東京高等裁判所 昭和30年(く)21号 決定 1955年8月11日
本籍並びに住居 長野県○○郡○○村大字○○○○番地
学生
少年 N
昭和一一年一二月二六日生
抗告人 父
主文
本件抗告はこれを棄却する。
理由
本件抗告理由の要旨は
抗告人は少年Nの父である保護者であるが、原決定の認定した少年(Nを指す。以下同じ)の非行事実(1)乃至(6)のうち(1)の強盜傷人の事実について上田警察署は昭和二九年一二月一九日少年を呼出しその取調をして自白させたが、その後少年は長野少年鑑別所において犯行を否認し原審の審判廷においても否認したので、抗告人は弁護士二名を附添人として選任し、附添人は少年に面接して調査すると共に審理に立会い、審判の過程においては有力な反証が挙つているのにこれが軽視され、右(2)乃至(6)の非行事実についても指導的責任ある学校当局の責任と教育的見解には一切触れず一方的に少年の非行と断定されているのは懲罰的処置であつて少年の保護指導上納得できないのである。少年は(1)の無実の罪を負わされ少年院に送致され、現在なお無実であることを訴えているようでは、更生どころか却つて社会を恨む結果となることを懼れるので特に(1)の事実について審理を求めるのである。(1)の事実が少年の非行でないとする理由を挙げると、
(一) 少年の供述と被害者の供述にくいちがいがある。この事件は少年宅の近所の事件であつたので、その夜のうちにその話は少年の居住する部落に拡がり少年も母や近所の人から聞き、新聞で見たりして知つていたのでそれに推測を加えて供述し又誘導されて供述しているのであるがそれでも少年の供述と被害者の供述にくいちがいがある。(イ) 犯行現場の状況について被害者は後から体当りをくらつて倒れその殴られて鞄をとられたと証言している。これに対し少年の司法警察員に対する第一回供述調書によると、少年は母から事件直後聞いた通り真先に殴つて鞄をとつたと供述している。司法警察員に対する第二回供述調書によると、犯行の場面がボカされているが真先に殴つたと供述していることは間違ない、(ニ) 犯行時被害者がいたずらをされようとした点について、被害者は太股に手を入れられ更にお尻のところに手をかけてひつくりかえされそうになつたと証言している。これに対し少年は太股のところえ手をつつこんで附根のところまでとどいたと供述しているし、強姦しようとしたと供述しているが、そうした手口が少しもはつきりしていない。(ハ) 被害者は事件のとき左手に鞄、右手に風呂敷包を持つていたと証言している。少年の供述調書によると少年は初めは被害者のいう通り被害者は左手に鞄、右手に風呂敷包を持つていたと供述しているが犯行時においては右側から鞄をとつたと供述している。(ニ) 鞄の捨てられてあつた場所も明らかに相違している。
(二) 被害者は少年の家とは一〇〇米位離れた隣家に住み、殊に少年の実弟(○○○○高等学校定時制一年通学)は被害者の勤務する学校の生徒であるので、いつも被害者と帰路行を共にするのである。事件当夜は偶々別行動であつたが、近所のしかも実弟が毎夜世話になつている顏見知の先生に対し、覆面もせず襲いかかり強姦までしようなどとは(少年の供述による)いかに衝動的人間であつても考えられないことである。
(三) 少年は学友と学校で煙草を吸つたり、バーえ行つたり、年上の女と映画館その他え行つた非行はあつたが、他人の物を盜むとか、ごまかすとか、家から金品を持ち出すような非行は一度もなく、警察署の取調でも窃盜等の事件は一件も出なかつたのである。
(四) 犯行の動機として少年はお金が欲しかつたと供述しているが、これは少年に犯行の責を負わせるため警察員が供述させたものである。少年は月々母から授業料校友会費等を含め一五〇〇円宛もらつているし、その他にも臍繰りを蓄めていつも一五〇〇円から二〇〇〇円のお金を持つていたことが尋問で明らかにされている。その他必要なものは買つてもらつていたので、小遣銭に困るようなことはなかつたわけである。なお昭和二九年七月は定例日の一〇日に授業料を納入している(学校当局の証明がある)ので母からのお金だけでも一〇〇〇円以上持つているのでお金が欲しかつたというのは警察署での辻棲を合わせるための嘘であることが審判廷で明らかにされている。又警察署の取調ではお金が欲しかつたから古い学帽を友人に一〇〇で売つたと供述しているが、数日後少年は友人と一緒に行つて自分の新しい学帽を買つている。これから見るとお金が欲しいのではなくて新しい帽子が欲しかつたのであることを審判廷において訂正しているのである。少年の警察員に対する供述調書にある通り少年はお金が欲しいと供述しているがそれに関する非行は一件も出ていないのである。
(五) 少年は事件当夜母親との口論の気晴しに散歩に出たと係官に供述しているが、これは全く虚偽である。(イ) 当時少年は母の云うことなど気にかける程に威圧を感じていないで我儘な態度をとつていたもので、今まで母と口論して家出したことは一度もない。(ロ) 昭和二九年一二月二〇日の証人○芳○の供述調書にある通り少年は少年宅の夕食時に少し大声で物云いをしていたが、二三言でやめ、夕食をすませてから居合わせた○芳○に今日は御苦労様でしたと挨拶している。この証言から見ても少年がやり場のない程の痛手を受けていたとすれば挨拶もせず自分の居間に行くであろうし同人に会わずに出る出口もあるわけである。(ハ) 少年は平素我儘を云つて口答えをすることがあつてもこれを何時までも根に思つているようなところがなく、間もなく気分が直る方である。
(六) 事件当夜少年は在宅していて定時制高等学校から同夜九時四〇分頃帰宅した弟に、別棟の少年の部屋から針と糸(帽子の後に革を縫いつけるため)を持つてくるように依頼している。このことは母も弟も承知していることであるし、昭和三〇年二月二日原審において当夜少年宅に入浴に来ていた○芳○、○島○し○両証人はこれを認めているのであつて、一緒に居合わせたもう一人の○勇○郎証人は耳が遠いので気付かなかつたと証言している。これが認められる以上少年は事件のあつた時刻には在宅していたわけてある。
(七) 夜は恐怖心があるので実物より大きく見るのが人間心理現象だと思う。被害者は国道と部落入口の三叉路で犯人と二、三尺の距離で会い、犯人は自分と同じ位の身長であつたと証言しているが、学校から取り寄せた昭和二九年四月の少年の身長表と比べてみると少年の方が被害者よりも二寸以上高いのである。
(八) 被害者は国道と部落入口の三叉路で犯人の学帽の形、周囲の白線の有無、及び犯人の顏の形を確めて供述している。当夜は月齢一三夜であるから、これだけのことはわかつて供述していると思う。自宅の近所の少年であれば身なり、恰好、歩き方などでわからない筈はないのであるが、事件直後警察署においては犯人は学生風であると供述しているだけで誰であると供述していない。又被害者は後をつけられていると感じたとき部落の者であると思つていれば、当然「今晩は」とか何んとか言葉をかけるのが人の心である。しかるに被害者がこれもしていないところからみると部落の者と思つていなかつたのであるが、昭和二九年一二月になつて愚にもつかないことを挙げて少年を容疑者と証言しているのである。
(九) 少年の司法警察員に対する第二回供述調書中には少年の犯行後の逃走路の供述があり、その最後の方に「家に入るとき見たが自分の足に砂等がついて汚れていました」との供述があるが、盛夏の七月ではその逃走路は昼間とても通れたものではなく夜草履で歩いたとすれば手足をバラ等でいためるのは必定で砂などより泥にまみれるのである。昭和三〇年二月二六日原審の実地検証に立会つた附添人の弁護士は冬の草枯の時期であればどうにか通れるが、夏雑草の繁茂している時などには全く通れたものでなく、又そんなところを通る必要もないと云つている。この少年の供述は辻棲を合わせるための捏造である。
(一〇) 事件についての少年の供述は上田警察署の職員が第六感で少年を容疑者と断定した結果のデツチ上げであつて、全く少年の犯行のように供述調書が作成されている。(イ) 昭和三〇年二月二日原審において証人として尋問された上田、滝沢両警察員は誘導尋問や脅迫の事実はなく、少年の方から自供したと証言しているが、その通りであるとすればその後になつて否認することはないと考えられる。少年の手記にある通り教えられている点が多い。同じ少年の供述であつて警察署で述べたことが真実であり、手記に真実性を認めない理由はない。(ロ) 前同日の原審審判廷において証人として尋問された上田警察員はこの事件が少年の犯行であると思つた理由として1、素行が悪かつたこと、2、少年宅の近所の定時制高等学校に通学する女生徒の帰りを待ち伏せていて抱きついたことを聞いたことを挙げているが、2の事実について附添人からそれは真実かどうか調べたかと反問され、それは噂であると供述している。この程度のいわゆる警察員の第六感で事件を少年の犯行であるとして、自白させるため昭和二九年一二月一九日一日で一〇時間以上も勾留し親にも面会させずに、他の非行についても聴取したと思われるが、主としてこの事件を追求したものと想像される。(ハ) 取調に当つて事件当日自転車に乗つて少年が自宅を出たかどうか(これについては昭和三〇年二月二日証人○勇○郎が証言している)という事件に直接関係のない事実を追求して、少年を窮地に陥入れ、その他いわゆる精神的拷問を加え、自白を強要した節が見られる。昭和二九年一二月一九日午前一〇時から同日午後一〇時過少年が自白するまで四、五人の警察職員が追求しているのは全く自白の強要でありこれでは成人でも敵し得ないものと考えられる。(ニ) 警察署における取調、供述調書の作成については、相手が少年である場合なので重大な関心が払わるべきである。警察員作成の供述調書、警察員の証言が真実であると思つたり、それに比重をかけたりしたのでは審判の公正は期せられないのである。
(一一) 昭和二九年一二月二〇日附司法警察員上田貢の捜査報告書を見ると、少年の母の証言は嘘偽であり言動が矛盾していると書いてあるが、上田警察員の智能、常識、取調の公正について深い疑を持つのである。少年の母は真実を述べたものであり、その内容の一部は○芳○の証言と通じている。(イ) 上田警察員は少年の家人が少年を犯人でないかと取り調べていると云つているが、少年の素行を考えたり、警察官や被害者から出ているという噂を耳にしては、犯人が少年であるなしにかかわらず少年を調べるのは親として当然なことで、このことは少年が犯人であることと結びつくものではない。(ロ) 上田警察員は事件当夜の少年の所在が確認されていればそのようなことをする必要がないと云つているが確かにその通りである。しかし母の供述調書にある通り少年の所在を確認していたとは云つていない。それで母は心配して少年を糺したわけである。(ハ) この捜査報告書を見ると上田警察署の刑事室の責任者である警察員上田貢がこの事件についてどのような意図を持つていたか推測されるのである。
(一二) 原審裁判官は原決定の言渡に当つて少年が警察署においてはもとより、検察庁、家庭裁判所においても自分が犯人であると供述していることを重大視していると述べられたが、少年が否認していないきは格別、現に否認しているときは、このことは納得できない。殊に少年の場合は、昭和二九年一二月一九日から、同年一二月二二日まで勾留され、二二日午前一〇時警察署から検察庁え、それから家庭裁判所え、そうして一二時頃には鑑別所え送られた短時間内の取調における自白である。警察署における夜昼なしの取調、精神的拷問に身も心も疲れ果てて観念している少年であり、しかも少年にとつて検察庁も、家庭裁判所も警察署と同様なところと思われていたので、「誰にも拘束されることがないから自由に云つてみよ」という係官の切口上もその意味がとれたかどうか、それ以上に否認すれば又あの手で強要されはしないかと恐怖心で一杯であつたわけである。こうした短時間内の推移と環境による心理状態を無視されていることは懲罰主義以外の何物でない。
(一三) 少年の犯行であると断定するのなら、その実証を示して少年を納得させることが指導であるが、この点が不明瞭で理解に苦しむのである。
次に原決定の認定した(2)乃至(6)の非行事実は、いづれも学校という特殊な場所において発生し、学校長の責任において教育的に解決の方途を講ずべき問題であると思われる。そして学校側だけで教育的解決が不可能な場合に保護者と特に合議の上その指導対策を講ずべきものと考える。しかるに保護者に一言の相談もなく、教子を警察当局に売る学校当局の教育的良心が究明されねばならないのに、これがなされず一方的に処断されるのは納得できないのである。これらの非行事実は検察庁において取り上げるべき問題ではなく、これを学校当局に戻し学校当局と保護者と合議の上必要があれば家庭裁判所に連絡して保護的処置について指導を受くべきであると思う。
以上の理由により少年を中等少年院に送致した原決定は不当であるから、これが取消を求めるため本件抗告に及ぶというにある。
仍て抗告人の抗告理由について考えると、少年法第三二条の規定する保護処分の決定にする抗告理由は、決定に影響を及ぼす法令の違反、重大な事実の誤認、又は処分の著しい不当に限られていることは同条の明定しているところであるから、抗告人の本件抗告理由として主張していることは、原決定の認定した(1)の事実は少年の非行ではないとの事実誤認の主張と、原決定が少年を中等少年院に送致したのは著しく不当な処分であるとの主張に帰着することとなるものといわねばならない。
先づ抗告人の右抗告理由のうち事実誤認の主張について考えると、少年に対する強盜傷人、暴行、脅迫保護事件記録中の○島○みの司法警察員に対する昭和二九年七月一四日附、同年七月一六日附各供述調書、原審証人○島○みの原審審判廷における供述、司法警察員作成の実況見分調書、原審検証調書、○島○みに対する歯科医師池内哲夫作成の診断書、○島○みに対する医師有光治水作成の診断書によると長野県○○郡○○村大字○○○字○○○○○○番地に居住する○○○○高等学校定時制教諭○島○み(明治四〇年六月一九日生)は昭和二九年七月一三日同校の授業終了後帰宅するため、午後九時四〇分頃○○○○電鉄線○○○駅発○○○駅行電車に乗車し午後一〇時頃○○駅に下車し、左手に革の手提鞄、右手に風呂敷包を持ち線路南側に沿い西に通ずる農道を歩いて、これと交叉し北方○○○部落に通ずる村道を通り、電車線踏切を渡り、更に北接する信越線踏切を渡つたとき、線路北側に併行している前方の国道と右村道との交叉地点北東側にある忠霊塔石段附近の国道を一人の男が東方から西方に向い歩いているのを見たが、同女がその儘国道に出て国道中央辺に行くと、その男も東方から近づいて来たのでその男を見ると、当夜は朧月夜で顏がはつきり見える程ではなかつたが、一見高校生らしい年令一七、八才位痩せ型細面で身長は同女と同じ位か少し高い位、黒詰襟服上下を着用し俗に慶応帽といわれているつばが平たくて長いような学生帽をかぶつていて、音のしないような履物を履き、胸の辺に両手を当てたような恰好でシヨボシヨボした、叱られたような、考えながら歩いているような元気のない態度をしていた学生風の男であつたので、同女は教師という気持を働かせ、自分の乗車して来た電車には一人も学生は乗つていなかつたし、その男は○○町附近で遊んで今頃歩いているのかと思い、勤務先の○○○○高等学校の生徒であれば問い糺す考であつたが、帽子に白線がないので同校の生徒でないことがわかり、他の学校の生徒と思いながら無言でその男の前を通り過ぎ、右村道を○○○部落に向つて進むとその男が後を追随して来ることに気付いたのでその男を先に出そうとして歩調をゆるめるとその男も歩調を合わせ先に立たず、いつも一間位の間隔で追随し、国道から約一一七米進んだ地点で北方○○○部落に通ずる道と東北方の同村○○○部落に通ずる道との分岐点に至ると、後方から一台のハイヤーが進行して来てそのライトに照らされ道路左側に退避し、その男も同女より約一間離れて同様に退避し、ハイヤーがその分岐点から○○○部落方面に進行した後、同女が依然○○○部落に通ずる道路を歩いて行くと、その男も同様に同女の直ぐ後に追尾して来て、午後一〇時一〇分過頃その分岐点から北方二四九米位の道路西側に麦藁の積んであつた地点すなわち○○村○○○○○○地籍に至ると、その男は同女に追付き、いきなり後から同女の腰の辺を強く体当りして同女を麦藁の上に突き倒し、同女が両膝を道路上について左肩を下にし上身を麦藁の上に横倒にして倒れると、その男は、低い殺したような声で「金を出せ、金を出せ」と迫りながら、同女の右側のスカートを捲つて手を突込み、右足太股のズロースの処まで手をかけたが、同女がその男の手を払い退け、「何するの、年を考えなさい、お金ならあげるよ」と云つて、身体の下になつた手提鞄を引寄せ、チャックに手をかけ金を出してやろうとした途端、その男は同女の尻に手をかけ前にひつくり返えそうとしたが、麦藁があるため同女の身体が転ばなかつたので、同女の顏面、前頭部を手拳で連続三、四回殴打し、その痛さと不意打で同女が怯む隙に同女の手から手提鞄を奪取し、来た道路を逆行して逃走し、その途中現金一四〇〇円位在中の二つ折鹿革製財布を右鞄から抜取り鞄は奪取現場から約一〇米南方の土橋附近の道路上に放棄したもので、右暴行により同女に顏面打撲傷、両下肢擦過創、歯冠破折、外傷性歯根膜炎等全治一週間を要する傷害を負わしめたことを認めることができる。しこうして司法警察員作成の実況見聞調書、○島○みの司法警察員に対する昭和二九年七月一四日附供述調書によると、○島○みの被害当時の服装は鼠色靴下に茶色短靴を履き、スカートは毛織鼠色と薄茶混り、上衣は鼠色七分袖ドルマンスリーブ型ハイネツク茶色釦のものであり、又その被害現場は南方国道から約三六五米、北方○○○部落までは約四五〇米の地点に当り、附近には人家なく、国道から○○○部落まで一面の田甫続きの中の一本道路上にあつて、現場の両側は少年の父すなわち抗告人所有の稲田で現場の道路上西側には麦こきを実施した後の麦藁が中束にして無雑作に積み重ねられてあつたもので、その現場附近は昼間勤人、農作する人々、学生生徒の往来はあるが、夜間は勤人の帰宅者又は附近部落の者で電車を利用する者が通行するのみであることが認められ、前記保護事件記録中の少年の司法警察員に対する昭和二九年一二月一九日附供述調書、○津○、○原○子の司法警察員に対する各供述調書、昭和二九年一月一八日附原審審判調書、○○○○高等学校長○原○作成の少年の保健体育簿写及び少年調査記録中の少年調査票、家庭裁判所調査官依田嘉人の昭和三〇年一月一〇日附、同年一月一二日附調査報告書によると、少年は昭和二九年七月当時前記○○○○○○番地に居住していた年令満一七才の上田市○○所在の○○○○高等学校三年生であつて、痩型、面長で身長一六二、二糎あり、自宅から前記村道を通つて○○駅に出て、同駅から電車を利用し、上田市所在の同校まで通学していたもので、通学の際は黒の学生服上下を着用し慶応帽型の帽子をかぶつていたのであるが、同校二年生の秋頃から、服装、態度、言語、授業態度等に不良性を帯びて来て昭和二八年九月頃上田市内の特飮街で遊興し、原決定(2)摘示のように昭和二八年一〇月末頃同校講堂裏で同校三年生○羽○久と口論の挙句手拳で同人の顏面を数回殴打し、同年一一月中旬頃年上の工員○原○子に交際を求め、昭和二九年一月三日同女と温泉宿に宿泊して肉体関係を結び、同年三月上田市内において友人と飮食店で飮酒し泥醉して路上に醉いつぶれ、同校に送り届けられたため停学三日の処分を受け、同年四月○原○子と温泉宿に宿泊し更に同級生○島某と喧嘩し、同年六月実弟○成との喧嘩を仲裁した実母○を殴打し、次で同年七月には原決定(3)摘示のように同校において養蚕当番勤務中無断外出したため、これについて同校教官助手○本○から注意を受けるやこれに反抗して同校附近の○○停留所裏側で同人の顏面を平手で数回殴打する暴行を加え、原決定(4)摘示のように同校物置内において同校三年生○沢○人、○中○男と口論の上両名の顏面を平手で殴打する暴行を加えたことがあり、家庭においては父が○○市○○小学校長在職中であつた都合上他出していて母と弟妹等とで同居し母は農業に従事していたが、少年は右のように素行修らず婦人との関係を生じてからは父との折合が悪くなり、学校や父、母から注意されることが多かつたので、気分がいらいらし反抗心が強くなり、昭和二七年七月一三日も、その日は少年方で近隣の○勇○郎、○芳○、○島○し、○寺○助等の手伝を得て○○○地籍田甫中の道路傍で麦こきをし、少年は通学のためその手伝をしなかつたが同日午後四時二、三〇分頃○○駅着の電車で帰宅し母の命により風呂を湧かし、自転車で屋外を乗り廻してから入浴し、夕食のため母屋の勝手の間に入ると、母から人が手伝に来ているのに働きもせず遊んでばかりいるから駄目だと云われたので、これに憤慨し小遣もくれず一寸も面倒を見てくれないからそんなに仕事ができるものかと答え母と口論し、気分がむしやくしやするので傍にぐずぐず云つていた妹○み○の頬を一回殴り一人で夕食を済ませ、平素独居していた離家の自室に行つたことを認めることができる。そして前記保護事件記録中の少年の司法警察員に対する昭和二九年一二月一九日附弁解録取書によると、少年は同日上田警察署において同署司法警察員上田貢に対し逮捕状記載の犯罪事実すなわち少年が同年七月一三日午後一〇時一〇分頃○○郡○○村○○○地籍において○○郡○○村○○○○○○○高等学校教官○島○み当四六年の顏面を強打して同女を転倒せしめその反抗を抑圧し金員を強要し現金一四〇〇円在中の手提鞄を強取し右暴行により同女の顏面に全治一週間の傷害を負わしめたとの事実は間違ない旨供述したものであることが認められ、前同事件記録中の少年の同日附同司法警察員に対する供述調書によると、少年は同司法警察員に対し本年七月中旬頃私の家で麦こなしをした日の夜、夕食頃母から私が仕事をよくやらないというようなことで叱言を言われ面白くなかつたので一五分か二〇分位口答して喧嘩してから一旦自分の居間になつている離家の新築といつている別棟の部屋え帰つたが、母に色々叱言を云われたことが癪に障つて仕様がなかつたので、部屋を出てうさ晴しにトコトコ歩いて○○駅のある方の国道まで行き国道端の忠霊塔のところまで行つて少し居て帰ろうとしたところ、○○駅え大屋の方から電車が来て○○駅で降りたと思われる人が歩いて来て踏切を横切り国道に出て○○○の方に入つて歩いて行つたが、踏切を通る時その人は私の近所から○○○高え通つている○島先生のように見えたので私も見られてはいやだと思つて一寸判らないようにして先生の後をついて帰ろうとし、二、三間位後をついて行つた。○島先生は私であるということは気がつかないでいたように思う。一〇〇米か一五〇米行つたところの辺で○○○に行く道の分かれ道のところえ行つた時、後からハイヤーが一台来て私達を追越したが、その時も○島先生は私が後についていることは知つていたであろうがそれが私であることはわからないようであつた。勿論私も私であることが知れると厭なので声をかけなかつた。私は最初悪い気持は持つて居なかつたが、○島先生が私であることを気付かないで居る様子なので急に変んな気持を起し、酒を飮んだり煙草を吸う金が欲しいと思い、○島先生から取ろうと考え、それから更に一〇〇米か一五〇米位ついて行き、丁度私の家の田のところの道端で昼間麦こなしをした麦藁の積んであつたところ迄行つたとき、後から近よつて先生の後え行き先生が一寸ふり向いたと思うがそのとき右の振りこぶしでいきなり先生の顏を一つか二つ力を入れて殴りつけると先生は麦藁の所に倒れたので低い声で力を入れて「金をくれ」「金をくれ」と二回云うと先生はお金ならやると云つた。その時先生は持つていた手提鞄を叩かれたため転んだそばに落してあつたと思う。私はその鞄を奪い取つて後をついて来た方え戻つて走り、走り乍ら鞄の中から財布一個だけ出して鞄は捨て約一〇〇米位逃げた辺で西側の田甫道え逃げ込み、○○の堤防に出て堤防の所で財布から金を出し、財布は川の中に捨てた。財布の中には一〇〇〇円札一枚一〇〇円札五、六枚位硬貨が五、六円位小さな受取のような紙が相当入つていた。金だけ取りその他は財布と一緒に川に捨てた。それから堤防伝いに自宅に帰り裏側から入り離家の自分の居間に行つて寝てしまつたが、その時は一一時頃になつていたと思う。その後金はどの位かあらためて勘定しないで学校え来た時や養蚕当番の時上田市内で酒や映画に全部使つてしまつた。翌日学校え行つて帰つて来たところ母から○島先生が叩かれてお金をとられ鼻血が出たと云うことを聞きあんなこと位で鼻血が出たかなあと思つたが、知らん顏をしていた。なお私は○島先生が倒れた時むらむらとしてやろうかと思つて太股のところまで手をやつたが、こんなおばあさんと思つて止めたとの旨供述していることが認められ、前同事件記録中の少年の司法警察員に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書によると少年は上田警察署司法警察員滝沢武源に対し同署司法巡査塚本芳長立会の上で、私は昭和二九年七月一三日夜夕食前母と口論したので気持も落着かず一人で夕食を食べいつも一人で使つている新築の離れ座敷に行き、そこで母に叱られたし面白くなかつたので、かくして持つていた煙草を一本吸い暫くの間ねそべつて何か面白いことはないかなと考え、そしてどの位だつたか覚えないが気晴しに夜の散歩でもしようと思い、いつも着ている黒色学生服を着て黒色ズボンをはき、その部屋を出て、その前に脱いでおいたスポンヂ草履を南側えもつて来てそこではき、南門のところから道路え出て、いつも通学するとき通る道で○○○という所を通り国道の方えブラブラと歩いて行き国道を出たところの角にある忠霊塔の後え行つて腰をおろしていたが、何処えも行く所もなく困つていた。そんなときはいつもいい考が浮ばないので人通りもないし、そろそろ帰ろうと思つたところ、そこえ行つてから五分位経つたかと思つた頃○○駅から来た電車が○○駅に停り上田方面へ行つたが、一、二分経つたと思う頃私も帰るべく腰を上げたとき、踏切の所を通る一人の女の人があり、段々と国道の方え進んで来たが、それと共に私も少しづつ道路の方え出てその女の人が○○村○○○字○○○○○○○高校先生○島○みさんであることが判り、私は○島先生に発見されないように横や下を向くような恰好でいた。恐らく私は誰であるかはわからなかつたと思う。そして○島先生は忠霊塔の横を通つて私の部落の方え進んで行つた。私はその後を約三米位後から続いて家の方え帰つて行つたが、その時○島先生は洋服は白でなかつたが、スカートをはいて履物は革靴をはいていた。帽子はかぶらず、洋服の色は覚えていないが、スカートと上衣は同じ様な色であつたと思う。そして右手に風呂敷包を持ち左手に革鞄を提げていた。約一〇〇米位国道から入つた所から道が二つに分かれ一つは○○○部落(左)一つは○○○部落(右)え通ずる三叉路がありそこまで先生の後をつけて来たとき、後からハイヤーが走つて来て私の後の方からライトに照らされたので、私も先生も進む方向え向つて左側の道え避けた。そのとき○島先生と私との間隔は約三、四米位で先生は後も振り返らなかつたが歩くのを止め、立止まつて左側によけ私も同様であつた。自動車は○○○部落の方え行つてしまつた。そのとき私は悪い考を起したのである。そのことについて正直に申すと実はそのときより前のある日学校の夏休が始まつたらどこかえキャンプに行かうと云うことを同級生の○部○生、○村○久等と相談したのであるが、私の親達は当時私が相当不良をしてぐれていたので、今年はどこえも行かせないと云うことをきつく云われていたのであるから、たとえ行くことにしても親から金をもらうこともできなかつた。そして何んとか金を手に入れたいと考えていた。私はその頃上田市内の料理店で酒を飮んだり、映画を見たり煙草を買つたりする金がなかつたので毎月の小遣銭も二、三百円では遊ぶ金が大変足りないのである。そのような状態で何んとかして金を手に入れないと遊ぶことも何することもできなかつたし、その日は夕方母親と喧嘩をした上で気持もむしやくしやと落着かずにいたので、○島先生は部落の人であるが殴つて暗がりで金をとればわかるまいと思つてしてしまつた。私はそのとき相手が女の人なので殴つてとる位のことは自信があつた。たとえそれが男の人でも普通以上の人でなければ喧嘩にはまけないからやつたかも知れなかつたのであつた。とに角そのとき○島先生から金をとつてやろうと云うことを考えたのである。又時間も遅く人通りも全然ないし、そこら附近には人家もないので何んとかこの道でとろうと思つたのである。それから更に○島先生の後をつけて歩いたが、間隔はいつも大体三、四米離れて歩き、先生は後を振り向きもせず、又言葉もかけなかつた。又自分としても言葉をかけられたり振り向かれたではわかつてしまい成功しないので、無意識のうちにかくれるようにしていた。そしてその三叉路から約二〇〇米○○○部落え行つた所を○○○と云つているがそこの所までうまく先生の後をつけて来たが、ここは家えも近いし、国道にも近いから逃げるに都合がいいし人通りもないから、又先生に騷がれても人家にわかるような事がないので、ここらが一番いいと思つた。そこは道路左側に麦藁が積んであるあたりであつた。私は先生の後から側え行き、少し右側え寄ると先生は近よつたのに気付いて急に後を向いたような恰好になつた。そのとき私は顏を見られてはいけないと思い、すぐそこで右手を握つた儘先生の顏を殴りつけるようにつきあてたのである。あまり急にやつたので先生はそのとき何も云わなかつたがその儘麦藁の積んである辺りに横倒しになるように転んだのである。恐らく先生は左の方向え転んだような恰好であつた。そして私は「金をくれ」「金をくれ」と二回云つた。私としては大きい声を出したと思つた。そのとき○島先生のはいていたスカートが太股の方までまくれ、それを前横から見ていたのでむらむらとしてしまい、ここで無理に性交しようとも思い、突嗟の間に私は自分の右手を○島先生の右側の太股の方から陰部の方え突込み、どの辺まで手が入つたか知らないが太股の附根位のところまで手が届きそして○島先生の隙に乗じ何んとか性交をしようと思つたが、○島先生は「つまらないことするな」「お金ならやる」と続けて云い乍ら私の手を払いのけた。あまり抵抗もあり、年もとつていてこんな女と無理してやつても仕方ないと思い強姦しようと云うことは止めたのである。とに角先生を倒すときに続けて往復パンチで眼と鼻の辺を強く叩いたが、私達が喧嘩をするときはいつも眼から鼻をためてはたくのでそのときも無意識でその部分を殴つたのである。そうすると先生は立ち上ろうとし、そのとき先生の左側に手提の革鞄があつたので、私はそれをとれば金があると思い右手を鞄のふちにかけてとつてしまつた。まだ先生が立上る前であつたので簡単にとることができた。その間先生は声を出したのかどうか知らない。私としても殴つた上にとつたのであわてていたのである。とつた鞄を五、六歩国道側え寄つた所で開けてみたが、その鞄は女の持つようなものでチャックがついていて、大きさは四〇糎に三〇糎位で握るところが両側にありそれを二つにして持つて歩く革鞄で、チャックでなく開け放しの儘になつているところの方に財布が見つかつたのでそれを出し、右手に握り、手提鞄は先生を殴つた所から約五、六米南側によつた所で田甫の中え投げるつもりで投げたが田の中え落ちたかどうかは見届けずその儘にして南側の方え走り逃げようと思つたのである。実は○島先生を殴る前は金をとつたら家の方え逃げようと思つていたが、段々南の方え行つたので、そこから南の方え約二、三〇米行つた所にある小さい川から、南え向つて右側の方え折れ、田甫道を通つて逃げた。○島先生も後を追つても来なかつたしこれで先づ成功したと思い乍ら駈足で○○という川の堤防の方え行つた。その頃は丁度水田にも水が一杯あつたし暗くて道が全然わからぬ程でもなく、又そこらは私の家の田があつて道も知つていたので都合がよかつたのである。そして段々と行くと一寸坂道があり、どうにかそこを逃れ○○の端まで出て、持つて来た財布を見ると、二つ折のもので二つ折にして一〇糎四角位で、金を入れるところにチャックがついているところがあり、札は財布の横の方から入れるようにできていて、中を見ると紙幣が数枚あり、チャックのついたところを開けると、硬貨が二、三枚あつたのでそれを出して服の右ポケットに入れ、財布の中にはまだ札でない書類が数枚入つていたがその儘にして財布は川の流れの中に投げ捨ててしまつた。それから暗いところを川上の方え川沿に歩き、川の堤防の上に出ることができて、途中小さい川を飛び越えて又堤防の上を歩きそこは道でないので人の心配はなく、普通道を歩くときの早さで通り○○○から○○○え通ずる道路え出て更にその道をつゝきつて五〇米位川上に堤防伝いにのぼり、そこから右に折れ畑の中を通り、そこは桑畑ですぐ側に水車小屋(○○○部落有)がありその北側を通り自分の家に着き南側の門の小さい潜戸を開けて家に入り新築離家の裏側から入つた。足に砂等がついてよごれていた。家に入つて直ぐ寝床についた。そして翌日の朝洋服のポケットにある○島先生からとつた金を見ると一〇〇〇円一枚、一〇〇円札三、四枚、硬貨三、四枚合計約一四〇〇円か一五〇〇円位あつた思うが、約一週間経つてからつかい始め、上田市内のひばり食堂、なつめ料理店、大平楽料理店等で飮食したり、八月一日から三日間白樺湖にキャンプに行つたり、煙草を買つたり映画を見たりして、八月初頃はその金も殆どつかい果してしまつたのである。只今示された○島○み提出の手提鞄は、鞄の大きさ、手で提げるところ、チャックのついたところ等、私がとつたものと同じであり、私がとつたとき鞄は割合に重く感じたとの旨供述し、少年宅の図面と、○島○み先生をなぐつて金をとつた時の図面を作成していることが認められ、前同事件記録中の少年の司法警察員に対する昭和二九年一二月二一日附供述調書によると、少年は上田警察署司法警察員滝沢武源に対し、キャンプに行くことは親の許を得ていなかつたので、キャンプに行つた後は家え帰らず自分勝手に好きな所を遊んで歩く計画であつた。そして七月三一日にもつている金を全部集めて見ると○島先生からとつた金と自分の金と合せて約二〇〇〇円位あり、そのうち約七〇〇円をキャンプの費用につかうべく洋服のポケットに入れ、外の一〇〇〇円札一枚と小さい金約一三〇〇円位はキャンプから帰つてから遊ぶようにつかう金として封筒に入れそれをジャケットケースに入れ、それを八月一日上田東駅前において○原○子に渡して預け、八月五日キャンプから帰つて○原からそれを受取つたが、最初の計画である遊んで歩くことをやめて家に帰り、八月中位には料理屋でつかつたり、映画を見たり、煙草を買つたり、菓子等を買つてつかつてしまつた。実はその後私もぐれて来て親の許にいて生活していることや、学校え行つて固苦しいことをしていることがいやになり、その上○島先生に対しても悪いことをしているのでそのことについて親に迷惑になつてはいけないと思い、いつそのこと死のうと思い、八月のある日、家で便箋で遺書を書いた。その内容は「私は不良であり、更に○島先生に対する事件も私はやつていないから父上安心して下さい」というような文面であつたと思う。私としてはその頃○島先生に悪いことをしたのでおいつめられたような苦しさがあつてこれ以上このままいればそれこそ取返しがつかず、親や兄弟に迷惑をかけると思い、その遺書は自分の机の中に入れてからよく考えたところ、死ぬことはよくないことと思い止つたのである。私が○島先生に対して悪い事をしてから一週間位して父、毋、親戚の○寺○延から事件当日何処にいたかと云うことを調べられた。そのとき正直に話してしまえばよかつたが、その気にもなれず、「私は一人で離れの座敷にいた」と云つて嘘をついた。私はこの事件についても○島先生が殴られた状況を少し聞いたが、その内容は殴られた場所、鼻血が出たこと、相当時間が遅かつたこと、学生風のものが犯人であるということである。その外詳細なことは家の人も知らないので話してくれなかつた。私としてはそのような事をしてから調べられたので親戚の人や家の者が云つたこともうわのそらで聞いていたが、家の者が調べたときは○島先生を殴つた人は座つていて殴つたと云つていたが、事実は立つた儘私が殴つたのであり家の人の云つたことは違つていた。私が○島先生を殴つたときはいていた草履はスポンヂ草履で上田市内の店で今年五月頃二五〇円程出して買つたものであり、お示しの草履はそのときはいていたものである。鼻緒は買つたときついていたのは土色であつたがその後九月末頃切れてしまつてかえてしまつた。私が○島先生の鞄をとつたとき、鞄のチャックは開けなかつた気がするし、又開け放しになつているところに二つ折の財布が伸ばした儘入つていたような気がする。私は○島先生の後から殴りつけ横倒しにした上先生の股に手をつつこんでいたづらし、先生が殴られてあわてているときに先生の手提鞄をふんだくつて逃げ鞄の中から現金一三〇〇円位入つた財布一個をとつて逃げ○○の堤防え出て暗がりで財布の中から現金を出し財布は川の流の中に捨て堤防伝いに逃げ家に着いたが、そのときとつた金は上田市内の料理屋煙草屋でつかい、更にキャンプに行つたときなどもその中にとつた金が一部含まれていると思う。そのようにして私はほんとうに悪いことをしたが、当時はぐれていてこんなことは簡単に考えていた。私がどうしてそのようなことをしたかそのときの気持は遊ぶ金の欲しさのためで、本を買うとか病気をしていて金が欲しいということはないとの旨供述していることが認められるのである。更に前記保護事件記録中の少年の検察官に対する昭和二九年一二月二一日附弁解録取書によると、少年は長野地方検察庁上田支部検察官検事岡田利一に対し告げられた犯罪事実の要旨はその通り相違なく、その動機は時間も遅く女が一人歩いているのを見たので急に金が欲しくなつてその様なことをしたのである。本当に済まないことをしたと思つていると供述していることが認められ、なお前記保護事件記録中の○沢○子の司法警察員に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書によると同人は司法警察員に対し私は少年の母であるが、少年は本年八月の夏休中白樺湖え無断で遊びに行き、四月頃と一月頃女の友達を連れ沓掛と霊泉寺温泉え学校を休んだかして行つて来たということがあり映画、酒、煙草が好きで困つている。小遣銭は毎月三〇〇円くれているがこれは主として映画につかつているようである。本年七月一三日夜夕食後少年は別棟の離れの部屋え行つたようであつたので、私はその儘部屋に居ると思つていた。少年は部屋に居ない時は電燈を消しているし、就寝した時も消すがその夜も少年は部屋に帰り電燈をつけたようであつたが十時過頃見たところ、電燈が消えていたのでその時寝たものと思う。少年は翌朝普通に起きて学校え行つたと思う。私は一四日に田草を取りに行つたとき、○島先生が叩かれ鼻血を出した云う事件のことを聞いて初めて一三日の夜の出来事を知つたのであるが、その後その犯人は少年であるという風評が耳に入つたので親類の人や主人が少年に聞いてみたのであるが、少年は自分がやつたのでないと云つていたと供述していることが認められ、前記保護事件記録中の○原○次○の司法警察員に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書によると、同人は司法警察員に対し私は○○○○高等学校三年生であるが夏休みの始まる前に学校内で友達(三年蚕業科)である少年や、○部○生、○村○久等八人で白樺湖に二泊の予定で食糧を携行し会費五〇〇円で遊びに行くことを相談し、八月一日頃と思うが、朝丸子駅に集合しバスで目的地に行つた。私が会計を引受け二泊したが、経費は三八〇〇円位かかつたので一人平均五〇〇円徴収し私が支払つた。少年からは五〇〇円を徴収した。私共八人は誰も単独行動をとる者もなく楽しく過ごして帰つて来たと供述していることが認められ、○原○子の司法警察員に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書によると、同人は司法警察員に対し、私が少年宅え行つたのは本年六月三一日附の手紙が来て行つたのが初めてで少年は自分の離れの部屋に居て学校で何か悪いことをして叱られたので学校をやめたいと云う話であつた。その日私は遅くなつて少年の家で泊り、その後七月一三日○○○に強盜事件があつたことを新聞で知り、会社えも刑事が見えて少年のことなど聞かれたので心配になり七月二〇日過頃少年方を訪れると、お母さんがやつぱり事件のことを心配していたのでお母さんとも話をして少年の部屋え行つて見ると、少年は寝台のようなところに横に寝転んでボートした様な恰好で何か考え込んでいるようであつたので、私は今度○○○の事件で心配して来たがやつたんぢやないか、若しやつたのなら、私には本当の話をしてと話すと、俺は他の者から白い眼で見られているが絶対にやらない、信用してくれ、さつちやんにまでそんな事を思われれば悲しいと云つた。その後私は七月末頃少年のところに行くと、お父さんが居て、お父さんの従兄弟という四〇台の人も居て事件のことを心配して話していて、その従兄弟という人が少年はやつていないと思うが平素の行が悪いので疑をかけられるのは止むを得ないと思う、嫌疑も晴れる時が来ると思うから温い心で今後も交際して行つてくれと云われ、少年の部屋に行くと、少年は何んだか怒つたような眼付をしていて今にも何処かえ行くような身仕度をし、私が止めるのも聞かずに出て行つて了つた。私は困つて泣き乍ら少年のお父さんに話すと何時ものことだから心配しなくとも又帰つてくると云つたので、私は九時過電車で○○から帰つたところ、同じ電車の前方に少年のような人が乗つていたが、上田東駅で降り何処かえ行つた。ところが翌朝少年が上田市内から私に電話して頼みたいものがあるから上田東駅え七時までに来てくれと云うので私が同駅に来て見ると、少年が私のところに青い色のジャケットケースを持つて来てこれを預かつてくれ白樺湖え行くのだと云い、私が鞄を受取り中を調べて見ると一〇〇〇円札一枚と硬貨五、六枚、ワイシャツ、プロパリン、鉛筆が入つていた。その日は七月三一日と思う。その時の話では八月四日午後六時半に東駅に持つて来てくれと云うことだつたので約束の日に行つていたが来なくて、八月五日○○高校の担任の○津先生が見え、少年が二、三日帰らないので所在を知らないかと尋ねられたので、白樺湖え行つたことを話してやつたのである。後ではつきりしたことであるが、少年は私が行つた夜無断家出をし上田の友達の所ででも泊り、白樺湖まで行つて来たことがわかつた。鞄はその後電話がかかつて来たので、私が上田駅え持つて行き少年に渡して帰つた。八月末頃少年は私のところえ世の中がいやになつた、迷惑をかけたから家出をする、お金が必要だから一万円用意してくれと云う意味の手紙を寄越し、九月二日に会い度いと書いてあつたので同日ニューパールで映画を見てその帰り少年は家を出たいからお金を用意してくれたかと云つたり家をどうしても出たいと云つて居たが、私は一万円なんてないので用意しなかつた。その時少年は手提鞄を持つていたので中を見せてもらうと、その中に白い封書があり遺書と書いてあつたので、開封してよいかと云うと、少年はこれは父や母に書いた遺書だが見せれば又書かなければならないと云つて見せてくれなかつた。少年はその他七月の事件以来会う度毎に死にたいとか家がいやで何処かえ出たいとか云つたり何時頃だつたかはつきり覚えていないが自殺したくなつたことがある、今三〇分遅ければお陀仏だつたと云う手紙をくれたこともあつたので、多分家庭が冷たかつたり事件のことが心配になつたりしてそんなことを考えたのではないかと思うと供述していることが認められるし、昭和二九年七月一三日夜一〇時一二、三分頃一見四〇才位中肉中背のワンピースの洋装をし右手に風呂敷包を持つた無帽の女と一人の男が、○○村を走る国道から北方○○○部落に通ずる村道とそれから○○○部落に分岐する道との三叉路附近で道路西側に立止つて、国道方面から来た一台のハイヤーを避け、そのハイヤーは右両名を追越し○○○部落方面に進行して行つたことは、○込○雄、○下○一の司法警察員に対する各供述調書によつて認められ、少年が昭和二九年夏頃上田市内の飮食店大平楽、ひばり食堂等で友人と飮食していたことは○畑○の司法警察員に対する供述調書、○桐○喜彦作成の上申書によつて認められる。そして原審審判調書中原審証人滝沢武源、同上田貢の原審公判廷における各供述記載、当審証人滝沢武源、同上田貢の尋問調書によると、少年の司法警察員上田貢、同滝沢武源に対してした前記各供述はいづれも少年が任意にした供述であり、殊に滝沢武源は事件がいわゆる少年事件である性質上慎重な取調を行うため、司法巡査塚本芳長を立会わせて取り調べ、滝沢、上田の両名は少年の取調に際し少年に自白を強要し、又は誘導したことはなかつたことが認められるのであつて、少年のそれら各供述は被害者○島○みの被害顛末の供述と略一致し、奪取した手提鞄の形状、これに在中していた財布の位置、形状、在中金に至るまで右被害者の供述と符合し、少年が家人から聞知した○島○みの被害状況のうち事実と相違する部分を指摘していて、少年が実行者でなければ到底することのできないものと認められる供述であり、○島○みに対する強盜傷人の動機、それまでの行動、その後の行動についての部分の供述も亦それぞれ各関係人の供述によつて裏付けられているのである。しかも右強盜傷人行為前における少年の行状、被害者の供述する加害者の容貌、着衣が少年のそれに酷似していることを併せ考えると、右強盜傷人の所為が少年の所為であると認めることができるのである。
よつて右強盜傷人の犯行が少年の所為でない理由として抗告人の挙げている(一)乃至(一三)の事由を検討するに、先づ(一)のこの事件が少年宅の近所の事件であつたのでその夜のうちにその話が少年の居住する部落に拡がつたであらうことは所論の通りであるとしても昭和三〇年一月一八日附原審審判調書中少年の供述記載、当審証人○島○みの尋問調書によると、少年が新聞記事で閲読した事実は右事件の犯人の人相は学生風であり、夜一〇時から一一時頃○島○みを殴つて一〇〇〇円から一六〇〇円をとつて逃げたとの事実であり、少年が母から聞知した事実は○島○みが顏など殴ぐられ傷をし田の傍に鼻血がついていたとの事実であることが認められ、それ以外の詳細な犯行の模様について少年が司法警察員にした供述は、少年の推理又は司法警察員の誘導による供述であるとの原審審判廷における少年の供述及び抗告人の所論は前掲の右証拠に徴して肯認し難いところである。しこうして(一)の(ハ)の少年がとつたと供述している○島○みの手提鞄を奪取した際の位置について、少年の供述調書によると少年は犯行時に被害者の右側から鞄をとつたと供述しているとの所論は抗告人の誤解であつて、少年の司法警察員滝沢武源に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書によると、少年は○島○みを倒し眼と鼻の間を往復パンチで強く叩いた後○島の左側にあつた手提鞄をとつたとの旨供述していることが認められるのであるから、この点においては少年と被害者の供述は所論のようにくいちがいはない。(1)の(ニ)の○島○みの手提鞄の捨てられてあつた位置については○島○みの司法警察員に対する供述調書によると、同人は犯人が奪取した手提鞄を被害現場の南方一〇米位の道路上に捨てて逃走したと供述していることが認められ、少年の司法警察員滝沢武源に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書によると、少年は○島○みを殴つたところから約五、六米南側によつたところで手提鞄から財布を抜き取り、あとはいらなくなつたので田圃の中に投げるつもりで投げたが田の中に落ちたかどうか見届けずその儘南の方え逃げようと思つたと供述していることが認められ、少年は奪取した手提鞄を投げた後その鞄が田甫の中に落ちたかどうか確認したことを供述しているわけではないのであるから、この点については少年と被害者の供述は必ずしも所論のようにくいちがいあるものということができない。(一)の(イ)の○島○みが先づ犯人に殴られて倒れたか、背後から体当りされて倒れその後殴られたのか、(ロ)の○島○みがいたずらをされようとした際の犯人の動作の点については、○島○みの司法警察員に対する供述調書中の供述記載、同人の原審審判廷における証言と、少年の司法警察員に対する供述調書中の供述記載とが相違していることは所論の通りである。しかし凡そ本件強盜傷人事件のような重罪事件において被害者の供述と犯人の供述とが犯行の終始、細部に至るまで悉く完全に一致するようなことは寧ろ常例とは考えられないのであつて、被害者○島○みとしても全く予期しないときに突如背後から攻撃を受けたものであり、少年も亦突嗟の間に慌てて敢行したものであるから、両者の記憶の確実性も自ら限界があるのみならず、(イ)の点については犯人が○島○みを殴打しその怯む隙に手早く手提鞄を奪取した点において(ロ)の点については犯人が○島○みにいたずらをしかけた点において○島○みと少年の供述は一致していることは前記認定の通りであるから、それ以上に(イ)、(ロ)の点について所論のような相違があるとしても右強盜傷人の犯行が少年の所為であることを否定するに足らないのである。抗告人主張の(二)の被害者○島○みが少年の住居の近隣に住み、少年の実弟の通学する学校の先生であり顏見知りであるとしても前記認定のように少年は、○島○みが追尾しているものが少年であることを気付かないでいるものと考えて犯行に出たものであるから、そのように知合の間柄であることと(三)の少年が窃盜とか、家から金品を持ち出すような非行をしたことが一度もなかつたことはいづれも、少年が所論のように○島○みに対し強盜傷人の犯行をすることがあり得ない事由と断定できないことは多言を要しない。(四)については少年の司法警察員に対する各供述調書記載の供述が任意にされたものであると認められ、所論のように少年に犯行の責を負わせるため司法警察員が誘導した供述とは認められないことは前記認定の通りであつて、このことは犯行の動機についてもこれを除外すべき理由を見出し難いのである。所論の昭和三〇年二月一二日附原審審判調書中の少年の供述記載、前記保護事件記録中の○○○○高等学校長○原○作成の回答書、少年調査記録中の家庭裁判所調査官依田嘉人の昭和三〇年一月六日附調査報告書によると、少年は昭和二九年七月一〇日の二、三日前に、例月の通り母から授業料、生徒会費、通学定期券代、小遣銭等を含め一五〇〇円もらつたが、そのうち授業料、生徒会費、定期券代等に八八〇円を支払うことを要したことを認めることができるけれども、少年が所論のように臍繰を蓄めていつも一五〇〇円から二〇〇〇円の現金を所持していたことは前記認定の少年の素行殊に少年が飮酒契煙を嗜み、婦人関係があつたことから考えると肯認し難いのであり、少年が夏休を利用して家人に無断で学友とキャンプに行く計画をしこれに要する費用は家人に申出て調達することができなかつた事情をも合せ考えると少年が所論のように学帽を友人に売つたのは小遣銭が欲しかつたためでなく、又金銭欲からの非行がそれまで一度もなかつたとしても、少年が小遣銭に困るようなことが全然なかつたものとは認められないのである。(五)については右強盜傷人事件のあつた当夜少年が母と口論し、妹○み○の頬を一回殴つたことは前記認定の通りであり、その後少年が気晴しに散歩に出たことは前掲○原○子の司法警察員に対する供述調書によつても、あり得ないこととは考えられないから、少年の司法警察員に対する供述調書記載の少年が母と口論後散歩に出たとの旨の供述が所論のように全く虚偽のものとは認められないのである。所論のように少年が(イ)それまで母と口論して一度も家出したことがなく、(ロ)口論後少年方に居合わせる○芳○に挨拶し、(ハ)口論後も間もなく気分が直る方の性格であるとしても、これらの事由によつて少年が右強盜傷人事件のあつた当夜右のような口論、殴打の後に散歩に出た事実を全く架空の事実と断定するに足らないのである。(六)については少年は前記のように司法警察員上田貢、同滝沢武源の両名竝に検察官に対し右強盜傷人の犯行を自白したのであるが、少年調査記録中の家庭裁判所調査官依田嘉人の昭和三〇年一月一〇日附調査報告書によると、少年は同年一月九日長野少年鑑別所において同調査官に対し右の自白を飜し、右強盜傷人事件のあつた昭和二九年七月一三日の夜、弟○成が帰宅した際自分の居間である離家に居て弟○成が表門から入つて来るのがわかつたので同人を呼止め、短い針と黒い糸を持つて来てくれと頼むと同人は母家え入つて直ぐ糸と針を持つて自分の居間に来たがその時自分は煙草を吸つていて弟と五分位雑談し、弟はその後夕食をすると云つて母家え帰り、それから間もなく自分は、自分の学帽の後部に予て用意していた紐を通すため革を縫いつけ初め、縫いつけるに、二〇分か二五分かかつたので、右事件のあつた時刻に在宅していたものであり、この帽子は右事件後暫くして革をつけた儘同級生○塚○六に一〇〇円で売り、○塚はこれを同級生○渕○夫の学帽と交換したと陳述していることが認められ、昭和三〇年一月一八日附原審審判調書によると、少年は原審審判廷においても前記の自白を飜し、昭和二九年七月一三日の夜は自宅で母と口論し妹を殴つた後自室の離家に行き、自己の学帽の後部に革をつけ紐を通して外見をよくしようと思つていると、弟○成が折柄定時制高校から帰つて来て門の所に来たことがわかつたので離家から弟を呼止め針と糸を持つて来てくれというと、弟は直く持つて来たが、夕食前であつたので母家に食事に行き、自分はそれから二、三〇分かかつて学帽の後部に革をつけその儘就寝した。その学帽は同年八月頃糸をといて革をとり、友人の○塚○六に一〇〇円で売り、○塚はこれを友人○渕○夫の学帽と交換したと供述していることが認められ、更に同年二月二日附の原審審判調書によると、少年は学帽に革を縫いつけるときは錐で穴を開けながら縫つた。その学帽を○塚に売つたときは革をつけてやつたか、とつてやつたか覚えていないと供述していることが認められるのである。一方前記調査記録中の依田調査官の同年一月一二日附調査報告書(○塚○六の陳述に関するもの、及び○渕○夫の陳述に関するもの)によると、同調査官に対し○塚○六は昭和二九年一一月下旬少年から学帽を一〇〇円で買つたが、その帽子の後方は普通で別段革が縫いつけてなかつた。その帽子は二、三日後○渕○夫の学帽と交換したと陳述し、○渕○夫は同年一一月頃級友○塚と学帽を交換したが、○塚から受取つた学帽は少年から買つたものと聞いた。その学帽の後部には何も縫付はしてなかつたと陳述していることが認められるのである。このように少年は当初自己の学帽に革を縫いつけた儘、右強盜傷人事件のあつた後暫くして○塚に売つたと陳述し、次に同年八月頃学帽から糸をといて革をとりこれを○塚に売つたと供述し、更に○塚に学帽を売つたとき革をつけてやつたのか、とつてやつたのか覚えていないとその陳述を変更しているのみならず、学帽売渡の日時は○塚、○渕等の陳述と相違し、革をつけた儘学帽を売渡したとの陳述は同人等の陳述とくいちがいがあることとなるわけである。しこうして昭和三〇年二月二日附原審審判調書中証人○沢○成の供述記載によると、同人は原審審判廷において昭和二九年七月一三日夜定時高等学校の授業を終つて九時四五分頃自宅に着き、家の西の門に入つて五、六歩したところで兄である少年に会つたが、少年は離家の方に行き自分は母家に帰つて直ぐ夕食を済ませ茶の間で近所の○芳○、○勇○郎、○島○し等と五分位話していると、少年が離家から○成、糸と針を持つて来いと云つたので針と糸を離家え持つて行くと少年は帽子の後に革をつけると云つて帽子に革をあてたりとつたりしていた。それは一〇時頃で自分はそれから風呂に入つて寝たのであると供述していることが認められるのであるが、同審判調書中証人○芳○、同○勇○郎、同○島○しの供述記載によると、少年方の近所の○芳○、○勇○郎、○島○しは、昭和二九年七月一三日少年方の麦の脱穀の手伝に行つたので同日夜少年方の風呂に招かれ、いづれも風呂をもらいに○芳○は九時一〇分頃、○勇○郎は九時一〇分頃、○島○しは九時三〇分頃少年方に赴き、茶の間でお茶を出されて飮み、順次入浴して、○芳○は一〇時一〇分か一五分頃、○勇○郎もその頃、○島○しは一一時頃少年方を辞去したのであるが、同人等は茶の間にいて○成が学校から帰宅したことを知つているのに、少年が離家から○成糸と針を持つて来いと呼んだことは覚えがないと供述し、○芳○は同夜一〇時一〇分か一五分頃少年方を辞去する際には離家の電燈が消えていたと供述していることが認められるのであるから、○沢○成の原審審判廷における右の糸と針を持つて来いと少年に命ぜられたとの供述もたやすく措信し難いのである。以上の諸点と少年が右強盜傷人の犯行に出たものと認めるべき前記各証拠から考えると、少年が当夜自宅にいて学帽の後部に革をつけていたもので、右事件のあつた時刻には在宅していたとの少年の供述は到底肯認し難いものであり、これと主張を同じくする所論も亦採用できないのである。(七)については夜は恐怖心があるので実物より大きく見るのが人間心理現象であるとしても、前記保護事件記録中の○○○○高等学校長○原○作成の少年の保健体育簿写によると少年の昭和二九年七月当時の身長は一六二、二糎であつたことが認められ、原審審判調書中の証人○島○みの供述記載、当審証人○島○みの尋問調書によると、○島○みの身長は一五五糎であり、同人に対する強盜傷人事件の犯人は、まだ身体のでき上らない一七、八才位の細つそりした男で身長は同人と同じ位か少し大きい位であることが認められるのであるから、少年が当時満一七才のまだ身体のでき上らない細つそりした体躯であることを考えると、少年と○島○みとの右の程度の身長の差異では、少年が右事件の犯人であり得ないものということはできないのである。(八)については被害者○島○みが所論の国道から○○○部落え通ずる村道との三叉路で犯人の学帽の形、周囲の白線の有無、顏の形を確かめて供述していること、当夜が朧月夜であつたことは前記認定の通りである。又前記保護事件記録中の長野測候所長北沢貞雄作成の回答書によると昭和二九年七月一三日の長野地方の月齢は一二、六であることが認められる。しかし昭和三〇年二月二日附原審審判調書中証人○島○みの供述記載、当審証人○島○みの尋問調書によると、○島○みは右三叉路附近で前方の国道を上田市方面に向つて歩く一人の男を見たので一応誰かと思つてよく見ると、その男は黒い服を着て学帽をかぶつていたので学生であると直感し、背恰好から高等学校二、三年生であると考え、その学生が勤務先の○○○○高等学校の生徒であれば聞き糺すつもりで同校の生徒であるかどうかを確めるため、学帽に白線の有無を見るとその男の学帽には白線が入つていなかつたのでその男が同校の生徒でないことがわかり、しかもその時その男は学帽を目深くかぶり、うつ向加減に歩いていて顏を見せまいとする態度がありありと見えたので顏を見るのが悪いように思い、声もかけず、誰であるかわからない儘右三叉路から○○○部落に通ずる村道に進み自宅の方に向つて歩いていると、その男も後方約一間位離れて追随している気配を感じていたが、やがてその村道から○○部落え通ずる道の分岐する地点に来ると後方から一台の自動車が来たので道路の西側に避けその際右側を見るとその男も一間位離れて道路西側に立つて来た方向に顏を向けて自動車を避けて居り、その時その男の横顏を見たが、自動車が○○部落の方に去つた後○○○部落に向う道を歩くと、その男が依然追随して来るので、同部落の学生四、五名を連想したが心当りがなく、誰かと思つているうち不図少年を想い出し少年が一年位前から非行があつたと聞いていたので少年ではなからうか、それにしては前に少年に会つたとき眼鏡をかけていたのに、先程その男の横顏を見たとき眼鏡をかけていなかつたので少年ではない、誰であろうかと思つて○○○地籍の道路西側に麦藁の積んである所に来たとき突然その男のために殴打暴行を受け、手提鞄を取られた旨供述していることが認められるのである。しこうして前記保護事件記録中の○○○○高等学校長○原○作成の少年の保健体育簿写によると少年の視力は左、右とも一、〇であることが認められ、前記調査記録中の依田調査官の昭和三〇年一月一〇日附調査報告書、及び同年一月一二日附調査報告書(田中行徳の陳述に関するもの)少年の司法警察員に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書によると、少年は近視でないのに昭和二九年四月上旬頃上田市海野町矢島時計店から、透明のいわゆる伊達眼鏡を買受け、ダンスホール、料理店等に入るとき等に使用し強盜傷人事件のあつた前まで時々その眼鏡をかけたり外したりしていたことを認めることができるのである。それ故少年の時々使用した眼鏡が伊達眼鏡であることを知らなかつた○島○みは国道から○○○部落に向う村道に入るとき見た学生風の男が、○○○部落の者であるかどうか、又その男が少年であるまいか、いや少年ではない等と推理をめぐらせているうちに被害を受けるに至つたものと認められるのであるから、○島○みがその男が誰であるかが判らず、挨拶をしなかつたとしても、何等不自然とはみられない。又前記保護事件記録中の○島○みの司法警察員に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書、原審審判調書中証人○島○みの供述記載によると、○島○みは右強盜傷人事件後少年が路上で○島○みに出会つた際に○島○みを避けるようにしたと供述していることが認められるけれども、同人が所論のように少年を右事件の容疑者であると証言していることは記録上これを認められないのである。(九)については前記保護事件記録中の少年の司法警察員滝沢武源に対する昭和二九年一二月二〇日附供述調書に少年の犯行後の逃走路の供述記載があり、その最後の方に家に入るとき見たが自分の足に砂等がついて汚れていましたとの供述記載があることは所論の通りである。しかし同記録中の原審検証調書竝に当審検証調書によると、少年が司法警察員滝沢武源に供述した犯行後の逃走路は、冬期はもとより雑草の繁茂する夏期においても、昼夜とも通行可能の径路であり、その径路にバラ等の生えている個所はあるが、地形に通曉している土着の人が夏期の夜草履をはいてその径路を通行する場合その人は必ずしも手足を傷けるものとは限らず、雨天の際ならば格別そうでなければ手足に泥がつくよりも砂がつくものと推認されるのである。しかも原審審判調書中証人滝沢武源の供述記載、当審証人滝沢武源の尋問調書によると右供述調書の作成者である滝沢武源は少年の供述した犯行現場、竝に犯行後の逃走路の地形に全く通じていないことが認められ、昭和二九年七月一三日夜は朧月夜であり、長野方面の月齢は一二、六であることは前記認定の通りであるから、少年が司法警察員にした右の逃走路の供述は所論のように辻褄を合わせるための捏造によるものとは認められないのである。(一〇)については、右強盜傷人事件を自白した少年の司法警察員に対する供述が上田警察署職員の第六感により少年を容疑者と断定した結果のデッチ上げと認めるべぎ資料は記録上存しない。少年が後日右事件の犯行を否認したことから、司法警察員上田貢、同滝沢武源の少年に対する取調が所論のように誘導又は脅迫によつてされたものと帰結されないことはもちろんであるし、原審審判調書中証人上田貢の供述記載によると右強盜傷人事件の捜査を担当した司法警察員上田貢が少年を容疑者としたのは、右事件と同様な手口の事件が昼間発生しその犯行は少年の所為であるという風説があつたこと、少年に屡々暴力沙汰があつたこと、婦人関係があつて金を必要としていたこと等であり、昭和二九年一二月一九日少年の出頭を待つて午前中から少年の他の非行事実について取調を開始し、その途中に午後三時頃から強盜傷人事件の取調に移り、最初は否認していたが、そのうちに少年の方からそれは友人の○島の犯行であると云い、上田貢は○島のことは調べてあつて同人の当夜の所在がはつきりしていると云うとそれは自分の犯行であると云い出したもので、同日の少年の取調は午前中は上田警察署二階の部屋で行なわれたが午後寒くなつたので刑事室に移つて取調が続けられ、その部屋には刑事の出入はあつたけれども、取調は終始上田貢一人で当り、同人が少年の供述調書を作成していたものであることが認められるのである。もとより捜査官としては犯罪及び犯人についての風説があるときは、その出所を特に注意し虚実を慎重に調査すべきことは当然であるが、その取扱に慎重な注意をした上でこれを捜査の端緒に加えることは何等制限されていないのであるから、上田貢が右の風説を捜査の端緒の一としていても不当と目すべきではないし又同司法警察員が所論のように少年に対し事件に直接関係のないことを追求して精神的拷問を加え自白を強要したこと、竝に所論のように四、五人の警察官が少年の自白するまで追求したことはいづれもこれを認めるべき証拠はない。当審証人滝沢武源の尋問調書によれば上田警察署捜査係長である司法警察員滝沢武源は、少年の取調を上田貢から引継いだ後特に取調の慎重を期するため司法巡査塚本芳長を立会わせて少年を取調べていることが認められ、少年の司法警察員に対する供述調書が所論のように任意性を欠くものとは認められないことは前記の通りである。(二)については前記保護事件記録中の司法警察員上田貢作成にかゝる昭和二九年一二月二〇日附捜査報告書には、少年の母○沢○子が事件発生当時少年は自宅離家の部屋に居り、その頃同人が消燈(電燈)したのを確認し、就寝していたから少年の犯行でないとしているが、反面、母○子、父○一○、その他親戚関係者等は少年の平素の行動その他世評等から少年が犯人ならずやとの疑を持ち自宅において事件発生後同人の取調を数回に亘つて行なつた事実がある。当時真実少年の所在が確認されていたものとすれば敢て自ら取調をする必要がないにかゝわらず取調した点母○子の言動は相矛盾するものであつて、少年が犯人でないことを裏付けるための真実に反した供述をしているものと思料されるとの記載があることが認められる。しかし右捜査報告書の記載は、司法警察員上田貢が捜査上の意見を記載したものであることが明白であつて、少年の母○子の言動が所論の見地からすれば何等相矛盾するものではないとしても、捜査官側から見れば、右捜査報告書記載の意見も成立する余地があるものと考えられるのであるから、同報告書の記載それ自体で所論のように上田貢の智能、常識取調の公正が疑わしいものとは断定できないのである。従つて右捜査報告書の記載からだけで上田貢の司法警察員としての取調が少年に対して公正を欠き信用に値しないものと認めることはできない。(一二)については原審裁判官が原決定の言渡に当つて少年が警察署においてはもとより検察庁、家庭裁判所においても自分が犯人であると供述していることを重大視していると述べたことは原審々判調書によつては認められないし、他に記録上これを認めるべき資料はないのであるが、たとえ原審裁判官が原決定の言渡に際し右のようなことを述べたとしても、もともと少年の審判開始前における右のようなそれぞれの自白はその後審判開始後少年がその自白を飜して否認したと否とにかゝわらず重大視すべきことは当然である。蓋し少年が自己に不利益な自白を審判開始前にしているとすれば、その自白が任意性があるかどうか、他の証拠により補強され架空のものでないかどうか、自白するに至つた動機、経路、等を検討し、それが真実に合致し信用することのできる証拠と認められるにおいてはこれを証拠とすることができるからである。そして少年の右強盜傷人事件の自白が任意性があり且真実に合致するものと認めらるべきことは前記の通りであり、少年の取調が警察署、検察庁、家庭裁判所と順次所論のような時間的経過の下にされたとしても、それはすべて少年を被疑者として逮捕した後に遵守すべき法的制限の下に取調がされたことによるものであることは記録上明かであり、その間における少年の自白が所論のように精神的拷問又は強要によつてされたものと認めるべき証拠は記録上存しないのである。(一三)については原決定は(1)の強盜傷人の非行が少年の所為であることは記録上明かであるとしているだけで特に証拠を掲げていないのであるが、(1)の強盜傷人の非行が少年の所為であることは記録中に存する前掲各証拠によりこれを認めることができるのである。しからば原決定の事実誤認を主張する所論はいづれも理由がない。次に原決定が少年を中等少年院に送致したのは著しく不当な処分であるとの抗告人の主張について考えるに、前記保護事件記録及び調査記録によると、少年は幼少の頃から現住地で両親の許に生長し、父である抗告人は小学校教員として近隣の小学校に奉職し母は農耕に従事していたもので、少年もよく農耕を手伝し小学校、中学校在学時代は内気小心な善良な子供として過ごし、学業こそそれ程振わなかつたが、学校内においても家庭においても不良性は認められなかつたものであるところ、少年が中学二年在学当時の昭和二六年二月父が○○市○○小学校長に転勤したため父と別居するようになり、その後は祖父が少年を厳格に指導していたのであるが、その祖父が昭和二八年九月少年の高等学校二年在学当時死亡し、父は依然として別居していて日曜日休日に在宅するに過ぎず、母は少年に対し威圧を感じさせず、祖父のような指導力がなかつたため、少年は四人の弟妹の長兄として次第に家庭内において専横な振舞をするようになるとともに、その頃から学業を怠つたことによる学業不振から劣等感を抱き不良仲間と交遊し始め、その仲間に勢力を張るために前記のように、服装、態度、言語、授業態度等に不良性を帯びて来て、特飮街で遊興することを覚え、性格も情意の面に変調を来し衝動的突発的行動や、気分転換のため異常行為に出易いようになつて、原決定(2)乃至(4)の暴行をし、年上の女工員と温泉宿に宿泊して肉体関係を結び、路上に泥醉して醉いつぶれ学校から停学三日の処分を受け、弟との喧嘩を仲裁した母を殴打する等放縦、粗暴な行為に出て、これがため母から常々叱言を云われ、又その非行が父に知れたときは父から激しい叱責を受けたので、父に対して反抗心を抱き父との折合が悪くなり、益々気儘な行動をするようになつて、ついには原決定(1)の強盜傷人の犯行に及び、その非行性は高度に達し、その後も原決定(5)の暴行をし、昭和二九年九月屋代警察署において虞犯少年として取調を受けたので、少年の行状も一時改まつたかに見えたが、同年一二月四日右事件が長野家庭裁判所上田支部において審判不開始決定により終結するや、再び気分弛緩し、原決定(6)のように自己の担任教官に対し脅迫行為をするに至つたものであり、しかも現在少年は稍反省しているように見えるがなお真に悔悟している。ということができるまでには至らず、父も現在では勤務先を変えて家族と同居しているが、少年をこの儘在宅させるときは、曩の審判不開始決定のあつた後のように、再び非行を繰返す虞があるものと認められるのである。原決定(2)乃至(6)の非行がいづれも学校内に生じた非行であることは所論の通りであるが、その非行の頻度竝に態様に徴し所論のように教育的に解決すれば足る非行ではなく、その領域を超えたものであり、家庭裁判所において保護事件として処理するを相当とする非行であるといわねばならない。かようにして少年は心身に著しい故障はないが、その非行性が高等のものであり、情意の変調性の存在することを考慮すれば、少年を一定期間少年院に収容し、規律ある生活の下に矯正教育を施すことにより少年の反省と更生を行なわしめる要があるものと認められるから、原審が少年の年令をも参酌し、少年を中等少年院に送致する旨の決定をしているのは妥当であり、この処分は所論のように著しく不当な処分ということができない。しからば原決定の処分が著しく不当であると主張する所論も亦理由がない。
仍て抗告人の本件抗告は理由がないから、少年法第三三条少年審判規則第五一条に依りこれを棄却することとし、主文の通り決定する。
(裁判長判事 近藤隆蔵 判事 吉田作穗 判事 山岸薫一)
別紙
決定
本籍並住居 長野県○○○村大字○○○○○
学生(義○こと)
北川勝男(仮名) 昭和一一年一二月二六日生
右少年に対する強盜傷人、暴行、脅迫事件に付当裁判所は審理の上次の通り決定する
主文
少年を中等少年院に送致する
証人、鑑定人に支給した費用を少年の扶養義務者○沢○一○から徴収する
理由
非行事実
(一) 少年は昭和二九年七月一三日午後一〇時過頃長野県○○郡○○村大字○○○○○○○地籍道路上に於て○島○み(当四九年)の背後から同人を突転ばし同人の顏面を殴打し同人の手提鞄中から現金一、三三〇円位入の財布一個を強奪し其の際右暴行により○島○みに顏面打撲傷、両下肢擦過創、歯冠破折、外傷性歯根膜炎の全治一週間を要する傷害を負わしめ
(二) 昭和二八年一〇月末○○○○高校講堂裏に於て同校三年生○羽○久と口論の挙句手拳で同人の顏面を数回殴打暴行し
(三) 昭和二九年七月初め○○○○高校に於て養蚕当番勤務中無断外出した事に付同校教官助手○本○から注意を受けるや之に反抗し同校附近○○停留所裏側に於て同人の顏面を平手で数回殴打暴行し
(四) 昭和二九年七月初頃午後四時頃同校物置内に於て同校三年生○沢○人、○中○男の両名と口論の上互に殴り合い其の際両名の顏面を平手で殴打暴行を加え
(五) 昭和二九年九月末頃○○○○高校教室内に於て同校三年生○部○生と口論の上平手を以て同人の顏面を殴打暴行し
(六) 昭和二九年一二月一八日頃○○○○高校蚕業科第三学年担任教官○津○に対し同人から「くづ」と云われた事を伝え聞き反感を抱き同人の身体に危害を加え報復する旨の文書を送り脅迫し
たものである
右事実は本件記録上明かであり刑法第二四〇条第二〇八条第二二二条に該当する
保護事実
少年は祖父の厳重なる指導下に善良なる子供として成長して来たのであるが其の間に真の良い心を養い得なかつたらしく祖父死亡後は情意面の変調を来し学業不振等から劣等感を抱き次第に不良交遊等より補償作用を不良仲間に於ける威勢に求め自己中心的に振舞い之に対する両親殊に父の激しい叱責に強い反感を抱き益々無軌道的行動に落入り数々の非行を犯すに至つたものでありその非行性は相当高度のものに達しているそして少年には現在稍反省の色が見えるけれども未だ真に悔悟せず此の儘在宅せしめるときは更に非行を繰返す虞がある暫く少年院に収容し深く反省せしめ少年の更正を期待したい仍て少年法第二四条第一項第三号第三一条に従い主文の通り決定する
昭和三〇年三月二日
長野家庭裁判所上田支部
裁判官 鈴木敏夫