東京高等裁判所 昭和28年(う)3648号 判決
被告人 田中数重
〔抄 録〕
一、被告人本人の論旨中事実誤認に関する部分竝びに弁護人の論旨第一点及び第二点について。
所論は要するに、被告人が原判示第一の犯行をなした際には殺意がなかつた旨を主張するのである。よつて按ずるに、一件記録に徴すれば、被告人は正業なく、常時刃物を携帯して、事あらば容易に刃物三昧に及ぶ者であつた事実が認められるばかりでなく、押収してあるナイフの刃先(主文掲記のもの)や、被害者仁科信昭の蒙つた創傷の部位竝びに程度及び原判決挙示の各証拠を綜合すれば、被告人が原判示第一の犯行を敢てした際には相手方を殺害する意思(少くとも死ぬかも知れないという未必の故意)のあつたことが推認し得られ、従つて原判決の認定は正当であるようにみえるのである。
けれども原判決挙示の証拠の中、被告人の殺意を認定するについて最も有力な証拠となつたと思われる被告人に対する司法警察員竝びに検察官の各供述調書を仔細に検討するといずれも、被告人は相手方から組伏せられたため無我夢中で相手方を刺した旨の供述をして居り、殺意をもつて相手方の腹部を突刺した旨を述べているものではないことが明かである。もつとも、右各供述調書の中
(イ) 被告人に対する司法警察員の昭和二十八年五月三十日附供述調書中には
問=無我夢中で刺すということは結極どこでも突刺すということか。
答=そうです。向うで上になつて首をにぎられて居れば、腹中ではかなはないと思へばええやつちまえという気になつてやつたのです。
問=刺し所によれば死ぬ事も考へられるが。
答=無我夢中でやりましたので、刺し所が悪ければ一刺しで死ぬ事も思つていましたがその時はやたらに突刺したのです。手や足より腹の所を刺すのは一番危険なことは知つていましたが手や足を刺す余裕はなかつた旨の記載があり、また、
(ロ) 被告人に対する検察官の同年六月五日附供述調書中には、相手の男に組伏せられ首を締めつけられそうになつたので、ズボンの右ポケットから出してそのナイフで一刺し刺しました。相当長いもので刃もついて居りますから刺し処が悪ければ、一突きで相手が死んでしまうかも知れないと思つた旨の記載
があるが、これ等は関連している前後の供述からみて、いずれも、被告人が捜査官から理詰めに追究を受けた結果、やむなく供述したものであることが窺われるから、這般の事情を深く検討することなく、前記の各供述によつて、被告人に殺意があつたと即断するのは早計である。いま被告人が本件犯行を敢てするに至つた経緯について審究してみるに、一件記録を精査し、且つ当裁判所で行つた証拠調の結果を綜合すると、被告人は原判示日時場所に於て、原判示仁科信昭と些細のことから口論をはじめ、喧嘩となつたが、被告人には車田五郎、村松正三の仲間がいたので、仁科は敵わぬとみて約二十間程逃げたが、被告人はこれに追いすがり、そこで格闘となつたところ、被告人は仁科から組伏せられてしまつた為、窮余、ズボンのポケット内から所携のナイフを取出し馬乗りになつている同人を突刺したものであることが認められる。換言すれば、本件の場合に於ては、前認定のように、当初は兇器を用いて相手方を殺傷する意図をもつて格闘を初めたものではなかつたのに、相手方から組伏せられ、首を締められた苦しまぎれに相手方を突刺したのであつて、被告人はその際相手の腹部たることを意識して突刺したものではなかつたことは、被告人が原審公判に於て極力陳弁するのみならず、原判決が証拠に採用している、被告人に対する前記検察官の供述調書中にも
現場から要屋へ帰る途中、車田や村松から相手を刺しただろうといわれました。刃物を抜いて一回相手の何処かを刺し、相手の男が私の持つていた刃物をもぎ取ろうとしたので、その男の手の指に負傷をさせたことは判りましたから、帰る途中では、相手の手に負傷させただろうと申しましたが、実際は私のシャツは血と泥でベトベトでしたし、手にも血がべつとりついていましたから相手の男にもつと大きな負傷をさせただろうと思います。車田は帰る途中指の傷位ではない、何処か他を刺していると申しておりました。
との記載がある位であるから、原判決挙示の証拠だけで被告人が殺意をもつて相手方を突刺したと断定するのは相当ではない。而して一件記録を精査しても、被告人が殺意を以て原判示第一の所為に出たと認めるに足る証拠は十分でないから、その所為は傷害罪と認めるのを相当とするにかかわらず、これを殺人未遂罪に問擬した原判決は、事実を誤認したものというの他なく破棄を免れない。論旨は理由がある。