東京高等裁判所 昭和29年(う)41号 判決
被告人 杉山楽 外
〔抄 録〕
被告人杉山楽の弁護人甲の論旨第一点について。
記録を調査すると、被告人杉山楽が原判示第一の(二)の犯行をなすに至つた動因は麻薬取締官和佐田寛の慫慂行為によるものであることは、所論のとおりである。然しながら他人の誘惑があつたとしても被告人において意思の自由を拘束せられたという証左のない本件においては自由にこれを拒否できた筋合であり、それにも拘らず自己の自由なる意思決定により犯行をなすに至つたというのであるからたとえ他人の誘惑により犯意を生じたとして被告人において現に犯罪を実行した以上これがために犯罪構成要件を缺くものということはできない。この点に関しては既に最高裁判所がその判例として他人の誘惑により犯意を生じ又はこれを強化された者が犯罪を実行した場合に、わが刑事法上その誘惑者が場合によつては教唆犯又は従犯として責を負うことのあるのは格別、その他人である誘惑者が一私人でなく、捜査機関であるとの一事を以てその犯罪実行者の犯罪構成要件該当性又は責任性若しくは違法性を阻却するものとすることのできないとしておるところであり、これと同趣旨に基き被告人杉山楽の本件麻薬所持事犯につき有罪の認定をした原判決は正当である。なおこの点について所論は、憲法第十三条の規定を云為するが右説述する如く被告人の該行為がたとえ捜査官憲によつて誘発せられたものとしても、これが苟も犯罪行為としての成立を妨ぐるものでないとする以上、凡そ犯罪行為は、公共の福祉に対する最大の害悪であるから、その犯罪者に対し刑罰を科すべきものであることは当然であつて、これを以て個人の尊厳と幸福追求に対する権利を保障しておる憲法第十三条の規定に違反するものということはできない。又所論は本件麻薬は捜査官である和佐田寛に手渡されたものであるから反社会的害悪発生の危険なく従つて犯罪の客観的構成要件を欠くと主張するけれども、被告人がこれを所持するに至つた動機は所論のとおり捜査官憲によつて誘発されたものであつても、被告人としてはこれを捜査官憲に引渡す目的で所持したものでなく普通一般人に譲渡する目的を以て所持していたものであることは記録に徴し明らかであるから、これを以て犯罪の客観的要件たる行為の危険性を欠くとする所論は正当でない。なお、所論引用の当裁判所の判例はこれを所論の根拠とすることは適当でない。論旨はすべて理由がない。