東京高等裁判所 昭和30年(ネ)701号 判決
控訴人は、本件物件の売買契約は控訴人が被控訴人を物件所有者栗原トウ本人と誤認して締結したものであり、この誤認は右契約における要素の錯誤であるから同契約は無効であると主張し、被控訴人は、被控訴人は栗原トウから本件物件売買に関する一切の代理権を委任され、これにもとずき本人のためにすることを示して右契約をしたのであるから人違ではなく、この契約は栗原のためその効力を生ずるものであると主張する。
よつてまず右売買契約の締結されたいきさつについて検討するに、証拠によれば、
被控訴人は昭和二七年春ごろ、同じ天理教の信者で、旅館「さつき」を経営する訴外栗原トウと知り合となり、栗原が同年八月中右旅館の営業を休業して奈良県丹波市の天理教本部に修業におもむくこととなつた際、栗原から留守中三カ月間の旅館の管理一切を委託されかつ右旅館の建物敷地、すなわち本件物件の登記済証、認印、その他大切なものの保管を託されたが、栗原はそのとき乙第一号証の白紙委任状をも被控訴人に交付して被控訴人が旅館管理のため栗原の代理人として他から金融を受け、その他必要な事務を処理するために用意した。
しかるに栗原は同年一〇月不在中に日本無尽株式会社から差押を受けたので、被控訴人は栗原の息子津島晃雄と相談し、本件物件を他に売却して借財の整理をすることとし、同年一〇月中栗原にこのことを書面で通知し、そのころ栗原から書面で承諾をえた。
よつて被控訴人は同月末ごろ不動産仲介業訴外石川熊治に買主の世話をたのんだところ、石川は昭和二七年一一月上旬ごろ物件所有者栗原の手取金百四十万円で自ら買受けることを申込んだので被控訴人は津島と相談してこれを承諾し、手付金二十万円を受取つたが石川はその後にいたり、代金が払えなくなつたから自分では買えないといい、買手として控訴人を紹介したので被控訴人は同年同月一八日ごろ石川との売買を合意解除して手付金を返還し、同日控訴人にたいし、本件物件を代金百七十万円をもつて売却し、手付金五十万円を受領し、残代金は同月三〇日所有権移転登記手続と引換に支払を受けることを約した。
しかるに被控訴人は控訴人とこの売買の交渉をし、契約をするについて自己が栗原の代理人龜山婦美枝であることを明示せず、また控訴人との間に売買契約書(甲第一号証)をつくるについてもその実際の作成は石川にまかせ、自分は栗原の記名下に栗原の印を押しただけで栗原の代理人として自己の名を明記しなかつたので控訴人は被控訴人を栗原トウ本人であり、右契約は物件所有者自身とするものであると誤信した。
ところが石川は自己が不動産売買仲介業者であり、被控訴人にたいし控訴人を買主として世話したことから、控訴人が受取つた手付金五十万円のうち金二十万円を石川に手数料ないし報酬として交付すべきことを求めたので被控訴人は石川に右金額を交付し、残金三十万円のうち金十万円を栗原の借金、税金等の支払にあて、金二十万円を栗原のためにその名義をもつて東京三協信用金庫に預金して保管したが、同月下旬ごろ栗原を丹波市に訪問し、本件物件を代金百四十万円をもつて石川熊治に売却した旨、事実に添わない報告をした。
しかるに同月三〇日にいたり、控訴人は被控訴人にたいし、残代金百二十万円を弁済して本件物件の所有権移転登記をしようとしたが、目的物件中、他の不動産については登記手続を完了したが、私道の部分九坪については手続上の差支のため、登記をすることができなかつたので、金三十万円を差引いて残金九十万円だけを支払つたところ、被控訴人はこの金円をもつてまず栗原の借財を支払い、残金六十万円を前同様東京三協信用金庫に預金した。
しかるに控訴人は昭和二七年一二月にいたり、訴外栗原の訪問を受けた結果、さきに売買契約をした相手方たる被控訴人は所有者栗原トウ本人ではないことを知り、かつ栗原本人は本件物件を代金百四十万円で売つたものと信じていることを知つたので、栗原にたいし、代金が百四十万円であればすでに支払済であることを主張したが、栗原は被控訴人から金百四十万円を受取つていないから、残金三十万円の支払をしなければ私道の所有権移転登記をしない旨主張したので、控訴人はやむなく昭和二八年一月にいたり、残金三十万円を栗原に支払つたうえで私道についての所有権移転登記をした。
ところで訴外栗原トウは、はじめは被控訴人からの報告により本件物件の買主は石川熊治、代金は百四十万円であることを信じていたが、その後買主は控訴人であり、代金は百七十万円であることを知つたのであるが、さきに被控訴人にたいし、留守中の旅館の管理一切および本件物件の売却を委任した関係上控訴人との右物件の売買については何の異議もさしはさまず、自己はとも角金百四十万円を受領すればよいと考えたものであることを認めることができる。
右認定のとおり栗原は被控訴人に対しもともと本件物件を栗原のために処分するについての権限を与えていたのみならず、その後被控訴人のはじめの報告に反し、本件物件の買主が控訴人であり、その代金が百七十万円であることを知つた後も何の異議をいわなかつたのであるから、栗原はこの被控訴人が栗原の名において控訴人とした売買を暗黙のうちに承認したものと認むべきものであり、したがつて売主たる栗原に関するかぎり、本件売買契約が栗原本人について効力を生ずるについて何の欠けるところがないものというべきである。
よつてさらに控訴人が被控訴人を売主たる栗原トウ本人と誤信したことは法律行為の要素の錯誤であるかどうかについて考えるに、控訴人は特定の不動産たる本件土地建物を買受け、その所有権を取得する目的で本件契約をしたものであるところ、一般に見て特定物の売買においては、売主が直接契約の交渉にあたり、契約を締結するか、あるいは代理人をしてこれに当らせるかは契約の内容をなす重要なことがらではなく、要は相手方をして有効適法に売買目的物の権利を取得せしめ得れば足るのであり、また控訴人において特に本件契約をするについて売主にたいし、売主本人とのみの交渉に応じ、契約をすべく、代理人を相手としては契約に応じない旨の表示としたこと、もしくは売主本人との交渉でなければ契約の目的を達し得ないというような特別の事情のあつたことは控訴人においてなんら主張も立証もない本件においてはたとえ控訴人において被控訴人を所有者本人であると誤信して契約したとしても、それだけで売買につき要素の錯誤があつたものとは解しえない。なお一般に代理人が自己の氏名を表示せず直接本人の氏名を表示して代理行為をしたとしても、それは代理人が本人のためにすることを示してした適法な代理行為として本人のために効力を生ずるものと解すべきものである。
(藤江 原宸 浅沼)