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東京高等裁判所 昭和30年(う)2922号 判決 1956年11月28日

控訴人 原審検察官

被告人 松村唯吉 外一名

弁護人 柳沢己郎

検察官 小出文彦 外一名

主文

原判決を破棄する。

被告人両名を各懲役弐年に処する。

但し被告人両名に対し本裁判確定の日から各五年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件控訴の趣意並びにこれに対する答弁はそれぞれ浦和地方検察庁熊谷支部検察官検事猪狩良彦作成名義の控訴趣意書並びに弁護人柳沢己郎作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これをここに引用する。

控訴趣意第一点について。

原判決は被告人両名の所為を業務上過失致死罪に問うたのに対し論旨はこれが傷害致死罪を構成する旨主張するので考察するのに、傷害致死の罪は傷害罪の結果的加重犯であり、傷書罪はまた暴行罪の結果的責任としても成立するものであつて、その犯意の成立には暴行の認識あるをもつて足り、必ずしも傷害の認識あるを要せず、しかも一般に犯意ありとするには行為の違法性の認識あるを要しないのはもとより、検察官所論の如き違法性認識の可能性あることをも必要としないのであるから、いやしくも他人の身体に暴行(違法な有形力)を加える認識のもとに暴行の所為に出で、因つてこれを死に致した場合には、たとえ犯人が錯誤によりその行為を法律上許されたものと信じていたとしても傷害致死罪の成立あるを免かれない。なるほど疾病治療の目的をもつて医学上一般に承認された手段方法により患者の身体に有形力を行使しまたは傷害を加えること、すなわち、いわゆる治療行為は、その性質上、刑法にいわゆる暴行もしくは傷害に該当しないか、または違法性がないものとして罪とならないことは答弁書所論のとおりであるが、同じく疾病治療の目的に出でたとしても、客観的には暴行ないし傷害に該当する違法な有形力を、主観的には疾病治療のため有効且つ適切な治療行為であると誤信してこれを患者の身体に加えた場合の如きはこれと異なり、行為者は暴行ないし傷害に該当する外形的事実はこれを認識しながら、ただ錯誤によりこれが評価を誤りこれを適法な治療行為であると信じたため、行為の違法性の認識を欠いて行動したに過ぎないのであつて、事実の認識を欠いたのではないから、暴行ないし傷害の犯意ありとするに妨げはなく、因つて生じた結果につき、傷害ないしは傷害致死の罪責を負わねばならない。これを本件について見るのに、記録によれば、被告人両名はいずれも肩書の職業に従事する傍ら日蓮宗の信仰を通じ病気平癒のため加持祈祷を行うことを業としていたものであるところ、戸屋庫吉の妻キヨ(当時三十六年)が原因不明の病気のため身体衰弱し精神に異状を呈して不可解な言動をなすに至つたため右庫吉の依頼により両名共同してキヨの病気平癒のため加持祈祷を行うに当り、その方法として戸屋庫吉ほか三名の男子の協力のもとに、同女を仰臥せしめ、その両手両足を押さえた上原判示の如き経過により数名交々、且つ長時間継続して各自手拳または手指をもつて同女の腹部、胸部、咽喉部等に強圧または強扼を加え、因つて同女をして甲状軟骨骨折のほか、頸部、腹部、上下肢等全身各所に無数の表皮剥脱皮下出血等の損傷を負わせ且つ呼吸困難に陥らしめ遂に頸部扼圧による窒息のため死亡するに至らしめたものであることを認めることができ、このように屈強の男子数名が協力して病気のため身体衰弱した女性の身体の重要部分に対し同時に且つ長時間継続して強圧または強扼を加えるが如きは患者の健康増進ないしは疾病治療のため有効な手段方法であるどころか、却つてその生理的機能を障害し、病勢を悪化せしめ、延いてはこれを死に致す危険のある有害無益な行為であり、到底医学上一般に承認せられた治療行為と同一視するを得ない違法な有形力の行使であつてこれが刑法上暴行に該当するものであることは、因つて生じた患者の身体傷害ないし死亡の結果に見るまでもなく検察官所論のとおりである。しかも、被告人両名の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、原審公判調書中被告人両名の供述記載、戸屋庫吉、戸屋忠三、戸屋芳五郎及び石渡徳三の検察官に対する各供述調書を総合すれば被告人両名は、その居住地方面に広く行われている迷信により前記戸屋キヨの病気はその体内にいわゆる「オオサキ狐」が憑いているためであり同女の腹部に玉のような塊りのあるのがその憑物であつて、同女の病気を治癒するためには加持祈祷によりこれを体内から追い出すこと俗にいわゆる「狐落し」が必要であるがそれには祈祷をしながら叙上のような有形力を加えてこれを体外から捉え腹部から胸部に押し上げ更に咽喉部に追い詰め捻り潰して退散させなければならないのであり、この方法は長期に亘る病気のため身体の衰弱している患者キヨの身体に対し異常に強度な力を加えるやり方であるから同女に身体傷害ないし致死の結果を招来する危険がないわけではないけれども、同女の憑物を退散させるためには必要且つ有効な治療方法であつて、これによりたとえ同女が一時苦痛を訴えて暴れることがあつても、結局はその身体生命に別条なく病気を平癒させることが可能であると一途に誤信しひたすら疾病治療の意図をもつて互に意思を通じ且つ叙上の四名をも説得し同人等とも共同して叙上の暴行に出でたものであることを窺うに足り、とりもなおさず被告人両名は客観的には違法な暴行に該当する外形的事実はこれを認識しながらただ迷信のためこれが価値判断を誤り患者キヨのため有効適切な治療方法であると錯誤妄信した結果行為の違法性を認識しないでその所為に出でたものであつてこれを錯誤により事実の認識を欠いたものと解するに由がないから叙上説示の趣旨においても暴行の犯意ありとするに十分であると言わねばならない。果して然らば被告人両名の本件所為は暴行の認識をもつて右キヨに暴行を加え因つてこれを死に致したものに外ならないからこれが傷害致死罪を構成することは勿論である。然るに原審が被告人等の所為につき傷害致死罪の成立を否定して業務上過失致死罪の成立を認めたのは事実を誤認したものであつてこれが判決に影響を及ぼすものであることは明白である。検察官の論旨は理由があり、原判決はこの点において破棄を免かれない。

よつて本件控訴はその理由があるから、控訴趣意第二点(量刑不当の論旨)につき判断をするまでもなく、刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十二条に則り原判決を破棄するとともに、同法第四百条但書に従い当裁判所において更に判決をする。

(罪となるべき事実)

被告人松村唯吉は二十数年来日蓮宗を信仰し、遂に農業の傍ら信仰を通じて吉凶判断、病気平癒のための加持祈祷を業とするに至つたもの、被告人今井梅三郎も被告人松村の勤めにより同被告人と同じ頃より同宗に入信し町役場衛生夫の傍ら同被告人の弟子分として祈祷の業に従事していたものであるところ、被告人両名は昭和三十年五月二十七日埼玉県大里郡寄井町大字鉢形八百四十二番地の二、戸屋庫吉の妻キヨ(当時三十六年)が予てから原因不明の病気のため身体衰弱し精神に異状を呈して不可解な言動をするのでこれが平癒のため加持祈祷方の依頼を受けて同人方に到り午後九時頃からキヨの病臥する同家奥の間において祈祷を始めたが、両名とも同地方に広く行われている迷信により同女の病気はその体内にいわゆる「オオサキ狐」が憑いているためであり、同女の腹部に玉のような塊りがあるのが、その憑物であつて病気を平癒させるためにはこれを体外に追い出さねばならないが、それには、これを体外から捉えて腹部から胸部に押し上げ更に咽喉部に追い詰め捻り潰して憑物を退散させなければならないと信じ、互に意思を通じ共同して、同家に居合せた前記戸屋庫吉、同人の兄忠三、従兄戸屋芳五郎及び隣人石渡徳三にもその旨を説明して協力を求め、且つ、たとえこの方法により加持祈祷を施行中、キヨが苦痛を訴えてもがいたりしても憑物を追い出すために強く押さえなければならず、一人でも病人が可愛そうだと思う者があつてはその目的を達することはできない旨を告げ、これを信じた右四名をして、長期に亘る病気のため身体衰弱して仰臥しているキヨの両手両足を押さえさせ先ず被告人両名において誦経しながら、憑物を追い出す方法と称して、交々手拳、手指をもつて同女の腹部、胸部、腋下、頸部等を強圧または強扼し次で右四名にも交々同様のことをなさしめ同日午後十一時頃までこれを続け、暫時休憩の後再び午後十一時三十分頃から同様の方法により祈祷を継続した結果、同夜半過ぎ頃被告人両名においてキヨの腹部、胸部、頸部等を扼圧中、同女をして呼吸困難に陥らしめ遂に頸部扼圧による窒息によりその場において死亡するに至らしめたものである。

(証拠の標目)

原判決挙示の証拠と同一であるから、これをここに引用する。

(法令の適用)

被告人両名の判示所為は各刑法第二百五条第一項、第六十条に該当するのでその所定刑期範囲内において、量定すべき刑につき考察するのに、本件犯行はその態様において一般社会観念上到底容認し難い野蛮違法な所為であり、その結果として被害者を死に致した点において、被告人等の罪責は軽くないものがあり、事犯の背景をなす被告人等居住地の地方的社会環境に鑑みるときは一般予防の必要上軽々にこれを看過するを得ないが他面被告人等の年令、経歴、教養生活並びに家庭の状況、本件所為は被害者の近親の懇請により行われた善意の治療目的行為であり被告人等は無智迷信により行為の違法性を認識していなかつたこと、被害者の近親知己も同様の無智迷言から被告人等の所為に協力加功するところがあつたこと、犯行後における被告人等の改悛の情等一件記録に現われた諸般の情状をも斟酌勘案し被告人両名を各懲役弐年に処し、同法第二十五条第一項第一号に則り被告人両名に対し本裁判確定の日からそれぞれ五年間右刑の執行を猶予するのを相当と認め主文のとおり判決する。

(裁判長判事 三宅富士郎 判事 河原徳治 判事 遠藤吉彦)

検察官の控訴趣意

第一点本件検察官主張の公訴事実は、起訴状及び第一回公判調書中に記載の通りであり、その簡単な要旨は、即ち、被告人松村唯吉、被告人今井梅三郎両名は戸屋庫吉、戸屋忠三、戸屋芳五郎及び石渡徳吉の四名と共謀の上、昭和三十年五月二十七日午後九時頃から同夜半過迄、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形八百四十二番地の二の上記戸屋庫吉方に於いて、同人の妻キヨに対し同女の腹部を手拳で強圧し、或は頸部を強扼する等の暴行を加え、同女をして呼吸困難に陥らせ因つて間もなく同所で窒息死するに至らせたものである。と謂うに在るのである。

之に対し原審判決は、罪となるべき事実として、敢て公訴事実の通りの暴行に因る傷害致死事実は之を認めず、単に大要次の如く即ち被告人唯吉は農業の傍日蓮宗の信仰を通じて吉凶判断、病気平癒の為の加持祈祷を業とするに至つたもの、被告人梅三郎は日蓮宗を信仰し、埼玉県大里郡寄居町役場衛生夫の傍、被告人唯吉の弟子分として祈祷の業に従事していたものであるところ、昭和三十年五月二十七日被告人両名にて寄居町大字鉢形八四二番地の二菓子製造業戸屋庫吉方に到り、同日午後九時頃より同家奥の室に戸屋庫吉の妻キヨを横臥せしめ、その枕元に於いて共同して祈祷を始めたがキヨは病気のため身体が衰弱していたのであるから、祈祷業者たるものは、この様な病人のために祈祷をなすにあたつては、その心身の状態に細心の注意を払い異常な力を加え、そのため病者の生理的機能を害するが如きことのない様になすべき業務上の義務があるのに拘らず之を怠り、キヨが腹部押圧に依り苦痛を訴え、のがれようとして身をもがくや之を以て憑物が暴れるものとなし、右憑物を退散せしめることによつて病気を平癒させることが出来るものと妄信し、同所に居合せた前記庫吉、庫吉の兄戸屋忠三、庫吉の隣家である石渡徳吉及び庫吉の従兄戸屋芳五郎にその旨説明して協力方を要請し、その説明を信じた同人等をしてキヨの両手両足を押えさせ、憑物退散の方法として被告人等において交々手拳や手指を以つてキヨの腹部、わきの下、頸部等を強圧若しくは強扼し、右四名にも交替して同様のことをなさしめ、同日午後十一時頃迄之を続け、暫時休止した後再び午後十一時三十分頃から同夜半過迄同様の方法に依り祈祷を継続したため、同女をして呼吸困難に陥らしめ因つて間もなく同所において頸部扼圧による窒息死するに至らしめたものであると做し、各刑法策二一一条前段第六〇条を適用し、而して被告人両名を各禁錮一年に処する。但し本裁判確定の日から何れも三年間右刑の執行を猶予すると言渡したのである。

併し、原審判決には、後述の理由により第一点として判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり、第二点として刑の量定が軽きに過ぎるという不当があるから、孰れの点からするも原審判決は破棄せられるべきものであると思料するのである。

第一点本件は各被告人両名が暴行の犯意があつたと認められるべきであり、従つて傷害致死事実が認定せられるべきである。然るに原判決が業務上過失致死と認めて傷害致死を認めなかつたのは誤認と謂うべきである。

原判決も被告人両名が共同して庫吉、忠三、徳吉及び戸屋芳五郎に協力方を要請し、同人等をしてキヨの両手両足を押えさせ被告人等において交々手拳や手指を以つてキヨの腹部、わきの下、頸部等を強圧若しくは強扼し、右四名にも交替して同様のことをなさしめたとの外形的事実は之を認めておるところであり、原裁判所において、夫々取調べられた証拠である鑑定書の記載内容、同書末尾の写真、各関係供述調書の記載内容によるも、被告人等の所為が、その中意思の問題は之を後述に譲り、外形的行為において正に暴行と謂われるべき程度の行為であつたことを十分認められるところであり、即ち(記録第十四丁裏面)キヨの死体の頸部所見、(第十八丁裏)甲状軟骨右上角は骨折し、周囲の軟部組織間に超大豆大出血あり、(第二十三丁表乃至第二十四丁表)本屍に存在せる生前受傷の新鮮創(い)乃至いろは順で(お)に至る記載、(第五十三丁表以下)戸屋忠三の供述記載として今井と松村と二人でキヨの腹を拳で押しました。今井と時々は松村も病人の咽喉をつかんだのです。前に拳で腹を押したと申しましたが、これは腹を突くようにして押したのであります、とあり、(第九十一丁裏以下)被告人松村唯吉の供述記載として力強くやらなければ駄目だと私が申し、今井が病人ののどをつかんだ時病人がぐうぐうと蛙が鳴くような声を出して苦しがつていました。私も今井に交替してぐうぐういつているのどの辺を力一ぱいつかんでひねりつぶすようにしましたとあるのを綜合して考えれば被告人等が手でキヨの身体に対し、外形的に暴行と謂い得る程度の強圧若しくは強扼の行為を加えた事実が確認せられるところである。仍つて次に被告人等がキヨの身体に対し暴行を加える意思をも有したものと謂うべきであることを論じよう。

原裁判所の右証拠や(記録第九十三丁裏)被告人松村唯吉の供述記載として右に述べたような事をすれば乱暴なやり方であつて云々とあり、(第百六丁表以下)被告人今井梅三郎の供述記載としてこのやり方は病人の身体に相当に強い力を加える事です。右述べたような乱暴なお加持をしないことがよかつたと思いますとあるのを綜合して考えるとき、各被告人は孰れも自己等の外形的暴行行為は之を意識表象して為したことは勿論であると認められるが、問題は本件の如き外形的には明らかに暴力をふるつたことになる被告人等の所為に暴行の犯意の有無孰れと為すべきかであろう。一学説(団藤教授)によれば、法律の規定の不知ないし誤解の結果、行為者が違法性の意識を欠くにいたるばあいがあり、これが違法性の意識の問題であつて、犯罪事実を表象認容して、しかもあえて行為に出る以上そこには直接的な反規範的人格態度をみとめることができる。従つて違法性の意識は故意の要件ではない。ただ違法性の意識を欠くばあいには、多くなんらかの事情があるはずである。その事情のもとにおいては、行為を違法でないと信じるのが無理もないというばあいであれば非難可能性はなくなるべきであり、責任は阻却されるものといわなければならない。これは期待可能性の理論と共通の基礎に立つものである。かようにして違法性の意識は故意の要件ではないが、違法性の意識の可能性は故意の要件をなすものと解するとせられている。上記学説は正当と思われ、即ち違法性の意識自体は、仮に存しなくも違法性の意識の可能性さえあるなら、犯意ありとせられるのであり、是に由つて之を観るに本件被告人等の強圧、強扼という外形的暴行行為に果して違法性の意識の可能性が無かつたなどと謂われようか。答は違法性の意識の少くとも可能性は厳存したものと謂うべきである。再言すれば本件被告人等の強圧、強扼という外形的暴行行為は仮に譲つて違法性の意識自体は無かつたとするも、現実には少くとも違法性の意識の可能性は存したものとみるべきであり、即ち暴行の犯意有りと為すべきである。従つてその余は多くを論ずるまでもなく本件は暴行の犯意に基く傷害致死事業と謂うべきであるから、傷害致死を肯認しなかつた原判決には重大な誤認がある。

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