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東京高等裁判所 昭和25年(う)3808号 判決 1953年5月04日

控訴人 被告 長谷川勢吾

弁護人 鈴木義広

検察官 田中政義

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

弁護人鈴木義広の控訴趣意は別紙記載のとおりである。

本件においては道路交通取締法第二十二条第一項にいわゆる「右折」の語の解釈が問題になつているのである。そこで考えてみるのに、同項(昭和二七年法律第二〇三号によつて改められる前のもの)が「車馬の操縦者は、発進、左折、右折、徐行、停止若しくは後退をしようとするとき……は、手、方向指示器その他の方法で合図をしなければならない。」と規定しているのは、要するにこれらの発進、左折、右折、徐行、停止、後退等の行為は車馬がそれまでの自然の状態を変更する行為であるため、これをするについてなんらかの合図をするのでなければ歩行者又は他の車馬の交通に不測の混乱と危険を生ずる虞があるからにほかならない。従つて同項にいう「左折」又は「右折」の意義もこの趣旨によつて解釈せらるべきことは明らかである。ところで、本件においては、被告人が幡ケ谷方面から渋谷南平台方面に通ずる道路を南平台方面に向つて自動車を操縦して進行中、渋谷区代々木富ケ谷町千四百四十七番地先のロータリーに沿つて廻る際右折の信号をしなかつたというのであつてこのことは事実として争がない。原判決はこの場合を法にいう「右折」であるとして被告人に合図の義務ありと判断したのであるが、これに対し論旨は、「左折」「右折」とは方向変換の意であつて本件の場合のごとく道路にロータリーがあつたりあるいは道路に物件が放置してあつたりしてそれを避けるために自然に迂回して進行するにすぎない場合はこれに該らないと主張するのである。よつて原審における検証調書の記載及び当審においてさらに検証したところを綜合して本件現場の地形を見るのに、前記道路は現場附近において約十米前後の車道の幅員を有し、ロータリーの在る部分からほぼ北方初台方面に向つて大体同様の幅員の道路が分岐しているため三叉路をなしているのであるが、被告人が進行して幡ケ谷方面から南平台方面に至る道路は、ロータリーの在る附近において心持ち右に緩いカーヴをなしてはいるものの、大体において直線をなしているとが認められる。従つて、もしこの道路の分岐點にロータリーが設けられてなく、自動車が道路の中心線と併行して進行するのであつたならばそれはもちろん「右折」には該らないであろう。またロータリーがあつてもそれが一般の交叉點におけるがごとく右の道路の中央に設けられていて、直進しようする車馬が単に若干これに沿つて迂廻するにすぎない場合はやはり「左折」「右折」の問題は生じないといつてよいであろう(けだし、かような場合はその車馬が直進することは一般に自然の状態として予想されるところであつて、あえて合図をしなくとも別段混乱を生ずる危険はないからである。)しかしながら、前記各検証の結果によると、本件のロータリーは幡ケ谷方面から見て道路の中心より左寄りにしかも相当大きな円周をもつて設けられており、その結果幡ケ谷方面から南平台方面に向つて進行する車馬はこのロータリーをほとんど直角に近い角度で廻ることになつているのである。いいかえれば、この附近は、道路そのものの形状からいえば丁字状の三叉路であつて被告人の進行した道路はほぼ直線をなしていると見ても差支ないのであるが、その分岐點に前記のようなロータリーが設けられたため、現実に車馬の進行すべき線を標準として考えれば、むしろ一點から三本の道路が同じ角度に分れているのに近い状態となつているのである(当審証人原文兵衛の証言によれば、このロータリーは交通を円滑ならしめる目的でことさらに車馬の進路を右のように作為するため設けられたものであることが窺われる。)。そして、最初に述べたような法の趣旨と「左折」「右折」という文言の用例とから考えれば、ここに「左折」「右折」とは、道路が直線をなしているかどうかということとは一応関係なく車馬そのものの進路についていわれるものであるから(従つて直線道路においても車馬が左折又は右折することはいくらもありうることである。)、この場合被告人の操縦する自動車が前記ロータリーに沿つて廻つたことは、明らかに前記法条にいう「右折」に該当するといわなければならない。また、当裁判所が現場を検証した結果によつても、本件の場合被告人がなんらかの合図をしなければ、他の二方向から来る車馬としては被告人の進行方向を知りえないためその行動に円滑を欠き、延いては交通の混乱を来す虞があると判断されるのである。弁護人はこの「左折」「右折」を「方向変換」と同義だとするのであるがその「方向変換」という語の意義自体必ずしも明白でないものの、本件の場合のごとく車馬の進路が右するか左するか予測されないような場合もまた一種の方向変換と解してよいであろう。これを要するに、原判決が被告人の所為を道路交通取締法第二十二条第一項に違反すると判断したのは正当であつて、所論のような法令の適用の誤は存しないから、論旨は理由がないといわなければならない。

よつて刑事訴訟法第三百九十六条に従い本件控訴を棄却することとし、訴訟費用の負担につき同法第百八十一条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長判事 大塚今比古 判事 山田要治 判事 中野次雄)

控訴趣意

原判決は、被告人は昭和二十五年五月三十一日午後七時三十分頃、渋谷区代々木富ケ谷町千四百四十七番地先道路に於て右折する時、手又は方向指示器その他の方法で合図をしないで普通乗用自動車第八〇九四号を運転して右折通交したものであると判示して、道路交通取締法第二十二条第一項、第二十九条第一号を適用し、被告人を科料金二百円に処しているが、右判決は道路交通取締法第二十二条第一項にいう右折の解釈を誤り、同法を適用したものであつて、右通行は右法令でいう右折通行ではない。従つて本件被告事件は無罪とすべきものである。

一、原判決摘示の如く被告人が同時頃、同場所を普通乗用自動車第八〇九四号を運転通行した事は認めるが、それは西北方である東京都渋谷区三角橋方面から東南方である同区南平台町方向に向つて進行しつゝあつたもので、道路交通取締法第二十二条第一項にいう右折し様とした事実も右折した事実もない。その道路は現場において東北方にわん曲し、しかも同地點から東北方に同区代々木本町方面に道路が分岐している三さ路であつて、その中央に約二十米八十糎の円型のロータリーが在る地形の為被告人は自然そのロータリーに沿うて右にうかいしつゝ進行したため、原裁判所は、それを右折したものと解したものと思ふが、それは明らかに法の解釈適用を誤つたものである。蓋し同法条にいう右折とは、立法の趣旨、立法の沿革、文理解釈、一般の見解等から車馬の進行方向を変換する場合をいうものと解する。

(一) 右法条に右折しようとする時、手、方向指示器、その他で合図をしなければならないと規定した立法の趣旨は車馬が道路を通行しつゝある場合は、前方に向つて進行しつゝあるのが常態であるから、若しも突然その進行方向を変換することがあれば、他の車馬や歩行者はその予期に反してそれに衝突するおそれがある為、その進行方向の変換を他に知らしめ、以つて交通事故を防止せんとするに在る。従つて本件の場合の如く、道路にロータリーがあつたり、或は道路に物件が放置してあつたりして、それを避ける為に自然にそれをうかいして進行するに過ぎなくて、格別その方向を変換するものでない場合には、他の車馬や、歩行者はそれに衝突するおそれはないからそのうかいを右折と解して合図をなさしむる要はない。

(二) 同法条は右折等の場合、合図をなさなければならないと規定したのは廃止された。自動車取締令(昭和八年内務省令第二十三号)第五十三条、自動車ノ方向ヲ転換シ、徐行シ、若ハ停止セントスル場合、又ハ後続車輌ヲシテ追越サシメントスル場合ハ手信号ヲ為スベシ<以下省略>の規定の内容を受け入れたものであつて、この立法の沿革から考えても右折とは本件のような場合までも含むものではない。

(三) 右折の字義はもとより道路交通取締法全体の右折の用語から解釈しても同法条にいう右折とは前記の如く車馬の進行方向を変換する場合でなければならない。

(四) 本件の場合、一般の見解として右折と解すべきかどうかを見るに多少の疑を持つ者もある様であるが、概ね右折ではないと思つている。殊に多くの自動車の運転者は右折と思はず、右折の合図をしていないのが事実である。

二、前記の如く被告人の本件通行は右折でないのに原裁判所がこれを右折と解したのは、取締警察職員の見解や職務遂行の便宜を考慮された為ではないかとの疑を持つ。

すなわち、裁判所の証人渋谷警察署交通係巡査部長山崎秀太郎に対する訊問調書(三〇丁以下)を見るに、問この現場は幡ケ谷方面より渋谷方面へ進む時には右折信号をしなければならないか。答しなければならないと思います。法の第二十二条第一項によりなつております。問他に交通する人や、車馬の無い場合でもそうせなければならないか。答原則としてそうなつております。

主任弁護人は裁判官に告げた上、証人に対し左の通り訊問した。問この場合、本件の様な自動車は右折信号しなければならぬというのは、具体的に指図があつたのか、それとも証人個人の見解か。答渋谷署は勿論この様に解釈していますが、他の署も大体同じ事と思います。(以下省略。)

と記載されており、原審裁判所は取締警察職員の見解を尊重し、一種の誘導訊問のおそれさえある様な訊問をなしていると考へられる。本件の場合右折と解し、合図をしなければならぬかどうかの法の解釈はもとより裁判所が独自の見解を以つて公正に判断すべき事であつて、単に取締警察職員の便宜等を考慮して判断すべきではない。若しも裁判所が法の認定上疑でもあつて鑑定や証言を求むるならば、かかる態度の訊問をなすべきでないは勿論、更に進んで一般の見解等を調査するなり、自動車運転者等の経験者につき、その証言を求むべきである。

三、由来我が国では裁判所の判例に対応して所謂行政解釈と称して、取締官憲乃至行政官庁の解釈を尊重して来た風がある。裁判所の判例はこうであるが、何省の見解はこうであるという様に、あたかも法の解釈をする権威が二者あるかの様な弊がある。殊にあまり問題とならぬ様な行政犯の認定、殊に警察取締に関しては事実上、一警察職員の認定で法の解釈がなされ処罰される場合が少くないというも過言ではない。それがため、往々にして行政職員の便宜等の考慮から法の解釈が誤つて取扱われる場合がある。実際問題として略式命令で少額の罰金や科料を言渡された場合にはそれが違法であると思つても、正式裁判の申立をする事は費用の関係や、取締官憲の反感をおそれて不服の感じを抱きながらもしないのが一般の例である。しかも苟も刑罰に関する事がかように取扱われてならぬことは論議の余地はない。若しも法が不備で取締等に不都合の点があるなら法を改むべきであつて、行政職員の認定で、法の不備を補い、解釈を左右するが如きは法治国として許さるべき事でない。本件被告事件も事実上その必要のない事であるが、警察職員の取締上の便宜的考慮から判断され、起訴されるに至つたものではないかと思われる。被告人が僅か金二百円の科料の略式命令に対し、正式裁判の申立をなし、更に控訴申立までなした趣旨は右の如き一般の弊風を打破せんとする謂はげ正義観に外ならぬ、被告人は本件関係の警察職員が私心を以つて取扱をなしたとは思わず、且つ何等関係者に反感を持つ者でもない。現に前記証人巡査部長山崎秀太郎も訴訟記録に現われていないが、検証の現場において裁判官に対して被告人は多年経験のある真面目な運転手であると申した程である。また弁護人も法の正しい解釈の為上訴裁判所の判決を仰ぎ正義の顕現に微力を尽さんとの趣旨から敢て控訴審における弁護をもなす者である。

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