一六kgf程度の荷重で曲げ折損が生じ、曲がり角度は二五度以上に曲がるものも確認された、<5>解析結果と実験結果を材料力学的観点から検討すると、力の入れ具合によっては人間の手により本件ナイフを曲げることができるものと推察される、被告人の供述する、背面より右手で逆手に持った状態により本件ナイフに存在する折損が生じたとしても矛盾はないと考えられる、としている。

(5) 被告人の前記供述中、二回目に刺したとき果物ナイフを引っ張っても簡単に抜けず、前に押すようにして抜くと抜けたということの機序について、永田は、原審(第二二回)において、加害者が被害者の左肩付近をナイフで刺した後、被害者が防御態勢に入り、ナイフが鎖骨の一部分に引っかかったため抜けにくくなったと考えられると証言しているが、被害者の鎖骨にナイフが引っかかった跡があるという剖検結果は残っていない。この点に関して、石山鑑定書(当審検九)は、ナイフの先端部が助骨への食い込みにより、ナイフの根元付近が被害者の着衣の肩パットによりそれぞれ固定され、その間を筋肉によって充填された状態で柄の欠けた方向に向かってナイフを押し倒すというような力が加われば、ナイフは容易に曲がるし、被害者の体が逃げることによっても同様となる、そして、刃体の曲がったナイフを引き抜く場合は、柄の方向に沿って引っ張って抜こうとしても、刃体が体の中で曲がっていれば、その力は刃物を引き抜くような作用を起こすことはなく、体を全体として持ち上げるような効果を引き起こすのみであるが、腕の長軸と刺入したナイフの刃の方向が一致する状態にすれば、容易に引き抜ける、本件で、刺入したナイフを引いてもなかなか抜けなかったのは、それまでに既に被害者の身体の中でナイフの刃体が曲がっている状態になっていたからであり、左手に持ち替えて引いたら、すっと抜けたというのは、左手を介して作用した引っ張り力のベクトルが刺入したナイフの刃体の方向と一致したからである、としている。

(6) 前記一の5(二)(4)の本件タクシーの天井に見られる切断痕、擦過線条痕の生成機序については、勝又鑑定は、犯人が後部座席の上方で運転席側後部ドアの窓に近いところからナイフを持って振り上げた際に切断痕が生じ、第二撃目を加えるために犯人がナイフを振り下ろした際に擦過線条痕が生じたものと考えられ、それらに目に見えるような血痕の付着が見られない点については、第一撃目で体内に刺入されたナイフが直ぐに抜かれていれば、右痕跡に付着するほどの血液が刃体の切先に付着するとは限らないなどと指摘している。

(九) 逃走状況について

(1) 被告人は、運転手にいくらだと聞いたとき、左後方から冷たい風が吹き込んできたのを覚えており、運転手がドアを開けてくれたのではないかと思うが、逃げる際身体でドアを開けて車から離れ、路地に入って夢中で逃げた、国道に出て右に曲がり二〇メートル位行ったとき、ナイフを握っているのに気付き、歩道上に静かに落とした、そのまま小走りで行くと、交番があるのに気付き、足が止るほどびっくりし、中を見ると、人影はなく、足を速めて土岩かまぼこ店の手前を右折して港沿いの道に戻った、タクシーが同じ位置に停まっているのは分かったが、走って港を回り、早川橋を渡り、たばこ屋の脇を流れている側溝に降り、砂や泥と一緒に水を汲んで手を洗った、そのまま真っ直ぐ行けば国道に出るが、その手前に交番があるので、途中で右折し、国道を渡り、八幡神社を過ぎて布団屋の倉庫の影でしばらく休んだ、そして、城内高校の脇を通り、競輪場の手前で右折し、駅の方に向かった、青橋を渡り、野球場の方に向かったが、野球場には人がいるかもしれないと思って、その入口にある大きい木のところで寄りかかって休んだ、駅の南口駐車場の所を曲がったが、駅前には交番があるので、箱根登山バスの車庫の方へ入り志沢百貨店の横を左折し、緑町の交差点を渡って駅前を通り過ぎた、それからパチンコカイザーの角を左折し、大雄山線の緑町駅を左に折れ、ガードをくぐって線路を渡り、少年院の前の通って小田急線沿いに五百羅漢に向かい、サンダルをつっかけに履き変えるため白山中学校横の公園のほら穴に立ち寄り、丁田の家に戻った旨供述している。

(2) ところで、被告人の逃走状況についての実況見分は、二月三日、被告人が本件タクシーに乗車するまでの経緯に関する実況見分に引き続いて行われたが、右実況見分調書(甲二六)の作成者である角田要二は、原審において、被告人が、タクシー運転手がドアに寄りかかって自分を追いかけてくるような仕種が見えたとか、交番が見えた手前を路地に入るとか、先に交番があるので小田原駅前の駐車場の中をUターンしたとか、途中で塀や大木に寄りかかって休んだとかの指示説明は印象的であったと証言している。

(3) 捜査報告書(甲三七八)によれば、早川駅前派出所では、被告人が早川駅前の交番に気付いてびっくりしたと供述している時刻には、一名の勤務者は休憩中であり、もう一名の相勤者は、午後一一時三〇分ころから警ら勤務に出ていたことが認められる。

(4) 原審証人土屋村弘は、一二月二九日午前二時過ぎから二時三〇分ころまでの間、自動販売機のたばこを買いに自転車で家を出た際、白山中学校の体育館前で、襟がふわふわした黒っぽいジャンパーを着た身長一六〇センチメートル位で小柄な五〇歳前後位の男性を、行きと帰りに二回見かけた、その男性は疲れている感じで、石の壁に手をついていた、刑事が同証人のところに聞き込みに来たのは、一月の終わりころであったと供述している。

4  自白の信用性

原判決は、被告人の自白には、秘密の暴露とみるべきものはなく、その供述内容は、犯行の核心となる部分について矛盾し、不合理な点があるほか、凶器である本件ナイフの入手先等の重要部分について、単なる記憶違いや不確かさ等に起因するものとはいい難い変転があり、随所に不自然、不合理な点が認められる、また、丁田の供述に由来する事項については、客観的裏付けに欠ける上、架空の財布盗について虚偽の供述をしている部分すら存在する、これに、被告人の供述経緯を併せ考えると、被告人は、取調官に執拗に追及された結果、その場を逃れるために取調官に迎合し、あるいは自暴自棄になって、虚偽の自白をしたのではないかとの疑いを否定することができないとして、被告人の自白に信用性があるものと認めることはできないと説示している。これに対し、所論は、被告人は捜査段階において小田原事件の取調べを受けた当日から犯行を自白し、その内容は捜査段階を通じて主要部分において一貫しているだけでなく、被告人の自白には秘密の暴露と評価すべき事実が多数存在し、十分な証拠によっても裏付けられているのであって、原判決は、被告人の自白の経過をことさら曲解し、すべて捜査機関による誘導や押し付けであるかのごとく認定し、些細な変遷や一見不自然ないし不合理な供述記載部分が存在することをことさら強調し、論理を飛躍させて、被告人の供述調書及び上申書全体の信用性を否定しているものであり、到底容認できないというのである。

(一) 自白の経緯及び取調べ状況からみた信用性

原判決は、捜査の経緯に照らすと、松田署及び小田原署の両捜査本部において、あいまいな丁田の供述を基にして被告人を追求した結果、自白を得るに至ったことが認められ、取調べ状況に照らすと、被告人は捜査段階において長期間にわたり連日長時間の取調べを受け、身体的に疲労し精神的に動揺した状況にあったことがうかがわれ、しかも必ずしも一貫して犯行を自白していたわけでないと説示する。

しかしながら、前記1でみた被告人の供述経緯及び取調べ状況によると、被告人は、一月一〇日の宇井検察官の取調べの後である一一日夜、小田原事件の犯行に及んだことを初めて概括的ながらも自白し、一二日、いったん否認したものの、夕食後に改めて自白するに至っている。被告人の一二日付け上申書の内容は、それ自体としてみても具体性に富んでいるばかりか、内容的にみても、丁田がそれまでに捜査機関に供述していたことから誘導できるような範囲にとどまっているものとはいえず、また、被告人が原審公判で供述するところによっても、松田署では本件ナイフを見せられたことがなかったというのに、右上申書では本件ナイフとほぼ同じ形状のナイフの図を書き、他方では、柄のところに飾りがついた部分があると現物とは異なる特徴も記載していることが認められるのであって、取調官がそれまで知り得た情報を基に被告人を誘導して右上申書を書かせたものとはみられない。右上申書の内容を翌一三日に確認した高橋中隊長とのやり取りを録取した録音テープを聴いても、被告人は、誘導をほとんど受けずに、右上申書とほぼ同様の事実を自発的に供述していることが明らかである。そうすると、松田署の取調官が、小田原署が事情聴取したところ丁田の供述に変更があったということを一〇日には聞いていたことや、一一日被告人を取り調べる前に小田原署の捜査官と打ち合せをしたこと、被告人が一一日と一二日に上申書を作成した際には、古賀警部補が自白が客観的な状況と齟齬していないかどうか確かめるために、小田原署に電話をかけて確認したこと、一一日に留置場へ戻る祭、丁田の野郎、ぶっ殺してやると被告人が言っていたことを考慮しても、松田署の取調官があいまいな丁田の供述を基にして被告人を追及した結果自白を得るに至ったとはいえないし、その後の小田原署における自白に関しても、小田原署の取調官が同様の追及をして自白を得たとはいえない。被告人が、一五日、検察官に対して、小田原事件を自白した心情を語っている内容は、前記1(六)でみたとおりであって、思い悩んだところを素直に語った自然なものとみることもできる。

宇井稔の原審証言によれば、被告人は、二月一日午前中に弁護人と接見した後、宇井検察官の前で犯行を否認したことが認められるものの、同検察官が、被告人に対し、小田原事件で逮捕する前に事情を聴いたとき詳しく間違いないと供述したのはなぜかなどと一時間位かけて追及したところ、被告人は、下を向いたまま答えず、「すみません、小田原の事件もやりました」と述べたことが認められる。また、田原肇の原審証言(第二八回)によれば、被告人は、二月六日朝弁護人と接見した後、自分は刃物なんか持っていない、殺してもいない、あれは他人がやったんだ、丁田のうちには行っていないし、会ったこともないなどと犯行を否認したが、田原警部補が、アリバイを確認しても無言で答えず、被害者や遺族のこと、被告人の田舎のことなどを持ち出して説得を重ねたところ、被告人は、声を出して泣きながら「本当に申し訳ない、本当は私がやった、冥福を祈りたい」などと言って、午後九時以降、自白するに至ったことが認められる。そして、被告人は、二月九日に起訴される前日、検察官に対しても、起訴状の原案を示され、重い罪であることを再確認されながらも小田原事件の犯人であることは間違いないなどと供述している。

以上によれば、被告人の取調べがほとんど連日にわたり、早いときは午前八時半ころから、遅いときは午後一一時過ぎころまで行われたこと、被告人が、犯行を自白した後も、一月一二日、二月一日、同月六日には否認し、そうでなくとも黙って下を向いたりして取調べが必ずしもスムーズに進んだわけではないとうかがえることなどを考慮しても、捜査機関の不当な誘導ないしは押し付けにより被告人の自白が得られた疑いはなく、原判示のように、捜査機関においてあいまいな丁田の供述を基にして追及した結果被告人から自白を得るに至ったとか、身体的に疲労し精神的に動揺した状況で自白したということはできない。

(二) 自白内容の変動、合理性からみた信用性

原判決は、被告人の自白は、被害者の殺害態様といういわば犯行の核心部分において矛盾がみられるほか、多くの重要部分について変遷しているだけでなく、その内容に不自然、不合理な点が極めて多い、また、主観的な認識や、記憶が混乱するとも思われない事項についても供述が変遷し、これらが単なる記憶違いを正したものであるとは考え難い、しかも、松田署における供述内容と小田原署における供述内容との間に食い違う部分が多くみられ、小田原署における捜査の進展に伴って新たに判明した事実に沿って、供述内容が訂正され、次第に詳細になっている部分もあり、捜査官の誘導、暗示により供述内容が変遷したのではないかという疑問を払拭することができないと説示している。

(1) 原判決は、一二月二八日の時点での所持金に関する被告人の供述につき、一月一二日付け上申書では、パチンコで約五〇〇円を費消し、残金が四、五百円になった旨、一月一九日付け警察官調書では、約一二〇〇円所持し、パチンコで約七〇〇円を費消して残金が五〇〇円になった旨、一月二〇日付け検察官調書では、残金が千数百円になった旨それぞれ供述していたが、一月二八日付け警察官調書において初めて、一二月二七日、小田原駅での財布盗を供述し、四万七〇〇〇円を手にしたものの、その後パチンコで費消するなどして残金が約三万円になった旨供述し、さらに、一月二九日付け警察官調書においても、一二月二八日に約三万円を所持していたことを認め、一月三一日付け検察官調書(乙一九)では、それを前提として、犯行前にパチンコで約八〇〇〇円を費消し、残金が一万九〇〇〇円になった旨供述しているが、二月五日付け検察官調書では一転して、財布盗の話は田原警部補から所持金が三万円あったはずだと追及されたためにしたものであって虚偽であると供述し、公判廷においても、財布盗について一貫して否認していると要約した上、<1>丁田の捜査段階の供述には、被告人が一二月二七日に約三万円、同月二九日に約一万九〇〇〇円の金員を勘定しているのを見たという部分があるが、丁田の右供述はあいまいで、信用性が認められないことは前記のとおりである、<2>被告人が財布盗をしていれば、丁田の右供述に符合することになるが、財布盗については、被害届が出されておらず、窃取した財布も発見されていないなど、何ら裏付けが存在しない上、また、被告人は、財布窃取後の行動について、小田原駅東口付近の商店街を逃走し、地下道を通って同駅西口に回り、同駅構内の便所で財布をかみそりで切り裂き、ティッシュペーパーに包み、三回に分けて水に流したと供述していたものであるが、わざわざ迂回する経路を通った上で、財布を切り裂いて水に流すという手の込んだ証拠隠滅を図ったというのはいかにも不自然である。被告人は、二月五日付け検察官調書において、財布を捨てたといえば探されて嘘がばれると思ったため、探されないような話を考えた旨供述している、<3>以上によれば、財布盗の供述は虚偽である旨の被告人の供述を直ちに排斥することはできず、被告人は、財布盗について虚偽の供述をしたばかりか、わざわざ裏付けがなくても辻褄が合うような供述をしたのではないかとも考えられる、<4>一二月二八日前後の被告人の所持金の状況からすると、被告人が真実財布盗をしていないのであれば、二八日に三万円も所持していたというのは不自然であり、そうであるならば、犯行前にパチンコで約八〇〇〇円を費消したとの供述も不合理であることになると説示している。

そこで、原判決<1>についてみるに、前記三の4(四)(2)及び5(一)で述べた理由により、被告人が金を持っているのを見たという丁田の供述は信用できると考えられる。原判示<2>ないし<4>についてみるに、被告人の財布盗の供述は、具体性に富むばかりか、そのとき知り合いの人夫出しをしている男が現場を通ってびっくりしたという点については、前記3(五)(4)でみたところの小林正彦の供述の裏付けがあり、宇井検察官は、原審において、二月五日の取調べで財布盗につき否認供述を録取したのは、供述の任意性を担保する趣旨で、被告人の話すままを録取したと証言しているが、他方、被告人が小田原事件の犯人であることは認めながらそれと比べれば些細な財布盗を否認したことや被害届が提出されていないなど十分が裏付けがないことを考慮すると、被告人が財布盗をしたと認定するのは相当でない。しかし、財布盗が虚偽である旨の被告人の供述を排斥できないからといって、直ちに被告人が財布盗についての虚偽の供述をしているということにはならないのであって、被告人が所持していたとすればその金の由来が不明であるというのとどまり、被告人が虚偽の供述をしたとの前提で原判示<3>のようにいうのは相当でなく、被告人が財布盗をしていないとの前提で原判示<4>のようにいうことも相当でない。

(2) 原判決は、<1>一二月二八日夜に丁田方から外出した理由につき、被告人は、一月一二日付け上申書において、金がないから寂しいところへ行ってタクシーに乗り、運転手を殺して金を奪おうと決めたとして、丁田方を出たときから犯行を決意していた旨供述し、知人に金を借りに行こうと思ったという供述はしていないが、一月一九日付け警察官調書では、金を借りるために飯島建設に働いていた二六、七歳位の人物を訪ねようとしたと供述し、一月二九日付け警察官調書では、実際には飯島建設に行かなかった理由については、訪ねようとした人物の名前が分からなかったので、飯島建設の親方を訪ねて名前を聞かなければならず、夜遅くになってしまって親方に怒られそうで怖かったためであると供述しているところ、いくら金員に窮迫していたとはいえ、名前も分からない人物に金を借りに行くというのはいかにも不自然であるし、仮にそうしなければならないほど窮迫していたのであれば、せっかく飯島建設の近くまで行きながら途中で引き返すというのは更に不自然である、<2>被告人は、丁田方から外出した時刻について、一月一二日付け上申書及び一月一九日付け警察官調書では、午後七時半ごろと供述していたが、一月二九日付け警察官調書では、午後六時四〇分ころと訂正し、その理由として、丁田の同僚が部屋に来た時刻が午後六時に近かったことを思い出したと供述している、また、被告人は、平塚駅から秦野行きのバスに乗って飯島建設に向かった旨自白しているところ、一月一二日付け上申書及び一月一九日付け警察官調書では、片岡バス停で降車したと供述していたが、一月二九日付け警察官調書では、そのひとつ手前の飯島バス停で降車したと供述が変遷している、さらに、被告人は、一月二一日付け上申書(乙五一)では、平塚駅でバスの運転手に秦野行きのバス乗り場を聞いた、午後八時一〇分ころ平塚駅発の秦野行きのバスに乗車し飯島バス停で降車した、乗り場でないところで手を挙げて前の入口から乗車し、左側の前から三番目に座った旨供述していたところ、一月三一日付け検察官調書(乙一九)では、バスの発車時間は午後八時過ぎころとなり、乗車の仕方については、特段の供述をしていないと指摘した上、被告人が、飯島建設に行くのに通常と異なる行動をとったのであれば、当初からそれに沿った供述をなし得たはずであり、このような事実について記憶違いがあったとか、あえて真実と異なる供述をしたとは考え難い、平成元年一月下旬ごろには、一二月二八日午後八時過ぎころ、平塚駅で被告人に似た人物を見たという複数の目撃供述が得られた一方、戸叶鑑定書(甲八五)によれば、犯人が本件タクシーに乗車したのは午後一一時一四分ごろと推認されるところ、被告人の右供述は、平塚駅からバスに乗った時刻、本件タクシーに乗車する前にパチンコをした時間など、時間の経過がこれらの証拠と整合するように訂正されている上、飯島バス停で降車したとすることにより、パチンコ店グランドホールに入ったという行動を合理的に説明するものになっている、片倉、山田及び吉崎の各証言には、被告人の平塚駅での行動についての自白に沿う部分があるものの、片倉は、バスを発車させるまでのわずか二、三分間に、乗降客で混み合っていたときに声をかけられたものであること、山田は、当該人物の帽子や服装など、全体の雰囲気が被告人に似ていると思ったにすぎず、顔を見たわけではないこと、吉崎は、当該人物の服装について記憶がはっきりしていないことなどに加えて、右各証言によれば、平塚駅のバス乗り場付近は二〇ワットの蛍光灯がついているだけで薄暗いこと、いずれの証人も、犯行から一月近く経過した一月下旬ごろの事情聴取をされたこと、捜査官は、平塚駅を八時から八時一〇分ころに発車したバスの運転手に限定して聞き込み捜査をしていたことが認められ、証人らとその目撃した人物との接触、目撃状況にかんがみると、証人らの識別状況は不十分であり、あるいは記憶が鮮明ではないから、いずれも被告人が平塚駅からバスに乗ったという自白の裏付けとするには足りないというべきである。<3>被告人は、一月一二日付け上申書では、パチンコ店グランドホールから一キロメートル位秦野方向に行ったとき、秦野方向から白いタクシーが来たと供述するにとどまっていたが、一月二一日付け上申書(乙五〇)では、タクシーに乗ろうと思って金目の商店街のはずれのタクシー会社だと思っていた場所に向かったが、そこは板金塗装屋の湘南ボデーであった、その先の砂利置場まで歩いたが、あまり車がないので引き返し、板金塗装屋の前に戻ったところ、秦野方向から空車のタクシーが来た旨供述し、一月三一日付け検察官調書(乙一九、二〇)においても、金目の方にタクシーが二台停まっていたのを覚えており、そこがタクシー会社だろうと思って秦野方向へ歩き出したが、着いてみると自動車の修理工場だったと供述しているところ、ア柏木は、湘南ボデーにタクシーで立ち寄ったことがときどきあったと証言しているが、同人が警察官に対して供述をしたのは平成元年一月二一日であり、被告人が板金塗装屋のことを供述した上申書の作成日と一致している、イ溜村は、時速約六〇キロメートルで走行中に、道端にいる男性の後姿を見ただけであり、付近道路には照明がなく暗かったことに照らすと、同人の識別状況の正確さには疑問があり、同人の証言をもって、被告人が湘南ボデー付近で本件タクシーに乗車したという自白の裏付けとするには足りないとし、被告人の犯行前の行動に関する供述には不自然、不合理な点が多いのみならず、右供述を裏付ける確たる証拠は存在しないと説示している。

そこで、原判決<1>についてみるに、被告人が、一二月一九日に多門建設を解雇され、一〇万円余りに所持していた給料も三日ほどで遣い果たし、二三日ころから金に困り、方々の知人を頼って借金を繰り返し、同日夜から二六日朝まで、小田原駅、コインランドリーや海岸で野宿するような生活を送っていたことは、前記3(五)(1)でみた被告人の供述と同(2)に摘示した証拠によって認定できるところ、そのような状況で、せめて正月は人並みに屋根のある所で過ごしたいという気持ちになり、明日からは丁田方に泊まれないという一二月二八日の夜に、借金の申し込みにまだ行っていない平塚方面を考えるうち、かつて飯島建設で同部屋になったことのある男のことが思い浮かび、最後の願いと思って丁田方を出たという被告人の供述は、前記3(五)(5)でみた笠木厚が供述する被告人との仲にも照らせば、原判示のように名前も分からない人物に金を借りに行くという点で不自然であるとはいえない。また、飯島建設に行かなかった理由として被告人の供述するところは、それ自体納得のいくものである上、飯島章次が、前記3(五)(5)でみたように、かつて作業現場で被告人を叱責したことがあると供述していることも考えると、不自然とはいえない。そして、飯島建設に行こうとしたが結局は行かなかったというのであれば、一月一二日付け上申書にこの点に関する供述が欠けているからといって重視すべきものとは考えられない。

原判示<2>についてみるに、二八日夜、丁田方を外出した時刻、平塚駅でのバスへの乗車時刻や乗車の仕方、降車したバス停、パチンコをした時間などについての被告人の供述が、原判決の指摘するように変遷している理由は、取調官が、既に判明していた本件タクシーへの犯人の乗車時刻や裏付け捜査の結果を基に被告人を再度取り調べた結果によるものと考えられ、取調官が裏付け捜査の結果を被告人に突きつけて追及したことはあったとしても、供述の訂正から取調官に被告人に対する不当な誘導、暗示があったと疑うのは相当でない。被告人が飯島バス停で降りた理由については、被告人は、一月三一日付け検察官調書(乙一九)において、片岡の方が飯島建設に近いのにわざわざ飯島で降車したのは、飯島建設に行きづらいという気持ちや、もしかしたらパチンコで稼げるかもしれないという気持ちがあったためであると供述しているところ、意識的に飯島で降車したのであれば記憶違いの起こらないのが普通であるが、再度聴かれてよく考えてみれば記憶違いであったというのもそれほどおかしくはないと考えられる。片倉、山田及び吉崎の三名の供述は、それ自体から、平塚駅バス停付近に被告人がいたことや秦野行きのバスに被告人が乗車したという事実を認定できるほどの証拠ではないが、被告人の供述を裏付ける程度の証拠価値はあるものと考えられる。

原判示<3>についてみるに、タクシーに乗ろうと考え、タクシー会社だろうと思って行ったところが自動車の修理工場だったという被告人の供述は、取調官が誘導、暗示して引き出せるようなものではない上、既に一月一九日付け警察官調書に出ているから、柏木の警察官調書の日付が一月二一日であることは、被告人の右供述について裏付け捜査をしたところ、柏木の供述が同日に得られたことを示すにとどまり、これが被告人の上申書の作成日と一致していることに意味をもたせている原判示は失当である。溜村孝充の原審証言が被告人の供述の裏付けとなるほどのものでないことは原判示のとおりであるが、この点に裏付けのないことは、被告人の供述の信用性に影響しないと考えられる。

(3) 原判決は、被告人は、一月一二日付け上申書では、丁田方から外出する時点で、タクシーの運転手を殺害して金を奪おうと決意していた旨供述しているが、一月一五日付け検察官調書では、犯行を決意したのは西湖バイパスに入ってからであると供述し、一月一九日付け警察官調書では、犯行を決意したのは飯島建設に行くのを止めたときであり、本件タクシーに乗り西湖バイパスの料金所を通り過ぎたころ、決心がより強くなったと供述し、一月三一日に検察官調書(乙一九)においても、犯行の決意を固めたのはタクシーに乗ってからであると供述していると指摘した上、被告人の供述には、自己の心情を供述する部分についてさえ自白の内容に変遷がみられると説示する。

しかしながら、犯意が生じた時期についての供述に変遷があるからといって直ちに犯行に及んだという供述自体の信用性に影響するわけではなく、被告人の供述を通覧すると、被告人が本件現場で強盗殺人の犯行に及ぼうと決意を固めた時期に関しては、取調べが進むほど遅くなっており、犯行を認めていても心情を供述する部分は少しずつ自己に有利に訂正されているとみれば、この点を重視するのは相当でない。

(4) 原判決は、<1>本件ナイフの所持状況につき、被告人は、一月二三日付け上申書(乙五七)では、一二月二六日旅館きくよしに預けた荷物の中から、姉甲山花子の電話番号を書いたメモと一緒に本件ナイフを取り出した、ナイフを持ち歩くときは、ピンクのタオル地のハンカチに包み、ズボンのポケットに入れたり、腹のベルトに差しており、丁田方では、ハンカチに包んだまま布団の下に隠しておいた、二八日午前七時ころ、丁田方を出るとき、ナイフを部屋の中に置き忘れていたので取りに戻った旨供述しているが、公判廷において、本件ナイフを所持していたこと自体を否認し、ポケットに入れていたのはメリケンであると供述していると指摘した上、アきくよしの経営者の内田の警察官調書(甲二〇七)によれば、同女は、被告人が荷物の中からメモ書きを探すとき、一緒にその場にいて荷物の中身を見ているが、被告人がナイフを取り出す場面を目撃していない、イ被告人が、旅館に預けた荷物の中からわざわざナイフを取り出したり、丁田方にナイフを取りに戻った理由ははっきりしない、ウハンカチに包んだとはいえ、鞘のないナイフを作業ズボンのポケットに入れて持ち歩けば、ナイフの先が足に刺さる危険がないとはいえない上、本件ナイフをハンカチに包んで作業ズボンの右ポケットに入れると、柄部がはみ出してポケットの上蓋が盛り上がる状態となり、被告人がそのような状態で本件ナイフを長時間持ち歩いていたというのは不自然である、エ外舘は、被告人が果物ナイフ様の刃物を所持しているのを見たなどと供述しているが、同人は、当該ナイフを手に取ったり、注意して見たわけではないから、刃物が本件ナイフと全く同じものであったかは断言できないとも供述しており、本件ナイフが一般に市販されているもので特徴があるわけでないことを併せ考えると、同人の供述は、被告人が本件ナイフを所持していたという自白の裏付けとするに足らない、<2>被告人は、本件ナイフの形状について、刃渡り、柄部の長さ、四文字の打刻があることなどについては、正確すぎるのではないかとさえ思われる図面を作成している一方、刃体の曲がった状態や柄部の欠損部分など犯行に直接結びつく特徴的形状については具体的に供述しておらず、本件ナイフの形状についての供述には不自然な点がみられる、<3>被告人は、本件ナイフの入手先について、多数の上申書を作成し、何度も供述を録取されているが、その供述内容は変遷し、捜査官はその都度被告人の供述する入手先について捜査したが、供述内容に一致する事実は判明していない、被告人が犯行の主要部分を詳細に自白していながら、ことさら本件ナイフの入手先について最後まで事実を供述しないというのは不自然であり、被告人が、これを言うと死刑になりますよねとか、くれた人に迷惑がかかるから言えないと供述していたという田原証言が挙げる理由は、にわかに首肯し難い、<4>本件ナイフの左側柄部はリベットの前部から一部欠損しているところ、被告人は、二月八日付け警察官調書において、ナイフが刃体の付け根部分から曲がったときに柄部が壊れたのではないかと思うと供述しているが、この自白によれば、柄部の砕片は車両内又はその直近で発見されるものと考えられるのに、本件発生直後、車両内及び本件現場付近の検索、鑑識活動等がされたにもかかわらず、柄部の破片は、被害者の体内、車両内又はその直近のいずれからも発見されていない、<5>検察官は、被告人は、本件ナイフの柄部の欠損という特徴的な事項について供述すれば、自分と凶器との結び付きが強まる危険があるため、あえて虚偽の供述をした旨主張するが、このような理由がにわかに首肯し難いことは、本件ナイフの入手先についての供述の場合と同様である、<6>検察官は、車両内及び本件現場付近から柄部の破片が発見されなかったのは、犯行前から柄部が欠損していたからにほかならないと主張し、柄部が欠損しているのを見たという丁田の公判供述は十分信用できるとするとともに、その裏付けとして戸叶鑑定書(甲三八九)を提出するが、右鑑定の際に行われた実験は、ナイフの固定の仕方、曲げた角度、荷重の程度等が犯行状況と同じ条件にあるか否かが明らかではなく、右実験結果を基にして、本件ナイフの刃体が曲がったときの状況と比較するのは困難である。そして、前記のとおり、本件ナイフの柄部が欠損しているのを見たという丁田の供述はあいまいであり、右実験結果をもって、直ちにその信用性を高めることはできない、しかも、本件ナイフのリベットや柄部の破断面には磨耗した形跡がなく、破断面や破損により表れたステンレス部分には、埃や汚れの付着などが見られないことからすると、本件ナイフの柄部が長期間にわたって欠損していたものとはうかがわれない、そうすると、本件ナイフの柄部が当初から欠損していたとする検察官の主張は、これを裏付けるに足りる証拠がなく、この点に関する被告人の供述はあいまいであって、本件ナイフの柄部が、いつ、どのようにして破損したかについては解明されていないということになるとし、結局、被告人の本件ナイフに関する供述は、その所持状況については不自然であり、入手先については明らかにされてなく、柄部の破損に関してはあいまいであって、いずれもその信用性について疑いを抱かせるものであると説示している。

そこで、原判示<1>のアについてみるに、被告人は、一月一九日付け警察官調書において、旅館きくよしの荷物の中から姉の電話番号のメモを探す際、果物ナイフが目についたので、旅館の人が離れたとき果物ナイフをズボンのポケットにしまい込んだと供述しており、内田は、警察官調書において、被告人がメモ書きを取りに来たと言って部屋に行き、荷物の中を探していたが、自分は帳場の方に戻ったと供述しているところ、両者の供述のとおりであれば、ナイフを取り出す場面を内田が目撃していないことは問題にならない。同イについてみるに、ナイフを持ち歩いていた理由に関しては、被告人は、一月一九日付け及び同月二八日付け各警察官調書において、かつて石橋組で働いていたときに高橋という男から乱暴されたことがあってそのときの仕返しをしてやろうと思ったとか、もしどこかで刃物を使って金でも取れるような場面があれば役に立つと思ったと供述しているところ、被告人がナイフを所持していたとすればその理由はそのほかにもいろいろ想定できるところであって、原判示の疑問とする理由がはっきりしないとはいえない。同ウについてみるに、被告人はいずれにも大きめのポケットが付いているジャンパーとズボンを着用していたものであり、本件ナイフはズボンの前部に付いているポケットを除き、いずれのポケットの中にも納まるものであることが認められ、被告人はナイフを常時ズボンのポケットに入れていたと供述しているわけでもないから、原判示のようにいうことはできない。同エについてみるに、外舘の供述から、同人が、被告人が本件ナイフそのものを所持している状況を見たことがあると認めることはできないが、本件ナイフに類似するナイフを持っている状況を見たことがあるという限度では、被告人が本件ナイフを所持していてもおかしくない状況を裏付けているということができる。

原判示<2>についてみるに、被告人が、一月一二日付け上申書において、犯行に使用した果物ナイフの図を書いており、その図には、刃元でナイフが曲がっているとの記載が既にあることは前記1(四)でみたとおりである。そして、古賀博憲(第二六回)及び高橋和彦の各原審証言その他関係証拠によれば、松田署の取調官は、本件ナイフを入手しておらず、写真などでこれを見たこともなかったことが認められ、被告人は取調官からの誘導、暗示を受けることなく右の図を書いたとうかがえる。右の図には、柄の部分に飾りの付いた部分があることが示されており、本件ナイフとは異なる特徴が記載されていることは、その証左であると考えられる。そして、右の図と、被告人が、一月二三日付け上申書(乙五六)や一月二八日付け警察官調書の添付図面として書いているナイフの図とを比較すると、刃渡り、柄部の長さ、四文字の打刻がある点などについての違いはない。被告人が図面を含めてナイフの柄の欠損部分について具体的に供述していないことは原判決が指摘するとおりであるが、この点も、ナイフについての供述に誘導や暗示がないことの証左である。このようにみてくると、原判示のように、被告人が本件ナイフにつき正確すぎるのではないかとさえ思われる図面を作成しているとか、刃体の曲がった状態について具体的に供述していないとかいうことはできず、ナイフに関する被告人の供述が不自然であるというのは相当でない。

原判示<3>についてみるに、被告人のナイフの入手先についての供述が変転していることは原判決が指摘するとおりであるが、ナイフの入手先については裏付けのとれるような供述が得られていないというだけあって、原判示のように被告人がことさら最後まで真実を供述していないとみるのは相当でない。

原判示<4>ないし<6>についてみるに、本件ナイフの柄の欠損部分が発見されていないことは原判決が指摘するとおりであるが、この点の捜査がずさんで見落としがあったという状況はうかがえない。そして、前記3(八)(4)でみた戸叶鑑定書における実験結果は、本件ナイフの柄が犯行当時欠損していたことを裏付けている。また、本件ナイフの破断面の状況に柄の欠損が真新しいことを示す証跡がないことも考えると、本件ナイフの破断面などの状況から本件ナイフの柄部が長期間にわたって欠損していたものとはうかがわれないとする原判示は誤りである。そうすると、本件ナイフの柄が、いつ、どのようにして欠損したかについては解明されていないけれども、本件ナイフの柄が犯行前から欠損していたことについては、本件ナイフの柄が欠けているのを見たという丁田の証言をまつまでもなく、認定することができる。本件ナイフが曲がったときに柄部が壊れたのではないかと思うとの被告人の供述は、被告人が柄の欠損を意識していなかったことを示しているとみることもできる。

以上検討してきたところによれば、被告人の本件ナイフの所持状況についての供述が不自然であるとはいえず、被告人が本件ナイフを所持していたことについては、自認を裏付ける証拠もあって信用性が認められ、本件ナイフの入手先につき被告人の供述の裏付けが取れていないことは、本件ナイフを所持していたという被告人の供述の信用性を左右しないと考えられる。

(5) 原判決は、本件犯行の態様について、被告人は、一月一二日付け上申書において、ジャンパーの右ポケットからナイフを出して左手に持ち替え、中腰になって刃を下にして握り、被害者の左頭付け根付近を二回刺した、被害者がドアの方に倒れかかったので、左耳上を七、八回突付いた旨供述し、一月一九日付け警察官調書においても、前部座席にもたれかかるようにして、被害者に見えないように右手でナイフを取り出して左手に持ち替え、刃を下にして順手に握り、被害者の左頭付け根付近を一回刺した、右利きなので左手で刺すのは心配だったが、中腰になって思い切り刺し、また同じくらいのところを刺した、被害者は運転席のドアに背をもたれかかるように逃れた、ナイフを右手に持ち替え、顔や頚を刺した旨供述している、ところが、被告人は、一月三〇日付け警察官調書(乙一一)において、ナイフを左手で順手に握り、中腰になって左頭付け根付近を一回思い切り刺した、すぐに二回目を刺したところ、頚をねらったつもりが肩辺りに刺さった、今度は深く刺さり、抜こうとしても簡単には抜けなかった、ナイフを右手で刃を外にして逆手に握り、左耳の後ろから上方にかけて四、五回刺した旨供述し、二回目にはナイフが肩付近に刺さり、なかなか抜けなかったと供述するに至っている、さらに、被告人は、一月三一日付け検察官調書(乙二〇)において、ナイフを左手で順手に握り左頚を刺すと、被害者がドアの方へ体を寄せた、ナイフが根元までいかなかったので、これでは死なないと思い、右手に持ち替えて逆手に握り、頭の上から斜めに振り降ろすようにして頚の付け根を狙ったが、少し肩寄りに刺さった、これは深く刺さり、ナイフの根元までいったと思う、慌てて右手で抜こうとしたがなかなか抜けず、右手で手前に思い切り曲げるように引いたが、何かに引っかかったようでなかなか抜けず、左手に持ち替えて少し前に押すような感じで抜いたところ、すっと抜けた、ナイフを右手で順手に握り、左側頭部の耳の後ろ付近を四回位突き刺した旨供述して、二回目に刺すときにナイフを利き手である右手に持ち替えたと供述を訂正し、その理由として、一回刺したときに被害者がドアの方へ身を寄せた意識があり、左手では刺しづらく、右手を使ったような感触を思い出したと述べるとともに、刃の向きについて詳細な供述をしている、また、被告人は、二月五日付け警察官調書においても、ナイフを左手で順手に握り、刃を体より外側に向けて横にし、左頚付け根を思い切り刺した、次に、ナイフを右手で逆手に握り、刃を外に向けて頚を狙ったが、肩付近に深く刺さった、ナイフが抜けないので、左順手に握り替えて抜いた、ナイフを右手で順手に握り、左耳の後ろから上方にかけて四、五回刺したとして同旨の供述をしていると要約した上、<1>被害者の殺害方法についての被告人の供述は、一、二回目に左頚付け根付近を狙い、その後に左側頭部付近を四、五回刺したという順序については概ね一貫しているものの、途中から、二回目に刺したときにナイフがなかなか抜けなかったという供述が加わり、さらに、ナイフを左手から右手に持ち替えた時点の供述が変遷するとともに、刃の向き等の供述内容が次第に詳細になっている、<2>被告人は、二回目に被害者の肩付近を刺したときにナイフがなかなか抜けず、これを抜くときにナイフが曲がったのではないかと思う、その後、被害者の後頭部付近を四、五回刺したが、ナイフが曲がっていることに気付いたのは、本件タクシーから降車して逃走するときである旨供述する一月三〇日付け警察官調書(乙一一)、一月三一日付け検察官調書(乙二〇)における自白は、加害者が左肩付近をナイフで刺した後、被害者が防御態勢に入ると、ナイフが鎖骨の一部分に引っかかって抜けにくくなる可能性があるとの永田証言に符合するものであるが、被害者の左肩部の刺切創は、創洞の深さが約九センチメートルであるのに対し、本件ナイフの刃体の長さは一二・四センチメートルであり、創洞の深さと刃体の長さが一致していない点において疑問がある、<3>右自白によれば、被告人が被害者の左肩部を刺したときにナイフが抜けなくなり、被告人の体の方に押したり引いたりして引き抜いたとされているが、被害者の左肩部の創口はそれほど乱れていない上、永田の証言によれば、鎖骨には刃物が引っかかったときに生じるであろう傷跡がなかったことが認められ、右の自白は、被害者の創傷の形状等と矛盾している、<4>永田証言には、ナイフが被害者の体内から抜けにくなったのは、刃体の終端部分の角が鎖骨に引っかかったためと思われるという部分があるが、他方、同証言によれば、左肩部の創洞は、皮膚表面からほぼ縦軸に沿って真っ直ぐに入り、皮膚表面から肺の先端部までが約九、一〇センチメートルであることからすると、本件ナイフの刃体の長さに照らし、刃体の終端部分が鎖骨の下まで入り込むという状態にはならないのではないかと考えられる、また、仮に右のような状態になったとすれば、本件ナイフの柄部には、創傷に接着するなどして被害者の血液が付着し、刃体の曲がった部分と柄部との隙間部分等にまで血液が入り込む余地があるものと思われるが、右部分には血液の付着が認められないのみならず、血痕すら検出されていない、そうすると、本件ナイフの刃体が根元まで創洞に入ったことを認めるに足りる証拠はないというべきであり、そうであるならば、左肩部を刺したときに本件ナイフが抜けなくなるほど被害者の体内に深く入り、これを引き抜くときに刃が曲がったと思う旨の自白は、客観的合理性に欠けるものといわなければならない、<5>右自白によれば、被告人は、本件ナイフが曲がったことに気付かないまま、さらに被害者の後方からその左耳付近を四、五回刺していることになるところ、被害者の刺切創は、創洞がいずれもほぼ同一の内下方に向いているが、途中で刃体が著しく曲がったナイフを用いた場合に、同一方向の刺切創が生じるであろうか疑問である、本件ナイフの刃体が柄部の付け根部分から左側に約二八度も曲がっていることに照らすと、仮に被告人が曲がったことに気付かないまま本件ナイフを用いたとすれば、刃先が左方向にそれてしまいそうであり、永田証言にも、刃体が曲がっていることをある程度認識して刺さなければ、被害者に生じたような刺切創を生じさせるのは困難であるという部分がある、そうすると、本件ナイフを用いて被害者の刺切創と符合するような創傷を生じさせるには、少なくとも、犯人において、ナイフが曲がったことを認識した上で、持ち方や角度を工夫しなければならなかったはずであるが、自白中にはそのような供述は全くない、また、刃体の曲がったナイフを用いれば、刃先が脇にそれるなどして、曲がっていないときとは刺したときの手応えが違うはずである、そうすると、被告人が、本件ナイフで四、五回も被害者を刺していながらも、刃体が曲がっていることに気付かなかったというのは、たとえ被告人が犯行の際に興奮していたことを考慮しても、極めて不自然であるといわざるを得ないとし、結局、本件ナイフの刃体が曲がった時期と被害者に刺切創を加えた時期との前後関係は明らかでなく、この点に関する被告人の供述は不自然、不合理であり、したがって、それを前提とする犯行の態様に関する被告人の供述には矛盾があり、その信用性を強く疑わせるものといわざるを得ないと説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、殺害方法に関する供述に原判示のような変化があることはそのとおりであるが、被告人は、ナイフを持ち替えた時点については、一月三一日付け検察官調書(乙二〇)で、今、物差しを持って当時のことをよく思い出しながらやってみたところ、思い出したので訂正すると述べており、その他の点についても、取調べが詳しくなり、それに伴って当時の感触や記憶が喚起されたものと考えることができる。原判示<2>ないし<4>についてみるに、被害者の剖検結果によれば、左肩部の創傷(六)は、創洞の深さが約九センチメートルであるのに対し、本件ナイフの刃体の長さは一二・四センチメートルであるところ、永田が原審で証言するように、刃体の終端部分の角が鎖骨に引っかかるほど深くナイフが被害者の体内に刺入されたとすれば、成傷器の刃体の長さより創洞の深さの方が短いというのは了解困難であるばかりか、被害者の肺尖部に被害者にみられるものより、もっと大きな創傷ができるのではないかと考えられる。これらの点からすると、永田の右証言には、原判示<4>が指摘するとおりの疑問がある。しかしながら、前記3(八)(4)でみた康井ほか一名作成の鑑定書及び前記3(八)(5)でみた石山鑑定書の記載によれば、鎖骨に本件ナイフが引っかからなくても、また傷口がそれほど乱れていなくても、創傷(六)を生じさせた際に、被害者の体が動いたり、犯人が刺入角度と異なる方向の力を加えれば、本件ナイフが曲がり、抜けにくくなることが認められる。そうすると、原判示<3>指摘の被告人の供述、より詳しくは、被害者の左肩部を刺したときにナイフが抜けなくなり、右手で手前に思い切り曲げるように引いたが、何かに引っかかったようでなかなか抜けず、左手に持ち替えて少し前に押すような感じで抜いたところ、すっと抜けたという供述は、客観的合理性に欠けるものでないことはもとより、かえって、事後的に科学的な根拠が解明されているということができ、実際に体験した者でなければ語れない重要な供述とみるべきである。原判示<4>のうち、本件ナイフの柄部やこれと刃体の曲がった部分との間隙に血液が付着していないと指摘する部分は、石川ほか一名作成の鑑定書(甲一七)に照らして、誤りである。原判示<5>についてみるに、前記一の4(三)(1)でみたとおり、被害者の左側頭部の創傷(一)ないし(四)の創傷は、いずれも創角が後頭部側で鈍、顔面側で鋭で、創洞は内下方に向かっており、長さは創傷(一)(四)が二センチメートル、創傷(二)(三)が二・二センチメートルである。被告人の自白によれば、被告人は、本件ナイフが曲がったことに気付かないまま、さらに被害者の後方からその左耳付近を四、五回刺していることになるが、根元で曲がったナイフであっても、ナイフの刃体の方向と腕の長軸方向が平行状態になれば、変形していないナイフと同じような感覚で刺入作用を与えることができる旨の石山鑑定書(当審検九)中の指摘や、側頭部の四箇所の創について曲がったナイフで成傷行為に及んだとしても、夢中である場合には、犯人がナイフの曲がりに気付かないこともあり得るし、気付いても後からは思い出せないこともあり得る旨の勝又の当審証言は首肯できるから、原判示は相当でない。

以上検討してきたところに、前記二の6でみた被害者の受傷状況から客観的に推認できる犯行態様を併せて考察すれば、本件ナイフの刃体が曲がった時期は、被害者が左肩部の創傷(六)の傷を負ったときであり、被害者の側頭部の創傷(一)ないし(四)はその直後に曲がった状態の本件ナイフで与えられた刺切創であると認めることができ、原判決のいうように本件ナイフの刃体が曲がった時期と被害者に刺切創を加えた時期との前後関係は明らかでなく、この点に関する被告人の供述は不自然、不合理であるとはいえない。したがって、誤った前提に立って犯行の態様に関する被告人の供述の信用性を疑う原判示は是認できない。

(6) 原判決は、<1>被告人は、犯行後、本件タクシーの左後部ドアから降車し、車両後部を回って脇道を走って逃げた旨の自白をしているところ、降車の仕方についての自白は、一月一二日付け上申書においては、左後部ドアのボッチを上げてドアを手と足で開け、外に逃げたと供述し、一月一九日付け警察官調書でも、後部ドアのロックを開け、ドアを体当たりするようにして開けて逃げたと供述しているが、一月二〇日付け警察官調書においては、運転手が少しドアを開けてくれていたのではないかと思う、ドアのコックを指で引いて、わりと簡単に車から出ることができたと供述し、二月三日の実況見分でも、左後部ドアのコックを引いてドアを開け、外に出てドアを閉めずに逃げた旨の指示説明をしていると摘示した上、被告人は、左後部ドアの取っ手を指で引いて、同ドアから降車し、車両後部を回ったと供述しているが、同ドアの取っ手、同ドア付近及び車両後部付近には血痕がなく、他方、脇道に入ってから、犯人が落としたのではないかと思われる血痕が残されていて、犯人が車両内だけで被害者を刺したとすれば、犯人に被害者の血液が付着するのは車両内であることになり、そうであるならば、犯人の着衣等に付着した血液は、降車地点や車両後部など逃走の始点とされる部分にも滴下する余地があるものと考えられる、しかるに、本件現場付近では、右の部分には血痕がなく、逃走途中の脇道に入ってから血痕が存在しているのであり、被告人の自白は、右のような血痕付着状況を合理的に説明するものとはいえない、<2>被告人は、一二月二九日午前三時三〇分ころ丁田方に着いた旨自白し、逃走経路を詳細に供述しているが、逃走経路は迂回しており、本件現場から丁田方まで約三時間三〇分を要したこととされていると指摘した上、アこの点について、被告人は、一月三一日付け検察官調書(乙二〇)において、通常なら一時間半位で帰れる距離だが、休んだり、隠れたり、寄り道したりして時間が二倍位かかった気がすると供述しているが、これらを加味したとしても、わざわざ迂回した逃走経路を通り、通常よりはるかに時間がかかっていることには疑問が残る、イ土屋村の証言は、同人が、深夜、自転車で通行しながら男性を見たというものであり、男性の顔は見ておらず、男性は帽子をかぶっていなかったとするなど、その識別状況は不十分であり、右証言を被告人の自白の裏付けとするには足りないというべきであると説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、犯人の着衣や身体にそれほど血痕が付着していなくとも不自然とはいえない状況にあることは前記二の8でみたとおりである。被告人は原判示の指摘する供述や指示説明をしているが、一月三一日付け検察官調書(乙二〇)では、逃げる際、最初、タクシーのドアのロックを上げて逃げたのではないかと感じ、そのように話したと思うが、よく考えてみると、運賃を聞いた後、左後方から冷たい風が吹き込んできたのを覚えており、運転手が後部ドアを開けてくれたように思う、体でドアを開けてそのまま逃走した旨自ら従前の供述を訂正しており、そのとおりであれば、同ドアの取っ手、ドア付近に血痕が付着していないことを合理的に説明できないとはいえない。さらに、脇道の血痕が被害者に由来するものと認定できることは、前記二の7(三)でみたとおりであって、本件タクシーの後部付近の路上に血痕の付着のないことは、被告人が助手席側後部ドアから出て本件タクシーの後部を回って逃げたという供述と矛盾しない。したがって、被告人の自白が血痕付着状況を合理的に説明するものとはいえないという原判示は是認できない。原判示<2>のアについてみるに、被告人の逃走経路に関する供述は、本件現場から丁田方まで最短距離で急いで帰ったというものではなく、途中で側溝に降りて手を洗ったり、休憩をとったり、交番があることに気付いて引き返したり、人に会わないように気を遣ったりして複雑な経路を辿ったというのであり、さらには、丁田方のある親交荘に着いてからも、防寒ジャンパーの両袖口を二〇分位水洗いしたというのであって、迂回した経路を通ったことや、通常よりはるかに時間がかかっていることに疑問は生じない。同イについてみるに、土屋村は、小田原署が被告人が供述した逃走経路につき裏付け捜査をした結果、浮かび上がってきたものと認められ、前記3(九)(4)でみた同人の供述は、その目撃状況が十分であるとはいえないが、被告人の供述を裏付ける程度の証拠価値は有するものと考えられる。

(7) 原判決は、被告人は、一月二〇日付け警察官調書において、着衣の血痕付着状況につき、防寒ジャンパーの左袖口に、手をつたって流れた血が付いていた、特に掌に二センチメートル位の円形になった血の跡が付いており、手の甲の袖口の上方にもあり、両腕にも血が飛び散った跡が点々と見られた旨供述し、着衣を洗浄した状況につき、丁田方の流しで手を洗い、六畳間の炬燵に入って雑巾で防寒ジャンパーの袖口から腕の部分を拭き、汚れた雑巾を洗うことを五回位繰り返した、酒を少し掌に出し、指ではたくようにして血の付いた場所にしみ込ませ、雑巾でこすった旨供述している、ところが、一月二七日付け上申書(乙四一)では、防寒ジャンパーの左袖口の表と裏に三センチメートル×一センチメートル、右袖口の表に二センチメートル×三センチメートル、表面に擦れたように血が付着していたなど、袖口の血痕付着状況について微細にわたって供述するとともに、初めて、親交荘の風呂場横の流し場でジャンパーを脱いで袖口を二〇分位水洗いした旨の供述をし、さらに、丁田方の流しでジャンパーを脱いで袖口を一〇分位石けんで揉み洗いした旨の供述をする一方、両腕、胸などには目につく血は付いていなかったように思うと供述している、また、一月三〇日付け警察官調書(乙一二)においても、親交荘の外にある共同洗面所で、防寒ジャンパーを脱いで両方の袖口を二〇分位水洗いした、さらに、丁田方の流しでジャンパーを脱いで両袖口を石けんで一〇分間洗った、両腕の部分にも血が付いていてはいけないと思い、雑巾で拭いた旨の供述をしている、他方、一月三一日付け警察官調書では、両腕の部分に血が点々と飛び散っていたと思ったが、実際には、汚れであったり、共同洗面所で袖口を水洗いした時に飛び散った水であり、雑巾で拭き取って始末した旨供述していると摘示するとともに、このように、着衣の血痕付着状況及び洗浄方法についての自白は転々と変遷し、結局のところ、それほど多くの血痕が付着していなかったとされるとともに、洗浄方法が長時間で丹念なものとなっていると要約した上、<1>車両内及び本件現場付近の血痕付着状況にかんがみると、被告人が犯行後着衣を着替えたことが認められないにもかかわらず、着衣等に全く血痕が付着した痕跡がないのは極めて不自然である。しかも、自白によれば、ジャンパーの袖口部分にわずかに血痕が付着したというだけであり、その程度の血液の付着によって、犯人の逃走経路と思われる脇道に四三・五メートルにもわたり被害者の血液が滴下しているという状況を合理的に説明することは困難である、<2>被告人は、松田署における取調べでは、側溝で手を洗ったことについて何ら供述していないが、一月二〇日付け警察官調書において、たばこ屋の前に六、七〇センチメートル位の幅の溝で、水が流れている場所があり、その溝に降りて水の流れをまたぎ、そばにあった土を石けんがわりにして手に付いている血を洗い落としたと供述し、さらに、一月三一日付け検察官調書(乙二〇)では、たばこ屋の脇を流れる小川のような側溝に飛び降り、砂や泥と一緒に水を汲み上げ、手をこすって何度か洗ったと供述し、二月三日の実況見分において、小田原市南町<番地略>入江たばこ店前の排水溝を指示し、ここで手を洗った旨説明しているが、被告人が指示した排水溝は、幅が約二メートル、歩道までの高さが約一・五二メートルであり、身長一五三センチメートルの被告人が、深夜単独で右排水溝に降り、その後歩道に上がるという動作をするのは容易ではないと思われるが、その時の状況は何ら具体的に供述されていない、また、排水溝の周囲の歩道、コンクリート、岩などに血痕が付着していたとの証拠もない、しかも、排水溝の水の深さは、実況見分時には約八センチメートルあり、およそ水の流れをまたぐという表現とは合致しない、これらの点に照らすと、側溝で手を洗ったという供述は、にわかに信用することができないと説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、犯人の着衣にはそれほど血痕が付着していなくても不自然とはいえない状況にあったことは前記二の8でみたとおりであり、被告人の供述によれば、両袖口を洗ったり、防寒ジャンパーを雑巾で拭いたりしたというのであるから、前記3(四)(3)でみた実験結果も併せ考えると、被告人が逮捕時まで着用していた防寒ジャンパーその他被告人の着衣から被害者の血痕が全く検出されていないとしても、不自然、不合理であるとはいえない。脇道の血痕が被害者に由来するものと認定できることは前記二の7(三)でみたとおりであり、脇道の血痕を根拠に犯人の着衣等に対する血液付着の程度を論ずるのは相当でない。着衣の血痕付着状況及び洗浄方法についての被告人の供述は、全体として次第に詳しくなっているが、これは、それらの点に関する被告人の取調べが不十分であるとみた捜査官が被告人を追究した結果であると考えられ、これに格別の意味を持たせるのは適当でない。原判示<2>についてみるに、松田署が小田原事件を本格的に取り調べたわけでないことは、古賀博憲及び高橋和彦の各原審証言その他関係証拠から明らかであって、逃走経路の一こまにすぎない側溝で被告人が手を洗ったとの供述が録取されていないことは、問題とするに足りない。実況見分調書(甲二六)によれば、被告人が指示した側溝には歩道から三二センチメートル下がったところに足場があり、歩道から一二センチメートル下がったところに側溝を横切る水道管もあって、被告人でも降りたり上がったりするのに困難な場所とは思われない。側溝の周囲に血痕が付着していなくとも、被告人が右供述をした時期が事件後かなりの日数が経っていることも考慮すれば、不自然ではない。側溝の状況が被告人の供述に合わないという原判決の指摘は、側溝で手を洗ったという供述の信用性を左右するほどのものではない。

(8) 小括

被告人の自白に不合理な点があるという原判決の指摘は、それぞれの箇所で説明したように是認できない。そして、被告人の自白には、原判決が指摘するような点において変遷している部分があり、松田署における供述内容と小田原署における供述内容との間に食い違う部分や、小田原署による捜査の進展に伴って新たに判明した事実に沿って、供述内容が訂正され、次第に詳細になっている部分のあることは原判示のとおりであるが、それらは、それぞれの箇所で検討したとおり、捜査官の不当な誘導、暗示によって供述内容が変遷したのではないかと疑わしめるようなものではなく、被告人の自白全体の信用性を損なうほどのものとは考えられない。

5  体験供述の有無

(一) 原判決は、被告人の自白には「被害者の首を刺し、被害者が叫び声を上げながら運転席のドアに倒れかかったとき、背筋にぞーっという寒けがはしり、思わず後部座席に腰を降ろしてしまった」「逃げるとき被害者を見ると、体を前に起こし、タクシーから出て俺を追いかけて来るような仕種をしていた」「交番の赤燈が見え、びっくりして立ち止まり、かまぼこ店の手前を右折した」など、迫真的な供述が随所に存するが、これらの供述は、いずれも抽象的であったり、その性質上証拠による裏付けを要するものではなく、犯人でなければ供述できないものとはいえないし、被告人は、タクシー会社だと思っていたところが自動車の修理工場だったと供述したり、詳細かつ具体的な逃走経路を供述しているが、これらの供述は、周辺に土地勘さえあれば供述することが可能なものであり、これらの供述をもって、直ちに自白の信用性を高めるものとはいえないと説示している。

しかしながら、原判示が例示する三つの迫真的供述は、その性質上裏付けを要するものでないことは原判示のとおりであるにしても、抽象的であるとの評価は失当であり、とりわけ修理工場や逃走経路に関する供述は、被告人に土地勘があっても被告人が自発的に供述しなければ捜査官には分からない事柄であり、いずれの供述も被告人の心理描写を伴っていて、犯人でなければ供述できないような迫真性を備えている。原判決の前記説示は是認できず、かえって、その他随所にみられる供述の迫真性は被告人の自白の信用性を高めているということができる。

(二) 原判決を、<1>なぜ、脇道の血痕が本件ナイフの発見地所まで続かず、途中で途切れているのか、路上に運転日報が放置されていたのかについては、客観的状況からは解明されていないものであるところ、これらについての供述はない、<2>刺傷行為の途中でナイフが曲がったというのは特異な体験であると思われるのに、被告人は、本件ナイフが曲がったことに気付いた時期について、一月三〇日付け警察官調書(乙一二)で供述するまで、何ら供述していない、<3>自白には、小田原事件と、その三日後に発生した松田事件とのつながりについて、被告人の心の動き等を供述する部分はない、すなわち、被告人が小田原事件の犯人であるとすれば、その後どのような気持ちで過ごしたか、なぜ、逃げずに小田原周辺にとどまり、知人方を訪れていたのか、小田原事件を犯したことと、松田事件を犯したことはどのように関連するかなどにつき、被告人の心情等を具体的に供述した部分はほとんど存在しないと説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、前記二の7(三)でみたとおり、脇道の血痕も運転日報の路上放置も、被害者の行為に由来するものと考えられ、これらの点につき、被告人の供述がなければ不自然であるかのようにいう原判決は相当でない。原判示<2>についてみるに、被告人は、既に一月一九日付けの警察官調書において、二回目に刺したときに自分の体を運転席の後ろの方によじり抜いているが、そのときに曲がったような気がすると供述している上、本件ナイフが曲がったことに気付いた時期について、一月三〇日付け調書に至るまで記載がないことに格別の意味を持たせるのは相当でない。原判示<3>についてみるに、被告人は、一月一五日付け警察官調書(乙四六)においては、一二月二九日朝丁田の家を出てから、パチンコをやって稼いでから遠くへ逃げようと思った、その後御幸の浜に行って早川港の方を見ながら、何ということをしてしまったのかなあなどと考え、ボーッとしていた旨、同日付け検察官調書では、一月一〇日の検査調べのときに松田事件の動機については真実を聞いたとは思っていないとはっきり言われ、警察や検察庁はどこまで小田原事件のことを知っているのだろうかと思った、それまでの調べでは小田原事件のことは聞かれず、一二月二八日の行動を聞かれたときは、ドキリとしながら真実を言えなかった旨、一月三〇日付け警察官調書(乙一二)では、一二月二九日のこととして、事件を起こした後ですから、どこかへ逃げて行きたいという気持ちはありましたが、逃げて行くには金も少ないし、行った先で困るので、パチンコで儲けたらという気持ちになったが、もののみごとに全部とられてしまった、武井方から姉に電話するとき、運転手の苦しそうな顔と声、流れる血のことを思い出せば恐ろしくなり、人を殺してまで金をとろうとしたがとれなかったことを思うと、こんなことならはじめから姉に送金をお願いすればよかったと思った、逃げるに逃げられず、武井に借金をして小田原にとどまることにした旨供述しており、原判示の点に関し被告人の心情等を具体的に供述した部分がないとはいえない。松田事件との関連についての供述が少ないのは、松田事件の捜査が先行して一応終了していたことを考慮すると、問題視するほどのことではないと考えられる。

6  自白と客観的証拠との整合性

原判決は、被告人の自白は、本件ナイフを凶器として使用し、犯行後これを投棄したこと、被害者を刺した部位、回数、刺した時の姿勢、刃の向き等について、犯行の客観的状況とおおむね一致しているとした上、<1>本件ナイフは、犯行発覚直後に発見されており、被害者の刺切創の状況についても、被害者の解剖結果等により、既に捜査官が把握していたことである、<2>林崎正美の警察官調書、鑑定書及び捜査報告書(甲九一、八一)によれば、平成元年一月二五日、本件タクシーの乗車地点や走行経路についての自白に則して自動車を走行させ、その走行距離、所要時間等を実測したところ、右実測に供した自動車のタコグラフのチャート紙のパターンは、本件タクシーのタコグラフのチャート紙のパターンとおおむね合致したことが認められるが、既に、同月二三日には戸叶鑑定書(甲八五)が作成されていることからすると、捜査官は、右実測前に、本件タクシーの走行距離や所要時間を把握していたというべきであるから、本件現場からの所要時間から逆算すれば、本件タクシーの乗車地点を算出し得るものである、また、本件タクシーが西湖バイパスを経由したことも、予め捜査官が把握していたことであるとし、被告人の自白には、このように、一見具体的で客観的証拠と符合している部分が多く含まれているようではあるが、あらかじめ捜査官の知り得なかった事項で、自白に基づいて捜査した結果、客観的事実であることが確認された、いわゆる秘密の暴露に相当するものは見当たらず、むしろ、捜査の過程で判明した客観的事実に符合するように供述が訂正されていることがうかがわれる、そうすると、自白に客観的証拠と符合する部分があることをもって、直ちに自白が信用性を有するものということはできないと説示している。

そこで、原判示<1>についてみるに、古賀博憲(第二六回)及び高橋和彦の各原審証言その他関係証拠によれば、松田署においては、小田原署から資料の提供を受けたことはなく、松田署の取調官は、本件ナイフを見たことはなく、被害者の負傷状況や、本件現場、本件タクシー内の血痕付着状況なども十分には把握していなかったとうかがえるところ、被告人は、前記1(四)でみたとおり、一月一二日の上申書において、本件タクシー内で犯行に及んだこと、被害者の首の付け根付近や左耳の上辺りを刺したこと、本件ナイフは刃元で曲がっていることを既に供述していて、本筋において客観的な状況に合致する供述をしていることが認められる上、その後、前記4(二)(5)でみたとおり、被告人が創傷(六)を加えた際のこととして特徴的な供述をし、これが当審における事実取調べの結果によって初めて合理的に説明されるに至っていることなどを考慮すると、捜査官が客観的状況の大要を把握していたことを重視するのは相当でない。原判示<2>についてみるに、本件タクシーのタコグラフチャート紙が解析されていたこと、本件タクシー内には西湖バイパスを走行した際の領収書が残されていたこと、これらが捜査官に把握されていたことなどは原判示のとおりであるが、被告人の供述した経路が本件タクシーの走行状況とほとんど合致したという結果は、相応の証拠価値を有するものというべきである。そして、被告人の自白には、秘密の暴露とまではいえないものの、前記3(一)(4)、(三)(2)、(五)(2)ないし(5)、(六)(2)ないし(4)、(七)(3)、(八)(4)、(九)(3)(4)でみたとおり、捜査の結果、いくつかの裏付け証拠が得られており、個々の証拠の証明力はそれほど高くはないが、それが重なることで無視できない証拠価値をもつに至っている。また、原判決が指摘するところの、本件ナイフを凶器として使用し、犯行後これを投棄したこと、被害者を刺した部位、回数、刺した時の姿勢、刃の向き等以外にも、被告人の自白は、多くの点で、犯行の前後を含む客観的状況と合致している。他方、捜査の過程で判明した事実に符合するように供述が訂正されている部分もあり、それらについては、客観的証拠と符合するからといって直ちに自白全体の信用性を高める根拠にはならないが、訂正されているものも含め客観的証拠と符合する供述全般について原判示のようにいうのは相当でない。

7  裏付けとなるべき物的証拠の有無

(一) 原判決は、<1>サンダルにつき、被告人は、一月二四日付け各上申書において、一二月二八日、丁田方を出るときはサンダルを履いていたが、犯行後、丁田方に帰ったときはスリッパを履いていた、逃げる途中、たばこ屋の前のどぶ川に入り、水が深かったのでサンダルや靴下が濡れた、白山中学校横の岩の穴の中に隠しておいたスリッパに履き替え、サンダルをゴミ捨て場に捨てた旨供述し、一月二九日付け警察官調書において、一二月二六日、丁田方に行く途中、五百羅漢保育園の前、白山中学校体育館側の道路に捨ててあったサンダルを拾い、これに履き替えた、サンダルの指先やかかとは一部はがれていた、今まで履いていたスリッパを五百羅漢保育園のそばの穴の中に隠した旨供述し、同日付け上申書ではサンダルの図面を描いている、そこで、捜査官は、被告人が投棄したというサンダルを捜索したものの、発見されなかった、被告人は、捨ててあったサンダルに履き替えた理由について、スリッパは足先が蒸れるからであると説明しているが、ごみ捨て場から一部はがれているサンダルを見付けてこれに履き替え、自分が履いていたスリッパをわざわざ洞穴の中に隠したというのはいかにも奇妙であり、犯行後、再びスリッパに履き替えたというのもまた不自然である、加えて、角田要二証言によれば、平成元年二月三日の実況見分の際、捜査官は被告人に履物を履き替えた場所の指示を求めず、被告人も当該場所を指示しなかったこと、前記のとおりサンダルが発見されていないことを併せ考えると、スリッパをサンダルに履き替え、犯行後サンダルを投棄してスリッパに履き替えたという自白は、極めて疑わしいというべきである、安藤の警察官調書によれば、白山中学校西側の体育館裏の西側道路脇は、被告人の供述どおり、犯行当時、事実上ごみ捨て場になっていたことが認められるが、被告人が付近の地理に精通していれば、ごみ捨て場の位置は知り得たはずであるから、右事実をもって、スリッパをサンダルに履き替えたことなどについての自的の信用性が補強されるものとはいえない、<2>ハンカチについて、被告人は、一月二〇日付け警察官調書において、一二月二九日の朝、顔を洗ってハンカチで拭くとき、ハンカチに血が付いているのに気付いたので、ハンカチを網状の覆いのある排水溝に網の穴から押し込んで捨てた旨供述している、そこで、捜査官は、被告人が指示する排水溝を一四〇メートル位の範囲にわたり川への流入口まで捜索するなどしたが、ハンカチは結局発見されなかった、この点について、捜査報告書(甲三二七)には、排水溝には二十数センチメートルの増水の跡があったため降雨量調査をしたところ、捜索の前々日に多量の雨が降ったことが判明し、そのためにハンカチが流されてしまったのではないかと考えられるという記載があるが、排水溝を捜索した時点において、排水溝の水の深さは、浅いところで二センチメートル、深いところで五センチメートルにすぎず、流れはちらちらという状態だったものである上、増水の跡が前々日の降雨によるものであるか、前々日の降雨により水位がどの程度上がったのかは明らかではない、いずれにせよ、ハンカチの未発見理由は、直ちに首肯できるものではなく、捜索に従事した岡別府巡査部長でさえ、未発見理由として、被告人がハンカチを排水溝に投棄しなかったということも考えられると供述している、さらに、岡別府の原審証言及び捜査報告書(甲三二六)によれば、ハンカチの入手先や入手方法についての被告人の供述も裏付けがとれなかったことが認められる、以上のように、投棄されたサンダルやハンカチについては、客観的証拠による裏付けが欠けており、しかも、それが発見に至らなかった理由について、首肯すべき事情が認められない、加えて、これらはいずれも、所持金や本件ナイフの入手先と同様、もともとは丁田の供述に由来するものであることにかんがみると、取調官から丁田の供述を基にして執拗に追及され供述に窮した被告人が、ことさらに虚偽の供述をしたのではないかという疑いを払拭することができないと説示している。

そこで検討するに、被告人が犯行後捨てたと供述するサンダルやハンカチが発見されていないことは原判示のとおりであり、被告人のそれらの点の供述に物証が伴っていないこともそのとおりであるが、履物の履き替えに関する被告人の供述が原判示のような理由で極めて疑わしいとは考えられない。ハンカチの入手先や入手方法に裏付けが取れなかった点については、前記4(二)(4)で原判示<3>についてみたところと同様に考えるべきである。また、サンダルやハンカチの処分状況が被告人の供述するとおりであるとすれば、前記(三)(2)(3)、(二)(2)でみた状況に照らし、これらが発見されなかったのも無理はないと考えられる。そうすると、サンダルやハンカチが発見されなかった理由について首肯すべき事情が認められないとか、取調官から丁田の供述を基にして執拗に追及され、供述に窮した被告人が、ことさら虚偽の供述をしたのではないかという疑いを払拭することができないなどとはいえず、原判示は相当でない。

(二) 原判決は、本件吸殻をもって直ちに被告人が車両内に落としたものということはできないと説示し、弁護人は、当審弁論において、前記3(七)(6)でみた鑑定結果により、本件吸殻の存在をもって被告人と犯行を結びつける証拠とすることができないことが明らかになったと主張している。ところで、吉井の当審証言、文献の抜粋二通(当審検六二、六三)など関係証拠によれば、ミトコンドリアDNA鑑定については、当初に付着していたDNAが湿気などの影響を受けて分解することがあり、他方、採取、取扱い、保管状況いかんによっては、ほかの人のDNAが付着して汚染されることがあることが認められる。浜辺毅洋の当審証言によれば、本件吸殻について、DNA鑑定を前提とした採取、取扱い、保管方法が採られていなかったこと、浜辺は、本件吸殻につき、唾液の付着の有無及びその血液型の鑑定を行った際、吸い口から約五ミリメートル程度切り取り、鑑定後、茶色フィルター紙の切断部分については廃棄したことが認められ、本件吸殻がタクシーの床上にあったものであること、採取された昭和六三年一二月二九日から平成九年九月二二日に吉井鑑定人に引き渡されるまでの時間の経過も考慮すれば、吉井鑑定に供された鑑定資料には当初から皮膚片様物がそれほど付着していなかった可能性がある上、当初に付着していた皮膚片様物のDNAも、分解するとともにほかの人のDNAによって汚染された可能性がないとはいえない。そして、吉井証言によれば、当初付着のDNAの量と他人のDNAの量が一対四程度の比率を越えると、当初付着のDNAが検出されないことが認められる。これらの点に照らせば、本件吸殻から被告人のDNAが検出されなかったことから、弁護人のようにいうことはできないというべきであるが、結局のところ、本件吸殻が被告人の吸ったものであるか否かは不明であるということになり、本件吸殻の物的証拠としての証拠価値は減殺されるに至っている。したがって、本件タクシー内でハイライトを二本吸ったという被告人の供述は証拠価値の高い物的証拠の裏付けを欠くことになるが、もともと本件タクシー内にあったハイライトの吸殻は本件吸殻一本しかなかったのであって、取調官が本件吸殻を基に二本のたばこを本件タクシー内で吸ったという供述を引き出した疑いは生じない。

8  被告人の公判供述との対比

被告人は、原審及び当審において、一二月二八日夜、丁田方から外出したことはなく、朝まで丁田と一緒に過ごしたとして、アリバイを供述するとともに、捜査段階の自白はすべて取調官から教えられたもので虚偽であると供述している。

しかしながら、これまでみてきたように、被告人の捜査段階の自白は、任意性に全く問題がなく、具体性、迫真性に富むものであって、取調官が誘導ないし暗示をして、被告人からそのすべてを引き出せるように内容のものとはみられない。虚偽の自白をしてしまった理由について被告人が弁護するところは、しどろもどろであって、合理性に欠け、了解し難いといわざるを得ない。また、警察官多田文五の原審証言及び捜査報告書(甲二七)によれば、被告人は、本件現場での指示説明を終えたとき、ここで黙祷をさして下さいと申し出て黙祷したことが認められ、また、江南交通の営業所長石田新吉の原審証言によれば、犯行状況を再現する実況見分が終了した際、被告人が同人のところに来て、すいませんでしたと言って頭を下げたので、どうしてくれるんだ、乙川君はもう二度と帰ってこれないじゃないか、随分ひどいことをするなと言ったところ、被告人はずっと頭を下げていたことが認められるが、これらの点についての供述の弁解も、十分な説明にはなっていない。他方、被告人は、アリバイについて、二八日松田町の武井始のところに行って一万円を借り、午後七時過ぎ、新松田駅から電車に乗って足柄駅に着き、パチンコをした後、徒歩で、午後八時ころ丁田方に帰った、その後は、丁田が釜山亭に行って持ってきたおにぎりを食べたりして、そのまま翌朝まで炬燵で寝たと供述するが、武井始、岩崎フク及び甲山花子の各検察官調書(甲二二〇、二七二、二七三)など関係証拠によれば、被告人が武井方に行って一万円を借りたのは二九日夕刻であったことが認められる。また、牧田重夫の警察官調書(甲五二)、丁田の牧田組での同僚である佐々木敏雄、斉藤弘彦及び三浦富栄の各検定官調書(甲四八、五〇、五一)など関係証拠によれば、二八日は仕事納めであり、社長の指示で、やぶ栄で食事をした後、午後六時ないし六時半ころに釜山亭に集合した上、丁田を除き、皆でスナックに飲みに出かけたことが認められ、その日は被告人が来ていたので仕事納めの行事には参加しなかった旨の丁田の供述を裏付けている。被告人は、武井方には二八日にも二九日にも行って金を借りたと供述したり、二八日だけであると供述したり、その供述には一貫性がないだけでなく、被告人の公判供述を通覧すると、二八日に帰ったとき、丁田は布団に座ってみかんか何かを食べていたと供述した直後に、忘年会でいなかったと供述するなど、記憶に基づいて真摯に供述しようとしているようには見受けられない。これらに、二八日夜被告人が出かけ翌二九日午前三時過ぎないし三時半ころに帰って来たとする丁田の供述を加えて考察すると、被告人のアリバイ供述は信用できないというほかない。

9  まとめ

以上検討してきたところによれば、被告人の自白には、厳密には、秘密の暴露とみるべきものはなく、物的証拠による直接の裏付けはないが、被告人の供述内容は、客観的な状況から推認できる事実について前記二でみたところに符合する上、犯行の態様という核心部分について、被害者の受傷状況、遺留された本件ナイフの形状などの客観的証拠から科学的に論証できる供述を含んでいる。また、その重要部分について、基本的に信用し得る丁田の供述による裏付けがある上、犯行の動機、犯行に至る経緯、犯行後の状況などについても、捜査の結果に裏付けられている部分がある。そして、被告人の供述には、実際に体験した者でなければ語れないような迫真性のある供述が随所にみられる。これに、前記1でみた被告人の供述経緯や、被告人の公判における弁明に説得力のないことを併せ考えると、原判決が指摘するような変遷があることなどを考慮しても、被告人の自白の信用性に疑いは生じない。被告人が取調官に執拗に追及された結果、その場を逃れるために取調官に迎合し、あるいは自暴自棄になって、虚偽の自白をしたのではないかとの原判決の疑いは否定することができ、小田原事件の犯人であるとの被告人の自白は十分に信用することができる。

五  結論

以上の次第で、本件は物証に乏しい事案ではあるが、丁田の供述は基本的には信用することができ、被告人の自白は、任意性に全く問題がなく、丁田の供述のほか、客観的証拠や種々の鑑定結果、裏付け捜査の結果などと併せて考察すれば、信用性も十分に肯定できる。被告人が犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地がない程度に証明されているものと認めることができる。したがって、小田原事件の公訴事実については犯罪の証明がないとして被告人を無罪とした原判決には事実の誤認があるといわざるを得ない。検察官の論旨は理由がある。

第三  松田事件

一  本件の客観的状況について

被害者丙村二郎(以下「被害者」ともいう。)の身上関係等、被害者の所持金、本件現場の状況、火災の発生、火災後の宿舎と焼死体の状況、被害者の受傷状況、成傷器及び死因、被告人の逮捕に至る経緯、所持金品など本件をめぐる客観的な状況については、以下のとおりである。

1  被害者の身上関係等、被害者の所持金

丙村二郎の戸籍謄本(甲一五七)、捜査報告書(甲一七五)、樋川眞喜雄、手塚一、大石一夫、大橋孝信、田村貞夫、猪瀬政夫及び仲谷長三(二通)の各警察官調書(甲一八九、一九二ないし一九八)など開係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 被害者は、昭和四七年に結婚し、子供を三人もうけたが、昭和五七年に協議離婚し、昭和五八年ころから神奈川県足柄上郡大井町上大井所在の多門建設株式会社に勤務し、作業員宿舎(以下「宿舎」ともいう。)に単身で居住していた。被害者は、正月や盆も宿舎で過ごすのが通例であり、昭和六四年の正月も宿舎にいるとかねてより同僚らに話しており、本件発生当時、他の作業員の帰省後も一人で宿舎に滞在していた。

宿舎には、昭和六三年一一月五日ころから一二月一九日まで被告人も居住しており、同じく宿舎に居住していた同僚の大石一夫らがみるところでは、被害者は被告人と仲が良いようであった。

(二) 被害者は、昭和六三年一二月二九日、多門建設から掛け買い分を差し引いた給料八二円を支給され、三万円を前借りし、同僚から借金をするなどして、合計五万八二円の収入があり、飲食代等に費消した分のあることを計算に入れても、本件発生前には少なくとも約二万七七五二円の所持金を有していた。

2  本件現場の状況と火災の発生

実況見分調書(甲九六、九七)、「領置物件の写真撮影について」と題する書面(甲一三六)、中村隆志作成の鑑定所(甲一四五)、川畑博一の検察官調書(甲一六〇)、大島久佳及び加藤和美の各警察官調書(甲一六九、一七〇)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 宿舎は、JR御殿場線上大井駅から南南西約二〇〇メートル、三嶋神社から東北東約一四〇メートルに位置している。

(二) 宿舎は、多門建設の敷地四三三平方メートルの南西隅にあり、横一二・六メートル、縦五・四メートルの軽量鉄骨平屋建で、外壁はトタン、内壁はベニヤ板であり、東側二箇所に二枚引サッシ戸の出入口がある。

宿舎の内部は、ベニヤ板で間仕切りされており、南側から、現場作業員の櫻庭達及び中田和実が居住する九畳大の居室、一二畳大の台所兼食堂、被害者が居住する一〇畳大の居室、神谷長三が居住する九畳大の居室になっている。

(三) 川畑博一は、昭和六四年一月一日午前零時三〇分ころ、初詣の帰途、自宅西側の多門建設の方向から煙が立ち上がっているのを発見し、付近に住む瀬戸カツ子に一一九番通報を依頼した。消防署員は瀬戸からの通報を受け、現場に急行して消火作業にあたり、同日午前零時四八分ころ鎮火したが、宿舎は全焼し(以下「本件火災」という。)、宿舎内から被害者の焼死体が発見された。

3  本件火災後の宿舎と焼死体の状況等

(一) 宿舎の屋根、外壁等建物の枠組はおおむね残っているが、東側では、二箇所の出入口サッシ戸はいずれも全壊してはずれ、台所兼食堂出入口の上部にある外壁及び同所から一〇畳大居室に至る外壁はなくなっていた。西側では、四箇所の腰高窓のうち、一〇畳大居室の窓が外枠のみを残し、その上部の外壁はなくなっており、一〇畳大居室から台所兼食堂に至る外壁は上部から下部にかけてピンク色に燻焼するなどしていた。

(二) 宿舎内部は全焼し、黒く焼きはがれ、各部屋の間仕切りの板壁は一部焼燬落下していた。

(三) 台所兼食堂は、灯油の臭気が強く、南側及び北側の間仕切り壁は全焼炭化していた。

台所兼食堂の中には、出入口から南西方向約六〇センチメートルの床上に、頭部を南南西、下肢を北北東に向けた状態で被害者の焼死体があった。死体の頭頂部は、南側壁面から約四五センチメートル、東側壁面から約一一五センチメートルに位置し、右足膝が出入口直近から約五五センチメートルに位置していた。死体の上には、全身を履いかぶすように縦八九センチメートル、横一八〇センチメートル、厚さ二ミリメートルの外壁トタンがあり、トタンを取り除くと死体は仰向けであった。死体の顔面から左上腕にかけて、折り畳んだ状態の折り畳み椅子がのっており、椅子の座席部分で顔面が隠れていた。死体の右肘は落下したガスコンロの空間部分に入っており、大腿部前面には上辺が欠落したアルミサッシの先端部がのり、左足内側大腿部には区切りサッシ枠の先端部が接していた。股下には、ビール缶などが散乱していた。南側壁付近から四五センチメートルないし九八センチメートル離れた床面の五箇所に血痕が付着し、これらの血痕はいずれも人血で、血液型はA型であった。

死体頭部及び下部付近には灯油臭のある黒色炭化した細粒があり、死体付近床面からも灯油臭がした。死体の頭部南側付近は強く焼燬炭化していた。

台所兼食堂の出入口南端から北西方約一二〇センチメートル、死体の左側に石油ストーブがあった。死体付近には、東側壁から二〇センチメートル、南側壁から八〇センチメートルの位置に溶解した赤色、白色及び薄緑色のポリ容器様のものが並んでいた。流し台の水道の蛇口からは水がかなりの勢いで出ていた。

(四) 廊下部分には、台所兼食堂東側出入口と一〇畳大居室東側出入口の間にある壁の南側端に接着したところに、一升瓶一〇本を入れる木箱があり、中には一升瓶四本と布製の道具袋一袋が入っていた。

(五) 被害者の一〇畳大居室では、天井が外れ、食器棚が倒れて食器類が散乱するなどしていた。落下物を取り除くと、たたきに直近した西方床面にバール一本があった。残焼物から、財布二個が発見されたが、右財布には札が入っていなかった。

同室北壁から南方に三〇センチメートル離れたところに布団が敷いてあり、裏側には、〇・八センチメートル×〇・六センチメートル大の血痕が付着していた。右血痕は人血で、血液型はA型であった。

4  被害者の受傷状況、成傷器及び死因等

(一) 永田正博の原審証言、同人作成の死体検案報告書、同追補及び鑑定書(甲一四八、一五一、三三〇)、死体解剖立会報告書(甲一四九)、写真撮影報告書(甲一五〇)、捜査報告書(甲三七四)など関係証拠によれば、永田が、昭和六四年一月一日、被害者の死体を解剖し、同月九日再度検索した結果、次の所見を得たことが認められる。

(1) 外景所見

<1> 被害者は、身長一七一センチメートル、体重五二キログラムであり、全身四度、背面の一部で三度の火傷状態で、ボクサー型の体位をとっており、眼瞼、眼球結膜に溢血点はなく、角膜は混濁している。

<2> 鼻腔及び口腔内には血液が混ざった泡沫煤煙を認める。

<3> 肩部左右上方から背部に生活反応のある微細水疱が形成されている。

<4> 左顔面全体に焼化した血液が泥状に付着している。

<5> 右鼻翼、鼻腔から鼻根部に及ぶ四・〇センチメートル×二・四センチメートルの多開する開放性の切創があり、鼻軟骨は切截されて露呈し、この切創は、頭部方向に向かってV字型に多開し、正中線を走って右下方に向かい、周囲は桃赤色を呈して生活反応があり、創底は鼻腔内に達して、創縁は整鋭で、黒褐色の焼化した血液が付着している。

<6> 右上唇、右口角から、<5>記載の切創にほぼ連続して、四・〇センチメートル×一・三センチメートルの辺縁がほぼ鋭の開放性の切創があり、その深さは〇・七センチメートルで、創底は皮下組織を切截しており、生活反応が認められる。

<7> 左眉部上方で左上眼瞼上三・〇センチメートルの部位に、二・九センチメートル×一・九センチメートル大の切創が二条あり、一本はやや下方より頭皮下組織を上方に向かってそぐように鋭利に切れ、他の一本は前方より後方に向けてほぼ水平に頭皮下組織を鋭利に切っており、両方の創底より頭皮は離断されて隆起している。

<8> 左頬部で左眼瞼より一・五センチメートル下方に二・〇センチメートル×一・二センチメートル大の表皮紫赤色の変色が認められる。

<9> 左耳翼上方より後頭部寄り三・〇センチメートルのところに六・〇センチメートル×五・〇センチメートル大の皮下出血を伴った打撲を思わせる外傷がある。

<10> 右頭頂部やや後側で右耳翼上先端八・〇センチメートルの部位に四・〇センチメートル×〇・五センチメートルと三・〇センチメートル×〇・五センチメートルの浅い頭皮剥離切創があり、どちらも創縁は鋭で創角は頂部より下方に向いている。

<11> 後頭結節の上方二・〇センチメートルの部位に二・五センチメートル×〇・四センチメートル、その左右双方にいずれも〇・六センチメートル×〇・一センチメートルの辺縁鋭利な切創がある。

<12> 後頭部正中中心に、上下は後頭結節四・〇センチメートル上方より始まり、左右は手掌を広げて後頭をおおう範囲に中に、下方から上方に向けて〇・三センチメートル、〇・七センチメートル、〇・五センチメートル、〇・四センチメートル、〇・六センチメートル、〇・八センチメートル、〇・三センチメートル、〇・三センチメートルの長さの、幅のほとんどない鋭利な切創八個があり、創底は頭蓋膜下に達している。

<13> 後頭結節左方に〇・三センチメートルの幅のほとんどない切創があり、創縁は鋭である。

<14> 前頚部には、薄い帯状の索溝様に見える所見があり、これは下顎おとがい部下方四・〇センチメートルの部位で甲状舌骨上方に幅〇・九センチメートル、深さ〇・一センチメートルであり、右は右耳垂下方四・五センチメートルの部位付近で消失し、左は下顎三角下角二・三センチメートルの部位で消失している。

<15> 前頚部で下顎とおとがい部下方五・〇センチメートルの部位で、甲状舌骨直上方に左右径一三・五センチメートル、上下径六・〇の開放切創があり、その創縁は鋭、創角は右が鋭、左が不明で、創洞は胸部側より下顎側に向かい、深さは二・〇センチメートルで、前頚部の皮下組織と筋組織を、特に右前頚部中心性に切断し、舌骨が露呈している。

<16> 左腕内側で左肘より九・〇センチメートル上方に六・〇センチメートル×二・〇センチメートルの切創があり、創縁は鋭で、皮下組織、筋肉、小血管を切截している。

(2) 内景所見

<1> 鼻軟骨を切截し創底が鼻腔内に達する切創によって起こった出血は、後咽頭より上部気道に流れ込み、その血液によって気道が半閉塞状態となっている。

<2> 一酸化炭素ヘモグロビンによって桃赤色流動性となった血液の一部は食道内に流入し、気道内には吸入された煤煙が確認された。

<3> 上部気道には、熱性炎の所見がみられ、咽、喉頭、上部、下部気道、肺門部にわたって粘調液の混ざった煤煙があり、煤煙は細気管支にも認められる。

<4> 左頬部に作られている二・〇センチメートル×一・二センチメートル大の打撲を思わせる表皮紫赤色部位の下部皮下組織には、左眼輪節外角部より一・〇センチメートル耳寄りに長径五・五センチメートル、幅二・六センチメートル大の皮下出血が認められる。

<5> 左右翼上方で後頭寄りの皮下出血を伴った打撲を思わせる頭皮桃赤色痕の下部皮下組織では、頭皮下筋層に五・五センチメートル×五・〇センチメートル大の薄層出血巣がある。

<6> 右鼻翼、上鼻部そして右上口唇を一線上に結ぶ開放切創と同時に鼻根部よりやや左上方に向かう上記切創と平行する同様の開放切創部について顔面の表皮を剥離して検索すると、鼻軟骨は辺縁正鋭に切截され、創底は完全に鼻腔内に達している。

<7> 前頚部のほぼ横走する一三・五センチメートルの創縁鋭の切創部について検索すると、前頚部の皮下組織、筋組織、毛細血管は切断され、舌骨が露呈し、舌骨では右大角部が直上方で切截断されている。前頚部で薄い帯状の索溝様にみえる部位の直下部では皮下組織に薄層の出血がある。

<8> 硬膜外の燃焼血腫がある。

<9> 右肺に気管支癌が認められ、右胸に水が二七〇〇CC貯留し、右肺はそのために萎縮し一部で無気肺を呈する。

<10> 血中一酸化炭素ヘモグロビンは、五・八パーセントであり、通常の火災による焼死者の濃度に比べてかなり低い。

<11> 血液型はA・MN型である。

<12> 血中エチルアルコール濃度は一ミリリットル当たり二・七二ミリグラムであり、相当の酩酊状態にあった。

(二) 永田が一月九日に再検索するに至ったのは、後記二の4でみる経緯により、被告人が被害者の顔をメリケンで殴ったと供述したことから、松田署の捜査官が改めて依頼したからであり、永田は、冷凍保管していた被害者の遺体の縫合してあった左頬部を開くなどして追加検案した結果、前記(一)の外景所見<8>の部位に内景所見<4>が、外景所見<9>の部位に内景所見<5>が発見された。

(三) 永田鑑定によれば、被害者の顔面の切創は、唇の横からまゆ毛の辺りまで一本の線を描いたような形になっており、深さがあまり深くないことなどから、成傷器は非常に刃の薄い鋭利な有刃器であると考えられ、前頚部及び後頭部の切創も同じ成傷器によると考えても矛盾しないこと、右成傷器につき、本件で押収されているカッターナイフ(前同押号の2)と考えても矛盾はないこと、左頬部及び左耳翼上方の打撲傷は、皮下筋層に薄層の出血があることから、厚さ、大きさともそれほど大きくない硬度のある物体で直撃されたことにより形成されたものであること、右物体につき、本件で押収されているメリケン(前同押号の4)と考えても矛盾はないことが認められる。

(四) 永田鑑定によれば、被害者の直接の死因は焼死であることが認められる。

(五) 所論は、永田鑑定は非科学的で犯罪事実認定の証拠たりえないとし、(1)永田鑑定書には一月九日に追加検案した旨の記載がないが、これは、鑑定人に求められる良心に反するものであり、鑑定結果が得られた過程を不正確に再現し、ひいては鑑定意見に重大な疑いを生ぜしめている、(2)永田は、一月九日には再解剖したのではなく再度見ただけであると証言しているが、写真撮影報告書(甲一五三)によれば再解剖したことが明らかである、(3)永田は、外景所見の前記<12>の切創は一月一日に見て、長さを測ったのは一月九日であると証言しているが、前記<11>び切創は一月一日に見て長さを測ったと証言しており、同じ切創について扱いを異にする理由はない。(4)内景所見の前記<4>の表皮紫赤色変色部位は、捜査報告書(甲一五二)見取図[1]の目の下の二・〇センチメートル×一・二センチメートルの傷と思われるが、皮下出血部位は左眼輪筋外角部より、一・〇センチメートル耳寄りの左眼横であって、皮下出血部位と表皮変色部分が対応していないのに、対応するように鑑定書が作成されている、(5)原判決の認定によれば、現場はほとんど燃焼、崩壊しているといってよい状況にあり、被害者の死体の上にもさまざまな器具、ガラス片が焼燬、崩落したものと思われるところ、永田鑑定によっても、被害者の死体は炭化に近い状態であったというのであって、このような状態でしかも死体が崩落物の下になっていた状態のものについて、殴打痕等を果たして鑑定し得たかは疑問である、(6)永田鑑定は、松田事件と小田原事件につき犯人共通説の強い偏見を抱いていた鑑定人の手になるものであり、原審第四二回公判で追及されているように基本的な鑑定ミスを数多く犯しており、到底科学の名に値しないというのである。

そこで、所論(1)についてみるに、なるほど永田鑑定書には、一月一日の剖検所見から鑑定書を作成したように記載されているが、永田の原審証言(第四二回)によれば、これは、最終的な鑑定書では後から出てきた新しい所見を含めて全部を処理するので、追加の検案をしたことまで記載しなくともよいと考えたからであるというのであり、他方、永田は、死体検案報告書及び同追補(甲一四八、一五一)では、一月一日と九日の検案の結果を当日のうちに記載していることが認められ、その内容にも照らせば、所論のようにいうことは相当でない。所論(2)についてみるに、所論指摘の写真撮影報告書には再解剖との記載があるが、これは司法巡査が作成した報告書中の記載であって、同報告書の内容、死体検案報告書追補(甲一五一)や、捜査報告書(甲三七四)中の一月一日の写真と九日のそれとを対比すれば、一月九日には、解剖というほどのことはしていないものと認められ、所論指摘の永田証言が虚偽であるとはみられない。所論(3)についてみるに、外景所見前記<12>の切創は、前記永田証言によれば、小さい傷が集族しているものであって、このような場合には、一つ一つ計測しないこともあるというのであり、この傷と前記<11>の傷の長さの測定日が異なっているとしても、問題とするに足りない。所論(4)についてみるに、永田は、外景所見前記<8>の二・〇センチメートル×一・二センチメートルの変色部位につき、鑑定書の「左眼瞼より一・五センチメートル下方」との記載は、左眼の真下という意味ではなく、内景所見前記<4>の皮下出血のあった左眼輪筋外角部から一センチメートル耳寄りの部位とは一致していると証言しているところ(第四二回)、永田鑑定書添付写真28、写真撮影報告書(甲五一三)添付写真5はそれを裏付けており、所論指摘の見取図[1]の「表皮変色」部位の記載は正確でないと見受けられるから、所論のようにいうのは相当でない。所論(5)についてみるに、永田鑑定、写真撮影報告書(甲一五三)など関係証拠を併せ考察すれば、被害者の左頬部等に皮下出血があることは明らかであるところ、永田は、被害者の死体が炭化に近い状態であったことやガラス障子のようなものが熱風で飛ぶことのあることも考慮した上、皮下出血の原因が打撲を思わせるものであると鑑定しているのであり、被害者の死体が炭化し崩落物の下になっていたからといって、その所見に疑問があるとはいえない。所論(6)についてみるに、永田の原審証言(第一三回)によれば、永田は松田事件と小田原事件の両被害者の解剖をした結果、両事件の犯人が同一であるとの考えを持ったことが認められるが、この点は、鑑定意見の信用性を判断するに当たり考慮すべき事項であるにとどまり、直ちに信用性を失わせるようなものではない。また、永田が、小田原事件の鑑定書において、前記第二の二3(二)でみたとおり、死因に直結する内景所見の一部につき誤った鑑定をしていることや、外景所見の一部で左右を取り違えたりしていることは、松田事件の鑑定の信用性を判断する上で考慮しなければならないが、松田事件の鑑定には格別不合理な点はなく、これを証拠として用いることができると解される。

5  被告人の逮捕に至る経緯、所持金品等

田畔豊、高橋和彦、古賀博憲及び宇井稔の各原審証言、和田浪子及び富田照子の各検察官調書(甲一六六、一六八)、石田弘、渋谷とみ子、内田光子及び府川賢次の各警察官調書(甲一六四、一六五、一六七、一七一)、緊急逮捕手続書(甲九五)、写真撮影報告書(甲一一九)など関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) 巡査部長田畔豊は、本件火災の交通整理のために本件現場に赴いていたところ、内田巡査が「タカハシタロウ」と名乗る被告人を同行し、被告人が火災の第一発見者であるとの報告を受けた。田畔巡査部長は、火災発見当時の状況等を聴取するため、昭和六四年一月一日午前一時ころ、被告人を交通事故処理車に乗せて松田署に同行し、参考人として事情聴取をした。被告人は、同巡査部長に対し、本名を名乗り、三嶋神社に初詣に来ていてたまたま現場付近を通りかかっただけである、火災現場の近くには行っていないから現場がどこであるかは知らないなどと供述した。ところが、被告人は、事情聴取の最中、松田署に出頭していた多門建設の代表取締役樋川眞喜雄に会釈をしたため、以前多門建設に勤務していたことが発覚したものの、その後も、多門建設を辞めてから宿舎には全く近づいていないなどと供述した。

(二) 松田署の捜査官が付近住民から事情聴取をした結果、被告人は複数の住民に宿舎付近で見かけられており、多門建設の宿舎が火事だ、人が一人焼け死んでいるなどと言っていたこと、午前零時四〇分過ぎに火災を告げる大井町役場の町内放送が流れるのに先立ち、被告人が石田弘方のシャッターを火事だと言いながら叩いていたことが判明した。

(三) 古賀警部補は、同日午後六時ころから事情聴取を担当し、被告人が無職で金がなかったと言いながらも現金二万八〇〇〇円余りを所持していた理由や、宿舎に放火したのではないかと追及するとともに、被告人の手を握りながら、本当のことを話しなさいなどと説得したところ、被告人は、最初はふてくされるような態度をとっていたものの被害者から金をとったことを認め、午後九時ころ、被害者を焼き殺したことを供述するに至り、「自分がやったこと」と題する上申書(乙二六)を作成した。

右書面の内容は、<1>一二月二四日ころまで多門建設で働いていたが、その後は友達のアパートや海岸のテトラポットの横に寝たりして働かないでぶらぶらしていた、<2>所持金は酒を飲んで全部遣った、それで多門建設の宿舎に住んでいる被害者から金を借りようと思い、一二月三一日午後七時ころ宿舎に行った、炬燵に入って酒を飲んでいた被害者に対し、金を貸してくれと頼んだが断られた、そのうち、被害者は酔って寝てしまったので、炬燵の上にあった青と白の財布の中に金が入っていたのを盗んだ、金は数えていないが二万七、八千円あったと思う、<3>金を盗んでから宿舎を出て近くのたばこ屋でハイライトを、酒屋の自動販売機でワンカップ二本を買い、ぶらぶらしてまた宿舎に戻った、被害者は起きており、金を盗んだことがばれてしまい、文句を言われたので、被害者が酔っ払って寝込んだのを見計ってから宿舎に戻り、被害者を焼き殺すため、台所の入口にあった灯油のポリタンク三本のうち白色のポリタンクから灯油を一升位入口左の床に撒き、台所のごみ箱の横にあった新聞紙に持っていた百円ライターで火をつけて床の上に置いて放火し、火が燃え上がったのを見届けて戸を締めて逃げ、被害者を焼き殺した、というものである。

(四) その後、松田署の捜査官が被告人を宿舎に同行したことろ、炬燵のあった位置、ポリタンクの位置、灯油を撒いた場所等についての被告人の供述が現場の状況と一致したことから、同日午後一一時四〇分、被告人を殺人及び現住建造物等放火の被疑事実により、その場で緊急逮捕した。

(五) 被告人は、逮捕当時、現金二万八八八五円、(一万円札一枚、五千円札一枚、千円札一三枚、五百円硬貨一枚、百円硬貨三枚、五〇円硬貨一枚、一〇円硬貨三枚、五円硬貨一枚)、財布一個、簡易ライター一個等を所持していた。

二  被告人の自白の経緯、取調べ状況等

高橋和彦、古賀博憲、石川好久、三浦博、石井秀一、小島正基及び宇井稔の各原審証言、実況見分調書(甲一五九)、被告人の弁解録取書(乙二七)、勾留質問調書(乙二九、四〇)、上申書(乙二六、三〇ないし三二、四九)、警察官調書(乙一ないし五、八、九、一二、一七、四二ないし四七)及び検察官調書(乙一八、一九、二一、二八、三九)その他関係証拠によれば、以下の事実が認められる。

1  被告人が、一月一日、緊急逮捕される前に、古賀警部補による事情聴取に対し、放火と殺人の事実を認め、上申書を作成したことは、前記一の5(三)のとおりである。

2  被告人は、一月一日の松田署での弁解録取、同月二日の検察庁での弁解録取、同月三日の裁判所での勾留質問において、殺人及び現住建造物等放火の被疑事実を認め、二月九日、小田原事件と松田事件を一括起訴され、求令状による勾留質問を受けた際、松田事件の強盗殺人と現住建造物等放火の公訴事実を認めた。

3  松田署では、高橋中隊長の下で、古賀警部補が被告人の取調べを担当し、石川巡査部長が補佐官として取調べに立ち会った。

一月二日以降の松田署における被告人の供述調書及び上申書の作成経緯は、次のとおりである。

一月二日付け警察官調書 身上経歴等(乙一)

同日付け警察官調書 犯行状況等(乙四三)

三日付け上申書 犯行前に行ったたばこ屋と酒屋の所在(乙四九)

四日付け上申書 メリケンで被害者を殴打した状況等(乙三〇)

同日付け上申書 カッターナイフで被害者を切った状況等(乙三一)

六日付け警察官調書 犯行に至る経緯等(乙四四)

七日付け警察官調書 右同(乙二)

八日付け警察官調書 犯行状況等(乙四五)

一〇日付け警察官調書 犯行に至る経緯、犯行状況等(乙一八)

一一日付け上申書 犯行状況等(乙三二)

一三日付け警察官調書 右同(乙三)

一四日付け警察官調書 犯行に至る経緯、犯行状況等(乙四)

一五日付け警察官調書 犯行に至る経緯等(乙四六)

一七日付け警察官調書 犯行状況等(乙五)

一八日付け警察官調書 犯行までの所持金の状況等(乙四七)

4  以上のうち、乙三〇、三一の作成経緯は、次のとおりである。

古賀警部補は、一月四日午前九時ころから被告人を取り調べた。同警部補は、検死官から被害者の顔に傷があることを聞いていたことから、被告人に対し、ただ焼き殺しただけじゃないはずだなどと問い質したが、被告人は、当初、「焼き殺した、だからそれでいいじゃないか」などと供述していた。古賀警部補が、真人間になりなさいなどと説得を重ねたところ、被告人は、午前一〇時過ぎころ、泣きながら、玄関の呼び鈴のような、指輪が四つ繋がったような物で被害者の顔を三回殴ったと供述し、同時に、二階の取調室の窓から中庭に停まっている交通事故処理車を示して、あの車に乗るときに見付かるとまずいと思って、ポケットから出して後ろの座席の下にその物を隠したと供述するに至った。古賀警部補は、別室にいた三浦博班長に対し、凶器を隠してある、一緒に来てくれ、と声をかけた上、ほかの三名の警察官と共に中庭に急行し、立ち会わせた被告人に交通事故処理車の中を指示させたところ、運転席側後部座席の下からメリケンが発見された。その直後、被告人は、被害者の顔をメリケンで殴ったことを認める「俺がやったこと」と題する上申書(乙三〇)を作成した。

古賀警部補は、被害者の顔を切った凶器を聞き出したいと考えながら更に取調べを続けたところ、被告人は、メリケンで被害者を殴った後、台所兼食堂に被害者を引きずって行って、バールで体を引っかけたと供述したほか、午後四時ころになって、物置小屋にあったカッターナイフで被害者の顔などを切った、カッターナイフは台所の廊下にあった酒の木箱の中に入っていた円い筒の布の道具入れに入れたなどと供述した。そして、被告人は、それらを自認する「俺のやったこと」と題する上申書(乙三一)を作成した。

5  原判決が証拠の標目に挙示している一月一〇日付け検察官調書(乙一八)の要旨は、次のとおりである。

<1> 一二月二九日は美松旅館に宿泊し、三〇日は岡本組の社長の奥さんから二、三千円を借りたものの、万竜旅館に行き宿泊を頼んでも以前みたいな料金では泊まれなかったことから御幸ヶ浜のテトラポットの影で寒い夜を眠ることもできないままに過ごした、<2>三一日、パチンコで金を増やそうと思ったが思うように増えず、所持金が三千円前後となった、このままでは野宿をしなければならず、正月になればますます金もなくなって身がもたないと思い、泊めてもらおうと府川庄吉方を訪ねたが、留守であったので、小田原駅のベンチで休むうち、多門建設の宿舎には被害者が残っていることを知っていたので、金を借りようと思い立った、<3>午後七時ころ小田急線で新松田駅に着き、駅前の食堂で飲食した後、バスに乗って多門建設に赴いたが、訪ねて行く前に、缶ビールを買って飲み、もしかしたら勝てるかも知れないと思いながらパチンコ店に行ったが、ちょうど閉店時間であったので、そのまま多門建設に被害者を訪ねた、<4>被害者は炬燵に座ってテレビを見ながら酒を飲んでおり、上がって飲めよと言うので、炬燵に座って一緒に飲みながら話をしていたが、たばこが切れたのでいったん外に買いに出かけ、借金を申し込もうと決意し直して被害者の部屋に戻り、被害者に何度も金を貸して欲しいと頼んだところ、俺もない、帰れと怒られた、<5>しばらく座っていると、横になっていた被害者が酔って目をつぶり寝た様子であったので、正月から野宿などできない、よし財布の金をとろうと決意し、炬燵板の被害者寄り角に置いてあった財布から札だけを抜き取ってズボンのポケットにしまった際、被害者が起き上がろうとした拍子に財布が落ちて中の金がなくなったことを知られてしまったので、反射的に謝って金を返したところ、被害者から、泥棒野郎、二度と来るんじゃない、などと罵られた、<6>いったん部屋から出たが、あの野郎、金を持っているくせにこれだけ頼んでも一銭も出さない、ぶっ殺してやる、金をとろう、酒を買って行って謝るふりをして酔わせ、金をとろうかなどという考えが頭の中を駆けめぐった、ワンカップ二個を買って被害者の部屋に戻り謝ったが、被害者からお前の酒なんか飲めない、泥棒野郎などと再び罵られ、頭に血が上って部屋を出た、二個のカップ酒を飲み干し、被害者を焼き殺して金をとろうと決意した、<7>食堂の入口から静かに宿舎に入り、被害者に部屋にそっと入ったところ、被害者は右横になって眠っている様子であったので、ズボンから、指輪が繋がってような鉄の道具を取り出して近づき、中腰になって被害者のこめかみや頭付近を三回位殴りつけた後、これでは殺したり気絶させたりするのは無理だと思い、咄嗟に部屋の中を見渡したところ、下駄箱の上に釘袋があり、その中にカッターナイフがあったので、刃を三センチ位出した上、被害者の頭を二、三回切りつけた、被害者が仰向けになったので驚き、夢中で被害者の顔面を二回切りつけ、首も手前に引きながら切った、その際、あまり深く切ったり刺したりしなかったのは、焼死しても傷跡が残ると思ったからである。首を切った途端、被害者が何かうめきながら、左にいた自分を左手で掴んでくるような動作をしたので、驚いて左肘の辺りを切りつけた、被害者は唸っていたが黙り込んだので、様子を見るために、後頭部付近を何回かカッターナイフで突いたが、うめいたり身動きすることはなかった、<8>もう抵抗されることはないと思って、炬燵の上にあった千円札や一万円札を右手で掴んでズボンの後ろポケットにしまい込んだ、<9>被害者は、口や鼻から息をしているようなブクブクといった音をさせており、死んでいるとは思わなかった、<10>過失で焼死したようにみせかけるため、被害者の両肩辺りの服を掴んで食堂のストーブの近くまで運び、被害者の部屋の下駄箱の脇にバールがあるのに気付き、それを被害者の右手に引っかけて仰向けにしたところ、被害者の右手がピクピクと痙攣した様に震えたが、他に反応はなかった、<11>バールは元の所に置き、カッターナイフは流しの所で刃をいっぱいに出して血をよく洗い流し、刃を引っ込めた上、被害者の部屋の入口右脇にあった木製の一升瓶を入れるケース付近に放り投げたところ、ちょうどそこにあった袋に入ったようであった、<12>食堂の出入口脇にある白いポリタンクの灯油を一升位被害者が倒れている頭の上付近に撒いた上、新聞紙に持っていたライターで火をつけ、被害者の頭の方に放り投げたところ、灯油に火が燃え移り、その火が広がったのを見て外に出た、<13>そのまま逃げようかとも思ったが、建物がうまく燃えるかどうか不安で、三嶋神社付近まで行っては戻ったりした、川付近の宅地から見ていると、窓の中が明るくなり、窓から煙が吹き出したので、もういいだろうと思って三嶋神社の方に逃げようとしたとき、警察の事故処理車と会って警察官から声をかけられた。

6  被告人は、一月一一日、本件現場での実況見分に立ち会い、犯行状況を再現しているところ、その内容はおおむね一〇日に検察官に供述したとおりであるが、被害者の現金をとった時期については、被害者を台所に運んだ後、流し台に行き、水道の蛇口をひねると、青いホースがついていて水がジャーアアと出たので、刃の先に少し血が付いていたカッターナイフを洗ってから刃をおさめ、木製酒箱に入っていた道具袋に投げ入れ、被害者の居室内にあったバールを持って台所に戻り、その釘抜き部を被害者の右肘内側にかけて仰向けにした後、バールを元に戻し、それから炬燵の上に置いてあった現金をとって自分の札入れに入れたと指示説明した(甲一五九)。

三  被告人の公判供述

1  被告人は、原審の第一回公判(平成元年四月一四日)の罪状認否においてメリケンを作業ズボンのポケットに入れて持っていたこと、現金二万八〇〇〇円をとったこと、勝手口の出入口のところで灯油を撒いて新聞紙に火をつけたこと、火をつけるとき被害者は相当に酔って炬燵に寝ており焼け死んでも仕方がないと思ったことは認めたが、メリケンで被害者を殴打したり、カッターナイフで被害者の顔面、頚部等を切りつけたことはないと供述し、第三回公判においても、メリケンで殴ったり、カッターナイフで切りつけたりしていないが、百円ライターは放火に使ったと供述している。

2  被告人は、第二五回公判において、メリケンで殴打したこと、カッターナイフで切りつけたこと、バールを使用したこと、被害者を台所まで引きずって行ったことはないが、それ以外は供述調書に書いてあるとおりであると供述し、第三三回公判においても、宿舎で被害者が火事で死亡したが、火をつけたことはこれまで言ってきたとおりであると供述している。

3  被告人は、第三五回公判において、被害者の財布から金を盗んで宿舎から出たが、まずいことをしたなと思って宿舎に戻った、台所の間仕切りに灯油をかけ、新聞紙にライターで火をつけて投げた、灯油をかけた所と新聞紙を投げた所は一・五メートル位離れていた、被害者を殺そうと思って火をつけたわけではなく、何のために火をつけたのかは分からないと供述し、第三六回公判においては、新聞紙だけで火は消えると思っていたと供述し、第三七回公判においては、警察官や検察官に対し、被害者を殺してやるとか、殺すしかないとか思ったと話したことはあるが、取調官から何で黙って言わないんだと言われて、頭の中で考えた言葉であるなどと供述している。

4  被告人は、第五五回公判(平成七年一月六日)に至って、被害者から金を盗んだことはない、被害者のところには遊びに行っただけで、金を貸して欲しいという話もしていない、灯油を撒き、新聞紙に火をつけて宿舎を出たが、その後に、三人組の男が宿舎の出入口から出て来るのを見た、三人は以前栄建設で働いていた者で、そのうち鈴木という人物は後に杉山と中島という他の二人に殺されたと供述し、第五六回公判においては、平成元年に小田原拘置所で、右の殺人事件を報じた新聞記事を読み、拘置所で一緒になった中山と運動時間中に右殺人の話をしたことから、中山らが三人組だと思うようになったなどと供述し、第五七回公判以降は、鉄製金具で被害者を殴打したり、カッターナイフで切りつけたことはない、現金をとったこともないし、灯油を撒いて新聞紙に火をつけたこともないと供述し、第六〇回公判においては、松田事件の調書や上申書の内容は、全部警察に教えられたもので、裁判にかけられた方が調べが早いのではないかと思って、署名しろと言われたものに全部署名したと供述し、第六二回公判(同年一〇月二七日)の最終陳述において、松田事件の犯行に及んだことを再度全面的に否認している。

5  被告人は、当審公判においても、金をとったこと、被害者をメリケンで殴ったりカッターナイフで切りつけたりしたこと、放火したことをすべて否認し、三人組が松田事件の真犯人であると供述している。

四  被告人の自白の任意性、信用性について

1  所論は、原判決は、松田事件の証拠として、被告人の検察官調書(乙一八)及び警察官調書(乙三ないし五)を挙示しているが、(1)非科学的な永田鑑定と成傷器に関する鑑定とこれに対する永田私見等が捜査当局に伝えられた後に符節を合わせ、取調官が被告人の自白を調書化している、(2)被告人の自白にはそれが真実であれば存在しなければならないはずの物的証拠がなく、存在する証拠物と自白は相容れない、(3)被告人の自白が調書化される経緯や、放火、殺人から強盗殺人へと自白が膨張、拡大、変化するについては、永田私見を背景とする捜査当局の予断に基づくさまざまな態様による強要、誘導等が存在しているとし、原判決には、任意性に疑いがあり、信用性に欠ける自白調書を事実認定の証拠とした違法があるというのである。

(一) そこで、まず、被告人の自白の任意性についてみるに、前記一の5(三)のとおり、被告人は、一月一日に既に、金に困って被害者を訪ね、借金を申し込んだが断られたこと、被害者が酔って寝たので財布から二万七、八千円の金を盗んだこと、被害者に金を盗んだことがばれてしまい、文句を言われたので、被害者が寝込んだのを見計って宿舎に戻り、放火して焼き殺したという事実を認める上申書を作成し、前記二の2のとおり、被告人は、一月一日の松田署での弁解録取、二日の検察庁での弁解録取、三日の勾留質問においても、右事実を認めている。四日に被害者の顔をメリケンで殴ったとか、顔や首などをカッターナイフで切りつけたという供述を被告人がした経緯については、前記二の4でみたとおりである。松田署の取調官は、被害者の顔に傷があることを事前に知っていたことから、同日、被告人がただ被害者を焼き殺しただけではないのではないかという疑いを持って被告人を取り調べたことは認められるものの、被告人がメリケンで被害者の顔などを殴打したこと、そのメリケンが事故処理車に隠されていることは全く知らなかったのであり、被告人がこれらを自発的に供述したとの点に疑いはない。また、カッターナイフで犯行に及んだとの点にも、強要はもちろん無理な押し付けにより被告人の供述が得られたという事実はうかがえない。高橋和彦、古賀博憲、石川好久及び宇井稔の各原審証言によれば、その後の取調べにおいても、被告人に対し、その供述の任意性に影響するような取調べがなされたとは認められない。被告人は、一月一日の夜、本格的な取調べを受ける前に入ってきた名前の分からない二人の警察官から、胸倉を掴まれ一発殴られるという暴行を受けた、取調官から、捜査官を田舎に送って兄弟を会社で働けないようにする、老齢の母親を連れてくる、即座に刑務所に送り込むなどと繰り返し脅され、郷里の身内の生活まで脅かされるのをおそれるあまり、誘導されるままに身に覚えのない犯行を認めたものであり、検察官に対しても自白を維持せざるを得なかった旨供述しているが、前記二でみた被告人の自白の経緯、取調べ状況等、前記三の1、2でみたように公判においても当初は事実の一部を認めていたことに、前記高橋らの各原審証言を加えて考察すれば、被告人の供述するような事実は認められない。

(二) 次に、被告人の自白の信用性についてみるに、前記二の4でみたとおり、被告人が被害者の顔をメリケンで殴ったと供述し、メリケンが交通事故処理車から発見されるに至ったこと、この被告人の供述に基づいて、前記一の4(二)でみたとおり、被害者の遺体が再検索され、それに沿う皮下出血等が発見されたことは、被告人の自白に秘密の暴露とみてよい箇所のあることを意味している。被告人の自白は、前記一の3及び4でみた宿舎の焼燬状況や被害者の受傷状況などの客観的な状況に符合しているだけでなく、迫真性に富んでいる。また、被告人が一二月二九日以降も金に困っていた状況については、被告人が二九日の夕方に武井から一万円を借りたという点につき武井始の検察官調書(甲二二〇)によって、同日被告人が武井方から姉に電話をかけたという点につき岩崎フク及び甲山花子の各検察官調書(甲二七二、二七三)によって、三〇日被告人が岡本組から二〇〇〇円借りたとの点につき岡本とみ子の警察官調書(甲二三九)によって、同日被告人が万竜に泊めてくれと行ったが断られたとの点につき遠藤よし子の警察官調書(甲二四〇)によって、それぞれ裏付けられている。

(三) そこで、所論(1)についてみるに、前記二の1、2、4でみたとおり、被告人は、一月一日既に、殺人と現住建造物等放火の事実を認め、四日には、メリケンで被害者を殴打したりカッターナイフで切りつけたという供述をしているのであって、これら捜査段階当初の被告人の供述経緯及び内容をみるだけでも、原判決挙示の各調書における被告人の自白が、それまでに捜査当局に伝えられていた永田の意見等に符節を合わせて調書化されたものであるといえないことは、明らかである。所論(2)についてみるに、なるほど、被告人の自白によれば、被告人はカッターナイフで被害者を切りつけたりして犯行に及んだ後、間もなく本件現場で警察官に呼び止められ松田署に同行を求められており、着衣を着替えたりする時間はなかったということになるにもかかわらず、中村隆志作成の鑑定書(甲三一九)によれば、被告人の防寒ジャンパー、作業ズボン、丸首シャツ、トックリセーター、靴下、サンダルなどの着衣や履物に血痕の付着はみられなかったことが認められる。しかしながら、被告人の自白によれば、被告人は、酔余寝ていてほとんど動かない状態の被害者に対し、深い傷が残らない程度にメリケンで殴打したりカッターナイフで切りつけたというのであり、被告人の供述する加害行為に及んだ際の位置関係、姿勢などに照らせば、被告人の着衣や履物に被害者の血痕が付着していなくとも不自然とはいえない。被告人が強取したという金員等に血痕が付着していない点については、後記六の2で検討するとおりであって、この点についても不自然とはいえない。被告人の自白が真実であればあるべき物的証拠がないとか、自白が存在する証拠物と相容れないということはできない。かえって、被告人の所持していたメリケンと二万八〇〇〇円の紙幣は、被告人の自白を物的に裏付けているということができる。所論(3)については、前記(一)(二)でみたとおりであり、所論のようにいうことはできない。

2  被告人は、原審及び当審において、自分は犯人ではなく、本件現場で見かけた三人組の男が真犯人であると弁解している。

しかしながら、前記三の4でみたとおり、被告人は、起訴後六年近くを経過して初めて右のような供述をし始めたものである。被告人が、原審公判の終盤までそのような供述をしなかった理由として供述するところは、あいまいで納得できるものではない。そして、被告人が名指しした杉山誠及び中村正明は、原審において、いずれも、一二月三一日から昭和六四年一月一日にかけて多門建設の宿舎付近に出かけたことはないと供述している。これらの点も考慮すると、被告人の弁解は信用できないというほかない。

3  このようにみてくると、被告人の自白の任意性に疑いはなく、原判決が挙示する警察官調書及び検察官調書を含め、自白の基本的な部分の信用性に疑いはないと考えられる。

五  金員の強取について

1  所論は、原判決は、犯行直前被告人に約三〇〇〇円の所持金があり、被害者からは現金二万八〇〇〇円を強取したと認定しているが、他方では、犯行後逮捕されるまで金銭を消費した様子がうかがえないのに、逮捕時の所持金は二万八八八五円であると認定しているのは、理由齟齬であり、そもそも約二万八〇〇〇円を強取したという認定そのものがおかしいというのである。

2  しかしながら、原判決が、犯行前の被告人の所持金につき約三〇〇〇円と認定したのは、その文言及び文意に照らせば、被告人が被害者を訪ねようと小田原駅を出発する前の時点における所持金額についてであると理解できるところ、被告人の検察官調書(乙一八)によれば、被告人はその後、小田急線の電車賃、新松田駅前の食堂での飲食代、バス賃、缶ビール、たばこ、カップ酒の代金を支出していることが認められる。そうすると、所論のようにいうことはできない。

六  強取金員等に血痕がないことについて

1  所論は、原判決は、被告人がメリケンで被害者の顔面を殴打し、カッターナイフで顔面、頚部等を切りつけた後、現金約二万八〇〇〇円を強取したと認定しているが、(1)そうであるとすれば、被告人の手、指等には被害者の血痕が付着したであろうし、その手で掴んだ紙幣に全く血痕の跡を残さないということは、経験則上考えられない、(2)松田署は、一月一日のうちに被告人の着衣等の鑑定嘱託をしているのに、二万八〇〇〇円の紙幣や八八五円の硬貨については二日になってから領置し、財布と現金は鑑定嘱託の対象からことさら除外しているが、そうする合理的理由は全くない、(3)原判決が、被告人の身柄拘束ないし緊急逮捕時に二万八〇〇〇円はどこにどのような状態で入っていたのか、紙幣や財布に人血痕が認められるか、認められるとすれば何型か、というような基礎的事項を確認しないで強取を認定しているのは、理由の齟齬、犯罪の成否を左右する重大な事実につき合理的疑いを残しているというほかないというのである。

2  そこで、所論(1)についてみるに、糸島二郎及び平井一夫の各当審証言、写真撮影報告書(甲一一九)など関係証拠によれば、被告人から領置された現金二万八〇〇〇円の一万円札、五千円札、千円札及び財布に血痕の付着のなかったことが認められるところ、前記二でみた被告人の捜査段階における供述を通覧すると、被告人がいつの時点で被害者の金員を手にしたのかについては、供述に変遷がある。すなわち、一月一日付け上申書では、金を盗んでからいったん宿舎を出た後、宿舎に戻り、盗んだことがばれたので被害者を焼き殺したと供述し、二日の検察官の弁解録取の際にも、金を盗んだ後に殺意を生じて焼き殺したと供述し、八日付け検察官調書では、被害者の部屋で被害者の顔や首などをカッターナイフで切りつけ、お勝手まで被害者を引きずり、流し台でカッターナイフや手を洗ってからカッターナイフを道具袋に入れ、バールで被害者を引っかけて上向きにした後、部屋に戻って金をとったと供述し、一〇日付け検察官調書では、被害者の部屋で顔や首などをカッターナイフで切りつけた後、後頭部付近を突いたが動かなかったので、もう抵抗されることはないと思って金をとったと供述し、翌一一日の実況見分に立ち会った際には、前記二の6でみたとおり、被害者を台所に運び、流し台でカッターナイフを洗って道具袋に入れたりした後、現金をとったと指示説明し、一三日付け警察官調書では、カッターナイフで切ってから金をとったと供述し、一四日付け警察官調書では、被害者をお勝手に引きずって行ってから流しの水道でカッターナイフや手を洗って、カッターナイフを道具入れ袋に捨ててから金をとったと供述し、一七日付け及び一八日付け警察官調書では、お勝手まで引きずって行ってから金をとったと供述している。右にみた被告人の供述や指示説明のうち、一一日の実況見分で犯行状況を再現した際、流し台でカッターナイフを洗った後に現金をとったと指示説明していることは重要であり、八日付け警察官調書ではそのような順序であったと供述しているところ、右実況見分後の供述もこれを変更しているとはみられない。そして、火災鎮火直後に流し台の水道の蛇口から水がかなりの勢いで出ていたという前記一の3(三)でみた客観的な状況も加えて考察すると、現場において犯行を再現してみた結果である犯行の順序が被告人の記憶に最も近いとみるのが相当である。そうすると、被告人の手や指、財布などに血痕の付着がなくとも、被告人がとったという現金に血痕が付着していなくとも不自然とはいえない。原判決は、被告人が現金を強取した後に、被害者を台所へ運んだと認定しており、この認定は誤りであるが、判決に影響を及ぼすものではない。

3  所論(2)についてみるに、現金や財布に血痕が付着していなかったのであるから、捜査官がこれらを鑑定嘱託の対象から外したことに合理的理由がないとはいえず、また、現金の領置が一月二日になっていることについて特段の意味を持たせるのは相当でない。

4  所論(3)についてみるに、原判決が所論が指摘する事項を確認しないで金員の強取を認定していることは、所論のとおりであるが、実況見分調書(甲一五九)では、被告人は炬燵の上にあった現金をとって自分の札入れに入れ、ズボンの後ろ右側ポケットに入れた旨指示説明をしているところ、この指示説明に他の証拠と矛盾する点のないことや、現金や財布に血痕が付着していなかったことを考慮すると、理由の齟齬があるとか、犯罪の成否を左右する重大な事実につき合理的疑いを残しているとはいえない。

七  結論

その他所論に即し逐一検討しても、原判決には、任意性や信用性に欠ける自白調書を証拠とした違法があるということはできず、被告人が金員を強取したとの点やカッターナイフ、メリケンを用いて刺切行為等をしたとの点を含め、被告人が松田事件の犯人であると認定したことには事実の誤認は認められない。弁護人の論旨は理由がない。

第四  当審の判断

以上の次第で、原判決中、小田原事件の公訴事実に関する無罪部分には、事実の誤認があって、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであり、小田原事件の強盗殺人の罪と原判示松田事件の強盗殺人、現住建造物等放火の罪とは併合罪として一個の刑を科すべきところ、原判決は、松田事件についてのみ刑を科しているから、結局、全体について破棄を免れない。そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により、直ちに判決する。なお、原判決の認定した「犯罪事実」には、前記第三の六2でみたとおり、判決に影響は及ぼさないが事実の誤認があるので、松田事件についても当審において事実認定をすることとする。

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  昭和六三年一二月二八日午後一一時一三分ころ、神奈川県平塚市南金目七九二番地の二付近路上で江南交通株式会社の乙川一郎(当時四四歳)が運転するタクシーに乗車し、同人を殺害して金員を強取しようと決意し、同県小田原市早川<番地略>所在の早川漁業協同組合前路上で停止を命じ、午後一一時四九分ころ、車内において、同人に対し、後部座席からいきなり所携の果物ナイフ(刃体の長さ一二・四センチメートル)(当庁平成八年押第二一四号の1)でその左頚部、左肩部、左側頭部を数回突き刺したが、同人が血に染まるのを見るなどして動転し、金員を強取するに至らなかったものの、同月二九日午前三時五六分、同県伊勢原市下糟屋<番地略>東海大学病院において、同人を左外頚動脈切断等による出血性(欠血性)ショックにより死亡させて殺害し、

第二  昭和六四年一月一日午前零時三〇分ころ、神奈川県足柄上郡大井町上大井<番地略>所在の多門建設株式会社作業員宿舎において、酔余仮眠していた丙村二郎(当時三九歳)を殺害して金員を強取しようと決意し、同人に対し、いきなり所携のメリケン(前同押号の4)でその左顔面付近を数回殴打し、同所にあったカッターナイフ(前同押号の2)でその顔面、頚部等を切りつけて反抗を抑圧し、同人を台所兼食堂へ運び込んだ後同人所有の現金二万八〇〇〇円を強取した上、同所の床などに灯油約一・八リットルを撒き、その場にあった新聞紙に所携のライター(前同押号の5)で火をつけて床に点火し、よって、同人らが現に住居として使用する宿舎(床面積六九・四平方メートル)を全焼させるとともに、同人をその場で右火災により焼死させて殺害した

ものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為と、判示第二の所為のうち強盗殺人の点は、いずれも平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法二四〇条後段に、判示第二の所為のうち現住建造物等放火の点は同法一〇八条に該当するところ、判示第二の強盗殺人と現住建造物等放火は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い強盗殺人の罪の刑で処断することとし、各所定刑中いずれも死刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四六条一項本文、一〇条により犯情の重い判示第二の罪の刑で処断し他の刑を科さないこととして、被告人を死刑に処し、押収してある果物ナイフ一丁(当庁平成八年押第二一四号の1)は判示第一の、メリケン一個(前同押号の4)及びライター一個(前同押号の5)は判示第二の犯行の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、いずれも同法一九条一項二号、二項本文によりこれらを没収し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、判示のとおり、うち一件は現住建造物等放火を伴う強盗殺人二件の事案であり、その罪質は極めて凶悪かつ重大であるのみならず、被告人は、かかる犯行をわずか五日のうちに続けて敢行したものである。

被告人は、昭和四一年ころから神奈川県内各地の建設会社などで土木作業員として稼働していたが、昭和六三年一二月一九日、判示第二の犯行現場に宿舎を有する建設会社を酒癖が悪いとのことで解雇され、その際一〇万円余りの給与を得たにもかかわらず、直ちに稼働先を探すことなく、パチンコや飲酒等に浪費したため、二三日には旅館代も支払えなくなり、かつての稼働先などから借金をしてはパチンコや酒代に充てるという生活になり、二三日夜は小田原駅で過し、二四日はコインランドリーで夜を明かし、二五日は海岸で眠れずに寒い夜を過ごした。被告人は、二六日夕刻丁田のアパートに転がり込んだが、その日に以前の稼働先から借りた一万円はパチンコですってしまっており、二七日には金のことばかり考えるようになった。被告人は、金の由来は断定できないものの、二七日夜には三万円程度の金を持っていたが、二八日夕刻、明日以降は丁田の子らが帰ってくるので泊まれない、旅館に泊まって年を越し、酒を飲みパチンコをして遊ぶには足りない、平塚方面にはまだ金を借りに行っていないなどと考えるうち、同市片岡の飯場にかつての同僚を訪ねようと思い立ち、その近くまで赴いたが、行きづらいという気持ちとネオンにつられ、パチンコをして七、八千円負けてしまい、このままでは正月から野宿しなければならないなどと思案するうち、タクシー強盗をするほかないと思いつめ、たまたま走行してきたタクシーに乗車したものの、体格の良い被害者を見て殺さなければ金を奪えないと決意し、判示第一の犯行に及んでいる。被告人は、その後も小田原にとどまり、相変わらずかつての稼働先や知人らを訪ねては借金を申し込み、借りられたところもあったものの、三〇日は海岸で眠れないまま寒い夜を過ごすなど、やはり金に窮する生活を送り、もう野宿はつらい、何とか金を作りたいとの思いにかられていたが、パチンコで稼ごうとしても負けるばかりで、三一日の午後には所持金が三〇〇〇円位になってしまった。そこで、多門建設の宿舎に正月も帰らないでいるはずの被害者を訪ねてみようと思い立ち、被害者を訪ねて借金を申し込んだものの断られ、被害者が眠った隙に財布から現金を抜き取ったが見付けられて罵られ、いったん宿舎から出、カップ酒を二本買って戻ったものの、再び追い出されてしまったが、何としても金が欲しい、盗んだだけでは警察に訴えられるなどと考えるうち、被害者を殺害して金を奪うしかないと決意し、判示第二の犯行に及んでいる。いずれも金欲しさの犯行であり、しかも、被告人が金に窮したのは、毎日のようにパチンコで浪費し、酒を飲んではその日を送るという無計画で自堕落な生活を続けた結果である。加えて、被告人は、確実に金をとるのととった後の身の安全を考えて、いずれの被害者に対しても、確定的殺意をもって臨んでいる。本件各犯行は、あまりにも自己中心的で短絡的というほかない。被告人が凶器として使った果物ナイフとメリケンは、被告人自身が持ち歩いていたものである。判示第二の犯行のうちの放火は、被害者を殺すとともに罪跡を隠滅するためのものである。本件各犯行に至る経緯や動機に酌量の余地はない。

各犯行の態様についてみるに、判示第一の犯行は、運転席に座っていた被害者の背後から、いきなり果物ナイフで左頚部、左肩部を突き刺し、更に左側頭部を突き刺したというものである。被告人は被害者の頚部をねらったが、ナイフの根元までは刺さらず、ナイフを引き抜くや、振り下ろすようにして左肩部を突き刺し、ナイフが抜けにくい状態となったにもかかわらず、ナイフを引いたり押したりして引き抜いた上、更に続けて側頭部を突き刺している。判示第二の犯行は、酔って仮眠状態にあった被害者に対し、いきなりメリケンで左顔面付近を数回殴打した上、探し出したカッターナイフを使って横たわったままの被害者に切りつけたものであり、顔面を二回にわたって切り上げ、頚部を切りつけるなどしている。被告人は、焼死させた後に傷が発見されることを慮り、切りつけるときには包丁を使ったりあまり深く傷つけないようにしたなどと供述しているばかりか、逃げ出せない状態で被害者がまだ生きているのを認識しながら、失火にみせかけようとしてストーブのそばまで運んで放火したのであって、冷徹な計算のもとに行動している。被害者両名に落ち度は全くない。いずれの犯行態様も、卑劣、執拗かつ冷酷で、極めて悪質である。

各犯行の結果についてみるに、判示第一の被害者は、致命傷を負わされながらも直ちに意識を失うことがなかったため、体内への出血により大量の吐血をした上、窒息を防ぐ治療用チューブを自ら引き抜くような状態となり、苦悶のうちに絶命した。被害者は、当時四四歳で、タクシー運転として真面目に勤務し、成績も良好であり、人格も円満で人付き合いも良く、妻と三人の娘、養子縁組した妻の長男と幸せな家庭生活を送っていた。被害者の苦痛はもとより、被告人の凶行により突如として、妻子を残し生命を奪われた無念の情は察するに余りある。一家の支柱を失った家族は苦難の道を強いられ、長女は大学進学を断念せざるを得なくなり、妻は身も心も疲れ果て、くも膜下出血を煩って生死の境をさまよい、飲食店の経営ができなくなるなど、本件犯行が遺族に与えた衝撃、影響は計り知れない。判示第二の被害者は、被告人を招じ入れて酒を振舞ってやったのに、メリケンやカッターナイフで傷害を負わされた上、生きながら業火に身を焼かれたもので、その恐怖、苦痛、無念の情は想像を絶するものがある。被害者は、妻と離婚して一人身であったものの、当時三九歳であり、建設会社に真面目に勤務していた。同居を望んでいた老齢の両親が受けた衝撃は大きく、父親は精神的に立ち直れない状態のまま他界したことがうかがえ、母親は生活保護を受給しながら被害者の墓を守って一人暮らしている。各犯行の結果は、当時働き盛りの被害者二名の命を奪ったというだけで重大であるが、絶命時の状態は、悲惨かつ残酷であり、各被害者の遺族が被った打撃も甚大である。判示第二の犯行のうちの放火は、被害者らが居住していた宿舎を焼き尽くし、総額約二四一万円の損害を被らせた上、延焼の危険もあったことから、近隣住民に与えた恐怖感は大きかった。

遺族の処罰感情はいずれも峻烈である。判示第一の被害者の妻は、法廷を傍聴した際に被告人を自分で殺してやりたいと思ったことが一度ならずあったなどと偽らざる身上を吐露し、被告人には絶対死刑を求めると当審でも証言し、娘らや被害者の姉の同様に極刑を強く求めている。判示第二の被害者の母親は、被害者が本当にむごい殺し方をされ、悔しいし、かわいそうでならず、この気持ちをどう表現していいか分からないなどと言葉にならない苦しみを訴えるとともに、原審において被告人を死刑にして欲しいと証言し、被害者の姉妹も異口同音に極刑を強く求めている。

被告人は、犯行時分別盛りの年齢にあり、さきにみた各犯行の罪質、内容とりわけそれらの動機、態様には、被告人の反社会性の根深さが示されているとみざるを得ない。被告人は、捜査段階では犯行を認めて後悔の気持ちを表していたものの、公判段階になって否認するに至り、判示第一の犯行時には丁田方から外出していない、判示第二の犯行は宿舎から出て来るのを見かけた三人組が犯人であると弁解を弄するなど狡猾であり、良心の呵責は全くうかがえず、遺族にも一言の謝罪もない。

以上のような事情を総合すると、死刑が冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における窮極の刑罰であって、その適用には慎重であるべきことを認識した上、本件各犯行がいずれも犯行着手の時点では確定的殺意があるものの計画性のあるものではないこと、判示第一の犯行のうち金員強取の点は未遂にとどまっていること、被告人はこれまで職場を転々としながらも正業に就いてきたが、解雇されたことから、職や住居を失った状態で各犯行に及んでいること、被告人には昭和四二年に暴行により、昭和四九年に道路交通法違反の罪によりいずれも罰金刑に処せられた以外に前科がないことなど、被告人のために酌むべき情状を最大限斟酌しても、被告人の罪責は誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも死刑をもって臨むほかないと考える。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤文哉 裁判官 川上拓一 裁判官 波床昌則)

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