東京高等裁判所 昭和26年(う)5313号 判決
案ずるに原判決は本件公訴事実中被告人等が麻薬を所持していたとの点については証拠上これを認めうるが、被告人等が右麻薬を所持するに至つたのは司法警察員の詐術に陥つたゝめであり、司法警察員の誘発にかゝる犯罪であるから、これを処罰することは憲法前文並びに同法第十三条に牴触するものであつて、かゝる行為は罪とならないものと解すべきである。又かゝる場合における麻薬の所持には抽象的危険が存しないから麻薬取締法上も罪とならないものと認めるべきであるとして無罪の言渡をした。
しかし、被告人杉山良雄の司法警察員に対する各供述調書、同人の検察官に対する供述調書、被告人武藤末吉の検察官に対する各供述調書、石地洋子の検察官に対する供述調書の各記載を総合すれば、右、石地洋子の依頼に基き被告人等が夫々本件麻薬を所持するに至つた以前において、被告人杉山は昭和二十六年一月二十六日頃大森松太郞よりヘロインが入手出来るが買わないかと勧誘を受けてその頃同人より見本としてヘロイン一瓦を受け取りこれを自ら皮下に注射し、被告人武藤もその時その場所に来合せて、それは何かと聞き、杉山がモヒだと答えると自分にも打つて(注射して)くれと云つて、その残りを注射して貰つたことがあること、被告人杉山は当時大森からへロインの買手があれば世話してくれ、予め注文してくれゝばいくらでも麻薬はあると云われていたこと、被告人武藤も当時杉山からその旨を伝えられていたことが認められるのであるから、被告人等は前記石地洋子の依頼により本件麻薬を所持する以前、既に麻薬の不法取引又は所持使用等麻薬に関する犯罪に関与する意図を有していたものと云うべく、従つて本件犯行は司法巡査三平幸磨の指示を受けた石地洋子が麻薬中毒患者を装つて、被告人武藤に麻薬入手方を依頼したことにより、全然麻薬犯罪に関与する意思のなかつた被告人等が新たにその意思を生じて本件犯行を犯すに至つたものとは認められない。従つて本件犯行はいわゆる捜査官憲の陥穽により発生したものではないから、被告人等の本件犯行を罰することは憲法前文又は同法第十三条の趣旨に反するものでもなく又その犯罪性又は可罰性を欠くものと認むべき場合にも該当しない。又被告人等の本件麻薬所持が右石地洋子に依頼された為であり右石地は司法警察員の指示により被告人武藤に麻薬の入手方を依頼したものであつても、被告人等が不法に麻薬を入手しこれを所持している以上麻薬の所持に伴う抽象的危険は既に存在していることは明白であつて原判決の説示するように被告人等の所持する麻薬は、結局において押収すべく捜査官憲により十分の手配が講ぜられているから、抽象的危険が客観的に存在しないと云うことはできない。以上説示したように原判決はいわゆる陥穽並に麻薬不法所持の危険性に関する見解を誤り延いて事実を誤認し、法令の適用を誤つた違法があるものであつて、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、検察官の論旨は理由があり、原判決は全部破棄を免れない。