東京高等裁判所 昭和31年(う)2728号 判決
被告人 畔原知真雄
〔抄 録〕
論旨は要するに(一)原判決は被告人の業務上過失の有無を判断するための基本的事実関係、特に本件被害者の自転車がふらつき出した瞬間における右自転車と被告人の自動車との間隔及び被害自転車がふらつき出してから衝突するまでに進行した距離等を認定するにつき採証の原理に違背し、不当な証拠を採用して事実を誤認した違法がある。(二)被告人は自己の運転する自動車の進路上約三十五、六米の前方において、自転車操縦の被害者がふらつき出したのを認め、危険を感じて警音器を吹鳴したが、ブレーキは踏まず、そのまま十米近く進行し、ここで始めて事故を予見して急停車の措置を執つたが、路面が凍結していたため思うに委せず、更に約十米前進して、その間に十五米位進行して来ていた被害者と正面衝突し、被害者を三・三五米押し返して漸く停車したというのが本件事案の真相と認められ、これによれば被告人に業務上の注意義務を怠つた過失の存することが明白であるというに帰し、縷々論述するところは右事実関係を更に敷衍して、被告人に業務上過失の存する所以を解明するにあるものと解される。よつて先ず、本件の証拠関係を検するに、記録及び当審における事実取調の結果に徴すると、本件事故の目撃者として挙げ得る者は、車掌の横内京子、通行人の増沢靖久及び牛山誠の三名を出でないことが明らかであるが、右のうち増沢靖久は原判示衝突地点の東方約五十米余の富士見橋上から自転車操縦の被害者を認め、これに追随しながら次第に接近し、その間隔約十米に迫つた頃、本件事故を目撃した者であるから、同人の事故現場における関係地点の指示及び目撃事実についての供述は、概して信憑性に富むものと認められる。また被告人自身の右指示及び供述も、増沢靖久のそれと略々一致する点において、やはり採用に値するものと考えられる。これに対して横内京子は車掌として被告人の運転する自動車に同乗していたとはいえ、その供述するところによると、衝突直前、次の停留所(富士見橋)を乗客に告げるため、一時、自動車の後部の方を向いていたこと及び前方へ向き返るや否や衝突の危機を直感して驚愕狼狽し、前後の弁識力も減退した形跡が窺われ、また牛山誠は目撃者ではあるけれども、被害自転車のふらつき出したところは、前示富士見橋上からこれを望見したのであるから、右両名の供述に現われた本件事故関係地点の間隔等は、いずれも信憑性に乏しいものと認めざるを得ない。さすれば原審が被害自転車のふらつき出した瞬間における右自転車と被告人の自動車との間隔及び被害自転車がふらつき出してから衝突するまでに進行した距離等を認定するについて、ただ形式的に被告人及び前記目撃者三名の指示または供述に現われた該当数字を一括して平均し、その値数を基準として被告人の本件過失の有無を判断する客観的条件としたことは、所論のとおり採証の原理に違反したものというの外はない。
そこで増沢靖久及び被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、当審証人増沢靖久に対する証人尋問調書、司法警察員及び検察官の各実況見分調書(添付図面及び写真とも)、当審における検証調書(添付図面及び写真とも)を総合して本件衝突事故をめぐる客観的及び主観的事実関係を究明することとする。先ず被告人が自己の運転する自動車の進路前方に、自転車操縦の被害者がふらつき出したのを目撃してから、被害自転車と衝突するに至るまでの経過を見ると、被告人は東西に通ずる本件道路を中心線に沿つて西方から東方に向い時速約二十五粁で進行中、反対方向から自転車に乗り道路の中心線附近をかなりの速度で進行して来た保坂文造が、その南側(被告人の進行方向の右側、以下これに準ずる)の原動機付自転車の操縦者と触れ合つたため把手の平衡を失い、ふらふらとして道路の北側(前同、左側)へ斜めに出て来たのを約三十五六米前方で現認し、危険を感じて警音器を吹鳴したが、ブレーキは踏まず、そのまま十米近く進行し、ここで始めて事故を予見して急制動の措置を執つたが、路面の凍結のため思うに委せず、更に約十米前進して、その間に十五米位進行して来ていた被害者と正面衝突し、被害者を三・三五米押し返して漸く停車したものであることを認めることができる。ところで、本件事故に対する被告人の過失の有無を判断するためには、右事実のほか更に衝突地点附近の道路の模様、当時の交通状況等をも併せ勘考することを要するので、この点を前掲証拠によつて検討するに、現場道路は幅員七・五米の舗装道路であるが、当時該道路の南側には側溝から内側一・五米ないし一・八米位まで所々に排雪が積まれていたため、中心線から南側の有効幅員は僅か二米前後に過ぎず、しかも前示富士見橋の西端からは下り勾配となつている上に、前夜降つた約一糎の積雪が路面一帯に凍結して滑り易い状態にあつたこと及び本件事故の発生した時刻は、丁度工場会社等への出勤時にあたり通行人が比較的多く、現に被害自転車の外側または前後に数台の自転車が走つていたことが認められるのである。
次に然らば、叙上のような諸条件のもとに発生した本件事故が、果して被告人の業務上の過失に基因するものと断じ得るや否やを審按するに、乗合自動車を時速約二十五粁で運転中の被告人が、被害自転車のふらつき出したのを現認したのは、進路の前方約三十五、六米の地点であり、該地点附近は下り勾配である上に路面の積雪が凍結して滑り易く、被害自転車はかなりの速力で有効幅員も僅か二米前後に過ぎない道路の中心線附近を対向進行し、しかも他の数台の自転車が被害自転車と平行または前後して走つていたところ、被害者が原動機付自転車の操縦者と触れ合つたため把手の平衡を失い、ふらふらとして被告人の自動車の進路側へ斜めに出て来たのであるから、かかる場合自動車運転者としては、警笛を吹鳴して相手方に警告を与うべきは勿論、万一相手方が把手の平衡を囘復し得ないで、そのまま進路に向つて来るやも計り難いことを予見し、その場合には何時でも急停車の措置によつて衝突を未然に避け得る程度に減速徐行する等、事故防止に万全を期すべき業務上の注意義務があるものといわなければならない。原判決は右のような状況下において、被害自転車が把手の平衡を取り戻して自己の進路に立ち直ることを期待することが、社会通念上許容されるものの如く判断しているけれども、われわれの日常経験に徴すれば、むしろこの場合、被害自転車の立直りを期待することは、一般に困難と認めるのが相当である。して見れば、被告人が被害自転車において把手の平衡を取り戻し得ないまま、被告人の進路に冒進することあるやも計り難いことを予見することなく、ただ警笛を吹鳴したのみで被害自転車の立直りを漫然と期待し、直ちに減速徐行の措置を執ることを怠り、そのままの速力で進行したのは、明らかに右業務上の注意義務を尽さなかつたものといわなければならない。もし被告人において、被害自転車がふらふらとして被告人の進路に斜行して来たのを現認すると同時に、自動車の速度を十分低減徐行したならば、被害自転車との衝突を避け得たであろうことは、前顕証拠により疑を容れないところであるから、結局、本件事故は被告人の業務上の過失に基因するものと断ぜざるを得ないのである。それゆえ原審が本件につき犯罪の証明がないとして無罪の言渡をしたのは、所論の如く判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認を冒したものというべく、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。
(谷中 坂間 荒川)