東京高等裁判所 平成8年(ネ)4459号 判決 2000年3月16日
控訴人(一審本訴原告・反訴被告)
甲野波雄
右訴訟代理人弁護士
熊田士郎
同
若旅一夫
同
豊浜由行
被控訴人(一審本訴被告・反訴原告)
甲野於幸
被控訴人(一審本訴被告)
甲野肇
被控訴人(一審本訴被告・反訴原告)
甲山郁子
被控訴人(一審本訴被告)
甲野弓子
右四名訴訟代理人弁護士
副島洋明
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
1 東京法務局所属公証人河野博作成の平成五年二月二五日付平成五年第七七号遺言公正証書による亡甲野太郎の遺言は無効であることを確認する。
2 被控訴人甲野於幸及び被控訴人甲山郁子の反訴請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、本訴反訴を通じ、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第一 控訴の趣旨
主文と同旨
第二 事案の概要
一 本件は、控訴人が亡甲野太郎名義による公正証書遺言の無効確認を求めた(本訴事件)のに対し、被控訴人らが同遺言は有効であるとして、被控訴人甲野於幸及び同甲山郁子(以下、被控訴人らについてはそれぞれ「被控訴人於幸」等の名で表示する。)において、控訴人に対し、遺産である不動産に対してされた法定相続分による相続登記の更生登記手続を求めた(反訴事件)事案である。原審は、右遺言が有効であるとして、本訴請求を棄却したうえ、被控訴人於幸の反訴請求については、すでに右更生登記手続で求めようとする以上の持分登記がされていることを理由に棄却し、被控訴人郁子の反訴請求については、控訴人の持分登記の限度で認容した。
二 争いのない事実等、争点及び当事者双方の主張は、以下に訂正、付加するほか、原判決二枚目裏一〇行目から四枚目表末行までに記載のとおりであるから、これを引用する。
1 原判決三枚目裏八行目の次に改行して以下を加え、同九行目冒頭の「1」を「2」と改め、四枚目表三行目冒頭の「2」を「3」と改める。
「1 公証人に対する嘱託の不存在
本件遺言公正証書中の太郎の署名は生前の同人の筆跡と異なっていることからすると、公証人に対して嘱託したのは太郎ではないということができ、本件公正証書については、太郎の関与なしに作成されたものというべきであり無効である。」
2 原判決三枚目裏末行の次に改行して以下を加える。
「 すなわち、太郎は、平成三年から精神変調が始まり、本件遺言の前後ころには痴呆の症状が現れ、デイホーム施設内で、無気力な態度を示したり、昔のことを繰り返し話したり、現在の環境に対する理解を欠く行動や異食行為、便いじりなどの異常行動もみられ、日時、場所の見当識の障害、記銘力障害、記憶力障害、思考力障害等の痴呆の中核的症状が出現し、改訂長谷川式簡易知能評価スケールでも重度の知的障害があると評価されたこと、長年にわたり太郎と同居してきた被控訴人郁子夫婦の発言及び太郎の主治医の診断内容等からすると、本件遺言当時、太郎が痴呆状態にあり、本件のような複雑多岐にわたる内容の遺言ができる精神状態になかったことは明白である。」
3 原判決四枚目表一〇行目の「もっており、」を「もっていた。すなわち、太郎は、日常会話等による意思の疎通が確保されており、対応する人物についての識別もでき、デイホーム施設内でのプログラムにも参加できていたもので、判断能力は正常であった。控訴人が援用する各資料は、改訂長谷川式簡易知能評価スケールが過去の検査方法であるなど、少なくとも痴呆を判定する資料として適切なものということができず、いずれも太郎の痴呆症状を裏付けるものではない。」と改める。
三 当審における主張
(被控訴人ら)
1 控訴人が証拠として提出した改訂長谷川式簡易知能評価スケールの写し(甲四)、サービスセンター初回面接票の写し(甲六)及びサービスセンター初回面接表の写し(甲七)は、控訴人側が不正な手段を用いて、これらの書類を作成保管していた高齢者在宅サービスセンターの担当者から交付を受けたものであり、違法収集証拠であるから、その証拠能力は否定されるべきでる。
2 控訴審で行われた鑑定(以下「本件鑑定」という。)では、右の違法収集証拠を使用しているほか、鑑定人が恣意的に太郎の診察医から事情を聴いたりしており、他方、鑑定人に対しては、本件裁判の一件記録全部を鑑定資料として送付すべきであるのに、一部の資料しか送付せず、裁判記録のうち重要な証人の供述調書が鑑定資料とされていないなど、鑑定の手段、方法が違法であるから、その鑑定結果を採用することは許されない
3 本件鑑定の基礎資料となった右の各資料や太郎の看護記録の写し(甲二の1ないし47)には、重要な点で不正確な記載部分や誇張した表現があるのに、これをすべて真実としたうえで評価した本件鑑定は信用性がないというべきである。
(控訴人)
被控訴人らの主張は理由がない。本件鑑定は、手段や方法において何らの違法はなく、客観的な資料と精神医学の専門的な知識経験に基づいて適正に行われたものであり、その内容も信頼性が高い。
第三 裁判所の判断
一 太郎の出生から死亡に至る概括的事実及び本件遺言に至る経緯の概要については、原判決四枚目裏二行目から七枚目表二行目までに記載のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決四枚目裏七行目の「太郎は」から五枚目表二行目までを「(乙二八)」と改め、五枚目裏一〇行目冒頭に「、遺産ごとに相続人の範囲及びその取得割合を異にし、該当する相続人が太郎より先に死亡した場合等まで極めて」を加える。
二 控訴人は、太郎の公証人に対する嘱託が存在しないとして、本件遺言公正証書が無効であると主張するが、証拠(乙一、乙一一、被控訴人肇、被控訴人弓子)及び弁論の全趣旨によれば、本件遺言公正証書の作成は、実際に太郎が公証人役場に出頭したうえで行われ、本件遺言公正証書中の太郎の署名は同人の自筆にかかるものと認められることに照らせば、少なくとも公証人に対する右嘱託が不存在であるとの控訴人の主張は理由がない。
三 そこで、本件遺言の前後を通じての太郎の生活状況及び精神状態について検討する。
証拠(甲二の一ないし三二、甲三、四、六、七、証人守口恭子、控訴人本人)によると、以下の各事実を認めることができ、証人守口恭子及び同小幡秀夫の各証言中並びに被控訴人肇及び同弓子の各本人尋問中の右認定に反する各供述部分はいずれもこれを採用しない。
1 平成三年ころから、太郎(八六歳ころ)の動作や歩行に緩慢さが現れ、時には尿失禁がみられるなど身体的機能が低下するとともに理解力も低下するようになり、自分の発言内容をすぐに忘れる一方で、同じ内容の昔の話を何回も繰り返すといった記憶障害がみられるようになった。また、太郎は、自宅内のトイレの場所を間違えたりするほか、冷蔵庫内の食物をあさり、生肉をそのまま平気で食べたり、時には、茶碗に味噌と「ムヒ」(かゆみ止めの軟膏)を絞り入れて食べようとするなどの行動がみられた。
2 平成五年三月一六日、太郎についてデイホームの利用を希望する旨の東久留米市長宛の申請書が被控訴人郁子から出されたが、その希望理由として、「無気力、無活動で歩くのも家のなかをヨチヨチ歩く程度。食べることだけは旺盛で生肉などまで食べてしまう。自分でもトイレにいくが、失禁。生活リズムをもたせたい」と記載され、「問題行動」の欄のうち、「失禁等でよごしたり、不潔になっても無関心である」「自分の部屋、トイレ等場所をまちがえる」という事項に○印が付けられている。
3 平成五年三月二二日、デイホームの在宅サービスセンターに所属していた作業療法士の守口恭子は、太郎の人柄を知るとともに今後同人に対してどのような援助が必要であるかについての資料を得る目的で、同施設に来訪した太郎に直接面接した際、約一時間位をかけて改訂長谷川式簡易知能評価スケールのテストを実施したところ、その結果は三〇点満点で四点であった。テストの回答状況としては、自分の年齢や現在の年月日については答えることができず、一定時間を置いたうえでの単語(「桜」など)の復唱テストも回答できないという状態であり、他方、幾つかの異なった発問に対し、直接無関係な「大久保」という地名にこだわった発言をしていた。
4 平成五年四月六日、高齢者在宅サービスセンターの担当者が太郎を訪問し、太郎、被控訴人郁子及びその夫が同席して、前記デイホーム申請書の内容が確認されたが、被控訴人郁子夫婦から改めて前記1のような太郎の状況が述べられた。
5 平成五年四月七日から、太郎はデイホームの一つであるシャローム南沢の特別養護老人ホームでのショートステイに入所したが、トイレの失敗が目立ち、失禁で下着を濡らしたり、ゴミ箱や室内の植木への排尿ないし放尿などの排泄に関する異常行動がみられ、また、二か月後には便いじり等の行動もみられた。そのほか、ショートステイの期間中、施設内を徘徊し、自室に戻れなくなり、他人の居室に入り込んだりして入室者に叱責されたりした。他方、太郎は、施設内の入室者らの会話の中に入ることができず、ただ、以前から本人の趣味であった謡曲に関しては進んで自ら歌うこともあり、同じ施設でショートステイ中の妻である被控訴人於幸と昼間デイサービスの際一緒に過ごす時間は、精神的に落ち着いていた。太郎の家庭の状況もあって、ショートステイの期間は順次延長され、太郎が右施設から退所したのは同年七月三〇日であった。
6 平成五年五月末ころから、太郎は主食を摂取しないようになる一方で、陶芸教室では粘土を食べたり、紙染め用の水差しの水を飲もうとしたりしたほか、薬用軟膏をなめ、あるいは急須内の茶葉をつまみ出して口に入れたりするなどの行動がみられたが、それ以外には通常の生活をしていた。
7 平成五年九月、太郎に対する同年四月からのデイホームでの「前期評価」として、移動及び排泄についての介助が必要であること、暴食行為が時にみられる(粘土を口に入れる)こと、施設におけるプログラムにはほとんど参加できず、精神面で不安傾向や依存傾向があることなどが指摘されている。
四 以上一ないし三の事実を前提として、本件鑑定、医師須貝佑一作成の「『精神鑑定書に対する質問事項書』に対する回答」と題する書面(甲二九)及び証人須貝佑一の証言(以上の三つをまとめて「須貝鑑定」と総称する。)によれば、太郎については、全身体的な脆弱化に伴って精神的変調(記憶力及び理解力の低下)が遅くとも平成三年ころから認められ、被控訴人郁子がデイホームの申請書を提出しようと考えた平成五年三月ころには、精神的な無活動状態、失禁で不潔になっていることに対する無頓着、見当識の低下が常態化していたものということができ、さらに、同月二二日に行われた改訂長谷川式簡易知能評価スケールによるテスト結果が高度の知的機能の低下を示しており(甲五、須貝鑑定)、他に意識障害等を窺わせる事実が認められないことなどを併せ考慮すると、太郎の精神能力は、平成三年ころから数年かかって徐々に低下し、遅くとも同月二二日までには高度の痴呆常態にあったということができる。
五 これに対し、被控訴人らは、前述のとおり、①控訴人提出の甲四、六、七号証は違法に収集された証拠であるから証拠能力がない、②本件鑑定の手段や方法が違法である、③本件鑑定の基礎資料に誤りがあり、それを基礎とする本件鑑定は信用性がないと主張する。
しかし、①(違法収集証拠)については、控訴人提出の各書証は、本来、原審が文書送付嘱託によって取寄せた記録の一部といえるものであること、仮に控訴人が右各書証を裁判所に提出する目的であることを秘し、別の目的に使用する旨を告げて、施設の担当者からその交付を受けたとしても、控訴人は太郎の肉親であり、施設入所に際しての太郎の正確な情報を知りたいと考えるのは肉親として当然であること、したがって、施設側が控訴人の申し出に応じたことも止むをえないと考えられることなどに照らせば、被控訴人ら主張の事実だけでは、本件各書証の証拠能力を否定すべき違法性があるとまではいえないというべきである。
②(鑑定の手段方法の違法)については、まず、鑑定人が必要な調査をするに当たって、鑑定資料中に記載された医師の診断や意見につき、直接当該医師に面談して必要な情報を得ることは何ら問題はない。また、本件は太郎の遺産を巡る兄弟の紛争であって、双方の対立が激しく、一審で勝訴した被控訴人らは、当審において終始本件鑑定の採用には反対し、鑑定が採用されても一切協力しないとの意向を示していたことは当裁判所に顕著であり、このため鑑定人は、鑑定書の作成に当たっては、本件当事者のいずれからも事情聴取をせず、裁判所から送付された鑑定資料以外の裁判記録は特に参考としなかったことが認められる(須貝鑑定)。
しかし、鑑定人が鑑定資料以外にいかなる資料を参照すべきかについては、鑑定事項や鑑定の目的に照らして鑑定人の合理的な裁量に任されているのであり、本件においては、鑑定人は右のような状況に鑑み、あえて双方当事者から事情聴取はせず、与えられた資料だけで十分に鑑定を行うことは可能であるとの判断の下に、裁判所から送付された鑑定資料以外の裁判記録の閲読は求めないで、本件鑑定を行ったものである。これによれば、本件鑑定の手段方法に何らの違法も認められない。
ちなみに、鑑定人は、本件鑑定の鑑定書を提出したのち、鑑定証人として証言するに当たって、改めて当初の鑑定資料以外の裁判記録のうち、前述の改訂長谷川式簡易知能評価スケールによるテストを実施した守口恭子、太郎が入所した施設の在宅サービスセンターの統括者である小幡秀夫、本件遺言公正証書を作成した公証人である河野博の各証言調書(このうち小幡秀夫の証人尋問は鑑定書の提出後に行われたものである。)を閲読したが、それによっても鑑定の内容には何ら変更を加える必要が認められない旨を供述している。
③(鑑定の信用性)については、被控訴人らは、例えば、前述のデイホーム申請書(甲二の一)やサービスセンターの初回面接表(甲七)は、太郎の入所を是非認可してほしいために、実際よりも誇張した表現をして作成したとか、施設の担当者が間違って記載したなどと主張する陳述書(例えば、前述のデイホーム申請書に「太郎が生肉を食べた」と記載したのは誇張であって、実際は太郎が好物のハムやベーコンと間違えて薄切りの豚肉を口に入れてしまったというエピソードに過ぎないことなど。)を提出し、被控訴人弓子も同趣旨のことを供述するが、これらは父親である太郎に対する思い入れや、控訴人に対する悪感情などを反映して、内容自体に不自然な部分が多く(例えば、右の生肉の件についても、被控訴人らの主張が事実であるとすれば、被控訴人郁子がデイホーム申請書の希望理由の欄に自ら「生肉まで食べてしまう。」と記載しただけでなく、施設側との初回面接でも再びそのことに触れるのは極めて不自然であるというべきである。)、また、他の証拠(例えば、甲二の二、甲一八)に照らしても採用できない。右の申請書や面接票は、事実を正確に記述しているものと認められ、他の鑑定資料である施設の看護記録(甲二の一ないし四七)などとともに、当時の状況を正確に示すものであって、本件のように双方当事者の対立が激しく、本件遺言時前後の太郎の状況について大幅に主張が対立している場合においては、鑑定の基礎資料としては、これ以上の客観的な資料はないというべきであるから、これを基礎として、精神医学の専門的な立場から判断をした本件鑑定は十分に信用できるものというべきである。
なお、長谷川式簡易知能評価スケールは、老人のおおまかな知能障害の有無や程度を簡易に測るために昭和四九年に考案されたもので、本人の年齢や、当日の年月日などの比較的簡単な問題に答える形式で、記憶、記銘を中心に見当識、計算、一般知識などの項目から構成されている。通常一〇分前後で実施することができるため、約二〇年以上にわたって、我が国における痴呆のスクリーニングテストとして定着した。平成三年に実情に合わせて改訂が行われ、本件では、その改訂版を用いて、テストが行われた。
前記の守口証言及び須貝鑑定も指摘するとおり、あくまでも簡易なテストであるため、右スケールで得られたテスト結果の点数だけから直ちに痴呆の有無や程度を測定するのは適当ではなく、他の資料と合わせて、総合的に判断するのが相当であると考えられている。本件鑑定においては、右テスト結果だけではなく、観察式行動観察尺度であるN式老年者用精神状態尺度(NMスケール)などをも使用して判定し、かつ、前述の鑑定資料を基礎として、鑑定人の精神医学に関する専門的知見や豊富な臨床経験から総合的に判断されたものである。
また、右テストにあたっては、検査者は被検査者との信頼関係を形成し、日常会話の中で穏やかに淡々と作業を実施することが望ましいとされるところ、証拠(甲四、守口証人)によれば、本件での同テストは右の趣旨に沿って、十分に時間をかけて実施されたことが認められるから、太郎の知的機能の状態に関する同テストの結果及び判定は信頼性が高いということができる。
また、被控訴人らは、①太郎には日常会話等による意思の疎通が確保され、対応する人物についての識別もできていたものであるから、高度な知的機能の低下はなく、痴呆にも該当しないと主張し、②太郎が施設のショートステイに入所する前後には、同居していた被控訴人郁子が心不全で倒れ、急遽入院することになったこと、それに伴い、太郎も初めて家族から一人離れて施設で寝泊まりをしなければならなくなったことなど、太郎を取り巻く環境の激変があったため、本人はそれに順応することができずに、施設内で異常と見られるような行動があったものであり、その後、施設から自宅に帰宅してからは異常行動はみられなくなったのであるから、仮に、施設内で放尿や異食などの異常行動があったとしても、これを過大に評価すべきではないと主張して、これに沿う被控訴人らの陳述書等を提出している。
しかし、須貝鑑定によれば、①本人に高度の知的障害があっても、例えば、穏やかな性格を持っている人の場合などには、周囲の状況の従順に従っているため、家族や他人との日常的なコミュニケーションが保たれ、本人に知的障害が生じているのに気が付かない例が珍しくはないこと、②痴呆症における症状には、記憶、見当識、判断力、抽象思考能力、行為遂行能力などの知的機能の障害という基本的な症状(中心症状)と、痴呆患者における痴呆の進行時期に応じたその時点ごとの認識レベルで出現する反応や症状(例えば、食事をしたのを忘れ、何度も食事をしようとするという症状。周辺症状)があり、環境変化に対する順応の仕方や行動の在りようも、痴呆の有無や程度を見る重要な手掛かりとなるのであって、もし、正常の高齢者に異食や放尿などの異常な行動がみられた場合には、意識障害時か急性の精神障害が生じている時期にしかありえず、当時の太郎の場合には、痴呆症状の兆候以外にそれを窺わせる所見は見当たらないことなどが認められる。したがって、被控訴人らの右主張は理由がなく、前記認定判断を覆すには至らない。
さらに、被控訴人は、須貝鑑定に対抗するものとして、精神科医である春日武彦作成の意見書(乙五七及び乙六二)を提出しているが、その中で同医師は、①本件のように対立の激しい事件において、利害関係を有する人物の思惑が関与する可能性のない資料のみを用いて鑑定することの当否、②改訂長谷川式簡易知能評価スケールによって得られた結果を鑑定においてどう評価すべきか、③痴呆の有無と遺言能力の有無をパラレルに考えることの当否に分けて論じている。そして、右意見書の内容を子細に検討すれば、右のいずれの問題についても、結局、須貝鑑定を否定するものではなく、もし、被控訴人ら主張の前提事実(例えば、前述のデイホーム申請書に「太郎が生肉を食べた」と記載したのは誇張にすぎないことなど。しかし、それに沿う被控訴人らの陳述書等の記載が採用できないことは前述したとおりである。)が仮に真実であり、それらの要素が加わると仮定すれば、結論も異なるであろうとするものであり、須貝鑑定の信用性を左右するものではない。
また、同医師は、特別養護老人ホームでの勤務経験から太郎の痴呆を終始否定している被控訴人弓子の供述の信用性について、「弓子は利害関係のある人物であり、また、父への思い入れもあり、したがって、発言には意識的か否かはともかくとして、多少のバイアスが加わっている可能性は否定できない。贔屓目に見た意見ではないかと疑ってかかるべきであろう。」と指摘する一方で、結論部分では、「公証人役場へ赴いた際の太郎は「具合の良いとき」に相当していたと思われ、…(中略)あえて当時の太郎の遺言能力を否定する理由は見当たらないと考えるものである。」としている。そして、右結論部分の主要な根拠としては、公証人の証言内容が信用できるからと考えていることが明らかである。しかし、同公証人の証言では、当時の具体的な状況が到底明らかではなく、これを基礎資料とすることができないことは後述するとおりである。そうすると、同医師の右結論部分は単なる推測の域を出ないといわなければならない。したがって、同医師の意見書は、須貝鑑定の信用性を左右するものではない。
六 次に、太郎の痴呆状態の程度について検討するに、前記認定のとおりの太郎の高度な知的機能障害の存在及び須貝鑑定(なお、改訂長谷川式簡易知能評価スケールのテスト結果と痴呆の程度の相関についての調査結果、柄沢式「老人知能の臨床的判定基準」(一九八九年)、N式老年者用精神状態尺度(NMスケール・一九八八年)に従っても、いずれも重度痴呆との判定となる。)によれば、痴呆の程度も高度なものというべきである。そして、須貝鑑定によれば、右の症状は急速に現れたものではなく、徐々に進行していったものと認められるので、本件遺言公正証書の作成時期が、右テストが実施される約一か月前であることを併せ考えれば、右作成の時点においては、太郎は高度の痴呆症状にあったものと認めるのが相当である。しかも、甲一号証によれば、本件遺言公正証書は本文一四頁、物件目録一二頁、図面一枚という大部のものであるうえ、その内容は前述のとおり極めて複雑かつ多岐にわたるものであって、法律実務家が一読しても直ちには理解できないと考えられることに照らせば、当時、高度の痴呆症状にあった太郎において右遺言内容を理解し、判断できる状況になかったことは明らかである。なお、証人河野博の証言は、公証事務に関する一般論を述べるにとどまり、太郎に対し、右の複雑な内容の遺言を逐一口授、説明したか否かについては記憶がないというものであって、右認定を覆すに足りないというべきである。
以上のとおり、本件遺言公正証書作成時点において、太郎は重度の痴呆症状にあり、本件遺言の内容を理解し、判断することができなかったものであるから、本件遺言は無効というべきである。
七 そうすると、控訴人の本訴請求は理由があるから認容すべきであり、他方、被控訴人於幸及び同郁子の反訴請求は理由がなく棄却すべきであるから、控訴人の本訴請求を棄却し、被控訴人郁子の反訴請求の一部を認容した原判決は相当ではなく、したがって本件控訴はいずれも理由があるから、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官奥山興悦 裁判官杉山正己 裁判官沼田寛)