東京高等裁判所 昭和29年(う)1883号 判決
被告人 小島藤松
〔抄 録〕
控訴趣意第一点ないし第四点について。
原判決挙示の証拠によれば、昭和二十八年三月被告人は、本件の被害者であるたけと結婚し、爾来母家には被告人の母小島ゑつと被告人の先妻ふみ江との間の子友子とが住い、被告人はたけと共に母家に隣接した別棟の物置を改造してこれに起居していたこと。食事は最初の間は家族全部一緒にしていたが、同年十二月頃から母等とは別にするようになつたこと。たけは元妾などをしていたことがあり、それを秘して被告人と結婚したのであるが、後に至つてたけは、こんなところへ来て苦しむより前のところに居た方がよかつた、欺されてこんなところへ来たなどと口走るようになつたので、被告人は憤慨し、とんだ後妻を貰つたと後悔したことがあつたこと。母ゑつは同年十二月頃から中風で半身不随となり寝込むようになつたので、被告人は妹小島成子を東京から呼びよせ爾来同人に母の世話をさせていたこと。友子はたけになついて居たが、同年七月頃たけが友子を叱つたということを被告人の姉が母に告げ口をしたといつて、たけが怒つたこと。同年十月頃被告人の姉の子が被告人方に手伝に来たとき、たけの陰げ口を母にしたとてたけは怒りそれ以来たけはヒステリー気味となり、果ては被告人が母等とグルになつて同人を追い出そうとしていると邪推し、興奮の余り鎌を振り廻したり、剃刀を持ち出したりするので、被告人は夜も安心して寝られないことがあつたこと。その後被告人はたけに棒、薪で殴打されたり、睾丸を掴まれたりしたことも一再ならずあつたこと。翌昭和二十九年一月には、たけは被告人を殺して自分も死ぬと騒いだこともあり、又たけは被告人が別れたいと言うなら火をつけて殺してしまう等と言つたことがあるので、同年二月に入り、被告人はたけと離別したいと思うようになつたが、被告人からそれを言い出してたけが激怒するのを恐れて、言い出し兼ねていたこと。二月十三日の夕方たけは、成子が子供をつねつたと母へ告げ口をしたとて怒り出し、その白黒をつけるとて母家へ行こうとしたので、被告人はこれを宥めたこと。その際たけは被告人等がグルになつて自分を追い出そうとしているから別れるとて、荷物を纏め初めたが、当夜は雪が降つていたので、その夜は家出を思い止まつたこと。たけは別れるについては何をくれるか、金はどの位くれるかと聞くので、被告人は家の中がこんなにもめるのではとてもかなわない。たけが別れると言うのなら牛を売つて金を作り、その半分をやつて別れようと思つたこと。二月十四日はたけも機嫌を直したが、十五日朝たけは又亦前記告げ口の白黒をつけるとて母家へ行き初めたので被告人は連れ戻し、その後二回程無理に行こうとする同人を連れ戻した上、被告人はいい加減にしろとて上り端に腰をかけさせ、自分はたけの前に立つてその肩を押えていたところ、たけはいきなり左手で被告人の睾丸を摘むと同時に右手を椽の下に伸して、そこにあつた鉈を握つたので、被告人はあわててその左手でたけの左手を振り払うと共に被告人の右手をたけの首に廻してその体をたけの左側から後方へ廻し共に俯向けに倒れたこと。その時被告人は一層のことたけを殺して了おうという気になり、たけの背後からその首に廻していた右上膊部に左手を添えてその頸部を強く扼圧し、更に被告人の左足でたけの下半身を押えて強く締めつけたこと。やがてたけがグツタリしたので、被告人はたけの名を呼びながら揺つたが手答えがなく右手の脈をとつたが止まつていたので、被告人は駄目だと思い、たけを座敷へ引き上げて寝かせ、その上に蒲団をかけ、入口の戸を閉めてこれに南京錠をかけ、母家へ行つて妹成子にたけを殺したことを告げ自首するとて、梅沢俊夫方へ赴いたこと。たけを座敷へ引き上げて寝かせるときたけの衣類が濡れていたので、被告人は小便が出れば蘇生しないと考え、特に人工呼吸をもせず又医者に行く気にもならなかつたこと。被告人は嘗て柔道を修得し、初段の実力を有していることを認めることができる。
以上の事実を総合すると、被告人はたけのヒステリー的性格のために悩まされて別離を考えたが、自らそれを言い出してたけの激怒を買うのを恐れて言い出し兼ねていたところ、二月十五日たけの朝からの執拗な行為に手を焼いていた折柄、たけが興奮の余り被告人の睾丸を掴み鉈を持つて被告人を殴打しようとするかの如き気勢を示したので、被告人は左手でたけの手を振り払うと同時に右手をたけの首に廻して体をかわし、その危難を避けたにもかかわらずその時遽かに殺意を生じ、そのかけた手を以てたけの頸部を強く扼圧し、更に左足でたけの下半身を押えて強く締めつけ、よつてたけを死に致らしたものといわねばならない。
所論は、被告人の行為はたけの急迫不正の侵害を排除するため自己の生命を防衛するためやむを得ざるに出でたる行為であつて正当防衛である。仮りに然らずとするも誤想防衛であり、又過剰防衛であると主張する。しかしたけが被告人の睾丸を掴み鉈を握つた行為は急迫不正の侵害に該当するとしても、前記認定の如く被告人はその掴まれたたけの左手を振り払つているのであり、かつ被告人は体をかわしてその危難を避けたのであるから、被告人に対する危険の緊迫性は一応消滅したと認められるので、刑法第三十六条第一項にいう急迫不正の侵害ありたる場合に該当しない。のみならず被告人はその際新たに殺意を生じ故意に強く締めつけたのであること前記認定の如くである以上被告人の所為を以て自己の権利を防衛するため已むを得ざるに出でたる行為ないし防衛の程度を超えた行為であるということはできない。しかしていわゆる誤想防衛とは何等急迫不正の侵害がないのにかかわらず、それがあるものと誤想して反撃を加えた場合をいうとされ、その行為は客観的には違法であるが行為者の主観において事実の認識を欠いているから故意の成立を阻却すると解されるのであることは所論のとおりであるが前記の如く自己の権利防衛のためでなく新たな殺意の下に扼圧したものである以上本件においては右にいう誤想防衛の観念はこれを容れる余地がない。しからば原判決には所論の如き事実誤認の違法は存しないのみならず、記録を精査するも原判決の採証、認定には条理実験則に反するものは毫も存しない。論旨はいずれも理由がない。