東京高等裁判所 昭和32年(ネ)2080号 判決
そこで右解約申入につき当時いわゆる正当事由が具備していたか否かにつき検討をする。まず賃貸人たる控訴人側の事情につき按ずるに、証拠を総合すれば、右解約申入当時控訴人は母トク、妹富子、良子、恭子とともに本件建物北側に隣接した一戸建住宅(階下八畳間二畳半間二階六畳二間ベランダ付)に居住し、会社に勤務していたが当時控訴人は二七歳を超え、妹富子は二二歳に達せんとしいずれも結婚適齢期にあり、母トクとしては控訴人が結婚後も引きつゞき右建物で母と同居して孝養を尽くすことを期待し控訴人もこれに応えんとしていたこと、他方富子は心臓脚気を病んでいるので母トクとしてはこれまた結婚後も引きつゞき手元においてともに暮したい希望をもつていたこと、控訴人は本件建物以外に土地建物若干を所有していたが、いずれも他人が使用中で早急に明渡を受けうる見込のあるものはなく、将来控訴人と富子とが結婚する場合本件建物の明渡を受けてこゝに居住することが最も適当であると考えて右解約申入に及んだこと、そして右解約申入後、富子は昭和三〇年四月立川四郎と婚約し、他方控訴人は昭和三三年五月一〇日藤崎ヒサ子と婚姻しすでに一子を挙げ右北側一戸中二階六畳間に居住し、その他の家族は階下八畳間二畳半間と二階六畳間を使用する状態にあつて決して間取は十分かつ快適とはいえないが、一応整然と居住していることが認められる。
従つて控訴人としては本件建物の明渡を受け、これと控訴人居住の北側一戸とを併せ適宜区分して控訴人夫婦、母、妹らのほか富子が結婚したのちはその夫婦をも同居せしめ、親子一同同じ屋根の下で生活することはまことにその希望とするところであろう。しかし富子が結婚後もひきつゞき母の許にとどまつてその世話を受けなければならないような格別の事情があるとは認められない。しかのみならず解約申入の正当事由を判断するに当つては賃借人側の事情もまた、充分に考慮するを要し、本件において控訴人の明渡請求が認められるためには、社会通念上その本件建物使用の必要性が強大であつて、被控訴人を本件建物から退去させてもなお実現されなければならない程度に達することを要するのである。かくの如き見地からつぎに被控訴人側の事情につき検討するに、証拠を総合すれば、被控訴人は昭和一三年以来本件建物において弟子約八〇名をとつて茶の湯生花の師匠をしており、本件建物中階下四畳半二間を物置および居間に使用し二階六畳間および三畳間を茶の湯生花の教場として使用していたが本件解約申入当時本件建物には被控訴人のほかその父母が同居していたところ父は昭和三〇年五月死亡し、その後被控訴人は女手一つで老齢の母を養つているばかりでなく、その資力ならびに職業柄立退要求を受けても適当な移転先を見出し得ずかつ本件建物から他所に移転するときは弟子の維持等の点で重大な損失を蒙る状態にあることが認められる。
以上双方の諸事情を比較考量するときは、控訴人の右希望は被控訴人を本件建物から退去させてまでも実現しなければならないものとは認められない。従つてその解約申入はその当時はもちろんのことその後においてもついに正当事由を具備するに至つたものとは認められないから、右解約申入はその効力を生じないものである。
(松田 猪俣 沖野)