東京高等裁判所 昭和31年(行ナ)55号 判決 1958年3月27日
原告 メルク・アンド・コンパニー・インコーポレイテツド
被告 特許庁長官
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
原告のため上告附加期間を二ケ月とする。
事実
原告訴訟代理人は、特許庁が同庁昭和二十九年抗告審判第二四七二号事件につき昭和三十一年四月二十六日にした審決を取り消す、訴訟費用は被告の負担とする、との判決を求め、その請求の原因として、
一、原告は後記の発明「抗菌剤回収法」につき、昭和二十四年五月十三日特許出願をしたところ、昭和二十九年一月七日附を以て拒絶査定を受けたので、同年十二月十七日に抗告審判の請求をし、同事件は特許庁昭和二十九年抗告審判第二四七二号事件として審理された上、昭和三十一年四月二十六日に右抗告審判の請求は成り立たない旨の審決がされ、同審決書謄本は同年五月二十五日に原告に送達された(尚右審決に対しては昭和三十一年十二月二十四日まで出訴期間が延長された)。
二、本願発明はストレプトマイシンの回収法に関するものであつて、本願発明前にはストレプトマイシンの醗酵液からストレプトマイシンを分離するには醗酵液を活性炭に接触させ、醗酵液中のストレプトマイシンを活性炭に吸着させ、次いで吸着したストレプトマイシンを溶剤で抽出する方法が行われていた。しかしこの方法では活性炭の吸着力が弱い為多量の活性炭を要するのみならず、作業設備が膨大となる不利があり、加うるに回収されるストレプトマイシンの量も六〇―八〇%に止まり、その質も悪く、薬品として使用するには尚数回の精製を行わなければならない。又使用した活性炭は再び使用することができないから工業的には不経済な方法である。
又フーラースアースを吸着剤として使用する方法もあるが、この方法も活性炭と同様の欠点がある。抗菌性物質をスルフオン酸系イオン交換樹脂に吸着させる方法も提案されたが、このイオン交換樹脂は抗菌性物質のみならず、醗酵液内にある種々の有機化合物をも吸着する欠点があり、且つ樹脂から抗菌性物質を溶出する為に多量の酸或は塩を使用するから、却つて抗菌性物質の性質を悪化する恐れがあり、工業的には有利な方法ということはできない。
本願発明は以上の各方法の欠点を改善する為行われたものであつて、吸着剤としてカルボキシル基を有する不溶性イオン交換樹脂を使用するものである。このカルボキシル基を有する不溶性イオン交換樹脂はストレプトマイシンの醗酵液から非塩基性物質のみならず、ストレプトマイシン以外の他の窒素含有有機化合物を吸着することなく、ストレプトマイシンのみを選択的に吸着し、このストレプトマイシンを吸着した樹脂は酸によつて定量的にストレプトマイシンを溶出することを実験によつて初めて確認したのである。
従つて本願発明は「ストレプトマイシンの水溶液を交換能力がカルボキシル基によつて生ずる不溶性イオン交換樹脂と接触せしめてストレプトマイシンを該樹脂に吸着させ次いで吸着されたストレプトマイシンを溶出分離することを特徴とするストレプトマイシンの水溶液からストレプトマイシンを採取する方法」を要旨とするものである。而して本願発明によつて奏する効果は、
イ、カルボキシル基を有する不溶性イオン交換樹脂はストレプトマイシンの醗酵液からストレプトマイシンのみを選択的に吸着する。
ロ、該樹脂に吸着されたストレプトマイシンは稀薄酸で定量的に溶出分離することができる。
ハ、分離後の樹脂はアルカリで簡単に再生し、殆ど永久的に使用することができる。
ニ、該樹脂は自己重量と均等量のストレプトマイシンを吸着することができ、これを活性炭に比較すれば約三十倍、スルフオン酸系樹脂に比較すれば約十倍乃至三十倍の吸着力を有する。
ホ、高純度のものが得られるので精製回数も少く、製品の力価は従来のものより数倍高い。
という点である。
三、然るに審決はその理由において、既存の刊行物なる雑誌インダストリアル、アンド、エンジニアリング、ケミストリー(Industrial and Engineering Chemistry)第四一巻第一号第五七頁を引用し、これと本願発明とを比較して、その差異は引用例では「ただ被吸着物としてストレプトマイシンが記述されていないだけである」としながら、その後段において「ストレプトマイシンが分子中に塩基性窒素をもつ塩基であることは既知の事実であるから引例の公知方法を塩基性薬物の一であるストレプトマイシンに応用したに過ぎないから本願の方法は引例から当業者の容易に実施し得るものと認められる」と述べて、この理由により本願方法が特許法第一条に該当しないものとしている。
四、然しながら審決は次の理由により不当なものである。
即ち前記引用例には「カルボキシル型のイオン交換樹脂は薬学的に重要なる複合体塩基の回収、精製に有利に使用される。アミノ酸類の分離、アルカロイド類及びビタミン類の吸着回収について研究された。カルボキシル型のイオン交換樹脂の主たる利益は塩基性窒素有機化合物を樹脂の塩の形で吸着しこれ等の塩は稀酸によつて定量的に分離される」と記載されてあるが、本願発明がカルボキシル基を有する不溶性イオン交換樹脂によつてストレプトマイシンの水溶液からストレプトマイシンのみを吸着することをその重要点とするものであるに拘らず、審決がこれに対する的確な引例を示すことなく、ストレプトマイシンの吸着につき何等説くところのない前記の引用例のみを示して本願方法が当業者の容易に実施し得るものであるとしたのは審理不尽の違法がある。
抑もカルボキシル基を有するイオン交換樹脂がストレプトマイシンを吸着するという公知の事実は存しない。ストレプトマイシンは分子中に塩基性窒素を有する塩基ではあるけれども、ストレプトマイシンの醗酵液中にはストレプトマイシン以外に種々の塩基性窒素を有する化合物が含有されているところ、前記引用例の記載内容によればカルボキシル基を有するイオン交換樹脂があらゆる塩基性窒素を有する化合物を吸着することを示しているから、塩基性窒素有機化合物中ストレプトマイシンのみを選択的に吸着させることを引用例から想到することはできない。換言すれば引用例はストレプトマイシンを吸着すると同時に醗酵液中の他の塩基性窒素有機化合物をも吸着することを示しているのであるから、ストレプトマイシンの醗酵液にカルボキシル基を有するイオン交換樹脂を応用することは不純物をも吸着するから不利益であると予想するのが当然であるのに、カルボキシル基を有する不溶性イオン交換樹脂がストレプトマイシンのみを選択的に吸着するということは何人も予想し得なかつた驚くべき作用効果である。カルボキシル基を有する不溶性イオン交換樹脂がストレプトマイシンを吸着するという公知の事実もなく、右のような工業的効果がある以上、本願発明は特許法第一条所定の特許要件を具備するものであり、審決の説くところは失当である。
五、よつて原告は審決の取消を求める為本訴に及んだ。
と述べた。(立証省略)
被告指定代理人は主文同旨の判決を求め、
答弁として、原告の請求原因一の事実と、二の事実中の本願発明の要旨が原告主張の通りであることを認める。
右本願発明の要旨によれば、本願の方法は特定のカルボン酸型のイオン交換樹脂を用いることでもなければ、その使い方に特徴があるわけでもなく、又培養液から目的物を採取する方法でもないことが明らかである。従つてカルボン酸型の樹脂を格別新規性のない方法で使用してストレプトマイシンを水溶液から採取しようとするに過ぎないものである。ところが原告も認めているように、ストレプトマイシンが塩基性の窒素原子を含むことが周知であるから、これが陽イオン交換樹脂に吸着されることは何人にも予想し得るところであり、カルボン酸型の樹脂が有機塩基性物質を精製する能力が大きいことが明らかにされているから、これを用いた場合にストレプトマイシンにつき良好な結果が得られる可能性は何人にも容易に想到し得られるところである。尚前記審決の引用例には純粋にまで精製されなければならない医薬が二例まで挙げてあり、そのいずれも鉱酸塩が可溶性の有機の塩基性物質であつて、カルボン酸型の樹脂による採取精製の効果が大きいことが明示されてあるから、同樹脂が同様に塩基性窒素原子を含み、従つて塩基性があることが周知のストレプトマイシンの精製採取に有効なるべきことは想像に難くないのである。
又原告はカルボン酸型樹脂の特徴としてストレプトマイシンの醗酵液からストレプトマイシンを選択的に吸着すると主張するけれども、スルフオン酸型の樹脂が塩基性の強弱に拘らず吸着するのに、カルボン酸型の樹脂がストレプトマイシンのみを吸着するのは、前者の樹脂がその強酸性の為に不必要な弱い塩基でも吸着するのに対し後者即ちカルボン酸型樹脂がそれより酸性が弱い為、他の少量の夾雑物(例えばアミノ酸)よりも明瞭にその塩基性が認められるストレプトマイシンをよく吸着するからであつて、何等不思議とするに足りない。結局本願の発明は単なる水溶液からストレプトマイシンを採取する方法を包含する広汎なものであつて、このような漠然かつ広汎な思想は引用例から当業者が何等の困難もなく到達し得るものであつて、発明を構成するものとは認めることができない。
と述べた。(立証省略)
理由
原告の請求原因一の事実は被告の認めるところであり、同三の事実は被告において明らかに争わないから、その通り自白したものとみなす。
而して本願発明の要旨が「ストレプトマイシンの水溶液を交換能力がカルボキシル基によつて生ずる不溶性イオン交換樹脂と接触せしめてストレプトマイシンを該樹脂に吸着させ、次いで吸着されたストレプトマイシンを溶出分離することを特徴とするストレプトマイシンの水溶液からストレプトマイシンを採取する方法」であることは当事者間に争がなく、成立に争のない甲第一及び第二号証によればその明細書には右カルボキシル基を有するイオン交換樹脂としては、アクリル酸或はメタアクリル酸とヂビニールベンゼンとの共重合体、レゾルシン酸とフオルムアルデヒドとの縮合物等が好適であること、樹脂からストレプトマイシンを溶出するには稀酸を用いること等が示されてあることが認められる。
次に成立に争のない乙第一号証の一、二によれば審決引用の刊行物インダストリアル、アンド、エンジニアリング、ケミストリーには「Winters及びKuninは薬学的に重要な複合体塩基の回収と精製のために、イオン交換体特にカルボン酸型の交換体の使用を探究して来た。アミノ酸類の分離、アルカロイド類及びヴイタミン類の吸着と回収が研究された。カルボン酸型交換体の主たる長所は、それが複合体有機窒素塩基を交換体の塩の形で容易に吸着すること及びこれ等の塩は定量的に稀酸で容易に脱着し得ることである。窒素塩基がスルフオン酸型交換体から回収されることの極度の困難さに比較して、カルボン酸型交換体はこれ等塩基の回収に於て優れている。」という趣旨の記載の存することが認められ、右刊行物が本願前から存在していたことは本件弁論の全趣旨により明らかであり、この事実に徴すれば右のようにカルボン酸型イオン交換樹脂即ち本願発明でいわゆる「交換能力がカルボキシル基によつて生ずる不溶性イオン交換樹脂」は、有機窒素塩基を塩の形で容易に吸着し、且この塩は稀酸で定量的に容易に脱着し得る点をその長所とするものであること、又このカルボン酸型イオン交換樹脂はスルフオン酸型イオン交換樹脂に比して窒素塩基の回収能力が遙かに優れていることは本願前公知であつたものと認めなければならない。而してストレプトマイシンが有機窒素塩基であることが本件特許出願前から公知であつたことは本件口頭弁論の全趣旨に照らし明らかであるから、前記引用例には有機窒素塩基としては前記の通りアミノ酸、アルカロイド、ヴイタミン等が例示されてあるだけであつて、ストレプトマイシンに関する具体的記載はないけれども、これをその含有液例えば醗酵液から陽イオン交換樹脂なる不溶性カルボン酸型イオン交換樹脂によつて吸着回収し得べきことは斯業技術者にとつて容易に想到し得るところと解するの外なく、尚又効果の点についても本願発明が審決引用の刊行物により本願前公知であるカルボン酸イオン交換樹脂がスルフオン酸型イオン交換樹脂よりも窒素塩基の回収能力が遙に優れているという点以上別段のものがあるとは認め難いから、本願発明で別段不溶性カルボン酸型樹脂の内特定のものに限定していない以上、審決が引用刊行物の前記記載内容及びストレプトマイシンが有機窒素塩基として既知のものであるという理由から本願の方法が新規な発明を構成するに足りないとし、本件特許出願を拒絶したのは相当であつて、右と異る見解に立つ原告の主張はすべて理由のないものである。
よつて本訴請求を失当なるものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を、上告附加期間につき同法第百五十八条第二項を各適用して主文の通り判決した。
(裁判官 内田護文 原増司 高井常太郎)