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東京高等裁判所 昭和27年(ネ)2052号 判決 1954年10月30日

控訴人 被告 植田実旺

被控訴人 原告 小野まさ

訴訟代理人 植松博一郎

主文

原判決を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴代理人の負担とする。

事実

控訴人は主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張は控訴人において、被控訴人は本件売買の当時病身であつたため被控訴人の用務はすべて夫であつた訴外小野寅男(後に離婚して曲尾姓となる)において被控訴人を代理して処理していたものであり、本件売買契約も被控訴人の代理人である右寅男と控訴人との間で交渉の上締結されたものであり、その移転登記は被控訴人において夫寅男をして控訴人とともに司法書士朝沢武夫に委任せしめてこれを完了したものである、しかるに被控訴人はその後本件不動産の価額がいちじるしく値上りしたために、取引終了後一年余もたつてから夫寅男のしたことは一切あずかり知らぬとして取引を否認し、本件訴訟に及んだのであるが、被控訴人が当時本件売買の事実を承知しており、取引が被控訴人の意思にもとずくものであることは、控訴人が売買残代金として支払つた金一万円を被控訴人自ら受取つていること、当時本件家屋に居住中の村越某を被控訴人方に引取り家屋を控訴人に明渡したこと、さらに他の二世帯を自宅に引取るため従前被控訴人方に間借りしていた松井はるに対し貸間明渡の調停を申立て自らその調停手続に立会つていること、この調停申立書には被控訴人の夫寅男がその経営する炭鉱の資金を得るため、本件土地家屋を控訴人に売却しその明渡の必要があることをうたつていること、登記の時は被控訴人が権利証と印を夫に持参させ、登記後権利証は被控訴人自ら控訴人から受取り持ち帰つたこと、昭和二十三年一月所得税の確定申告に際し被控訴人は本件家屋を譲渡したことを税務署に申告していること、控訴人は売買後本件家屋に移転し以来家屋の修理をし諸税金を支払つて来たのに被控訴人は本訴提起までなんらの異議も述べなかつたこと等の事実に照して明らかである。またその売買代金も控訴人の主張する金三万五千円が真実であつて、曲尾寅男のいう金七万円ではない、もし右代金が七万円であるならば、その余の残代金の請求があるはずであるのに全くその請求がないばかりでなく、被控訴人はその後もしばしば担保物を持参の上控訴人から五百円、千円と借り出して行つていることは説明しようがないことになる、控訴人が本件土地家屋を右代金三万五千円で買受けたことは本件家屋に居住していた右村越の知るところとなり、同人は三万五千円位なら自分が買いたい、四万円まで買い増してもよいと云い出したが、被控訴人はすでに控訴人から手合金(手付)二万円を受取つていたので控訴人との契約を履行するほかなく、前記のとおり村越を自宅に引取つたのであり、この点から見ても右売買代金もまた当時控訴人の承知していたものであることが明らかである。被控訴人は本件登記の際用いられた被控訴人の印はその実印でなかつた旨主張するが、事の真偽は控訴人の知るところではない。ただいかなる理由からか本件登記には印鑑証明書を求められなかつたけれども、それで何の故障もなく登記が済んでいるのであるから控訴人としては被控訴人の正しい印章で登記ができたものと信ずるほかはないのである、と述べ、被控訴代理人において控訴人の右主張事実中被控訴人従来の主張に反する点は否認すると述べたほか、原判決に事実として記載されたところと同一であるからここにこれを引用する。

立証として被控訴代理人は甲第十三号証を提出し、当審における証人小野歓一郎の証言を援用し、乙第二十二、第二十三号証、同第二十四号証の一、二の各成立を認める、乙第二十四号証の一、二を援用する、乙第三、第十四号証の撤回には異義がないと述べ、控訴人は乙第二十二、第二十三号証、同第二十四号証の一、二を提出し、乙第三号証、同第十四号証は原本が廃棄されたから当審では提出せずこれを撤回するとのべ、甲第十二、第十三号証の各成立を認めると述べた外、各当事者とも原判決事実らん記載のとおり(但し甲第二号証は同号証の一ないし三、乙第四号証は同号証の一ないし三、乙第二十号証は同号証の一、二、被控訴人の援用する原審証人曲尾寅男の証言は第一回ないし第四回、なお控訴人は原審における第一、二回控訴人本人尋問の結果を援用)であるから、ここにこれを引用する。

理由

被控訴人の原審でした訴の変更が許すべきものであることは原判決の理由冒頭(判決書三枚目裏一行目から十三行目まで)に説明するとおりであるから、この部分を引用する。

別紙目録記載の不動産が被控訴人の所有であつたところ、これについて長野司法事務局上田出張所昭和二十二年七月二十三日受付第二〇四二号をもつて同月五日付売買による被控訴人から控訴人に対する所有権移転登記手続のなされたことは当事者間に争ない。

被控訴人は右不動産については被控訴人は控訴人にこれを売渡したことはないのに、控訴人において被控訴人のもと夫訴外曲尾寅男(当時小野寅男)と共謀の上被控訴人の知らない間に昭和二十二年七月五日付で右不動産が被控訴人から控訴人に売渡されたように仮装し同日付の仮装の売渡証書を作成し、かつ勝手に被控訴人名義の登記申請委任状を作成して、これにもとずき前記登記手続がなされたものであるから、右登記は被控訴人のために抹消されるべきものであると主張する。これに対し控訴人は当時被控訴人は本件不動産の売買を夫であつた右寅男に委任し控訴人は被控訴人の代理人である右寅男と交渉の上同年四月中右中動産を代金三万五千円で買受けその所有権を取得し、右寅男とともに適法に前記登記手続をしたものであると主張する。

よつてまず、右登記のなされるまでの経緯について見るに、成立に争ない乙第十七号、同第十九号証、原審証人曲尾寅男の証言により右寅男の作成したものであることを認めるべき乙第一号証、同第七、第八号証、本件口頭弁論の全趣旨により本件登記に際し提出せられたものであること明らかな甲第二号証の一ないし三、原審証人植田みやの証言により成立を認めるべき乙第五号証の各記載、原審証人曲尾寅男(第一ないし第四回)、同朝沢武夫、同水沢信義、同植田みやの各証言、原審における控訴人本人尋問の結果(第一二回)に本件口頭弁論の全趣旨をあわせると、被控訴人の夫であつた曲尾寅男(当時小野寅男)は昭和二十二年四月頃その経営する亜炭鉱山の資金を得るため、被控訴人所有の本件土地建物及びその他の不動産を売却しようとし、被控訴人から正当に代理権を与えられたかどうかはしばらく別として、被控訴人に代つて控訴人と交渉し、控訴人は当時居住中の上田市諏訪形所在の借家の明渡を迫られていたので本件不動産を取得してこれに居住するつもりで、右寅男の申出に応じてこれを買受けることとし、交渉を重ねた上控訴人はその頃売買成立の上は代金の一部にあてる趣旨で二回に金一万円を寅男に交付し同年五月十五日頃さらに金一万円同人に支払つた上同日両人の間で、売買代金の額の点はしばらく措き、控訴人がすでに支払つた合計金二万円を手附(手合金)として残額は同年五月二十日までに建物居住者を立退かせた上所有権移転登記をすると同時に支払うべき旨の売買契約を締結し、同日右寅男は日付をさかのぼらせて同年四月十五日付とし売買代金を三万五千円とした外前記趣旨を記載した被控訴人及び寅男連名名義で控訴人にあてた売渡証書(乙第一号証)を作成してこれを控訴人に差入れたが、居住者の移転先がないため自然右契約の履行も延びて、同年五月二十八日控訴人は右寅男の求めにより残代金の一部として金五千円を同人に支払い、一方被控訴人は当時本件家屋に居住していた村越某を被控訴人方自宅に引取り移転させたので、控訴人は同年六月十六日代金として一万円を被控訴人に支払い、同日本件土地家屋の引渡を受けてこれに移転しそれ以来引続き本件家屋に居住するにいたつたこと、その頃右寅男は登記に用いるため印判業水沢信義に依頼して小野と刻した印章を作成した上、これを使用して控訴人とともに同年七月頃、司法書士朝沢武夫に登記申請手続を依頼した結果前記のとおり同年七月五日付売買を登記原因とする前記所有権移転登記がされたものであることを認めることができる。前記挙示の証拠中右認定に反する部分は採用しない。

右契約のうち売買代金の数額については、その契約証である乙第一号証には代金三万五千円と記載されていること前記のとおりであるところ、この点について原審証人曲尾寅男(第一、二回)は代金ははじめ八万円と申込んだが譲歩して七万円と定めたのであるが証書上は居住者を立退かせるのにヤミ値ではぐあいが悪いということで特に三万五千円とし、右乙第一号証の外に別に家屋だけを三万五千円で売渡した旨の証書も交付したと供述しているが七万円の売買代金を証書上特に三万五千円とする事情について右証人のいうところは十分人をなつとくさせるに足りないばかりでなく、別に家屋だけの売渡証書というのは後には甲第十号証(これは控訴人が本訴においてはじめ乙第一号証の写として被控訴人に交付したものであることは争なく、控訴人は右は乙第一号証の文言中若干を写しおとしたものという)のような記載内容のものであつたといい(同証人の第四回証言)、そのいうところあいまいであつて直ちに信用し難い。原審証人丸山九十九の証言中同人が寅男から本件不動産を七万円で控訴人に売つたことをきいたとの部分は伝聞であつて寅男の証言を直ちに信じ難い以上本件代金額認定の資料にはできない。右丸山の証言によれば本件売買以前寅男がこれを他に売却しようとした時の云い値が七、八万円であつたこと、原審証人小野文雄の証言によれば同人が被控訴人から本件不動産売却の相談を受けた時八万円位ならよいだろうと答えたこと、原審における鑑定人柳沢好康の第一回鑑定の結果によれば当時の価格は十二万余円とあることからすれば、本件不動産の売買代金が三万五千円であるとすることは安すぎるきらいがないでもない。しかし原審証人田中為次郎の証言によれば同人は寅男から本件売買の以前六万円で買つてくれるよう求められたが、当時三世帯が住んでおり売主の方で明渡は引受けるといつたがその実現は容易でないと見てこの話を断つたことがうかがわれ、原審証人柳沢好康の証言(第二回)によると当時の金融状態から考えると本件建物だけなら二万四千余円とするのが相当で前記鑑定の時は金融状況を考慮しなかつたことが認められるから、これらの事情に照せば売買代金三万五千円ということが現実にはあり得ないほど安すぎるものだということにはならない。もし仮りに代金が七万円であつたとすれば控訴人が代金として支払つたのは前認定のとおり三万五千円だけであるから被控訴人もしくは寅男としては直ちに、少なくとも控訴人の移転後には残代金の請求をなすべきはずであるのにそのことがなく、控訴人は別に寅男に対し同年六月七日五千円、六月二十四日一万五千円、七月九日五千円、七月二十日二千円、七月二十七日千円を貸与していることは原審証人曲尾寅男の証言により成立を認めるべき乙第九号証の一ないし四の記載により明らかなところ、当時代金七万円の残額があるならばこれらの金員はその残額の支払として受領することもできたはずである(右証人曲尾寅男はこれらの金員は右残代金であると供述するが、本件売買代金の内金である同年五月二十八日支払の五千円についての受取書である前記乙第七号証には明らかに売買代金残金であることが記載されてあるのに前記乙第九号各証はいずれも借用証書又は預り証となつていることから考えると右証人の証言は信用し難いところである)。原審における被控訴人本人尋問の結果(第三回)によればその後においても被控訴人は寅男経営の鉱山の人夫らに泣きつかれてこれに貸与するために同人らの持参した洋服や時計を担保として控訴人から五百円とか千円とかを借りてやつていることがうかがわれるのであり、これは控訴人に対して残代金があるとすれば異例のことといわなければならない。さらに成立に争ない乙第十二号証の記載によれば当時控訴人が三万五千円で本件土地家屋を買受けることは当時の居住者村越の知るところとなり、同人がそれ位なら自分が買いたい、四万円でもよいといつた話があつたことをうかがうに足りる(右乙第十二号証は原審被控訴人本人の供述によれば本訴提起後被控訴人が司法書士に見せるために書いた草稿であることがうかがわれるけれども、その記載内容は本件売買当時の事実に関するものであることは否定し得ない)。以上の事実に原審における証人植田みやの証言及び控訴人本人尋問の結果をあわせれば本件売買代金は結局前記乙第一号証記載のとおり三万五千円であつたものと認めるほかはない。

よつてさらに右取引について右寅男に被控訴人を代理する権限があつたかどうかについて検討する。この点につき原審証人曲尾寅男(第一ないし第四回)原審及び当審証人小野歓一郎原審における被控訴人本人(第一ないし第三回)はいずれも右取引はすべて被控訴人の夫寅男が被控訴人の承諾なく勝手にした無権限の行為であると供述しているが、後記事情に照してたやすく信用できない。かえつて前記乙第一号証、同第五ないし第八号証、同第九号証の一ないし四、同第十二号証、成立に争ない甲第五号証、乙第十号証の一ないし三、同第十一号証の一、二、同第十三号証、同第二十二、第二十三号証の各記載、原審証人曲尾寅男(第一ないし第四回)、植田みや、丸山九十九、田中為次郎、小野文雄の各証言、原審における被控訴人(第一ないし第三回)控訴人(第一、二回)各本人尋問の結果、原審における検証の結果に前認定の事実及び本件口頭弁論の全趣旨をあわせると(1) 当時本件売買以前本件不動産については二、三他との売買の話があつたが実現するにいたらず、これを他に売却しようという議のあつたことは被控訴人においてもこれを承知していたこと、(2) 昭和二十二年六月十六日控訴人は売買代金の一部として前記金一万円を妻をして被控訴人方に持参せしめたところ被控訴人は自らこれを受取つたこと、(3) その頃本件家屋に居住していた借家人らの移転先を見つけて立退かせるため控訴人は寅男らとともに貸家さがしにあたつたが成功しなかつたので、控訴人は被控訴人に居住中の村越某を引取ることを求め、被控訴人はこれを承知して自宅の一間をあけて同人を引取り、そのあとへ控訴人が引越したものであること、(4) 当時控訴人が本件家屋を代金三万五千円で買受けたことは居住者村越の知るところとなり同人はその位の値ならば自分が買いたいといい四万円位までは買増しするからしばらく待つてくれとの申出が被控訴人方にあつたが、それでは被控訴人方も困るし、控訴人自身も従来の住家の明渡を迫られ急いでいたため村越を被控訴人方に引取つたこと、(5) 元来本件土地は被控訴人方住居の敷地と地続きでその裏側は被控訴人方の菜園となつており、家は屋右被控訴人方と隣接して廊下を通じて容易に往来のできるところであつて、被控訴人としては控訴人がこれに移転居住するについては直ちにこれを知り得べき場所的関係にあり、従つてまたなんびとかが所有者たる被控訴人にかくしてこれを売却したとしても、買主がこれに居住その他支配の実を示す限り、そのことは直ちに被控訴人に判明すべき状況にあること、(6) 現に控訴人が本件家屋に移転するについては被控訴人はなんら異議をのべず、控訴人が移転後家屋に種々修繕を加えていることを知りながらなんらの異議もいわなかつたこと、(7) 本件家屋に居住中であつた他に二世帯もその立退き先がないためこれをも被控訴人方に引取る必要があり、そのためにはかねて被控訴人方に間借りしていた松井はるを立退かせる必要があるとして、右寅男において被控訴人を申立人、松井はるを相手方とし、上田区裁判所に室明渡の調停の申立をしたが、右申立書には本件家屋を被控訴人の夫寅男の鉱山の失敗のため控訴人に売渡しこれを明渡す必要がある旨記載してあり、被控訴人自身右調停には前後二回にわたつて立会つてその手続に関与しており、右申立書にある事実はこれらの機会においても当然被控訴人においても承知し得べき関係にあつたこと、(8) 本件取引のはなしの進行中である同年六月十日頃には右寅男は被控訴人に対し本件不動産を控訴人に売渡すことを話し、被控訴人はこれに対し代金は八万円として自分が直接受取ること、登記には被控訴人の実弟小野文雄を立会せるということにしてこれを承諾したこと、(9) 昭和二十三年一月末には被控訴人方で昭和二十二年度の所得税確定申告に際し、寅男において被控訴人が本件家屋を代金一万二千七百円(この価額は本件登記価額と一致している)で譲渡した旨を申告していること、(10)この頃被控訴人は病気がちであつて被控訴人及びその一家の用事は大体すべて夫寅男にまかせており、寅男は被控訴人を代理してその貸家につき地方長官に対し家賃の届出をしたり借地借家人組合と種々交渉したり、右のような所得税確定申告をしたりしていたものであること、(11)本件についても昭和二十三年七月頃本件家屋裏側において被控訴人方との敷地の境界について争を生じ、これについて本訴が提起されるにいたるまでは、被控訴人は控訴人方と家庭的にも親しく交際しており、その間本件不動産を控訴人に売却したことを否認するがごときことがなかつたことをそれぞれ認めることができる。原審における被控訴人本人は、右(6) につき控訴人は本件家屋に無断で移転したもので被控訴人はその当時知らなかつた、(7) の松井はるに対する調停申立は被控訴人の長男歓一郎の妻が姙娠中でこれと居室を替つてもらうためであつた、村越を引取つたのもそうすれば自宅がいよいよせまくなるということで松井はるに対する請求がしよくなるためであつた、(10)のような届出や申告をしたのは夫寅男が勝手にやつたことであり自分の知らぬことであつたなどと供述しているがこの最後の届出や申告のようなものは必ずしなければならない事務であるのに、被控訴人自身は別にこれをしたわけでないのであり、右村越を引取つた事情、松井はるに対する調停申立の事情についての供述の信じ難いことはそれ自体明らかであり、本件と隣家にあつて控訴人の移転を知らないとするのも通じないところであり、これらの供述はいずれも採用できない。右認定の(1) ないし(11)の事実によつて考えれば、他に特段の事情のない限り右寅男は控訴人に対する本件売買の話をはじめるについては妻である被控訴人から具体的にその承諾を得て権限を与えられたわけではなかつたが、売買の議のあることは被控訴人も知つているところであつたから、取引の完了するまでには被控訴人に話してその承諾を得るつもりで控訴人との話合をすすめ、結局その引渡及び登記の完了した頃までには被控訴人においても控訴人との売買を承諾するにいたつたものであり、その日時の先後はともあれ取引の全体を見れば本件売買は被控訴人の意思にもとずいて成立しているものと推認すべきものである。原審における被控訴人本人の供述のように、被控訴人は本件土地家屋を代金八万円で控訴人に売却することにしたものと思い込んでいたものとすれば、あるいは前記(1) の事情もなんら不思議はないといい得るようであるが、そうだとすれば代金八万円のうちわずかに金一万円を受領しただけで右土地家屋を引渡し、かつその引渡の必要上居住者を自宅に引取つてまでいることは取引通常の事例としては奇異の感を免れない。また被控訴人は寅男に対し控訴人への本件売買を承諾するについて代金を八万円として自分が受取ること、登記には小野文雄を立会わせることを求めたことは前認定のとおりであるが、これらの事項は被控訴人の希望であつて、殊に代金のようなものは相手方とのかけ引きの結果に左右されるものであるから、これらの事項がみたされなければ被控訴人には売却の意思なく寅男にそれをまかせることもなかつたというようなものであつたとは考えられず(右事項がそのような条件であつたことはこれを認めるべき的確な証拠はない)、これらの事項がみたされなかつたとしても要するにそれは被控訴人の希望に反したというに止まるものと解すべきものである。曲尾寅男がその後被控訴人から離婚を求められ、両人は離婚するにいたつたことは本件当事者間に争ないが、それによつて直ちに前認定に影響あるものでなく、その他前認定を妨げるべき特段の事情は見出し難いところである。はたして然らば被控訴人所有の本件不動産につき曲尾寅男と控訴人との間になされた本件売買は被控訴人の意思にもとずき有効に成立したものと認めるべきである、被控訴人は右売買のなかつたことを理由として本件登記の抹消を求めることはできないといわなければならない。

ただ本件登記に際して用いられた被控訴人名義の印章はその時右寅男において印判屋に依頼して作つたものであることは前認定のとおりであり、これが従来被控訴人方にあるいわゆる実印とは似てはいるが全く異なるものであることもまた弁論の全趣旨により明らかであるけれども、すでに被控訴人は右寅男に対し控訴人への本件売買の件を承諾し登記についても実弟の立会こそ求めたが登記手続そのものは右寅男にまかしていたものと認めるべきこと前認定のところからおのずから明らかであるから、右寅男には被控訴人を代理して本件の登記申請手続を司法書士に委任する権限はあつたものというべきである。あるいは、それならば何故に右寅男は本件登記のためにあえて被控訴人に対し実印の使用を要求せず、わざわざこれに似せて別のものを作らせてこれを用いたかとの疑問は残るであろう。しかしすでに認定のとおり寅男は売買代金の点において被控訴人の希望にそい得なかつたし(この点でも八万円のところを七万円にしたにすぎないものならば、寅男の立場はそんなに悪いものではないはずである)、しかもそのうち被控訴人が直接受取つたものを除きその余は自分が受取つて事業資金に費消していることから考えて、当時直ちに登記のための実印を要求すればこの間の事情は自然被控訴人の知るところとなり、またその登記に小野文雄の立会を求められることは明らかであつたから、その間の自己の立場を糊塗するためあえて被控訴人の実印を求めなかつたものと推察せられるところである。従つてたまたま登記に用いられた印章が被控訴人の従来の実印とちがうとの一事は、なんら実体上の権利変動のない場合に名義人の意思にもとずかずその登記がなされる場合におけるものとは異なり、右登記を無効とすべき理由とはならないものと解すべきである。

しからば被控訴人の本訴請求は理由のないものとして棄却すべく、これと異なる原判決は失当であるからこれを取り消すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長判事 藤江忠二郎 判事 原宸 判事 浅沼武)

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