東京高等裁判所 昭和32年(う)191号 判決
被告人 川上きぬ子
〔抄 録〕
(一)控訴趣意第二点について。
原判決が、弁護人の本件は嘱託による殺人であるとの主張を排斥した点については、原判決は所論のように法令の解釈、適用を誤つた違法があるとは認められない。蓋し刑法第二百二条後段所定の嘱託殺人が成立するためには、被殺者の自由で真実な意思決定に基く死の嘱託即ち被殺者を殺してくれるようにとの嘱託があつたことが必要であるが、本件においては被殺者即ち川上源吉よりかかる意味での死の嘱託はなかつたものと認められるからである。即ち、原審並びに当審証人川上惣一郎、原審証人中村亥一の各供述原審並びに当審における被告人の供述を総合すれば川上源吉は昭和二十八年三月脳出血の為左半身不随となり判示中村病院に入院し看護を受けていたが、二年余を経過するも回復の兆なく、今後も軽快の見込はなかつたが尚数年間は生命に異常はない状態であり、入院後昭和三十年夏頃左半身の血管が一本切れたため病状が悪化したことはあつたがそれも五日位後には従前の状態に復し、本件当時においても格別悪化の徴候はなく、食欲もあり特に衰弱の状態も見られなかつたこと、源吉はその間惣一郎や被告人に時々「死にたい」「死にたい」と口走つたことがあり、昭和三十年夏頃からはその回数も多くなり、時には薬局から毒薬を買つて来て飲ませてくれと云つたこともあるが、同人が死にたいと云うことを口にするのは、便を催すときとか食事をするとき又は体身を拭かせるときなど自分の意の儘にならぬのを立腹して云うことが多く、又よい薬があればお前等の手をかけずに死ねると云う趣旨のことを冗談のようにいう状態であつたので、惣一郎としては、源吉のこのような言葉はその本心とは思つていなかつた等の事情から見て、源吉が本件当日用便の始末をしていた被告人に対し「死にたい」と云つたと云うのも、これを以て真実被告人に自分を殺してくれることを嘱託した意思表示と認めることはできない。また、源吉が右昇汞の水溶液を服用した後、被告人に毒を飲まされたことを知りながらこれについて被告人に怨み言を述べなかつたとしてもこれにより本件行為が遡つて承諾による殺人に当ると解することもできない。(なお本件は源吉の死期が切迫していたものでないこと、本人の肉体的苦痛が激烈でなかつたことから見て、いわゆる安楽死となるかどうかを論議すべき場合にあたるものとも認められない。)故にこの点に関する原審の判断は相当であつて論旨は理由がない。
同第三点について。
原審公判調書の記載によると、弁護人は、本件は嘱託殺人であると主張し、その事由の一として「本件は安楽死に該当するとも考えられるが被告人には違法の認識がなかつたのではなかろうか、被告人にどの程度違法の認識があつたか、被告人の精神鑑定の結果を考慮して判断願いたい」と述べておるのであり、原審はこの点を、心神耗弱の主張があつたものとして所論のような判断を示したものと解せられる。そして被告人が本件犯行当時心神耗弱の状態にあつたものと認められないことは原判決の判示するとおりであるから、この点に関する原審の判断は相当である。しかし原審証人中村亥一、原審並びに当審証人川上惣一郎の各供述、鑑定人香取郁雄作成の鑑定書及び原審並びに当審における被告人の供述を総合すれば、被告人は昭和二十六年五月頃より判示中村病院に見習看護婦として勤務中同年七月頃より同病院に入院治療を受けた川上惣一郎と相識り、昭和二十八年三月前記のように惣一郎の実父源吉が脳出血の為左半身不随となり中村病院に入院した後同年十二月惣一郎と結婚するに至つたものであるが、被告人は昭和三十年春出産後同年夏頃から頭痛を訴え神経衰弱に陥り同年八月十五日から約四十日勤務を休んだことがあり、その後間もなく軽快したが同年十二月頃より生活が楽でないことから、こんな生活は飽きたと洩らしていたことがあり、被告人の精神鑑定の結果によれば本件犯行当時神経衰弱の症状は殆ど消褪していたが当時の被告人の精神状態は精神薄弱であり、その程度は痴愚の甚だ軽いものか又は魯鈍に属し、正常人に比較して知能劣等であり、抽象的観念の発達が不充分で判断は浅薄偏頗で、事に当り是非善悪の弁別力も幾分劣つている状態であつたと云うのである。そして右のような精神能力の被告人が前示のように左半身不随の為起居の自由もなく二年余を経過するも回復の兆の見えない病人である源吉が屡々「死にたい」「死にたい」と口走り、時としては「薬局から毒薬を買つて来て呑ませてくれ」と云つたこともあり、本件当日は平常よりも数多く「死にたい」と繰返すのを聞き、浅慮にも被告人は源吉より真実自分を殺してくれるようにとの嘱託があつたものと誤解して本件犯行に及んだものと認められるのであつて、被告人が右昇汞の水溶液を服用させるに当り「これを呑めば血圧が降り楽になる」と述べたことは、夫の父に対し「これを呑めば死ねる」とは云えなかつたからだと云う被告人の弁解も一応首肯しうるところであつて、右一事を以て必ずしも被告人が被殺者の死の嘱託を真意に出たものでないと知つていたと断ずる証左とはなしがたい。
以上のように本件は被殺者の真意に出た死の嘱託はなかつた場合であり、本来尊属に当るべき場合であるが、被告人においては被殺者より真に死を嘱託されたものと信じて嘱託殺人の意思で犯したものと認むべき場合であるから、刑法第三十八条第二項により、その重き尊属殺を以て処断することはできない場合であると云わなければならない。然るに原判決が本件を尊属殺と認定処断したのは、ひつきよう被告人の犯意について事実を誤認し、ひいて法令の適用を誤つた違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はこの点において破棄を免れない。本論旨は明確を欠く点があるが叙上のような趣旨を含めて原判決の違法を主張するものと解せられるからこの点において論旨は結局理由がある。
(谷中 坂間 荒川)