大判例

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東京高等裁判所 昭和27年(う)3345号 判決

被告人 呉且成

〔抄 録〕

検事控訴趣意について。

仍つて本件記録を精査し、原判決を仔細に検討勘案するに、原判決は其の末尾において、昭和二七年五月八日附起訴状記載の公訴事実即ち被告人が第一、昭和二七年四月一八日塩酸ヂアセチールモルヒネ(ヘロイン)約一、一六瓦を不法に所持し、第二、同月二〇日同麻薬約一〇、七五五瓦を不法に所持した各事実を、その挙示する証拠により全面的に認定し乍ら、被告人が右麻薬を所持するに至つたのは捜査官等の所謂穽により発生せしめられたものであり、その以前には斯る麻薬を不法に所持する意図がなかつたものと見るべきであり、而も之が穽は捜査官をして麻薬の不法所持に導き益々その深淵に陥れたものであると認定し、斯る捜査官が国家機関として法の目的たる法秩序維持に背き、自らその秩序を破り犯罪の意図のなかつたものを誘惑して犯罪に陥れることは許さるべきではなく、法秩序維持を守り之が実現を使命とする裁判所としても、斯る不正に与みし、その不正の完成を助くべきではない。犯罪は構成要件に該当する外更に法秩序維持の目的に反するや否やの価値判断を受けねばならぬとし、若し特別事由により法秩序維持の目的に反しないときは、その犯罪は許さるべきであり、少くとも放任されねばならぬとして結局右被告人の所為は、之を犯罪として処罰せざるが、法秩序維持の目的に合し、若し之を処罰するにおいては著しく法秩序を危胎ならしむというべきであるから本件は違法を阻却する一つの場合と考え、少くとも放任すべきものと思料するとして、無罪の言渡をしたことは、その判文上洵に明らかである。

仍つて按ずるに、人をして利益を以て誘導し又は強制的手段に訴えて犯罪の実行を誘発するが如きことは、従令犯罪捜査の必要があるからとて、軽々に許すべからざるは固より疑の余地は存しない。然し乍ら刑法の一般犯と異なつて麻薬事犯については、その犯罪の特異性に鑑み、特に考慮すべき必要が存在する。蓋し麻薬の不当な使用が、人の健康に有害であつて、国民の健全な社会生活を破壊し、公共の福祉に重大な影響を及ぼすことは洵に顕著な事実であるからである。されば、此の種事犯に対しては早期に且つ徹底的に捜査し、その犯罪の根源を絶滅すべきことは単に一国家の利害に関するのみに止まらず、国際社会における人道上の問題として要請せられるところである。然るに麻薬事犯は通常の犯罪と異にして、直接の被害者はなく、且つ其の売買又は授受等には極秘のルートを組織し、局外者たる一般人には、入手不可能の状態であつて、その犯罪の捜査は通常の方法を以てしては著しく困難なること周知の事実である。茲においてか、彼の所謂囮捜査の方法を利用することは、一定の限度において認容せられざるを得ない。此のことは麻薬取締法第五三条において麻薬取締官は麻薬に関する違反捜査にあたり厚生大臣の許可を受けてこの法律の規定に拘らず、何人からも麻薬を譲り受けることができる旨規定していることに徴しても首肯せられるのである。

果して然らば、如何なる限度において囮搜査の方法を利用し得るやと謂うに、之は各具体的事案により社会通念に基き最も合理的に決すべき事に属すと雖も、苟くも、麻薬事犯ありとせられる合理的根拠のある人物に対し、その自由意思を強制しない程度に、囮を使用して陷穽に導くが如きことは、毫も不法を以て目すべきにあらずと解すべきを相当とする。

即ち今本件につき観るに、原判決説示の、所謂捜査官の穽は、単に囮が麻薬の入手方を求めたに止まり、その入手先を指示したものでもなく、被告人が正常な自己の自由意思により、本件麻薬所持を決意したものであることは、本件記録に現われている諸般の証拠により優にこれを認められるところであつて、被告人が本件麻薬を所持するに至つたのは捜査官等の所謂穽により発生せしめられたものであつたとしても、毫も前段説示の如く囮捜査の方法として認容し得ないものではない。殊に況んや、本件被告人が、昭和二六年一二月一九日ヘロイン不法所持罪により検挙され、同年一二月二五日身柄拘留の儘起訴され、翌二七年一月二一日釈保されたものであり、その検挙当時一日ヘロイン半瓦乃至一瓦の注射を必要とする麻薬中毒患者であつたこと等記録上洵に明らかなるにおいて、かかる被告人に対して本件捜査官が前記程度の、囮捜査の手段を用いたからと云つて、原判示の如く「被告人をして麻薬の不法所持に導き益々その深淵に陥れた」とは断じ難く、又「捜査官が、国家機関として法の目的たる法秩序維持に背き自らその秩序を破り犯罪の意図のなかつたものを誘惑し犯罪に陥れた」と見ることを得ない。果して然らば、本件において捜査官側の捜査方法には、毫も不法の廉あることなく、その不法を理由として本件被告人の麻薬所持に対して、これを違法阻却の事由に該当するものとして、無罪の言渡をした原判決は、右法令の趣旨を誤解した違法あるものであり、該違法は判決に影響を及ぼすこと明らかであつて、此の点の論旨は、その理由があり、原判決は到底破棄を免れない。

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