東京高等裁判所 昭和24年(ラ)99号 決定 1949年5月19日
抗告人 成沢亀治 成沢ちやう
主文
原審判を取消す。
本件を長野家庭裁判所上田支部に差戻す。
理由
本件抗告理由の要旨は、
抗告人等は上田市大字常盤城字柳原区に居住する特殊部落民として、多年に亘り一般社会より謂れなき差別待遇を蒙り悲痛な生活を営んで居たのであるが、この不合理非人道にして人間性冐涜の甚だしい伝統的桎梏を排除すべくあらゆる手段をつくして部落民解放運動につくして来たものである。然しながら一千年来の因襲に基く差別的観念は容易に拭い去ることはできず「上田の成沢」「常盤城の成沢」「柳原の成沢」と云えば直に部落民であることが判り、一般人から賤視軽蔑され現に学校において児童は差別され就職は体よく拒絶され、縁談は相手とされざる程に日常白眼視されて居り成沢なる氏と抗告人等の居住する上田市常盤城、柳原の地域とは事実上切つても切れぬ緊密なる関連を持ち、実に成沢の氏は部落民たることの表象となつているのである。抗告人等部落民の心情はこれを体験した者のみが知りうる屈辱に満ちたものであるが抗告人等は現在の深刻悲痛な境遇より一歩脱却する手段として家族と相謀り衷情を訴えて氏変更の申立に及んだのであるが、原審判所は一般的の標準事例にのみ捉はれてこれを却下したのは法の解釈を誤つたものであり、抗告人等の到底承服し得ざるところである。よつて原審判を取消し、抗告人等の氏を中村と変更することを許可する旨又は更に相当の審判を爲さしめる爲め本件を原審に差戻す旨の決定を求める次第である。というにある。
そもそも氏は名と統合して人の同一性を表はす称号であるが、戸籍編成の基礎を爲す重要な意義をも有し、これが変更はその戸籍に属する者全部に及び一般社会に対する影響も名の変更の比ではなく、軽々に変更されるときは一般人の蒙る迷惑は至大であるのみならず遂には戸籍制度の円滑な運用をも阻害する結果を生ずるので、真に止むを得ない事由ある場合でなければ、その変更を許すべきでない。然しながらその氏が人の社会生活上重大なる支障を與え、これが継続を強制することが社会観念上不当であると見られるときは氏変更の止むを得ざる事由ありといいうべく、戸籍法第百七条の法意もここに存するものと解する。本件において抗告人等の主張するところによれば、抗告人等は所謂特殊部落民として多年一般社会より不当な差別待遇を受けて来たものであるが抗告人等の居住地方においては成沢なる氏を名乗る者は部落民に限られ「上田の成沢」「常磐城の成沢」「柳原の成沢」と云えば直に部落民たることが感得される程に、部落民たることと成沢の氏との間には事実上極めて緊密な関連があると云うのである。さすれば成沢なる氏はその地方において直に部落民を意味し、従て成沢の氏を名乗ることは恰も殊更らに日常部落民たることを示す確然たるしるしを掲げて生活するに等しく、これにより一般社会の絶えざる侮蔑迫害を招き多大の苦痛を受けなければならず抗告人等がその氏を変えることにより実際にかかる境地を脱却しうべきものとすれば部落民に対するこの忌むべき差別観念が永年の因襲に基き容易に抜き難い現実の状態であることに鑑み抗告人等の氏変更の申立は止むを得ないものとしてこれを許容しうるものと思量するのである。もとより部落民に対するかかる差別観念は人道に反しいずれはこれを打破すべき社会運動の強化と一般文化水準の向上とにより除去さるべきものであることは多言を要しないがこれが爲め部落民たることと成沢の氏との間に存する前示の如き緊密不離の関係に基き現実に抗告人等が蒙りつつある社会生活上の苦痛を忍受せしむべき理由とはならない。それ故原審としては果して抗告人等の主張するように、その居住地方においては成沢の氏は部落民に特有であつて、成沢と云えば直に部落民を意味する如き事実的関係の存するや否やを審査し、更にかかる関係がある場合成沢の氏を変えることによつて部落民としての差別待遇より脱却しうべきものであるか否かを審理すべきは当然であつて原審が右の審理を盡さずして抗告人等の本件申立を却下したのは相当でないといわざるを得ない。抗告人等の本抗告はこれを理由ありとすべきであるから原審判を取消し、本件を長野家庭裁判所上田支部へ差戻すべきものとし、主文のとおり決定した次第である。
(裁判長判事 大保江直 判事 奥野利一 判事 多田威美)