東京高等裁判所 昭和31年(う)467号 判決
被告人 関村洋 外一名
〔抄 録〕
検察官の論旨第一点、秋山弁護人の論旨第一点、被告人関村の論旨について。
被告人等に対する強盗致死の公訴事実は、「被告人両名は共謀の上、昭和二十六年八月十四日午後十一時頃金員強取の目的を以て、浜松市蜆塚町一万九千六百四十二番地先道路上において川瀬健蔵に対し所携の刃渡約十五、五糎の匕首を突きつけ、「やい」と申し向け金員を強取せんとしたが、同人が抵抗したため右匕首にて同人の心臓等を突き刺し刺創を与え、その反抗を抑圧した上同人の所持していた現金約五千円を強取したが、同日同時刻頃同人をしてその場において心臓貫通刺創による出血死に至らしめたものである」というのであつて、これに対し原審は右犯行は被告人関村の単独犯行なりと認定して有罪とし、被告人山口に対しては犯罪の証明がないとして同被告人に無罪を言い渡したものである。これに対し被告人関村及び秋山弁護人の論旨はいずれも被告人関村は右犯罪に関係がないから無罪であると主張し、検察官の論旨は右犯罪は公訴事実の如く被告人両名の共同犯行によるものであると主張するのである。
よつて先ず本件犯行が単独犯行なりや否やについて記録を調査してみるに、原判決が本件犯罪を被告人関村の単独犯行と認定した証拠としては、挙示の証拠中被告人関村の司法警察員に対する昭和二十九年十二月十四日附供述調書(阿部野警察署司法巡査梅本了作成のもの)と思料されるので右供述調書を検討してみると、該供述調書において同被告人は自己の単独犯行であることを自供している。即ちこれによると被告人関村は昭和二十六年八月十四日夜九時から十一時頃までの間他人をおどして金員を捲き上げようという考えを起し、自宅にあつた黒鞘の刃渡り二十糎位の匕首の中身をマフラーの古いもので巻きこれを持つて家を出て、約二十分程歩いた小高い山の中間を一人で歩き廻つていると、山の上だか下だか忘れたが年令五十才から六十才位の男の人が洋服を着て一人で山道を歩いてきたのと出会つたので、その人に対し前の方から匕首を突きつけ、始めはおどして金を巻き上げるつもりだつたが、相手は逃げようと思つてか抵抗したので、その人との間に一時喧嘩のようになつた、この時自分は右手に匕首を持つていたので始めは相手の胸を突き、それからは何処か判らず何回か突くと直ぐ相手がその場に倒れたので恐ろしくなつて何も盗らずに自宅に逃げて帰つたというのであつて、若しこの自白が信用することができるとすれば本件犯行は一応被告人関村の単独犯行と認められる。しかし司法警察員杉山光一作成の実況見分調書によると、本件被害者川瀬健蔵の屍体は、道路横の幅約四十糎の溝の中に殆んど身体一杯が溝に入つていて顏面を稍俯伏せに右を下にして横倒しになり、足を揃えて稍曲げて居り足より約三十糎離れた溝の中に血痕附着の白麻背広服上着が丸めて置いてあつたというのであり、また右屍体のあつた場所から東方約六十米離れた道路上に二ケ所に血痕があり、ここから屍体のあつた場所に至るまでの道路上にも三、四尺を距てて点々と僅かの血痕が認められたというのであつて、かかる現場の状況から判断すれば犯行の現場と屍体のあつた場所との間には約六十米の距離があり、しかも被害者が自ら倒れて溝に落ち込んだものとは認められない。次に被害者の妻川瀬のぶの司法警察員及び検察官に対する供述調書によると、被害者川瀬健蔵は本件被害を受けた当時現金五、六千円を所持していたことが窺われるにもかかわらず、屍体として発見された時はバラ銭で八十円位しか残つていなかつたというのであるから、右五、六千円の現金は何人かに奪取されたものと考えられる。更に増井要三の事実竝提出始末書によると、同人は昭和二十六年八月十四日午後十一時三十分頃、食用蛙採取のため自宅を出翌十五日午前二時頃通称山下別荘というところより一丁程行つたところの川の堰のある川の中から白パナマ帽一個を拾つたというのであるが、右帽子は被害者が当夜冠つていたものであることは川瀬宜三の確認書によつて明らかであり、右発見の場所が本件犯行の現場より東方約百五十米の地点であることは当裁判所検証の結果に徴し明らかである。右帽子が何故にかかる地点において発見されたのであろうか、被害者が落したとか、強風に飛ばされたとかいうことも考えられないから犯人が逃走の際持つて行つて捨てたのではないかと思料される。以上の三点は被告人関村の右自供によつては解決し得ない点であつて、要するに本件犯行は被告人関村の右自供の如く単独犯行と認めるべき状況は極めて薄弱であり、二人以上の共同犯行と認めるのが相当ではないかという疑が濃厚である。故に本件は被告人関村の単独犯行と認定した原判決の事実認定は、被告人関村が本件犯行に関与したか否かは暫く措くも単独犯行と認定した点において事実誤認の疑があるといわなければならない。
そこで更に進んで本件犯行が検察官所論の如く被告人等両名の共同犯行によるものなりや否やについて検討してみることとする。被告人関村は当初から自己の犯行を自認し、浜松中央警察署に身柄を引き渡された後は司法警察員及び検察官に対し被告人山口との共同犯行であると自供し、原審第一回公判においても同様の供述をしたが、被告人山口の事件を分離した後昭和三十年九月七日被告人山口の事件の証人として尋問を受くるや山口との共犯関係はもとより自己の犯行干与をも全面的に否定するに至つたのであり、一方被告人山口は被告人関村の自供に基き昭和二十九年十二月二十五日逮捕されたもので、当初は犯行を否定していたが昭和三十年一月五日に至り司法警察員に対し関村との共同犯行を自供し、爾来司法警察員及び検察官に対し被告人関村との共同犯行を自供し、原審第一回公判以来自己の犯行干与を否定するに至つたのである。以上の如く被告人等の供述にはそれぞれ変化がありその何れを信用すべきかは軽々には断じ難く、ことに被告人山口は被告人関村の自供により逮捕されるに至つたのであるから被告人関村の供述は特に慎重に吟味しなければならない。
よつて被告人関村の自供について検討してみると、同被告人が阿部野警察署において司法巡査梅本了に対してなした単独犯の自供が輙く信用し難いものであることは前段説明のとおりであるが、然らばそれ以外の犯行を認めた自白が信用すべきものであるかどうかについて按ずるに、先ず被告人関村の自供に基き本件犯罪の供用物件として押収された匕首(昭和三一年押第一四一号の一)が果して本件犯行の用に供された物であるかどうかについて考えてみると、右匕首は被告人関村が昭和二十六年十一月初頃西垣廉治なる者に頼んで砥いで貰つたところ間もなく西垣の密告により司法警察員に押収され、続いて被告人関村は銃砲刀剣類等所持取締令違反として検挙取調を受けた際の証拠品であつたが、右事件終結後正当な手続により民間に払下げられ数人の手を経て中国人李進発の手中にあつたものを、本件で被告人が自供したため再び右李進発より領置するに至つたものである。そして川瀬宜三の提出始末書により被害者が被害を受けた当時着用していたと認められる革バンド(前同押号の四)についているバックルには、鋭利な刃物による貫通痕があり、更に帯革の部分にも針頭大の創がついて居り、当審証人大久保柔彦の証言によると本件のような匕首を以て押収のバックルを突き刺したような場合は匕首に刃こぼれが必ず生ずるといつてよい位であるというのであるが、当審鑑定人大久保柔彦の鑑定の結果によると、現に押収してある匕首の刃先が僅かに折損しており先端部に約三・七ミリの刃こばれがあるが、銃砲刀剣類等所持取締令違反被告事件の証拠品として押収された当時の右匕首の写真原板を引伸拡大写真を作成して観測したところによると、先端部に微小なる欠損部が存在すると認められるも、これは現在存する程度のものではなく、また先端部に刃こぼれがあるかどうか判定できないというのである。そして現在押収の匕首の拡大写真と銃砲刀剣類等所持取締令違反事件の証拠品として押収した当時の匕首の拡大写真を比較してみても後者の、写真には前者の写真にあるような刃こぼれがなかつたと認められる。(現在押収してある匕首の先端部折損については当審証人龜山義雄の証言によると、同人は静岡県警察本部刑事部鑑識課技術吏員として昭和二十九年十二月下旬頃、同警察本部技官鈴木完夫より本件匕首の刃型作成方を依頼され刃型作成に従事中同人が誤つて刀身をコンクリートの手洗台の上に落したというのであるからその際生じたものと思料される)また当審証人西垣廉治の証言によると、被告人関村から頼まれ本件匕首を砥いでやつた際刃先の方に石でもひいたような跡があつたが、刃先の折損や刃こぼれはなかつたというのであるから、現に存する刃こぼれは右払下後何者かの行為によつて生じたものと認めざるを得ない。そして右西垣証人の石でもひいたような跡というのは如何なることによつて生じたものか明らかでないが、いずれにしても本件の匕首が本件犯行の供用物件と断定するには聊か疑なしとしない。
次に被告人関村は阿部野警察署における自供においては、本件犯行後逃げ帰る途中シャツに返り血がついていることが判つたので、シャツだけ脱ぎ丸めて匕首をその中に包んで帰り、自宅の縁の下に入れて置き約一ケ月してから浜松市佐鳴湖にある土管内に入れておいたが、昭和二十八年一月東京医療少年院から帰つてから右隠した場所に行くとまだシャツがあつたのでそれを佐鳴湖近くの泥のところに穴を掘らずに棒で突込んだ。その場所は自分が行つて案内すれば判ると供述し、検察官に対する第二回供述調書においては、血のついたワイシャツは一旦自宅四畳半の天井裏に入れたがまた直ぐ六畳の床下に戻しその後二、三日してから何処かへ捨てようと思い佐鳴湖に行く途中の沢の中に長さ三尺直径約一寸の竹の棒で少し地面を掘つて穴をあけその中にワイシャツを投げ砂をかぶせて帰つたと供述し前の供述とは少しくいちがつている。そして原審証人平田定雄の供述によると、被告人関村の自供に基き昭和二十九年十二月十六日頃村松警部、山本警部補の補助として同被告人の指示により現場に行きその指示した場所(浜松市内富塚町の御前谷というところ)を掘り返してみた、約三、四十分に亘りその附近を掘つてみたがワイシャツらしい物は発見できなかつた。更に昭和三十年一月七日頃人夫を傭い午前十一時頃から午後二時頃まで徹底的に関村の指示した場所から下手に向つて掘つてみたところ関村の指示した場所から五米位下手の地点から長さ約一尺幅約五、六寸の布切れが発見されたので、これを県警察本部鑑識課に持つて行つたが水中や土中に二、三年も埋つていれば腐つて仕舞うではないかといわれ正式の鑑定はしなかつたが、鈴木技官の話では水中や土中に二、三年漬つていれば木綿なら腐つてなくなるわけだが、これはもう少し新しいものではないかということであつたというのである。押収の布切れ(前同押号の六)を検すれば一部腐しよくした部分はあるが原形はそのままの形で残つて居りしかもその形状から考えるとワイシャツの布切れの一部とは到底認められない。被告人関村が埋めたというワイシャツは、既に流失又は腐しよくしたのではないかということも考えられない訳ではないが、少くとも押収の布切れを以て被告人関村の自供の裏付けとすることはできないし、前記の如く一部くいちがつた供述であるから輙く信用することはできない。
次に被告人等が本件犯行前相談をしたという時の状況について、被告人関村は司法警察員及び検察官に対し午後八時頃南駅からきた地下道附近で山口と会い二人で話しながら地下道を出て有楽街に向つた時自分は何処かで飲みたいが金が欲しいというと山口は俺にも金がない金が欲しいなあというので、自分は誰かをおどかして金をとるのが一番簡単だ飲み代なら何時でも出るというと、山口も同意したので場所は何処にするかというと山口は火葬場附近がよいではないかといい自分は佐鳴湖附近がよいというと山口も同意したと述べているが、被告人山口は司法警察員及び検察官に対し日暮頃関村が田町の私の店に遊びにきて佐鳴湖に凉みに行こうというので夕凉みのつもりで一緒に出掛け、二人で関村の家の近くを通り関村の案内で佐鳴湖に行きブラブラ一時間位歩いて帰ろうということになつて帰途につき、畑道を通つて坂道にさしかかつた時下の方から上つてきた白ワイシャツの男に出会つた、その男が行過ぎると直ぐ関村が彼奴を脅してやろうかというので自分はうんやれと相づちを打つたら関村はその男の後を追つて行つたと述べている。(尤も検察官の最後の取調の際は当日関村と会つたのは店でなければ海老塚町のガード附近だつたかも知れないと訂正している)のであつて二人の供述の間にくいちがいがある。
また本件犯行当時の模様について、被告人関村は司法警察員及び検察官に対し自分は右側に腰をかけて待つて居り山口は自分の後の方に約四、五米離れていると人のくる気配がして白ッポイ服装の男の人がきたので小走りに走り出て「ヤイ」といつたらその男は「なんだ貴様は」といつて自分につかみかかつてきたので、相手の腹を一刺し刺したら相手の男はウーというすごい大きいうなり声をあげて自分につかみかかつてきたので、びつくりして二刺し位刺して頭や肩を殴つて上の方に逃げたが山口は元かくれたところにいるのをチラとみたような気がする。従つて自分が被害者を刺した時山口は被害者を殴るとか蹴るとかその場に来たような記憶はないと述べ、被告人山口は司法警察員及び検察官に対し坂の下の方から白ワイシャツの男が上つてきたので関村はその男の後を追つて行き自分は二、三間離れたところでみていた、関村はその男に近ずくと何とかいつたが相手の男も何とかどなつて直く二人は喧嘩のようになりもみ合つているところに自分が追いついて行つて相手の肩に手をかけ引離そうとしたが手をかけると直ぐ相手の男は道路の真中に倒れたといい、山口が被害者に手をかけたかどうかの重要な部分について被告人両名の供述が一致していない。
次に被告人関村が山口も共犯であると供述するに至つた心境について、同被告人は当公廷において自分が東京医療少年院を退院後胸部疾患のため浜松市立病院に入院したが、その後病状好転せず胸部整形手術を受けることになり国立浜松病院に転院することに決つた前日頃突如浜松警察署員が自分の病床を訪れ再度蜆塚事件について取り調べられた。その際警察官はお前が蜆塚で自治会長殺しをやつたということは山口や西垣がいつているから間違いないといつた、それで西垣や山口を呼んでくれといつたら西垣はきたが山口は住所が判らないといつて呼んでくれなかつた。その時は一週間位で取調は終つたが、今度は大阪から浜松に移され詳しく調べられた際自分はやつたのではないといつても聞き入れてくれず山口を呼んでくれといつても住所が判らないといつて呼んでくれないので警察力で山口を捜し出して貰い、そうすれば山口は真実を証言してくれるだろうと思つて山口と共犯だという嘘をいつた、また自分は蜆塚事件に関係がないのに山口は自分が関係あると喋つたために前に警察の取調を受けたのだから、今度は少し山口にも迷惑をかけてやろうという気持もあつたと述べている。一方平山成培の司法警察員に対する供述調書によると、山口は昭和二十七年正月頃酒の上で平山に対し蜆塚事件の犯人は家の若い者だろう確実な証拠を握つているといつたので、昭和二十八年夏頃警察の木下さんにその話をしたことがあると述べて居り、関村京子の司法警察員に対する供述調書によると、関村が少年院を退院後市立病院に入院した頃の昭和二十八年九月頃警察官が蜆塚の事件で関村を調べにきたことについて、同人は山口の奴普通ならやつてしまつて只じやおかないと憤慨していたというのであるから、被告人関村が共犯者として被告人山口の名を出した理由についての関村の弁解は一応首肯し得るのである。
次に被告人関村は何故に本件犯行を自供するに至つたかについて考えてみると、大阪府巡査梅本了の原審並びに当審における証言によると大阪市阿部野警察署勤務の同巡査は昭和二十九年十二月十四日午前四時頃阿部野警察署播磨町検問所前で年末警戒のため通行人の職務質問をしていた際ワイシャツにズボン姿で歩いてきた被告人関村に対し職務質問をしたところ、寒中シャツだけでいたので派出所に同行し身分関係等を尋ねてみると三年前の蜆塚事件を自供したので本署に任意同行を求め自供に基きメモを取り、浜松警察署に電話で照会した結果昭和二十六年八月十四日蜆塚で自治会長が殺された事件があり迷宮入りになつているとの回答があつたので、関村を緊急逮捕し取調の結果犯行を自供したので供述調書をとり浜松警察署員に引渡したというのである。そして被告人関村は蜆塚事件を自供するに至つた動機について検察官に対し、自分は蜆塚事件後落着こうと思い努力したが結局落着いて生活することができず将来も落着いて生活することはできそうもないので自殺しようと決心し兄と情婦に宛て遺書を書いたが浜松には兄が国立病院に入院しているし浜松で自殺する気になれず蒲郡で自殺しようと考え、浜松と豊橋で睡眠薬イソミタール計四十錠を買い昭和二十九年十一月二十七日頃豊橋から汽車に乗つたところ途中で眠つてしまつて京都まで行つてしまい、更に別の列車に乗つたら途中で検札を受け公安官に調べられて釈放され、京都に行き二、三日ブラブしている間にスリや窃盗を犯し不審尋問を受けた際窃盗を自供したが、これは京都の検察庁で起訴猶予になり大阪に出て再び不審尋問を受けたので遂に本件犯行を自供したと述べているのである。しかし被告人関村が自殺を決意するに至つた動機について当審では、病気も回復に向い昭和二十九年五月国立浜松病院を退院したが、病後で職もなく家人の迷惑を考え厭世的となつて知らない土地で自殺するつもりであつたというのである。被告人が蜆塚事件の犯人で呵責に堪えられず自殺する気持になつたということも考えられないではないが、事件後三年有余を経過し、しかも前に右事件に関連した銃砲刀剣類等所持取締令違反罪として一年余少年院に収容されたのであるから、被告人の気持は大分落着いている筈だと考えられる。若し真に呵責に堪えられないような気持になるならば結核を患つていた被告人としてはもつと早く自殺を図つたかも知れないのであつて、被告人関村が当公廷で弁解する方が真相ではないかと思われる。なお被告人関村は斯様な事情の下で寒気と飢のため疲労している際不審尋問を受け、身分経歴等を述べている間に前の刀剣不法所持事件で逮捕された顛末を聴かれ、これに関連して蜆塚事件のことも調べられたと述べたところ、梅本巡査は浜松警察署に照会して蜆塚事件が未解決であることを知り事件の概要の回答を得た上被告人関村を追及したので虚偽の自白をしたと述べているのであつてこの弁解も首肯し得るのである。
以上のように考察してくると被告人関村の自白はいずれも輙く信用し難いものといわなければならない。
次に被告人山口の自白について考察することとする。被告人等が本件犯行前相談をしたという時の状況及び本件犯行当時の模様についての供述が被告人山口の供述と被告人関村の供述との間に若干くいちがいのあることは前段で説明したとおりであるが、被告人山口の供述中被害者より金員を奪取した点、被害者の屍体を溝に転がし込んだ点及び被害者の帽子を川に捨てた点等は実況見分調書その他の証拠によつて認められる現場の状況に符合するのであるが、前に説明したように被告人山口が逮捕されるに至つたのは被告人関村の自供によるものであり、被告人関村の自供が前段説明の如く輙く信用し難いものである以上、被告人山口の自白も亦軽々に信用するを得ないのである。そこで先ず被告人山口の自供と現場の状況について考えてみるに、被告人山口は関村が相手の男の直ぐ後から追いかけ何か声をかけたところ大きな声が聞えたので自分は二、三間駈け寄つたら関村と相手の男は向い合つて組みついて立つているので自分は相手の背後から両手でその両肩を強く引張つたところ相手の男はそのまま道路上に仰向きに倒れてしまつた。相手の男は関村に胸や腹の辺りを刺されたらしく血がべつとり滲み出て苦しいらしくうなっていて立上る気力もないようであつた。関村は坂の上の方に逃げて行つてしまつたが自分はこのまま放つておけば人目に直ぐつくと思つたので両手でその男を右側の道路淵の溝に転がして入れた。被害者の上衣は倒れたところより少し離れたところにあつたのでこれを拾い被害者の方に投げて坂を下りたというのであるが、実況見分調書によると血痕が流れ落ちていて犯行の現場と認められる場所と、被害者が発見された場所とは約六十米の距離があるのであつて、医師山田迪の鑑定書によると被害者は三ケの刺創を受けており、その一つは左胸部刺創で心臓貫通創の重傷であつたというのであるから、受傷後六十米の距離を関村と組み合いながら歩行したものとは考えられないのであつて被告人山口の供述とは一致しない。また右実況見分調書添付の写真によると被害者の上衣は被害者の足許に丸めて置いてあり被告人山口の自供の如く投げ入れたものとは認められない。また被告人山口は検察官に対し、坂の下の方に逃げて自宅に帰つたが、帰る途中関村の家に立寄つたかも知れないと述べているが、関村と相談の上の犯行だとすれば関村が坂の上の方に逃げたというのに被告人山口がその反対の方向に逃げたということも不可解であるが、帰途関村の家に寄つたかどうかということは忘れられる事柄ではない筈であるから、かかる曖昧な供述をしているのは真実を述べたものかどうか疑なしとしない。
次に被告人山口の検察官に対する供述調書によると、自分が被害者から取つた金は改めて勘定しなかつたがその金で関村にラバソール一足(千円)ズボン一着(千七百円)ワイシャツ一枚(七、八百円)を買つてやつた、これは一寸したはずみで自分と関村とで殺人事件を起したので被害者より金を取つてしまい関村に対し責任を感じていたので買つてやつたのであるというのであるが、被告人山口の当審における弁解によると、関村は自分の店の使用人だが十分な手当を出すことができないので、よく働いてくれるなら着物も買つてやるが只でやつては独立心が起きないから小遣銭をためて返すようにといつて買つてやつたのであるというのである。
また被告人山口の司法警察員及び検察官に対する供述調書によると、妻が昭和二十七年五月頃東京の方に家出し妻との折合が悪くなり妻は同人の妹と二人で東京のパチンコ屋に行つてしまい家庭内がうまく行かないし、昭和二十六年八月の蜆塚事件の殺人事件が気になり心が落着かなかつたので、自分は家庭が円満に行き心が落ちつくようにお稲荷さんを信仰するようになり、只今もその気持に変りはなくこのようなことから罪亡しをしようとする気持であると述べているが、証人山口佐一郎の原審における証言によると、弟の嫁が稲荷様を信仰しており、稲荷様を信仰すれば家も徐々に楽になるから是非信仰せよと奨めた。末一に対しては家内との間が余りよくないのでうまくいくようにということで奨め、末一は五年も七年も前から(この証言をしたのは昭和三十年七月二十九日である)信仰を始めたというのであるから、被告人山口が本件犯罪の罪亡しのために信仰を始めたとの被告人山口の供述には疑がある。
然らば被告人山口が何故に本件犯行を自認するに至つたかを検討してみると、証人佐藤義典の原審における供述によると浜松中央警察署巡査部長である同人は昭和二十九年十二月三十日か三十一日頃署長の命により被告人山口に対し何か正月の感想があつたら書けといつたら山口は書くというので紙と鉛筆を渡したところ、昭和三十年一月一日に原巡査部長を通じて山口から感想文(前同押号の五)を受取つたが、その趣旨はこれまで自分の歩いてきた道は間違つていたから今後は真直ぐな道を歩きたいという意味であつた、当時山口は犯行を否認していたがその後自白するに至つたというのであり、記録によると被告人山口は昭和三十年一月五日附司法警察員山本薫一作成の供述調書において始めて犯行を自白しているのである。この点について被告人山口は原審において自分は昭和二十九年十二月二十五日逮捕され東京から浜松中央警察署に移され毎日二三回宛調べられたが知らないというと警察官は山口よい加減に白状しろお前が知らんといつても世間では山口がやつたといつている。こちらには証拠が上つているから否認するなら否認のまま送る。家庭の事情が苦しくてやつた気持もよく判る。お前のためを思つてやろうとしているのだから強情をいわないで正直なことを述べよ、お前が何時までも否認していると裁判の度毎に新聞に載せられてお前の兄弟達がどんな辛い思いをするか判らないといわれ段々錯覚に陥つて行つた。正月を迎えるに当り村松警部から正月の感想文を書けといわれ担当刑事が紙と鉛筆を持つてきたので正月元日の午前中に感想文を書いた。それは早く事件を片つけて貰うためには何処までも後悔した振りをして認めて貰つた方がよいと思つたからである。その内容は家庭の事情に恵まれない、親がなくて肉親の愛情に恵まれないと斯様になる。そして自分が警察の厄介になるようになつたことについては兄弟達がどんなに嘆き且つ怒つているのではないか、それに対しては申訳がないという趣旨のものである。これを書いてから後の最初の取調の際にも自分はやつていないといつたら感想文に書いてあることと随分違うではないかと怒られ遂に虚偽の自白をするようになつたのだがその内容は警察官が一々誘導して尋問するのでこれを承認したのであるというのである。被告人山口が逮捕されるに至つた事情及び犯行を否認する被疑者に対し警察官が感想文を書かせその後に至つて犯行を自白するに至つた事情等を考え合せると被告人山口の右弁解は一応首肯するに足りる。
以上説明の如く被告人山口の自供にも幾多の疑問があつてにわかに信用し難いのである。
次に原審並びに当審証人西垣廉治は、昭和二十六年十一月初頃被告人関村から黒鞘の短刀(本件の匕首)を砥いでくれと頼まれ砥いでやつたが、その時その短刀は錆びていて牛のよだれのようなネバネバしたものが流れたので、これで人を殺したのではないかと思つて関村に聞いてみたら、関村は実は蜆塚の自治会長を殺したが金は五、六千円しかなかつた、あの位なら殺さなくてもよかつた、悪いことをしたといつたので、当時浜松警察署では蜆塚事件を捜査中であつたからその参考にもと思つて右短刀を警察に届けて密告したという趣旨の供述をしている。そして被告人関村が本件匕首を西垣廉治に砥いで貰つたことは争のないところであるが、被告人関村は当審において西垣に蜆塚事件は自分がこの匕首でやつたということを話したことはない。その時西垣が自治会長殺し事件の話をしたので馬鹿なことをやつたものだと話したに過ぎない。当時西垣とは強盗をやる話ができていて実行には至らなかつたが、右強盗の際使用する目的で匕首を砥いで貰つたもので西垣は途中から強盗をやる気がなくなり自己の立場をよくするために虚偽の証言をするのであるといい、西垣は被告人関村と強盗の計画を話合つたことはあるがそれは関村が大阪方面に高飛びする様子があつたので、同人を引止めておいて早く逮捕して貰おうと思つて二人で強盗をしようという芝居を打つたのだといつている。しかし西垣廉治の司法警察員及び検察官に対する供述、原審及び当審における証言を通じ同人の供述を仔細に検討してみると信用し難いと思料される部分が幾多存し、特に被告人関村が蜆塚の殺人事件は自分がやつたと西垣に漏したという部分については両人の知合干係は格別深いものではないのであるから、被告人関村が不用意に自分の犯行を告白したとは考えられないのみならず、被告人関村に対する銃砲刀剣類等所持取締令違反事件記録によると、西垣廉治は昭和二十六年十一月四日附で浜松中央警察署長に宛て事実並提出始末書を提出し、その中で本件の短刀を砥いでやつた時血のようなものが一杯についていたのでこの血はどうしたものかと聞いたら関村は入野村蜆塚で人を切つたようなことを言つていたと記載してあり、そして被告人関村は同日銃砲刀剣類等所持取締令違反として緊急逮捕されたことが明らかである。然るに同警察署においては被告人関村を単に銃砲刀剣類等所持取締令違反として送検し、静岡家庭裁判所浜松支部も同様銃砲刀剣類等所持取締令違反として関村を医療少年院に送致する旨の決定をして事件を処理しているのであつて、浜松中央警察署としては西垣より前記の如く始末書が提出され証拠品が存在する以上一応関村を強盗殺人の容疑を以て取り調べたものと思料される。その際西垣は有力な証人として取調を受けた筈であり、同人が本件で証言するように関村が蜆塚の殺人事件は自分がやつたと告白したと証言したならば関村に対しても相当綿密な取調がなされた筈である。それにもかかわらず単に銃砲刀剣類等所持取締令違反で処理したということは当時の西垣の証言は本件でした証言のように明瞭なものでなかつたか、或は信用し難いものであつたか、それともまた兇器と目される本件匕首に刃先の折損又は刃こぼれ等の異状を認めなかつたためではないかと思料される。(当該事件の鈴木完夫作成の鑑定書によるとその匕首には血痕と思料されるものが附着しているが人血なりや否やの証明はできないといつている)されば西垣廉治の右証言には多分に疑わしい点があつて直ちにこれを被告人関村の犯行関与を認める資料とはなし難い。
次に原審証人伊堂勝次の証言によると、同人は窃盗の嫌疑で昭和二十九年十月十四日から昭和三十年二月四日まで浜松刑務支所に勾留されていたが、関村は約二ケ月後に入つてきて隣房におり同人から自分は蜆塚の自治会長殺しの犯人だが今に共犯が逮つてくるだろうといつたのを聞いたというのであるが、当時被告人関村は本件犯行を自認していたのであるから当時の被告人関村の心境として果して真実を物語つたかどうかについては疑なきを得ない。次に関村京子の原審における証言によると、日時は判然しないが昭和二十六年夏頃被告人関村は被告人山口のやつている靴屋の手伝をしたことがあり、その頃山口が自分方にきたことがある。或晩午後十時過頃山口が洋がいるかどうかを聞きにきたことがある。その時山口は裸足でワイシャツとズボン姿でワイシャツに血がついていたが山口は怪我をしたといつていた。洋がまだ帰らないといつたらそうかといつて帰つて行き一時間も経たない間にまた山口がきた。洋が帰つてから右の話をしたら山口は喧嘩をして怪我をしたのだといつたというのであるが被告人関村が本件犯行を自認していた当時の供述として、九月に入つてからのことと思うが山口と同人の妻千津子を送つて浜名郡浜名町小松まで行きその夜は一緒に小松に泊つて翌朝帰つたことがあり、その時姉が自分に聞いたので山口が夫婦喧嘩をしたといつたことがあると述べ、被告人山口の妻千津子が原審で供述したところによると現在自分は山口と事実上離婚しているが一緒に暮していた当時は山口と始終喧嘩をしていてそのため家出したこともあり蜆塚に殺人事件のあつた月の末かその翌月頃も山口と喧嘩をして自分は鼻血を出したことがあるというのであるから、これらの供述を綜合すると、被告人山口が夜遅く関村方を訪ねたのは本件犯行の夜であつたとは認められない。之を要するに本件公訴事実中強盗致死の点については、被告人両名がこれに関与したという心証を惹起するに足りる証拠がないから、この点については被告人両名に無罪を言い渡すべきであつて、原判決が被告人山口に対し無罪の言渡をしたのは正当であるが、被告人関村に対し有罪の言渡をしたのは事実の認定を誤つたもので、その誤が判決に影響を及ぼすこと勿論であるから、本件犯罪は被告人両名の共同犯行であると主張する検察官の控訴は理由なく、被告人関村及び秋山弁護人の各論旨は理由があり、原判決中被告人関村に関する部分は破棄を免れない。
(大塚 渡辺辰 江碕)