東京高等裁判所 昭和28年(け)37号 決定
本件異議申立理由の要旨は、申立人は昭和二十八年八月二十八日殺人被告事件の無罪を理由として拘禁による刑事補償の請求をしたところ、東京高等裁判所昭和二十八年(ま)第一六号事件として係属中同年十一月十一日本件請求を棄却する旨の決定がなされ、この決定は同年十一月十三日申立人に送達された。その決定の理由をみると、詐欺及び殺人罪の勾留は当初の昭和二十五年十月九日から同年十一月十四日までの詐欺罪のみによる勾留を除外すれば同年十五日から昭和二十七年二月十八日に至るまでの勾留は勾留状二通による競合のものであることが明らかであるから、たとえ所論のように右殺人被告事件が無罪となり該事件による勾留が理由がなかつたことに帰したとしても請求人に対し有罪として懲役二年の刑の確定した詐欺罪に関する被告事件のためになされた勾留は全く法律上勾留の要件を充しているものと認められるのであるから刑事補償法第三条第二号に該当し裁判所はその健全な裁量によりその全部又は一部の補償をしないことができるものと認められる、と謂うにある。しかしながら、本件は詐欺の勾留と殺人の勾留とが競合した形になつても、事実は別個の犯罪であつて本件詐欺と殺人とは直接関係を有するものでないことは記録上明白であり、殺人事件についてはその犯行を否認したが、詐欺については直ちに自白している。この詐欺事件のみを考えてみれば、たとえ勾留しても五十日位にして審理判決できる事件である。本件のように長く勾留する必要はない。その理由において殺人被告事件の起訴がなかつたとしたら勾留の期間が更に短縮されたのであろうと述べられたとおりであるにかかわらず、本件詐欺罪につきなされた約五百日の勾留は全く法律上勾留の要件を充しているというがごときことは形式理論に流れたもので妥当性を欠き納得し難いところである。この詐欺事件につき、しかも自白した事件につき約五百日も勾留したら如何様になるか、言を俟たない重大な人権問題が惹起するであろう。かくのごとき考え方は刑事審理の常規を逸脱したものといわなければならない。詐欺の勾留状と殺人の勾留状とは同じく勾留状でも精神上の苦痛において大なる差異がある。申立人には多数の弟妹があり、殺人として勾留されたために縁談にも支障を来し近親者にも多大の影響を及ぼしていることは看過することができない。されば勾留が競合したから刑事補償の必要がないというのは本件事件の真相を顧みざるも甚しいものである。仮に百歩を譲りたとえ詐欺事件につき三百日間の未決通算があつたとしてもなお百六十五日間が残るのである。刑事補償法第三条の場合は事件を具体的に考究して全部又は一部の補償をしないことができるのであるが、本件は全部補償をしない場合に該当しないことは本件を仔細に検討すればまことに明白である。なお、本件殺人事件と詐欺事件とは別個の事件であつて、必ずしもこれを併合審理しなければならないものではない。殊に本件の内、殺人事件が無罪になつた以上何のために勾留が長くなつたかを考えるならば、殺人事件のためであることは常識をもつても判断し得るところである。然りとせば、刑事補償法第三条の健全な裁量によれば一部の刑事補償をなす場合に該当し、しかも一部といつても本件の如きは殆んど全部である。よつて本件につきさきになした刑事補償の請求を棄却する旨の決定を取消し、申立人に対し本件殺人事件による拘禁日数四百六十五日に対する補償として金十八万六千円を交付する旨の決定を求めるためここに異議申立に及ぶ、というにある。そこで、当庁昭和二十六年(う)第五八八〇号詐欺及び殺人被告事件(長野地方裁判所松本支部昭和二十五年(わ)第二二三号詐欺被告事件及び同年(わ)第二五一号殺人被告事件)記録を調査すると申立人は昭和二十五年十月九日長野地方裁判所松本支部に同庁同年(わ)第二二三号詐欺被告事件として起訴され、同日同事件のため勾留状の執行を受け、次いで同年十一月十五日同庁同年(わ)第二五一号殺人被告事件として起訴され、同日同事件のため勾留状の執行を受け、爾来昭和二十七年二月十八日東京高等裁判所の保釈決定により同年二十日釈放されるまで二通の勾留状による勾留が競合して継続され、その間右詐欺被告事件のみにより三十七日間、殺人及び詐欺両被告事件により四百六十三日間勾留されたこと、申立人は昭和二十六年十一月十日長野地方裁判所松本支部において右両事件を併合審理の結果殺人及び詐欺罪により懲役十三年に処する旨の判決を言い渡され、これに対し控訴を申し立て、検察官からも量刑不当を理由として控訴の申立をしたところ、東京高等裁判所において審理の結果昭和二十七年七月八日原判決を破棄し、申立人を詐欺罪により懲役二年に処し、原審における未決勾留日数中三百日を右本刑に算入する、本件公訴事実中殺人の点については無罪、とする(検察官の控訴はこれを棄却する)旨の判決が言い渡され、この判決中殺人の点については上訴期間の経過とともに、詐欺の点についてはその後申立人の上告を棄却する旨の最高裁判所の決定によりいずれも確定したことは明らかなところである。したがつて申立人の右殺人被告事件の無罪の判決を理由とする本件刑事補償の請求は刑事補償法第三条第二号にいわゆる「一個の裁判により併合罪の一部について無罪の裁判を受けても、他の部分について有罪の裁判を受けた場合」に該当し、裁判所はその健全な裁量により補償の一部又は全部をしないことができるものといわなければならない。しかして申立人は本件詐欺の事実については昭和二十五年十二月六日の第一回公判廷において被告人として卒直にこれを認め、ただ起訴状に五十万円を受け取つたとあるが、実際に自分が受け取つたのは二十七万円であると述べ、右の点については同年十二月二十七日の第二回公判廷における証人小川作治の供述によれば申立人が実際に受け取つたのは右五十万円中二十七万余円で残額は第一審判決(第二審判決も同様)判示のごとく申立人及びその弟妹らの生命保険契約の第一回保険料の払込に充当したことが認められるのである、その他右詐欺被告事件につき第一審において取り調べた証人数も余り多くはなく、もし本件殺人被告事件の公訴がなく、詐欺被告事件のみであつたならば、所論のごとく前記のごとき長期間の勾留を必要としなかつたことは記録上おのずから窺われるところである。しかしながら前記拘留日数中第一審における未決勾留日数三百日は前記詐欺罪の刑に算入せられ、かつ控訴申立後の第二審における未決勾留日数は第一審判決が破棄された結果法律上当然に右詐欺罪の刑に通算されるのであるからこの部分については補償の限りではないといわなければならない。しかして、申立人に対する第一審における未決勾留日数は昭和二十五年十月九日より第一審判決の日(同日控訴申立)まで合計三百九十八日であつて、そのうち三百日は前記のごとく有罪として確定した詐欺罪の刑に算入されているのであるから、これを控除した残日数九十八日につき本件詐欺被告事件の審理日数として必要であつたか否かを検討するに、右詐欺被告事件のみの審理日数としては第一審における公判審理の経過及び被告人(本件申立人)が犯罪事実を認めている点その他諸般の事情に照しおそらくその半分の日数で事足りたであろうことが窺われるのである。したがつて、申立人に対し四十九日間、一日金四百円の割合による金一万九千六百円を補償するのを相当とする。よつて申立人に対しさきになした補償請求棄却の決定はこれを取り消し、本件異議の申立は右の限度においてこれを許容すべきものとし、主文のとおり決定する。