東京高等裁判所 昭和29年(ネ)2029号 判決 1955年10月18日
控訴人 三戸登
被控訴人 小高偉義
主文
原判決を取り消す。
被控訴人は控訴人に対し金十五万円及びこれに対する昭和二十九年一月二十三日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
この判決は控訴人において金三万円の担保を供するときは仮りに執行することができる。
事実
控訴代理人は、主文第一ないし三項同旨の判決並びに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述は、控訴代理人において、「本件の仔犬は生後八ケ月で両耳が立耳でなければならないのに右耳が立耳でなく垂れており、眼も小豆色でなく大豆色で、背線が弱く小児マヒのように歩くに従つて背中が揺れる等の欠点を有する駄犬である外、ヂステンパーの病歴を経過する以前の仔犬であつてヂステンパーに罹つて死亡したことが後日判明した次第で、このヂステンパーを経過しないことは仔犬の価格に重大な影響があり、その罹病前であれば飼育の態度も異る、このことは結局目的物に隠れた瑕疵があり、これも理由となつて被控訴人との間に本件仔犬の売買契約を合意解除したから、解除による原状回復義務の履行として控訴人は被控訴人に対し既に支払つた売買代金の返還を求める。仮りに合意解除の事実がなかつたとするも、本件仔犬の売買については、目的物たる仔犬フリツツ号が既にヂステンパーの病歴を経過していることを要素としたものであつたところ、フリツツ号はヂステンパーを経過していなかつたのであるから、本件売買契約は要素の錯誤により無効である。また仮りに然らずとするも被控訴人はフリツツ号がいまだヂステンパーの病歴を経過していなかつたにも拘らず控訴人に対しこの事実を秘して恰も既にヂステンパーを経過したもののように申し向け控訴人を欺いてこれを売り渡し控訴人より代金十五万円を交付させたものであるから、控訴人は昭和三十年四月十六日本件口頭弁論において右売買契約を被控訴人の詐欺に因る意思表示として取り消す。従つていずれにしても控訴人は被控訴人にフリツツ号を返還しているから既に支払つた代金十五万円を法律上の原因を欠く不当利得として返還を求め、且つ右金十五万円については本件訴状送達の翌日たる昭和二十九年一月二十三日から完済に至るまで年五分の割合による損害金(原審において合意解除の後日たる昭和二十五年十二月二日以降の損害金を求めたのは訴状送達の翌日に減縮することとなる。)の支払を求む。」と陳述し、被控訴代理人において、「本件売買が控訴人主張のとおり要素の錯誤により無効なこと、及び被控訴人の詐欺に基くことはいずれもこれを否認する。」と述べた外、いずれも原判決の摘示と同一であるので、ここにこれを引用する。
<立証省略>
理由
昭和二十五年十一月十八日控訴人が被控訴人よりシエパート仔犬フリツツ号控訴人は生後八ケ月と主張し被控訴人は生後六ケ月と主張するが、既に仔犬の同一性につき争のない以上、右は格別本件に影響を及ぼすべき事柄でないので、この点につき特に判断しない。また成立に争ない甲第一号証第三号証によればフリツツ号が牡犬であることが明らかであつて、訴状に牝犬と記載されていることは誤記と認める。)を代金十五万円で買い受け、その代金を支払うとともに引渡を受けた事実は、当事者間に争ないところである。
控訴人は、その主張のような経緯により被控訴人との間に右フリツツ号の売買契約を合意解除した旨主張するが、証人三戸球枝の証言によるも、控訴人は右買受後フリツツ号の評判があまりよくなかつたので、電話で被控訴人に対しその引取方を求めたところ、被控訴人は怒つた調子で「連れてくれば引き取つてやる」といつたので、昭和二十五年十二月三日頃フリツツ号を被控訴人方に送り付けた事実を認めうるに止まり、被控訴人が引き取つてやるといつたからといつて、直ちに被控訴人が合意解除を応諾したものとなすこともできず、その他右合意解除の事実を認めるに足る確証がないので、被控訴人の合意解除を前提とする第一次の請求は理由がない。
しかしながら、控訴人はフリツツ号の売買契約については、同犬が既にヂステンパーの病歴を経過している仔犬であることを要素として成立したものであるところ、フリツツ号がヂステンパーの病歴を経過しておらず、その後同犬はヂステンパーに罹つて死亡したのであるから契約の要素に錯誤があつて右売買契約は無効である旨主張するに対し被控訴人はこれを争うをもつて審究するに、当審証人神沢万之亟、金丸二豊、三戸球枝(第一、二回)の各証言及び被控訴人本人尋問の結果(但し後記措信せざる部分を除く。)を綜合すれば、控訴人は妻球枝と同様犬好きで、神沢万之亟の紹介により、愛犬家で優秀なシエパード犬の飼育訓練に多年の経験を有する被控訴人方に赴き被控訴人にシエパード犬の買受方を申し込み、被控訴人がその所有の優秀なシエパードの母犬に産ませた本件仔犬フリツツ号を二十万円の値段であるが代金十五万円にしておく、現在片耳が垂れているが将来立つようになるし、立たないようならば引き取る旨を申し述べたので、控訴人は、嘗つて犬を飼育し、ヂステンパーによる死亡率の高いことを知つていたので、この病歴を経過していない犬は買い受ける意図はなく、被控訴人に対し、「ヂステンパーの方はすんでおりますか。」と念を押し、被控訴人が「ヂテスンパーの方は済んでいる。」と答えたので、フリツツ号がヂステンパー経過後の犬であると信じ、代金十五万円を支払つてこれを買い受け、被控訴人より飼育上の注意を受け、シエパード犬を飼育するに適当なる犬舎を新築した上、これを引き取り注意して飼育したのであつて、普通飼犬はヂステンパー経過後のものを売買の目的とし、この病歴を経ない犬の売買は極めて稀れであり、本件の売買においても右病歴を経過している仔犬であることを要素として成立したものであることを認めるに十分である。しかして成立に争ない甲第三号証及び当審証人金丸二豊、同長谷川要の証言によれば、学説的にはヂステンパーは一度確実な病歴を経たものは再発しないといわれ、ヂステンパーには呼吸器型、消化器型、神経型、皮膚病型の四種があり、そのうち一つの型を経れば他の型のヂステンパーには罹り難いこと、並びに右フリツツ号は昭和二十五年十二月三日発病し、初め肺炎症状を呈していたが呼吸器性のヂステンパーとなり被控訴人の許に引き取られたまま、その手厚い看護にもかかわらず遂に昭和二十六年一月十三日午後七時頃死亡した事実が認められるのであつて、これらの事実よりすれば、フリツツ号は本件売買契約当時未だヂステンパーの病歴を経過していなかつたものと認めるのが相当である。この点に関し、被控訴人は、当審における本人尋問において、フリツツ号は本件売買契約前既に消化器性のヂステンパーを経過していて、控訴人に対しその旨告げ、かつ雨風にあてると再発するからと注意した旨供述し、当審証人渡辺泰二もまた右病歴に関しこれに照応する証言をしているが、これらの供述証言は、当審証人三戸球枝(第二回)、神沢万之亟の証言に照して措信することができずその他被控訴人の提出援用にかかるすべての証拠によるも右認定を覆えすに足りない。
果して然らば、本件仔犬の売買については、ヂステンパーの病歴を経ていることを要素とし、控訴人は右病歴を経ているものと信じて買い受けたにも拘わらず前記認定のようにヂステンパーの病歴を経ていなかつたのであるから、本件売買契約は、要素に錯誤があつたため当初から無効であつたものというべく、この点につき控訴人に格別重大な過失のあつたことも認められないのであるから、控訴人は被控訴人に対し右の無効を主張しうべきことは論を俟たないところである。そしてこのように無効なる売買契約に基き代金が授受された場合、売主は法律上の原因なくして買主の損失においては代金相当額の利益を受け、かつ右利益の反証のない限り現存しているものと認められるので被控訴人は控訴人に対しさきに受け取つた代金十五万円を返還すべき義務あるものというべきである。
被控訴人は、フリツツ号を引き取つた後も獣医の診断を受け、夫婦共に同犬の看病に没頭し当時入手困難なテラマイシンを高い代金を支払つて入手注射するなど多大の苦慮と出費を重ね、フリツツ号の死亡に至るまでその労力心痛の外食費、診療費、薬価等のみでも金五万円を費消している、右は控訴人のために支出した有益費であるからその償還請求権をもつて本件売買代金返還債務と相殺する旨抗争するが、前段認定のように本件売買契約は要素の錯誤により当初から無効であつて、従つてフリツツ号の所有権の移転という法律上の効果を当初から生じなかつたのであるから、たとい被控訴人がフリツツ号を引き取つてから後その主張のような費用を支出したりとするも控訴人に対しその償還を請求し得べきでないものというべく、被控訴人の右抗弁は理由がない。
このように、控訴人の第一次の請求は理由がないが、第二次の請求は爾余の点に干する判断をまつまでもなく理由があるので、控訴人が被控訴人に対し右金十五万円及びこれに対する訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和二十九年一月二十三日から完済に至るまで年五分の割合による損害の支払を求める本訴請求を正当として認容すべきものとする。
よつて、右の認定と所見を異にする原判決は不当なるをもつて、これを取り消し民事訴訟法第三百八十六条、第九十六条、第九十五条、第八十九条及び第百九十六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 大江保直 草間英一 猪俣幸一)