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東京高等裁判所 平成9年(ネ)1424号 判決 1999年2月23日

控訴人

浅井岩根

控訴人訴訟代理人弁護士

武井共夫

鈴木義仁

芳野直子

栗山博史

上柳敏郎

野々山宏

小笠原伸児

坂田均

高山宏之

中嶋弘

被控訴人

岩崎琢弥

外一九名

被控訴人ら訴訟代理人弁護士

河本一郎

仁科康

藤井正夫

新保克芳

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴人の当審で拡張した請求を棄却する。

三  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

(略称は、本判決に示すほか、原判決中のそれと同一である。)

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決中、控訴人に関する部分を取り消す。

2  被控訴人らは、日興證券株式会社に対し、連帯して金九億六三〇〇万円(内金四五〇〇万円については当審で拡張された請求である。)及びこれに対する平成七年三月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  仮執行の宣言

二  被控訴人ら

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、平成二年から同三年にかけて、日興證券株式会社(以下「日興証券」又は「会社」という。)の株主である控訴人が、会社が平成二年一月から同年八月までの間に別紙目録記載1ないし9のとおり一部の大口顧客六名に対して合計九億一八〇〇万円の利益提供(以下「本件利益提供」という。)を行ったことは、平成三年改正前の証券取引法五〇条一項三号、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)一九条、取締役の善管注意義務・忠実義務等に違反し、これにより会社が損害を受けたから、その当時の代表取締役又は取締役である被控訴人らには、商法二六六条一項五号に基づく損害賠償責任があるとして、株主代表訴訟を提起し、被控訴人らが会社に対し、本件利益提供額に相当する損害を賠償することを求める事案である。

原審は右請求を棄却したので、控訴人は本件控訴を提起し、更に当審において請求を拡張して、損失補填等を実施したことを理由に、会社が東京証券取引所及び日本証券業協会から科された懈怠金ないし過怠金(以下「過怠金」又は「本件過怠金」という。)の合計四五〇〇万円相当の損害賠償請求を追加した。

本件における争いのない事実等、争点及び当事者の主張は、当審における当事者の主張及び控訴人の拡張した請求についての当事者の主張を、以下のとおり付加するほかは、原判決の三頁二行目から五六頁一行目までのとおりであるから、これを引用する。

一  当審における当事者の主張

1  独占禁止法違反(争点3)について

(控訴人の主張)

(一) 原判決は、本件利益提供が独占禁止法一九条に違反するという認識を欠いたことにつき過失があるとするためには、具体的な法令違反についての認識の可能性がなければならないとする。

しかし、右判示によれば、被控訴人らは、損失補填(以下では、本件利益提供を含めて「損失補填等」、「損失補填」などとという。)が独占禁止法という具体的な法律に反することを認識する可能性のない限り、商法二六六条一項五号の責任を負わないことになるが、これでは取締役の右責任の成立範囲が不当に狭められることになる。

(二) 通常人に「違法」の認識があるというためには、「違法」という規範的要件について、その一般的・社会的な意味を認識していれば足りるというべきである。すなわち、行為者が規範の問題に直面しているといえるためには、特定の法律による法的評価を基礎づける事実の意味・性質を知っていることが必要であるが、事実が特定の法律の条項に反することまでの認識は不要である。そして、不注意によって「事実の意味・性質」を認識しなかったのであれば、過失が認められる。被控訴人らについて問題とされるべきは、当該規範違反を基礎づける事実の意味・性質についての認識があったのか、すなわち独占禁止法が保護する公正かつ自由な競争を害する認識があったのか否か、認識がなかったのであれば、認識の可能性があったのか否かという点である。

(三) 本件損失補填等を行う時点において、被控訴人らは、損失補填の有する意味・性質、すなわち正常な商慣習に違反する不当な顧客誘因行為であり、競争の姿としても本来あるべき姿ではないということを認識していたが、ただそれが独占禁止法という名称の法律に違反することを知らなかっただけである。以上の認識があれば被控訴人らは規範に直面したはずであり、違法性の認識に欠けるところはない。したがって、被控訴人らは、十分な違法性の認識を有していたといえるのであるから、独占禁止法違反という違法な結果に対応する故意があったものと認められる。

(四) 仮に故意が認められないとしても、被控訴人らには、損失補填の有する右のような意味・性質を認識する可能性が十分にあり、少なくとも損失補填の問題性を認識しながら法的な検討・調査を行わなかった点において、取締役として大きな過失があると認められる。

(被控訴人らの主張)

(一) 控訴人の主張は、判例・通説に反する独自の見解である。

商法二六六条一項五号の責任は過失責任であり、取締役が受任者として果たすべき善管注意義務を履行したか否かによって、その適用・不適用を決するというのが判例・通説であるが、この場合に、その注意義務の対象から法令の存否に関する認識ないし認識の可能性の検討を除外する理由はない(最高裁判所昭和五一年三月二三日判決)。実際問題として、同じく違法といっても軽重の差異がある。例えば、独占禁止法について、私的独占及び不当な取引制限には刑事罰があるが、不公正な取引方法にはこれがない。したがって、軽々に過失を認めることは、取締役にとり極めて酷な結果をもたらすし、ひいては取締役の行動に萎縮をもたらし、委任者たる株主にとっても、かえって期待に反する結果となる。

(二) 被控訴人らは、本件損失補填等を顧客の獲得競争の具として行ったものではなく、ひたすら、常識的に自社の顧客大事として行動したものである。

現在の自社顧客も潜在的には他社の顧客であるから、現在の自社の顧客関係を維持しようとすることは一般指定九項の「競争者の顧客を自己と取引するように誘引すること。」に該当する等というのは、法律専門家の解釈であって、一般人の解釈ではない。

(三) 被控訴人らは、独占禁止法違反の問題があるなどと考えてもいなかったのであるから、同法違反になるか否かについて法律専門家に相談しなかったのは当然である。

2  善管注意義務・忠実義務違反(争点4)について

(控訴人の主張)

(一) 原判決は、取締役の義務違反の判断において、「経済的利益や損害」の考慮が主要な判断基準であるとしたが、商法二六六条、二六七条の解釈適用を誤ったものである。

株式会社は、どんなことをしてでも「会社・株主の経済的利益を最大にするように努めること」が許されるのではなく、あくまでも法令や社会的相当性の範囲で「会社・株主の経済的利益を最大にするよう努めること」が許されるにすぎない。そして、右に対応して、株式会社の機関である取締役の義務は、どんなことをしてでも「会社・株主の経済的利益を最大にするよう努めること」ではなく、あくまでも、法令や社会的相当性の範囲で「会社・株主の利益を最大にするよう努めること」にある。

商法二五四条の三(取締役の忠実義務)と二六六条(取締役の会社に対する責任)一項五号とで、解釈を別異にする根拠はない。原判決は、商法二五四条の三の「法令」について、「会社財産の保護を直接・間接の目的とする法令」に限定されず、すべての法令が含まれるとしながら、他方、商法二六六条一項五号の解釈においては、損害賠償という効果から、取締役の責任要件となる義務内容を経済的損害に関するものに限定して解釈しているが、このことには合理的根拠がなく、一般民法の不法行為や債務不履行の要件効果論とも異なっている。

(二) 原判決のいうように、一般的に「発生する損害との関係で責任原因を構成する」のが相当であるとして、義務内容を限定するのは本末転倒である。原判決がいうように、「社会的相当性を欠く行為がそのまま責任原因となるとすると、主観的・客観的非難の程度と損害賠償額とがかけ離れたものとなる場合がある」としても、寄与相当額を因果関係ある損害と把握する等の手法により、損害賠償額を相当額に限定することは理論的に可能である。仮に原判決のように解すると、結局、取締役は、経済的損害がなければ(ないし、立証できなければ)社会的に相当でない行為をしてもよい(責任を負わない。制裁を受けない。)ということに帰してしまう。

(三) 原判決は、本件損失補填等について、「法令違反ではなく社会的相当性を欠くにとどまる行為」であると判示したが、このような評価は誤っている。

本件においては、独占禁止法違反の客観的事実と、本件通達及び公正慣習規則違反の事実について、分断して把握するのではなく、全体として把握した上で、被控訴人らに善管注意義務違反ないし忠実義務違反があるかどうかを検討すべきである。

仮に損失補填が当時の証券取引法に違反しないとか、被控訴人らには独占禁止法違反の認識がなかったとする原判決の立場に立ってみても、独占禁止法違反の客観的事実は明らかであり、加えて、証券会社として利益を圧迫しても遵守すべき本件通達及び公正慣習規則に反したもので、社会的相当性を著しく逸脱するものである。

(四) 以下の事実によれば、本件利益提供を実行するに際し、被控訴人らが経営者として慎重に注意を尽くして対応したということはできない。

(1) 被控訴人幸は、本件通達の趣旨について、営業特金解消のためには損失補填等を行ってもかまわないと誤解し、被控訴人岩崎らは右誤解に基づいてその後の方針を決定している。

すなわち、被控訴人幸は本件通達について明らかな誤解に基づく報告を行い、他の被控訴人らも、被控訴人幸の報告が本件通達の明文と大きく食い違っていたから、被控訴人幸の誤解ではないかを確認し正確な理解をして対処すべきであったのに、これをしないまま被控訴人幸の報告を鵜呑みにして、損失補填等により営業特金を解消するとの方針を決定したのであるから、被控訴人らの善管注意義務違反は明らかである。

被控訴人らは、被控訴人幸が大蔵省の水谷証券局業務課長と面談した結果、本件通達の主眼が営業特金の早期・全面的解消であると理解したと主張し、原判決もこれと同様の認定をして、かかる理解が誤りであったと断定することはできないと判示した。

問題は、本件通達の第一項において明確に損失補填を厳に慎むことが求められ、通達の趣旨として大口顧客への損失補填により公平感、信頼感が損なわれたため、営業姿勢の適正化が必要であることが通達の前文で明示され、説明会でも水谷課長から同旨のことが述べられているのに、このような明文に反して、営業特金の解消が主眼であり、そのために損失補填してもやむを得ないと理解した点にある。本件通達の文言をみても、説明会での水谷課長らの説明をみても、営業特金の解消こそ主眼であるとか、他の項目は重要でないというような趣旨の文言・発言は全く窺われず、逆に、平成元年末に起きた大和証券の損失補填問題により、証券市場の信用が失墜したために、損失補填を禁止する通達を発したとの趣旨説明がされている。このように、本件通達の趣旨は、証券市場の信用回復のために損失補填を禁止することにこそ主眼があっても、営業特金の解消が主眼であるということはあり得ない。

(2) 被控訴人幸が大蔵省証券局業務課長と面談してから平成二年一月一六日の経営連絡会議までのわずか七、八日の期間では、営業特金を持つ顧客とは「感触というか、向こうの意見を聞く」程度の交渉しかできなかったし、営業特金を持つ顧客数は三〇〇ないし三五〇であったから、実際には交渉を開始していない顧客の方が多かったはずである。この程度の簡単な交渉を経ただけで、被控訴人らが経営連絡会議で損失補填等をする方針を決定したのは、余りにも安易であったといわざるを得ない。

(3) 日興証券は、損失補填のために、平成二年三月期においては経常利益の九パーセント、平成三年三月期においては経常利益の四分の一に相当する巨額の出損をした。日興証券の業績は、平成三年三月期以降低迷を続けている。この間の損失補填額四七〇億円余は、平成二年から九年まで八年間の当期利益及び当期損失の累計額四一八億円を超えるものであった。経営は、常に将来の不調を見通して万全を期するべきものであり、平成四年以降の巨額の当期損失をみるとき、平成二年三月期及び平成三年三月期の四七〇億円余りの損失補填が日興証券の経営の健全性を著しく害したことは疑いがない。

この二年間で四七〇億円を超える巨額の出捐をしたことは、企業にとって極めて重要な案件であるから、「重要なる財産の処分」(商法二六〇条二項一号)又は少なくとも「その他の重要なる業務執行」(同条二項柱書)に該当することは明らかである。

これほどに重要な本件利益提供に関する案件については、本来であれば取締役会で討議して決定しなければならず、この決定を一部の取締役に委任することは法的に許されないことであった。

ところが、これほど重要な案件について、被控訴人らが経営連絡会でも取締役会でも、意見表明、討議、質問をした形跡すらない。平成二年一月二二日の取締役会では、一時間四〇分の間に合計九つの議題を報告した中で、損失補填についても報告されたのであるから、損失補填に関して割かれた時間は、ごくわずかでしかなかったと考えられる。

(4) 平成二年四月二六日の取締役会では、二時間一〇分の所要時間で、合計八つの議題が報告されており、被控訴人幸が損失補填について報告して異議なく了承を受けたのであるが、個別の具体的な報告、討議は一切されなかった。本来ならば、その際には、個々の顧客に対する損失補填等について、当初の交渉、実施方針決定後の交渉の経緯、当初予想と顧客の反応とのずれの有無・程度、実施した損失補填等の相手方と金額等の結果について、個々具体的に報告し、それがやむを得なかったか否かを検討すべきであったはずである。

(5) 被控訴人らは、損失補填等をするに当たり、どのような顧客に、どの程度の金額を支出するかについては、何ら基準もなく、ただ交渉の結果相手方が納得しなければ支出するというような状態であった。被控訴人らが個々の顧客について具体的な重要性や必要性を事前に検討しないまま損失補填に走ったことは、明らかである。

(五) 原判決が、損失補填等の決定・実施の判断の前提とすべき資料・情報の収集・提供が不十分であったと認めなかったのは誤りである。

本件で問題となっているのは、二期で四七〇億円を超える資金流出を伴う損失補填等であり、その中には過剰補填や利益供与も存在するのであるから、取締役は真にそのような支出が必要やむを得ないものかどうかを慎重に吟味しなければならない。そのためには、営業特金の数、金額、損益状況を、会社全体及び各顧客ごとに分けて把握する必要がある。また、顧客の意向、顧客と日興証券との関係、顧客及び投資資金の性格、補填などが経営に及ぼす影響、市場や投資家に与える影響などを具体的に把握し、真に損失補填等が必要か否かを検討しなければならない。

ところが、被控訴人らは、平成二年一月一六日の経営連絡会でも、同月二二日及び同年四月二六日の各取締役会でも、個々の顧客ごとの数字や営業特金の状況を示す資料も配付していない。長期間にわたる取引関係があり、巨額の取引を行ってきた顧客の取引関係を報告・説明するとすれば、資料を作成・配布することが必要不可欠であるところ、被控訴人らは、それすらしないで了承したというのであるから、被控訴人らの判断の前提として、資料・情報が十分でなかったことは明らかである。

被控訴人らは、資料すら見ないままで損失補填等の実施を決定したのであるから、個々の具体的な補填先との交渉の経緯などには一切触れずに抽象的に決定してしまったのであり、かつ、会社の全体状況を考慮しないで、いわば行き当たりばったりに補填していったのである。

(六) 原判決が、具体的な利益提供先、額の決定を一部の取締役に委任したことをやむを得なかったとしたのも誤りである。

この決定を一部の取締役に委任することが法的に許されないことは前記のとおりである。

また、顧客との交渉によらざるを得ないとしても、交渉の結果を取締役会において書面で報告し、補填等をすべきか否かを決定すれば足りるのに、被控訴人らは、取締役会で、補填する顧客としない顧客との区別基準、利益供与する顧客としない顧客との区別基準、支出する金額の基準など、一切決めずに、被控訴人平石ら経営企画部門に一任してしまったのであり、このような一任がやむを得ないとはいえない。

(七) 原判決には、以上の(四)ないし(六)の三点を分断して評価して、全体的評価を怠った誤りがある。(四)ないし(六)で述べた対応が、巨額の資金流出をさせる前提としては、余りにも杜撰であることは明らかである。

(八) 原判決は、被控訴人らが、損失補填等を行うに当たり、弁護士や法務部門の意見を聞こうとすらしなかった点を看過している。

その意見を求めていれば、損失補填等を回避するように助言を受けたことは容易に理解できる。少なくとも、本件で問題となった巨額の損失補填等は避けなければならないと指摘されたはずである。

このような場合、法律専門家に意見を求めることは、経営者として当然のことであり、それすらしない点に重大な善管注意義務違反がある。

(九) 原判決は、補填額が損失額の範囲にとどまるものも、そうでないものも、自己責任の原則に反する利益の提供であることに変わりはなく、平成三年改正後の証券取引法が、損失の補填と利益の追加を区別せず同一の罰則を科していることも考慮すると、損失がないのに、あるいは、損失額を超えてした利益提供が、損失額の範囲内のそれに比して格段に悪質であるとするまでの理由はない、と結論づけているが、明らかに不当である。

個々の違法行為に対して具体的にいかなる刑が宣告されるのかは、法定刑の範囲内で個々の行為の悪質さなどを勘案して決定されるのであり、したがって、罰則が同一であることは、個々の行為の悪質さが法的に異なることを否定する理由とはならない。

善管注意義務違反があったかどうかの判断は、具体的状況の下で被控訴人らがいかなる判断を行い、どのような行為をしたのかという具体的事実関係に即して判断されるべき問題なのであるから、損失発生の有無、発生していた場合の金額、補填額等の事実関係に全く目をつぶった原判決の姿勢は、怠慢の誹りを免れない。

なお、原判決は、一方で、争点1(証券取引法違反について)の判断において、証券取引法では罰則を全く区別していない損失保証と損失補填について、一般的に質的な違いがあることを明確に述べている。このように、原判決は自家撞着に陥り、論理破綻している。仮に争点1の判断が正しいとすれば、罰則が同一であるということは全く根拠になり得ないことは、この点からも明らかである、

(一〇) 公立学校共済組合について、平成二年三月期に「取りあえず利回りが生じるようにしてほしい。」と同組合が希望していた事実を認定し得る証拠は存しない。仮にそのような事実が存在していたとしても、営業特金を解消することが目標であったというのであるから、営業特金解消と結びつけずに取りあえず利益提供を行うというのは、交渉のやり方としては最悪で、会社の損害をいたずらに拡大する行為と評されてもやむを得ない。

しかも、平成二年三月期の損失補填額は三七億一六〇〇万円であって、損失合計一一億四〇〇〇万円に比して著しく過剰なものである。かかる莫大な損失補填を取りあえず行ったのに、同年六月の確認書の徴求も全くの形式にすぎなく、営業特金は解消されずに残存していた。したがって、真摯な交渉努力の痕跡はなく、漫然と本件利益提供をしていたものと判断せざるを得ない。

(被控訴人らの主張)

(一) 商法二六六条一項五号は、具体的法令違反行為が原因となる損害が会社に生じた場合に、その損害を違反行為をした取締役に賠償させることによってその責任を問おうとするものである。会社に現実に損害が生じていない場合に、損害賠償責任を負わせることは論理的に不可能であるが、取締役解任の制裁(商法二五七条)を受ける可能性はある。また、株主代表訴訟によって実現しようとするものは、本来、会社が取締役に対して有している損害賠償請求権であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。株主が代表訴訟提起権を有するからと言って、取締役が負担しない損害賠償義務が存在することになったり、賠償額が増大せしめられたりするものではない。控訴人の主張は、原判決に対する甚だしい曲解にほかならず、また、商法二五四条の三及び二六六条一項五号の各規定の関係を全く誤解したものである。

(二) 政府の政策の後押しを受けて膨れ上がったバブルは、それがバブルである以上、当然に崩落の時がきた。しかも、その頂点が高かっただけに、落ち込みの度合いが大きかったのも当然である。その損害をもろに被ったのは、土地であり、株式であり、その株式を対象としていた特金であった。これを、急いで解消しなければ、株価の更なる下落によって被害は更に増大する。このような状況下にあって、本件通達の趣旨は、営業特金(特金のうち、顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されていないもの)の早期の解消にあるとして、これを実行するために、日興証券のみならず、当時の多くの証券会社がやむを得ず行ったのが損失補填であったのである。それは、我々日本人が今なお脱却できずに苦しんでいるこの不況の原因となった巨大なバブルの崩壊過程で起こった現象である。したがって、現在の時点において、これについて法的評価を下すに当たっては、それがいかなる社会的・経済的条件の下において行われたものであるかの認識こそが重要である。

(三) 本件での中心問題は、平成二年一月から三年三月までに行われた損失補填等が被控訴人らの善管注意義務に反するかどうかの判断である。その判断の基準となるのは、その行為当時における経済情勢及び日興証券の財政状態についての判断に関して被控訴人らに重大な誤りがあったかどうかである。あの当時、バブル崩壊に伴う不況がこれほど深刻にして長期的なもの(既に八年になるのに、いまだ回復の気配がない。)になるとは、誰が予測し得たであろうか。控訴人が「四七〇億円余の損失補填が日興証券の経営の健全性を著しく害したことは疑いのないところである。」というのは結果論である。このような結果からして、控訴人が、本件損失補填等の時点において、日興証券の経営の健全性を著しく害することを認識していた、又は認識し得たと主張するのであれば、それは、先に述べた今回のバブルがいかに巨大であり、したがって、その崩壊がわが国の経済にいかに甚大な被害を与えたかという経済の流れを被控訴人らは予測すべきであったというに等しく、それは全く無理な要求である。

(四) 本件利益提供がされた当時、被控訴人らには、独占禁止法一九条に客観的に違反するとの認識はなく、また、その認識のないことについて過失がなかったことが明らかである。したがって、後から同条違反であることが客観的に明らかになったからといって、これをも善管注意義務違反の有無の判断に際し、判断材料の一つに加えよというのは、論理的に成り立ち得ない。被控訴人らの行為が善管注意義務違反であったかどうかは、その行為がされた当時の事実を前提にして判断されるべきである。

本件通達と公正慣習規則とを別個に取り扱うべき意味はない。原判決が、本件通達及び公正慣習規則に違反することについて、社会的に強い非難に値するが、法令違反ではなく社会的相当性を欠くにとどまる行為であると判示したことに、控訴人の主張するような誤りはない。

(五) 日興証券では、かねてより営業特金の解消の必要が認識されており、すでに昭和六三年より損失補填を伴う営業特金の解消を開始している。既に解消の必要性などについては、全役員において理解済みのことであり、本件通達によりその実施が早まったにすぎない。

本件通達は、「特定金銭信託契約に基づく勘定を利用した取引については、原則として、顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されたものとすること。」としている。これに従って特金勘定取引について投資顧問契約が締結されるならば、顧客に対して投資判断に関して助言を与えるか、又は顧客から投資に関し一任を受けるのは投資顧問会社となり、証券会社は信託銀行に対する運用指図を行わないことになる。したがって、証券会社が委任を受けて運用指図を行っていた「営業特金」は解消とならざるを得ないのである。

この理解に基づき、被控訴人幸から被控訴人岩崎及び被控訴人髙尾に報告が行われ、これら三者で協議し、本件通達等の趣旨に即して、日興証券において営業特金の早期・前面的解消を図ることとしたことは、何ら被控訴人らの善管注意義務に反するものではない。

(六) 本件利益提供は、その相手方に被控訴人らと個人的な関係のある顧客もなく、被控訴人らが個人的な利益を得るためでなかったのは、もちろんのことである。被控訴人らは、膨らみすぎた営業特金を解消しなければならないという当時の状況において、将来的にも日興証券に多くの収益をもたらす可能性が高いと判断した顧客について、他に方法がない場合に、簿外で処理しないとの方針を堅持した上で、経営上必要かつやむを得ないものと判断して本件利益提供を実行したものである。

以上のとおり、顧客との円満な関係を維持するためにやむを得ず損失補填を行うこととした被控訴人らの判断は、企業人として極めて合理的なものであり、他の誰が取締役であっても同じ行動をとったと考えられるものである。したがって、被控訴人らの判断・行為に、取締役としての善管注意義務違反ないし忠実義務違反はない。

(七) 控訴人の主張は、形式的な討議の有無及び時間のみを問題とするものであり、すべての事項について会社の取締役会で逐一検討すべきであるとするもので、経営の実態に合致しない。株式市況が急落を示し始めていた当時の状況で、経営者である被控訴人らに迅速な判断が求められていたことを全く無視している点で失当である。ほとんどの証券会社が営業特金の解消のために損失補填を余儀なくされたように、重要な顧客には損失補填をしてでも営業特金の円満な解消に務めることが必要であり、株価が大きく変動する中で、日々営業特金の損益が大きく変動することを考えれば、営業特金の解消方法について、取締役会が一部の取締役に委任することにこそ経営の合理性がある。また、顧客との交渉、損失補填額の決定を円滑かつ機動的に進めるために、企画部門に一任したことにこそ十分な合理性があったのである。そして、一任した結果は、最終的には取締役会に報告され、承認を受けているのであるから、一任することが法的に許されないとする控訴人の主張は理由がない。

控訴人の主張は、営業特金の解消のための顧客との交渉が困難を極め、多くの顧客に対しては損失補填なしに何とか解消にこぎつけたものの、折衝を重ねてもなお解消することに納得を得られない顧客について、様々な事情を考慮して損失補填の決定をしたことを無視するものである。被控訴人平石が原審の法廷で陳述するとおり、幹事関係の維持、ブローカー業務の主要顧客としての関係の維持など、さまざまな事情を考慮して決定したのであり、一律何パーセントなどの基準を設けるような性質のものではなかった。多数の顧客と日々株価が変動する中で何度も交渉を行い、ようやく営業特金解消の合意に至るのであり、いちいち経営連絡会及び取締役会に諮って決定しなければならないというのは、およそ合理性を欠くものである。

(八) 日興証券は、公立学校共済組合に対して、平成二年三月期に、取りあえず若干利回りが生ずるようにして欲しいとの希望に沿って補填を行った(右のような希望があったことは、原審における被控訴人平石の供述によって認めることができる。)。

平成二年三月に補填を行ったのは、営業特金解消、すなわち日興証券国際投資顧問会社と運用一任契約を締結するよう交渉しており、その交渉継続を前提とするものである。一定の成果が上がることが各支給の前提となっている同共済組合の資金の特徴に照らして補填を実施したものであり、そうした実情に応じた解決を試みた結果として、最終的におおむね収支バランスするレベルで決着を見て、日興証券国際投資顧問会社と運用一任契約が締結されたのである。

二  控訴人の拡張した請求についての当事者の主張

(控訴人の主張)

1 日興証券は、東京証券取引所からは、平成三年七月に懈怠金五〇〇万円を、さらに同年一〇月に過怠金五〇〇万円を科され、また、日本証券業協会からも、同年七月に過怠金一〇〇〇万円を、さらに同年一〇月に過怠金三〇〇〇万円を科された。日興証券は、右の過怠金の支払を余儀なくされたため、これと同額の損害を被った。右の東京証券取引所から科された過怠金一〇〇〇万円及び日本証券業協会から科された同年七月の過怠金一〇〇〇万円の内金五〇〇万円及び同年一〇月の過怠金三〇〇〇万円の合計四五〇〇万円は、いずれも本件利益提供を含む損失補填等を行ったために科されたもので、本件利益提供のほかの損失補填と因果関係を有する損害である。

2 控訴人は、当審において右の過怠金に係る損害について、被控訴人らに対する請求を拡張し、商法二六六条一項五号に基づく損害賠償として、日興証券に対し、連帯して右四五〇〇万円及びこれに対する平成七年三月一七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

3 監査役に対する訴訟提起請求においては、右請求がいかなる事実・事項について取締役等の責任追及を求めているのかが分かるようなものでなければならないが、そのためには、当該事案の内容、会社が認識している事実等を考慮し、会社において、いかなる事実・事項について責任の追及が求められているのかが判断できる程度に特定されていれば足りると解すべきである。

控訴人は、日興証券の監査役に対する訴訟提起請求中において、証券取引所及び日本証券業協会が過怠金を科した原因たる損失補填の時期と事実は指摘していた。過怠金は本件利益提供を含む損失補填と社会的には同一の事実関係から派生した損害である。したがって、当審における請求の拡張についても、株主代表訴訟の手続要件は満たしている。

4 控訴人は、過怠金について、独占禁止法違反、善管注意義務違反による損害として主張しているものであるから、特に審理の遅延を生ずることはあり得ない。当審における請求の拡張について、時機に後れたものということはできない。

5 過怠金は、何の利益も生み出さない純然たる損害であって、その支払は何の見返りも期待できない性質のものであるから、とうてい正当化し得ないものである。

取締役としては、過怠金のような損害を会社に生じさせないように善良なる管理者としての注意を払うべきところ、被控訴人らは、本件通達や公正慣習規則に違反していることを承知で、社内処分や行政処分も覚悟の上で、本件損失補填を行ったというのであって、過怠金の制裁を避けるべく何の注意も払っていなかったのであるから、少なくともこの点での善管注意義務違反は明らかである。

本件過怠金の支払に関しては、本件損失補填自体が違法であり損失補填額が損失であるとする考え方からは、当然違法行為に基づく損害に含まれることになる。仮に、原判決のように、「発生する損害との関係で責任原因を構成」するとの考え方によれば、損失補填額そのものに関しては損失補填が違法でないとしても、本件過怠金の支払との関係においては、本件損失補填が違法であると考えられるべきである。被控訴人らは、原判決の論理によっても、過怠金四五〇〇万円の範囲で損害賠償の責任を負っている。

(被控訴人らの主張)

1 控訴人が日興証券の監査役に対して訴訟提起請求の手続をした際に、日興証券の損害とされていたのは損失補填額のみであった。当審における請求の拡張にかかる過怠金については、監査役に対する訴訟提起請求の手続がされていないから、株主代表訴訟に必要な手続的要件を欠いている。

2 この過怠金の制裁は、東京証券取引所及び日本証券業協会それぞれの定款(取引の信義則に反する行為の禁止)違反を理由とするものである。右定款については原審で全く議論が行われていないから、東京証券取引所及び日本証券業協会の性格、右定款の定めが果たして商法二六六条一項五号の「法令」といえるか、右定款違反について被控訴人らの認識の有無、認識しなかった点に過失があるか、また、過怠金の制裁が決まった経緯など、本件訴訟手続の全体からして時機に後れた主張・立証がされることは明らかである。今になって請求の追加をすることは、極めて時機に後れたものであり、いたずらに訴訟遅延を招くものであるから、却下されるべきである(民事訴訟法一五七条)。

請求額の多寡で貼用印紙に増減を生じない株主代表者訴訟において、特段の理由もなしに一旦減縮した請求の増額を許すとすれば、被告となる取締役は常に不安定な地位に置かれることになる。当審における請求の拡張は、株主代表訴訟制度の濫用というほかない。この点からも当審における請求拡張の申立ては却下されるべきである。

3 証券業協会の定款その他の諸規則は、公法的規範というよりむしろ商業道徳規範である。すなわち、平成四年の法改正前、証券業協会は、同業者の連絡的色彩が強い私法上の団体にすぎず、その定款や自主規制規範である公正慣習規則は、基本的には商業道徳規範で、その一部に義務的な規程があってもそれは訓示規定というべきもので、証券取引に関する公的秩序を形成するほど規範性を持つものではなかった。

本件過怠金の実質は、過怠金を科すことで証券業界の信用回復を図ろうとしたものであって、制裁としての性格は有しない。

東京証券取引所の過怠金についても同様であって、これにより証券業界の信用回復を図ろうとしたものである。

右のとおり、本件過怠金は、いずれも実質的には制裁金としての性格を有しないものであり、経営判断として本件損失補填を選択した結果生じた一種の費用といっても良いものである。したがって、本件損失補填が日興証券の将来の経営に必要かつやむを得ないという経営判断に被控訴人らの善管注意義務違反がない以上、損失補填行為に形式的付随的に生じた過怠金の支出について、本件損失補填の経営判断とは別個の独立した経営判断上の過失が生ずるということは条理上も不当であって、あり得ないことというべきである。

また、日興証券は、これまで過怠金の処分を受けたことはなかったし、本件の前年に損失補填したことで大きく報道された大和証券も、過怠金の処分を受けなかった。そして、そもそもいかなる行為が過怠金を付加されるほどの違反となるかは極めて不明瞭であった。したがって、仮に本件過怠金が制裁としての性格を有するとしても、被控訴人らにとって日本証券業協会や東京証券取引所から過怠金の処分を科されるとは到底予期できるものではなかったから、その点に過失はなく、損害賠償義務はない。

第三  証拠

証拠の関係は、原審及び当審記録中の証拠目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

第四  当裁判所の判断

当裁判所も、被控訴人の本訴請求は、当審で拡張した請求部分を含め、すべて理由がないから、これを棄却すべきものと判断する。その理由は、以下のとおり付加するほかは、原判決の「事実及び理由」の「第三 争点に対する判断」のとおりであるから、これを引用する。

一  控訴人の当審における主張に対する判断

1  独占禁止法違反(争点3)について

(一)  控訴人は、違法の認識があるというためには、「違法」という規範的要件について、その一般的・社会的な意味を認識していれば足り、特定の法律による法的評価を基礎づける事実の意味・性質を知っていることが必要であるが、事実が特定の法律の条項に反することまでの認識は不要であり、本件においては、独占禁止法が保護する公正かつ自由な競争を害する認識があれば足りる、と主張する。

しかし、まず、控訴人の右主張自体、その趣旨が明確ではない。すなわち、そもそも事実の意味・性質の認識(なお、ある事実の「意味・性質」といっても、常にある特定の観点から見た意味・性質があるだけであって、事実の一般的・抽象的な「意味・性質」というものはあり得ないはずである。)とその事実が特定の法律の条項に反するという認識とを截然と区別できるのか疑問であって、事実の意味・性質を認識することが必要であるということは、結局、その事実が特定の法律の条項に反するという認識を必要とするということに帰するのではないかと考えられる。控訴人は、本件に即していえば、独占禁止法が保護する公正かつ自由な競争を害する認識があれば足りると主張するが、このような認識は単なる事実の認識ではなく、事実についての法的評価であるといわざるを得ない。根岸哲教授は、独占禁止法が禁止する不公正な取引方法の一般指定九項が規定する不当な利益による顧客誘引について、「「正常な商慣習に照らして不当」であるか否かは、高度に複雑かつ微妙な法的評価を含む判断が要求されることになる。このように、不当な利益による顧客誘引の構成要件事実は、単なる客観的事実それ自体ではなく、高度に複雑かつ微妙な法的評価を含んだ事実であり、構成要件事実の認識と違法性の認識とは、性質上、本来、区別することのできない不可分一体のものであり、事前に不当な利益による顧客誘引の構成要件事実を認識することは極めて困難なことである。」と述べており(乙三五)、首肯することができる見解というべきである。

(二)  仮に、控訴人の主張する事実の「意味・性質」の認識と特定の法律に違反することの認識とを区別できるとしても、右主張は、独自の見解であって、採用することができない。商法二六六条一項五号に基づく取締役の損害賠償責任が成立するためには、具体的な法令違反についての認識又は認識の可能性がなければならないと解するのが相当である。

(三) 被控訴人らに、「独占禁止法が保護する公正かつ自由な競争を害する認識」があったことを認めるに足りる証拠もない。

被控訴人平石は、原審本人尋問において、損失補填が自己責任の原則に反し、証券市場に対する信頼を失わせるものであることは証券業に携わる者の常識であって、問題のある行為であるという認識はあること、損失補填によって顧客獲得をしたり、顧客維持をすることは本来の競争の姿ではなく、してはならないことであるという認識は本件通達の前から持っていたこと、本件損失補填は法的なレベルで問題が生ずるのではないかとは考えていたことを認めているが、この供述によって直ちに被控訴人らに控訴人の前記主張のような認識があったということはできない。

被控訴人幸は、当審本人尋問において、損失補填は自己責任の原則に照らすと決して良いことではないと平成三年の証券取引法の改正前から思っていた、独占禁止法違反の問題については、突如としてそのような話が起こってきたというのが印象であって、損失補填が独占禁止法に違反するかどうかは、法律的には現在でも良く分からない、と供述しており、やはり被控訴人らに控訴人の右主張のような認識があったということはできない。

(四) そして、原判決が説示するとおり(「事実及び理由」の「第三 争点に対する判断」の三の3)、被控訴人らが本件損失補填等が独占禁止法に違反するという認識を欠いたことについて、被控訴人らに過失があるということはできない。

なお、根岸哲教授の意見書(乙三五)は、損失補填が独占禁止法違反を構成することを認識し得なかったとの判断の根拠として、① 不当な利益による顧客誘引の構成要件事実は、高度に複雑かつ微妙な法的評価を含んだ事実であり、事前に右構成要件事実を認識することは極めて困難なことであること、② 従来、不当な利益による顧客誘引に該当するとして公正取引委員会が取り上げた審決事件は極めて少なく、昭和五七年の不公正な取引方法一般指定の改正以後は、不当な利益による顧客誘引を定める一般指定九項については、全く取り上げられることはなかったこと、③ 証券会社は、独占禁止法制定以来長期にわたって同法の適用を受けたことはなく、公正取引委員会が証券業界に対して初めて独占禁止法を適用したのは、平成三年一一月のことであり、二件目が本件損失補填等についての同年一二月二日の審決であり、これがいわゆる実質違反の事件としては最初のものであったこと、④ これ以前にも大手証券会社による損失補填が社会的問題としてクローズアップされたことがあったが、公正取引委員会は何らの措置もとらなかったし、損失補填が不公正な取引方法の一般指定九項の不当な利益による顧客誘引に該当し独占禁止法違反であるという見解を示していた専門的論文もなく、同法専門家の間においても、一般的に、損失補填が独占禁止法と関連するという認識すら全く持たれていない状況にあったこと、⑤ 大手証券会社に対する右審決を行った当時の公正取引委員会の委員長においても、当該事件の排除勧告直前まで、損失補填は独占禁止法上の問題というよりは、むしろ証券取引上の問題であると述べていたこと、⑥ 右③ないし⑤のような状況にあった理由は、第一は、証券業は、証券取引法等に基づき大蔵大臣により高度に規制された産業であり、当該規制により証券会社の競争の自由は大幅な制限に服してきており、このようなことから、行政側においても証券会社側においても、長期にわたり、証券会社の自由な競争行動を前提にする独占禁止法の適用について認識することがなく、証券業界はあたかも独占禁止法の聖域であるかのような状況を呈していたことであり、第二は、立法上の不備により、証券取引法と独占禁止法との適用関係が極めて複雑かつ不明確であったことであり、この適用関係について明らかにした判例も公正取引委員会の見解も、従来、全く存在しなかったことであること、以上の点を挙げており、この結論と理由に疑いを差し挟むべき根拠は見いだすことができない。控訴人は、右意見書について、根岸教授がこの意見書で述べていることは、同教授が損失補填の独占禁止法上の問題を真剣には考えたことがなかったと言っているにすぎない、当時真剣に検討したとしたならば、独占禁止法違反との結論が出た可能性もある、と主張しているが、この主張が採用できないことは意見書の内容自体及び乙一三の一、二の座談会における同教授の発言に照らして明らかである。

また、甲二二によれば、久保利英明弁護士は、平成五年五月に発行された雑誌の論文(講演の内容を文章化したもののようである。)において、同弁護士が、損失補填をした理由についての証券会社の説明を聞いて、損失補填が明らかに独占禁止法に違反する行為であることを直ちに理解し、同弁護士以外にも、関西の証券問題研究会所属の弁護士も、このことに素早く気づき、損失補填は明らかに独占禁止法違反の行為であるとして、公正取引委員会に対して措置請求をした、と述べていることが認められる。しかし、右論文が発表されたのは本件損失補填等の数年後であり、甲二二から直ちに被控訴人らに過失があるということはできない。

2  善管注意義務・忠実義務違反(争点4)について

(一) 原判決の判示するとおり、会社が営利法人であり、会社・株主の経済的利益を最大にするように努めることが取締役の最も重要な義務であることはいうまでもないところである。しかし、このことは、会社・株主の営利目的の追求が公益に反しない範囲においてのみ認められ、取締役には社会的相当性を欠く行為を避けるべき義務があり、利益の追求のみに走ってはならない責務があることを否定する趣旨ではない。この点に関する原判決の判示は何ら誤りではない。控訴人は、原判決が、会社は、どのようなことをしても会社・株主の経済的利益を最大にするように努めることが許されると判示しているかのように主張するが、原判決を曲解するものである。

また、取締役の義務を抽象的に定めた商法二五四条の三とその損害賠償義務を定めた同法二六六条一項五号とは、規定の趣旨・目的を異にするのであるから、各規定にいう「法令」の範囲について、異なった解釈をすることが許されないとする根拠はない。

(二)  取締役の最も重要な義務が会社・株主の経済的利益を最大にするように努めることにあるとすれば、取締役の行為が善管注意義務違反ないし忠実義務違反になるかどうかを判断するについては、会社の受ける経済的利益や損害こそが主要な判断の基準になることは当然のことといわなければならない。

(三)  本件損失補填等は、平成三年改正前の証券取引法五〇条一項三号に違反せず、また、独占禁止法一九条違反については被控訴人らには過失が認められない。そして、本件通達及び公正慣習規則は法令ではないから、本件損失補填等は社会的相当性を欠くにとどまる行為である。

本件損失補填等が客観的には独占禁止法に違反するとしても、右のとおり被控訴人らには過失がなく、この点を損害賠償責任の根拠とすることはできないのであるから、本件通達及び公正慣習規則に違反したことに独占禁止法に違反した事実を併せて考慮するということはできない。

(四) 控訴人は、本件利益提供を実行するに際し、被控訴人らが経営者として慎重に注意を尽くして対応したということはできないと主張するが、以下のとおり採用することができない。

(1) 控訴人は、被控訴人幸が、本件通達の趣旨について、営業特金の解消のためには損失補填を行ってもかまわないと誤解したと主張するが、被控訴人幸がこのような誤解をしたことを認めるに足りる証拠はない。

すなわち、被控訴人幸は、当審本人尋問において、本件通達三項には、営業特金については、投資顧問契約が締結されたものとすることと記載されているが、大蔵省証券局業務課の水谷課長から、その本音は営業特金を解消しなさいということであるとの話があり、そのように認識した、水谷課長との間で損失補填の話は出なかった、と供述しており、営業特金の解消のためには損失補填をしてもかまわないと理解したとは供述していない。被控訴人平石も、原審本人尋問において、被控訴人幸が大蔵省に出向いて担当の証券局業務課長に本件通達の趣旨を聞いたところ、本件通達の主眼は営業特金の解消にあるということであったと供述しており、被控訴人幸から損失補填について何らかの話があったとは供述していない。

ところで、本件通達及び事務連絡(甲五)を通覧すれば、本件通達の目的は証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止であり(本件通達の表題も「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」というものである。)、具体的な指示事項として、事後的な損失の補填や特別の利益提供等を厳に慎むこと(一項)、いわゆる「親引け」は行わないなど、公正を旨とする販売を行うこと(二項)、営業特金については、原則として、顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されたものとすること(三項)、右一ないし三を含め、営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止を図るため役職員教育の徹底を図るとともに、内部管理体制について速やかに再点検を行うこと(四項)を列記していること、事務連絡においては、本件通達の趣旨を徹底するための具体的な方策として、証券会社から報告を求め、調査、指導すること、営業特金についての調査及び証券会社において講ずべき措置、実施状況の調査と指導等について定めていることが認められる。右の本件通達及び事務連絡の内容に照らせば、本件通達の趣旨が営業特金についての措置のみを指示するものであったとは認め難い。

また、甲二三によれば、平成二年二月に社団法人日本証券業協会の開催した「証券局長通達(本件通達)と特金勘定取引に対する管理体制整備に関する説明会」において、水谷課長ら大蔵省証券局業務課の係官は、本件通達が営業特金の問題にのみ関するものであるとは述べていないこと、水谷課長は、本件通達等の発出の背景の一つに平成元年末に起きた証券会社における特定顧客への損失補填問題があること、この原因は、特定の事業法人の取引が暗黙の了解の下に一任的に運用され、その結果損失を補填せざるを得なくなったということであったこと、この営業特金等に対する損失補填問題等が現在厳しい批判を浴びていること、これに対して、当局としては、証券界の信用維持という観点から、このような損失補填は事後的なものであってもこれを実行してはならないということを明確にする通達を発したこと、同時に、この際、全証券会社に対して、内部管理体制や営業特金等の問題全般にわたって総点検をお願いしたこと等の説明していることが認められる。

さらに、甲三一、三六、四一、五七によれば、橋本大蔵大臣は、平成三年八月二〇日の衆議院予算委員会において、平成元年一一月に大和証券の損失補填問題が発生し、その原因を考えてみると、営業特金が売買一任的に運用されている結果として損失補填が行われているということが認められたところに着目して本件通達を発出した、損失補填を厳に慎むことを求める、同時にその温床となりがちな営業特金の適正化を図ったという対応をした、損失補填が倫理にもとる行為であり、公共性を破壊するにつながる行為であるという認識、心配を行政当局が持ったからこそ、本件通達を発するに至った、と答弁していること、松野大蔵省証券局長も、同年七月から九月の衆議院及び参議院の委員会において、同旨の答弁をしており、本件通達においては、事後の補填も行わないよう指導し、損失補填を元から絶つべく、その温床である営業特金の適正化を指導したものである、と述べていることが認められる。

以上の事実によれば、本件通達は、営業特金の適正化だけではなく、損失補填等の禁止もその目的としていたものであり、むしろその発出の契機は平成元年一一月の大和証券による損失補填であったことは明らかであるが、行政当局も、本件通達を発出する必要性について、損失補填の温床は営業特金にあり、これが損失補填の温床にならないように適正化すべきであるとも考えていたことが認められ、そのように考えると、本件通達の主眼が営業特金の解消にあるとの理解も必ずしも誤りであるとはいえない。もっとも、このように判断できるとしても、被控訴人らが本件通達のうち損失補填等を厳に慎むようにとの部分を軽視ないし無視したことは明らかであり(甲三五によれば、被控訴人岩崎は、平成三年八月二九日の衆議院の委員会において、結果的ではあるが、営業特金を減らすということに非常に重点が移り、片一方の補填を厳に慎むということについては、意識的ではないが、軽視されたという形になった、と答弁していることが認められるが、これは事実に合致すると考えられる。)、本件損失補填等が社会的に強い非難に値するものであることは否定することができない。

なお、事務連絡は、特金勘定取引について、一定の措置を講ずべきであるとしているが、既存の特金勘定取引については、この措置は平成二年末までに講ずることとするとしているところ(甲三九、四一によれば、松野証券局長も、平成三年九月三日及び六日の衆議院の委員会において、平成二年の年末までの間にすべての口座について適正化の措置をとるということであり、平成二年の三月までの自主報告を求めたのであって、三月までに全部適正化するようにとの指導をしていたわけではない、と答弁していることが認められる。)、被控訴人幸は、当審本人尋問において、本件通達の趣旨は、平成二年三月末までに営業特金の適正化を図るようにということであると理解したが、それは当局の意思であった、と供述し、被控訴人平石は、原審本人尋問において、本件通達の趣旨は営業特金の早期かつ全面的な解消にあると理解した、と供述している。被控訴人幸らがこのように理解した理由は明らかではないが、甲三五によれば、被控訴人岩崎は、平成三年八月二九日の衆議院の委員会において、大蔵省は、本件通達に基づいて、平成二年三月までに良く精査せよ、そして申告せよということであった、と答弁していることが認められ、この事実と、事務連絡において、「特金勘定取引についての調査は、当分の間各年三月末及び九月末現在について行い指導することとする。」と定められていることとを併せ考えると、平成二年三月末の調査の時期を適正化の実現の期限であると解したものではないかとも推測される。そして、甲一七によれば、大和証券の社長は、平成三年九月四日の参議院の委員会において、大蔵省の通達は平成二年内に営業特金の適正化を進めるようにとのことであったが、大和証券では同年一二月末ではなく三月末までに適正化を行おうとした、と答弁していることが認められ、平成二年三月末までに適正化を完了しようとしたのは日興証券だけではなかったことが窺われる。本件通達の指示する措置を、通達の指示する期限より前に終了させることは、むしろより望ましいことであるから、被控訴人らが平成二年三月末までに営業特金を解消しようとしたことには何ら問題はない。また、この事実から、被控訴人幸が本件通達の解釈を誤ったことを推認することもできない。

(2) 控訴人は、被控訴人幸が大蔵省証券局業務課長に面談してからわずか七、八日後の平成二年一月一六日の経営連絡会議で損失補填等をする方針を決定したのは安易であると主張する。

しかし、原判決が認定しているように、右経営連絡会までには、本部長等から、顧客との取引関係を維持しながら営業特金を解消することはなかなか困難であること、解消を円滑に進めるためには、日興証券として、何らかの誠意を示す必要があること、顧客から他の証券会社も何らかの措置を講じるとの話を聞いており、会社として何とか対処してほしいといった回答が寄せられたのであって、これらの回答等を踏まえて、経営連絡会において、必要があれば損失補填等を行うこともやむを得ないと決定したことは、直ちに安易であるということはできない。

(3)  控訴人は、本件損失補填等が商法二六〇条二項一号の「重要なる財産の処分」、少なくとも同項の「その他重要なる業務執行」に当たると主張する。

「重要なる財産の処分」に該当するかどうかは、当該財産の価額、その会社の総資産額に占める割合、処分行為の態様及び会社における従来の取扱い等の事情を総合的に考慮して判断すべきものと解するのが相当である。甲六〇によれば、日興証券の総資産は、平成元年四月一日から平成二年三月三一日までの期が三兆八七二二億円であり、平成二年四月一日から平成三年三月三一日までの期が三兆六三〇三億円であることが認められる。この事実と四七〇億円という損失補填の金額は二年間にわたるものの合計額であることを併せ考えると、本件損失補填が「重要なる財産の処分」に当たると断定することはできない。また、右事実によれば、「その他重要なる業務執行」に当たるものと直ちに認めることはできない。

しかも、本件損失補填等については、一部の損失補填が行われた後ではあるが、平成二年四月二六日開催の取締役会において了承されているのであるから、この事実をもって、善管注意義務・忠実義務に反するものということはできない。

また、控訴人は、被控訴人らが経営連絡会及び取締役会で意見表明、討議、質問をした形跡がなく、平成二年一月二二日の取締役会において損失補填について割かれた時間はわずかであったと主張する。

しかし、意見表明等がなかったこと、報告等の時間がわずかであったとしても、このような形式的な討議の有無や時間だけから、直ちに会議においてされた決定や了承が慎重にされなかったと推認することはできない。

(4) 損失補填が実行された後に開催された取締役会において、損失補填についての個別の具体的な報告、討議がされなかったとしても、必ずしも事前に真摯な検討がされなかったことを意味するものではない。重要な案件であるとはいっても、個々具体的な事案について逐一討議を要求することは、むしろ会社経営の実情に沿わないと考えられる。

(5) 控訴人は、本件損失補填等については、何らの基準もなく行われたと主張する。

被控訴人平石は、原審本人尋問において、損失補填をするについて考慮した要素は、枚挙にいとまがないというべきであるが、主として、日興証券との関係(幹事、主幹事など幹事関係にある会社であるか、ブローカー業務の主要顧客であるか等)と顧客の性格(例えば、地域経済に極めて大きな影響を持っている地方銀行であるか、共済組合のように原資が公的資金であるか等)等である、と供述しており、損失補填の要否及びその金額等についてはそもそも一律の基準を設定することは困難であることを考えると、右のような要素を考慮して実行したことをもって、全く方針ないし基準がなく、場当たり的に損失補填を行ったと評するのは相当ではない。

被控訴人平石は、営業特金の解消を納得しなかった顧客に損失補填をすることになったものであって、交渉相手の顧客の態度の強弱によって損失補填をするかどうかが決まったという面もある、損失補填の金額についての一律の客観的な基準はなく、顧客との取引を継続することによって得た収益及び将来得られるであろう利益等を考慮して、顧客との円満な解決が可能な金額に決定するのであり、結局、最終的には顧客が納得する金額を補填することになる、と供述しているが、交渉によって了承を得て合意に至るのであるから、このような事態ないし結果にならざるを得ないのであって、これをもって取締役としての義務を尽くしていないということはできない。

(五) 控訴人は、経営連絡会及び取締役会において何ら損失補填に関する資料が配付されていないことを問題にするが、これも形式的な見方であって、そのような事実は、直ちに損失補填の決定や了承が杜撰であったことを意味するものではない。

(六) 損失補填について一律の基準を設定することは困難であり、また、損失補填の要否及び金額は顧客との交渉の結果次第という面がある。また、交渉の過程における決定は迅速かつ機動的に行われる必要がある。したがって、営業特金の解消についての具体的な解決策を営業企画部門に一任したことは不当とはいえない。

(七) 控訴人は、原判決は以上(四)ないし(六)の三点についての全体的な評価を怠っていると主張するが、(四)ないし(六)において述べたところに照らせば、これを全体的に評価しても、被控訴人らの対応をもって著しく杜撰であるということはできない。

(八) 本件損失補填等は、本件通達及び公正慣習規則に反するものではあるが、これらは法令としての性質を有するものではないから、被控訴人らが本件損失補填等について法律専門家の意見を求めなかったとしても、直ちに善管注意義務・忠実義務に反するものであるということはできない。

(九) 法定刑が同一であることは、罰則を科するという見地からはその対象となる行為が同一に評価されていることを意味することは否定できない。同一の法定刑が定められている幾つかの行為の中にも、その違法性の程度において差異があることは当然であって、原判決の判示もこれを否定する趣旨ではなく、単に、同一の法定刑が定められている行為の間にはその悪質性において格段の差異はないとしているにすぎない。

したがって、右の判示と、証券取引法は損失保証と損失補填について同一の刑罰を定めているが、この両者の間に一般的な危険性の程度に差異があるとした原判決の判示とは矛盾するものではない。

また、原判決は、本件利益提供の相手先である顧客と日興証券との取引状況、利益提供を行うに際し考慮された事情等を個々具体的に認定して、本件利益提供先は、いずれも、これまでの取引を通じ日興証券に多額の利益を現にもたらし、今後ももたらすことが予測された重要な顧客であって、これらの顧客を失うことは、直ちに、日興証券に対し多額の損失を与える蓋然性が高かったほか、会社ないし法人の性格等から、利益提供を行わずに円満に営業特金の解消に応じてもらうことが困難と考えられる顧客が含まれていたのであって、本件利益提供にかかる顧客との取引が継続されないことにより会社が受ける蓋然性のあった経済的損失と、取引が継続されることにより会社に予想された経済的利益が、ともに極めて大きかったものであると判断している。したがって、控訴人の、原判決は本件利益提供についての具体的事実関係に即して判断していないとの非難は、当を得ないものである。

なお、各顧客に発生していた損益の金額については、被控訴人平石の原審本人尋問の結果によって、原判決の別紙二の一覧表記載のとおりであることを認めることができる(被控訴人平石の供述によれば、この一覧表は、顧客勘定元帳及び営業特金を管理するための損益状況表によって作成したものであることが認められる。)。

(一〇) 公立学校共済組合との交渉の経緯について、被控訴人平石は、原審本人尋問において、同組合の資金の性格からいって利益を上げていかないと基金が成り立たないことになり、社会問題化しても困るので、平成二年三月期は利益が出るように配慮しつつ交渉していった、顧客から損失補填の要求がないのに損失補填をした事例はなく、顧客の中には具体的な金額を示して要求する者もあった、と供述している。また、甲四三によれば、平成三年一〇月二日の参議院の委員会において、松野証券局長は、大蔵省の検査の過程で、特に公的な共済組合などについてはいわゆる努力目標利回りがあることを証券会社も認識しているという報告を受けている、と答弁していることが認められる。これらの事実と弁論の全趣旨を併せれば、公立学校共済組合から、平成二年三月期に、取りあえず若干利回りが生じるようにして欲しいとの希望があったことを認定することができる。

そして、原判決の認定するとおり、平成二年三月期の損失補填は営業特金解消のための交渉を継続することを前提とするものであるから、この時点で損失補填に応じたことは、必ずしも不適切な交渉方法であるとはいいきれない。

同組合については、利益提供等の行為を行わない旨の確認書を徴求した後にも利益提供をしているのであるから、確認書の徴求は形式的なものであったというほかはないが、この間も交渉は継続され、結局平成三年八月に至って営業特金が解消されたのであるから、真摯な交渉努力を怠り、漫然と利益提供をしていたとまでいうことはできない。

二  控訴人の当審で拡張した請求についての判断

1  訴えの変更の拒否について

本件請求の拡張は、本件損失補填により、会社は、本件利益提供した金額相当の損害のみならず、過怠金合計四五〇〇万円の損害も被ったとして、右四五〇〇万円及びこれに対する遅延損害金の支払請求を追加するものである。

そして、その責任原因としては、新たな主張をするものではないと解される。控訴人は、取締役としては、過怠金のような損害を会社に生じさせないように善良なる管理者としての注意を払うべきところ、本件通達や公正慣習規則に違反していることを承知で、社内処分や行政処分も覚悟した上で、本件損失補填を行ったのであり、過怠金の制裁を受けるべく何の注意も払っていなかったのであるから、少なくともこの点での被控訴人らの善管注意義務は明らかであると主張しており、「過怠金のような制裁を避け、そのような損害を会社に生じさせないよう注意すべき善管注意義務」なる新たな善管注意義務違反を主張するようにも解されるが、これは、会社に損害を与えないようにする義務というに等しく、具体的な注意義務の主張であるということはできない。

そうすると、本件請求の拡張は、責任原因としては新たな主張を追加するものではなく、損害の範囲を拡張するだけのものであることになり、追加された請求は、従前の請求と請求の基礎を同一にするものであり、請求の基礎に変更はないというべきである。

また、会社が本件過怠金を科されたことは当事者間に争いがなく、控訴人は、当審において、追加された請求についてだけの主張・立証は特段行っていない。したがって、本件請求の拡張が、本件訴訟手続を著しく遅滞させるという事態も生じない。

以上のとおりであるから、本件請求の拡張(訴えの変更)は、民事訴訟法一四三条に照らして、許されるというべきである。

なお、本件請求の拡張が、株主代表訴訟の制度の濫用であると認めるべき根拠はない。

2  会社に対する訴えの提起の請求について

商法二六七条一項所定の、株主の会社に対する訴えの提起の請求は、取締役の責任の追及を、まず会社みずからの手によって行わせるべく、会社みずからが、取締役に対し、その責任を追及する訴えを提起するかどうかを判断する機会を与えるためのものであるから、株主が会社に対して取締役の責任を追及する訴えの提起を請求する書面には、訴えを提起すべき旨の請求、被告となるべき取締役の氏名及び当該取締役の責任の発生原因たる事実を記載することを要すると解される。

右の趣旨に照らして考えると、右の責任の発生原因たる事実等の記載は、会社がみずから訴えを提起しようとする場合には、同条二項所定の三〇日の期間内に、請求の趣旨及び原因を特定して、訴えを提起することが可能なようなものであることが必要であることになる。そのためには、訴えの提起の根拠となる責任の発生原因たる事実を、会社が行う、訴えをみずから提起するかどうかの検討の端緒を与える程度に特定すれば足りるというものではなく、当該事実を他の事項から区別して、かつその範囲を明確に画して、特定認識できるように個別的、具体的に摘示することを要すると解するのが相当である。

これを本件についてみると、控訴人の代理人の日興証券に対する請求書(甲七六、七七の各一)には、会社に対し商法二六六条一項五号に基づく責任を追及する訴えを提起するよう請求する旨の記載及び被控訴人らを含む責任を追及する取締役の住所・氏名の記載のほかに、「責任の発生原因事実」として、日興証券は昭和六三年一〇月から平成三年三月までに合計五六五億七五〇〇万円の損失補填を実施したが、この行為は、証券取引法五〇条一項三号、同法五八条、独占禁止法一九条(不公正な取引方法第九項)に違反する違法な行為であり、取締役の行為は、右各規定及び商法二五四条の三に違反するものであって、これによって会社に損失補填額と同額の損害が生じ、また、会社の社会的信用は著しく低下し、証券取引の減少を招き、収益が低下する結果となっている、との記載がある。

右「責任の発生原因事実」の記載を客観的、合理的に解釈すると、要するに損失補填という違法な行為によって会社に生じた損害の賠償を求めるべきであるというのであって、その損害の範囲は、損失補填された金額だけにとどまるものではなく、損失補填によって会社に生じた損害全体を意味するものと解される。請求書が、会社に生じた損害について、損失補填額だけではなく、会社の社会的信用の低下、証券取引の減少及び収益の低下についても言及していることは、このような理解を裏付けるものというべきである。したがって、本件の請求書は、損失補填という行為と相当因果関係のあるすべての損害について、訴えの提起を請求しているものと解される。

もっとも、本件の請求書には、損害額として、四七〇億七五〇〇万円との記載があり、これは平成二年一月以降平成三年三月までの損失補填額である旨の説明が付されている。しかし、これは、控訴人にその時点において判明していた損害額を摘示したにとどまり、訴えの提起の請求をこの損害額の範囲に限定する趣旨まで含むものではないと解される。損失補填によって、会社にどのような範囲、金額の損害が発生したかについては、会社は、株主よりもはるかに多くの情報ないし資料を有しているのであるから、このように解しても会社に特段の不利益を及ぼすものではない。

そして、本件過怠金は、本件損失補填等の実施を理由として科されたものであるから、本件損失補填等と相当因果関係のある損害ということができる。

以上のとおり、当審において拡張された本件過怠金相当額の損害の賠償を求める請求についても、商法二六七条一項所定の会社に対する請求の手続は履践されているというべきである。

3  被控訴人らの責任について

前記のとおり、控訴人の拡張した請求は、被控訴人らの責任原因として新たな主張を追加するものではないと解される。

そうすると、被控訴人らが本件損失補填等について会社に対して商法二六六条一項五号に基づく損害賠償責任を負わない以上、本件過怠金を科せられたことについても、損害賠償責任を負うものではないことになる。

4  拡張された請求についての結論

以上のとおり、控訴人の当審で拡張した請求は理由がない。

第五  結論

以上のとおりであるから、原判決は相当であり、本件控訴は理由がなく、棄却を免れない。また、控訴人の当審で拡張した請求も棄却されるべきである。よって、控訴費用を控訴人に負担させることとして、主文のとおり判決する

(裁判長裁判官・矢崎秀一、裁判官・西田美昭、裁判官・榮春彦)

別紙目録<省略>

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